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ロスアンゼルス便り 2012 年 8 月 8 日

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ロスアンゼルス便り 2012 年 8 月 8 日
ロスアンゼルス便り
2012 年 8 月 8 日-15 日
やまだようこ
全米日系人博物館(Japanese American National Museum)
2012 年 8 月 9 日、10 日
http://www.janm.org/jpn/main_jp.html
1942 年,ルーズベルト大統領の命令で,アメリカ西海岸に居住していた約12万人の日系
人(その60%はアメリカの国籍を有していた)は,アメリカ国内10箇所の強制収容所に移
住させられました。同じ「敵性外国人」でも、ドイツ系やイタリア系に対しては,強制収
容は行われませんでした。 収容所は砂漠地帯など、夏は暑く冬は寒い、住環境に適さな
い地域で,有刺鉄線に囲まれた敷地内にバラックが建てられ,6メートル四方の一部屋に一
家族が暮らしたとのことです。
全米日系人博物館でボランティアとしてガイドをしておられる1948年、戦後生まれ、64
歳の3世の婦人にライフストーリーを聴きました。 彼女は、英語教師を60歳で退職したあ
と、4年前から博物館のボランティアになりました。それまでも日本語を学ぶ機会はあった
のに、選択しなかったとのことです。日本語を話すことはできず、すべてコミュニケーシ
ョンは英語です。
祖父母は収容所の体験はあまり語りませんでしたが、祖父はキャンプで鳥のカービングを
し、祖母はソーイング教室をつくり、そこで洋裁を教えていました。彼女の一家は、まだ
幸運なほうだったということです。強制収容で移住したあと家も財産もなくし、1945年の
戦後に開放されたあと帰る場所も失った人も多くいたのに、祖父母の家は不在のあいだ、
隣のロシア系ユダヤ人が管理してくれており、帰る場所があったからとのことでした。彼
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女は日系人としての自覚もアイデンティも希薄だったとのことですが、4世の息子さんは
日系の親戚ともつきあい、より日本に関心をもっているということでした。
博物館の近くの Go for Broke Monument には、収容所に家族が入れられながらも忠誠を
誓うためにアメリカ軍隊に志願しヨーロッパ戦線で活躍した人々や戦没者の名が刻まれて
いました。
http://www.goforbroke.org/
ちょうどお盆の時期でしたので、Go for Broke Monument 近くでは第 72 回 2 世ウィーク
日本祭の準備もすすんでいました。大きな七夕飾りがつくられ、各団体から推薦された 7
人日系美人の女王候補も出そろっていました。
リトル東京は、私が 30 年前に行ったときに比べると淋しく、治安も悪くなっておりまし
た。飾られている品も、博物館の売店のデスプレイや商品も含めて、派手な原色の組み合
わせや大柄の品質のあまり良くないものが多く、もっと本物の日本文化の紹介になるよう
なデザインのセンスのよい一流品を置いたらよいのにと思いました。外国人の見る日本趣
味に共通するものとはいえ、偏見かもしれませんが 、ヨーロッパで売られている日本製品
に比べても、アメリカ趣味に迎合的に思えました。
マンザナー強制収容所跡
Manzanar National Historic Site
2012年8月12日、13日
http://www.nps.gov/manz/index.htm
One Camp, Ten Thousand Lives; One Camp, Ten Thousand Stories
ロスアンゼルスからフリーウェイを車でひたすら走って、約5時間、デスバレィ(死の渓
谷)に近い砂漠地帯に、マンザナー強制収容所跡がありました。夏は40度を超し、冬は極
寒、乾いた荒涼とした大地には年中強風が吹き砂嵐が起こる、人間が生活するのは極限の
場所でした。
車で、行けども行けども同じ風景がつづく、草木のない岩肌が露出する高い山々、赤茶け
た広大な大地、照りつける太陽、水がほとんどない荒涼とした風景。この荒々しい大自然
が人間に立ちはだかり、人や生きものを無力にするような威圧的な感じは、緑の山々と清
流に満ちた豊かな自然に包まれた日本にいては想像することすら難しいと思いました。こ
こに移住させられたら、たとえ鉄柵や監視などなくても、とても逃げられないと思わせら
れました。
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(当時の新聞記事に載った収容所に向かうときの写真。マンザナーに近いインデペンデン
トにある東カルフォルニア博物館の小さな新聞記事より。何十年ものちに、「この女の子
は誰?」と話題になり、無事に生きのびたことが確認されたそうです。)
マンザナーへ行く前は、こんな大変な場所に、この暑さのなかでわざわざ出かけていくの
は、私たちの研究グループくらいだろうと思っていました。しかも今夏のアメリカは56年
ぶりの干ばつという異常気象で、特別暑くて乾燥していました。もしかして遭難したらど
うしようかと大変心配して、大量の水と氷を買い込み、人が誰もいない寂しい場所に決死
の思いで行くのだと覚悟していました。
しかし、行ってみたら意外に違っていました。酷暑の夏に、西部開拓時代を彷彿とさせる
ワイルドな風景を好んで旅行する人達もいるのです。ある種の余裕がないと、僻地を旅行
することはできないのでしょう。近くのローゼンタールのモーテルは、ロスアンゼルスの
一流ホテルと同じくらい高価なのに満室、近くにはステーキで有名という立派なレストラ
ンもあり、レトロな内装で西部開拓時代のような扇風機が天井で回っていました。
マンザナー強制収容所跡は、現在ではアメリカの国定史跡になっており、充実した展示内
容の博物館が建てられています。映像資料も豊富で、写真やVTR撮影も自由、ガイドも専門
的でていねいな説明でした。
旅行者用のガイドブックにはほとんど記されていないのに、マンザナー博物館はにぎわっ
ており、熱心に展示を見るアメリカ人が多くいました。とうに忘れられたかと思っていた
のに、救われたような、有り難いような気持でした。日本ではアメリカでの日系人の歴史
はほとんど教えられることもなく、関心も高くありません。訪れる日本人はあまりいませ
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ん。博物館の提示は充実していたのですが、すべて英語で日本語の説明がないのは残念で
した。
日系アメリカ人の強制収容所は米国内でも特に住環境の劣悪な地域に設けられました。マ
ンザナー強制収容所内には、ブロックと呼ばれた36ヶ所の居住地区があり、ひとつの地
区につき、14棟のバラック、大食堂、洗濯場、アイロン場、そして男女別の便所兼シャ
ワー室がありました。バラック内にあった部屋の広さは縦幅が約6メートル、横幅が約7.
5メートル。各部屋にはストーブと小さな電灯が設けられました。収容所にいる間、人々
は住所、名前、そしてID番号が記された名札を常に携帯しなければなりませんでした。
トイレとシャワー室には区切りがなく、女性も裸になって集団でシャワーを浴びねばなり
ませんでした。トイレに行くのをがまんする若い女性たちもいました。博物館で買った
”Champ Days 1942-1945”は、当時10歳だった女の子 Chizukoがあとで収容所の生活を回
想して描いた絵本ですが、そこには、シャワーを浴びるときの恥ずかしさと当惑が繰り返
し語られています。
バラックは建て具合がとても悪く、すきま風や砂の対策に苦労しました。のちに人々は、
ブリキ缶の底を利用して床にある穴を埋め、壁紙をはり、カーテンや家具などを手づくり
で作って、住環境を改善していきました。ブロックごとに、庭造りに励み、池のある日本
庭園もつくりました。洋裁のできる女性は、ほかの人に教えました。絵が描ける人は風景
画を描いて飾りました。特に木切れを加工して色を塗った鳥ピンは精巧で美しくて、芸術
品の域にも達するものでした。
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子どもたちは、ときには施設のために働く役割をあたえられた大人たちと離れて住まねば
ならず、小さい子は淋しい思いをしました。しかし、砂嵐におびえながら遠い学校まで通
う苦労のなかにも、子どもたちなりの楽しみを見出しました。
マンザナーとは別の強制収容所も、キャンプはどこも過酷な地でよく似ていまし
た。”Champ Days 1942-1945”を描いたChizukoは、辛いキャンプ生活とともに、美しい夕
焼けを感動的に描いています。また、同じく当時9歳だったShigeruは、”Hello Maggie!”
のマンガ絵本で、前半では、キャンプに入るためにペットを手放し、友だちと別れねばな
らなかった悲しみを描いていますが、後半では、キャンプの鉄格子を抜け出して木から落
ちたカササギの雛をひろい、キャンプに持ち帰りマギーと名づけて育て、みんなのペット
としてかわいがって楽しんだ経験を描いています。
不自由で辛い生活でも忍耐強くがまんして、小さな工夫を積み重ねて、集団で協力して、
生活を少しでも居心地良くしようとした日系人の姿は、東大日本震災のあとの東北人の姿
と重なるところがあります。
マンザナー強制収容所跡を訪ねて、何といっても、一番衝撃的だったのは、キャンプの
端に山々と向き合うようにつくられた墓地でした。多くは墓標もなく、木の杭が立てられ
ているだけであったり、小石で丸い小さい輪が囲われているだけだったりしました。資料
を読むと、特に、生後まもない赤ちゃんの墓が多いようで、子どもを亡くした親の悲しみ
がよけいに迫ってきました。
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1945年に立てられたという慰霊碑は、今回の調査の下調べの段階で写真を何度も見ていた
のですが、現地で実物を見ると、風景や土地の大きさに比較してあまりにも小さく見え、
ことばを失うほど淋しいものでした。やはり、現地に立って見ないとわからないものだと
感じました。周囲にはハワイの日系人が置いた折鶴の束や、アメリカのコインが供えられ
ていました。私たちは、何も供えものを持ってこなかったことに気づき、せめてもの気持
ちに日本のコインを置いて帰りました。
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