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渡部 景俊 軽井沢地名について
軽井沢地名について 渡 部 景 俊 I.はじめに なかで、軽井沢の意昧を「①、荷物をセオウ =カルウのこと。②、枯井すなわち水のない 長野県の軽井沢は避暑地としても有名で、 谷川のこと。③、カレイすなわちホシイのこ 夏季には若い人で賑やになるところである。 と。」とのべている。 ところで、秋田県内における軽井沢の地名(集 柳田国男は『地名の研究』のなかで、軽井 落名)を調べてみると予想以口こ多い。とく 沢についていろいろ説をのべているが、要約 に、大館市や羽後町などの軽井沢は古くから すると次のとおりである(5)。 知られている。 (1)カルフーカルヒの連体語で、背負うと 秋田県内の軽井沢の地名研究は、あまり進 いう中古の俗信である。 んでいない。筆者はかねてから軽井沢地名に (2)峠の麓一其の地まで馬の背で荷物を運 興昧と関心をもっていた。そこで、今回は先 んできたが、それより上は馬が通れない。 学の研究を参考に、五万分の一の地形図や「秋 そこで、小さく分けて人の背で山を越す 田県巾町村字名称調」(1)などを予がかりに、そ ために、自然に足だまりとなり村里がで の分布などを明かにしようとするものであ きた。 る。 (3)田代地名との関係―田代地名と相接し II.文献にみる軽井沢 ている場合がある。県内にも数か所敗見 される。 軽井沢地名の説明については、いろいろな (4)東日本に多い一嘉例川の類は全国に広 説がある。県内の軽井沢について、佐藤貢は、 く分布しているが、軽井沢は東日本に限 大館市、羽後町、大内町、それに矢島町の四 られている。 か所は、峠を表わす歴史的地名であるとして 菅江真澄は、軽井沢地名にも興昧をもち、 いる(2)。占田束伍(3)によれば、長野県の軽井沢 まず、長野県の軽井沢をあげ、さらに「出羽 は、「水源枯渇の渓頭の謂ならん」とのべ、葛 六郡の内には秋田ノ郡にも軽井沢あり、また 例郷などと同じ意昧であると解釈されてい 姓にもあれば其人々の先祖など住たりけん。」 る。また、三浦鉄郎は『新編秋田の地名』(4)の とのべている。また、餉説や空井の説などの べてはいるが、「なお考へつべし」と結論を出 軽井沢 大館 弘前 秋田 403-402-32 していない(6)。 軽井沢 宮下 新潟 福島 393-373-44 掬沢 猪苗代湖 福島 福島 401-373-34 軽井沢 平 白河 福島 404-371-14 秋田県内の軽片沢地名の説明に入るまえ 軽井沢 佐倉 千葉 千葉 401-355-13 に、全国の軽件汎地名の分布などはどうであ 軽=則尺 十日町 高田 新潟 384-371-24 ろうか。文献によって展開してゆきたい。ま 軽井沢 長岡 長岡 新潟 384-371-24 ず、占田東伍は、次のように軽件沢から枯件 軽剔尺 Iこ田 長野 長野 383-363-31 HI.全国の軽井沢地名 まで10地点をあげている(7)。いづれにしても、 (駅) 軽井沢 長野 長野 383-363-31 この中には秋田県における軽片沢は1つも含 軽剔尺 軽剔尺 長野 長野 383-363-31 まれていない。それは、当時は未だ知られて 軽剔尺 熱海 横須賀 静岡 391-351-13 いなかったためであろう。 柳田国男は軽井沢と田代との関巡について 軽剔畢(信濃) もふれ、両者は相接して存在しているとして、 軽片渾(伊豆) 次の四例をあげている(9)。このなかに、秋田県 軽剔畢(岩代) では田代村(現羽後町)と十二所町(現大館 軽井渾(陸前) 帽が含まれている。調査の段階で、このこ 葛例郷(大隅) とにも留意してみたが、あとでふれるように 蝶沼郷(薩摩) 数か所あったので、ここで列挙してみた。 住例川(大隅) 伊引H方郡函南村大字軽件渾 lモ余魚渾(陸奥) 同 同 同 大字田代 枯片(信濃) 岩代人沼郡束川村大字軽片渾 つぎに、金片弘夫は、全国の軽片沢の地名 同 同 同 大字田代 19か所あげている(8)。秋田県内では、四地点で 羽後雄勝郡田代村大字軽片渾 大内町、羽後町、矢島町、大館市の各軽剔尺 同 同 同 大字田代 である。 同 北秋田郡1・二所町大字軽件渾字軽件渾 5万分の1 20か籾1 県名座標 同 同 同 大字葛原字田代 軽井沢 大曲 秋田 秋田 402-393-12 軽井沢地おぱ東H本に多いが、伊藤正の研 軽井沢 左沢 仙台 山形 401-383-12 究によると、地形図上には19か所を数えてい 軽井沢 左沢 仙台 山形 401-383-12 る。内訳は、山形2、岩手1、宮城1、青森 軽井沢 荒屋 八戸 岩手 411-401-13 0、福島2、長野4、静岡1、群馬1、千葉 荒M 八戸 岩手 411-401-13 1、新潟2、そして秋田県内では4か所ある。 岩ケ崎 新庄 宮城 404-383-14 また、軽沢は岩予に2か所あるとのべている。 軽則尺 矢島 新庄 秋田 401-392-32 軽井沢 浅舞 新庄 秋田 402-392-12 かるいさalっ 軽沢 軽井沢 ・------------------- 谷と沢は、束西対立の1つの地名である。 そ ー-咎 の境界線は、新潟県の親不知から愛知県の 番 国 上 地 理 院 刊 行 地 図 号 軽井沢お 巾町村名 地形図名 種 類 1 軽片沢 鹿角llj 2 軽片沢 花 輪 2万5千分1 48.7.30 大館l↑j 大 館 5万分1 3 軽J づ尺 秋田巾 雄和町 4 軽井沢 軽J 5 軽J 大内町 軽井 尺 6 軽J づ尺 矢島町 秋田県市町村字 お祢調(1881年) 発行年月日 軽井沢名 村 名 太平山 49.5.30 5万分の1 50.3.3 5万分1 羽後和田 2万5千分1 50.1.3 61.6.30 軽井沢 尾去村 軽片沢 - 軽井沢 に 軽片沢 椿川村 軽井沢 な し 軽J 軽J 軽井 尺 軽井沢 軽J 沢 軽J 沢 軽井 尺川 J 大 曲 5万分1 51.12.28 l 横 手 5万分の1 53.1.30 5万分1 53.1.30 53.7.30 軽片沢 7 軽丼沢 羽後町 軽井沢川 矢 島 浅 舞 8 軽伴沢 皆瀬村 秋ノ宮 5万分1 48.1.30 9 板片沢 山内村 横 予 5万分1 52.1.30 タ1 μ 1タ 軽井沢 羽広村 軽井沢 立l石村 J l 軽片沢 軽件沢ケ沢 軽井沢山 備 考 軽片沢 軽井沢村 軽井沢福 な し 祉園 仁別村 軽J づ尺 な し J J 秋田県最新情報 地図(1986年3月) 犬 軽す づ尺 田 軽井沢村 中田代 中田代局 大字の軽件沢 な し 田代中 田代小 田代公民館 大字の軽剔尺 傀 軽剛 尺葛 田代局 軽井 田 代 沢分 安 - 川向村 軽井沢山 顕 μ a t渕村 軽井沢 ll l]代 t 軽井汎 尺 桑名を結んだ線で「OK線」とよんでいる。 そのOK線の西側に谷が多く、東側つまり束 目本には沢が多く分布している(1o)。そのため か、秋田県内には沢のつく小字が多く、約30 %あるとみている。 Ⅳ.秋田県内の軽井沢地名 本項で、これまでのべた資料をもとに、ま とめたのが、表1の「秋田県内の軽井沢地名 一覧」である。使宜的に市町村別にわけてみ た。そして、そのおのおのについて、軽井沢 を中心に簡単に地形図を書きあらわし、若干 の解説を加えた。 さらに、秋田県内に点在するこれらの軽井 汎地名が、地形的にどのように分布するか、 図1の「軽井沢分布図」に示した。 軽片沢の多くは、地形上標高100∼300mの 山ぞいの細い道にそって分布しているのであ る。 つぎに,金井弘夫は秋田県内の軽井沢の地 間違いはない。昭和11年に中沢にある尾去沢 名を12点あげている(11'。そして,地名のよみ 鉱山のダムが欠壊して360人の死亡者が出た や経緯度の表示により,地点の位置を明示し 大きな惨嘔があり、鉱山の沢づたいの集落の ていることに特色がある。 住人が被害にあった。これを機会に、山地に 地名漢字地名よみ網賤 15気分 東経E 北緯N 近い軽玲沢地区に転居した。一時は150戸位で o軽井沢 かるいさわ羽後町羽後田代l]。16,39.13, 賑わっていたが、鉱山の不況で現在は約50戸 0軽井沢 かるいさわ矢島町矢島 Ⅲ。11,39.14, に減少した。 しかし、花輪のベットタウンの 0軽井沢 かるい勁大館市十二所 譜,39,40.12, 性格が強く、花輪方面への通勤通学客が多い。 0軽井沢 かるいさわ大内町ハ沢木 140.17,39,24, 近接集落には、松子汎、山方、新堀、瓜畑 c軽井沢 かるいさわ大内町ハ沢木 140.17,39.24, などを含めて、一区画をなしている。尾去汎 0軽井沢 かるいさわ鹿角市花輪 140.46,40,11, 鉱山は古い鉱山で県内外で広く知られていた 軽井沢 かるいさわ秋田市太平山 14a.16,39.47, が、今はマインランド尾去沢として有名にな 軽井沢 かるいさわ誰和町羽後和田14a.13,39.36, った。大館市の境腎に近い下新田から南東に 0軽井沢川絢tめ1っ羽後町羽後田代141.16,39.12, 中新田、ト新田と新田地名が続いている。上 0軽井沢jllか&き 新田は古沢出目といわれ、田代と関係がある 0軽井沢川カ6さ 、っ大内町 ハ沢木 ・。16,39.24, 、っ・大内町新沢 141.14,39.25, と思われる。 軽井沢山紬咎剱皆瀬村 桂沢 14a.40,38.57, 2、大館市の軽井沢 地1・;漠字のEIの○印は,地名のよみを何らかの方法 羽後町の軽玲沢とともに、秋田県内では知 で調べてある場合,あるいは地図11にふり仮名がある られている軽片沢地名で、旧トニ所町内にあ 場合である。 る。米代川の右岸の山麓にほぼ平行に走る道 |,鹿角市の軽井沢 路ぞいにある。とくに、川岸から北へ道路ま 鹿角市の軽井沢は,尾去地内にある。5万 での約500mの間に民家が密集している。享保 分の1の地形図に軽井沢はのつていないが, 15年(1730)には、軽片沢村で戸数17軒、枝 2'万5千分の1の地形図にはある。「秋田県市 郷の浦山村は10軒、そして道目木村は19軒で 町村小字名称庸12'」には,尾去村の欄に軽井 あった(13)。対岸には有名な大滝温泉がある。、 沢の小字があったので間違いない。花輪から 比内町扇田地区から、道路ぞいに束に、中山、 尾去沢鉱山に向って県道の十コ丿祈,花輪線が 曲田、互輪台、軽則尺、浦山、猿問、葛原、 通っているが,坂を上ったところに鹿角市尾 葛原開拓と渠落がつらなっている。北部は鞍 去沢支所の建物がある。 掛山などのある広い山地で、米代川洽いに田 軽JM尺地名発生の理由はよくわからない 畑が分布している。 が,近くに峠もなくまた川も流れていないが, 三浦鉄郎の説によると(14)、「地形々l地から 尾去沢鉱山への重要な道路であったらしい。 みると台地段庄にあって、荷物運搬目利難な しかし,片から軽井沢といわれていたことは 汎」とのべ、山麓に洽った細い道であったか 尺 た の に で 戸 と思われる。軽井沢の束側の段丘上にある軽 m地点に軽井沢橋がある。その橋を渡ってす 井沢館跡は中世のものである。なお、葛原に ぐ左予の山ぎわに登山道の入り目があり、こ は田代という小字がある。 こから軽井沢のはじまりである。森林鉄道は、 軽井沢は江戸期から明治22年(1889)の町 一の沢、二の沢、三の沢と三の沢まで運転さ 村合併までは、北秋田郡軽井沢村で、その後 れていたとかで、そのさきは七の沢まである 現在の大字名となる。はじめは十二所町、昭 という。入り目から10m位先へ歩いてみたが、 和30年からは大館市の大字となり現在に至っ 右手は山、ノ1ミ手は5∼6m下った沢で、細い ている。 道には石がゴロゴロあった。 3、秋田市の軽井沢 昔から太平山は信仰の山で多くの信者が登 秋田市の軽井沢は、仁別自然休養林内を通 ったことだろう。頂上には、太平山三占神社 る仁別自転車専用道路から山あいに入ったと がある。そのため、昔から登山道の一つで、 ころにある。範囲はどこまでかはっきりしな 荷物を背負った多くの人が、この細い沢道を いが、一の沢から弟子還りまでの間をいうら 往復したに相違いない。七ノ沢付近は昔から しく、地形図にも軽井沢と記人されている。 山菜の豊庫であり、近くには秋田蕗の原種と 交通は、秋田駅前から秋田市営交通バスで「仁 もいうべき大きな蕗が自生しているというこ 別国民の森」まで約25kmの距離がある。 とである。 筆者は、4月下旬の日曜目に車で現地確認 4、雄和町の軽井沢 のため出かけた。ゆく前に2∼3人の人から 河辺郡雄和町の軽井沢は、平尾鳥地区内の 状況を聞いたが、念のためと思って森林博物 中村集落から北方約3kmの地点にある。枯井、 館へゆき窓目の人に聞いてみた。いろいろア 水のない谷川から軽井沢と言われ(15)、東南約 ドバイスをうけて軽井沢へ向かった。森抹溥 500mの地点に高度153mの大平山があり、周 物館の下方に大きな池があり、回りを舗装し 辺が山に囲まれせまい道が通じている。 しか ている道路の一角に「務沢駅跡仁別ハイキン し、2 ̄万5千分の1の地形図(昭和61年6月 グコース入口」と書かれた立て札が立てられ 30日発行)には、軽井沢も大平山の地名も見 ていた。細い石段の坂を約100m ̄ドると、務沢 当たらなかった。軽井沢は空港川地のため今 駅跡地の広場に出た。前には、旭川の清流が はなくなり、また、大平山は空港用地に一部 みられた。ここは、森林鉄道の跡地利用のた けづりとられている。軽井沢は戦後に4戸が め作られた「仁別自転車専用道路」の終点に 入植し農業を営んでいた(16)。 当たっている。始発点は、上場といっていて 筆者は現地確認のため4月上旬の日曜目の 秋田駅の裏側の手形地区内にある。秋田大学 午後、空港道路から左手に曲がり平尾鳥地区 前から舗装された19kmの道路で、休日などに 内の集落が連なる道路に入った。竹花、中田、 は若い人でにぎやかになるサイクリングコー 中村、金井田、細田、中山など歴史を感じさ スでもある。 せる集落のうち、中村集落に入ると間もなく さて、軽伴沢の場所であるが、この務沢駅 左手に入る舗装した道路がある。土地の人の 跡地から旭川を下って秋田市内方向に約400 話だと、「今は軽井沢は空港川地のためなくな り、この道路はしばらくは舗装してあるが、 うなずける。現在も、軽井沢川の補修工嘔が そのさきは山道で道路は悪く、車は無理だ。 行われている。 そして、大平山は、ここからは山のかげにな 明治初年に羽広村に合併された。そのご、 って見られないが、空港からはよく見えます 明治22年(1889)年に数か村合併してll川大 よ」と教えられた。 内村となり、昭和45年4月から大内町として 止むなく車を引き返し帰途についたが、納 現在に至っている。 得できないので、雄和町役場に茫ちより町発 なお、その後の調在ではじめて軽片沢にき 行の地図を見せてもらった。それには、軽片 た人は、畠山という人で、慶長4年(1599) 沢も大平山も地名の表示はなく、空港用地で にハ沢本から移って来たという。現在の人は 消えてしまったのである。 14代で今から約340年前のことである。軽片沢 5、大内町の軽井沢、軽井沢川 の由末は①アイヌ語のカル②山道を登った近 由利郡大内町の軽片沢および軒片汎川は、 くに年冲水のかれない泉があることからか、 f占川の支流の芋川の上流で、南外材に近い という説明であった(18)。 国道105り・線ぞいにある。南外村の1こ場をすぎ 6、矢島町の軽井沢 村境の矢茫峠をすぎると大内町に入るが、し 由利郡矢島町の軽片沢は、茫石地区内にあ ばらくゆくと七ツ鉢の集落が点在する。その り、iミ要地方道32り線(仁賀保矢島館合線) 1前に、国道から別れてドリ坂を南下して、 沿いで、束由利町黒淵地区に近い。トニケ沢 約1.5kmの間を軽件沢という。道路の巾は4∼ の上流にある谷合集落で、今から330年前の ̄万 5mで舗装し、軽丼沢川と田んぼが山あいを 治2年(1659)には3戸あったが、その後変 ぬって続いている。この問の戸数は30戸で、 遷をへて終戦後には11戸の家が点在していた。 1戸又は数戸が50∼100m位はなれて点在し、 軽片沢川(地形図にはない)をはさんで、 敗村形態をなしている。もとからの軽片沢は、 東側が大字立石、西側が大字新荘と所管を異 舗装の消えた峠の麓に3戸がそうであること にする。地名の由来については、地形的にも は地疋の人の話しであった。ここからは砂利 また片の交通道路、すなわち茶屋長根の峠越 道で、雨外村の荒又や、さらには大内町│こ川 しから考えて、峠路はせまくけわしいので、 大内地区の中村集落に通ずる。片の人は、こ 荷物を小分けにして人の背をかりて運びあげ こで荷をドろして、小分けして背おいこの山 たのではないかと思われる(19)。 道を登っていったに相違ない。峠の麓の集落 さらに、戦後人植が行なわれたが、殆ど離 との感じが深い。 農し、または出かせぎに出て、夏季は住んで ここの軒剔尺は、慶長17年(1612)の進藤 いる人は数人程である。この近くの沢水が流 但馬守某目野備中守某連署状に岩屋領の一村 れて貝喰、行ヽドをへて下流で軽削尺川と合流 として見えるのが初見である(17)。今から371 し、さらに由利郡山利町蟹沢の子吉川に合流 年前のことで、また、水害をうけやすい村で している。 あると記されているが、地形などからみると 羽後町の軽井沢、軽井沢川 小安温泉郷のある皆瀬川のさらに上流に桂 凋な1乃lzy4isゐla刃j7ぃ邨l収Gnり恥・| 7 雄勝郡羽後町の軽井沢および軽井沢川は、 沢、鳥谷そして大湯の集落が点在する。大湯 旧軽井汎村内の石沢川の上流にある。山麓に の集落から西南方に標高944mの軽井沢山が は、主要地方道374号が通り、羽後交通の定期 ある。山名は判然としない。 バスの路線にもなっている。田代の明通から 大湯集落からさらに約5km上流の地点から 西に入り梨木峠を越えた高冷地帯でハ塩山下 束へ入ると田代沢があり、更に進むと束成瀬 の裾にせまい沢入の湿地帯でもある。川の西 村境に田代沼という沼がある。さらに南下す 側の沢つたいに細い曲がった道路があり、1 ると、宮城県の花山村に入る。 戸や数戸がはなれている散村形態の集落をな 9、山内村の軽井沢 している。河川や道が曲折していることは、 平鹿郡山内村の軽井沢は、最近団地集落と J s = s s l j S S I s s l s s s s s して新しく出来たのである。「秋田県市町村小 っている。 字名称調」(21)によると、│日山内村土淵村内に 村名の軽井沢は、田茂ノ沢、藤倉、井出、 軽井沢の小字名として記載されている。早速 牛ノ沢、杉沢、岩瀬、落合、カリサ沢、筋沢、 地形図を見たがなかったので、今まで気がつ 谷地岸、上、山根の12か村の総名をとった。 かなかったのは当然といえよう。ただし、板 戸数は163戸であった(2o)。戦後、羽後町にも入 井沢という集落があり、直感的に文字が似て 植者が入り、16地区に60戸が158haの開こん いることからこの付近にありそうに思えた。 を行い営農にとりくんだのである(昭和23年 板井沢集落は、横手市から北上市に通ずる から33年までの統計)。そののち、軽井沢には 国道107号線から、横予川をこえて、北東へ約 6戸で2.4ha、軽井沢ケ沢(地形図にはない) 1km人った山麓に広がる静かな集落である。 には1戸で2.2haを開こんをしている。実際 豪雪地帯でしかも耕地面積の少ない山内村の に現地を見た範囲では、羽後町は山間部が多 こと、どこの集落からも「山内若勢」又は「山 く平坦部が少ないように思われた。手もとに 内杜氏」が、村外に働きに出かけたのである。 統計資料があるので念のため全県と比較をし 村内を流れる横予川から北東に分かれた松川 てみると、羽後町の全集落数122のうち標高 という支流があって、田代集落に「大松川ダ 100m以下が40%(全県73%)、100∼200mが13 ム建設」がはじまっている。そこで、住民の %(全県15%)、そして、200m以上が48%(全県 移転が検討され、結局、板伴沢集落の束方2 12%)となっていることがわかった。 kmの山ぞいの畑や山林地を造成し団地を作っ 軽井沢は江戸期から明治22年(1889)まで たのである。昭和61年に田代をはじめ4集落 の村名であり、明治22年(1889)の町村合併 から58戸が移転し、その名も軽井沢地区と呼 によって田代村に入り、昭和30年からは羽後 称し、団地生活を楽しんでいるようである。 町の大字となり現在に至っている。 昔からそこら辺一帯はやはり軽井沢とよんで 8、皆瀬村の軽井沢 いたようで、板井沢から土淵までの道路は、 県内でただ1か所山のつく軽井沢山は、雄 山麓の畑地などを通るのでせまかった。現在 勝郡皆瀬川の上流の諸山の1つの山である。 も、国道から入って軽井沢の団地までは、車 に め 大昔河川のはんらんが大きかったことを物語 ど 現 約 ゜の山 ・川ダの2 っ落呼 ゜で ヽ へ る吋Γ︲る旨 剥児な乍恥と る ぐ ま (軽井沢筆者記入) 1台分位のせまい道路である。 椎察することはむずかしい。しかし、いろい なお、団地の一角に、「軽井沢地区案内板」 ろ文献を調べ、現地を確認し地元の人の話を と「移転記念碑」が設置されている。 聞き、総合的に考えて次のようにまとめてみ V.まとめ た。 1、軽井沢の数 秋田県内の軽井沢は、他の集落とほぼ同様 秋田県内の軽井沢地名は、地形図上では に数百年を経過しているものが多い。そのた 12か所あり、この中には大字(大内町、羽 め、集落の形態は勿論、河川の流れや道路な 後町)が2か所と、1つの山名と2つの河 ども整備され変わってきていると思われる。 川名が含まれる。市町村の数は、北は鹿角 現在の姿から、軽井沢地名発生当時の状況を 市から南は皆瀬村まで、8市町村に及んで いる。 (2)山内村の軽井沢は板井沢の東方向にあり、 2、標高との関係 もともと軽井沢だが新しく集団移転し団地 軽井沢は地名発生の経過から考えて、地形 を作り軽井沢と命名した。戸数60戸で特殊 との関係が深いことは当然である。軽井沢は な例である。 標高100∼300m範囲に含まれる。ただし、皆 (3)秋田市の軽井汎は、太平山の登山道の一つ 瀬村の軽井沢山(944m)や、秋田市の太平山 である。付近には集落はない。 登山道の一つである軽井沢は、400∼500mで 5、田代との位置関係 例外である。秋田県内の軽井沢の集落は標高 田代と軽井沢の二つの地名が相接している 97%を占める100∼300m中に含まれるが、こ ことについて、柳田国男の説をのべたとおり のことは付近に山地があるためである。 である。秋田県内は、北秋田郡十二所町(現 3、峠との関係 大館市)と雄勝郡田代村(現羽後町)が例示 昔の交通于段は、馬が多く使われた。馬の されている。田代の意昧について、「・‥要する 背に荷物をのせて、細く曲がった道を進むと に開けば水田に成るべき田地」のことと考え やがて峠にさしかかる。そのさきは、道はせ られる。また「…而して其田代の接近して存 まくけわしい山路で、荷を下ろして小さく分 する軽井沢が、負搬してまでも道路を求めた けて人の背中で運ぶのが通例である。自然に 入間移動の流れの溝口を意昧する」と両者の 峠のふもとには対向の集落が発生する(22)。こ 関係を説明している(23)。この田代は秋田県内 のような例は4ヵ所ある。 でも、多く見られる地名の一つである。 大館市の軽井沢 今回の軽井沢地名の調査において、田代地 由利郡大内町の軽井沢 名にも留意して軽井沢との位置関係を、一応 由利郡矢島町の軽井沢 次のようにまとめた。 雄勝郡羽後町の軽井沢 (1)田代地名のあるところ 共通点と考えられるのは 1)大館市一軽井沢から束に3つ目の葛原集 (1)山ぞいにそって、細く曲がった道があり、 落の字名に田代がある。さらに東には葛原 そのさきは峠に達する。 開拓集落が続いている。 (2)道と交差しながら小さい川が流れ、回りに 2)大内町―国道105号を芋川すじにドると 田んぽが作られている。大雨がふると川が 中田代地区に出る。軽井沢とは7∼8kmも はんらんし、川と田んぽが被害をうけやす 離れているので、直接には関係がなさそう い。日当たりはよい方ではない。 である。 (3)民家は点在する場合が多く、散村の性格が 3)山内村一横予川の上流にある落合が黒沢 強い。 川と松川の合流点であり、松川の流域に田 4、特異な軽井沢 代がある。この集落は、昭和61年に現在の (1)雄和町の軽井沢は、水のない谷川というこ 軽井沢に移転し、民家はない特異な例であ とだが、現在は秋田空港用地となり、集落 る。 は移転した。 4)羽後町一軽件沢の南束方向5−6km、旧 田代村が大字として残っている。軽井沢か と関係ありそうな地名は見当たらない。 ら梨ノ木峠をこえると間もなくのところだ 6、軽井沢のよび名 が、畑中、畑、畑沢など畑のつく集落が多 軽井沢を地元の人がどうよぶか、カルジャ、 い。また、北方向の石沢川の下流にも、約 カンジャなどと発音する。しかし、実さいに 5∼6kmのところに旧田代村が残ってい は、カルジャとかカルザとの区別の判断はむ る。畑中、石高、住吉などの集落がみえる。 ずかしい。秋田県内では、沢のことをジヤと 5)皆瀬村一皆瀬川の上流に田代沢が、さら 発音する。男鹿市脇本に樽沢という集落があ に上流には田代沼がある。付近には集落や るが、これをタンジャと呼んでいる。 田畑などはない。田代と軽井沢はいかなる 鹿角市−カルイザワとよんでいる。 理由で結び付くかは今後の課題である。 大館市−昔の人はカリジャとよんでいる (2)田代地名のないところ が、今はカルイザワと発音する。 1)鹿角市一付近には田代地名がない。ただ 秋田巾−カルイザワとよんでいる。 し、尾去沢マインランドをすぎて、大館市 雄和町一カネザとよんでいる。 の十二所へ通ずる県道十二所、花輪線の三 大内町−カリザとよんでいる。 ツ矢沢地区に、下新田、中新田、上新田の 矢島町−カリザとよんでいる。 三つの新田がある。これらの新田は尾去沢 羽後町一昔の人は、カリ、ザとよんだが、今 鉱山の開発とも関係がありそうである。 はカルイザワという。 2)秋田市一太平山登山道の一つで、付近に 山内村一カルイザワとよんでいる。 は田代の地名はない。 皆瀬村一カルイザワとよんでいる。 3)雄和町一付近には田代地名はない。現在 これらの発音から、刈沢、蟹沢、寒沢、殼 は秋田空港滑走路用地に編入されている。 沢なども関係がありそうである。今後、これ 4)矢島町−とくに、付近には田代又は田代 らの点も解明しなければならないと思う。