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Page 1 Page 2 Page 3 Page 4 《個人研究第2種》 戦間期イ ギリスの
明治大学人文科学研究所紀要 第69冊 (2011年3月31日)191−208 戦間期イギリスのユートピア小説における身体 『一九八四年』における女性と花 泉 順子 192 Abstract Bodies in Interwar British Utopian/Dystopian Novels: Women and Flowers in Nineteen E「ighty−Four IZUMI Yoriko This paper aims to examine how George Orweli’s visual and literary techniques inハlineteen Eighty−Four(1949)are explored in his depiction of three female characters:Julia, Katharine and the prole woman who dries laundry. Particular attention is paid to the symbolic description of the fiowers that appear with the three women. Considering the author’s indication that the flowers and the bodies of these women are somehow associated will encourage us to re−read the novel itself and to attempt to draw out the raison d’2tre of Orwell’s female characters, who have been marginalized in the previous studies of this dystopian丘ction. The highly political nature of八Jineteen Eighty−Foorr often prompts a one−dimensional approach to the work, yet a careful examination of the female characters reveals unexplored aspects of it. Curiously, Orwell chooses flowers peculiar to each female character;bluebell, violet, and crocus are presented with Julia, loosestrife with Katharine, and rose with the prole woman. The connotations of ea¢h且ower help to illustrate the real voices of these displaced characters. For example, Julia is generally regarded as a complicated woman。 On one hand, she has been criticized as“vain and sensual, uneducated, unable to carry on an abstract discussionノ’and has even been de{ined as“the agent who caused Winston’s downfalL”On the other hand, she has been praised as the qrigin of Winston’s inner resources such as love, passion and the motivation for living. These interpretations are to some extent disputable in that they disregard Orwel1’s intention of associating the bluebell and the violet with Julia. Given that both且owers generally symbolize such ideas as faithfulness, chastity and fidelity, it can be assumed that what they signify is absent in the f6rmer criticism of Julia. More importantly, Orwell portrays the protagonist as totally neglecting these values. In this respect, Winston’s indifference to Julia’s womanliness and her unconditional affection f6r him is quite problematic, as it expresses how his radical political action against the Party can be compared, after all, with the merciless Party line. The other且owers−crocus, loosestrife, and rose−each provide us room fbr further discussion and re−interpretation of/>ineteen Eighty−Four. The crocus expresses“Life,”which Winston丘rmly believes in to defeat the Party in the end. The unusually co里ored loosestrife symbolizes the short− lived relationship between Winston and his ex−wife, Katharine. The rose−the national且ower of England−is compared to the sturdy prole woman who dries diapers. The significance of this 193 portrayal lies in the fact Orwell’s dystopia reflects the historical and political circumstances of Britain in the 1940s. The diapers clearly imply the act of creating life for the future generations. On this point, the woman’s fertile belly and her decent living is portrayed as the only way to break through the enclosed dystopian society, which, in turn, may build upon a more human world. 194 《個人研究第2種》 戦間期イギリスのユートピア小説における身体 『一九八四年』における女性と花 泉 順 子 So long as l re〃2ain alive and well /shall continue toプleel strongリノaboutprose sリノ1θ, to lovθ〃le surfaceρ〆1〃le earth, and to take pleasure in solid oblects and scraρs()fusele∬infor〃lation. George Orwell,“〃7ワノ〃「rite” 1.はじめに ジョージ・オーウェル(George Orwell)のディストピア小説『一九八四年』(1>加θ’θθηE∼g妨・−Four, 1949)では身体描写が非常に細やかで,いくぶん執拗なまでの印象を与える。しかも作中には,オー ウェル流のリアリズムに慣れ親しんでいる読者にとっては一瞬意表を突かれるような,違和感すら覚 える類のシーンがある。その一例として,主人公ウィンストン・スミス(Winston Smith)が59日間 休みなく激務をこなしたときの場面を引用してみたい。 Winston was gelatinous with fatigue. Gelatinous was the right word. It had come into his head spontaneously, His body seemed to have not only the weakness of a jelly, but its translucency. He felt that if he held up his hand he would be able to see the light through iしAll the blood and lymph had been drained out of him by an enormous debauch of work, leaving only a frail structure of nerves, bones and skin,(187) ウィンストンの疲弊した身体髪膚の描写には,経験を下敷きにした精緻な写実と鋭い五感によって 裏打ちされたオーウェルならではのリアリズムだけでは生まれてこないような美しさがある。作中で は,この後にウィンストンが「柔らかい,雨水のようなガラス玉(the soft, rain−watery glass)」の 文鎮を発見し,その美しさに心を引き寄せられる様子が描かれる。透き通ったガラス玉の手応えのあ る重みと冷たく滑らかな曲線は「半透明」になりつつあるウィンストンの「ゼリー」のような肉体を 195 戦間期イギリスのユートピア小説における身体 彷彿させ,この文鎮の内部に収められた小さなサンゴ礁の鮮やかなピンク色が彼の五臓六肪の赤みを 読者に連想させる。それだけにウィンストンの眼前で打ち砕かれる文鎮は,彼自身の肉体の崩壊と末 路を生々しく暗示させるものとして読者の記憶に強く焼き付かれることとなる。『一九八四年』では, このように視覚的な仕掛けを凝らした表現が随所にあり,読む者の脳裏に映像的に鮮やかなシーンを 焼き付ける。 本稿では,『一九八四年』におけるオーウェルの視覚的工夫が女性の登場人物たちの描写にどのよ うに活かされているのかをみてみたい。この作品に関する先行研究数は実に膨大なものであるにもか かわらず,敢えて女性の登場人物に注目した論文はきわめて少ない。おそらくその背景には,多くの 批評家がこの作品の放つ強い政治性に関心を向け,未来小説としての『一九八四年』から引き出され る予言の信慧性やこの作品の歴史性に紙面を割いてきたことがあったと思われる。けれども,この作 品を理解するためには女性の登場人物の存在をないがしろにすることはまず不可能である。その理由 としては次のようなことが挙げられる。まず,『一九八四年』のプロットの要所で女性が登場すると いうことである。次に,主人公のウィンストンの内面の変化を考慮してみると,女性からの影響が強 いということである。さらに,徹底的に絶望的に描かれる全体主義社会のなかで「希望」を象徴する のが女性であり,その力は閉鎖された社会の殻を打ち破り,新時代を開拓する世代を産み育てる重要 な存在として描かれていることが挙げられる。 女性たちのこのような存在理由は,オーウェルによる女性の身体描写に表れているが,この作品で はさらなる視覚的工夫が女性たちの周囲に施されている。それは,女性の登場人物と共に描かれる花 であり,オーウェルはウィンストンと女性たちの蓬遁場面に様々な花を描いているのだ。そして,そ れぞれの花の姿形,特色意味を鑑みれば,描かれた花が単に風景の一要素として付随的に描かれた ものではないことが明らかになってくる。本稿では『一九八四年』に登場する3人の主要な登場人物 一ジュリア,キャサリン,プロールの女性一の描写に焦点を当て,彼女たちの身体描写とそれぞ れに付随する花々の意味を考察し,『一九八四年』の読解に一石を投じてみたい。1 2.ジュリアーブルーベル,スミレ,クロッカス 『一九八四年』に登場する女性たちのなかで最も重要な存在は,当然のことながらジュリア(Julia) だが,彼女についての見解は実に様々である。たとえばヴァレリー・メイヤーズ(V.Meyers)はジュ リアを「虚栄心が強く,好色で,無教養で,抽象的な議論ができない」とし,さらにはウィンストン の失墜を招いた張本人であると辛辣に批判する(133−4)。ただし,メイヤーズの議論は一貫性を欠 いており,同時に彼はジュリアがウィンストンに「希望と,生きる動機と,挑戦しようという欲望を 燃え立たせる」女性であることも認めている(133)。マルコム・ピトック(Malcolm Pittock)とロバー ト・キュリー(Robert Currie)はジュリアが「思想警察のスパイ」であった可能性が高いと述べ, 彼女のせいでウィンストンが「どこか他に,ヒューマニスティックな世界がある」と妄信してしまい, 結果としてオブライエン(OBrien)の罠にはまってしまったのだという見解を提示している(153)。 196 ピトックらと同様に,ケネス・マシューズ(Kenneth Matthews)も,ジュリアがウィンストンを誤っ た方向に導いたことを主張する。とはいえジュリアについてのこのような否定的な意見は,いずれも 推測の域を出ず,確固たる根拠に基づいているとは言い難い。 他方で,ジュリァを好意的にとらえる批評家たちもいて,彼らはジュリアこそがウィンストンの孤 独な心を癒し,その虚弱な身体に力を与えた人物であると評価する。ロジャー・フォウラー(Roger Fowler)は,ジュリアとの生活を通じてウィンストンが精神的充足を得たために,静脈瘤や咳の持 病が徐々におさまっていくこと,彼の殺伐とした心に思いやりとか慈しみといった感情が生まれてき たことなどを理由に挙げて,ジュリアを高く評価している。また,彼女の政治的発言がウィンストン に新しい視点を与えていることを指摘する批評家もいる。 このようにジュリアをめぐっては賛否両論の意見があるのだが,どちらも大きな説得力をもち得な い。なぜなら,この作品では,皮肉にもウィンストンがオブライエンに抱く感情と彼らの情緒的絆が, ジュリアとウィンストンの恋愛よりも強いものとして描かれているからだ。フェミニズム批評家ダフ ネ・パタイ(Daphne Patai)が「この小説におけるジュリアとウィンストンのロマンスは,ウィン ストンとオブライエンの『ロマンス』に比べれば,取るに足りないものであり,作品で占める割合も 少ない」(64)と指摘するように,この作品では男性同士の連帯感が男女間の恋愛に勝っている。と いうのもウィンストンが管理・監視社会の幹部であるオブライエンに抱く憧れと忠誠心は,最終的に はこの作品の政治・社会論と結びつき,支配者と被支配者という上下関係,つまり極端な形での全体 主義社会的関係へ収束されるからだ。そしてこのような同性間の情緒的絆の強さと作品が放つ政治性 の連結は,『一九八四年』の女性登場人物が軽んじられてきた一因ともなっている。 さらに,ジュリアをはじめとする女性の登場人物たちが研究対象となってこなかった背景には,登 場人物たちの心理的描写に重心が置かれていないということもあるだろう。オーウェル自身も認めて いるように,彼の人間描写はジョイスやウルフといった同時代の作家に比べ技巧的に秀でておらず, とりわけ『一九八四年』ではいわゆるキャラクタライゼーションが若干浅薄な印象を与える。加えて, 後述するように,この作品は終始ウィンストンの視点を通じて語られるため,女性たちについて読者 が理解できることは表面的なものに限定されてしまう。むろんこの作品が人間観察・描写よりも共同 体論を主眼とするユートピア小説の特色を踏襲していると考えれば,それは致し方のないこととも考 えられるのだが,それでもやはりジュリアとウィンストンという二人の男女が愛し合うようになるま での経過は十分に描かれておらず,二人の愛の成熟度をはかるのも難しい。 とはいえ,ウィンストンの人生の機微に触れるジュリアという女性の存在を考慮せずに作品を解釈 することはできない。しかも彼女の身体の描写とともに登場する花々の意味を考えてみれば,ジュリ アの新たな一面が見えてくるのである。 ウィンストンがジュリアの存在を知ったのは,その肉体が彼に鮮烈な印象を与えたからである。彼 女の溌刺とした若々しい肉体は,主人公に激しい嫌悪感を起こすのだが,その理由は次のように述べ られている。 197 戦間期イギリスのユートピア小説における身体 He hated her because she was young and pretty and sexless, because he wanted to go to bed with her and would never do so, because round her sweet supple waist, which seemed to ask you to encircle it with your arm, there was only the odious scarlet sash, aggressive symbol of chastity.(17) ここで述べられているように,ジュリアのういういしい肉体はまぶしいほどに精彩を放ち,静脈瘤を 患う中年男ウィンストンのくすんだ脆弱な体と好対照をなしている。しかもジュリアの「中性的な (sexless)」雰囲気はまさしく党への忠誠心と純潔を示し,異端者であるウィンストンにとっては, 彼女の存在そのものが彼自身を真っ向から否定するものと映る。 ところが,事態は一転し,この二人の関係に劇的な変化が訪れる。「あなたを愛しています」とい うメモをジュリアから突然手渡されたウィンストンは,二人で密会を重ねるようになり,いつしか彼 女に深い愛情を寄せていくことになるのだ。 さて。彼らが初めて外出する場面にて,オーウェルはブ ルーベル(bluebells)の花を登場させる。2ジュリアの到来 を待ちながら,ウィンストンはこの花を摘み,時問つぶし を兼ねつつも,彼女に捧げる花束をこしらえる。だが,い ざ彼女を目の前にするとウィンストンは萎縮し,ブルーベ ルの花束が「ひとりでにずり落ちたような感じ(have fallen of their own accord)」で「滝のように地面に流れ 落ちて(cascaded onto the ground)」いくのである(125)。 若々しいジュリアの肉体は,ウィンストンに欲望を起こさ せるどころか,離婚してからはすっかり女性不在の生活に 図1 ブルーベル 慣れてしまった彼を気おくれさせてしまう。ウィンストン はジュリアの若さと美しさに「おびえて」しまい,そしておもむろに彼女の髪の毛にまとわりついた ブルーベルの花を抜き取り始める(126)。やがてどうにか気を取り直したウィンストンはジュリアの 体をブルーベルの上に横たえて,どうにか「政治的行動(political act)」を完遂する。 ウィンストンにとって若い女性と肉体関係を結ぶことは,党の方針に逆らうことであり,ジュリア との肉体関係は反政治的な行為であるがゆえに重要なことなのである。党の基本方針では,肉体関係 をもつうえで快楽を感じてはならない。「欲望(desire)」は「思想犯罪」となり,異性間での肉体関 係はあくまでも夫婦間で子どもをつくるという義務に限定されている。これに対し反逆者のウィンス トンは「愛されること以上に⊥「たとえ一生に一度きりの勝負だとしても,この美徳の壁を打ち破っ てみたい(And what he wanted, more even than to be loved. was to break down that wall of virtue, even if it were only once in his whole life)」と切望する(71)。その願いは,「ウェストの下 の反逆者(a rebel from the waist downwards)」であるジュリアと出会うことで初めて可能となり, ウィンストンは「動物的本能(the animal instinct)」に基づく二人の行為が「相手を選ばぬ単純な欲 198 望(the simple undifferentiated desire)」であればあるほど,党を分解させる力になると頑なに信じ ている。 ウィンストンのラディカルな野望と反体制行為としてのジュリアとの肉体関係は,しかしながら, ブルーベルという花が添えられることで一義的な解釈では片付けられないものとなる。ジュリアと ウィンストンのしのび逢いの場面になぜブルーベルの花が描かれたのかを考える前に,まずこの花に ついての一般的な知識をみてみたい。ブルーベルは「ワイルド・ヒヤシンス」とも呼ばれており,ヨー ロッパ産の百合科の球根植物なのだが,ヒヤシンスとはだいぶ形が違う。森の下草として咲いている この可憐な蒼色の花は香りも素晴らしいようで,ヴィクトリア・サックヴィル・ウェスト(Vita Sackville−West)はかつてこの花を「秋の野火のように青く煙り,夏の薔薇のように濃厚に,しかも 春そのもののように若々しく薫る」と述べている(熊井41)。ギリシア神話では,エンデュミオンと いう若者がユーノーに恋をしたために,ユピテルによって永遠に眠る運命に定められた際用いられ た花がブルーベルであったという(アディソン318)。また西欧社会では,この花が4月23日の聖ジョー ジの日に咲くともいわれており,一般にブルーベルには「節操」いう花言葉が付けられている。さら に興味深い説として,ブルーベルが妖精の花と考えられており,男女や子どもが森の中でこの花を摘 めば彼らは妖精に引きずりまわされ,二度と人目に現れることはない,というものがある(アディソ ン319)。この言い伝えを下敷きにして「黒ずんだブルーベルの内と外」という子どもの遊び歌さえ もが昔から存在しており,この歌からも悪戯な妖精によって生み出される独特の不気味な恐ろしさが 醸し出されている。オーウェルは『一九八四年』のなかでマザーグースの唄を効果的に引用し,伝承 童謡に潜在する力を最大限に活かしているが,ブルーベルという花がもつ花言葉や伝説も,この作品 に反映されていると考えられる。 ウィンストンとジュリアの密会の場面で注目したいのは,ブルーベルの描写にあたり,オーウェル が「落ちる」「抜き取る」「倒す」という否定的な言葉でもって描いていることである。つまり,ウィ ンストンとジュリアの行為は,ブルーベルのもつ花言葉「節操」を打ち消すものであると解釈できる。 そして森の中で愛を交わす男女を翻弄する妖精の力を考えてみれば,草木生い茂るなかで無心にブ ルーベルを「摘む」ウィンストンとジュリァが暗澹・混沌とした森から二度と明るい外界に出られな いことが,この花を通して象徴的に語られる。つまり,逸脱行為を犯してしまった二人が,イングソッ クの支配体制から逃げられないことが既に蒼い可憐な花によって灰めかされているといえよう。こう して彼らの行為は二重の意味で否定されていることになる。 『一九入四年』でブルーベルの次に登場するのはスミレの花である。この花の象徴性を考慮してみ ると,ジュリアという女性像に新たな解釈が加わってくる。とりわけ,作中では花そのものだけでな く,スミレの香りも興味深い役割を果たしている。ジュリアとの生活を確保するために,ウィンスト ンはプロール居住区にあるアンティーク・ショップの二階部屋を間借りするのだが,ある日ジュリア はプロールの闇市場から,今では入手し難い貴重な品々を買ってくる。それはコーヒーと紅茶,パン, 砂糖ココア,チョコレート,化粧品,そしてスミレの香水である。ジュリアは,スミレの香水を体 中にふりまきながら「どこかで本物の婦人服を手に入れて,このいまいましいズボンの代わりに着て 199 戦間期イギリスのユートピア小説における身体 やるの。絹のストッキングとハイヒールもはくわ!」と意気込む。さらに,香水をふりまき,化粧を することで「女(awoman)になってやるの,党の同志(a Party comrade)じゃなくってね」(149) と語り,メークをし,スカートをはき,香水をつけて女性らしくなることで反体制的行為に踏み切る のだと意気込む。 ここで「人工のスミレの芳香(synthetic violets)」というオーウェルの選択を鑑みると,作者の意 識的な香りの選択が,先行研究では明かされないジュリア像を形成していると考えられる。この点を 考察するために,20世紀前半の歴史資料から,スミレの香水の一般的なイメージをみてみたい。1920 年代から30年代にかけてイギリスの新聞紙上に掲載されている香水広告と記事に目を通すと,当時の 女性たちの生活における香水の役割が明らかになってくる。例えば,この頃の香水広告には「衛生的」 とか「防腐」といった表現が頻繁に用いられており,香水に衛生的な効能があることが強調されてい る。そのため,香水は洗髪とうがいに使用されていたようだ。また,疲れた体に活力と癒しを与える ような薬効が香水にはあり,若さと健康を保つための一助となっていることも伝えられている。1939 年3月20日付の『デイリー・ミラー(Doめ・翅吻r)』紙での広告には,「私たちを取り囲む情況には, 醜くてあさましく,残酷なことばかりが,うんざりするほどあります。でも,そんな状況にも負けず, 女性はいつだって愛らしく,美しく,優しい存在でいましょう」というメッセージまで付け加えられ, 不穏な社会情勢のなかで生きる女性たちに香水が大きな力を果たしていたことが分かる。 この頃になると,目に見えない香りの力によって,それぞれの女性の個性やイメージを演出してい くという発想も生まれてくるようになった。トム・ゼルマン(Tom Zelman)が“Language and Perfume:AStudy in Symbol−Formation”(1992)のなかで述べているように,香りという実体のな いものを言語化する企画が,広告会社とコピーライターによって進められていたという。 Unable to find discursive symbols to represent a scent, the advertiser instead claims that the scent itself is suggestive of sexuality, wealth, rugged individualism, and so on. Copywriting then becomes dedicated to the task of creating connotations for a particular indescribable scent to give symbolic import to the fragrance.(112) 当時の広告をみると,香水メーカーは実際に女性たちの心理を巧みにくすぐるような名前と表現を生 み出している。バラの香水には「優美」「上品」「繊細」という表現がつき,ビャクダンの香水には「エ キゾチック」「感性的」という表現が生み出され,(人工的であるとはいえ)花の香りの選択をするこ とは自らのイメージ作りとつながり,香水は「自分らしさ」の演出に欠かせない道具となっていくの である。 ところで,ジュリアが手にしたスミレの香水はD.H.ロレンス(D. H. Lawrence)の『チャタレイ 夫人の恋人』(Lacly Chatterlay ll Lover,1928)の主人公コニー(Connie)の香水を想起させる。この作 品の後半で明かされるのは,彼女が持ち歩いていた香水が「コティ社の〈ウッドバイオレット〉」であっ たということだ。つまり,こちらもスミレの香りなのである。フランスで創業されたコティ社の香水 200 広告は,イギリスでは1920年代末頃から「デイリー・ミ ラー』紙上に登場する。他の会社と比較してみた場合 特に興味深いのはコティ社が当初から香水のもつ「個性 (individuality)」を積極的にアピールし,女性たちに 各自のイメージに合った香水を選び,自分らしさを発揮 するよう啓蒙していたことである。そのため,他会社に 比べて香水の種類も多く,多様性に富んだ商品をライン アップし,顧客のニーズに応えている。1927年11月30日 の広告には,4種類の香水一〈L’Origin>,〈Paris>, 〈Muguet>,〈Emeraude>一が掲載されている。〈L’ Origin>には「洗練」,〈Paris>には「輝き」「じれったさ」 「陽気」,〈Muguet>には「若さ」「溌刺」,そして くEmeraude>には「夢中」「とびきり」といった個性 豊かな「色」がつけられている。香りにそれぞれ意味付 けをし,それぞれの瓶にもネーミングにふさわしいデザ インを施すことで,女性たちのイメージ形成に果たす無 色透明の香水のもつ絶大な力を印象付けている。 ところで『チャタレイ夫人の恋人』でコニーが持って いたとされる「スミレの香水」は,当時のコティ社の広 告ではめったに登場しない。1935年9月25日に掲載され た「コティ社の香水完全リスト」に,ようやく顔を出す 程度なのである。ここで〈La Violette>は「恥ずかしが り屋で,控え目のタイプ」の女性向けとして紹介されて 図2 香水の個別のイメージを伝えている 広告(0∂〃yMirror,1936年1月 17日より) 伽%灘%痂θ5 .Cilαs (Zbωゆrθ COTY {PURPLE UしACケ 7勧加窺瑚ωqr伸翫‘ψ鐸64妙c醒y繭ゴ 鰭誘諾綴綿蟹微毅饗 “臼伽螂期4剛・げ」aoetsfrashnes,一幻7魚“ for)e,if ケ os・di・ψ轍珊3’9 W」脚ム いる。スミレのイメージは,他社の広告でも同様で,「個 性と香水」(『デイリー・ミラー』1933年10月)というコ ラムのなかでも,スミレの香水は「恥ずかしがり屋で物 思いにふける,小柄な金髪女性」に似合うと書かれてあ る。 スミレの花言葉や神話を探ってみても,香水と同様の 意味内容であることが分かる。一般的にスミレの花言葉 図3 コティ社の香水広告(D∂〃y Mirror, 1931年4月2日より) は「私のことを考えてください」というもので,色によっ 白は「純粋無垢」,青は「ささやかな幸せ」「誠実」と てさらに意味が加わり,紫は「誠実」「貞操」, なる。いずれにせよ,小さなスミレの花には,つつましく。純粋で,相手を一途に思う気持ちが込め られる。イギリスにおけるスミレ史を概観してみれば,この花は長きにわたりイギリス人と生活を共 にしており,エリザベス女王時代には「心の慰め」として親しまれ,ヴィクトリア女王のお気に入り 201 戦間期イギリスのユートピア小説における身体 の花であった。「私をそばにおいて」「無為の愛」といった貞節な姿勢を表す花言葉は,既に1500年代 末頃にウィリアム・ハニス(William Hunnis)によって次のようにうたわれている。 Violet is for faithfulness Which in me shall abide: Hoping likewise that from your heart You will not let it slide. And will continue in the same As you have now begun, And then for ever to abide, Then you my heart have won. また,ウォルター・スコット(Sir Walter Scott)は“The Violet”でこの花を「もっとも清らかな(the fairest)花」と称し,ウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth)も「一輪のスミレは星の ように綺麗で,空に輝く」と讃えている(Ward 365)。興味深いのは,この花が上流階級のみならず, 労働者階級の生活でも愛されていたということだ。コーッによれば,スミレは「貴族たちの問から生 まれた花だが,運命の奇妙な気まぐれによって,貧しい人びとの住む鉱山地域で好まれるようになり, きれいな空気が必要であるにもかかわらず,煤煙たなびく炭鉱地帯で広く栽培されていた」という (232)。スミレがイギリス人の生活のなかで階級と地域を超えて幅広く愛されてきた花であることを うかがわせる。 上記のようなスミレの解説をもとに,「スミレの香水」を選んだジュリアという女性を改めて考察 してみると,これまで批評家たちによって形成されてきたジュリア像と完全に一致しているわけでは ないのは明らかであろう。むしろ,スミレの香りに意味づけられた性格は,大胆で感情的で男性をリー ドしていくという,多くの批評家が抱いていたジュリアの性格とはそぐわない。そもそも,「スミレ の香水」をふりまくジュリアに対してぎこちなさを感じるのはウィンストン本人で,彼はジュリアの 香水の匂いから,あの老婆の売春婦の匂い以外は何も感じることができない。嗅覚を通じてウィンス トンが思い出すのは忌まわしい過去と「あの地下室の薄暗い台所と,洞窟のような女の大口」だけな のである(149)。つまり嗅覚を通じてスミレから受け取ったものは,彼自身の背徳をなじる罪の声で ある。同様に,チョコレートやココアを懐かしそうに手に取るウィンストンの脳裏に浮かぶのも,母 と妹との最後の別離と,妹の配分まで奪った我儘な身の振る舞いであり,悲しい過去の記憶ばかりが 次から次へとよぎっていく。 ブルーベルの花の場合と同様に,オーウェルはスミレの存在を否定する主人公を描いている。この 花にオーウェルが何かしらの指示性を盛り込んでいるのだとすれば,スミレに向きあうウィンストン の姿勢からは,彼自身の心の弱さ,自己中心的な振る舞い,そして現実味のない妄信などが浮かび上 がってくる。この点は,作品が終始ウィンストンの視点で描かれていることともつながってくる。読 202 者が理解するジュリアの性格や振る舞いは,彼の視点から感じ取られたものに過ぎず,読者はジュリ アの思いをウィンストンとの会話とそれに対する彼の価値判断を通じてかろうじて分析するしかな い。つまり,彼女自身の心情を鑑みるには自ずと限界が生じてくる。だが,スミレの花に,ジュリア の精神が盛り込まれているのであれば,彼女の「無為の愛」を「思想犯罪」や「欲望」へとすり替え てしまったウィンストンの無神経さとエゴイスティックな野心が,究極的には「101号室」での主人 公の絶叫と裏切り,ヒューマニズムの敗北の伏線となっていくのである。 「101号室」でジュリアを裏切ることで自らの命を救ったウィンストンが,再びジュリアに遭遇する 場面に登場する花はクロッカス(Crocus)だ。三月の冷たい空気と「鉄(iron)」のような地面,「死 んだ(dead)」草木といった自然描写が,どこまでも絶望的で無情な世界を表していると同時に,ウィ ンストンとジュリアの冷え切った関係を象徴的に示している。そんな中,風の力でもぎ取られないよ うに自らを支えているクロッカスの花だけが例外的にも生命力を放ち,荒涼とした灰色の世界に奇妙 にも美しい色彩を添えている。 It was in the Park, on a vile, biting day in March, when the earth was like iron and all the grass seemed dead and there was not a bud anywhere except a few crocuses which had pushed themselves up to be dismembered by the wind.(304) 他の花々と同様クロッカスという花にも様々な花言葉がある。一般的には「私を信じて下さい」, 「不幸な恋」という意味があり,さらに紫色のクロッカスには「愛して後悔する」という意味がある。 ギリシア神話では,クロッカスは妖精のスミラックスに恋した若者を指す。クロッカスの情熱を傾け た愛が報われず,彼はやせ衰えて死んでしまい,彼を憐れんだ神々が彼を花に変えたという。古代で は,この花は結婚の床を飾るのに用いられ,2月14日の聖バレンタインの花といえばクロッカスであ ると一般的に思われているようだ(アディソン106)。「愛したことを後悔する」という花言葉は,裏 切りと自滅で終わるジュリアとウィンストンの悲劇的な恋愛を示唆するものと解釈できよう。 さらにクロッカスという花の歴史をたどれば,この花に託されたもうひとつの意味が明らかになっ てくる。それは,「生命力」である。クロッカスはまだ肌寒い季節に春の訪れをいち早く知らせる花 であるという理由から,多くの詩のなかで「勇敢な花」として愛され続けてきた。一例として挙げら れるのは,17世紀後半,詩人のマシュー・プライアー(Matthew Prior)による“To the Crocus” という詩だ。 Dainty young thing Of life1 Thou venturous flower, Who grows through the hard cold bower Of wintry spring. Thou various hued, 203 戦間期イギリスのユートピア小説における身体 Soft, voiceless bell, whose spire Rocks in the grassy leaves,1ike wire In solitude.(qtd. Ward lO5) 「生命力」を象徴するクロッカスの花は,この逃げ場のな い徹底的な管理社会のなかで,たくましく,したたかに生き 延びる力である。それは,ウィンストンが直観的に信じ,「何 にせよあなた達は失敗するのだ。何かがあなた達を打ち負か すだろう。生命があなたを破るのだ(Life will defeat 図4 クロッカス you)」(282)と語った「命(Life)」と重なってくる。閉ざ された世界に穴を穿つ一輪のクロッカスのなかに, このディストピア小説に隠されたオーウェルのポ ジティブな姿勢が隠見する。 2.キャサリンー「クサレダマ」 ウィンストンの前妻キャサリン(Katharine)は,作中では実体をともなって姿を現すことはない。 このことは,キャサリンという女性が,ウィンストンにとって精神的な存在であることを示している。 つまり,キャサリンは生身の体の記憶をウィンストンに与えなかった故に,精神的なかたちでしか実 体を伴えない女性なのである。この点は,彼女がジュリアやプロールの女性と対照的な存在であるこ とを示している。彼女はウィンストンの思い出のなかで生き,今でも彼の心を苦しめ続ける影の存在 なのだ。ウィンストンが実際にキャサリンをどう思っていたのかを推し測るのは難しいのだが,この 二人の感情に隔たりがあり,彼らが心を通わせることがなかったことが,ウィンストンの思い出話か ら伝わってくる。とはいえ,キャサリンにまつわる思い出はごく僅かで,詳しく語られるのはスミス 夫妻が参加したコミュニティー・ハイキングでのエピソードしかない。 このハイキングの件で,オーウェルは珍しい花を登場させている。ハイキング途中,ウィンストン は崖下にクサレダマ(loosestrife)を発見し,この美しい花に心を躍らせる。一方,妻のキャサリン は非常に誠実な党員であったので,二人の行動が「逸脱行為(wrong−doing)」ではないかと懸念し, ウィンストンが指さす花には目もくれず,二人きりになることをひたすら恥じて当惑する。 Winston noticed some tufts of loosestrife growing on the same root. He had never seen anything of the kind before, and he called to Katharine to come and look at it.(141) しかもウィンストンが目にしたものは珍種なものだった。厳しい環境下でたくましく育ち,美麗な花 を咲かせるこのクサレダマは,同じ根から紫紅色と赤煉瓦色の二種類の色の花を出す特異なものだっ たのである。 204 おそらく,このクサレダマの描写はオーウェルの 創作であろう。そして,一つの根から生える二つの 花は,ウィンストン夫妻を象徴的に示している。家 庭という一つの枠組みのなかで共に生き,根を張りt 成長していくはずの二人。ウィンストンはこの花の 姿を妻に見てもらいたいと願うのだが,キャサリン はいつも「他の方角(the other direction)」を見て いる。キャサリンとウィンストンの結婚は,二人が いつまでも子どもに恵まれず,党員としての「つと 図5 クサレダマ め」も果たせなかったことが原因で破綻したことに なっているが,それ以前にこの二人には共有するものも共通の精神的土台もないことが,花をめぐる エピソードで明らかにされている。 ウィンストンとキャサリンの物語になぜクサレダマが描かれるのであろうか。一般に,クサレダマ の花言葉は「純情」である。アディソンによれば紫色と黄色(煉瓦色)の花はまったく異なる種類 のもので,利用方法も意味も違うという。“Loosestrife”という通称はギリシア語の名称が英語の通 称“loosestrife”と同様の意味を有していたことから生まれたらしく,「興奮争いをなだめる」とい う意味がある。紫色のクサレダマは,薬草として用いられ,とくに視力の維持または強化,ならびに 目から塵や微小な異物を取り除くための蒸留水に用いられるという。紫クサレダマは属名を“Lythrum salicaria”といい,“Lythrum”は「血」を意味するギリシア語から由来するという。一方.黄色の クサレダマは焚くとその煙で,沼地や湿地で夜に人を悩ますハエやブナを追い払うといわれており, このような言い伝えはジョン・フレッチャー(John Fletcher)の詩に描かれている。また,薬草医は, 口や鼻や開いた傷口からの出血を止めるのに黄クサレダマを推奨したともいわれている(アディソン 407)。 党の指導に忠実で,きわめて品行方正な党員として誇りをもっていたキャサリンの「純情さ」は. 異端児のウィンストンには耐えられぬものであった。「純情」というクサレダマの花言葉は.彼女の 党への一途な忠誠心でもある一方で,ウィンストンの「純情」であったとも解釈することができるで あろう。子供のように純粋に驚き,自然に親しみ,妻と分かち合いたいと願う主人公の思いである。 だが,それぞれの「純情」さは,異なる色をもち,異なる方角を向く限り,交り合うことはない。後 にウィンストンは,ハイキングでの妻の態度に憤り,彼女を殺すことを夢想したと告白する。夫婦間 の不和は解消されぬまま終わり,ウィンストンの心の傷は癒されぬまま放置されつづけていくことと なる。 3.プロールの女性一バラ 『一九八四年』のクライマックスで,登場する花はバラである。6月の穏やかな口に,ウィンスト 205 戦問期イギリスのユートピア小説における身体 ンとジュリアがチャリントン氏の二階部屋にいると,窓の下の中庭から歌声が聞こえてくる。窓の外 を見やれば,筋骨たくましい腕をむき出しにしながら,洗濯桶と物干し綱のあいだを行き来するプロー ルの女性がいて,彼女は力強いコントラルトの声で歌を口ずさみながら赤ん坊のおしめを次から次へ と干している。このとき初めて,ウィンストンはこの逞しい女性を「美しい(beautiful)」と賛美し, 彼女を「バラ」に喩える。同時に,彼女の太い腕や「力強い牝馬のように突き出た腎部(her powerfu正mare−like buttocks protruded)」から放たれる生命力を前にして,ウィンストンは初めて 自らを「死んだ」ものと同然と認識するようになる。なぜなら,ジュリアの若い肉体がどれほど美し くても,数多くの子どもを産み育ててきたという点で,プロールの女性のざらついた皮膚と荒削りの 肉体には到底かなわないからだ。 He held Julia’s supple waist easily encircled by his arm. From the hip to he knee her flank was against his. Out of their bodies no child would ever come. That was one thing they could never do, Only by word of mouth, from mind to mind, could they pass on the secret. The woman down there had no mind, she had only strong arms, a warm heart and a fertile belly. He wondered how many children she had give birth to. It might easily be fifteen. She had had her momentary flowering, a year, perhaps, of wildrose beauty, and then she had suddenly swollen like a fertilised fruit and grown hard and red and coarse, and then her llfe had been laundering, scrubbing, daring…over thirty unbroken years._If there was hope, it lay in the proles!(228−9) いうまでもなく,バラはイングランド(England)の国璽である。イングランドを象徴するバラが 屈強な体つきのプロールの女性と重ね合わせられるのは,ウィンストンが作中で一貫して持ち続けて きた「未来はプロールのものである」という願いを考慮すれば自然なことと考えられる。庭先で洗濯 をする頑強なプロール女性に表された強い生命力は,党がどのようなかたちでもって対抗しても「不 死鳥のように」代々引き継がれ,そして永遠に続いていくとウィンストンは確信する。クロッカスの 花と同様に,バラに喩えられるプロールの女性の存在は,ウィンストンが信じる「命(Life)」その ものであり,閉塞的で暗澹としたこの社会の殻を破る,一筋の希望の光であることが示唆されている。 さらに,バラがキリスト教のなかでは「仁愛」「赦し」「殉教」「慈悲」を表すことを考えれば,こう した概念にウィンストンが初めて気づいた場面でもあると解釈できよう。だが皮肉にも,彼が最終的 に辿りついたこの啓示的発見は,彼を救済するどころか,破滅へと導いていくことになる。ウィンス トンは思想犯罪者として逮捕され,死へと向かっていくのである。 プロールの女性をバラに喩えるオーウェルの発想は,『一九八四年』を執筆する以前からすでにあっ たように見受けられる。彼が1943年12月から1946年11月まで担当していた連載コラム「気の向くまま に(“As I please”)」(イギリス左翼系週刊新聞『トリビューン』に掲載)の一つに「ウルワースで買っ たバラ」という短いエッセイがある。懐古的な口調で,オーウェルはウルワースでかつて購入した安 206 価なバラに意外な発見や楽しみがあったことを書いている。後に,このコラムをめぐり読者から「時 節と場所をわきまえないセンチメンタリズム」という批判が出た。この読者は,オーウェルが戦時中 であるにもかかわらず,このような呑気な話をしていること,そして「ブルジョワ的ノスタルジアに 満ちた感性が感傷的センチメンタリズムに堕してしまっている文章」に遺憾の意を示した。これに対 し,オーウェルは「花を愛でることは果たしてブルジョア的ノスタルジアか」という疑問を呈した後 で,「我が国の労働者階級の目立った特徴の一つは,彼らが花好きだということで,このことはロン ドンの中の煙に曇る地域の家の窓辺の植木箱でキンレンカの花が競うようにして咲いていることの説 明になる」と反論する(89)。戦時中にヒステリカルな感情が高まるなかで,オーウェルが生涯一貫 して主張し続けてきた「人間らしさ(decency)」が,このウルワースのバラのコラムでも大切にさ れていることが分かるエピソードだ。 とはいえ,バラの象徴的解釈には他にも興味深いものがある。それはこの花がもつ不気味な指示性 である。バラはギリシア時代以降,「沈黙」の象徴として用いられ「告白室や,重要事項を処理する ために要人が会合する部屋の彫刻のモチーフ」であったという。このバラの象徴的意味は,イギリス ではバラ戦争のときに用いられ,とりわけジャコバイトの白薔薇は「バラの木の下でのみ,つまり秘 密を守ってこそ大義を実現に移すことができるのだ,という事を秘密党員に思いおこさせるためのシ ンボル」であったという(コーッ88)。また,イギリスでの古くからの言い伝えではバラとスミレが 繁茂したら,それは疫病か伝染病の到来を兆すとされていた(Ward 363)。こうした古くからの言い 伝えや,バラの花のもつ不穏なイメージならびに「沈黙」と「秘密を守ってこそ大義を果たす」とい う意味を鑑みると,ブルーベルのもつ多面性と同様に,バラの花そのものにウィンストンの悲劇的な 末路が暗示されているとも解釈できる。 5.むすびにかえて 「生きて元気でいる限り,私は散文について強い関心を持ち,地球の表面を愛し,かっちりとした 事物と無用の1青報のかけらに喜びを見出しつづけるだろう」と述べていたオーウェルは,最後の作品 『一九八四年』で地球の表面に咲く花々を描くことを忘れなかった。腐ったキャベツの臭いが充満し, コンクリート建てのビルが殺伐と並ぶ殺風景のなかに色鮮やかな花々の姿が点在する。 オーウェルは心のおもむくままに花を選んだのだろうか。それとも,象徴的な意味を担った花を精 選したのであろうか。これまで検証してきたように,それぞれの花に一義的意味を規定することは難 しく,描かれた花そのものは意味的に開かれた状態であるように見受けられる。とはいえ,その象徴 的解釈の多様さから何らかの指向性を見出すことは不可能ではないだろう。オーウェル自身は,花に ついての造詣があり,普段から丁寧に辞書を調べたり仔細な観察をしていたので,『一九八四年』に 登場する花々の選択にはそれなりの意味があったと考えられる。そして描かれた花々は,その造形性 とは別の次元,すなわち外観からは判断することが難しい意味的な内容も含むことで,作品にさらな る奥行きを与えていく。無言の花々が伝えるものに心を傾け,オーウェルの精神がそこに盛り込まれ 207 戦間期イギリスのユートピア小説における身体 ているのかを考察してみれば,彼独特の「不自然なもの」への批判と「保守主義」がみえてくる。ク リストファー・ヒッチンズ(Christopher Hitchens)が指摘するように,オーウェルはとかく「不自 然さ(anything unnatural)」に顔をしかめる作家であった(150)。このことはオーウェル流の「保守 主義」,つまりアーヴィング・ハウ(lrving Howe)の言葉を借りれば「政治自体よりもむしろ感受性 にかかわる性質のもので,それは民衆が日々営む暮らし方に対する正当な理解,人びとが受け入れて いう基本的な人間関係のあり方や物の感じ方に対する積極的な理解・共感」(川端45)とつながるも のである。『一九八四年』で描かれる,極端なまでの管理社会にみられる「不自然さ」は,ジュリアや キャサリンのような若い女性たちを心身ともに歪め,人びとの日々の生活から「人間らしさ(decency)」 を喪失させてしまうようなくじかれたユートピア,つまりこのディストピア社会に凝縮されている。 〈註〉 1. 本論文では,アンチ・ユートピア(ディストピア)文学をユートピア文学というジャンルのサブ・ジャ ンルとして位置づけている。したがって,「ユートピア小説」というのはアンチ・ユートピア的な作 品も含んだ総称である。くわえて,オーウェル自身がこの作品について「ユートピアのかたちをもっ た未来小説」と述べていることからも,この作品がアイロニカルな響きをこめた「ユートピア」とし て描かれていることにも留意しておきたい。 2. 新庄哲夫訳では「ヒヤシンス」となっているのだが,ブルーベルとヒヤシンスではかなり花の形態や 性質などが異なるので,ここでは敢えて原文に忠実に「ブルーベル」としておきたい。 〈引用文献> J・アディソン『花を愉しむ事典』樋口康夫・生田省悟訳,八坂書房,2007年。 ジョージ・オーウェル『気の向くままに 同時代批評1943−1947年』小野協一監訳オーウェル会訳彩流 社,1997年。 川端康雄『オーウェルのマザーグース』平凡社,1998年。 熊井明子『香りの百花譜』主婦の友社,1991年。 アリス・M.コーツ編『花の西洋史事典』白幡洋三郎・白幡節子訳,八坂書房,2008年。 多田智満子『花の神話学』白水社,1991年。 Currie, Robert.“The‘Big Truth’in Nineteen Eighty−Four.”Essのys in(rriticism 34.1(Jan.1984):56−69. 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