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No.8 (2016年5月20日)

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No.8 (2016年5月20日)
No,8
H28 年5月 20 日(金)久礼中学校 谷内宣夫
「ある ある ある みんなある さわやかな 秋の朝」
と結んでいる「秋の朝」という詩を紹介しました。
どんかん
私たちは「ある」物に対しては鈍感で、
「ない」物に対
先日、TV を見ていたら、
「ヘレン・ケラー」のことを取
びんかん
しては敏感です。
り上げていました。その番組を見て「中村久子」さんのこ
「○○がない」
「◆◆をしてもらえない」
とを思い出しました。是非、皆さんに紹介したいと思いこ
「もっと△△が欲しい」と、要求ばかりをしてはいません
の便りで取り上げます。私たちはともすれば身近にある大
か?家族とのやりとりでも「○○してくれない」
切な物に気づかなかったり、そのありがたみを軽視したり
「みんな■■を持っているのに私は持ってない」
していると感じることが多々あります。
学校でも「□□して!」
「どうしてしてくれんが!」
「勉強が分からんのは、分かるように教えてくれんから」
等、
「くれない病」にかかっていませんか?
「◇◇してくれない」と不平不満をよく口にする人を
「くれない族」と呼んでます。
こづかい
住む家がある。食事も作ってもらえる。小遣いももらえる。
頑張ればいろんなことができる身体がある。
学ぼうとすれば理解できる脳もある。
↑これは「中村久子さん」という方の詩です。
たくさんの「ある」ものを持っていますよね。
中村さんは明治時代に岐阜県に生まれ、3歳の時に病気に
何もしてくれないと相手への不平不満を言う前に、
「自
かかり、両手・両足の切断というハンデを負った。
「ダルマ
分でしてみよう」という気持ちで「何ができるか」を考え
女」と悪口を言われながらも懸命に生き、素敵な絵や詩を
て、そのできることを確実に実行する。自分の持っている
たくさん残した人です。障害を持ちながらも自立した生活
あらゆる物を使ってやってみる。これが大切です。
を送った女性として知られています。皆さんがよく知って
「あること」
「やってもらうこと」が当たり前となって、
いる「ヘレン・ケラー」
(アメリカ・目が見えず、耳が聞こ
そのありがたさを感じなくなってしまわぬよう、自分の中
えず、口がきけないという、三重苦にも負けず、昭和43
の「ある物」に感謝し、心も体も頭もどんどん使って「く
年に87歳で亡くなるまで世界各地で身体障害者の教育
れない族」から「する族」への転換を図りましょう。
や福祉に尽くした人)が、
「私より不幸な人、そして私より偉大な人」と感嘆した方
として有名になった人物です。
写真の人形は、手足の無い中村さんが
口を使って、器用に縫った人形です。
ヘレン・ケラーが来日したときにプレゼントされました。
その中村さんが、身近にある物を次々あげ、最後に
ヘレン・ケラー アメリカ合衆国の教育家、社会福祉活動家、著作家。
裏面も読んでくださ
い。
した。
その母の厳しいしつけによって、彼女は食事、トイレ、風呂、
さいほう
あ み も の
といった身の回りのことはもちろんのこと、裁縫、編み物、
すいじ
せんたく
炊事、洗濯、さえも出来るようになるのです。
激動の生活の中、彼女を支えてくれたのは、祖母ゆきと
うらむ
母あやであった。運命を恨むのではなく、受け入れて生き
ることを久子に諭した。
人の命は、つくづく不思議なものです。
あやは自分がいなくなった後、残された久子が一人で生きて
確かなことは自分で生きているのではない、
いけるようにと、厳しい 躾 を始める。来客があってもかくまう
生かされているのだということです。
のではなく、礼儀作法を教え、読書、書道などを厳しく教え
どんなところにも必ず生かされていく道がある。
厳格な教育を授けた。裁縫や食事も自分で出来るように鍛え
すなわち人生に絶望なし。
られた。口で字を書き、そして口などで針に糸を通すことも出
いかなる人生にも決して絶望はありません」
きるようになった。
き び し い しつけ
げんかく
きょういく
さ ず け た
さいほう
きたえ
1937 年(昭和 12 年)、41 歳の久子は
「中村久子さんの生涯─心の手足」
東京日比谷公会堂でヘレン・ケラーと出会う。
数年前、「知ってるつもり」というテレビ番組でも取り上げら
れ、大変大きな反響を呼んだ中村久子さんという方を、ご紹
介したいと思います。
久子は口を使って作った日本人形をヘレンに贈った。
だ き
ヘレンは久子を抱きしめると「私を世界の人たちは奇跡の人
彼女は明治 30 年・飛騨高山市に釜鳴栄太郎、
と言うけれど、あなたこそ、真の奇跡の人です」と言った。
あやの長女として、この世に生を受けました。
3 歳の時に霜焼けがもとで「突発性脱疽(だっそ)」という病
自分以上にたいへんな傷害を抱えながら、挫けることなく、
気にかかり、両手両足を失うという、まことに
明るく強く生きている久子を「私より不幸な人、
痛ましいできごとに見舞われます。
私より偉大な人」と賞賛した。
う ら み
当時の社会は、まだまだ身障者に対する理解は薄く、手足
母親のしつけのあまりの厳しさに、恨みこそすれ感謝の気持
のない彼女を見る世間の目はまことに冷たいものがありまし
ちなど抱いたこともなかった久子は、このとき初めて泣いた。
たたり
た。このような子どもが生まれたのは、何か祟りか、罰が当
たったのだと信じられていたのです。当然母の再婚先でも、
恨みつづけた厳しい母・あやの深い愛に気付いた。
母は「出来るまでやってみること、やれないことはやってみないからな
の。」と言うので部屋の掃除・火をおこすこと・寝具の上げ下げなど出
彼女は決して温かく迎えてはもらえず、いつも二階の小さな
かくす
部屋で身を隠すような日々を送っていたそうです。
彼女の母はそんな我が子を、何としても一人で生きていける
きびしい
子にしてやらねばと、彼女に厳しいしつけをするようになりま
来るまでやりました。でもどんなに苦心して何十回、何百回やっても出
来な い の は 、 着物を 着た り 、 帯を 結ぶ こ と 、 髪を 結う こ と 、
これだけは出来ませんでした。
◎厳しくとも、将来のため、本人が困らないように、
心を鬼にして子育てしていたんですね。
これが本当の愛情のかけ方ではないでしょうか。
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