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PDF版 - 関西大学アジア文化研究センター
C
inter-action
環流
sac
関西大学アジア文化交流研究センターニューズレター 關西大學亞洲文化交流研究中心通訊
NEWSLETTER FROM CENTER FOR THE STUDY OF ASIAN CULTURES KANSAI UNIVERSITY
目 次
特集1 第13回研究集会
幕末・明治期における日本文学・歴史・思想・芸術の諸相・
・
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・
・2
特集2 第14回研究集会
近代東アジアにおける文体の変遷─形式と内実の相克を超えて・
・
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・
・7
活動報告・
・
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・10
アジア文化交流研究センターとともに五年・
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・
・15
関西大学 アジア文化交流研究センター / 關西大学 亞洲文化交流研究中心
0
2010.1
∼ 特 集 1 ∼
アジア文化交流研究センター第13回研究集会・第六屆日本漢學國際學術研討會
幕末・明治期における日本文学・歴史・思想・芸術の諸相
2
2009年10月3日、第13回研究集会(国立台湾大学との
末後期に生じたアヘン戦争による清国の打撃を知った日
共催:第六屆日本漢學國際學術研討會)「幕末・明治期
本の知識人は、その意識の中に大きな変化が脈動するこ
における日本文学・歴史・思想・芸術の諸相」が以文館
とになる。本講演は、こ
4Fセミナースペースにおいて開催された。午前中に基
のような幕末明治期の変
調講演、基調報告が行なわれ、午後からは「幕末明治期
動期に日本の知識人はど
の漢学思想」
、
「幕末明治期の漢文学」の二部に分けて研
のような形態で「近代知」
究報告が行なわれた。
を受容しようとしたかに
ついて論述したものであ
基 調 講 演
る。幕末の知識人の多く
まず、台湾大学文学院院長・葉国良教授が「日本漢学
松浦章センター長
は同時代の中国清朝の文
研究に対する国立台湾大学の取り組み」というテーマで
化に対してもの足りなさを感じていたため、永年培って
講演を行った。
きた漢学の素養により新知識を得ようとした。漢語に翻
台湾大学には、日本管轄下の台北帝国大学時代から漢
訳された西洋知識を、漢語の刊行物を通じて西洋の近代
学に関わりのある講座が置かれ、国民政府による接収後
文明を受容しようとしていたことが150年前の日本の実
も、戒厳令下の困難な状況において日本関連の科目が設
情であった、と指摘した。
けられた。戒厳令解除後の1994年には国立大学における
最初の日本語文学部が設置され、中国語文学部、歴史学
基 調 報 告
部における日本関係科目の開講とも相俟って、日本漢学
続いて、台湾大学・甘懷真教授、本センター・吾妻重
研究を深めるための努力が絶えず講じられてきた。近年
二研究員、徐興慶研究員、関西大学・乾善彦教授の四名
は学内外の研究者を広く集め、日本を中心とする東アジ
により基調報告が行なわれた。
アを視野に入れた研究を行い、その成果を出版してきた
甘懷真氏による「天下から国家へ:台湾出兵と明治国
が、その中でも日本漢学
家の成立」と題する報告は、19世紀後期における明治維
関係のものが多数を占め
新と伝統的な東アジアの「天下」体制の終結との関係に
ている。また中国・日本
ついて考察したものである。氏は、1871年に台湾で発生
の大学とともに日本漢学
した牡丹社事件、1874年の「台湾出兵」及び同年の日中
国際シンポジウムを開催
北京会談を通じて、新旧転換期における日本と中国の間
し、その成果もまた様々
の領土問題を論述するとともに、その過程における天下
な形で公刊するなど、他
の原理から万国公法原則
の研究機関との協力を重
葉国良氏
への転換、いわゆる「天
視する方針のもと活動を行っている。
下から国家へ」と至る道
次に、松浦章センター長が「幕末明治期における漢学
を考察した。これによっ
受容の変容─漢訳西洋書の受容─」と題して基調講演を
て、明治国家はいかに政
行った。
治的行動(台湾出兵)と
260余年に及ぶ徳川日本は、永きに渉り中国文化を受
論述(北京会談)を用い
容し、中国文化への思慕の念を抱いてきた。しかし、幕
て領土の範囲を確立した
甘懷真氏
3
か、そして、
「天下」体制の「化外」地域をいかに万国
漢文の特徴の一つである敬語の補助動詞「給」の使用から
公法や政治的な論述を利用して自国の領土に編入した
は、彼らの漢文理解に限界があることも看取できる。最後
か、という課題を解明する鍵を提示した。
に、氏は、このような知識の深さと限界を併せ持つ両面性
吾妻重二研究員は「関西大学泊園文庫自筆稿本目論に
が、すなわち幕末国学者における漢文理解の実態であった
ついて」と題する報告を行った。「泊園文庫」とは、江
と結論付けた。
戸時代後期に讃岐の学者・藤沢東
によって大阪に設立
された漢学塾「泊園書院」の2万数千冊に及ぶ蔵書のこ
研 究 報 告
とで、現在関西大学に所蔵されている。報告において、
午後は、「幕末明治期の漢学思想」、「幕末明治期の漢
氏は、まず、泊園書院および泊園文庫について紹介し、
文学」の二部に分けて研究報告が行われた。
続いて、泊園文庫の目録を紹介した後、その問題点を指
摘した。氏によれば、目録には、すでに刊行されている
幕末明治期の漢学思想
冊子目録といまだ刊行されていない自筆稿本目録とがあ
陶徳民研究員による報告「恭仁山荘への道:晩年の湖
るが、いずれも訂正・追加を要するにも関わらず50年間
南における「文化生活」とその象徴的意義」は、1926年
放置されたままであり、検索サイトを用いてもほとんど
に還暦と京都帝国大学退職を迎えた内藤湖南の晩年にお
検索されず、そのため研究が遅れているなど問題点が多
ける「文化生活」とその象徴的意義を考察したものであ
いという。最後に、泊園文庫の再調査と自筆稿本を含め
る。中国士大夫の生活様式を望んだ湖南は、1927年8月
た目録の整備、Web泊園文庫の開設など、今後の作業と
に落成した恭仁山荘に転居し、理想的境地に近づいて
課題についての説明がなされた。
いった。その恭仁山荘における晩年湖南の「文化生活」
乾善彦氏
乾善彦教授による「幕
はいかなる象徴的意義をもっていたかというと、第一は
末国学者の漢文理解─関
古文物の利用・研究を重視し、古代芸術の趣味の中に生
大本播磨風土記から考え
活するという東洋精神の実践、第二は「富国強兵」、「大
られること─」と題する
量生産」及び「自然征服」を至上命題とする近代西洋(特
報告では、関西大学所蔵
に英米)発の文明形態に対する反省であると指摘した。
の『播磨風土記』を取り
最後に、氏は、恭仁山荘に象徴される内藤湖南の「文化
上げ、それに対する幕末
生活」と、第一次世界大戦後のアジアにおける他の「反
国学者たちの解読を通し
近代」的生活様式との比較の可能性を提示した。
て、彼らの常識的な漢文能力の実態について考察がなされ
続いて、楊典錕氏(台湾大学助理教授)によって「明
た。谷森善臣、六人部是香、鈴鹿連胤らによって転写され
治新政府の軍制に古代日
た『播磨風土記』は、正格の漢文とみられている他の古風
本・古代中国が及ぼした
土記に比べ、いわゆる変体漢文に属するものの、和習が少
影響─復古の重層構造」
ないため、
これらの国学者たちはこれを日本語文ではなく、
と題する報告が行われ
正格の漢文として読み解こうとしたという。それは、たと
た。明治新政府は、中央
えば、彼らが本テキストを書写する際に、
「と号づくゆゑは」
集権的近代国家を樹立す
に「号」または「称」の字を補足するなど、正格の漢文ら
るため、武家政治への反
しくしようとした痕跡からも窺える。一方、日本的な変体
発に基づき、フランス・
楊典錕氏
4
ドイツにならって陸軍を建設し、近代的な軍制を導入す
ものである。氏は両書の
るとともに、古代日本・古代中国に関連する軍事的な名
異同を比較、対照すると
称を活用するなどして、日本陸軍の軍制を定めた。本報
ともに、日中維新運動の
告では、明治新政府が近代的な軍制システムを構築する
政策、ヨーロッパ文化を
際、いかなる古代日本・古代中国の軍事に関する呼称を
学び、社会の近代化を推
取り入れ陸軍の軍制を制定したのかという問題意識を掲
進するという立場が、ど
げながら、新しい陸・海軍軍人の官階の呼び方、天皇を
のような形で日中両国の
護衛する親衛軍の呼称、「軍・師団・旅団」という陸軍部
思想界、学術界の主流現
隊の名称といった三事について考察し、それぞれ延喜式
象へと発展していったのかを指摘した。竹添進一郎と永井
の六衛府・唐の衛府制度・『周礼』の軍隊編制を根源と
久一郎のそれぞれの実体験と記録を通して、当時の中国の
していたとして、明治新政府の軍制における復古の三重
風土、人情と文化に対する認識を新たにするとともに、日
構造を明らかにした。
中両国に関する研究において新たな視点で、新たな展開を
頼貴三氏
続いて、町泉寿郎氏(二
試みることができるのではないかとの提示であった。
松学舎大学准教授)は、
金培懿氏(台湾師範大学副教授)は「語由の法と義利
「幕末明治期の仏教者の
合一の用─渋沢『論語』学の二重構造」と題する報告を
対外認識─松本白華の場
行った。氏は、まず、渋沢は、『論語講義』において『論
合」と題する報告を行っ
語』経文の字義解釈を行うに当たっては、朱子の『論語
た。氏は、まず、対外認
集注』の注解を襲用していたが、一方、『論語』の内容・
識の考察の場では仏教者
精神を解明する上では、「義理合一」論を主張し、亀井
の論説が取り上げられる
南溟ら江戸儒者の注解を援用し、経文の字義と章旨を断
ことは少なかったとして、浄土真宗の僧侶で渡欧経験や
定した後で、大きく彼個人の人生経験と日本の歴史に基
中国布教経験を持つ松本白華の対外認識を考察すること
づいた「傍白敘事」形式の講義を展開するといった二重
を着想した問題意識について説明した。続いて、白華が
構造であったと指摘し
欧州宗教政策視察のために渡欧した際、途中で上陸した
た。そして、このような
セイロンで詩や見聞を残したことに言及し、白華のセイ
独特の講義方法により、
ロンの僧侶たちに対する対等の視線は感じられないと評
渋沢は、経典としての『論
した。さらに、上海別院における布教時代の詩を取り上
語』のこれまでとは異な
げ、そこから中国に代わって今や日本こそが東アジア文
る新たな新生面を切り開
明の伝統を保持するのだと自覚するに至った白華の気分
いたと評し、最後に、渋
町泉寿郎氏
が読み取れると評した。
金培懿氏
沢『論語講義』に見られ
頼貴三氏(台湾大学教授)による「
「観国之光、利用賓
る姿勢は、江戸以降「人外に道無し」という日本『論語』
于王」
:竹添進一郎『棧雲峽雨日記』と永井久一郎『観光
の実学的伝統でもあったと言えるとの論を展開した。
私記』
、二つの中国紀行文の比較」と題する報告は、
『幕末
藤井倫明氏(台湾師範大学助理教授)の報告「近代日
明治中国見聞録集成』に収録されている竹添進一郎『桟雲
本における朱子学研究」では、近代以前の日本で漢学の
峡雨日記』と永井久一郎『観光私記』を考察の対象とする
主流を成していた朱子学が、近代以後の朱子学において
∼ 特 集 1 ∼
アジア文化交流研究センター第13回研究集会・第六屆日本漢學國際學術研討會
幕末・明治期における日本文学・歴史・思想・芸術の諸相
5
藤井倫明氏
はいかに理解・評価・研
研究がなされていない。すなわち、黄遵憲はどれほどの
究されていたのか、従来
日本漢詩作品を閲読し、どのような認識と評価をしたの
の研究では十分に検証さ
だろうか。彼は明治の日本漢詩壇にどのような影響を与
れていないとした上で、
えたのだろうか。同時に、彼自身、明治の漢詩から何ら
近代日本で如何なる朱子
かの啓示を得たのだろうか。これらの問題についてはい
学研究が行われ、朱子学
ずれも一歩進んだ考察が待たれる。本報告は、黄遵憲と
に対して如何なる評価が
日本漢詩の関係を総合的に論じた上で、これらの諸問題
下されていたのか検証し
のうち、特に第三点のいわゆる「逆向フィードバック」
た。氏は、まず、近代日本の朱子学研究の論著を調査す
に重点をおいて検討した。
るのに参考となる目録を挙げ、その中から確認できる朱
次に、陳明姿氏が「森
子学関係の論著を列挙した上で、その論文の内容を検討
鴎外の『魚玄機』」と
した。そして、今回使用した以外の目録や新聞などを通
題する研究報告を行
じて一般社会の朱子学に対する見方を調査する必要があ
なった。森鴎外は幼い
ると指摘し、さらに近代日本の朱子学研究の特質をより
頃から『論語』、
『孟子』、
鮮明にするため、幕末期の朱子学研究や朱子学観との比
『左伝』、『国語』、『史
較が必要であるとして報告を締めくくった。
記』、
『漢書』、
『唐詩選』
陳明姿氏
などを学び、漢文に深
幕末明治期の漢文学
い素養があった。22歳から4年間、陸軍衛生制度研究の
「幕末明治期の漢文学」の部においては、南山大学・
ためドイツへ留学して西洋の教養も十分に身に付けた。
蔡毅教授、台湾大学・陳明姿教授、関西大学・増田周子
そして、陸軍軍医として勤務する傍ら、1890年から小説
教授、台湾大学・朱秋而副教授、台湾大学・范淑文副教
創作活動にも取り組み始め、1915年に『中央公論』に発
授、本センター・奥村佳代子研究員により、六つの報告
表したのが『魚玄機』である。本報告では、鴎外が「唐
が行われた。
女郎魚玄機詩」を読んでから『魚玄機』の執筆に至るま
まず、蔡毅氏により「明治期における日中漢詩交流に
でに要した11年の間に鴎外の周りで起こった社会的変化
ついて─黄遵憲を例として─」と題する報告が行われた。
や鴎外自身の心情の変化など、鴎外が「歴史離れ」とい
黄遵憲(1848 1905)は清朝末期の「詩界革命」の代表
う新しいジャンルの歴史小説を書くに至った経緯につい
作家として、これまでずっと学界から重視されてきた。
て紹介され、同時に『玄魚機』が如何にして創作された
蔡毅氏
しかし、彼が清朝光緒三
のかについての詳細な検討がなされた。
年( 日 本 明 治 十、1877)
増田周子氏は『明治期の文学者たちの漢文漢字問題』
末 か ら 光 緒 八 年( 明 治
と題する報告を行なった。漢学から洋学へと移行してい
十五、1882)まで初代清
く時代にあった明治日本では、漢字節減論、ローマ字採
朝駐日使館の参賛を務め
用説、日本新字創案、仮名専用説などの諸説が展開され
た4年余りの間の日本漢
た。また庶民などには、風変わりな新漢語を使う風潮も
詩との種々の関わりにつ
みられた。坪内逍遙のように、軽率にどの文体がいいな
いては、今なお全面的な
どと結論付けるべきではないという意見を持つ文学者が
6
あった一方、最適な表記法を模索し続ける文学者たちも
され、画趣に富む39首の
存在した。その後、
『怪談牡丹燈籠』などの言致体を試
漢詩のうち15首について
みた速文一記本の刊行が見られ、山田美妙、二葉亭四迷
考察し、漱石の題画詩は
らの文学者を中心とした言文一致体運動が行われていっ
王維のスタイル(人間と
た。これに対し賛否両論が展開されたものの、最終的に
自然の融合という文人画
は教育の上でも言文一致体が採り入れられ、言文一致の
の最高の境地)をそのま
方針が確立する。最後に、氏は、明治期の文学者たちが
ま受け継いでいるのでは
これらの場面で果たした役割は大きいものであったと評
なく、風景や植物より人
して報告を締めくくった。
間、あるいは詩人自身の内面に執着するという姿勢が見
続いて、朱秋而氏により「広瀬淡窓の詩風について─
受けられ、これが漱石の内面への理解につながるのでは
その日本化の一側面を中
ないだろうかと述べた。
心に─」と題する報告が
最後に、奥村佳代子研究員による「亀田鵬斎と『海外
行われた。広瀬淡窓
(1782
奇談』:白話小説風「忠臣蔵」の成立をめぐって」と題
1856) は、 江 戸 時 代 の
する報告が行なわれた。『海外奇談』は、浄瑠璃の『仮
儒学者、教育者、漢詩人
名手本忠臣蔵』を中国語に翻訳した作品で、1815年に鴻
であり、彼が主催した私
濛陳人重訳海外奇譚『忠臣庫』として出版された。この
塾である咸宜園は幕末全
本が本当に中国人の翻訳作品なのかという疑義は石崎又
国にその名が知られ、各
朱秋而氏
范淑文氏
造によって早くから指摘されていた。本当の翻訳者は亀
地から集まった入門者はのべ4000人を超えていたとい
田鵬斎(1752 1826)ではないかという説が石崎や香坂
う。淡窓の主要作品は『遠思楼詩鈔』に収められている。
によって提唱されている。奥村報告では、『忠臣蔵演義』
氏は、時代順に淡窓の詩風や詩作態度に関する重要な論
(唐通事周文二右衛門が『仮名手本忠臣蔵』を翻訳した
説を紹介し、淡窓の詩風は五十過ぎを境として前・後期
もの)と『海外奇談』の文体を調査した結果、『海外奇談』
に分けられ、巧緻精密な詩風から渾成自然な詩風へと変
を作った人物は、『忠臣蔵演義』を土台に書物を通じて
質し、それぞれ異なった趣きを持つとした。また漢詩に
白話の知識を持ち、唐話の学習経験もある日本人ではな
和歌や俳諧によって深められた美意識を用い、中国の詩
いかとした。
『海外奇談』は単独で翻訳されたのではなく、
人の影響以外に、日本的な要素を求めて、詩人の個性を
亀田鵬斎が序文を書くに至るまでには日本人趣味の中国
重んじる先駆けであったとした。
人、唐通事、彼らと接点を持った日本人の手を介してお
范淑文氏は「夏目漱石の題画詩:王維の投影」と題し
り、日中双方の異文化に対する意識の共鳴があったであ
て報告を行なった。漱石の漢詩は、(1)学生時代(2)
ろうと締めくくった。
松山、熊本時代(3)大患時代(4)題画時代(5)
『明暗』
時代に分けられ、題画時代とは南画を題材とした漢詩の
全体討論
時期を指す。漱石の絵画は水彩画から始まり、日本画、
午後の研究報告終了後、全体討論が行われた。報告者
日本画的南画となり、晩年は南画に専念するようになっ
と会場の両サイドから多くの質問や意見が出され、活発
た。小説や書簡の中で、漱石は文人画の始祖である王維
な議論が展開されるなど、大盛況の中に幕を閉じた。
の人生観や漢詩を賞賛している。氏は、題画時代に分類
∼ 特 集 2 ∼
アジア文化交流研究センター第14回研究集会・関西大学文化交渉学教育研究拠点第4回研究集会
近代東アジアにおける文体の変遷
─形式と内実の相克を超えて
7
2009年12月20日、CSAC第14回研究集会「近代東アジ
たものである。韓国で西
アにおける文体の変遷──形式と内容の相克を超えて」
洋文学の翻訳が進められ
が、関西大学文化交渉学教育研究拠点との共催により、
る中、1920年代に、翻訳
以文館4Fセミナースペースにおいて開催された。3つ
の方法と文体をめぐる論
の基調報告ならびに2つのセッションに分かれた8つの
争が巻き起こった。後に
研究報告が、小説や読本といった文化情報の媒体を手が
は意訳・直訳に関する問
かりに、日本語と中国語の両言語によって行われたが、
題のほかに、硬文体・柔
いずれも東アジアにおける近代化の推進及び異文化の受
文体の選択及び外来語の
容に伴う文体の変遷の様相を示すものであった。
採り入れなどの問題についても議論が繰り返された。一
午前中の基調報告は、夏暁虹氏(北京大学教授)、崔
方、いわゆる「宮体」、すなわち諺解本の形態を有する
溶澈氏(高麗大学教授)及び内田慶市研究員によって行
中国小説の翻訳本については、その論争の対象とされな
われた。
かった。このような状況をうけて、氏は、近代韓国にお
崔溶澈氏
夏暁虹氏は「白話文告
ける中国小説の翻訳文体が諺解本から国漢文混用体を経
と『聖諭』講釈─晩清の
て平易なハングル体に変わっていく過程を、『紅楼夢』
白話文運動における政府
の翻訳事情を分析することによって示した。
側の資源」と題して第一
第三報告は内田研究員による「近代欧米人の中国語文
報告を行った。「五四運
体観」であった。近代欧米人がどのように中国語を見て、
動」以後に形成された白
捉えたかということは、彼らがどのような中国語を学ん
話文は、晩清の白話文の
だかという問題でもあるとして、当時の欧米人が書いた
みならず、近年注目され
様々な文体の文章の検証を行った。文体は大きく1.文
つつある宣教師文献をはじめとする西洋文化による影響
言、文理、古文 2.口語、方言 3.白話小説をまねた
もあると言われる中、報告では、上記の論述を踏まえた
もの、の三つに分けられるとした。その上で中国に来た
上で清朝政府側からの影響力に特に注目した。民生に関
宣教師たちの言語認識が、この三つの文体のどれに属し
わる白話文の告示と定期的に講釈された「聖諭広訓」お
ていたか、さらに彼らがどのように中国語を分類してい
よびその白話読本を分析することで、それが晩清の白話
たかを紹介した。また、モリソンの『神天聖書』は一般
文運動のためにあらかじめ有力な伏線を張った一方、白
に文言に分類されるが、実は完璧な文言で書かれてはお
話文運動を展開する過程で政府側と民間が絶えず汲み取
らず、なぜモリソンが『三国演義』と同様の、文言と口
る資源となったことを明らかにした。本報告は晩清の白
語の折衷体を使ったのかという理由を紹介した。最後に
話文運動に潜む有力な内的支持を見出すと同時に、白話
白話あるいは文章は口頭語を反映しているが、口語その
文の古代から現代に至るまでの筋道を整理する際に見過
ものではないという見解を改めて示した。
夏暁虹氏
ごされやすい視点を提供した。
崔溶澈氏による第二報告は「近代韓国における翻訳小
研 究 報 告
説の文体の変遷」というテーマで、19世紀末期から20世
安田敏朗氏(一橋大学准教授)は「「文体ノ改善」の
紀前期にかけての韓国における西洋文学の翻訳事情と中
行方─日本語口語文体の戦中・戦後」と題する報告を
国文学、特に『紅楼夢』の翻訳状況について考察を行っ
行った。氏は、近代の文体の成立には人為的な要素が多
8
かれ少なかれ含まれ、口
国民文体成立の契機として働いたことにあったのではな
語文体を成立させること
いだろうかと述べて、報告を締めくくった。
が近代国民国家の存立と
奥村佳代子研究員は「唐話課本の会話文と白話文」と
不可分であろう、とした
題する報告を行った。江戸時代の中国語資料である唐話
上で、日本における「口
資料は、唐話資料として一括りにされてはいるものの、
語文体」をとりまく様々
その中身を見れば岡島冠山が編纂した『唐話纂要』など
な動きについて戦前・戦
の編著書、『海外奇談』などの文学作品の翻訳、唐通事
中・戦後と時代を追って
安田敏朗氏
によって記述された資料に分類できる。氏は本報告で、
検討した。氏は、口語文体をとりまく動きとして、戦前
唐通事のテキストと岡島冠山のテキストとの間に見られ
の国語審議会や国語愛護同盟、国語協会などの団体で行
る隔たりについて述べ、唐話資料とは一体何であるかに
われた諮問、戦中の大東亜共栄圏建設に際して行われた
ついて論じた。2つの唐話テキストを比較した結果、唐
日本語を通用語とするための整理改善の建議、戦後の天
通事のテキストは職業としての唐通事が唐通事のために
皇の詔書や後の憲法の文体、さらにGHQの憲法草案の
書いた口語文であり、岡島冠山のそれは知識人のために
翻訳文体などを取り上げ、それらについて検討すること
書いた訓読文であったという結論を導き出した。
で、日本語の文体に少しずつ口語体が取り入れられて
石崎博志氏(琉球大学准教授)は「琉球における文体
いった過程を示すなど、近代日本の文体変遷についての
の変遷からみた『琉球譯』の言語」と題し報告を行った。
検証を行った。
氏の報告は、琉球の文字
齋藤希史氏(東京大学准教授)は、「近代訓読体と東
資料がどのような言語と
アジア」と題する報告を行った。氏は、まず、漢字片仮
文体で記され、漢文訓読
名交じりの「訓読体」が明治になって漢字平仮名交じり
がどのように行われてい
の候文に取って代わって公的な文体としての地位を獲得
たかを明らかにするもの
したことを指摘し、さらに、その原因として文字は読ま
である。琉球王朝時代は、
れるべき音声の順に配置されるべきだという考えの存
薩摩を除く対外文書は漢
在、話し言葉における漢語の流行などがあったと述べて、
石崎博志氏
文、琉球王国内の公文書
近代訓読体の成立について思想的および社会的背景から
は和文、芸能関係は琉文を書記文体として使用し、漢文
説明した。続いて、漢文教育の普及に伴う訓読体の定型
の訓読が盛んに行われていた。この観点から1800年に李
化への言及および俗文体との比較を通して、訓読体は実
鼎元が編纂した琉球語発音字典である『琉球譯』を見る
用と権威の二側面の特徴
と、『琉球譯』が必要とした「琉球語」とは、巷間に伝
を有すると指摘した。最
わり、使用されている口頭言語ではなく、役人が文書を
後に、東アジアにおける
読む際に使用した漢文訓読による「琉球語」であり、そ
近代訓読体の意味につい
のため音声は琉球語、語彙は訓読調という混沌とした言
て、権威と実用、文と言
語環境を作り出したのではないかと結論づけた。
との拮抗によってもたら
王風氏(北京大学副教授)による「魯迅兄弟初期の翻
される力の場を用意した
訳と現代中国語の書記言語」と題する報告は、魯迅、周
こと、およびそれぞれの
作人兄弟の初期翻訳作品を中心に、二人の文学活動にみ
齋藤希史氏
∼ 特 集 2 ∼
ア ジ ア 文 化 交 流 研 究 セ ン タ ー 第 14 回 研 究 集 会 ・ 関 西 大 学 文 化 交 渉 学 教 育 研 究 拠 点 第 4 回 研 究 集 会
近代東アジアにおける文体の変遷─形式と内実の相克を超えて
9
る白話文の実践、及び現
る漢文小説の文体について」と題する報告を行った。本
代中国語の書記言語との
報告は、朝鮮の中長篇漢文小説にはいかなる文体上の特
関係について考察したも
徴が見られるか考察を試みたものである。氏は、
『玉麟夢』
のである。氏は、魯迅兄
を中心に『漢唐遺事』、『謝氏南征記』などといったその
弟の初期の文学実践を遡
他の作品も用いて、人物像描写、ストーリー展開、言葉
り、文言から白話へと使
の叙述および構成方式などを中国の古典白話小説と比較
用言語が転換したことを
させながら検討し、そこ
論述するとともに、二人
王風氏
から、“儒家道徳規範を
の翻訳作品題材、使用言語の選択、そして翻訳に対する
厳守する傾向にある”、
態度にみられる相違を指摘し、それぞれの性格、語学力、
“ストーリー展開が非常
外部から受けた影響といった方面からその原因を分析し
に速く、細かな描写が極
た。また、二人が翻訳において句読ではない句点、感嘆
めて少ない”といった朝
符号、疑問符号などの書記用符号を使用したことについ
鮮の漢文小説に見られる
て論を展開し、新文体の一特徴であるとした。
種々の特徴を洗い出し
竹越孝氏(愛知県立大学准教授)は「朝鮮時代末期に
た。そして、この作業を通じて、氏は、朝鮮の漢文小説
おける中国語会話書──その文法と文体」と題する報告
は古典白話小説から多大なる影響を受けているが、あら
を行った。氏は、まず、『華音啓蒙』
(『華音啓蒙諺解』)、
ゆる面において中国の古典白話小説とは異なる独自性を
『你呢貴姓』
、
『学清』、『騎着一匹』、『中華正音』、『華音
趙冬梅氏
有していると結論付けた。
撮要』
、
『関話略抄』といった韓国や日本に所蔵されてい
沈国威研究員は「清末民初国民必読類的文体」と題す
る朝鮮時代末期の会話書を紹介し、それぞれの編纂事情
る報告を行った。国民必読書とは清末の中国で国民教育
及び相関関係について考察を行った。その上で、これら
のために出版された啓蒙書あるいは教科書のことで、近
の会話書に見られる、本来の中国語の用法と異なる様相
代以降における中国語の形式と内容との矛盾・衝突の実
を呈するいわゆる特殊用法は、編纂者の母国語である韓
態を考察するのに良い素材を提供してくれるものであ
国語からの干渉による結果であるという見方を示した。
る。本報告では、1911年の辛亥革命までに出版された代
最後に、朝鮮半島の「吏読文」、日本の「変体漢文」といっ
表的な五つの国民必読書について説明した後、『国民必
た古くから存在するそれぞれの言語の特徴が混入した書
読課本初稿』
(1910)と『簡易国民必読課本上下』
(1910)
記言語が、正格の漢文よ
の二つに焦点をあて、①どうして簡易版が必要であった
りも広く使用された可能
のか、②文言と白話の区別はどこにあるのか、③形式と
性について言及し、「口
内容の矛盾とは何か、④どのようにこの矛盾を解決した
頭」・「書面」を問わず、
のか、といった四つの問題について検討がなされた。
このような変形された漢
文は東アジア地域に普遍
的に存在していたと指摘
竹越孝氏
した。
趙冬梅氏(高麗大学副教授)は「朝鮮時代後期におけ
活動報告
10
言
語
文
化
研
究
班
り点付き)で、1878年12月に廃刊になるまで47号が発行
された。紙面構成は内報系(国内ニュース)、外報系(海
言語文化研究班は3回の研究例会を開いた。
外情勢)、論説系(日本の新聞社の論説翻訳)、文芸雑識
2009年10月16日に第27回研究例会が開かれ、四つの報
系(漢詩文)の4つを柱としている。岡本監輔は他にも
告が行われた。
かなりの数の漢文著作があり、なぜ彼は漢文で書いたの
まず、内田慶市研究員が「天主教与新教在出版文化上
か、当時における漢学者の役割とは何であったかについ
的溝通」と題する報告を行った。本報告は17世紀以降、
て研究を進めていきたいと述べた。
カトリック教会内部におけるイエズス会とドミニコ会を
最後に、佐藤晴彦氏(神戸市外国語大学教授)によっ
はじめとする他の宣教会との対立、及びカトリック教会
て「漢字使用から見る『水滸傳』と『金瓶梅』の成立に
と19世紀以降のプロテスタント教会との軋轢に疑問を投
ついて」と題する報告が行われた。氏は、まず、
『金瓶梅』
げかけたものである。氏は宗教著作及び中国語学習書を
は『水滸傳』から生まれた作品であるが、現存する容與
例に挙げ、イエズス会士とドミニコ会士との間に出版物
堂本と萬暦丁巳(1617年)序本『金瓶梅詞話』では、『金
による相互参照の一面が存在していたことを示した上
瓶梅』のほうが古いと思われる点があると問題提起をし
で、漢訳聖書、イソップ寓話の翻訳及び中国語学習書に
た。これを論証するため文字表記(異体字の使用)を新
見られる文体解釈などについて分析を行い、プロテスタ
旧判断の方法として使用することとし、方位詞“li”と
ント宣教師がカトリック宣教師による出版物の影響を大
兼語動詞“jiao”の使用頻度を比較した。また、『類説』、
いに受けていたことを述べた。
『単字解』、『元朝秘史』、『徽州千年契約文書』、容與堂本
続いて、西山美智江非常勤研究員が「プレマールの『漢
『水滸傳』の北京本、天理本、内閣本における“li”の変
語札記』─仏図書館蔵写本と活字本の校勘(序文と第1
遷も提示した。
編)
」という報告を行った。フランス人イエズス会士プ
2009年11月20日に行われた第28回研究例会では、第一線
レマールの『漢語札記』(1728)は、カトリック宣教師
の中国語教育事情をテーマにした三つの報告が行われた。
による文法書のなかで初めて中国語の本質を捉えたもの
まず、清原文代氏(大
として高く評価されており、後の外国人中国語学者にも
阪府立大学准教授)が「紙
大きな影響を与えた書である。本報告では、フランス王
とe Learningを繋ぐPDF
立図書館蔵写本と1831年マラッカ版活字本の序文と第1
─ポッドキャストによる
編についての校勘を行い、両者が同系統の本であるとと
音声及びPDFの配信」と
もに、ローマ字表記、漢字の異同、ラテン語・フランス
題する報告を行った。氏
語の異同など細かな違いが多数存在することを確認し
の報告は、e Learning教
た。またその差異が生じた理由のうち、仏図書館蔵本を
材を作成するのは特殊な
発見した19世紀の中国語学者レミュザによる訂正・改変
人ではなく、普段使っているファイルに少々手を加える
によるものが最も多くを占める可能性を指摘した。
だけで、e Learning教材に変身するというもので、PDF
三つ目は沈国威研究員の「岡本監輔と『東洋新報』」
の利用を紹介した。学生の端末にAdobe Readerが入っ
という報告である。報告では、明治時代の漢学者岡本監
ていれば、教師がAcrobat Proで作成したPDF教材によ
輔が主宰した『東洋新報』について紹介がなされた。『東
り様々な学習をすることができる。例えば、注釈機能に
洋新報』は1876年7月に創刊された旬刊の漢語雑誌(返
よりPDFにマーキング、メモを追加する、音声注釈機能
清原文代氏
活動報告
11
を使えば学習者の声がPDFに貼れ、モデル音声と比較で
葉の形成と展開について論述したものである。氏による
きる、フォーム機能を使えばファイルをメールで配布し、
と、日中両国において頻繁に使用される「国民性」とい
記 入 済 み のPDFを 回 収 で き る な ど で あ る。 ま たe
う言葉は、“Nationality”の訳語として明治三十年代に
Learningソフト『スタークイズ3』(採点機能付き小テ
日本で形成されたとい
スト)の紹介もあった。
う。氏は、この言葉は、
続いて、沈国威研究員が「Podcastと外国語教育の新
『新爾雅』(1903)によっ
展開」と題する報告を行った。報告は、簡単にコンテン
て一足早く中国にもたら
ツの作成・更新ができ、パソコンでもポータブル端末で
された後、梁啓超、厳復
も気軽に利用できるPodcastという媒体をどのように外
などによっても使用され
国語教育のなかで活用していくかというものである。ま
るが、中国においてはつ
ずPodcastのしくみを説明し、BBCなどが配信している
ねに魯迅と深く結びつい
英語教育コンテンツの具体例を紹介した。コンテンツの
ていると指摘し、最後に、『人民日報』における「国民性」
作成にあたって制作者は、コンテンツの垂れ流しではな
の使用状況を年代順に調査した結果、用例数の増減の裏
く、依拠する教育理念や教授法、習得原理にも関心を持
に中国国内の政治情勢が大きく関わっていることが分
つ べ き だ と し た。 ま たiTunes U( ア ッ プ ル のiTunes
かったと述べて、報告を締めくくった。
Store内にあり、世界各国の著名大学から提供される教
二つ目の報告は、李漢燮研究員による「近代東アジア
材を誰もが簡単に利用できるシステム)についても紹介
における新概念の伝播と新聞との関わり─『漢城旬報』
した。
の場合を中心に─」と題するものであった。本報告は、
李冬木氏
最後に、氷野善寛氏(関西大学ICIS・COE DAC)が「ワ
『漢城旬報』(1883年10月∼1884年12月までに36号発行さ
ンコンテンツ・マルチユース─中国語マルチメディア教
れた韓国最初の近代的新聞)をデータとして、19世紀末
育における利用を考える」と題する報告を行った。ワン
の東アジアにおける近代新聞が新概念や新語の伝播とど
コンテンツ・マルチユースとは、一つの情報、一つの元
のように関わっているかを考察したものであり、李研究
データ、一つのコンテンツを様々な方法、方式で使うこ
員がこの数年取り組んでいる研究テーマである。『漢城
とである。中国語教材の場合、ソース(音声・写真・テ
旬報』が中国や日本の新聞から受け入れた近代概念や新
キスト)を使ってコンテンツを作り、それを多くの端末
語のデータベースを作成した結果、『漢城旬報』が非常
向けに、その端末の形態に合わせて作り替えていくこと
に有用な資料であることを再認識し、今後は他の新聞・
である。氏は、
「誰に」「何で」「どこで」を考えること
雑誌等に調査範囲を拡大し、新概念や新語の伝播にどの
が重要であるとして、様々な形に応用できる素材を蓄積
ように関わったかを明らかにしていきたいとした。
し、モジュール単位でコンテンツを作成することを提案
2010年2月12日に開かれる第30回研究例会では、奥村
した。また、これまでに作成した様々なコンテンツなら
佳代子研究員による「明治時代における近世唐話資料の
びにe Learning教材の作成方法も紹介した。
再版─『海外奇談』の行方─」及び池田智恵氏(早稲田
2010年1月22日の第29回研究例会では、二つの報告が
大学大学院DC)による「中国における探偵小説─現実
行われた。
と虚構のあわい・「犯罪」を消費する読者たち─」と題
一つ目の李冬木氏(佛教大学教授)による「「国民性」
する報告が行われる予定である。
という語について」という報告は、「国民性」という言
12
思
想
・
儀
礼
研
究
班
馴」と見なす観念が、日本に受容されていたことも理解
されたと結論付けるに至った。
思想・儀礼研究班は、4回の研究例会を行った。場所
第28回研究例会
(2009年9月11日)では、John Lagerwey
は、第28回以外は、本センタープロジェクト研究室(2)
氏および二階堂善弘研究員により二つの報告が行われた。
で、第28回は、本学以文館4階第二会議室であった。
John Lagerwey氏(フランス国立高等研究院教授)は、
第27回研究例会(2009年9月11日)では、石野一晴氏お
「The Rational Character of Chinese Religion(中国宗教
よび城山陽宣氏により二つの報告が行われた。
的合理性)」と題する中国語の報告を行った。まず、自
石野一晴氏(千里金蘭大学非常勤講師)は、「泰山娘
らの研究史、特に中国宗教研究を行ってきた背景につい
娘の登場─明代における碧霞元君信仰の展開─」と題す
て簡単に紹介した後、歴史は一般民衆が作ったものであ
る報告を行った。氏は「中国中世における巡礼」を研究
り、民間宗教にはその社
テーマとしており、各地の名山、寺廟の資料収集を行う
会的価値観が含まれてい
中で、泰山での巡礼の中心が東岳大帝ではなく、碧霞元
るということを前提に、
君であることに注目し、これまでの先行研究を踏まえな
架空の村を描いた図を用
がら、碧霞元君がなぜこれほど信仰を集めるようになっ
い、中国郷村における宗
たのか考察を行った。近年の研究は、戦前の研究成果の
教信仰について歴史学お
範囲を大きく越えるものではなく、欧米では碧霞元君の
よび民俗学の見地から詳
意義付けや象徴的意味の検証に重点が置かれている。報
細に解説した。氏によれ
告では、これら欧米での研究方式ではなく、シャヴァン
ば、一つの郷村には、その背後に風水が存在し、龍脈が
ヌや羅香林などの戦前の研究を礎として、碧霞元君信仰
足を下ろす場所には祠堂が設置され、その祠堂では、生
がどのように行われていたか、時代を追って考証しなお
存・発展・長寿のため、各目的に合わせた神が祭られる
すことで、現在の碧霞元君研究の問題点や今後の研究課
とともに、焼香から打醮(建醮)に至るまでの種々の宗
題を示した。最後に、ある地域の住民の中で、様々に信
教儀式が行われるという。報告は、氏の中国大陸や台湾
仰されていた娘娘神が、後に碧霞元君として統合された
における現地調査の体験も交えて進められ、具体的かつ
のでは、など今後の研究方針の可能性を提示した。
説得力のある非常に興味深いものであった。
続いて、城山陽宣氏が、「江戸時代における木活字版
二階堂善弘研究員は、「日本禅宗寺院、神社供的道教
の再盛行とその周辺」と題し、清朝文化の日本への東伝
神明」と題する報告を行った。氏は先ず日本の仏教寺院
という文化交渉の現象の中でも、とりわけ特徴的な一例
で祀られている道教の神の中には、現在の中国ではほと
である清朝の木活字出版「聚珍版」の東伝が、日本の近
んど祀られていないが、かつて信仰が盛んであったもの
世木活字の盛行をもたらした可能性についての報告を
もあることを簡単に紹介し、それらの神が日本でいかに
行った。報告において、清朝で形作られた「聚珍版」の
祀られているかを紹介した。そして、このようなかつて
「雅馴」
という観念が、その東伝を経た後、日本において、
中国で祀られていた道教諸神が、日本に伝わり、禅宗寺
いかに受容されたかを伝存する木活字の版本により直接
院で祀られている例として、1:長崎県唐寺、2:黄檗
確認することにより考察を進め、その結果、日本の近世
宗(宇治万福寺など)、3:臨済宗・曹洞宗(建長寺・
木活の書籍から「聚珍版」の名称を拾い上げたところ、
相国寺・永平寺など)、4:その他(妙見菩薩、田尾将
多数の用例が発見され、また、清朝の木活字出版を「雅
軍神)を挙げ、これらの寺院で祀られている道教神は、
John Lagerwey氏
活動報告
13
長い年月の間、様々な神と混同され、また、現在の中国
流と特質についてより正確に把握する助けにもなるとし
ではほとんど祀られていないため、本来いかなる神で
た。最後に、江戸易学史、特に伊藤仁斎の“道”論につ
あったのか特定するのが非常に困難になっていると述べ
いて、南宋・朱子の易学とも比較しつつその性質や特徴
た。
を明らかにした。
第29回研究例会(2010年1月22日)では、金仙煕氏お
第30回研究例会(2010年1月28日)では、吾妻重二研
よび王鑫氏により二つの報告が行われた。
究員および松井真希子氏により二つの報告が行われた。
まず、金仙煕氏(高麗大学校教授)が、「林泰輔『朝
まず、吾妻重二研究員が、「江戸時代における『家礼』
鮮史』
、その後100年─韓国における「歴史叙述」の問題
関連文献について」と題し、氏が本年3月に出版する東
─」と題し、韓国の近代歴史叙述に大きな影響を与えた
西学術研究所資料集刊「家礼文献集成 日本篇1」に掲
林泰輔の『朝鮮史』がいかに韓国において受容されたか
載されている江戸時代初期の家礼関連重要文献について
考察する報告を行った。氏は、まず、日本の朝鮮史研究
解説する報告を行った。『家礼』とは、南宋・朱熹が著
および近代韓国の歴史研究について紹介した後、韓国に
した冠婚喪祭の儀式に関するマニュアルのことで、『朱
おける林泰輔の『朝鮮史』受容について、この本を訳述
子家礼』や『公文家礼』とも呼ばれる。氏は、まず、家
し『東国史略』を著した玄采、「民族主義史学」、解放以
礼の位置づけについて説明し、扱う範囲は個人・家族・
降に分けて検討した。こ
宗族の冠婚喪祭の儀式で、身分家柄を問わず誰でも実行
うして、林泰輔の『朝鮮
しうるものであるとした。続いて、江戸時代初期の『家
史』は、植民史観を伝達
礼』受容状況について説明し、『家礼』は儒学者・儒教
する史書として受容され
共鳴者たちによって討論・研究されたとともに、彼らに
たものの、玄采が受容し
よって実践されたとした。最後に、『祭奠私儀』など「家
て以来、その受容様相を
礼文献集成 日本篇1」に掲載する重要文献について、
異にしながら多岐に分か
それぞれいかなる書物であるのかその解題を示した。
れ、韓国における古代研
松井真希子氏(関西大学大学院DC)は、「宇佐美灊水
究成果をめぐる議論、歴史叙述をめぐる問題を呼び起こ
の校勘学─『王注老子道徳経』を中心に」と題し、江戸
すなど、現在も韓国学界の「内的省察」をはかる試金石
の大儒・荻生徂徠の弟子である宇佐美灊水について、そ
となっていると結論付けた。
の『老子』王弼注校訂本である『王注老子道徳経』の書
続いて、王鑫氏(関西大学大学院DC)が、「変易与不
誌学的考察を通して、灊水の校勘学に対する態度を論じ
易──日本易学研究的諸面相」と題し、江戸時代の易学
る報告を行った。氏によれば、灊水は、焦竑『老子考異』、
に関する報告を行った。まず、易学は群経の首にあり、
孫鉱『老子古今本攷正』、焦竑『老子翼』、林希逸『老子
また、易学思想は多くの思想家が自らの思想体系を確立
鬳斎口義』、傅奕『道徳経古本篇』など当時入手できる
する基礎となっていたとして、易学研究の重要性を示し
文献を最大限に駆使して『老子』本文だけでなく王弼注
た。続いて、日本易学研究の概況を紹介した上で、江戸
までも緻密に校訂したが、当時、日本ではもちろん、中
易学史研究の意義について目録学、版本学、思想史研究
国でも王弼注まで校訂したテキストはほかに例を見ない
といった方面から説明し、江戸易学研究は、日本がどの
という。報告を通して、この校訂作業は王弼注の善本が
程度中国文化を受容していたかを理解する助けになると
ないといわれていた当時において非常に画期的といえ、
ともに、江戸時代の儒者の知識状況や思想およびその源
灊水が優れた校勘学者であったと結論付けた。
金仙煕氏
14
交
流
環
境
研
究
班
の2つの概念を明確にした上で、現地の録音資料からド
キュメントの有無について考察し、その結果、クルアー
交流環境研究班では、3回の例会を行なった。場所は、
ンの形成開始から現在までを「完全な口誦期」
、
「口誦期
第27回および第29回が以文館3Fプロジェクト室(1)、
かつ写本期」
、
「写本と不正確な刊本の並列期」
、
「写本期
第28回が以文館4F会議室(2)であった。
の終わり、刊本化開始」に分け、音となる「クルアーン」
第27回 研 究 例 会 は
の進展を述べた。さらに、
「モノとなる」クルアーンの
2009年12月2日に行な
各種グッズや現代的な展開についても指摘した。
われ、ベトナム漢喃研
第29回研究例会(2010年1月15日)では、復旦大学の
究 院・ 丁 克 順(Dinh
呉松弟教授により「中国旧海関出版物の巨大な学術価値
Khac Thuan) 准 教 授
と我々の中国近代経済研究」と題する報告が行われた。
が「越南歴史上的儒学
本報告は、中国近代海関という近代中国の重要な機関の
科挙制度(ベトナム歴
創立・組織・機能及びその出版事業を説明した後、海関
史上における儒学科挙
総税務司署によって統計・出版された図書・報告書・年
制度)
」と題する報告を行った。報告は、中国で始まっ
報や月報・週刊などの海関出版物を整理・分析し、さら
た儒学教育と科挙制度が如何にベトナムに導入されたか
にその巨大な学術価値を指摘したものである。氏は、ハー
について、さらにベトナム歴史上における儒学教育の発
バード大学燕京図書館とロンドン大学SOASに所蔵され
展とその特徴、及び科挙制度について考察したもので
る旧海関資料を踏まえて、海関出版物を7シリーズに分
あった。氏は、まず、2世紀に中国からベトナムに伝わっ
けて整理している。海関出版物の内容の広範さ、量化の
た儒学教育をめぐって、道徳教育、科挙試験向けの訓練
方法、記載の詳細さと正確さを指摘し、近代経済史研究
への重視という特徴を述べた。次に、1075年から1919年
だけでなく、近代中国全般を研究するのに最も科学的か
までの845年間にわたるベトナム科挙制度の成立・発展
つ系統的であり、また
を時代順にまとめた上で、制度の具体的な内容として科
詳細かつ最大の資料の
挙試験の構成、試験場の設立などを明らかにした。最後
宝庫であると強調し
に、ベトナム歴史上の科挙試験を記録する史書、
案、
た。最後に、氏の所属
地方誌、碑文資料など研究資料の分類と価値、並びに主
する復旦大学歴史地理
な資料を紹介した。
研究所における中国近
第28回研究例会(2009年12月24日)では、小杉麻李亜
代経済研究の現状、理
氏(日本学術振興会特別研究員)による「イスラームの
論基礎及びこれまでの
聖なる『書物』─記憶に保持され音となりモノとなる─」
研究成果が簡単に紹介された。
と題する報告が行われた。氏は、まず、
「クルアーン」=
第30回研究例会(2010年2月12日開催予定)では、藤
「書物」ではなく、書承の事実が確認されないこと、実
田髙夫研究員により「東アジア歴史研究のなかでの文化
丁克順(Dinh Khac Thuan)氏
際には口誦が重要であり、現在の各地のムスリム社会に
おいてもやはりクルアーンが口誦ベースで流通している
実態を提示した。次に、読まれるものとしての
「クルアー
ン(qur an)
」と書かれたものとしての「キターブ(kitab)
」
呉松弟氏
交流史研究」と題する報告が行われる予定である。
アジア文化交流研究センターとともに五年
松浦 章
15
2005年4月に私立大学学術高度化推進事業として文部
計3名が内外の大学教員として巣立った。僅か5年の間
科学省学術フロンティア推進拠点に選定され、「東アジ
に、このような大きな成果を生み出した。その原因を考
アにおける文化情報の発信と受容」をテーマとする5年
えれば、最大の要因は、藤田教授の構想に共鳴し研究員
間の共同研究プロジェクトを遂行することとなり、東西
となった先生方のチームワークにあったと言えるであろ
学術研究所に付設する形態で設置されたアジア文化交流
う。喧嘩することもなく、言語文化研究、思想・儀礼研
研究センターは、この3月で終了することになる。セン
究、交流環境研究と専門分野が離れていても、<アジア
ターを立案し参加予定された方々からセンター長にと推
文化交流研究>という固い絆でリンクされ進めてきたこ
され、
「手当が無いなら」と引き受けることになったが、
とに他ならない。それが故にG-COEプログラムにも採
瞬く間に5年が過ぎた。例えて言うならば、最初電車通
択される基盤となったのであろう。事実、G-COE事業
勤していた者が、いきなり新幹線通勤になり、G-COE
推進担当者15名の内、アジア文化交流研究センター研究
に採択されてからは、飛行機通勤しているような忙しさ
員を兼ねるセンター関係者が8名と1/2を越えているこ
である。今年度末で本学での勤務年数32年をむかえるが、
とからも明らかである。これらの人々は皆、飛行機通勤
この間にも経験しなかった、おそらく一生で最も忙しい
しているような中で、それぞれ新しい成果を生み出した。
時期であったろう。それは私のみではなく、共にセンター
おそらくこのような忙しさが無かったら生み出されな
を運営された先生方とても同じであったと思う。しかし
かったかもしれない。人間は環境に適応しやすいと言う
その多忙な中での苦闘の結果、センターとしては当初に
ことも実感できた充実した5年でもあった。
藤田髙夫教授が描いた構想調書をほぼ実現する形で終盤
5年間のセンターの活動を通じて得た最大の教訓は、
を迎えられた。
チームワークであった。そのチームワークを支えてくれ
この間、大学当局は、藤田構想を認め、文部科学省の
たのが、研究員となった先生方と若手のPD、RA研究員
認可後、以文館に研究施設を造り、予算援助や人的応援
そして事務の面からサポートして頂いた事務職の方々の
を行ってくれた。大いに感謝する次第であるが、我々セ
尽力であった。感謝する次第である。
ンターの研究員も十分にその応援に応えたと言える。そ
れはこの5年間の実績が物語っている。
具体的な成果として、出版物ではニューズレター「環
流」が10冊、研究紀要『アジア文化交流研究』が5冊、
センターの活動に賛同してくれた方々からの論考も含め
紀要に掲載された論文数は5冊で152本を数える。研究
叢刊が4冊で63本、さらにセンター編の『東アジア文化
交流と經典詮釋』が18本の論文を収録し、少なくとも
233本の論文を生み出し、この他に単行本3冊の成果が
生まれ、研究員個々の単著はこの限りではない。この結
果、日本のみならず世界のアジア研究に従事する研究者
や機関にも周知される存在となった。人材としては、セ
ンターのRA研究員から6名の博士(文学)学位取得者
が生まれ、さらに2名のPD研究員と1名のRA研究員の
【表紙写真】
福建清代帆船模型
(泉州海外交通史博物館製造・CSAC蔵)
関西大学アジア文化交流研究センターニューズレター
環 流 inter-action
第10号 2010 年1月 31 日発行
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