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天智・天武天皇~聖武天皇の時代持統・元明・元正天皇 (女帝時代)

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天智・天武天皇~聖武天皇の時代持統・元明・元正天皇 (女帝時代)
「聖徳太子勝蕊耀諜総」。仏教の経典のひとつ「勝盤潤を講釈する聖徳
推古天皇
聖徳太子と蘇我馬子
「推古天皇像」土佐光芳筆。現在知られる唯一の推古天皇単独像。享保
11年(1726)の制作と思われる。(叡福寺蔵/大阪市立美術館提供)
太子と勝を持ってうつむきながら聴聞する馬子。(四天王寺蔵)
聖徳太子という卓越した
指導者像は握造されたもの”
推古云呈の時代堤以宿の羊遼誕確を握っ
うまやどのみこそがのう主
ていたのは誰か。悟膝伽者は3人。推古天
皇本人と聖徳太子︵厩戸皇子︶と蘇我馬
︾︶
せつしよう
子だ。古くは女帝の推古天皇は形ばかり
の存在で、実権は﹁摂政﹂の聖徳太子に
あったと考えられていた。だが実際はど
うだったのか。
近年、蘇我馬子は当時、君主の地位に
あったとの見方が示されている。この説
いなめ
に立つと、主導権は当然、馬子にあった
みせ忠ろや虫いしぷたい
ことになる。たしかに蘇我稲目、馬子父
子の墓と見られる見瀬丸山古墳と石“堂ロ
古墳はどちらも堂々たるもので、その頃
の蘇我氏の権勢の巨大さをうかがわせる。
しかし、それが君主だったことを証明す
がいぜさ
るわけではない。そもそも蘇我氏の権力
は天皇の外戚としての地位による。つま
り、天皇の権威に依存していたことにな
ることなど不可能だったはずだ。
る。ならば、天皇を押しのけて君主にな
しかも息推古天皇が即位する前から馬
子はその権威にすがっていた。だから、
天皇になってから対等の立場などに立て
るはずがない。
次に聖徳太子については虚構説が出て
いる。厩一F皇子という皇一族は実在したが、
ねつそう
聖徳太子という卓繊℃た指導者像は﹃日
本書遍些が樗遥したフィクションだとい
うのだ。だが﹃日本書紀﹂以前に成立し
40
歴代天皇の皇子たちを抑えて即位した女性天皇
重視すべきは、臣下によって第詑代崇
す
は成垂言享走なにではどう考えるべき。だ
東アジア初の女帝、推古天皇は
いかにして誕生したのか
推古天皇は即位前から大きな
政治的発言力をもっていた
ぴだつ
て←たことが分力るこうした﹄確威は何
﹂ききい角一べ
に基づくのか。第釦代敏達天皇の皇后だ
つたという経歴。﹁私部﹂という皇后の
地位に位厩する経済基盤。皇統の本流に
付置していた点も見落とせない。その上、
本人の才能・資質の面でもすぐれていた
ようだ。こうして、推古天皇は皇族の中
皇読請上、最初の女帝は第鎚術推古天
う事実だ。もともと蘇我氏の血をひく崇
あとをうけて、推古天皇が即位したとい
峻天皇が暗殺される前代未聞の大事件の
おそらく皇族や豪族ら一同の合意による
危儒吟な人物だった。よって、その排除は
いたい﹂と口走るような朝廷にとっても
立し、﹁気にくわないヤシを殺してしま
これに対して崇峻天皇は皇族の中で孤
でも卓越した立場にあった。
皇だ。即位したのは592年。この時点
峻天皇の即位を主導したのは、皇太后だ
ものだろう。だからこそ、暗殺後に何の
しゅん
でシナ大陸だも朝鮮半島にも、女性君主
った推古天皇その人だ。これは当時、即
すいこ
、則例はまったくなかった。つまり呼碓古
位前にもかかわゑ支推古天皇が大きな
がこの時、即位したのは何故か。よく語
しかも、崇峻天皇即位前に皇些挫琶狙って
政治的発言力をもっていたことを示す。
に課題は山概していた。これに国内が一
波乱も起きていない。
ぬかたべのひめみこ
では、女性の推古天皇︵額田部皇女︶
天皇は東アジアで史上初の女帝だった。
られるのは、複数の有力な男性皇族が皇
いた穴燕部皇子が詠殺されたのも、皇太
致結束してあたるためには、信望のある
みことのり
しかも当時、晴との交渉をはじめ内外
ずい
位の継承をめぐって対立している場面で
后たゑ碓古天皇の﹁詔﹂によるもの。そ
推古天皇の即位以外に選択肢はなかった。
※穴穂部皇子は諌殺b押坂彦人大兄皇子は死去の可肖雛。
あな臆ぺちゅうざつ
は、いったん雨崩継ぎ﹂に女帝が立ち、
の頃すでに天皇に準じた権威を身につけ
一︲︲︲聖徳太子︵厩蔵皇子︶
第釧代用明天皇
第詔代推古天皇
一亦欝掌
第加代敏達天皇
一亦穏莞毒掌
底抵
その後の円滑な事態の処理を図ったとい
いしU駒飼Uめあこ
石姫皇女
2−人ぬり
第調代欽明天皇
穴穂部間人皇女
いたのは、歴代天皇の皇子である竹田皇子(第30代敏達天
皇の子)、聖徳太子(第31代用明天皇の子)の2人だった。
う説明だ。だが、こうした説明は信じに
たけだのみこう主やど
官舎ざのい、三
蘇我稲目
穴穂部皇子
第狸代崇燐天皇
崇峻天皇が暗殺されたのち、有力な皇位継承者とみられ?
くい。この場合、有力な継承候補者とし
て名前が挙がるのは竹田皇子と厩戸皇子
︵聖徳太子︶だ。ところが、2人とも即
位するには若すぎた。竹田皇子が加代前
半。厩戸皇子は肥歳だ。
6.7世紀の天皇の即位年齢はすべて
鋤代後半より上だった。とても2人が有
力な候補だったとは思えない。
しかも当時、まだ譲位という慣行はな
かった。ならば﹁中継ぎ﹂の役割は果たせ
ない。現に2人の皇子は推古天皇の在位
中に亡くなっている。だから﹁中継ぎ﹂説
F
ト
│推古天皇略系図
暗殺される崇峻天皇と
即位する推古天皇
たかみくら
画面中央に、寝所を襲われる第距代崇峻天皇が見
分︶﹂︵橘寺蔵/奈良国立博物館提供︶
える。左には、玉座である高御座に推古天皇、横
に聖徳太子が控える。﹁聖徳太子絵伝第五幅︵部
汁
,
皇・
子≦
津市歴史博物館提供)
子
自発的譲位↑そして初の太上天皇へ
し、実権を握った。..へ
皇位継承の軸を変えた女帝
持続天皇の思惑と執念
壁;====
ため、持統天皇が史‘天天
撫職一噂蕊
芋
な力のお駒。x⑭おうじ
子&子&女:草:
てんじ
lllL〒11醗甥劃
壁§市:市:〃
皇‘皇婆皇:
尤溌皇子
大伯皇女
上初の太上天皇を称’皇皇
L一II’、r’第“代冠醗天皇︵珂職罫鐸︶
評雲邑息難
同
黒一霧擬撰
第記代天智天皇︵中大兄皇子︶
bgcL収.目色P
遠智娘
景幽繕
・てん⑥一一〃おあ念の打うじ
’一﹁1111、価iII
撒く椿泌青r
癖灘
持続天皇略系図
lmage:TNM
mageArchives)
率天…影。"余静誇書
成寺蔵)。
幼帝を誕生させた持統天皇
前代未聞⋮お宮か栃歳の
歴代の室市の中でも第虹枠睦掘型公呈の
存弊蛙悠は大きい。その理由の一つは、後
世にいくつもの嚇繊をのこしたことだ。
だがそれに劣らず、皇符継承のルールの
てんむ
上で画期箸なしたことに注目すべきだ。
持統天皇の夫だった第如代天武天皇は
じんしん
壬申の乱︵672年︶という古代史上、
てん
最大の内乱を勝ち抜いて即位した。この
智天皇の皇子、大友皇子を首班とする近
乱は先帝で天武天皇の兄だった第詔代天
じおお瞳ものみこ
杢企昼塁手は自死している。朝廷そのもの
江朝廷との激烈な戦いだ.鐘局、敗れた
が武力で倒されたのも歴史上、空前絶後
のこと。こんな悲劇は二度とくり返した
くないと、誰もが考えたはずだ。
だが、誤解してはならないことがある。
当時、天智天皇がムリヤリ士公餐曇丁を皇
位につけようとして壬申の乱が起こった
のではないlということだ。何しろ
大左塁手の母はよ式知られているように
地方録族の娘︵いわゆる卑母︶であり、
しかも本人の年︽齢もまだ妬歳だった。こ
れでは、どれだけ容貌、体格がすぐれ、
博識で才能に恵まれていても魚臓避︶
天皇になることはできない。そんなこと
そこで弟の天武天皇に皇位を譲ろうと
は天智天皇もよく分かっていたはずだ。
や圭とひめのむお念み
したが、天武天皇は兄の本心を読み切れ
ず、天智天皇の皇后の倭姫王の即位を提
42
こうきょ
絵伝にみる聖徳太子の事績
聖徳太子の誕生から莞去までの生涯を描いた「聖徳太子絵伝」から、太子の成し遂げた功績を紹介する
F1
… 毒
鯉
= ■ ー 、
!§,i,醗塁蕊鹿…
■
申
6−
露#
コ’
ロ ー = 。 ■ L 一 一
…【了−−
鍵
患胤
の乗自皇子を大将軍とし、2万5千の兵をさず
溌蕊麓崇鰯議譲識虚蕊
け新羅遠征へ出発させた。絵は武装した来目皇
子とその武将。塵徳太子絵伝第六幅」。
し、新たに造立開始。四天王寺は、日本仏教の
最初の寺でもある。睦徳太子絵伝第五幅」。
帰国した妹子が持ち帰った品々を太子に進上す
る様子を描く。「聖徳太子絵伝第七幅」。
四天王寺を建立する
幽に鰐を迷わし、経典の探求を命じた。絵は
新羅へ遠征軍を出す一
聖徳太ト子31歳、推古天皇10年(602)。同母弟
小野妹子を晴に派遣する−
聖徳太子36歳、推古天皇15年(607)。晴の衡
〆 . ー
− − − = 、 - - - - -
−
1
醜=
篭
罰鯵‘-一
−
−
、
●
−
一
一
蕊太子の年齢は同絵伝の記述よ
はり圭のくにふとき
こんどうしやかさんぞんぞう
た一播磨国風土記﹄にすでに一聖徳王﹂
こうはいめい
とある。さらに法隆寺金堂の釈迦三尊像
の半生目銘からも月並な人物ではなかった
では実像はどうだったか。当時まだ後
ことは明らかだ。虚構説は成り立たない。
世の君主権瑳代一打する摂政は未成立で、
皇太子という立場も確立していない。し
かも百本雲晶些には推古天皇が君主と
して行動しているさまが記されている。
だから、聖偲太子が国政の実権を握って
いたとまで見ることはできない。
みずか
ただし、憲法十七条について﹃日本書
じょうぐうLようとく艦うおうていぜつ
姻聖は太子が忍秘ら﹂作ったと伝える。
この憲法は一上宮聖徳法王帝説﹄にも記
事があり、その実在を疑う必要はない。
しかもこれは冠位十二階の施行とつなが
っているから、冠位の制定にも太子はか
しらぎ
かわっていただろう。
その上、新羅との関係が悪化した時、
新羅遠征軍の将軍に聖徳太子の弟たちが
任じられている。これは太子が外交方面
にも影響刀極もっていたことを示す。そ
れは、遺贈使の最大の目的が仏教の受け
入れにあった点から堂畿つけられよう。
太子がわが国の仏教の発展に絶大な貢献
をしたことは、よく知られている。震照菖
に描かれている晴からの使者に対面した
人物も、太子だった可能性が高い。
こう見ると、﹃上宮聖徳法王帝説﹄に
まつり壁とたず
推古天皇のもとで聖徳太子と蘇我馬子が
﹁共に天下の政を軸く﹂とあるのが、当
時の実態に近いだろう。
41聖徳太子絵伝(重要文化財)第五幅、第六幅、第七幅/橘寺蔵、奈良国立博物館画像提供、撮影:森村欣司
案して辞退してしまったその上天智
が冒季太子﹂に立てられたと記す。だが
だった持統天皇の間に生まれた草壁皇子
だ。だがこの皇子は天武哩年︵683︶
草職一皇子の第2子の珂瑠皇子︵一基戒エ合二
そこで持統天皇が希望を託したのは
て天皇になる。第埋代文武天皇だ。
同年8月には持統天皇から皇挫き譲られ
ずか晦歳で皇太子に立てられ、そのまま
そこで翌年2月早速珂瑠皇子はわ
天皇が間もなく亡くなったことで、天武
草壁皇子は、天武天皇が亡くなって3年
の生まれ。即位にふさわしい訓代以降に
これ以前、第謁岱異種天皇が譲位した
〃、さかくのみこ
手舎王サイドに疑心暗鬼が生まれ、誰も望
たっても即位しないまま、没している。
なるまで、自分里苛命がつづかないこと
例がある。だがそれは、童甲での蘇我入
かろもんひ
まなかった内乱が起きてしまう。それが
予め決められた次代継承者たる皇太子
は当然、自覚していた。その年齢の制約
鹿暗殺という異藷事態に直面して、退位
もんむ
壬甲の乱勃発の真相だった。それまでも
だったとは考えられない。皇一太子でなか
存品越えるのが、皇一太子蝿卿度だった。
を余儀なくされたものだった。次の継承
あらかじ
皇征継承をめぐるトラブルはしばしばあ
ったから、当時まだ型歳という年︽齢のハ
棒︾統一丞呈の治世を太政大臣として支え
者に自発的に皇位を譲ったのは、この時
いる
った。だがここまで大がかりな内戦はか
ードルを越えられなかったのだろう。
てきた吉厘巾皇子が持統加年︵696︶7
が最初だ。
か
つてない。
しかし、持統天皇は夫と自分の血をひ
月に亡くなると、天皇は直ちに次の皇位
持統天皇は譲位後も幼い文武天皇の後
殺をうけ、東アジア初の女性君主として目雌する。
在位690∼697.第38代天智天皇の第2皇女。
第40代天武天皇の皇后。即位前から天武天皇の
制定するなど、有能な統治者として有名。
元正天皇
第44代元正天皇
げんしよう
:在位715∼724.第42代文武天皇の姉で、
第42代文面
第43
代元明天皇の娘・元明天皇か ら譲位をうけ,日本
女帝として初めて未婚のまま即位する。在位9年
で、甥猪皇子睡銚天皇)に譲位する。
第46代孝謙天皇
第48代称徳天皇
こうlfA
し占うどく
在位749∼758,764∼770.第45代聖武天皇
の娘○聖武天皇に男子が育たず、史上唯一の女性
皇太子となり即位。綴位した第47代;錐天皇の
だいじよう
第35代難天皇
第37代斉明天皇
在位642 645,655 661.第34代瀞萌天皇
たけちのみこ
く草癖︾皇子がやがて即付︶することを、強
継率者を選定する今蕊聯迂催した。そこで
見にあたった。その地位は、自らも関与
じとう
され、譲位の慣行が定着化し、﹁太上天皇﹂
雲鶏(繍馨涛撫
そのため皇征継承にともなうリスクを
なるべく軽減する手だてが求められた。
く願っていたはずだ。そのことは、天武
天皇の意をうけた葛野王が﹁直系﹂継承
した﹁大宝令﹂に﹁太上雫含呈として制
母の重隠濃は、蘇我稲目の娘。
という地位が新しく設けられることにな
難溌鍵濯慧篭燕藤説
かどの
その結果、﹁皇太子﹂という地位が確立
天皇が亡くなると、たちまちライバルの
によるべきことを主張し、異論をはさも
麿化される。こうして持続一丞呈の執念に
すい
たいほうりよう
大津皇子が謀反を企てたとして死に追い
うとする者を叱りつけた。これよって、
第33代推古天皇
おおつひ碓人
やったことからも、容易に想像できる。
箱天皇が即位すると上皇として補佐。
−
−
そうぜい
る。まず皇太子の地位が制度上、確立す
大きく後退した。
よって、それまでの皇符蹴池承のリスクは
43歴代天皇御影(部分)/やよい文庫蔵
として定まった。
講職§磯蝋重
急
e<曲ま
草壁皇子の子の珂瑠皇子が次代の継承者
↓
第117代後桜町天皇
なわぬ夢に終わった。
めいしよう
だが草壁皇子の早逝によって、それもか
廃位により重酢する。
るのはいつか。﹁日本書紀﹄には天武加
稀
後水尾天皇の譲位をうけ、わずか7歳で即位。母
は、2代将軍徳川秀忠の娘・和子。明正天皇の即
位により、掴II将軍家は天皇家の外戚に。
凸
右腕として政治に関与。即位後も撫蕊櫛陰苓を
〃
第109代明正天皇
在位1629 1643.第108代掻衆鳶天皇の娘。
イ
第41代持統天皇
八
p彫
卿議蕊灘
年︵681︶2月、天武天皇とその皇后
8人10代の女性天皇
言、天皇を頂点とする律令国
に対抗するべく﹄
た〒本喫革だったのである。
れに小瓶わるシステム雛畔かために行われ
の大化の改新とは、世襲体制の解体とそ
たいか
ノウハウが凝縮されていた。7祇類鎧未ば
ぎよう口しゆ〃、
中一閏
国で
で発
発達
達し
した
た律
律令
令法
法に
にはそのための
申 勘 ケ つ り ﹄勘︽
ケ つう
りよう
︵ こ れが
が宮
官姪
梼堅
坐を
存言
昔成畢す味一す
一る
豊必 要 が あ る 。
築し、その管理・一醒録に熟達した専門職
資や労力を徴収・分一節するシステムを構
冊瓶奔燦制では対応できずへ全国規模で物
業を興し、場合によっては対誕紬湾手を遂
唾︿盲壷・倉墨癖砿
−卜を受けて
おご
国家の威厳を保つための太湿模な公共事
そうなるとへ中国や朝鮮三国に抗して
強大な影響力をおよぼすようになる。
一帝国晴・置が出現し、周辺諸国に
ずいとう
6世紀末∼7世紀前半、中国に久々に統
することなど発想すらできない。しかし、
られた物資・労力をダイナミックに運用
この体挫制のままでは、列誇騒規模で集め
ネはその世襲の職務を表していた。
いたのである。彼らが名乗るウジ・カバ
分担して受け持ち、その職務を世襲して
の貢納・奉仕を管理する仕事をそれぞれ
政
治
力
首指した
6世紀 末 ∼ 7 世 紀 繭 半 に 中 国 に 出 現 し た 強 大 な
三三胆
旭診
の
行せねばならない。そのためには従来の
単涌
地方種族や
霧W
‘聖杢」▲
J
震
密
●
胆することが
』
雨
日本は中国の律令法を学び五天皇零心のまとま︵
、一一A▲且△a且
治手腕に迫る!
F
門
罵
I
寺
暫
列ワ毎
皇全
急務と な っ た 。 天 皇 の 権 威 と 権 力 堂 局 め た 3 悪
監修・文/遠山美都男
註聴講溌妙鯉蛎薩議隣塞購湧
中退︽現在学習院大学・立教大学・日本大学非常勤
書︶、﹃天智と持統実講談社現代新誓︶など。
講師。著書に﹃日本讐紀の虚構と史壷委︵洋泉社歴史新
E P 言
一⋮乙巳の変﹂で蘇我氏から実権を奪い言ヤマト王権の軍政をリード
いいj・価L
⑳野明
一︲蘇我氏
勾句●●・当
馬子
お物とものみこ
②弘文︵大友皇子︶
といりしんのう
● 一 一 ■
太字は天皇数字は代=は配偶関係
一W割ん●し&う
[唖率趣
てんじ
みや畠
︲宮子
らく皇太子の地位にいた。東京国立博物館蔵
一﹄▲ずみよう口し
’@孝諜
星うⅡ八
中大兄皇子の名で知られ、蘇我氏の影響力排
除に成功。政治改革・大化の改新を行うが長
T⑳ 聖武
百人一首画帖天智天皇
一陣謄隙些職感不地等Lllll 光明子
︲刑部親王
hさかくし人のヶ
︲舎人親王
てん一Uたけものみこ
一I謹蛾越忠皇子
顧識選琴蝿
々h命A詞い令狛命
とじこのいらつめ
︲刀自古郎女
I河上娘
哩凪て打い免小
l法提郎媛
Aみしいらか
雲
鱈雪繍謡
錦繍#4.︽輔紗;・溌噂一い
一
ー 。
−
−
一は親子関係赤字は女帝
11
︲蝦夷1入鹿
F婚璽l舞雌嘩獄順婦呂
し
乙巳の変で蘇我氏を暗殺
した本当の理由とは?
天智天皇は、斜明天皇︵田村皇子︶と
てんじじょめいたむらのみこ
こうgふくgいめい姪か品のひめみこ
皇極︵斉明︶天皇︵宝皇女︶との間に生
舗明の皇后だ︵三た母皇極か即位すること
になったのはそのためである。
その皇極の在位4年目︵645︶の6
そがのえみしいるか
月、当厩埋怠娃内で最大の権勢を誇ってい
いつし
た蘇我蝦夷・入鹿父子が倒されるという
政変が起きた。これが乙巳の変である。
めすかいたぶむのみや
天智がこの政変に加担したことは明ら
かで、彼は︽禅腫板蓋宮の内部で入鹿に斬
りかかり、さらに雌乗を討ち取るために
陣縮鋸桓呼を取った。彼は若くして軍事的
きいかん
にほんしよき
な才幹を評価されていたのだろう。
﹃日本雲昂些は、蘇我氏が天皇家に取っ
すいこ
まれた。それは推古弘年︵626︶のこ
て代わろうとしたので滅ぼされたとする
かずらき
ととされる。天智の実名は葛城といった。
が、これは史実としては疑わしい。蝦夷.
うぱ
それは有力な豪族、葛城氏出身の女性を
入鹿は、中国の唐が朝鮮三国のひとつ、
高句麗に侵攻するという軍事的緊張が高
こつフノ、n戸
乳母として育てられたことによる。
有名な中大兄は通称で、大兄とは同じ
まるなか、あくまで国内の主導権をめぐ
なかのおおえ
母から生まれた兄弟のうち最年長の男子
る権力闘争に敗れ去ったにすぎない。
乙巳の変で蘇我氏を滅ぼしたのは圭徳
こ●フル﹄f、
を指す。この時代、同母兄弟中の最年長
の皇子に白溝喋継承の優先権がみとめられ
天皇︵軽皇子︶を中心とした勢力であっ
かろのみこ
ていた。天智は若くして将来天皇になる
た。天智は孝徳の甥に当たり、彼はこの
孝徳の政権が行った一木奴革がいわゆ
と見られる。
陶製梁を天皇にするために政変に加わった
おい
ことが約束されていたのである。
そのためであろう、彼は祖父にあたる
おし芯かのひこひとのおおえのみこび麓つ
押坂彦人大兄皇子︵敏達天皇の子︶から
押坂部とよばれる膨大な数の私有民を相
る大化の改新である。﹃日本書紀﹄を読
皇には軍事的な指揮熊力がもとめられて
たいか
続していた。まだ天皇になっていないの
む限り、天智が改革に主体的に関わった
おしぎかぺぼうだい
に、天皇に引けを取らないほど蝿畦猿力
という痕跡は見いだしがたい。当時、天
しかし、当時は血統だけでなく天皇と
いたこともあって、天智は孝徳政権の軍
こんせ念
をもっていたといえよう。
なる人物の年齢や経験・実績も評価され
事郡司門を紘括していたようである。
天智の異母兄で蘇我氏と親しかった古人
ふろひとの
たとえば、大化元年︵645︶9月、
たから、︿裟謝明が亡くなった後、天智が
ずいこぬかたべのひめみこ
直ちに即付︶するわけにはいかなかった。
推︲重大皇︵額田部皇女︶の前例にならい、
47
一義代天智天皇一蜜雲出川雲Ⅱ
天皇家の関係系図
一 二 = 一 一 一
一
丙
ー
酋 や
ないしん
乙巳の変の功労者、中臣鎌足は新設されたポストの内臣に就任。
中央に鎌足が、その下部に2人の息子を描く。左は右大臣とな
じよう草入
った次男の不比等、右は長男の定慧とみられる。談山神社蔵
でんいるかくびづか
伝入鹿首塚
あすかいたぶきのみやめと
蘇我入鹿暗殺の舞台となった皇極天皇の宮殿。
謡明天皇が崩御し、皇極天皇が即位する際に
蘇我蝦夷に命じて造営させたという。
れた。「多武峯縁起絵巻」談山神社蔵
跡に鎮座する神社。写真:読売新聞/アフロ
多武峯塁茶羅鎌足像
とうのみねまんだらかまたりそう
弓理璽戸…]『=弓一
現在の奈良県明日香村にある、蘇我入鹿の首塚と伝えられる石
塔︵五輪塚五輪塔︶。中世に建立されたと考えられるが、その関
係性は現在も明らかになっていない。
飛鳥板蓋宮跡
蘇我入鹿の暗殺自ら斬りかかる中大兄皇子。弓を持つのは中
臣鎌足。入鹿は無実を訴えるが、皇極天皇(中
央奥)は御座を離れてしまい、トドメを刺さ
昭和34年(1959)、近江神宮(滋賀県海事市)
を参拝される今上陛下(当時、皇太子)。近江
神宮は天智天皇の古都、近江大津宮(だ車京)
近江神宮を参拝される
今上陛下
そがのいるが
対砿皇子が謝威の容疑で討たれるがそ
の指揮をふるったのは天智であった。ま
た、大化5年︵649︶3月には、右大
臣・蘇測齢雌醗獄服僻昏が謀反の容疑を
受け自殺した。この時、謀反の密告は最
初天智に通報されている。
なかとみのかま亀り
軍事を統括する天智を一貫して輔佐し
たのが中臣鎌足︵のちの藤原鎌足︶であ
った。鎌足は﹁軍国﹂に奉仕する軍事官
こ2く
僚としての生涯を歩んだといえよう。
はくすきのえ
白村江の戦いの敗戦が
天皇の国内支配を進めた
はくち
いつし
白維5年︵654︶如月、孝徳謬雑波
こうざよくざいめい
宮で亡くなると、乙巳の変でいったん退
位した皇極が再び即位して斉明天皇とな
る。この斉賄深女帝のもとで天智はいよい
よ次期天皇として、その手腕を遺憾なく
丞怨坪するようになる。
ありまの
斉明4年︵658︶n月、斉明の政策
みこ
に不満を抱いて奉達客画策していた有問
しゆきい
皇子霊徳の遺遅は、計画が発覚して
天智が幸壷でする軍車姦吟廷で裁かれた。天
智が皇帝継承上のライバル、有函脚症謀略
に陥れたといわれるが、当時四歳の有間
あへのひらふ
は天智の敵ではありえなかった。
斉明は、阿倍比羅夫が率いる水軍によ
って東北地方さらには北海道への大遠征
を行わせた。これを北方遠征といい、天
皇の支配領域を拡大するのがねらいであ
った。実際にこの軍事作戦の総指揮を取
ったのが天智にほかならない。
48
みず凸も全の歩﹄
水城跡
出陣するも筑紫で崩御。中大兄皇子が軍務を担う
が663年、白村江の戦いで日本は大敗した。
R
p
白村江の戦いに敗れた中大兄皇子が唐・新羅の侵
入に備えて大宰府を守るために築かせた防衛施設
︵土塁︶。写真提供︾太宰府市教育委員会
O 2 0 0
百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされた斉明天皇は
唐軍の推定経路
く麓らしらぎ
わこぐ
また、斉明6年︵660︶、倭国と友好
関係にあった百済が唐と新羅の連合軍に
よって滅ぼされると、百済貴族の要請を
つく
受けて斉明は援軍の派遣を決定する。翌
年正月、斉明はみずから陣頭に立ち、筑
し
かたわ
紫に向かう。その傍らに更畢を総﹄砧する
天智の姿があったことはいうまでもない。
ところが、斉明は筑紫に着くと、まも
なく急死を遂げる。百潜撹興のため、唐.
新羅連倉車との決戦が迫っていた。天智
は正式な即位嘩礼を挙げることなく、斉
明の跡を継いで事実上の天皇となった。
天智は、人質として倭国にあった百済
ヨプンジ午ンようりつ
の王子、︿講登環を百一遺土に擁立して唐・
新羅に対抗しようとした。これは十零塁起
征と同じく、天皇の支配のおよぶ地小域を
結平木するのが目的であった。
はくすきのえ
だが、天智2年︵663︶8月、倭・
みぞう
百済連合軍は唐・新羅の前に白村江で大
敗を喫する。未曾有の敗戦の後、唐が日
本列島に侵攻してくる危機が高まる。
あお
結局、唐の侵略は回避されたが、天智
は外敵侵攻の危機感を煽り、西日本の各
地に山城などの軍事施設を造営するのに
豪族・民衆を大動員するなど、これまで
以上に豪族や民衆に対する支配を強める
こう室ねんじぐく
ことに成功した。その結果、我が国初の
全国規模の戸籍、庚午年籍も完成した。
あすか
唐が攻め寄せる危機が去った天智7年
おうみおおつのみや
︵668︶正月、ついに天智は飛鳥から
移った︸狸江夫津宮で正式に即位する。時
に娼歳であった。
古代最大の内乱﹁壬申の乱﹂に勝利し、律令体制を構築
蒲
大友皇子
毎郷とものみこ
天智天皇の第1皇子。
天智天皇が崩御すると
第39代弘文天皇とし
て即位したとされるが、
叔父の天武天皇と争っ
た任申の乱」で敗れ、
自害。法博寺蔵、大津
市歴史博物館提供
天武天皇
てん心
お打めま
おおあま
天武は実鐸拍を大海人といったが、これ
は彼が大海氏出身の乳母に育てられたこ
あまべ
とによる。大海氏は当時異民族と見られ
ていた諸国の海部を統括した豪族で、い
わば異形の集団の首領というべき一族で
ある。天武がそのような豪族の手で養育
されたのは、彼が皇帝獅素とおよそ無縁
天武天皇の両親は天智天皇と同じく録
ていたと伝えられる。このように画星術
また、天武は﹁天文・遁甲﹂に猪通し
でんもんとんこう
里好在だったからこそであろう。
明天皇・皇極︵斉明︶天皇である。同母
など外来の科学・文化に馴染んだ天皇は
いた。これは﹁おおすめいろど﹂と読み、
天武蛙量娃内で罪含毒塑とよばれて
こ・つし﹄〃、
いたのは、同じ母から生まれた声抑弟のう
せんせいじゆっ
の姉妹に孝徳去呈の皇后となった間人皇
前後に例がない。これも煙翌全含垂になる
みこおおえ
ち最年長の皇子︵・丞妃皇子︶であった。
﹁天皇になった御方の弟君﹂という意味
みこ
めいこうざよくさいめい
女がいた。家系を見る限り、天武が天皇
のが約束されていた皇子では考えがたい
だから、中︲大兄の通称をもつ天智とは異
である。この通称からも明らかなように、
なじ
になったのは当然のように思われる。だ
ことであろう。
なり、2男である天武には本来的に皇位
天智天皇の実弟・大海
人皇子。天智天皇の息
子・大友皇子と戦った
圧申の乱」で勝利し、
即位。絶対的な権力を
手に入れ、史上初めて
「天皇」の称号を用いた
『古事記」「日本書紀」
の編纂を発案。東京国
立博物館蔵
は伊智菌の豪族の娘︶を立てようとした。
の中継ぎ天皇として、長男の大友皇子︵母
むおとも
天智は、草壁・大津らが成長するまで
のであった。
戴しようという天智の椛想にもとづくも
たい
な特殊な血統をもつ彼らを将来天皇に推
すい
厚に受け継ぐ皇子を生み出し、このよう
近親結婚により天智・天武両方の血を濃
壁皇子・大津皇子らをもうけた。これは、
かぺおおつ
その皇女底にあたる︶たちを要り、草
実際、天武は天智に命ぜられるままに、
めいめとくざ
天武は天皇たる天智の弟として、生涯に
わたり兄に奉仕を尽くすことが義務づけ
天武朝に天皇号の存在
を証明する最古の木簡。
この頃に律令制度が整
い、神格化された君主
がいたことを示す。平
成10年、奈良県の飛鳥
池遺跡から出土。奈良
文化財研究所蔵
継承権はなかった。同母兄弟が相次いで
めんかんぜん
即位したのは6世起剛半の安閑天皇・宣
もつかん
られていたことになる。
か
「天皇」木簡
化天皇の例ですでに終わっている。
はしひとのひめ
が、この時代、即位資格がみとめられて
てんひてんじじよ
本格的導入に全力を注ぐ
唐から一堂三んた律令体制の
テ仙代天武天皇雨諦雲需純鳥元年⋮
皇
50
﹀
︲一
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、
一
…/
瀬田橋の戦い
壬申の乱における最大の決戦(現・滋
震羅蕊獣蕊蕊謙
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一 一
一
〆
一一三
一一
葺
とすることに成功した。矩鮪梱間に膨張し
ぼうちよう
一大皇弟﹂天武にはこの大友の肺佳役
た一本武軍は各所で冬全冬早を壁桑破、大友は
やなじみのくにや玄辱曾
さらには草壁・大津らの後貝葎添課せら
あすか
山背国の山前で自害して内乱は鍵息した。
おうみ
れたのである。
天武は都を近江の大津から飛鳥にもど
あすかきよみ
天智加年︵671︶哩月、天智は近江
し、表面2年︵673︶2月、黍沓煽瀞御
おおつのみや
大津宮で亡くなるが、その直前、天武は
原宮で正式に即位した。天武は天智・大
りやく館つ
持病を理由に大友の輔佐役を辞退、出家
友か巨惟力を略奪したという印象をなく
畦らのみや
して吉野の山中に入った。翌年6月、天
すためにも、従来の大王寺廠密には治天
天武は当初、天智の政策・方針を引き
てんのう
武は大友を首班とする政権を倒すために
下大王︶に代わり、新たに天皇の称号を
じん
決起する。こうして古代最大の内乱、壬
名乗ることになる。
しん
めんじ、うふくはい
申の乱が始まった。天武は面従腹背の半
けつくつ
生に訣別し、まさに人生の一発逆転を企
る最悪の状況を想定した臨戦体制の維
継ぎ、中国の唐が日本列島に侵攻してく
天武は、天智が諸国を支配するために
持・継続につとめた。だが、天武加年︵6
てたのである。
派遣した官僚︵国司︶らをことば巧みに
81︶以降、唐による侵略の危機が完全
こくしたく
抱き込み、彼らが大友の命令で集めた数
は受け継がれていく。
L﹄い︾エ為夕
この持統天皇によって天武の政策と方針
︵天智の娘︶を次期天皇と決めていた。
天武は在世中から皇后鵜野讃良皇女
うののさららのひめみこ
京の原型もその手で造られたのである。
生前には一韮峡しなかったが、のちの薩原
いる︶の建設にも着手した。これは彼の
東西鵠罪坐追路によって整然と区画されて
さらに一本政は、中南騨的な都城︵一犀内が
全訓巻とし蚕姫寒する。
られた。これが約如年後に﹃日本雲婦些
にぽんしょき
また、その翌月には雁顎金画の編︾紫が始め
同年2月であった︵ただ、律は未完成︶。
て完成する律令の編纂蕊同始されたのは
へんさん
たとえば、のちに飛鳥浄御原令となっ
的な導入とその定着に全力を傾ける。
に去ると、唐から学んだ律令体制の本格
皇位継承を巡る壬申の乱は大和、伊賀、近江、河内などを舞台に約
1カ月に及んだ。勝利した大海人皇子は翌673年に即位。
千・数万の兵力を居ながらにして我が物
壬申の乱の経緯
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た大友皇子側の大軍に勝利。翌日、
大友皇子は自害した。
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光明皇后
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大仏開眼を執念でなしと瞳仏教の力で国を鎮護
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しし上うみえい
聖武天皇(中央)と高僧。右上が善総諏右下力琳謹、左が良弁。聖武天皇は文武
四聖御影
天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。東大寺蔵/奈良回立博物館提供
聖武天皇の皇后で初の皇族以外の出身。仏教に厚く帰依し、慈善
活動を行い、東大寺創建を進言したという。長野県信濃美術館蔵
明皇后が大仏に陰・陽賓叙を献納したが行方不明だった。東大寺蔵/奈良国立博物館提供
平成22年、12覗毎鍬鵬東大寺大仏の足元から発見された幻の大刀。聖武天皇没後に光
金銀荘大刀
−
き
良
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=
言
一
一
一
蝉Ⅲ離職油 §‐で
掲
。んぎんそうのたち
はいなかった︾それは聖武を確実に即付一
元正︵同じく伯趣と母娘2代の女帝が
げんしよう
させようとして、元明︵聖武の祖母︶と
元年︵701︶∼天平勝宝8年︵756︶
﹄雛立されたほどである。
が律令には拘束されないこと、母の実家
ぶように命じた。これは、天皇である彼
律令の湿歪はない垂劣抵の名でよ
て即位するが、それと同時に生母宮子を
神亀元年︵724︶2月、聖武は晴れ
じん也
元年︵724︶∼天平勝宝元年︵749︶
前代未聞の亥仏造・宝に
かけた使命感とは?
聖武天皇ほど誤解されている天皇はい
藤原氏が尊重されるべき特別な貴族であ
しようひ
ないのではないだろうか。彼は天皇であ
ることを誇一不するためであった。
神亀4年︵727︶に当時夫人の地位
こる〃みょう
藤原氏のいいなりで、政治や社会の不安
にあった藤原光明子︵不比等の3女︶が
ふじわら
りながら妻の光明皇后やその実家である
を鎮めるためにひたすら仏教に救いをも
皇子を出産すると、聖武は直ちにこの乳
もんむ
やのおむらみひ腿人
なが
その翌年︵神亀6年︶2月、左大臣長
病死してしまう。
であった。だが、この幼い皇太子は翌年
子以外にはありえないとされていたから
継者が彼と同じ藤原氏の血を受け継ぐ皇
児を皇太子に立てる。それは、聖武の後
こ笥晶上うし
とめた心弱き帝王と見られがちである。
たいはう
ふひとみや
聖武が生まれたのは大宝一工牛︵701︶。
父は文武天皇、母は藤原不比等の長女宮
こ
おびと
子であった。実名を首といったが、それ
ゆらい
は外祖父不比等の名に由来した。
聖武は生まれながらに天皇となること
が決められていた。それはひとえに彼の
起きた。いわゆる長屋王の変である。こ
屋王が課反の容疑により自殺する事件が
父文武は、天武天皇と持統天皇︵天智
れは、皇太子の死が長屋王の呪詔による
てんむじとうてんじ
天皇の娘︶のあいだに生まれた草壁皇子
ものであると聞いた聖武が怒りの抑制を
血統によるものであった。
が父感狸帆と同じ芙蕊昂娘の阿画習皐女︵の
失ってしまったことによる悲劇であった。
あへのひ駒みこ
が彼女しかいないことを改めて周知徹底
子を皇后に立て、彼の後継天皇を生むの
じ。そ
ちの元明天皇︶が母であった。このよう
えらぶという前例をあえて無視して光明
事件の半年後、聖武は、皇后は皇族から
〃、侭かぺのみこ
に天智・天武双方の血を色濃く受け継ぐ
げんめい
特別な天皇が文武であり、その正当な世
さらに聖武は、母を介し鎌足・不比等
させた。聖武にとって先例は無視するた
かまたり
継ぎこそが聖武とされたのである。
と父子2代にわたり王権と国家に奉仕し
めにあるかのようである。
だが、聖武にとって最大の頭痛の種は、
た藤原氏の血も受け継いでいた。その点
で同時代において彼に勝る血統をもつ者
52
シ.二三ぷ
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一
一
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創建期の大仏殿は現在と比較して間口が大きく重厚な構え。柱の太さは建物
可さう●偲さつさそう
■
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光明皇后1250年御遠忌
ご 卿 ん ⑭
2010年、東大寺で行われた光明皇后の御遠忌では、再現された聖武天皇(左)
一
と光明皇后の礼服が奉納された。写真:読売新聞/アフロ
創建期の大仏はスリムだった!了
民間への布教が禁じられていた時代に仏教を
広め、大僧正として聖武天皇から東大寺の大
仏建立の責任者として招聡された。喜光寺蔵
ママ琴
一
〆
グロー
てんぺんらい
その即位以来打ち続く地震や疫病などの
天変地異であった。この時代、自然災害
よ
はすべて君主の責任とされた。聖武自身、
﹁その責めは予ひとりにある﹂と語って
いるほどである。
血統だけでなく、あらゆる意味で理想
的な君主をめざす聖武としては、すべて
じひ
の民を自然災害から守らねばならないと
るし?な
い風蝉命感があった。彼が、慈悲の光で
全宇宙をあまねく照らすとされる厩答那
ぶ
つぞうりゆ心
仏の巨像︵大仏︶を造立しようと企てた
みことのり
のはそのためであった。
ちん
聖武はヱハ仏造立の詔﹂のなかで﹁天
下の富や権力をたもつのは朕であり、そ
の力をもってすれば大仏拳磁垣ることなど
たやすい﹂と豪語している。このように
こじ
大仏という無限の力を秘めたものを建造
できる君王としての自塔忽堂茜率するとい
さぞ人
う青︾図が彼にあったことは明白である。
天皇である以上、既存の国家機榊や財
ようい
かか
政に依存すれば、たしかに大仏造立など
容易だったであろう。それにも拘わら菱
聖武はそのようなシステムを利用しよう
としなかった。彼自身のよびかけに応じ
てあらゆる階層から集められた物資や労
らし心
力を結集して大仏を造ろうとしたのであ
る。それは仏教の雨墓陛思想の隼践に
すご
ほかならなかった。
聖武の凄さはここにある。近枠淵挫別に
と
おいて、このような形で巨大ブロジェク
ぜつじ
卜を企画・立案し、それを成し遂げた天
皇は絶無だからである。
53CG作成/成瀬京司地図/アトリエ・プラン
東大寺の金誉門から西の森にある聖武天皇が眠る御陵(佐保山南園。参道を
現在の大仏モデル創建期の大仏モデル
行基菩薩坐像
の規模に対して比較的細いことがわかった。東京大学生産技術研究所提供
銀言一・緋・奉一◇轡
−
弓喧里
一一
■ ■
創建期の東大寺大仏殿(再現モデル)
卿馴1
畷
L
1.■1
鐘
目剰日照扉
ーユ■ロ■■■
勲
蟻
F
▼
哀孟司
東大寺大仏は地震や戦火で再建、修造が繰り返された。最新研究による
と、創建期と現在の大仏の姿は大きく異なり、創建期の方が現在よりも
像高が高く細面であること、また創建期の大仏の表面には58.54kg程度
の大量の鍍金が施されたことがわかった。東京大学生産技術研究所提供
聖武天皇陵
進むとその先に拝所があり、右奥には光明皇后陵がある。
Fly UP