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ある少女にとっての植民地体験
(33) ある少女にとっての植民地体験 ― 「平壌」からの引揚げに関するインタビューと資料の紹介 内 藤 寿 子 1.はじめに 本稿は、植民地時代の朝鮮・平壌(現在の朝鮮民主主義人民共和国・ピョンヤ ン)で生まれ育った中村明美氏へのインタビューと、中村氏が保存していた文書 類を紹介するものである。日本の敗戦から60年以上の年月が過ぎ、現在、植民地 をめぐる経験が語られる機会は失われつつある。そして、このような状況だから こそ、1945年当時、11歳だったひとりの少女の生活実感を記録しておくことの意 義は大きいのではないだろうか。本稿が、日本と朝鮮半島との関係史を考えるた めの一資料となれば幸いである。 なお、中村明美氏へのインタビューは、駒澤大学文学部在学中の加賀見香穂氏 からの提案により実現できたものである。本稿の文責は内藤にあるが、中村明美 氏、加賀見香穂氏の協力がなければ完成しなかった。心からお礼申しあげる。 2.中村明美氏へのインタビュー ◇中村明美さん(以下、明美さん)は、1934(昭和 9 )年 8 月10日に平壌で生ま れたということですが、家族構成などをお教えください。 平壌では、両親と私と、そして養女のお姉さん(塩沢ハル)と、このお姉さん の子ども(寿治、 1944年 4 月生まれ) と一緒に暮らしていました。ただ、 実はちょっ と複雑なんです。私は、戸籍の上では父・中村三治、母・中村クマの長女となっ − 102 − (34) ていますが、養女・塩沢ハルが生みの親です。朝鮮にいたときはまったく知らな くて、引揚げてきて高校生になってから知ったことでした。はるの長男の寿治は、 本当は私の異父弟です。 ◇戸籍上の家族関係と血縁上の関係が異なることは、旧民法時代には珍しくない ことですよね。では、平壌には、三治さん(実父)、クマさん(養母) 、ハルさ ん(実母)の三人で渡ってきたのでしょうか。 それがよく分からないんです。父がどうして朝鮮に来たかも分からない。父の 出身は横浜の中区中村町と聞いていて、横浜時代は板前さんの中ではかなり有名 だったというので、私も結婚してから探してみたのですが、駄目でした。あと、 板前さんだけじゃなく、昔の街灯のガスをつける仕事もしていたことがあるみた い。私に何回か寝る前の布団の中で話してくれました。「どうやったの」って聞 いたら、はしごを持って、走って、ランプをきれいに掃除して、こうやって手で 拭いてお掃除したんだよって。お父さんは小さいときは苦労したんだよって言っ ていました。 ◇明美さん蔵の資料の中に、宅地や家財などを収得した日付が載っているものが あるのですが、一番古い日付が「昭和 2 年」です。 (資料20∼22)おそらく、 昭和金融恐慌(1927年 3 月発生)などの影響で「内地」を離れ、植民地に活路 を見いだしたのでしょうね。そして、板前さんだった技術を活かして、平壌で 生活基盤を作っていったのだと思います。資料を拝見しますと、ご自宅と同じ 敷地で料理屋をしておられたようですが。 「鱗」(うろこ)という名前の料亭をしていました。場所は、 「平壌府桜町53番地」 です。ただ、私が物心がついた頃には父は店には立っていなくて、 「シンキチ」 という朝鮮の人がおもに調理場をやっていました。まな板も大きくて、大きな水 道の蛇口からお水がじゃんじゃん桶に出てたの。 「何が入ってるの」って言ったら、 「手て出しちゃだめ」ってみんなで引き止められて。スッポンだったらしいんで − 101 − (35) すよ。店が忙しかったからでしょうか、お夕飯も自分のうちで食べないの。たし か調理場の横に広い部屋があって、職人さんや女給さんたちが食べるところで私 も一緒に食べていました。夜遅くまで店をやっていたものですから、 夜も「ああ、 いい子ね、もう寝たね」って言われると寝ちゃうんです。薄目を開けてると、母 が出て行くの見えるんです。同じ敷地でしたけど、お店はちょっと離れてたんで す。一回だけ夜に起きてお店に行ったらうんと怒られた。それからは、もう二度 と行くまいと思って。やっぱり寂しかったですね。 ◇では、お店の切り盛りはクマさんがなさっていたんでしょうね。資料の中に、 三治さんが桜町以外に「橋口町55、56番地」 (資料13)でも、事業をしておら れたようです。 母のクマは、いつも黒のかっぽう着を着てました。その姿で天ぷらを揚げてい た姿をよく覚えてます。抱きつくと、油の、天ぷらのにおいがして。私は、クマ のことを「母ちゃん、母ちゃん」て言ってたんですけど、 「 お を付けなさい」っ てみんなが言うんですよね。でも、母は「いいんだよ、いいんだよ」って言って 抱きしめてくれました。父は、 「鱗」以外に「大平楽劇場」という劇場と、造園 業もやっていたみたいです。昔はお正月はお休みじゃなくて、 学校行くんですよ。 そうすると、教壇の上にずっと菊の花が飾ってあるの。これがひとつの光景だと 思っていたら、うちに帰ると父親が「どうだった花、 きれいだったか」って聞くの。 「なんかあったよ」って答えると、「あれはお父さんが学校へ持っていってあげた んだ」と言われて、 「ああ、そうだったんだ」とはじめて気がつきました。本当に、 ボーっとした子どもだったんです。 ◇資料の中には、乗用車の登録証や出資に関する記録なども残っています。(資 料13∼18)三治さんは、平壌ですいぶん手広く商売をなさっていたんですね。 一種の土地の名士のような存在だったのでしょうか。 名士なんて、とんでもない。成金ですよ。私、父親の笑顔っていうのは、本当 − 100 − (36) に記憶が定かじゃないぐらい。写真を探しても笑ってる写真なんかないですもん。 怖い顔してるのね、鬼瓦みたい。それでね、夜寝る時、 たまに父親がいるんですよ。 それで、隣に布団を敷いて、何かやってるの。子ども心に不思議に思って、こう やって布団の隙間から見てると、お札を一枚一枚丁寧に広げて敷布団の下に入れ てるんです。「ものすごいお金を大事にする人なのかな」 「すごいな」って思った んだけど、まだ小さくて、あまり深いことまでわからなかったし、聞けないし、 聞くと怒られるし。ちょっと距離がある感じでした。だって、父親がいる二階は、 私たちはあんまり上がれないんです。 ある時、お掃除なんかをしてくれていたおばさんが、 「二階にお父さんいるから」 と教えてくれたんで、階段をそーっと上がっていったのね。それで何をしてるの かと思ったら、赤いぽんぽんを持って日本刀を叩いてるの。だから、声掛けられ ないですもん。あの頃は、まだちっちゃかったから怖かったですね。それで、階 段を上がって右側の部屋へ行くと座敷で、そこにお琴とかを置いてくれてあった んですが、お琴は重くて私の力では下ろせないんですよ。そうしたらしぶしぶ立っ てきて下ろしてくれて、お琴の練習したこともありました。ただ、父には「とに かく何か身に付けろ」という気持ちがあったみたいで、いろいろなお稽古をさせ てくれました。お琴だけでなく、花柳流の日本舞踊、お花、お茶など、先生をお 呼びしてお店の一番広い座敷で教えていただいていました。 ◇たしかに資産目録の中に、「営業用の刀剣」なども含まれています。 (資料20) 趣味としてだけでなく、三治さんは、お店の調度として骨董などを集めておら れたのでしょう。ところで、お稽古事の先生は、 「内地」からみえていたのでしょ うか。 そうなんですよ。ひとりは静岡の方で、「チャコちゃん」なんて呼ばれていま した。お店で働いている人たちも一緒にいろいろなお作法を習っていました。お 店にそこそこのお客様がみえていたからなんでしょう。お店に出ていた女給さん たちは、日本から働きに来ている人たちばかりで、たぶん朝鮮の人たちは裏の仕 事、洗い場とか、お掃除とかをしていたと思います。自分が住んでいる場所が日 − 99 − (37) 本じゃないっていうことも知らないで育ってきていたのですが、私の世話をして くれるおばさんのことは「オモニ」と呼んでいました。 ◇「鱗」があった桜町は、平壌の中心的な繁華街です。また、桜町の隣に位置す る賑町は花柳界ですから、さまざまな階層の人たちが集まっていたと思います。 さらに、平壌には陸軍の部隊も駐屯していました。 けっこう、兵隊さんがよく利用するお店でしたよ。将校さんなんかは馬で来る んです。店の前に金物で柵みたいにしてあるところがあって、そこに馬を結んで 止めていました。「明美ちゃん来たよ。乗せてあげるよ」って言われて、馬に乗 せてもらったりしたこともあります。ある時、お店の前に「兵隊の店」とかって いう看板が出ていて、 「わ、これ何」って父に聞いたら、 「将校さんだけじゃなく、 兵隊さんたちも自由に入れるようにしたんだよ」と話してくれました。 父は、全面協力したんじゃないですかね。「明美な、お掃除するにも日本はお 金がなくって、だからこうやって、くずでも何でも手で集めてるんだよ。だから お父さんは、竹ぼうきを何百本も部隊に寄付したんだよ」と話していたこともあ ります。お店で使うために、「金の釜」とかいろいろあったんですが、全部軍隊 に寄付したんです。とにかく「日本が勝ってくれるなら」という気持ちだったと 思います。お休みの日っていうとおはぎなどを作って、お店の人たちがみんなで 部隊に慰問に行きました。踊りの慰問で私も一緒にいったことがあるのですが、 もう、兵舎なんてボロボロでしょ。それで、歩いていたら足の裏にとげが刺さって、 すごいこんな太い木だったんです。いまだに足の裏に傷跡があるくらい。それで 兵隊さんが「目つぶってなさい」って言って、「せーの」で抜いてくれて、血止 めをして医務室へ連れてってくれたことをよく覚えています。 本当にあの当時は、 もう、とにかく「戦争に、戦争に」ということだったんじゃないんですか。 ◇寿治さんが1944年に生まれるまで、明美さんは大人に囲まれての生活ですね。 繁盛店のお嬢さんとして生活していた様子がうかがえます。 − 98 − (38) お嬢さんっていっても、そんなすごいお嬢さんじゃないです。あんまり古いこ とは、もう思い出せないんですけれど、異常な子ども生活だったと思います。桜 町って言ったら、本当に言うのも恥ずかしいくらいの場所で、すぐ隣は花柳界な んです。だから、お稽古というと芸者さんのいるところ、置屋さんに、三味線や 踊りを習いにいったこともあります。三味線の音とかそういうものが常に子ども のころから耳の中入っているんで、たまにテレビで三味線をやっていると、 「ああ、 こうだったな」って思い出してしまいます。 繁盛店というほどじゃないんでしょうけど、子どもって体がちっちゃいでしょ。 だから、お店がすごく広く感じたのは事実ですね。だって、ホールの角に神棚が 祭ってあって、それこそすごく大きかったんです。とにかく猫がよく入ってくる お店で、招き猫だから猫は大事にしなきゃいけないといってご飯も食べさせて、 そこに置くんですけど、そんなとこいなくなるでしょ、猫は。すぐにどっかまた 出て行っちゃう。周りは大人ばかりですから、猫の相手をしたりして、一人で過 ごすのが好きでした。 わがままで、ちょっとずれた子どもだったと思うんです。「このうちの、縁の 下の土もほこりも全部おまえのものだから」って言われて育ってきちゃったんで すよ。ある時、父に呼ばれて行って見ると、すごい木製の箱を開けて見せてくれ たんです。宝石がたくさん入っていて、「これは全部おまえのだから、おまえが 好きなようにして使っていいんだよ」と言われました。それで馬鹿だから、小学 校の先生がお誕生日だって聞いたときに、 「あ、 そうだ」と思って、 紫のすてきネッ クレスがあったから、それ持って、次の日学校に行ったんです。そしたら先生が びっくりなさって、 それこそケースなんかないんで、自分のハンカチで包んで持っ て行ったの。先生からはお店に電話があって、「明美ちゃんはこういう物を持っ てきていただいたんだけど、これは紫水晶で大変なものだから、私はいただけな いんです」と言われたのですが、両親は「明美が自分の物だと思って持っていっ たと思いますから、お受け取りください」と答えたそうです。引揚げてきてから 同窓会でこの先生にお目にかかったとき、 「いまだに持ってるのよ」とおっしゃっ て、紫水晶をしてらっしゃいました。 学校のお友達に対しても、たまに一緒に遊んでもらうと、みんなをパーラーみ − 97 − (39) たいなところへ連れて行って、「好きなもの食べて」なんて言ってたんです。そ うしたら後で、母から「明美、なんであんなことしたの」と聞かれました。どう も、パーラーのお姉さんに「鱗につけといてください」と言ったらしいんです。 こんな子どもだったから、陰でいろいろ言われていたようです。引揚げてきて からはじめて知ったことがあります。孫もいる年齢になってからのことですが、 ある同級生に、「あんたね、あんたのお父さんは朝鮮人だってみんな言ってたの よ」、 「本当は、ハルちゃんの子よね。あんたのお母さんはそうだって、みんな言っ てたわよ。知らなかったのは、あんただけよ」って言われたんです。まあ、びっ くりしました。どうせならそんな聞かせることないじゃない、 私なら言わないわっ て思って。 ◇植民地で生まれ育った子どもたちの意識を象徴するエピソードだと思います。 現在残っている資料から判断するかぎり、三治さんの民族的なルーツは朝鮮で はありません。明美さんの家の経済力を妬む気持ちと、朝鮮人への差別意識が 結びついての陰口ですね。 戦後、親戚の男の子が在日韓国人の女の子と恋愛をして、結婚したいっていっ たことがありました。その時、猛反対している親戚たちを見て、びっくりしました。 正直言って、 「なんでそこまで嫌がるの。同じ人間じゃない」っていうふうに思っ ちゃうんです。平壌ではオモニのお世話になりました。日本が負けた後、ロシア 人からスープをご馳走になったこともあるし、引揚げてきて九州にいたときは、 アメリカの兵隊さんからコーラを貰ったりして、よくしてもらいました。 人間って、けっこうみんな同じなんですよね。どこかで基礎は違うのかもしれ ないけど、そこまで掘り下げて生活できませんもの。生活している場の流れで生 きてくわけだから、そう思ったら、逆に憎むよりも受け入れた方が楽な場合もあ ると思うんです。そこで無駄にいがみ合う必要ありませんもんね。仲良くできる なら、そんなすてきなことってないじゃないですか。私は人が好きです。本当、 人が好きなんです。だけど怖いんです。人って、好きだけど怖い。平壌での生活 や引揚げてきてからのことを思い出すと、痛感するんですよ。 − 96 − (40) ◇資料を見ますと、明美さんは「昭和21年 4 月17日」に山口県の「仙崎港」に到 着されたようです。(資料20∼22)ソ連軍が平壌に進駐してきたのは、1945(昭 和20)年 8 月24日ですから、敗戦で混乱する朝鮮で、約 9 ヶ月生活していらし たんですね。1945年 8 月15日から引揚げに向けてのお話をお聞かせください。 平壌から少し南にいった「新川」という場所に別荘が二軒があって、夏休みは ほとんど一人で大きいほうの別荘へ行かされていたんです。 (資料15∼17)たま に母が心配して見に来てくれてはいたんですけど、夏休みは長いでしょ。オモニ だけがずっと付いてきてくれて、よくおんぶされたり、腰に抱かれたりして、本 当にかわいがってもらいました。あとは、しょっちゅう朝鮮のおじさんやおばさ んが来て、ご飯の支度をしてくれたりしました。朝鮮の人だけじゃなく、満州の 人もうちの畑を作ってくれていて、よく「明美ちゃん、食べる」って言っては、 赤カブやニンジンを食べさせてもらった記憶があるんですよ。 二軒の別荘はちょっと離れていて、小さいほうの別荘は警察官のご家族の方に 貸していました。心配して、そこのご家族が私のところにも来てくださるんです けれど、とにかくもうにぎやかで、だめなんですよ、私はずっと一人だから。そ れに、新川温泉っていったって、ちょっとした銭湯ぐらいの大きさなんです。そ こに、もう男の子だの女の子だの一緒にいたら、何していいかわかんないんです。 かえって一人のほうがいいなと思いました。 夏休み中ですから 8 月15日は、 オモニとふたりでこの別荘にいたんです。一応、 ラジオは聞いたんですが、天皇陛下が何をおっしゃっているんだか全然わからな くて、朝鮮のおばさんやおじさんたちはみんな泣いてるし。次の日になったら、 玄関から離れたところに木の門があったのですが、そこにみんなが石を投げに来 るし、怖かったですね。それで、誰かが平壌に電話をしてくれて、私が泣いて「迎 えに来て、迎えに来て」と言ったので、次の次の日ぐらいに、すごいトラックが 来て、兵隊さんが私を乗せてくれて、大事な物を持って、平壌に帰りました。た しか母も一緒に迎えに来てくれたと思います。 ◇オモニとふたりで過ごした 8 月15日からの 2 ∼ 3 日間の出来事は、忘れられな − 95 − (41) いものですね。 戦争中から引揚げてくるまでの間で、 「何が大変だったかな」と夜ひとりになっ て時々考えるのですが、やっぱり終戦のときのことになりますね。朝鮮の人もみ んな泣いていて、「あの桜の花が咲かなかったのは、やっぱり日本が負けるから だったんだ」と言うんです。廊下から窓を開けてお風呂場に行く間、六尺ぐらい の渡り廊下があったのですが、そこから見える沼のほとりに桜の木が何本もあり ました。それが春に咲かなかったという話をしてるんです。朝鮮の人が、泣きな がら日本語で喋ってますから、 「今は桜の時期じゃないのに」と子ども心に思っ て、バタバタっと走って行ってみたら、桜の木が本当に枯れちゃってる。 「あー、 こうなのか」って、立ち枯れみたいな感じですね。 門には石は投げつけられるし、何か言ってるけれど朝鮮語で話してますから、 全然わからない。ただ、何か言われてるな、何か罵倒されてるなということは分 かるんです。オモニに「なあに、今のなあに」と聞くと、 「明美ちゃんは知らな くていいから、奥の部屋行ってなさい」「明美ちゃんは何も悪くない。奥行って なさい、奥行ってなさい」と言われました。オモニは付いていてくれましたけど、 怖くて。つらいっていうか怖い。オモニとは、平壌に帰る時に別れました。別荘 のものは、みんな譲ることにしたみたいですよ。 ◇資料にある通帳の日付などを見ますと、あまり敗戦ということを意識せずに日 常生活を送っておられたようです。ですから、いつもの夏休みと同じように、 明美さんを別荘に行かせたのでしょうね。(資料10∼11) 平壌にいると「日本が負けそうだ」みたいな雰囲気はありませんでした。でも、 うちの父なんかは分かってたんじゃないかと思いますよ。 「負ける」とまではい かないにしても、「危ないな」と思ったからできるだけ協力しようと。あきらめ るんじゃなくて、全部供出したりして、よく父が、 「あんなになって。金の釜か らダイヤから全部出したのに、結局あれはどこへ行ったんだろうな」と言ってま した。でも、役に立つと思ったんでしょ。うちの父も決して利口じゃなかったで − 94 − (42) しょうから、もうなんとか乗り切ってほしいと思ってね。でも、最後は観念した んですよ。それで、私たち家族を残して、自分だけ平壌から逃げて行っちゃった んですもん。「命があっての物種だ」と、よく父が言っていましたが、だから一 番先に逃げて帰っちゃったんですよね。それこそ私の顔を見るか見ない間にいな くなっちゃったの。みんなに聞いても口をつぐんで言ってくれない。そしたら、 父は何人か守ってくれる人がいて、さきに日本まで帰ってきてたんですって。で すから、引き揚げてきたときは、私・クマ・ハル・寿治の四人で、たしか平壌か ら釜山までは兵隊さんが二人付いてきてくれたと思います。 ◇女性ばかりになってしまって、ソ連軍が入ってきた時に不安を感じませんでし たか。 ロシアの司令官でニコライという人が、うちの二階を接収したんです。 磨ききっ た廊下とか階段を、土足で歩くんです。すごい長靴の軍靴を履いていて、ドンド ンドンドン音を立てていました。だから、「父親いなくて良かったな」と、子ど も心にも思ったものです。私たちは「ソルダー」と呼んでいたのですが、若い兵 隊さんも何人かいてすごくかっこよかった。白いスープでお野菜がいっぱい入っ ているロシアスープと目玉焼きを、初めて食べたのもよく覚えています。 ただ、やはり変な兵隊が来るんです。物取りとか、女性を求めてとかね。そう すると二階を接収している人たちが出ていって怒るから、しまいには寄り付かな くなりました。そういう意味では、安全だったっていうのかな。そのうちに、ニ コライさんが別の家を接収して移って、別の大佐が家族連れできました。それで やはり、もう店も自宅も出なきゃしょうがないということで、近くにあった二軒 長屋に入って、終戦までそこにいました。 長屋の前の路地から見ると、月明かりで向こうにある公民館みたいな建物がみ えたんです。そこで、髪の毛が金髪の女の人たちが、日本人のおこしや着物を振っ たり、マフラーにしたりしてるんです。もう私はあれ見たときに、「あれって赤 鬼みたい」と思いました。口紅つけてますでしょ。それで、色が白くて、 髪は真っ 黄色じゃないですか。だから、兵隊さんをかっこいいなと思ったのとまた正反対 − 93 − (43) に、女性の人はすごかったという印象です。私の家にも、「着物くれ」とか言っ てきて、全部持ってちゃったみたいです。着物を広げているときに私はそばに座っ ていたら、「あんたは向こう行きなさい」と母たちに言われて、離れて見ていた ことを覚えています。 ◇おそらく、平壌から釜山までは陸路で行かれていると思いますが、とくに印象 に残っていることはありますか。 引揚げて来る時は、まず平壌からはトラックで出ました。それで途中で降ろさ れて、今度はとにかく歩くだけだったのですが、みんなと歩くから楽しいんです よ。ピクニックみたいで。「引揚げて来た時は、本当に大変だった」と話す方が 多い中で、私はちょっと抜けた子どもだったのかもしれません。荷車をどこかか ら調達して荷物を積んで、あと歩けない人やお年寄りを乗っけるでしょ。私は リュックを背負ってるわけですよ。そのリュックのひもの中やリュックの底には、 大事なものがみんな縫い付けてある。それで、「ロシア兵が来る、伏せな」って 言われると、大体土手の上を歩いてたから、コロコロってリュックの底の掛け軸 などを転がしたりしました。 あと、歩いて帰ってくるときに農家のようなところを歩きますよね。そうした ら、朝鮮の人が出てきてお釜みたいなものの中にご飯が入ったのを持ってきてく ださったり、泊めてくださったりするんですよ。何日間も歩きましたが、私はい つも部屋で寝かしていただいたような記憶があるのね。 釜山では、倉庫みたいなところで何日か泊まりました。もう、みんな、今で言 うホームレスみたいな感じになっちゃっていて、 その中のひとりなんだからって、 きれいな言い方だけど、変に度胸が据わりました。ここにいればいいんだ、お母 さんたちのそばにいればいいんだなって。寿治はまだ二歳でしたから、この子だ けはかばおうと思いました。 引揚船の中では、亡くなる方もいました。船の縁にご遺体を寝かして、水葬の 準備をするんです。みんな集まって手合わせて、船員さんがラッパかなんか吹い てくださって、ご遺体を乗せた板が動くのね。子ども心に、「あの板だけには乗 − 92 − (44) りたくない」って思いました。もう陸地が見えていて、ここまで来てって思いま すもんね。ただ、生まれてはじめて見た「日本」には、もうびっくりしました。 上陸したときは、アメリカ軍が建ててくれた宿舎に入ったので、とりあえず真新 しいんですよ。宿舎の中も結構きれいで、そんなに苦痛じゃなかったんです。 でも、 そこから列車に乗って母の故郷の静岡に着いたときは、「え、ここって静岡なの。 こういうもんなの」っていうぐらい驚きました。本当に静岡駅からずっと、全部 見晴らせるんですよ。海まで見えるくらいの焼け野原でした。 ◇明美さんは昭和 9 年生まれですから、11歳という多感な年齢のときに、生活環 境や価値観が大きく変わるという経験をなさったわけですね。語りきれない思 いがおありだと思います。 「ケ・セラ・セラ」じゃないけれども、「しょうがないわね、成るようにしかな らないわね」という気持ちで乗り切ったことがたくさんあります。それは、母た ちにも当てはまることなんじゃないでしょうか。クマやハルのことを考えても、 あと自分の結婚生活のことを考えても、家の中でも世の中でも、女の人は受け身 で苦労しての連続でした。花街なんかがなくなって犠牲者がなくなって、世の中 も心も少しは美しくなっていくのかと思ったら、つぎつぎ新しい問題が出てきて ますでしょ。だから、時代が変わっても、なかなか男女は平等にならないという のが実感ですね。 私はまだ子どもだったので、戦争中におこった出来事について、恥ずかしいく らい何も知りませんでした。だから、この年になっても、「本当のことを知らな くちゃ」という気持ちが強いんです。 8 月15日が近づくと、テレビなんかで戦争 のドキュメンタリーがありますが、家族に「もういいんじゃない」と言われても、 見ないではいられません。やはり、知らないままじゃ恥ずかしいんです。 (インタビュー期間:2011年 3 月∼ 8 月) − 91 − (45) 3.中村明美氏蔵の資料について 現在、中村明美氏の手元には、預金通帳など「平壌」時代を伝える生活資料が 残っている。もともとこれらの資料は、中村氏の実母である塩沢ハル氏が数十年 にわたり大切に保管していたものである。中村氏の話によれば、 塩沢氏は「平壌」 での生活や戦中・戦後の自身の歩みを、記録として残しておきたいという気持ち を強く持っていたという。しかし、仕事や生活におわれる毎日の中で、塩沢氏に も中村氏にも記録をまとめる余裕はなく、散逸してしまった生活資料もあるとの ことだ。 植民地における個人の在外資産について、日本と大韓民国との間では日韓基本 条約が締結されている。この条約への批判は多数存在するが、少なくとも国交樹 立の意義は認めなくてはならない。だが一方、日本は朝鮮民主主義人民共和国を 国家として認めておらず、もちろん国交も戦後補償に関する条約も結ばれていな い。塩沢氏が、預金通帳などの在外資産に関する生活資料を保管していたことに は、このような日朝関係 ―― 60年以上放置されている「植民地支配をめぐる補償」 や「個人への戦後補償」の問題 ―― が影を落としているのではないだろうか。 引揚げ時、塩沢ハル氏(1914・大正 3 年∼1993・平成 5 年)は、30代に入った ばかりだった。養父母にあたる中村夫妻(中村クマ・昭和25年没、中村三治・昭 和31年没)がいたとはいえ、二人の子どもを抱え戦後の日本社会を生き抜くこと には、計り知れない心理的苦労・経済的苦労がともなったはずである。そしてだ からこそ、「平壌」につながる生活資料が、なんらかの形で活きる日が来ること を願わずにはいられなかったのだろう。以下、26点の資料名をあげるが、これら が保存されつづけていたことに、わたくしは、塩沢ハルという女性にとっての植 民地体験の重さを見出す。 − 90 − (46) ◇資料リスト(項目名や名前の表記などは、資料に記載のものによる) 1:毎年利益配当付養老生命保険証券(日本生命保険株式会社、保険契約者・塩 沢ハル、被保険者・塩沢ハル、死亡時受取人・塩沢明美)昭和15年 3 月 8 日 契約∼昭和45年 3 月満期 2:朝鮮簡易生命保険証書(朝鮮総督府逓信局、保険契約者・塩沢はる、被保険 者・塩沢はる)昭和15年 4 月11日契約∼昭和35年 4 月満期 3:毎年利益配当付厚生養老保険(帝国生命保険株式会社、保険契約者・中村三 治、被保険者・中村明美、死亡時受取人・中村三治)昭和19年 1 月30日契約 ∼昭和54年 1 月満期 4:毎年利益配当付厚生養老保険(帝国生命保険株式会社、保険契約者・中村三 治、被保険者・中村クマ、死亡時受取人・中村三治)昭和19年 1 月30日契約 ∼昭和49年 1 月満期 5:割増金付徴兵保険証券(富国徴兵保険相互会社、保険契約者・塩沢はる子、 被保険者・塩沢寿治)昭和19年11月23日契約∼29年 5 月最終払込 6:保険料領収帳(朝鮮総督府逓信局、保険契約者・塩沢はる、被保険者・塩沢 はる)昭和15年 4 月∼18年 4 月払込 7:国民貯蓄組合高額所得者据置預金通帳(平壌南金融組合 名義・中村クマ) 昭和18年 8 月∼19年 5 月預金 8:国民貯蓄組合据置預金通帳(平壌南金融組合 名義・中村クマ)昭和19年 7 月∼20年 5 月預金 9:大詔奉戴記念預金通帳(朝鮮殖産銀行、名義・中村クマ)昭和19年 3 月25日 ∼20年 4 月 9 日預金 10:一千円会興亜無尽契約書(朝鮮無尽株式会社平壌支店、名義・塩沢三郎)昭 和19年10月∼20年 8 月払込 →塩沢三郎氏は、塩沢ハル氏の弟にあたる。中学進学のために平壌に渡り、その 後、徴兵され戦死された。 「鱗」にもよく出入りしており、中村明美氏のこと を妹のように可愛がったという。 − 89 −