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ブレメリアイノ 大雪山の幻

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ブレメリアイノ 大雪山の幻
レメリアイノ
ブ
大雪山
幻
の
幻の蝶を探し求めて
ついに雪渓のある山で発見
だが再び闇に葬むる …
畑 村 達
53
本書を故青柳君に捧げる
謎の蝶ブレメリアイノ幻想の物語
54
1
そこは彼だけの、秘められた場所だった。 登山道から南へ尾根ひとつはずれた山合い、険しい谷間を目前に
した岩と這松と砂礫層の斜面で、幻といわれた蝶に出会った。
2年前、4年前、5年前に、そして最初にこの場所を見つけた6
年前に、赤茶けた砂礫の斜面で這松の暗い緑が根を張るこの風景に、
彼の姿があった。
真夏の雪渓が斜面にのこり、山肌に目じるしの岩があらわれ、乾
いた土埃りが雪の眩しさを曇らせる季節に、彼は人目を避けひとり
登ってきた。平らな岩に腰をおろした。そこからは斜面の広がりが
見わたせる。いつでもすばやく走りだすことかできる。
そこで彼は待った。
黒い絹の捕虫網の深い長さを肩から背に、軽く垂れさがらせていた。
岩まじりの斜面から飛びたつ蝶をもとめ、視野をはりめぐらせた。
谷間から吹きあげてくる風に、斜面に低く枝をひろげる這松の茂
みがさからう。
真向いの尾根に雲があらわれ、頭上に迫りひろがってくる。
雲の移動につれて斜面に、陽射しが明暗をそめわける。
山肌の地上数十 cm の空間に、彼は目をさらし見つめつづけた。
いつ飛びたつか、蝶の出現をまえに、張りつめる不動の時間に向
きあった。
動くものを待ち、走りだそうと身構える自分自身と向きあっていた。
2
岩に腰をおろし、前かがみに固まりついた背中。陽焼けした頬。
細くひらいた目。網を手に今にも走りだしそうな身の構え。
膝においた手の指は小刻みに震えている。
67 歳になるこの歳まで、蝶の採集と標本商で生きてきた。
東京の書店ビル6階昆虫ショップで、彼は店長だった。
穏やかな顔つきで鼻すじが高く、しなやかに細長い指から若々し
ささえ感じられたが、背中は異様に曲がっていた。灰色の上着、焦
げ茶色のズボン、えんじ色のポロシャツ。胸元から見える肌着は薄
汚れていた。
一時は名を知られた昆虫学者だったが、若いころ大学で、所属し
ていた教室の主任教授の娘との縁談をことわり、幼馴染みの女と恋
愛結婚したので、学会から遠ざけられる結果をまねいた。彼は仕方
なく、戦前日本領土だったカラフト(南サハリン)の営林署に職を得
て、極北に棲息する生物相の調査で暮らしてきた。
昆虫ショップの狭い店内にはカブトムシ、クワガタムシ、カミキ
リムシ、オサムシなど甲殻類の昆虫は無論のこと、蝶の標本も数多
くあった。
国内産のアゲハチョウ、マダラチョウ、ヒカゲチョウ、タテハチョ
ウ、ヒョウモンチョウ、シジミチョウ、セセリチョウなど、代表的
なものが陳列してあった。
外国産で良く知られる、コバルト色に輝く翅のモルフォチョウも
あり、丸い赤紋が目をひくウスバシロチョウ、アポロチョウなども
数点、片隅に置かれていた。
谷間をへだてた向いの山の斜面が、陰りを呼んだ。砂礫を洗いだ
された山肌に、うっすらと藍色がひろがってきた。
陽の傾きぐあいから、蝶が一日の活動をやめ、岩陰に姿をかくす
時刻がきたのを知った。翅をたたみ岩かげに横倒しで休む蝶を、見
つけることは難しかった。
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肩にもたせかけていた網の柄を起こし、指さきを露出させた皮手
袋の左手で、八角に削った柄をつかんだ。
陰りに沈んだ向いの山肌とは対照的に、彼のいる斜面はまだ明る
さに満ち、日暮にちかい薄日が射していた。しかし谷間にのぞむ雪
渓のほうからは、底冷えのする冷気が送られきた。
今日の採集をやめ、帰り支度をしようと腰を浮かした。
そのとき斜面の右端に、暮色の山肌を背に小さな白さが、軽く浮
き出た。飛び立った高さから低く沈むと、ゆるやかに大きく波打つ
飛翔をはじめた。
岩と這松の間をぬって、彼は走り出していた。
左手を柄の先端に持ちなおし、握りしめた右手の位置は、蝶を狙っ
て網を振るとき自然に手首がかえる、程よい長さに保たれている。
黒い網が頬のそばで風にふくらみ、太い胴になってうねった。
身軽に走る猫背の姿は、歳老いた彼の年齢を欺いていた。
複雑な円弧をかさねる飛跡を描きつづける蝶は、陰りの谷間にち
かく、小さく舞いのぼると深い落差に身をまかせ、直線を描いて沈
んでいった。
彼には届かない距離が、初めから分かっていた。それでも追わず
にはいられない興奮につき動かされた。
あの蝶はたしかに、彼だけが知っている、彼がここで発見した、
誰にもまだ棲息地を知られていない、アカボシウスバシロチョウ(パ
ルナシウス・ブレメリ・アイノ)に違いなかった。
立ち止まり追うのをやめた。視界に蝶の姿はなかったが、彼の眼
差しは燃えていた。
今日で3日間、待ちつづけてきた。あの1頭が今年最初のものだっ
た。2年まえに比べて、今年はアカボシの発生が2日遅れたことに
なる。昨日から気温が 20 度ちかくまで昇ってきた。明日もこの気
温がつづくなら、きっと何頭かの発生を見られるだろう。
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岩のそばに残してきたサブザックをとりあげ、紐のあいだに腕を
とおした。這松の枝が入りくむ足もとに気をつけながら、雪渓のほ
うへ降りはじめた。
陽射しから外れた雪は冷気を放って青みをおび、早くも凍りはじ
めた表層は音を鳴らして踏みくだかれた。滑りやすい雪の斜面は、
あちこちに尖った岩の頭を見せ、彼が踏みつらねる幅せまい足がか
りの道は、黒ずんだ陰影をきざみつけ、谷間にせり出す大岩のすそ
を迂回していった。
網の柄を杖に雪につきさしながら、一歩ずつ足場をたしかめ、慎
重に足をはこんだ。赤黒い顔に細めた目が、雪に足をとられ谷間に
転落するのを怖れまばたいた。
丈の低い高山植物が、さまざまな淡色の小さな花をしきつめた群
落を通りぬけ、湧水にぬかるむ道を外れると、2つの沼をそばにひ
かえた背丈ほどに伸びる濯木の茂みに入った。
人に気づかれにくい、暗緑色のテントが茂みの中に張られていた。
沼のまわりに、彼以外の足跡が印されていないか注意ぶかく確かめ
た。腰をかがめテントの入口から這って、中に体を滑りこませた。
薄暗い中には、支柱に青い笠のついた小形のランプが下がり、寝
袋のそばに食糧を入れたリュクサックがある。採集した蝶の整理箱、
蝶を包む三角紙の分厚い束、予備のスプリングネットと継ぎ竿があ
る。水を貯めるポリタンク、バーナー、飯盒、食器などが乱雑に散
らばっている。
柄から外して折りたたんだ網を、サブザックと共にテントの隅に
おしつけた。靴の紐をゆるめ寝袋の上に体を投げだすと、しばらく
動く気配もなかった。目をつむり両手首を胸に折りまげた彼の姿は、
標本の蝶が肢をちぢめ、胸を抱きしめる形に似ていた。
気力で今日まで押し通してきたが、疲れはひどかった。
山小屋から2日がかりで、それほど重くはない荷物とテントを運
び上げてきた。2km そこそこの山道を、幾度となく立ち止まり息
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をつく有様だった。2年まえ山に入ったときは、これほど苦しみは
しなかった。
彼はそのまま眠りにおちた。
テントの中が真暗になり、寒さで目をさました。ランプに灯をと
もし、飯盒に残った飯に水をそそぎ、バーナーにかけスプーンでか
きまぜた。骨の形が浮きでた手の指先は、ぎこちなく震えつづけた。
煮えはじめた音に耳をかたむけ、膝を組みなおし、時折り入口の
闇をすかし外の気配に目を光らせた。
鯨肉の缶詰をあけ、始めにそれを残らず食べ、こんどは飯盒の飯
だけを気忙しく掻きこみ、最後に缶をかたむけ肉汁を膝にこぼしな
がら飲んだ。湯を沸かしコーヒーをつくる準備をすすめ、合間にミ
カンの缶詰を、追い立てられるよ
うに慌てて食べた。
コーヒーを飲み終わり、空缶や
食器や道具を邪魔物でも扱うよう
に隅へひとかたまりに押しつけ
た。
立てた膝をかかえ、ランプの灯
かりを見つめた。タバコの灰を空
缶で神経質にそぎおとし、3, 4
度たてつづけに煙をふかした。編上靴を脱ぎ、皮襟のついた防水ジャ
ンパーを丸めて枕に当てがった。
寝袋に潜りこむと、チャックがつかえるのも構わず乱暴に胸元ま
で引きあげた。胸に両手をのせると、何もすることがなくなった。
ランプに燃える缶入りローソクの、小さな炎がゆらめいた。
古いテントの裏側に重なる雨滴の滲みが、怪しくうごめく陰りの
ように映し出された。
6
秘蝶アカボシは、目の底に焼きついていた。
淡く黄色をおびた乳白色の、丸みのある翅
後翅の内側をえぐる強い線の張り
後翅をいろどる3つの鮮やかな赤紋
黒い線でえがかれた輪のなかに純粋な赤
第1の赤紋は後翅のつけねに、幅ひろい暗色部と長い体毛の中に
半ば埋もれる。第2の赤紋は、前翅との重なりが終るあたり、後翅
前縁の中ほどに大きく明るい。第3の赤紋は、扇をひらく形の翅脈
の間にあって、新月の形のようだ。
翅をひろげて赤紋は、半円をえがく位置にちりばめられる。
それは、夕闇に沈む丘と樹木と大地のシルエットの上高く、天球
にひろがる赤い星座の造形だ。
地球の氷河時代の昔から、アカボシとその種属の蝶は、地球の大
陸で秘かに隠れた場所で棲息し、変わることのない星座を翅に受け
継いできた。
1936 年日本でアカボシが、北海道大雪山トムラウシ岳で初めて
採集されたという。彼の旧師大学教授が、原住民アイヌの名にちな
みパルナシウス・ブレメリ・アイノ(Parnassius bremeri aino )と命名
し学会に発表した。
しかし日本産アカボシは最初の3頭の雄だけで、それにつづく
採集記録が全くなかった。多くの昆虫
愛好者たちがその山の周辺に、深い雪
と人を寄せつけない絶壁の渓谷に分け入
り、アカボシを探した。
6年間その蝶を追いつづけたグルー
プも、ついに1頭もその姿さえ見なかっ
た。
人々は最初のアカボシの存在に疑惑
を抱きはじめた。命名された蝶は、た
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しかに日本産のものだったか?
その噂を彼は、ツンドラのひろがる土地カラフト(南サハリン)で
耳にした。アカボシの命名者、彼の師の名前を耳にしたとき、胸に
埋めてきた彼の過去の記憶が堀り起こされた。
その教授のため学会にいたたまれず追われた彼は、遠い北の大地
にまで旅立ち、若さにたぎる屈辱の思いを凍土の上に押しつけてきた。
3頭のアカボシは、教授が採集者に騙されたのだという噂も伝
わってきた。その採集者を探し出すこともできない、ともいわれた。
さまざまな臆説のひとつに、ある昆虫好きの画家が朝鮮半島を旅
行して帰国し、すぐさま北海道へ出かけて行った。そのとき、朝鮮
半島で採った蝶を採集ケースに入れ残したまま北海道へ行き、ま
ざった蝶の区別がつかなくなったという話が、さも真実らしく流布
された。
6年間の大がかりな追跡で、1頭も出現しなかった日本産のアカ
ボシは、日本にも棲息していると誇示したがった昆虫マニアの術策
に、教授が巧くのせられたのかもしれない。
その話を彼は、冷やかな思いで聞いた。凍りついてきた血が温も
りを取りもどし、ゆるやかに流れ始める思いがした。教授への報復
が、他人の手によって果されていた。苦い追放の過去から解かれ、
密かな喜びをかみしめた。
その後もアカボシの採集記録はなかった。ついに誰もその蝶を言
いだす者さえ無くなった。それは教授の不名誉な失敗を、確かに動
かないものにした。
40 歳すぎにツンドラの土地から、彼は離れた。2度とその土地
を見ることはなく、敗戦により彼は祖国へ追いかえされた。
蝶の標本商を、彼は始めた。
翅の色彩のきらびやかな大形の外国産の蝶が、黄色い体液を滲み
出して三角紙に包まれ、部屋に積み重ねた紙箱の中で翅を展げられ
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る日を待った。
また日本産のふかい青緑色にかがやく翅の美しい蝶 ミヤマカラ
スアゲハ などが、彼の店から外国に数多く送り出された。
あるときドイツの標本商から店に届いた荷物に、ふとした偶然か
ら紛れこんだ古い珍しい資料を見つけた。
包み紙に使われていた古い標本定価表には、日本産アカボシが教
授の命名よりも 16 年まえ、はっきり記載されていた。朝鮮産アカ
ボシ 2.5 マルク、日本産アカボシ6マルク(6頭在庫)、シベリヤ産
アカボシ3マルクという記事だった。
そのころ北海道では、昆虫の生物相について調査は殆どされてい
ない筈だった。ドイツの定価表にある日本産アカボシは、もしかし
て北海道以外のどこかに、例えば本州北部の寒冷な高山にいて、採
集者が学会に報告もせず、他の蝶に混ぜ国外に売り渡したかもしれ
ない。
ひそかに彼は、その資料の事実を調べてみたい気持になった。彼
自身の手で、謎のままのアカボシの正体を確かめたくなった。
季節ごとの蝶を採集するとき彼は、6月から夏期にかけて、とく
にアカボシの棲息地にかなった場所を探し歩いた。以前調査したこ
とのある土地カラフトの生物相に似た、奥日光から北に向かう山々
に惹きつけられた。
林道も草に埋まる深い尾根道や谷間に分け入りながら、予定の日
数をこえても下山してこないことが、しばしばだった。
6年前の7月上旬、彼は東北地方中部の雪渓を残した山を歩いて
いた。雪渓と高山植物が密生する草地の境に、融けた雪水がほそい
流れを造っていた。そこで彼は休んだ。
雪渓の眩しい反射に目をほそめ、あたりを見わたした。と、流れ
の中に、彼は視線を吸い寄せられた。草地の泥に押しつけられ留まっ
ている1頭の蝶の死骸に、視線が釘付けされた。
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雪水に洗われた翅は透けているが、丸みをおびた特徴のある翅の
形、翅脈を浮き出した黒い線、後翅の内側にひろがる暗色部につづ
く体毛。
どこにでもいるウスバシロチョウか、それとも? 浅い流れに手
をつき、草地から身をのりだした。
水から引き上げ手にした蝶は、前翅に小さな黒斑2つ。後翅には
幽かに小さな黒い輪郭が3つ残されている。
黒い輪の中に赤をいろどれば……まさにアカボシだ!
驚きが、疑り深い彼の表情を一変させた。目を見ひらき、唇をふ
るわせ、絞りだすような呻き声をあげた。
「アカボシだ…… ブレメリ・アイノだ」
膝からくずれ腰を落とした。
草地に両肱をつき、手にささげ持つアカボシの翅を注意ぶかく、
標本の形まで展げてみた。朝鮮産のものより幾分大きめだった。極
北を巡る地域に棲息するアカボシは、南下するにつれ異型化を示す
という、彼の知識とも一致した。
このアカボシは、風に吹きまかれ雪渓に叩きつけられたに違いない。
彼はその地点から、アカボシの飛翔半径と考えられる2㎞以内を
目途に、雪渓のまわりを綿密に調べた。
2日たち、岩と這松のある砂礫層の斜面にきた。白緑色をした
松葉のような柔らかな葉で、
ピンクの厚い花弁を下向き
に吊り下げて咲く高山植物
の群生を目にした。それは、
アカボシの幼虫が食べると
いう植物、ベンケイソウ科
のコマクサだった。
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条件はすべて揃っていた。彼はその斜面でアカボシの飛翔を待っ
た。翅のふちが擦り切れた8頭のアカボシを網に入れた。この斜面
でアカポシの発生時期、最後のものだと判断し、場所と日付を採集
手帳にメモした。
教授が誤認して命名したアカボシの記録を、彼が正確な資料で訂
正するときがきた。最初のアカボシが明らかに朝鮮産と証明できる
なら、彼こそ日本産アカボシの初めての発見者となる。新種発見の
ラテン語学名の最後に、彼の名前を付与できる栄光が待ち受けている。
彼の採集ケースにあるアカボシを、初めは誰も信じないだろう。
侮蔑と疑惑の眼差しが彼を待ち受けていることだろう。いまの彼に
とっては、それはかえって喜びを大きくする、むしろ好ましい障害
とも思われた。
教授のため追われた学会に、異常な衝撃を与えることが今こそで
きる。真夜中に人目をさけ、擦り切れたアカボシの翅を展ろげ標本
にした。
学名と採集記録の詳しいデータを、彼だけが分かる符号で記入し
たラベルを針に通した。その標本は特製の桐の小型の箱におさめ、
学会に発表する時期がくるのを待った。
夜ごとアカボシを眺めていた、ある日、彼は突然、顔をこわばら
せた。
アカボシについて彼の発見は、教授が発表した採集記録のミスを
明らかにしても、日本産アカボシの存在を最初に発表した教授の名
声を、援けることになりはしないか。アカボシには多数の変異型が
あり、教授が命名したものを朝鮮産だと断定することは、不可能に
ちかくはないか。
教授の発表を明らかな誤認だとするには、標本商の身分では彼の
報告は、学会で門前払いされるか、無視されるに違いない。
結局、彼の発見は、アカボシの採集記録だけを訂正し、日本にア
カボシがいるという教授の発表を裏付けるだけで終りはしないか。
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この考えは、激しい衝撃だった。教授を援けることはできても、
積年の彼の恨みを晴らすことは、到底できるはずがない。
永い屈従の末の勝利の快感から、突き落とされた思いがした。
手帳のメモを引き裂き、標本の針からラベルを抜きとった。恨み
を晴らすせめてもの手段は、日本産アカボシを永久に伝説のうちに
閉じこめてしまうこと、それだけだった。
彼は8頭のアカボシを、朝鮮産と混ぜて売りさばいてしまった。
その後彼の採集したアカボシは、朝鮮産のうち汚損の少ない標本と
して、1頭のこらず国外に高い値段で売った。
これまで雇っていた展翅のための助手を、理由も告げず辞めさせ
た。アカボシの秘密を洩らさないために、標本製作室に人を寄せつ
けなくした。翅を展げる手伝いもなく、彼の指先は歳と共に震えが
ひどくなり、展翅針の先が細心な注意を嘲るように、見事な翅を突
き破った。
彼は標本商の終末を突きつけられていた。今では三角紙に包んだ
蝶を、
翅を展げることもなく売買するだけの、仲買人に過ぎなくなった。
テントを透ける陽の明るさに、彼は目覚めた。
けだるい温もりにむれた寝袋のチャックを押しさげ、体を起こし
て靴をはいた。テントの入口をはね上げ潅木の茂みから這い出すと、
外は眩しいほどの快晴だった。
飯盒と米の袋をもち、沼のそばで朝食の準備をはじめた。昨夜の
食器を洗い、飯盒に米をしかけ、空缶をはなれた草地に埋めた。沼
のそばでバーナーは勢よく燃え米が煮えたちはじめた。
「今日こそアカボシを網に入れることができる」
興奮にいたたまれず立ちあがって腕をくみ、斜面の方角に視線を
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おくり、米が炊き上がるのを待ちかね歩きまわった。
熱い飯をオイルサーディンで食べ、コーヒーを飲んだ。ポリタン
クに水を汲み消毒用の食塩錠を入れ、テントに運んだ。ジャンパー
の上からベルトを締め、それに皮の三角ケースを通した。畳んだ網
と柄をもち、サブザックには水筒とチーズと氷砂糖、予備の三角紙
を確かめて入れ、テントの入口を紐で結びあわせた。
沼のそばで網をひろげ、口金リングを柄にしっかり締めつけた。
左手に皮手袋をはめると出発した。
いまは、疲れをほとんど感じなかった。雪渓を横ぎる長い道を、
危険を覚えるひまもなく足速に通りすぎた。斜面にたどり着いてみ
ると全くの無風だった。陽はふりそそぎ白雲は高く、気温の上昇は
昨日を上回るだろうと思われた。これほど条件が揃うことは、めっ
たになかった。
両手に柄をにぎりしめ、待機の姿勢に入った。
興奮をおさえ緊張をおしころす息が、耳にひびいた。風の音もな
く静かに、微動もしない斜面に嵌め込まれていった。静寂をつき崩
す小さな動きを、狙いすまして待った。
左手にひろがる這松の茂みから、1頭の蝶が浮き出した。黒とク
リーム色と小さな赤が、軽い動きにのせられ舞い立った。
柄を取りなおし目は蝶を捉えて放さず、彼は走り出していた。
蝶は翅をゆっくり羽ばたきながら、斜面にそって低く大きい弧を
えがき、柔らかく風景を区切った。
前方へ回りこみながら走った。蝶に近づいたとき、左前方から近
寄ると同時に網をふった。黒い網が風をふくんだ。口金いっぱいに
ふくらむ網が蝶に向っていった。
その網さばきは、落ち着いたゆるい速さに見えながら、狙いをあ
やまらず短距離で蝶に近づき一瞬に力をきめる、よどみない網の動
きだ。
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黒い吹流しと蝶の白い飛跡が、空中で重なりあった。彼の右手が
かえり、網の口は折りたたまれて下向きに、蝶の出口をふさいだ。
手の動きがとまり、網の袋の先端が降りてきた。
透けた布地の中で蝶は不規則に羽ばたき、捕らえられている。
手の中で柄をすべらせ、網を引き寄せた。両手で網を張りつめ、
羽ばたく蝶の動きを押さえた。布地にせばめられた蝶は、表に翅を
開いた形で動けなくなり、尾部を網目に刺しこみ震わせた。
うすい黄色をおびた柔らかみのある翅に、赤紋の鮮やかなアカボ
シだった。発生したばかりの雄の新鮮な個体だ。
息づまる胸のときめきが彼をおそった。指先が、うまく最初の1
頭を押さえられるかどうか、嬉しさあまりの不安もあった。
しかし、震えがとまった彼の指先は、慣れた確実な動きをした。
蝶のまわりで網をわずかにゆるめると、自由を取り戻しかけ翅が動
いた。翅が裏返し折り畳まれたとき、すかさず網の布地を張りつめ
た。左手の親指と人差指が網の上から、すばやく蝶の胸を肢のほう
から締めつけた。
わずかな力を指に集め蝶の胸郭を押しつぶし、標本にする美しく
優雅な翅を傷めないため死を与える、小さな仕事だった。蝶の胸の
意外に強靭な筋肉を確実に押しつぶし、指に胸郭がつぶれる音を吸
いとった。
2本の指先は翅の付け根にとどき、屈曲を繰りかえす腹部の動き
がとまった。触角にかすかな震えが残り、口吻の渦巻きが探るよう
に延び、ちぢめた肢の問にはさまれ静止した。
彼は指を放した。
翅を折りたたみ平たくなった姿で、蝶は網の中でずり落ちた。
腰ベルトに付けた三角ケースから、パラフィン紙を折った三角紙
を取り出すと、紙の折り目をひらいた。触角を翅の間に押しこみ、
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折り目に蝶の頭をあてがって包みこんだ。
ケースに仕舞いこむまえ紙包みの外から、もういちど透かしてな
がめた。
「おれひとりの蝶だ。世界中だれひとり、このアカボシを網にで
きないんだ」
勝ちほこった感動が彼を満たした。
それと同時に、この思いを誰にも知らせられない、みずから閉じ
こめた苦悩が全身を貫いた。暗くかげった顔つきは一瞬の後、ふて
ぶてしいほどの落着きを取り戻していた。
片膝を折りまげて地面につき、つづく蝶の飛翔を待った。
3頭のアカボシがまわりから、ほとんど同時に飛び立った。
彼は軽く立ちあがり、手近かな蝶に向って走った。蝶はにわかに
現われた彼におどろき、ゆるやかな飛翔から急に直線をひき横にす
べった。
網が真横から蝶を襲った。網をかすめ逃
れた蝶は、舞い上がり小さく円をえがき、
降りながら斜面にそって流れた。
蝶の飛翔がゆるやかになる瞬間を、網が
下から上向きにすくい上げ、空中で網の口
が折り畳まれた。
それは雌だった。
彼は注意してその尾部を確かめた。交尾
の終わりに雄の分泌物で雌の尾部を塞ぐ交
尾嚢は、まだ付いていなかった。
2年前まで、アカボシの雌はなるべく採
集しないようにした。
網に入れることがあっても、交尾嚢を付
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けた雌はその場で放した。雄5頭に対し雌1頭の割合でしか採らな
いことを、みずから厳守してきた。次に採集するとき、アカボシの
発生を減らすことを怖れた。
アカボシは幼虫から蝶になるまで2年かかった。
今年の蝶が産卵したものは卵のままで越冬し、翌年は幼虫から蛹
になってまた越冬した。彼がアカボシを発見した年は、運よく発生
する年に当たっていた。発見した次の年、この場所のアカボシが2
年周期をくりかえすかどうか、確かめにきた。アカボシは1年置き
に姿を隠し、この斜面が秘密のうちに護られていることが確認できた。
つぎつぎ飛びたつ蝶を、立ち上がったままの姿勢で待ちうけた。
蝶は2、3頭ずつ、間をおいて飛びたった。走り出して網をふり、
震える蝶を確実に押しつぶしていった。どの蝶も彼の親指と人差指
の間で、翅を折り畳み肢をちぢめる同じ形の死を与えられ、パラフィ
ン紙の半透明の光の中に包みこまれた。
見逃すことなく狙い、彼はすばやく動いた。黒い網は獲物を見さ
だめ容赦なく蝶に襲いかかった。岩を回り這松の枝を踏みわけ、斜
面を走った。狂ったような興奮が、衰えのきた体を駆りたてた。三
角ケースで蝶の包みが厚みを重ねるにつれ、あの声が頭に響きわ
たった。
「おれだけのアカボシ、おれひとりの宝……」
快晴と無風にめぐまれ、アカボシは湧き出るように飛びたった。
岩陰から、這松から、砂礫の陰から。2日の遅れを取り戻そうと、
これまで一度も見かけない大量の発生がつづいた。
雄と雌との見境いもつけなくなった。すべてを採り尽くそうと、
網が彼を駆りたて走らせた。疲労が体に押しかぶさってきた。
これから2年先……喘ぎながら彼は、年齢と体力の限界を読み
とっていた。
「いま目にする蝶はおれの指の間で、すべて翅を畳むんだ。今年か
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ぎりで絶滅だ。幻に還っていくんだ」
飛翔が少なくなった合間に、岩陰で水を飲みチーズを食べ氷砂糖
を口に含んだ。すぐ立ち上がり網を手にした。走って、追って、網
を振った。向いの山肌がかげりを誘い、谷間から冷気が漂ってきた。
陽射しが砂礫の斜面に薄らいできた。
飛翔の終わる時刻がきた。
舞い乱れていた蝶は、斜面に吸いこまれ姿を消した。
赤星を翅にのせた蝶の残像が目に浮かび、寂しい砂礫の斜面が後
にのこされていた。
彼は斜面を降りはじめ、醒めきらない興奮と疲労の熱気で体が浮
いていた。足元で踏み砕かれる雪の音が彼に平静を呼びもどし、陽
に焼かれた皮膚を雪の冷気がしずめた。
雪渓は険しい谷問にのぞむ大岩の裾をまわり細長くつづいた。快
晴の日暮れに焼ける空の反映で、そこにはオレンジ色がうっすら加
わっていた。
長い雪道は、彼ひとりを暗く浮き立たせ続いた。
沼地に戻ると足跡を念入りに調べてまわった。
サブザックを降ろし網を外して畳み、茂みの中を這い、テントの
入口の紐をほどいた。
張りつめていた気持がゆるみ、疲れが一度に押しよせた。夢中に
なって採りつづけた後、体力を使い果たした気力の陥没にはまりこ
んだ。
この前、これほど弱ってはいなかった。ここ1、2年の間、体の
衰えが目立ってきた。網をふる自信にも不安が出始めた。
ランプに灯をともし、寝袋の上で腹這いになり、三角ケースから
今日のアカボシを取り出した。
新鮮なアカボシは、後翅の内側に生えひろがる黒い体毛が、柔ら
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かな絹糸のように光った。畳んだ翅の裏側にある赤紋は、翅の付け
根に体毛と暗色部の中に埋もれながら、3つ重なりあって並んでい
る。その色合いは、翅の表側にある赤紋よりも鮮やかな、心を引き
こむような赤色だ。
採集の時とはまるで違った、優しさに溢れる手つきで蝶を取り上
げた。
畳まれて動かない翅の間に軽く親指と人差指を差しいれ、静かに
翅をひろげ眺めた。損傷や畸形はないか、完全標本になるかどうか。
冷静に立ちかえった眼差しで綿密に調べた。
パラフィン紙に挟みこまれた蝶の数あるうちには、まだ腹部を震
わせ口吻を動かし、静かになりきらないのもあった。それを丁寧に
指にはさみ、もがきを止めるため胸を押し潰した。
標本に仕上げるまで、蝶に死が必要だった。
鱗粉がこすれ傷つきやすい翅を、大事に保存するため動けなくす
る。それが彼の情愛なのだ。
後でクレオソートを浸みこま
せ、胸を湯でやわらげ、注意ぶ
かく静かに翅をひろげ、充分な
乾燥を施してやる。
すると蝶は、生きていたとき
見せたことのない、新しい姿と
美しさに甦る。
蛹に閉じこめられた静けさか
ら、羽化して空を飛ぶ蝶に変身
するように、胸を砕かれた短い
静止から、朽ちる時を忘れる美
の変容をなしとげるのだ。
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触角の曲がったものや翅が紙の折り目に引きこまれたものを、き
ちんと入れ直した。体液で紙を赤い褐色に汚しているものは、湿ら
せた紙で尾部を拭い、新しい三角紙に包み直した。採集した 36 頭
のアカボシを調べ終わると、桐の整理箱に三角形の仕切りヘ、ピン
セットを使って詰めた。
整理箱の中には、山小屋まで登ってくる途中で網に入れたミヤマ
カラスアゲハ、チョウセンアカシジミなどが隅に仕切られていた。
突然、彼はピンセットを持つ手を宙に浮かし、目をランプに向けた。
途中の藪で見つけて追ったオオヒカゲチョウ。
あれは幻影だったか? 引きつったように頬を震わせ、顔がこわばった。怖れと悲哀の混
ざった表情が急にひろがった。
道の途中で、オオヒカゲを追っていた。
水かさの少ない渓流をつたい急な斜面を登っていた。オオヒカゲ
は、彼が近づくと潜んでいた笹藪から急に飛びたち、白っぽくみえ
る焦茶色の大きい翅を下向きに羽ばたき、高い茂みに飛びうつり姿
をかくした。
流れを幾段かに堰きとめる石垣が、くらい笹藪の中につづいた。
流れにそって登り、丈の高い笹藪のすぐ目のまえに、オオヒカゲが
入ったのを見とどけた。
彼は横にそれて先回りし、うまく真近まで進み、網を上から被せ
ておいて茂みを掻きわけた。オオヒカゲを追い出そうと覗きこんだ
彼の目に、水にしめった石混じりの土が現われた。するとそこに、
オオヒカゲではなく、信じられないものを目にした。
それは小さな肉の塊り。長さ 20 センチぐらいだっただろうか。
赤身にちかい色をした塊りが、ふやけたように膨らみ、頭のような
丸みが先端についている。塊りには僅かな突出が ……
それは手足? いや、人の嬰児である筈はない。とにかく異常な
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もの。訳がわからなかった。
見た瞬間に、茂みを掻きわけた手をひき、彼は飛びのいた。蒼ざ
めていく自分が分かった。もう一度、手を伸ばし茂みを分けた。肉
の塊りは跡形もなく消えていた。目に映ったものは、濡れた石と土
だけ。
彼は目を疑った。いま見たばかりの肉の塊りは、
幻覚だったのか。全身に冷たい汗がにじみでた。恐
怖に包まれ急いで渓流を離れた。
ツンドラの大地、南サハリンにいたころ、彼は
一人きりの子供を失った。
その子の発熱は、仕事の調査をかねた採集旅行の出発以前から
だったが、極北にちかい土地では、短い夏の採集期間を逃すことは
できなかった。急変するとは思えなかった病気の子供を残し、出発
した。原生林の旅から帰ってきたとき、子供は肺炎で死んでいた。
2年たち、悲しんで妻は彼から去った。
新しく妻を迎えることもせず、彼は独りになった。誰にも話せな
い悔恨と深い痛手を胸に刻んできた。蝶を押し潰して歩く間にわが
子を見殺しにした、痛恨の思いは彼の胸を締めつけた。
忘れようとして目をそらし、独りで採集に歩きまわった。泥に汚
れ疵だらけの編上靴で、暗い思いを踏み潰しつづけた。 オオヒカゲは彼に、踏みつけてきた過去を引き戻して見せた。灰
色の大きな後翅に点在する5つの黒斑は、子供の手を押しつけた指
跡にも見えた。
ピンセットが手から滑りおち、桐箱のふちに当たった。小さな軽
い音に、ぎくっとして体を引いた。
食事の用意をする間も、呼び戻された恐怖は去らなかった。非常
用のブランデーをすこし飲み、 寝袋に潜りこんだ。
度のつよい酒で体が酔いに火照った。アカボシのことだけを考え、
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今年もまた手に入れた喜び
を思い返そうとした。しか
しオオヒカゲの翅の黒斑
が、テントの暗がりに潜ん
でいるような気もした。
ランプの灯がゆれた。風
が出てきた。あたりの濯木
の茂みで、風に騒ぐ音がひ
ろがった。テントの布地が
風に吸い上げ圧しつけら
れ、はためいた。
それはオオヒカゲの羽ばたく音を、彼に聞かせた。
あくる日、朝おそくまで目覚めなかった。しばらくは起き上がれ
ないほど疲れていた。
陽差しはあったが雲が多く、風が出ていた。この風では今日の採
集は多くは望めないだろう。あわてて朝食をすませ、昼食と水筒を
サブザックにつめ、採集道具を持ってテントを出た。
雪渓を渡るとき、湿気をおびた風が谷間から吹き上げていた。雪
で冷えた風が斜面に吹き当たるとなると、気温は低くなるだろう。
すると今日の発生はほとんど望めない。
大岩の裾を、深い谷間を見ながら疲れた足どりで回り、斜面に辿
りついたとき彼は息を弾ませていた。
飛翔が始まる時刻より1時間は遅れていた。
急いで出発したので、予備の三角紙をザックに入れるのを忘れて
きた。もし 30 頭以上採れた場合にはつつむ紙がなかった。採集の
初心者以外にはないミスを犯して、彼は慌てた。その場合、翅がす
こしは傷んでも2頭ずつ、一枚の三角紙に入れるしか方法はない。
アカボシは風にのり、流れるように斜面を飛んでいた。ザックを
目じるしの岩陰に置いたが息苦しく、すぐに立ち上がる気力もなく
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腰を下ろしたまま動けなかった。
ようやく彼は、にぶい動作で立ち上がった。
風にのったアカボシは、網に入れることが難しい。迫いかけ網を
ふる位置を目測する前に、蝶は、思いがけない地点まで風に流され
ている。 彼は走りもせず強引に、網をふった。網の動きは蝶と離れた空間
を切り、蝶の飛跡と交わることがなかった。
風にのる蝶を採るとき、彼の腕は、網のふり具合を知りつくして
いる筈だった。急いで網をふらず、そのときこそゆっくりと大きく
ふり、蝶の飛翔に合わせて風下からすくう。網と蝶とが重なりあう
直前に、一瞬強くかぶせれば、確実にものにすることかできる。
昨日のように無風と快晴の日に採集できたのは、よほどの幸運
で、むしろそれは例外ともいえた。それを今日は、むやみと網を振
り回すだけだった。失敗すると分かりきっていて、網を思い通りに
振れなくなった。急いで砂礫の斜面に辿りつき、昨日の疲労のまま、
最初のひと振りでミスを犯した。失敗に舌打ちした気持が焦りをさ
そった。
アカボシは彼のまわりで、つぎつぎ飛んできた。強まってきた風
の中を飛び、這松の下枝にかくれ岩陰から飛びたち、白く大きい雪
片が斜面に舞うようだった。
アカボシを採りつくしてしまいたい彼の思いとは逆に、まだ1頭
も網にできない苛立ちが、落着きを失なわせていった。網のふり方
の粗雑さが目立ってきた。
這松の茂みに踏みこみ、入りくんだ枝に足をすくわれ倒れ、小さ
な岩につまずき手を擦りむいた。網の柄を支えに体を起し、目を血
走らせ網を振り回した。
なにかの偶然で、蝶を網に入れることもあったが、彼は悲哀にみ
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ちた面持ちで、邪魔ものでも扱うように乱雑に蝶を絞め殺した。
網に入れ損ねた蝶が、口金に当たって叩き落とされた。蝶は飛び
立てず砂礫の地面でもがいたが、翅の付け根が崩れゆがんでいた。
いつもなら捨てて省みない崩れた蝶を、ひったくるように三角紙に
つつんだ。
走れなくなった彼の近くを、蝶は風に流され素早く通りすぎた。
確かに見定めもせず網を、疲れきった腕でゆっくり振りうごかした。
すると、昨日彼が見せていた確実な手首の返しが、網の口を巧み
に折りたたむ動作となった。やっと数頭を加えることができ、網に
した蝶を無造作に指先で押し潰し三角紙にはさんだ。
体力の消耗がはげしく、指先が震えてきた。
三角紙をうまく包めず、折り返しが重ならず紙の端がひらいた。
風が、包みかけた三角紙の中から、いま採ったばかりの蝶を吹き飛
ばしてしまった。彼は苛立つ気力もない放心した眼差しで、遠く運
ばれた這松のあたりを呆然と見送った。
構えていた網を地面に置き、彼はうずくまった。息をはずませ体
を地面に横たえた。飛びちがう蝶を見ようとはせず、口をあけ肩で
大きく息をした。閉じた目尻に涙のしずくか、汗か、頬をつたい流
れた。
にぶく灰色にひかる雲が上空にひろがり、陽がかげり風向きが変
わった。谷間から斜面に吹き上げていた風が、いまは斜面を真横に
吹き払っている。
荒い息使いがおさまってきた。ベルトの三角ケースが腹の上で、
ゆれ動くのが小さくなった。
にわかにうす寒くなり、
彼は身を起した。 アカボシは斜面から姿を消した。
雲は真向いの山の頂上をつつみ、低く空を埋めてきた。風向きが
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変わった冷たさは天候の急変をしらせる前兆だった。
彼は足をひきずり、目印の岩でザックを取りあげた。振りかえり
雲の動きをたしかめ、よろけながら斜面を降りはじめた。急いで降
りていく彼が雪渓に辿りついたころ、斜面には雲の先端が、ガス(霧)
となって吹きつけはじめた。
雪渓の道にさしかかった彼を、ガスが追ってきた。冷気を吹きつ
け、明るさをさえぎり、あたりは急に薄暗くなった。雪は輝きを失
い、ガスの灰色が被さってきた。
大岩の近くでガスにつつまれた。渦巻くガスの隙間から岩の頂き
が、頭上にのしかかって見えた。ちらと見えた岩も灰色に塗りつぶ
され、谷間にのぞむ危険な傾斜も谷の深さも、充満したガスが視界
をさえぎった。 大岩の裾をまわる難所を、雪の上を滑らず歩いていくことに懸命
だった。網の柄を谷側の雪につきさし体を支えることも、きわめて
不安な状況だった。
ガスは濃くなりつづけ寒気は鋭く頬を刺した。わずか2、3m先
までしか視界がきかなくなった。
身に迫った危険を彼は感じた。早くテントに帰りつかなければ、
疲労と空腹で、寒さの中で動けなくなるだろう。
雪渓に踏みかためた道は、足元に辛うじて見分けがついた。谷側
に柄をつきさし足場を確かめながら、一歩ずつ進んでいった。小さ
な不注意から危険な状況に身を晒すことを、鮮明に感じた。雪の足
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跡は凍りつき、滑りやすくもろく崩れた。足がふらつき腰の支えが
決まらなかった。
疲れた体に、寒気は緊張を呼び覚ましたが、足どりの不安は大き
くなった。誤って片足を谷側へ踏み滑らせでもしたら、雪の斜面に
体を持ちこたえる余力はない。
これまで多くの危険に出会ってきた。ただ独りでいる山中で、自
然の力を見くびることはなかったが、怖れを抱くこともなかった。
危機の度に自分を強くする力が湧く、多くの経験に支えられてきた。
しかし今は、採集の失敗で体力を使いはたした。目の前に蝶がい
ても、今日は採らずにテントに引き返し、一日の休養をとるべきだっ
た。これほど気力の弱まったことはなかった。
ガスの中でただ一人いることを、つよく意識した。
誰も彼の危険を気づかず助けることはない。人と断ちきれた場所
いる彼は、閉された真空の容器に置かれているに等しい。
人に聞える筈もないと分かっていながら、助けを求め大声上げて
叫びたい気持ちだ。叫んでも、自分の声すら耳に届かない。
恐怖の塊りを、自分の中に持ち歩いていた。
それは背中に、目につかないよう隠れている
払い除けようと立ち止まり、振りむいた
するとガスの、鈍い光にみちた壁がまわりを取り巻いている
ガスの壁の中から、銀色にひかる無数の針の先がちらつく
それが彼の背後から、突き刺すときを狙っている
多くの蝶に、彼は背中から針をつきさしてきた。体毛の密生した
蝶の背中から、肢がかかえこむ胸の真中を針でつらぬくのは、熟練
のいる仕事だ。背中にさしこむ針を軸に、蝶にさまざまな翅の展開
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がほどこされる。
標本箱のなかで、蝶の背中に針の頭がひかり、指輪にちりばめた
宝石のように、末永く保たれる美と苦役の飾りとなった。
ガスの壁は無数の光の点を明滅させ、束ねた針先をこちらへ向け
ているようだ。恐しさのあまり彼は目を閉じた。
網の柄を、突きさした雪から引きぬくとき、冷えこわばった指に
感覚がうすれていた。網の布地が彼の指先を、柔らかな感触を残し
てかすめた。ガスの中で網は柄を先に引きずりこまれていった。岩
に弾きかえったのか堅い木の音がかすかに、ガスに籠もってひびいた。
体をこわばらせ足を踏みしめた。杖を失ない、一歩もそこから動
けないと、頭にひらめいた。
ためらわずその場に座った。
手拭を皮手袋の上に巻きつけ、その手で雪の道をさぐり腰をかが
め進みはじめた。雪に踏みかためた足跡のくぼみを、顔をすりつけ
るように見つめて動いた。
前へさぐる手を伸ばす長さ、膝を折りまげ足を引きずるわずかな
距離、それが、危機から脱出できる命綱だった。
冷えきった手に感覚がなくなってきた。彼自身の手を、棒ぎれで
雪を突き刺しているような錯覚におそわれた。
風に吹かれ、ガスが薄らいできた。
雪に粘りついて這うガスの切れ目から、間近かに草地の端が見え
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た。谷間にのぞんだ危険な場所を通りすぎ、雪渓がおわる草地のそ
ば、ゆるやかな斜面にいるとも知らず這っていた。
強い風のひと吹きに顔をそむけた。
目に草地が飛びこんできた。10 mとは離れていない近さ。雪の
上に崩れるように彼は腰をおとした。
凍りついた手拭をのろい動作でむしりとり、顔にはびっしりと霧
の滴が貼りついている。ちぎり捨てた手拭を雪にのこし、ふらつき
ながら立ち上がった。伸びきらず曲ったままの膝で、ぎこちなく前
へ進んでいく。
温もりのある草地に、倒れこんだ。両手を股の間にさしこみ、泣
き出しそうな顔で手を必死にこすりはじめた。
ガスがはれ、陽が射してきた。草地では高山植物の小さな花が、
敷物のようにびっしり咲きつめている。しだいに気温が戻りはじめ
た草地で、彼はぬれた顔を陽にむけ、なおも手をこすりつづけた。
冷えきった手に体温が呼びもどされた。左手にはめた皮手袋が水
を吸い皮膚に貼りついている。力をこめてはぎとると、皮膚が蒼白
くむくんでいた。
その手で冷えた頬をこすった。血の気のひいた頬に赤味がさして
きた。陽の温もりが体にしみこみ、
彼はようやく生気を取りもどした。
ナップザックの中からチーズを取り出してかじった。彼は身のま
わりを初めて眺めた。ジャンパーには水滴がびっしり貼りつき、袖
口にしずくが溜まり、ズボンの膝から下がひどく濡れていた。
三角ケースの皮は湿気を吸って
黒ずんでいたが、留金はしっかり
掛かっており、開けてみると採集
したものは無事のようだった。
そのとき網を失くしていること
に気づいた。うろたえてあたりを
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見まわした。ガスの中で、手をすり抜けていった柄の感触、引きこ
まれて見えなくなった網の黒、そして柄が岩に撥ね返ったらしい幽
かな音。その記憶が危機感とともによみがえってきた。
四つ折りにできる網の口金も、八角に削ったミズナラの木の柄も、
握り具合のよい太さと肩の高さまでの長さも、アカボシを発見した
ころから網を替えることのなかった愛着も、すべてを失なった。
テントに置いている予備の網は、銅のバネ板を口金にした折り畳
みのスプリングネットだった。柄は竹製の3本の継ぎ竿で、網をふ
るとき、竿の継ぎ目とスプリングの口金が同時にゆれ、いつもの網
をふるときより動きがひとつ遅れた。そのうえ、継ぎ竿の長さでは
アカボシには届かない。
前の網を探しだすことは不可能だろうか。明日、雪渓を通るとき
探してみるとしても、傾斜の深い、刃物のような頭を露出させた岩
の谷間を降りていくことは、サポートなしではできないことだ。あ
の網をあきらめるしか仕方ないのか。
立って歩き始めたが、体に力がなく腰がふらついた。顔や手は火
照って熱く、体の芯は冷えきっていた。発熱したような、こわばっ
た感じがした。ガスと陽射しの急激な気温の変化に、体がついてい
けない。
網を持たない手が寂しかった。体を支える杖もなく、ふらつきな
がら草地の端から、根曲がり竹が生えている滑りやすい泥の道を降
りはじめた。泥に埋め込まれた竹の根は、白いあばら骨ににた曲り
を見せ浮き出している。
うかつに靴で踏みつければ足をとられ、仰向けにころんで頭をそ
ばの岩にうちあて、死ぬのだろう。
弱気な思いへ落ちこんでいく自分を、彼は怪しんだ。それを打ち
消すように、力ない薄笑いをうかべた。
やっと沼のそばまで帰ってきた。
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2つの沼の水面に、暗くなり始めた空が映っていた。彼は周囲を
確かめる余裕もなく、潅木の茂みの中のテントに這い寄った。
寒さが体に浸みこんでいた。ランプに灯を点しバーナーをつけ、
寝袋の上で膝をくんだ。青白く噴きだす炎の上で、ジャンパーの
チャックを開き、熱気を体にむさぼりとった。火の上にかぶさって
目をとじ、大きく吐息をついた。ズボンを火に乾かし、水筒の水を
飲んだ。ようやく自分を取りもどしてきた。
食欲はなかったが、何か食べなければ疲れが体に滲みわたるだろ
う。そして起き上がれなくなる。
隅に投げだした飯盒と食器をひきよせ、冷えた飯に水を注いで火
にかけた。スプーンで飯盒の飯を掻きまぜる自分の手つきが、何故
か別人のような気がした。いつもと変わらない食事の支度が、慣れ
た手つきで、昨日や今朝と同じように進んでいく。何故かそれが気
になる。
今日一日を振りかえってみれば、雪渓の大岩の下で、一歩踏みす
べらせてしまえば死んでいたかもしれない。テントに帰ってくるこ
とが、スプーンで掻きまぜていることが、わずかに体がよろめく一
瞬を境に、無かったかもしれない。
しかしいま彼の手は、何事もなかったように、震えがひどくなっ
ても、いつもの手つきに戻っている。それが不満に思えた。
何かが彼のうちで、変っていて当然のような気がする。
「この手は鈍重なんだ」
彼は頭をふった。
肉の缶詰をあけて食べはじめたが、半分は残してしまった。飯を
すこし食べ、また残りになったのを隅に押しやった。
寝袋にもぐりこみ体が温まるのを待った。背すじに悪感がはしり、
頬が火照って熱かった。ブランデーを一口飲んだ。体に熱気がむれ
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てきた。寝袋のチャックを押しさげ、腹這いになった。
火のそばに置いてあった三角ケースは、皮の湿りが乾きはじめた。
留金をはずし、
三角紙の包みをつかみだした。全部で 16 しかなかった。
紙の折り返しが開いたままのものがあった。翅が折り目に大きく
かかり、中程から折れているのが目についた。前翅が付け根からぶ
ら下っているのがあった。網の口金で叩き落とされたものだ。乱暴
に蝶をつかんだのか、翅の鱗粉が剥げ落ちているのもあった。
このような傷ものを、これまで採集したことはなかった。その場
でためらわず捨ててくるべきだった。傷ものでも持ち帰るのは、触
角や頭部や翅を、ばらして補修用に使う場合に限られている。
2年ごとにこの山にきて、アカボシは一度に 100 頭までぐらい
しか採集できず、売値の高いアカボシに補修したものは価値がな
かった。なによりも、彼の自尊心がそれを許さなかった。
三角紙を開いてみるたびに、疲労と狼狽と困惑が、そして狂気じ
みた彼自身の姿が、ぶざまな蝶に置きかえられていた。危険を犯し
てきた代償は、あまりにもみじめだった。
いまはそれを捨てることもできない。開いてはちらと蝶を確かめ
包みこみ、整理箱に、昨日のものとは別の仕切りに押しこんだ。
最後に取りだした三角紙では、中で蝶はうごく気配もなかったが、
粗雑に紙をひらくと急に翅をふるわせ、紙の上を歩いて彼の指にと
まった。
彼は驚き、覗きこんでいた顔を引いた。
そのアカボシは生きていた。 胸を押しつぶされたかどうか、分からないほどだった。翅をばた
つかせはしたが、飛び立つことはできない。
30
彼はアカボシをくわしく見定めた。翅も触角もすべてが完全な、
今日の採集でただ一頭の、無疵を確かめた。
なげやりに諦めきった顔に、輝きがもどった。今日の失敗のうち
ただ一頭、完全な個体があった。
網に入れたあと、胸を押しつぶす処理が不充分のミスはあったが、
三角紙の中でもがきまわらず、翅を傷めなかったことは、せめても
の幸運だった。
左手はアカボシに向って、2本の指で胸を軽くはさんだ。翅をふ
るわせ触角で探ろうとするアカボシを、彼は真近かに眺めた。小さ
な肢が指の中でもがき、腹部が湾曲を繰りかえした。
その動きをやめさせ、静かに、翅をたたんで横たわらせることが
できる。指先にわずかな力をこめれば、今日の失敗を償うに足りる、
美しい新鮮体を加えることができる。
手なれた網を失ない、ガスの危険にさらされた無謀と不甲斐なさ
―― あのような失敗はもう2度と繰り返しはすまい。
死が頭をかすめた弱気から立ちなおり、脱け出せるだろう。疲れ
が恢復しさえすれば、明日もまた採集ができる。鍛えぬいた自信の
力が、上げ潮のように体に満ちてくるのを待った。
そのアカボシを締めつけるのを、彼はためらった。
胸廓をはさんだ指の内側でアカボシはもがき、肢で指をくすぐっ
た。ゆとりを取り戻した彼は、かすかに笑いを浮かべた。指を放し
アカボシを下に降ろした。それは飛び去ることはできない。包みこ
む処理のミスで生き延びてはいるが、飛びたつ力を持つ胸筋のいく
つかは、すでに壊されている。
肢がすべる紙の上でアカボシはもがいた。横倒しになりかけては
踏みこらえ、頭を中心に同じところを回り始めた。黒褐色に光る複
眼が、彼に向かい頭を下げて回った。
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死を与えられたときアカボシの眼は、三角紙の中で焦茶色に変わ
り、標本に仕上げたとき、展ろげた翅の美しさに恥じいるように、
光を失った盲目は触角の下でうつむいた。
いのちあるアカボシの眼を見つめることは、今更のように珍し
かった。
光にみちた眼の奥に、多くの黒点がちりばめられ、 その一つひ
とつが彼の顔を、小さく切り分けた断片に映し出している。彼はア
カボシの複眼に捉えられ砕かれた、多くの彼自身に向き会っていた。
…… 彼はいま、視線を注がれた自分を感じる。
英国製アスター平頭2番の昆虫針で胸を刺され、展翅板に載せら
れた自分を見る。
黒い軸のしなやかな展翅針が、前翅前縁の太い翅脈を引っかけ、
しずかに引き上げる。薄い翅が展翅板と押
さえの紙テープをこする、微かな音。
それは標本に蘇える蝶が身動きする音。
紙テープが押さえ、翅はまた動きだす。
前翅後縁が水平よりやや上向きに、紙テー
プで動きを止める。つづいて後翅をひらく。
触角が前翅のひらく角度に従う。
翅がずり動くひそかな音を彼は聞く。
翅のひらきにつれて、微細な形や色や斑
紋を見つめる。2本の紙テープの幅のわず
かな違いも分かる。ひろげた翅の角度の不安定さに気づく。
過敏に彼は研ぎ澄まされてくる。ついに展翅針をにぎる指先の感
覚だけになる。熱い注視のもとで、展らかれていく自分を錯覚し始
める ……
三角紙の折り目に落ちこんだアカボシは、翅を開いて動かなく
なった。 花の蜜を吸うとき翅をふるわせ、平らになるまで下ろし
32
ていく、喜びの姿態に似ている。
夢からさめた目つきで、彼は寝袋から這い出てきた。
ミカンの缶詰に穴をあけ、飯盒の蓋に果汁をすこし垂らした。黄
色のねばりのある液体が、透明に盛りあがった。
果汁をうすめる新鮮な水が必要だ。ポリタンクの水は食塩錠が
入っているので使えない。ランプをはずし、カップを持ってテント
を出た。
潅木の茂みはランプの明りで、透きとおる緑を闇に浮かせた。沼
のそばでは風が吹き、ランプをジャンパーの懐にかこって風を防い
だ。暗い水面でカップを2、
3度すすぎ、
汲みとった水を大事に持った。
夜風が熱っぽい体に快よかった。体の熱は、飲んだブランデーの
せいばかりでないと気づいた。歩くと膝が震えた。筋肉を解きほぐ
すだるさが、全身を包んでいた。
テントの入口を締め、ランプを支柱に結わえつけると、果汁を水
で薄めにかかった。カップの水に指先を漬け、水滴を果汁に垂らし、
混ぜ合わせた。色がほとんど無くなるまで薄め、バーナーの台にし
た木片に果汁を移し、アカボシを果汁のそばに近づけた。
羽ばたく力は弱く、息づくように翅をゆすった。ざらついた木片
の表面で、アカボシは肢をしっかり踏まえた。上げた翅がすぐ降り
てくる。
アカボシは急速に力を失っていくようだった。果汁のそばに置かれ
たが、口吻の渦巻きは巻いたまま、蜜に向って伸ばす気配はなかった。
アカボシと果汁の間の離れた距離が、伸ばしていく口吻で繋がれ
るのを、期待をこめて見守った。しかしアカボシは口吻を丸めたま
ま、しっかり踏まえた肢で、そこに体を縛りつけている。
アカボシの尾部を指先で、そっと押してみた。アカボシは翅を立
て肢を踏まえて逆らった。
今度は強く押してみた。すると押された力に逆らいきれずアカボ
33
シは、前へは進まず横倒しに傾いた。翅を動かせてもがいたが、自
力では元へ戻れなかった。
マッチの軸木を割いて先を尖らせ、アカボシの前肢をそれに乗せ、
果汁に肢の先が浸るようにした。味覚を感じる機能が前肢に備わっ
ているはずだ。アカボシが弱っていても、味覚を刺戟され口吻を伸
ばしていくかもしれない。蜜を吸うことができれば、すこしは力を
恢復してくるだろう。
その様子を見守った。前肢を取りかこむ果汁の表面がわずかに窪
んでいるが、アカボシは肢を動かさず、口吻は頭の下に巻いたままだ。
仮りに力が恢復したとしても、また飛翔することは決してなかっ
た。岩と砂礫の斜面に飛ぶアカボシの自然な衰弱と死を彼は願うの
ではなかった。
いずれは彼の指先で胸を押しつぶし動けなくする、標本の素材に
すぎないが、生きたアカボシをそばに置いていたい、ただそれだけ
のことだった。
渦巻いた口吻を伸ばしてやるため、彼はマッチの軸木の先をその
中心に差しこみ、下に向けて押し伸ばした。
軸木に引きずられた口吻の長い管は、果汁の近くまで延びてきた
が、管は軸木から外れ、もとの渦巻きに戻ってしまった。
幾度も、彼は繰りかえした。
口吻に刺戟を与え、動作を覚えこませようとした。しかしアカボ
シは刺戟に慣れようとせず、かえって口吻を硬
く巻きちぢめ、軸木の力に引きずられ体を横向
きにした。
今度はアカボシの頭を軸木で上から押しつ
け、口吻の渦巻きが果汁に浸かるまで押し下げ
た。アカボシはもがき、口吻は果汁に浸ったが、
伸ばす動きは示さない。頭から軸木を外すと、
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果汁のしずくを口吻に小さく溜めたまま、アカボシはもとの姿態に
戻った。
押しつける力に逆らい、もとの姿勢に閉じこもろうとする繰り返
しが、彼は腹立たしくなった。
アカボシを指でつつき始めた。つつかれたアカボシは横倒れしな
がら肢を踏まえ、完全には転ばなかった。肢の先端に備わった目に
見えない小さな強い鉤が、木片のざらついた表面に引っ掛かっている。
その鉤を木の葉や草の葉裏に引っ掛け逆さにぶら下がり、アカボ
シは眠ることができるのだ。
その肢に、あくまでも頑固な姿勢があった。肢を薙ぎはらうよう
に指先で押した。アカボシは完全に横倒しになったが、伸びきった
一本の肢がまだ木片にしがみついている。
アカボシは生きることを拒みつづけている。彼にはそう思われた。
追いつめられたアカボシは死を見据え、彼に楯突いている。その
ようにも見えた。
アカボシは彼に向って、慰みものにされた死への遊びを、敵意を
こめて投げ返してきた。
それを見て彼は、苛立ってくる自分を押さえ切れなくなった。腹
這いの姿勢から仰向けになり、アカボシをもう見まいと思った。
「あの触角の間に、ピンセットの端につけた無水アルコールを一滴、
垂らしてやる。それですべてが終る。頑固な口吻の渦巻きはほどけ
て垂れさがり、肢の鉤も力が消える。単純なことなんだ」
夜の山の音が、耳に届かない低さで響きつづける。
水の深みに潜ったとき、水圧の高さでひびく、耳鳴りのようでも
ある。
聞こえない音が、彼のまわりを押し包んでいる。
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身動きひとつで、充満したひびきが張り裂けるようだ。
彼は動けなくなった。寝袋の中に自分を縛りつけていた。自然と
胸にもたれかかってくる腕が、いつもの癖で、手首を折りまげる形
になった。力をぬいた指先が、肩のあたりに軽く触れていた。
吐く息の熱さを、火照った頬に感じた。体のうちに火が燃えさか
り、背中を冷たい水が浸しているようだ。
「いまは、動けない。動いたら駄目だ」
頭の中で、言葉をくりかえす。
「夜が明けて明日になったら……」
山小屋の、傾きのある床を思い起した。歩くと、軋んでゆれる床
板は、渓流にせりでた岩に差しかけられていた。板壁の隅に積みか
さねた薄い布団、鼠色の毛布、煤けて真黒にひかる梁。
親密なあの温もりが彼の胸に戻ってきた。
「明日になりさえすれば……」
呪文のように、唱えつづける。
夜のひびきが頭の中で、呪文とまざりあう。砕けた言葉の破片が
誘われて動きだす。
噴きだす硫黄に焼かれた褐色の、紫の、黒の岩が目に映し出され
る。それは下北半島 恐山(おそれざん)の風景。
硫黄を噴きつけられた黄色の砂。鉄分が滲みでた赤い土。血の色
の水を流しつづける小川。岩のかけらを積み重ねた供養の石塔が、
地獄めぐりの道に無数に立つ。
盲目の巫女(イタコ)が黒衣に髪をふり乱し、珠数を擦りあわせ打
ち鳴らし、死霊を呼びよせる口寄せの声。
褐色に黒斑のある翅のヒョウモンチョウが巫女の頭上を飛び交っ
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ている。翅の裏に銀星をのせた
ヒョウモンチョウは、死者たちの
霊が蘇えった姿のようだ。
目を開けようとする。しかし死
霊がたむろする荒涼とした風景を
見たくはない。瞼は重くかぶさり
開こうとしない。もがいてみるが
縛りつけられ動けない。
水の上で彼は今目を閉じてい
る。融けた雪水の流れに浮いている。薄いクリーム色の柔らかい翅
は、水を弾き濡れることはない。赤い3つ星を、流れは静かに捧げ
もつ。
ゆるやかに傾く雪渓の、陽の光にぎらつく反射が、水に浮んだア
カポシに集まる。赤紋は輝き、鮮やかな血の色になる。
テントの中のアカボシを、彼は思いだす。
溶かした蜜をこばみ、翅を下げて動かなかったアカボシは、生き
ているのだろうか。敵意にみちた複眼が、
彼の横顔を捉えて放さない。
あのアカボシはいつか死ぬのだ。いのちが尽きるとき翅を震わせ、
彼を拒んだ姿勢そのままの形で。
三角紙を開く。指が震えアカボシを掴めない。今日、ただ 1 頭
の素晴らしい標本。
ピンセットを握る。その手を地面に据え、手首を寝袋の布地に押
しつけ、震えをおさえる。ピンセットの先端がアカボシの尾部のほ
うから、小刻みに近づく。
黒衣に覆われた腹部をつかまえる。アカボシは三角紙の中で、翅
を折り畳み平らになる。頭と胸と腹部の繋がりがくびれた黒衣の体
の寝姿。
アカボシは三角紙に閉じこもり、永い安らぎを抱きしめている。
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季節の日がアカボシに訪れてくる
蛹の背中に亀裂が入る
割れた殻から濡れた体を引き出してくる
肢が砂礫にかかり、ねじれた翅は脹らみ
皺はほぐれ広がる
アカボシは胸の鼓動を待つ
息づいて翅を動かす
細い肢で体を支えふらつく
触角を動かし踏み出してみる
翅を羽ばたき空に黒衣の体を吊り下げる
岩陰でアカボシが産まれ、這松の緑からアカボシは飛び立ち
赤茶けた砂礫の粒がアカボシに変容する
斜面は今アカボシに埋めつくされ
深い谷間を見下ろす空の陽射しの中で
無音の乱舞が鮮やかな赤紋と黒斑とともに渦巻く
血の飛沫をのせた翅は斜面を熱する大気を抱きつづける
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火山の底には高温に融けたマグマがある
それが地殻を貫いて火を噴きあげる
私の中にもそれに似たものがある
生きてきた時間のうちに融けて溜まった熱いものを感じる
切り捨てられない体験
忘れられない言葉
目に灼きついた印象
それらが融けて膨れて私を押し上げてくる
それを私は書く
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39
■著 者
畑村 達(はたむら・たつ)
1926 年 山口県生まれ、九州帝大工学部中退
教諭、司書、大学職員、日本文芸家協会会員
■ ブログ
「われら老年世代!」
http://ginpaku25.blog112.fc2.com/
定年で終わりじゃない
人生経験者の貴重なノウハウを国民の宝として
つづく世代に伝えよう
百歳まで生きて社会に貢献する仕事を創り出し
人生の楽しみを謳歌しよう
(2010 年6月より) ■ 米寿記念出版 電子ブック
Blog & Story『オクツキの海』2014 年 原爆、敗戦、大震災、原発メルトダウン、
放射能汚染。命の恐怖に翻弄されつづ
けた激動の 88 年。
逆境につぐ逆境を生き抜いた現実を次
の世代に伝え、祖国日本を真実自立さ
せるために英知を結集する、捨石とし
てほしい。
93
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■著 書
『約 束』1976 年
謎といわれた幻の高山蝶を雪山に追う幻想物語…
『蝶』など6篇を収める初期短編集 『今日と明日の間で』1989 年 日常に潜むさりげない事件や、生と死の深い関わり
を追求した『逃亡者』
『雪の炎』を含む連作長編
『巨人の首』1991 年 戦後混乱期に危険な工場で働く青年を描いた『塩素』
海辺のホテルで見つめる原風景『巨人の首』
『昭和天皇と侍医長の死』1994 年 昭和天皇最後を看取った髙木顕侍医長は殉死と噂さ
れたが、その真相を探る伝記対談 『海と廃墟の街から』1994 年 一女性の胸に深く刻まれた戦争の悲劇が戦後半世紀
を過ぎ、生々しく甦える長編小説 『花の石 / 磔のペテロ』1998 年
中国漢字の伝統を確かめる旅『花の石』
欧州で生きる日本人の素顔を追う旅『磔のペテロ』
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『炎の国、孤島の舞』2000 年
ドキュメンタリータッチで綴る九州古代の名族・
宇佐氏に関わる 2000 年の秘話
『アフガンの蝶』2003 年
メール往復で話題を盛り上げる試み、見慣れた小説
の枠からはみ出た e メールストーリー
『胸に刻む愛』2006 年
仮想美術館《夢幻》の展示室にある6つの書、不思
議で優しい物語がそこから始まる
『友よ、われらの歌を』2006 年
亡き親友を偲んで書き綴る『宴の後で』『魂の使者』
など7篇の詩文集(私家版)
『ネクタイピン』2007 年
わが国伝統の句読点のない文章で試みる異色短編集
『田舎町の素描』
『首飾り』など 12 篇
『夢百年』2010 年 天来の愛弟子で1世紀を書一筋に生きた書家・北畑
観瀾の書歴と評伝 95
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◉著者プロフィール
1926 年生まれ。九州帝大工学部中退。
教諭、司書、大学職員を経て日本文芸家協会会員。
著書:
「今日と明日の間で」
「昭和天皇と侍医長の死」
「海と廃墟の街から」
「炎の国、孤島の舞」ほか。
ブログ:われら老年世代!
http://ginpaku25.blog112.fc2.com/
ブレメリ アイノ ― 大雪山の幻
畑村 達
発 行 2015年1月1日
発行者 横山三四郎
出版社 eブックランド社
東京都杉並区久我山4-3-2 〒168-0082
http://www.e-bookland.net/
装丁・CG・イラスト/ミウラ ヨーコ
ⒸTatsu Hatamura 2015
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ドが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。
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