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帝国大学におけるオーケストラ育成運動 - Kyushu University Library
九州大学大学院教育学研究紀要,2003,第6号(通算第49号),95−114 Res.Bull.Education,Kyushu UリVol.6,95−114 帝国大学におけるオーケストラ育成運動 一榊保三郎の九州帝国大学フィルハーモニー会活動を中心に一 仁 淑 高 はじめに 九州帝国大学のフィルハーモニー会を組織し,育成した榊保三郎(1870∼1929)は,明治期に医 学博士号を取得し,大正期には文学博士号を取得,昭和期,50歳代後半で,法学博士号を目指して 法文学部に入学した多才な人物である。彼は退職後,九州帝国大学の法文学部に入学,「犯罪心理 学」の研究で法学博士を目指していたが,上京中,急性肺炎で逝去した。 1911年,第4番目の帝国大学としてスタートした九州帝国大学において,榊保三郎教授が導いた 九州帝国大学フィルハーモニー会の活動は,新しい西洋音楽ジャンルの草分けの役割を担い,地域 音楽文化を創造した。フィルハーモニー会の活躍は,既に九州帝国大学の前身の京都帝国大学福岡 医科大学の時代,精神病学教室に榊保三郎医学博士を教授として迎えた時から始まった。榊医学博 士は,九州帝国大学への発令を受けてドイツ留学から帰国する際に,多量の楽譜と名器を持ち込み, 日本の洋楽発展・後進養成に寄与した。榊がベートーベンの全曲集を所持していたため,近衛秀麿 (1)など音楽家たちが楽譜を写譜した。医学の傍ら,ヴァイオリンを学んで来た榊保三郎博士は,医 学と芸術を両立させ,自ら音楽人材の育成に力を注ぎ,大学文化を花咲かせた。 榊教授が育成した九州帝国大学フィルハーモニー会が,1924年にべートーベンの「第九」交響曲 を日本人としてはじめて演奏するなど,福岡は当時の音楽文化の発信地となっていった。榊保三郎 の下の九州帝国大学フィルハーモニー会で研かれた技量は,やがて地元の九州交響楽団を構成する 源となり,プロ・オーケストラの資質を高めつつ,現在に至って九州地域の音楽文化を支えている。 1 帝国大学におけるオーケストラ育成 連合国側として参戦した第1次世界大戟の勝利によって日本は好景気に入り,社会的には高学歴 者が増加して大学入試競争が激しくなり,浪人問題も浮上した。高校卒業者を収容する高等教育機 関の設立が必然となり,植民地朝鮮と台湾に帝国大学が設立された。1924年に設立された京城帝国 大学では,初年の入学者の中で日本人が70%以上を占め,大学受験における受験者の移動がみられ る。(2) 他方,音楽界では,1917年のロシア革命によって音楽家たちが極東へ亡命したことにより,この −95− 高 仁 淑 時期に大家の日本での演奏会が盛んに行われ,音楽文化が盛況となった。大正期に来日した演奏家 としては,ヴァイオリンのエルマン,ジンパリスト,クライスラー等がおり,彼らはシベリア鉄道 で朝鮮を経由して来日し,朝鮮と日本で演奏会を開いた。後に京都帝国大学オーケストラの指揮者 として招聴されたメッテルもその一人である。 このような時代を背景に,九州帝国大学では課外活動としての大学オーケストラ演奏活動が活性 化していたが,他大学ではまだオーケストラがスタートする基盤が整えられていなかった。京都帝 国大学でオーケストラが活動を始めたのは1916(大正5)年であり,東京帝国大学のオーケストラ の発足は1920年11月とされている。京都帝国大学では,1917年頃から「学生交響楽運動の推進,音 楽の啓蒙運動,市民交響楽団の結成などがあり,『京都は音楽芸術のメッカたるべし』という合言 葉で」演奏活動を行っていた。(3)東大オーケストラは,一高の学友会が出発点となっているが,東 京帝国大学基督教育年会館に集い楽器を奏でたグループもあった。東京帝国大学は1918年大学令の 公布を受けて法,医,工,文,理,農,経の7学部に改編されることになったが,この学制改革は 新たに音楽部を設置する契機ともなった。そして1924(大正13)年には京大との合同演奏会をなす ほどの発展を見せている。(4) このように九州帝国大学,京都帝国大学,東京帝国大学の順にアマチュア・オーケストラが組織・ 展開されたが,その研究としては榊保三郎と九大フィルについて初期から現在に至る楽団の物語を ジャー ナル形式で善かれたものがあるのみであり(5),帝国大学のオーケストラ形成に関する学術研 究は管見の限りでは存在しない。本論文では,帝国大学におけるオーケストラの形成過程を把捉す ることをねらいとし,帝国大学では初めてのオーケストラを組織,日本の管弦楽団発展に多大な影 響を与えた九州帝国大学フィルハーモニー会に焦点を当てて検討したい。 1)榊保三郎の苦楽活動と九州帝国大学フィルハーモニー会 ドイツ留学から帰国した際に,名器ストラデイヴァーリを所持していたと伝えられている榊のヴァ イオリンの技量は,留学以前から東京において評判を得ていた。榊の学生時代には,米国公使夫妻 を招いて演奏会を開催したという記述もみられる。 一高の同窓で榊と交流があった音楽学者田辺尚雄は,「医科の学生に榊保三郎というヴァイオリ ンの名手が居り,また理科に福井政一というピアノの上手な学生がいた。(略)榊君は,当時東京 音楽学校の専門のヴァイオリン科生より造かに上手であったという噂があった」(6)と記している。 榊は,独逸協会学校在学時,独逸協会学校教師からヴァイオリンの手ほどきを受けた。一高を経 て東京帝国大学に在学した時には,黎明期の日本の西洋音楽の女王と称された東京音楽学校の幸田 延のヴァイオリンの門下生となる。そして,ドイツ留学時代には,ヨーロッパで名高いヴァイオリ ニスト・ヨアヒムに弟子入りしていた。 福岡に赴任した榊は,たびたび自宅で音楽会を開いた。1908年の榊教授宅の演奏会記録には,ロ マンス(ベートーベン)中野きよ子,その他と記されている。音楽愛好者の演奏会が榊教授の自宅 で行われたことが九州帝大フィルの実質的スタートとなった。 −96− 帝国大学におけるオーケストラ育成運動 『九大フィルハーモニー・オーケストラ50年史』の年表によると,1910年11月12日の第2回音楽 会から公会堂で行われたとのことである。(7)ようやく九州帝国大学のフィルハーモニー会が結成さ れ,その会頭を務めた榊と同僚の工学部・降夫芳郎教授(フルート)と工学部・荒川文六教授(ク ラリネット),および医学部学生が初期のメンバーである。 帝国大学設立初期の電気工学科長降央芳郎教授と荒川丈六教授は,両家族とも音楽の見識が高く, 音楽会には必ず家族連れで参席していたと伝えられている。医学部の榊博士が率いた九州帝国大学 フィルハーモニー会活動を支えてきた初期の二人の教授は榊博士の後を継いで,音楽部長を歴任し, 楽団組織の発展に貢献した。 電池の研究者として知られる降矢芳郎教授は,第2代の音楽部長(大正14年∼昭和5年)として フィルハーモニー会の基盤を固めた。 1911年九州帝国大学工科大学教授として任命された電球の研究者荒川文六教授は,榊保三郎教授 とは一高時代の音楽部の仲間で,才能ある同好者だった。(8)クラリネット奏者である荒川文六教授 は,降央芳郎教授に続いて第3代の音楽部長(昭和5年∼11年)となる。自宅の書斎にオルガンを 置き,音楽練習に励んだ荒川教授は,教会のオルガニストとしても活躍していた。一高の時,16歳 で洗礼を受けてクリスチャンとなり,福岡へ赴任してからは警固教会の役員を務めた。教会のオル ガン伴奏者,教会学校の教師として人材を育てていた。 アメリカのコーネル大学へ留学,明治37年著書『荒川電気工学』を出した荒川博士は,後に第6 代目の総長を務める。太平洋戦争中には,敵国とされたアメリカとの挟間に立たなければならなかっ た。戦争中,教え子を戦場へ送り込んだ大学の「学徒出陣」問題が戦後問われているが,荒川文六 教授も例外ではない。大学指導者としての彼のジレンマを窺わせる。(9)また,榊博士胸像も戦時中 の物資不足のため,医学部の開設者大森治豊の銅像とともに倒され「晴れの応召」となるなど,時 代の波に流されていた。 教授3名と医学部の学生らを軸に20数名が集まったフィルハーモニー会の組織は,帝国大学とし ては初めてのアマチュア・オーケストラ組織であり,日本オーケストラ史における先進的な役割を 担うこととなる。 九州帝大フィルハーモニー会は,年を重ねるごとに団員も増えてその質も高められた。1930年頃 になると朝鮮人留学生等の外国人の名前が見られ,大編成の楽団へ成長していくのである。(10) 2)九州帝国大学フィルハーモニー会の演奏記録 九州帝大フィルハーモニー会の演奏会の記録は,地元の『福岡日日新聞』等に散在している。福 岡での初めての音楽演奏会は,福岡医科大学(九州帝国大学の前身)教授医学博士榊保三郎が会頭 となって発起し,東京音楽学校福岡同窓会のメンバーが中心となって行われた。(11)演奏会の趣旨 が「同地方に於る純正音楽の普及発達を図らんが為福岡医科大学教授医学博士榊保三郎氏が之が会 頭となり発起せし」と記されているように,地元の音楽普及・発展を担うことをめざした。その後, 「福岡大学の来賓は,之は予て私の自宅で四部合奏を練習しています」(12)という榊の談話が掲載さ −97一 高 仁 淑 れ,榊の自宅で練習を重ねていた福岡医科大学のメンバーが集まって演奏会へ向けて練習している 様子が示唆されると共に,管弦楽団への発展の兆しがみえ始める。『九州大学五十年史』には第1 回九州帝国大学フィルハーモニー会の演奏会は1912年5月25日とみなされると記されている。音楽 にも才能の豊かだった荒川丈六教授の九州帝国大学への着任の翌年のことである。 「荒川は榊保三郎とならんで九大フィルハーモニーの育ての親としても知られている。明治45年 5月25日の第1回九大フィルハーモニー会でタンホイザーを独唱して満堂を魅了した」(13)と記さ れ,この演奏会を九州帝国大学フィルハーモニー会の第1演奏としている。 「奉悼音楽会短評」の記事には,荒川博士の風琴の練習が行届いている(14)ことが記されている が,この明治天皇奉悼音楽会を契機に人材や楽器などが揃えられ,本格的なオーケストラとしての 活動が開始される。 今回,本研究をとおして九州帝大フィルハーモニー会の第3回演奏会のプログラム(15)が発見さ れ,当時の演奏者や演奏曲目について確認できた。その一部分を紹介すると以下のとおりである。 九州帝大フィルハーモニー会 主催第3回春季音楽演奏会は五月十七日土曜日午前七時より福岡 市西中洲公会堂に於て開会々頭榊保三郎博士の熱心なる指揮の下に左の曲目を演奏せり 曲目(1)小 管弦合奏「ヴァイオリン」Ⅰ榊博士,Ⅱ会員玉井一夫,Ⅲ堀川冬弘,Ⅳ石川勝治,「ヴィオラ」中 野教師,「ヴァイオリンセロ」会員小泉長亮,「ハルモニウム」及び「クラリネット」荒川博士「ピ アノ」会員木村省三「洋笛」降央博士,甲,緩調之曲(ラルゴー)ヘンデル氏作曲,乙,舌代舞曲 (百年前ノッベラドンジュアン中)クルック氏作曲,(省) 以下順に(9)まで曲目と演奏者の名前が配列されている他,番外が載せられている。(16) 国内外で活躍中の高名な演奏家たちと共演することによって,飛躍的な成長を遂げた九州帝大フィ ルハーモニー会は,音楽家を福岡に招いて演奏会を行っていた。1918年には,外国から女流音楽家 ザレスカーを招いて九州帝大フィルハーモニー会と共演,好反応を受けた。(17) このような九州帝大フィルハーモニー会の演奏活動の背後には,会頭である榊教授の支えが大き かった。初期のフィルハーモニー会オーケストラの楽器や楽譜の購入は,榊教授のポケット・マネー か,九大フィルハーモニー会の演奏会収益金が充てられていた。(18) (D アインシュタインの訪問 アインシュタイン博士の日本訪問の際には,九州帝国大学訪問が実現した。1922年のアインシュ タイン九州帝国大学表敬訪問は,医学・科学と音楽活動を両立させた榊博士とアインシュタイン博 士にとって意味深い再会でもあった。ベルリンにおいて同じくヨアヒムの下でヴァイオリンを学ん でいた二人の九州での再会は,大学の精神科講義棟における九州帝国大学フィルハーモニー会の演 奏会をもって迎えられた。その演奏会にはアインシュタイン博士の演奏をも加えることになってい た。「ア博士の為に九大フィイルハーモニー会の歓迎演奏会を精神病科教室で開き近く秋期大会と して開演した『管弦楽の夕』の四大曲目を演奏しア博士自身にも一ニピアノの演奏を懇請する予定 で目下その準備に着手している」(19)と記され,九州帝国大学フィルハーモニー会は,アインシュ ー98− 帝国大学におけるオーケストラ育成運動 タン博士を演奏会を迎えるための練習に励んだ。 音楽家でもあったアインシュタインについては,これより先の1921(大正10)年,東京日日新聞・ 朝日新聞等に,帝国ホテルでのアインシュタイン博士のヴァイオリン演奏がその夫人のピアノ伴奏 で行われ,拍手喝釆を受けたと報じられている。(20)訪問国日本で物理学者として大学の講義を行 い,演奏会で音楽を披露するアインシュタンに対する反響は大きかった。ドイツ留学時代に同じく ヨアヒムの下で過ごした榊教授にとってアインシュタンとは,音楽家として共有する側面があり, 榊保三郎の理想の人物でもあった。後日榊は,「ア博士の音楽を想ふ」というタイトルでアインシュ タインヘの想いを寄せ,(21)九州帝国大学でアインシュタインと交わした音楽についての談話や日 本で行われたアインシュタインのヴァイオリン演奏について述べているが,そこではエルマン,ジ ンパリストのような大家しか弾けないヨアヒムの難曲をみごとにこなしたとアインシュタインの演 奏を高く評価している。 ②「第九」初演論争 一高時代,音楽学校生と張り合ってヴァイオリン練習に励んでいた榊は,また「第九」日本人初 演論争を生んだ。日本人による「第九」の日本初演をめぐっては,九州帝大フィルが初演であると いう主張と東京音楽学校であるとする主張との争いがある。「第九」の日本人初演をめぐって一部 の記録には,東京音楽学校が初演したと記述されているが,(22)1924年1月に,九州帝大フィルハー モニー会が第4楽章を演奏した記録が残されている。九州帝大フィルハーモニー会が「第九」第4 楽章に日本語で挑んだその年の暮れになって,東京音楽学校が仝楽章を演奏したのである。ここに, 九州帝大フィルハーモニー会の「第九」演奏記録を付記すると以下のとおりである。 摂政宮殿下御成婚奉祝音楽会 大正13年1月26日 午後6時会場 午後7時開会 福岡市記念館に於て 曲 目 第4 新篇奉祝歌(管弦楽附混声合唱) 右曲はベートホーフェン作曲第九交響楽最終楽章中の快速調及び荘厳なる援徐調に文部省撰奉祝歌 詞を榊保三郎が適応せるものなり。 出演者 管弦楽 九州帝国大学フィルハーモニー会員及び援助参加者(約30∼40名) (独唱:豊田女史,野口夫人,Miss Fulghum(西南学院)(他1名は不明)) 合唱団員 九州大工学部声楽会員,福岡高等学校声楽会員,西南学院声楽部員,福岡師範学校,中 学修猷館,福岡中学,在市中学男教員,福岡県女子師範学校,県立福岡高等女学校,筑 紫高等女学校,九州高等女学校,鶴城高等女学校,福岡女学校,在市小学校女教員(市 内各学校14団体を集めた180余名参加) 指 揮 榊保三郎 ※プログラムと演奏会記念写真参照(23) −99− 高 仁 淑 「第九」の初演は,上述のように福岡の各学校の混声合唱団を組織し,原曲の歌詞とは別の日本 語にかえて歌われた。混声4部合唱団を舞台に立たせ,女子学生に大声を出して歌わせることは, 当時の常識を覆すもので,地域の協力が不可欠だった。榊教授らは,動員された女学校の協力を得 るため,校長などの説得に当たったというエピソードがある。榊博士に頼まれて福岡女子専門学校 の校長の説得に当たった一高の後輩田辺尚雄は,そのときの「第九」演奏会の様子を次のように記 述している。「私は大正の末期から昭和にかけて音楽公演を頼まれて,屡々福岡へ行ったが,その 際屡々榊博士にお目にかかった。大正十三年一月,天皇陛下(当時は皇太子殿下であったが,摂政 をして居られた)のご結婚式の祝賀記念に,榊博士の指揮の下に,福岡市で学生の大合唱を行うと いう計画があったが,同市の女子専門学校の校長が男女学生の合同に反対されたので−その頃は中 学生以上は男女共学は禁じられていた−そのために切角祝賀合唱が出来なくなるので大いに困り, 榊博士から頼まれて私は同校長を説得しに行き」(24)と書かれ,音楽学者田辺尚雄の「第九」の第4 4楽章≪合唱≫に関わるエピソードも,1924年1月に行われた「第九」日本初演の様子を裏付けて いる。 九州帝大フィルハーモニー会が第4楽章のみ演奏し,日本語の歌詞に置き換えて混声合唱団が協 演したのである。 ちなみに,交響曲として日本初とされているチャイコフスキー交響曲SP盤が保管され,最近復 刻計画が検討されており,当時の九州帝大フィルハーモニー会の演奏技量を窺わせる手がかりとなっ ている。(25)また,吹き込まれた時の演奏プログラム(26)も残されている。 世界の名演奏家ヤアインシュタインを福岡に招いて技芸を究めていた九州帝国大学フィルハーモ ニー会は,「第九」の初演など,西日本における新しい西洋音楽の草分けの役割と音楽の発信地の 役割を果たしていた。このような九州帝大フィルハーモニー会の活動の最中,榊教授が急速退職す るに至り,それに伴って第25回の演奏記録を分岐点に九州帝大フィルハーモニー会の転換期を迎え ることになる。 九州帝大フィルハーモニー会に対する榊の情熱は,「九大特診事件」(27)に巻き込まれることにつ ながり,彼らの退官に至った。オーケストラの技量を高めるため,高額の楽器を購入するような, オーケストラ育成のための彼の音楽への追究心が,「九大特診事件」を招く結果に拡大されていっ たと窺わせるものがある。 「九大特診事件」とは,榊保三郎教授のスタイナッハ治療法研究が,「九大 世界的発見」などの ジャーナリズムの宣伝によって大反響を呼んだことに対し,それに刺激された東京帝国大学出身者 中心の東京医学士会が非難・反旗を挙げ,九州帝国大学との大論争が繰り広げられた事件である。 このスタイナッハ治療法に絡めて,榊教授らによる大学からの出張診療が不正に行われていたと見 なされた。この事件で榊教授と二人の教授などが依願退職,退官とされた。 1925年の榊教授の退職後は,核心メンバーの一人,クラリネット奏者で後に総長となる工学部教 授荒川文六が指揮棒を撞った。榊教授の退職後,組織の名も九大学友会音楽部に変わる。 しかしながら,榊教授が導いた九州帝大フィルハーモニー会は九州地域に音楽文化を普及し,プ ー100一 帝国大学におけるオーケストラ育成運動 ロ・オーケストラ「九州交響楽団」の母体となった。後に「精神病学」の教授となった新名教授(28) の娘が,ピアニストとして九州地域の音楽教育に携わった末永博子(旧姓新名)である。末永博子 には8000人に上る教え子がいると言われているが,末永直行と結楯,末永文化センターを設立して 現在に至っている。九州唯一のプロ・オーケストラ「九州交響楽団」は,この末永文化センターを 拠点に各地で演奏活動を行い,今年50周年を迎えている。今日の西日本の音楽の歴史は,「九州交 響楽団」の技量を磨くための練習の場としての役割から音楽人材育成や音楽文化を花咲かせる礎と なった榊保三郎教授と九州帝大フィルハーモニー会の働き抜きには語ることができない。 2 榊教授の進退 1)榊医師の法文学部入学 前述したように,日本の好景気時代には,大正期に増えた高校卒業浪人の対策として植民地など に高等教育機関が増設された。1925年九州帝国大学には法文学部が開設され,各地から若者が集まっ た。 開講当時は,大学に自由主義思想が盛行した時代でもあり,教授や学生の中には,著名人も交じっ ていた。開設翌年に入学した学生の中には,「九大特診事件」で依願免官となった榊保三郎医師が いた。榊は,九州帝大オーケストラの産みの親としてのみならず,多方面に渡って活躍し,世間に 知られていた。その一つがスタイナッハの若返りの施術で,当時のジャーナリズムに紹介され,大 陸からもスタイナッハの若返りの施術を受けるために西日本に集まっていたという。この「九大特 診事件」で大学を去った榊医師が翌年,法学科に入学したのである。法文学部の第2期生として法 学科に入学した榊は,『九州帝国大学新聞』をとおして音楽部への復帰を表明している。 法学部が発刊していた『九州帝国大学新聞』には,榊医師の投稿など彼に関するいくつかの記事 が残されている。榊が有志の推薦で音楽委員に選ばれた直後の『九州帝国大学新聞』には次のよう に記されている。「法文学部に入学して以来,沈黙を守って来たが,法文学部の有志の推薦で立候 補宣伝ビラなどで大いに活動した結果絶対多数を持って当選したものである。(略)大正十四年僕 の退官と同時に九大音楽部に見積ったらたいした財産を寄付し,それによって同部が出来たんだが, 現在は寂漠で技傭も振はないから何とか改正して見たいと恩ふが,僕に反対のむきもあるようだし 先のことははっきりしません」(29)。 自分が育成してきた九州帝大フィルハーモニー会への愛着と何らかのわだかまりの間の榊の複雑 な心境が窺える。この記事の直後に,榊博士の言卜報が世人を驚かせる。上京中に,急性肺炎で逝去 したのである。榊博士の死は,音楽界にとっても精神医学界にとっても,その分野での先駆者を失っ たことであった。 2)榊保三郎の死 上京中,東大病院で亡くなった榊博士の計報とその葬式の様子を各紙が伝えている。『福岡日日 −101− 高 仁 淑 新聞』(30)は,榊博士が亡くなったその日の夕刊に,榊保三郎の死を報道し哀悼を表している。葬 式の葬送曲は,榊博士のオーケストラ活動の刺激を受けてベルリン留学後に,プロ・オーケストラ を組織した山田耕作の指揮によるベートーベン≪英雄≫等の演奏であった。 1ケ月前に「音楽部貞に榊博士当選す」と榊教授の音楽部への復帰の声を取りあげた『九州帝国 大学新聞』は,「榊博士遂に立たず」(31)という表題で榊教授の死を悔やんでいる。 「上京中,十九日午前六時十三分速に逝去した(略)本年度学友会音楽部貞に選ばれて大いに気の 若い処を見せ,法文学部に入学したのは『犯罪心理学』を研究する目的で,生前牧野英一博士の臨 講を熱心にきいて居たが,伝ふる処に依ると刑法上に於ける錯誤の問題について牧野氏と意見を異 にし追ってこれに閲し論文を提出する意志があった」(32)。 「犯罪心理学」を研究していた榊は,法学博士を目指してその研究に取り組むと同時に病院開業 の準備をしていたと見られる。 既に退職教員となっていた医学部の会報『九大医報』も,「元教授榊保三郎先生逝去」と榊博士 が東大病院で亡くなったことを報じると共に,榊博士の略歴と九州帝国大学フィルハーモニー会の 創設者であることを取りあげている。続いて『九大医報』(33)は,榊教授の遺影を掲載,「榊保三郎 先生追悼」において,九大関係者や市内各方面の紳士淑女,音楽家等多数が参加して,その葬式が 盛式だったことを報じている。 3)医者榊の3兄弟 ここで,兄弟3人とも医師であった榊家についても触れておきたい。3人の息子を医学の道へ導 いた榊兄弟の父親榊令輔は,旧沼津藩士出身の蘭学者で,開成学校教授を歴任した。3人の息子は 東大医学部を卒業してからドイツへ留学し,そして東大で医学博士号を取得した。それぞれ医学発 展に貢献した3兄弟は,黎明期の先進文明を受け入れた父の教育の影響を受けていたとみられる。 日本の近代医学を背負った榊3兄弟の記録を,『日本医学博士録』(34)にみると次のようである。 1)榊倣 精神 死亡 明治三十年二月六日 東京 明治13・東大 明治24・8東大 東京帝大 評議会推薦 2)榊順次郎 産婦 死亡 昭和十四年十一月十六日 東京 明治16年東大 35・9東大 妊娠 嘔吐に就て其の他 3)榊保三郎 精神 死亡 昭和四年三月十九日 東京 明治32年・東大 明治39・3東大 相 撲取りの崎形耳に就て外七篇 3兄弟とも,ここに記されているように東大医学博士学位を取得している。長兄は精神科,次兄 は産婦人科博士で,それぞれの専門分野の第一線での研究業績が善かれている。(35)次兄順次郎は, ドイツ留学後,学位論文「妊娠嘔吐に就て其の他」を出している他,産婦人科病院を設立し,自ら 日本産婆看護学校を設立・経営していた。 −102− 帝国大学におけるオーケストラ育成運動 東大「精神医学教室」は,明治19年12月3日に創設されたが,初代教授が保三郎の長兄榊倣だっ た。明治30年,40歳で逝去した長兄榊倣(1857∼1897)は,東大精神病学講座を設置し,呉秀三ら を輩出して近代精神医学を構築した。弟保三郎も榊仮の精神医学を継承した教え子の一人である。 初期に「教育病理学」を研究した保三郎が編纂した『異常児ノ病理及教育方法及治療学(上巻)』 (榊保三郎 著)の初版は,榊倣の13回忌に奉供されたもので,長兄の精神医学の流れが受け継が れたものと見られる。そして,下巻は,留学後の榊教授の研究成果・発展をまとめたものである。 榊保三郎教授は,教育・医療問題を福岡県立女子師範附属小学校等でフィールドワークし,日本の 障害児教育問題と関連させて取り組んだのである。 榊兄弟が築いた精神医学は,後の九州帝国大学の精神病学と深い関わりがある。日本の精神医学 の開拓時代の状況を『東京大学医学部百年史』から抜粋すると以下のようである。 「榊は明治13年東大卒業,15年より主にベルリン大学で精神医学を学び,19年10月帰国,同11月 11日東大教授に任ぜられた。しかし当時学内に精神医学に関する何の設備もなく,講義は学説の講 述に止まった。明治20年東京府癒狂院(明治12年上野に創設)の医務を府知事が大学に委任し,そ の代わりに収容患者を臨床講義に供するという組織ができ,まもなく榊はその医長を兼務するよう になった。本教室と現都立松沢病院との関係はこのときに始まった。すなわち以降大正8年までの 32年間,本教室は同病院内に設置されていた。(略)明治30年2月榊教授が逝去し」(36) このように開拓時代の精神医学教室が東大構内に移り,本格的な精神医学研究の環境が整えられ るまでの先覚者榊初代教授らの精神医学の歩みが窺える。 九州帝国大学の精神病学も,東京大学の精神医学教室と同じような歩みをした。榊兄弟の日本近 代医学を構築する過程におけるその役割と努力を窺うことができる。両帝国大学とも開設当時は, 講義を行う講義室や施設がなく,出張講義をすることもしばしばだった。 東大「精神医学教室」の設立初期と同様な状況が初期の九大医学部の「精神病学教室」であった。 九大精神病学の専門研究室がなかった当初は,榊教授が学生たちを引率して,長兄が勤めていた東 大の構内の「精神医学教室」へ移る前の巣鴨病院で臨時講義を行ったりしていたのである。初期の その九大「精神病学教室」について次のような記述がある。 「明治三十九年四月三日勅令第八十九号を以て精神学講座を設置させられたるに創まる。是より 先三十八年三月本学助教授榊保三郎氏は海外留学中に於いて,先進諸国の精神病学教室及病室構造 の調査を嘱託せられ,同三十九年十一月帰朝直ちに本学教授に任ぜらるると共に精神病学講座担任 を命ぜられ,爾来大正十四年八月十一日まで二十年間精神病学教室主任たりき。(略)明治三十九 年本講座設置の当時に於いては,専属の教室及病室の設備無く,未だ患者の診療を行ふこと能はず, 臨床講義の欠陥を補ふため,第一回及び第二回学生は榊教授引率の下に東京帝国大学医学部精神病 学教室に出張したるが,明治四十三年九月精神病学教室新築落成し,同年十月一日より診療を開始 し,同十人日本学規定の第一候授業科目及び教科中に「精神病科外来患者臨床講義」の一項目を加 へ,教室の名実初めて相伴ふに至り(略)」(37) このように九大初期の「精神病学教室」の環境は,榊の長兄が勤めていた頃と類似したようすだっ −103一 高 仁 淑 た。学生を引率しての巣鴨病院等での出張講義から,明治43年になって榊の設計で全国に誇る教室 と病棟が建てられた。(38) 『九大風雪記』には,榊教授について次のように書かれ,彼の多方面にわたる活動が取りあげら れている。 「精神科と言えば榊,榊と言えば若返り法でスタイナッハと切っても切れぬ関係を結んだ榊保三 郎(略)大正十四年例の特診事件で退職するまで二十年の間,彼が精神病院の研究はもちろん,西 日本の精神病者のためにつくした功績は決して小さなものではか−。(略)博士号は彼には余程興 味があったと見えて,医学博士に文学博士と二つ並べてもまだ足らぬと見えて講壇を去ってからは 五十を超えた年をして法文学部の法科に入学して法学博士を取ろうとしていたが,不運中途で急性 肺炎のために死んでしまった。大正十二年には,梅毒性精神病者,すなわち脳梅毒の患者にマラリ ア療法を」(39) 3 榊の研究活動 『九大風雪記』にも書かれているように,在職20年間榊教授の精神医学研究に関する功績は著し いものであった。精神医学研究者としての榊保三郎は,留学先のドイツから「教育病理学」を日本 に紹介した一人である。彼は,留学中神経症患者の知覚や進行性麻痔者の脳研究など,精神病学の 全般にわたる研究のほか,学校衛生や教育病理学,教育治療関係の研究調査を行った。初期におい ては,『児童研究』『神経学雑誌』『官報』などに論文や調査報告を約10点発表している。心理学研 究に尽力して1921年,「学齢より丁年までの精神発育の研究」で文学博士学位を取得した。 1923年「スタイナッハの若返り施法でスタイナッハ民事術の実施」,「マラリア」療法を開始。患 者が絶えなかった。医学部『二十五年史』の「精神病学教室」表(40)によるとこの時期の患者の急 増が見られる。この患者数の急増は,後に榊保三郎教授依願免職につながる。 そして,オーケストラの構成楽器を揃えるための資金や拡大する組織経営に至るまで榊保三郎教 授の役割は重大だった。しかし,榊保三郎と,大学にオーケストラを組織する彼の活動には賛同者 ばかりではなかった。オーケストラ指揮やスタイナッハの若返り施法でセンセーションを起こし, 絶好調だった榊の生涯に転換期が訪れることになったのが,「九大特診事件」だった。同事件は医 学部の3教授と助教授一人,講師一人,副手二人が依免辞職する形で一段落した。元教室貞欄には, 榊教授の退職に関する記録が次のように残されている。 榊保三郎(医学博士,文学博士)明治三十九年十一月十四日教授任官,大正十二年八月十一日辞 職(41) 榊教授の後任には慶応義塾から下田教授が赴任した。 参考までに,『九州帝国大学職員録』(42)には,榊保三郎教授の身上に関する内容が克明に記され ている。 ー104− 帝国大学におけるオーケストラ育成運動 1)大正三年の掲載内容。 医科大学 教授 三等五級(精神病学)従五位 医学博士 榊保三郎 東京士 筑紫郡,住吉,春吉五番,六三九(電話九二) 2)大正四年 二等四級(精神病学) 従五位 医学博士 榊保三郎 東京士 3)大正五年 二等四級(精神病学) 正五位勲四等 医学博士 榊保三郎 東京士 4)大正九年 一等 正五位勲三等 医学博士 榊保三郎 東京士 福岡,下警固,法印田九六三(電話九二) 5)大正十三年 一等二級(精神病学) 従三位勲三等 医学博士 文学博士 榊保三郎 福岡市下警固,法印田九六三(電話九二) ここで,医学の傍ら音楽の同好者を集め,九州帝国大学フィルハーモニー会に力を注いだ榊保三 郎の生涯をまとめると以下のようである。 1)榊保三郎の略歴 榊保三郎(1870∼1929)沼津生まれ。 独逸協会学校を経て第一高等中学校卒業。 東京帝国大学医科大学入学,1898年12月卒業。 1899年1月 東京帝国大学医科大学精神科助手。 1901年6月 高等師範学校の「病理的教育学研究科」で「教育病理学」を講義。 1902年 文部省学校衛生調査嘱託,同年12月に東京帝国大学医科大学助教授。 1903年5月 精神病学研究のため,3年間ドイツ留学を命ぜられる。 1903年12月 留学中,京都帝国大学福岡医科大学助教授に任命され,1906年帰国。 1904年 第一回万国学校衛生会議(ニュルンベルク)に参加,同会議の名誉永久会員。 1905年 万国心理学会(ローマ)に日本政府代表として参加,同年ベルリン精神病学 会常設委員。 1906年3月 東京帝国大学医科大学医学博士を授与される。 1906年11月 帰国,京都帝国大学福岡医科大学精神病学講座担当の教授となる。 1925年8月 九州帝国大学退官 ※退官後,旧福岡高等学校の嘱託として,心理学を教える。 1926年 法文学部の法学科第2期生として入学 −105− 高 1929年 仁 淑 東大病院で急性肺炎で死亡,享年60歳 2)榊保三郎の著書 榊教授が九州帝大に在任期間中,著した書物は以下のものである。 榊保三郎『教育病理及治療学:異常児ノ病理及教育法』東京,1909年 榊保三郎『性慾研究と精神分析学』東京,賓業之日本社,1919年 榊保三郎『学齢ヨリ丁年迄ノ精神薔育研究』福岡,九州帝囲大学嘗学部精神病教室,1921年,7 榊保三郎『スタイナッハ氏若返り研究法』東京,改造社,1922年 初期のものは,今日の臨床心理学分野に近いものである。 おわりに 多方面に渡って才能を発揮した榊保三郎は,精神医学教育の傍ら日本の管弦楽普及に貢献した。 地域の音楽同好者を集めてスタートした音楽演奏会が,九州帝国大学フィルハーモニー会を生み, 帝国大学でははじめて組織された九州帝国大学フィルハーモニー会は,音楽人材やオーケストラを 構成する楽器を揃えてその技量を高めつつ,最盛期の1924年1月には,「第九」を初演した。 榊保三郎が導いた九州帝国大学フィルハーモニー会の活躍は,京都帝国大学,東京帝国大学等の 学生オーケストラに影響を与え,後に互いの技量を競うことへ発展していくのである。そして山田 耕作,近衛秀麿といった日本のプロ・オーケストラの先駆けとなった。このような九州帝国大学フィ ルハーモニー会の役割の中でも「九州交響楽団」形成に関わる源となり,地方の音楽文化助成をリー ドしていたことは重要な意味を持っていると思われる。それにとどまらず,各地へ向かって音楽発 信地の役割も果した。 本論をとおして九州帝国大学フィルハーモニー会のアマチュア・オーケストラが,プロのオーケ ストラへ影響を与えたことが明らかになった。これは大学が先進的に地域の音楽文化をリードし, プロの管弦楽団の組織・演奏活動に先立っていたことを意味する。 このような音楽人材育成及び地域発展への貢献は,九州帝大フィルハーモニー会を育てた榊保三 郎教授の教育実践が実ったものであると考えられる。 主な参考文献 半揮周三『光菅の序曲』葦書房,2001年 『九大フィルハーモニー・オーケストラ50年史』九大フィルハーモニー会,1963年 『九大フィルハーモニー・オーケストラ60年史』九大フィルハーモニー会,1970年 『九大フィルハーモニー・オーケストラ70年史』九大フィルハーモニー会,1987年 『九大フィルハーモニー・オーケストラ90年史』九大フィルハーモニー会,1999年 −106− 帝国大学におけるオーケストラ育成運動 『京都大学音楽部交響楽団七十五年史』京都大学音楽部交響楽団75年史編集員会,1992年 『東京大学音楽部管弦楽団80年史−1920∼2000一』東京大学音楽部管弦楽団,2001年 田辺尚雄『明治音楽物語』青蛙選書,1965年 田辺尚雄『田辺尚雄叙伝』邦楽社,1981年 李忠雨『京城帝国大学』多楽園,1980年 『上野奏楽堂物語』東京新聞出版局,1987年 『九州大学医学部同窓会名簿』九州大学医学部同窓会,1999年 東西医学編集部纂著『日本医学博士録』東西医学編社,1940年 『日本医学博士録』中央医学社,1954年 鬼頭鎮雄『九大風雪記』西日本新聞社,1948年 『東京大学医学部百年史』東京大学医学部百年史編集委員会,1967年 『二十五年史』九州帝国大学医学部,1928年 『五十周年史』九州帝国大学医学部,1953年 『九州大学五十年史 通史』九州大学創立五十周年記念会,1967年 『福岡市医師会史』福岡市医師会,1968年 『九州大学新聞』 『九大医報』 『九州帝国大学職員録』 『福岡日日新聞』等 −107− 仁 淑 1「第三回春季音楽演奏会のプログラム」 第1管絃楽 婚儀追行曲 メンデルスゾーン作曲 第2 混声四盛唱〔触伴奏〕 帝国々歌君が代 林 広守作曲 第3 斉 唱 皇太子殿下御成婚奉祝歌 文部省撰 第4 新編奉祝歌〔暦絃楽附混声合唱〕 右曲はペートホーフエン作曲第九交邦楽兎終楽章申の快速調及び荘厳なる経徐調に文部省構窄祝耶司を 〇九州帝大フヒルハルモニー 九州帝国大学フィルハルモニー会 壷催夢二河港寧菅滋演寮督は五月 大正13年1月26日 午後6時開場 午後7樽開会 福岡市紐念餌に於て 骨 摂政宮殿下御成婚奉祝音楽会 十七日土Ⅶu午前七持上り顧問市西中州 盈食堂に於て間食々斬刷博士の魚心輿賜る 猷郎」福綱川1学.都市小学校男教員.福剛こと女子師範学校.県51:福岡諭等女学校.筑紫荊等 革繹の下に友野薗富せ波恕杏与 女学校.九州苗等女学校,鶴城高等女学校,福岡女学校,在和小学校女教員 消印者 榊 保三郎 目 花の円舞曲 (シュートカス.ノワセット小ノ終曲) チャイコフスキー作此 曲 出 演 者 ◎管絃楽 九帝大フィル′、ルモニー会員及援助参加者 ◎合唱閉園 九帝大工学部声楽会軋 福岡高等学校声楽会員.印西学院i打射笥i軋福剛拍Ⅶ学際.中学修 一兎m揺j−一冬弘一r石川勝治rダイサラし中野牧師㌔ 榊保三郎が適応せるものなI)。 附か管総合典 1ダγjせりゾL∫躊躇士は魯魚玉井 窮5 管絃楽 アナーソ七ロし甘員小泉旦亮﹁ハかtこ廿・﹂し及び﹁ク り′u71ト・ツ=トし荘川博士1Vナノしt▲木村i主﹁洋首﹂ 一108− 降乗博士 甲、援横芝曲ハラかゴー︶ヘリデか農作曲 乙、普代舞曲ハ首特約ノすぺ苧㌣ゾ少数アy中︶㌢か ッタ庚伴曲暮拘ピアノこ都連薙 せ農水相藩主−甘 農小堀俊夫l甲、欲動マⅣタ! アロトサ虎伶曲、 乙.舞曲ギ十ロブデ スト一計タグ氏作曲.問ハ〃 電−︼サム馳せアノこ郭金浜 ハか℃ニ習ム名啓骨農 玉井︼夫﹁ゲJ﹁−u∴r七じし曾員︷最強夫、﹁:・モニ 目 曲 常州博士、曾ナノ賛助食及天野藍子安息.廃盤静大 智統合蕗申¢蝶調 べーー虎!ぺy蕊作曲、弼轟音 群濁嶋 中野教師 憲アノ伴典男野アま†女叙︶、 明治末息番悼歌 紳博☆盛作曲.久保博☆浅掩歌. 弼か管絃合葬 rダイヵりご一食劇毒川殊鴇1j倉見 †分間掩敵 質名答魯鈍詳東 福岡市教育支会 主 催 福岡県政育会 ケ上し名野普及荘川樽七弾てせアノし増野戦勝琴− rぜアノし天野愛や女象、陸飼¢沫uグッーーー虎作曲 環境嗜 湖小菅鹿骨奔 試巣悠は川警抜食浜ヾ−開披㍉夢二∵ ロイメ,イ︶yユ†y氏作曲、歌劇﹁TフィrニTL 申の舟楽曲㌢かツタ及作曲▲閏高官幣環境 タロイタよーー.厳櫓曲、河西常食 外 上︶ 福 岡 県 学 務 課 援 後 好苗代草食漁.恕アノ呼集東野費や東泉、ダイナワ y伴耗梯博士.甲.狩野笹屋撃∴子ご︰エ二意蒜 曲、乙、鋲¢小鳥 マタア成増粒食奔許申請七瀞錮 派.箪︼ゲイ甘習ゾ令息石吊膵漁、詳二すイオ¥ン 官登莞二兎.七げ督嵐小魚線葺Iピアノ中野救姉 第三草魚執、呵四部食素 嘩せ7ノ環英 資助普及兼好艶子☆息−革八溌曾ア ノ韓曲中 ぺートーYソ氏作曲、第一専念韻 粁こ 博士、恕アノ救鮮卑野営史、ゲイせーy魯魚隋惇士 謡破調 番 セロ小泉長英、ジューペんト曲集、シユ・・ペ山トア 心㌦ム︺ 封タで稚 ン正作.二、歌劇﹁文枝¢夢し申の小夜虫﹁ヒアノ﹂﹁∫ 心、rかタフ戊悸ダイサ写y鬼頭舞曲繹曲.本文、 経由︶椒食滞ピアノ俸奔中野敬鉾、メンデルスy警 ︵以 かがンし1ゲイす曾yL令弟 2「「第九」初演の記念写真」 帝国大学におけるオーケストラ育成運動 3「榊保三郎のサイン入りの「第九」の楽譜」(東京芸術大学所蔵) −109− 仁 淑 高 4「榊保三郎肖像画及び追悼文」 榊保三郎先生追悼 敏雄洞化如三等辞重囲王家轟渾土都丸大救托穎保〓鋸死生/追悼食 ハ阿り=ご‖午維二⋮時九大静養柚膏緻郡等ノ掬梯常幸敷金瑚′ヒ心 内澱慮通ノ邸宅工於テ野争軌総代線儀償郡長、崗棉抑粥村政褒癌化f ‖敢捜.及入線代地教授.門島代廟藤m曳将士一九大汗璧那絶代 膵失敢搾錦フィルハーモエⅠ曾総代前川博士脊ノ車齢γり福西蹄鹿朗 式工拷り九人各徴部数授拘束人チ始ノ市内各方面ノ紳士淑女斬製菓審 先生ノ鳴腰帯ハ*蕗網繊一−沸畿セリ。*法エハ最逝ノ群像並工告別 多敵脛攻囁帯織挿シ極メナ鍾式ナりキ。 −110− 式昔日J描鰻壌疲塵﹂下由救援鹿麓村石川幅博士′弔欝’義七護・こ丁 数蝉′憲ナ表ス。 5「榊教授の精神病学講堂での講義の様子」 帝国大学におけるオーケストラ育成運動 6 「精神病学教室収容患者表」 ● ̄− ・、・、・、沌 別 入 F完 叶 推 ●・、 ′。。=鵬こ曳抽く繍⊥、.÷=噸鮨伽 人絹蛤●持 場員 数 熟凝敬 ;i: ll 蝮 雷箋 艶 潮〟〟J●くポ′W(憎・:肋く・〟′・沖く■く:∝ ′即、y‰珊▲岬:晰研く亜ダ泌叫く研く・<ヤ′サく†≠酢 樹緻輌サ鞘摩周 瀞 削ほ 鞄粁 誌 増村 ‡■ 苑W ‡零 ≠ヰ き t‡ 鄭躊 遭残 蕗 詩 l 慧 轡♯ 豊 彗 尊柑 露 治 二こ _ 慧筈夢さ茎蒜篭讐苫 こ ー111− 高 仁 淑 註 (1)半澤周三『光菅の序曲』葦書房,2001,119頁 (2)李息雨『京城帝国大学』多楽園,1980 (3)『京都大学音楽部交響楽団七十五年史』京都大学音楽部交響楽団75年史編集員会,1992,10 頁 (4)『東京大学音楽部管弦楽団80年史−1920∼2000−』東京大学音楽部管弦楽団,2001,19頁 (5)半揮周三『光菅の序曲』葦書房,2001 (6)田辺尚雄『明治音楽物語』青蛙選書,1965,225頁 (7)「九大ウィルハーモニー・オーケストラ年表(1909−1962)」『九大フィルハーモニー・オーケ ストラ50年史』九大フィルハーモニー会,初版 (8)『父・荒川文六』出版社不明,112頁 (9)「学徒出陣」『九州帝国大学新聞』第269号,1943年10月20日,同新聞は同号を以て休刊(事 実上廃刊)された。その「学徒出陣」特集は帯川総長などの壮行の辞でうずめられている。この 「学徒出陣」を最後に,『九州帝国大学新聞』の編集委員全員が入営した。 (10)「名簿」『九大フィルハーモニー・オーケストラ50年史』九大フィルハーモニー会,1963 (11)「第1回音楽演奏会」『福岡日日新聞』1910(明治43)年5月18日 (12)「夏の音楽会(上)(下)」榊博士談『福岡日日新聞』1910(明治43)年5月27∼28日 (13)『九州大学五十年史』九州大学創立五十周年記念会,1967,375頁 (14)「奉悼音楽会短評」『福岡日日新聞』1912(大正元)年12月3日 (15)『九大フィルハーモニー・オーケストラ50年史』等には,第4回のプログラムから掲載され ている。 (16)『音楽界』1913(大正二年六月号)年5月17日,詳細は後掲 (17)「女流音楽界の天才 来福せるザレスカー婦人」『福岡日日新聞』1918(大正七)5月15日 (18)「楽器および楽譜」『九大フィルハーモニー・オーケストラ50年史』九大フィルハーモニー会, 1963 (19)『福岡日日新聞』1921(大正十)年12月2日 (20)「演奏会写真」『アインシュタン日本で相対論を語る』講談社,2001 (21)「ア博士の音楽を思ふ」『福岡日日新聞』1922(大正十二)年1月4日 (22)『上野奏楽堂物語』東京新聞出版局,1987,48頁,他の歴史の年表等にもよく見られる (23)『九大フィルハーモニー・オーケストラ50年史』九大フィルハーモニー会, 1963,18頁,後 掲 (24)『田辺尚雄叙伝』邦楽社,1981,158頁 (25)チャイコフスキーの交響曲第6番≪悲憤≫の第2楽章,(1926年版),『毎日新聞』2003年2 月1日 ー112− 帝国大学におけるオーケストラ育成運動 (26)「学校連合音楽会」『九大フィルハーモニー・オーケストラ50年史』九大フィルハーモニー会, 1963,22頁 (27)「九大特診事件」によって,精神科榊教授は8月11日依願免官となった。 (28)九大医学部出身,新名常造(医学博士)大正七年三月六日副手,同八年十一月三十日助手, 同十二年三月二十四日辞,同十四年九月八日副手,同十五年十一月三十日助手,同十二月講師, 昭和二年八月十九日辞(現在,県立鹿児島病院精神科部長)とされている。『二十五年史』九州 帝国大学医学部,1928,562−563頁 (29)「音楽部員に榊博士当選す」『九州大学新聞』昭和4年2月12日 (30)「榊保三郎博士 今朝遂に逝く」『福岡日日新聞』昭和4年3月19日 (31)「榊博士遂に立たず」『九州大学新聞』昭和4年3月26日 (32)「榊博士遂に立たず」『九州大学新聞』昭和4年3月26日 (33)第3巻第3号(昭和4年6月),後掲 (34)『日本医学博士録』東西医学編社,1940,247頁より (35)上の配列は,氏名 専門科 勤務先又ハ職名 現住所 本籍 出身校卜卒業年度 主論文の 順,『日本医学博士録』中央医学社,1954,436頁 (36)「精神医学教室」『東京大学医学部百年史』東京大学医学部百年史編集委員会,1967,233頁 (37)「精神病学教室」『二十五年史』九州帝国大学医学部,559∼566頁 (38)初期の教室風景, 『写真集旧制大学の青春』ノーベル書房,1984,91頁,写真後掲 (39)鬼頭鎮雄『九大風雪記』西日本新聞社,1948,144頁 (40)『二十五年史』九州帝国大学医学部,1928,566頁,後掲 (41)『二十五年史』九州帝国大学医学部,1928,561頁 (42)『九州帝国大学職員録』大正三年,大正四年,大正五年,大正九年,大正十三年版 −113一 高 仁 淑 Orchestramovementin the emplre university ● −Kyushuemplreuniversityphilharmonicassociationactivity and SAKAKI,Yasusaburo− Insuk KO Intheemplreuniversity,firstorchestrawasorganizedinKyushuEmplreUniversi WhichstartedasthefourthemplreSuniversitiesin1911. The activity of Kyushu emplre university philharmOnic association which SAKAKI, Yasusaburo(1870−1929)1edisalreadyobservedfromwhenDr.SAKAKIcameintotheKyoto Univ・Fukuokamedicalcollegepsychiatryclassroom. WhenSAKAKI,DoctorofMedicine,returnedhomefromtheGermanyStudyinglnreCei 1ngtheannouncementtotheKyushuemplreuniversity,manymuSicalscoreswasbrought andtheycontributedtoWesternmuSicdevelopmentandbackingtrainingofJapanintheMeiji Period. Dr・SAKAKIstudiedmedicineandviolin,andconcentratedonthemantraining,SO universltyCulturewasmadetobloom. EngineeringfacultyprofessorFURIYA,Yoshiro(flute)andengineeringfacultyprofes− SOrARAKAWABunroku(clarinet)andstudentsofthemedicalschoolgatheredandmadet Philharmonicassociation・ThecompositionpersonskeeplnCreaSingyearbyyear,andthea Skillhasbeenmastereduslngthemusicalinstrumentinproportiontotherequest. Suchasplaylng“theninth”ofBeethovenwithJapanesein1924forthefirsttimeinJapan, etc・,theKyushuempireuniversityphilharmonicassociationbecameadispatchedplaceof musicinthosedays. ThetechnologypolishedintheKyushuemplreuniversityphilharmonicassociationbecame asource,WhichconstitutedKyushusymphonyorchestrainthelocalarea,arlditsupported musiccultureoftheKyushureglOntOthepresent. HisactivitycausedthemusiccultureOfKyushureglOn,andthemusicactivitywasacti− vated. −114−