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【ドライ戦争: 競争ポジションのケース】

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【ドライ戦争: 競争ポジションのケース】
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【ドライ戦争: 競争ポジションのケース】
l980 年代半ばのビール業界におけるアサヒビールは、業界三位の市場地位を維持することすら
危ぶまれていた。それまで常に維持していた 10 パーセントの線を l985 年にはわずかに割込み、
9.9 パーセントのシェアしか獲得できなかったのである。同じ年にキリンビールは 6l.3 パーセン
トのシェアを握ってトップを独走しており、キリンビールに対して唯一チャレンジを挑めそうな
サッポロビールですら、l9.6 パーセントのシェアしか保有していなかった。最後発のサントリー
ビールは徐々にシェアを高めて 9.2 パーセントのシェアを獲得するに至り、アサヒビールにあと
0.7 ポイントと迫っていた。
このような危機的な状況の下で、アサヒビールは全社的な体質改善運動と新製品の開発に動き
出していた。まず l986 年にはラベルを一新した「コクキレ」ビールを発売し、市場シェアを 12.9
パーセントにまで戻している。その翌年の 1987 年春、いよいよ歴史的な転換点を画する「スー
パードライ」を発売した。
スーパードライが発売されるまでのビール業界は、トップのキリンがラガービールによって市
場の大半をおさえ、それに対してサッポロ以下の企業が生ビールで対抗するという構図が出来上
がっていた。
キリン対その他企業の戦いは、ラガー対生という製品の本質的サービスそのものの戦いであっ
たばかりではない。バッケージ(容器)に関してもキリンがラガー=ビンを強調していたのに対
し、他の企業は生=カン、あるいはペットボトル、樽などの新しいパッケージを市場に対して提
案してキリンとの差別化を図っていた。アサヒは特に「ぐい生」やペットポトルなどのいわゆる
「容器戦争」では先導役を果たしてきていた。
しかしながら、容器による差別化は容易に同質化されてしまった。アサヒがいかに新たな容器
を導入しても他社もまた即座に類似の容器を導入し、アサヒの差別化は長続きしなかったのであ
る。また、1985 年までの業界全体における「生ビール」の比率は 41 パーセントにまで高まり、
同年キリンも生ビールを市場に導入するという同質化・フルカバレッジ政策をとるに及んで、生
ビールはキリンと他企業を分かつ決定的な差別化ポイントとしての力を失ってきていた。
もともと巨大なキリンは他企業に対して圧倒的に優位な地位にあった。たとえば 1985 年の時
点で、アサヒはキリンの 62 パーセントに相当する宣伝広告費を投入していたが、売上高はキリン
の 5 分の 1 に過ぎなかった。また、キリンは売れているということ自体がもたらすメリットを享
受していた。売行きが良いから在庫の回転率が高く、在庫の回転率が高いから消費者に渡る製品
の鮮度が常に優れており、鮮度の高さゆえに売行きが高まるという好循環を起こしていた。アサ
ヒはこの逆の悪循環に悩んでいた。
しかし、l987 年の春にアサヒが既存のビールよりもアルコール度の高いスーパードライを発売
すると状況は一変する。当初、キリンを初めとする他のビール会社は、ドライビールが一過性の
製品だと判断した。ところが、夏の商戦でドライビールが急速に売行きを伸ばすのを見て、各社
とも翌年の初めにはドライビールの発売に踏み切ることになる。
この時、他社が発表したドライビールはアサヒの「スーパードライ」の完全な同質化製品であ
った。アサヒの「スーパードライ」は、
「スーパードライ」という新しいプランドを作って商標と
して登録していたばかりでなく、ラガーや他の生ビールと明確な差別化を行なうためにシルバー
のラベルとビンの首の部分に小さなラベルを貼るというパッケージ面での特徴を付けていた。こ
れらのパッケージの細かい部分まで他社が模倣しようとしたのである。こうした他社による同質
化行動は、当時の新聞で「知的所有権」侵害の問題として大々的に採り上げられ、それによって
一般の消費者のドライビールに対する関心が高められたという。
リーダー企業のキリンは、初期のパッケージ・デザインなどを一部修正した上でドライビール
を市場に投入した。アサヒの攻撃に対して同質化することで対応しようとしたのである。その年
の夏にはキリンのドライビールも市場で人気を博し、そのまま順調に進めば、新たに創出された
このドライビール部門でも十分なシェアを獲得してリーダーの地位を維持できそうな様子であっ
た。
しかしその年の秋ごろから、キリンはドライビールが主力商品ではなく、ビールはやはりラガ
ーだという主張に転換してしまう。キリンは 1989 年に入ってから「ファインピルスナー」や「フ
ァインドラフト」などの新製品を導入してフルライン政策をとると共に、ラガーこそビールの本
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流であると主張する宣伝広告を積極的に行なった。
このように戦略の短期的な揺れが生じたのは、社内での議論の混乱が原因であると言われてい
る。キリンにとってみれば既存の生産設備をそのまま変更せずにラガービールが売れている方が
望ましい。ドライビールを市場に投入して、それが成長したとしても、所詮ラガービールのシェ
アを喰うことで成長しているのだから、キリンにしてみればうれしい話ではない。自社製品が共
喰いをするよりは、ラガーで押したい。このような議論が出るのは当然であろう。
キリンの戦略的な揺れは、同社に大きな損失をもたらすことになった。80 年代の半ばまで守り
通してきたシェア 60 パーセントの大台は 1988 年の時点で 50.5 パーセントとなり、89 年には遂
に 48.1 バーセントに落ち込んで 50 パーセントの大台すら割り込むことになったのである。これ
に対してアサヒは、見る見るうちにシェアを高め、88 年には 20.6 パーセント、89 年には 24.9
パーセントのシェアを獲得している。
キリンは、1990 年には大型商品の「一番搾り」を発売し、以後、フルライン政策からラガーと
「一番搾り」二本立てへ戦略の転換を図った。また、アサヒは「アサヒ生ビールZ」を発売し、
スーパードライ 1 本に絞った商品展開から2本目の柱の育成をはかった。
その結果はキリンのシェア後退にブレーキがかかり、アサヒのシェアは伸び悩み、2社のシェ
アは安定したかに見えた。その後 1993 年頃から、アサヒは再びスーパードライへの一本化へ方
向転換し、小売店の店頭に新鮮なビールを流通させるという「フレッシュ・ローテーション」運
動を展開した。この方向転換によってアサヒのシェアは再び成長軌道に乗り、1997 年には 32.4%
にまで高まり、一方でキリンのシェアは 40.1%にまで低下した。その結果、キリンのシェアはか
つてのピーク時から 20 ポイント以上も低落し、アサヒが同じく 20 ポイント以上シェアを伸ばし
たことになった。
1998 年、キリンは成長傾向にある市場セグメントである発泡酒市場に参入した。キリンが発売
した「麒麟淡麗」は好調な売れ行きを示し、発泡酒市場で先行していたサントリーの「スーパー
ホップス」やサッポロビールの「ドラフティー」からシェアを奪った。これによって、キリンの
シェアは一転して増大した。しかし、アサヒのシェアは低落しておらず、2社のトップシェア争
いが続いている。
ビ ールの出荷量
59,793
60,000
56,705
57,252
56,655
56,436
55,812
54,561
53,765
55,000
50,000
47,565
45,498
45,000
42,101
40,000 38,942
1998
1997
1996
1995
1994
1993
1992
1991
1990
1989
1988
1987
35,000
1986
万ケース
51,820
3
(%)
戦後日本ビール業界のシェア推移
70
60
キリン
50
40
アサヒ
30
20
サッポロ
10
タカラ
サントリー
1949
1952
1955
1958
1961
1964
1967
1970
1973
1976
1979
1982
1985
1988
1991
1994
1997
0
年
度
1958年
1963年
1967年
70後半~80
年代前半
80年代前半
1986年
1987年
缶ビール発売(アサヒ)
サントリー参入
サントリー純生発売
キリン以外の生戦争
容器戦争
アサヒ「コクキレ」
アサヒ「スーパードライ」
Q. 上記資料をもとに、以下の設問について考えてみよう。
(1) チャレンジャーの戦略定石の観点に基づき、アサヒビールがとった戦略を評価してみよう。
(2) リーダーの戦略定石の観点に基づき、キリンビールがとった対応戦略を評価してみよう。
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