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2013年7月11日

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2013年7月11日
金起泰牧師
金起泰牧師
説教の記録シリーズ
祈祷会 一二
祈祷会 一二
二〇一二年七月一一日~八月二九日 朝の祈祷会
説教の記録シリーズ
改革主義教会と牧会
犬山教会
はじめに
改革派教会と長老教会は「兄弟教会」である。ヨーロッパの大陸にある改革派教会とは違って長
老教会はヨーロッパの大陸を離れてスコットランドに定着した改革派教会をいう。特に、監督によ
る教会政治を反対し、長老による政治を強調する意味で長老教会と名付けるようになった。両教会
は同じ神学と教理を持っている。そういうことで、両教会は聖礼典に関する教理や礼拝式において
聖書的教えに単純に従っている。この研究を「改革主義教会」と名付けた理由がここにある。
わたしは長老教会で育ち、その後長老教会の牧師になったが、現在働いているところは改革派教
会である。このような状況はしばらく続くだろうと感じがする。これまで長老教会の神学と教理に
慣れていた者だが、改革派教会で牧会ができるのは全然おかしいことではない。なぜなら、両教会
の 神学 と 教 理 が 一 緒 だ から で あ る 。 こ う い う こ と で わ た し は 神 様 に 感 謝 す る し か な い 存 在 で あ る 。
ところが、同じ神学と教理を持っているといって、同じ生き方をするとは言えないだろう。わた
しは小さい頃から「正しい神学」と「正しい教理」は必ず「正しい生活」を生み出すということを
教えられてきた。ここには、正しい神学と教理なしには正しい生活ができないという教えが込めら
れている。正しい生活(あるいは善き生活)のカギは正しい神学と教理にあるのだ。それゆえ、カ
ルヴァンは「義とされるのは信仰のみである。しかし、義とされる信仰は一人ではない」というの
1
「改革主義教会と牧会Ⅰ」(1)
祈祷会一二
金起泰牧師 説教の記録シリーズ
だ(参照、ガラテヤ五章六節、ヤコブ二章二六節)。すなわち、キリストによって義とされた人は
必ず御霊によって聖化されるという教えである。
実際、改革派教会(日本キリスト改革派教会)での働きを考える時、わたしは神様に感謝をささ
げるしかない。そのことは自分がこの道を選んだということより神様のお導きであると確信するか
らだ。ところが、そのような強い確信を持っていながらも、わたしに隠すことのできない一つのこ
とがある、それこそ「善き生活」に関することである。改革派教会の決定的な弱さは「善き生活」
に結びついているのではないかという痛みを深く感じている。信徒一人ひとりがまことの神様と歩
むことができるなら、改革派教会はもちろんのこと、他のプロテスタント教会にも良い影響を及ぼ
すことができるのではないかという期待感を抱くようになる。そのような理由で、この研究の題の
中に「牧会」という言葉を言い表したのだ。わたしは神様が自分をこの改革派教会で働かせる理由
が あ る の で は な い かと 思 っ て い る 。 そ れ は 「 牧 会 」 と い う 言 葉 で 十 分 に 説 明 で き る か も し れ な い 。
兄弟教会である改革派教会の信徒一人ひとりに愛を示しながら、牧会することである。この牧会の
中核は「改革主義神学(以下では改革派神学という)と教理」だけでなく「善き生活」まで励んで
いくことである。
「カルヴァンの生涯と神学」という書物の中でスペイクル(
)
【註一】は、カルヴァンの
Spijker
神学の概要を三つの主題、つまり聖書、恵み、教会をとり上げている【註二】
。それから、彼は「こ
の三つは皆個別的にカルヴァンの神学の特徴であるが、特にこれらの相互連関性の中その特徴が現
れる」と付け加えている。彼の強調点は改革派神学と教理が善き生活として現れるべきだというこ
とである。また、「キリスト教綱要の研究ハンドブック」でホールトロプ( Holtrop
)【註三】も終
始一貫カルヴァンが強調していた「敬虔」を思い起こしている。実際、改革派神学において大切な
役割を果たしている「キリスト教綱要」は信徒の実践的な敬虔と霊性の強化に力を注いでいる。
改革派教会の本当の姿がここにある。人間の創造の目的はただ一つ、つまり神様に栄光をあらわ
すことにある。私たちは神様の摂理を信じている。神様は今もなお全宇宙と世界とを統べ治めてお
られる。それゆえ、カイパー( Kuyper
)【註四】は「宇宙のただ一二乗センチメートルもイエス・
キリストに属していないところはない」というのだ。これと同じように、人がキリストの統治の下
で生活するのが一番自然的な姿である。すなわち、人の生き方は三位一体の「神中心」でなければ
ならないのだ。神様から離れる瞬間、私たちは神様に栄光をあらわすことができなくなる。そうい
うことで、改革派神学と教理は常に三位一体の神様を強調するのだ。
それにもかかわらず、少なくない人は改革派教会の信徒を生真面目で、いつも受動的な生き方し
か取れないという名目で猛烈に非難している。実際、しきりに「改革派信仰者」という言葉は偏狭
な考え方、独善的な態度、非友好的な立場を堅持する人として見なされている。ある人は「カルヴ
ァン主義に執着することほど教会の生気を弱め、若者をして教会を離れさせるのがないだろう。カ
ルヴァン主義に対する愛情ほど自負心を助長し、無関心を促進させるのがないだろう。カルヴァン
主義に対する愛着ほど聖と霊性を阻害する要因がないだろう。カルヴァン主義的教理は祈り、信仰、
熱情、清さを弱めたり、破壊することができる」と主張する。
しかし、このような見解は決して認められない。なぜなら、カルヴァン主義は最も聖書的で、人
のあらゆる生き方に決定的な影響を及ぼすからである。改革派信仰は神様の絶対的な主権と恵みを
強調するので、高慢で受動的な生き方とはそぐわない。改革派信徒は神様の恵みに気づいているの
で、あらゆる生き方の領域において積極的に神様に栄光をあらわそうとするのだ。聖霊のお働きに
よって神様の恵みをとおして日に日に正しくて有益な信仰の特性を養われるので、改革派信徒はキ
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リスト中心の人格を持つようになるのだ。それゆえ、まことの改革派信徒は謙遜で聖なる生き方を
するように導かれる。同時に、礼拝、祈り、讃美、交わり、伝道においても積極的な姿勢を持つこ
とができる。神様の恵みに気付いた人において現れる二つの特徴がある、それはイエス様が教えて
くださった八つの幸い(マタイ五章三~一二節)と聖霊の実(ガラテヤ五章二二~二三節)に心を
置くことである。それゆえ、ライケン( Ryken
)【註五】とスモールマン( Smallman
)【註六】は
「 ま こ と の カ ル ヴ ァ ン 主 義 者 は 偏狭で 不 親 切な 態 度 で は な く 神 様 の 恵 み か ら 始 ま る 寛 容 の 姿 勢 を
堅持する最も素晴らしい信徒になるべきだ」という。
一方、神様の恵みが全世界に及ぶというのは、改革派数会の世界観を見せてくれる【註七】。改
革派神学は神様が万物の中心であられると強調する。私たちの信仰は包括的世界観に結び付いてい
る。それゆえ、カイパーは「万物の主権者なるキリストが私たち人間のあらゆる領域の中、わたし
のものである、と語っていないところはたった一指尺もない」という。それにもかかわらず、ある
人 は カ ル ヴ ァ ン 主 義 が 広 す ぎ て す べ て 理 解で き な い し 、 包 容 で き な い と 少 し 嘲 っ て い る 。 し か し 、
私たちは神様の統治と恵みが自然の世界だけでなく超自然の世界まで及ぶことを信じている。
こ の よ う な 改 革 派 神学 が ヨ ー ロ ッ パ と ア メリ カ を は じ め 全 世 界 に 良 い 影 響 を 及 ぼ し た のは 当 た
り前かもしれない。フランス、スイス、オランダ、ドイツと東ヨーロッパの国々、スコットランド、
イギリスとアイルランド、アメリカとカナダにカルヴァン主義が拡張され、今は全世界に広げられ
ている。実際、カルヴァン主義は一つの国の政治、経済、社会、文化などあらゆる領域に決定的な
影響を及ぼしてきた。目本においてもそのような社会、国を期待するのだ。
最後に、改革派教会の遺産について強調したい。改革派神学と教理はひどい苦難と苦痛を通して
こんにちの私たちに伝わって来た。私たちはカルヴァンをはじめカルヴァン主義者たちの犠牲と献
身を忘れてはならない。彼らの関心は一つだけ、それは三位一体【註六】神様のみだった。彼らの
信仰生活の焦点は唯一の主におかれていたのだ。彼らはモーセの教え、つまり「聞け、イスラエル
よ。我らの神、主は唯一の主である。」
(申命記六章四節)という御言葉どおりにただ神様のみに栄
光を帰そうとした。改革派教会の遺産は決して小さなものではない。私たちも感謝してその遺産ど
おりに唯 一の神様の み に栄光を あ らわ した い。
sola
)
Scriptura
Ⅰ.五つのソーラ【註八】( Five So1as
)
「私たちは今新しい時代の夜明けに立っている」というマルティン・ルターの言葉は意味深長な
発言と言わざるを得ない。一六世紀最初のヨーロッパは最小限名目だけといってもローマカトリッ
ク 教 会 に よ っ て 統 一 を 維 持 し て い た。 し か し 、 ロ ー マ カ ト リ ッ ク 教 会 は す で に 腐 敗 し て し ま っ て 、
多くの人は新しい変化を求めていた【註九】。ついに、宗教改革の時代が開くようになった。宗教
改革の中核は「五つのソーラ」に要約できる。この五つのソーラは宗教改革期間に表れた五つのラ
テン語の標語であり、ローマカトリック教会の教えとは対照になる改革主義者の基本的な信仰をあ
らわす。それゆえ、ジョン・ハンナ( John D.Hannah
)は「宗教改革とは更新と改革を通して中
世期の信仰の堕落から離れようとしたまことのキリスト教に対する要請だった。宗教改革の教訓は
その当時、ソーラ( so1a,
のみ)と いう単語の五重的繰 り 返しによって 逆巻く(我が時代 に も求め
られるべき)急進的メッセージだった。なぜなら、宗教改革は全的に神中心の信仰と生き方に対す
る献身を要請したからである」というのだ。
一.聖書 の み (
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当時の権威は三つに分けられる。すなわち、中世教会の伝統とローマカトリック教会の会議と教
皇であった。ところが、宗教改革者たちは当時の権威に立ち向かって「聖書」をキリスト者の唯一
の最終的権威として認めようとした。宗教改革者たちは「聖書のみ」を教会のまことの権威として
確立しようとした。このことは聖書が聖なる伝承によってのみ権威的に解釈できるという東方正教
会、オリエンタル正教会、コプト教会、アングロ・カトリック、ローマカトリック教会の伝統( Prima
) と は 反 対 さ れ る 。 ソ ー ラ ・ ス クリ プト ゥ ー ラ は 教 会 の 伝 統 を 無 視 す る ので は な い 。 た
Scriptura
だ 教 会 の 伝 統 も 聖 書 の 権 威 の 下 に あ り 、 聖 書 的 根 拠 の な い伝 統 は 認 め ら れ な い と い う 意 味 で あ る 。
カルヴァンがキリスト教綱要【註一〇】で聖書の必要性と信憑性をそれほど強調する理由がここ
にある。彼は聖書という限鏡をかける時、信仰によって聖書の権威を認める時、神様を創造主だけ
でなく救い主として知るようになるという。キリストは神様がご自身を啓示される唯一の仲保者で
いらっしゃる。そのような理由で、あらゆる聖書研究の最終の目的はキリストでなければならない。
それゆえ、カルヴァンはあらゆる真理の源、つまり「聖書からキリストを語りなさい」
( Christum
)というのだ。同時に、彼は「聖書の学生」になるというのは結局イエス・
ex fontibus praedicare
キリストの弟子になるのだと強調する。
実際、人は聖書なしにはまことの神様を知ることができない。なぜなら、あらゆる人が罪を犯し
たからだ(ローマ三章一〇、二三節)。そのような理由で、聖書を離れた人間は他の神を見いだす
よ う に なっ て い る 。 人 間 が 神 様を 知 る こ と が で き る 唯 一 の 場 所 は 「 聖 書 の み 」 で あ る 。 そ れ ゆ え 、
モーセは「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。」
(申命記六章四節)というのだ。
聖書は唯一のまことの神様を三位一体として教えてくれる。
ヘルマン・バビンクは「一般啓示であれ、特別啓示であれ、啓示に対する私たちの知識は聖書か
ら来る」【註一一】という理由がここにある。聖書は神様の啓示の成就である。そういうことで、
イエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するた
めではなく、完成するためである。」
(マタイ五章一七節)と語られたのだ。また、神様の啓示は御
霊の具体的な活動【註一二】によって記される。それで、パウロは「聖書はすべて神の霊の導きの
下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」
(Ⅱテモテ三章
一六節)というのだ。このように聖書の権威は人からではなく神様から来る。そういうことで、コ
ル ネ リ ア ス ・ ヴ ァ ン ・ テ ィ ル は 特 に 聖 書 の 四 つ の 属 性 、 つ ま り 必 要 性 ( Necessity
)、 権 威 性
)
、明瞭性( Perspicuity
)
、充足性( Sufficiency
)を強調する【註一三】。
( Authority
問題は聖書の権威に対する現代の対立にある。こんにち、多くの人は聖書の権威を認めようとし
ない。彼らは宗教的権威を絶対的なこととして見なしてはいけないと言いながら、巧妙に聖書の権
威を拒もうとする。しかし、私たちはこういう現代人の態度について全然おかしく思えない。なぜ
なら、こういう問題が全く目新しいことではないからである。聖書の権威に対して反発する人は昔
からずっと表れてきた。アウグスティヌスやヒエロニムスなどの教父と様々な宗教会議が開かれた
のは聖書の権威につながっている。
聖書の絶対的な権威は聖書の無謬性と切っても切れない関係にある。聖書は歴史的な事実を背景
とする【註一四】。もし歴史的な事実において聖書に誤謬があるとするなら、キリスト教の存立は
不可能になる。特に、一九世紀になって「新約聖書がイエス様の歴史にまことの証拠となるか」と
いう問題が提起され始めた。その問題は啓蒙主義の中心地であったドイツから起こった。その時か
ら、いわば「歴史的イエスの探求【註一五】」が発達するようになった。彼らは少なくとも二つの
前提を持っていた。その一つは聖書の正確性と無謬性に反対する考え方であり、もう一つは聖書の
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描いているイエスの姿をそのまま信じようとしないということである。ドイツから始まった聖書に
対する批評は、全ヨーロッパはもちろんのこと、北アメリカに致命的な悪影響を及ぼしてきた。そ
の よ う な 悪 影 響 に よ って こ ん に ち の ヨ ー ロ ッパ と 北 ア メリ カ の 教 会 が深 刻 に 落 ち 込 ん で い る の か
もしれない。さらに、そういう荒々しい波が全世界を呑み込もうとするのだ。
しかし、聖書の信憑性に対する自由主義者らのしつこい攻撃があるにもかかわらず、聖書はいま
だに少しも揺れることがない。イエス様の御言葉【註一六】のように誰も聖書をなくすことができ
ない。一九七四年、「タイム」誌にはこう書いてある。「このあらゆる聖書の研究の広さ、複雑さ、
多様性は実際に印象的だ。…二〇〇年以上科学の銃口の下で、ものすごく集中砲火を受けたにもか
かわらず聖書は生き残り、彼らの砲火攻撃に立ち向かってより有利な立場になった」と。また、こ
んにちの考古学者たちは様々な遺物を見つけて聖書の歴史性を裏付けている。さらに、神様は聖書
の無謬性を信じる私たちを残してくださった。私たちは聖書の無謬性の教理を聖書の権威において
本質的要素であり、神様の教会の健康において必須的要素として信じている。
ヘブライ書の著者のように私たちは神様の御言葉の人格性と力を信じる。つまり、
「というのは、
神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな雨刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り
離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。
」
(ヘブライ四章一二節)
という御言葉である。詩編の作者が「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす
灯。」(詩編一一九編一〇五節)と語ったのもこのような理由があるからである。
聖書は絶対的で無謬な神様の御言葉として私たちの信仰と生き方において唯一の規範である。そ
れで、ウェストミンスター信仰告白でも「これらはみな(聖書の六六巻)、神の霊感によって与え
られており、信仰と生活の規準である」【註一七】という。このことは神様の御言葉の十分性を意
味する【註一八】。ジェームズ・モンゴメリーは特に三つの聖書の箇所を持って聖書の十分性を説
明する【註一九】。聖書は霊的な糧として、キリスト者の敬虔の生活において決定的な影響を及ぼ
す 。 私 たち の 家 庭 生 活 、 学 校 生 活 、 社 会 生 活 に お い て 唯 一の 里 程 標 は 聖 書 の み で あ る 。 そ れ ゆ え 、
ヘルマン・バビンクは「神様が人の心に王になられたなら、人の頭と手でも、家と事務室と野原で
も、国家と社会でも、芸術と科学でも王になられたのだ」【註二〇】という。このような脈絡でカ
イパーは「生き方の体系としてカルヴィニズム」を講演したのだ【註二一】。このようにキリスト
者は聖書を通して正しい世界観を持つようになる。
聖書のみの信仰を持っているキリスト者の特徴の一つは福音宣教【註二二】に取り組むというこ
とである。聖書は福音宣教の唯一の道具である(参照、Ⅰペトロ一章二三節)。それゆえ、パウロ
は「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこ
で神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
」
(Ⅰコリン
ト一章二一節)というのだ。復活なさったイエス様の至上命令【註二三】は福音宣教である。健全
な教会は「集まる教会」と「散らばる教会」として役割をよく果たす。信徒は教会に集まって神様
に礼拝をささげ、主において交わりを持つ。それから、信徒は福音宣教のために世へ派遣される。
それで、パウロは「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことの
ない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。
遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美
しいことか』と書いてあるとおりです。」(ローマ一〇章一四、一五節)と励ましているのだ。
また、聖書は私たちの社会改革に十分である。私たちは「地の塩」として社会の腐敗を防止する
人であり、また「世の光」として暗い社会を明るくする人である。それゆえ、イエス様は山上の説
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)
so1us Christus
教で「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行い
を見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
」
(マタイ五章一六節)と語られる
のだ。神様の御言葉に支配される時に町や社会はまことの意味として改革されるのだ。
一五三五年まで、ジュネーブは暴動と賭博、みだらな踊りと酒乱、姦淫と悪徳などによって悪名
が高かった。しかし、一五四一年九月に再びジュネーブに帰って来たカルヴァンはほぼ毎日聖書に
基づいて説教し、その説教の力の下でその都市は変わり始めた。その後、ジュネーブは地球上で最
も素晴らしいところの一つになった。それで、ジェームズ・モンゴメリーは「ジュネーブは全ヨー
ロッパに福音が流れ込ませる新しいエルサレムになった」【註二四】と記すのだ。
同じように、御霊は聖書を通して私たちを聖化させられる。キリストによって義とされた人は御
霊によって聖化される。その時、御霊は聖書を用いられる。御霊は聖書を通して私たちをキリスト
の満ち溢れる豊かさになるまで成長させられる(参照、エフェソ四章一三節)。それゆえ、ヘブラ
イ書の著者は「乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食
物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。」
(ヘブラ
イ五章一三、一四節)というのだ。信徒の未熟と成熟のカギは神様の御言葉による。教会の不健全
さと健全さは聖書によって分かれる。成熟な信徒と健全な教会が「聖書のみ」を強調する理由がこ
こにある。日本キリスト改革派教会が日本の教会に良い影響力及ぼす道は一つしかない、それは「御
言葉」と「御霊」による聖化にある。
二.キリストのみ(
「聖書のみ」は「キリストのみ」につながる。聖書のみが私たちの信仰と生活の唯一の標準であ
る と い う 確信 の 中 に は キ リ ス ト の み が 私 た ち の 信 仰 と 生 活 の 唯 一 の 目 標で あ ると い う 意 味 が 込 め
られている【註二五】。それゆえ、ルターは「キリストを聖書から除いて見ろ。そうすれば聖書か
ら何をもっと見いだすことができよう」と言ったのだ。カルヴァンが「キリスト教綱要」全体を通
して(特に一五五九年版)「キリストにあって」( In Christo
) と い う 言 葉 を 強 調 す る 理 由 がこ こ
にある。
当時、ローマカトリック教会の司祭主義は、聖礼典を執行する聖職者が神様のお赦しと救いの恵
みを伝達する仲保的役割を果たすことができると思っていた。同時に、彼らは善行による救いの教
理と功労主義の教理が免罪符の教理につながり、ついにはマリアをイエス・キリストと共に事実上、
)と共同仲保者( co-mediatrix
)として高めるようになった。こ
人類の共同贖い主( co-redemptrix
のような体系なので、ローマカトリック教会は、キリストの代理者になったのだ。それゆえ、ウォ
ーフィールドは「人は教会に自分の救いを期待すべきである。すなわち、救いは教会によって、ま
た教会の規例から人間に伝わる。一言で、救いの直接的な根拠をキリストや神様の恵みに帰するの
ではなく、教会に帰するのである」【註二六】と指摘するのだ。
こんにちも「宗教的多元主義」
【註二七】と「ポストモダニズム」
【註二八】の影響によって、数
会も深刻な挑戦を受けている。彼らは「私たちが皆お互いに違うことを認め、お互いに受け入れる
べきだ」という言葉をよく使う。彼らはキリスト教だけが救いの唯一の道ではなく、他の宗教にも
救いの道があると主張する。つまり、彼らはイエス・キリストなしにも救いが可能だという。この
ように、我が時代は「自力救い」の声がだんだんと高まっている。このような時代に、私たちはウ
ォーフィールドの言葉に耳を傾ける必要がある。彼は「根本的に救いの教理にはただ二つだけが存
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在する。その一つは、救いが神様からよるという教理であり、もう一つは、救いが私たち自身から
よるという主張である。前者はキリスト教の共通の教理であり、後者は普遍的異邦の宗教の教理で
ある」【註二九】と。
改 革 者 た ち が 「 キ リ ス ト の み 」 を 強 調 し た 理 由 が こ こ に あ る 。 堕 落 し た 人 間 が 義 と され る の は 、
ただキリストのみによるものだ【註三〇】。実際、キリストのお働きに他のものを付け加えようと
するのは、他の福音になってしまうのだ(参照、ガラテヤ一章六~九節)。それゆえ、ジェームズ・
モンゴメリーは、「キリストのみを語るのは、その方をキリスト者の唯一で十分な預言者、祭司、
王としていうのだ。私たちには神様の御言葉や御心を啓示してくれる他の預言者が要らない。神様
の救いと祝福を執り成してくれる他の祭司もいらない。信徒の思いと生き方を支配する他の王もい
らない。福音に会ってイエス様のみが私たちにあらゆるものであり、私たちに必要なすべてである」
【註三一】と述べて い る。
カルヴァンがキリスト教を他の宗教と区別するのは、仲保者の必要性にあるという理由がここに
ある(参照、キリスト教綱要Ⅱ・一二章一節)。堕落した人間は自ら決して神様に行くことができ
ない。罪ある人間は神様の呪いの対象となり、決して自分の力によっては神様に進み出ることがで
きない。そのような理由で、カルヴィニズムの五特質の一つである「全的堕落」では、「人間は堕
落のために自らの力によっては福音を信じることができない」と語る。それゆえ、カルヴァンはキ
リスト教綱要Ⅱで、徹底した罪人である人間、旧約と新約のキリスト、仲保者、救い主キリストと
いう手順として「イエス・キリストにある贖い主なる神様」について語るのだ。
キリストのみが、救いのための神様と人間との間、唯一の仲保者となられる【註三二】。ここに
は少なくとも二つの大切なキリスト教の教理がある。一つは、キリストの二性の教理である。すな
わち、イエス・キリストは「同じかたが真の神であり、同時に理性的霊魂と肉体とからなる真の人
間である。」
【註三三】という意味である。カルヴァンは「仲保者はまことの神であると共にまこと
の人であることを要する」
(キリスト教綱要Ⅱ・一二章一節)といってから、
「神の子が人の子なる
のでなければわれわれは神の子となることはできない」(キリスト教綱要Ⅱ・一二章二節)と強調
する。罪ある人間の状態は、絶望的であった。人間は命を失い、神様に愛されることもできない状
態であった。いや、人間の上には常に神様の呪いと裁きがあるだけであった。罪に陥った人間に残
ったのは、永遠の死だけであった。そういう理由で、キリストは贖い主になるために、人間になる
べきであった。パーカーは「キリストは神様でいらっしゃるので死なれることができない。だから、
死なれるために必ず人間になるべきだった。その方は人間でいらっしゃったので、死を乗り越えら
れなかった。だから、神様でいらっしゃるべきだった。
」
【註三四】という。人が救われるためには、
仲保者が絶対に必要だし、その仲保者は神様のお独り子になるべきだという意味である。
もう一つの大切なキリスト教の教理は、キリストの十字架である。もうすまでもなく、十字架は
キリスト教の中核な教理である。キリストの十字架なしには、もはやキリスト教ではない【註三五】
。
実 際 、 イ エ ス 様 は ご 自 身 の 十 字 架 の 意 味 を 創 世 記 か ら マラ キ に 至 る 旧 約 聖 書 全 体 か ら 教 え ら れ る
【註三六】
。
十字架は人間の罪の深刻性に気づかせる。自分の罪の重さに気づいていない人は、決して十字架
の恵みの深さを知ることができない。ある人は「神様は私たちをあるがまま赦されないのか」と問
いかけているが、これは神様を嘲る行為である。フランスの啓蒙思想家で哲学者のヴォルテール【註
三七】は「神様は赦されるであろう。それがその方の仕事だから」と皮肉った。しかし、彼の言葉
は神様に対する冒涜である。このように、人は自分の罪の重さに全く気付いていない。罪の深刻性
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は神様の名誉を棄損することにある。罪は神様に対する侮辱である。神様は罪を嫌がるお方である。
それゆえ、神様は必ず罪人を呪われ【註三八】、裁かれるのだ。
しかし、十字架は神様の怒りを静める。なぜなら、イエス・キリストが「わたしたちの罪、いや、
わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえ」(Ⅰヨハネ二章二節、参照、ローマ三
章二五節、ヘブライ二章一七節、Ⅰヨハネ四章一〇節)となられたからだ。神様の怒りを静めない
のなら、私たちは滅ぼされるしかない。イエス・キリストの贖いは、神様の怒りを静めるという意
味である。神様はご自身の御子イエス・キリストの死を通して怒りを上げられるのだ。このことが
神様の正義であられる。 こういうことで、「神の人」は、等しく自分の罪を認める。イエス様は
ベテラン漁師のペトロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(ルカ五章四節)と語られ
る。すると、彼はイエス様の超自然的な力を経験するようになる。その時、彼は「主よ、わたしか
ら離れてください。わたしは罪深い者なのです」
(ルカ五章八節)というしかなかった。
「神の御子」
なるイエス・キリストに正しく会った人は、自分の罪深さに気づくようになる。ファリサイ派の人
と祈るために神殿に上った徴税人も同じだった。彼は「神様、罪人のわたしを憐れんでください。
」
(ルカ一八章一三節)と謙遜に告白するしかない。神様に近づいていけばいくほど、自分の罪に気
づかせられる。パウロが霊的な子であったテモテに「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、
暴力を振るう者でした。」(Ⅰテモテ一章一三節)といってから、「わたしは、その罪人の中で最た
る者です。」
(Ⅰテモテ一章一五節)と語ったのも全然おかしいことではない。救いの道は、自分の
罪を認め、悔い改めるしかないのだ。
キリスト教の中心は、キリストの十字架である。十字架のない福音は、ありえない。キリストの
十字架が中心になっていない教会は、もはやキリスト教会ではない。まことのキリスト教は、十字
架の福音を語る。それゆえ、パウロはコリントの信徒に向かって「なぜなら、わたしはあなたがた
の間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めて
いたからです。」
(Ⅰコリント二章二節)という。また、ガラテヤ信徒に向かっては「このわたしに
は、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。
」
(ガラテヤ六章一四節)という。
実際、キリストの十字架は、神様の愛の極みである。
「神は愛です。」
(Ⅰヨハネ四章八、一六節)
という宣言は、贖い主なるイエス様に気づかせる。「神の愛」は常にイエス様の十字架の贖いにつ
ながっている。贖いのない「神の愛」は、ありえない。十字架の贖いは自分の罪のひどさと神様の
まことの愛に気づかせてくれる。キリスト者の生き方が愛に基づいている理由はここにある。まこ
とのキリスト者の生き方は、常に「神様への愛」と「隣人への愛」として現れる【註三九】。キリ
スト者は 「愛の人」で ある。愛 の ないキリ ス ト者は、 ありえない【 註四〇】
。
「キリストのみ」の信仰は、私たちにまことの神様の愛に気づかせ、私たちを愛の実践者として
造りかえさせてくれる。それゆえ、使徒ヨハネは「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛
されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(Ⅰヨハネ四章一一節) という。
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祈祷会一二
説教の記録シリーズ
金起泰牧師
祈祷会一二
金起泰牧師 説教の記録シリーズ
【註】
註一
、オランダのアぺルドルンキリスト改革派教会の神学校で二五年間教
Willem van's Spijker
会史教授として奉仕し、また宗教改革の歴史と神学分野の研究において世界的な学者である。
註 二 一 九 四 六 年 、 日 本 キリ ス ト 改 革 派 教 会 は 、 戦 時 中 、 教 会 合 同 に 対 し て 旧 日 本 キ リ ス ト 教 会 内
で三つの原則、つまり『聖書の規範性、救いの恩恵性、教会の自律性」を掲げて反対して創立
された。
註三
、アメリカのカルヴァン大学の教授
Philip
C.Holtrop
註四
( 1837
~ 1920
)
、オランダのカルヴァン主義神学者であり、政治家である。
Abraham Kuyper
一八八〇年にカルヴァン主義の大学である自由大学を創立する。
註五
、フィラデルフィアの第一〇長老教会で牧会する
Philip
Graham
Ryken
註六
、フィラデルフィアの新しい命教会で牧会する
Stephen Smallman
註七「創立宣言」:有神論的人生観ないし世界観の確立
註八 五 つのソーラ : ソ ーラ ・スクリ プト ゥー ラ (
「聖書のみ」)、ソルス・キリス
so1a
Scritura
トゥス(
「キリストのみ」)
、ソーラ・グラーティア(
「恵みのみ」)、
solus
Christus
sola
gratia
ソーラ・フィデイ( so1a fide
「信仰のみ」
)、ソリ・デオ・グロリア( so1i Deo Gloria
「神
にのみ栄光」)
註九
、宗教改革史(ソウル :Christian Literature Crusade,1991
) pp.23-39.
彼は「宗
Lewis W Spitz
教改革はどうして起こったのか」について四つの原因を語る。第一は教会内の腐敗、第二は教
理的な脱線、第三は社会構造の変化、第四は新たな宗教的な熱心。
註 一 〇 『 キ リ ス ト 教 綱 要 」 Ⅰ ・ 一 章 六 節 、 七 章 一 、 二 、 四 、 五 節、 八 章 一 、 二 節、 一 一 ~ 一三 節 、
九章
註一一
( 1854
~ 1921
)
、改革教義学概要(京畿道 ク:リスチャンダイジェスト、
Herman
Bavinck
)、 P108.
オ ラ ン ダ 改 革 派 教 会 の 神 学 者 で あ る 彼 は 改 革 主 義 者 の 中と て も 大 事 な 人 物 の 中
2004
一人である。
註一二 これを指して霊感( inspiration
)という。
註一三
、改革主義神学序論(ソウル、キリスト教文書宣教会)、 p.222
~ 225
Corne1ius Van Til
註一四 キリスト教は歴史的宗教である。
註一五
Albert Schweitzer,The Quest of the Historical
註一六 マタイ五章一八節「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、
律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
」
註一七 第一章「聖書について」二節
註一八 参考:ウェストミンスター信仰告白第一章七節
註一九
、改革主義序論(ソウル 復:興と改革杜、 2010
) p.95
~ 98.
三 つの 箇 所
James Montgomery
とは、詩編一九編(自然に現れた神様の啓示)、マタイ四章(誘惑を受ける時、神様の御言葉
が私たちを保護することに十分)、Ⅱテモテ三章(終末の険しくて苦しみの時にも、神様の御
言葉が私たちを守ることに十分)で ある。
註二〇
、前掲書、
H.Bavinck
p.145
註二一
( 1837
~ 1920
)
、カルヴィニズム講演(京畿道 ク:リスチャンダイジェス
Abraham
Kuyper
ト、 2006
)
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金起泰牧師
祈祷会一二
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註 二 二 福 音 宣 教 は 二 つ に 分 け ら れ る 。 一 つ の 「 国 内 伝 道 」 で あ り 、 も う 一 つ は 「 海 外 宣 教 」で あ
る。
註 二 三 マ タ イ 二 八 章 一 九 ~ 二 〇 節 「 だ か ら 、 あ な た が た は 行 っ て 、 す べ て の 民 を わ た しの 弟 子 に
しなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをす
べて守るように教えなさい。」
註二四
、上掲書 p.111
James Montgomery
註二五 フィリピ三章一四節「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得る
ために、目標を目指してひたすら走ることです。
」
註二六
( 1851
~ 1921
)
、救いの計画(京畿道:クリスチャンダイジェスト、
Benjamin B.Warfield
) p.59
2000
註二七 宗教的多元主義( religious pluralism
)とは、あらゆる宗教が相対的で、あらゆる宗教は本
質的に同一であるという基本命題を前提とする。
註二八 ポストモダニズム( postmodernism
) は 徹 底 し た 相 対 主 義 を 志 向 し、 キ リ スト 教 の 絶 対性
をあきらめるようにそそのかす。
註二九
、上掲書 p.29
Benjamin B.Warfield
註 三 〇 ロー マ 三 章 二 四 節 「 た だ キ リ ス ト ・ イ エ ス に よ る 贖 い の 業 を 通 し て 、 神 の 恵 み に よ り 無 償
で義とされるのです。
」
註三一
、上掲書 P.114
James Montgomery
註三二 使徒四章一二節「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべ
き名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。
」
註三三 カルケドン信条(四五一年)
註三四
、カルヴァンの神学入門(京畿道:クリスチャンダイジェスト、 2004
) p.97
T.H.L.Paker
註 三 五 Ⅰ コ リ ン ト 一 五 章三 節 「 す な わ ち 、 キ リ ス ト が 、 聖 書 に 書 い て あ ると お り わ た し た ち の
罪のために死んだこと」
註三六 ルカ二四章二七節「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御
自分について書かれていることを説明された。」(参照、ルカ二四章四四~四九節)
註三 七
( 1694
~ 1778
) 彼 は 一 八 世 紀 に 「こ れ か ら 一 〇 〇 年 後 に は だ れ も 聖 書 を 見 る た め
Voltaire
には博物館に行かなければできないだろう」と悪口をしたが、不思議なことに、一〇〇年後か
ら 今 日 に 至 る まで 彼 の 家 が 聖 書 を 出 版 す る 聖 書 協 会 に な っ て 毎 秒 一 冊 の 聖 書 が 出 版 され 全 世
界に普及されている。
註 三 八 ロ ー マ 一 章 一 八 節 「 不 義 に よ っ て 真 理 の 働 き を 妨 げ る 人 間 の あら ゆ る 不 信 心 と 不 義 に 対 し
て、神は天から怒りを現されます。」
註三九 マタイ二二章三七~四〇節「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽
くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、こ
れと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二
つの掟に基づいている。」
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気が付かれたらご連絡ください。(出版奉仕会・松田) 2012/11
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