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ヒュームの 『自然宗教に関する対話』 について: 宗教と倫理に対する

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ヒュームの 『自然宗教に関する対話』 について: 宗教と倫理に対する
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ヒュームの『自然宗教に関する対話』について : 宗教と
倫理に対するヒュームの態度をめぐって
植木, 幹雄
北海道大學文學部紀要 = The annual reports on cultural
science, 24(2): 49-102
1976-03-10
DOI
Doc URL
http://hdl.handle.net/2115/33401
Right
Type
bulletin
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Information
24(2)_PR49-102.pdf
Instructions for use
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
植
幹
雄
│ │ 宗 数 と 倫 理 に 対 す る ヒ ュ lム の 態 度 を め ぐ っ て │ │
木
l ムの ﹃自然宗教に関する対話﹄ について
ュ
ヒ
幹
雄
o
なぜならば、 すべての学
採る態度も同一であるとみなすことができる。それは﹁真の哲学者﹂ないしは﹁穏健な懐疑論者﹂のそれである。
﹃人性論﹄での叙述によれば、﹁人間本性は人聞に関する唯一の学問であおにとされる
聞は﹁人間本性﹂に関係するのみならず、その真偽は﹁人間の能力と権能﹂によってのみ判定されるからである。し
たがって、﹁人間悟性の限界と効力﹂を知り、同時に推論における観念とその作用の本性を知ることは、哲学の必要
不可欠な準備作業となる。 それらを吟味する作業を経てヒュ l ムによって得られた結論は、﹁知られないものを知ら
れないままにしておくことで、 われわれは満足しなければならなば)﹂とすることであった。真の哲学者は﹁哲学が可
北大文学部紀要
一5
1-
ヒュ lムの ﹃自然宗教に関する対話﹄ について
││宗教と倫理に対するヒュ l ムの態度をめぐって││i
木
ヒ
ュ l ムの﹃人性論﹄と﹃悟性論﹄は、同一の哲学原理に依拠している o この間におけるヒュ l ムの哲学に対して
植
と 品 i ムの
について
視的設界に現われる現象に対して新しい
(4)
ることモ満足する﹂のである。
に哲学
るとは
﹁現に存在するもの﹂から出発し、﹁人間理性の究極の限界いに達したと知るとき、そこにとどまるべきものである。
の哲学者は、白己た哲学に
会一経毅を趨えて説現しようと努め、さらに
を哲学ずる。
って、
るものであって
に身を委ねる ﹁宗教的熱狂者﹂からをも告か
に貢献すべき
1・ムは﹁全一図的懐疑論いを採っていない。なぜなら、哲学者
来事いにおいて鰹持されねばならない。しかし、ヒ ?
しかし﹁疑いと器時とに圧捜して全面的に哲学念日斥け
であってもならない。
といえども行為せねばならず、そのためのなんらかの穣債を必要とするからでるる。哲学者は﹁独断的精神﹂
であってはならない
るべきであるが、その懐疑を人障の日常を無視するほどに過度に進めるべきでは
い二
i ムは自己の懐疑と位の懐疑とを比
の懐疑議殺は自己の哲学的確信についてと向様に、自己の哲学的
において、
ての研究と
熱
これに反して、﹁哲学にお山りる熱狂者﹂は、﹁精神の究極の
しうるかもしれないもの﹂や﹁存在しえないかもしれないもの
﹁生活及び
る
は人踏の﹁白熱﹂を無稽しない。またその一哲学は、人関の能力と権能の間限界一を見定めるため
﹁人棋の
狂者から広間却すると同時に、 人間判の理設の限界を競えて
区別する。
d
の
の自己吟味としての﹁壊疑いを放棄しない。懐疑は純粋な思弁の領域のみならず、﹁人間同生活から生じるあらゆる出
はならない
L
ιー
の懐疑読者﹂であって
﹁懐疑的原理﹂に依拠して
戸
弘
、
。
φんを V
あ
5
2-
の
U
ま
2
ま
疑念についても控え
較し、
も
の
決して人間であることの限界を離れてまで思弁を飛期させようとするものではない。ヒュ l ムは﹁哲学者たれ、しか
o
し、ま哲学の全体にあって、依然として人間た白を哲学する根本姿勢とし、それを生涯にわたって堅持していた
とみなすことができる
ところで、 ヒュ l ムの宗教に対する態度はどうであろうか o は じ め と l ムは熱心なカルヴァ γ教 徒 で あ っ 拾 し
かし、その信仰を離れたのはごく早い時期であり、それは﹁思想の新局面﹂が聞かれ、﹁学者﹂あるいは﹁哲学者﹂と
して世に出ょうとの気概に燃えていたおよそ十八才の頃であったと想像される。以後再びヒュ l ムがその信仰に立ち
帰ったとみなしうる証拠は存しない。事実、世間はかれを宗教にとって危険な思想家とみなしており、大学への唯一
の就職の機会も理神論者とキリスト教徒の妨害によって潰されてしまった o また現代においても、ヒュ l ムは﹁独断
的無神論者﹂とはみなされないにしても、キリスト教の神の非存在について語るという意味で﹁無神論者﹂とさい叩
信仰を道徳生活の根拠としていないという意味での﹁無宗教の人﹂とみなされたりもする。そうしたヒュ l ムの生涯
を象徴的に表現しているものとして、伝記作者の一人が描くヒュ l ムの送葬の模様についての美しい描写を引用する
こ と も で き る で あ ろ お し か し と l ム自身は、自分が非キリスト教徒であるということを一度も公言してはいな
ぃ。ヒュ l ムは、 キリスト教をも含む宗教に対して、、自己の態度を鮮明にすることを差し控えていたのであって、こ
のことはヒュ l ムの自然宗教に対して採る態度からも明らかである。
自然宗教とは、神への信仰を啓示の助けを借りずに理性と経験から確実に導き出せる、とするものであった。これ
に対してヒュ l ムは、はじめ﹃人性論﹄の一部を構成する予定であったが、出版に際して削除された﹃奇蹟について﹄
において、自分の哲学は﹁人間の理性の諸原理によってキリスト教を擁護しようと企てたキリスト教にとって危険な
北大文学部紀要
JU
RU
。
とは言え、
公刊された
に及ぼす慈しき帆影響セ実
にヒュ:ムの
を求め続け
に対する
ヒ品]
の宗教に対して採るべき
の反論の是弊を吟味し、次で、
に お け る ヒ ヶ iムの不動
よる神の存在証明の吟味を、
その撮りで、
の合判析を還し
ヒ ュ Iム
ている。この点で、
の怒糠及び宗教
の哲学はそうした﹁宗教援護論﹂から一物も奪うもので
アプワオ習な論誌は否定されているものの、自然神学の核をなすアポステ予分リな神の
た散を困惑さ略せるのに役立つかもしれない﹂と考えてい
ヒナ 1ムの明自然袋教に関する対話加について
友あるい
では、神の存在
存在証明には、その論証の可能性の余地を残しており、
はないとされていた。しかし豆一分教の自然史いでのヒュlムは、
に関する道徳的詮明を潤接的に
貫性を欠いているとみなすこともできる。
証的に研究することによって、
教に対する議度は、
ことをめざしている。
54-
対して、ヒュ l ムは既制宗教とその議徳に対しては否史的であるものの、
ま、ず第一に
と略記する﹀で行っている。それは
て い な い と す る 反 論 も 可 能 で あ ろ う 。 ヒ ナ iムは、
ハ以下、
と
さ
れ
る
と
し
しかし、こ
L'-'
たのであり、 その袈拠としての意密による祥の都在一証明を露めて
たお
に対する最終的諮疫を確定する試みを過して、
設
しに
態度について、なんらかの
e
も
の て
地
位
を
保
‘
ム
﹃対話﹄は字義通り﹁対話﹂の形態を採っている。それは全体として十二の章から成っている。それはさらに、序
の第一章、神の意図による存在証明を検討する第こから第八までの章、神の宇宙論的存在証明を検討する場継ぎの第
九章、神に道徳的属性を付与する経験的根拠があるかどうかを検討する第十章と第十一章、終章の第十二章、 とに区
分することができる。対話者は、デミア、 クレア γテス、 フイロの三者であり、 ナレーターのバシピルスによってそ
れぞれ、﹁厳格な正統派神学者﹂、﹁周到な哲学的才能﹂の持主、﹁周到性を欠く懐疑論﹂者と性格付けられている。
序の第一章は、三者のそれぞれの性格と立場を鮮明に際立たしめるために設定されている。それはデミアの教育論
によって始められる。デミアは、子供の精神的訓練は﹁たんなる人間理性の諸原理﹂に基づく﹁哲学﹂ではなく宗教
によらねばならないとし、次のように発言する。
﹁わたくしは宗教のもっとも偉大な秘跡を子供達に示すことや、子供達をしてもっとも定評のある諸教義と諸見解
を拒けるようにさせる哲学の尊大な散慢から生じると懸念される危険性を示すことに、 いささかも龍陪しない o﹂︹引
用・一︺
デミアによる人間の自然的諸能力に対する懐疑論は、いわば﹁全面的懐疑論﹂であり、それは信仰への飛躍を準備す
われわれはわれわれを宗教へと導く他の原理を持ち合せていない﹂︹引用・二︺と、哲
るためのものである。 フイロは人聞の理性と感性の有限性に関してデミアに同調するものの、﹁もしもわれわれが人
間理性を信頼しないならば、
学に勝る絶対的優位を宗教に与えることには反対する。さらにフイロは、宗教という﹁そのような主題について哲学
するということは、 日常生活について推論することとなんら本質的に異ならないのであり、 われわれはまさにより大
きな着実性を、 たとえ偉大な真理ではないにしても、 われわれの哲学に、その厳密にしてより徹底した進行の方法の
北大文学部紀要
EU
F
D
ニニ︺と、
いいデ lムの﹁自然宗教に関する対話﹄について
ゆえに、期待しうるかもしれな L
クレアジテス
かっ同じカと明証性を持ってい
への飛罷を蝦絶する。これに対して、
た性費含有しており、
であり、議様、政治学、物理学において
のキリ'吋ハ
ロ yクであったように患
ム自然神学であれ啓示神学でるれ、るらゆる衿学の諸原理を発見する穣
宗教は哲学の
の絶対性を強調する。そうして次のように発言する。
ての学問において採用される論証力試
用・四︺と、
ている
一穫の理性にほかならないということ
理を確立したの
張し
れる。まず、デミアがその基本的見解念表現する。
れてきたということを、思い切って明らざま
われるよ︹引用・
めるべきである。﹂ハ︹︺出用者挿入)︹誤用・
ブイロはデミアに賛成し、 後 に デ ミ プ に よ っ て 主
する。
﹁理性的な人がそうした主題を扱うとき、情題拭衿
きず、 そうして知られないのであると、 わた︿しは
で己れを虚うし、
の真理詰・:
る神の宇宙詩的存在註携を先重りして、 次のよう
に関してではなく本憶に期間してである。
5
6
る実質的な対露は第二章か
れにはまっ
で明
は由
の弱さに気付き、自に見えずヰで強制くことができず、人間の記慣にとどめたことのない神の無離の完全性を黙って
つ吉目的な鍛治物であるわれわれ段、神の符々しい
の欠絡のゆえに、
かつて真剣に疑ったことがないとわたくしは確信している。問題は神の
﹁誰れもが、少なくとも常識を具えた人ならば議れでも、︹神が存在するとい
の本性は
っ
て
神
、
の
、
存もし
在、て
t
こ
断定する OBi--有限慌にして
なな
い真
O 思
袴に
ら
ミ
で カ
あ
t
ま
関
し
-:疑いえないものでありかっ自明である。原因なしに存在しうるものは存在しないのだから、 この宇宙の第一原因を
フイロは神の存在は自明な真理であるとしつつも、 ﹁われわれの経験を超えてわれわれの観念は進みえな
われわれは神と名付けよう o そうして神にあらゆる類の完全性を帰せしめよう o﹂︹引用・七︺
しかし、
o
い﹂のであり、﹁われわれは神的属性とその作用について、 いかなる経験も有しない﹂︹引用・八︺、 すなわち神的属
性は知られないとする。これに対して、 クレアジテスが、神の意図による存在証明を提出する
﹁世界を見回してごらんなさい。世界の全体と部分とを熟視してごらんなさい。:::全自然の中にくまなく存在す
る諸手段の諸目的への厳密な適合は、自然の方がまさっているとはいえ、明らかに人間の意図・思考・知恵・知力な
どによる人間的案出による諸生産物に類似している o 諸 結 果 が 相 互 に 類 似 し て い る の で あ る か ら 、 ま さ に 類 推 の 諸 規
則に従って、われわれは諸原因もまた類似しているということ、さらに、自然の造物主は、その為し遂げた仕事の壮
大さに比例する一層巨大な諸能力を所持しているとはいえ、ある点で人聞の精神と似ているということを推論するに
至らしめられる o このアポステリオリな論証によって、 しかもこの論証によってのみ、われわれは、 まさに人間の精
神と知力と神のそれと、が似ていることとをたちどころに証明するのである o﹂︹引用@九︺
このクレアンテスの発言の及ぼす結果にのみ注目して、デミアは異議を唱える。
﹁なんですって Oi---アプリオリな証明は存しないのですって。これまでにしばしば哲学者達によって強調されて
いるアプリオリな証明は、すべて虚偽にしてかつ龍弁ですって。:::あなたは、その見せかけの率直さによって、
んなる論証と推論によっては決して得ることのできない有利性を骨仲背骨に与えているのであ勾山﹂︹引用・十︺
グレアジテスに対するフイロの批判は、その原理と方法に関してなされる。それには、三点に集約できる付随的な
北大文学部紀要
た
司
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にU
ヒ
ュ lムの﹃自然宗教に関する対話﹄について
批判を伴っているが、もっとも鋭い批判は、 ﹁経験に基づく論証﹂そのものの延長線上におけるものである。 すなわ
クレアシテスの論証を確定するためには、 ﹁われわれが世界の起源に関する経験を持っているということが要求
されるのであって、 われわれが人聞の技術と案出から生ずる船や町を見たということでは十分でない﹂という批判で
ある o フイロに対するクレア γテスの反論は第三章でなされる。それは、ヒュlムがみずから﹁クレア γテスのため
にわたしが選んだ諸例証は、 かなり巧妙である﹂と語っている例証によってなされる。それによって、自然の作品と
人聞の作品との類似性は﹁自明にして否定しがたい﹂ということと、 いわゆる神人同形説が主張される。デミアはこ
のような見解に当然反対する。 ﹁われわれの本性の欠陥は、すくなくとも神的属性の言語を絶した荘厳さに対応する
なんらかの観念に到達することを、 われわれに許しはしなゆ﹁﹂︹引用・十一︺クレアンテスは第四章でデミアに反論
する。そうした﹁神秘主義﹂は懐疑論者や無神論者の主張と何ら異なるところがないのであり、さらに、神は人間の観
念に対応するいかなる属性も持たない絶対的に単一不変的な存在であると主張する神秘主義者は、実は自分ではそれ
と知らずにいる﹁無神論者﹂なのであると。デミアとクレア γテスの対立を横目で腕みながら、フイロはクレア γテ
スの﹁擬人観﹂の不合理性を指摘する。この指摘は第四章と第五章でなされるが、その際のフイロの原理は、﹁一切のわ
れわれの研究を現にある世界に限り、それを超えて探求しないことがわれわれにとっては賢明なのであり、人間の悟
一層立入った批判は第七章でなされる。 一連のフ
性の狭い領野をはるかに超えた思弁によっては、 いかなる満足も得られたためしがな川口︹引用・十二︺ というもの
である o フイロのクレア γテス批判は第六章でもなされているが、
イロの批判に対するクレア γテスの最後の抵抗は、第八章でなされる。人間に両眼両耳などが完全に具っていること
ゃ、生活を便利にする家畜が与えられていることは、﹁宇宙の秩序と配列とを生じさせた意図、しかも仁愛なる意図﹂
-5
8-
ち
なすことが
る。緩察や経験に依拠して意留の
結果なのである。﹁観念﹂
この主題に
る諾対象を
グレアソテス
張することは、そもそも
L
あるい
っている
に対して、 ブイ抑の最終的批判がなされ
というもの
ものであって、諸対象を表出するための ﹁模型
患考を対象の存在に優先さ‘せるという誤りを犯しているのである。また宗一
関し
ベき哲学者の
﹁判断の
という経験的出来事に依拠して商品の真理性を擁護しようとしても、
る事柄に
﹁自然の
がここでのわれわ
あろう。
は﹁原型﹂ではない。鐙金は諸対象に付難ずるものであって、党{行ずるものではない。ところ、がクレア γテスはこの
無祝して、
}
出﹂・ 9
人間開の
らは、 ある鍾の不合理を採用す
結果から原器へと遡行するとき、
は無罷遡行に陥る
J
アカル
よる神の存在証明の不可能性がフイロによって論証される。
とすることである。 それ以外の
このように
れの唯一の合理的方策である﹂︹引用。
いられるばかり
にするもの
第九章で、デミアに・よってアプ手オリな持の蒋在一証明の可能性が開題とされる。
4
トによる神の存在議的証明 と執念
か、それとも自身のうちに霞己の存在理由あるいは原患を持つ必然的存在を想定しなければならないかのどちらかで
るための
うるものだ、
般的康則を立てる。それは次のような謀則である。
をしV
土立
、 o
'
tナJ
矛窟を含むもの拭な
事実需題をアブワオザな論証によウて
F オリな神の存在証明に対する批
ある。前者の想定は不合理ぜあるから、後者でなければならない。﹁結説的にいえば、そのような存在は存殺するの
であり、すなわち神は存在するのであのデ十ミ
アによるアヅ
四︺
lh
る擦の
、 フイ円いではなくグレア γテスによってなされている。クレア γテス
duMU怜
μ
準 ι同
﹁反対命題が矛題を含まない
北大文学部紀要
-5
9
の
る
ヒナ iムの吋自然宗教に関する対話﹄について
︹引用・
ぃ。われわれは、 われわれが存在として想像するものはすべて、これな非存在として想像することもできる。したが
ってその非存在が矛震を含む存在は存在しえない。して、その存在が論誌可能な存在は存在しない
グレア γテスの論証は明解である。神は﹁必然的に存在する存在者いであると考えることができる。存布しない存
在について諮ることは矛盾であるから、そうした存設者の存在は必然的である。しかし﹁形式的に存在するとみなす
ものの非存在﹂を考えることは、常に可能である。したがって、との必然的存在と考えられる存在は論理的必然性を
持つものの、客観的に必然的であるとみなすことはできない。この場合の必然的存在という命題は、有意味な命題で
いすべての存在者は存在するという関台な陀一論的命題を主張するだけであり、あるいはたか
十分に
原図﹂ を議定
の原酒は
は感性にその根拠を求めよ
-60
はない。ぞれは喰い
e
一の州からな
の原因はその部分の惑因の説明によっ
だか矛重ずるものはないということを主張するだけ のことにすぎない。また、クレアンデスは、
しなければならない必要が存しないことを論証する。一般に、
ないのは、
のものの謀闘を問題にする必要がないのと悶様である。
説明し口外されている。したがって、全体の原闘を考える
州であるから、
理性による宗教の基礎付けがことごとく失敗に帰することが論証されたので、
うとする。そのような見解はデミアによって提出される。
の
なんらかの推論によってよりも
の只中にあっ
での自然とが従属しているかの存在︹神︺によ
﹁各人は、それぞれにみずからの韓中で宗教の真潔を感じとっているのであっ
いて、巴
る保護を求めるよう導びかれる。:・:われわれはなんとみじめな創造物であろうか。人生の無酸
むしろみずからの監さと不幸についての自覚
第
ν0
τし'、J
ふ4 ﹃eλ1
で占める
R ︺は引用者鱒
れている。ところ
いて神の道徳的属性役確立することができ
てる心理担拠に認する対話をそ
とする点に、 デミアは自己
て
、 iz--われわれがたえず衝き動かされ悩ましめられる恐れを鎮めるのは、宗教で誌なかろうかJ
入﹀︹引吊・十六)
へと入聞を駆
の真理辻説明も根拠付けも無用
ブイロによっ
クレア γ一アスの擁人神観に
めている。しかし、第十議は、
このように、﹁感構﹂に依拠するがゆえに、
援の
はしているものの、その中心的主
るかどうかを吟味することにある。
6
1-
世界にはあまたの不幸が存在するのみならず、自然は人隔を含むすべて
4
人轄の両限が事物のより大きな視墜に向
で
で
、
っているとはみなし難い。神は人類の幸福を提議することを譲っていないのであろうか。それとも、
はないのであろうか。袴の﹁仁繋﹂と﹁全龍﹂を基礎付吟る経験的根拠は薄弱である。フイ門戸の潔怒
アγテスは、神の灘徳的属性が疑わしく不確実であるとみなすのに、持放に第ご索引﹂のごとく神の自然的本性を確立
する必饗があるのか、という疑問を提出する。これに対して、デミアが次のようなオーソドックス
れる o ま
の生活は永遠との比較において一瞬にすぎない。現校の
︹引用・
の仮説を立てているもので、
しようとしても無駄であって、
るようなもので
そうしておどろきながらも、人間は神の神慮の迷路と複雑さと
の持において
﹁地球は宇宙と比較するとき⋮点にすぎ、ず、この
現象は、それゆえ、存在の認の領域
けて間関かれるとき、録選的諸法則の
いている神の
の上だけ
クレアンデスは、このデミアの見解は仮説のよ
あると難詰する。そうして、持の
北大文学部紀要
¥
.
.
.
.
.
J
ムの﹃自然宗教に関する対話﹄について
記 品l
る。この
て、フイロ
に反論する。不本は現実に存在する。その原困は偶然によるの
ねばならないとし、﹁神的仁愛を確認する唯一の方法法、人間の不幸と号 chg絶対的に否定することであお︺︹引用・
十八︺
ニ通りしかない。
の 第 一 は 、 持 の 麟 性 と い う 主 の 尺 度 ﹂る人間間の
の意図に反している。しかも神は全能であるとされる。このの結論は明自である。
でなければ、ある必然によっているとみなさねばならない。それは蒋の意留によるのか。しかし、神は完全に仁愛で
それをまぬか
におけ
に関して論議したとき、 わたくし
てきたものである。ぞうすると、
関する﹁聖議掘りから撤退すること勺議廷する﹂ことである。その第二球、神秘主義
クレアジテス
こうしてフイロ
は勝利する。以鵠に、 われわれが知性と意霞
に観ずることである。しかし、
は前者のみ
﹁この占山でわ
はあなたにまるめ込まれないためにわたくしのあらゆる懐疑的にして形而上学的な関敏さか一必要とした。
合閥
性と
に 関 す る 、 わ け で も 後 者 に 関 す る さ ま ざ ま な 見 解 の う ち で も 、 終と
極適諌
抗し難い力によ
れないこ
﹁知恵によって
の多い社事な引を焚け、そうして平明な理性と経験の
セ﹂︹計千
の混在か
こんどはあなたの
の梅田況についての観点は存しない。
ってわれわれをうちのめす。:::しかし、それから訣外なこじつけをせずに、道徳的諮麟性をわれわれが推論しうる
人間生活ない
を擁護するの
の無限性が世界
かっ﹁必熱性によって隈定される﹂神の仁愛という考え方を提出する。しかし、この考え方もブイ殺によ
一章に入り、 クレアジテスは、
令とに一次ずるあなたの
規定さ
における蕃惑の畿争という原理
6
2-
る
づて担げられる。 吋叫⋮教は、神の震性殺有罷と考え、白熱における善悪の
の
あ
にょうて説明する o だが、この原理は﹁現象の斉一性﹂という事実と両立しえない。どのような原理によっても自然
における善と悪とを根拠付けることはできない。それは、自然を支配する意志の存在を説明する根拠を証明したり確
証したりすることはできないということをも意味している。ここにいたり、デミアはフイロ、がクレア γテスよりも宗
教にとって﹁危険な敵﹂であることに気付く。クレア γテスは﹁あなたの友人のアイ官は、はじめからわれわれ二人
を犠牲にして楽Lんでいたのだ﹂とデミアを愚めるが、デミアは対話に興味を失い、対話から離脱する。
第十二章はグレア γテスとフイロの二人による対話であるものの、その大部分はフイロの弁明によって占められて
いる。プイロは、まず第一に自然を科学的に探求することを通して自然を超えた存在とその本性を証明しようとして
も無駄であることを示す。第二に、自然の所産と入閣の作品との類似性を根拠にして、神と人閣を類似させ、神性を
﹁精神﹂とか﹁知性﹂とか呼ぶのは、﹁たんなる言葉の上での論議﹂︹引用・二O ︺にすぎないことを指摘する。この
ことは、有神論者と無神論者との論争にもいえることである。一方は人間と神との差異性を強調し、他方は自然にお
ける類似性を誇張している o 両者の真の対立点は存在せず、ただ単に﹁字句上﹂の論争をしているだけなのである。
そうして、さらに、人間と神との類似性に批判的とならざるをえないのは、﹁真の宗教に対するわたくしの崇拝の念﹂
が欠けているためではなく、それは﹁大衆の迷信に対するわた︿しの嫌悪﹂の故であると告白する。これに対して、
グレアジテスは宗教の存在が道徳にとって不可欠であることを強調して、次のように発言する。
﹁どのように腐敗しようとも、宗教があるということは、宗教がまったく無いよりもましである。来世に関する教
義はもうともであり、道徳の保護手段として必要なものであるから、われわれはその教義を決して放棄したり無視す
べきではない。﹂︹引用二一一︺
北大文学部紀要
-63-
、
Pは
ト
J
仇
つ
﹁虐殺﹂といった道椋的諸悪は、 コ般大衆の迷信が人隠の心に京がつ
︹引用・二二︺ブイロは人龍の
の方が
に勝ると
より大きな効果を及ぼ、す
ほんのわずかの自然的な託直や仁愛のカ
る。﹁大衆﹂は裂としても、
のために宗教を必察とはしない。
の道徳に
﹁市民戦争い
ヒナームの﹃自然宗教に関する対話﹄について
だがフイ
た恐しい
に確実で
ぃ。このよ
に率直な精神が感ずるであろうごく滋然な情緒
の宗教はそのような有害な結果惨なもたら
が、神学的な盟議と体系によって示唆されるもっとも尊大な物の見方よりも、人間の
ということは、
を信じて
自分の裁判判なクレアソテスの憲議と和解させる。
のために宗教ではなく留学を奨める。しかし、フイロはさらに
のではなし
﹁でもクレアシテス、
の渇望一をもって
の不
れた真理へ飛び付くであろう。
である。
は、天はある特殊な啓示を人緊に提供し、 そうしてわれわれの信持の神的対象の本性と属性と作用について発見さ
ている人は、
せ、とのふ品き無知をぬぐいざるか、すくなくとも軽くするであろうという切なる騒い
完全性に関する正しい感情によって
e
より真理に近
に附関するメシピルスの評繕が付され
︹引用
であることは、学者にとって
の助力によって神学の完全な体系な立てることができると信じ込んでいる散慢な教条主義者は、そおい以
外のなんらかの揚力を軽蔑し、外務より付け加つ
には三人
ミアのそれよりも謹切でるるが、 グレア γテスの窯瑳
って対話は務了するものの、
龍全なる人間であることとやリスト教を権抑ずることへの最初にして本費的な一
このフイロ
ている。
﹁わたくしに誌、 アイ世の原理
6
4-
し
た
ん
(
出
V
いように思われるこ︹引用・
て、ヒュ i ム
ヒ品 1 ムの
の対話者のうち、だれが真に
以下、摺題にすべきこと誌﹃対惑い
4
の解釈史を擦り返るとき、
⋮合、それはブイロであるとす
はないとする解釈もなさ
Heo
フライヤーは、 吋対話﹄の死
6
5-
は、以上に要約したとうりのもので
ているかという問題に置き換えるとともできよう。
、
てどのような態肢を表明しているかということである。この問問題の解明 は
ヒュ l ム
ヒュ i ム
それはクレア γテスであるとす
一人の対話者の
誰れであるかという開題に対し
る解釈が議な込のである。
し、いずれの解釈もその正しきゃ}証開閉するために、共通したガ法を採用してい
し
か
、ブライヤーは
w
- ストラ l ハジに宛て
かわらず、その出版念断念した
での惑想を寄せている。それによ
と
も
のも非
ぅ、葉撃
後にお吟る出肢をとュ 1 ム に よ っ て 依 頼 さ れ た に
かもさないこと
、コマ
る一一一人の
ι
ぃ
、
のディピ yド に よ っ て 出 絞 さ れ た と
が澄間の
は、﹁対話いに
龍、も
甥
存
、
出腹された
うなヒュ l ム の の い く ば く か を 合
する︿傍点引用者どとしている。支さに、多くの解釈者が採吊し
北大文学部紀要
ち、ざ
現
〉
て
、
か
も
れ
も
の、は
簡
ヒ
品 fムめ
を、地のいわ}品;ふの著作において
について
行人間の
に割問るこ
でき
かれがと品 i ムの代弁者にふさわしいか否かを
うち、デミアの
におけるヒ Aiふの我弁者を確定するためにもっとも適切℃ある
れている援麗と比較検討するこ之であった。本稿も窓た、この方法を採用す
の方法が、
この方法に従って、三人
HW
宗教と道徳との関係に的をしぼっ
まずはじめ
ることにしよう。なぜなら、
から
持
係
、 MH
制判定することにしよう。
の理性的詰註によっ
であると考えてい
ヒ
品 l ムにおい
の混関を排除しようとする。
υ しかし、かれ誌、この実践的信念と
ことができるであろうか。とュ:ムは、決断を支持し賂
一に明らかなように、 グミアは人間の能力に対する懐疑論を展類している。
J ムの穣嬢論と同一
e
ωけに関して云えば、デミアは、人間同の諸能力の有際設を強調し、
ないる。門引田市
己主
の信念日か実銭的判断の場留において
に開閉する批判的吟味を伴なわない
して懐きうるであろう。 しかし、
、ヒュ l ムはロッグはおいて﹁知識﹂と
と合議室したので
の行動や患考にとって無意
・コリ γズの表現を借りる
てまで人間精神の究極露連を解明しようとしたり、あ
3
-6
6
の
人間の経験の離界内におけるものでな
いたものがたんなる信念にす、ぎない
その
タ
た
持するための
人間の
知識とみ
むしろ、 ヒュ i ムは人間同の
るいは事物の本伎を認識しようとする哲学的傾向に対して、懐疑的態度を採ることに、
のとみなさ
の範囲を越えて形成される憶念は、
して有意味なもの
な
J
a
の
と
み
ければならない。ヒュ 1 ムにおいて、人間
無
効
関
と
の
こ
、 人間は、とのよ
、合
しれ
かた と
る ま
じ は
にiJ
J
るを
。う込
っ t
こ
た5
5置
て
あ
ならば、学問的に﹁有益な解毒作恥口を見い出していたとすべきであろう。まさに、と l ムの哲学に対する根本的態
F
度は、﹁たとえわれわれが概してわれわれの無知に完全に得心さ}せられ、さら にわれわれがわれわれのもっともプ般的
にしてもつ之も精綾な諸原理に対して、その実在性についてのわれわれの経験を一離れてなんらの理由をも与えること
Rソに代表さ
ができないということに気付きはするものの、われわれは、われわれが人間理性の極限に到達したことを悟るとき、
満足してあきらめ弱ピというものであ引た o こうしたヒュ l ムにとって、デカルトの方法的懐疑論やピ
7
RVJ
そこに居を定める ことはできないとされる。﹃人性論﹄での叙述によれば、人間
れる全面的懐疑論は、ともに拒けられるべきものとみなされている。たとえ両者の煉獄を経ることが、哲学者にとっ
て必要であるとみなされるものの、
は自然によって呼吸したり感でじたりするのと同様に、判断するでように定められているのである唱理性によってピ
的懐疑の桂桔を逃れることができずに哲学的憂欝に陥るときですら、自然がこうした憂欝を治すのである。懐疑論的
論証は、その抽象性のゆえに、長時間にわたって人聞の精神を支配することはできない。自然は人聞を日常生活へと
εも 、 通 常 の 人 間 生 活 に お い て 、 他 の 人 々 と 同 様 に 生 活 し 、 語 り 、 行 為
つれ戻すのである o むしろ、懐疑論者といえ
するように、自然によって仕向けられているのである。人間を支臨する自然は、 ヒュ l ムにとって人聞の限界を明示
わたくしの感性と悟性とを甘受して、自然の流れに服
するものとみなされているとすべきであろう o こうした観点からするとき、 ヒュ l ムの次の言葉は、 かれの懐疑論の
性格を端的に示すものとみなしうるのである。 ﹁わたくしは、
ヒュ l ムは、
いわば盲目的に自然の流れに身を任か
従してよいのであり、否/そうしなければならないのであって、そうしてかかる盲目的甘受に、 わたくしは、もっと
も完全にわたくしの懐疑的性向と諸原理とを示した。﹂ここで、
せると言明してはいるが、 しかしこのことは非合理なものへの傾斜を容認するものではない。むしろヒュ l ムは、経
北大文学部担要
-6
'
7-
の合理詰支配力を本臨
に、自然と言尽
懐疑的
しての懐疑論い
て、それは弱からの好む原理
人間同の行
人間同の行動や生活と学時
れる。方法的懐撲を遂行す
っている態
の自黙と事実において矛臆するものなの
た点からも明らかなごとく、 ピロソ
れてい
ームの懐疑論は
の懐疑識の性格について
の高飛を戒め、人誌生活に
k a lムの﹃自然宗教に闘する対話﹄について
験を題越してなされる
ヒュiムはよ
的非合理性との同一祝を掠癒していたといえよ
吋脇田性論﹄において、
たように、
の穣疑論﹂とも名付けら守れている。
疑念の﹁懐疑的解決﹂を試みている。先に第一
り、それはまた﹁穂健な懐疑論﹂ないし
ある。先
物体の存在笈でをも疑う﹁先日ねする壌は慌論﹂か
ヒュ:ム的縄問疑
それは
ヒュ;ムによっ
て支持されうるものではない。
とを調和させるの
欝のうち
る。また、デカルトの方法的懐疑もま
へ進み行かないからに一はかならない。学問倒的方法が人間的事
への飛躍も、とも
に濃界を設定することが、室ちに
らす
のではな
理性が優位攻占めるべきであるとか、一合、経験が罷位佼ねばならないというよ
生活し、思考する人関そのものの方が、や間的方法に先立っており、支た
人胞の思考は
め
る
であり、そうした思考こそが、 ビナームの哲学
人間の能力の限界に立ちとど変りつつ、世界と人慌に
理詮の有酸性への
にして
一6
8-
る
は、ヒュlムの懐疑論と相容れないものである。理性と経験とは互に決して
るベ女﹄なの
おける支現者なのではない。
力そのものを梗用しない
開時
うな極端な二者扱
の無罷性
みなされるべ
ことこそ、 まさに
/
J
ミ
く、むしろ立によく河立しうるものなのである。
のではない。
雑駁な思考であり、
に追ろ
も
b
ストアのそれではな
である。ヒュ l ムは、こうした思索の姿勢を堅持していた。また、こうした姿勢こそが、 ヒ
ュ l ムにおける智恵への
ヒ
ュ l ムが好意を寄せる哲学は、
﹂の派によって日頃標模されていたことがら、すなわち、 ﹁疑いお
愛の情熱を発露させる方途であったといえよう。 しかるに、
く、アカデミア派あるいは懐疑派のそれである。
よび判断の停止﹂﹁性急な定義における危険﹂﹁悟性による研究を非常に狭い範囲に限ること﹂﹁日常生活と実践の枠
内におさまらないすべての思弁を放棄すること﹂などは、その﹁真理への愛﹂の故に、またそれを成就する適切な方
法として形を変えてヒュ l ムに受容せられているといえよ%v しかもヒュ l ムは、こうした姿勢を、日常生活のみな
らず、哲学においても思索や行為の根拠をうぼう危険を排除しつつ受容していた。ヒュ l ムは﹁習慣﹂を﹁人間生活
の大きな指針﹂として位置付けることによって、﹁懐疑的疑念の懐疑的解決﹂を計った。﹁習慣﹂という原理に依拠す
ることによって、人聞は過去における出来事と未来へ向かう行動との連続性を回復させ、経験をよりよく役立たしめ
うることとなる。このことによって、人間の実践は確実な導き手を得ることになる。この原理はまた、日々の経験に
反する信念を阻止し、経験を超えた想像力の所産である虚構としての信念を不合理なものと認めさせる。さらに習慣
は﹁自然の過程﹂と﹁観念の継起﹂とにある﹁あらかじめ定められた調和﹂によって、人間の行動を調整す一智ヒュ
l ム的懐疑は、人間の理性や感性を信頼し、そこから行動と思考の原理を導出するためのものである。そうして、そ
れは同時に非合理なものや神秘的なものを、行動と思考の原理から徹底的に排除しようとするものなのである。
ところで、デミアの懐疑論は、クレアジテスが指摘しているように、宗教へと人聞を導くための理性に対する﹁全面
的懐疑論﹂である。デミアは、﹃対話﹄の第一章(︹引用・一︺)で、子供達の教育の問題にふれつつ、教育原理として、
﹁たんなる人間理性の諸原理﹂に基づく哲学よりも、宗教の諸原理をなんのためらいもなく選んでいる。さらにデミ
北大文学部紀要
Qd
c
u
ヒ
ュ 1ムの﹃自然宗教に関する対話﹄について
アは、神の存在は自明な真理であるとする。すなわち、神が存在するという信仰は、 いかなる論証も必要としない究
0
すなわち、 デミアはマlルブラシシュの説を引用することによって、神と人間とのい
極的な真理であるとみなす。かれにとって問題なのは神の本性であるとしつつも、それを人聞は-認識しえないとする
立場を堅持する︹引用・六︺
かなる類似をも拒否している。かれにとって、神は﹁無限な存在者﹂ないし﹁普遍的な存在者﹂として﹁信ずべき﹂
であって、その本性は人間にとって不可解である o デミアは人格神を認めるのでもなく、 また神の認識のための厳密
な論証も必要としない。まさにデミアは、 グレア γテスの評価に従がえば﹁神秘主義者﹂なのである。こうしたデミ
アの見解は、いずれもヒュlムの哲学原理に反することは明らかである。すなわち﹃対話﹄において、ヒュ I ムの穏
健 な 懐 疑 論 の 提 唱 者 は ︹ 引 用 ・ 八 ︺ で 明 ら か な よ う に 、 フ イ ロ で あ る 。 ま た 、 ヒ ナ iムは、自然宗教すらも人間本性
の学に依拠しなければならないとしていたのみならず、人間理性に信頼し、その論証に身を任せていた。こうした態
度を表明しているのは、プイロ(︹引用・二︺)であり、グレプ γテス(︹引用@五︺)である o
次で、デミアの提出する神の存在証明が、ヒュ I ムの原理と一致するかどうかを問題にしよう。要約における︹引用
@四︺及び︹引用。五︺であきらかなように、デミアが提出する神の存在証明は、 アプリオリな神の存在証明である。
カントの分類によれば、 アプリオリな存在証明は、存在論的証明と宇宙論的証明に分類されはするものの、後者は存
在論的証明に還元された。ところで、 アプリオリな神の存在証明は、 ヒュlムの原理と一致するであろうか。 ヒュ I
ムはアプリオリな神の存在証明について、﹃対話﹄においてデミアにより多くを語らしめていない。これにならって、
ここでは、手短かにデミアの神の存在証明がヒュ l ムの原理と一致しないことを指摘するにとどめよう o ヒュ I ムの
経験論は先天的証明の根拠を奪うものであったことは明らかである。なぜなら、 ヒ ナ iムにあって、人聞の認識能力
-70-
のア
ん;t
あな
し、つ
な、て
よ
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か現
もし
し
る、もの
いるからで
みの不可能なこ
の非存
一つの事実をなん
﹀えーない。
して提示してい
ぢらに、 ヒュ l ム
一つの
ぃ。ある事実のいかなる否定も、
に対するヒテiムの反駁
においてこのように述べ、 ア ブ リ オPな推論によ
ない事在につい
る論理的必然性
に箆す
ない。した
ヱ
-£パ o
hr-71 つ変りがこの論証は事
の上でのことで
って、なんら客観的必熱笹
ある。したがって、容在すると定畿
のところ、あらかじめ用意されている結論を合環化する巧妙な便法に過、ぎな
いれは、 間切らかに、 デカルトの神
ヒュ 1ムは
あるとした。
に従えば、デカルトの証明は、
いことが知られる。すなわち、
される神の存在は、その襲うで必然である。しかしこの必然性
ぃ。単なる論躍的必然盤を客観隅的必然壊に鞍化させようとしても、
がって、この論証誌総理的に真理であるとみなされたとしても、なん
るという間⋮命附胞を主張するだけ
の叫能性論"一からの引用は、 ク レ ア ン デ ス
こうした立場を
ミアを批判す
において
しえないということに
こうした韓誌によって、すなわち経験と無羅な論証によって、経験は
突において仰も証明しないか、あるいはせいぜいのところ、春在するもの
いからであ
の選択としての
すなわち、
なる。有意味な論議とは、思考と行動の際親を提祭するものでなければならな、
ない。ということは、このような論証は
のこと
かつ知性によって知ることができう
の 存 在 と 同 じ く 明 瞭 に し て 明 確 な 観 窓 で あ る 。 そ れ が 存 哀 し 得 な い と 主 張 す る 命 館 は 、 たとえ虚
れ論
、註
偽であるとしても、それが葬雀すると主張する命題に劣らず考えうるので
でリ
は可感的経験会一競えて一歩も議なことはできない
はプ
なリ
は、銭外なしに
るもカミ
表現したのは、 グレア γ テスで
」
帽
もの
北大文や部紀要
-11-
の コ
不
す、ら
で
ヒ
品 i ムの
に述べた言明白川引用
について
e十及び︹引用加。十七︺にみられるごときものである。かれは、体
ュ 1 ムを代弁するのはグレアンテスであっても、
十五︺﹀と間一である。この点からして、 ヒ
e
ミアの見解は、門引用
デミブではないことになる。
宗教と道総に
について償譲
じてはいない。しかし、
た護岸に魂の救
系的に展開してはいないが、現世における患の存在を神の摂理とみなす、いわば持正論を主張しているとみなすこと
ができよう。ヒ品、 iムは神正論の原理の
についてい での叙述によれば、
関していえば、結果として有害であるという点で
という格蓄が対志するにふさわしい対象であり、 そ れ ら 泣
るとざれる。道徳に対す
るものの額一落こそが最悪のもの
済を求める装勢が道徳に及ぼす悪しき影饗について論じている。
桂信は
﹁真の宗教の墜落﹂によっ
は同一である。しかし、髄有の性格は正一反対であるとみなされる。ヒ ?iムによる心浬的な発性論的分析によれ
に測り知れぬほどの高揚と自信をもたらす。
ると、こうした
台誇り・緩慢・熱烈な想像などが無知を伴う﹂ことにあるとされる。 すなわ
によって、健全な思考による歯止めを爽失してしまった人間は、不合濯な議行や懇行
e
勤行苦存。献上などによる以外にはないと考えるようになる。人間の精神
みまわれるとき、入院は、その謀困に計り知れない想像を絶した力を付与する。そうして、この
ば、迷信は人聞の弱さや絡さに対する惑党や恐怖心や憂欝な気分などと無知が結び付くことによって生じる。すなわ
ち
、
の源泉﹂
へと導かれてしまうのである。
議に、 ﹁狂信
の成功や輝かしい鰻康など
鶏神は、売すべきものや破滅すべきものにいささかも注目ザず、鵠艦隊力の翼な借りて自由な類像にたわむれる。ここ
ち
、
は
を支配してしまうこうし
カの中市︿翠から逃れる方法は、臨時'社・秘儀
て
ヴ,
。
ム
から、歓喜・狂喜などへの空想の驚くべき飛期が生じる。人聞の通常の能力を超えるかかる飛朔によって、人聞は、
﹁霊感を授けられた者﹂ないし﹁神の特別の思恵を受けた者﹂としてみずからを位置付けるようになる。こうした人
聞は、﹁天からの霊感﹂にすべてを引き渡し、人間の理性と道徳を﹁虚偽の案内者﹂として拒けるに到る o
明らかに﹁迷信﹂と﹁狂信﹂は、人間の通常の思考と行動の限界を超えた領域を創り出し、そこから行動の原理を
導出するものである。﹁迷信はその諸体系と諸仮説において、 哲学よりもはるかに大胆である。そうして、哲学は可
視的世界において明らかとなる現象に対して新しい諸原因と諸原理とを設定することで足れりとするが、迷信はそれ
自身の世界を開示し、そうしてわれわれにまったく新しい諸々の場面と存在者と対象とを提供する。:::われわれは
われわれの案内者の選択に関して熟慮すべきであり、もっとも安全にしてもっとも意にかなった案内者を選ぶべきで
ある。この点に関してわたくしは大胆に哲学を薦め、 そうして哲学に、あらゆる種類あるいは名の迷信にまさる優先
権を与えることをはばからないであろう。というのは、:::迷信はしばしばわれわれの人生の振舞いと行動において
われわれを妨害することがあるからである c
﹂﹃人性論﹄におけるこのような叙述に明らかなごとく、迷信や狂信はヒ
ュl ムによって拒絶されている。デミアは、端的に迷信家ないし狂信家とみなすことはできない。しかしデミアの道
ュ l ムの先の引用にお
徳よりも宗教を行動の原理としようとするその姿勢及びそれの根拠付けとしての神正論は、 ヒ
ける姿勢の延長線上に位置しうると認めることができないことだけは確実である。
確かに、デミテの神正論をそれだけ取り出して考察するならば、それが論理的に不可能ではないという点を証明す
ることは可能であるかもしれない。しかし、それはヒュ l ムにとってなんら関心をひく対象ではないとしなければな
ュ 1 ムの関心は、神学的教義そのものの存立可能性にあったのではなく、神学的教義の道徳に及
らないであろう。 ヒ
北大文学部紀要
ヴd
ο
η
原理でる
る独断論は、
ることのできないものである。 それは、デミアの表現をそのまま母りるならば、 ﹁各人それぞれ
ったのである。符の事在についての僑仰がすべてに
いwa--lムの司自然宗教に関する対話﹄について
には論理的に
の真理とみなされる。すなわち、 それは想性よりも情緒的性絡を強く
カ
ミ
っている﹂
の枠外にあるものとみなしえよう。人間理性の及びえな
ーあ
度芹、
のである。こうした性格の議誌は、
ア加
帯び
コ
マ
」ω
どうか
。一一囲ヲ
ることにしよう。
ている。
ヒ ナ iム自身、
の理由
ぅ。﹁一対話﹄
ぃ。理性が為しうることは、そうした主張と道徳壌環との
との
Jc
.
.
の当否を決定するものは、理性で
れあ
の累理や方法、そうして姿勢がことごとくヒュ l ふの
山 加
い領域におけ
選続性を否定することだけである。
デ、、、ァの提出す
において、デミアとにュ i ムを一同
は、まさに以上に考察し
と担容れないことに求めることがで念ょう。
ることが
に関する評鱗が一ホされている
タレア γテスがいい品、 iムの弐弁者で
つ
t
7
J
:
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こ
さ
﹁主人公﹂ となし
74-
い
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ま
に
おいて、 タレア γテスを ﹃対語い
の
v
i,
ε
1
ま
次で、
終りに、 バソピルスによる三人
年三月十日付の品リオァト宛
が
む
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の
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問題は、
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J迫
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1uvJLvd中小
、ご-
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ヒューム
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め
一
一
一
一
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間
表
に
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れ
に組問し
く弘翌試合強める形で
できる。この券類創性をどの
人患の作品との翻似性会}自然のう
は自然の作品と入織の作品と
誌、とュ l ムの
記憶に蘇らぜるこ
の主人公明、あり、 し か も ヒ ナ i ム民の本当
、ヒュ 3 ムの
ものであっ
ヒュ 1 ムは品ジオットに問い合せたの
く論証のカを務めることになる。こ
正否に関係すると考えられる。錦、ち、野割問怒註を額似性
ガで、富然に非瀬縦性会}も間関様に認めるこ
くアポステ担分歩な神め存在証境
と ζろで、 品ユ円グオッ干門仰のかの警俸の
め臨め
もに認めることはできる。刊に
類別部性に基づ
可能となるか
しかし、そのこ
ることは、
の主人公がタレアンデスであ勺たとしても、
ぃ。むしろ逆に、
ることに
として提出するタレアνテ久が
において主として吟味される問題は類似を諜理とするクレア γテスによっ
しての
のことであっ
法ならない。
この書簡か
北北文学部紀要
であるかどうか
め型人公とされるの
事在血液開初であるとされている。 つまり、この凝りで、吋一対話﹄
ぼ
、
て、どの
解決する論理、か存在しないならば、非類似性は当擦にも類悦性に
みるか
明らかなよ
いると考えている。というのは、 i・eし
- ばしば引用怒れて来た 7 イロ
持この
クレアシ子一スが
あるとする解釈試、これまでに D@ ス チ ごf lトらによってなさ
受け取り、 ヒ ナ 4ふの代弁者はグレアンデスであると‘する
いされねばならないことは、
グレアジテスとと品、 ・
1 ムを自問一視すベ
力
為
﹁門前に回 ωい
あ
め見解を述べているとみなされるということである。
で
υ
例代
持
2
ヒュ;ムの司自然宗教に間関する対話﹄について
よさ
てて
示い
喪る
さ。
れス
つれ
とス
ず
こ
ミ
さ t
こ
れよ
0
.5
9も
止
ひ~~ま
ブスの哲学上の
ML
せている。ヒ品:ムの
の外面的構成の
の一人の名称によっていると考えることができる
キケ詳の
N-K- スミ
キ・ケロのベ衿々の本性
Pによっている。
における人物と糊関係してい
におけるブイロはコ yタに、 グレア γテスは
の対認な閉じ
に
、 コッ
の名称であり、 クレアンデスはバル
さらに、 やケロは
の倒人的感情を吐露していたに溝、ぎないと述
るとき、 ピナ iムの構成方法は、かれの
より強化しているとはいえ、
れていることは明らかである。 ww-ストラ:ハ γ の書簡におけるいいユ 1 ムによるフイロの性格付けと、
0
の主人公たらしめ
ったからである
における劇的興味を聞がたいためには、
グレア γ一プスをして、
といえば、それは意図による祢の存在証拐の不十分設を巧妙な形で一
・?なわち、
の良い方法だ
フイ殺のいかな
の主人公なのである。また、 バシピルスはクレアシテス
の立祖切な強化する論理を提出し続けるという役割を讃じさせる必要がある
からにほかならない。したがって、 クレアジテスは
る批判にもめげず、次々、と反論ない
の
キケロのそれと類似していることが判開閉する。判故にかかる方法をヒュ i ムが借用し、クレプ γテス、そして
メンピルスによる評怖とを合せ
って
iムによ
ベ、論-誌におけるバルブスの偉大な儀位に気付いたことを告白させている。こうした今ケ官の方法が、ヒ ?
G
バルブスにそれぞれ対応している。そうして、 ブイロという名称はコッタの
や品ロス謙のウェレイウス
る 0 ・中ケロは、 アカデミア派ないし懐焼派に属するコッ夕、 ストア掠にして正当慌の代表者としてのバルブス、
の名称それ自体が、
対一認という形式のみならず、 それ以上のものがキケ
ヒ品 i ムは
の主人公はクレアシテスであるが、 ヒュ:ムを代弁するの捻グレアソテスではないとす
」て
にな
例えば、 デミァ、 フイ料、 グレア γ一アスシ}い
し、よ
てつ
タをして、自分が望んだこと試ただ混乱させることであり、 さら
ニ
L
、
,
ヒ
t
こス
つに
ハ
h
v
md
の生徒であり、
ごく親密な個人的関係にるるものとして、 対話を記述している。
﹂のような立場にあるバ γピルス
は、みずからフイロに加担しないように、さらに、 クレアシテスが討論の勝利者であると判断するようにヒュlムに
よって設定されてるのである。以上のように、 クレアシテスが﹃対話﹄の主人公であることと、 バンピルスによる評
価は、 ともに﹃対話﹄の外的構成要因によっているのであって、そのことがクレア γテ ス が ヒ ナ lムを代弁すること
の論拠とはなりえないとすべきである。もしもグレア γテスとヒュlムとを同一視しようとするならば、それはグレ
アγテスとヒュlムの原理が同一であることを論証することによらなければならないであろう。それゆえ、デミアに
おいて為したと同様の方法によって、 グレア γテスの原理そのものを比較検討してみることにしよう。
一つの
クレア γテスによって代表されているのは、 十八世紀における自然宗教の
クレア γテスは、人間理性の無限性を主張し、さらに宗教の諸原理は理性によって確立することができるとしてい
る(︹引用・四︺、︹引用・五︺)。つまり、
立場である。それは、啓示の助けを借りずに、理性と経験に基づいて確実に推論できる神を信仰するとする、
人聞はみずからの
信仰の姿勢であった。 W - H・キヤピタ γの指摘によれば、自然宗教を信奉する人々の共通した主張は次のようであ
る。﹁自然神学者達は、 人聞が神を敬度にして有徳であることによって崇めるべきであることや、
罪を悔い改めねばならず、さらに現在と未来における応報と処罰が存在するということを推断するために、神が存在
す る と い う こ と の み な ら ず 神 の 本 性 に 関 し て も 十 分 に 知 っ て い る 、 と 主 張 し 明 ﹂ 事 実 、 ク レ ア γテスが﹃対話﹄の
全体を通じて主張していることは、 そのようなことである。ヒュlムは、理性と経験に依拠して論考を進めている。
しかし、すべての事柄が、その原理に基いて論証されうるとは考えていない。 ヒ ュ l ム が 人 聞 の 理 性 と 人 聞 の 経 験 と
にはおのずと限界のあることを認めていたことは、先に考察した通りである。自然神学者達の立場とヒュlムの立場
北大文学部紀要
ウ
・
,
ヴ
ヒ41ムの﹃自然宗教に関する対話﹄について
は、依拠する原理において類似しているものの、 そ れ か ら 引 き 出 さ れ る 結 論 に お い て は 呉 な る と し な け れ ば な ら な
ヒュ 1 ムは自然神学者達の見解に対して、どのような形で反論していたのであろうか。 自然神学者達
い Qすなわち、 グνアγテスととュ 1 ムを同一視することはできないとしなければならない。
ところで、
は、神の意図による存在証明と神の道徳的証明とを、いわば証明の両輸を成す一組のものであると考えていた。当
時、このような論理をもっとも精紙な形で提出し、世の尊敬を集めていたのはバトヲーである。 T-H- ハ yグスレ
'
Jの指摘によれぼ、﹃悟性論﹄の第十二日十﹃個別摂理と未来の状態について﹄は、バトラ 1 の﹃類比﹄における主要
な論証を採り上げ、それをバトラ 1と正反対の結論へと導くためのものであったとされる o この指摘に依拠するなら
、 ﹁懐疑的逆説を好む友人﹂ である想像上の﹁エピ
ば、その第十一章において対話を交す﹁わたくし﹂がバ F ラlで
キュりア γ﹂がヒュ t ムということになろう。
おびただしい煉瓦や石やモルタルの山と
﹁わたくし﹂が経験を原理としてなす主張は、次の二点に帰する。その第一点は意図による神の存在証明である。
それは反語的試問の形式を借りて提出される。﹁か切にあなたが、例えば、
石造建築のための一切の機材に取囲まれている半ば完成した建物を見たならば、その際にあなたは建物が意図と案出
とに主る作品であるとの結論を下すことができないであろうか。﹂確かに、人間の経験に従がえば、このように結論
さら
、推 論 さ れ た 原 因 か ら 遡 っ て 結 果 を 見 通 す こ と も で き る で あ ろ う 。 ﹁ わ た
を導くことができるであろう。
こに
の
くし﹂は、世界や現在の生活を半ば完成した建物とみなし、次で類比によって意図の存在を推論し、それに依拠して
神の存在を証明することができるとする。その第二点は道徳の完成のために宗教が必要であるとする主張である。宗
教の教義や論考が理論的に云って、道徳になんらの影響も及ぼすべきでないと論証することは可能である。しかし、
-78-
かかる当為に基いて、宗教の道徳に及ぼしている現実の影響及びその事実上の可能性を拒否することはできない。ひ
とびとは神が存在するという信仰から、道徳的成果を引き出している。すなわち、神は﹁通常の自然の過程のうちに
現われるものを超えて、悪徳に罰を加え、美徳に賞を授ける﹂と想定される o この想定の理論的是否が問題なのでは
ない。問題視されるべきは﹁それらの生活や行動に及ぼす感化は依然として変らぬものであるにちがいない﹂という
m
v このような﹁わたくし﹂における推論の帰結は明らかである o た と え 宗 教 の 教 義 が 理 論 的 に 多 く の 難 点
ことであ
を抱えているとしても、 それは無とさるべきではない。むしろ、宗教はひとびとの道徳生活の支えとして、存在して
いるのであり、 かつ存在すべきなのである。以上の二点に集約される主張は、第一点は﹃対話﹄第三章におけるグレ
アジテスの見解(︹引用・九︺)と、第二点は十二章におけるそれ(︹引用二一一︺)とに、それぞれ符合する。
﹁わたくし﹂と同一の原理に依拠する﹁友人﹂は、どのような結論を導くのであろうか。か'れの推論をフイロとの
対応をそのつど指摘しながら、叙述することにしよう。神の存在を証明する論証の一つとして、自然の秩序のうちに
知性や意図の徴候を見てとり、それらの原因を神に帰する説が提出されてきた。これは﹁結果より原因に導かれる論
証﹂である。入聞の経験に依拠するこの論証は、その原理に忠実であるならば、神の存在及びその本性に関して、経
験を超えて何らの論証もなしえないことになる o 人間の経験に依拠して、有限な神的存在とその本性とを推論するこ
とはできよう o しかし、 無限な神的存在と至上の叡知や仁愛を神に帰せしめることはできない(︹引用・八︺ )o しか
るに、 もしも無限なる神を自然の秩序に依拠して論証しようとするならば、 ﹁結果に現われるもの以上のものを原因
の属性に加えてしまっている﹂ことになるであろう。また、人聞の道徳生活のために﹁諸現象の通常の過程を超越した
一層特定の善の酬いと悪の処罰﹂を想定しなければならない理由はない。﹁経験された諸事象の連鎖はすべてわれわ
北大文学部紀要
Qd
巧,,
ヒ
ュ 1ムの﹃自然宗教に関する対諮問﹄について
O
れがわれわれの行動を規定する大きな標準であ抗 )﹂
人聞の道徳生活は人間の理性と経験に依拠して決定されうるし、
また決定されるべきである。このような立場から、﹁友人﹂は﹁わたくし﹂の先に提出された論証に反論する。﹁人
聞の技術と企図による諸製作物において、結果から原因へと進むことや、原因から遡って結果に関する新たな推論を
作ったり、 結果が恐らく受けたか、 あ る い は 受 け る か も し れ な い 変 更 を 吟 味 す る こ と は 許 さ る べ き で あ る よ な ぜ な
らば、人聞に関する種々の経験と観察から、このような可能性は立証されうるからである。すなわち、人間とは経験
的に知られうる存在であることが、人間における結果から原因に遡って、さらにその原因から逆に結果を推論するこ
とを可能にしているのである。ところが、自然の諸製作物を根拠として神の存在とその属性とを推論することは、神
人
)0
が経験的に知ることのできない存在であるから、人間の作品におけると同様の推論であることはできないとすべきで
ある。人間の作品における論証の方法を、 類比によって神の存在証明に援用することはできない (︹引用・八︺
聞の製作物と自然の作品との類比に基づく意図による神の存在証明は、たんなる ﹁推測﹂ 又は ﹁仮説﹂ であって、
﹁論証﹂や﹁証明﹂ではない。また、道徳生活の原理としての神の完全なる属性を論証する必要もない。人聞は経験
に基づいて﹁過去と未来の行動﹂の一貫性ならびに原理を導出するのである。
その大筋におい
グレアンテスではなくフイロということになる。
ハックスレlの指摘の通り、 ヒュ 1 ムが﹁友人﹂で、そうして﹁わたくし﹂がバトラl
以上のごとく、﹁わたくし﹂をクレア γテスと、 そうして﹁友人﹂をフイロと同一視することは、
て適切である。したがって、
であるとするならば、 ﹁対話﹄においてヒュlムを代弁する者は、
しかし、﹁わたくし﹂とクレア γテス、 ﹁友人﹂とフイロの対応は、 個々の発言を吟味する限り、完全ではない。﹁友
人﹂は﹁すでに実践と観察とによって知られているものを超えて、どのような新事実も宗教的仮説から推論すること
-80-
は結対に不可能であり、
のすべての
ω
しめることは決してできないであろうし、
とした。そうしてその理由として、
の過謹を超えて
いすべての宗教とは、 われわれ
た
は既に第
かならずしも夜定的とはいえな
いとができる。
に関していえ
ているとい
への渇望﹂、﹁食料品 他
1 の必需品への
ることは
の自然史﹄にお
は﹁人
ゎ
、
μ吋
ν
令
v
,
、
などが、人
の、波間関で
の一つは、 ﹁人総本性に
った。
ょうとはしない。むしろ、かれ
ることができないことは、宗教と議徳の関係に関する
の発生一論的ない
傍点部
t
し関
二子、
ることはできない
れ
と之
と
v
:
l
:
で
の
、
々
皆
、 、
毘・
(引
、吋対話﹄でクレアンデスによってなされている F︹
いとの物差し
立
=
ご
L
を経験
よって与えられる物慈しと兵な
'
'
、
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'l1
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,
.
_
によって
ヒ ナ iムの採っ
に吋宗教
ら
か
用
者潟市
、カ
ミ
である。
ふ
分に認していえば、これとまったく陪己主旨
h
恐
n
ヲ!に
の
さらに、意習による神の存在証明
とは、 ﹃人性論
必 才L
ま
L
る
である。したがって、この点でグレアジテス、がヒュ;ムの代弁者でないということを決定的に
ぃ。この
傍わ
れ
できない。しかし、 グレアンデスとヒュ;ムを関
いたのである。
-81-
れ
さ
れ
た
り
(れ
7
こ
う
し
つの事実を明磯
し競い
て察て
し、
、そ
ることによって証拐することができる。
とらお
問郎別収が続本釣に
、外去
に流布してい
主かに
に認する間関心 Lないしは、﹁入院精神安動かす不断の希望や恐怖﹂から発生した
であり、控は
ムては
のの/宗
分宗教
析教が
は合通
への初出望﹂、
潤を神へ
生の
l しム
v
の
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北大文学部紀婆
し
、
ヒ実品
の
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や
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ほ、応
カ
為
、 率
良
ぎ
T
こ
で
げ
る察ヒ
について
らして、人際は
の露出向に自分の
袴し
首織
たのではない。
お成
ヒ
ュ 1 ムの
が希望と恐縮仰の対象となる。殊
を
な形
によって、擬人科観的な神の観念を発展さ性るように導びかれたのである。
J
に表現され
4
立
、
つ工、。
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'
'
︽
レ サ i
v
き事手
きは、
は相容れない
れてきた結果なのである。以上のごときヒュ i ム
を潟察することによって一
ささぷ~
去
を
ヨ
ト
O
の中に求めら
Lて一つの
の所産の静観により不可視的かっ
に伴って、
z
るとき、
神学
京理は、
は人間関の
や︹引用@
雇
は
主
寸
、
、 万す
によれば、信仰者が神
そなえている。これは人類の
の白熱史﹄
における
に額斜しがちで
﹂とが一示される。さらに﹁宗
りも、宗教的迷信
の方が、一信持率引の関心の的である。
の陶欝﹂、﹁神秘的で不条理
により多く与かろうとする擦に探
このことは
みなす。すなわち宗教は道徳のためにも必要不可欠なもの
の性格の桓途として
の
語
L、
コ
ペ
の見解とグレア γテスの︹引用。
の発生援拠についての見解以上に、
る空
しかし、 ヒ品 I ふはこれと交?にく逆の立場を採る。
タレアンテスは祭教が一道穂の
F乙
によるよりはむしろ、﹁宗教的典礼の遵守h
等によって明らかとなる。
とする(︹引開問。
ての評器
及び
二美徳﹂
道徳の完成よりも、宗教的義務の
みなしうる宗教的行動は、選椋そのもののためにで誌なく、
によること
純念
び
、
な語晃鮮への
t
う
h
れ
た
と
考
の犯罪が迷信的教授や獣身と矛麗しない
合期待する意岡山からのものである。人々は管内選前道徳
において、
のものが﹁残虐無類の諸悪犯罪﹂
したがって多く
教的熱狂し
t議
及
-8
2
粋を
れ
永
遠
の
る
D
こうした行動の原因は、 たとえ﹁人間本性の本質的で普遍的な諸性質から発生すぬ︺ものであるとしても、それ
を鎮めずに助長するのは宗教的熱狂や迷信にほかならない。宗教に伴いがちなこうした危険な傾向を抑制し、制限
し、是正するのは、宗教それ自身であるよりは、むしろ道徳である。 道徳は、 ﹁自己の論証への変ることのない盲目
的固執﹂や﹁自己の論敵に対する変ることのない憎悪﹂といった熱狂に伴いがちな傾向を抑えることができる。なぜ
(お)
ならば、道徳は﹁各個人の特殊な立場﹂にしたがって﹁大多数の人々を極端な無頓着と無関心とをもって静観する﹂
ことを排除しうるからである。特殊性や党派性を斥けることができるのは、﹁われわれの動揺する判断を全人類の一
致 す る 是 認 の 上 に 支 え る こ と が 必 要 で あ る ( 傍 点 引 用 者 ご と み な す 道 徳 を お い て 外 に は な い 。 ヒ ュ l ムの道徳理論
における、是認の原理や道徳的判断の能力等々に関する問題は、ここで論ずべき問題ではない。問題とすべきはその
姿勢である。道徳的に、それが理論においてであれ実践においてであれ、最も大きな間違いを犯す元凶は、﹁断定的﹂
ないし﹁独断的﹂になること、すなわち ﹁非哲学的﹂ となることであるとしたヒュ l ムの哲学する姿勢である。ま
た、ヒュ l ムによると、 ﹁一一刻の道徳的思弁の目的は、 われわれにわれわれの義務を教えること﹂ である。しかもそ
の義務は﹁全人類に共通な﹂ものであり、 かつ﹁普遍的原理﹂に依拠している。と言っても、このことは、すべての
真理が道徳と関係するということではない。悟性の推論や結論から生ずる真理であっても、それが行動と振舞いとに
対して影響力を持ちえないものであれば、道徳とは直接関係のないものとみなされる。ましてや、それが道徳に悪し
き影響を及ぼす場合には、なおさらである。﹁ある命題の哲学的真理性は、 決してその命題の社会的利益を増進させ
る傾向に依拠しないとはいえ、たとえ真であるとしても危険にして有害な実践に至ると告白せざるをえないような理
論を導出する人は、好感を持たれるはずがな⋮明﹂神が存在するという命題は真であるかもしれない。 しかし、 道徳
北大文学部紀要
つd
o
o
ームの
的に悪しき実議へ
々を駆り立てる
について
なものであるかについては、もはや言及する
レ一/
γ テスとヒュ i
c タ
ム)h、
める
てとるヒヰ 1 ムの態震がどのよう
の欝係についての見解
視することはできないとしなければならない。それで
ないであろう。以上のように、
た宗教﹂
ふ
フイロぜかい二 l ムの代弁者なのであろうか。この点の検討は次章においてなされる。
一視す
かにフイ梓
で は ア イ 戸 と ヒ ナ iム
。吋対話﹂一の解釈史を握り返るとき、
るのを常とす
の ク レ ア ン デ ス と ヒ ナ iムを河内一
ミアを論破する
Pで
る解釈
でフイロ
る。また、宗教と
ヒュ 1 ムの代弁務とみなし
に依拠しているのは、 フイ
る
。
(路)
においての
る言表においてのみ、 またか
フ イ ロ が ヒ ナ iムを代表しているということ、さら
般鈴であるoN-ka スミスもそうした解釈を採っている
それが出版され
い二 i ムを代弁するのは、デミアでも、クレア γテスでもない。そうすると結局、 ブイロがヒュ i ムの代弁者なの
で中め
よりも、
人である。 ﹁わたくしが終始
にクレア γテスは、か
のあるもの、あるいは龍のもの
(釘)
一章で考察したように、 ヒュ i ムの﹁緩畿な懐疑論﹂の
8
4
同
ニ
主
うるということである﹂このことは3・B- スチ品ワ iトにおいて
の
いささかも重要でない問題とみなすことは決してできないよう
ュ l ムは、 かれの
道徳の関係についてヒュ I ムの立場を代弁しているのは、 フイロであるとみなすことができる。 ヒ
﹃歴史﹄において、 ﹁宗教は市民社会体制において、
に思われ何︺としている。かれは、宗教が﹁大衆﹂の道徳生活を支配している事実を直視し、その悪しき影響に着目
それを体系化しようとした。すなわち、
する。そうして﹃宗教の自然史﹄において、 その具体例を実証的に叙述している o かれは、宗教の道徳に及ぼす悪し
き影響を排除しうるのは、﹁人間本性﹂に根拠を持つ道徳のみであるとし、
善と悪、正と邪、美徳と悪徳といった人間の経験ないしは言語に現われる﹁道徳的区別﹂に注目し、その経験論的分
戸田)
析を行っている。それはまた同時に﹁われわれの日常生活において、われわれが人格価値とみなすものを形成してい
る複雑な精神的性質﹂の分析でもあった。かかる分析を通して、かれは﹁道徳の真の起源﹂の発見に努めたのである。
それは宗教となんら関係のないものであった。事実と観察に立脚するヒュlムの倫理学によれば、宗教において美徳
とみなされていたものは、 逆に道徳的に人格価値を形成しないものとみなされるにいたる。 ﹁独身生活﹂、﹁断食﹂、
﹁難行苦行﹂、﹁禁欲﹂、﹁隠遁﹂といった、いわゆる﹁僧侶の諸々の美徳﹂は道徳的に﹁悪徳の目録﹂の側に入るとさ
V
ヒュlムが、このような宗教の道徳に及ぼす影響
れ訴r こうした徳目を道徳的にも勧めるのは、﹁迷信﹂や﹁誤れる宗教の欺摘的こじつけ﹂であって、これらはヒュ
I ムにとって﹁醜悪﹂にして﹁非道なるもの﹂とみなされてい硲
に関して、 キリスト教がそうであったように、改宗を迫る際に生じる迫害や憎悪といった宗教の悪しき面に注目し、
宗教が人々を愛や慈善へと導びくその善き側面をさほど重親していないというB-A-Deウィリアムスの指摘は的
を得たものであろう o したがって、宗教的信仰の道徳に及ぼす効果に関するヒュlムの見解は、明らかに限界とある
種の不適切性を有しているとみなすことはできよう o しかし、こうした限界性をも含めて、 フイロの見解︹引用・十
北大文学部紀要
QU
5
と
ュ iムの﹃自然宗教に関する対話﹄について
は、ヒュ:ムの
の能力の
みなすことが
グ レ ア γテスの持の存在一説明に対するブイロの
に対して、
と崎山 i
ム
のような対応関係にのみ注目すると
-判断の中止が、われわれのもっと
さらにこうし
る﹂ものであるからして、そうし
F
る。なぜならば、 と品 1 ムは、 キリ 吋ハト教を擁護する
九︺︹引用・二一一︺は、 ヒュ l ムのそれと軌を一にしている。 また、
(︹引馬・
ために人黙の経験を趨えてなされる論証は
(但﹀
らである。
し
、
合
、
。
疑
てある決定的な結論に到達することはできない﹂とし、
、
フ
ては、
は﹁全体が識であり、不可解事
ゼあるように
C
ザ
ブイロは、﹁神
であろう。しかし、
は会⋮図的に言背しうるものであろうか。また、 アイロの
しかし、
のす
真理であると述べている︿︹引用・七
ついて﹄
ら支ず吟味することにしよう。
るか﹄及び吋必然的結合とい
とみなしうるであろうか。後者
のない﹂かっ
一惑の﹁何故
は﹁疑詞の
、
ず ﹂ 日h
d、w
Fy ヒ ナ iムの繋学原理と
J
においてヒ品 l ムを代弁しているの試ブイロであり、 その宗教に対する根本的態度試不可知論であると
も購密な探査の唯一の
訴位、
いあ
のあらゆ
に伴われねばならない ﹁絶対的必銭
る第一露出向の必然性は、議設柏戸器開も直観的註現も必擦とし
とる
、﹁人性議い
L す
伐と
結論せざ
し説、
L、
うと
命で
である
し、こ
において、 い同品:ムが論証しようとしたことに、
,
;
Jv
てで
しようとしたことは、﹁原田闘の必然憾に関してなされての
~'!,
れることもない﹂哲学の
な
、
ら
も
8
6-
と神
った。 ヒュ i ム以前のひとびとは、﹁およそ存在しはじめるらのは存在の
﹂うし
Z
R
治
、
って、事物の始一克に
ヒ
品 i ムは、
れ
、
ニL
問
」さい
:
s
題あ
解
き
得
る合な
か
て、この命題は﹁なんらの証拐を与えることも、あるいは
とした。さらに、この震則に
ところ、が、
し
ヲ・
ないものとし
i
;
i
な
i
寸
、
即
、
性﹂も﹁形而上学的必然性﹂もないとし、さらに、 ﹁われわれが容易に考えうることは、 原因あるいは産出原理とい
ヒュ l ムはフイロのように ﹁自明な﹂存在、 即ち論証の必要のない存在を認めていな
う特殊な観念とある客体とを連結させなくても、ある客体は今の瞬間は存在しないが次の瞬間には存在するというこ
とであ勾︺と主張している。
ぃ。存在し始めるものは原因を持たねばならないという先の原則を﹁習慣﹂あるいは﹁経験﹂の所産であることを示
そうとしたのがヒュ I ムである。﹁他の客体を生じさせることなくその完き完全性において僅少の時間にせよ存在す
る客体は、その単独の原因ではなく、その静止の状態からそれを動かし、それが秘かに持っていた活動力を発動せし
める他のなんらかの原理に援助されているということは、自然哲学と精神哲学の双方において確立されている根本原
則である o﹂ここで問題にすべきは、原因の必然性に関するヒュ l ムの認識論の正当性ではなく、むしろその結論であ
る。ヒュ l ムによって第一原因の不可欠性は否定されている。それは同時に神の宇宙論的証明の否定をも意味する。
しかし、ヒュ I ムによって否定された神の存在証明の一形式が、フイロによって提出されている(︹引用・七︺﹀この
点から、フイロは首尾一貫して全面的にヒュ l ムを代弁しているとみなすことはできないとしなければならない。
)o
しかし第九章で、デミアは理性の
ところで、﹃対話﹄において知的首尾一貫性を保持し続けたのは誰であろうか。デミアは第一章及び第三章で、神
学上の諸問題における理性の無能性を強調している(︹引用・二︹引用・十二
助けによって神の存在とその本性を直ちに定義することができると宣言している (︹引用・十四︺﹀。明らかに、デミ
アは知的首尾一貫性を欠いている。クレアンテスは、知的明敏性を欠いているとする、 N-K。スミスの指摘は正し
いとしても、かれの論証が首尾一貫していないという指摘は誤っている。クレアンテスは経験と理性を根拠として、
意図による神の存在証明を首尾一貫して論証しようとしている。この点で、全体としてクレアシテスの知的首尾一貫
北大文学部紀要
-8
7-
ヒナ i Aの﹃自然宗教に関する対話﹄について
ヒュIムとプイロを同一視する解釈
性は保持され続けたとみなすことができる。これに反して、 フイロは第十二章で、かれがそれまでに一貫して主張し
続けたことに反する譲歩を為している(︹引用。二三︺)。 この譲歩をめぐって、
(川)
は三様に別れることとなる。その一つは、 T-H・ハックスレIにみられるように、フイロの譲歩はヒュ l ムの宗教
に対する最終的態度の表明として受け取るべきであるとする解釈である。この解釈によれば、﹃宗教の自然史﹄にお
ュ l ムは、神の存在や知的本性と人間のそれとの類似性を認めてい
け る ヒ ナ lムの結論とは相容れないとしても、 ヒ
るとみなさねばならない。既制宗教の道徳的堕落を非難し、他に改宗を迫る際の熱狂に伴う道徳的危険について嫌悪
の情を明確に披涯するヒュ l ムであるが、 しかしヒュlムはそうした堕落と危険を伴わない﹁真の宗教﹂を熱望して
ュ l ムの穏健な懐疑論という哲学態度に反すると
いた、ということになる。しかし、このような解釈は、第一に、 ヒ
いう点で、首肯することはできない。さらに第二に、この解釈の立場からはグレア γテスの方がヒュlムに近いこと
になり、 フイロをヒュlムの代弁者として位置付けることが不可能になるであろう。したがって、この解釈からヒュ
-ムとブイロを同一視することはできない。
プイロの先の転向は、 ﹁信仰と啓示とを尊重するために
その第二の類型は、 N-K ・スミスの解釈である。﹃対話﹄において演じられるフイロの一貫した役割に注目し、
スミスはヒュ l ムとフイロを同一視する。この立場からは、
(川)
なされるしきたり通りの譲歩﹂あるいは﹁理性の無力がまさに啓示と信仰をより必要なものたらしめるとするしきた
(同)
り通りの言明﹂とみなされる。すなわちフイロはベ lコ γからの引用とみなすことのできる﹁短小な哲学は人聞を無
Q
まさに、無神論者達は神は存在しないと内心秘かに思うだけでは満足せずに、やたらその不信
神論者にするが、偉大な哲学は宗教へと改宗させる﹂という言葉の解釈をめぐって、当代の無神論者達は二重の愚行
を重ねているとした
-8
8-
仰を世間に触れ諮るという﹁無分部いと﹁粗窓﹂と
している。宗教の
るとし、
るブイロの ﹁勝利の
によって
の海であきらか
ことによって、信部を道徳生活
によって終了し
ったく無
﹁神の研究﹂
そうして翠演と経験とに明らかに反す
スミスの解釈辻、
っているとみなさざ
の暴力
一視する解釈は、第一二の裂であり、
いのである。
づいて﹄
に根拠を有するとされ、
に支持されうるであろうか。
る
。
(羽)
も、その第十
︿︹引用@
;ふもこの世間間知に従っていた。スミスはま
の拠り一般を奪うことは、 ひとまず別なことと理
の拠り所としている人々の感情を否定すること誌できないとみるべきであろう。怒らに、信仰は議徳生治の根本家理
ることと、人々からただちに
章と第十二
よる実質的な対議誌、第十章に
る。これらは一つの散間関知であり、スミスによると、
たりえないと哲学的に
解すべき
た、三人の
ているのであって、
スミスの解釈はいい品、 iムの起の著作との
の一小花﹂とを一証明しょ
、、(山川)
る罷りでの﹂という践定付きであれ、
の一 訟の
して最も確実な鍛拠は、信仰と神的潜⋮那とである﹂とされる。さらに
によっ
よれば、
であって、 スミスの解釈は、
以上のようなスミスの解釈に持う難点を克譲し、
ームが厳密な詳説
S
ヲー
視するかのごときである。こうした傾向は、す砂丘・ジエソ γブにおいて、 より一
しかし、
一意におけ
るいは﹁神学﹂捻、
さらに、﹁しかし、その
で
、 ヒ品 I ムは、 ﹁信仰﹂は
﹁奇蹟﹂
カ
ミ
の
E
ニ
た説明を下そうとするならば、こうした叙述をも無視せざる合えないこととなる。これ辻あ
し
それは3 ・ノグツシのによって提出されている。 ノグソ γの解釈の結論を先数りしていえば、
北大文学部紀要
れ
ヒ
ずるように決断さぜ
と
ヒェ iム
の
によって示そうとしたことは、
について
つまり、
る謹の
のうちでとュ:ムが出回己岳
、じ品 i ム議身は、それが
ノクソ γによると、
の議カを謡えた問題である神学的論翠に閣内わることは無益な試みであることと、
あることであっ
あると考えていた﹂のである。この結論な導くために、 ノグソ γは
{附﹀
﹂とは、 明らかに無識なことではない﹂のであって、 ﹁ありていに
さらにそうした神学的論註を蹴断念すベ
必 品 舟 A﹄
の筒一般であるとして、ブイロの有神論はの上でのことにすぎな
クレアソ
身の本心を抜擢している唯
ている。だが、 ノ タ ソ ン の 解 釈 は 、 全 体 と し て 、 に お い て ヒ ナ iムをよりよく代弁す
はフイ口で
において
てい
テスであるとみなしている。この点で、この解釈は、 ヒ品 I ムの本心を
えられるであろ
の矛最右含んだものとなる c 伺
の判定によっ
る解釈がある
したように、 い}ナ iムは、人聞の
は誰れもいない
に開倒して、唯⋮主張しうる立場は不可知論である
に お い て と ナ iムを代弁す
において論じられ
るのであろうか。それはノグソ γの解釈の
ある、が、全体としていて7iムを代弁しているのはグ νアγテスであるという、
教に、こうし
ムノ。
ノクソシは、 ヒュ 1 ムの
ヒ品 1 ムは、 ﹁理性的にし
れることはできな
かつてある惑然作毘の究極原罷た確定し、あるいは
言
。
し
仏,
と﹁経験﹂ の所鑑であるとしていた。したがって、この様躍に従、がうと
におけるとュ i ムの教説会}論議としている。先
解釈に反対している。 ノグソ γによると、
が、この解釈は、
G
る
L、
、諮問米関係における結果を純納付にアプリオワな根拠から推察することはできないとしなければなら
沼山果関係に認する認識のすべては
き、人関の
。
〉
ない。さらに、この原理を離れてなされる事物の木繋に寵するどのような推論も、決し
いとされる
し
宇宙におけ
京国
ょうとし
は存しない
のであり、
の根元と京理は
の議味さと弱さ
ること
宗教的不
の作用に組問する懐続的誇襲爵﹄に
は、ことごとくグレアンテスの
み出すかの力の作用令直接的に示そうとし
そのよ
(湖)
して、そこで
の帰結である﹂としている。これは、
i ムの結論で
Pであり、
て自然神学の時間絡は答えられないの
におけるヒナームの代弁者はフイ
れてい
と研究から全磁的に閉め出されているいとみなさねば
、が、あらゆ
おける、いい
る際のツイ戸のそれずである。 したがって、
して採りうる最終的諮肢は不可知議であるとされる。
ま
、人々はその無誌な論争におい
ってい
﹄における論議は無益なものになってしまうとし、
るならば、持故にか二十数年
とするならば、
のないもの勺あるというの、がヒナ iムの見解であ
しう
、 ヒ ナ iムの哲学原理に
これに対して、 ノクソ γは
可知論が唯
ニ
.
:
t
の上のこと
ろ、逆の結
がない﹂ と発
Pでるるとはしない。
に示した解釈が導出される c
い時を無駄にし、
の及び
の と ナ iムの訳
る。ヒュ i ムは伺かより積極的な主
ノグソシ
ことはできない
る論議を試み
いった、 人需の
に器開、ナるとナ iムの相根本的態度、を表明するものとして、
を完成さ吃たのかを十分
た山はずである。
ている中諮問問題
述を引用している。 ﹁世界の起源あるいは叡智的体系又は精神の領域
まった
(悶)
る論争は・:
るものがブイ
に制内達することはないであろうよこの引用を論拠として、
ノグソ γ はこのたぷか
らかの一定
しかしながら、
て
〉
の
弘一部を導き出じている。ノクソンによれば、 ﹁神学に
北大文学部紀要
一9
1-
の
i
J為
野
け
し
て
て
ムの
と ュi
について
ある﹂とされ
ブイロの
に懐疑論も独断識もともに、神的精神と人間同のそれとの
いるのはアイロであるが、﹁フイロの論証はヒ aiムのそれとは
それはた
れる事柄
ゑ旦
の霊会の
﹁議健な
1 ム会してかれ
い楢まずに生活するこ
の茨の生い茂った道は、
て、以後それ以上に
を発見するためのいかなる方途も人掃の精神には開かれていない﹂こ
ることがでをないことを議註するためのものである。しかし、ヒュ l ム
極的懐疑論者﹂のもの
問題に
に知り拝ない
であり、 ﹁地科学的思弁の領域におけ
とを示している。まさに、
て、メグソシは
そこでノグソシは、
視することであり、
に難点のあることは先に考察し
ル﹂ヒュ i ム
しろクレアγテスであるとする。こうした解釈の根拠
における﹁わ
におけ
による
と比較検討するという方法に従つ
しているというべきであ
しかし、このよ
ヒュ 1 ムの他
ことであっ
の状態について
ているのは、 ブイロであるよ
らを追放したカルグィニズムの領地へ
とは、﹁懐疑的手続きの犠致﹂である。
が以前
においてとュ 1 ム
m摂親
となっているのは、 ﹃領m
ブイロの懐疑議を﹁全語的懐疑論﹂と
た還りである。ノクソ γは閥的ら
以上、 吋対話﹄
きであろう。こ
る最終的態度がどのようであったかな決定することはでき
の誰れとも金一閥的に間同一視すること誌できないということである。
てヒュ l ムの代弁者を確定しようとする試みは、 いずれも失敗に終る
ヒュ:ム
t
t
しうる
92-
v
'
J
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ザ
:
:
:
>
では、どのような方法に従うならば、 ヒュ;ム
この方法によって、
に関する結論は、 じナ iムは三人
したがって、
G
のであろうか。また、それはどのようなものなのであろうか。
ない と す べ き で あ ろ う
の
る
yプスヘ﹂
この方法によってそれを確定することはできなかっ
と題する前文が付せられている。 そこでヒュ 1 ムは、 問題を立て、
それを一貫した論証によっ
まさにこの ﹁適切な均
を叙述するにふさわしいからである。にもかかわらずヒュ l ム は 対 話 と い う 構 成 方 法 を 選 ん だ 。 対 話 は 、 対 話 者 の 人
の構成方法を採用したであろう。すなわち、 ﹁的確にして筋道のたった論証﹂ のほうが、対話よりも一つの思想体系
衡 ﹂ を 破 る こ と に な る で あ ろ う 。 さ ら に 、 そ う し た 設 定 を は じ め か ら 意 図 し た な ら ば 、 ヒュlムは対話ではなく通常
ことである。すなわち、﹃対話﹄においてヒュ I ムを全面的に代弁する者を設定することは、
成功させるためには、 おのずから制約が伴なわざるをえない。それは﹁話し手の聞の適切な均衡を保たせる﹂という
いう論題が、対話という構成方法を採用するのにふさわしい主題であるとしている。しかし、この方法による叙述を
て叙述する方法と、対話によって叙述する方法との長所と短所とにふれている o そうして、さらに、 ﹁自然宗教﹂と
りヘルミ
ヒュ I ムはそもそもはじめから、 自分を代弁する対話者を設定していないからである。 ﹃対話﹄には﹁パンピルスよ
た
。 何故であろうか。 この方法に欠陥があるのであろうか。 まさしく方法に欠陥があったのである。 なぜならば、
宗教に対する最終的態度を確定しようと努めてきた。 しかし、
﹃対話﹄における三人の対話者の原理をヒュlムの他の著作における原理と比較検討し、それによってヒュ J ムの
~、
数、それぞれの役割の設定等、構成上における著者の自由裁量の余地があること、読者への著者の一方通行の説得と
北大文学部紀要
-'93-
-'-
-ふの明自然宗教関にする対話 bについて
っている。しかし、以
によれば、
かつ反論することに
登場人物の伎格
の主張を
る試み
に代弁する
においてと ai
の内密的長一昨で
であると同時に、
を選けることができるのみ
の主張の表現の
ームはこの
るからである。 このような対話という形式に伴う外部約長所は、 スミス
殺るという﹁溝錦の
したのではない。 品 ワ オ ァ ト 宛
におけるいい品 1 ムの﹁匿名性いをたかめるの
いう不都合を閣議できること等
が指摘するように、
にのみ注河口して、
対話という構成方詮は、
よって、論献にナ γ々γ スの
の様相個を自然かっ
み出す携ともなる。これ
の多様性誌、
厳しく吟味するのに役立つのみならず、新た
たとすべき
においてとュ 1 ム
ろう。したがって、
ームはこ
に代弁する者の
にあるとしなければならない。
ヒ品 1 ムの ﹃対話﹄
りもはるかに
に関する考えうるすべての方法令
のであろうか。あるいは、
ないのであり、代弁者を確定することによってヒナームの宗教に対する鍛終的態度を確定し
にも失散する
ところで、 と品 l ムは対話によってどの
たより体系的な考察である。しかし、カシトはそ
と
しかも出寂されなかったドイ
しえないことが}論証した。それ拭ヒヰ i ムの
は、どのようなあのでるるとみなすべきなのであろうか。カ γトは、神
、それらのどれもが神学
あり、神学と哲学
定通して、
9
4
作
り体系的であるかではない。明らかにカントの方がいい
になしたのではない。むしろ、 カγトは強い影響ないしは刺激を、
込
よ
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ず
つ
ヒ
ツ語訳を読むことによって受けたのである。問題はど
ら
五
も
ま
i
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3
ま
、
し
、
い論理と宗教
﹁話し手の
しろいい品 1 ムであ
る公平無私な態撹を盤持していた
ったのは、 カγトであるよ
問題を立て、
られる
に長所に変ずる。とュ 1 ムは
これに反して、﹁さまざま
、宗教といったさまざまな観点と方法によ
しえないものた排除すること
と公一千無私なる態度を宗教に対し
ュームよりも体系的である。しかし、 カγトの方がよ
ることはできない。
た考察によっ
る場合には盟所
とかい
に伴う懇一段は、この
る。体系誌にはある種の欠路、が伴う。それ
にす
の適慢な均衡を保た必
して得られ
できた。あるいは、宗教に関す
るかもしれない。
系化によって排諒される開題安も考察するこ
る対話
であり、
において、体
の最も竪屈な支柱いであり、
る必要のないほどに﹁重要な﹂るかもしれない。またそれ
の最も確か
﹂
明る関
ることができるかもしれない。しかし、神の
言
「性
の摂議﹂であり、
た盤固な決建的論争の終結は存しないということであった。神の存在の余地がないほど
L
についての
のである。そうして、こ
ζν
の原理と道徳
弓
之
、 U
こ
われの一一切の
そうし
の終結に
のことは同時
の道穂的議性令推論し、額控によって人間の道徳
る。ヒ品 l ム拭﹁対話﹄においてこの点を明らかに
の
﹁片時も思考と一腰想から品開くことのできない唯
北大文学部紀要
瞭、す
る
存在についての
のこと
けでん
ら
思考の不明夜性と一小磯突註とを明らかにしたのである ο
て人
て「問
、不、理
持落、性
的実、が
属な、か
十主いっ
、問て
わ題な
9
5-
か
神
の
の本
「る
務、な
台、ん
な、ら
」か
真の
理
で
しw
の
し
~~工
ヒ
ュ lムの﹃自然宗教に関する対話﹄について
論証ともなっている。したがって、 ﹃対話﹄ は宗教に関するなんらかの決定的結論を導出するためのものではない。
それは宗教に対して採りうる論証の可能性と不可能性とを鋭く分析したにとどまり、宗教に対してどのような態度を
採るかの選択を読者に委ねているのである。 したがって、 ﹃対話﹄によっては、 ヒュ l ムの宗教に対する最終的態度
を明らかにすることはできないとしなければならない。
最後に、 ﹃対話﹄におけるフイロの最終の発言とヒュ l ム の 関 係 に つ い て 考 察 す る こ と に し よ う o ﹂の考察は、
ュl ム の 経 験 を 超 え た 事 柄 す な わ ち 超 越 的 な 問 題 に 対 す る 態 度 を 明 ら か に す る こ と に も な る で あ ろ う c ﹃奇蹟につい
て﹄は、ヒュ l ム が は じ め て 世 に 問 う た 宗 教 に 関 す る 論 考 で あ る 。 そ こ に お い て ﹁ 奇 蹟 ﹂ は ﹁ 神 の 特 殊 意 志 あ る い は
、、、、、、、、、、、、、、、、、、(出)
あ る 目 に 見 え ぬ 発 動 者 の 介 入 に よ る 自 然 法 則 の 違 背 ﹂ と み な さ れ て い る 。 ヒ ュ l ムの哲学原理に依拠するならば、古京
実をそれとして確定する究極の規準は経験と観察とであり、その明証性は蓋然性の域を出ない。したがって、ある事
象が奇蹟であるか否かもその事象の蓋然性の度合によって決定される。 人聞が死ぬものであるということの蓋然性
は、死人が匙えるということの蓋然性よりも大きい。しかし、こうした事象が生じえないことを論理的または経験的
に絶対的に証明することはできない。 つ ま り 奇 蹟 の 不 可 能 性 は 論 理 的 に 論 証 で き な い の で あ る か ら 、 そ の 論 理 的 可 能
性は否定されないままにとどまることとなる。またその経験的不可能性も経験的に一証明することはできないのである
から、奇蹟が生じうるかもしれない経験的可能性は依然として残される o 言明できるのは、奇蹟がこれまでに存在し
な か っ た と い う こ と だ け で あ る o そ の こ と を ヒ ュ l ムは四つの理由を掲げて論証している。 結 論 を 先 取 り し て 云 え
ば 、 ヒ ュ l ム は 奇 蹟 が 宗 教 の 正 し い 基 底 と な る 力 を 持 ち え な い と 考 え て い た と い う こ と で あ る o したがってヒュlム
は常に宗教の外に身を置いており、 ま た 信 仰 を 自 分 自 身 の 道 徳 生 活 の 原 理 と す る こ と も な か っ た の で あ る o
-9
6-
ヒ
ヒ品 i ム
﹁お惑な行為の
叫人間本位
いは卑小枝につい
い
品 l
る
﹂
。 い
(討)
そ
有穏な行為は、それが快楽念生み出すが故に、家
る。脱出えば、
れを否定する
のへの関心に椴ざす問題である。
ヒュ l ム
に及ぼす嬢住は依然とし
を黙らせ、 ﹁あらゆる種類の
の問題としては
のツイロの言表
の道徳生
できなか
でま
w
t工
f、しo ヒナ iムは宗教が
への愛の確か
に快楽を感ずるのであって、
て、た品;ムは次のように
ることが
の道徳生活を誌記の哲学原理に従がって維持してい
て﹄にそのもっとも議本的な態震の
た他者の賞設を得るが放になされるとす
ま
う場合、﹁わたくしは友を愛するがゆえに、
(出)
い上がった富擢
して明確に認識してい
しかし、同時にかれは、 ﹁宗教の
く﹁きわめて
を原理とすることを、
る実践哲学者であって、 神による応報を念頭にお
に友会}愛するのではないー一。
ムは﹁徳への愛﹂
に基づくことや
自身では
永遠に阻止するいことを震ってい
(凶)
の と
、
故 し
その原理
のである。
のでは
る実践哲学者と品 i ムが、
きであろう。
立
、コ£、。
ナ'戸七 1V/1v 家たそうした問題誌いいュ i ムの
っているかで
-97-
て
る人々の存在安無視してはいない。かれが拒否したのは、
いない﹂ことな、
ことであっ
の枠組合}超えてい
ることができる。
てどのよ
の
のであるに
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ていることや、告持
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ヒュ
て採った態震の
及びえないもの
宗教に
ない。問題は、
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ロ5rmσtrREHE krm列目立岡山O口)においても同様である。
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で 、 先 の 表 現 を 採 っ た 。 こ の 点 は ド イ ツ 語 訳 (C-CR1kr日
も の で あ る 。 し た が っ て ﹁225ZH口 忠 弘 己 周 到 な ﹂ と の 対
は、グレアンテスの性格付けにおける﹁田口2gg﹂に対応する
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U・ω芯 ・ フ イ ロ の 性 格 付 け に お け る ﹁nR己
ヒヰlムは、﹁真理が確立されるかもしれないなんらかの新
しい方法﹂を模索する。そうして、およそ十八才の頃に思考
の新局面が関かれたように思われ、それが若きヒュlムを有
頂天にさせ、将来の仕事にしようとしていた法律を放棄し、
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学者ないし哲学者として世に出ることしか考えることができ
なくなったことなどを伝えている。
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﹁八月二十九
日、木曜日、送葬の儀は車軸を流すような雨の最中に執り行
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われた。多勢の人々が翠デイビット通りに集まり、送葬を見
守っていた。その中の一人は、﹃まさしく、かれは無神論者
であった﹄との評価に対抗して、﹃そのようなことは問題で
北太文学部紀要
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