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第6号

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第6号
ペツォルトの世界
The World of Petzold
第6号
編集 ペツォルト夫妻を記念する会
ペツォルトの世界
The World of Petzold
第6号
坂本2015年
ペツォルトの世界
The World of Petzold
目次
1
天台学とヨーガ
2
日本の天台宗 (下)
30
3
ブルーノ・ペツォルトと渡辺海旭
57
4
ペツォルト・コレクション(2)
61
5
フォルカー・ツォッツのペツォルト像批判
68
6
特別寄稿:波と水
74
1
1
天台学とヨーガ
ブルーノ・ペツォルト1
訳:鼓 澄治/倉敷
[要約]
もっとも高い天台学の同一性を表す表現は、
空
仮
中
ではなくて、
空
仮
中
円融三諦
である。
最初の表現はただ「同一性」を表しているだけであるが、二番目の表現は「同一性の同
一性」を表している。最初の表現では、二つの本質が一つの本質によって調和されるとは
いうものの、三つの真理は相互に区別されうるないし相互に不十分性を主張しあう。つま
り、空と仮は相互にその不十分性を主張しあい、中は空に対しても仮に対してもその不十
分性を主張している。これは「相互に対して不十分性を主張し合うこと」(双非) である。
これに対して第二の表現では、三つの真理は相互に完全に融合し、ただ唯一の真理のみが
真に認められる。これは「相互の宥和」(双照) である。
このように、三つの根本概念が第四のものによって調和にもたらされること、ないし
三つのポテンツが第四のポテンツへと高められるということを理論的な面で明らかにした
ペツォルトは、次に、天台の実践、そしてウパニシャッドを基礎にしたヨーガの実践の中
でそれが生きていることを確証する。
ウパニシャッドを引き継いで、ヨーガでは、魂の四つの状態、ないしアートマンの四つ
の状態が説かれる。すなわち、
I. 覚醒 — jāgaran.am
II. 夢眠 — svapnam
III. 熟眠 — sus.uptam
IV. 第四足 — turīyam
である。
四つの状態についてウパニシャッドでは、例えば、次のように記されている。すなわ
ち、覚醒において魂は、外的対象を知覚し、認識と作用によって物体全体を透徹する。夢
眠において魂は、肉体を貫流する血管の中にあり、内官だけで働き、覚醒状態の印象に基
づいて夢の世界を創出する。熟眠において魂は、心臓から出て心嚢に広がった、ヒターと
呼ばれる 72000 の血管の中に休らい、名と形を忘れる。そして、夢を見ない睡眠状態が
続く限り、ブラフマンと一体になっていると感じる。魂の最高の状態としての第四足にお
いては、認識する者と認識する働きと認識されるべきものとが一体となり、区別のない認
識が現れ、それと同時に救いが到来する。
1
Studien zur Japanologie Band 15, die Quintessenz der T’ien-Tai(Tendai)Lehre,
eine komparative Untersuchung von Bruno Petzold, Otto Harrassowitz, Wiesbaden,
1982 より抜粋。表題は訳者が仮につけたものである。[ ] の部分は訳者の挿入である。
参考文献を以下に感謝をもって挙げる。
佐保田鶴治:
『ヨーガ・スートラ』、恒文社、昭和四十一年
佐保田鶴治:
『ウパニシァッド』、弘文堂、昭和二十年
高楠順次郎他:
『ウパニシャッド全書』、世界文庫刊行会、大正十三年
Radhakrishnan, S.:the Principal Upanis.ads, Allen and Unwin, 1953
Wikipedia
1
第四足は、単に先行する三つの魂の状態の上昇ないし頂点であるだけでなく、それら
の調和であり統一でもある。したがって、第四足には覚醒、夢眠、熟眠が含まれている。
また、第四足によって調和にもたらされた三者の象徴として、神秘的な言葉であるオーム
が用いられる。
Om は Aum の短縮形といわれる。したがって、ほんらいは実際三つの単位 A, U, M
から成り、これらが全体で Aumkāra、すなわち A-U-M という音を構成する。これら三
つの単位は上述の四つの魂の状態と結びつけられる。すなわち、A は覚醒と、U は夢眠
と、M は熟眠と等置される。そして、第四足によるこれら三つの魂の状態の調和は、再
び、Aumkāra による三つの単位の調和に対応する。
また、A は身体的自己と呼ばれ、U は生命的自己を表し、M は知的自己と等置され、
これら三つを超えてこれら三つを A-U-M という統一へと結合する第四足は、直観的自己
であるとされる。
円融三諦という概念が果たす機能はヨーガでは aumkāra という概念が果たしている。
ヨーガ行者ないし天台止観の実践者はこの二つの最高概念について冥想するが、これらの
概念は共通して、有限性を排除せず、有限性の根拠として、差異も同一性もみずからの中
に受け入れることができる、それゆえに、この世の豊かで多様な絢爛たる生を空虚な夢と
か芝居ないし影絵芝居にしてしまう抽象的一元論を象徴するのではなく、時間的なものと
永遠なものとを相互に調和にもたらす汎神論を象徴している。
この汎神論は、狭い限定された意味での汎神論、つまり最高の実在を単に事物の総体と
解しその超越性を否定する汎神論ではなく、神は世界を含みしかも世界を超越している、
それゆえに世界より大きいとする万有在神論である。
古代のウパニシャッドでは、非二元性ないし非二性、つまり一と多の二つは、相互に対
立する原理ではあるがそれにもかかわらず「非二」であるし、一方が他方に内在し、一
方が他方を生かしており、両者の根底に同じブラフマンが存していると教えている。した
がって、ブラフマンは二つ存在する。すなわち、おのれの許にとどまるブラフマンと、世
界として現象し世界を生み出すブラフマンである。ただし、この二つのブラフマンは、二
つではなく、一つである。
サーンキヤ学がこのウパニシャッドの教えから引き継いだものは、永遠な原理と実在
の原理という二つの対立する原理 (つまり、物質と多数の個々の魂) という理念であって、
二つの対立者を調和にもたらすブラフマンの理念ではない。サーンキヤ学の認める救済と
は、物質と魂の区別を認識し、二つの敵対的原理の一方である魂に引きこもり、他方の物
質を完全に視界から遮断することである。このサーンキヤの説を実践に移したのがヨーガ
である。
別の方法を採ったのはヴェーダーンタ学であり、多の原理を無視し、一の理念のみを基
礎に置く。「一にして、非二」という原理は、ヴェーダーンタ学では、最高のブラフマン
以外に実在的なものはなく、多の世界は仮象に過ぎないことと解される。救いはただ、一
に逆行する多が幻影であることを認識し、完全にブラフマンの中に沈潜しブラフマンと一
体となることに存する。
ヴェーダーンタ学と同様、サーンキヤ・ヨーガもそれゆえに、ウパニシャッドの哲学に
由来するものであるが、それを全面的に継承するのではなく、ただ部分的に引き継ぎ、あ
る場合には多の根底にある一を無視してただ多の理念を継承したり、ある場合にはその一
を多に展開するものの実在性を拒否して、単に一の理念のみを認める。
実際の歴史的由来を考慮に入れず、純粋に一つの思想としてのみ天台学を考えれば、天
台学のほんらいの精神的創設者である智顗は、— 当然のことながら意識してはいなかった
が — ヴェーダーンタ学やサーンキヤ・ヨーガの教説を飛び越えて、古いウパニシャッドの
教説に帰り、一と多の実在性の原理や一と多の同一性の原理をみずからのものにしたと解
される。それゆえに、その基礎となっている原理は、まったく多数の見方に沿う言い方で
はないが、仏教的に翻案されたウパニシャッド哲学であるといえよう。したがって、天台
学の冥想は、サーンキヤ学に基づいたヨーガにその類型が見出されるのではなく、ヴェー
ダーンタ学の方へスリップしたヨーガにでもなく、ウパニシャッドのヨーガとも呼ぶべき
実践にその類型が見出されるであろう。
2
天台の冥想とヨーガの冥想の接点について話題にする前に、まず、すで
に小乗の仏陀は個人的にヨーガと密接な接点を持っていたこと、そしてみ
ずからヨーガの修行をしたということを思い出してもらいたい。
めみょう
ぶっしょぎょうさん
馬 鳴の『仏 所 行 讃』2 (この伝記的著作を挙げるに留める) に報告され
ているように、シッダールタ王子は、父の宮殿を出て、流浪者となった後、
まず、懺悔の森に入った。しかし、その実践は方法と目的の点で、かれに
は不十分で正しいものとは思われなかった。次に、ヨーガ行者の一人の勧
めに従い、第三の無色冥想つまり「無」の冥想にまで達することのできた
有名なアーラーダ・カーラーマを訪ねた。その後、「意識も無意識も」な
い第四の無色冥想にまで突き進んだウドラーカ・ラーマプトラを訪ねた。
しかし、これら二つの冥想はシッダールタにとって決して満足のいくも
のではなかった。悟りへの扉を開いてくれなかったからである。そこで、
シッダールタは、これら二人の師からも離れ、みずから随意にヨーガの修
行をした。他の五人の苦行者と一緒に六年間この修行を行ったが、最後に
は、苦行3 という方法 — 禁欲や苦行 — では救いは見出されず、禁欲と快楽
の中間の道によるのみという確信に至った。それゆえに、あらゆる苦行を
退け、再び飲食を取り、体力と元気を回復し、菩提樹の下で悟りを得た。
上述のことから正当に想定されることは、ゴータマ・ブッダがヨーガと
親密に接触したということ、そして、原理的にはヨーガを退けたにして
も、その影響を受けているということである。したがって、原始仏教の
「四つの智」4 に対応するのは、ヨーガにおける (『仏所行讃』からもわか
るように)「意識的三昧」5 の同様の数の段階である。それらを特徴づける
心理学的範疇は、双方さまざまであるが相互に一致する。小乗仏教で四つ
の色静慮6 に四つの無色静慮7 が付加されたということも、末梢的なことで
あるとはいえ、否定できない事実である。
ゆ が し じ ろ ん
大乗仏教とヨーガとの関係についていえば、『瑜伽師地論』8 に基づく
ヨーガ行派つまりヨーガ派という名称そのものからすでに明らかなよう
に、大乗仏教とヨーガとの間には密接な関係が存在する。同じことは、
ヨーガ派に近い密教についても妥当する。実際、日本の天台宗の開祖で
後に論じる最澄 (伝教大師) 9 は、大乗仏教のこの変種をもっとも純粋に表
2
Aśvaghos.as Buddhacarita.
tapas
4
vier jñānas. 唯識説では、仏智を次の四つに分ける。大円鏡智 (ādarśa-jñāna):鏡の
ようにあらゆるものを差別なく現し出す智。平等性智 (samatā-jñāna):自他すべてのも
のが平等であることを証する智。妙観察智 (praty-aveks.an.ā-jñāna):平等の中に各々の特
性があることを証する智。成所作智 (kr.tya-anus.t.hāna-jñāna):あらゆるものをその完成
に導く智。これらはそれぞれ、阿頼耶識・末那識・意識・前五識 (眼・耳・鼻・舌・身) が
転依して証得されるとする。(岩波仏教辞典)
5
bewußten samādhi.
6
rūpa-dhyānas
7
arūpa-dhyānas.
8
Yogākārya-bhūmi-śāstra.
9
原書 S.425-485 参照。
3
3
現している日本の真言宗の開祖、有名な空海 (諡号弘法大師) を、まさに
ゆ
が
あ
じゃり
瑜伽阿闍梨10 、つまり「ヨーガの師」と言っている。
また、禅宗も疑いもなくヨーガにきわめて近い。ヨーガと禅宗に共通し
ていることは、まず第一にあらゆる文献や書物の学問を退けていることで
ある。ここで再度強調されてもよいであろうが、禅の冥想 — 静慮11 と呼ば
れるが — は、純粋に直観的である。われわれはわれわれの心を、そこに
仏を見ようと期待しつつ見通す。もっとも厳しい精神の訓練に基づいたこ
の直観は論理のはたらきをすべて排除し、反知性的である。実際、この直
観は、「非思惟」を要求し、したがって、原理的にあらゆる聖典や哲学的
論考の研究を否認する。それにもかかわらず、この非思惟は、禅の修行者
を、非難されてきたような「内容のないつまらない自己凝視」に沈潜させ
るものではない。むしろ、禅の修行者の観想は、明らかに精神的-宗教的
性格を持っており、その悟りは、完全な自覚の下で超越的真理を把捉する
ものである。
さて、天台仏教に関していえば、われわれがすでに確認することができ
たように12 、天台の冥想もヨーガと一定の精神的親縁性を持つ。実際、わ
れわれは、天台の冥想の階梯とヨーガの冥想の階梯との間に注目すべき一
致を確かめることができたし、25 の方便13 とほんらいの止観-冥想に対応
するものとしてハタ-ヨーガとラジャ-ヨーガ14 を指摘した。このような事
情の下で、当を得たことは、インドのヨーガをさらに幾分厳密に考えてみ
ることであろう。前に天台の冥想と禅の冥想を対比しながらその輪郭を描
いたが15 、今度は天台の修行とヨーガの修行の相互関係についてさらに明
らかにしたい。
インドの苦行者は観想において、鼻根ではなくて、特に好んでしっか
りと自分のへそにまなざしを向けて精神の集中を達成しようとするから、
ヨーガは、おそらく皮肉で「へその観想」と呼ばれることがある。その沈
潜の方法は、多くの宗教心理学者によって、まったく精神技術的方法であ
ると特徴づけられ、そのただ一つの目的は自己暗示によってアタラクシア
つまり身体的精神的無感覚を実現することであるとされる。そうすると、
インドのヨーガは、知的倫理的というよりもむしろ心理的催眠的なもの
とされてしまう。しかし、インドのヨーガを正しく評価しようとするなら
「日本の天台宗 (上・下)」(石丸悦朗訳、「ペツォルトの世界」第5号、第6号) 参照。
Yoga Ācārya
11
dhyāna(禅那).
12
原書 (S.111-117) において、中国天台の 25 の方便について述べた箇所参照。
13
upāyas
14
「ヨーガの八支 (禁制 (yama)、勧制 (niyama)、坐法 (āsana)、調息 (prān.āyāma)、
制感 (pratyāhāra)、執持 (dhāran.ā)、静慮 (dhyāna)、三昧 (samādhi)) の中で、最初の
五支は、比較的新しい文献においてはたいていハタ-ヨーガといわれる実践的ヨーガつま
り準備のヨーガを構成し、最後の三支は、ラジャ-ヨーガつまり王のヨーガと呼ばれる。」
(原書 S.114 参照)
15
原書 (S.73-87) において、禅の冥想と天台の冥想を対比して述べた箇所参照。
「ペツォルトの世界」第 4 号 14 頁~17 頁参照。
10
4
ば、われわれは、先の性格付けが妥当するかもしれないような後期の変質
したないし原始に退化したヨーガと、パタンジャリの『瑜伽経』16 に記さ
れているような古典的ヨーガとを区別しなければならない。この古典的
ヨーガは、精神技術的方法の枠をはるかに超えて、高い倫理的宗教的水準
に達しているからである。
特に指摘しておきたいことは、パタンジャリが『瑜伽経』の中で直観
をはっきりと擁護していること、そして、いわゆるヴィブーティ17 やシッ
ディ18 という超自然的な力を程度の低い重要性の劣るものと見なし、しか
も誤解を招く有害なものとなることもあると拒否していることである。こ
れらは、後期の民衆的ヨーガにおいて、きわめて高く評価され、その獲得
がヨーガの修行のほんらいの、いやそれどころか唯一の目標であるとしば
しば見なされる驚くべき力や能力であった。
『瑜伽経』19 は、— ただ一つの
しかもきわめて短い経典で、多くの短唱句から成るので、おそらく「ヨー
ガ箴言集」とか「瑜伽経」と単数形で呼ぶべきであろうが、— その中で、
救い20 は、ヨーガ行者が修行によって得られた驚くべき力を再度脇へ置い
た時に初めて達成されるといわれているし21 、かの驚くべき力22 が苦行や
精神集中によるだけでなく、さらには誕生 (つまり幸運な生まれ変わり) に
よっても、言葉の力 (つまり、真言、特に「オーム」という真言23 ) によっ
ても、また麻薬によっても獲得されると認められていることから24 、この
経典で、その力がきわめて低く評価されていることは明らかである。それ
ゆえに、パタンジャリは、かの驚くべき力に対して釈迦牟尼と同じ態度を
取っているといえる。実際、釈迦牟尼は、さまざまな経25 の中で、この驚
くべき力を過大評価したり、公に見せびらかしたり、あるいは飯の種にし
たりすることのないよう徹底して戒め、その力によって涅槃や救いに達す
ることはできないと指摘している。— これは、天台学も共有している見解
である。このような考え方に従えば、先の驚くべき能力はいずれも、全知
全能ということも含めて、まったく相対的な世界の領域の中にとどまり、
16
Patañjalis Yoga-sūtra.
vibhūtis.
18
siddhis.
19
Yoga-sūtras
20
kaivalya(真我の独存)
21
第三巻、50 番
このような秀れた霊能に対してさえも喜びの心を抱かなくなった時に、すべての悪の根
が絶たれて、真我独存の状態が顕現するのである。
(『ヨーガ・スートラ』佐保田鶴治訳、恒文社、昭和 41 年、143 頁参照。)
22
siddhis
23
Mantra
24
第四巻、1 番
上来説いてきた種々の超自然的な能力は、或は生まれつきによって、或は薬草の力に
よって、或は真言をとなえることによって、或は苦行を行ずることによって、さらには三
昧に入ることによって生ずる。
(『ヨーガ・スートラ』佐保田鶴治訳、恒文社、昭和 41 年、151 頁参照。)
25
Suttas.
17
5
ただその中でのみはたらき、力を発揮することができるだけである。
古典的ヨーガの目標は、仏教や、自明のことであるが、天台仏教の目標
と同じく、最終的な救いであり、その救いに達する手段は認識である。し
かし、両者が根本的に異なる点は、認識ということで何が理解されている
か、そしてまた救いや救いに至る方法ということで、何が理解されている
かである。
われわれはここで、パタンジャリの『瑜伽経』のもう一つの注目すべ
き箇所26 を参照しよう。それは、三昧27 に関わる箇所であるが、そこでは
「高揚」28 と呼ばれている。
マックス・ミュラー29 は、『インド哲学の六つの体系』の中で、この箇
所の意味を次のように説明している。
「さて、もしわれわれがそれ全体の成果について尋ねるなら
ば、われわれに対して経 41 の中で次のように言われる。すな
わち、おのれの精神のすべての運動や活動に終止符を打った
人は、その人の感覚のすべての対象に関して、これに (ママ)
基づいた一様性、あるいは恒常性や本質的一元性に到達する。
そして、その場合、精神は実際、知覚対象によって変容し、な
いし変化する (第一巻 41 番)。例えば、赤い花のそばに置かれ
た水晶がわれわれの目にとって実際赤くなるように、それと
同様に、精神は知覚対象によって色づけされると想定される。
この印象は対象に基づいたものとして真でありつづける。そ
して、われわれの精神はつねに一̇つ̇の̇冥想対象に集中してい
るであろう。」
パウル・ドイセンは、『一般哲学史』30 の中で、上記の原典を次のよう
に訳している。「心31 の諸機能が抑えられると、水晶の場合のように、認
識者、認識、認識対象において、最後の認識対象に没頭し認識対象に浸透
されて、等至32 (高揚) が起こる。」
26
第一巻 41 番。
かくして心のすべてのはたらきが消え去ったならば、あたかも透明な宝石がそのかたわ
らの花などの色に染まるように、心は把握者 (真我)、把握器官 (知覚器官)、把握対象の
うちのどれかに心がとどまる時、それに染められる。これが定とよばれるものである。
(定 samāpatti とか三昧 samādhi といわれる境地は、われわれが直観というのと同じ心
理的経験であって、見るものとしての意識が消えて、対象だけが意識面に顕れている状態
である。)
(『ヨーガ・スートラ』佐保田鶴治訳、恒文社、昭和 41 年、61-62 頁参照。)
27
samādhi(定、三昧)
28
samāpatti(等至、定、高揚).
29
Müller, F.Max: Six Systems of Indian Philosophy (1899), in: Collected Works
of the Right Hon. F.Max Müller, London 1898 - 1903, 20 Bde - ここでは Bd.19,
pp.345-346.
30
Deussen, Paul:Allgemeine Geschichte der Philosophie, Leipzig 1894 - 1917, 7 Bde
- Bd.I.3, S.517.
31
citta.
32
samāpatti
6
J.W. ハウアーは、『救済の道としてのヨーガ』33 の中でサンスクリット
の原典を以下のように訳している。「『心の世界』の通常の動きが克服さ
れ、それが『世界の把握者』、『世界の把握』、『把握されるべき世界』の
瞬間の中に沈む時、それは澄み切った宝石のように輝き返る。これこそ
『入滅』である。」— この箇所に対して次のような説明が付けられている。
「『世界の把握者』とは魂34 である。」
スワーミ・ヴィヴェカーナンダ35 は、みずからの著書である『ラジャ・
ヨーガ』の中でパタンジャリの『瑜伽経』を英語に翻訳して注釈を付け、
上記の箇所を次のように理解している。
「動き36 がこのような仕方で力を失い (制御され) て、ヨーガ
は受容者、受容、受容物 (自己、精神、外的客体) において、水
晶のように集中と無差別に達する。」— 動きとは、インドの翻
訳者に従えば、「渦、つまり心37 の中の波形であり、精神の変
容」である。
『受容者、受容、受容物』に関しては次のように
説明される。
「ここで、ヨーガ行者は三つのもの、すなわち受
容者、受容物、受容が魂、客体、精神に一致していることを
認める。われわれに冥想の三つの客体が与えられる。第一に、
物体とか物質的客体のような粗なるもの、第二に精神や心の
ような精なるもの、第三に資格のある魂、これは魂そのもの
ではなく、我性である。ヨーガ行者は、これらすべての冥想の
中で修行によって地歩を固める。冥想状態に入ると、他のす
べての想念は排除され、冥想の対象と同一化する。冥想者は
一つの水晶のようになる。水晶は、花の前では花と同一化し、
花が赤い時には赤く見え、花が青い時には青く見える。」
それでは、認識の経過はどのように進行するのかをさらに分析してみよ
う。ヨーガの三昧38 は何を目指しているのであろうか。
ヨーガの教えの理論的基礎は、周知のように、魂39 と物質40 の本質的差
異を根本原理として認めるサーンキヤ哲学である。魂は永久に不変で、物
質は永久に変化に服している。前者は、物質と関わる限りなく多くの個々
の魂であり、後者は、根源的物質である。この根源的物質から、まず最初
に覚41 (区別の能力) が生じ、覚から我執42 (自己意識) が生じ、我執から、
33
Hauer, J.W.: Der Yoga als Heilsweg, Stuttgart 1932 - S.118.
purus.a
35
1862-1902、Swāmi Vivekānanda: The Complete Works of Swami Vivekananda,
Calcutta (1907) 1972, 8 Bde - ここでは Bd.1, S.228, 201, 228f.
36
Vr.ittis.
37
Citta
38
Samādhio9
39
purus.a
40
prakr.ti
41
buddhi
42
aham
. kāra
34
7
意43 (思惟器官) や外的感官と同時に、エーテル、空気、水、火、地という
精なる諸要素が発する。さらに、これらの要素から相互の混合によって五
つの粗なる物質的素材が発生する。さて、ヨーガがみずからの課題とする
のは、サーンキヤの理論を実践に移すことであるから、ヨーガ行とは結
局、冥想者が魂と物質の、つまりプルシャとプラクルティとの本質的差異
を認識し、プラクルティからプルシャを分離し、プルシャを独存させるこ
とを目指すことである。そのためには、すでに述べたように、まず最初に
制感44 によって、つまり感覚対象から感覚を引き揚げることによって、感
覚を外界からそらし、活動を停止させる。次に、思惟器官の固定、すなわ
ち注意を一定の点に固定する執持45 が用いられ、そして冥想、すなわち表
象を一定の点に、つまりアートマン、みずからの自己、みずからの魂に向
ける静慮46 が用いられる。冥想の頂点で三昧47 が到達される。そこでは、
思惟は客体と一つになる。今や思惟と物質の本質的差異の認識が、直観的
観想において成就する。
リヒャルト・フォン・ガルベの『サーンキヤ哲学』48 によれば、水晶と
花の比喩は次のように理解される。
「意識的認識、感覚、意志は、それゆえに、— 比喩的表現でい
えば、— 当該の内官の作用が魂に反映すること、ないし逆に魂
が内官に反映することに他ならない。魂そのものの認識のた
めにそのような反映が必要なのである。というのは、魂は内
官の協力がなければ何も認識できないからである。外的事物
の知覚の場合、内官が客体の像をみずからの中に受容するよ
うに、今の場合、内官は他のすべてを排除して、魂の像をみず
からの中に受容する。魂がみずからを内官に映す時、魂はみ
ずからの反映を生み、それによってみずから自身を意識的に
認識するに至る。この反映ないし反映すること49 は幻影50 と見
なされるが、だからといって実在が否定されるわけではなく、
ただ、事象が見かけ通りのものではないということ、つまり
魂そのものの作用ではないということをいっているに過ぎな
い。ハイビスカスの花の近くに来ると水晶が赤くなるという
比喩を用いるならば、この赤くなるということ51 も同様に『幻
影』ということになる。なぜなら、赤くなるということは水
43
manas
pratyāhāra.
45
dhāranā.
46
dhyāna.
47
samādhi
48
Garbe, Richard von: Die Sāmkhya-Philosophie. Eine Darstellung des indischen
Rationalismus nach den Quellen, Leipzig 1917, S.377.
49
chāyā-patti, prati-bimbana
50
mithyā
51
uparāya
44
8
晶そのものの変化ではなく、素朴な観察者にとってそう見え
るに過ぎないからである。」
認識という事象は、上述のことに従えば、二重の仕方で起こっている。
内官 — 思惟、感覚、意志 — のまったく純粋に機械的で多様な変化に服す
る事象は、不変の魂が内官に反射光を投げかけることによって、意識的事
象となる。他方、内官の作用は魂に反映し、それによって魂は認識の力を
与えられ、痛みは — 反映という形で — 魂に受け入れられる。しかし、こ
の反映ということはまったくの幻影である。というのは、真実には、魂は
何に触発されることもないし、そもそも触発され得ないものだからであ
る。われわれの苦しみはただ、魂が内的な事象にまったく関与していない
ことを認識しないからであり、— われわれの救いはただ、これを洞察する
ことにある。この洞察が起こる瞬間に、いわゆる魂と物質の結合が解ける
のであり、魂の「独存」52 が成就するのである。認識の過程は意識がまっ
たくない状態になって終わる。
このようなサーンキヤ-ヨーガの認識論や方法と、知礼が説きわれわれ
がさらに押し進めて叙述した天台の冥想行53 とを比較対照するならば、こ
こでも事象の二面性が確認され得る。絶対的主観、つまり三つの真理につ
いての冥想はハンマーのように、人間精神、つまりいわゆる一念に作用
し、これに刻印を残す。同時に、一念は、絶対的客観に、つまり三つの真
理に伝わる。それゆえに、冥想の中で一念は主観的に三つの真理に浸透さ
れ、絶対的客観としての三つの真理に向けて押される。ちょうどハンマー
と金敷との間の対象のように、前者によって後者の上に押しつけられ、一
方によって能動的に、他方によって受動的に深く刻印される。
さんがん
したがって、われわれはここで、絶対的主観的動因である三 観に関わる
いちねん
さんたい
とともに、経験的客観である一 念と絶対的客観である三 諦にも関わって
いる。さらに、われわれはここで、主観-客観の二重性にも関わっている。
第一に、絶対的主観としての三つの冥想と絶対的客観としての三つの真理
である。前者は能動的であり、後者は受動的である。第二に、三つの冥想
と三つの真理は一緒になって主観として能動的であると把握され、一念は
客観として受動的であると把握される。この客観、すなわちハンマーと金
敷の間の素材は、ハンマーと金敷の本性を受容する。— すなわち、ほんら
い相対的な一念が三つの冥想と三つの真理にみずから変容し、それによっ
て「絶対化」する。これが知礼の「冥想の主観と客観の二重性」の説、す
なわち湛然の『十不二門』についての注釈である『十不二門指要鈔』に説
りょうじゅうのうじょ
かれている両 重 能 所である。
それゆえに、ヨーガでは客観はただほのかに光るだけであるが、天台で
は刻印される。ヨーガのほのかに光るというのは不確かなものであるが、
52
53
kaivalya
原書 (S.87ff) の「華厳の冥想と天台の冥想」など参照。
9
天台の刻印は事実である。ヨーガにおいて救いは迷妄から真理を切り離す
ことに存するが、天台においては真実と仮象を同一視することに存する。
ヨーガにおいては物質と魂の二元論は永久に存続するが、天台においては
相対的客観と絶対的主観との完全な同一性が見られる。
ヨーガについての上記の記述は、無神論的なサーンキヤ哲学に基づく古
典的ヨーガに関するものである。しかし、パタンジャリの『瑜伽経』には
すでに有神論が加味されている。すなわち、有神論者の宗教的要求に応じ
て、パタンジャリによってサーンキヤ-ヨーガ-体系に人格神の崇拝、すな
わち最高の魂54 とされる自在天55 の崇拝が加えられている。サーンキヤの
原理はそれによって破られているわけではなく、自在天は単なる妥協の産
物といえる。後期のヨーガではしかしながらこの有神論的性格がますま
す顕著になり、しかもあまりにも強くなって、ヨーガはヴェーダーンタに
近づいている。それゆえに、有名なサンスクリット学者であるモニア・ウ
イリアムズ卿56 は誤って次のような見解に至った。すなわち、サーンキヤ
の一分肢でありパタンジャリを開祖とするヨーガは最高存在の実在を認め
ている、— そこで教えられる手段によれば、人間の魂は宇宙の魂との合一
に達することができる — このヨーガは、修行者によって最高存在と同一
視されるシヴァ神との一体化を実現しようとしている。レオポルド・フォ
ン・シュレーダー57 も同様の見解を表明した。すなわち、「ヨーガは、一
貫して有神論的性格を具え、個々の精神は根源的精神に由来すると見なし
ている。」
そのような有神論的な考え方は、しかし、すでに他の関連で簡単に言
及したように、決して古典的ヨーガのものではなく、後期のヨーガに属す
るものである。後期のヨーガとは、最高のブラフマンに関するヴェーダー
ンタの見解に則って古典的二元論の体系から発展したマハーバーラタ58 の
叙事詩の一元論的サーンキヤに基づくヨーガである。ヴェーダーンタの
思想を受容し変容したこのサーンキヤ-ヨーガは、まさにヴェーダーンタ
と融合したサーンキヤ-ヨーガであり、一方でシヴァやドゥルガーという
畏怖すべき神々を崇拝し、他方でヴィシュヌ-クリシュナ崇拝に現れる信
愛59 を加味することによって、有神論的性格を示している。そして、最終
的には信愛のヨーガとして、敬虔と禁欲による神との合一を目指してい
る。この信愛のヨーガは、主なる自在天60 を求め、愛の中で始まり、進み、
終わる。— すなわち、言い表しがたい愛を本性とする、宇宙の魂である主
の中で、喜悦に陶酔しつつ消滅する、— 恍惚の酩酊である。その時、感動
54
purus.a
Īśvara.
56
Monier-Williams, Sir Monier: Hinduism, New York 1919, pp.200-201.
57
Schroeder, Leopold von: Indiens Literatur und Kultur in historischer Entwicklung, Leipzig(1887) 1922, S.687.
58
Mahābhārata.
59
Bhakti.
60
Īśvara
55
10
した者は、神との愛の合一の唯一の瞬間に永遠の自由がもたらされると確
信する。神秘的合一61 の絶対的無意識が今や至福と解されている。この種
のヨーガは、もはやカピラ62 の無神論的サーンキヤの影響を受けたもので
はなく、ラーマーヌジャ63 の有神論的ヴェーダーンタの影響から、救いと
は個別的魂の中に恒久的に神が現前する至福の状態であると考えている。
仏教の中で、このヨーガに比すべきものは、日本の平安時代後期や足利
時代に見られた天台宗の阿弥陀信仰である。阿弥陀仏に向かう敬虔な信
愛64 は、中国の古典時代には天台の礼拝の一つの構成要素をなしていたに
過ぎないが、徐々に天台宗の中で自立化していったのである。
真の止観の精神に満たされた天台の実践は、このような敬虔な信愛とは
本質的に異なり、その基にあるのは、完全に神に献身することを求める感
情的至福の信仰ではない。天台の実践では、仏をみずから自身の内に見出
すために、単に神秘的直観に頼るのではなく、直観に形而上学的思弁が加
わり、この「二つの車輪」を用いて、悟りと救いに到達することが目指さ
れる。
ヨーガの冥想の頂点と終点を完全に明確にし、それが天台の冥想とどの
程度まで一致するかを確定するためには、ウパニシャッドについて語らな
いわけにはいかない。
ウパニシャッドでは周知のように、神的なものについて二つの側面が区
別される、ないし二重の区分がなされる。すなわち、存在するもの65 と彼
岸的なもの66 、言い表せるもの67 と言い表せないもの68 、根拠づけられた
もの69 と根拠のないもの70 、意識71 と無意識72 、実在73 と非実在74 である。
これは、ターイッティリーヤ・ウパニシャッドに言及されており、仏教の
ぞくたい
しんたい
俗 諦と真 諦という二つの真理に対応する。さて、ウパニシャッドの賢者
の神秘的思弁では、神的なものの絶対的本質は、二つの対立物の合一、す
なわち、全一なるものの空虚と充満という対立の一致75 の中に看取され、
三重の図式が獲得されている。これは、フリードリッヒ・ハイラー76 が的
確に指摘したように、ヨーロッパの神秘主義の三つの道、すなわち否定の
61
unio mystica
Kapila 前 350-250 頃
63
Rāmānuja 1055-1137
64
Bhakti
65
sat
66
tyat
67
niruktam
68
aniruktam
69
nilayanam
70
anilayanam
71
vijñānam
72
avijñānam
73
satyam
74
anr.tam satyam
75
coincidentia oppositorum
76
Heiler, Friedrich: Die buddhistische Versenkung, München 2 1922.
62
11
道、因果の道、卓越の道77 に相当するであろう。これらの道は相互に交わ
り、次の図に示されるように、卓越の道は垂直に走り、否定の道と因果の
道は十字に交差する。
ウパニシャッドの神秘主義の三つの道と天台学の三つの冥想との類似性
はすぐさま看取できる。
ヨーガでは、すでにウパニシャッドにおいても同様に説かれた魂の四つ
の状態、ないしアートマンの四つの状態が引き継がれ、それに特別重きが
置かれた。すなわち、
I. 覚醒 — jāgaran.am
II. 夢眠 — svapnam
III. 熟眠 — sus.uptam
IV. 第四足 — turīyam
これらについて、サルヴァウパニシャットサーラ・ウパニシャッドのド
イセン訳78 によれば、次のように定義されている。
「意に始まる 14 の器官 [意79 、覚80 、念81 、我慢82 、諸知根、
諸作業根] が外に向かって展開し、日天83 などの神々に支えら
れて、音声などの粗なる客体を知覚する場合、これをアート
マンの覚醒84 という。」
「覚醒の印象に縛られず、ただ四つの器官 [意、覚、念、我慢]
だけで、しかも音声など現存しないのに、かの印象に基づい
て、音声などを知覚する場合、これをアートマンの夢眠85 と
いう。」
「14 の器官すべての休止と特定の対象に関する意識の終了とに
77
via negationis, via causalitatis, via eminentiae
前掲書 (6 頁註参照)、S. 1/2 S.269f.
79
Manas
80
Buddhi
81
Cittam
82
Ahan̄kāra
83
Āditya
84
jāgaran.am
85
svapnam
78
12
よって [意識がない] 場合、これをアートマンの熟眠86 という。」
「上記の三つの状態が脱落し、見る者として存在に対立する精
神的なもの自身がなおすべての存在に縛られない無差別状態
として存立する場合、この精神的なものを第四足87 という。」
四つの状態についてウパニシャッドではまた次のようにも記されている。
すなわち、覚醒において魂は、外的対象を知覚し、認識と作用によって物
体全体を透徹する。夢眠において魂は、肉体を貫流する血管の中にあり、
内官だけで働き、覚醒状態の印象に基づいて夢の世界を創出する。熟眠に
おいて魂は、心臓から出て心嚢に広がった、ヒター88 と呼ばれる 72000 の
血管の中に休らい、名と形を忘れる。そして、夢を見ない睡眠状態が続く
限り、ブラフマンと一体になっていると感じる。魂の最高の状態としての
第四足においては、認識する者と認識する働きと認識されるべきものとが
一体となり、区別のない認識が現れ、それと同時に救いが到来する。
若干のウパニシャッドによれば、覚醒もまた一つの夢想状態であり、例
えばアーイタレーヤ・ウパニシャッドではその場合、覚醒、夢眠、熟眠と
解される「三つの夢想状態」89 がアートマンに帰せられる。しかし、この
ような見解は明らかに、理想主義的ウパニシャッドや、シャンカラのよう
なヴェーダーンタの幻影主義的解釈に限られる。実際、シャンカラは、覚
醒において「ほんとうの自己自身の覚醒は起こらず、夢の中と同じく架空
の実在を見る」のであるから、覚醒もまた一つの夢想状態であると明言
する。
第四足90 は、熟眠よりもさらに高いものであり、次のような注目すべき
特徴によって熟眠と区別される。すなわち、熟眠においては、ブラフマン
との一体化や、それと結びついた最高の喜悦が現れ、個別的なものは存続
しないが、見守る意識の目覚めた後にはその想起も現れる。他方、第四足
においては、完全な覚醒の下で客体の意識が差し止められ、認識の永遠の
主体との一体化が現れる。熟眠において無意識に起こっていたこと (すな
わち、多元的世界の終了、そしてブラフマンとの至福の一体化) は、第四
足においては完全な自覚の下で起こり、意識は存続する、ただし、その意
識は自己の外の客体に向かう経験的意識ではない。
それゆえに、熟眠は、すべての客体から解放された主体の純粋な状態で
あり、魂の覚醒状態や夢眠状態において感覚や精神の活動によって引き起
こされる二元的現象から自由な状態である。今や内的客体の知も外的客体
の知も存在しない。あらゆる対立から遠く離れて、魂は真の本性を獲得す
る。世界も現象的自我も沈み、無意識となった状態に訪れる喜悦は、憂愁
からの解放を本質とする。それは徹底的に否定的な状態であり、イゾルデ
86
sus.uptam
Turīyam
88
Hitāh.
89
trayah. svapnah.
90
turīyam
87
13
ン91 の言葉、
「おぼれなさい、沈みなさい。— 無意識、最高の快」によって
完全に特徴づけられる。今や魂は、神秘の馬に乗って到達した神秘の真っ
只中に逗留している。— 魂は、ブラフマンの世界92 に休らい、あらゆる心
理的活動に左右されず、自己自身を観照することができる。
第四足は、また第四禅93 ともいわれるが、絶対者の圏域に高まった覚醒
状態であって、熟眠において単に否定的にのみ存していたものが肯定的な
ものになる。ここでは純粋に直観的な意識が無意識に代わって登場する。
対立性は、幻影として解消されるのではなく、より高い現実として把捉さ
れる。真理は今や、すべての現象の非存在ということではなく、普遍的な
自己と事物とされる。自己と事物は、変化のただ中で不変のものとして、
無常のただ中で永遠なものとして存立するものとなる。最高の快は、憂愁
を感じないということではなく、超俗的な喜びを本質とするものとなる。
ヌリシンハ・ウッタラ・ターパニーヤ・ウパニシャッドでは、ドイセン94 が
記しているように、第四足の概念はさらに先鋭化され、四つの段階が区別
される。すなわち、世界の完全支配、精神の遍照、精神性、無差別95 であ
る。これらの中で最初の三つは依然として「熟眠、夢想、単なる迷妄」か
ら抜けきっていないが、無差別96 のみはあらゆる区別の完全な消滅として
世俗臭を脱し、「第四足の第四足」(つまり、最高の第四足) 97 として絶対
的に純粋な思惟である。
この説の説明に付け加えられなければならないことは、第四足が単に先
行する三つの魂の状態の上昇ないし頂点であるだけでなく、それらの調和
であり統一でもあるということである。したがって、第四足には覚醒、夢
眠、熟眠が含まれている。また、第四足によって調和にもたらされた三者
の象徴としては、神秘的な言葉であるオーム98 が用いられる。
それ自体では無意味で非合理的なものであるが、あらゆる神聖な力を具
えているオームは、精神を乱すあらゆる影響をはねのけ、最高存在に集中
するために、信心深い人によって 100 回あるいは 1000 回繰り返される。
それゆえに、オームは、マーイトラーヤナ・ウパニシャッドでは、弓であ
る肉体から放たれて、闇を突き抜ける矢であるといわれ、ムンダカ・ウ
パニシャッドでは、魂が矢として飛んで行くための弓であるといわれる。
ナーダビンドゥ・ウパニシャッドでは、オームの冥想によって、もっとも
高い境地、
「光の源であるブラフマンの永遠の明るみ」に至るといわれる。
また、オルデンベルク訳99 による次の二つの引用ではさらに徹底して、こ
91
Isolden
Brahmaloka
93
caturtha.
94
前掲書 (6 頁註参照)、S.280f
95
ota, anujñatr.i, anujña, avikalpa
96
avikalpa(無分別)
97
turīya-turīya
98
Aum, ausgesprochen Ōm
99
Oldenberg, Hermann:Die Lehre der Upanishaden und die Anfänge des Buddhis92
14
の神秘的な言葉つまりオームがブラフマンの国に到達する一つの方法で
あるといわれている。つまり、ナチケータスは死の神に次のように教えら
れる。
「一切の聖典が汝に語りかける言葉、
一切の苦行の中で汝に鳴り響く言葉、
信心の歩みは、聖なるかの言葉に向かって行く、
その短い言葉、それをわたしは汝に告げよう。
すなわち、オーム・
・
・
この言葉、これは最善の頼りである。
この言葉、これは最高の頼りである。
その頼りを認識した者は、
ブラフマンの世界へと高められる。」
あるいは、別のウパニシャッドでは、
「クモが糸をよじ登り、戸外へ達す
るように、誠に、冥想者はオームという言葉でよじ登り、自由に達する。」
といわれる。
最初はブラフマンの認識に達するための単なる手段と解されていたも
のが、次にはブラフマンの認識そのものを象徴し、ブラフマンの名前とな
り、ついにはブラフマンそのものとなる。目的は手段に内在するものとし
て把握され、手段は目的に内属するものとして把握される、このことが可
能なのはただ、まさにオーム100 という音があらゆる聖なる力の総括であ
るからである。おそらくここで、ドイセンの訳101 によるシヴェータシヴァ
タラ・ウパニシャッドの次のくだりのオームという言葉は、ヴェーダの低
位のブラフマンの権化である光の神としての日天102 と同一であると思わ
れる。
「闇が後退し、今や昼もなく夜もない、
ない、なおもない、— ただ至福なのはそれ!
すなわち、オームなる音、日天の愛すべき光、
そもそも知はその光から出てきたのである。」
プラシナ・ウパニシャッドでは次のように記されている。
「確かに、サティアカーマよ、オームという音はブラフマン
であるが、ブラフマンには高位のブラフマンと低位のブラフ
マンがある。それゆえに、知者が同じ音に依るとしても、そ
の到達するところは、いずれか一方なのである。」そして、マ
ヌはいう。
「ヴェーダに規定されているすべての儀式、火の捧
mus. Göttingen 1915 - S.263.
100
Ōm
101
前掲書 (6 頁註参照)S.317.f
102
Savitar.
15
げもの、そしてその他の捧げものは消え去る。しかし、オー
ムという言葉は不滅で、被造物の主、ブラフマンそのもので
あることを知れ。」
アートマンとブラフマン、自己と宇宙は、オームという言葉の中で融合
する。このことはカータカ・ウパニシャッドの次の引用から看取される。
「天、地、透徹した空間のあるところ、そして恐るべき力の風が留まると
ころ、そこでアートマンを認識せよ。アートマンとしてオームについて冥
想せよ。」
さて、Om は Aum の短縮形といわれる。したがって、ほんらいは実際三
つの単位 A, U, M から成り、これらが全体で Aumkāra、すなわち A-U-M
という音を構成する。これら三つの単位は上述の四つの魂の状態と結合さ
れる。すなわち、A は覚醒と、U は夢眠と、M は熟眠と等置される。そ
して、第四足すなわち turīyam によるこれら三つの魂の状態の調和は、再
び、Aumkāra による三つの単位の調和に対応する。
この図式にはさらに変異があり、三つの単位に特別の神秘的な名称が当
てられる。A は身体的自己103 と呼ばれ、U は生命的自己104 を表し、M は
知的自己105 と等置され、これら三つを超えてこれら三つを A-U-M という
統一へと結合する第四足ないし第四禅106 は、直観的自己であるとされる。
「ここで、覚醒した魂は身体的自己108 と
ドイセン107 が述べているように、
いわれる。というのは、おそらく (ヘラクレイトスがいうように109 、) 覚
醒において人間は共通の世界を持つが、夢においてはそれぞれの人間が
自分だけの世界を持つからである。夢眠する魂は生命的自己110 といわれ
る。というのは、その際アートマンはただ自分だけの光に過ぎないからで
ある。熟眠する魂は知的自己111 といわれる。というのは、熟眠において
アートマンは一時的に知的自己112 すなわちブラフマンと一つになるから
である。」
これらの事柄に関する記述はマーンドゥーキャ・ウパニシャッドに見ら
れる。「新ウパニシャッド」に数えられるこの小品のドイツ語訳はドイセ
ンの『ヴェーダの 60 のウパニシャッド』113 に含まれているが、以下に掲
げる原文はエティエンヌ・ラモットの仏訳114 に基づいている。すなわち、
103
vaiśvānara
taijasa
105
prājña
106
tyrīyam oder caturtha
107
前掲書 (6 頁註参照)、S.269.
108
Vaiśvanara
109
Plut., de superst. 3
110
Taijasa
111
Prãjña
112
prājña ātman
113
Deussen, Paul: Sechzig Upanisad’s des Veda, aus dem Sanskrit übersetzt, Leipzig
1897, S.577-582.
114
Przyluski, Jean: Bouddhisme et Upanis.ad, avec la collaboration d’Etienne Lam104
16
「オーム、この言葉は世界そのものである。すなわち、この
オームという言葉は、過去、現在、未来、すべてである。そし
て、オームという言葉はまた、これら三つの時を超えるもの
すべてでもある。
実際、この全宇宙がブラフマンである。あるいは、ブラフマ
ンはアートマンである。そして、このアートマンは四つの部
分を持つ。
覚醒の状態にあるアートマンは、外にあるものを認識し、7 の
肢と 19 の口を数え [シャンカラによれば、10 の根、5 の生命、
そして、意、覚、我執、念] 115 、粗なる要素を喜ぶ。すなわ
ち、その第一の部分は身体的自己116 である。
夢眠の状態にあるアートマンは、内にあるものを認識し、7 の
肢と 19 の口を数え、精なる要素を享受する。すなわち、その
第二の部分は生命的自己117 である。
深く眠り、もはやいかなる願望も持たず、夢も見ない状態、こ
れが熟眠である。熟眠状態にあるアートマンは、一となって、
知性の塊、幸福の極致であり、幸福を享受し、口として知性の
力を持つ。すなわち、その第三の部分は知的自己118 である。
それは宇宙の支配者、全知者、内なる指導者、宇宙の母胎であ
る。というのは、それは存在を創造し、破壊するからである。
それは、外にあるものを認識ぜず、内にあるものも認識せず、
さらに (同時に) 両方をも認識しない。それは認識の塊でもな
く、意識的でも無意識的でもない。目に見えず、不可触、とら
え難く、特徴もなく、思惟できず、規定できず、それぞれの確
信に基づく、展開の終わり、安静、至福、不二。それがその第
四の部分である。これこそ認識されねばならないアートマン
である。
このアートマンは、音からすれば、オーム119 という言葉その
ものである。(オームの) 部分としての単位、すなわち、a と
いう音、u という音、m という音は、(アートマンの) 部分で
ある。
覚醒状態の身体的自己120 、これが a という音、第一の単位で
ある。なぜなら、これは第一のものを達成し、あるいはそれ
となるからである。確かに、このことを認識する者はすべて
otte, in: BĖFEO(Bulletin de l’Ecole Française d’Extrême Orient) 32 (1932).
115
die zehn indriya, die fünf prāna und manas, buddhi, ahañkāra, cittam.
116
Vaiśvānara
117
Taijasa
118
Prājña
119
om
120
Vaiśvānara
17
の願望を達成し、第一の者となる。
夢眠状態の生命的自己121 、これが u という音、第二の単位で
ある。なぜなら、これはまっすぐに立て、あるいは一方と他
方にあるからである。確かに、このことを知る者は、[その家
族の中で] 学の伝統をまっすぐに立て、一方の側と他方の側に
[味方の側からそして敵方の側から] 同じように見られる。その
家族の中には誰もブラフマンを無視する者はない。
熟眠状態の知的自己122 、これが m という音、第三の単位であ
る。なぜなら、これは構築し、あるいは破壊するからである。
確かに、このことを知る者は、全宇宙を構築し、またその破
壊を招来するからである。
第四禅123 は、単位はなく、不可触、展開の終わり、至福、不
二。それゆえに、オームという言葉はアートマンそのもので
ある。このことを知る者はアートマンの中でみずからを統合
する。」
アートマンの第四の特別の状態がはじめて登場するのは、おそらくマー
ンドゥーキャ・ウパニシャッドであろう。ただ、ここでは未だ第四足124 で
はなく、第四禅125 といわれている。
プシルスキー126 は、上記の原典に批判的な考察を加えている。ここで
その考えの全体を訳出してみよう。
「『マーンドゥーキャ・ウパニシャッド』においてきわめて明
確に表現にもたらされている体系は、宗教思想の発展におい
て新しい進歩を示している。この進歩は、宇宙とブラフマン
を四つの部分に分ける古い思弁によって準備された。すでに
リグ・ヴェーダ127 は、すべてのあったものとすべてのあるだ
ろうものである魂を四つの部分に分けている。
『チャーンドー
ギァ・ウパニシャッド』においては、宇宙と同一視されるブラ
フマンは四重128 といわれている。
それゆえに、三つの世界、魂の三つの状態、三つの功徳129 、
三つのヴェーダ、オームという言葉の三つの部分、という古い
三組を超えて第四の術語が定立されたのである。この第四の
121
Taijasa
Prājña
123
Caturtha
124
turīyam
125
caturtha
126
Przyluski, J. 1885-1944.
127
R
. gveda. H.Lüders:“ Zu den Upanisads ”, Sitz. der Preuss. Akad. der Wissensch.
1922, XXIV, p.238 参照。
128
catus.pāt
129
gun.a.
122
18
術語は、同時に宇宙論と心理学に革命を起こすが、簡単にい
えば、それは絶対者、無限者、無制限者の概念である。実際、
絶対者は際限のないものであるから、一に還元することはで
きない。オームは絶対者と同一視されるが、オームの価値は
a+u+m の総和によっては表現されえない。a,u,m の三つの要
素は有限な130 量であり、オームの内実を汲み尽くすことはで
きない。それゆえに、ここでこれらの有限な一の他に際限のな
い131 第四の要素が区別されねばならない。そして、三組のす
べてに平行関係が見られるから、すべての三組のそれぞれに
第四の要素が加わる。ブラフマンは絶対者であるから、オー
ムという言葉と同様、四重132 である。それゆえに、宇宙に第
四の圏域が承認され、それには魂の第四の状態が対応するの
でなければならない。」
これに続いて、プシルスキーが指摘していることは、マーンドゥーキャ・
ウパニシャッドの冥想と同じく、小乗の仏教徒が知っている冥想の方法に
は四つの段階があり、それによって阿羅漢133 の状態に至るということ、さ
らに、聖性が三つの行程の後に至る第四の状態であるとするこの図式には
宇宙論的理念が対応しているということである。
かの著者がその研究の中で述べているように、小乗の宇宙論にはもとも
と三つの界134 、すなわち「色界つまり物体界、無色界つまり非物体界、滅
界つまり抑止界」135 しかなかった。第一の界では意識的主観は物体性136 を
そなえた客観を知覚し、第二の界では意識的主観は物体性のない137 客観
を知覚し、第三の界では意識は停止する138 。かの著者が強調して述べて
いるように、
「明らかに、この三つの界はそれぞれウパニシャッドに記され
ている『状態』に対応する宇宙の『処』そのものと一致する。すなわち、
主観が物体的客観を知覚する覚醒状態、主観がただ非物体的像のみを知覚
する夢眠状態、意識が廃棄されている熟眠状態である。」
標準的仏教ではこれら三つの界に第四の界として欲界139 、つまり「欲求
の界」ないし「感覚的欲望の界」が補完的に付加され、その系列の最初の
ものとされた。「その結果、三つの下位の界に、四つ組みの最後の肢とし
て涅槃が位置づけられた。」この最後の肢は不死界であり、滅界140 と同義
130
mātra
amātra
132
catus.pāt
133
Arhat.
134
dhātu.
135
rūpa-dhātu, Sphäre des Körperlichen, arūpa-dhātu, Sphäre des Unkörperlichen,
nirodha-dhātu, Sphäre der Unterdrückung
136
rūpa
137
arūpa
138
nirujjhati
139
kāma-dhātu
140
nirodha-dhātu
131
19
である。同様にして、ウパニシャッドでは後に、三つの状態ないし処141 す
なわち覚醒、夢眠、熟眠に、第四足142 が追加された。
プシルスキーの説では、それゆえに、ウパニシャッドのこれらの四つの
魂の状態に対応するのが仏教の四つの界、すなわち欲界、色界、無色界、
涅槃143 である。この類比がさらに意味深長となるのは、界144 がパーリ語で
は処145 であり、ウパニシャッドの処146 に正確に対応しているからである。
「仏教の理論家たちが [マーンドゥーキャ・] ウパニシャッドの
水準に立つに至った過程のぎこちなさからすると、」— かの著
者はこのようにその考察を締め括っている — 「おそらく、後
者が前者から霊感を受けたと想定してもよいであろう147 。釈
迦牟尼の脳から完成したものとして生み出されたときわめて
多くの学者たちが信じている『阿羅漢』や『涅槃』の概念は、
いずれにしても、ゆっくりと発達したのだということが原典
の比較対照によってわかる。」
ウパニシャッドの四つの魂の状態と仏教の四つの界とを等置すること
を最初に試みたのは、ラーダークリシュナン148 であり、覚醒、夢眠、熟
眠、第四足、ないし身体的自己149 の状態、生命的自己150 の状態、知的自
己151 の状態、第四足152 の状態について論じた短い註の中で次のように述
べている。
「仏教の欲界、色界、無色界、出世間153 という四つの界の区別
は、この区分に対応する。」
まず第一にプシルスキーの説に関して看過してはならないことは、仏教
の三つ組みから四つ組みへの変化に際して単に分肢の数だけでなく、その
意味も変化したということである。三つ組みの場合の色界は、先に述べら
れたように、物体界を意味し、意識的主観は物体性154 をそなえた客観を
知覚する。しかしながら、四つ組みにおいて色界という場合、確かに物体
性をそなえてはいるが、それは昇華された物体性である、すなわち依然と
して物体つまり物質性から離れていないが、精神性を帯びた界となってい
141
sthāna
turīya
143
kāma-dhātu, rūpa-dhātu, arūpa-dhāts und nirvān.a
144
dhātu
145
thāna
146
sthāna
147
ただし、28 頁では、仏教の理論家たちがウパニシャッドに霊感を受けたのであろうと
述べられている。
148
Rādhākrishnan, Sir Sarvepalli: Indian Philosophy, New York/London 1923-1927,
2 Bde - Bd.1, S.161, Anm.3.
149
Vaiśvānara
150
Taijasa
151
Prājña
152
Turīya
153
kāma, rūpa, arūpa und lokottara.
154
rūpa
142
20
る。粗なる物体性は四つ組みの場合、単に感覚的-物質的でしかない欲界
に移されている。次に、無色界は、すべての物体性ないし物質性を離れた
純粋な形の界、それゆえに一つの精神性の界である。しかしながら、正統
的小乗仏教では、これら三つの界 — 欲界、色界、無色界 — はすべて現象
界の領域であると解釈され、時間、空間、因果性の限界内に包摂されてい
る。絶対的な本体界は滅界ないし涅槃155 である。正統的小乗仏教を代表
ちゃくめつ
する説一切有部ですでに滅界は二重に理解されている。すなわち、択 滅
つまり存在の意識的停止156 と非択滅つまり存在の無意識的停止157 である。
同じことは、滅界と同義と見なされる涅槃についてもいえる。すなわち、
涅槃には、「有余涅槃」すなわち業の残る涅槃と「無余涅槃」すなわち業
の残らない涅槃がある。前者は、端的な涅槃であり、すでにこの現世的存
在の中で三昧においてつまり直観の瞬間において体験される。後者は、円
寂158 であり、この世の生から逝去して「未到のところ、足を踏み入れるこ
とのできないところ」へと入っていくことを言い表している。しかし、お
そらく注意されるべきことは、三つ組みの中で使われている滅界という言
葉がプシルスキーによればただ意識の停止を意味するに過ぎないのに対し
て、四つ組みの中で使われている涅槃という言葉はすべての現象の差し止
めを意味し、明らかにより包括的な概念になっているということである。
さて、プシルスキーのいう無色界と熟眠ないし知的自己159 との等置に
ついてはどうであろうか。正統的小乗の観点を代表する説一切有部の教
えによれば、無色界とは、三種の現象界の一つであり、そこでは錯誤と見
なされる自我の観念が依然として存在するし、しかもすべての物体性か
ら解放され完全に精神的になった自我が個々の人格的な自我として依然と
して存在する。それに対して、熟眠においては自我の意識はまったく存在
せず、個別性もなく、外界や内界の観念も存在しない。すべての心理的な
ものは、アートマンからはぎ取られ、それゆえにすべての二元性、すべて
の悪、すべての恐怖、すべての渇望、すべての憂苦もはぎ取られている。
アートマンは、喜悦を、しかしより高い喜悦を感じている、— それは、す
べての現象から解放された喜悦であり、テージョービンドゥ・ウパニシャッ
ドでは、「それは喜悦であるが、すべての快の彼方にある。」と述べられ
ている。この知的自己160 ないし「認識のアートマン」は、— 客体的認識
のアートマンである覚醒状態ないし夢眠状態のアートマンとは異なり、—
認識の客体となるものを欠いており、マーイトラーヤナ・ウパニシャッド
にいわれているように、「客体を持たず、言葉では記すことのできない認
識」であり、「原因や結果、作用から自由な非二元的認識」である。それ
155
nirodha oder nirvān.a
prati-sam
. khyā-nirodha.
157
aprati-sam
. khyā-nirodha
158
parinirvān.a.
159
prājña-ātman
160
prājña-ātman
156
21
は、ブリハッドアーラニャカ・ウパニシャッドでは、「観想者として独存
し、第二者はない。」といわれ、すべての二元性を克服しており、もはや
「第二者 (すなわち、客体) を認識するもの」161 ではなく、
「一を知るもの」
162
である。実際、個別的な魂は、— ここでは純粋に否定的に把捉され —
全-アートマンないしブラフマンに帰入している。
このようなことはすべて無色界の存在にはあてはまらない。ここで思い
起こさねばならないのは、無色界が正統的小乗では四つの界ないし国に分
割されることである。すなわち、無限な空間の国、無限な意識の国、無の
国、意識も非意識も存在しない国である。いわゆる四無色梵界163 という
これらの四つの国に、冥想者は四つの無色静慮164 によって到達する。し
かし、これらの四つの国は、正統的な教えでは、時間、空間、因果性の枠
から出ていないまったく現象的なものである。
大衆部の思想165 を代表する四つの学派は、このような考え方に反対し
た。すなわち、これらの学派は、説一切有部166 が説いた三つの無為法167 つ
まり「[因縁によって] つくり出されたものではないもの」(1. 存在の意識的
ちゃくめつ
停止つまり択 滅168 、2. 存在の無意識的停止つまり非択滅169 、3. 空間つ
まり虚空170 ) を九つに増やした。つまり、三つの無為法に加えて、四つの
無色界171 とその他にさらに因果の法則と聖道の法則 (つまり救済の教え)
を説いた。それゆえに、四つの無色界は、生老病死の存在する、[因縁に
よって] つくり出されたものの国、つまり被造物や業の国から、永遠性と
絶対性の超越論的圏域へと移された。
このような解釈では、仏教の無色という概念はむしろバラモン教の熟眠
と関連してくる。— ただし、忘れてはならないことは、この解釈が決して
正統的小乗の解釈ではないということである。
インド人の著者ラーダークリシュナンの説に関して言えば、われわれが
異議を唱えたいのは、(すでに先に欲界、色界、無色界について述べられ
たことは別にして)、第四足の概念と出世間の概念172 を一致させているか
らである。
出世間ないし「超世界」の圏域は、他の三つの世界に、18 ないし 20 の小乗
いっせ つ ぶ
せ つ しゅっせ ぶ
派の中の四つの派すなわち、大衆部や、その部派である一説部、説出世部、
161
dvaitavit
savit
163
catur-arūpa brahma-loka
164
arūpa-dhyānas
165
Mahāsām
. ghikā-Ideologie
166
Sārvastivāda-Schule
167
asam
. skr.ta-dharmas
168
pratisam
. khyā-nirodha
169
apratisam
. khyā-nirodha
170
ākāśa.
171
arūpa-dhātus
172
dem turīya-Begriff und dem lokottara-Begriff
162
22
けいいんぶ
鶏胤部173 によって加えられたものである。先に引き合いに出したこれら
の部派の最高原理は、いずれも「世の人々から崇拝される仏はすべて超世
界的174 である」である。それゆえに現象的なものの他に超世界的な国の
存在を承認している。
まず最初にここで答えられねばならないのは、出世間、つまり超世界的
なものは静的なものとして理解されるのか動的なものとして理解される
のかという問いである。おそらく、動的なものとしてであろう。というの
は、大衆部とその三つの部派は、因果の法則と流出の法則、— 動的な二つ
の要因 — を無為法の一つとし、それゆえに絶対的なものであると説明し
たからである。これによって、出世間は、積極的なブラフマンとの合一を
意味する第四足と同列になる。しかし、無色界を絶対的なものの中に入れ
たにもかかわらず、超越的な出世間と現象的な欲界や色界との対立は残存
している。欲界や色界をも超世界的な領域に引き入れ、三つの界をすべて
より高い第四の界によって調和にもたらすということには、まったく触れ
ていない。
第四足の概念と結びついた、すべてを調和にもたらす思想は、仏教にお
いて大乗仏教の発展によって初めて表現された。大衆部の思想は畢竟単に
大乗の立場に近づいていることを示すに過ぎず、大乗の立場を予感し触れ
てはいるが、大乗の思想を明確な形にし細部にわたって展開するというこ
とからはほど遠い。この課題を初めて引き受けたのは、ずっと後の二つの
インドの大乗派、すなわち中観派とヨーガ行派である。— この課題を初め
て解決したのは、完成期の大乗仏教である中国の仏教、特に天台学であ
る。天台学の功績として認められなければならないのは、この調和ない
し同一性の理念に仏教の中で哲学的に十分基礎づけられた完璧な表現を
与えたことである。それゆえに、ウパニシャッドの中で説かれ、ヨーガに
引き継がれた、身体的自己175 、生命的自己176 、知的自己177 、これらの第
四足178 による調和に相当するものを仏教の中に確認しようとするならば、
われわれは天台学に目を向けなければならない。
さて、しかしながら、覚醒、夢眠、熟眠、第四足は、欲界、色界、無色
界、出世間界とすぐさま等置できないのと同様、空、仮、中、円融三諦と
いう天台の根本概念ともすぐさま等置することはできない。
覚醒は、もちろん有という仏教の概念、すなわち純粋に現象的な存在に
対応する。有は上記の天台の根本概念の中に言葉としては入っていないけ
れども、空の根底に存している。実際、すでに述べたように179 、天台学
173
Ekavyāhārika-, Lokottaravāda-, und Kaukkut.ika-Schule.
lokottara
175
Vaiśvānara176
Taijasa177
Prājña178
Turīya179
例えば、「すべてのダルマを取り、それを無制約性の海に沈め、主観的見方や煩悩か
174
23
で空の概念は、有の領域に属する事物を純粋な抽象の海に沈めることに
よって獲得される。空の概念は、熟眠の概念に相当するといえる。有から
空への道は、それゆえに、夢眠の段階を経由し、覚醒から熟眠へ至る道を
意味するであろう。空から仮への道に対応するものも、先に述べられたド
イセンの解釈に従えば、ウパニシャッドに存在する。すなわち、観念論か
ら実在論への変化、もっとも純粋な抽象から出て具体的な生の世界への反
転、つまり現象的であるとしても、空虚なものないし超越的なものを形而
上学的背景として持つ、有の世界への反転である。しかし、夢眠を仮と等
置することはできない。実際、夢眠は、覚醒の通常の表象を用いており、
ちゅう
決して高揚した状態ではなく、衰弱した現象的状態に過ぎない。 中 は、
調和をもたらす原理として、第四足180 に相当するといえる。しかしなが
ちゅう
ら、 中 が空とその対である現象的存在 [仮] とを相互に調和にもたらすの
に対して、第四足は覚醒や夢眠に属する現象的存在を空と調和させる。用
語を統一して言えば、天台の図式では空が仮と調和にもたらされるのに対
して、ウパニシャッド・ヨーガの図式では有が空と調和にもたらされると
いえよう。
個々の点では差異があるにしても、今や二つの図式は大きな目で見れば
一般的性格において一致している。二つの図式にはそれぞれ二つの根本原
理があり、それらは第三の原理によって調和にもたらされ、さらにはそれ
ら三つの原理を超える第四の原理があり、それによって三つの原理は相互
に同一化され合一される。— この点は先にも181 すでに述べた。
三つの根本概念を第四のものによって調和にもたらすこと、ないし三つ
のポテンツを第四のポテンツへと高めるということは、一方で天台学の、
他方でピュタゴラス学派、カバラ、シェリング哲学の共有財産であること
をわれわれはすでに理論的な面で確証したが182 、このことが実践的な面
で、天台の実践、そしてウパニシャッドを基礎にしたヨーガの実践の共通
の要素として浮かび上がってくるのは確かに目を見張るべきことである。
円融三諦という概念が果たす機能はヨーガでは aumkāra という概念が果
たしている。— 両者において、三つの原理が第四の原理によって相互に融
合される。ヨーガ行者ないし天台止観の実践者はこの二つの最高概念につ
いて冥想するが、これらの概念は共通して、有限性を排除せず、有限性の
根拠として、— 差異も同一性もみずからの中に受け入れることができる、
— 経験的実在性と超越論的観念性をともに存立させる、— それゆえに、こ
の世の豊かで多様な絢爛たる生を空虚な夢とか芝居ないし影絵芝居にして
しまう抽象的一元論を象徴するのではなく、時間的なものと永遠なものと
ら完全に解放する時、これらの完全に無制約的なダルマは空の真理として空諦 (くうたい)
である。」(原書 S.35) と言われている。
「ブルーノ・ペツォルトにおける空の理解」(「ペツォルトの世界」第 4 号) 参照。
180
turīya
181
そうしょう
例えば、原書 S.157「双
182
原書 S.277 以下参照。
照」の説明を参照。
24
を相互に調和にもたらす汎神論を象徴している。
しかし、この汎神論は、(すでに天台学について論じた際に強調してお
いたように183 ) 狭い限定された意味での汎神論、つまり最高の実在を単に
事物の総体と解しその超越性を否定する汎神論ではなく、神は世界を含み
しかも世界を超越している、それゆえに世界より大きいとする万有在神
論である。絶対的実在性を持つ自然は、この考え方によれば、単に世界過
程に尽きるものではない、— 少なくとも、単に「世界」の下にわれわれが
知っている宇宙を理解しているに過ぎないような世界過程に尽きるもの
ではない。というのは、ウパニシャッドや天台仏教のいうさまざまな世界
は、自然科学的に承認された世界の外になお実在しており、そのような世
界過程の視野の外にあるからである。しかも、超越的でありかつ内在的で
もあるブラフマンや仏という二者にとっては、さらに広いそして最も広い
意味での宇宙でさえ、その一部に過ぎないのである。このように説くウパ
ニシャッドでは、宇宙は神の中にあると説明され、— 智顗によって定式化
された天台学でもそのように考えられている。二つの哲学の考え方におい
ては、宇宙の形成のために絶対者から何が「取り出され」ても、絶対者は
欠損のない完全なものとして残る。
第四足184 は、上述のように最高のポテンツに高められたアートマンと
解され、悟りの瞬間にはブラフマンとの合一が自覚され、それゆえに冥想
において仏との合一を経験する大乗仏教の大我ないし真我に比されるが、
これをマックス・ミュラーは死と解した。これは、死ないし死ぬことを第
四の状態として、覚醒、夢眠、熟眠という三つの状態に付け加えた幻影主
義的なヴェーダーンタの解釈である。さらに失神ということがあるが、こ
れはしかし、単に一時的な病的現象であって、第五の魂の状態には数えら
れない。死として示されるより適切なものは涅槃185 (これは、仏教におい
て中心的意義を獲得する前に、周知のようにすでにバラモン教において
用いられていた概念である) であろう。というのは特に、先に述べられた
ように、涅槃には二つの種類があると考えられるからである。すなわち、
「有余涅槃」、つまり業186 が残存している涅槃であり、この世の生におい
て一時的に絶対者と合一すること (バラモン教において、生の解放187 と呼
ばれる状態) と、「無余涅槃」、つまり業が残存していない涅槃であり、も
はや再生のない死の瞬間に究極的に絶対者と不変的に合一することであ
る。実際、二つの意味が第四足188 に結びついている。しかし、第四足を
単に死と解することは、この語の十全な意味に関して正しいとはいえな
183
ペツォルトは、すでに天台学とゲーテについてそれを万有在神論であると説明してい
る。原書 S.287 参照。
184
turīya
185
Nirvān.a
186
karma
187
jīvanmukti
188
turīya
25
いであろう。とはいえ、このような解釈を超えさせるような箇所はウパニ
シャッドの中に見出されないし、他の解釈を考慮させるような箇所も見あ
たらない。多くの場合と同じくここでも、聖なる原典に用いられているさ
まざまな概念の体系的解釈は後世の賢者にゆだねられる。
本来的に絶対性、無限性、無限界性の理念を含む第四足の概念も、ヨー
ガに結びついている他の多くの概念と同じく、粗になり変質していった。
ミルチャ・エリアーデ189 の『ヨーガ、インド神秘主義の起源』190 にある
報告によれば、今日ヒマラヤのヨーガ道場にこの変質した第四足の概念
が生きているという。すなわち、
「われわれが数ヶ月間 (1930 年 9 月-1931
年 3 月) 居住したヒマラヤの道場 (ハルドヴァル、リシケシュ、スヴァル
ガシュラム) で多くのヨーガ行者が告白したことであるが、調息191 の目的
は修行者を第四足の (カタレプシー的) 状態に至らせることであるという。
われわれ自身が二三のヨーガ行者を観察したところ、夜も昼もかなりの部
分をヨーガの深い『半睡状態』192 で過ごし、その間ほとんど呼吸は認め
られなかった。」— 同書の別の報告では、
「周知のように、今日でもヨーガ
行者が試みていることは、調息によって四つの意識の『状態』(日常的状
態、夢眠状態、夢を見ない熟眠状態、カタレプシー的状態の『意識』) を
相互に結びつけることである。それゆえに、ウパニシャッドや仏教の文献
に言及されている状態193 に相当するものは、意識を三つないし四つの段
階に分けるという経験ないし試みである。まさにヨーガ行者は、これらの
状態を相互に『結びつける』ために、最後の状態つまりカタレプシー的状
態に至るまで明晰さ、注意深い集中の維持に努めている。」
ウパニシャッドの第四足194 を特徴づける表現としてきわめて不適切な
ものは、今やまさに「カタレプシー的」という言葉である。というのは、
カタレプシー的という場合、強硬症という病的状態が理解されており、そ
れは身体の動きがなく、ほとんどの場合とはいわないまでも多くの場合意
識が消失している状態を意味しているからである。ここで再び気をつけな
ければならないことは、古典的ヨーガと後期のヨーガとを注意深く区別し
なければならないということである。今日のヨーガ行者が確かにいわゆ
る「マハトマ」195 の故郷である万年雪の聖なる山で修行に専念している
にしても、古典的ヨーガを今日のヨーガ行者の体験から判断してはならな
い。このような修行によって熟練者は、おそらくハタ-ヨーガの境地に入
り、途方もないものを深くとらえたと感じ、戦慄し硬直するが、三つの執
持196 に集約される救済の至福の認識が成立するラジャ-ヨーガの明るい王
189
Mircea Eliade 1907-1986.
Yoga, Essai sur les Origines de la Mystique Indienne 1936 Paris-Bucharest
191
prān.āyāma.
192
trance
193
sthāna.
194
turīya
195
Mahātmas.
196
Dhāranās.
190
26
者の高み、すなわち「この宇宙全体がブラフマンである」— 「ブラフマン
自身が宇宙である」— 「わたしがブラフマンである」には至らない。
インド哲学では、四つの大きな魂の状態には四つの身体の理念が結びつ
いている。四つの身体197 とは次のようなものである。
I. 粗の身体 — sthūla-śarīra
II. 細の身体 — sūks.ma-śarīra
III. 因の身体 — kāran.a-śarīra
IV. 第四の身体 – turīya-śarīra
第一の身体は、自然の、粗な物質的身体であり、生まれながらの身体で
あり、死に際して諸要素に解体する。これは覚醒状態に対応する。
第二の身体は、霊魂の、細な物質的身体であり、— サーンキヤでは身
骨198 と呼ばれ、神智学では幽体と呼ばれる — 死せず、要素に解体するこ
ともなく、すべての存在を通じてその再生の際、魂に随伴する。これは夢
眠状態に対応する。
第三の身体は、実体的身体であり、実際その本性は実体である。これは、
遍在しすべての魂に共通で同一の身体であり、夢を見ていない睡眠状態に
対応する。
第四の身体は、最高の身体であり、魂が神性を実現し、ブラフマンと一
体になり、ブラフマンに沈潜している最高の状態に対応する。
この第四の身体は、最近になって初めて、しかも著名なインドの改革者
ダヤーナンド・サラスワティ199 によって、ヴェーダーンタ学の伝統的な
構成要素である他の三つの身体に付け加えられた。このこともまた形而上
学において3という数が、三つの根源的ポテンツを相互に和合させる4と
いう数に突き進むことを証明している。第四の身体は超世界的である。そ
れに対して、他の三つの身体は、自在天200 によって創造された世界、無
知に囚われた世界に属している。
この三つの身体はまた、五つの容器、函、あるいは被い201 とも呼ばれ
る。これらは次のように三つの身体に割り当てられる。
I. 粗の身体は食物的容器202 と同義である。というのは、食物から形作
られるからである。
II. 細の身体には三つの容器がある。
1. 気息的容器203 、これには五つの気息204 の応答と五つの感官が含ま
197
śarīra
liṅga-śarīra.
199
Dayānand Sarasvatī 1824-1883
200
Īśvara.
201
kośa.
202
anna maya kośa
203
prāna maya kośa.
204
prāna
198
27
れる。
2. 思惟的容器205 、これには意206 と再度五つの感官が含まれる。
3. 認識的容器207 、これには五識208 と覚209 が含まれる。
III. 因の肉体は歓喜の容器210 と言われる。これは最内奥の被いであり、そ
こで魂は歓喜を享楽する。この歓喜は、多数の客体の一時的抹消やブ
ラフマンとの短い合一から生じるが、魂はこの状態から苦しみに満ち
た覚醒に帰る。
四つの魂の状態の説やそれと結びついた四つの身体の説は、その最高点
に至ると、すでにウパニシャッドで説かれていた四つのアートマンと四つ
のブラフマンとが等置され、四つのミクロコスモスと四つのマクロコスモ
スとが等置される。このことは、以下の図式によって明らかであろう。
アートマン (主体)
1. 身体的自己 — 個人の粗の身体
(Vaiśvānara)
2. 生命的自己 — 個人の細の身体
(Taijasa)
3. 知的自己 — 個人の因の身体
(Prājña)
4. 直観的自己 — 個人の第四の身体
(Turīya)
ブラフマン (客体)
1. 宇宙 — 宇宙の粗の身体
(Virāt)
2. 世界霊 — 宇宙の細の身体
(Hiran.yabarbha)
3. 自己意識 — 宇宙の因の身体
(Īśvara)
4. 歓喜 — アーナンダ
(Brahman)
括弧に入れたサンスクリット名は、一方でアートマンの具現であり、他
方で神的ブラフマンの顕現であり、完全性の度合いが上昇していく。第四
足211 が低位の三つの魂の状態と身体をみずからの中に合一しているよう
に、ブラフマンは低位の三つの神性をみずからの中に含んでいる。
仏教の理論家たちがウパニシャッドに着想を得たのか否か、プシルス
キーはかなり確実だと見なしているが、われわれは未決定のままにしてお
く。ここでわれわれにとって重要なことはただ、仏教的思惟が歴史的に見
てインドの「秘教」のあれこれの原典に依存していることを明らかにする
ことなどではなく、両者の考え方に平行関係が見られることを指摘するこ
とである。そして、この関係の中でさらに次のことをよく考えてみたい。
古代のウパニシャッドでは、非二元性ないし非二性、つまり一と多の二
つは、相互に対立する原理ではあるがそれにもかかわらず「非二」212 で
205
mano maya kośa.
manas.
207
vijñāna maya kośa
208
vijñāna.
209
buddhi
210
ānanda maya kośa.
211
der Turīya
212
advaita.
206
28
あるし、一方が他方に内在し、一方が他方を生かしており、両者の根底に
同じブラフマンが存していると教えている。したがって、ブラフマンは二
つ存在する。すなわち、おのれの許にとどまるブラフマンと、世界として
現象し世界を生み出すブラフマンである。ただし、この二つのブラフマン
は、二つではなく、一つである。サーンキヤ学がこのウパニシャッドの教
えから引き継いだものは、永遠な原理と実在の原理という二つの対立する
原理 (つまり、物質213 と多数の個々の魂214 ) という理念であって、二つの
対立者を調和にもたらすブラフマンの理念ではない。サーンキヤ学の認
める救済とは、物質と魂の区別を認識し、二つの敵対的原理の一方である
魂に引きこもり、他方の物質を完全に視界から遮断することである。この
サーンキヤの説を実践に移したのがヨーガである。別の方法を採ったのは
ヴェーダーンタ学であり、多の原理を無視し、一の理念のみを基礎に置く。
「一にして、非二」215 という原理は、ヴェーダーンタ学では、最高のブラ
フマン以外に実在的なものはなく、多の世界は仮象に過ぎないことと解さ
れる。救いはただ、一に逆行する多が幻影216 であることを認識し、完全
にブラフマンの中に沈潜しブラフマンと一体となることに存する。ヴェー
ダーンタ学と同様、サーンキヤ・ヨーガもそれゆえに、ウパニシャッドの
哲学に由来するものであるが、それを全面的に継承するのではなく、ただ
部分的に引き継ぎ、ある場合には多の根底にある一を無視してただ多の理
念を継承したり、ある場合にはその一を多に展開するものの実在性を拒否
して、単に一の理念のみを認める。きわめて簡潔にいえば、このようにこ
れらの学派の相互関係を解釈することができる。
しかし、実際の歴史的由来を考慮に入れず、純粋に一つの思想としての
み天台学を考えれば、天台学のほんらいの精神的創設者である智顗は、—
当然のことながら意識してはいなかったが — ヴェーダーンタ学やサーン
キヤ・ヨーガの教説を飛び越えて、古いウパニシャッドの教説に帰り、一
と多の実在性の原理や一と多の同一性の原理をみずからのものにしたと解
される。それゆえに、その基礎となっている原理は、まったく多数の見方
に沿う言い方ではないが、仏教的に翻案されたウパニシャッド哲学である
といえよう。したがって、天台学の冥想は、サーンキヤ学に基づいたヨー
ガにその類型が見出されるのではなく、ヴェーダーンタ学の方へスリップ
したヨーガにでもなく、ウパニシャッドのヨーガとも呼ぶべき実践にその
類型が見出されるであろう。実際、天台学の信奉者はその実践の中で古い
ウパニシャッドの根本理念をきわめて独特な仕方でみずからのものにしよ
うとしたといえよう。
213
prakr.ti
puruśa
215
ekam eva advitīyam
216
māyā
214
29
日本の天台宗 (下)
2
ブルーノ・ペツォルト217
訳:石丸悦朗/京都
三学の大乗化および精神的生と世俗的生の統一
最澄の円頓戒制度には、最も重要な二つの原理が二つながら含まれてい
る。その一つは、仏教学用語で三学一源218 (三つの学が同一の根源をもつ)
と呼ばれている。
三学、より適切にいえば三つの修行部門とは、徳性219 、冥想、そして
知恵である。すなわち、
I. 戒。これは、悪行を禁じ、自分の徳目を伸ばすことを勧め、他者を救
済するよう要求する道徳戒と規則から成る。
じよう
II. 定 。これは冥想であり、これによって精神の散漫と動揺が防止される。
え
III. 慧。これは超越論的認識ないしは超越論的知恵であり、これによって
迷妄が除かれ、真理が明らかになる。
戒・定・慧はサンスクリット語では通常、「優れた」という意味の接頭
語 adhi を省略して、短くśīla-dhyāna-prajñā と呼ばれる。この接頭語は
三学がどの通常の学にも優越することを示唆している。実際ここで問題
となっているのは、他のいかなる学よりもはるかに高い目標を持った学な
いし修行部門である。というのは三学は救済 (解脱) に近づく道を示して
いるからである。三学のうち、戒は六波羅蜜 (あるいは十波羅蜜) のうち
の第二波羅蜜に対応し、定は第五波羅蜜に、慧は第六波羅蜜に対応する。
六波羅蜜とは、すべての菩薩に不可欠の基本的な徳目であり、輪廻の河、
しょうじ
生 死の河を越えて菩薩を彼岸へと渡し、解脱に、つまり仏に到達させる
手段を表している。小乗仏教はこの三学を狭い意味で理解した。しかし大
乗仏教は、三学を波羅蜜のカテゴリーに含めたことからも分かるように、
その意味を深く掘り下げ、大きく広げたのである。
え
はんにゃ
知恵 (慧・般 若) は、もともと六つあった波羅蜜のうちの第六波羅蜜で
あるが、原始インド仏教では、これだけが実際に人間を救済する力を持つ
とされていた。なぜなら、認識は解脱と同義だったからである。徳性と冥
想はいわば単に知恵ないしは認識に奉仕するだけであり、その上徳性は冥
217
Studien zur Japanologie Band 15, die Quintessenz der T’ien-Tai(Tendai)Lehre,
eine komparative Untersuchung von Bruno Petzold, Otto Harrassowitz, Wiesbaden,
1982 より抜粋。
218
原書の「三学一根」を「三学一源」に改めた。
219
原語は Moralität。
「道徳、道徳性、徳性」といった意味である。原書では「戒」とほ
とんど同義に用いられているように思われるが、本訳では「持戒によって身に備わる徳
性」と考えて、原則として「徳性」と訳すことにする。
30
想に従属していた。智顗によって代表される中国仏教に至って、冥想と知
恵は車の両輪のように同じ地位を獲得する。すなわち、二つが大乗化さ
れるのである。しかしながら徳性 (戒) は 250 戒と結びついていたために、
まだ小乗的色彩を保持していた。最澄の円頓戒制度において戒もまた大乗
化され、それによって定や慧と同列に置かれた。このようにして、中国で
かなえ
はいわば二脚だけで立っていた大乗仏教が、最澄によって 鼎 のように三
脚で立つようになり、われわれは全仏教史の中で初めて、調和的な一乗‐
戒定慧‐制度に、つまり徳性、冥想、知恵が調和した一乗の制度に出会う
のである。
こうじょう
もしこの点に関して光 定の書いた『一心戒文』が信頼できるとした
ら、三学はすべて、慧思と弟子の智顗によってすでに「大乗化」され、
び
る
しゃな
毘盧舎那の法と同じものとみなされていた。彼らは三学を大乗の精神にお
いて解釈し、三学のうちのどれもが他の二つと完全に調和していると考え
たが、光定によれば、そのような解釈はその後、日本に渡来した中国人律
どうせん
師 道?
220
どうせん
(702-760) に受け継がれ、 道? はこの大乗化された三学を弟子
ぎょうひょう
の行 表(722-797) 221 に伝え、行表は弟子の最澄に伝授したという。こ
の仮説に確かな証拠はないが、仮に正しいとしても、最澄が大乗化された
三学を実践に移し、初めて修行に適用したという事実は残る。そうだとし
たら、慧思と智顗の功績は、すでに小乗において用いられていた三学とい
うカテゴリーを、理論的に大乗の精神で満たしたことであるだろう。
最澄は、宗門規約の一部をなす三論文への序文で、「今や私はわが宗門
がくしょう
の学 生たちに大乗‐戒定慧を授けたい。というのは、彼らを小乗の低次
な方法から永久に解放したいからである」と述べている。このことから、
徳性、冥想、知恵の調和という思想を大乗的な意味で実現したのが最澄で
あったことは疑うべくもない。
最澄のいわゆる円頓戒が、事実上、円頓の三学戒、すなわち完全にして
速やかなる三学の道徳戒であることは、以上からも明らかである。この見
解に従うならば、徳性‐冥想‐知恵 (戒‐定‐慧) は、三つすべてが完全に
一つになって調和し、速やかに悟りを授ける限りにおいて、完全 (円) に
して速やか (頓) なのである。
このような倫理の捉え方は、仏教を精神化する道を前進する上で偉大な
一歩だったことを意味している。原始仏教においては、徳性それ自体は価
値を持っていなかった。というのは、特定の集団の中で通用する道徳規範
にのっとったすべての行動は、個人の世界、すなわち相対的な因果の世界
に根ざしており、そのような世界を滅却することこそが、仏教本来の目標
だったからである。仏教倫理を相対性の世界を越えて絶対者の世界へと導
どうせん
くことのできる橋を架けたのは、中国の道 宣(596-667) であった。(ただし
220
221
パソコン上の不都合により、表記できていない。(編集者)
日本仏教史辞典 (吉川弘文館) によれば、行表の生没年は、724-797 である。
31
おくりな
この道宣は、南山大師という 諡 で呼ばれない時には、先ほど言及した、
どうせん
日本に渡来した 道? と混同してはならない。) さらに倫理を絶対者の王国
に初めて完全に定着させ、絶対的倫理的世界と相対的倫理的世界は同じ
だとすることによって両者をつないでいた橋を取り払った仏教学者は、日
本人最澄であった。彼の偉業は、すでに冥想と知恵が住み慣れていたのと
同じ大気に徳性を順応させたことであり、特定の集団の中で通用する道徳
規範から、理論的のみならず実践的にも、絶対的本質を作り上げたことで
ある。
最澄は、愛の道徳である大乗道徳を完全に大乗化することによって、そ
けいりゅう
れを魂の根底に繋 留した。魂の根底とは、すでに冥想ないし観想と、知
いかり
恵ないし認識とが 錨 を下ろしているところであった222 。このことを理解
するには、マイスター・エックハルトの次の言葉が役立つかもしれない。
彼はある説教で次のように述べている。
「浄福は多くの場合愛の中にある、
と少なからぬ師が言った。浄福は認識と愛の中にある、と言った師もい
る。
・
・
・
・しかしわれわれは言おう。浄福は認識の中にも愛の中にもない。
そうではなくて、そこから認識と愛とが流れ出し、それみずからは認識す
ることもなく、魂の諸力が愛するようには愛することもない、そういうも
のが魂の中には存在するのだ、と。これを認識する者は誰しも、浄福がど
こにあるかを認識する。これには以前もなければ以後もなく、これは何か
付け加わるものを待つこともなく、何かを獲得することも失うこともあり
えない。それゆえこれは、みずからの内で活動するすべを知らないほどに
奪われている。これはむしろそれ自身神のような仕方でみずからを享受す
るものである223 。」この「魂の中に存在するもの」を、マイスター・エッ
クハルトは「火花」と呼び、最澄は「仏性」と呼んだが、そこでは徳性と
冥想と知恵とが一つになっている。最澄は戒を完全に大乗化することに
つみびと
よって、智顗によって承認されていた理論的原理、すなわち罪 人自身の
222
「繋留する」
「錨を下ろす」と訳した原語はともに verankern。比喩表現であるが、こ
の比喩は「大乗」
「小乗」「一乗」などの「乗」に船のイメージを重ねたことに関係してい
るのであろう。
223
エックハルトの説教「三つの内なる貧しさについて」の一節。ペツォルトの原文との
間に異同があるので、田島照久編訳『エックハルト説教集』(岩波文庫) の該当箇所 (168
ページ) をそのまま引用して紹介する。
「神から出たすべてのものは、純粋な働きを目ざす
ように定められている。さて、人に定められた働きとは愛と認識である。ところで、主と
してどちらの内に浄福があるのかという問題が論争となっている。ある師たちは認識の内
と言い、ある師たちは愛の内といっている。さらに別の師たちは、浄福は認識と愛との両
方の内にあると言うが、この方がより適切である。しかしわたしたちは次のように言う。
浄福は認識の内にも、愛の内にもないと。むしろ、魂の内にひとつのあるものがあって、
認識も愛もそこから流れ出ている。これは、魂の諸力とはちがい、認識もせず、愛するこ
ともしない。この「あるもの」を知ればだれでも、どこに浄福があるかわかるであろう。
このあるものには、以前もなく以後もなく、つけ加えられるべき何ものもそれは期待しな
い。なぜならば、これは得ることも、失うこともありえないからである。それゆえに、こ
れは神がその人の内で働いていることを知るということも奪うのである。むしろこのある
ものはそれ自身、まさに神と同じ仕方でみずからを享受しているものそれ自身なのであ
る。」
32
本性は仏性そのものに他ならず、罪の本性は「真実の相 (実相)」すなわち
絶対者と一つであるという理論的原理から、実践的結論を導き出したに過
ぎない。そもそも罪深さの本性が戒を通じて把握しうるのだとしたら、絶
対者の精神に適合し、誤りを止揚して身をもって真理を生きることを基礎
づけるものは、純粋大乗戒しかありえない — 最澄はこう言ったのである。
しんぞくいっかん
最澄の円頓戒制度に含まれるもう一つの偉大な原理は、真 俗 一 貫(精神
的生と世俗的生は一つである) という原理である。精神的生とはここでは
もっぱら天台的な意味での僧としての生であり、世俗的生とは在俗信徒の
生である、と理解されねばならない。
菩薩戒は、最高の意味での仏教が、僧に限らずすべての在俗の人々にも
開かれているという理念を、それ自身の内に含んでいる。インドの小乗仏
サンガ
教においては、聖なる小径とその最終目的地である涅槃は、厳として教団
を構成する修行僧と尼僧のためのものであり、それゆえ仏教僧と俗世間と
の間には越えがたい深い溝があった。中国では、特に阿弥陀を崇拝する浄
土教の信者 (廬山に集まった聖職者、知識人、文人たちからなる白蓮社が
想起される) の中に一定数の在俗信徒がおり、彼らはいわば僧と同格に見
られていたので、両者の間には著しく近しい関係が存在していた。しか
し、具足戒を授けられたすべての僧にのみ課された 250 戒が、依然として
僧を特別聖なる存在にしていた。
最澄の円頓菩薩戒は、こうしたことすべてを一新した。彼は二つの受
つうじゅ
べつじゅ
戒の道を創始した。一つは通 受(等しい受戒) と呼ばれ、もう一つは別 受べつじ
び
く
別持(異なる受戒‐異なる持戒) と呼ばれる。別受-別持の規則は、比丘と
び
く
に
さんじゅじょうかい
比丘尼(僧と尼僧) は三 聚 浄 戒(三種類の浄らかな戒) を受けて梵網戒の 58
しゃみ
しゃみ に
戒つまり 10 の重戒と 48 の軽戒に従わなければならず、沙弥と沙弥尼(男
し き しゃま な
女の見習い僧) は 10 の重戒に従わなければならず、式叉摩那は 10 の重戒
ろくほう
しゅっけなん
しゅっけにょ
の他に六 法を受けなければならず、出家男と出家女(家を捨てただけの男
う ば そ く
う
ば
い
女) は最初の 8 の重戒を受けなければならず、優婆塞と優婆夷(在俗の男女
はらから
の同 胞) は梵網戒の最初の 5 の重戒を受けなければならない、と規定して
いた。この点では天台宗の中にさえ、小乗の制度と同じように、依然とし
て僧俗の間に厳しい区別があった。しかし通受の規則は、三聚浄戒が僧俗
双方に開かれており、58 戒についてはすべての人間およびすべての衆生
がその能力に応じて一つの戒でもそれ以上の戒でも受けることができる、
と規定していた。天神、餓鬼、畜生でさえ、戒師の言葉を理解する能力が
あることを前提に、58 の梵網戒を受けることができたのである。
僧俗を分けていた溝はこうして架橋された。確かに僧はやはり家を捨て
なければならず、飲酒・肉食・妻帯の禁止という義務を負わされ、複雑な
寺院儀礼を担当する正式の司式者であり、仏教学の知恵を守り授ける者で
ゆいま
あり続けた。しかしこれ以降僧は、維摩という在俗の菩薩の例に倣って最
高位の僧とさえ同列に扱われるようになった誠実で熱心ないずれの信徒と
33
も、「菩薩」の称号を分かち合うようになった。ここでいう菩薩とは、も
しそう言って良ければ、悟りを本質とし仏と規定された「人類の奉仕者」
である。自分自身の救いだけを心がける小乗の声聞の功徳をすべて放棄し
た大乗の菩薩であるということは、比叡山の僧の最高の栄誉であった。
聖徳太子は仏教を超越的要素として人間の日常生活から切り離すことに
反対したが、最澄は、精神的生と世俗的生が一つであるという原理を承認
したことによって、聖徳太子の後継者となった。一方親鸞聖人は、すべて
の特別な僧戒とすべての特別な僧の聖性を斥けることによって、僧の生と
在俗信徒の生が完全に一つであると宣言したが、最澄は、精神的生と世俗
的生が一つであるという原理によって、親鸞聖人の先駆者となった。この
ような観点から見れば、最澄は聖徳太子と親鸞聖人の媒介者なのである。
国宝、国師、国用
下山を許さぬ 12 年に及ぶ修行をさせた後で最澄が天台僧に課した課題
さんげがくしょうしき
が、『山 家 学 生 式』、略して『学生式』(学生のための規則) に記されてい
こくほう
る。最も才能豊かな者は国 宝の称号を授けられた。それは「良く教え、良
く行うことのできる」者、すなわち深い学識と高い徳とを一身に兼ね備え
た者である。彼らは僧の学校の真の指導者兼教師として引き続き比叡山に
留まり、宗門と学校の生命を繰り返し蘇らせうる精神的源泉とならねばな
らなかった。「良く教えることのできる」者、すなわち学識だけは備えて
こくし
いるが人並み優れた徳を持たない者は、国師の称号を与えられた。「良く
こくゆう
行うことのできる」者は国 用と呼ばれた。国師と国用の位の僧は、諸国
に赴いて住民を教化し、道徳的に感化しなければならなかった。国宝、国
師、国用の三つの位はすべて当局によって承認された菩薩の称号を有して
いたが、ここでいう菩薩は、儒教のいう君子、すなわち真に高貴な人物に
相当した。
でんぼう
国師と国用は政府の辞令によって伝 法や講師となった。伝法 (教えを伝
える者) は多くの場合、奈良や京都の大寺院に居所を持っていた。講師は
講義する者という意味であるが、4 年から 6 年の間、66 あった諸国のさま
ざまな国立寺院、いわゆる国分寺で働く義務を負っていた。講師は、毎年
あんご
90 日に及ぶ安静の期間 (それは安居と呼ばれ、4 月 16 日から 7 月 15 日ま
で続き、この期間はインドの雨期に当たるとされた) には、いにしえの慣
きょうろん
習に従って、多数の会衆の前で経 論を読み上げ解説した。在俗の聴衆は
さまざまな布施をして謝意を表した。最澄の『学生式』は、講師やその他
の僧はこの布施を私利私欲のために用いてはならず、国司の倉に保管し、
入念に記帳し、公共の福祉のために役立てなければならない、と規定して
いる。福祉目的として挙げられているのは、灌漑用の池や水路の改修、未
墾だったり洪水で荒廃したりした荒蕪地の開墾、崩落地をもう一度盛り上
34
げて段状に整備する工事、橋や船の建造、植樹、特に街道に果樹を植える
こと、麻や有用植物の栽培、井戸掘り、そして聖経の読経や教育制度の充
実なども含めて国全体の福祉と個々人の幸福を促進する、その他のありと
あらゆる活動である。
このことが証明しているように、最澄は単に仏教学の領域における改革
者であるのみならず実践的な変革者でもあり、また弟子たちに与えた「菩
薩」の称号が内容のない単なる名称として受け取られることを望まなかっ
た。弟子たちは、言葉の真の意味で、他者のためにみずからを犠牲にしな
ければならなかった。最澄にとって、国家は家族に基礎をおいた道徳共同
体であり、永遠の普遍的真理を体現したものであったが、弟子たちはその
国家に奉仕するため、全力を傾注しなければならなかった。最澄は『学生
式』の中で、国家への奉仕という意図を、古代インド仏教や中国仏教と比
べても例がないような仕方で強調している。衆生の役に立つという義務
は、それまで多かれ少なかれ抽象的な理想でしかなかったが、最澄はそれ
を修行の方法とした。彼はこの点できわめて徹底しており、この義務を果
たすよう弟子たちを強く戒めたので、生前からすでに聖徳太子に擬せられ
ていた。聖徳太子は、法華経への注釈の中で、仏教は、正しく理解するな
らば、遁世ではなく、他者の幸福のための実践活動に通じるものである、
と言明していたからである。
さらに『学生式』には、最澄の寛容で自由な精神があたう限りの明瞭さ
がくしょう
で現れている。まず第一に、比叡山の僧のための学校は、天台宗の学 生
のみならず、奈良の諸宗の学生にも開かれていなければならない、と規定
していた。第二に、次のような提案をして政府にも聞き入れられた。つま
り、一方では天台宗に毎年 2 名の新しい僧の任命を認可するよう天皇に請
願しながら、同時にもう一方で、毎年法相宗と倶舎宗に合わせて 3 名、三
論宗と成実宗に合わせて 3 名、律宗に 2 名、華厳宗に 2 名の僧を承認する
ねんぶんどしゃ
よう提案したのである。これは要するに、12 名の年分度者(毎年公式に戒
を授けられて日本の僧籍に加えられることになっている 12 名の候補者) の
うち、たったの 2 名だけを — 正式に天台宗に帰属すべき数として — 新興
の天台宗に割り当ててほしいということである。このことは、最澄が後の
日蓮のように他のすべての競合する宗派を押しのけようとはせず、終始、
各宗派に適した人数を割り当て、各宗派と合意しながら活動する心づも
りであったことを明瞭に示している。最澄は、人生の現実に対する健全な
感覚を備えていたので、その理想主義が常軌を逸したことは一度もなかっ
た。また彼の原則を重んじる態度が原因で不必要な危険に身をさらした
り、対立者を和解しがたい敵にしたりすることも一度もなかった。彼は何
よりも、新しく開いた自分の宗派の将来を確かなものにしたかったのであ
り、しかもすでに述べたように、政府と闘うことによってではなく、政府
の助力によってそれを成し遂げようとしたのである。実際彼は、天皇のみ
ならず、最高位の大臣たちからも自分の活動への援助を得るすべを心得て
35
いた。
このことからわれわれは、日本人には法華の教えという最高の教えに対
する適性があるという最澄の基本的な考えを評価する正しい尺度を手に
することができる。最澄は、同胞には完全な教えを理解する資質があると
根本から信じて疑わなかったので、彼らに劣った教えを押しつけることは
できなかったし、そのつもりもなかった。しかしもう一方で、彼は人間の
弱さも考慮に入れていた。もし同胞が、最高度に発達した大乗の教えを理
解する天分があるのに、それより低い水準の大乗信仰を受け入れたとして
も、— 周知のように天台宗は華厳の教えでさえ法華の教えより低いものと
見なしていた — 意見の異なる者たちの考えを力ずくで変えることはでき
なかったし、そんなことはしてもならなかった。最澄の考えでは、それは
全く必要のないことだった。なぜなら彼は日本の民衆の判断力を深く信頼
していたので、民衆が彼の「世界観」を知った暁には、彼らは時とともに
自発的に自分の — つまり最澄の — 「世界観」を受け入れるようになるだ
ろうと確信していたからである。すべての人間は内的必然性によって、菩
けんぞく
薩の眷 属に加わるだろう — つまり彼によって初めて日本に創設された純
粋な大乗寺院の精神共同体に加わるだろう — 最澄はそう思っていたので
ある。
もちろん厳密にいえば、事は最澄の期待通りには運ばなかった。最澄が
天台の教えと調和させたさまざまな教えは再び天台から離れ、12、3 世紀
には禅宗、浄土宗、真宗、日蓮宗という独立の宗派を形成した。しかし、
これらはすべて同じ母から生まれた子どもたちであり、最澄の精神はその
死後もなおそれらの宗派の中に生き続けている、と言うことができる。
最澄の「諸宗混合主義」
ドイツの新カント派の人々は、「カントを理解することは、カントを超
えることである」と言うのが常である。確かに最澄は、固定観念にとらわ
れず自由にという意味で、智顗を理解し、越えて行った。それゆえ最澄の
功績は、天台の教えという外来の思想を日本に移植したことにとどまらな
い。彼はそれ以上のことをした。冒頭であらかじめ述べておいたように、
最澄は、さまざまな古い前提から新しい結論を引き出し、中国文化のさま
ざまな要素を日本の環境に適合させ、そうすることによって自国の伝統的
制度に新しい命を注ぎ込むことを心得ていた真の改革者、真の変革者で
あった。
最澄は、全体として継承した天台の教えに彼独自の律の教えを付け加
え、さらにこの二つに禅の教えと真言の教えを付け加え、これらを自分に
とって議論の余地なきものと思われたあらゆる伝統の拠り所とした。従っ
て中国の天台宗が本来の天台の伝統という唯一の伝統を有しているだけな
のに対して、日本の天台宗は、天台、円頓戒、禅、真言という四つの伝統
36
を有している。最澄は自分が付け加えた三つの伝統を、円教である法華の
教えの精神で、つまり完全な教えである天台の教えの精神で理解し、この
三つの伝統を、完全無欠な円の原理をよりよく理解しそれをいっそう包括
的に表現するための手段とした。彼は仏教のこの四つの教えに日本の神道
の教えまで結びつけた。その結果、最澄の日本的天台宗は事実上五つの要
素から成り、その各々が特別な意義を有することとなる。
天台の伝統と円頓戒の伝統についてはすでに詳しく論じた。われわれに
残されているのは、禅の伝統と真言の伝統とを特徴づけることである。
どうせん
ぎょうひょう
最澄は、736 年に日本に渡来した中国人 道? の弟子行
表から、入唐
ほくしゅうぜん
前にすでに北 宗 禅の伝統を伝えられていた。このことは『血脈譜』で
どうせん
どうせん
確認できる。『血脈譜』によれば、禅の伝統は、行表、 道? 、 道? の師
ふじゃく
ぼだいだるま
普 寂(651-739) — さらに全部で七人の中国人の祖師を越えて — 菩提達磨、
だるまいっしんかい
さらに釈迦牟尼にまで遡る。別の伝承によれば、最澄は達磨一心戒を行表
から受けたという。しかし北宗禅の伝統の伝受と達磨一心戒の伝受が、行
表の側からいえば、同じものの伝授であったことは、ほとんど疑う余地が
しゅくねん
ない。最澄は天台山で禅林寺の僧 ?然
ご
224
えのう
から、慧能(683-713) の系統を
ず
代表する牛頭派の禅の教えを伝授された。中国から帰国した後、最澄はこ
えんにん
ちょうい
の教えを円 仁(794-864) に伝え、長 意(837-906) 225 とその後継者がそれを
円仁から受け継いだ。最澄は、菩提達磨に遡る二つの禅の伝統をみずから
の中で統合したのである。牛頭派について今日我々が知るところはきわめ
て少なく、『血脈譜』でもただ付随的に触れられているに過ぎない。北宗
禅の伝統についても、伝教大師に関するさまざまの記録の中で、大きく扱
われているわけではない。しかしだからといって、天台宗に統合されたさ
まざまの伝統の枠組みの中で、禅の伝統にはそう大きな意義が認められな
いと見なしてよいわけでは決してない。禅は周知のように哲学ではない
し、洗練された儀礼を用いるわけでもなく、華やかな儀式で耳目を集める
わけでもない。禅は純粋に内面的なもの、精神的なものである。禅の効果
を確かめようとするとき、重要なのはただ禅の精神だけである。そして禅
の精神が今日に至るまで日本の天台宗とその寺院で脈々と生命を保ってい
は ん にゃは ら み た し ん ぎょう
ることは、本来禅の経典である般若波羅蜜多心経が日々読経されているこ
とからも明らかである。
それにしても、天台と禅の間には広範囲にわたる相違が見られるのに、
いったいいかにして両者は調和しえたのだろうか。その理由は、両者の相
違がただ深さと高さの相違であるという点に求めることができる。禅は
天台の教えの根底にあってその宗教的基層を成しており、天台形而上学は
その上に展開している。天台と禅とのこのような関係は、天台と三論との
関係を想起すれば、ただちに理解できる。天台の教えは、禅ときわめて近
224
225
パソコン上の不都合から、表記できていない。(編集者)
日本仏教史辞典 (吉川弘文館) によれば、長意の生没年は、836-906 である。
37
しい関係にある三論ないし中観派の教えに由来し、そこでネガティヴに定
式化されていたものをポジティヴなものへと解釈しなおしたものである。
それゆえ、本来中観派の哲学の創始者である龍樹が、同時に天台宗の初祖
としても認められるということが起こりえたのである。龍樹は、すべての
現象的なもの — 自我の存在や事物の存在 — を否定したがゆえに、天台宗
くうしょう
しんにょ
が信奉する絶対者を定立する前提を創出した。空 性が真 如となり、中観
派の最高原理が天台の最高原理に転じた。空性が中道に吸収されて、ネガ
ティヴな中道がポジティヴな中道になった。絶対者についてのどのような
ポジティヴな定式化も、どのような論理的思考も、どのような机上の知恵
も認めない禅が、天台の教えに受け継がれてその教えの中に生き続けるこ
とができ、その後鎌倉時代に別の宗派として独立したのも不思議ではな
い。仏教においては常にそうであるが、われわれは、ここでもまた、調和
ゆうわ
可能な相違に関わっているのであって、宥和不可能な対立に関わっている
わけではない。
えんどんかい
けんぎよう
円、戒、禅の伝統、つまり天台、円 頓 戒、禅の教えがいわゆる顕 教に
属するのに対して、真言の教えはいわゆる密教である。顕教は、中国天台
しかんごう
宗の教義である限りにおいて、最澄によって止観業と呼ばれ、そこでは止
観冥想という、智顗が教えた典型的な天台の修行が行われた。他方密教は
しゃな ご う
最澄によって遮那業と呼ばれ、そこでは顕教と密教が同一の意義を有する
という原則に従って、大日経の仏である毘盧遮那と法華経の仏である釈
迦牟尼とが調和の中におかれていた。しかしながら実際には遮那業の方
が優勢であり、止観業は最澄の時代にすでに遮那業に比べて小さな意義し
か持たず、とりわけ最澄の後継者慈覚大師円仁や智証大師円珍 (814-891)、
および日本の天台宗のその後の歴史全体においてはなおのことそうであっ
た。これが止観業と遮那業の関係であった。
若いころから最澄の念頭にあった考えは、法華経に基づく天台の教えを
広めることを通して、日本に純粋な大乗仏教を開花させることであった。
このような考えで、最澄は 804 年に桓武天皇の命を受けて入唐の旅を敢行
した。天皇によって承認されていた旅の唯一の目的は、天台山で、天台宗
の根本道場国清寺の僧から、智顗の著作の完全な写本を手に入れることで
あった。最澄は天台山到着後、禅宗の末寺がそこに営まれているのにたま
しゅくねん
たま気付いて、 ?然 から教えを受ける機会を得た。彼は天台山からの帰
途、またもや全く偶然に、明州の港からそう遠くない、大して時間をかけ
じゅんぎょう
ずに寄り道できる小さな町に、名高い真言の師順
ぎりん
あ
暁が滞在しているの
じゃり
を耳にし、義林に遡る伝統を受け継いだこの阿闍梨から、真言の教えを伝
授される機会を得た。しかし入唐の旅の途についた時には、中国で新しい
かんじょう
どうすい
禅の伝統と真言の灌 頂を受ける意図は全くなかった。天台山で道 邃から
菩薩戒を受けることも、旅の目的ではなかった。従って彼の旅は、厳密な
天台の規則に従って新しく受戒し直すという意図とも、日本の律の制度を
38
改革するという計画とも、全く無縁であった。当時の彼にとっては明らか
に、ただ混ぜ物のない純粋な形で天台の教えに精通し、天台の根本経典の
完全に信頼しうる写本を日本に請来することだけが問題であった。
しかし最澄が天台の著作以外にもさまざまな真言の経典や曼陀羅など
を含んだ仏教経典を満載して帰国し、これらの宝物を天皇に提示した時、
彼は朝廷が天台の哲学よりも真言の呪術の方に強い関心を持っていること
に気づいた。確かに天皇は、奈良七大寺の僧たちに、最も重要な天台の書
物とその注釈を書写して研究するよう命じてはいた。しかし天皇とその周
辺の官吏や廷臣たちの主たる関心は、密教とその修法に向けられていた。
それはとりわけ天皇の重い病に関係していた。天皇は、最澄が順暁から伝
授された密教儀礼による治療に期待をかけていたのである。最澄が新しく
手に入れたこの方面の知に朝廷が特別な関心を示したために、天台宗が開
かれた際に (それは最澄の中国からの帰国後まもなくのことであった) 割
り当てられた二名の年分度者 — これについてはすでに述べた — のうち、
一名には止観業の研究が、もう一名には遮那業の研究が指定されるという
結果になった。最澄は、国家による天台宗の承認を請願した時、天台宗に
は年に二名の年分度者しか申請しなかったが、彼がその二名を天台の教え
の研究に当てるつもりであったこと、そしてその二名が完全に受戒したあ
と天台の教えを守り広めるために全力を傾けるだろうと期待していたこ
とは、疑いない。二名の年分度者のうち一名が止観業に、もう一名が遮那
業に指定されたことは (これは桓武天皇が 806 年に公布した勅令で起こっ
たことであり、この勅令によって天台宗が成立し、他の宗派も最澄の提案
通りに年分度者の数が定められた)、天台宗の内部に一種の二元体制が敷
かれたことを意味するが、それは最澄のもともとの計画とは全くかけ離れ
たことであった。確かに最澄は、真言の教えを天台の教えと統合しようと
した。しかしそれは、彼が禅の教えを天台の教えと統合したのと同じやり
方で、つまり完全に法華の教えの精神に適合し天台の教えに従属する一要
素として、真言の教えを統合しようとしたのであった。しかしそうはなら
ず、二部門を設けよという政府の命令によって、真言の教えが天台の教え
と対等のものとして併置され、こうして天台宗は二つの性格を併せ持つ
どっちつかずのものとなった。
どうして最澄がそのような措置に同意したのか、それを理解するのは容
易である。彼は天台宗発足当初から自分の宗派の将来を問題をかかえたも
のにしたくなかったので、天皇の意志に従わざるをえなかったのである。
最澄はおそらく、自分も自分の後継者たちも、天台宗の中で、真言の考え
方よりも天台の考え方の方に事実上の優位を確保できるであろう、そして
法相の教えが倶舎の教えと結びついても完全な優位を保ったように、ある
いは三論宗が成実の教えとの間に同様の関係を成立させたように、天台宗
においても同じような関係を打ち立てることができるであろうという甘い
期待を抱いていた。しかしそうはならず、後に慈覚大師円仁が、顕と密は
39
天台宗の中で対等であるとはっきりと認めることになり、それどころか智
証大師円珍が、天台宗の中で顕教の要素よりも密教の要素が優位に立つの
を容認することになろうとは、最澄の思いも寄らない展開であった。
最澄が遣唐使の随員の一人として入唐した時、同じ使節に空海も加わっ
ていたが、その空海が中国から帰国すると、事態はさらに紛糾した。今や
インド密教に立脚した真言の教えの本当の専門家が、この領域では最澄を
はるかに凌ぐ権威をもって帰国したのである。それゆえ最澄は、引き続き
真言の教えの精通者と見なされたいと思うならば、空海に弟子入りし、そ
の手ほどきを受ける以外に道はなかった。日本に灌頂をもたらし、朝廷で
灌頂を施したその人物が、7 歳下の空海から灌頂を受けなければならなく
なったのである。
最澄は、中国で越州龍興寺の順暁から胎蔵界の灌頂を受けた時には、
ぜ ん む い
善無畏(637-735) の系統の真言を伝授された。日本の高雄山寺 (神護寺) で
ふくう
空海から胎蔵界と金剛界の灌頂を受けた時には、不空(705-774) の系統の
真言を伝授された。最澄は、北宗禅と牛頭派の禅という二つの禅の伝統を
自分の中で統合したように、善無畏と不空の二つの真言の伝統も自分で統
合しようとしていたように当時は見えた。しかし最澄はすぐさまその計
画を断念せざるをえなかった。というのは空海が、最澄は、密教に関する
限り、空海の従順な弟子とならねばならぬ、自分勝手な幻想を追ってはな
らぬと、強く主張したからである。このような考えの相違のために、残念
なことに、平安時代最大の二人の仏教指導者の友情は決裂し、最澄は空海
の真言の教えを拒否するに至った。この時から最澄は、空海が期待してい
たように東密 (京都の真言宗総本山東寺の密教) に立脚して空海の忠実な
信奉者として密教を広めるのではなく、中国で授けられた善無畏の真言の
教えだけを拠り所とする道を選んで、いわゆる台密 (天台密教) の根本土
ろくだい
たいだい
台を作ってゆく。哲学的には、東密は、六 大‐体 大の原理 —「六つの元
あ
じ
素が大実体である」という原理 — を表明し、台密は、阿字‐体大の原理
—「サンスクリット文字の A が大実体である」という原理 — を表明してい
る。地、水、火、風、空、意識を全てのもののいずれにも含まれる究極の
単位とする前者の原理は多元論であり、サンスクリットのアルファベット
全体を包含する A を究極の単位とする後者の原理は一元論である。この
二宗派の真言が権威の拠り所とする経典についていえば、東密は大日経と
こんごうちょうきょう
そしつじきょう
金 剛 頂 経に基づき、台密はこの二経の他にさらに蘇悉地経にも基づい
ている。
最澄の調和を求める傾向は、さらに他の思想圏、すなわち日本の民族宗
教である神道にまで拡大された。最澄は生まれた時からすでに神道と結
ばれていたといえるかもしれない。言い伝えによれば、最澄の父が比叡の
神に息子を授かるよう祈願したところ、神がその願いを聞き届けて最澄
が生まれたという。最澄は比叡山に薬師如来のための寺院を建てる前に、
40
じぬし
おおやまぐいのかみ
やますえのおおぬし
しず
「地主の神」である大 山 咋 神、別名山末之大主を 鎮めようとして、この
おおくにぬしのみこと
神を、大 国 主 命とともに天台の祭式の中に取り入れている。最澄が自
分の宗派の特別な守護神として中国から持ち帰り、その猿の姿がインドの
さんのう
ハヌマンモンキーを想起させる山 王は、今では博学の者しか外国起源であ
ることを知らないほど、完全に日本化してしまっている。最澄は応神天皇
ことほ
を神格化した神道の八幡神に法華経を説いたが、それは八幡神を言祝ぎ、
八幡神とともに法華経の恵みを分かち合うためであった。彼はまたすべて
ちょうごほけきょうがんもん
の神道の神々にもれなく『長講法華経願文』(不断に法華経を読経する誓
約) と題する長い祈祷文を捧げたが、それは法華経の読経によって、天皇
と国家の安泰にかかわるあらゆる願いをかなえるはずのものであった。
さんのういちじつしんとう
われわれはここで、最澄をいわゆる山 王 一 実 神 道(唯一の真理の山王神
道) の真の創始者とみなしてよいのかという問題の解明にかかわるつもり
はない。(いずれにせよ天台の教えに基づくこの神道にそのような体系化
が行われるのは、かなり後代のことである。) しかし最澄が仏教の神々と
同じように、神道の神々とも極めて親しく交流していたことは事実であ
る。なぜなら、神道の神々が仏教の神々と親和性をもつということが、最
澄の前提だったからである。
この点で最澄の精神は、仏教を日本人の心情や思考と調和させるために
りょうぶしんとう
いわゆる両 部 神 道(胎蔵界と金剛界の二部から成る神道) を基礎づけた空
海の精神と同じ方向を向いていた。それは、仏教が日本でそれまで以上に
多くの信者を獲得するための、事実上唯一の道であった。インドでは、は
やおよろず
るか以前に大乗仏教がヒンドゥーの八百万の神を吸収し、それらインドの
神々に仏教の天の都市に住む完全な市民権を認めていた。中国では、大乗
仏教は儒教的要素と道教的要素に充ち満ちていた。今や日本でも神道の八
百万の神全体が大乗仏教に併合されたが、最澄は、仏教を神道祭祀と調和
させる課題を意識的に引き受けた、最初の人物であった。
仏教と習合していない状態では、神道自体は日本で二重の役割を演じ
ている。いわゆる国家神道ないし公的神道としては、神道は最高位の神々
と天皇の祖先を崇拝し、決まった供え物を奉納するが、その儀式では天皇
自身が最高位の神官を務める。この点で神道は公的な国家祭祀、天皇祭
祀であり、中国の儒教に相当する。しかしいわゆる神社神道としては、神
道は、全国各地の位の低い無数の神々の祭祀に携わる。その神々は、民衆
と無位無官の神官によって、全国に散らばる国家非公認の神社に祀られ、
その儀礼には、厄除け、シャーマニズム、男根崇拝その他さまざまな原始
的呪術が混じり合っている。このような神道は、中国の民衆道教としてわ
れわれが知っているものに相当する。神道のこの二つの要素は日本仏教に
ごんげん
みょうおう
入り込み、日本仏教は、神道の神々を権 現(仏や菩薩や明 王など仏教の
神々の化身) であると説き、こうして大乗仏教の極彩色の、変化に富んだ
仏像・仏画を豊富に生み出した。
41
ここではもちろん、儒教と道教が日本の神道に相当する中国的な思想形
態であるばかりでなく、それらが日本に受け入れられて日本のさまざまな
考え方と融合したことも、見過ごされてはならない。その輸入は最初朝鮮
を経由して行われた。
高句麗、新羅、百済の朝鮮三王国は、遅くとも紀元4世紀までには、官
吏道徳として儒教を中国から受け取っていた。そして4世紀から5世紀へ
の変わり目に、儒教は朝鮮半島から日本に輸入され、日本人に極めて高い
評価を得た。実際儒教は、文字や、中国的‐日本的言語、すなわち純粋な
日本語的要素 (和語) と中国語的要素 (漢語) の混合したあの独特の言語、
および文学のための古典としての模範を日本人に与えた。— 儒教は、仁、
義、礼、智、信という五常の遵守と、親子の親、君臣の義、夫婦の別、兄
弟姉妹間の長幼の序、朋友の信という五倫の尊重とを義務とする道徳説を
日本人に与えた。— そして儒教は哲学を日本人に贈った。その哲学は、新
しく故郷となった日本において極めて生産的であることを実証し、17 世
しゅき
おうようめい
紀には、中国人哲学者朱熹(1130-1200) と王 陽 明(1472-1528) の学説の影
響と見なされる新しい儒学派を生み出すほどであった。朝廷が早い時期
に孔子を祀る寺院を政府の所在地に建て、1632 年には徳川将軍家康の九
とくがわよしなお
こうしびょう
せいびょう
男徳 川 義 直(1600-1650) が江戸に神社(孔子廟、聖 廟) を建てて中国を模
範に孔子を神として祀って敬意を表し、幕府が儒教研究のための学問所
しょうへいざかがくもんじょ
(昌 平 坂 学 問 所) を設立したのも、不思議ではない。しかしながら、中
国の国家と皇帝を称賛する儒教は、日本人には使い途のないものだった。
もっと言えば他のどのようなイデオロギーよりも、日本人が国家崇拝と天
皇崇拝を必要としていたことは確かである。しかしそれは、事の性質から
いって、国粋主義的な宗教でしかありえなかった。
何世紀も経過するうちに、日本人としての自覚の高まりとともに国粋
主義的な日本人の考え方が影響力を増しつつあるが、それによれば、日本
の天皇制は、制度としては、中国の皇帝制と同程度のものであるどころ
か、はるかに優れたものである。なぜなら、中国の皇帝制が、王朝が次々
と交代し、しかも外国の王家が中国を征服して玉座に就いたこともあった
ために中国出身とは限らないさまざまな王朝のモザイクとなったのに対
して、日本人が誇らしげに主張するところによれば、日本の天皇は、万世
「一系」の国家の支配者であり、すべての天皇が同一の祖先、つまり紀元
じんむ
あまてらす
前 660 年に即位したとされる神武天皇に、もっと言えば女性太陽神天 照
という同一の祖先神に遡るからである。中国の皇帝は天子であった。なぜ
なら皇帝とは、出自とは関係なく、最も有能な者として天によって支配者
に選任された者だからである。— もちろんもし天命に背いたり、課された
要求を満足させることができなかったりして、天子の位に値しないことが
明らかになった場合には、再び天によってその権力を剥奪され、帝位の高
みから突き落とされることもありえたけれど。日本の天皇は、国粋主義的
心情を持った日本人の考えによれば、
「天の王」である。なぜなら天皇は、
42
女性太陽神そのものと同じ血を有し、その血統を女性太陽神にまで遡り、
「上位の者」
「最高
それゆえ天皇自身が一人の神であり (単なる「上の者」
位の者」
「支配する者」という意味での神ではない)、そのようなものとし
ていかなる場合にも玉座への権利を有し、終身その位にあり、その本来の
性格を失うことはありえないからである。このような二つの王朝理念の違
いは、王道と皇道という対立概念によって表され、前者は中国の、後者は
日本の国家思想を特徴づけている。
国家体制を意味する国体という語で表される日本の国家思想は、親子の
関係より君臣の関係を優先させることによって、一見些細に見えるけれど
も実はきわめて重大な結果をもたらす修正を儒教道徳に要求する。臣民が
天皇に対して負った服従の義務も、侍と呼ばれる封建家臣が大名と呼ばれ
る封建領主に対して負った忠誠の義務も、一般に認められているように日
本では、子が親に尽くすべき服従より重要であった。中国では家族への配
慮が最も重要で、日本では国家への配慮が最も重要であった。すなわち、
君主ノ意志ガ最高ノ法デアル (regis voluntas suprema lex) というわけで
ある。確かに儒教のいう五常・五倫の序列を日本流に変更しながらも、儒
おそ
教道徳の全体構造を弛緩させたり揺るがせたりするのを 懼れて、中国の
義務の教えをそのように修正したことを明確に表明するのを見合わせ、そ
れをそのままにしておいた。しかし日本の権力者は、もし親に対する孝が
君主や封建領主に対する忠と衝突した場合、臣下・臣民が二つの義務のど
ちらが重要なのかと意識するのを危惧した。しかし現実には、そのような
義務の衝突など真の日本人には決して起こりえないことであり、起こって
はならないことであった。というのは、天皇と皇土、封建領主と領地は、
一切の血縁関係とそれに基づく道徳的要求を超越していたからである。こ
のことは日本では昔から暗黙のうちに認められており、
「君̇に̇忠̇、親̇に̇孝̇」
という古い慣用句が二つの義務の序列をはっきりと示している。つまり、
まず第一に天皇への忠誠、その後で子としての愛なのである。1890 年に
明治天皇によって発布され、今日なお効力を有する「教育勅語」で行われ
たように、天皇家に対する忠誠つまり忠の原理と、親や祖先に対する畏敬
に満ちた尊敬つまり孝の原理を、見かけだけでも調和させようとする試
みが最高位の天皇によって行われたが、その試みは、その後の日本の政治
的発展とその発展に止めを刺した国家の壊滅が証明しているように、忠
が孝に優先するという上記の事実を変えることはなかった226 。これまで
日本人の国民倫理の土台を形成してきたものは、忠と孝の統一ではなく、
孝に対する忠の優越である。日本では天皇と臣民の関係は父と子のような
ものだと繰り返し言われるが、もしそうだとしたら、天皇とは一人の父、
226
教育勅語は 1890(明 23) 年 10 月 30 日に発布され、1948(昭 23) 年 6 月 19 日に国会
で失効が決議された。昭和天皇の「終戦」の詔書が放送され、日本が無条件降伏したのは
1945(昭 20) 年 8 月 15 日である。「国家の壊滅」「今日なお効力を有する『教育勅語』」と
いった表現から、原書のこの部分は、1945 年 8 月 15 日と 1948 年 6 月 19 日の間に執筆
されたことがうかがわれる。
43
その前では臣民たる全ての父親の意志が無条件に屈服しなければならな
いような一人の父であり、また、家族の中で要求される子としての愛がき
わめて小さくなるような仕方で、臣民たる子らに途方もなく大きな愛を
強要する一人の父である。したがって、これまで日本で見られたような、
まさにすべての徳の原理と見なされた天皇崇拝や国家賛美は、実際には
「孝̇は̇百̇行̇の̇本̇」(子の孝養はあらゆる行為の土台である) という言葉で表
される中国的な考え方を否定することになる。
儒教と同じく道教も早い時期に中国から朝鮮にもたらされており、道教
がとりわけ唐王朝の建国者とその後継者たちから受けた高い評価は、朝鮮
こ う く り こうらい
三王国の最北にあった高句麗(高 麗) にも影響せずにはすまなかった。高
句麗の宝蔵王は、7 世紀に道教の書物と道士を朝鮮にもたらし、道教ない
し仙道 (不死なる者つまり仙人の道) は仏教や儒教と並んで国家の三つの
しらぎ
土台の一つだと宣言した。道教はこの頃に、朝鮮半島の南東にあった新羅
王国にも受け入れられた。そして朝鮮と日本の間の密接な文化交流のも
とでは、道教がただちに日本に根を下ろしたのも不可避であった。しかし
新しい教えと呼ばれた道教の中でも日本人が特に関心を示したのは、老
子、列子、荘子の深遠な神秘主義に対してであるよりむしろ、神々や霊魂
に対する信仰、錬金術、砂占術、占星術、魔除け、医術といった、要する
に中国の民衆宗教を形成し通俗道教と呼ばれるものと結びついたものに対
してであった。675 年頃には朝廷の命令で占星台と暦博士が置かれ、これ
によって天文学が公式に日本に導入された。陰陽師が朝廷によって任命さ
れ、医術を司る役所には魔除けを行う祈祷師が雇われた。またさまざまな
祭りも道教から借用された。桓武天皇の命で道教儀式が催され、その折に
は道教の供え物が捧げられたという。24 歳の空海、後の弘法大師は、明
さんごうしいき
らかにこのような道教の動きの影響下で『三教指帰』(797) を著し、儒仏
道の三つの教義体系を比較して、三つはすべて同じものを目ざしていると
いう結論に至った。このことは、道教と他の二教の区別が明確にはなされ
ていなかったことを示唆している。実際日本では道教という個別の宗教は
一度も形成されなかった。道教は、日本では早い時期に神道や仏教と混淆
していたのである。このことは、一方では、8 世紀に書かれた『古事記』
に ほ ん ぎ
と『日本紀』(『日本書紀』) の神々の系譜や天地創成論が陰陽二原理の影
ぼ く せ ん けうらべかねかた
響を受けていること、1300 年頃に卜占家卜部懐賢によって著された『日
しゃくにほんぎ
本紀』の注釈『釈日本紀』が道教の色合いを帯びていること、さらに上記
の陰陽師が神道の祭りにも参加していることから見て取ることができ、他
方では、真言宗や天台宗に含まれ仏教を神道と一つに結びつけた山伏の仏
教宗派である修験道が、明瞭に道教的特徴を示していること、そして日本
の禅宗が明白に道教の自然主義の影響を受けていることから見て取ること
ができる。けれども道教は、日本では、決して独立した教義体系という役
割を演じたことはないし、教団組織を形成したこともない。
44
それゆえ神道の中には、中国的な考え方と一致する考え方が見出され
る。例えば国家神道には、強く国粋主義的な方向に向かってはいるが、そ
れにもかかわらず儒教と同方向の国家崇拝と天皇崇拝が見出され、神社神
道には道教に似た民衆宗教が見出される。したがってわれわれは、逆説的
に響くかもしれないが、最澄が神道を天台の体系に取り入れた時、彼が主
として国粋主義的な動機やまして国家主義的な動機に動かされたのではな
く、この場合もまた中国の手本に従ったのだと主張して差し支えない。彼
は神道を自分の宗教に併合することによって、儒教や道教の中にも見出さ
れる同じような考え方を、自分の宗教に持ち込んだのである。宗教家を天
職とする者が、神道の中のそのような要素をみずから取り入れたというこ
とは、日本人が — 少なくとも国家主義的プロパガンダによって道を踏み
誤った時代の日本人ではなく、それよりずっと以前の日本人が — 神道を、
仏教のみならず儒教や道教とも極めてうまく調和しうるものと見なしてい
たことを証明している。
冷たい宗教批判ならば、相異なる異質な体系をそのように結合するの
は「諸宗混合主義」だとして、造作もなく軽蔑をもってあしらうかもしれ
ない。しかし最澄の目にはそれ以上のことが問題なのであった。われわれ
は、彼の「諸宗混合主義」が、少なくとも知ったかぶりや打算から考え出
されたものでは決してないということを認めなければならない。最澄の
心を動かし、彼の調和的性格を仏教を越えて広げさせたものは、真如が、
すなわち真の宗教ならばどの宗教においても顕現する絶対者が遍く現前す
る、という熱い確信であった。ユダヤ教やキリスト教やイスラム教であっ
ても、もし最澄がそれらを知っていたとしたら、神道と同じように天台の
ほっしん
体系の中に取り入れたであろう。最澄にとって偉大な宗教はすべて法 身
の啓示であり、キリスト教徒ならばそれを神の啓示だと言うであろう。最
澄のこの確信は、法華経という天台宗の根本経典によって確固たるものと
なった。法華経の成立は時間的にはキリスト教と同じ頃かもしれず、また
本質的な理念も驚くほどよく似ている。— 実際あまりによく似ているため
に、キリスト教神学者の中には、法華経はキリスト教の影響を受けたにち
がいないと考える者もいたほどである。
しかしながらここでは慎重を期し、特に最澄の中国渡航について恣意
的な憶測をしないようにする必要がある。最澄の中国滞在は約 8ヶ月であ
り、パピノが『日本歴史地理事典』で述べているような 3 年 (802-805) で
はない。— これは伝教大師について述べたほとんどすべての外国の著者が
繰り返し犯している誤りである。確かに最澄は 802 年に桓武天皇から遣
唐使に加わるよう命を受け、803 年に出航した。しかし瀬戸内海で早くも
難破し、使節は再艤装のためにふたたび難波の港、今日の大阪港への帰港
ぎしん
を余儀なくされた。一方最澄は通訳の義真(781-833) とともに九州の港町
博多に赴くことを選び、そこで新しい遣唐使船の到着を待つことにした。
船は 804 年の秋にようやく博多に到着し、この時初めて中国渡航が実現
45
したのである。同様にすでに指摘したことだが、最澄の旅は、アーサー・
ロイドが『日本仏教の形成要素』という論文や『雑草の中の小麦』という
小冊子で報告し、ナホトが『日本の歴史』で忠実に繰り返したのと異な
り、長安の都への訪問を含んではいなかった。最澄は一度も唐の皇帝の都
に行ってはいないのだから、(ナホトが言い) ロイドが自分の誤った主張に
結びつけた「的確なコメント」なるものも、 少なくとも最澄に関する限
り、全くの空想の産物である。その「的確なコメント」とは、「伝教大師
ぐほうがくしょう
と弘法大師は、政府の求 法 学 生として日本から派遣された時、仏教が西
安府 (長安) で儒教や道教と敵対したり友好的になったりしながら興隆し
ているのを目の当たりにした。長安にはマニ教の大きな教会が少なくとも
一つ、ネストリウス派 (景教) の教会が四つあり、弘法と伝教は長安を訪
れた時、ある街角に立って、キリスト教信仰の偉大な教えを中国全土に布
告した長安の有名な記念碑、大秦景教流行中国碑を見たにちがいない。」
というものである。弘法大師、当時の空海について言えば、彼はインド人
はんにゃ
のサンスクリットの師般 若(744-810?) 227 を通して、実際に長安のこの石
碑とある種の関わりがある。というのは、般若は 788 年にキリスト教聖職
者アダムとともに大乗六波羅蜜多経 10 巻 10 章を翻訳したが — 太宗皇帝
けいじょう
がこれに序文を書いている — 、中国人から景 浄と呼ばれたこの外国人聖
職者アダムが、一部中国語、一部シリア語で書かれた長文の景教碑文の起
草者だったからである。碑文には 781 年の日付があり、ネストリウス派の
立場から、キリスト教会の歴史と教え、キリストの生涯について伝えてい
る。しかし空海が般若からこの記念碑について注意を促されたかどうかは
分からない。仮に空海がその碑文を知っていたとしても、碑文の文面に意
義を認めたかどうか、またそれから特別な印象を受けたかどうかは、やは
り不確かである。いずれにせよ空海はこれについて何も言ってはいない。
また真言宗以外の仏教宗派のみならず中国哲学やインド哲学をも真言の教
じゅうじゅうしんろん
えと調和させた『十 住 心 論』(精神の十段階に関する論考) も含めて彼
の著作には、キリスト教から何らかの影響を受けたことを示すようなもの
は、今のところ何も発見されていない。仏教がネストリウス派の影響を受
けたと推測するよりも、逆にネストリウス派が仏教の影響を受けたという
ことの方がありそうである。その根拠は碑文そのものにある。碑文には仏
教用語が数多く含まれ、また奇妙なことにキリストの磔刑については言及
さえされていないからである。— それはおそらく、碑文の起草者が、キリ
ストの磔刑が仏教徒には不快に感じられるかもしれず、仏教徒の目にはそ
れがキリスト教信仰を勧めるものとは映らない、と考えたからであろう。
われわれがアーサー・ロイドの記述の誤りを指摘したのは、一人の研究
者の功績をけなすためではない。日本仏教という分野における彼の先駆的
研究は、高く評価されるべき業績であり続けるだろう。われわれの意図は
227
広辞苑第 6 版によれば、般若の生年は 734 年、没年は不詳である。
46
ただ一つ、当時中国の都にネストリウス主義、マニ教、グノーシス主義が
存在していたにせよ、最澄と空海が後に日本で行った密教儀式は、これら
からの何らかの影響に結びつけられるようなものではなく、二人が中国で
伝授された真言の伝統から容易に説明できるものである、ということを明
らかにすることである。
また、上記の引用にはもう一つ不適切な主張が紛れ込んでおり、それも
ぐほうがくしょう
訂正しておく必要がある。最澄は単なる「政府の求 法 学 生」としてでは
なく、天皇の特命で中国に派遣されたのであり、天皇のたっての希望で —
遣唐使節とともに — 日本に帰らねばならなかった。それに対して空海は
全く公的な使命を帯びてはいなかった。空海は桓武天皇と個人的な面識が
全くなく、明らかに相当長い年月研究のために唐に留まる義務があった。
げんがくしょう
二人に割り当てられた旅の期間から判断するに、最澄は還 学 生(すぐに
るがくしょう
帰国しなければならない研究者) であり、それに対して空海は留 学 生(長
く外国に留まらねばならない研究者) であった。留学生は、さまざまな前
例が示すように、8 年、10 年、15 年、20 年、それどころか 30 年も中国に
留まることもありえた。空海は 3 年後に帰国したが、— 旅の往還に要した
時間と地方に滞在した期間を差し引くと、都に滞在したのはわずか一年に
限られるように思われる — 彼の早すぎる帰国は明らかに政府の意に沿う
ものではなかった。
ところで本章で論じている「諸宗混合主義」は、日本の宗教を問題とす
る限り、決して最澄の「発明」と見なしてはならない。彼の諸宗混合主義
はむしろ時代の趨勢に従ったものであった。736 年 (天平 8 年) に、鑑真に
ぼだいせんな
ぶってつ
先立って二人のインド人のサンスクリットの師菩提僊那(704-760) と仏 哲
どうせん
とともに渡来し、奈良の大安寺に身を寄せた中国人 道? は、すでに律師
と禅師であったが、華厳と天台の知を律と禅の伝統と統合し、これらさま
ざまなタイプの教えを相互に調和させるすべを心得ていた。仏教と神道の
調和に関していえば、この領域でも最澄に先行者がいたことを明らかに
えんのぎょうじゃ
するには、役 行 者(634-702) 228 と行基 (670-749) 229 を挙げるだけでよ
い。しかし彼らのうちの誰も、天台の教えに立脚した延暦寺の開祖の諸宗
混合主義ほど、考え抜かれ、深く掘り下げられ、広範にわたる諸宗混合主
義を説きはしなかった。
最澄の諸宗混合主義は折衷主義ではないし、内的に関連のない思想をた
だ選び抜いただけのものでもない。最澄の教えのさまざまな要素を束ね、
それらを首尾一貫した、調和の取れた体系へとまとめ上げている精神的な
ちゅうたい
紐 帯が存在するのであり、この紐帯は宗教的原理と哲学的原理という二
よ
つの原理によって縒り合わされている230 。
228
精選版日本国語大辞典 (小学館) によれば、役行者の生没年は不詳である。
広辞苑第 6 版によれば、行基の生没年は 668-749 である。
230
「紐帯」(Band)「束ねる」(zusammenhalten)「縒り合わす」(flechten) は縁語の関
係にある比喩である。ペツォルトの修辞上の工夫であろう。
229
47
まず宗教的な原理とは法華経に説かれた円の理念、つまり完全性の理念
であり、それによれば声聞、縁覚、菩薩の三乗は仏の一乗である。という
のは、三乗は止揚された三つの契機として一乗の中に含まれ、その中で存
在し続けるからである。こうして大乗と小乗の区別、純粋大乗と過渡的大
乗の区別はすべて消失し、調和の中へと溶け込んでゆく。釈迦牟尼のすべ
ての教えは結局一つの同じ教えであり、釈迦牟尼が定めた目標は、すべて
の者にとってただ一つ、仏に到達すること、つまり成仏することである。
次に哲学的な原理とは、『中論』から取り出された中道の理念である。
小乗経典の釈迦牟尼は、すでに実践的な中道と理論的な中道を説いてい
た。釈迦牟尼は聴衆に苦行と快楽の両極端を自制するよう警告した。これ
が釈迦牟尼の説いた実践的なあるいは道徳的な中道であった。さらに釈迦
牟尼は弟子たちに、インドの哲学者たちが仕掛けた永遠主義と虚無主義と
かんせい
いさ
いう陥 穽に陥らないよう、強く 諫めた。これが釈迦牟尼の説いた理論的
な中道であった。しかし二つの教えは、決してまだ際立って形而上学的な
性格を帯びていたわけではなかった。未発達な大乗仏教の中にも、インド
人が madhyama と呼び、中国人が chung と呼んだ「中」の原理が、同じ
ように見出される。それはたしかに単にネガティヴに、非-二元性の領域
として定式化されてはいるが、しかし今やこの「中なるもの」が、存在で
もなく非存在でもない定義不可能なもの、それゆえ存在と非存在の彼方に
ある定義不可能なものとなるという点で、この原理には明らかに形而上学
的な意味がすでに含まれている。最終的には、この原理にポジティヴな解
釈が与えられるのであるが、それはある大乗経に基づく大乗論において行
われ、そこでは中なるものが最高絶対者、原‐実在、すなわち真如と同一
け
視されていることに気づかされる。この中道の教えは、空、仮、中が相互
に同一であるという智顗の与えた定式化の中で、あらゆる対立を余すとこ
ろなく排除し、外見的には相容れないあらゆるものから驚くべき総合を作
り出す。中国の天台宗の開祖はこの総合をただ「顕教」に適用しただけで
あったが、日本の天台宗の開祖はさらに、智顗の2世紀後に初めて中国に
もたらされた「密教」を顕教とともにこの総合の中に引き入れ、密教を顕
教と調和させようとした。しかしその試みは、実際には、止観業と並んで
遮那業が別個に創設されたために、成し遂げられることはなかった。
天台の儀礼と儀式
最澄は、信者たちの宗教的な求めに歩み寄り、世の中のさまざまな事件
の中で僧の祈祷に助けを期待する民衆と時代に応じるために、日々の寺院
儀礼の他に、折に触れてもっと大きな儀式も執り行った。すでに指摘した
が、国分寺の祭式は顕教の儀式しか知らなかった。真言宗はもっぱら密教
にのみ奉仕していた。日本の天台宗は顕教と密教を含んでいたので、そこ
で行われる儀礼と儀式は、一部は顕教的性格をもち、一部は密教的性格を
48
もっていた。
最澄は密教を中国で伝授されたので、彼が入唐前に行っていた儀式が顕
教に属するものであったことは、最初から明らかである。何よりもまず、
798 年に最澄によって催された盛大な法華十講 (法華についての十の説明)
について述べることにしよう。これは法華経八巻の読経と解説、いわゆる
むりょうぎきょう
法華八講 (法華経についての八の説明) に加えて、無 量 義 経 (計り知れな
ふげんかんぎょう
い意義の経) 一巻の説明と、同じく一巻からなる普 賢 観 経(普賢菩薩につ
いての冥想に関する経) 231 の説明から成っていた。この二つの経のうち、
かいきょう
前者は法華経を「開く経」(開 経) と見なされ、後者は法華経を「締めく
けっきょう
くる経」(結 経) と見なされている。この三つの経は、合わせて法華三部
と呼ばれている。
このような法華八講は早くから催されていたが、法華十講を最初に執り
行ったのは最澄であった。彼は華厳宗、三論宗、法相宗に属する奈良七大
寺の僧 10 人をこれに招き、彼らに各々の宗派の立場から法華の 10 巻232 に
ついて説明する機会を与えようとした。僧たちは各自 1 巻ずつ受け持ち、
この儀式は 10 日間続いた。行われた場所は比叡山の一乗止観院、季節は
しもつきえ
11 月であった。それゆえこの催しは霜月会とも呼ばれた。それは 14 日に
ち
ぎ
始まり、最終日の 24 日は中国天台宗の開祖智顗の命日であった。この催
ほっけ え
ほっけ だ い え
しは法華会とも呼ばれた。五年に一度いわゆる法華大会が催され、それは
とりわけ荘厳であった。それは後代には比叡山の大講堂で行われ、809 年
からは天皇の使者が遣わされて天皇の名代として参列した。823 年に円頓
じゅか い え
戒壇が創設されて以降は、授戒会が、五年ごとと定められたこの催しに結
びつけられた。
しかしながら、802 年に京都近郊の高雄山で桓武天皇と皇太子の後援で
ほっけ だ い え
催された法華大会は別の性格を持っていた。それは一度限りの催しであっ
た。最澄はその時、奈良の諸宗の代表者たちに、もっぱら法華経に関する
天台の注釈を知らしめ、法華経の卓越性を納得させようとした。
中国から帰国してまもなく、最澄は、重体になった桓武天皇の招きで宮
中に現れた。それは帰国の 2 か月後、805 年 8 月 9 日のことであった。こ
け か
の機会に最澄は、天皇に中国の仏像仏画を献上し、読経し、悔過の儀礼つ
まり懺悔の儀式を行った。この悔過は、薬師悔過、すなわち七体の薬師に
それぞれ一つずつ、全部で七つの祭壇を設ける七仏薬師法であったと思わ
れる。従ってこの時用いられた経は、おそらく、最澄が日本にもたらした
ぎじょう
義 浄(635-713) 訳の七仏薬師経であった (ただしこの経の別の訳が、薬師
経という表題でもっと以前に玄奘によって作られている)。周知のように、
薬師如来は最澄が殊に崇拝していた如来であった。最澄は手ずから彫った
231
普賢観経は観普賢経とも呼ばれる。
「法華の 10 巻」は、法華三部経 (無量義経 1 巻、法華経 8 巻、普賢観経 1 巻) 計 10
巻を指すのであろう。
232
49
薬師如来像を比叡山の自分の寺に本尊として安置した。また中国渡航前に
も、桓武天皇の使節を海難から加護してくれるよう期待して、4艘の遣唐
使船のためにそれぞれ一体ずつ四体の薬師像を作り上げた。薬師は東の
太陽とその治病力を象徴し、大乗仏教によって精神化され理想化された如
来である。それゆえ最澄が宮中で執り行ったこの悔過の儀礼は、偉大な施
薬と治病の神である薬師に、桓武天皇の病苦を和らげ、できることなら完
全に治癒してもらおうとするものだったと思われる。七仏薬師法は最澄が
805 年に導入したと伝えられ、その後もしばしば比叡山で行われたが、そ
れは明らかに顕教の儀式である。
同じく 805 年 (延暦 24 年)9 月、最澄は天皇の命で高雄山のセイリュウ
ジに灌頂道場を築いた233 。灌頂はサンスクリット語で abhis.eka といい、
もとは古代インドの王の戴冠式に当たる語であるが、最澄は高雄山で、天
皇によって特に選ばれ、奈良の諸宗を代表する、道證、修圓、勤操、正能、
正秀、廣圓、豊安、靈福ら八人の卓越した僧と、自分の八人の弟子に灌頂
を施した234 。これが日本における密教灌頂の始まりであった。
9 月 17 日、最澄は桓武天皇の命によって毘盧舎那法を宮中で修した。こ
の儀式のためには、密教の規則に従って、特別な空間が調えられねばなら
なかった。792 年から 833 年にかけての、桓武とその息子平城天皇、嵯峨
天皇、淳和天皇の治世を扱った古い公式記録は、桓武自身がその時最澄か
ら灌頂を受けたことを示唆しているように思われる。同じような儀式がか
つて中国で高名なインド人真言僧不空によって行われ、746 年には唐の玄
宗皇帝が不空から灌頂を受けている。その毘盧舎那法は、805 年 9 月 17
日以降、毎年京都の宮中で行われたといわれている。明治時代の書『皇
朝天台史略』は、すでにこの年の春、最澄がまだ中国にいた頃に、弟子の
えんちょう
ごぶっちょうほう
円 澄が桓武の望みで五 仏 頂 法を内裏の紫宸殿で修し、それが宮中にお
ける密教実践の本当の始まりであったと主張している。しかしこの報告は
信じるに値しない。
あんご
最澄の『山家学生式』のところで言及しておいた安居の行事235 も、毎年
げあん ご
うあん ご
ざ げ
行われる顕教の行事であった。これは夏安居、雨安居、坐夏とも呼ばれ、
インドの vārs.ika、つまり「夏の間もしくは雨季の間静かに坐すこと」に
相当する。安居はインドでは 5 月か 6 月の 16 日から、8 月か 9 月の 15 日
233
原書の Seiryuji に当たる漢字がわからないのでカタカナで「セイリュウジ」とした。
ペツォルトが何に基づいてこの部分を書いたかは分からないが、例えば『扶桑略記』桓武
天皇延暦二十四年の記述に「九月一日、於淸瀧峰髙雄寺。始建毘盧遮那大壇。設備法會。」
とあり、これに基づくならば、ペツォルトの本文は、「最澄は天皇の命で淸瀧峰の髙雄寺
に灌頂道場を築いた」となるべきところである。
234
原文をそのまま訳すと、
「奈良の諸宗を代表する八人の傑出した僧と、道證、修圓、勤
操、正能、正秀、廣圓、豊安、靈福ら自分の八人の弟子に灌頂を施した」となるが、栗田
勇『最澄 (二)』(新潮社)412 ページによれば、最初の二人は法相宗、次の四人は三論宗、
後の二人は律宗の僧なので、本文のように改めて訳した。また原文にはこの時最澄は自分
の八人の弟子にも灌頂を授けたとあるが、同書によれば、この時灌頂を受けた最澄の弟子
は、光意と円澄の二人である。
235
34 ページ参照。
50
までの 3 か月続き、この期間は仏教の修行僧は僧院に留まり、懺悔、冥想、
ぎよう
読経などの 行 に専念する。中国にもインドと同じ季節にこのしきたりが
見られる。日本では 683 年の夏、4 月から7月にかけて、最初の安居の行
事が宮中で行われた。806 年には桓武天皇が奈良と京都の 15 の大寺と全
国の国分寺の僧に安居の行事を行うよう命じた。それ以来安居は、もちろ
ん一定の変容をこうむりながらも、ほとんど千年に渡って日本仏教の恒例
にんのうきょう
こんこうみょうきょう
の行事であり続けた。安居においてはとりわけ仁 王 経と金 光 明 経の
読経や、仏に国家の安泰と五穀豊穣を祈る勤行が行われた。1868 年の明
治王政復古の際の廃仏毀釈で神道が優遇された結果、安居の行事はほと
んど完全に廃れるに至った。しかし近年、浄土宗知恩院、真宗本願寺、天
台宗延暦寺などの大寺院で安居が復興され、きわめて名望ある僧たちは、
毎年の安居に参加してその機会に優れた聴衆の一団に経論を説くことを、
昔と同じように再び栄誉なことと思うようになっている。それはかつて桓
武天皇が望んでいたことであった。
これもすでに述べたことだが、平城天皇の治世の 806 年 (大同元年)12
月 23 日、最澄は円澄と他の 100 人の弟子たちに、比叡山の一乗止観院で
大円頓戒を授けた。これが日本における円頓戒の儀式の始まりであった。
しかしこのころにはもう既存の授戒制度との断絶が問題になることは全く
なかった。
809 年 2 月 15 日、最澄は一乗止観院でこれもまた顕教の儀式である
ほっけ ざんまい
法華三 昧を初めて催した。法華三昧とは法華経について冥想することで
あって、罪障を消し去り、国土を守り、すべての衆生を救う有効な手段で
みょうおんぼさつほん
ある。鳩摩羅什訳法華経第 24 章妙 音 菩 薩 品には、妙音菩薩はこの冥想を
通じて得られる広大な知によって、地獄にいる者も含めて無数の衆生を
じょうざざんまい
回心させ、救済する、と書かれている。智顗は、冥想の行を 1.常 坐 三 昧、
じょうぎょう
2.常
はんぎょうはんざ
ひ ぎょう ひ ざ
行三昧、3.半 行 半 坐三昧、4.非行非坐三昧に分けたが、法華三昧は
し しゅ
智顗の説いたこの四種三昧のうちの第三の三昧である。それゆえ法華三昧
さんまいそう
を行ずる三 昧 僧は、一定時間歩き回り、残りの時間は坐っていなければ
ならず、歩き回っている間は法華経を唱え、坐っている間は法華経に含ま
れる真理について熟考し、あらゆる過失を避けながら 3 週間これを続けな
ければならない。期間の終わりにはきっと、誠実で敬虔な心の持ち主を守
ふげんぼさつ
護する普賢菩薩が白い象に乗って行者の前に現れるであろう、という。
嵯峨天皇の治世の 813 年 (弘仁 4 年)1 月、最澄は天皇の望みによって
ごしちにちのみしほう
後七日御修法 — その名称が示すように、月の第二週か第三週に行われた
密教儀礼 — を宮中で挙行した。
818 年 4 月、うち続く旱魃の中、最澄はふたたび嵯峨天皇の意を受けて
仏教界の他の高僧たちとともに盛大で厳粛な雨乞いの儀式を行った。祈祷
は 26 日から 28 日までの三日間続けられ、期待通りの成果を収めた。
同年 7 月 27 日、最澄は弟子たちに上述の四種三昧を誠実に行ずるよう
51
依頼し、後の慈覚大師円仁には常坐三昧堂を建てるよう指示した。堂は
二ヶ月後に完成し、円仁はそこで冥想に沈潜し、六年間にわたって難行に
励んだ。四種三昧は顕教の宗教的祭式を濃厚に表わしているので、天台宗
においてはきわめて大きな意義を有している。
法華経、仁王経、金光明経を不断に読み上げることが比叡山の僧の日々
の責務であったことを、われわれは忘れないようにしよう。これらの経は
最澄によって護国経と認められていたものであり、すでに見たように、三
経の中では法華経が第一の座を占めていた。これらの経を不断に読み上げ
ることで、天台僧は自分たちが国家の真の守護者であることを示した。
805 年、最澄が桓武天皇の命で毘盧舎那法を宮中で修した時、陛下は最
澄に帽子と呼ばれる頭巾 — すなわち頭と肩を覆うショールないしはフー
ドのようなものを贈った。これによって桓武は、隋の皇帝が中国天台宗の
開祖に同じような頭巾を贈った先例に倣おうとしたのであった。この帽子
は、拝領者にとって、ただ天皇の好意を示すだけのものであり、位階の授
与という意味をもつものではなかった。それは日本の聖職者の最初の帽子
の着用であった。伝承によれば、桓武がある厳寒の冬に比叡の庵で京都の
人々以上に寒さに苦しむ最澄に同情して、自分の衣の袖を裂いて送り、そ
れで身を包むよう忠告したのだという。最澄の帽子の由来についてのこの
ような説明は、民衆から見て最澄が桓武とどれほど親密に交流していたか
を、他の何よりもよく示している。
最澄の性格と意義
最澄の僧としての経歴の前半生は、桓武天皇の支援と恩顧をたっぷり受
けた実り豊かなものであったが、その後には、長い失意と不遇の歳月が続
いた。父桓武の死後、兄の平城天皇いわゆる奈良天皇の短い暫定統治の後
に皇位についた嵯峨は、その寵愛を空海に向けた。これまで最澄の後ろ盾
わ け
となってきた和気氏も同様であった。上述したように、最澄と空海は短い
友好期間の後で決裂し、二度と和解することはなかった。弟子たちの中で
たいはん
最も将来を嘱望され、最澄から後継者に指名されていた泰 範が空海のも
はし
とに 奔り、最初最澄に喝采を送っていた奈良の僧たちも決定的な敵対者と
なった。天台宗は、真言宗のみならず、最澄から弟子を「盗み」、できた
ばかりの天台宗を著しく傷つけた法相宗によっても、脇に押しのけられ、
日蔭に追いやられていると考えた。比叡山の僧院は天台宗の公認後十年に
して非常な逆境の中にあり、最澄は、天台宗の完全な解体を防ぎ、生涯を
かけた事業を守るために、絶望的な手段に訴えなければならなかった。
はるか昔に伝教大師という諡号を贈られ「著名人」の一人に加えられ
ているにもかかわらず、最澄が今日なお受けるべき正当な評価を国民から
受けておらず、空海、後の弘法大師と比べてもほとんど忘れられていると
言ってもいいほどなのは否定できない。このことが明らかになったのは、
52
約 20 年前に日本の文部省が発行して全国の小学生に配布した小学校読本
において、平安時代の偉大な指導者として弘法大師の功績はしかるべく
評価されたのに対して、伝教大師は名前さえ挙げられなかった時である。
この読本の制作者たちは、明らかに弘法大師の方が伝教大師よりはるかに
重要で、伝教大師の名は平安時代の短い概説から省いてもかまわないだろ
うという印象を持っていたのである。天台の僧たちは当然別の考えを持っ
ており、伝教と弘法のどちらが偉大かという問題が持ち上がった。私自身
その時天台宗の総本山、比叡山延暦寺から見解を伝えるよう求められた
が、私はただ、そのような争点は、ゲーテとシラーのどちらが偉大かとい
う有名な論争と同じように余計なものであり、日本人はどちらか一方を過
小評価するのではなく、このような天才を二人も持ったことを誇りに思う
べきである、と答えるしかなかった。いずれにせよ、私のこの考えは日本
人の上層部の確信にも沿うものだったらしく、この読本の後の版には二人
の簡潔な伝記が載せられ、一方だけの優位が認められるということはなく
なった。
真言宗は当然開祖の弘法大師を伝教大師よりすぐれていると考えてい
る。真言宗がそう考えるのは当然である。しかし弘法の卓越性を証拠立て
ようとして真言宗の側から持ち出される議論は、時として、全く非難の余
地がないわけではない。かつてある有名な真言宗の高僧が、まる一週間続
いたラジオ番組で、弘法大師の開いた真言宗は洋服姿の日本人にたとえ
られ、伝教大師の開いた日本の天台宗は和服姿の中国人にたとえられる、
と主張した。弘法大師は本来の日本仏教の真の創始者と見なしてよいが、
伝教大師はそうではない、と言いたいのである。この見解によれば、伝教
大師の天台宗は、本質的要素は中国的であり — 天台宗はここでは明らか
に埃まみれで時代遅れの中国的なスコラ哲学と見なされている — 瑣末で
偶然的な要素だけが日本的である、ということになる。他方、真言宗は、
真の本質を形成する要素は日本的であり、そのヨーロッパ的な装いは真言
宗の現代性を示している、ということになる。この比喩は、弘法大師の真
言宗が真に日本的であり現代文化の要求にも適っているのに対して、伝教
大師の天台宗は国民的なものではなく時代遅れだということをほのめかし
ているのであろう。
このような思考の道筋を完全に理解するには、読者も覚えておられるよ
うに、弘法大師の父が日本系であり、国家の軍事‐政治的伝統を継承して
いることで名高い高貴な佐伯氏に属していたのに対して、伝教大師は中国
みつのおびと
系で、三 津 首という彼の一族が中国からの渡来人だったことを考慮に入
れなければならない。このような事情はこれまで特別重要なこととは考え
られて来なかった。しかし現代は人種的血統がきわめて重要視される時代
であり、それゆえ伝教大師と弘法大師およびその二つの宗派の評価までも
がこのような血筋の問題に左右されたり、上述の真言宗の高僧の説が相当
53
程度このような時代状況に染められたりするのであろう236 。それゆえこ
の説は天台を信奉する者たちの抗議を呼び起こした。しかし伝教大師とそ
の宗派が真に日本的なものではないという非難に対して伝教大師を擁護す
るために、抗議などする必要は全くない。伝教大師の生涯と事績自体がそ
の嫌疑を晴らしており、彼の宗派の国民的性格についてもすでに歴史が判
定を下しているからである。
伝教大師と弘法大師は平安時代初期の仏教が生んだ双生児のようなも
のだが、この双生児を評価するに当たって、一方を過小評価したり、他方
を過大評価したりすることのないよう注意すべきだったのである。それゆ
え、この問題については、以下のことも付け加えておかねばならない。弘
法大師の名声を高めるために、証明できないようなさまざまなことが主張
されてきた。弘法大師がひらがなという音節文字の体系を発明したという
のは、批判的考証によって、今日では作り話と考えられている。彼がすば
のみ
らしい能書家だったことは認めねばならないとしても、彼の 鑿と筆によ
るとされる多くの彫像や絵画については、同じように疑いがもたれてい
る。彼はまた優れた語学者であり、入唐前にすでに中国の日常語を使いこ
なしていたのに対して、伝教大師はただ中国の文章語が理解できただけで
あり、それゆえ義真を通訳として連れて行かねばならなかった。二人とも
しったん
仏教のサンスクリット語 (悉 曇) はある程度知っていた。密教を日本に請
来したのは伝教であるが、密教の知識の点では弘法が確実に伝教を凌駕し
ていた。また、灌頂が密教儀式に属することはすでに見た通りであるが、
かんのう
その密教儀式の執行に関しても弘法の方がはるかに堪 能だったと見なし
てよい。それに対して仏教文献に関しては、顕教を密教と結びつけた伝教
は、密教がすべてであり、すべてを口伝に従属させた弘法より、確実に広
範な知識を有していた。これは、両者が不和になった原因でもあった。伝
教は、弘法が所有していたある密教経典を自分で研究してそれに精通し
し み
たいと望んだ。しかし弘法は、それを貸すのは古い羊皮紙の紙魚に餌をや
るようなものだと伝教を批判しつつ、経典の奥義は弘法自身の口伝によっ
てしか理解されえないと強く主張し、貸すのを拒んだ。国家と二人の関係
については、公共の福祉を促進する努力の中で弘法を導いた原理を明確に
表現した箇所を、弘法の著作の中に探しても無駄である。伝教の著作の中
ではそのような発言に繰り返し出会うのに対して、弘法は、伝教だったら
仏教を国家思想と結びつけるようなケースであっても、自分の国家思想を
仏教によって意識的に補強したり、あるいは自分の仏教信仰を国家と結び
つけて定式化したりするのを控えていた。こうしたことすべてを考慮する
ならば、伝教の国家的意義は一般に推測されている以上に大きく、弘法の
業績に対する高い評価はいくぶん小さく見積もる必要がある、という結論
236
大日本帝国による中国・朝鮮に対する植民地支配と、それに伴う日本人の中国人・朝
鮮人差別のことなどがペツォルトの念頭にあったと思われる。原書のこの部分のおよその
執筆時期がうかがわれる箇所である。
54
になる。— 人々は、弘法は決して死んではおらず、金剛峯寺のある高野山
で、キフホイザーの赤ひげ皇帝のように生き続け、再びこの世に、民衆の
と き
もとに戻る瞬間が来るのを待っている、と今日なお信じているが。
筆で描かれたものであれ、鑿で彫られたものであれ、この偉大な開祖の
肖像を手に入れようとすると、伝教大師の庶民性の乏しさは容易に納得で
きる。弘法大師から法然上人、親鸞聖人、日蓮聖人に至る、日本仏教のす
べての偉大な師の場合、どの仏具店でもたくさんの肖像を容易に見つける
ことができる。しかし伝教大師の肖像は一つも見つけることができない。
これら他の宗派の開祖の肖像が七福神のように尊ばれて仏壇と呼ばれる家
庭用の仏教祭壇に祀られているのに対して、伝教大師の肖像は公衆の前か
らほとんど姿を消し、ただ天台寺院の中で見出されるに過ぎない。
かくちょうそうず
伝教大師の最良の肖像画は、鎌倉時代の覚 超 僧 都が描いたものであ
る237 。それは日本の天台宗の開祖の冥想する姿を描いており、眼は閉じ
られ、魂は夢想し、顔には無限の善意と驚くべき柔和な表情が安らいでい
る。この絵を見ると、我々は、決して自分のことを気にかけまい、自分の
ことを考えまい、同胞の息災のみを考えようという、伝教が若い頃に比叡
山の庵室で誓った誓願 (『願文』) の誠実さを推し量ることができる。こ
の肖像画を仔細に見ると、伝教が後継者たちに、弟子の僧には思いやり
をもって接せよ、弟子を打ってはならぬ、伝教自身弟子に対して冷たい言
葉を口にしたことは一度もなかったのだから、と遺言したことが、よく理
解できる。しかし、最澄のこの柔和さを決して弱さと混同してはならな
しな
はがね
い。最澄は、決して折れず、自在に 撓い、いかなる障害をも両断する 鋼
であった。伝教はそのような人物だったのである。もし伝教が鋼のような
人物でなかったとしたら、決して日本の天台宗を開くことはできなかった
であろう。— 彼が克服しなければならなかった困難はそれほど大きなもの
だったのである。
さまざまな難敵との闘いの中で、伝教は輝かしい資質を発揮した。そ
れは政界であれば指導者にさえなれたであろう資質、すなわち驚くべき
けいがん
炯 眼、透徹した洞察力、鉄の意志、もつれにもつれた問題を解決する優
れた交渉の才、決してひるむことのない、道義にかなったすばらしい勇気
であり、これらはすべて、もし彼が日本の宗教のために尽くす道を選ばな
かったとしたら、修行僧最澄を桓武天皇や嵯峨天皇の指導的政治家にした
であろう資質である。嵯峨は最澄の死を悼んだ詩の中で、この点について
次のように述べている。「朝廷には賢明な人間はいない。しかし、宗教界
には偉大な才能が隠れている。」
このような人物は、確かに、愛され、尊敬され、崇拝されるに値する。
彼がどれほど高貴な精神に満ちていたかは、彼自身のいくつかの名言から
237
覚超は平安時代の人であり、いくつかの仏教辞典に当たってみたが、彼が最澄の肖像
画を描いたという記述はない。逆に最澄の肖像画が載っている本には、その肖像画の作者
名の記載はない。
55
も明らかである。ある折には彼は次のように言った。「何かよいことを眼
にした時には、いつでもすぐにそれに近づくべきである。しかし何か悪い
ことを眼にした時には、すぐにそれに背を向けるべきである。」また別の
折には次のように述べた。「人は正しい宗教が成果を上げるよう努めなけ
ればならない。正しい宗教が人に成果をもたらしてくれると思ってはなら
ない。宗教心は常に衣食を見出す。だが衣食の心配は宗教心ではない。」
あめ
この言葉は、「野の百合のごとく、 天が下の鳥のごとくあれ。彼らは天の
父を信頼しているがゆえに、天の父から衣食を与えられる。」と人々に求
めたキリストの教えと一致する。上記の言葉はさらに、教団と国家の協力
という最澄の原理が、国家によって教団が援助されるべきだという意味に
理解されてはならず、むしろ教団が国家の役に立たねばならないという意
味に、— 少なくとも教団と国家は、人々を国家の最高に崇高な使命に供す
るという偉大な課題のために238 、共同して力を尽くさねばならない、と
いう意味に理解されねばならない、ということを示している。このような
目的で、最澄は、聖徳太子に天台宗への加護を請うために、太子の墓に詣
でる巡礼の旅をしたのである。この祈りは、聖徳太子が同時代の人々から
南岳慧思の日本における生まれ変わりと見なされていただけに、いっそう
理由のあるものであった。
天台の教えを日本に広めるために、最澄は、二つの大がかりな伝道の旅
を敢行した。一つは西国九州への旅であったが、そこへは中国へ渡航した
こうずけのくに
折にもすでに訪れていた。もう一つは東国、今日の東京に近い上 野 国と
しもつけのくに
下 野 国への旅である。しかし最澄の人生で最も注目すべき事件となった
最も重要な旅は、中国への旅であった。最澄は中国から帰国した後に書い
た手紙や教団規則や請願書に、「教えを持ち帰るために、大唐国へ赴いた
最澄」と署名するのが常であった。最澄にとって教えは至高のものであっ
た。教えこそ最澄の人生の実質であり、そのために彼は全身全霊を捧げ
た。— それゆえ最澄には、あらゆる時代の偉大な精神的指導者たちの列に
加えられるべき正当な理由がある。
238
本訳では「人々を国̇家̇の̇最高に崇高な使命に供するという偉大な課題のために」と訳
したが、文法的には「人々を彼̇ら̇の̇最高に崇高な使命に供するという偉大な課題のため
に」と訳すことも可能である。なお、ここで「供する」と訳した zuführen は、「供給す
る」「連れて行く」「引き渡す」などの意味である。
56
3
ブルーノ・ペツォルトと渡辺海旭
岡見亮/滋賀県坂本
ブルーノ・ペツォルトには『Watanabe Kaikyoku』(英文) という短い
評論がある。最近出版された前田和男『紫雲の人、渡辺海旭 壷中に月を
求めて』(ポット出版 2011.6.22) から渡辺海旭の略年譜を記し、それと関
連するペツォルトの評論の部分を合わせて掲載し、読者の理解の用に供
する。
なお、以下の前田「・
・
・」は前田和男『紫雲の人』からの引用文、B.P
「・
・
・」はブルーノ・ペツォルト『Watanabe Kaikyoku』の筆者和訳である。
明治5年 (1872) 1月15日、東京浅草田原町で渡辺啓蔵とトナの長男と
して誕生、芳蔵と名付けられる。父啓蔵は小伝馬町の小間物屋で番
頭をしていた。
前田 「芳蔵は、ふつうの子供よりも立ち上がるのも、言葉を発する
のも早かった。母親のトナにとってただひとつの気がかりは、
芳蔵は言葉を覚えるのは達者なのだが、しゃべろうとすると、
しばしば言葉が途切れて、どもることだった。」
B.P 「彼は口が重かった (無口だった)。話さなければならないこ
とを口ごもり、どもりながら声を出した。見掛けは立派には見
えなかった。たとえ僧侶でなかったとしても女性達の内輪で異
議を唱えるものはほとんどいなかった。しかし、街中で普通に
見かける典型的な男性としては誰も意に介さないで通り過ぎて
しまうであろう。その理由は彼が進取の気性に富んでいたり、
自惚れたり、口達者であったり、男性の賞賛を刺激したり、素
晴らしい経歴を伺わせるような、そのような才能に欠けていた
からである。」
明治14年 (1881、9才) 渡辺家より抜嫡。
「口減らし」として浅草区松
明町 (現台東区西浅草一丁目) にある萬照寺に預けられる。
明治20年 (1887、15才) 萬照寺住職の紹介で東京小石川初音町の浄
土宗の名刹源覚寺に引き取られる。住職の端山海定のもと得度、海
旭となる。9月、福田行誡の推挙により「浄土宗学東京支校」(増上
寺境内にあった。芝中・高の前身) に入学。同級生に望月信亨、荻原
雲来がいた。
福田行誡は文化3年 (1806) 台東区生まれ、元増上寺法主、知恩院門
主、浄土宗管長を歴任。八宗の泰斗と呼ばれた大学者、名僧。
『大日
本校訂大蔵経』刊行。
57
荻原雲来に関しては、ブルーノ・ペツォルトに「Sanskrit Learning
in Japan and Professor Wogihara(日本でのサンスクリット語学と
荻原雲來教授)」(Taisho daigaku gakuho Kinen Rombunshu for the
Sanskritologist Unrai Wogihara p.139-183) という評論がある。
明治22年 (1889、17才) 「浄土宗学本校」に進む。
「壷月」と号する。
明治28年 (1895、23才) 7月、浄土宗学本校の予科・本科合計6年の
全課程を修了。卒業時、総代として答辞を読む。総合成績は望月が
一位、海旭は二位。宗門機関誌「浄土教報」主筆に抜擢される。
明治31年 (1898、26才) 5月、師僧海定の隠退により、西光寺第16
世住職に就任。
明治33年 (1900、28才) 5月5日、荻原雲来と共に宗門から第一回海
外留学生に命じられ渡欧。ドイツのストラスブルク大学でロイマン
教授に師事。比較宗教学や仏教を研究。神学部講師アルベルト・シュ
ヴァイツァーを知る。
明治40年 (1907、35才) 10月、学術博士号 (Doctor of Philosophy)
取得。
明治41年 (1908、36才) 5月、ロンドン万国仏教会議に出席。
明治43年 (1910、38才) 3月、帰国。宗教大学 (現大正大学)、東洋大
学の教授となる。また「浄土教報」の主筆、西光寺住職にも復す。
この年ペツォルト夫妻来日。
前田 「ロイマン教授に師事して世界的学僧に成長して帰国した海旭
のもとには、世界各国から仏教学者が来日、西光寺は「国際テ
ンプル」と呼ばれるようになる。
・
・
・西光寺に身を寄せ相談に訪
れたのは、僧侶や仏教研究者だけではなかった。
・
・
・前駐日ドイ
ツ大使ヴィルヘルム・ゾルフ、駐日英国大使チャールズ・エリ
オット、ソルボンヌ大学教授レヴィ、第一高等学校教授ベッツ
オルト、ロシアの漢字研究者のオットー・ローゼンベルグ・
・
・。」
B.P 「ストラスブルグのロイマンの下でサンスクリットの研究を
終えた後、日本の学界で重要な地位を得ることは彼にとっては
たやすいことだっただろう。かれは控えめすぎて学会の名声を
受けることに励むことはなかった。頼めば手に入ったであろう
博士という称号は彼にとって魅力はなかった。東京帝国大学の
椅子も同様に彼の野心の埒外であった。しかし、それは彼が学
問に無関心であるということを意味しない。」
58
B.P 「私が中国及び日本の仏教を研究していることを聞いて“ 我わ
れはあなたを助けねば ”と渡辺師は私に言ってくれた。」
明治44年 (1911、39才) 7月、法然上人七百年忌記念事業として深
川に「浄土宗労働共済会」を設立。貧窮者のための無料職業紹介所
と宿泊所を開設。社会事業として嚆矢。その後、大正10年 (1921)
深川商業学校、大正11年 (1922) 朝鮮人教化施設、明照学園設立。
「社会事業」ということばは海旭の造語。
9月、芝中学校校長になる (死去までの20年間勤める)。その他多
くの学校の校長を勤める。
大正7年 (1918、46才) 1月、新戒律主義を提唱。帰国後、禁酒・禁煙、
生涯独身を通す。
前田 「海旭の「生涯不犯」は徹底していた。結婚しないというだけ
でなく、
「男女寺を同じくせず」、すなわち西光寺への女性の寄
宿を許さなかったのである。」
大正12年 (1923、51才) 9月1日、関東大震災発生。西光寺、浄土宗
労働共済施設のすべてを失う。浄土宗執綱となり宗務を統括。
B.P 「8年間かれは聖職者として所属する浄土宗の宗務総長とし
て活躍し、軋轢が生じるような風潮に対し和解や調停に努め、
そして12以上の協会でいつも私心なく援助と助言を与えた。」
昭和5年 (1930、58才) 7月、「日独仏教協会」理事に就任。
B.P 「1930年8月、華族会館の壮麗な一室で独日大乗仏教協
会が設立され、私の著作の刊行を援助することを公認してくれ
た。渡辺師はかつてドイツで自身が受けた研究での恩恵に報い
るため、このような方法で感謝の気持ちを表現したかったのだ
ろう。」
昭和7年 (1932、60才) 3月、高楠順次郎とともに『大正新脩大蔵経』
を完成。11月、満州国「鏡泊学園」総長に就任。
B.P 「高楠順次郎教授との大正新修大蔵経の監修等は渡辺師が高度
な意味で学問と繋がっていたことの十分なあかしである。
・
・
・
・浄
土宗の宗門大学設立のため、決意を明確にして、既に高齢であ
ることも受け入れ、満州国に定住して、並々ならぬ努力を払っ
た。しかし、かれのあまりにも早すぎる死によってその計画は
頓挫した。」
昭和8年 (1933、61才) 1月26日、敗血症により逝去。
59
B.P 「余りにも若くして逝ったことで、(私の) 仏教研究で彼の才
能を十分に評価できなかったことを遺憾に思う。」
60
4
ペツォルト・コレクション(2)
澤田嗣郎/滋賀県坂本
前号に続いて、ハーバード大学燕京図書館に所蔵されているペツォル
ト・コレクションの中から、『ハーバード大学燕京図書館蔵 ブルーノ・
ペツオールド氏旧蔵資料目録』(日蓮宗 平成 23 年 3 月) で「角大師像」
と題された掛け軸など四点について紹介する。
I. 角大師像
図 2: 左図の拡大写真 (撮影者鼓澄治)
図 1: 角大師像
61
1. 『ハーバード大学燕京図書館蔵 ブルーノ・ペツオールド氏旧蔵資
料目録』(日蓮宗 平成 23 年 3 月)、29 頁 No.57
2. 上に「梵本心経」と題し、続いて「心経」(般若心経)の経典を梵
字で記す。
3. 左側に願文を三行で記す。
慈恵大師常住金剛降魔尊影敬寫施行一千幀之内願此功徳佛天哀愍令
法久住利益
人天天下和順日月清明風雨此時災厲不起國豊民安兵戈無用崇徳興仁
務修禮譲乃
至法界平等普潤元治元季甲子五月叡岳大行満菩薩比丘願海大悲畔提
起(印)
(大意)
慈恵大師が常に住まわれている金剛降魔尊の姿を敬って写し、一千
巻の表装を行う。この功徳によって佛の世界の慈しみにより、佛の
教えが長く利益となる。人々の世は穏やかで健やかな日々となり、
風雨の時には災害が起らず、国豊かにして民平安で、兵戈(争いご
と)を起さない。徳を崇め仁を興して禮を修め、之を譲り務めてこ
あまね
ひろ
の世の全てが 普 く 潤く平等となることを願うなり
きのえね
元治元季(年)甲 子五月叡岳(比叡山)大行満菩薩比丘願海 大
悲の傍に説き起す
4. 「梵本心経」と「願文」の下に金剛降魔尊を描く。金剛降魔尊は、
つのだいし
慈恵大師の化身で、角大師と呼ばれる鬼の姿をしている。比叡山中
興の祖と仰がれる慈恵大師は良源といい、大変美しい僧で都に招か
れしばしば祈祷を行ったが、若い女官に惑わされたので鬼の姿をし
て拒絶したという。また当時都で疫病が流行した時、大師が祈願の
ため修法をしていたところ、鏡に写った二本の角を持った降魔の姿
を弟子に書き写させ、そのお札を魔除けの護符(お守り)として、
人々に配り家々に貼るように命じたとも言われ、広く信仰された。
62
きくおかもくしょう
II. 菊 岡 黙 嘯書
きくおかもくしょう
図 3: 菊 岡 黙 嘯書
1. 『ハーバード大学燕京図書館蔵 ブルーノ・ペツオールド氏旧蔵資
料目録』(日蓮宗 平成 23 年 3 月)、35 頁 No.70
2. これは、漢学に優れた延暦寺佛乗院住職、菊岡義衷大僧正(号は
もくしょう
黙 嘯)の詠んだ漢詩である。添え書きに、「献呈獨逸別尾留土先
生」とあり、ペツォルトに贈られた詩である。このため「ペツォル
トに贈る書」として、読み、内容を解釈した。ペツォルトは大遠忌
63
の年 (1921 年 (大正 10 年))、延暦寺を訪ね、おそらくみずからの天
台教学の研究を理解し、評価していた菊岡義衷大僧正と会い、次の
書とともに贈られたのであろう。以下のように読める。
哲人大観悟心玄再會亦妙過古賢
研究多年功名朽佛光從此外邦僧
賦呈獨逸別尾留土先生 日本臺山黙嘯道人 (印)
(大意)
まこと
哲学を修めるこの外国人僧侶は、衰えつつある佛の真理に詳しい優
れた先人に会い、たびたび出会い広く調べ、多年に研究して功績が
ある。
ど い つぺ つ お る と
獨逸別尾留土先生に贈ります。 日本臺山黙嘯道人(印)
きくおかもくしょう
3. 菊 岡 黙 嘯の略歴は次の通りである。239
きくおかぎちゅう
もくしょう
本名は菊 岡 義 衷、黙 嘯は号である。 慶応元年 (1865):8 月 29 日、滋賀県蒲生郡島村にうまれる。浅井
彦右門次男。
明治 19 年 (1896):比叡山大学林付属中学林に学ぶ。続いて、大学
林支校二年を修業する。師僧は、竹内韶厳(蒲生郡島村、長命寺住
職)である。
大正 8 年 (1919):滋賀院門跡に任ぜられ、一山佛乗院住職を兼務
する。
昭和 3 年 (1928):大僧正に功進する。
昭和 4 年 (1929):毘沙門堂門跡に任ぜられる。
昭和 11 年 (1936):2 月 18 日没。
主な著作
A. 「伝教大師と禅」(「叡山宗教」1 巻 7 号、大正 9 年 (1920))
B. 「法華会広学けん義起源沿革の概要」
(「叡山宗教」4 巻 10 号、大
正 12 年 (1923))
239
延暦寺宗門雑誌「比叡山」(昭和 11 年 (1936)4 月号)参照。
64
III. 傳教大師千百年遠忌献詠歌
図 4: 傳教大師千百年
遠忌献詠歌
1. 『ハーバード大学燕京図書館蔵 ブルーノ・ペツオールド氏旧蔵資
料目録』(日蓮宗 平成 23 年 3 月)、35 頁 No.69
きくおかもくしょう
2. これは、菊 岡 黙 嘯が延暦寺で催された傳教大師一千百年大遠忌
(1921 年大正 10 年)を祝った詩である。以下のように読める。
日本天臺佛法泉宗源今作幾條川
山高水浄流無盡不滅法燈照義年
65
宗祖傳教大師一千百年遠忌献詠歌題 黙嘯衷(印)
(大意)
日本天臺は佛法の泉にして、流派の源なり。今幾つかの流派を作る。
きよ
よきとし
山高くして水 浄らかに流れ、尽きることなし。不滅の法燈義 年を
照らす。
まごころ
宗祖傳教大師一千百年遠忌、詩を詠み題し献ず。 黙嘯 衷 より
IV. 星曼荼羅
図 5: 星曼荼羅
1. 『ハーバード大学燕京図書館蔵 ブルーノ・ペツオールド氏旧蔵資
料目録』(日蓮宗 平成 23 年 3 月)、28 頁 No.56
2. この星曼荼羅は、「円曼荼羅」の手法で描かれている。中央に九曜
66
星240 の星仏を配し、上方には北斗七星241 の星仏を、下方に二十八
宿242 の星仏を描いている。
ま ん だ ら
3. 曼荼羅とは、仏教の中でも特に神秘を重んじる密教に見られる絵画
類である。密教の考え方によると、最も大切な真理は言葉では表
しがたく、絵画などの図形の助けを必要とする。その一つが曼荼羅
で、サンスクリット mandara を漢語で「曼荼羅」と表現した。曼
荼羅は、
「本質を得る」、すなわち悟りの境地に達することを意味す
る。曼荼羅には星供曼荼羅とか北斗曼荼羅といわれるものがあり、
天変地異、疫病などの災いを払い、また延命を祈るため、北斗法本
尊として祭られる。
4. 星曼荼羅は、古代中国の陰陽五行説や占星術、道教の影響を強く受
けた曼荼羅で、描き方が形によって「方曼荼羅」「円曼荼羅」の二
種類がある。円曼荼羅は、第 24 世天台座主慶円に始まったとされ、
四重院があり、内院中央に釈迦如来と周りに北斗七星が描かれ、第
二院に九曜星、第三院に十二宿、外院に二十八宿がそれぞれ描かれ
ている。
5. この星曼荼羅には、「敬呈 徳勝ペッオールド法兄 昭和五年帰朝
記念 坂戸智海」と添え書きされている。この添え書きのみで断定
することはできないが、ペツォルトは、1928 年 (昭和 3 年)、法名
「徳勝」を受け、僧位「大僧都」に補任され、上野寛永寺で「七條
袈裟」を受けたことなどを報告のため、ヨーロッパ・ドイツを訪れ
さかとちかい
たと推測される。また、坂戸智海は、ペツォルトが広く仏教関係資
料を収集していたことに協力していた一人であろうと思われる。
240
けいとせい
らごうらせい
けいとせい
日、月、木星、火星、土星、金星、水星、計 都 星、羅喉羅星を円内に仏像で表す。計 都 星
ばん
らごうらせい
は、 昴 宿にある星、両手に日月をささげ、忿怒の相で青竜に乗った姿を描く。羅喉羅星
は、釈迦の弟子で、悟りを開いて帰郷した釈迦について出家し、20 才で具足戒を受け、16
弟子の一人となった。
241
どんろうせい
くもんせい
ろくぞんせい
もんきょくせい
れんていせい
ぶきょくせい
中国の星学により、貪 狼 星、巨 文 星、禄 存 星、文 曲 星、廉 貞 星、武 曲 星、
はぐんせい
破 軍 星と称する七星である。
242
黄道に沿う天空に設けた中国の星座。東方七宿(蒼竜)、北方七宿(玄武)、西方七宿
(白虎)、南方七宿(朱雀)。
67
5
フォルカー・ツォッツのペツォルト像批判
鼓 澄治/倉敷
仏教文化学、宗教学の分野で強い影響を与えているというオーストリア
の哲学者フォルカー・ツォッツ Volker Zotz(1956-) のペツォルト像をその
著書『至福の島にて』(Auf den glückseligen Inseln, 2000, S. 186-193、副
題:「ドイツ文化の中の仏教」) から紹介し、最後に評者の批判を付け加
える。
まず、ブルーノ・ペツォルトの略歴を次のように紹介している。
ペツォルトは、哲学、心理学、経済学の研究の後、ジャーナ
リスト、著述家として活躍した。ペツォルトは、十年にわたっ
て、ドイツの雑誌や新聞の通信員としてヨーロッパで活躍し、
皇帝ヴィルヘルム二世の植民地政策で東アジアに赴き、そこで
1908 年から「北洋徳華日報 Tagblatt für Nord China」243 を編
集した。ピアニストで歌姫であったノルウェー人の妻ハンカ・
シェルデルプ Hanka Schjelderup が東京の音楽学校に招かれ
た 1910 年、ペツォルトは妻に従って来日した。第一次世界大
戦のため新聞の通信員ができなくなるまで、日本から「ケル
ン新聞 Kölnische Zeitung」に寄稿した。その後、日本の大学
でドイツ語を教えた。
また、ペツォルトが仏教に関心を抱くようになった契機については、次
のように述べている。
京都に近い天台宗の本拠地比叡山を訪れたことで、仏教がペ
ツォルトの関心の的となった。
ペツォルトに 20 年にわたって毎週 2 回仏教を教授した花山信勝 (18981995) によれば、「比叡山の山王祭を観られ、それが動機となって、天台
宗の歴史と教理と実践とに興味をもたれ・
・
・」244 という。
しかし、「比叡山の山王祭を観られ、それが動機となって・
・
・」という
のは、花山信勝の誤解で、比叡山の山王祭ではなく、比叡山の傳教大師千
百年大遠忌245 というべきであると思われる。
243
澤田嗣郎氏の指摘によれば、D・シャウベッカー:
「ブルーノ・ペツォルト」(「ペツォ
ルトの世界」第 3 号 39 頁) に「北洋獨華日報」とあるのは誤りで、「北洋徳華日報」が
正しいという。実際、澤田氏の蒐集した資料 (Tageblatt für Nord-China, 1914 Juli den
21, Dienstag, Tientsin) では、
「北洋徳華日報 Pei-Yang, Te-Hua Ji-Pao」となっている。
244
Tendai Buddhism collection of the writings by Bruno Petzold, 1979, あとがき参
照。
245
澤田嗣郎氏 (談) によれば、山王祭は、毎年 4 月 12 日より 14 日まで行われる日吉大
社の例大祭であり、傳教大師千百年大遠忌は 1921 年 (大正 10 年)3 月 16 日より 4 月 4 日
68
澤田嗣郎:
「ブルーノ・ペツォルトと比叡山」246 によれば、ペツォルト
は 1917 年 (大正 6 年) 信州の善光寺に参詣後、仏教特に天台宗に興味を持
ち始め、1920 年 (大正 9 年) 同寺にて僧侶となり徳勝247 を授けられた。ま
た、1921 年 (大正 10 年)「傳教大師千百年大遠忌」中に初めて比叡山に登
り、傳教大師の霊績に参拝した。大正 13 年には比叡山全体、日吉神社を
参詣、大正 14 年には比叡山の諸法筵・儀式を調査、大正 15 年には京都の
天台宗の主だった寺院をも訪ね、巨細にわたって調査、さらには吉野修験
道の研究にも手を伸ばした。
また、D・シャウベッカー:
「ブルーノ・ペツォルト」248 でも、同様の
指摘が見られる。すなわち、
「彼が真剣に仏教研究に取り組むのは 1917 年
に長野県の善光寺を訪れてからです。彼は天台宗に対して特別な関心をい
だき、同宗の開祖伝教大師の教えを研究したいと望んで、その意思を同宗
のしかるべき人々に何らかの形で開陳したのです。」
要するに、ペツォルトは、1917 年に善光寺を訪れたのを機に、仏教、特
に天台宗に興味を抱き、その後、1920 年には徳勝として天台宗の僧侶に
なり、1921 年に初めて比叡山を訪れるなどして、仏教研究を推し進めた
のである。
ツォッツは、ペツォルトがかくも仏教研究に専念した理由を控えめなが
ら次のように推測している。
もし、ペツォルトが日本で座礁したドイツ人として、仏教に
よって祖国ドイツの哲学や文化の中で愛したものすべてが活
力を与えられるという仏教観を形作ったと言うならば、それ
はおそらく過度の単純化であろう。
ここで、「日本で座礁した」とは、妻に従って来日し、ヒューマニスト
で反戦家であったがゆえに、ドイツに帰れなくなったということを指して
いる。ツォッツは、ペツォルトの仏教観が状況に強いられた面があるので
はないかという。
ツォッツは、ペツォルトの立場を「ユーラシア・ヒューマニズム」と呼
ぶ。ペツォルトが、大乗仏教、特に天台宗の意義を、対立者の統合に見出
し、東西、つまりアジアの文化とヨーロッパの文化を結合することを可能
にするものとして高く評価したという点に着目してのことである。
さらにペツォルトの努力は、「第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の
政治的傾向を背景に、東西の文化的摩擦の可能性を除去するという要請」
まで催されたが、その時期太湖汽船坂本港及び開通したばかりの江若鉄道叡山駅に 3 月初
めより大きい五色の吹き流しが立てられ、山麓上坂本の家々では戸口に高張提灯を立て、
参詣者を迎えて法要を祝っていたから、その状況を聞いて「山王祭」と誤解したと思われ
るという。
246
「ペツォルトの世界」第 3 号参照。
247
澤田嗣郎氏によれば、徳勝は、おそらく「ドイツの勝れた人」という意味であろうと
いう。
248
「ペツォルトの世界」第 3 号 47 頁参照。
69
に答え、「仏教の教えとヨーロッパの教説の内面的親和性と構造的類似性
とをアジアとヨーロッパの架け橋として理解しよう」するものであったと
いう。それゆえに、「ペツォルトの仏教研究は主として、西洋の思惟と仏
教の思惟の対応一致を明らかにする」ものとなったという。具体例を挙げ
れば、天台の三つの真理とシェリングのポテンツ論249 、天台の四つの原
理とフィヒテの五つの世界観250 、ゲーテの神・自然という概念と『華厳
経』の教説等々である。
しかし、西洋の思惟と仏教の思惟の対応一致を明らかにするペツォルト
の方法にはディレンマがあるという。
内容の対応一致は、当初の疎遠なものの理解の助けとなるは
ずであったが、最終的にはそれぞれの固有なものへのまなざ
しを遮ってしまう。
さらに、エドワード・コンゼ (Edward Conze 1904-1979) を援用して、
ペツォルトの比較という方法は、仏教の中に西洋の内容を投影した理解と
なりかねないとして、次のように批判する。
たとえ、その手続きが仏教的思惟を西洋哲学に対して参究資
格のあるものにするのに役立つとしても、それは、ヨーロッパ
の哲学者が仏教的なものに関心を抱くようにするための誠実
なやり方ではないし、目的に沿うものでもない・
・
・。実際、よ
く知っている内容を仏教の原典や主題の中に投影する危険を
過小評価することはできない。
また、ペツォルトが、仏教の教えとヨーロッパの教説の内面的親和性を
広範に指摘できたのは、ペツォルトに仏典に対する言語学的基礎がなく、
西洋の翻訳に頼ったせいであるとして、次のように言う。
仏典の言語学的基礎には関わらないとするペツォルトの姿勢
のおかげで、ペツォルトは、ヨーロッパで教育を受けた解釈者
たちの仏教理解に変更を加えるという危険にさらされること
はなかった。これらの解釈者たちの用語やヨーロッパの思考
形式の使用が広くペツォルトの意に沿っていたからこそ、ペ
ツォルトは細部にまで広範な親和性を見出すことができたの
である。
このように、ツォッツは、ペツォルトを批判した後、最後に、ペツォル
トの不変の歴史的意義として次の二点を指摘する。つまり、ドイツ文化の
最も価値あるものとアジアの文化の頂点とが一致することを解明したペ
249
250
智顗とシェリング:
「ペツォルトの世界」第 5 号参照。
智顗とフィヒテ:
「ペツォルトの世界」第 2 号参照。
70
ツォルトのユーラシア・ヒューマニズムの意義は、一つは、当時のドイツ
文化の民族主義的・純血主義的解釈に反対したという文化的・政治的意義、
もう一つは、ヨーロッパ人として仏教にヨーロッパ文化と同等の権利を認
めたという思想的・歴史的意義であると主張する。
以上がツォッツのペツォルト像の要点である。
しかし、このようなペツォルト像は、ペツォルトの業績を適正に評価し
たものであろうか。評者は、ツォッツはブルーノ・ペツォルトの宗教的・
哲学的意義を十分には捉えていないと考える。ツォッツは、ペツォルトの
歴史的意義を認めているが、それは二次的・副次的意義であって、第一に
認めなければならないのは、宗教的・哲学的意義である。
ツォッツは、ペツォルトの信念として、次のようなペツォルト自身の言
葉を引用している。
人類のあらゆる精神的力を調̇和̇にもたらす必要があるという
こと、そして、全世界の政治家にも学者にも、また労働者に
も農民にも、人類は一つであり、もし精̇神̇的̇一̇元̇性̇を忘れる
ならば、滅亡するということを理解させる必要があるという
こと251
この引用の中で評者が注目したいのは、傍点を付した「調和」と「人類
の精神的一元性」という二つの表現である。
ツォッツは、
「人類の精神的一元性 ihre spirituelle Einheit」というペツォ
ルトの言葉をどのように理解しているのであろうか。ペツォルトの言う
「人類の精神的一元性」は、例えば、ペツォルトが智顗とシェリングを比
較しながら述べた次のような言葉によく表現されているといえよう。すな
わち、
両者とも、
・
・
・われわれの中にある神的生命からのみ神的生命
はその絶対的実在性において十全に理解されうると信じてい
る。この神的生命を持っているのはわれわれの通常の精神で
ある。しかし、われわれはそれをその表面上で求めてはなら
ない。というのは、そこを支配しているのは浅薄な通常の意
識でしかないからである。しかし、われわれがわれわれの精
神の奥深くを看破するならば、全世界を照明することができ
る神的な内なる光をきっと見出すであろう。252
ペツォルトの言う「人類の精神的一元性」とは、哲学的に言えば「絶対
的実在論 absoluter Realismus」であり、宗教学的に言えば、
「万有在神論
Panentheismus」である。ペツォルトは、この立場を天台学、ウパニシャッ
251
傍点は評者 (鼓)。
Die Quintessenz der T’ien-T’ai-Lehre,1982, S.380.
「ペツォルトの世界」第 4 号 11 頁参照。
252
71
ド、シェリングなど東西のさまざまな宗教や哲学に共通する最も深いもの
として見出している。
それでは、ペツォルトが人類の精神的一元性として見出した絶対的実在
論・万有在神論とはどのようなものであろうか。ペツォルトは、天台学や
ゲーテに見出される万有在神論を次のように説明している。
万有が神の内にある (万有在神) 論では、神は世界に内在する
と同時に世界を超越し、神は世界の内に住んでいるがしかし
同時に世界を超え出てもいる、— 神ないし仏陀ないし絶対者
は、それ故に事実としての事物の、すなわち宇宙の総体ない
し全体なのではない。253
同じことをまた、天台学とヨーガを比較しながら、ウパニシャッドに見
出される汎神論について次のように述べている。
この汎神論は、狭い限定された意味での汎神論、つまり最高
の実在を単に事物の総体と解しその超越性を否定する汎神論
ではなく、神は世界を含みしかも世界を超越している、それ
故に世界より大きいとする万有在神論である。254
そして、この万有在神論は、汎神論ではあるが、「この世の豊かで多様
な絢爛たる生を空虚な夢とか芝居ないし影絵芝居にしてしまう抽象的一元
論・
・
・ではなく、時間的なものと永遠なものとを相互に調和にもたらす汎
神論」255 であるという。
確かに、ツォッツはペツォルトが『ゲーテと大乗仏教』の中で、万有在
神論を両者の究極的立場として明らかにしたことを認めているが、この万
有在神論は、ゲーテや大乗仏教に限らず、東西のさまざまの宗教・哲学の
一元性を具体的に表現するものであると解することができる。
次に「調和」というペツォルトの表現について確認しておきたい。
確かにペツォルトは、主著の die Quintessenz der T’ien-T’ai-Lehre の副
題に「比較研究 eine komparative Untersuchung」と記し、本文でも「比
較宗教の立場から vom religionsvergleichenden Standpunkt aus」といい、
「すでに知られた思想と比較対照する zusammenhalten」256 と述べている
が、そもそも比較という方法は、より根本的な事柄についての洞察なしに
は成り立たないし、より根本的なことを明らかにするという態度がなけれ
ば成立しない。もしそれがないならば、ツォッツがいうように、固有なも
253
Die Quintessenz der T’ien-T’ai-Lehre, S.287
Die Quintessenz der T’ien-T’ai-Lehre, S.328.
「天台学とヨーガ」
:
「ペツォルトの世界」第 6 号 25 頁参照。
255
Die Quintessenz der T’ien-T’ai-Lehre, S.328.
「天台学とヨーガ」
:
「ペツォルトの世界」第 6 号 25 頁参照。
256
Die Quintessenz der T’ien-T’ai-Lehre, S.138
254
72
のか共通のものか、どちらを重視するかというディレンマに陥るであろう
し、二つの固有なもの相互のいずれか一方に傾いた結合、これをツォッツ
は投影 Projizieren とか分極化 Polarisierung と呼んでいるが、に堕してし
まうであろう。
東洋と西洋を結合するとか架橋するとかは、ペツォルトの立場ではな
い。ペツォルトの立場は、人類の精神的一元性の立場であり、世界の一元
性の立場である。ペツォルトは、この「人類の精神的一元性」の立場から、
「人類のあらゆる精神的力を調和にもたらすこと」を追求したのである。
「結合・架橋」ではなく、「調和」を求めたのである。「結合・架橋」が異
なるものの同一性を主張する立場であるとすれば、「調和」は、異なるも
のの無対立性・無差別性を主張する立場である。天台の言葉で言えば、円
融である。
以上において、評者が指摘しておきたかったことは、次の三点である。
I. ツォッツは、ペツォルトの歴史的意義しか認めていないが、第一に認
められなければならないのは、宗教的・哲学的意義である。
II. 宗教的・哲学的意義の第一は、東西という異なるものの同一性を主張
する結合・架橋ではなく、異なるものの無対立性・無差別性を主張す
る調和の立場である。
III. 宗教的・哲学的意義の第二は、ペツォルトが人類の精神的一元性とし
て絶対的実在論・万有在神論を提示したことである。
73
6
特別寄稿:波と水
堀澤祖門/三千院門主
最近読んで特に感銘を受けた本にティク・ナット・ハン著『ブッダ「愛」
の瞑想』(角川学芸出版)がある。著者はヴェトナム出身の禪僧でヴェト
ナム戦争を終結させるうえで大きな役割を果たした平和活動家でもあるそ
うだ。私はこの本を読んでその内容の解り易さとブッダの教えの本質をじ
つに明快に指摘しているのに感嘆した。
この本は順に読んでしっかりと理解していくべき本ではあるが、今回は
その最後の第十六節「観念から自由になる」という節の記述に特に感銘を
受けたので、その全文を取り上げて味読し、かつ私の所感も加えることに
する。まずその最初の文章から始めよう。
1. 最も大いなる安らぎ「ニルヴァーナ」
ブッダの教えでは、わたしたちが手にし得る最も大いなる安らぎは、
「ニ
ルヴァーナ」(涅槃)に触れることです。そのとき、何の恐れもない状態
が当たり前の日常になります。
わたしたちの中には大きな恐れがあります。死、孤独、ものごとが絶え
ず移り変わっていくこと — わたしたちはあらゆることを恐れています。
「気づきの実践」〈第二節以下に詳説〉は、恐れのない状態(無畏)に
触れられるように助けてくれます。
「今ここ」
〈第二節以下に詳説〉に完全
に心があるときのみ、完全な安らぎと幸福を経験できるのです。
どんな波も水という要素からできているのと同じように、ニルヴァーナ
はわたしたちの存在基盤です。
わたしたちはふだん、すべてに「始まりがあり、終りがある。誕生があ
り、死がある」と考えています。
自分も生まれる前は存在せず、死後には存在しなくなると思っている人
もいます。それは、「存在」「非存在」という概念にとらわれているから
です。
ここで一緒に、海の波を深く見てみましょう。
ひとつの波はその個としてのいのちを生きます。しかし同時に、水のい
のちをも生きています。
波が自らに向き直り、自身に触れてみるならば、自分が水であることに
気づきます。そのとき、恐れのない状態、すなわちニルヴァーナに達する
のです。
(解説)
涅槃とは、サンスクリットのニルヴァーナの訳。原義は吹き消すこと、
また消えた状態。転じて煩悩の火が消え、智慧が完成する悟りの境地を言
う。仏教の最終目的。(百科事典マイペディア)
74
(所感)
ここに出て来る「波と水」の比喩に私はショックを受けた。素晴らしい
比較比喩であり、私が今までどの文献にも見出せなかった比較比喩であっ
た。白隠禅師の有名な坐禅和讃には衆生と仏を喩えて「水と氷」という比
較比喩が出てくる。この表現にも感心していたが、「波と水」はもっと直
接的である。つまり「波」は現実の私たち自身を指しているが、「水」は
私たちの本質を指しているのである。白隠は私たち衆生(凡夫)を「水」
と言い、仏を「氷」と比較比喩したが、その水と氷の比喩には温度差とい
う間接性が介在していた。つまり、衆生(凡夫)をそのまま仏とは言えな
いのである。
それに対して、「波」と「水」とは同体そのものであり、どこにも異体
感がない。
「波」として意識する時の自分は凡夫であり、
「水」として自覚
する時の自分は仏なのである。
2. 誕生と死、存在と非存在
わたしたちは誕生と死、存在と非存在、「一」と「多」という概念とと
もに生きています。
それは、これまで「究極の次元」に触れる機会がなかったからです。
ニルヴァーナには、「火を吹き消すこと」という意味があります。
何の火を消すのでしょうか?
誕生と死、存在と非存在を含む、あらゆる概念です。
(所感)
「誕生」といい「死」というも、
「存在」といい「非存在」というも、あ
るいは「仏」といい「悟り」というも、すべては頭の中で創作した概念に
過ぎない。そういう名前の現実ないし実体はどこにも存在していないので
ある。
ニルヴァーナには「火を吹き消す」という意味があるが、何の火を消す
のか? という設問である。私は今まで「煩悩の火」を消すことだと理解
していた。しかし、ここでははっきりと別のことを言う。「誕生と死、存
在と非存在を含む、あらゆる概念です」と。吹き消すべき火を「煩悩」と
は言わず、「概念」だと言い切っている。これは注目すべき発言である。
3. 「歴史的な次元」と「究極の次元」
波は「自分は波であると同時に、水でもある」と悟った瞬間から、生と
死という概念から解放されます。生と死、存在と非存在の概念は波の人生
に当てはめられても、水の本質には当てはめられません。それらは現象
〈色〉を表す言葉だからです。
ブッダの教えでは、これを「歴史的な次元」
〈色〉といいます。波は「歴
75
史的な次元」の現象です。
一方、水は「究極の次元」
〈空〉の話しであり、そこには誕生も死も、存
在することも存在しないこともありません。生じることも滅することもな
く、有も無もないのです。
波はこう考えるかも知れません。
「自分は生まれる前は存在していなかったし、死んだら存在しなくなる
のだろう」
しかし、それは考えー概念であり、究極の次元に当てはめることはでき
ません。
ブッダは次のように明言しました。
「世界〈空〉はある。しかし、生じることもなければ滅することもなく、
高いもなければ低いもない。存在も非存在もない〈空〉」
もし、そうした世界〈空〉がなければ、誕生と死のある世界〈色〉や存
在と非存在のある世界〈色〉もあり得ません。
ブッダが話しているのは、「究極の次元」〈空〉についてです。「水」に
ついて話しているのです。
(所感)
《「自分は波であると同時に、水でもある」と悟った瞬間から、生と死
と言う概念から解放される。》 何という素晴らしい言葉であろう。これ
こそ全人類にとっての最大の福音であろう。「自分は悟っていない」と意
識して悩んでいる人が世の中にどのくらい多いことか。
その自分が「波」
(色・凡夫)でありながら「水」
(空・仏)でもあると
いう事実を直視すれば、問題は立ちどころに解決すると言うのである。ま
た、ブッダの言葉として「歴史的な次元」というのは、私たちの言葉で
「二元相対の次元」のことであり、「究極の次元」とは「一元絶対の次元」
のことである。
4. 究極の次元に言葉や概念は通用しない
しかし、ブッダはわずかな言葉しか語りませんでした。なぜなら、「究
極の次元」に関して、言葉や概念は使いものにならないからです。
わたしに言わせれば、「神は死んだ」という言葉は、神がその姿を現実
に現すためには「概念としての神は死ななくてはならない」という意味
です。
神学者が自らの直接的な体験でなく、概念と言葉だけを用いても現実に
はほとんど役に立ちません。
ニルヴァーナについても同じことが言えます。
それは実際に触れるものであり、それを生きるものです。論じ合ったり、
解説したりするようなものではありません。
こうした概念はあるがままに見ることを、真実をゆがめます。
76
ある禅師は、大勢の聴衆を前にしてこう語りました。
「みなさん、わたしは自分が「ブッダ」という言葉を使うたびに苦しく
なります。この言葉のアレルギーなのです。口にするたびに洗面所に行っ
て、たてつづけに3回口をゆすがないといられません」
彼がそう話したのは、弟子たちが「ブッダ」という概念にとらわれない
ようにするためでした。ブッダはブッダであり、「ブッダ」という概念と
は別ものです。
りんざい
また、臨 済禅師はこう言いました。
「仏に遭うては仏を殺せ」
目の前に真のブッダが姿を現すためには、「ブッダ」という概念を殺さ
なくてはなりません。
その大きな集まりには、大変ゆるぎない心をもった禅僧が来ていまし
た。彼は立ち上がり、こう言いました。
「先生、先生が「ブッダ」という言葉を口にされるたびに、わたしは川
へ行って、たてつづけに3回耳を洗わないといられません」
師と弟子はお互いに完璧に理解し合ったわけです。わたしたちもまた、
考えや概念の罠におちいってはいけません。
(所感)
“「究極の次元」においては、言葉や概念は使いものにならない。”とい
う一句もまことに重要である。言葉や概念は「歴史的な次元」つまり「二
元相対の次元」に属するものであって、それらは「究極の次元」や「一元
絶対の次元」〈空〉では通用しないのである。
われわれは日常的に理性を使い頭で考える習慣があるから如何ともしが
たく「考えや概念の罠」におち込みやすい。そして理性で考えることが絶
対だと思い込みやすいことを、このさい賢明に反省し自覚しておくべきで
あろう。
白隠禅師の坐禅和讃に「いわんや自ら回向して 直に自性を証すれば けろん
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり 因果一如の門開け 無二無三
の道直し」という一節がある。戯論とは「概念」のことであり、因果一如
以下は「究極の次元」のことを述べている。
5. あるがままのリアリテイに触れれば、恐れはなくなる
恐れは,生、死、存在、非存在にまつわる自分の概念や無知から生じ
ます。自らの内にある、あるがままのリアリテイ(実相)に触れることに
よって、そうした概念を一掃できれば、恐れは消え、大いなる安心が可能
になります。
ブッダの教えを学ぶ者は、誕生と死という概念を乗り越える必要があり
ます。そうした考えは、あるがままのリアリテイには当てはまらないから
です。
77
このことは、存在と非存在という考えについても同じように真実です。
ブッダの教えを学ぶ者にとって、ハムレットが言う「生きるべきか死ぬべ
きか?」という問いは問題ではありません。
真の問いは「ニルヴァーナという存在基盤に触れるために、自分は十分
に実践しているか、集中しているか、気づいているか?」です。
だからこそ、日々の生活の中で — 食べるときも飲むときも「深く見る実
践」〈第一節以下に詳説〉を習慣にするようにしたほうがよいのです。そ
うすればいつの日か、内なる究極の現実に触れられるでしょう。
(所感)
あるがままのリアリテイ(実相)に「触れる」、という表現を使ってい
る。つまりそれを「考える」のではなく、実体験として「触れる」という
ことである。ついでに言えば、天台には「諸法実相」という言葉がある。
これは「あるがままのリアリテイ」と同じことである。その実相を考えた
り概念化したりするのではなく、それに直接生々しく「触れる」「体感す
る」ことが、あらゆる「恐れ」を無くすことだと言っている。
6. ニルヴァーナはわたしたち自身
ニルヴァーナは、探し求めるものではありません。
なぜなら、ニルヴァーナはわたしたち自身だからです。波がすでに水で
あるように — 。波に、水を探す必要はありません。波は水そのものなの
ですから。
深く生きるならば、ニルヴァーナにー究極の現実である不生不滅の世界
に触れることが可能になります。
そのとき、一切の恐れが消え去ります。自分が何ものであるかを、真実
の世界を、身を持って知ったからです。
最後に、気づきの実践を楽しく続けていくために、ひとりではなく、サ
ンガとともに実践することをおすすめします。サンガとは一緒に道を歩む
よき友の集まり、コミュニテイです。お互いに愛と理解、安心感と自由を
育み、喜びも悲しみも分かち合いながら実践の道のりを楽しんでいきま
しょう。
(所感)
この終りの言葉も素晴らしい。ニルヴァーナを探し求める必要はない、
と言う。これは同じく「仏」を探し求める必要が無いということでもある。
ニルヴァーナはわたしたち自身であり、「仏」も私たち自身であり、なん
ら違うものではない。
《波が「水」を探す必要が無いのは、波自身が「水」だからである。》 《私たちが「仏」を探す必要が無いのは、私たち自身が「仏」だからで
ある。》
78
この言葉は何度繰り返しても良い。何度確認しても良い。これこそ人類
への最大の福音の言葉であろう。
(文中、〈 〉括弧内のものは私が補ったものであり、原文には無いこ
とをお断りしておく。)
79
創刊号 (2008) 目次
創刊の辞:鼓澄治
1. 天台学の理論と実践(上)
:ブルーノ・ペツォルト(鼓澄治訳)
2. 統一化 (Gleichschaltung):ブルーノ・ペツォルト(岡見亮、D・シャウベッ
カー訳)
3. ブルーノ・ペツォルト (1873 年-1949 年)伝記的断片 (I):D・シャウベッカー
4. グリーグとハンカ・シェルデルプ・ペツォルト:小林ひかり
5. ハンカ・シェルデルプ・ペツォルトが E、グリークに宛てた二つの手紙:D・
シャウベッカー
第2号 (2010) 目次
序言:堀澤祖門
1. 智顗とフィヒテ:ブルーノ・ペツォルト(鼓澄治訳)
2. ハンカ・ペツォルト — 出世の背景と周辺:D・シャウベッカー
3. アーヌルフ・ペツォルトの思い出:スティーブン・J・アーチャー(岡見亮訳)
4. 天台座主表敬訪問:岡見亮
5. 比叡山に建つペツォルト夫妻の供養塔:小林ひかり
6. 比叡山ゆかりの外国人:比叡山高校図書委員会
7. 壮大な架け橋:斎藤守生
8. ノルウェー大使の祝辞:オーゲ・グルットレ
9. ドイツ総領事の祝辞:ゲロルト・アメルング(西村千恵子訳)
10. ドイツ語新聞に広告掲載した「HAKONE-HOTEL」
:澤田嗣郎
11. ペツォルト夫妻を記念する会に参加して:美内志郎
12. ペツォルトさんに親しみをこめて:石津静枝
13. ペツォルト夫妻を記念する会に関係して:鳥居一雄
14. 新たに発見された資料、ペツォルト先生の思い出:竹山道雄
第3号 (2011) 目次
1. 天台学と道教(上)
:ブルーノ・ペツォルト(鼓澄治訳)
2. ブルーノ・ペツォルト (1873-1949):D・シャウベッカー
3. ブルーノ・ペツォルトと比叡山:澤田嗣郎
4. ブルーノ・ペツォルト夫婦の供養塔の話:池上勝次
5. 袈裟の里帰り:澤田嗣郎、岡見亮、鼓澄治
6. ハンカ・ペツォルトの手紙:小林ひかり訳
7. ハンカの故郷ノルウェー、そして北欧の精神風土:山下明
8. リーゼルペツォルトの手紙:岡見亮訳
9. 新たに発見された資料、日本の恩人 マダム・ペッオールド:菊池綾子
10. 特別寄稿:良寛・貞心そして人生:堀澤祖門
第4号 (2013) 目次
1. 天台止観と知的直観:ブルーノ・ペツォルト(鼓澄治訳)
2. ブルーノ・ペツォルト(1873 年-1949 年)
:D・シャウベッカー
3. ブルーノ・ペツォルトにおける空の理解:鼓澄治
4. ノルウェーで見つかったハンカ・シェルデルプ・ペツォルトに関する資料:
小林ひかり
5. 新たに発見された資料
1. 加藤周一『羊の歌』より
2. 高木彬光『わが一高時代の犯罪』より
3. 求道物語「天台宗大僧都 ペツオールト氏と語る」
6. 特別寄稿:
「確かに生きること」
:堀澤祖門
80
第5号 (2014) 目次
1. 小嶋昭道先生のこと:岡見亮
2. 小嶋昭道さんを偲んで:澤田嗣郎
3. 父と小嶋先生:高田暁子
4. 小嶋昭道さんの思い出:枡居孝
5. ブルーノ・ペツォルトの手紙:西村千恵子訳
6. ハンカ・ペツォルトから兄ゲルハルド・シェルデルプへの手紙:小中ひかり
7. 智顗とシェリング:ブルーノ・ペツォルト(鼓澄治訳)
8. 日本の天台宗(上)
:ブルーノ・ペツォルト(石丸悦朗訳)
9. ブルーノ・ペツォルト (1873 年-1949 年):D・シャウベッカー
10. ペツォルト・コレクション (1)
11. トラに出会った話 (インドでの修行の思い出):堀澤祖門
81
ペツォルトの世界
The World of Petzold
第6号
発行者 ペツォルト夫妻を記念する会
〒 520-0105 滋賀県大津市下阪本4丁目6-7
電話 077-578-0196
出版 もたて山出版(私版)
発行 2015 年 11 月 10 日
頒価 1000 円
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