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特集:グレーター・アジア

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特集:グレーター・アジア
特集 グレーター・アジア
グレーター・アジア ハイライト
億円
6,000
建設・鉱山機械 主要 7 建機 *1 の世界需要推移
地域別台数
地域別構成比
台数
5,000
4,000
400,000
%
100
320,000
80
240,000
60
160,000
40
80,000
20
0
2004.3
2005.3
2006.3
2007.3
2008.3
2009.3
■ グレーター・アジア ■ 日本 ■ 北米 ■ 欧州 ■ オセアニア、アフリカ、中南米
0
2004.3
2005.3
2006.3
2007.3
2008.3
2009.3
■ グレーター・アジア ■ 日本 ■ 北米 ■ 欧州 ■ オセアニア、アフリカ、中南米
*1. 主要 7 建機 : ①クローラー式油圧ショベル ②ホイール式油圧ショベル ③ブルドーザー ④ホイールローダー ⑤ダンプトラック ⑥アーティキュレートダンプトラック
⑦モーターグレーダー
3,000
建設機械・車両 *2:地域別売上高(外部顧客向け)
建設機械・車両 *2:グレーター・アジアの売上高構成比
億円
25,000
20,000
2,000
15,000
10,000
5,000
0
1,000
2004.3
2005.3
2006.3
2007.3
2008.3
20%
33%
2004 年 3 月期
2009 年 3 月期
2009.3
■ グレーター・アジア ■ 日本 ■ 北米 ■ 欧州 ■ オセアニア、アフリカ、中南米
■ グレーター・アジア
*2. 2009 年 3 月期より、前期まで「産業機械・車両他」部門に区分されていたコマツユーティリティ(株)のフォークリフト事業およびコマツ物流(株)の全事業を「建設・鉱山機械」部門に組
み込み「建設機械・車両」としました。これにともない、2007 年 3 月期および 2008 年 3 月期の数値を組替えて表示しています。それ以前の数値は、「建設・鉱山機械」部門の数値を表示し
ています。
コマツでは、日本を除くアジア諸国と、隣接するロシア・中近東を含む地域を、「グレーター・アジア」と呼び、重要な戦略地域として位置づけて
きました。約 40 億人の人々が生活するグレーター・アジアでは、資源開発が経済成長を促し、人口増加と都市化の進展に伴いインフラ開発への
投資も活発で、近年の建設・鉱山機械需要のけん引役となっています。長きに亘りグレーター・アジアと成長を共にしてきたコマツは、地域社会
2002.3
の一員として、商品やサービスの提供を通じて、次世代に向けたより良い未来の構築に貢献できることを誇りに思っています。
グレーター・アジアの売上高推移(建設機械・車両 *)
この特集では、各地域において長年尽力してきた、コマツグループ社員の人物像と仕事への取組みを通して、グレーター・アジアにおけるコマ
ツの足跡をご紹介したいと思います。
Greater Asia
2003.3
2004.3
2005.3
2006.3
2007.3
2008.3
2009.3
0
グレーター・アジアの生産体制およびプロダクトサポート体制 *3
グレーター・アジアの生産体制
生産拠点・プロダクトサポート拠点数 *4
* 2002 年 3 月期から 2006 年 3 月期は「建設・鉱山機械」部門の売上高を表
示しています。
グレーター・アジア
コマツグループ
(合計)
本体工場
7
25
コンポーネント・部品・
応用商品工場
11
22
パーツセンター
13
37
リマンセンター
2
6
トレーニングセンター
6
21
*4. 2009 年 6 月末現在のデータ
■本体工場
■コンポーネント・
部品・応用商品工場
*3. 建設・鉱山機械・ユーティリティ(小型機械)
A n n u a l R e p o rt 2 0 0 9
01
特集 グ レーター ・アジ ア
[ 中 国 ]
王 子光
1951 年生まれ
(株)小松製作所入社:1985 年
現在の役職:小松(中国)投資有限公司総経理(2002 年から)
C hina /Indone sia /India /U AE/R ussia
Interview
出向という形で了承を得、出向期間を経て 1993 年に正式に入社
中国ビジネスのキーパーソン
しました。
Q: 1979 年に勤めていた北京内燃機の工場とコマツとの TQC
Q: コマツの中国ビジネス成功の主因として、中国の経営スタ
作り文化が徹底されるようになってからうまく行くようになりま
(全社的品質管理)導入活動が、コマツを知る契機になったと
イルと日本式の品質・生産管理の融合がマスコミなどで取り上
した。実際に、中国側のパートナーは、小松山推建機公司
(KSC)
げられています。この点についてはどうお考えですか。
に足回り部品を供給していましたが、QCD で KSC の要求を満
聞いています。当時のコマツに対する印象と入社に至る経緯な
合弁の形態で事業を展開するなかで中国側パートナーにおい
て、コマツの 5S(整理、整頓、清掃、清潔、躾)管理、品質管理、
改善活動、QCD(品質、コスト、納期)管理などコマツのモノ
たせず、供給を一時停止したこともありました。現在は、この会
どについてお話し下さい。
中国の建機業界では 1995 年まで、製造レベルのアップを図るた
社でも QCD 意識が根付き、KSC の生産に貢献しています。
1979 年当時の中国の品質管理は、ほとんどがスローガン的なも
め、ライセンスによる技術提携を通じて国産化を進めてきました
のでした。コマツの TQC は当時では目新しい全員参加、統計的
が、なかなか成功しませんでした。図面はコマツ製であっても、
的な手段であると考えています。相互の立場や状況を十分に理
な手法によるものでしたので衝撃を受けました。このような活動
生産管理、品質管理、外注管理など製造分野において、すべて
解した上で、双方にメリットのある最善の解決策を提案していく
を徹底している企業なら、業界トップに成長すると確信しました。
自己流であったことが主な原因だと思います。
ことが大切です。
合弁事業においても、コミュニケーションが問題解決の根本
河合良一(1917-2008)社長(当時、左)の訪問を受ける周恩来(1898-1976)首相(当
時、右)。1970 年、北京人民大会堂にて。
1983 年から 85 年までは、コマツのエ
ンジン技術者による技術改善指導の通訳
Q: コマツは 50 年以上に亘り中国とのビジネスに携わってきま
Q: 今後の中国経済の発展に対する期待とコマツの役割につい
を担当し、小松北京事務所や日本のコマ
したが、その中で特筆すべき点がありましたらお話し下さい。
ての抱負を聞かせて下さい。
6 月に、当時の北京事務所長からコマツへ
1950 年代から1970 年代まで、中国では国土の開発が最大の課
中国経済は、それなりのレベルに達したと考えていますので、今
の転職を誘われました。私にとっては、コ
題でした。当時まだ先進国と国交がなく、必要な機械の調達が
後は安定成長にシフトしてほしいと思います。役割については、
マツの経営管理手法や企業文化を勉強で
大変困難でしたが、コマツから約 3000 台の建設機械を輸入する
まずは代理店の更なる育成です。これは私達のビジネスに必要
きる大変魅力的な機会でしたので喜んでお
ことができ、中国の国家建設に大きく貢献できたと信じています。
不可欠であると同時に、雇用創出のお手伝いにもなるからです。
ツ技術者との人間関係が深まり、1985 年
受けしましたが、北京内燃機からの同意
また、先ほども話しましたが、いち早くコマツが中国に TQC
50 余年に亘るコマツの貢献は、これからも大きく報われると思
がなかなか得られませんでした。まず一時
を伝授したことも挙げられます。TQC の考え方や手法が広く製
います。中国には、
「井戸を掘った人の恩は一生忘れない」とい
造業界を中心に波及し、今日の品質管理レベルの向上に繋がっ
う格言があります。
1994 年 1 月、小松華南有限公司の設立記念式典に
出席する王(右)
02
Annua l Re p o r t 2 0 0 9
ています。また、合弁事業を通じて中国側パートナー企業は様々
な管理手法を習得して、大きな成長に役立ったと思います。
A n n u a l R e p o rt 2 0 0 9
03
特集 グ レーター ・アジ ア
Republik Indonesia
[ イ ンドネシア ]
Budiardjo Sosrosukarto
1941 年生まれ
コマツインドネシア(株)入社:1982 年
現在の役職:コマツインドネシア(株)コミッショナー
(2008 年から)
C hina /Indone sia /India /U AE/R ussia
Interview
として、インドネシア全土にサービス網を構築しながら、建機ビ
合弁事業成功の立役者
ジネスを包括的に学ぶ機会を得たのです。
Q: コマツとの出会いについて教えて下さい。
次 の 難 局 は 1986 年 に 訪 れ ました。KI 初 年 度 の 1983 年 に
1050 台あった国内の建機需要が、640 台に急落したのです。加
部門から、最も優秀な社員 16 名を選び出し、コマツの日本の工
場での 9 カ月間の技術研修に派遣しました。
えて、同じ年にインドネシア政府が、国内調達比率を高める政策
彼らは、KI の真の先駆者です。彼らは、日本から帰国すると
Q: コマツインドネシア(株)
(KI)の経営では、どんな点に苦
を打ち出したため、まさにダブルパンチでした。国内調達比率
直ちに生産の立ち上げに着手し、1983 年 8 月 31 日に、KI の第 1
労されましたか。
の向上は、我々にとって大きな課題でしたが、溶接部品の内製
号機である D85A ブルドーザーをラインオフしました。その日は
化の推進と外部サプライヤーの育成により、達成することがで
(バ
終日 KI に達成感が満ち溢れていました。現社長の Bambang
きました。
ンバン)さんもその先駆者の 1 人です。
1974 年の初め、アストラ・インターナショナル社の重機部門とし
て 1972 年に設立されたユナイテッド・トラクター社(UT)に、私
まず、KI の設立自体が大変な仕事でした。UT がコマツの代理店
がアストラ社から移籍した時です。UT は 1973 年にコマツ製品
に指名された後、UTとコマツは協力し、順調に売上げを拡大し
3 番目は言うまでもなく、1997 年のアジア通貨危機です。イ
私たちはビジネス環境の変化に合せて変化しなければなりま
のインドネシア総代理店に指名され、私はサービス部門の課長
ていましたが、その状況は、1980 年にインドネシア政府が建設
ンドネシアおよび東南アジア市場全体で、建設機械の需要が急
せんが、メーカーとして変えてはならない原則がチームワークで
機械の国産化を決定したことで大
落しました。KI は、1997 年にインドネシア国内向けに 1555 台
す。KI のスタート時においても、当時の社長のリーダーシップの
きく変りました。現地生産の認可
の建機を出荷しましたが、その翌年はたった 28 台しか出荷でき
下、日本人とインドネシア人のチームワークは卓越したものでし
取得に向け、UTとコマツは一丸と
ませんでした。KI は、当時の社長を中心に一丸となり、またコ
た。我々は、その社長から TQC(全社的品質管理)の考え方を
なって取り組みました。私も UT の
マツからの全面的な支援も受け、日本と米国を中心に 513 台の
学び、KI の管理手法に取り入れました。
生産部門の部長として、コマツ社
建機を輸出する一方、社内のコスト削減を進めることでこの危機
また、コマツ本社とのチームワークで、幾度も危機を乗り越
員と一緒にワーキングチームに加
をしのぎました。全社員の高い士気と、グローバルなチームワー
「私たちは日本人の父とインドネシア人の
えてきました。KI では、
わり、政府との度重なる交渉の末、
クのおかげで、KI は 1999 年 3 月期も、営業収益で黒字を確保
母を持っている。」と言っています。ふたつの親会社の信頼関係
1982 年 3 月に何とか現地生産の認
することができました。
の上に築かれているのが我々 KI なのです。
可を得ることができました。
Q: KI 設立時から、コマツグループの重要な生産拠点に成長し
た今日まで、経営に携わってこられました。この成長を牽引し
1983 年 7 月 31 日、翌日の本格生産開始前の設備の
最終点検。Budiardjo(ブディアルジョ)(当時 KI 副
社長、前列右から 2 番目)と小宮 KI 社長(当時、前
列左から 2 番目)
た原動力は何ですか。
それは、人材とチームワークだと思います。私たちは KI 設立の
第一歩から、人材育成を最優先に考えてきました。1982 年、ま
だ事業活動を始める前、UT の製造・部品・サービス・レンタル
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Annua l Re p o r t 2 0 0 9
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05
特集 グ レーター ・アジ ア
[ イ ンド ]
Davinder Singh
1944 年生まれ
(株)小松製作所入社:1968 年
現在の役職:コマツインディア(有)バンガロール支店副支店長
(兼)社長アドバイザー(2007 年から)
C hina /Indone sia /India /U AE/R ussia
インドにおける信頼関係の構築
ルドーザーによる除雪作業の実証運転を行いました。私もバン
針に沿い、我々は 1994 年から 95 年にかけ、インドの大手機械
ガロール事務所から参加しましたが、除雪作業を完了して帰路
メーカーを調査した結果、インド最大手のエンジニアリング・建
Singh(シン)の名前を出さずにコマツのインドでの成長を語る
につく頃には、既に周囲は暗くなっていました。タイヤチェーン
設複合企業であるラーセン・アンド・トゥブロ社(L&T)をパート
ことはできません。彼は 45 年間に亘り、マーケティング、プロ
もなく、雪の降り積もった山道を、登りは車を押し、下りはスリッ
ナー候補として選定しました。その後、30 カ月に亘る交渉の末、
ダクトサポート、経理、政府機関や民間企業との交渉など、同
プを繰り返しながら、命からがらベースキャンプにたどり着いた
1998 年 2 月に当社と L&T が 50%ずつ出資し、合弁企業エルアン
国におけるコマツの建設・鉱山機械ビジネスの全領域に携わっ
のは、夜中の 12 時過ぎでした。これは、私の人生の中で一番怖
ドティーコマツ(株)を設立することができました。これにより、
てきました。なかでも、1998 年から 2006 年まで、コマツアジア
かった体験の一つです。
コマツの厳しい品質管理のもと、高度な技術を搭載した油圧ショ
(有)バンガロール事務所長としてインド全土の責任者を務めまし
ベルを、インド市場に導入する道が開けたのです。これは、コマ
た。今日でも、コマツインディア(有)バンガロール支店副支店
営業での苦労と喜び
ツがインドで民間企業とパートナーシップを締結するという、新
長(兼)社長アドバイザーとして、引き続き卓越した能力を発揮
1974 年、コマツはバンガロールから約 600 キロ離れたゴア地
しいスタートでもありました。
方で、D355A ブルドーザーの販促活動を行っていました。同地
2006 年 1 月には、ダンプトラックを生産する完全子会社、コ
方は鉄鉱石が豊富で、日本にも輸出されていましたが、大手鉱
マツインディア(有)をタミル・ナードゥ州チェンナイに設立しま
ド大使館に勤務し、コマツとインド政府とのブルドーザーの技術
山オーナーのほとんどは競合メーカーの機械を使用しており、
した。候補地の選定から工場建設に至るまでの作業と様々な地
供与交渉に携わっていたことでした。父親の勧めで 1961 年に来
我々コマツは話も聞いてもらえない状況でした。私は約 1 年間
方政府機関との交渉に、18 カ月を要しましたが、コマツグループ
日し、東京で語学研修を受けるとともに、コマツで 2 年間の技
訪問による営業活動を続け、何とかある会社から一台のオー
の多くの人々とのチームワークにより、無事に操業を開始するこ
術研修を受けました。インドに帰国後、1965 年から1967 年ま
ダーをもらうことができました。コマツの性能は同社から高く
とができました。
でインド政府のブルドーザー工場に勤務した後、1968 年コマツ
評価され、それを見た周囲の鉱山会社も、一台また一台とコマ
に入社しました。
ツを購入してくださいました。今日ではゴア地方の大手鉱山会
彼自身によれば「成功は、自制心と勤勉の上に成り立ちます。こ
社のほぼすべてが、合計 200 台以上のコマツ製品を使用してく
れらに忍耐力を組み合せることができれば、人生の相対的な価
ださっています。
値はより高まると思います。」とのことです。更に彼はこう言い
しています。
シンとコマツとの出会いは、1950 年代後半、父親が在日イン
シンの 45 年間におよぶコマツへの貢献を限られたスペースで
伝えることは容易ではありませんので、彼自身から、これまでの
ます。
「私は、これまでコマツで働いてきたことを栄誉に感じて
キャリアの中で忘れられない経験をいくつか語ってもらいました。
厳しい交渉と忍耐
います。コマツは安定的に成長し、チャレンジを奨励する、社
冬のヒマラヤ
インドでは、1990 年代に入り、油圧ショベルの需要が拡大しま
員にやさしい企業です。和を重視するコマツの社員は、皆、自
1969 年、コマツはバンガロールから約 2400 キロ離れたヒマラ
した。コマツも現地生産により最新型の油圧ショベルを市場導
分がそのようなファミリーにおいて不可欠な一員であると感じて
入するため、現地パートナーを探すことを決定しました。この方
いるのではないでしょうか。」
ヤ山脈北西部のシムラ(標高 2200 メートル)近郊で、D80A ブ
06
1962 年、当時の小松製作所川崎工場で機械加工を実習
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07
特集 グ レーター ・アジ ア
[ ア ラブ首長国連邦 ]
Babak B. Javidani
1959 年生まれ
(株)小松製作所入社:1990 年
現在の役職:コマツ中近東(株)トレーニング部長
(2004 年から)
C hina /Indone sia /India /U AE/R ussia
研修生との夢の共有
ジャビダニはサービスエンジニア時代の体験について、次の
すことです。特に代理店からの研修生に対しては、コマツ製品
にするために人生を費やし、今日の大きな進歩を築いてきたの
ような話をしてくれました。
「1993 年の秋、私は山岳地帯の村
の性能を最大化するコマツマンであるというプライドを持つよ
です。これは次の世代にも引き継いでいかなければなりません。」
建設機械に対する生まれついての情熱という点では、Javidani
で、サークルギアの破損した GD705A モーターグレーダーの修
うに励ましています。」とジャビダニは語ります。
(ジャビダニ)に勝る者はいないでしょう。ジャビダニは土木技
理を任されました。代理店のサービスエンジニアと一緒に現場
術者の家庭に生まれ、土木現場で建設機械に親しんで育ち、少
に向かい、サークルギアを溶接しようとしましたがうまくいきま
仕事を通じて建設機械の価値と彼ら自身の使命を、いつの日か
彼らを通して、コマツ製品がインフラ開発のため、より広く活
年時代には既に、将来は建設機械のスペシャリストになると決
せんでした。作業中に、機械のオーナーから、それがその地域
発見してくれることだと言います。更に彼は言います、
「ホイール
用されるよう努めてきました。彼の夢は、定年退職する前に、
めていました。英国で学位を取得して祖国に戻り、建設機械の
で唯一のモーターグレーダーで、村と麓の町を結ぶ道路の除雪
ローダーの車輪やブルドーザーのスプロケットが一回転するごと
この業界に携わってきた人々の功績を自分の子供たちに見せて
代理店に勤務しながらコマツに入社するチャンスを待ち、1990
という大きな役割を担っていると聞きました。除雪作業ができ
に、私たちはより良い未来に向けて一歩進んでいます。この業界
やることだと言います。
年、サービスエンジニアとしてコマツに入社、1997 年にはドバ
ないと、村は冬の間孤立して、病院にも行けなくなるし、食料
で働いてきた人々は、車輪やスプロケットの回転をよりスムーズ
イ駐在員事務所のサービスマネージャーとなりました。
の確保もできなくなってしまいます。あと数週間で冬が到来する
技術的な知識や技能に加えて、彼が研修生に期待することは、
ジャビダニは約 20 年間の仕事を通じて、代理店の社員に対
し、顧客満足度向上のためのサポートとトレーニングを提供し、
ため、私は事態の深刻さを痛感しました。その後 2 回、溶接作
業に向かい、破損していた部分が強い磁気を帯びているため溶
接できないことに気付きました。コマツ本社から指示をもらい、
次の訪問時には無事に修理を完了することができました。その
ときオーナーから非常に感謝されたことは、一生忘れられませ
2006 年 1 月、代理店の研修生に「D275A」ブルドー
ザーについて説明
ん。4 回の訪問で合計 2500 キロを運転し、作業時間は 60 時
間に達しましたが、私は充実感に満たされ、疲れは全く感じま
せんでした。3 週間後、その村での降雪のニュースを聞いたとき、
私は涙が流れ落ちるのを止めることができませんでした。」
彼は現在、トレーニング部長として、コマツ中近東(株)の
トレーニングセンターの全プログラムを監督しています。トレー
ニングプログラムは、代理店のサービスエンジニアと営業スタッ
フを対象としたものに加え、エンドユーザー向けにも提供され
ています。
「私たちの役目は、ここで学んだことすべてを実際の
仕事で応用できるという自信を、受講者全員に持たせて送り出
08
3 歳当時のジャビダニ
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09
特集 グ レーター ・アジ ア
[ ロ シア ]
Feklisov Vasilij Ivanovitch
1947 年生まれ
(株)小松製作所入社:1977 年
(有)コマツ・シー・アイ・エス 現在の役職:
シニア・トレーニング・インストラクター
(2007 年 7 月に定年退職後パートタイムに)
C hina /Indone sia /India /U AE/R ussia
卓越した技能の伝承
1977 年、トラックのテストエンジニアとして働いていたワシリ
スエンジニアの三浦さん(左から 3 番目)と製造技術者の村石さ
は、極東地域で稼働するコマツのオフロードダンプトラックの
ん(屈み姿勢)という二人のスペシャリストと共に、私もその任
全世界のコマツグループの中でも、パイプレイヤーの知識におい
評判を耳にしました。彼はその品質と性能の高さに魅せられ、
務に携わることになりました。
て Vasilij(ワシリ)の右に出る者はいないでしょう。彼はこれまで
すぐにコマツの求人に応募し、モスクワ事務所のサービスエン
二人に会うのは初めてでした。驚いたことに、彼らは、250kg
に 4000 台を超えるパイプレイヤーの納入に携わり、商品説明か
ジニアとして、コマツグループの一員に加わることになりました。
もあるクランクシャフトやその他の部品を、日本から持って来て
らエンジニアやオペレーターへのトレーニング、修理や不具合対
1980 年代、コマツはソビエト連邦の国営企業に、極寒地仕
くれていました。現場への交通手段は鉄道しかなく、私たちが降
応にいたるまで、あらゆる業務を経験しており、多種多様な稼働
様のブルドーザーやパイプレイヤーを大量納入しました。機械納
りる駅での停車時間はたったの 2 分間。客室で眠る他の乗客を
現場でパイプレイヤーがどのように使われているか熟知していま
入時の指導、オペレーターやエンジニアへのトレーニングなどを
起こさぬよう静かに、狭い通路からクランクシャフトと部品を運
す。ワシリはかつて、お客さまに十分なサポートを提供するため、
通じ、ワシリのすぐれたリーダーシップはお客さまから高く評価
び出すのに大変苦労しました。降りたのは私たちだけ。時刻は
広大なソビエト連邦(当時)の各地を飛び回っていました。
され、感謝されました。そして、彼の多大なる貢献のおかげで、
午前 1 時。真っ暗で凍えるような寒さでした。現場でも、凍りつ
「実は私も同じ日に撮った写真を持っています。モスクワ事務
コマツの名はソビエト連邦全土に
くような倉庫の中で、D65E の修理を行いました。幸い、彼らの
所だけでは対応できない修理だったので、村石さんと一緒に大
知れ渡ることになりました。
卓越した技術力と、遠路はるばる運んできてくれた部品のおかげ
量の部品を持って行きました。ワシリさんと会うのは初めてでし
で、無事に修理を終えることができました。」
たが、彼が中心となり素晴しいチームワークを実現できました。
三浦 茂さん
1926 年(大正 15 年)生まれ
(株)小松製作所入社:1952 年
主な職歴:海外サービス
(現、プロダクトサポート)
定年退職:1985 年
2007 年に定年退職した後、ワシリは(有)コマツ・シー・アイ・
特に感心したのは、お客さまのメカニックと大変スムーズな作業
「 これはとても大 切な写 真で、 ハ
エス(KCIS)で、サービスエンジニアのトレーニングに従事してい
ができたことです。彼のサービス技術者としての熱心さと、絶え
バロフスク地方のサムボリにある
ます。
「私は今の仕事に大変満足しています。それは、若い人た
ずユーモアを忘れないフレンドリーな人柄がなかったら、極寒の
お客さまの現場で撮ったものです。
ちと一緒に働くことに心から喜びを感じるからです。彼らと接す
環境の下、限られた設備でエンジンのオーバーホールを含む大掛
お客さまはダリレスプロムという大
る時には、自分がかつてコマツ入社当時に学んだ 2 つのことを伝
かりな作業を、7 日間で終了することはできなかったでしょう。工
きな林業生産企業で、機械の購入
えるようにしています。1 つは、彼らがコマツという家族の重要
場、本社、モスクワ事務所そしてお客さまも含めて最高のチー
にあたり日本メーカー数社の機械
なメンバーだということです。特に KCIS の新入社員には、でき
ムだったと、今でも懐かしく思います。」
思い出の写真
をテストしました。コマツは D65E
るだけ家族的な雰囲気を感じてもらえるように心がけています。
ブルドーザーを提 供していました
2 つ目は、コマツの機械やサービスを使って頂くことで、お客さ
が、1981 年の冬、エンジンが事故
まの業務改善につながる方法が見つけられるよう、お客さまの
により破損してしまいました。修理
仕事の内容を深く理解しなさいということです。」
のため日本からやってきた、サービ
10
ワシリ(左から 4 番目:赤い帽子)
Annua l Re p o r t 2 0 0 9
A n n u a l R e p o rt 2 0 0 9
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