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小売業者と生活協同組合の対話としての競争 C om p e ti t i o n a s a d ia l o g ue be t w e en r e t a i le r s a n d c on s u m er s c o - op e r a ti v e s ダイエーと灘神戸生活協同組合の事例を中心にして S am p l e c a s es o f D a i ei a n d C o n su m e rs C o- o p er a t i ve N a da - K ob e (要約) 本稿は、昭和30年代に全国的に興隆したスーパーマーケットと地域に根ざした生活協 同組合の競争を通じての相互学習過程の研究である。 神戸市で育ち、日本を代表する総合スーパーとなったダイエーと、同じく日本を代表す る生協となった灘神戸生活協同組合(現コープこうべ)が、競争により互いの事業を進化 させるプロセスを明らかにする。 キーワード:灘神戸生活協同組合、ダイエー、競争、動的相互作用 流 通 科 学 大 学 ( U n i ve r si t y o f M a rk e t in g a nd D is t ri b ut i o n S ci e nc e s ) 商 学 部 非 常 勤 講 師 ( P a rt - t im e L e ct u r er of F a c ul t y o f C o mm e rc e ) 元 岡 俊 一 ( S h u n ic h i M ot o o ka ) 1 Ⅰ.はじめに−理論的な問題提起 競争という概念は、歴史的に見て、どのような意味を持っていたのか。 60年以上前、オーストラリア学派のミーゼスの影響を受け自由主義者となったハイエ ク は 、「 競 争 の 意 味 」 と 題 す る 試 論 で 、 当 時 の 経 済 学 者 た ち の 競 争 に 対 す る 理 解 を 、「 い わ ゆる『完全競争』の理論が現実の生活における競争の有用性を判定するための適切なモデ ルを与えており、かつ現実の競争が『完全競争』から離れる程度に応じて、現実の競争は 望ましくないものであり、有害でさえあるというふうに一般的に思われている」と皮肉っ て い る ( F . H a y e k 1 9 4 9 、 7 7 - 7 8 頁 )。 ハ イ エ ク は 、競 争 の 性 質 に つ い て も 触 れ 、 「 競 争 は そ の 性 質 か ら し て 、静 態 的 分 析 の 基 礎 にある想定によって、本質的特徴が追い払われてしまうような動態的過程である」と持論 を 展 開 し て い る 。 ハ イ エ ク に よ る と 、 競 争 と は 、「 本 質 的 に 意 見 形 成 の 過 程 」 で あ り 、「 人 び と が 、い ろ い ろ な 可 能 性 に つ い て 、現 に 知 っ て い る だ け の こ と を 知 る の は 競 争 の お か げ 」 で あ る ( 同 上 9 8 頁 )。 ハ イ エ ク は 、 「 競 う 」と い う 動 詞 を わ ざ わ ざ 使 っ て 、競 争 に よ っ て 得 られる知識の重要性について示唆しているのである。 ハ イ エ ク の 主 張 を 踏 ま え 、 石 井 等 ( 2 0 0 4 ) は 、 競 争 に は 、「『 構 造 と し て の 競 争 』 と 『 プ ロ セ ス と し て の 競 争 』」の 2 つ の 側 面 が あ る こ と を 明 ら か に し て い る 。石 井 等 に よ る と 、 「構 造としての競争」とは、産業の枠組みを固定的な前提と見なすことで、競争状態と企業の 成 果 や 行 動 の 間 に 一 定 の 関 係 を 見 出 そ う と す る 側 面 で あ る 。一 方 で 、 「プロセスとしての競 争」とは、企業間の競争には新たな情報や知識を生み出す働きがあり、この知識創造のプ ロ セ ス と し て 競 争 を と ら え た も の で あ る( 石 井 淳 蔵・栗 木 契・嶋 口 充 輝・余 田 拓 郎 編 2 0 0 4 、 2 3 5 頁 , 2 9 5 - 2 9 6 頁 )。 こ れ こ そ 、 ハ イ エ ク の い う 競 争 の 「 本 質 的 特 徴 」 で あ ろ う 。 石 井 等 ( 2 0 0 4 ) は 、さ ら に 、 「 プ ロ セ ス と し て の 競 争 」は 事 業 の 定 義 を 磨 き 上 げ る プ ロ セ ス となると指摘している。企業は、他社との競争を通じて、独自の経営資源や能力を新たに 発見していく。そして、この発見を取り込んでいくことで、事業の定義は磨き上げられた り 、 組 み 替 え ら れ た り す る ( 同 上 、 206 頁 ) と い う の で あ る 。 事業の定義を磨き上げる「プロセスとしての競争」を「対話としての競争」と捉える研 究 も あ る 。カ シ オ と シ ャ ー プ の 電 卓 の 製 品 戦 略 を 分 析 し た 沼 上 等 ¹ は 、両 者 間 の 競 争 が 、戦 略策定者の思考の枠組みに、まるで対話をするかのように相互に影響を与えること、そし て 、戦 略 策 定 者 に と っ て 競 争 の も つ 動 的 相 互 作 用 が 有 効 で あ る こ と を 明 ら か に し て い る( 沼 上 幹 ・ 浅 羽 茂 ・ 新 宅 純 二 郎 ・ 網 倉 久 永 1 9 9 8 , 1 1 2 - 1 3 5 頁 )。 本稿は、メーカーの事例で明らかにされた「対話としての競争」という概念が、小売業 の分野では、どのような様相を見せるのか、事例研究を通じて明らかにすることを目的と し て い る 。本 稿 で は 、沼 上 の 研 究 と 同 じ よ う に 、 「 戦 略 策 定 者 た ち が 、競 争 の 過 程 で 、何 を 考 え 、 何 を 発 見 し 、 何 を 学 ん で い っ た の か 」( 同 上 1 9 9 8 ) と い う 点 に 注 目 し て 事 例 を 分 析 したい。 2 Ⅱ.事例の概要−小売業者と生活協同組合の競争 本稿で分析する事例は、地域における小売業者と生活協同組合の競争である。この事例 を 取 り 上 げ た 理 由 は 、戦 後 日 本 の 流 通 近 代 化 の 源 流 に は 、資 本 の 論 理 を 掲 げ る 小 売 業 者 と 、 協 同 の 論 理 を 掲 げ る 生 活 協 同 組 合 ²( 以 下 、生 協 と 略 )と の 互 い の 存 在 意 義 を か け た 競 争 と 学習のプロセスがあったことによる。 その象徴と言えるのが、昭和32年1月23日から3日間、鳥取県米子市で開催された 全 国 小 売 業 経 営 者 会 議 で あ る 。公 開 経 営 指 導 協 会( 1 9 8 1 )の「 日 本 小 売 業 運 動 史( 戦 後 編 )」 によると、主催者は公開経営指導協会の喜多村実であり、全国から350名の小売業経営 者の参加申し込みがあったという。同運動史から当時の状況を要約してみよう。 鳥 取 県 米 子 市 の 西 部 生 協 は 、昭 和 2 6 年 に 専 務 理 事 に 就 任 し た 高 橋 要 三 郎 の 指 導 の 下 で 、 自 己 の 店 舗( 売 場 面 積 1 4 8 5 ㎡ )を 持 ち 本 格 的 店 舗 販 売 に 乗 り 出 し た 。供 給 高 は 昭 和 2 6 年 の2千万円から昭和31年には4億円を超えた。この発展は、地元の小売業、青果食品関 係者に最も大きい影響を与え、同市の商業界では生協対策が大きな課題となった(公開経 営 指 導 協 会 1981、 205-216 頁 ) と い う 。 米子商工会議所は、西部生協の成長要因を、消費者主義を標榜し、常に消費者会議を通 じ て 消 費 者 の 意 向 を 取 り 入 れ 、 良 品 廉 価 を 徹 底 し て い る 点 に あ る と 分 析 し た ( 同 上 、 211 頁 )。当 時 の 小 売 業 者 に と っ て 、の ち の ス ー パ ー チ ェ ー ン の 経 営 戦 略 を 先 取 り し た か の よ う な 西 部 生 協 の 経 営 は 大 き な 刺 激 と な っ た ( 同 上 、 2 3 4 頁 )。 会 議 の 2 日 目 に は 、 九 州 の 小 倉 市 で 丸 和 フ ー ド セ ン タ ー ( 売 場 面 積 396 ㎡ ) を 営 む 吉 田 日出男が、セルフサービス方式を取り入れ省力化し、高い販売効率を上げ、スーパーマー ケット経営を成功させたことを淡々と語った。米子市の生々しい現実を痛いほど見せつけ ら れ た 後 だ け に 、 吉 田 の 話 は 全 国 の 小 売 業 経 営 者 を 興 奮 さ せ た ( 同 上 、 244 頁 ) と い う 。 この生協対策会議を契機として、皮肉なことだが西部生協内部の政治闘争で高橋専務理 事は解任され革新的生協経営の芽のひとつは消えた。一方、小売業者の側では、丸和フー ド セ ン タ ー の 吉 田 の 指 導 を 受 け な が ら 先 進 的 な 小 売 業 経 営 者 た ち が「 主 婦 の 店 」³ と い う 名 の ス ー パ ー マ ー ケ ッ ト を 大 垣 ( 岐 阜 県 )、 三 沢 ( 青 森 県 )、 小 倉 ( 福 岡 県 ) を 初 め 各 地 に 展 開 し て い っ た 。そ れ は 、ま る で 運 動 の よ う に 拡 が っ て い っ た( 同 上 、2 4 4 - 2 4 5 頁 )と い う 。 ダイエー創業者である中内功も、吉田の承諾を得て「主婦の店ダイエー」の 1 号店を、 昭 和 3 2 年 9 月 、大 阪 の 京 阪 電 車・千 林 駅 前 に 開 店 し た( 流 通 科 学 大 学 2 0 0 6 、1 2 0 - 1 2 2 頁 )。 本稿の目的は、このような昭和30年代初頭のスーパーマーケットの興隆が地域の生協 にどのような影響を与え、逆に生協の進化がスーパーマーケットにどのような影響を与え た か 、両 者 間 の 競 争 を 通 じ て の 対 話 の 様 相 に よ る 動 的 相 互 作 用 を 明 ら か に す る こ と で あ る 。 研究地域として神戸市を選んだ。その理由の第1は、奇しくも神戸市から日本のスーパ ー 業 界 を 代 表 す る ダ イ エ ー と い う 企 業 と 、日 本 の 生 活 協 同 組 合 を 代 表 す る 灘 神 戸 生 協 ( 現 コ ー プ こ う べ )⁴ と い う 組 合 が 生 ま れ た こ と か ら で あ る 。第 2 に 、そ れ が た ん な る 偶 然 と い う 3 だけでなく、両者は互いに直接の競争相手として強く意識し合い、そして互いの個性を磨 いていった経緯があったからである。 研究期間は昭和30年代前半から昭和40年代半ばとした。この期間が、両者の事業が 劇的に進展する時期にあたっているからである。昭和33年12月、主婦の店ダイエーが 神戸市三宮に2号店を開店した。ここから、両者の競争の幕は切って落とされた。この店 の安売りは、灘神戸生協に、どのような影響を与えたのか。また、昭和42年には神戸市 住吉において両者が直接対決し、さらに昭和45年にはダイエーが神戸市に小型店を重点 的に展開することになるのだが、この時、両組織の戦略策定者は、どういう思惑の下に、 どういう行動をとったのか。それらの状況を、両組織の組合史や社史の他に、機関紙や社 内報などの内部資料を使って詳しく描いた上で、両組織の戦略策定者が、競争から何を学 習したのかを明らかにしていきたい。 Ⅲ .事 例 の 分 析 − ダ イ エ ー の 神 戸 市 三 宮 へ の 進 出 と 灘 神 戸 生 協 の 対 応 1.神戸市三宮にダイエー進出 ダイエーの中内は、昭和32年9月、大阪の京阪電車・千林駅前に、主婦の店ダイエー の1号店を開店した。29坪の小さな店である。取扱商品は、薬・化粧品が主体であり、 それらの商品を定価の2∼3割引で販売していた。当初、順調だった売上は3軒隣の京阪 薬品との競争により激減したが、苦しい時に始めたバラ菓子の計り売りが大当たりして店 は 勢 い を 取 り 戻 し た ( ダ イ エ ー 社 史 編 纂 室 1 9 9 2 、 1 5 - 2 1 頁 )。 ダ イ エ ー は 、そ の 勢 い を か っ て 、翌 昭 和 3 3 年 1 2 月 に 2 号 店 を 神 戸 市 三 宮 に 開 店 し た 。 店の広さと取扱商品は1号店と大差はなかった。店は通称ジャンジャン横丁と呼ばれる盛 り場にあり、あまり女性が近寄れるような場所ではなかった。しかし、日中は安さを求め る主婦が詰めかけた。商品は売れに売れたが、この店は手狭だったため閉鎖し、翌昭和3 4年4月、京町筋に店を移転した。新しい店の売場面積は330㎡である(ダイエー社史 編 纂 室 1 9 9 2 、 2 4 - 3 0 頁 )。 この店は、昭和34年4月26日の神戸新聞に写真入りで紹介された。 記事の見出しは、 「 セ ン タ ー 街 の ド 真 中 で 、実 用 品 の ダ ン ピ ン グ 、ス ー パ ー マ ー ケ ッ ト 進 出」と物々しい。記事の中にダイエー側のコメントが掲載されている。その内容は「スー パーマーケットは全部セルフサービスなので人件費が削減でき、値段も市価より3割ぐら い安くなる。神戸を中心に加古川から尼崎までの客を対象にする。値段を安く、よい品を 提供することは商人の使命なので、自信をもってスーパーマーケット方式を進めていく」 ( 神 戸 新 聞 1959. 4.26) と 力 強 い 。 「 ダ イ エ ー グ ル ー プ 年 表 」に よ る と 、こ の 店 か ら 衣 料 品 や 日 用 品 の 取 り 扱 い が 始 ま っ た 。 同年6月には売場が拡大され、牛肉の取り扱いも始まった。ダイエーは、この後、昭和3 4年∼36年にかけて、三宮で2号店の面積を拡大し、3号店を新たに開店した。それで 4 も、消費ブームに沸く消費者の需要に応じきれず、昭和38年7月には、地下1階地上7 階のダイエービルを建てた。売場面積は5600㎡を超えた。この店は、SSDDS(セ ルフサービス・ディスカウント・デパートメントストア)と呼ばれ、食料品、衣料品、電 気 器 具 ・ 日 用 雑 貨 を 揃 え た 総 合 ス ー パ ー と な っ た ( 流 通 科 学 大 学 2 0 0 3 、 1 - 1 0 頁 )。 中内は、 「 売 れ る も の は 何 で も 売 っ て い こ う と い う ス ク ラ ン ブ ル ド・ マ ー チ ャ ン ダ イ ジ ン グ ⁵」 ( ダ イ エ ー 資 料 1964、10 頁 )で 、三 宮 に お い て 店 舗 数 、 店 舗 面 積 を 拡 大 し 、取 扱 商 品 を次々に増やし、SSDDSをつくりあげた。それが大成功し、そのモデルをもって全国 展開し、昭和47年には三越百貨店を抜き日本一の小売業売上高を達成することになる。 2.灘神戸生協の対応 安売りを武器に三宮に華々しくデビューしたダイエーを、灘神戸生協の人々は、どう見 ていたのか。昭和21年に入所し、のちに8代目の組合長として生協の変革に取り組んだ 高村勣は、 「 小 売 業 界 の 変 化 が 活 発 化 し て 流 通 革 命 だ と 肌 で 感 じ た の は 、昭 和 3 3 年 に ダ イ エ ー 三 宮 店 が 開 い た 時 だ 」 と 当 時 を 振 り 返 っ て い る ( 長 門 毅 1 9 9 1 、 1 0 1 頁 )。 高村は生協の構造的な問題についても触れている。 「 当 時 は 、供 給 高 の 約 8 割 を 支 部( ご 用聞きの拠点)が占めていて、店は支部に付属するものだった。しかし、ご用聞きには限 界も見えていた。家庭係1人当たりの供給高は約40万円で、セルフサービス店の60万 円に比べると効率も悪く、経費もかかる。マンパワーに頼る御用聞き制度だけでは限界も 見 え て い た し 、 ス ー パ ー に は 対 抗 で き な い と 考 え 始 め て い た 」 と ( 長 門 1 9 9 1 、 1 0 0 頁 )。 高村のような専従の従業員だけではなく、出資者である組合員の代表である総代も年 1 回の総代会で意見を言う。昭和34年5月17日、第10回総代会の席上、総代の1人が 手を上げ、ダイエーに対する意見を述べた。 「ダイエーは、えらく安い。利潤を排して組合員に品物を提供する生協の品が、どうし て ダ イ エ ー よ り 高 い の か 」。何 人 か の 総 代 が 、続 い て 同 じ よ う な 発 言 を し 、生 協 の 姿 勢 を 責 め た ( 灘 神 戸 生 活 協 同 組 合 ・ 毎 日 新 聞 社 神 戸 支 局 1981、 19 頁 ) と い う 。 総 代 の 発 言 を 受 け て 、当 時 の ト ッ プ で あ る 田 中 俊 介 組 合 長 は 、総 代 会 に お い て 、 「組合独 自の生協学校において、精神教育と並んで、スーパーマーケット、セルフサービスの技術 も 研 究 を 重 ね て い く 」( 灘 生 協 資 料 1 9 5 9 、 1 頁 ) と 強 調 し た 。 田中は、総代会の1ヵ月前の同年5月、先手を打って、スーパーマーケット、セルフサ ービスの技術を研究するために店舗経営部という組織を新設し、春木明弘を部長に、高村 勣 を 部 長 代 理 に 任 命 し て い た ( 灘 神 戸 生 活 協 同 組 合 ・ 毎 日 新 聞 社 神 戸 支 局 1 9 8 1 、 1 9 頁 )。 幹部教育だけでなく組合員の意識改革も必要である。翌昭和35年の総代会で、田中組 合長は、 「 小 売 業 界 は 激 烈 な 競 争 の 渦 の 中 に あ り 、そ の 渦 か ら 組 合 も 逃 れ る こ と は で き な い 。 スーパーマーケット等の近代経営も続出している。その間にあって経営をどう進めていく か は 当 面 の 問 題 で あ る 」( 灘 生 協 資 料 1 9 6 0 、 1 頁 ) と い う 厳 し い 現 状 認 識 を 示 し た 。 5 同年、この意識改革を後押しするかのように、高村が、情報収集による研究の成果を、 日 本 生 協 連 合 会 ⁶の 第 3 回 生 協 学 校 ゼ ミ ナ ー ル で 報 告 し て い る 。 そ の 報 告 の 中 で 、 高 村 は 、 「今日の課題であるスーパーマーケットに対する本格的な対策は、自らスーパーマーケッ ト 以 上 の 高 性 能 店 舗 を 持 つ こ と で あ る 」( 高 村 勣 1 9 9 3 、 3 3 6 頁 ) と 強 調 し て い る 。 機 は 熟 し 、翌 昭 和 3 6 年 は 、大 変 革 の 年 と な っ た 。田 中 組 合 長 は こ の 年 の 総 代 会 で 、 「ご 用聞き一辺倒の供給事業ではなくて、組合員の要求と従業員の労務面を考慮して、店舗に おいては新様式のスーパーマーケット方式を採用し、それによって、スーパーマーケット による店舗での廉価販売と、家庭係による行き届いたサービス(ご用聞き)の両者を併用 し 、 独 自 の 態 勢 を 取 り た い 」( 灘 生 協 資 料 1 9 6 1 、 1 頁 ) と 発 言 し た 。 灘 神 戸 生 協 の「 組 合 史 」に よ れ ば 、昭 和 3 6 年 2 月 に 芦 屋 フ ー ド セ ン タ ー が 大 改 造 さ れ 、 第 1 号 の く み あ い マ ー ケ ッ ト が 開 店 し た 。 同 年 5 月 、 住 吉 の 本 部 会 館 1 ・ 2 階 ( 1013 ㎡ ) が く み あ い マ ー ケ ッ ト と し て 開 店 し た 。 入 口 と 出 口 に 自 動 ド ア を と り つ け 、「 く み あ い マ ー ケ ッ ト 」と い う 独 特 の 書 体 の 看 板 も つ け た( 灘 神 戸 生 活 協 同 組 合 1 9 7 1 、8 0 頁 )と い う 。 店 舗 経 営 部 の 春 木 部 長 は 、 く み あ い マ ー ケ ッ ト の 店 づ く り は 、「 生 協 ら し い 店 の 完 成 を 目 標 」( 灘 神 戸 生 協 資 料 1 9 6 2 、 1 頁 ) と し て 行 わ れ た と 語 っ て い る 。 春 木 の い う 生 協 ら し い 店 と は 、「 労 力 が 多 く 、 収 益 の 少 な い 生 鮮 食 品 は 取 り 扱 わ な か っ た り 、そ の 数 を 少 な く し て 、特 定 の 有 名 品 を 原 価 販 売 し た り し て 消 費 者 の 目 を ご ま か し て 、 収 益 性 の 多 い 家 庭 器 具 と か 、 衣 料 品 、 装 飾 品 と か に 力 を 入 れ て い る 店 で は な い 」( 灘 神 戸 生 協 資 料 1 9 6 2 、 1 頁 )。「 生 鮮 食 品 を 中 心 と し た 生 活 必 需 品 を 、 い い も の を あ く ま で も 安 く ということを追求していく」 ( 灘 神 戸 生 協 資 料 1 9 6 3 、2 頁 )店 を つ く ろ う と い う の で あ る 。 こ の よ う な 店 づ く り の 考 え 方 を 基 に 、チ ェ ー ン 化 が 急 ピ ッ チ で 進 め ら れ た 。昭 和 3 7 年 に 山 手 セ ン タ ー 、岡 本 店 、甲 子 園 口 店 、高 丸 店 が 開 店 し た 。昭 和 3 8 年 に は 、西 宮 北 口 店 、 仁 川 店 、 新 芦 屋 店 ( 1 2 2 2 ㎡ )、 昭 和 3 9 年 に は 夙 川 店 、 青 谷 店 、 塩 屋 店 、 六 甲 店 、 昭 和 4 0 年 に は 伊 丹 店 、須 磨 店 が 開 店 し た 。5 年 で く み あ い マ ー ケ ッ ト は 1 5 店 舗 に 増 加 し 、支 部 は 2 1 カ 所 と な っ た 。( 灘 神 戸 生 協 資 料 1 9 6 5 、 3 頁 )。 このような急ピッチな出店に対して、内部で反対意見はなかったのか。 高村が、当時の内部事情を、次のように語っている。 「支部と店舗の間でいろいろ対立がありました。陸軍と海軍と言われた」 「店舗というのは採算的によくなかったから、つくればつくるほどリスクはあった。従 来の支部体制のままなら安定した経営を続けられるのに、なんでそういうリスクとるのか と い う 声 が 内 部 に も あ っ た 」 (高 村 1984、 182 頁 ) と 。 支 部 と 店 の 一 番 の 対 立 点 は 、価 格 の 差 で あ る 。 春 木 は 、 「 セ ル フ サ ー ビ ス の 店 で は 、自 分 で店へ来て、自分で商品を選んで、勘定して、もって変えるのが原則である。店ではスー パーや市場に負けない価格を打ち出している。支部の場合は、買物に不便な所へでも、ご 用聞きに伺って、商品を届ける。当然、価格は違うべきである。ところが、同じ生協であ 6 りながら、なぜ店舗と支部で値段が違うのかというお叱言が組合員から出た。支部の方か らも、あまり安く売ってもらっては困るという抵抗があった。最初は、お客さんの取り合 い も あ っ た 」( 灘 神 戸 生 協 資 料 1 9 6 3 、 2 頁 ) と 。 支部と店の内部対立は激しかったが、幸いだったのは支部と店の両方の供給高が伸びた こ と だ 。春 木 は 、 「 芦 屋 に し て も 住 吉 に し て も 、 ど こ を と っ て も 、く み あ い マ ー ケ ッ ト が で きた支部の供給高もけっして減っていない。立派なスーパーができたことで、生協への信 頼が高まり、それが支部の供給活動にも反映してきている。くみあいマーケットと支部は け っ し て 競 合 関 係 に は な い 」(灘 神 戸 生 協 資 料 1963、 2 頁 )と 語 っ て い る 。 組織内部での力関係は別にして、数字で見る限り支部と店舗の供給高は昭和40年に初 めて逆転した。供給高116億円の内、くみあいマーケットの供給高が57%、支部(ご 用 聞 き ) が 4 7 % ( 灘 神 戸 生 活 協 同 組 合 1971、 146 頁 ) と な っ た の で あ る 。 伸 張 の 著 し い 、く み あ い マ ー ケ ッ ト だ が 、実 際 の 店 づ く り は 、ど の よ う に 行 わ れ て い た の だ ろ う 。小 売 業 者 が 経 営 す る ス ー パ ー マ ー ケ ッ ト と 最 も 違 う 点 は 、出 資 者 で あ る 組 合 員 の 意 見 が 反 映 さ れ る 点 で あ る 。 春 木 は 、「 く み あ い マ ー ケ ッ ト は 組 合 員 の 手 に よ っ て 運 営 さ れ る こ と が 最 も 願 わ し い こ と で あ り 、利 用 組 合 員 の 中 よ り 店 舗 協 力 懇 談 会 を 開 い て い る ので組合員の声が忠実に経営に反映されていく」 ( 灘 生 協 資 料 1 9 6 1 、1 頁 )と 語 っ て い る 。 店舗経営部課長の高村は住吉店店長を兼務しており、住吉店を実験店にして、閉店後に 店 の 従 業 員 を 集 め 勉 強 会 を 始 め た ( 高 村 1984、 92-93 頁 ) と い う 。 そ れ は 「 高 村 学 校 」 と 呼ばれ、そこでは、組合員であるお客様を先生にして、来る日も来る日も、くみあいマー ケットのあり方について学習が続けられた。 「この店は私たちの店」を合言葉に、専従の職員と買物にくる組合員とが一体となって 働く。小売業者の経営するスーパーマーケットとは、店づくりに対する切実感が違う。組 合員から、 「自分たちの生活の砦ができた」 「この店をもっとよい店に育てていこう」 (灘生 協 資 料 1961、 1 頁 ) と い う 声 が 出 て く る の は 生 協 な ら で は と 思 わ れ る 。 3.ダイエーと灘神戸生協の直接対決 昭和42年4月27日、灘神戸生協の本拠地である神戸市灘区に、ダイエー住吉店が開 店した。灘神戸生協の店舗とは駅をはさみ400mの距離である。住吉店はダイエーにと っ て は 2 5 店 目 の 店 で 、兵 庫 県 下 で は 1 0 店 目 の 店 で あ る( 流 通 科 学 大 学 2 0 0 3 、1 - 1 0 頁 )。 ダイエーの「社内報」によると、商品構成は、食料品、日用品、化粧品、薬品、衣料品 (肌着のみ)である。開店当初は、灘生協、市場が定休日だったこともあり、開店を待つ 行 列 は 3 0 0 0 名 ぐ ら い だ っ た ( ダ イ エ ー 資 料 1967-① 、 27 頁 ) と い う 。 当時、店の前に20数台が入る駐車場があるのは住吉店だけであった。土曜日・日曜日 には350台の車客がある。買物金額は3000円を越すこともざらにあり、レシートの 長 さ が 3 0 ㎝ く ら い の も の も し ば し ば あ っ た ( ダ イ エ ー 資 料 1967-② 、 60 頁 ) と い う 。 7 ダイエー住吉店については、 「 1 4 8 5 ㎡ を 売 場 に あ て て い る( 灘 神 戸 生 協 の 住 吉 店 の 約 1 . 5 倍 )」「 チ ラ シ 宣 伝 の み で ハ デ な 宣 伝 は せ ず 静 か な 商 戦 を 続 け て お り 、 開 店 1 ヵ 月 の 営業成績は、日商で300万円強、月商 1 億円と、予想以上の成果をあげ、今後も大いに 期 待 さ れ て い る 」( ス ー パ ー マ ー ケ ッ ト 速 報 1 9 6 7 . 6 . 3 ) と い う 報 道 が 残 っ て い る 。 では、ダイエーを迎え撃つ灘神戸生協の反応はどうだったのか。 灘 神 戸 生 協 の「 7 0 年 史 」に は 、 「灘神戸生協と互角に戦えれば全国制覇が可能だとの意 気 込 み で ダ イ エ ー が 乗 り 込 ん で く る 」 「 灘 神 戸 生 協 に と っ て は 、初 め て の 本 格 的 競 合 で あ り、前代未聞の危機だとダイエー進出を受け止めた。店と店のエリア競争という次元を超 えた激烈な企業間競争になるだろうとの緊迫した空気が流れた」 (生活協同組合コープこう べ 1991、 111 頁 ) と あ る 。 生協側からはダイエー以上の危機感が伝わってくる。昭和41年の組織変更で九州、関 東 、阪 神 と い う 3 地 区 本 部 制 を 敷 い て( ダ イ エ ー 資 料 1 9 6 6 、5 0 頁 )全 国 へ の 出 店 体 制 を 整 え た ダ イ エ ー と 、「 都 道 府 県 の 区 域 を 越 え て 、 こ れ を 設 立 す る こ と が で き な い 」( 生 協 法 第 5条)という制約を受ける灘神戸生協との競争に対する認識の違いが伺える。 灘神戸生協「70年史」から当時の状況を要約してみよう。生協側は、ダイエーの開店 情報を1年前の夏につかんだ。そして、安売りで攻めてくると予想されるダイエーに対し て、生鮮食料品の強さを武器にして肉と野菜で勝とうという戦略を立てた(生活協同組合 コ ー プ こ う べ 1 9 9 1 、 1 1 2 頁 )。 当時の住吉店の野菜主任として活躍した青瀬剛は、従来、野菜を神戸卸売市場から仕入 れていたが、これではダイエーに勝てないと判断し、品質も量も確保できる西宮市場から も 仕 入 れ 、新 鮮 な 野 菜 を 店 頭 に 並 べ 青 空 市 を や っ た( 同 上 、1 1 2 - 1 1 3 頁 )。こ れ が 当 た っ た 。 生協側は、緒戦に勝利した、という。1週間で勝負はついた。鮮度でも、価格でも、勝 っているという実感が漂い始めたというのである。田中組合長も、両店を見回り、その賑 わいぶりの差を目の当たりにして、 「 あ の 物 静 か な 組 合 長 が 上 機 嫌 だ っ た 」と い う エ ピ ソ ー ド を 残 し て い る ( 同 上 、 1 1 4 頁 )。 数値面では、灘神戸生協の住吉店は、ダイエーの開店当初の数日間以外はほとんど影響 を受けず、1年後も従来通りの伸び率で成績をあげた。ご用聞きを担当する住吉支部も、 組合員意識を高めるために率先して組合員宅を訪問し、商品構成も重量品(米・油・味噌 等 ) を 主 力 に し て 供 給 高 を 伸 ば し た ( 灘 神 戸 生 活 協 同 組 合 1971、 172 頁 ) と い う 。 生協側は、緒戦の勝因を組合員密着という強力な武器によるものと分析している。台所 を覗き、冷蔵庫の扉を開け、組合員の生活を熟知しているから、なぜ、この商品を売るの か、はっきりした理由をもって仕入れることができる。勝因は、ご用聞き、家庭係という 灘 神 戸 生 協 の 財 産 の お か げ と 結 論 づ け て い る ( 生 活 協 同 組 合 コ ー プ こ う べ 1 9 9 1 、 1 1 4 頁 )。 昭和44年上半期にダイエーは組織を変更した。店舗を管轄する東部地区本部、中央地 区 本 部 、西 部 地 区 本 部 の 3 本 部 に 加 え 小 型 店 運 営 部 が 新 設 さ れ た( ダ イ エ ー 資 料 1 9 6 9 - ① )。 8 こ れ ま で は 、 点 作 戦 で 大 型 化 ⁷の 傾 向 が 強 く 打 ち 出 さ れ た 戦 略 を 進 め て き た ( ダ イ エ ー 1 9 7 0 . 3 . 2 8 )が 、組 織 変 更 を 機 に 、昭 和 4 8 年 ご ろ に 予 想 さ れ る 本 格 的 ス ー パ ー 競 合 時 代 に そなえるために、地域占拠率を高めることを目的として、じゅうたん爆撃のように小型店 を 数 多 く 設 け る こ と に 踏 み 切 っ た ( ダ イ エ ー 資 料 1 9 6 9 - ② 、 6 頁 )。 この小型店運営部の下で、小型店のモデル店として、昭和45年2月に芦屋店(売場面 積 1 3 2 0 ㎡ 、 年 商 目 標 7 億 8 千 万 円 ) が 開 店 し た 。 中 内 は 、 同 年 3 月 、「 社 長 ブ リ テ ィ ン 」 という管理職向けの社内報で、 「 食 料 品 を 中 心 と し て 、生 活 必 需 品 的 な 商 品 を 揃 え る 。半 径 5 0 0 ∼ 8 0 0 m の 商 圏 で 、月 商 7 0 0 0 万 円 を 目 標 と す る 」と 述 べ 、 「 芦 屋 店 は 、限 ら れ た商圏の中で限られた顧客を対象にすることから、最も正確な お客様 を具体的に把握 で き る は ず で あ る 」( ダ イ エ ー 資 料 1 9 7 0 . 3 . 2 8 ) と 期 待 を 述 べ て い る 。 と こ ろ が 、 期 待 ど お り に は な ら な か っ た 。中 内 は 、オ ー プ ン 時 に 店 巡 回 を し て 、 「見るべ き顕著な改善の跡は見ることができなかった。今後の店の諸君、スーパーバイザー、本部 ス タ ッ フ の 諸 君 の 活 躍 に 期 待 し た い 」 と 社 内 報 を 結 ん で い る ( 同 上 )。 芦屋店以降も、昭和45年中に、兵庫県下に西大島店、本山店、北鳴尾店、小林店とい う小型店が出店された。中内は、翌昭和46年、ダイエー小林店と、隣の灘神戸生協の店 を 見 比 べ て 、前 述 の「 社 長 ブ リ テ ィ ン 」の 中 で「 灘 神 戸 生 協 に 軍 配 」を 上 げ て い る( 同 上 )。 中 内 は 、ダ イ エ ー の 店 に 対 し て は 、 「 デ ィ ス プ レ イ に 改 善 の あ と が 見 ら れ る が 、一 番 大 切 な 消 費 者 、お 客 様 に 対 す る 愛 情 の 欠 如 が 感 じ ら れ る 」 「 省 力 化 は 大 事 だ が 、そ の 意 味 が 取 り 違えられると消費者不在の冷たい店となり、ひいては地域から阻害される」と手厳しい。 生協に対しては、 「 さ す が う ま い と 思 わ れ る 所 を 数 々 発 見 で き る 。1 階 で は 、漬 物 の ア イ テム数、豆腐の売り方、軟弱蔬菜の扱い方等、2階では小型店における衣料品の扱い方、 3 階 は 日 曜 大 工 品 の 充 実 」( ダ イ エ ー 資 料 1 9 7 1 . 6 . 2 2 ) と 褒 め て い る 。 そ し て 、最 後 に 、 「地域の消費者の家庭にまで入りこんでいる生協としての商品選択のう まさを見習うべきである。個々の商品では、ダイエーの方が数段すぐれているが、そのコ ーディネーションのうまさ、生活を感じさせる陳列、レイアウトについては、生協に軍配 を あ げ ざ る を 得 な い 」 と 結 論 づ け て い る ( 同 上 )。 「店頭第一線の情報を迅速にフィードバックさせよ」と題するこの社内報で、中内は、 敗因として「物の流れ」に先立つ「情報の流れ」が認識されていないと指摘している。店 頭第一線における消費大衆の声、 「 ニ ー ズ 」を 商 品 化 す る た め に は 、店 頭 で の 消 費 者 と の 接 点、つまり、情報のフィードバック装置の点検が必要だ(同上)というのである。 Ⅳ.結論−事例の解釈と示唆 1.灘神戸生協が学んだこと 本稿では、 「 対 話 と し て の 競 争 」と い う 視 点 に 立 っ て 、昭 和 3 3 年 か ら 昭 和 4 6 年 ま で の ダイエーと灘神戸生協との競争を整理分析してきた。両者の競争は、組織に自己革新の動 9 機を与え、学習の機会を創出し、事業の定義を磨き上げさせた。これらの作用は競争をし かけられた灘神戸生協の側に特に顕著に現れているように思える。 第1に、自己革新という面では、灘神戸生協の田中俊介や高村勣は、昭和33年12月 のダイエーの神戸市三宮への出現を、うまく活用したと言えよう。総代会での組合員の発 言にあったように、ダイエーの安さに対する脅威が動機となって、昭和33年から36年 にかけて、一気に灘神戸生協の自己革新が進んだ。 田中俊介組合長や高村勣などの戦略策定者は、情報収集を通じて「スーパーマーケット への本格的対策は、自分たちがスーパーマーケット以上の高性能な店になるしかない」と いう将来方向を明確に打ち出した。問題は、いつ、その方向に組織を動かすかである。生 協内部では既存の支部(ご用聞きの拠点)が圧倒的な力を持っていた。スーパーマーケッ トは資本主義の手先で、その真似をして店舗販売に乗り出すのはもっての他というイデオ ロギー論争もあった。内部の敵や論争に歯止めをかけ、自己革新を進めるには外敵が必要 だった。強烈な安売りを武器にするダイエーが三宮に出現したことは、灘神戸生協に自己 革新の動機を与えたのである。 第2に、学習の機会の創出という面では、店づくりで、ダイエーは灘神戸生協にとって 良き反面教師となった。灘神戸生協は、昭和30年代、ダイエーのように取扱品目をどん どん拡大するのではなく、 「 く み あ い マ ー ケ ッ ト 」と い う こ だ わ り の あ る 名 の 下 で「 生 協 ら し い 店 の 完 成 を 目 標 」 と し た 。そ れ は 、組 合 の 機 関 紙 に 指 摘 さ れ た よ う に 、 「収益性の多い 家 庭 器 具 と か 、衣 料 品 、装 飾 品 に 力 を 入 れ て い る 店 」で は な く 、 「生鮮食品を中心とした生 活必需品、いいものをあくまで安くということを追求する店」なのである。 昭 和 4 4 年 度 の 商 品 構 成 比 を 見 る と 、灘 神 戸 生 協 は「 食 品 6 3 .7 % 、非 食 品 3 6 .2 % 」 ( 灘 神 戸 生 活 協 同 組 合 1971、 278 頁 ) で あ る の に 対 し 、 ダ イ エ ー は 「 食 品 4 3 . 0 % 、 衣 料 品 が 2 7 . 7 % 、 電 器 ・ 日 用 雑 貨 2 9 . 2 % 」( ダ イ エ ー 資 料 1 9 7 0 - ② 、 1 0 2 頁 ) と な っ て い る 。灘 神 戸 生 協 の 店 舗 も 1 0 0 0 ㎡ 程 度( 昭 和 36 年 ・ 住 吉 店 )か ら 2 5 0 0 ㎡( 昭 和 44 年 ・ 武 庫 之 荘 店 ) と 拡 大 し た が 、 品 揃 え と し て は 食 料 品 を 重 視 し て い る こ と が わ か る 。 食料品重視という面では、灘神戸生協は昭和42年5月に無漂白パンの製造を始め、1 0月に小規模だが商品検査室(20㎡)を設置した。これは、安全な商品づくりという時 代 の 流 れ を 先 取 り し た 意 思 決 定 と 言 え よ う ( 灘 神 戸 生 協 1 9 7 1 、 3 2 2 - 3 2 3 頁 )。 ダイエーとの直接対決は、灘神戸生協が自らの競争の武器を確認する学習の機会ともな った。生協側の分析によると、ダイエー戦での勝因は、安さだけではなく、組合員密着の 店づくりという点にあったとされる。組合員の情報をつかみ、その情報を品揃えや生活を 感じさせる店づくりに活かすという地道な活動がダイエーに対する勝因となったというの で あ る 。同 じ こ と を 競 争 相 手 の 中 内 自 身 が 自 社 の 社 内 報 で 指 摘 し 、 「 消 費 者 と の 接 点 」の 弱 さに関して管理職に警鐘を鳴らしているのは興味深い点である。 第3に、事業の定義を磨き上げるという面では、家庭係によるご用聞きと、くみあいマ 10 ーケットによる店舗販売の併存を実現できたことが、灘神戸生協の事業の定義を進化させ た。従来、灘神戸生協は、組合員相手にご用聞きをする閉鎖的な存在であった。しかし、 昭和36年にくみあいマーケットを開店してからは、店舗自体が媒体として一般消費者を 店舗にひきつ け組合員 化すると いう開放的 存在 になった。昭 和44年 5 月に開 店した園 田 店では開店と同時に店頭で新加入を呼びかけた所、約3000千人が組合員となり、宝塚 店 の 場 合 は 約 1 5 0 0 人 が 組 合 員 と な っ た ( 灘 神 戸 生 協 資 料 1 9 6 9 、 1 頁 )。 店 舗 展 開 を 始 めた昭和36年度から10年間の変化を見ると、組合員数は約 5 倍の21万人に、供給高 は 約 1 3 倍 の 3 9 7 億 円 に 増 え て い る ( 灘 神 戸 生 活 協 同 組 合 1 9 7 1 、 2 7 5 , 2 7 7 頁 )。 高 村 は 、 生 協 の 新 し い 事 業 の 定 義 を 、「 排 除 よ り 参 加 を 」 と い う 随 筆 で 示 し て い る 。 「生協は消費者であれば何の制約もなしにだれでも自由に加入できるオープンな組織で す。今日、灘神戸生協にとって非組合員の利用をきびしく排除することが重要なことでは なく、このくらしを守る組織に1人でも多くの参加をお願いして、より大きな連帯と団結 の 力 で 消 費 者 の 主 張 と 自 衛 力 を 強 め て い く こ と で す 。・・・生 協 の 人は 1 人のために 1 人 は 万 人 の た め に 、万 と い う 仕 組 み の 尊 さ を 再 確 認 し て 、組 合 員 増 加 に 取 り 組 ん で い き た い 」 ( 高 村 1984、 110-111 頁 ) と 。 この考え方は、ダイエー側からは員外利用を禁止した生協法違反であると厳しい指摘を 受けそうだが、不特定多数の消費者を組合員化していくという生協の先進性を、ダイエー 側も固定客化の推進という観点から謙虚に学ぶべきであったと思われる。 2.ダイエーが学んだこと 一方で、ダイエーの中内功は、生協との競争から、どんな影響を受けたのか。 第1は、出店戦略への影響である。ダイエーに小型店チェーン化の実験を始める動機を 与えたのは、資料的証拠は見つからないのだが、昭和42年の住吉での灘神戸生協との直 接対決であることは間違いないように思われる。 ダイエーは昭和36年から昭和40年代前半に、福岡天神を拠点として瀬戸内圏に、ま るでネックレスをかけたように大型店を出店したり、神戸市三宮を拠点とした京阪神圏で 大型店の拠点づくりを進めた。それに対し、灘神戸生協は昭和36年から40年までの5 年間に、芦屋、住吉をベースとした阪神間に15店を展開し足元を固めた。 この間、ダイエーには売れるものは何でも売るというスクランブルド・マーチャンダイ ジングをベースにした大型店づくりのノーハウは蓄積された。しかし、昭和42年の住吉 での直接対決に関して「灘神戸生協50年史」に「Dスーパーのなぐりこみに対抗し勝利 した」 ( 灘 神 戸 生 活 協 同 組 合 1 9 7 1 、1 7 1 頁 )と い う 表 現 が 残 さ れ て い る よ う に 、 ダ イ エ ー に は灘神戸生協に打ち勝てる地域密着型の小型店づくりのノーハウは蓄積されていなかった。 このノーハウを蓄積するために、ダイエーは、昭和44年に小型店運営部を新設した。 当時の神戸新聞に「ダイエー阪神間に出店増やす」という記事が出ている。その中で、 11 「灘神戸生協は、神戸東部から尼崎までの阪神間に21支部、22店を配置し、240億 円の供給高の8割を、この阪神間であげている。一方、ダイエーの阪神間の店舗は、灘、 野寄、住吉、尼崎、宝塚の5店で、売上高は100億円に満たない」という状況が説明さ れ、 「 わ れ わ れ の 優 位 は び く と も し な い 」と い う 当 時 の 次 家 幸 徳 組 合 長 の コ メ ン ト も 載 せ ら れ て い る ( 神 戸 新 聞 1 9 6 9 . 9 . 1 6 )。 ダイエーの劣勢は明らかである。中内は、昭和45年に芦屋店、西大島店、本山店、北 鳴尾店、小林店と阪神間に5店を集中出店し、同年11月、小林店の開店式で、次のよう に決意を表明した。 「ここは三宮のようにたくさんのお客さんが流入したり流出したり、1 人のお客さんが 離れても、また新しく流入してくるような地域ではない。商圏としては5742世帯しか みていない。食料品を最も買いやすい形で、地域のお客さんを固定しながら売場をつくっ ていこうとしている。実験に成功すれば、このスタイルの店を年間100店は出店してい き た い 」 と ( ダ イ エ ー 資 料 1 9 7 0 - ① 、 2 4 9 , 2 5 2 頁 )。 ダイエーの昭和44年度の売上高目標は1057億円である。昭和48年度にはその4 倍の4000億円という売上高を達成しようという目標が掲げられた。年率4割で売上を 増やす計画だ。店舗展開は全国を視野に入れ、45店から110店に増やす計画だ(ダイ エ ー 資 料 1 9 6 9 - ② 、 3 - 4 頁 )。 昭 和 4 4 年 に は 東 京 で 原 町 田 店 を 開 店 し 、 関 東 に 虹 の よ う に 大型店を配置するレインボー作戦が始められた。 中 内 は 出 店 を 急 い だ 。長 期 的 に は 大 型 店 の 出 店 余 地 が な く な る( ダ イ エ ー 資 料 1 9 6 9 - ② 、 9 頁)可能性があるし、店舗をつくっておかないと、出店をいつ許可制に切り換えられる か わ か ら な い と い う 危 険 が あ っ た ( 流 通 科 学 大 学 2006、 176 頁 ) か ら で あ る 。 そ う な る 前 に、大型店の拠点を押さえつつ、小型店のチェーン展開も視野に入れなければならない。 灘 神 戸 生 協 の 「 7 0 年 史 」に 反 証 と し て ダ イ エ ー 側 の 言 葉 が 残 っ て い る が 、中 内 は 、 「灘神 戸生協と互角に戦えれば全国制覇が可能だ」 ( 生 活 協 同 組 合 コ ー プ こ う べ 1 9 9 1 、1 1 1 頁 )と いう意気込みで、強敵である灘神戸生協のある地域に出店し、競争しながら全国レベルで 通用する小型店の店づくりのノーハウや運営システムを確立しようとした。中内は、大型 の総合スーパーと小型のスーパーマーケットという複数の業態で市場を占拠していく構造 へと、ダイエーの事業を進化させようとしたのである。 第2に、中内は、消費者との接点づくりでも、灘神戸生協の影響を受けた。 生協の店舗には組合員が店づくりに参画する利用者懇談会があり、組合員から直接情報 を収集するためのご用聞き担当の家庭係がいる。ダイエーも、生協と同じ昭和38年に店 舗 レ ベ ル で の 顧 客 情 報 を 収 集 す る た め に お 客 様 重 役 会 を 設 置 ( 流 通 科 学 大 学 2003、 5 頁 ) した。しかし、中内が、生協との直接対決時に「店頭での消費者との接点、つまり情報の フィードバック装置の点検」を指示したのは、現状に満足していなかった証拠だろう。 商品開発面で、中内は、生協の家庭係のように家庭内の生活情報を商品開発担当者にフ 12 ィードバックすることを目的として、昭和51年に商品本部内にライフスタイルアドバイ ザ ー( 公 募 で 2 0 名 )を 設 置 し 、 「生活感覚やライフスタイルの中からマーチャンダイジン グ や 販 売 上 の 助 言 や ア イ デ ア を い た だ く 」制 度 を つ く っ た( ダ イ エ ー 資 料 1 9 7 7 - ① 、2 3 頁 )。 中 内 は 、全 社 レ ベ ル で の 消 費 者 と の 接 点 づ く り で も 、先 行 す る 生 協 を 追 い か け た 。 「ダイ エーグループ年表」 ( 流 通 科 学 大 学 2003、10-11 頁 )に よ る と 、昭 和 4 5 年 1 1 月 に 、独 自 に商品の品質の科学的チェックができるように500㎡の「品質管理センター」を設置し (灘神戸生協は昭和42年に20㎡の「商品検査室」を先行して設置、後に200㎡に拡 大 )、 昭 和 4 6 年 9 月 に 、 本 部 に 、 消 費 者 の 苦 情 を 受 け 付 け る 「 ク レ ー ム 1 1 0 番 」 を 設 置 し た ( 灘 神 戸 生 協 は 昭 和 4 6 年 7 月 に 「 コ ー プ ベ ル 」 を 先 行 し て 設 置 )。 さらに、中内は、昭和49年には、本社に消費者サービス室を設置し、女性役員を抜擢 し た 。そ の 室 に は 、消 費 者 調 査 、顧 客 サ ー ビ ス 、品 質 保 証 の 3 部 門 を 置 い た 。こ の 組 織 を 、 社内的には消費者の代弁者として機能させ、対外的にも消費者の要望を先取りし、品質、 価 格 に 保 証 責 任 を 持 つ 体 制 を つ く っ て い っ た ( ダ イ エ ー 資 料 1 9 7 6 、 1 1 頁 )。 中 内 が 手 本 に し た の は 、消 費 者 部 門 に 8 人 の ヒ ー ブ( H E I B:H o m e E c o n o m i s t I n B u s i n e s s ) を 擁 す る 米 国 の J . C . ペ ニ ー で あ る ( ダ イ エ ー 資 料 1 9 7 7 - ① 、 1 5 頁 )。「 ダ イ エ ー 白 書 」 と い う 広 報 誌 の 座 談 会 ( タ イ ト ル 「 市 民 運 動 と 企 業 」) で 、 中 内 は 、 「 JC ペ ニ ー が や っ て い る 『消費者サービス』という機関を強化していって消費者の声を先取りしていく努力をして いく。地域社会において、企業と社会の接点をふやすことに力をいれていきたい」と消費 者 問 題 に 前 向 き に 対 処 す る 決 意 を 述 べ て い る ( ダ イ エ ー 資 料 1 9 7 7 - ② 、 3 7 頁 )。 3.競争戦略論への示唆−高村勣と中内功の競争観 本稿では、全国展開を目指すダイエーと、地域に根ざした活動をする灘神戸生協を研究 対象として選んだ。この事例研究によって、小売業においても、競争を媒介にした対話を 通じて、互いの個性を磨き上げる動的相互作用が観察できた。 灘 神 戸 生 協 の 田 中 俊 介 や 高 村 勣 は 、神 戸 市 三 宮 に 出 現 し た ダ イ エ ー を 意 識 し つ つ 、 「くみ あいマーケット」という、食料品重視で、安全性にも配慮した、灘神戸生協らしいスーパ ーマーケットをつくりだした。そのくみあいマーケットが、不特定多数の一般消費者を店 舗に引きつけて組合員化を促進し、店舗販売とご用聞きの併存を実現した。 ダイエーの中内は、生協との直接対決を契機として小型店づくりや運営ノーハウの蓄積 に乗り出した。それは、大型総合スーパーと小型スーパーマーケットという複数の業態を 持つ事業構造への進化の端緒となった。弱点であった消費者との接点づくりでは、灘神戸 生 協 の 家 庭 係 や 米 国 の J .C .ペ ニ ー を 手 本 に し て 消 費 者 サ ー ビ ス の 機 能 を 強 化 し て い っ た 。 この両組織の戦略策定者は、いかなる競争観を持っていたのか。 沼上と共にカシオとシャープの動的相互作用を分析した浅羽は、 「 経 営 戦 略 の 経 済 学 」で M . E . ポ ー タ ー 以 降 の ポ ジ シ ョ ニ ン グ・ ス ク ー ル ⁷ に 一 貫 し て 見 ら れ る「 競 争 は さ け る べ き 13 も の 」と い う 競 争 観 に よ る 経 営 戦 略 論 と は 別 に 、 「 競 争 は 参 加 す べ き も の 」と い う 競 争 観 に よ る 新 し い 経 営 戦 略 論 の 構 築 が 可 能 か も し れ な い と 示 唆 し て い る ( 浅 羽 茂 2 0 0 4 、 2 1 7 頁 )。 浅羽のこの示唆に照らして戦略策定者である高村勣と中内功の競争観を検討してみたい。 灘 神 戸 生 協 の 高 村 勣 は 、ダ イ エ ー に つ い て 、 「 神 戸 発 祥 の 強 敵 で あ り 、ず っ と 競 合 を 通 じ て 鍛 え ら れ て き た こ と は 事 実 で 、反 面 教 師 と い う と こ ろ か 」 ( 高 村 勣 1 9 9 7 、1 0 5 頁 )と 語 り 、 ダ イ エ ー の 創 業 者 で あ る 中 内 功 は 、一 般 論 で は あ る が 、 「ダイエーの歴史は戦う歴史である。 競 争 を 挑 み 、 競 争 の 中 で 自 ら を 鍛 え て い く 」( 中 内 功 1 9 6 9 、 1 6 8 頁 ) と 語 っ て い る 。 高 村 勣 も 、 中 内 功 も 、「 競 争 を さ け る べ き も の 」 と は 思 っ て い な い 。 本 稿 の 事 例 分 析 に よると、両者は、競争相手を前向きに活用し、組織を革新しようとした。いずれも、単純 に 相 手 を 模 倣 し た だ け で は な い 。競 争 相 手 の 見 習 う べ き 点 、見 習 う べ き で な い 点 を 発 見 し 、 学習しつつ、自らの個性を磨き上げようとした。この点に、浅羽が言う「競争は参加すべ き」ものという競争観に立った戦略策定者の思考プロセスを垣間見ることができる。 どんなに時代が変わろうと、灘神戸生協がダイエーになることはないし、ダイエーが灘 神戸生協になることもない。依拠する論理が違うからだ。地域社会で「コープさん」と呼 ばれ協同の論理に基づき経営をする高村勣と、メーカーに対する拮抗力になろうと資本の 論理に基づき売上高拡大を目指す中内功は、互いに反面教師として相手を意識し、あたか も 対 話 を す る か の よ う に 競 争 し 、一 方 は 神 戸 を 舞 台 に し な が ら 、一 方 は 全 国 を 舞 台 に し て 、 この後も互いの組織の個性を磨き上げていくことになる。 参考文献 H a y e k , F r i e d r i c h A . 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