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(仮)坂倉準三の住宅についての 考察

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(仮)坂倉準三の住宅についての 考察
前期研究発表会
(仮)坂倉準三
坂倉準三の
準三の住宅についての
住宅 についての⼀考察
についての⼀考察
⽥路研究室修⼠2回 寺⽥和彦
論⽂目次
坂倉は住宅の設計も精⼒的に⾏っており,62 軒もの住宅を設
計しているが,それらについてはあまり知られておらず,ま
序
とまった論考も多くない 。本論は,坂倉の住宅作品を分析し,
1)
0-1 本研究の目的
かれの設計活動に通底して流れるかれの精神を明らかにする
0-2 研究の主題と構成
ことにその意義を⾒出すものとする。
0- 2 研究の
研究の主題と
主題と構成
第1章
坂倉準三
坂倉準三の
準三の⽣涯
1-1 フランスでの坂倉
本研究の主題は,坂倉準三の住宅作品を分析することにある。
第1章においては坂倉準三の⽣涯を概観し,かれの思想の⼀
1-1-1 学⽣時代,ル・コルビュジエアトリエ
端を明らかにすることで,作品研究の⼀助とする。第 2 章,
1-1-2 ル・コルビュジエから受けた影響
第 3 章においては住宅の分析を⾏う。
1-1-3 フランスでの仲間
第1章
1-2 帰国後の坂倉
坂倉準三
坂倉準三の
準三の⽣涯
1- 1 フランスでの
フランスでの坂倉
での坂倉
1-2-1 帰国後の活動
1- 1- 1 学⽣時代,
学⽣時代,ル・コルビュジエアトリエ
コルビュジエアトリエ
1-2-2 同時代の建築家との⽐較
坂倉は 1901 年,岐⾩県羽島市に⽣まれる。実家は「千代菊」の
1-2-3 所員との関係
醸造元であり裕福な家庭であった。岐⾩中学校,第⼀⾼等学校を
1-3 住宅作品の概要
経て 1923 年,東京帝国大学⽂学部美学美術史学科に⼊学する。
在学中の坂倉は自宅にボッティチェリの「ヴィーナスの誕⽣」
結
の複製画を飾るなど,ルネッサンスの美術に興味を持っていた
。しかしその興味は次第に美術史よりも建築史に移り,建築史
2)
序
の原書を海外から取り寄せて研究するようになる。特にパウ
0- 1 本研究の
本研究の目的
ル・フランクルの中世美術史を読んでロマネスクからゴシック
坂倉準三(1901-1969)はル・コルビュジエ(1887-1965)の元で
へと移る時代に魅せられ,卒業論⽂もゴシック建築について書
建築を学び,帰国後は⽇本建築界において第⼀線で活躍した
いている。やがて建築家を志した坂倉は,建築科の講義を聴講
⼈物である。主要作品には「パリ万国博覧会⽇本館」や「神
するがそれには失望。1927 年,大学の卒業間近には友⼈の富
奈川県⽴近代美術館」がある。かれの設計活動は多岐に渡り,
永惣⼀に宛てた書簡の中でフランスに⾏ってル・コルビュジエ
「新宿駅⻄⼝広場・地下駐⾞場」などの都市計画から公共建
の元で働く決意を伝えている。同年,中村順平
築,住宅,家具にいたるまで様々なスケールに及んでいる。
ザール風の製図を学んでいる。フランス⾏きを決⼼した坂倉は
の塾に通いボ
3)
佐野利器を訪ね,建築家になるための相談をしている。
ればならない。⼀つの「⽣き物」でなければならない。
1929 年,坂倉は,当時既にル・コルビュジエ事務所で働いて
…(中略)…⽇本館は⼀つの有機體として構成せられたる建築であ
いた前川國男を頼ってパリに渡る。前川に出会ったのはこの
り,⽇本の建築精神を魂として持つている建築である。
ときが初めてであった。前川の紹介もあり⼊所の許可を得た
この作品で建築界へと⾶び出した坂倉の,初の意思表明とも
坂倉は,ル・コルビュジエのすすめにより,École spécial des
⾔えるこの⽂章は,今後の坂倉の設計活動を読み解く上でと
Travaux publique で建築を学んだのち,1931 年にル・コル
ても興味深いものである。
4)
ビュジエのアトリエに⼊所する。それから 1936 年の帰国まで
1- 1- 2 ル・コルビュジエから
コルビュジエから受
から受けた影響
けた影響
6 年間,コルビュジエの元で働くこととなる。その間関わった
坂倉がル・コルビュジエの名を初めて知ったのは、大学⽣の
仕事について列記する。1931 年の「ソヴィエト・パレス」案,
とき、ギーディオンの『空間・時間・建築』によってであっ
1933 年の「スイス学⽣会館」,「ネムール都市計画」,チュー
た 。ここで坂倉は、ル・コルビュジエの考えた近代建築に感
リッヒの「年⾦局」
,1934 年の「農村再建計画」
,1935 年の
銘を受ける。そしてル・コルビュジエの事務所で6年間を過
「マテの休暇の家」
,
「輝く都市」である。またこの 6 年間の
ごした後、坂倉は以下のように述べている 。
6)
7)
滞在で坂倉は,アトリエの所員であるピエール・ジャンヌレ,
我が国の建築界に理解されたるが如く「家は住むための機械
機械なり」
機械
シャルロット・ペリアン,ホセ・ルイ・セルトなどと出会う。
ではなくコルビュジエの云はんとしたのは「家は住
住 む ための機械な
1936 年 4 ⽉に⼀旦帰国した坂倉であったが,
「パリ万国博覧
り」であった。機械
機械といふ意味に盛られたる意味はあらゆる近代科
機械
会⽇本館」の設計を任され,同年 9 ⽉,再びパリを訪れる。
学の成果を新しい建築のために総動員して、醜き⼀切の不必要なる
ル・コルビュジエのアトリエの⼀隅を使用してまとめられた
粉飾を洗ひ落とし、不健全なる粉飾点に換へるに粉飾なる科学点を
坂倉案は,万博協会の非難に反して,アアルトのフィンラン
建築にもたらさんとすることである。これはすでにグロピュースの
ド館,セルトのスペイン館と共にグランプリを獲得。このこ
名に代表せられる合理主義国際建築運動の標識であつた。この運動
とは,坂倉の名を世界に知らしめることとなる。ここで,そ
には大いなる功績と同時に少からぬ⽋陥域は危険が同時に蔵され
の設計趣旨の⼀部を引用する 。
ていた。その機械に住
住 むものが⼈間
⼈間であるということを忘れ勝ちで
⼈間
5)
新しい時代の建築はあくまでも新時代の科學の成果を總動員した
あつたと云ふことである。
る合理的建築でなければならないと同時に,更にその上に⽣理し⼼
ここで坂倉は、合理主義の功績を称えつつも、同時にそこに
理する動物としての⼈間が住むためのあらゆる條件を具へたもの
住む⼈間への配慮を求めている。さらに,晩年の坂倉は以下
でなければならない。ここに始めて世界の各國の地⽅性を滿⾜せし
のように述べている 。
むる新時代の建築が⽣れ得る。
8)
私は⼀九⼆九年に渡仏し,三⼀年から三六年まで六年間を彼のアトリ
更にもう⼀つ最も肝要なることは建築はそれ自⾝⼀つの有機體でな
エで過した。私が建築を本当に学んだのはル・コルビュジエのもとで
ければならないといふことである。建築を構成する各要素は有機的に
あるといってよい。…(中略)…それ以来彼の弟⼦として,また親しい
結合して⼀つ全體を形成してゐるものでなければならない。過去の眞
友として,常に彼の⾝近にいるような思いで今⽇まで過してきている。
にすぐれたる建築は,すべてかゝる有機的構成であった。「⼀寸の蟲
私の建築創造の仕事は未だに彼の強い影響の下にあるといってよい。
にも五分の魂」といふ如く,⼩さくは⼀つの住居から大きくは大都市
1929 年の渡仏,あるいは 1927 年に本でその名を知ってから,
に⾄るまで有機體としての⼀つの魂の通つたものでなけ
この本が刊⾏される 1964 年の時点まで,坂倉はル・コルビュ
ジエの影響を受け続けていることがここには記されている。
1- 1- 3 フランスでの
フランスでの仲間
での仲間
アンを⽇本に招聘したのもこの年である。翌 1941 年には「選
択・伝統・創造展」に,1942 年には「レオナルド・ダ・ヴィ
シャルロット・
シャルロット・ペリアン
ンチ展
シャルロット・ペリアン(1903-1999)は坂倉と⽣涯にわたり友
着⼿している。戦後の 1946 年には坂倉建築事務所を坂倉準三
⼈として,また仕事仲間として交流をもった⼈物である。彼
建築研究所と改称し,戦災復興組⽴建築に着⼿する。
⼥は 1927 年からル・コルビュジエと共同し,
「シェーズ・ロ
1948 年には坂倉建築研究所大阪⽀所を開設する。
そして 1969
ング」に象徴される,スチール・パイプやガラスを用いた透
年に亡くなるまで,⽇本建築界の中⼼となって多数の作品を
明な質感を持つ家具を考案していた。しかし坂倉が⼊所後の
残している。
1937 年には,⾼価な⼯業製品ではなく,より⾝近な素材や道
11)
」に協⼒している。1942 年には戦争組⽴建築
12)
にも
1- 2- 2 同時代の
同時代の建築家との
建築家との⽐較
との⽐較
具への関⼼を⾼めていた。その後独⽴した彼⼥は,簡素な⽊
この節では,ル・コルビュジエ事務所で学んだ前川國男,吉
材や藁などを用いた家具のデザインを試みていく。その代表
阪隆正の略歴や思想について触れ,坂倉との相違点を⾒る。
作が,廃材を用いた不定形な形をもつ,1938 年の「フリーフ
前川國男
ォームテーブル」であった。
前川國男(1905-1986)は⽇本の建築家として初めてのル・コル
1940 年,坂倉はシャルロット・ペリアンを商⼯省の輸出⼯芸
ビュジエの弟⼦である
指導官として招聘する。ペリアンは⽇本各地の⼯芸試験所を
エ論」について書き,卒業後すぐにル・コルビュジエの元に渡
訪れて⼯芸指導を⾏うとともに全国を調査している。この調
るなど、学⽣の頃からかれに⼼酔していた。ル・コルビュジエ
査旅⾏には柳宗理が同⾏した。1941 年,ペリアンは「選択・
事務所に勤めたのは 1928 年から 1930 年までの 2 年間で,坂
伝統・創造」展として発表する。ペリアンと坂倉は激しい議
倉とはちょうど⼊れ替わりで⽇本に帰国することになる。
論の末,この解説⽂を以下のようにまとめている
帰国した前川は,ル・コルビュジエの元で学んだ近代建築の
9)
。
13)
。かれは卒業論⽂を「ル・コルビュジ
真の伝統を⽣かすといふことは忠実に模倣をすることではない。伝
原理を,⽇本の気候風土や社会的な現実の下で実際に試み,
統の永遠の法則に従って新しく創造することである。創造は即ち伝
それに修正を加えながら⽇本への定着を図った。またかれは,
統の⼀部をなすものである。
「東京皇室博物館」コンペのように,⽇本の建築界の体制に
これは,伝統の保存継承を前提とした柳宗悦などの⺠芸運動
真っ向から向き合い,⽇本の近代化に尽⼒した。
とは⼀線を画すものであり,坂倉とペリアンの⽴ち位置を如
前川は,坂倉の死後,
「坂倉準三への⼿紙」として次のように
実に表すものである。
述べている
1- 2 帰国後の
帰国後の坂倉
14)
。
ただし君を識って 50 年に近い年⽉の間,どういうわけか「建築」
1- 2- 1 帰国後の
帰国後の活動
について話し合ったり議論したりしたことは殆ど僕の記憶にない。
1939 年,フランスから帰国した坂倉は,⻄村伊作(⽂化学院
不思議なことだが何故そうだったのかその理由を思いつかない。
院⻑)の次⼥百合と結婚,目⿊中丸に住居兼アトリエをかま
このことは,同じ時期に同じ建築家の元で学んだ⼆⼈が,お
える。1940 年にはアトリエを赤坂に移転し,正式に坂倉建築
互いに別々の⽴場をとりながらもそれぞれに⽇本を引っ張っ
事務所を設⽴する。事務所の2階には,自らもその結成に参
ていった事実を表していると⾔えよう。
加したクラブ・シュメール
吉阪隆正
10)
(スメルクラブ)があった。ペリ
吉阪隆正(1917-1980)は幼い頃から海外で暮らし,外国語が堪
いると,コルビュジエがやってきて,あのような形を描いてくれた」
能であった
と,なにげなく話されたことが思い出される。
15)
。政府⾼官の⼦弟という家柄もあり,早稲⽥大
学助教授であった 1950 年,かれはフランス政府の給費留学⽣
駒⽥もまた,坂倉の中にル・コルビュジエの影響を⾒ている。
としてフランスに渡る。吉阪は当初,
〈コルは既に⼀九三六年
1- 3 住宅作品の
住宅作品の概要
頃が盛り〉で,
〈彼以外にまだ⾒るべき⼈があるのではないか〉
坂倉の住宅作品の総数は 62 軒にのぼり,そのほとんどは戦後
と考えており,フランスに着いてすぐコルビュジエの元へは
の作品である。年代別では 1940 年代―4 軒,1950 年代―17
⾏かずに⾊々な建築家を訪れる。その後知⼈の紹介でル・コ
軒,1960 年代―36 軒,1970 年代―3 軒となっている。事務
ルビュジエ事務所を訪れた折,かれに感銘を受け,そのまま
所別では東京事務所―18 軒,大阪事務所―43 軒である。
ル・コルビュジエ事務所で働くようになる。
結
1- 2- 3 所員との
所員との関係
との関係
本章では坂倉準三の⽣涯を概観し,かれの出会った⼈々との関
⻄澤⽂隆
連の中に坂倉の思想の⼀端を⾒出した。坂倉は偉大な師である
1940 年に⼊所した⻄澤⽂隆(1915-1986)は,その経緯につい
ル・コルビュジエを,⽣涯に渡って愛し,尊敬し,その〈強い
て次のように述べている
影響〉を受け続けていた。その上でかれは師を乗り越え,ル・
16)
。
今アルバイトに参加してうすうす感じたことはディテールにおけ
コルビュジエの思想と〈⽇本の建築精神〉との融合を目指し,
る造形⼒の巧さである。建築全体の発想についてはほとんど Cor.
〈有機體〉としての建築を目指したのではないだろうか。
の追随で何等個性的なものは感じない。その点は逆に自分が盛り上
では,これらの坂倉の思想が,住宅においてどのように実現
げて⾏くべきものと考え,とに角この先⽣につくのが今の私には⼀
されているのか。次章では住宅作品の分析を通して坂倉の思
番良さそうだと思うようになった。
想の実践を⾒ていく。
⻄澤は,坂倉の建築にル・コルビュジエの影響を感じながら
――――――――――――――――――――――――――――――
も,ディテールにおいてその独自性に着目している。こうし
主要参考⽂献
て⼊所したかれは,その後大阪事務所の所⻑,坂倉の死後は
坂倉建築研究所の代表となり,活躍することとなる。⻄澤は,
坂倉の死後,次のように⾔っている。
先⽣は想像⼒が豊かとはいえないが,造形物に対する批判⼒は確かであ
ったし,
建築の本質はしっかり把んでおられた。
創造の⾯ではむしろ Cor.
の忠実な模倣者であり,その反動として私は⽇本の伝統に強い傾斜を持
つことが出来た。⻩⾦分割の⽅は若い頃叩き込まれただけに正確であっ
たが,モデュロールは果して,どれだけ理解しておられたか怪しい。
Cor.の所では専ら分割型の Planning をやって来られた精もあって,連結型
をやると反動と思われていた節がある。正に反動であったかも知れないが,
私は物は本来連結や増殖の⽅向にあるのではなかろうかと考えている。
⻑年坂倉の近くで設計活動をしていたかれの⾔葉は,坂倉を
知る上で重要な意味を持つであろう。
駒⽥知彦
駒⽥知彦は 1940 年に⼊所。飯箸邸の⽴⾯断⾯などを担当して
いる。坂倉との思い出について次のように述べている
17)
。
僕等に対してもあまり理論めいた話しはされなかったし,僕等も敢
えて求めなかった。…(中略)…鎌倉近代美術館の現場で坂倉さん
と共に鉄骨柱の⾊を決めかねているときに,「困ったときには,こ
んなとき『コルビュジエはどう考えるだろうか』と考える」と⾔わ
れ,つづいて,
「パリ万博⽇本館の⽞関庇の形を考えていて困って
坂倉準三の⾔説
『近代芸術の先駆者 7-20 世紀を動かした⼈々』⼩林秀雄編,講談社,1964
坂倉準三に関するもの
『大きな声―建築家坂倉準三の⽣涯』大きな声刊⾏委員会,⿅島出版会,1975
『巨匠への憧憬-ル・コルビュジエに魅せられた⽇本の建築家たち』佐々⽊宏,
相模書房,2000
『VA-321 坂倉建築研究所 1940-2007』株式会社建築画報社(雑誌),2007
『PROCESS: Architecture-110 坂倉建築研究所:半世紀の記録』株式会社プ
ロセスアーキテクチュア(雑誌),1993
『坂倉準三の仕事』神奈川県⽴近代美術館[本館] (展覧会冊⼦),1997
注記
1)いくつかの論考が雑誌等に発表されているが,坂倉に関する体系的論考は⾒
られない。
2)本節の内容は,
『大きな声―建築家坂倉準三の⽣涯』及び『巨匠への憧憬-ル・
コルビュジエに魅せられた⽇本の建築家たち』を参考にまとめた。
3)建築家。ボザールで建築を学ぶ。
4)公共⼯事の特別学校の意。パリ大学の付属学校。坂倉はここで鉄筋コンクリ
ートの技術を学んだ。
5)『現代建築』 ⽇本⼯作⽂化連盟,1939 年 6 ⽉
6)『近代芸術の先駆者 7-20 世紀を動かした⼈々』,p.366 には、
「ギーディオンは彼の『空間・時間・建築』
(⽇本版太⽥実訳)の中で現代建
築の表⾯化としてこの国際連盟設計競技におけるル・ビュジエ案の出現を重
要なこととして取り上げているが,この⼆⼗世紀建築の最も輝かしい指導者
の⼀⼈ル・コルビュジエの名を私がはじめて知ったのもその時であった。」と
記されている。
7)前掲 5)
8)前掲 7),p.366
9)『坂倉準三の仕事』p.15 「坂倉さんと創業期」駒⽥知彦,1996
10)「⽇本⽂化を世界に宣揚するに⾜るもの」にするという,その思想や芸術を
広める趣旨の組織。欧州から帰ってきた知識⼈,哲学者,⾳楽家,写真家,
建築家などが参加している。名称は,南インドのドラヴィダ族やインドアー
リア族の源となる南メソポタミアの王国,スメル(Sumer)族から。
11)主催は⽇本世界⽂化復興会。クラブ・シュメールの⼩島威彦の紹介によって
坂倉が設計することとなった。
12)ペリアンが持参した Jean Prouvé の「Batiments de la Guerre - 1933」が
発端となり,⽇本の⽊造建築で試みる。⼯業化に対する坂倉の姿勢が⾒て取
れる。そしてこの成果は,戦後のプレハブ住宅へと受け継がれていく。
13)本節の内容は,『建築家 前川國男の仕事』⽣誕 100 年・前川國男建築展実
⾏委員会,2006,美術出版社 pp.38-39「近代建築に⽣命を吹き込む―前
川國男の求めたもの」松隈洋 を参考にまとめた。
14)『大きな声―建築家坂倉準三の⽣涯』pp.40-51
15)本節の内容は,『巨匠への憧憬-ル・コルビュジエに魅せられた⽇本の建築
家たち』pp.270-290 を参考にまとめた。
16)本節の内容は,
『建築』1970 年 6 ⽉ 「坂倉先⽣と私の間」を参考にまとめ
た。
17)本節の内容は,前掲 9),pp.15-21 を参考にまとめた。
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