Comments
Description
Transcript
婦人会の終幕を見届けて
婦人会の終幕を見届けて 小村 トヨさん(大正10年生まれ 注 1 長岡市神田3丁目在住) 私は、北蒲原郡豊浦村(現:新発田市)の庄屋 いられているのに、ある所にはあるものだと唖然 の長女として生まれた。7人きょうだいの6番目 としたが、 「この事は口外するな」と口止めされた であった。七福神の弁天様のようだと云われた。 記憶がある。その倉庫で私たちは革靴磨きをした。 父は軍人で新発田連隊に勤務。酒が大好きで、 役所に出生届けを出すときも酔っていて「登世 長い靴、短い靴いろいろあった。革だからカビが 生えるので、それを落とす作業だった。 子」と書くはずだったのに『トヨ』と書いて来た。 後に、婚家の義母に「姓名判断は漢字よりカタ 昭和16年12月8日の太平洋戦争開戦から、 カナの方が良かった。小村トヨは良い名だ」と喜 男子が戦争に行って手薄になった農家へ女子青年 ばれた。 団として様々な手伝いをしに行った。 昭和17、8年には、役場からの依頼で春、秋 私が4歳の時に父は亡くなった。当時は不況や の忙しいとき季節保育所を開いた。資格はなかっ 動乱で大変な時代だった。地主の子というだけで たが、県の研修会で子どものなだめ方、扱い方な 石を投げられたり恐ろしい目にも遭った。村の中 どを習った後、私が中心となって知人や友人に手 でも小さい子どもたちはそれほどでもなかった 伝ってもらい、お寺の本堂を借りて子ども達の世 が、少し大きい子どもや大人には身分格差の意識 話をした。お手当てはなかった。3歳位から小学 があった。 校に上がる前の子が弁当を背負ってやって来た。 小学校卒業後は新発田高等女学校に入学した。 小学校の同級生で女の子は2人だけで、その他 一緒に折り紙やおやつを作ったり、役場に掛け合 い寺の境内にブランコも作ってもらった。 2、3人は裁縫や手芸などの実業学校へいった その後、隣村の学校の先生だった人に季節保育 が、農家の子どもは仲買人に勧誘されて長野の製 所の仕事を引き継いだ。それからは、隣組の農家 糸工場へいったものもいた。 の人達に昼、夕食のご飯と汁と一品をつくり提供 17歳で専攻科(1年)を卒業した頃、日本は 日中戦争・太平洋戦争へと突き進んでいた。 注 2 注 3 当時、国防婦人会・愛国婦人会に母が関わって 注 4 した。戦時下の国の方針で、農村が増産に邁進す るため役場を通して通知があったからである。 私の青春時代は、思想も行動も押さえられた生 いたので卒業後はそれを手伝っていた。婦人会は 活で窮屈ではあったが反面、今の自由過ぎる時代 精神修養と、心を一つにして銃後を守ることを目 が幸せなのだろうかと疑問に思う。 的に組織され、万一の場合には敵を殺せと竹槍突 きの訓練もした。 昭和19年11月、長岡に嫁いだ。夫29歳、 注 5 職を持たない女性たちは女子 青年団に必ず入 注 6 私は24歳だった。当時の結婚にしては遅い方だ れられた。ここでも在郷軍人の指導者から訓練を った。それは4人の兄が戦争に行って、 「もし誰も 受けたり、県内の女子青年団の代表者が新潟へ集 帰ってこなかったらどうする。しばらく待機した められ研修会も行われた。研修内容の一つとして 方がいい」と、まわりの人に言われた母が私を嫁 注7まんもう 当時は新潟港から 満 蒙 開拓に出かける人が沢 に出さなかったからである。幸いなことに、戦争 山いたので、その人たちに持たせる物資の整理も が終わって兄たちはみんな無事に帰ってきた。 あった。港の倉庫に山積みにされた量の多さに驚 いたものだ。庶民は物がなくて不自由な生活を強 母の実家が長岡の中沢で、母方の祖母の「嫁に いがっしゃい」という一言で、母のいとこの長男 に嫁ぐことになった。小村の家は古い家で、薬の のだ。翌日、大工さんが来るまでそのままで寒 卸や小売をしていた。夫は足を痛め、歩くのに少し い夜を過ごした。 「盗った人は、どうしても欲し 支障があったので戦争には行かず、薬剤師として地 かったのだろう。盗むより盗まれる方がましか 域を守る役目をしていた。 も知れない」と、夫と話し合った。 昭和28年頃ようやく物資が出回りはじめ、 昭和20年8月 1 日の長岡空襲のとき私は、9月 世の中も明るくなって商売も会社組織にするこ の出産に備えて実家の新発田にいた。あの日、東の とができた。私たち夫婦は女の子3人に恵まれ 空が真っ赤になった。長岡が燃えている、大変だと たが、 「商人は男より、女の方がいい。良い婿を は思ったが工場地帯だけかと思っていた。その後の もらえばよい」と家族は喜んだ。 ラジオで街中に油を撒かれたと知った。 空襲から2日後、夫はどうやってきたのか、新発 昭和42年春 表町の紺喜さんのおばあさん 田まで様子を見に来てくれた。夫の服はあちこち破 がやってきて、 「町内に婦人会を作りなさい」と れていた。 言った。私は専業主婦として夫の後ろで働いて 長岡の現在の神田大通りは当時、小さなバスがや いたが「これからは夫の尻にくっついていない っとすれ違う位の狭い道であった。夫の話では、道 で動かなければだめ」といわれ神田 1 丁目・中 路の向こう側の家が焼けた火が広がり我が家に入 町30軒の主婦たちで婦人会を立ち上げた。 ってきた。薬屋をしていたので貴重な配給品である 市内の各町内にも組織ができ、やがて全国組 赤ちゃん用粉ミルクの缶を守るために防水桶に投 織の婦人連盟の一員としての活動が始まったの げ込んでから、薄い布団を桶の水で濡らし、それを である。各町内のこまごまとしたことの処理や かぶって川崎へ逃げたとのことであった。 まとめ役をしたり、老人施設・子ども施設の訪 神田は焼けたが家族は無事逃げた。焼け残った3 つの倉もその後、火が出て焼けてしまった。 残ったのは小さな茶箪笥とケヤキのお盆だけ。こ のお盆は毎日磨いて今も使っている唯一の忘れら れない品である。 問・清掃・おむつの寄付などの活動や研修を行 った。そしてその事例を県組織の研修会で発表 した。 注 8 長岡市 の婦人会は昭和30年代は活気もあ り、昭和38年7月には城内町に自前の「中越 8月27日に長女が産まれた。この知らせをする 婦人会館」が出来た。最盛期50年代には 42,000 と、小村の家は2代続けて子どもが授からなかった 人の利用者があったり宮島イネさんが婦人会を ので義父は60年目にして子どもの声がすると大 バックに市会議員に当選するなど、婦人会は活 喜びだったという。 発に活動をした。長岡駅建設の時には、エスカ 実家にいても食糧難で、庄屋ではあったが母と二 レーターの設置を求め、赤ちゃんのおむつ換え、 人、さつまいもの蔓など食べられるものは何でも食 授乳の場が必要と要望もした。あの頃が一番輝 べた。 いていたと思う。 それから30年。当時、私は長岡地区婦人会 昭和21年、長岡に戻ってきた。その頃は電気も 長を引き受けていたが、そろそろ婦人会活動も 水道も復旧していた。夫と幼なじみだった稽古町の かげりを見せ始めていた。世間に女性センター 島倉味噌醤油屋の貸家の離れに、親子 3 人で住むこ 論が浮上し、公民館などの学習サークルが盛ん とになった。3家族の同居者があった。 になってきていた。また、農協婦人部ができて 昭和23年の秋、現在の所に家を建てた。一日も 婦人会と会員が重複したり、職業をもつ女性の 早く新しい家へ移りたくて、6畳一間とトイレ、台 数も多くなってきた。その上、会館の建物も昭 所がとりあえずできた段階で引っ越した。建築中の 和39年の新潟地震で被害を受け、その後も ため店の入り口の戸が間に合わず、大工さんが帰る 度々の修復を繰り返した。私の会長時代に北側 時に板を縛りつけてくれた。そんなある日、夜中に の外壁の補修に 1,030 万円をかけ、その代金を ガタガタと音がした。立てかけていた板が盗まれた 現金で支払いに行った思い出がある。こうして 30年間の活動に耐えた建物だが、バブルが崩壊す 88歳の今、振り返ると新婚時代が一番良かっ る頃には傷みが激しくなって、われわれの力では修 た。あのころ昭和19年は先が見えない苦しい時代 復は不可能となった。平成9年3月末日を以って中 だったが夫と一緒に輝いていこうと希望が持てた 越婦人会館は閉鎖、売却。婦人会長岡支部も姿を消 ときだった。 した。 注 9 義母は昭和31年に癌で他界した。亡くなる1週 私は、昭和59年からの新長岡発展計画検討委員 として、前期・後期とも関わった。さらに、母子保 間前、義母は私の手を握って「本当の親子だったね」 健推進員や市の民生委員・児童委員などのお役目も と言った。私は自分の出来ることしかしてあげられ 務めた。民生委員を77歳までの25年間務めて、 なかったのに・・・ 社会福祉協議会や厚生省などからいろいろな賞状 や記念品をいただいた。 私も最期が来たら三人の子ども達に「いい子ども たちだった」と言いたい。 夫は、昭和43年9月、たった10日ばかり寝た だけで亡くなった。「一人で薬を売っていくだけで は世の中に立ち向かって行けない」と新潟・高田の 同業者と合同で三栄株式会社を立ち上げた矢先の 聞き書き 大野一伊 平石 京 死だった。 取材日 平成20年9月 注 1 庄屋=江戸時代 領主が村の名望家のなかから一村又は数村の納税・その他統括させた村落の長。 注 2 国防婦人会=正式には大日本国防婦人会で昭和 7 年発会。愛国婦人会と並んで婦人の戦争協力機関と して活動。敗戦によって解散。 注 3 愛国婦人会=明治 34 年北清事変に際し創設した婦人団体。戦死者の遺族や傷痍軍人の救護その他一般 社会事業に貢献を目的とする昭和 17 年大日本婦人会に統合第2次大戦後解散。 注 4 婦人会=各地区の婦人会の育成促進、婦人の修養・研究・娯楽・向上・社会的奉仕を目的として組織 する団体。 注 5 女子青年団=義務教育終了後の女子青年を会員として組織し、修養・親睦・奉仕などを目的とした団 体。元は処女会。第2次大戦後解散。 注 6 在郷軍人=平時は民間にあって生業についているが、戦時、事変に際し必要に応じて召集され国防に 任する予備兵・後備兵・帰休兵・退役の軍人 注 7 満蒙開拓=満州農業移民政策により昭和 13 年より農業移民や青少年義勇軍が開拓移民団として新潟 港より送り出した。 注 8 長岡市の婦人会=昭和 22 年 長岡市連合婦人会発足 昭和 24 年 長岡市婦人連盟結成 昭和 30 年 長岡市婦人団体協議会(市町村合併により)中越婦人会館の建設構想。 昭和 35 年 着工 昭和 38 年7月7日完成 県内3番目となる。 昭和 39 年 新潟地震で被害・昭和 40 年 4 階建て増し。 昭和 50 年代 42,000 人利用 平成 9 年 3 月末中越婦人会館閉館 注 9 新長岡発展計画=昭和 59 年 9 月各界各層の市民から選ばれた委員 147 人の検討委員会発足。 昭和 65 年度まで前期計画・70 年度まで後期計画。