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トム・ストッパードとポストモダン
田尻, 芳樹
一橋論叢, 119(3): 362-377
1998-03-01
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://doi.org/10.15057/12006
Right
Hitotsubashi University Repository
一橋論叢 第119巻 第3号 平成10年(1998年)3月号 (56)
田 尻
芳 樹
以来の彼の作晶の多くが、様々な意味でポストモダン的
トム・ ストッパードとポストモダン
﹁ストッパードの﹃アルカディア﹄は、ポストモダ
し彼はこの作品で初めてポストモダンになったわけでは
モダン的特質を顕著に表していると言えるだろう。しか
う仕方において、ストッパ。ードの他の作晶以上にポスト
うに書き始めている。確かにこの作晶は、特に歴史を扱
は畑眼にも﹃アルカディア﹄︵一九九三︶の劇評をこのよ
ドの演劇よりも、むしろ工ーコ、アクロイド、バイアッ
^1︶
トの最近の小説に依拠している。﹂マリリン.バトラー
ピンター、シェーフ71、フレインや以前のストッパー
歴史にこだわっている。そのポストモダン・スタイルは、
の前に書かれた﹃パロディの理論﹄︵一九八五︶では、
ードに関してもまったく触れられていない。これら二著
なぜか演劇についての言及はきわめて少なく、ストッパ
など幅広い領域から豊富な具体例を挙げている。.しかし
文学はもちろん、思想、建築、美術、写真、音楽、映画
二著において正面からポストモダニズムを論じ、その際、
︵一九八八︶、﹃ポストモダニズムの政治学﹄︵一九八九︶の
所論である。ハッチオンは﹃ポストモダニズムの詩学﹄
分析する上でとりわけ有益なのがリンダ.ハッチオンの
数あるポストモダニズム論の中でも、ストッパiドを
趣向に染め上げられているのだ。
ない。出世作﹃ローゼンクランツとギルデンスターンは
﹃口とギは死んだ﹄が二十世紀のパロディの例として挙
ン・コメディである。それは軽妙、快速、文学趣味で、
死んだ﹄︵一九六六 以下﹃口とギは死んだ﹄と略称︶
362
のポストモダニズム論が演劇にも相応の関心を払づてい
じられてはいない。しかしストツパードの作品は、彼女
ディになっていることが指摘されているものの、深く論
げられ、さらに﹃茶番劇﹄︵一九七四︶がパロディのバロ
られるポストモダニズムは従って、当然パロディを特権
出した点にあった。これとまったく同じ性格規定を与え
れた侵犯という両義性を持つ︶という新しい定義を打ち
にアイ回ニカルな距離を取る形式︵政治的には、公認さ
ディ観を捨て、先行作品に対して共犯関係を結ぶと同時
︵2︶
たなら、必ず大きく取り上げていたはずだと思われてな
的形式として持つことになる−﹁パロディは完壁なポ
ストモダンの形式である﹂︵、=︶。ここでハッチ才ンが
らない。
ハッチオンのポストモダニズム論の独自性は、パロデ
規定する、﹁ポストモダニズムは、それが挑戦する概念
面を浮かび上がらせた点にある。彼女はまず次のように
世界、政治から自らを閉ざし、エリート主義に陥ること
の断絶を目指して歴史的様式を徹底的に排除し、純粋な
バウハウスを典型とする建築のモダニズムは、過去から
モデルとして念頭においているジャンルは建築である。
そのものを利用すると同時に濫用し、定着させておいて
︵3︶
転覆する、そんな矛盾した現象である。﹂つまり、それ
になった。それに対し、チャールズ・ジェンクスやパオ
ィや歴史への態度を重視しつつ﹁共犯的批判﹂という側
はつねに共犯と批判というパラドクシカルな二重性を帯
ロ・ポルトゲージらポストモダニストは、過去の様々な
時代の様式を引用することで歴史と積極的に関わろうと
形式と機能美を追求した。その結果、それは歴史、現実
びているのだ。従って、前者だけを見て保守性や非政治
性をあげつらうのも、後者だけを見て既成概念の壊乱者
する。この場合の引用とは、ジェイムソンがポストモダ
よれば共犯性と同時に立派な批判力をも備えたパロディ
一見単なるパスティーシュに見えるものもハッチオンに
的で空虚なバロディとしてのパスティiシュではない。
ニズムの特色として挙げた、喜劇性、風刺性を欠く中立
とみなすのもともに片手落ちということになる。こうし
たポストモダニズム観は彼女のパロディ論から直接引き
出されている。﹃パロディの理論﹄の眼目は、二十世紀
芸術によく見られるようになった種類のパロディにも対
応するために、従来のような醐笑的意図を重視するパロ
363
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h ・ - F ;t ;
h A ;
( 57 )
平成10年(1998年)3月号 (58)
ということになる。︵以下、本稿ではこの拡大された意
味で﹁パロディ﹂という語を使うことにする。︶またバ
する議論1をふまえつつ、これからストッバードの
﹃茶番劇﹄と﹃アルカディア﹄を論じてみたい。しかし、
その前に、ハッチオンが指摘しているポストモダニズム
のその他の性質−彼女の議論の独自性がそれほど目立
ロディは、芸術の内部での関係を指示するという意味で
自己回帰的な形式だが、ポストモダンの建築では、それ
たない性質でもあるーのうちいくつかを抽出し、スト
史記述的メタフィクシヨン﹂1引き合いに出されるお
用する。ポストモダンの文学を最もよく特長づける﹁歴
存している。ハッチオンはこうしたモデルを文学にも転
モダニズムが全体を秩序づけ統合するマスタiナラティ
止揚されないまま共存するということは、一般にポスト
向が共存することを見たが、このように矛盾する要素が
自己回帰的形式と、歴史や現実世界といった外部への志
先にポストモダニズムにおいては、パロディのような
ッバードに当てはめてみることにする。
は外部、つまり、歴史、現実世界、政治︵もっと一般的
びただしい数の具体例からほんの一部を示せば、工ーコ、
ヴを拒否することを示唆している。つまり一義性、完結
に言えぱコンテクストと関係性︶へと開かれる傾向と共
ファウルズ、ドクトロウ、アクロイド、バンヴィル、ラ
︵4 ︶
シュディらの川説 は、モダニズムを継承して自らの
性、閉鎖性、目的論、階層秩序などを嫌い、脱中心化や
的﹂︶現実世界や政治に積極的に関与するのである。そ
は主題としてそれらの周縁性を扱うことはないものの、
頭はポストモダニズムに大きく寄与した。ストヅパード
年代以降の黒人、女性などマイノリティー1−周縁性の台
ョン﹂︶一方、歴史を問題にすることで︵←﹁歴史記述
してその際、過去の出来事が歴史的﹁事実﹂として物語
んだ﹄で、﹃ハムレット﹄の中の脇役二人を主人公にし
明かな脱中心化、局所性への好みを示す。﹃口とギは死
て中心人物たちを背景においたり、﹃茶番劇﹄で、ジヨ
構 、 歴史/テクストの 境 界 が 問 題 化 さ れ る の で あ る 。
概略である。この議論−とりわけパロディと歴史に関
以上がハッチオンのポストモダニズム論の核心部分の
化されるプロセスそのものが前景化され、また事実/虚
多元化に向かうのである。そして言うまでもなく、六〇
虚構性を問う自己回帰的形式を持つ︵←﹁メタフィクシ
第119巻第3号
一橋論叢
364
h y' - F TI ; h:e/:/
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( 59 )
イス、ツァラ、レーニンという歴史上の著名人の﹁茶番
リー間の結婚のようなものだ﹂と言っているのは示唆的
︵6︶
領域間の相互浸透は、ポストモダニズムの特質として
である。
の︶人物のいい加減な記憶に従属させたことは、そのよ
しぱしぱ指摘される、高級文化と大衆文化の融合につい
劇﹂を、ヘンリー・力ーというひどくマイナーな︵実在
い例だろう。どちらの場合も通常の中心/周縁という階
パードも積極的に大衆文化と慣れ合う。﹃本物のハウン
ーコの﹃薔薇の名前﹄︵一九八O︶が典型である。ストッ
ても当てはまる。小説に関して言えぱ、ボルヘス、神学
いう枠を越えたパフォーマンス、歴史や伝記と混ざり合
ド警部﹄︵一九六八︶、﹃ジャンパーズ﹄、﹃ハプグッド﹄、
層秩序が崩︷れている。 。
︵5︶
うフィクション、実践と融合する理論︵たとえばパルト
論争その他の高級文化のみならず、探偵小説という大衆
やデリダ︶などを例に挙げている。ストッパードはベケ
﹃アルカディア﹄はどれも推理小説的な側面を持つし、
脱中心化はまた領域間の越境をもたらす。各領域の統
ソトのように散文と演劇という異なる大ジャンルを奥深
﹃ジャンパーズ﹄と﹃茶番劇﹄にはストリップ・シーン
的ジャンルをも組み入れて自らベストセラーになづた工.
いレヴェルで交錯させることこそないものの、非常にし
があり、﹃茶番劇﹄や﹃本当のこと﹄︵一九八二︶ではク
合性が緩むからである。ハヅチオンは、美術館や劇場と
ばしば︵パロディを通して先行文学と戯れるだけでな
ラシック音楽と大衆音楽が等価に用いられている。また
ハッチオンが論じていない点だが、こうしたエリートー
く︶文学以外の異質な領域と戯れる。﹃ジャンパーズ﹂
︵一九七二︶では、道徳哲学と器械本操が、﹃ハプグッド﹂
マスの境界侵犯は、エリート、特にアカデミズムの内幕
ッジのキャンパス・ノヴェルや筒井康隆の﹃文学部唯野
の俗物性を暴露する傾向を生み出す。デイヴィッド・ロ
︵一九八八︶では物理学が、﹃アルカディア﹄では数学と
グリット風に﹄︵一九七〇︶は絵画と、﹃良い子の,こほう
ぴ﹄︵一九七七︶は音楽︵オーケストラ︶と戯れている。
5
しぱしぱ同じ手を使う。テレピ作晶﹃故意の反則﹄ 36
教授﹄︵一九九〇︶がすぐ思い浮かぶが、ストッパードも
物理学がそれぞれ重要なモチーフとなっているし、﹃マ
この点、劇作家自身が、﹁私の芝居で起こるのはカテゴ
︵一九七七︶の倫理学教授はこっそりポルノ雑誌を見るし、
﹃アルカディア﹄と﹃インディアン・インク﹄︵一九九五︶
* *
風刺されている。また、これを文学制度そのもののポス
に起用した。彼の演技は成功だったが、出演料などをめ
軌めていたヘンリー・カーという男をアルジャーノン役
一九一八年、ジ冒イスはチューリヒでワイルドの﹃真
トモダン的自己言及と捉えれば、﹃本当のこと﹄で演劇
ぐりて二人はすぐに争い始め、裁判沙汰にまで発展した。
−ラジオドラマ﹃藩王国にて﹄︵一九九一︶のリメイク
界の内幕が扱われているのも同じ趣向と考えてよかろう。
︵ジ目イスは﹃ユリシーズ﹄第十五挿話に力1を飲んだ
く表していると言えよう。﹁私の目的はいつも思想劇と
トッパードの次の発言は、こうしたポストモダン性をよ
特質の一つと言ってよい。﹃茶番劇﹄を書いた直後のス
しろ、遊びと真面目さの不可分性はポストモダニズムの
では決してない﹂︵、ミー強調原文︶と述べている。む
芸術における真面目さと目的を排除することになるわけ
クロノロジーのずれもあるが、すべては力1のいい加減
緒に演じさせる。実際に三人が交渉した形跡はないし、
人物に﹃真面目が肝心﹄を下敷にした茶番劇を自分と一
チューリヒを回想し、危うい記憶の中で三人の歴史上の
実に基づいて書かれている。老いた力ーが一九一七年の
時期のチューリヒにはツァラとレーニンもいたという事
ストッパードの﹃茶番劇﹄はこの事実、および大体同じ
くれの兵卒として登場させることで欝憤を晴らした。︶
笑劇の結婚を遂行することだった。︵中略︶ぞれは私自
な記憶に発しているのだから問題にならない。
、 、 、
身の人格の二つの面を代表している。つまり、軽薄さで
全体はほぽ﹃真面目が肝心﹂のパロディになっている。
︵7︶
た軽薄さとでも言えるだろう。﹂
ジャックに相当し、それぞれセシリー︵レーニンの助
力ーは︵彼が現実に演じた︶アルジャーノン、ツァラは
中和された真面目さ、あるいは真面目さで埋め合わされ
ロニーと遊びを取り入れることが即、ポストモダニズム
最後により一般的な点に関して。ハッチオンは﹁アイ
面目が肝心﹄を上演することになり、イギリス領事館に
*
ーでは文学アカデミズム/ジャーナリズムの俗物性が
平成10年(1998年)3月号 (60)
第119巻第3号
一橋論叢
366
の才を堪能することができる。シェイクスピアや﹃ユリ
面目が肝心﹂自身が風俗喜劇のバロディなのだからこれ
手︶、グウェンドレン︵ジ目イスの助手︶に目分の本性
で愛を受け入れる。力1とツァラ、ツァラとジ目イス、
はパロディのパロディになっていること−パロディさ
シーズ﹂のバロディも含まれていること、そもそも﹃真
カーと︵レーニンを代弁する︶セシリーの芸術の意義を
れる﹃ユリシーズ﹄の一部もまたそれら自体がパロディ
を偽って求愛する。二人の娘はそれぞれ自分の思い込み
めぐる論争、革命が勃発したぱかりのロシアに向かおう
作品を潮笑するのではなく、コンテクストを外して取り
だーを考えるなら、﹃口とギは死んだ﹄で﹃ハムレソ
ることもある。︶そこでブラックネル卿夫人に相当する
込んだ上でアイロニカルな距離を取る︵共犯的に批判す
とするレーニンの行状の記録−彼の書簡、演説、夫人
ジョイスは、︵﹃真面目が肝心﹂で家政婦の小説原稿と赤
る︶という限りにおいてポストモダン的と呼ぶことがで
ト﹄と﹃ゴドーを待ちながら﹄をパロディしてデビュー
ん坊が取り違えられたのと同様︶自分の原稿とレーニン
きよう。しかし、﹃茶番劇﹄は﹃口とギは死んだ﹄の単
の回想録の抜粋による1などをはさみながら劇は進行
の原稿が取り違えられたことを明るみに出させる。これ
なる延長というレヴェルを越えて、︵ハッチオンの意味
したストッパードの芸がここではより多彩に展開してい
ですぺての誤解が解け大団円となり、最後に現在に戻っ
での︶ポストモダニズムの方へ決定的に離陸しているの
し、やがて二人の娘がともに愛する男の正体を見破って
て老力1が老セシリーに記憶の間違いを指摘されて幕と
である。それはこの作晶が、先行文学をパロディするだ
ると言ってよいだろう。そしてこれらのパロディは、ポ
なる。
けでなく過去の歴史を扱っているからである。パロディ
嘆く。︵途中、現在の老力ーの述懐が挿入され、また彼
﹃真面目が肝心﹄というあまりにも有名な芝居の台詞
のような自己回帰的形式が同時に歴史や社会の次元へと
ストモダン建築における過去の様式の引用と同様、先行
や場面がそっくりそのまま、あるいは形を変えてくり返
開かれていることがハッチオンのポストモダニズムの基
の記憶の頼りなさを暗示するため同じシーンが反復され
し現れるので、観客はストソパードの鮮やかなパロディ
367
f
h
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hJa' ; h ・ - F
( 61 )
一橋論叢 第119巻 第3号 平成10年(1998午)3月号 (62)
テリー・イーグルトンの小説﹃聖人と学者の国﹄︵一九
タフィクション﹂の一例としてハッチオンが論じている
そうしたポストモダニズムを代表する﹁歴史記述的メ
本性質だづた。
習を脱自然化し、それにようて表象行為の政治学も明る
あれ、虚構のものであれーで過去を表象するという慣
﹃聖人と学者の国﹄を﹁物語−歴史についてのもので
また歴史と虚構を融合させているのだ。ハッチオンは、
史上の人物に関する事実の断片から虚構世界を作りだし、
みに出す﹂プロセスを意識した作晶と見なしている。つ
︵8︶
八七︶は﹃茶番劇﹄と比較するのに格好の対象である。
この小説は、一九一六年五月十二日に処刑されたアイル
ハッチオンは、﹃聖人と学者の国﹄について、コノリー
まり過去の歴史を表象する際にわれわれが否応なく用い
という植民地主義の犠牲者、歴史の敗北者の側から歴史
ランドの革命家ジェイムズ・コノリーを死の直前に歴史
面目が肝心﹄のようなべースになるバロディ対象はない
を語り直そうとしていることに政治的意味を見いだして
る物語という形式の虚構性を意識しているのである。同
ものの、コノリーたちが、ツァラ、レーニン、ジ目イス
いるが、﹃茶番劇﹄は確かにマイナーな人物力1の視点
の外へ放り出し、最終的にアイルランド西海岸の山荘で
と同じようにパロディ的に扱われインターテクストを形
から歴史を語り直すことでポストモダン的脱中心性を示
じことが、歴史的事実の断片を力ーの記憶の中で再構成
成している点が﹃茶番劇﹄と似ている。︵また、登場人
しているとはいえ、植民地主義を扱う場合ほど強い政治
﹃ユリシーズ﹄の主人公レオポルド・ブルーム、ヴィト
物たちが虚構性や言語が話題にすることもこの小説のメ
し、虚構化している﹃茶番劇﹄についても言えるだろう。
タフィクシ目ン性である。︶しかし、より重要な類似は、
性はない。もづとも、ハヅチオンに従って﹁歴史記述的
ゲンシュタイン、ニコライ・バフチン︵ミハイルの兄︶
ヴィトゲンシュタインが実際にアイルランド西海岸に住
メタフィクシヨン﹂の政治性は、過去を表象する行為を
もちろん、両者には注意すべき違いがある。たとえば、
んだことと、彼がニコライと友人だったことだけが事実
脱自然化することそれ自体にあるとすれぱ、この点はあ
に出会わせ、交渉させるという設定になっている。﹃真
であとは虚構だということである。つまり、どちらも歴
368
この一点の留保さえ付ければ、イーグルトンの小説につ
提起されているのに、観客はそれを単なる記憶の問題と
︵9︶
してリアリスティックに処理してしまう傾向があるのだ。
とである。つまり、歴史/虚構の境界にまつわる問題が
るという設定によって大幅に弱められてしまうというこ
さにその脱自然化作用が、すべてがカーの記憶に帰着す
まり重要ではない。むしろ﹃茶番劇﹄で問題なのは、ま
追求の試みと見なしている。一九七四年に初演された
効して歴史と化した後の、ポストモダニズムによる伝統
たことに着目し、それをアヴァンギャルドの前衛性が失
半のアヴァンギャルド芸術を回顧する傾向が広く見られ
アンドレアス・ヒュイソセンは一九七〇年代に今世紀前
行者にどう対処するかを示した興味深い例なのである。
という作品は、ポストモダニズムがモダニズムという先
ニズムに含めて考えることにする。︶つまり﹃茶番劇﹂
できるように思われる−﹁これは、メタフィクシヨナ
を﹁演劇﹂に変えた上で︶そのまま﹃茶番劇﹄にも適用
この問題を考えるために、三人の政治や芸術をめぐる
した流れの中で考察できるだろう。
﹃茶番劇﹄も、真に伝統追求であるかは別として、そう
︵11︶
いてハッチオンが言った次の言葉は、︵もちろん﹁小説﹂
ルな自意識とパロディ的インターテクスチュアリティを
立場が作品中でどう提示されているかを見てみよう。書
、 、 、
通じて−にもかかわらずではなく 歴史と政治に批
いたものをはさみで切って帽子の中に入れ、また取り出
彼はブルジヨワジーを嫌悪する点では左翼的である。
︵10︶
判的に回帰しようとするような小説である。﹂
意味深い歴史だからである。ツァラ、レーニン、ジヨイ
﹁ダダイストとして僕は当然ブルジヨワ芸術の敵だし、
して詩を作るというあの有名なダダの実験にのっけから
スー彼らの時代とはモダニズムの時代であり、また彼
左翼の同盟者さ。﹂だが社会の革命家と芸術の革命家の
しかし傑作﹃茶番劇﹄の興味はこれだけでは尽きない。
らを相互関連のうちに考えることはそのままモダニズム
ギャップを意識する彼はすぐに付け加える、﹁でも革命
いそしむツァラは、芸術の理念の徹底的な破壊者である。
と政治に関する重要な局面を考えることにつながる。
に関して妙なことは、政治的に左に行くほど芸術の好み
それが扱っている歴史はポストモダニズムにとって特に
︵本稿ではダダイズムのようなアヴァンギャルドもモダ
369
; h 1
h ・ - F
h A ;
( 63 )
の回想録の抜粋によって暴露されるのだ。また力−に芸
マヤコフスキーをまったく理解できなかったことが夫人
レーニンがべートーヴェンの﹃熱情﹄をこよなく愛し、
︵蜆︶
はブルジ目ワ的になるってことだね。﹂︵畠︶実際あとで、
必要なのは野蛮人と目国漬者だ﹂︵昌︶。それに対してジヨ
んでるんだ︵中略︶。天才の時代は終わったんだ! 今
んたは芸術を宗教にしたがそれはほかのすべてと同様死
り合う。ツァラは言う、﹁あんたの芸術は失敗だね。あ
術家は特別な人種だという思い上がりを非難されると、
イスは、﹁芸術家は、人間の不滅性への衝動をー気紛
んだ﹂︵誉︶と言い、﹃オデュッセイアー﹄の不滅を称え、
れにー満たすために人問たちの間におかれた魔術師な
結論的に言う、﹁芸術がなけれぱ人問は単なるコーヒー
自分の﹃ユリシーズ﹂もそれになぞらえる。そして﹁お
、 、 、 、
挽き器だったんだ。でも芸術があっても人間はーコ。ー
前は大戦中何をしたんだ﹂と挑発する力ーに対しては
ルジョワ的秩序の転覆者︵﹁左翼の同盟者﹂︶として反芸
底した転覆を図り、後者は革新をもたらしつつも芸術の
ツァラとジヨイスはともに芸術家だが、前者は伝統の徹
破壊する芸術家というパラドクシカルな存在である。ブ
術を唱えながらも、芸術という特別な領域それ自体は温
伝統そのものには忠実で芸術作晶の自律性を信じている。
されている。﹁芸術家として当然私は政治の歴史の揺れ
この点、ジ目イスは明快な芸術至上主義者として提示
を説く。しかしすでに見たように彼の芸術の好みはブル
ぱならない﹂︵畠︶と演説し、芸術の政治に対する従属
レーニンはもちろん﹁今日、文学は党の文学にならね
した差異が基準になることが多い。︶
︵アヴァンギャルドとモダニズムを区別する場合、こう
やら旋回やらには何の興味もない﹂︵竃︶と言う彼は、
ジョワ的で、やはりモダンアートを理解できないカーは
この点で彼と連帯意識を持つ。二人は一緒に言う、﹁表
しかしこれはツァラにとっては旧来のブルジ冒ワ的芸術
観の延長に過ぎない。第一幕の終わりで二人は激しくや
政治や歴史を超越した純粋な芸術世界の構築に専念する。
たり力iに芸術家の意義を説いたりするのである。
存し、そこからレーニンのブルジヨワ芸術好きを批判し
﹁私は﹃ユリシーズ﹄を書いた﹂と平然と言い返す︵宝︶。
ヒー挽き器なんだ!﹂︵墨−強調原文︶ツァラは芸術を
ツァラは社会における芸術家の特別な存在意義を擁護し、
第119巻第3号 平成10年(1998年)3月号(64)
一橋論叢
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現主義、未来派、立体派−私はそれらが理解できない
し、それらに何の喜びも感じない﹂︵8︶。
は何度もツアラよりジヨイスの方に共感すると述べ、二
人の論争でもジヨイスが勝つように書いたと言いさえし
芸術を代表するジ目イスがおり、その間に芸術の内部で
ような芝居は書かない。私が書くのは論争の芝居だ。私
発言をしている。﹁私は人物たちが私の見解を表明する
ているが、一九七九年の談話では次のような注目すぺき
︵M︶
革命をめざすツァラがいるということになる。そして政
はく一つの声Vではなく二人の人物のために書く。︵中
以上をまとめると、政治︵革命︶を代表するレーニン、
治にも芸術にも属さない平凡な小市民的価値観を代表す
略︶書き始めると、単純な問題を除いて、自分の立場が
ズ.ジ目イスとトリスタン・ツァラの芸術をめぐる論争
どこなのか分かりづらくなる1﹃茶番劇﹄のジェイム
る力−がいる。ストツパードはこうしてモダニズムと政
治の複雑な絡み合いの一断面を簡潔に切り出している。
しかしこのような問題設定そのものは何らポストモダン
でもそうだ。気質と知性の面で私は大いにジ目イスの味、
はポストモダン的感覚から言えぱ疑わしいだろう。そこ
った。一つのシーンを書くという問題に直面して、ツァ
方だが、ツァラの台詞を書いていても説得力があると思
ではない。第一、政治と芸術のこれほど明確な二項対立
ではたとえぱジ目イスにおけるラディカルな政治性が取
の二項対立にまつわる重苦しい主題を内的に掘り下げる
居でストツパードは四人の異質な人物のために書いてい
にとってはジヨイスの声は特に支配的ではない。この芝
ラのためにも言うべきことを見いだした。﹂実際、観客
︵15︶
代わりに、力ーも含めた四人の異質塗言説を対立し合う
るのだ1︿一つの声﹀のためでなく。この意味で幕切
り落とされてしまう。ポストモダンだと言えるのは、こ
がままに放置し、その対立から何の弁証法的展開も生じ
れの力ーの台詞は象徴的である。﹁わしは戦争中のチュ
なら芸術家になるのが一番だということ。二つ目は、も
人は革命家・かそうでないかどちらかで、もしそうでない
ーリヒで三つのことを学んで書き留めておいた。一つは、
させないという素材の扱い方である。つまり異質塗言語
ゲームが共存してそのどの一つも他を圧して優位に立つ
ことがなく、またすべてを統合するメタナラティヴも持
ち込まれないという脱中心化傾向である。ストツパード
︵肥︶
371
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hJ ' ;!L h ・ - F
(65)
一橋論叢 第119巻 第3号 平成10年(1998年)3月号 (66)
たのである。基本的人権の擁護という言わば﹁大きな物
フート氏のマクベス﹄︵一九七九︶1を書くようになっ
ほうび﹄、﹃故意の反則﹄、﹃ドツグ先生のハムレット、カ
こと1/三つ目は忘れた。﹂︵昌︶トマス.ウィタカー
語﹂に傾斜したこれらの作晶では、それまでポストモダ
し芸術家になれないなら革命家になった方がいいという
が言うように、この﹁三つ目﹂は政治と芸術をめぐって
揚されぬまま放置されているということであり、作品全
ずである。それが忘れられているということは対立が止
﹃茶番劇﹄とはやや別の形で大きく開花するには、これ
ている。ストッパードのポストモダニズムが再ぴ、また
劇作家自身の思想という︿一つの声﹀の支配が強まって
ン的意匠に隠れていた倫理、政治的関心が地肌を現し、
︵加︶
対立する複数の主義の﹁何らかのジンテーゼ﹂であるは
体の脱中心性をうまく表現している。
を前面に出すようになる。つまりソ連や東欧で抑圧され
ばらくポストモダン的遊戯性を弱め、﹁真面目な目的﹂
ると思う。﹂と言ったその言葉通り、ストヅパードはし
いないか気がかりだ。喜劇的には書きたくないようにな
過程を大きく前景化しているのである。マリリン.バト
ない過去の出来事を歴史的事実として構成H虚構化する
なっている。現在の人間がテクストを通してしか知り得
ない、明白な﹁歴史記述的メタフィクシ冒ン﹂演劇版に
文学作晶のパロディは姿を消したものの、留保の必要の
に留保を付けねぱならなかった。﹃アルカディア﹄は、
らえたとき、カーの記憶にすぺてが帰着するという設定
﹃茶番劇﹄を﹁歴史記述的メタフィクシ目ン﹂になぞ
* *
ア﹄を待たねぱならなかった。
らや八○年代の作晶を経て、一九九三年の﹃アルカディ
こうしてストッバードはポストモダンの流儀で、モダ
ニズムと政治の問題を−そのまま生きる代わりに1
宙吊りにする。あるいは距離をおきつつ戯れると言って
もよい。それが彼なりのモダニズムの遺産の処理の仕方
なのである。だが彼はこのような立場に安住できなかっ
た。﹃茶番劇﹄初演直後に﹁私は真面目な目的のために
ている反体制運動家たちの人権や自由の問題に強い関心
︵17︶
を寄せ、それを反映した政治的な作晶−﹃良い子の、こ
喜劇を動員していると思う。真面目なことを倭小化して
*
372
連想したのはごく自然である。
ラーが工ーコら﹁歴史記述的メタフィクシ冒ン﹂作家を
ターを殺したという自説を立証するためにハンナに接近
いだそうとしている。つまり、三人とも現在残る過去の
る狩猟記録に記録されている−に適合する方程式を見
ューターを使って庭園内の雷鳥の数の推移−代々伝わ
する。またカヴァリー家の子孫ヴァレンタィンはコンピ
舞台は過去と現在の間を往復する。過去とは、一八〇
九年︵第一、三、六場︶、一八二一年︵第七場︶のカヴ
ァリー家︵シドリー荘︶での出来事。屋敷の庭園が前世
だった。結局チェイターは夫人とともに植物学者として
ー夫人と寝ているところが見つかって大騒ぎがあった後
が屋敷に帰ると、前夜泊まった詩人パイロンがチェイタ
決闘を申し込まれる。決闘をすっぽかしたセプティマス
イターに、妻と姦通し自分の詩を酷評したという理由で
ティマス.ホッジが教えている。彼は詩人エズラ・チェ
中、数学に秀でた早熟な少女トマシーナを家庭教師セプ
火事で死ぬことが史料から分かっている。︶バーナード
ツを教えてくれるようせがんでいる。︵彼女はその晩の
舞踏会を開いており、トマシーナはセプティマスにワル
の人物は一八一〇年代の服装をする。過去の人物たちも
去が重ね合わされ同時進行する。仮装ダンスのため現在
テレビにまで出てしまう。最後の第七場では、現在と過
たちに疑いを向けられたにもかかわらず、自説を発表し
ロンの滞在が記されていることなどに勢いづき、ハンナ
痕跡を調査しているのだ。バーナードは狩猟記録にバイ
航海に出ることになる。現在︵第二、四、五、七場︶は、
紀以来流行のピクチャレスク様式に変えられようとする
カヴァリー家の子孫が住むまったく同じ屋敷内での出来
でにトマシーナの残したノートから彼女が現代数学を先
ったという決定的な反証を突きつけられうろたえる。す
は、植物学者チェイターが詩人チェイターと同一人物だ
シドリー荘に残る庭園記録などの史料を調査し、庭園内
事。ロマン主義の時代に関心を寄せる著述家ハンナは、
の草庵に住んでいた隠者︵ホツジである可能性が高い︶
さらに熱力学第二法則をも時代に先んじて彼女が知うて
取りしていたことをつきとめていたヴァレンタインは、
いたことを発見す乃。︵実際彼女はセプティマスにそう
についての本を書こうとしている。一方、大学で教える
文学研究者バーナードは、パイロンが決闘で詩人チェイ
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一橋論叢 第119巻 第3号 平成10年(1998年)3月号 (68)
いう説明をする。︶
過去の人物たちの言動を反復するのである。現在でも過
絞ってみよう。明確に年代が限定された過去は、カーの
も眼に.つく主題である過去の歴史と現在の関係に焦点を
も﹃ハプグソド﹄より成功している。しかしここでは最
説の組み込みーポストモダンの領域混交の好例だー
のことを思い出させる。出来事は現実の経験的過去に実
とする。﹁歴史記述的メタフィクシ目ンは自意識的に次
伝わる記録や書簡を調査して失われた過去を復元しよう
認識をよそに、現在の人物たちは、当時の文献、一家に
過去と現在の両方を見ることができる観客のそういう
去と同様に、書評をめぐる愛憎があり、女たらしの男と
記憶の中にある﹃茶番劇﹄の過去よりはるかに具体性を
際に起こったのだが、われわれは選択と物語による位置
この作品は、古典主義的精神とロマン主義的精神、自
帯びた歴史の切片としてリアルに提示されている。人々
付けによってそれらの出来事を歴史的事実として名づけ、
誘惑される女がおり、同じような数学や決定論の問題が
の衣装、言葉、話の内容がすべてその時代のものだし、
構成するのだ。そしてもっと基本的なことだが、われわ
然科学と詩/哲学−宗教、決定論と自由意志、性愛の意
また彼らは時代を象徴するような人物バイロン︵彼自身
れはそれら過去の出来事を、言説として刻みこまれた状
ある。最後の場面における過去と現在の重合は、人問の
は登場しない︶と密接に関係している。こうした過去は
態、現在におけるそれらの痕跡を通←てしか知ることが
味など様々なテーマを、︵ストッパード作品に時にある
もちろん現在とは隔絶している。紙と鉛筆だけで数学に
ないのである﹂︵、彗︶。ハッチオンのこの言葉はバーナ
営みのこうした﹁差異をはらんだ反復﹂を特に強く印象
取り組むトマシーナとコンピューターを使えるヴァレン
ード、ハンナ、ヴァレンタインたちにそのまま当てはま
ような︶過剰な技巧性を感じさせることなく織り合わせ
タインのコントラストはその一例である。しかし同時に
る。とりわけ、パイロンに関する自分なりの物語を限ら
づける。
過去と現在の相似も強調されている。同じ部屋、同じ小
れた史料から作り上げて見事に失敗するバーナードは、
ているため、豊かで芳醇な味わいを残す。自然科学の言
道具が使われるだけでなく、現在の人物たちがしぱしぱ
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われわれによる歴史的事実の構成の虚構性とその危うさ
を決定的に露呈している。歴史とフィクシヨンをともに
テクストとみなして両者の境界を疑い、われわれの過去
把握、歴史認識を脱自然化する﹁歴史記述的メタフィク
シヨン﹂の効果は、この芝居では過去が現在と対比的に
提示されているために一層高められ、アイロニーを生じ
させる。もちろん観客も過去の出来事の断面を見るだけ
で、バーナードたちが知りたがっていることすべてを目
撃するわけではないが、バーナードとハンナがともに
﹁知らない。その場にいなかったんだから﹂︵罫睾︶と
^18︶
言 う のを聞いたり、﹁ す べ て を 確 証 す る [ バ イ ロ ン の ]
手紙がイデアのように存在するはずだ1失われてはい
るが抹消できない手紙が﹂︵雪︶とパーナードが言った
次の場でセプティマスがバイロンからの手紙︵その内容
はバーナードの想定と違うはずだが︶を開封せナに燃や
してしまうのを見たりすると、現在の人問が過去を復元
しようとする努力の限界をアイロニカルに見つめざるを
得ない。
もっとも失われた過去という問題に直面するのは現代
人ぱかりではない。第一場でセプティマスはトマシーナ
ったフェルマの最終定理について語り、後に反復される
に、ノートの余白が足りなかったために歴史に残らなか
このテーマの口火を切る。︵トマシーナは結局フェルマ
と似たような運命をたどることになる。︶また彼女がア
レクサンドリアの図書館の焼失で失われた文献を嘆くと、
セプティマスは﹁[人間の]行進の外部には何もない、
だからそこからは何も失われることはないんだよ﹂と言
い、失われたものも必ず後世が取り返すと説く︵ωo。︶。
トマシーナの発想がヴァレンタインによって発見される
ことはこの言葉を支持するが、もちろん焼かれた手紙の
ように永久に失われるものも多い。それらはまさにイデ
アのような世界に仮定的に存在しているのみである。ま
たトマシーナは、原子の運動を分析することで理論的に
は未来のすべての事象を予測することができる、そして
現実に知ることは不可能でもそうした未来に関する定式
は存在するはずだと言う︵蜆︶。ニュートン的世界観に基
づくこの考えは、彼女自身の熱力学第二法則が示唆する
自然界の運動の不可逆性−取り返しのつかない喪失と
いう主題と結びついている1によって乗り越えられる
のだが、第七場で現代人が同じ議論を反復する。過去に 獅
橋論叢第119巻第3号平成10年(1998年)3月号(70)
関しても未来に関してもすべては決定されているのに、
われわれはそれを限定的にしか知ることができないので
はないか。ヴァレンタインはニュートン的数学は終わっ
たと指摘し、彼の妹クロー工はセツクスがそのような決
定論を乱すのだと主張し、またハンナは﹁知りたいって
田山うことに私たちの意味があるのよ﹂︵富︶と言って自
分の努力を肯定する。失われた過去の復元というテーマ
はこうしてみると、人問の世界認識一般に関わる大きな
引用する場合は、括弧内に略記号Pとともに頁数を記す。
き曽︵zo冬くo﹃7内o鼻一&胴9邑o.o。︶一ω.以下、本書から
︵4︶ ハソチオンの議論の難点の一つがこの転用において生
じる。確かに﹁歴史記述的メタフィクシヨン﹂に代表され
るポストモダン文学は、ポストモダン建築とパラレルであ
るが、問題はモダニズムの場合である。文学においては、
モダニズムんポストモダニズムのコントラストが建築の場
え方は一面的になりがちである。たとえぱ、モダニズムが
合ほど明確でないため、ハツチオンのモダニズム文学の捉
いう見方は建築には当てはまるかもしれないが、ジ目イス、
歴史を拒否して形式を追求し、政治や社会に背を向けたと
エリオット、パウンドらが過去の文学作品を︵まさにハツ
チオンの意昧で︶大々的にパロディしたこと、モダニスト
形而上学的問題の一部をなしていることが分かる。自然
科学のモチーフと巧みに戯れつつ入間の認識とその限界
たちも政治や社会に大いに関与したことを思えぱ文学には
︵7︶U〇一彗睾鼻
.oo蜆.
︵>冒ξσo﹁↓言⊂邑きλ一ξo申;︹巨oq昌軍鶉μ;㊤杜︶一
︵6︶霊巨墨葦き芦ぎ§賓§一ミぎO§§嚢きき
がっていると言えよう。
︵5︶ この場合、二人組やカーを中心に据えるという階層秩
序の転倒が、階層秩序それ自体を問いに付すことにもつな
的で歯切れが悪いという印象は否めない。
学はリベラル・ヒューマニズムに基づいていて、パロデイ。
も結局は伝統の継続を志向していると述べているが、抽象
うまく当てはまりそうもない回ハツチオンはモダニズム文
について問う﹃アルカディア﹄は、過去の歴史への態度
を問題化する﹁歴史記述的メタフィクシヨン﹂の域にと
どまらない普遍的奥行きをも備えているのである﹄
︵一九九六年=丁五月執筆︶
︵1︶ ζ胃=︸目困巨一貝..↓まω冨﹃ミ撃8o彗早.、ドぎ§§寓
トま雨§ミωミも皇“§§叶轟>o﹃−=竃ω−
︵2︶;註舌葦彗!§§ミ9き;§§雨§§.
ぎ題ミドs§き芋o§ミQトミきミδ︵z①峯く昌7ζ①片.
︵3︶﹄きき吻9ま§ミ§ぎ一姜一§§§§き.
ゴ冒o貝δooσ︶一巨.
376
︵8︶§・ミ§ε9き9§、§一§︵−。a。﹃宛昌芋
︵9︶ ステイーヴン・コナーは、この統一的設定がもたらす
oαoqp−ooo㊤︶一蜆o.
芝居全体のパフォーマティヴィティの自己完結性のために、
芝居が表現しようとしているポストモダン的相対性、異種
混交性が裏切られているとし︵表現行為と表現内容の矛
盾︶、﹃茶番劇﹄をポストモダニズムの例として適切である
と同時に問題的だと見なしている。R2睾彗OO⋮昌一
..勺og昌o忌;雰ユo﹃∋昌op..﹄§言臼ぎ的きさミ§ミミ㌧
○ざミo昌− 勾雨萬、雨3 oα1勺由一﹃−o斥 O団ヨOげ①昌 ︵雲O目oす①ω↓o﹃n
ζ彗Oま9①﹃G三き邑ξ写窃ω二08︶二冨−軍この論文
に注意を向けてくれた堀真理子氏に感謝する。
︵10︶きミ︸8一2■強調原文。
シ§き寓oミ§§きo§ミ雨§詠§︵里8邑昌oq片昌二目〇一一
︵u︶ >目α昌竃=目︸閉竃p﹄さミ、︸吊o§ミbミ萱ミき、雨§−
一12一↓昌ぎ§員ぎ§菱一一着−昌o。﹃霊σ宰
與目oc目ぎ睾色ξ、﹃鶉㎝﹂ooo①︶﹂8−ミー
︵13︶ すべてを回想するカーは形式上優位に立っているが、
彗o∼σ①﹃し8o。︶.引用の後に頁数を記す。
︵14︶ b①5畠チoo㌣o・ω﹂昌Lo蜆1
だからと言って思想内容の上でも優位に立つわけではない。
︵15︶ 竃90易8ヌO§§;§o曽−§§ぎ§望§富ミ
︵16︶皇彗窒声葦一薫①・’ぎ§吻一§ミ︵■。ま。三
︵[o目a三;鼻︸o昌吋oo斤ωしo湯︶一曽.
︵17︶ ρ﹄窃o冬一81
−≦鵯o目⋮胆p6ooω︶一=ol
援に頁数を記す。
︵18︶﹄ミ§ざ︵−o邑昌らき9凹目o∼痔﹃L竃ω︶■引用の
︵一橋大学専任講師︶
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