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PowerPoint プレゼンテーション - C-faculty

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PowerPoint プレゼンテーション - C-faculty
大日本製糖の再生請負人・
藤山雷太の革新的企業者活動
─後発性のメリットの内部化と創造的適応─
中央大学商学部
久保 文克
問題の所在
大日本製糖を失敗へと導いた最大の分水嶺は、
何に見出すことができるのか?
 大日本製糖を失敗から再生させ、飛躍させた最
大のポイントは何に見出すことができるのか?


大日本製糖株式会社の半世紀以上にわたる企
業経営の歴史を、日糖事件によって一時は倒産
の危機にまで瀕したにもかかわらず、粗糖業界
ナンバーワンの企業へと再生・飛躍させた藤山
雷太の革新的企業者活動と戦略的意思決定プ
ロセスに焦点を当てつつ分析する 。
仮説設定
再生請負人・藤山雷太による革新的企業
者活動が、大日本製糖をして見事に失敗
から再生させることができた最大のポイン
トである 。
 企業者活動の革新性は、台湾粗糖業界に
おける後発性のメリットを内部化し、後発
性のデメリットを克服・ビジネスチャンス化
した創造的適応プロセスにこそ見出せる。

分析フレームワーク①
失敗と再生の経営史:失敗の2つのレベル
①環境の認識(α )②環境への対応(β )
 失敗と再生の7つの局面:
A:事前→B:環境(市場・技術)の変化→
C:危機(業績悪化・ポジション後退)の発生
→D:危機の構造(長期)化→E:事後対応
→F:帰結

分析フレームワーク②

後発企業効果:後発企業が先発企業を
キャッチアップし、逆転するにいたるまで
の成長を遂げること

後発性のメリットの内部化+創造的適応
(後発性のデメリットの克服、ビジネスチャ
ンス化)
インプリケーション
大日本製糖の失敗と再生
失敗局面の検証 ←フレームワーク①
Ⅰ.外的要因:市場・技術の変化(B局面)
Ⅱ.内的要因:変化への認識・対応(C局面)
 再生局面の検証 ←フレームワーク②
Ⅲ.整理期(E局面):再生へ(F局面)
Ⅳ.飛躍期:後発企業効果によりトップへ

失敗局面の検証
B局面:失敗の外的要因=経営環境の変化
1)市場の変化①:内地市場の拡大傾向
2)市場の変化②:内地市場の冷え込み
←相次ぐ消費税の増徴
3)技術の変化:台湾粗糖業の発展
→四種(精製)糖に品質の近い二種(粗)糖
の移入増大
※2)+3) →生産能力過剰
 C局面:失敗の内的要因=危機の発生
変化への認識(α )レベルよりは、対応(β )
レベルに失敗にいたる過誤が見出される
 D局面(危機の構造化):株価一気に下落(疑獄
事件化)→経営陣の刷新によりなし

【図表1】内地砂糖消費市場の推移
【図表1】内地砂糖消費市場の推移
700,000
700,000
市場の変化②
砂糖消費税の導入
600,000
600,000
市場の変化①
消費拡大傾向
500,000
500,000
400,000
400,000
市場の変化②
非常特別消費税
の導入
300,000
300,000
200,000
200,000
技術の変化
粗糖の品質向上
100,000
100,000
0 0
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8
9
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88
99
23
11
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99
34
11
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99
45
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56
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9
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3
1
9
1
3
1
9
1
4
台湾からの移入(千斤)
内地消費(千斤) 内地消費(千斤)
台湾からの移入(千斤)
外国への輸出(千斤)
(出所)台湾総督府殖産局糖務課『台湾糖業統計』大正5年版、5ページより作成。
1
9
1
4
1
9
1
5
1
9
1
5
【図表2】砂糖消費税沿革表 ( 百斤あたり) 分 類
第
一
種
和蘭標本色相第8
号未満及糖水
第
二
種
同上,第15号未満
第
三
種
同上,第20号未満
(糖水含む)
第
四
種
同上,第20号以上
(氷糖含む)
(円)
明治34年 明治37年 明治37年 明治38年 明治41年
10月~
4月~
10月~
1月~
2月~
2.00
1.00
1.00
1.00
1.00
3.00
1.00
非常特別消費税
1.60
1.60
1.00
1.60
1.60
5.50
非常特別消費税
2.20
2.30
2.80
2.20
2.20
2.20
8.50
非常特別消費税
非常特別消費税
3.00
2.80
3.30
3.30
4.30
2.80
2.80
2.80
10.00
3.70
3.70
4.70
(出所)台湾総督府殖産局糖務課『殖産局出版第一四五号 台湾糖業統計 大正五年刊行』2
ページより作成。
環境変化への認識と対応
経営環境の変化
変化への
認 識
変化への
対 応
○
増資による生
産規模拡大
市場の変化
①
内地消費市場
の勃興
(1897-1901)
○
旧経営陣も
前向き
市場の変化
②
消費税導入に
よる冷え込み
→供給過剰に
○
経営合理化
を模索
△
共同経営論
急進主義:
時期尚早
技術の変化
台湾粗糖の品
質向上→二種
糖の移入増大
○
台湾粗糖
への進出
×
政治裏工作
経営環境の変化への認識
【砂糖消費税に対する認識】
1903(明治36)年6月期の営業報告:
「前々期砂糖消費税法ノ実施以来、至大ノ打撃ヲ被ムリ、
久シク悲境ニ沈淪セル」
(日本精製糖株式会社「第拾五回営業報告」4ページ)
【台湾粗糖に対する認識】
1905(明治38)年6月期の営業概況:
「非常特別税ニ據レル増徴ノ割合大ニ其平衡ヲ失シ精製
品ニ対シテハ頗ル重税ヲ負担セシムルニ関ハラス粗糖
ニ至リテハ其賦課比較的軽少ナリシヲ以テ世上一般ノ需
要ハ悉ク一種二種ノ下等品ニ移リテ当社製品の主脳トモ
謂ッヘキ三種四種ノ如キ精製品ノ需要ヲ減シ」た。
(日本精製糖株式会社「第拾九回営業報告」6-7ページ)
有志団体の「5ヵ条の実行条件」

鈴木藤三郎が時期尚早であるとして退く
きっかけ(1906年)
磯村・秋山らが要求した急進主義
①内地・台湾の既存製糖会社との大合同
②精製糖用原料糖を確保するため台南に
工場を新設
③清国の販路拡張のため同国に工場新設
④以上のため未払込資本金100万円徴収
⑤必要に応じ800-1000万円の増資
【図表3】社名改称前後の大株主 ( 1 0 0 0 株以上) 異動
株主氏名
村井吉兵衛
福川 フジ
福川 忠平
富倉 林蔵
鈴木久五郎
鈴木藤三郎
吉川長五郎
磯村 音介
益田 太郎
根岸 亀吉
鈴木 トヨ
石原 政雄
秋山 一裕
山口仙次郎
安部幸兵衛
村上太三郎
三井物産合名会社
鈴木久兵衛
中村富三郎
武智 直道
中村郁次郎
中村 清蔵
中村 伍作
鈴木善五郎
中村 三郎
江崎 礼二
金子 慎二
明治39年5月
4,770
4,324
4,230
4,180
3,795
3,580
1,520
1,400
1,320
1,100
1,100
1,070
1,000
982
910
844
800
800
710
700
0
180
290
0
130
270
200
同年11月
0
3,680
4,232
0
3,745
500
0
1,600
0
3,520
1,100
1,090
1,200
982
600
1
1,000
0
790
0
2,495
1,380
1,120
1,100
1,050
1,020
1,000
(出所)日本精製糖株式会社「第二十一回営業報告書」およ
び同「第二十二回営業報告書」添付の「株主姓名簿」より作
成。
新経営陣の共同経営論
【認識】市場の冷え込みへの認識は、新・旧経営陣とも同じ
【対応】対応の仕方は真っ向から異なる
旧経営陣:これ以上の拡張を自制すべきの慎重論
新経営陣:合併によって生産コストを削減し、共倒れを
防止すべきと共同経営論
「結局共同経営の目的は、寧ろ積極的と云ふよりは消極的
である、損を免れやうと云ふ側である、・・・唯だ利益のみ
に拘泥して、直段を騰げることに努めたならば需要が減
ずる、其れで直段を低くして需要を増す、直段を低うする
には生産費を減ずるより仕方が無い、其生産費を減ずる
と云ふのが此共同経営を為すに至つたのであります、生
産費を減じて直段を廉くし、需要を多くしてさうして相当の
利益を得たいと云ふのであります。」
(酒匂[1908]885ページ)
鈴木藤三郎辞任の背景
台湾製糖社長、製塩法・醤油醸造法の改革、衆
議院議員等により留守がち
 創立以来の社長であった長尾三十郎が1902年
1月に社長を辞任
 創立以来の女房役・吉川長三郎が病床に
磯村・秋山ら飼い犬に手を噛まれる
 藤三郎の辞任時の心境
①野心家たちと事業を共にするのは到底不可能
②前年、台湾製糖社長を辞したのと同じ理由:
「もはやだれにでも経営できるこの事業は希望者
に任せて、自分は製塩法や醤油醸造法の改革
に専念して、発明の才能を与え給うた天意に随
順したいという使命感に、強く促されていたから」

(鈴木五郎[1956] 240-244ページ)
日糖事件の背景
大部分の資金が固定化することによる運転資金の少なさ
 社債・借入金による大里製糖所・名古屋精糖の買収、
台湾工場の建設
 預金勘定等の極度の悪化
 消費税増徴による内地消費市場の停滞
 四種糖に近い品質を有す二種糖の台湾からの移入増加
 需要の3倍を超える生産過剰状況

【経営難を脱するための打開策】
 輸入原糖戻税の期限延長運動(第23帝国議会)
 砂糖消費税増徴への反対運動
 増税必至と見ての見越輸入
 砂糖官営運動(第24,25帝国議会)
藤山雷太の社長就任挨拶
「此の事業は到底望みが無いか、此の窮地を救ふ所の途
は無いかと云ふ事を調査するに、私は充分の力を尽さ
なければならぬ時節であらうと思ひます。我国の工業
界の現状から言つて見れば、私は株主で無くとも自ら
進んで遣らなければならぬ事柄と信じて居ります。・・・
私は是はどうしても、十分の調査をして此の精糖業の
為に此の会社の存立を謀るべき義務があるものと吾々
は信じて居りますから、私は此の任を潔く引き受けると
云ふ事を今日諸君の前に告白して置きます。・・・是は
単に大日本製糖会社の存亡では無い。私立会社の
存亡では無い。國家工業の興廃であると信じます。」
(西原[1919]32-34ページ)
失敗からの教訓①


大日本製糖の失敗の本質:過度の急進主義への反省
→市場の変化をじっくりと見極めるという教訓
→需要に見合った将来性のある事業とは何かを見極める
→将来性のある台湾粗糖へと経営資源を投入
過度の社債・借入依存への反省
→借入れに依存しない方法で、段階的に生産基盤を拡大
→社債・借入の償却が確実となった段階で合併へと始動
(整理完了の1919年の前年、一連の合併をスタート)
→朝鮮製糖(1918年)、内外製糖(1923年)、東洋製糖(1927年)、新高製糖(1935年)、
昭和製糖、 帝国製糖(1939年)、 中央製糖(1942年)を合併
=粗糖生産能力と原料採取区域の拡張を実現
【事例】東洋製糖との合併時:明治製糖に2工場を売却
→同資金と東洋製糖積立金で鈴木商店への損失を償却
「工場ノ固定資本ハ自分ノ資本ニ仰ガナケレバナラヌト云フ
コトヲ平生考ヘテ居ル、又サウデナケレバ安全デナイ」
(「藤山社長ノ演説(第六拾四回株主総会ニ於テ)」3-10ページ)
失敗からの教訓②

ブームに踊らされない
→糖業黄金期というバブルに翻弄されない
→一気に債務返済を完了させるチャンスと糖業黄金期を
位置づけ、次なる飛躍のために余力を蓄える

酒匂社長も糖業の専門家ではなく、磯村らの不正経理や
裏工作をチェックできなかった
→経営者自らが製糖業を熟知することの必要性
→海外糖業視察(5回)に出かけ、現場を自らの目で見る
→自ら『糖業』を著す(1928年11月)

株主出身の経営者による失敗
→株主に翻弄されない経営者主導の会社経営
←実業のエートスを備えた再生請負人・藤山雷太の存在
(千円)
【図表4】大日本製糖の営業成績(1904-1925年)
(%)
12,000
8.0
7.0
10,000
6.0
8,000
5.0
6,000
整理②
4.0
3.0
4,000
整理①
2.0
2,000
1.0
0
0.0
1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1
9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2
4 4 5 5 6 6 7 7 8 8 9 9 0 0 1 1 2 2 3 3 4 4 5 5 6 6 7 7 8 8 9 9 0 0 1 1 2 2 3 3 4 4 5 5
年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年 年
上 下 上 下 上 下 上 下 上 下 上 下 上 下 上 下 上 下 上 下 上 下 上 下 上 下 上 下 上 下 上 下 上 下 上 下 上 下 上 下 上 下 上 下
期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期 期
社債・借入金(千円)
(出所)大阪屋商店調査部『株式会社年鑑』各年版より作成。
当期利益金(千円)
配当率(%)
【図表5】 三大製糖会社の全島砂糖生産高に占める割合の推移
35
飛躍②
30
25
(
%
20
) 15
10
飛躍①
5
0
1
9
2
2
1
9
2
3
1
9
2
4
1
9
2
5
1
9
2
6
1
9
2
7
1
9
2
8
1
9
2
9
大日本製糖
1
9
3
0
1
9
3
1
1
9
3
2
台湾製糖
1
9
3
3
1
9
3
4
1
9
3
5
明治製糖
(出所)日本糖業調査所『日本糖業年鑑』昭和3~4年版および日本砂糖協会『砂糖年鑑』昭和5~16年版より作成。
1
9
3
6
1
9
3
7
1
9
3
8
1
9
3
9
再生局面の検証
【整理期】(E局面→F局面)
① 1911(明治44)年:わずか4期2年(10年間の無配当を覚悟)
で0.5%の株主配当を実現
←初期制約条件の克服:精製糖の輸出先を中国市場へ
② 1919(大正8)年:整理を完成!
←戦略の重点を移した台湾粗糖事業が軌道に
←黄金期にあってもブームに踊らされた過剰な先行投資を
控え、利益金を整理完了に振り向ける
【飛躍期】
①1927(昭和2)年:粗糖生産の急激な伸び
←本格的な合併・吸収戦略のスタート:7月東洋製糖を合併
②1934(昭和9)年:台湾粗糖業界首位の台湾製糖に粗糖生産
高で追いつく
→34年4月:雷太が取締役社長を辞任、愛一郎が社長に
→35年1月:新高製糖と合併し、最大の生産基盤へ
【図表6】大日本製糖の増資関連年表
年
月
資本金(万円)
1895(M28)
12
30
日本精製糖創立、社長に長尾三十郎、専務取締役に鈴木藤三郎
1896
6
60
増資
1899
3
200
増資
1904
10
400
増資
1906
11
1200
日本精糖と合併、大日本製糖に改称
1916
5
1800
増資
1918
7
2050
臨時株主総会にて朝鮮製糖合併し、資本金増額
1923
1927
1935
1
7
1
2725
5141.66
6197
臨時株主総会にて内外製糖合併し、資本金増額
臨時株主総会にて東洋製糖合併し、資本金増額
臨時株主総会にて新高製糖合併し、資本増額
9
11
9
7442
9617
9661
臨時株主総会にて昭和製糖合併し、資本増額
臨時株主総会にて帝国製糖合併し、資本増額
臨時株主総会にて中央製糖と合併し、資本増額
1939
1942
大 日 本 製 糖 の 動 向
(出所)塩谷[1960]493-507ページより作成。
原料採取区域
の拡大①
創業時
東洋製糖
合併時
原料採取区域
の拡大②
新高製糖
合併時
昭和製糖
合併時
【図表7】大日本製糖の純利益と粗糖生産の推移
(千円)
(千担)
12,000
7,000
6,000
10,000
5,000
8,000
4,000
6,000
3,000
4,000
2,000
2,000
1,000
0
0
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
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1
1
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1
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1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
9
0
9
0
9
1
9
1
9
1
9
1
9
1
9
1
9
1
9
1
9
1
9
1
9
1
9
1
9
1
9
1
9
1
9
1
9
1
9
1
9
1
9
1
9
2
9
2
9
2
9
2
9
2
9
2
9
2
9
2
9
2
9
2
9
2
9
2
9
2
9
2
9
2
9
2
9
2
9
2
9
2
9
2
9
3
9
3
9
3
9
3
9
3
9
3
9
3
9
3
9
3
9
3
9
3
9
3
9
3
9
3
9
3
9
3
9
3
9
3
9
3
9
3
9
4
9
4
9
4
9
4
9 9 0 0
年 年 年 年
上 下 上 下
1 1 2 2 3
年 年 年 年 年
上 下 上 下 上
3 4 4 5
年 年 年 年
下 上 下 上
5 6 6 7 7
年 年 年 年 年
下 上 下 上 下
8 8 9 9
年 年 年 年
上 下 上 下
0 0 1 1
年 年 年 年
上 下 上 下
2 2 3 3 4
年 年 年 年 年
上 下 上 下 上
4 5 5 6
年 年 年 年
下 上 下 上
6 7 7 8 8
年 年 年 年 年
下 上 下 上 下
9 9 0 0
年 年 年 年
上 下 上 下
1 1 2 2
年 年 年 年
上 下 上 下
3 3 4 4 5
年 年 年 年 年
上 下 上 下 上
5 6 6 7
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下 上 下 上
7 8 8 9 9
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0 0 1 1
年 年 年 年
上 下 上 下
期 期 期 期
期 期 期 期 期
期 期 期 期
期 期 期 期 期
期 期 期 期
期 期 期 期
期 期 期 期 期
期 期 期 期
期 期 期 期 期
期 期 期 期
期 期 期 期
期 期 期 期 期
期 期 期 期
期 期 期 期 期
期 期 期 期
当期利益金(千円)
(出所)株式会社大阪屋商店調査部編纂『株式会社年鑑』各年版より作成。
分蜜糖収穫高(千担)
失敗への分水嶺
失敗の内的要因:環境変化への認識ではなく、対応に
共同経営論:生産コスト削減のための合理化策としては理
解できるが、急進主義の延長線上にあったことが問題
 内地精製糖と台湾粗糖の相互促進的発展を自社内で実現
するという方向性は間違えていなかった
 機が熟していなかったがために、相互促進的であるべき両
者が競合的になった
 失敗への負のスパイラル:
①急進主義の時期尚早さ(←株主主導の合併劇)
→②脆弱な土台の上に共同経営論を展開(過度の急進主義)
→③裏工作を自制できなかった倫理観の欠如



最大の分水嶺: 1906(明治39)年7月の臨時株主総会
共同経営論の実践に向けて動き出し、日本精製糖の創
業者鈴木藤三郎を社外へと追いやった
後発企業効果へのプロセス
後発優位(=先発劣位)の発生条件
①ただ乗り効果(R&D、インフラ) ②不確実性の解消
③技術や消費者ニーズの変化 ④先発企業の慣性
 先発優位(=後発劣位)の持続条件
⑤技術的リーダーシップ ⑥希少資源の先取り
⑦スイッチング・コスト (宇田川・橘川・新宅[2000]10ページ)

台湾粗糖業における大日本製糖の後発性
後発性のメリット:①○(台湾製糖、糖業振興策)、②○、
③△、④△
後発性のデメリット:⑤△、⑥○(原料採取区域)、⑦△
 後発企業効果の最大のポイント:段階的な合併戦略
メリットの内部化+デメリットの克服、鉄道・輸送、合理化

仮説の検証

→インプリケーション
二重の制約条件を克服 → 再生、そして飛躍!
わずか10年足らずのスピードをもって整理段階を完了+
後発企業効果をもって精製糖・粗糖双方の一番手企業へ
再生の最大のポイント:
再生請負人・藤山雷太による革新的企業者活動
 企業者活動の革新性:
台湾粗糖業界における後発性のメリットを内部化し、後
発性のデメリットを克服・ビジネスチャンス化した創造的
適応プロセス
←失敗から学んだ教訓を最大限に活かし、堅実経営を基
礎に後発性を逆手にとった合併戦略を積極的に展開!
 藤山雷太:文字通り再生請負人であり、まぎれもない
アントレプレナーであった!!

大日本製糖の後発企業効果
後 発 性
メリット
ビジネスチャンス
の獲得
失 敗
二重の制約条件
制約条件の
ビジネスチャンス化
デメリット
制約条件
の克服
教訓化
内部化
創造的適応
後発企業効果
〔参考文献〕
・西原雄次郎[1919]『日糖最近十年史』大日本製糖株式会社
・西原雄次郎[1934]『日糖最近廿五年史』大日本製株式会社、千倉書房
・西原雄次郎[1935]『新高略史』新高製糖株式会社、千倉書房
・西原雄次郎[1939]『藤山雷太傳』藤山愛一郎、千倉書房
・塩谷誠[1944]『日糖略史』日糖興業株式会社、慶応出版社
・塩谷誠[1960]『日糖六十五年史』大日本製糖株式会社
・藤山雷太[1938]『熱海閑談録』中央公論社
・藤山雷太[1927]『南洋叢談』日本評論社
・赤坂章二[1910]『日糖事件弁論例範 附第一審判決全文』共同出版
・河野信治[1931]『日本糖業発達史(人物編)』丸善株式会社
・河野信治[1931]『日本糖業発達史(消費編)』丸善株式会社
・守屋源二[1933]『台湾大糖業政策 山田熙君談話 於糖業連合会招待会』
・材木信治[1939]『日本糖業秘史』
・社団法人糖業協会[1962、1997]『近代日本糖業史(上)(下)』勁草書房
・樋口弘編著[1959]『糖業事典』内外経済社
・久保文克[1997]『植民地企業経営史論─「準国策会社」の実証的研究─』
日本経済評論社
・久保文克[1998、1999]「『大明治』と傍系事業会社(Ⅰ)(Ⅱ)(Ⅲ)─後発製糖
会社の多角的事業展開─」『商学論纂』第39巻3・4号、第40巻3・4号、 同
5・6号
・久保文克[近刊]「大日本製糖の破綻と再生請負人・藤山雷太の登場─日糖
事件にいたる失敗の本質とは?─」『失敗と再生の経営史』有斐閣
・宇田川勝・橘川武朗・新宅純二郎[2000]『日本の企業間競争』有斐閣
・酒匂常明[1908]「砂糖共同経営に就て(上)(下))」『東京経済雑誌』 第
58巻第1464号・1465号〔明治41年11月7日・14日〕
・渋沢栄一[1908]「大日本製糖の前途」『時事新報』第9065号〔明治41年
12月27日〕
・渋沢栄一[1909]「日糖破綻の原因如何」『東京経済雑誌』第59巻第1473
号〔明治42年1月16日〕
・渋沢栄一[1909]「事業に対する余の理想を披瀝して日糖問題の責任に及
ぶ」『実業之世界』第6巻第5号〔明治42年5月〕
・渋沢青淵記念財団竜門社編纂[1956]『澁澤栄一傳記資料 第十一巻』渋
沢栄一伝記資料刊行会
・鈴木五郎[1956]『鈴木藤三郎伝』東洋経済新報社
・信夫清三郎[1942]『近代日本産業史序説』日本評論社
・大日本製糖株式会社(日本精製糖株式会社、日糖興業株式会社)「営業
報告書」各期版
・株式会社大阪屋商店調査部編纂[1925‐1942]『株式会社年鑑』各年版
・証券引受会社統制改編[1943]『株式会社年鑑』
・証券引受会社統制改編[1944]『株式会社年報』
・台湾総督府殖産局 [1927]『台湾糖業概観』
・台湾総督府殖産局 [1930]『台湾の糖業』
・台湾総督府殖産局糖務課『台湾糖業統計』各年版
・農務省農務局[1913]『農務彙纂第三十七 砂糖ニ関スル調査』
・台湾糖業連合会[1910]「台湾糖業連合会規約」(社団法人糖業協会所蔵)
鈴木藤三郎辞任の背景
台湾製糖社長、製塩法・醤油醸造法の改革、衆
議院議員等により留守がち
 創立以来の社長であった長尾三十郎が●年に
社長を辞任
 創立以来の女房役・吉川長三郎が病床に
磯村・秋山ら飼い犬に手を噛まれる
 藤三郎の辞任時の心境
①野心家たちと事業を共にするのは到底不可能
②前年、台湾製糖社長を辞したのと同じ理由:
「もはやだれにでも経営できるこの事業は希望
者に任せて、自分は製塩法や醤油醸造法の改
革に専念して、発明の才能を与え給うた天意に
随順したいという使命感に、強く促されていたか
ら」(鈴木五郎[1956] 240-244ページ)

渋沢、大日本製糖相談役に
「余は最早我糖業の前途に対し大なる望みを有
し居らざるも又翻て思へば会社は兎も角も千万
に余る巨額の納税をなす大会社にして其の消長
は延て我国の財政にも少からざる関係を有する
事なれば無碍に重役諸氏の希望を斥くるも不可
なりと思考し」
(渋沢[1908]10ページ)
 日本精糖を退いた理由:「日露戦役後経済界の
勃興期に際し株主は増資拡張を主張し重役は持
重して肯ぜず両者の間に紛議を生じ重役一同袂
を連ねて辞任し余も亦同社を退き同時に株式を
も売却し茲に全く砂糖業との関係を絶てり蓋し当
時既に消費税海関税等の関係より内地糖業の
前途甚だ望み少しと察したればなり」

(渋沢[1908]10ページ)
台湾粗糖業進出への意思決定
有志団体の「5ヵ条の実行条件」:鈴木藤三郎が
時期尚早であるとして退くきっかけ
①内地・台湾の既存製糖会社との大合同、②精
製糖用原料糖を確保するため台南に工場を新
設、③清国の販路拡張のため同国に工場を新設、
④以上実行のため未払込資本金100万円徴収、
⑤必要に応じ800-1000万円の増資
 新体制となった1906(明治39)年12月28日の
「重要記事」に、「原料採取区域ノ許可ヲ得タル
台湾斗六庁管内ニ原料糖工場ノ設立ヲ出願シタ
ルニ本日台湾総督府ヨリ許可ノ指令ヲ受ケタリ」
 新経営陣による意思決定?
→急進主義のプラス面か?

酒匂社長への渋沢の苦言
「二年間社長として平気な顔で勤続して来た
ものが今此危急に際して辞職しやうと云ふ
のは、船長が船を暗礁に乗せて置いて、
自分だけボートで遁れやうといふのと同じ
事である。今君は会社と生死を共にする
覚悟がなくてはならぬ」
(渋沢[1909]453ページ)
初期制約条件の克服:中国輸出
香港にあるイギリス系の二大精製糖会社(太古
糖局・怡和製糖公司)が強固な地盤
 中国市場へ精製糖が進出できた理由:
輸入原料糖戻税法による低廉な輸入原料糖
 ←1911(明治44)年7月同法が効力を失う
→その趣旨を輸出向け精製糖に限って存続
改正関税法定率法第9条:「輸入原料品ニシテ
命令ヲ以テ指定シタル輸出品ノ製造ニ使用ス
ルモノニハ命令ノ定ムル所ニ依リ輸入税ノ全部
又ハ一部ノ免除又ハ払戻ヲ為スコトヲ得」を精
製糖業に適応
(西

原[1934]62ページ、糖業協会[1962]357-358ページ)
【参考】砂糖の外国への輸出
180,000
160,000
140,000
120,000
100,000
80,000
60,000
40,000
20,000
0
1
8
9
2
1
8
9
3
1
8
9
4
1
8
9
5
1
8
9
6
1
8
9
7
1
8
9
8
1
8
9
9
1
9
0
0
1
9
0
1
1
9
0
2
1
9
0
3
1
9
0
4
1
9
0
5
1
9
0
6
1
9
0
7
外国への輸出(千斤)
(出所)台湾総督府殖産局糖務課『台湾糖業統計』大正5年版、5ページより作成。
1
9
0
8
1
9
0
9
1
9
1
0
1
9
1
1
1
9
1
2
1
9
1
3
1
9
1
4
1
9
1
5
粗糖業に重点を移す

1930(昭和5)年10月株主への声明書:「小
生の新方針としては台湾の粗糖業に力点
を移し、自産自給の国産々業として吾が糖
業の確立に努力すると共に、原料糖の製
造より優秀製品たる精糖の供給に至るま
で糖業の全過程を一貫して均整ある経営
を為すの必要を認め」た。
(西原[1934]185ページ)
【参考】台湾における製糖場および生産能力の推移
新式製糖場
改良糖
在来糖
個数(箇所) 能力(トン) 個数(箇所) 能力(トン) (箇所)
1901
1
300 1,117
1902
1
300 895
1903
1
350 895
1904
2
390 1,029
1905
7
1,326
4
376
1,055
1906
8
1,556
52
3,276
1,100
1907
8
1,556
60
3,896
878
1908
9
2,300
61
3,856
847
1909
16
9,180
40
2,826
582
1910
17
9,870
68
5,700
663
1911
22
17,600
74
5,920
499
1912
30
22,840
50
4,290
212
1913
26
21,330
32
2,560
191
1914
31
24,330
34
2,870
217
1915
33
26,160
34
2,640
216
1916
36
27,360
33
2,500
222
(出所)台湾総督府殖産局糖務課『台湾糖業統計』大正5年版より作成。
【参考】内地(含樺太)における砂糖消費量の推移
2,500,000
30.00
25.00
2,000,000
20.00
1,500,000
15.00
1,000,000
10.00
500,000
5.00
0
0.00
1
9
0
5
1
9
0
6
1
9
0
7
1
9
0
8
1
9
0
9
1
9
1
0
1
9
1
1
1
9
1
2
1
9
1
3
1
9
1
4
1
9
1
5
1
9
1
6
1
9
1
7
1
9
1
8
1
9
1
9
1
9
2
0
砂糖消費量(千斤)
1
9
2
1
1
9
2
2
1
9
2
3
1
9
2
4
1
9
2
5
1
9
2
6
1
9
2
7
1
9
2
8
一人当たり砂糖消費量(斤)
(出所)台湾総督府殖産局糖務課『台湾糖業統計』各年版より作成。
1
9
2
9
1
9
3
0
1
9
3
1
1
9
3
2
1
9
3
3
1
9
3
4
1
9
3
5
1
9
3
6
1
9
3
7
1
9
3
8
1
9
3
9
合併についての認識

合併スタート前の認識:
「大戦後ノ砂糖ノ暴騰カラ、砂糖ノ工場モ沢山出
来マシタケレドモ、其間他ノ工場ヲ合併スル云フ
様ナコトハ、却ツテ自分ノ会社ノ基礎ヲ危クスル
様ナコトニナリハシナイカト思ヒマシテ、多年其志
ヲ持ツテ居リマシタケレドモ、十分ニ其目的ヲ達
スルコトガ出来ナカツタノデアリマス」(「藤山社長ノ
演説(第六拾二回株主総会ニ於テ)」2ページ)

東洋精糖との合併効果:
原料採取区域が「今度ハ広イモノガ一緒ニナツテ
シマフ、鉄道モ便利、運輸モ便利、其他、人モ減
ラシ重役モ減ラス事ガ出来ル、経営上ニ於ケル
有形無形ノ利益ハ大ナルモノガアラウ」( 「藤山社
長ノ演説(第六拾二回株主総会ニ於テ)」10ページ)
合併にいたる背景
雷太時代:金融恐慌→東洋製糖(1927年)、新高
製糖(27年傘下に、35年合併:愛一郎)
 愛一郎時代:統制経済→昭和製糖(39年)、帝国
製糖(40年)、中央製糖(42年)
 画期:新高製糖をなぜ傘下に?
←新高製糖側の経営悪化:
・1926年下期、突如19万9226円の損失
・1927年金融恐慌→糖界も大動揺
→大株主の大倉家:「斯様な四囲の状勢に顧
み、糖業の経営に気乗りせず、その持株を大
日本製糖会社に売渡して糖業から脱退」
(西原[1935]42-43ページ)

堅実主義経営の継承

帝国製糖合併時の愛一郎社長の認識:
「今後私共ガ会社ヲ経営シテ参リマスルト致シマ
スルナラバ、何ガ一番今後ニ於テ必要デアラウ
カト申スコトハ、無論資産ノ内容ガ堅実デアルト
云フコトハ第一デアリマス」 (「藤山社長ノ演説(昭
和十五年十一月二十二日臨時株主総会席上)」4ペー
ジ)
=「私共ノ会社経営ニ対スル根本信念」 (「藤山社長ノ演
説(昭和十五年十一月二十二日臨時株主総会席上)」7
ページ)
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