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アニメ映画と日常性

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アニメ映画と日常性
2012 年度後期
経験社会学Ⅰ
(月 3) 期末小論文
アニメ映画と日常性
0. はじめに
今や一大娯楽産業となったアニメーションは、現在不況が叫ばれる映画業
界においても非常に好調であり、毎年多くのアニメーション映画が公開され
ている。アニメーション映画を分類すると、テレビなどで人気を博したもの
の劇場版(例.劇場版ポケットモンスター)と、映画オリジナルのもの(例.ジブ
リ映画)の大きく二つに分類できる。以前は劇場映画といえば、前者がメイン
であったが、近年では後者にあてはまる作品が増えている。それらの多くは
監督性を感じさせるものとなっているが、近年、オリジナル色の強い日常を
感じさせる作品が増えている。この小論文はその理由を探り、論じてみたい
と思う。
1.映画という遊び
R.カイヨワは、
『遊びと人間』で遊びを①「競争」の原理に基づくもの②「偶
然」の原理に基づくもの③「模擬」の原理に基づくもの④「めまい」の原理に
基づくもの、と四つに分類し、映画を「模擬」の遊びに分類した。井上はそれ
を踏まえたうえで、映画の「めまい」のあそびの側面に注目した。映画を初め
てみた人々はマルセル・レルピエ曰く「夫人が髭をはやし、牝牛に頭がふたつ
あるみたいに」奇蹟をたたえたのである。映画にはこの二つの遊びとしての側
面があり、映像の持つ異質性が薄れることで、映画は「めまい」としての遊び
から、「模擬」としての遊びへと変化していったのである。
2.アニメと非日常
「模擬」の遊びは、映像と日常との差が大きいほど当然ながら楽しいものと
なる。普段体験できない非日常性にこそ観客は参加する楽しみがある。そう考
えるとアニメーションには大きな利点がある。実写ではありえない世界の構築
は容易であり、より一層と日常に対する異質性がある。この性質を考えるとア
ニメーションと SF、ファンタジーとの親和性が高いことが納得できる。また、
実写ではありえない動きや色彩によって「めまい」としての遊びの側面も強く
持っている。映画 AKIRA(1988 公開)などは「テレビアニメ→大ヒット→劇場版
公開」といった路線以外でのヒットしたアニメ映画として、上記の要素が当て
はまる初期の好例であろう。それでは、日常をテーマとしたアニメーション映
画の意義とは一体なんなのであろうか。その前に映画全般における日常と非日
常について考えてみたい。
3.映像化社会
「模擬」としての遊びとして発展してきた映画であるが、これを楽しむ観客
が次に望むことといえば、実際にその夢のような世界に入り込んでみたいとい
うことであろう。それゆえに、現実の映像化が起きる。現実を映像と接近させ
るのだ。この映像化社会では、映画の持つ遊びの要素が失われてしまう。映像
という「異質な世界」と、自らの「日常世界」の対比が上手くいかず、それ故
に、
「日常世界」の相対化が困難になるのである。このように現実が映画になっ
てしまった社会にとって、映画を見るという行為は日常の延長線上の行為とな
る。近年の邦画話題作にテレビドラマの映画化(例.ROOKIES)が多いのは、その
映画を観るという行為が、毎週そのテレビ番組を観るという、日常的の一要素
と化した行為と差があまりないからではないだろうか。今まで見ていた作品の
続きが見たいという欲望のみに応えるかのような作品が近頃多いように思える。
もはや現代は、映画が映画であることの意味すら薄れてきているのである。
「投射」の間違い?
4.日常と非日常
このように日常と非日常との境目があいまいとなってきている社会において、
映画で日常、非日常を描くことは非常に難しいことである。エドガール・モラ
ンは、映画という虚構の作品を「同一化としての当射を放射する原子炉である」
とたとえている。この虚構の作品とは「作者の夢想、主観性が状況や事件や人
物や俳優の客観性としてひとつの芸術作品に物化された産物」しかし、こうし
た作品には「提示されるものに実際には現実性が不在だということを」知って
いる必要があるとしている。それゆえ、上の項で述べたような、日常と非日常
との境界が曖昧となった現在社会では、非日常を描いた作品(現実と遠い)とも、
日常を描いた作品(現実と近い)とも我々は自分の現実とその作品との距離の取
り方が分からないのである。つまり、以前と比べると、映画の日常を描く力、
非日常を描く力、その両方が弱まってしまったのである。
5.アニメと日常に関する考察
4 項で述べたように、日常、非日常を描くという映画の力は薄れている。しか
しアニメーションで非日常を描く場合、2 項で述べたように、実写と比べてより
一層と日常に対する異質性がある。よって、非日常を描く力は未だ強力なまま
である。それでは、アニメーションで日常を描く場合はどうなるであろうか。
日常を描く最近のアニメーション映画で注目されることが多いのは、細田守監
督作品(代表作:時をかける少女、おおかみこどもの雨と雪など)である。彼の作
品は今までであったならば実写映画の題材になっていたものが多い。彼の作品
を、映画評論家の宇多丸は「日常の何気ない仕草を丁寧に描くことで、日常の
持つ素晴らしさを上手く表している」と評した。なぜこのようなことが起こる
のであろうか。
アニメーションは現実世界とは異質なものである。それゆえに我々はその虚構
世界と自分の社会と距離の取り方がわかる。また、実写映画の場合では我々は
テレビで見ている俳優の姿を切り離すことができない。アニメーションではそ
れがない。それゆえに日常との対比ができ、モランの述べる「同一化としての
当射」が上手くいく。こうした、日常との異質性が大きく、虚構度の高い条件
であえて日常的な作品を描くことが驚きを与えるのである。言い換えるなら、
遠い場所から近い場所を描くことで、その近さが際立つのである。
映画も最初期の段階では単に日常を切り取ったものが「めまい」の遊びとして
新鮮な驚きをもって迎えられたものだ。
日本のアニメ文化は鉄腕アトムなどに代表されるように、いままで毎週のテレ
ビ放送としての発展が大きかった。映画館という本来は「非日常」が期待され
る空間で「日常」を描くことの効果が最近になって認識されだしたのはそのせ
いではないか。事実テレビアニメではこのような傾向は弱い。
アニメは、映画からテレビへと移っていった実写作品とは逆の進化を遂げた故
に、日常を切り取ることで観客に「めまい」の遊び方をさせる作品が今注目さ
れているのではないか。
6.おわりに
以上のように日常を描くアニメ映画の流行について映像化社会との観点から
考察した。
これまで長く、アニメは現実との境目をあやふやにすると批判を受けることが
多かった。しかし今回これに異議を唱える、また、アニメだからこそ持つ力を
示すことができたのではないかと思う。
日本のアニメーション技術が発達していることに感謝し、これからも優れたア
ニメーション映画を観たいと思う。
<参考資料>
井上俊 『新版 現代文化を学ぶ人のために』 世界思想社
2006
E・モラン 『映画 あるいは空想上の人間』 渡辺淳訳 法政大学出版局
TBS ラジオ『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』内の発言
1983
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