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近代アメ リカでの日本建築ならびにその従事者への認識の変遷と構造 ー

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近代アメ リカでの日本建築ならびにその従事者への認識の変遷と構造 ー
近代アメリカでの目本建築ならびにその従事者への認識の変遷と構造
−建築における異文化交流の事例として−
主査 中谷 礼仁*1
厚子*4,松浦 剛*5
委員 グレゴリー・クランシー*2,内田 青蔵*3,田中
近代アメリカにおける日本建築およびその従事者についての認識の変遷を構造的に把握することを目的に,1870年代
から第二次世界大戦までのアメリカの建築関連雑誌(購読層の異なる5誌を選定)に掲載された日本関連の記事を抜粋
し,収集分析を試みた。結果として全データ275件から,各雑誌の興味の対象や日本に対するイメージの違い,また,
年代による記事量や内容の変化などの構造が明らかになった。日本が「芸術の国」と賞賛された19世紀末から,日本の
近代化によりそのイメージが壊れ記事数が激減する20世紀初頭への過程,さらに日本建築が咀嚼され米国内に内向化す
る過程を検言正した。
5)ジャポニズム,
キーワード:1)異文化交流,2)近代建築,3)国家間,4)大工職人,
6)アメリカ,7)アメリカ建築界,8)鏡
HOW JAPANESE ARCHlTECTURE AND CARPENTERS WERE PERCElVED
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−A Study of American Architectural Journals of the Nineteenth and Twentieth Centur
Ch.Norihito Nakatani
Mem.Gregory Clancey,Seizo Uchida,Atsuko Tanaka and Tsuyoshi Matsumura.
This research project traces interests in Japan by the American architectural world from century by examining articles in a selection of the major American architecture−related jour
of 275 articles,the structural transition of their
We have traced a number of important trends,such
as the transition from an admiration of Japan as an 'Artistic Country'in the late neinteent
artic1es in the early twentieth century because of Japanese modernization。
アメリカは,特に住宅分野において,日本との相互的
な影響が常々指摘されてきた注1)。また同国での各種ジ
1.はじめに
1.1 研究の目的と背景
本研究は,近代建築における異文化交流のあり方の一 ャーナリズムにおける日本建築ならびにその従事者を扱
端として,近代アメリカにおける日本建築ならびにその った記事も,たびたび紹介されてきた。しかしながら,
従事者についての認識の変遷を,構造的に理解すること アメリカ人による日本の建築文化に対する認識とその展
を目的としている。これまでの日本近代建築史研究では,開過程については,著名な建築家あるいは20世紀前半の
国内の現象を解明することに重点が置かれてきたが,近 同国の万国博覧会周辺に限られ,アメリカ建築界全般に
おけるその構造は明らかになっていなかった注2)。また
代建築は異文化との接触交流を前提とした「自国的文
化」の発露でもある。複数の地域,国家にまたがる近代 その際に重要なのは,彼らの日本理解に対する「正確
建築の関係像を再構築することが必要であろう。日本に
おいては,近代化への体制がほぼ固まった19世紀後半か
ら,アメリカにおいては南北戦争以降から20世紀前半を
中心として,アメリカにおける日本の建築ならびにその
従事者に対する複数の建築雑誌を対象とした,悉皆的な
さ」を評価の指標に置くのではない。いわば日本建築は
彼らの近代化にとっての<鏡>として機能しているはず
である。日本建築とその従事者たちに,各階層のアメリ
カ人たちが,何を求め,何を獲得していったのか。それ
をとらえることも,中心的なテーマの一つである。
収集分析を試みた。
*1大阪市立大学 講師
*3文化女子大学 教授
*2Assistant Professor,Dept.of History,Faculty of Arts and Socia
*4アクセス住環境研究所 *5株式会社フジタ大阪支店計画
−1−
住総研 研究年報No.26, 1999年版
1.2 研究の方法
2. 書誌
1.2.1 近代アメリカの建築関連雑誌における関係記事 今回の分析対象は,以下の5誌である。
の悉皆調査
(1)The American Architect and Building News,
調査を行うにあたり,対象雑誌を次の条件によって選 James R.Osgood & Co. Publishers,Winthrop Sq.B
定した。
(1) なるべく継続して発行されているもの
(2) 構造的把握のための,建築関連雑誌の分類化
建築は多様なジャンル,階層を包括するものであるか
(創刊当初以下同様),1876−1938(以下AABNとする)
(2)The Architectural Record,monthly,The Archi
Record Co.14 & 16 Vesey St.NY,1891−(AR)
(3)Carpentry and Building,monthly,New York,D
ら,それらの特質ならびに諾関連を把握するためには, Williams,83 Reade Street,1879−1930(CB)
上記(2)のような分類化とその条件に最も見合った雑 (4)The Craftsman,monthly,The United Crafts,E
誌の選定が必要である。今回は購読層を,研究者,建築 NY,1901−1916(CR)
家,施工業者とするもののほかに,一般美術,家庭雑誌 (5)House and Garden,monthly,John C.Winston の5つに分類し,選定を行った。
Walnut Street,Philadelphia,1901−(HG)
また,アメリカには近代以降の建築関係の記事を網羅 一般に,対象時期における同国内の建築雑誌に安定し
した著名なThe Avery Index to Architectural Periodicals,
たものは少なく,地方,国家両レベルで組織だった運営
Bumham Indexが存在するが,今回の探索の限りでは,
がなされていたとは言えない。その中でこれら5誌は,
ほぼ研究者的,建築家的な興味に従って抽出されていた。比較的部数の多い全国的な雑誌であった。それぞれが異
多種の関連雑誌が反映されているものの注3),本研究の なる読者層を対象にしており,AABNとARは主に建築
目的に沿った編年的な動向をみるにはその選定基準があ 家の雑誌であるがAABNは建設業者にも購読された。
いまいであった。この2つのリストの内容を検討した上 CBはアメリカの大工(Carpenter)の雑誌である。アメ
で,ぺージごとの調査を行った5雑誌を決定した。
リカにおける大工は建築家(Architect)とは異なるクラ
また,各雑誌における記事の抽出方法は以下によって スに属しており,両者は互いの雑誌を併読する傾向は少
なかった。CRはアーツ・アンド・クラフツ運動を愛好
行った。
(3) 合本に収録された各雑誌の年ごとのインデックス した上流あるいは中流の上といった階層の雑誌であり,
(件名分類含む)あるいは巻ごとの目次,いずれもない 読者には女性が多く含まれていた。HGは主として女性
場合は,直接記事タイトルをあたった。
の雑誌でCRよりも広範囲の読者層を持っており,建築
(4) 検索基準として,“Japan”,“Japanese”,日本に関係
同様,造園やガーデニングにも興味を持っていた。
する固有名詞,それらのいずれかの単語が(3)に記載 AABNは特に長期間発刊され,アメリカ建築の「記録雑
されているもののみを取り扱った。
誌」とみなされてきた。CBも同様に長期にわたり,大工・
1.2.2 対象雑誌群のカテゴリー分析
建設業者の間では突出した部数を誇る雑誌だった。ARは
各雑誌ごとの対象記事を表2−1にして掲載した。また やがてAABNを吸収し,20世紀前半におけるアメリカ建
便宜的なものであるが,その概要把握のために,内容を 築界第」の雑誌となった。CRは1916年に廃刊となった
カテゴリー別に分類した(重複含む)。A:Japanese Life
が,HGはアメリカの主要な雑誌となり現在に至っている。
(日本の生活全般一ニュース含む),B:Japanese Art(日
以下にそれら5誌についての紹介ならびに個別の分析を
本美術),C:Japanese Gardens(日本庭園),D:Interiors
行う。なお文中に<>でくくられたのは文献ナンバー
であり,表2−1における各記事の通し番号に対応する。
(インテリア),E:Japanese Craftsmen/Daiku(日本人職人,
大工),F:JapaneseTraditional Architecture/Housing(日本
の伝統建築,住居),G:Japanese Modern Architecture/
3. AABNについて
Housing(日本の近代建築,住居),H:Japanese Influence
AABNは総計152巻出版された。1908年に名称が
in America(アメリカにおける日本建築文化の影響によ American Architectに短縮され,さらに1936年から38年ま
る諸活動),以上8のカテゴリーである、
ではAmerican Architect and Architectureと称し,以降AR
1.2.3 各雑誌の個別分析
に吸収された。比較的ジャーナリステイックであるが,
以上のカテゴリー分析を前提としつつ,各雑誌の性格 建築家や批評家による2∼4ぺージの長い記事も掲載さ
を抽出した。さらに注目される記事内容について,紹介 れている。同誌は,アメリカの日本への興味が最も高い
時期に創刊きれた。周知のごとく,ペリーが19世紀中葉
した。
1.2.4 対象雑誌群での構造分析
に日本を開国させたと同時に,日本への」般的な興味の
対象雑誌群の記事の動向を比較し,その全体的な推移,第一波を引き起こした。1860∼65年の南北戦争と南部再
相互の影響関係等を分析した。
建がアメリカの関心を国内に引き戻したものの,アメリ
−2−
住総研 研究年報No.26, 1999年
カ最初の万国博覧会である1876年のフィラデルフィア博 Times),技術専門誌(The Builder Engineering,Inven−
覧会が,再び日本への興味をかき立てた。日本の展示は,tion),ガイドブックなどで41件に上る。
日本の大工が珍しい道具や技術をもって建物を建てた壮
3.4 各記事の紹介
1870∼80年代の記事では,日本が西欧が失った美的感
3.1  全体カテゴリーによる今回対象記事の性格 覚を備えた「芸術の国」として表現されている。その時
期のすべての記事が日本を賞賛し,西欧との比較におい
今回の選択基準によるAABNの対象記事は全135件と
なった。抜きん出て数が多いのは週刊によるものと考え て好意的である。特に日本の大工職人は,編集者に退廃
られる。AABNはフィラデルフィア博と同年に創刊され, 的とみなされた西欧の職人と比較されている<23>。こ
続く4年間に19件の日本に関する記事を掲載した。編集 れらの日本への誇大な賞賛が,アメリカと英国の組合組
者の日本への関心は続き,1880年代には45件,1890年代 織の拡大に対立する編集方針が影響していると考えられ
に40件の記事があるが,後者は1893年のシカゴ博に関す る。AABNは繰り返し日本とアメリカの職人を比較し,
るものが多い。1900年代は日本関連の記事は16件に減少,日本人がその仕事のみに集中し,賃金増や労働時間の短
挙もあって,最も人気があった。
次の1910年代には6件になる。さらに1920年代には6件, 縮などの政治的活動にかかわらないことを強調する。同
雑誌が廃刊となる1938年までの1930年代はたった1件で 国の組合活動は南北戦争後に急成長しており,AABNは
ある。故に1870年代から1880年代にかけてが最も日本へ 組合の目的に同調しない建築エリートたちのマウスピー
の関心が高かったと言える。これらのカテゴリー別件数 スでもあった。日本は中世ヨーロッパのように,政治階
層を超えて,すべての階層が美のための美を追求する
「美的」な世界のモデルであるとされた。
表3−1 AABNにおけるカテゴリーによる記事件数
1890年までに,このような芸術の政治的論議の中での
カテゴリ A B C D E F G H
「芸術の国」としての日本の機能は,弱まったと考えら
イ牛数 53 51 8 3 23 43 22 7
れる。日本の西欧化を語る記事が,日本を賞賛する記事
を,表3−1に挙げる(重複を含む)。
庭園,インテリアに関する記事は少ないが,生活全般 よりも多くなった。AABNはシカゴ博の日本建築を高く
(含ニュース),日本の美術,大工職人,伝統建築,近代評価したが,ある記者は,賞賛すべき作品をこれまでの
建築の動向をいずれも広く扱っている。これは同誌がア ように日本の職人総体を主語とせずに,個々の芸術家の
メリカの建築界における広範な読者層を対象としていた 仕事として解釈した<82>。片山東熊の赤坂離宮計画を
ことによろう。速報性は5誌の中では最も早く,日本で 知らせる1899年の記事には「竹と畳の家が過去のものと
のイタリアからの美術教授の招聘<5>,前年の東京で なった時,何が日本へと私たちを向かわせるだろう」と
の大火を3か月後に紹介している<7>。また日本にお
書かれている<104>。
ける近代建築の展開の動向についても比較的初期より紹 1900年代の日露戦争での日本の勝利が,日本が西欧勢
介している<9,20など>。E.S.Morseの著作「Japanese力に参入したとみる視点と同様に,AABNでは芸術分野
での「日本」の排除の発端となった。1905年に編集者は
Houseand Their Surroundings」(1886)が刊行される以前
「芸術人」としての日本人への戦争の影響を憂慮し,「長
い自国の芸術史の終焉と,えせ芸術運動の始まり」を嘆
<12,19>,大工職人の優秀性<2,18,23>,東洋にお く。1907年の記事では日本がソウルのパンダック塔を撤
ける日本美術の位置づけ<15>,五重塔の心柱について 去した行為を「レイプ」と称した<118>。1919年までに
の驚異と懐疑<48>,火事と地震国としての理解<13> 日本関連の記事は極端に減少し,ある書き手は,東京が
「世界の建築が混在する最も汚い都市になるだろう」と
などがトピックとして報告されている。
述べている<123>。このような近代性の拡大は,なぜ日
本関連の記事が関東大震災以降,同誌において途絶えた
3.2 執筆者について
をもってAABNの初期とすると,当時における日本の建
築についての認識は,大仏の寸法<14>,和紙の性質
署名記事は少なく,計135件中,7件である。いずれ
かを説明していよう。
の執筆者についても詳細は不明である。1896年に徳川期
の寺院について寄稿したC.T.Matthews<93>は,同時 4. ARについて
AR誌は5誌の中でも最も息の長い雑誌である。また,
期にARにも記事を発表している。
1938年には先のAABNを吸収して,20世紀前半において
はアメリカ建築家界の主流の月間雑誌であった。1925年
3.3 引用された記事について(他紙との関係)
国内外のほかの出版物からのニュースのコピーが多く 頃には社名をF.W.Dodge Corporationに変更している。
今回対象とした創刊時から1945年までの期間をみると,
掲載されている。英語圏の新聞(New York Times,London
−3−
住総研 研究年報No.26, 1999年版
対象記事リスト
表2−1
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各号は小論文程度の長い記事が10件程度,それにニュー らの名前が再び見られることはない。
スや編集後記が毎号加わるという構成になっている。日
本建築に関する記事についても,比較的記事数の多かっ 4.3 引用された記事について(他紙との関係)
た1900年前後を中心に,ある程度まとまった量を持つ記 AR誌の日本関連記事には書き下ろしのものが多く,
事が掲載されている。
他誌から引用が判明する記載は見当たらない。
4.1 全体カテゴリーによる今回対象記事の性格
4.4各記事の紹介
今回対象記事は全20件であり,その内訳は以下のよう (1)日本の伝統建築に関する認識例
になった。これらのカテゴリー別件数を,表4−1に挙げ 日本関連記事の掲載がピークであり,実質上の最後と
なった1905,6年までを分析すると,日本の伝統芸術をそ
る(重複を含む)。
の精神性から保存させていきたいとする意識が,ほとん
表4−1 ARにおけるカテゴリーによる記事件数
ギ午十÷上王[
どの記事からうかがえる。例えば1906年の前出〈141〉
では,日本で使用した火鉢(写真4−3)に対して,その
審美性のみならず礼法の面からも陶酔しており,石油ス
トーブに取って代わられようとする実状を憂いている。
による一連の記事である<136,137,138>。日本の伝統 また編集部がR.A.Cramの日本建築研究と併せて論じて
AR誌における最初の日本関連記事は,C.T.Matthews
建築を扱ったもので,同誌においては初期を中心に最も いる1906年の2つの記事<142,143>においては,世界
扱われることの多かったテーマである。1905,6年頃には 主義が進展する中,伝統芸術を残している稀有な国とし
日本関連記事のピークの一つがある。伝統建築のほか美 て日本を認識している。そして彼ら編集部の仕事として,
術,生活についてが多くなり,消えゆく文化として日本 「伝統的感覚と,芸術や詩など伝統的表現を保持してい
の伝統芸術を憂えている。しかしこれ以降になると,初 るすばらしい人々への同情の感覚を,精一杯啓発するこ
期のような長い記事として日本建築を扱うことがなくな と」が述べられている。
る。後期において散見されるのは,日本居室を持つ住宅 (2)日本建築の発展過程についての認識例
の写真など(写真4−1,写真4−2)でよりインテリア的 日本建築がその発展の歴史において,大陸からの外来
なものである。またP.L.WrightやAntonin Raymondによ文化の影響を受けたことは言うまでもない。ただ,その
受容のされ方に関して模倣や折衷などさまざまな論議が
る日本での建築作品を紹介が開始される、、
なされるわけであり,C.T.Matthewsによる前出の記事の
中でもこれに関して共通した見解が示されている。その
4.2 執筆者について
Zaida Ben−Yusufによる日本滞在時の体験記が文献 うちの1896年の〈137〉は,東アジアの建築として主に
<141>であり,その夫人も文献<140>における撮影者 申国と朝鮮,それに日本の建築を少し説明してそれぞれ
として登場している。また前述のC.T.Matthewsについ の比較を行ったものであるが,その中で朝鮮や日本の建
ても,分析や描写の精度から判断すれば日本に滞在の経 築を中国建築の影響下にあるものと指摘した上で,さら
験があると予想される。この他,同誌において日本建築 に「東への移行の中で最も洗練され理想化された」と日
研究の権威とされたR.A.Cramも来日の経験がある。来 本建築を特別視する。この日本建築の発展説は,同時期
日については,日本の建築雑誌でも何回か報道された。 の〈136〉や〈138〉でも同様に繰り返され,その絶頂が,
芝の寺や日光の徳川寺だと説明される。日本建築の特徴
このようにAR誌における日本関連記事は,実際日本に
滞在した者,あるいはアメリカに出現した日本建築を直 を近隣諸国のそれと比較する視点は,前出のE.S.Morse
接見た者によって書かれていることが多い。しかしピー の著作でもみられるが,それらの関係性から発展過程を
ク時以降については,日本関連記事の減少とともに,彼 明確に主張した外国人による貴重な例であり,その出自
写真4−1 JAPANESE lNTERlOR
AR〈144〉1914年より
写真4−3 THE HlBACHE OF
写真4−2 TEA HOUSE
EARTHENWARE AR〈141〉1906年より
AR〈145〉1918年より
−6−
住総研 研究年報No.26, 1999年
5.3 引用された記事について(他紙との関係)
についての検討が待たれよう。
The Builder,The Popular Science Monthlyなど,具体的
に記されているのは5件のみである。
5. CBについて
書誌において述べたように,本書は米国における建築
5.4 各記事の紹介
施工者を対象にした月刊雑誌である。1910年より
ここでは19世紀における日本伝統建築,ならびにその
Building Ageと改名した。それ以降は誌名が示すごとく,
鉄筋コンクリートや鉄骨などの近代的生産の関連が主要 専従者についての認識を,端的に示す記事を紹介する。
対象になる。今回の調査では,日本の記事が散見される (1)日本の伝統建築についての認識例
1883年の文献<164>は,日本の五重塔についてのC.
改名以前の時期に絞り,その内容を調査,分析した。
DressereとJ.Conderの著名な論争を引用した記事である。
同記事では日本の五重塔の構造が,世界の中でも独特な
今回の選択基準による対象記事は全27件となった。こ ものであるとし,両者の意見を抄録した上で,心柱が当
初より浮いていて耐震的な振り子構造であったとするC.
れらのカテゴリー別件数,表5−1を挙げる(重複を含む)。
Dressereの説よりも,後の収縮によるとしたJ.Conderの
雑誌の性格によるものか,実際の施工方法への言及
<157,163>,技術者的な視点からみたコメント<161な 説に重きを置いている。現地日本での建築家や古老の大
5.1 全体カテゴリーによる今回対象記事の性格
表5−l CBにおけるカテゴリーによる記事件数
工などにも確認したとしている。
また日本の住居についての紹介も多々見受けられる。
特に初期における論調が,日本の伝統住居を合理的でシ
ステマテイックなものとして肯定的に受け止めている。
1880年の<159>は日本の大工による和風住宅の建て方
ど>が多い。とりわけ日本の伝統建築ならびに大工に関 を基礎から順次に紹介した本格的なものであり,その詳
する記述は割合的にも多く,その技術的分析に及ぶもの 細さからして技術者の実見によるものと思われる。また,
もある<163,167>。その執筆主体の多くが日本滞在を 1884年の<165>はThe Builderからの引用記事であるが,
体験したことのある技術者層と考えられる点〈174など〉 畳が普遍的に取り換え可能であること,その面積単位が
住居全体の規模を決定するモデュールになっている点等
が,特に注目される。
それに比較して,一般的な日本美術に関連する紹介は,について,高い評価がなされている。
初期以外はほとんど見られず<160>,また他雑誌ではし (2) 日本の大工,技術者についての認識例
ばしば取り上げられる日本庭園に関する記事が皆無であ 1880年の前出<159>においては,日本における大工
(Daiku)の地位の高さを報告している。また1886年の
ることも大きな特徴である。
日本建築についての紹介は,日本の建築専従者に関す <167>では,Minesの学校において4年間席を並べた日
る記事とともに多い。大きくは19世紀がほとんど伝統建 本人技術者たちのことを批評した投稿であり,彼らの高
築についてであるのに対し,20世紀以降は,赤坂離宮の い記憶力と品性を述べ,同時にオリジナルなリサーチに
建設を中心とした近代以降の建築についての紹介がその 対する能力の欠如が指摘されている。いわば現在の日本
主要をなしている〈179など〉ほか,アメリカから日本 人論と同様の視点が存在することが知られる。
への建設輸出についてのレポートも見られるようになる (3) 日本の伝統建築技術に対する認識例
<175>。19世紀の方が総じて日本建築に対するより深い 1882年の前出〈163〉も読者(フイラデルフィアのX.
「理解」が試みられているのに対し<164,165,172>, Y.Z氏)からの投稿であるが,Centinel Exhibitionでの日
20世紀以降は同じ題材を扱いながら,その知識がむしろ 本人大工が用いたカンナに対する手つきの素早さの理由
後退している例も見受けられる<177,182>。また,日 を分析している(図5−1)。砥石の種類,たがねの形状
本の状況を参照しつつ,アメリカの現状についての批判 を評価するもので,技術者ならではの視点がうかがえる。
的見解,展望を述べる比較論も多い。
(4) 日本の近代化についての認識例
1882年の<161>は,実際に日本で技術者として就業
した人物によるものである。レンガのぜい弱性,下水の
5.2 執筆者について
署名を持つ執筆はなく,著名な人物によるものは他雑 不完備などの,日本の急速な西洋技術の摂取と現実との
誌からの引用記事のみである。逆にペンネーム,読者か 矛盾が指摘され,日本の官僚制が発展の足かせになって
らの投稿が散見され,日本での就業経験,滞在経験を持 いることを批判している。また1894年の<171>では,
横浜に竣工した,陸屋根,鋳鉄製ですべての壁を中空の
つ人物による手記が多い。この点は貴重である。
ガラスブロックで満たしたDr,W.Vander Haydenの住宅
−7−
住総研 研究年報No.26, 1999年版
を紹介している。その真偽は確認できないが,新出の史 件数,表6−1を挙げる(重複を含む)。
的事例と考えられる注4)。
表6−l CRにおけるカテゴリーによる記事件数
7−1工こIユπ
5.5 “Japan”あるいは.“Japanese”の消失について
CBにおいても1900年以降に“Japan”あるいは“Japanese”
を冠した記事が激減する。これは19世紀後半より継続し 初期(190卜1905年)は,純粋芸術としての日本美術
て日本建築関連の記事を扱ってきた,今回対象となった に関心が高く,日本画・木版画の自然観や特殊性を賞賛
建築雑誌全般に共通する性格である。しかしながら同時 する記事が多く見られる。また,封建性から近代化を目
に,上記の単語を冠さず,かつ日本建築からの影響を類 指す日本の歴史的特異性を強調する記事や,生活用品に
推できるような記事が,1900年代の後半から散見される。芸術性を見出した記事が多い。記事は論文調で,20ぺー
ジに及ぶものがある。中期(1906∼1910年)になると,
例えばCoolidge & Carlson,Architect設計による1907年1
月号におけるアムステルダム派をほうふつとさせるバン 日露戦争後の日本を戦勝国すなわち近代国家として認識
ガロー注5)に付属した門は,檜皮葺の唐破風の門を思わ するとともに,伝統的な職人技術に支えられた,質素で
自然な日本の住宅や庭園から学ぼうとする姿勢がうかが
せる(写真5−1)。あるいはMatt Rileyの設計施工による
ウィスコンシン州のFish Creekに竣工した別荘を紹介し える。バンガロー住宅への日本の影響に関する記事も見
られる。後期(1911∼1916年)は,本雑誌がより実務的
た1911年4月号の記事注6〕においては,Clay Lancasterで
あれば当然日本からの影響と断じるに値する,金閣寺を になる傾向に伴って,インテリアのエレメントとして日
イメージしたかのような竣工写真ならびに図面が掲載さ 本建築や美術をどのように利用できるかという視点から
れている(写真5−2)。1900年後半,同誌においては盛 の記事や,書評・広告が増加した。ただし建築技術や資
んに近代的なバンガロー(Modem Bungalow)が取り上
げられるようになり,1909年には懸賞競技の結果が3カ
源に関する記事は見られない。
月にわたって掲載されている注7)。このような流れの中 6.2 執筆者について
で,日本的モチーフは近代的バンガローの一要素として 初期は特に記名論文が多いので,執筆者は多岐にわた
る。福井藩理化学教師として滞日した『皇国』の著者で
回収されるに至ったかのようである。
あるElliot Griffis,E.Fenollosa夫人のMary Penollos
ドンのJapan Society会員のO.Perciva,E.S.Morseの助
6. CRについて
CRは1901年から1916年まで、ニューヨーク州におい
をし,日本美術商としてアメリカで活躍した松木文恭,
て芸術運動家G.Sticklyを編集長として刊行された。1, ワシントンの国立美術館のR.I.Geare,など総勢20名を
2号でモリスとラスキンを特集しているように,アメリ 超え,その多くが来日経験者と思われる。
カでの「アーツ・アンド・クラフツ運動」の先導的役割
を担うべく創刊されたが,次第にその内容は実務的にな 6.3 引用された記事について(他紙との関係)
り,1904年からはクラフツマン・ハウスという木造住宅 筆者書き下ろしの記事が多いため,直接的な引用はニ
を販売する媒体にもなった。内容として□は,手工芸,家ュース欄にしか見られず,Japan Society Bulletinから引用
具,建築,保存改築,庭園,人物,教育,演劇,詩,短編した<234>と<235>の2件があるのみである。
小説,旅行,歴史など教養のある家庭婦人を対象にした
6.4 各記事の紹介
ものが多い。出版部数は最大22,500部(1910年)であった。
(1) 日本美術について
1903∼1905年の記事では「西欧の影響下でも日本美術
6.1 全体カテゴリーによる対象記事の性格
今回対象記事は全62件であり,これらのカテゴリー別 は雑種になることはない」<184>,「日本が最盛期のギリ
∠;ク
三=フ
檜皮葺の唐破風を恩わせる門 写真5−2 金閣寺をほうふつとさせる別荘例
図5−1 日本のカンナの観察図 写真5一1
CB,1911年4月号より
CB<163>1882年より
CB<12>1907年より
−8−
住総研 研究年報No.26, 1999年
シャ以上に美と用を日常生活で統合した」〈186〉など,
(5)日本の職人・大工について
日本の美術の普遍性を挙げ,「芸術の国」として比類な
「大工が座って仕事をするのはすべての職業で座位の
き価値を見出すとともに,生活の中の芸術として,酒器
習慣があるからで,鋸やカンナを西欧と反対に使うのも
<191〉,箱<!92〉,花瓶〈196〉,手ぬぐい<197〉等の日
姿勢からきている」〈195〉,「日本では職人は芸術家であ
用品の芸術性を論じている点が注目される。さらに,日
る」「すべての階層が芸術に対して愛情を持っている」
常生活に根ざした美術という観点から,正月と梅〈207〉
〈217〉など,アメリカの職人との比較において,近代化
や,生け花<229〉,門松<242〉についての記事がある。
以前の職人社会を理想化してみている。
(2)目本庭園について
(6)インテリアについて
1904年の「日本ではすべてが完全に造形され配置され
1911年以降,日本風のインテリアにすぐ応用できる小
ており,日本人にとって自然とは繊細な楽器のようなも
物や部材を紹介する記事として,窓<224〉(写真6−2),
の」〈190>という芸術性を重んじた立場から,後半はよ
欄問<225〉,照明<226>,杉仕上げ〈228>,ろうそく立
り実践的になり,日本の小庭園を評価し,そこからアイ
て<244〉がある。また日本風インテリアの例としてイ
デアを得ようとする傾向が見られる。自宅に池のある日
タリアのデコレーターが造ったアメリカのアパート
本庭園を造った例〈213〉,太鼓橋,飛び石,ランタンな
〈241〉がある。
どを紹介した例〈221〉,さらに具体的に「日本人だった
ら小さな庭をどうするか」<230〉や,日本の着想からの
6.5小結
裏庭の見直し<231〉,東屋<236〉など,「暮らしの中に
「シンプルで自然な生活」を提唱する本誌にとって,
日本庭園の良さを採り入れよう」と啓発する。
日本建築・庭園の簡素な美から学ぶべきものは多かった。
(3)目本の生活について
さらに,生活と工芸・芸術の一致を目指す「アーツ・ア
河川での船上生活を「質素で芸術的」と紹介する1906
ンド・クラフツ」の流れにおいて,日常に芸術が織り込
年の記事<205>,京都の一教授宅を例に,家計簿や住宅
まれた日本の生活は,一つの理想であったと思われる。
プランを挙げて説明した記事<206〉(図6−1),日常の
感嘆と賞賛に満ちた初期の記事から,日本の要素をアメ
喜びに結びついている日本の労働と生活は,「それ自体
リカのインテリアに採り込もうとする後期の実践的記事
が美的」とする記事〈217〉など,アメリカと異なる質
への変化は,日本建築・美術がアメリカに消化され,そ
実な生活を賞賛する。また,女性教育を取り上げたもの
こに適応していくプロセスを示すととらえられる。
として,京都同志社の女学校を取材した1914年の記事
<238〉がある。
7.HGについて
(4)日本の建築・住宅について
同誌は月刊誌として,1901年にフィラデルフィアで創
1906年の「アメリカを含め西欧のこれからの建築が装
刊された。1906年から出版社名はJohn C.Winston Co.,
飾のない正直(honeSty)でシンプルな構法に回帰する
となり,1909年から出版社名もMeBride,Winston&Co.,
にあたって,木造建築として完壁である日本建築の原則
住所もニューヨークに移っている。その後,出版社の拠
に学ぶべきものが多い」〈204〉や,日本が中国の影響か
点は変わらないものの出版杜名は19ユ1年にはMe Bride,
ら独白に日本建築をつくり上げたことを引用し,アメリ
Nast&Co.,1915年にはCondeNast&Co.,と変更されて
カ国家の表現としての建築を論じた1909年の〈212〉に
いる。読者は主婦を中心とする一般人で,その内容は
は日本の伝統建築への同調が表れている。また,カリフ
1908年の記述によれば「AnI11ustratedMonth1yDevoted
ォルニアのバンガロー住宅への日本の影響を述べた<210,
to Practical Suggestions on Architecture,Garden Designing
214,222〉(写真6−1),西欧人が日本に住む場合の住ま
and P1anting,Decoration,House Pumishing and Kindred
い方について,アメリカ人版画家の住宅を例にとって記
Subjects」とあり,まさに住宅・庭園・家具を中心とし
述した〈211〉は,異文化問の住宅例として興味深い。
た家庭生活に対する現実的な提案を行うことを目的とし
公蛾州畑㎏・も鮒壷曲伽一脳
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図6−1京都の住宅平面図
と家計
CR〈206>1906年より
写真6−1
図6−2 目本風の窓とし
日本の影響のあるバンガロー住宅 て紹介された例
CR〈210〉1907年より CR〈224〉1912年より
一9一
住総研研究年報No.26.1999年版
ていた。今回の調査では,調査先の所蔵状況から1922年 日本庭園に関する多くの記事も,内容から来日の経験者
までしか資料収集ができなかったため,今回は1902年か が記したものと推察される。
ら1922年の20年間を分析している。
7.3 引用された記事について(他紙との関係)
他雑誌からの引用記事はないが,〈250〉の指図は
7.1 全体カテゴリーによる今回対象記事の性格
今回対象記事は全30件であり,これらのカテゴリー別 「Couderls classic volume“The Flowers of Japan”
件数,表7−1を挙げる(重複を含む)。
とある。この「Couder s はJ.Conderと考えられる。な
お,そのJ.C㎝derの著書が既に古典としてとらえられて
表7−1 HGにおけるカテゴリーによる記事件数
箒リ1;ξ三L「{一
いたことは興味深く,オ)が国の文化を伝える出版物が普
及していた様子がうかがえる。また,アメリカの日本庭
園の紹介記事の中に日本の素性に詳しい松井文恭,E.S.
日本美術および庭園に関する記事が圧倒的に多い。通 Morseの引用が見られるがその出典は明らかではない。
時的に見れば,1909年までは庭園関係の記事が多く,か
つ,日本庭園に深い精神性を見出し,それを高く評価し 7.4各記事の紹介
ようとする意図がうかがえる。それに対し,1910年以降 収集した日本関連記事には日本の伝統建築やその専従
では美術品全般の紹介が多く,精神性よりも日本美術の 者である大工などに関する記事はほとんど見られない。
優れた技術的な側面に注目しているように思える。また ただ,1908年の<252>では日本庭園を造るためS.Fumkawa
住宅関連記事は少ないものの,1909年以降に集中してみ とA.Kimuraを雇い入れてたことが記されている。2人
られる。住宅関連記事が少ない理由として<271>にみ は「Japanesecraftsmen」とあることから,造園家ではな
るように伝統的住宅の特徴として真壁造で部材が意匠材 い。類似した職能ということで雇われたものと思われる
を兼ねていること,間仕切が可動であること,自然の材 が,当時のアメリカにおける職人の理解の仕方をうかが
料を使いこなしていることを述べていることから明らか わせる事例と言える。次に,伝統的日本住宅の記事から
なように,同誌の発行以前に既にわが国の伝統的住宅の 伝統的住宅の認識の様子をみておきたい。1911年の
情報が,同国で行き渡っていたためと推察される。また,〈259〉では日本住宅の特徴として,靴を脱いで室内に入
1909年以降に住宅関連記事がみられるのは,<270>のサ る,室内は襖・障子で仕切られる,単純な線で構成され
ブタイトル「Interiors Decorated and Furnished in theている,などが挙げられている。1919年の〈271〉はHG
European
掲載用にA,D.Reedが考案した日本風のバンガローが紹
Manner in Houses of Traditionals Japanese Architecture」か
らうかがえるように,単なる伝統的な住宅の紹介ではな 介され,その特徴として柱が露出した構造(真壁構造)
く,西洋文化の流入後の日本住宅の様子を述べるためで で,基礎は自然の玉石を
あったと推察できる。
露出させる,部屋同士の
仕切にひとまとめにでき
7.2 執筆者について
る引き違いのパネルを用
記事の大半は署名の付された書き下ろしで,他雑誌か いること(図7−1,7−
らの引用記事はない。執筆者の素性は明らかではないが,2,7−3)が記されてい
日本庭園の記事を書いたR.A.Cramは明治期に来日し, る。これらから判断して,
国会議事堂を設計したことでも知られる著名建築家であ 日本の伝統的住宅の特徴 図7−3
日本風バンガローの
間仕切ディテール
り,また,生け花の記事を書いている松木文恭はアメリ は理解されていたと考え
HG<27!〉1919年より
カでE.S.Morseの助手を務めた人物である。また,他の られる。なお,当時の現
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図7−1 日本風バンガローの外観
HG<271>1919年より
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図7−2 日本風バンガローの平面 写真7−1 高峰諏吉邸のインテリア
HG<270>1919年より
HG<271>1919年より
−10−
住総研 研究年報No.26, 1999年
代住宅について述べている記事としては1919年の<270> 同様の認識の変質が起こったのである。
があり,大阪の日高伴設計の住友家を和洋の様式をうま さらにこの状況を,対象雑誌全体の動向を勘案しつつ
く組み合わせた現代の日本住宅の典型として紹介してい 検討すると,2つの特色が明らかになる。一つは,19世
る。また,ニューヨークの高峰譲吉邸(写真7−1)も, 紀後半に創刊されたAABN,CBに共通するもので,そ
同類の住宅として紹介している。
れら2誌ともが20世紀初頭,1900年代初頭の日本の「近
8. 総合分析ならびに結論
8.1 1902∼1910年における対象雑誌全体の動向
ここでは,対象5誌における件数の動向について相関
的に比較するため,5誌が出揃う1902年から日本関連記
事が減少した1910年までを対象として分析した。
代化」に否定的に呼応したかのように,明らかに記事数
が激減している点である。この特徴には,日本建築なら
びにその専従者に対する初期的な学習(収奪)態度の継
続(19世紀後半)と,日本側の近代的変化による学習
(収奪)意欲の喪失(20世紀初頭)が反映されていると
みてよいであろう。彼らは近代化の父親として,未開の
まず記事内容についてであるが,各雑誌の紹介におい 子に野生の美を見出し,その子の成長とともに,敵対し
て示したように,それらは購買層の潜在的な欲求がビビ うる隣人として日本を認識するに至ったわけである。こ
ッドに反映された結果となっている。しかしながら,い のような認識的変遷はエキゾチズムー般のモデルにもよ
ず1れの雑誌も19世紀まで残存したと認識された日本の伝 く合致しうる。しかしながら今回の調査で多く明らかに
統的精神性が,20世紀初頭の日本の軍国化,近代化のも なったことであるが,19世紀における2雑誌の記事には,
とに変質してしまったという大きな物語の中にあること それぞれに特色のある検討態度と予想以上に深い技術的
は納得されよう。鈴木博之の論考には,イギリスにおけ 知識の獲得があった。これについては大きく評価される
るこれと同様の推移が1890年代以降に顕著になったこと べきであろう。
が指摘されている注8)。10年の後にアメリカにおいても, もう一つは,20世紀初頭から創刊されたCR,HG2誌
表8−1 各雑誌の日本関連記事件数の変遷
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住総研 研究年報No.26, 1999年版
の,上記誌に比較した場合の継続的な日本記事の紹介態 の組合活動に関連した政治的背景の中で,脅威ともなっ
度である。この継続性には以前の2誌と異なった動機が ていたと推測される。ARやAABNにおける単なる称賛
に終わらず,実地の観察による技術的報告が多いのもそ
あったと考えるべきであろう。CRは,1900年代では質
素な日本の住宅,生活自体の芸術性を賛美していたのに のためであろう。この状況の中にあって,彼らが機敏に
対し,それ以降はインテリアの問題としてそれらを扱う 技術的驚異を敷延するC.Dressere説よりも,J.Conder説
を採ったのは必然的なことであった。
ようになった。HGは,1900年代までは日本庭園の「深
い精神」をテーマとした記事が多かったのに対し,それ
以降は技術的側面を主たるテーマにしている。つまり2 繰り返しになるが,重要なのは,彼らの日本理解に対
誌いずれもが,アーツ・アンド・クラフツ運動や近代的 する「正確さ」ではなく,彼らの近代化にとっての
〈鏡〉となりえた「日本建築」の意味なのである。従来
なバンガローの成立に関与していく中で,日本的要素を,
より疎外的に自らの体系の一部として位置づけうるよう からの定説でもあったアメリカのモダニズムにおける日
本建築の影響が,今後なお指摘されるとするならば,そ
な段階に至っていたことが推測されるのである。
以前の2誌に比べ2誌におけるアメリカにおける日本
建築の影響についての記事(カテゴリーHに該当,表2
の主体は日本建築自体にあるのではなく,アメリカ側の
主体的立場において成り立っていることなのである。
−1参照のこと)が格段に増加していることは,これを
反映している。つまりこの時期,アメリカにおいて「日 <注>
本」は既に内向していたのである。これらの内向化の過 1)日本建築がアメリカ建築に影響を与えたとする定説は流
ており,基本文献であるC.Lancaster “Japanese Influ
程をよく表しているのがARの記事動向である。1920年
America”,New York City:Walton H.Rawls,1963.
代以降は主にF.L.WrightやA.Raymond等によって咀嚼
カリー,長尾重武訳『アメリカ住宅論』鹿島出版会,1
された「日本」を扱っているのである。
William J.R.Curtis,“Modern Architecture sinc
術,住宅関連文献に散見される。
2)先駆的研究.として鈴木博之による論考(参考文献参照
8.2 心柱をめぐって
げられる。その論点は日本建築ならびにその専従者につ
各誌に共通する題材の取り扱われ方の相違例を述べる。
の考察を広く行うことが目的ではなかったが,本論を進
五重塔の心柱は,日本の伝統建築の潜在的な技術力の象 にあたって前提となるものである。
徴として,その解釈をめぐり初期の関心と議論の中心の 3)例えばAvery Indexにおける,建築家A.Raymondに関す
除く伝統的ならびに日本近代建築の関連記事は75件であ
一つとなった。今回の対象雑誌5誌の中に4件(AABN
4)同住宅による別報告が,AABNによってなされている〈95
に2件,CBとARに各1件)の関連記事があったので,
5)Rustic Entrance and Gardener's Cottage at,“
その比較を行いつつ雑誌間の階層的差異について指摘し MASS
たい。周知のように心柱をめぐる議論は,1882年から6 6)A Refreshment Building At Fish Creek,WIS
年にかけてのイギリスの美学者ならびにデザイナーであ 7)Competition in Modern Bungalows,April June,19
8)&9)2)を参照のこと
ったC.DressereとJ.Conderとの対立をもって代表される。
端的にC.Dressereが日光の五重塔の心柱に振り子説を提
<参考文献>
示したのに対し,J.Conderはそれを部材の収縮による偶
・注1)に同じ
然的なものとしたのである注9)。
・渡辺保忠:静岡におけるE.W.Clarkの住宅とその影響に
両者の説に対して,1883年のCB<164>ではJ.Conder 日本建築学会論文報告集,1960
説を支持した。1886年のAABNでは,自由の女神を建設
・鈴木博之:ヴィクトリアン・ゴシック期の英国建築界と
する際に起こった議論を取り上げた記事<48>に関連し Christopher Dressereと[ヨ本(含補遺),ジョサイア・
建築観と日本,ジョサイア・コンドルと英国(いずれも『
てJ.Conder説を支持している。1894年のARにおける
クトリアンーゴシックの崩壊過程の研究」,中央公論美術
C.T.Matthewsによる記事<136>では,逆1にC.Dressereを
版,1996に所収)
支持している。English Mechanics誌からの転載であった ケヴィン・二ュート:フランク・ロイド・ライトと日本文
1899年のCB<183>では,五重塔を心柱への言及なく, 鹿島出版会,1997.9
・畑 智子:1876年フィラデルフィア万国博覧会の建築に
全体的な振り子構造を持つものと解釈している。
「日本」,日本建築学会計画系論文集,No.503,p.195
これら雑誌,時代による見解の相違についてはさまざ ・大島清次:ジャポニスム:印象派と浮世絵の周辺,講談
まな解釈が成り立ちうるが,特にいち早く反応したCB
1992.12
の立脚点に注意しておきたい。CBはアメリカの大工を
購読層に持つ雑誌であり,19世紀を通じて特に日本の大 <研究協カ者>
工職人の作業に関する報告を主に行っていた。彼らにと 高田さとみ 西武建設(元文化女子大学 学生)
って日本の大工職人の「優秀さ」は,当時のアメリカ内
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住総研 研究年報No.26, 1999年
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