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旧友二人から贈呈された本に感謝

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旧友二人から贈呈された本に感謝
旧友二人から贈呈された本に感謝
太田陽治
はじめに
昨年の7月『さいか再見』清水利美著と、8月に国宝松江城秘話『誇り高きのぼ
せもん』山口信夫著の本を、平野稔君からそれぞれ贈呈を受けました。
前者は、清水君が永年取り組んでいた鉄砲町(雑賀町の昔の名前)を堀尾期の
鉄砲町から松平期の拡充と整備、その後の大改造を行った歴史を自からの調査を
基に研究し、庶民の暮らしの水、井戸、共同井戸、排水路(大溝、小溝、細溝)
など、先人が手掛けなかった分野まで広げて、生活に密着した歴史の集大成を成
し遂げた貴重な本だった。完成を心から慶びお祝い申し上げます。
後者は、平野稔君から『誇り高きのぼせもん』は、2016(H28)年6月29日、
今井出版発行の新刊本であります。巻頭文は『松江歴史館』の藤岡大拙館長の
「この本は小説作法(さくほう)が巧みであるので面白く一気に読めた。資料が
語ってくれない部分を小説の技法で補完した」と讃えて下さっていた。
平野君は『松江歴史館』がお得意先であり、商品不足がないよう訪ねて行く度
「売店に積み上げられた本が少なくなっていて驚いている」ことを電話で語って
くれました。
茲に二人の旧友の友情を感謝し、お礼を申し上げます。
2016(H28)年10月12日
国宝松江城秘話
『誇り高きのぼせもん』
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(1)廃城布告
明治4年(1871)陰暦4月24日 松江白潟天満宮広場
この日、高札場(こうさつば)には、次のことが告げられていた。
『松江城は戦の方法が変わり、残しておいても仕方がない。建物の管理や修理
に金ばっかりかかるので取り壊すことで逼迫する財政に役立てたい。このことに
ついて東京に伺いを入れたところ、許された。みんな承知するように。』
仕事を終えて帰宅途中の人、字が読めないから読んでくれ。多くの人で賑わっ
ていた。本書の主人公、髙城権八(旧藩士・銅山手伝)と仲間、稲垣清太郎
(同)石田又兵衛(同)三人が偶然出会った。「この話は見過ごすわけには行か
ぬ」「自分たちには全く知らせられなく廃止とは」と驚きかつ怒った。「丁度ど
ぶろくを手に入れた。権八さんの家に集まり飲もう」ということになった。
権八の祖先は、天正年間に紀伊の国で誕生した鉄砲集団「雑賀(さいか)衆」
に源を発する。長篠の戦い、石山合戦、根来(ねごろ)討伐、雑賀討伐に参戦し
た堀尾吉晴は、鉄砲隊の威力を目の当たりにし、慶長五年(1600)雲隠太守に就
任するや「雑賀衆」を引き連れて松江に入り、天神川の南を彼らの居住地にあて
がわれた。
権八は五代目髙城権太郎の長男として天保四年(1833)に雑賀町で生まれた。
髙城家の教えは「困っている人には手を差し伸べよ。世のため、人のためになる
ことは、まず一歩を踏み出せ。則をわきまえ筋を通せ」が家訓だった。父親の教
えが過剰に効いたのか、権八は、目の前に気になることがあると、すぐ飛びつく、
いわば「のぼせもん」と言われた類の人間に育った。
開国に伴う文明の近代化が始まった。安政年間ともなると、戦の兵器も近代化
した。藩主松平定安は「従来の古流砲術を全廃し、西洋流砲術に切り替える」と
の方針を示した。ところが藩領には、銃の原料となる銅や錫などの鉱石の採掘は
乏しく、鉱脈の発見による金属の生産が急務となった。
アンセリューム
絵
太田陽治
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そこで藩は、権八の如き一本気で、後先見ぬ性格の者に、諸刃の剣と承知の上で、
その胆力を見込んで鉱山役人に取り立てた。
坂田の豪農、勝部本右衛門が鉱山開発に乗り出したのもこの頃で、権八は業績が
上がらぬ勝部家と懇に世話をし、七代目当主栄忠(しげただ)、八代目当主景浜
(かげはま)と徐々に繋がりを深めていった。権八は鉱山現場で仕事をすることに
なってからは、毎晩のように専門書を読み、学問に励んだ。また、自ら新たな鉱山
の開発にも精力を注いだ。
松江の東、出雲郷(あだかい)に豪雨の後、岩山が崩壊して山肌が露出し、その
岩が燦然と輝いているのを村人が見つけた。噂を聞きつけた村人の長は、有力な鉱
脈と気付いたが、幕府直轄の天領となることと開発による立ち退きや農地の収容な
ど村落の破壊を招くとこれを恐れ、互いに戒めて内密にしていた。
この情報を探知した藩は権八を差し向け、尻込みする村人に案内させ、鉱脈の試
掘と検査を進めた。その結果噂に違わず、いたるところに鉱脈があり、それが皆良
鉱であったことから藩主に報告して「宝満山」(ほうまんざん)と命名し、松江藩
の事業として開発準備を推し進めたのであった。
反対派の村人は、百姓一揆の象徴である蓆旗(むしろはた)を立てて激しく抵抗
した。権八らは、藩の上層部を説得し、開発のための条件を纏めた。権八が頭角を
顕してきたのは文久三年(1863)三十歳になり、鉱山役人に取り立てられてからで
ある。
(2)雑賀の大火
明治7年(1874)6月8日 松江雑賀町
床几山の火見櫓の半鐘が夜のしじまを破って激しく鳴っている。明治7年
(1874)6月8日午前2時。意宇(おう)郡雑賀町6丁目の3丁目の民家を火元と
した火災は城下を襲った。髙城家は、慶応年間に新鉄砲町の天神川沿いに銅山方と
銅山方役人の屋敷が建てられたことによって、雑賀町から隣接した新鉄砲町の屋敷
に移り住んでいた。
権八は南の空が真赤に染まる火災が迫って来ている。即座に身支度して火事場に
急いだ。「誰か、子供が、二階に」。半狂乱の女が飛び出した。権八は体に水を浴
びせて火の中に飛び込んで男の子を助けた。間一髪だった。
その時髪を乱した母親が「髙城様、広瀬お琴でございます。吉之助を助けて頂き、
何とお礼を申してよいやら」「広瀬?もしや甚之助の?」「はい。以前親しくして
頂いた甚之助の家内にございます。」かっての同僚広瀬甚之助の妻で二十九歳に
なったお琴であった。
この火事は、宍道湖の強風にあおられ藁屋根から藁屋根へ延焼し、北東に広がり、
竪町、本郷町、さらに四町も離れた伊勢宮町まで飛び火して、朝方下火になった。
焼失家屋七百十二戸、死者一名、負傷者は数え切れぬほど、松江史上稀にみる大火
となった。
権八は大火直後から、旧銅山方の雑賀地区の避難所を提供した。清太郎、又兵衛、
お琴や吉之助から、家を失ったものをここでお世話した。
坂田村の勝部家から、米十俵が小舟に積める精一杯を積んで来た。義捐米だった。
権八の妻小夜は一日も休まず、ここで働き、風邪の体に無理を重ね、とうとう労咳
(ろうがい)になっていた。この病は当時二人に一人は死ぬ病だった。
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(3)入札布告
明治8年(1875)6月18日 松江京橋北詰勢溜(せいだまり)
布告
明治六年一月十四日付太政官布達ヲ以テ、
松江城払下げ入札可致者也(いたすべきものなり)
一、天守外建造物 七月二十日於島根県庁
一、天守
八月十日
同上
明治八年六月十八日 陸軍省広島鎮台
権八は宝満山のトンネル事故の処理を終え、坂田村の勝部家に松江城を入札、
落札した神門屋五平(古物商・銅山手伝)の落札価格180円(現在の価格の
120万円相当)の内諾を取り付け帰ってみると、竹谷源太郎(元、千鳥城大
工棟梁、出自は信濃の国)が入札を不服として県庁に嘆願しに行ったら、広島
から来たお役人、堂上長太夫(陸軍省広島鎮台少尉)に水を浴びせられ「くや
しい」と言って帰宅し、翌日首をつって亡くなっていた。清太郎は源太郎さん
の敵を討つと言って又平衛を誘って高札場で高札を破損。その時十間ほど離れ
た土手で人影を見た。堂上だった。二人は高札場で争っていたら、天神通りか
ら黒い警棒を吊った男が提灯をぶら下げて歩み寄って来た。邏卆(らそつ)
だった。二人は現行犯で捕らわれた。堂上は安芸の国、因島出身で、剣道と遊
泳が達者な男だった。
雑賀の大火から一年経ったある日、馬場佐々右衛門(島根県職員、広島鎮台
島根県臨時顧問)が権八の家にやって来た。「単刀直入に申し上げましょう。
高城殿、城のことから手を引いてくださらぬか」馬場は権八が藩の鉱山役人を
していた当時の上司で、堅実な采配と部下の面倒見の良さに定評があった。権
八は藩を退くにあたり、尊敬している馬場に、息子権之助就職の口添えを頼ん
だ人だった。「権之助は只今、広島鎮台のお世話係をして、朝から晩ま
で・・・」権八と小夜は声を上げて仰天した。権八はこれからどうするのか?
(4)身内の訣別
今年のお盆は、父権太郎の九回忌に当たる。権八は、自宅の南二町の洞光寺
(とうこうじ)の墓へ千代を連れて参った。庭の百日紅の花を供え、祈る権八
の目に涙が光った。「小夜、権之助が戻ったら、皆で上の間へ来てくれ」
下手に小夜、権之助と千代(雑賀小3年)が座っていた。そこへ紋付羽織に
身を整えた権八が入って来た。一礼してから「別離状」を書いた巻紙を懐から
取り出し、「小夜、別れじゃ」小夜は別離状を広げ一読した。「お前様、これ
は・・・」「小夜、権之助、千代、本日、髙城家から籍を抜いた。家を出るこ
とにした。」 「権之助、母を助けて家を頼む。」
史実に基づき、小説の形で空想を膨らませたこの本は、灘町の料亭『魚七』
での鎮台の失態。秘密漏洩を上司から叱責(しっせき)された堂上の野心。波
乱万丈の闘争中にも恋あり、情あり。雑賀魂をつら貫き成就させた千鳥が羽ば
たく姿の別名「千鳥城」を守り抜いた権八の生きざま。松江城が国宝になった
今、新たな真実を知る上での良著だった。
山口信夫氏より引用許可受領済
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『さいか再見』
目次
はじめに
第一章 堀尾期の松江城下図で鉄砲町を読む
第二章 堀尾図の円弧みち
第三章 松平期の鉄砲町の拡充と整備
第四章 鉄砲町の大改造
第五章 雑賀町の暮らしと水
引用 おもな参考文献
参考資料『松江城と城下町』宍道正年著(山陰中央新報社発行)
1608(慶長13)年10月2日、堀尾吉晴公は広瀬の富田(とだ)城から松江に移住さ
れました。
1607(慶長12)年から1611(慶長16)年まで足かけ5年で松江城と城下町を作り上
げたこと から、“開府400年祭”が2007(平成19)年から2011(平成23)年まで記
念行事がおこなわれました。
著者 清水利美
1931年 島根県松江市雑賀町に生まれる
1950年 島根県立松江高等学校卒業
同年日本銀行入行
1955年 中央大学法学部卒業
日本銀行 勤務地 本店、名古屋、大阪、前橋、岡山、松江、大分の各店
1990年 退職
歴任
日本篆刻家協会参与・島根篆刻会事務局長
美しい篆刻で彩られた表紙と裏表紙
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松江市雑賀町(鉄砲町)
あとがき
一双会会員へのお願いごと
神門郷はどのあたりでしょうか
松江城が出来てから150年ばかり後の1769(明和6)年に、私事で恐縮ですが、わが家の元祖
が神門郷(かんどごおり)から松江の城下町に移住して来ました。私は神門郷がどの辺か良く
知りません。唯、二つのことを知るだけです。
①1945(昭和20)年旧制松江中学2年のとき、学校の春の遠足に『立久恵峡』に行き、吊り
橋を渡るとき、悪童たちと一緒に橋を揺らしながら渡り、頂上近くでは鉄の鎖が取り付けられ
ていて、それを頼りに登りました。吊り橋の下の川が神門川だったと記憶しています。
②1949(昭和24)年、新制松江高校3年の夏休みに、クラスで映研部だった岡田敏男君と、
後にテレビで、ジャズピアニストで活躍し、故人となった世良譲(本名・世良哲荘)君、たし
か三刀屋高校か、大社高校か忘れたが3人で日御碕近くの海で舟を借りて泳いだことしか知り
ません。
一双会の会員、特に西部汽車通であった方々からお教えいただければ幸いです。吉報をお待
ちしております。
日御碕灯台
絵
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太田陽治
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