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水間八幡神社の祭祀組織 - 天理大学情報ライブラリーOPAC

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水間八幡神社の祭祀組織 - 天理大学情報ライブラリーOPAC
水間八幡神社の祭祀組織
─宮座概念を中心に─
あや こ
小野 絢子
はじめに
本稿の目的は、奈良県奈良市水間町にある、水間八幡神社の祭祀組織の変遷を明らかにすることであ
る。本稿では、水間八幡神社の祭祀組織を「宮座」というキーワードを用いて分析し、変遷や現状を明
らかにする。そのためにまず、肥後和男や福田アジオなどの宮座論を整理する。そして『東山村史』
(1961年)などの記述を参照し、筆者のフィールドワークの成果に基づいて、水間八幡神社の祭祀組織
について考察を進めていきたい。加えて秋祭りでの神役の働きに注目し、祭祀組織内の役職の変遷につ
いても分析する。
第 1 章 宮座の研究史
肥後和男は「近江に於ける宮座の研究」
〔肥後 1938〕や『宮座の研究』〔肥後 1941〕において、宮座
研究の基礎を築いた。肥後が本格的な宮座の研究に着手したのは1935年前後のことである。
肥後の宮座論の特徴を説明する前に、肥後以前の先行研究にも触れておきたい。民俗学において宮座
の研究が進む1910年以前は、中世・近世における商工業者の座についての研究が主であった。その中で
特に神社祭祀と座の関係について注目した人物が、中山太郎や中川政治である。中山太郎「宮座の研
究」〔中山 1930〕や中川政治「近畿に於ける宮座の研究と古代村落の社会形態」
〔中川 1927〕などの先
行研究では、宮座は「特権を有する氏子の組合」であると定義されてきた。
しかし、肥後は近江などでの実地調査の結果、
「宮座という集団組織の目的」を「神事の遂行」にあ
るとし、
「氏子全体がこれを組織している」という新たな定義を打ち立てた〔肥後 1941;23─26〕。次に
肥後は、宮座の細かい分類を行う上で、宮座と呼ばれる集団組織の総体の範囲を限定した。つまり、
「その土地の神に対して、その土地の人が信仰を致す」
〔肥後 1941;41〕ことを原則とし、座の付く名
称を持った氏子集団はもちろん、講といった名称で座を営む氏子集団もその範囲に含まれるとした。そ
の総体の中で、宮座の組織形態は血縁的な「株座」と地縁的な「村座」に分けられる。株座は、名主・
家筋などの特定の家々が世代を超えて資格を保持し、その家系の人物だけが参入できる閉鎖性の強い組
織形態を有している。対して村座は、一定の年齢、又は元服等の特定の儀式を済ませた村人であれば誰
でも資格を獲得できるという、前者に比べて開放的な組織形態になっている。そして宮座という祭祀組
織は、山城・大和・摂津・河内・和泉の旧五畿内を中心として分布しており、特に大和が濃密であると
位置づけた〔肥後 1941;78〕
。
また、宮座の構成要素において、オトナと呼ばれる長老衆を中心として、そのもとに当屋や神主が存
在すると分析をした。長老衆の中にも、一老という最も中心的な役が存在することを指摘しつつ、宮座
1
の中心となる長老衆には、一定人数の年寄を有するものと一老のみが存在するものの 2 つのタイプがあ
るとした。そして、一老に集中していた氏神を祀るという役目や責任が、負担均衡・栄誉役の分担とい
う平等観念により、一老集中型から長老衆や座衆へ当番制で分配されるようになったことが、当屋の発
生と考えた〔肥後 1938;180〕
。
その後、原田敏明は宮座を「当屋または当人の制度をもって、最も基本的な型式である」
〔原田
1975;165〕とする定義を展開する。神社発生以前の古代の氏神のあり方に起源論を求め、氏子の家で
氏神を奉斎することが当屋本来の職務であるとした。現在の当屋の主な職務は、境内の掃除や神饌の準
備といった神主の補佐であるが、
「これは主として明治以降の神職専任の制度実施に伴う変化」
〔原田
1975;165〕であって、本来の姿から退化したものと考えた。
また福田アジオは、宮座の変遷と村落の社会的構造には深い関わりがあると考え、村落社会構造から
宮座の類型を捉えようとした。まず「宮座」を学術用語として定義するに当たり、①「宮座」という用
語の来歴を尊重する、②特定の祭祀組織・祭祀方式を把握するための用語でなければならない、③過去
「宮座、○○座」という言葉を用いて展開された祭祀組織・祭祀方式を無視してはならないという留意
点を挙げた。以上を前提とし、福田は「宮座は特定の地域において、その社会を守護する神仏を一座し
て祀るために、ある地域社会の成員の中の一定の資格を有する男子を定員制を設けて組織したもの」と
定義した〔福田 1989;12〕
。しかし、肥後の提唱した株座・村座といった宮座の類型は、成員の資格条
件を指標にした一次的なもので、
「宮座の内外の境界」を明確にするためには有効であるが、
「宮座内部
の秩序を議論する際の類型論とはなりえない」ことを指摘し、宮座を特権的祭祀組織と狭く定義してし
まうことは、村落構造の相違が宮座の諸類型を作り出していることを理解できなくなると警告した〔福
田 1989;15〕
。
社会人類学の立場から宮座を研究した高橋統一は、肥後の宮座研究を評価する一方、欠如している構
造原理や存在機能について分析を行った。まず高橋は、宮座を形成する基本的要素として「株(株座と
村座)、年齢階梯=長老制、当家、双分組織」の 4 つを挙げた〔高橋 1978;253〕。前者 2 つは宮座の構
成的要素であり、後者 2 つは機能的要素にあたる。構成的要素においては、株座・村座に関係無くイエ
の代表は家長から年長順に厳しく序列づけられ、当家や年番神主などの役割機能も原則的に年長順で勤
めることから、「年齢階梯=長老制」を最も重要なものとした〔高橋 1978;10─11〕。対して機能的要素
においては、「当家」が神事当番を年番で順次担当することで名誉や経済負担が平等化されることから、
宮座という組織体を円滑に動かす機能的要素として不可欠なものとした〔高橋 1978;254〕。
しかし近年では、宮座研究の定説として扱われてきた肥後の宮座論を再検討する動きが見られる。例
えば関沢まゆみは、肥後の分類は「民俗語彙による分類であり、特に「神主」と「当屋」の機能的な区
別が曖昧であった」
〔関沢 2005; 5 〕という点を指摘し、神主と当屋の神祭りにおける働きに着目し、
民俗語彙ではなく機能面での分類を試みた。当屋の「氏神の分霊を自宅に預かり祭祀を行う」という
「神事祭祀管掌」機能が、神主の「神事祭祀管掌」
「祭礼諸用意」
「神社奉仕」といった 3 つの機能の一
部と共通していることから、民俗語彙上では神主と当屋という語が混淆して用いられ、分類をする際の
判断を複雑にしている実態を明らかにした〔関沢 2005;12〕。
また市川秀之は、肥後の宮座論は当時の時代的制約の中にあったと指摘する。そして、従来の宮座論
2
に新たな視座を与えることを目的とし、再検討の必要性を提唱している〔市川 2011;62〕
。まず市川は、
肥後宮座論の再検討に際する留意点として、肥後が宮座研究を集中的に行った1935年前後という時代と
の関連、肥後が終生取り組んだ「古代天皇制」
「神話」に関する研究が基盤にあったことを指摘してい
る。さらに、市川は肥後の行った調査方法にも着目し、現地調査を行う前段階に実施したアンケート内
容から、肥後が「宮座あるいは○○座という名称を有する」ことを第一義的な条件とした点を問題視し
た。それによって「宮座・○○座」という名称を持たないが、宮座と同様の性質を持つ組織が調査対象
から漏れている可能性があるからである〔市川 2011;70〕。この点は、先述した関沢の「機能的な分類
がなされていない」という指摘と同様のものである。そして市川によると、元々宮座研究は歴史学的な
概念のもと、中世の商工業者の座への関心から出発しているため、今日の祭祀組織を「宮座」と呼ぶこ
とで食い違いが生じることは必然であるという。
「宮座」は歴史的な事象を示す言葉として使用すべき
であり、民俗学的立場からの用語の使用は慎重になるべきだと、市川は主張する。それは「宮座」とい
う名称に縛られず、
「座」以上に宮座の本質的な要素を有する可能性がある当屋(頭屋)にも目を向け
ることで、近畿以外の宮座に類似した事例も扱えるようになり、また当屋概念を神社祭祀以外に拡大す
ることによって、村落の機能と神社祭祀の関係性を明確に論じることができるようになるからだとする
〔市川 2011;73〕
。
本研究では、このような宮座研究の再検討を指摘する近年の研究を念頭に置き、肥後や福田アジオの
議論を踏まえて、高橋統一が分析概念に近い形で宮座を構成的要素と機能的要素に分けた定義を参考に
しながら、分析を進めていく。
第 2 章 水間八幡神社の祭祀組織
第 1 節 調査地の概要
本稿が調査対象とする水間八幡神社は、奈良県奈良市水間町に位置する。水間町は、奈良市東部の山
間部、水間峠の東方にある。
史料上初めて「水間」の村落名が確認されるのは、1056(天喜 4 )年「東大寺政所下文案」に記され
た「水間・松尾杣」である。古くは聖武天皇勅施入の新薬師寺の杣であったが、新薬師寺が東大寺の末
寺となったことから、東大寺杣ともなったと考えられている。そして、治承∼永仁年間(1177∼1298
年)は「水間郷」と称し、応永年間から江戸時代初期にかけては「水間庄」へと変化した。水間八幡神
社所蔵の七面の古能面裏には「水間庄」との墨書がある〔東山村史編集委員会 1961;45〕
。1595(文禄
4 )年検地以後の近世初期は「水間村」と称されるようになったが、近世中期になると、一時、水間上
村と水間下村に二分した。
その後、明治に入ると町村制が施行され、1889(明治22)年に水間村を含む周囲の 8 つの村落が合併
し、
「東山村」となった〔東山村史編集委員会 1961;274〕。そして1957(昭和32)年、東山村内の「水
間・別所」が奈良市に合併され、現在の形になる。
かみ で
しも で
なか
ちゃ や
お
わ
だ
おく わ
だ
み かげ
現在の水間地区は上出・下出・中・茶屋・小和田・奥和田・御影の 6 大字からなる。自治会が地域の
ことを取り仕切る立場にある。しかし、筆者の聞き取りによると、
「自治会の役職を経験した者が氏子
総代になるという暗黙の了解がある」(A氏 1926年生まれ 男性)などと言われ、実質的に権力を持つ
3
のは「氏子総代」である。
また戦前は、 2 月 1 日に行われていた「村入り」が、現在は 2 月11日に日程を変えているものの、
しっかりと現存している。現在の村入りは、昔の元服に当たる17歳になると行われる。これに対して村
外から越してきた者については、年齢に関係なく同じ 2 月11日に村入りを行う。ただし、A氏(1926年
生まれ 男性)曰く、村外から越してきた者で、養子や婿養子として村入りした人は「村入り」した翌
年から行事や神事に参加することが許されるが、これまで地域外から縁者のいない状態で越してきた人
は、 3 年間は村に「なじむ」
「様子見」として行事に参加することが許されないという。現在の村入り
は、かつての元服の儀が簡略化されたもので、世話役である氏子総代が「名付け親」として司会をし、
儀礼の進行を務める。これを行うのは男性のみで、氏子総代が祝辞を述べ、村入りする者の名前を発表
し、祝盃をあげた後は宴会となる。『東山村史』によると、寛永年間の水間の儀礼では一老が司会をし、
名替えした若者の本名を参加者の前で披露して祝盃のやりとりをし、若者から扇子と祝儀が送られたと
いい、これを「名付け」や「名替え」と呼んだ〔東山村史編集委員会 1961;641〕。
第 2 節 水間八幡神社の祭祀組織
本節では、水間八幡神社ほか、旧東山村内の 8 社の記述を含む『東山村史』
(1961年刊行)を参照し、
近代から現代の水間八幡神社の祭祀組織について分析する。概要を表 1 にまとめた。
表 1 東山村内の神社に関わる役職名の変遷
社僧
神官
イチ
オトナ
近代
「神職/神官」へ神仏分離令により変更
神仏分離令により出現
「ミコ」
元禄時代の資料に「巫家へ嫁した」という記
述あり
「オトナ(年寄)」
地域によって年預が「一年神主」を勤める所
では、オトナ制度自体の有無が不明
年預
当屋
「イチ」
『東山村史』に近世末になって変わったので
はないかという記述あり
氏子総代制度の確立によって、職務の混同が
おこり廃止
「氏子総代」
氏子制度の確立により出現
氏子総代
ドウゲ
戦後
「宮司」
宗教法人確立により変更
「ドウゲ」
水間では村小使をそう呼んだ
「年預/年番」
地域により「一年神主」を勤める所もあり
「当屋」
年預が勤める場合と祭礼の時にだけ勤める場
合がある
註)『東山村史』〔1961年刊行〕より作成
『東山村史』の「神社とその古文化財」によると、氏神に関わる神役には「専門の職とするもの」と
「氏子の中からつとめるもの」の 2 種類が存在する〔東山村史編集委員会 1961;515〕。前者は「社
僧」
「イチ或いはミコ」
「神職或いは神官」であり、後者は終身勤める「オトナ」
、毎年あるいは数年ご
とに交代で勤める「年預(年番)
」
「ドウゲ(堂下)
」、祭礼の時のみ勤める「当屋」、明治時代初めの氏
子制度によって生まれた「氏子総代」がある。
「専門の職とするもの」のうち、
「社僧」は神仏習合の時代に境内に併置されたお堂(宮坊、別当寺と
もいう)に住み込み、年中行事を執行し遷宮導師を勤めた。明治時代に入り神仏分離令が発せられると、
4
社僧は廃止され、その役目が神官へと移り、戦後に宗教法人が確立すると名称が「宮司」へと変化した。
「イチ(ミコ)
」は、秋祭りなどで御湯という神事を行なう女性のことを指す。その他にも、
「水間村宮
本算用帳」
(1778年刊行)には「ねぎおきな料」という記述が見られることから、隣村にある
宜職の
者を招き、神事や能の奉納を行っていたのではないかと推測される。かつて翁能に使用されたであろう
七面の古能面は、現在奈良県指定有形文化財となり、奈良国立博物館に収蔵されている。
「氏子の中からつとめるもの」のうち、最年長の氏子数人が終身勤めることとなる「オトナ」は、神
主の役目をするもので、神職の補助又は代理を勤める。旧東山村では、どの大字も 4 名の最年長者がオ
トナとなり、欠員が出た場合は「オトナ入り」の行事を行ったが、明治時代に「氏子総代」が設けられ
ると、職務の混同と同時に廃止されたところが多いとある〔東山村史編集委員会 1961;520〕。しかし、
先述した「村入り」の行事では「一老が名付け親となる」といった記録が残ることから、仕事内容が同
じまま名称のみが「オトナ」から「氏子総代」へ変化したものと思われる。
毎年或いは数年毎に交代で勤める「年預」は、水間では 3 名が一年神主の役目を勤めたが、
「明治以
後氏子総代の制度ができて、年預と混同されたために、年預のもとの意義が失われている」
〔東山村史
編集委員会 1961;521〕という記述がみられる。また、年預と同じく数年ごとに氏子が交代して役を勤
める「ドウゲ(堂下)
」は、神殿の清掃、神前の供撰などを担うオトナの下働きで、水間では村小使を
ドウゲと呼んでいた。ドウゲは相続した順序で役目を交代していた。
「当屋」については、水間は年預
が勤め、その他の大字は「祭礼の時にだけ祭礼に関することを勤める」
〔東山村史編集委員会 1961;
522〕とだけあり、
『東山村史』の記述のみでは詳細は分からない。
同様に、宮座についての記述もみられるが、水間八幡神社の宮座に特化しているのか分からない。た
だし、旧東山村の宮座の特徴をよく示しているので次に引用したい。氏子が神役を勤めるのは、
「義務
であると同時に特典でもあった」
〔東山村史編集委員会 1961;523〕とし、
現在は大体その大字に住むものはそこの氏神の氏子となって神役を勤める。新来者はこれを
拒むといったことがない。即ち村全体が宮座に列なる所謂村座となっている。
然しながら昔は村入りができても座入りはできなかったといわれる。これは昔は特定の家筋
の者だけが神役を勤めたことを物語っている。これを宮座と呼んでいる。
〔東山村史編集委員会 1961;523〕
と続く。宮座に列なる家筋は「クジヤ」と呼ばれ、昔は村内のどの大字にも存在していた。かつては祭
政一致の体制がとられていたため、
「村役人(庄屋・年寄)となって村の政治に当たる家筋のものが、
宮役(オトナ・年預・当屋など)となって氏神の管理」
〔東山村史編集員会 1961;523〕をするように
変化したのではないか、とまとめられている。これは過去、水間八幡神社の祭祀組織として「株座」が
存在していたことを表しているようにもとれる。
『東山村史』には各神役について詳しい記載があるが、旧東山村内全体の神社の役をまとめて記載し
ているため、水間八幡神社に全ての役があったのか、あるいはその当時存在していたのかについては正
確には分からない。また、
「宮座」についての記述も、祭祀に関する集団の組織名の解説なのか、神社
5
に関わる氏子全てを指す説明なのか、曖昧なものである。そのような点を、後述の聞き取り調査の結果
を元に明らかにする。
なお『奈良市史 民俗編』の「宮座」では、奈良市内に残る約90の宮座を「現在の運営を記録すると
いう立て前」のもと、 5 つの項目に分類している。この中で、水間八幡神社の祭祀組織は「単一の宮
座」つまり「一つの大字で一つの氏神を祭り、座の形を継承しているもので、形はささやかながら最も
数が多い」〔奈良市史編集審議会 1968;344〕に分類され、当屋の動きを中心に、秋祭りの記述がなさ
れている。しかし、
『奈良市民俗芸能調査報告書 ──田学・相撲・翁・御田・神楽』
(1990年刊行)の
水間八幡神社の秋祭りの注釈文には、
「誤りが甚だしく多いため、ほとんど参考にならない」や「
『奈良
県史』民俗編の記述に見られる最大の誤りは、当屋と当人を混同していることにある」
〔奈良市教育委
員会(編)1990;40〕などの指摘もある。
第 3 章 現代の祭礼
本章では、2011∼2013年にかけて筆者が行ったフィールドワークの成果を元に、水間八幡神社の秋祭
りの現状を、祭祀組織や各神役の役割に着目して記述していく。また、
「大正四年調 神社調査書」
(1915
年刊行)、「昭和四年 大和国神宮神社宮座調査書」
(1929年刊行)、
「昭和十一年 祭祀並宮座調」
(1936年
刊行)、『東山村史』や『奈良市民俗芸能調査報告書 ──田楽・相撲・翁・御田・神楽』
(1990年刊
行)にも秋祭りの記述が見られる。フィールドワークの成果に加え、これらの資料を参照し、過去の祭
礼と現代の祭礼を比較し、祭祀組織や各神役の役割の変化について分析する。なお、聞き取り調査の成
果による情報については回答者名をアルファベットに当てはめ、生年・性別のみを記す。
第 1 節 宵宮
⑴ 日程・フリアゲ
現在、水間八幡神社の秋祭りは10月の第 2 日曜日・第 2 月
「大正四年調 神社調査書」によれば、
曜日に行われている。
本来は毎年10月13・14日に執り行われていた。近年は奈良市
の中心部で働く人が増え、祭礼の執行に人手が足りなくなる
などの運営上の不都合が生じてきたため、休日・祝日に変更
された。第 2 日曜日が宵宮(宵祭り)
、第 2 月曜日が本祭り
にあたる。現在、水間八幡神社の秋祭り執行に係わる主な神
役は、氏子総代 3 人・年番 3 人・当人 6 人の計12人である。
「フリアゲ」とは、祭礼同月 1 日の月例祭で、 3 人の年番
の中から祭りの当屋神事を行う「大当屋」決めるくじのこと
を指す。フリアゲはまず、 3 人の年番が名前を書いた紙を小
さく丸め、氏子総代長が持つ、中央に穴を開けた半紙を張り
付けた茶碗の中に入れる。この茶碗を総代長が振り、穴から
写真 1 幣
最初に飛び出した紙に書かれていた名前を確認する。残りの茶碗の中の 2 枚も広げ、立会人が間違いの
6
ないことを確認する。
そして、前年の秋祭
りの日から翌年の秋祭
りまでに、男児が生ま
れた 6 家が、秋祭りの
時のみ「当人」を勤め
る。期間中に生まれた
男児が当人として指名
されるが、実際の勤め
はその父親が担うため、
以下当人(男児)の父
神社→当屋(行きは無言)
先頭 ●提灯(つけない)
●御幣
●笛
●鼓
●太鼓
●提灯(つけない)
…氏子総代
…当屋を勤める年番
…年番/氏子総代
…氏子総代
当屋→神社(復路はお囃子)
先頭 ●松明
…当屋を勤める年番の息子 or 不在なら他の年番
●提灯
…氏子総代
●御幣
…当屋を勤める年番
●笛
●鼓
…年番/氏子総代
●太鼓
●提灯
…氏子総代
図 1 お渡りの並び順
親を「当人」と称す。
当人は 6 人必要になるが、その年に男児が生まれた家が 6 家に満たない場合は
「仮当(カリド)
」を決める。
当人は宵宮前日に境内で、神事中に氏子総代・年番・当人などが背中に差す幣やホウダイを作り、祭
りに必要な物品を買いそろえる。この幣は、閉じた扇子に長い苧と、紫と白の紙で作られた幣を結びつ
けたもので、毎年新調する(写真 1 )
。ホウダイとは、お供えの餅 2 つ(内 1 つには小銭が練り込まれ、
これをオカネモチという)と湯がいた渋柿 1 つ、計 3 つの餅をワラで筒状に包んだものをいう。このよ
うな準備には当人の家族も動員される。
しかし身内に不幸があると、決まった期間中神社への出入りは禁止となり、役につくことができない。
忌みの期間は、戸主とその家族は 1 年間、叔父叔母は 3 カ月、従兄弟は 1 カ月となっている。これを
「落当(ラクトウ)
」といい、罰金として 1 斗 5 升の米を差し出す慣例がある。
⑵ 御輿巡行・演芸会
午後 1 時になると、奉納太鼓・子供会主催の御輿の巡行が行われる。御輿は台車に乗せた形で、先頭
に御幣を持った男児が 1 人、次に鉦を持った男女児が 3 人、続いてみこしを数人の子供と付き添いの大
人達が引いていく。
みこし巡行が終わり午後 7 時になると、旧水間小学校のグラウンドで演芸会や模擬店などのイベント
が始まる。これは、
「昔は祭りに関わっている人のみしか集まらず寂しかった」
(B氏 1933年生まれ 男
性)という理由で、町内の活性化を目的として自治会と氏子総代が協議し、上記の御輿巡行と同時期に
行われるようになった。
⑶ 当屋神事・お渡り
御輿巡行後の午後 7 時頃から演芸会中、氏子総代・年番・当人の12名は大当屋にて当屋神事を行う。
午前中に榊や神饌を供え、祝詞奏上などの祭典が行われた後、背中に白と紫の幣を差した氏子総代・年
番の 6 名は、神霊が乗り移った御幣を持ち大当屋へ渡る(図 1 )
。この時御幣を持つのは、大当屋を勤
める年番であり、大当屋から神社までの復路では、その息子が松明を持って先頭を進む決まりがある。
7
年番に息子がいない場合は、他の年番が代わりに松明を持つ。
大当屋宅へ到着すると、御幣は大当屋を勤める年番(戸主)
によって床の間に祀られ、
「座敷おまいり」が始まる。氏子総
代が神社を出て、座敷おまいりが終わるまでは一言も言葉を発
してはならない決まりがある。この後、午後11時頃まで大当屋
で宴会をし、再び神社へ渡る。氏子総代・年番が列を作った後
ろに、背中に鶴の描かれた黒い袴と同じく黒い烏帽子の当人と、
家紋のついた着物を着た婦人と男児が並ぶ。この格好は「大正
写真 2 祓い清め 1
四年 神社調査書」の「第十三 祭祀行事」にある記述と同じで
あり、大正時代から現代まで変化がない。
大当屋から水間八幡神社へ向かう道中、御幣を持った年番は
それを振り続ける。その間は、笛・太鼓・堤・かけ声で囃す。
このお囃子はお渡りの道中、境内到着後の祓い清めの儀式中も
止めることなく続く。やがて一行が水間八幡神社の境内に到着
すると、当人一家は開け放った社務所の縁側に並び、演芸会に
写真 3 祓い清め 2
参加していた町民も境内に集まってくる。御幣を持った年番は
まず本殿に拝礼し、その他の氏子総代・年番は社務所から見て
左側に提灯・太鼓・笛・堤、拝殿を挟み、右側に提灯・松明の
順に本殿に背を向ける形で立つ。拝礼が終わった年番は御幣を
八の字に振りながら、社務所と拝殿の間を時計回りに21回まわ
る。これを祓い清めの儀式という(写真 2 ・ 3 )
。当人一家は、
御幣を持った年番が自分たちの前を通る時にはお辞儀をする。
写真 4 田楽
⑷ 田楽
祓い清めの儀式が終わると、次は拝殿の中で田楽が行われる。ただし、この田楽はびんざさらを使う
踊り系田楽や、擦りささらを使う囃し系田楽とは少し形態が異なる。
神霊の乗り移った御幣を本殿へ供え戻し、拝殿前に焙烙を載せた七輪を据え、その中に松明の火を入
れる。それを氏子総代 3 名が拝殿の中に持って入り、拝殿中央に置く。その周りを 3 人の氏子総代が団
扇をバタバタと煽ぎながら、
「よーう焼けた」と囃しつつ周囲を時計回りに回る(写真 4 )。
所要時間わずか十数秒のこの田楽の確かな由来は分かっていないが、茄子の田楽を焼く様子をかた
どっているという説と、元々は能や狂言といったものが演じられていて、時代を経るごとに変化したと
いう 2 つの説が水間地域の人々の間では語られる。茄子は貴重で高貴な食べ物とされていたことから、
それを納めるという意味で実際に茄子を焼いたという話もある(B氏 1933年生まれ 男性)
。また、水
間八幡神社の拝殿が能舞台の形をしており、古能面七枚が見つかっていることから、かつては田楽が演
じられた可能性もある。なおこの田楽に関する記述は、『東山村史』には「デンガク焼き」という記述
が見られるが、
「大正四年調 神社調査書」
、「昭和四年 大和国神宮神社宮座調査書」
、「昭和十一年
8
祭祀並宮座調」の 3 冊の公文書には見られない。
田楽の後、拝殿から炮烙を乗せた七輪を持って氏子総代が出
てくると、集まった町民や当人一家に挨拶をし、宵宮の神事は
全て終わる。
第 2 節 本祭り
⑴ 昇殿
翌第二月曜日は、秋祭りの本祭りにあたる。午前 9 時、氏子
写真 5 昇殿
総代 3 名・大当屋(年番)
・当人一家(いれば仮当)が境内に
集まると、昇殿の儀が始まる(写真 5 )。全員が拝殿で草履に
履き替え、本殿へ登る。この時、当人の背中には咋晩つけてい
た白と紫の幣がさしてあり、氏子総代・大当屋は神酒と結び昆
布とカマスの乗った木盃を持って登る。本殿の横の庭には筵が
敷かれ、 6 組の当人夫婦が対座し、妻の後ろには祖父母どちら
かに抱かれた男児が座る。夫婦の前には、木盃から配られた結
び昆布とカマスが肴として配られる。大当屋を勤める年番が配
給役を勤め、夫から妻という順で神酒の酌をする。これが全員
に行き渡ると、氏子総代が「おめでとうございます、これで水
間の氏子入りです。…」と挨拶をし、終わる。
『東山村史』には、これを「生児(しょうじ)の当」という
写真 6 宮座 1
名称で説明を行っている〔東山村史編集委員会 1961;524,633
─637〕
。昇殿(生児の当)が「氏子入り」であるとすれば、 2 章
1 節で記述した村入りが「座入り」に当たると考えられる。
⑵ 宮座・直会
午前10時、土俵準備や拝殿横に建つ籠所での直会の準備が終
わると、氏子総代・年番・当人・自治会・子供会などの男性陣
は籠所へ入る。この時、当人の妻など女性陣や男児は中に入ら
写真 7 宮座 2
ず、直会が終わるまで籠所の外で待機している。秋祭りのパンフレット上では、この籠所で行われる神
事を「宮座」と記載している。上座に座った氏子総代によって男児の名前が発表され、直会が始まる
(写真 6 )
。直会の食事内容もかつては詳しく決まっていたが、近年は神饌である結び昆布・カマスに
加え、金額を指定した仕出しを注文するようになっている(B氏 1933年生まれ 男性)。「水間の神さん
は四つ足を嫌う」
(C氏 1944年生まれ 男性)と言われ、仕出しの内容も魚類がメインである。この時
当人の男性は、直会参加者に酌をしてまわることになっている(写真 7 )
。
これ以降の神事は、主に当人 6 人と子供会に所属する子供達が主役であり、氏子総代・年番の 6 人の
仕事はない。
9
⑶ 馬駆け
直会を終えた男性陣が籠所から出てくると、次は子供達によ
る馬駆けが始まる(写真 8 )
。現在は子供会に所属する男子、
その父親が騎馬の形になって、不老門から石階段を下り、鳥居
前まで進み、石階段を上り不老門前に戻る。これを 2 回繰り返
す。馬駆けに参加する男子やその父親の背中には、当人らが差
していた幣と同じものを差す。騎馬戦の上に乗る人役は小さい
男子と決まっているが、馬役の人員は年によって変化する。
写真 8 馬駆け
この馬駆けも、戦後耕運機などの登場により、農耕用馬を飼
わなくなった時から大きく変化した。
「大正四年調 神社調査
書」には「それより神馬二頭、馬場所において競馬をなす」
、
「昭和四年 大和国神宮神社宮座調査書」には「例祭当日午前
中乗馬二頭社前鳥居前より約一町数回渡走をなす。此の場所を
馬場と称す」とあり、戦前までは馬 2 頭を使っていたことが分
かる。しかし、1961年に刊行された『東山村史』には、既に
写真 9 奉納相撲
「現在水間では子供の馬駆け及び角力を行う」〔東山村史編集委員会 1961;528〕という記述が見られ
るため、1950年代後半には、男子達による騎馬の形に変化している。ルートも、かつては馬が不老門か
ら石階段を下り、鳥居を抜け、鳥居から向かって右斜め前に延びる馬場先にある半鐘跡までのおよそ
150mを往復した。
⑷ 奉納相撲
馬駆けが終わると、拝殿前に準備されたむしろの周りに人が移動し、奉納相撲が始まる(写真 9 )。
直会の準備と並行して行われた土俵準備では、子供会の男性陣が 6 人がかりで社務所と拝殿の間にむし
ろを敷きつめ、その上に黒い半円の描かれた運動マットを 2 枚敷く。
奉納相撲は、まず当人 4 人がマットの四隅に「審判」と書かれた札を持って座り、残りの 2 人の当人
は各自呼出し・行司役を務める。子供会に所属する男子がマットを挟んで、左右に 6 人ずつ座る。参加
するのは決まって男子のみで、女子は参加することができない。年齢は幼児から小学生高学年男子とバ
ラバラであり、呼出しが「只今より、奉納相撲を始めます」と宣言し始まる。四股を踏む時などは参加
者も「よいしょー!」と言って声援を送り、一番盛り上がる神事である。 6 組の取り組みが終わり、呼
出しが「これで奉納相撲を終わります」と言って締めた後、相撲に参加した男子は当人から参加賞とし
て、文房具とお餅数個が入ったレジ袋を手渡される。
『奈良市民俗芸能調査報告書 ──田楽・相撲・翁・御田・神楽』には「かつては穢れのない十二人
の間でムクサリ(六番)だけが取組を行った」
〔奈良市教育委員会編 1990;38〕とあり、奉納相撲も変
化が見られる。2004年に水間小学校が廃校になる前は、授業中であっても男子は相撲に参加、また女子
も観戦することが許されていたという(D氏 1955年生まれ 女性)
。
10
⑸ ゴクマキ
奉納相撲が終わると、氏子総代・年番・当人などが拝殿前に並び、挨拶をして秋祭りの全ての行程が
終了する。当人は籠所の片付け、子供会役員は奉納相撲に使用したマットなどの片付けに取りかかる。
参拝者は、ホウダイを各家一つずつ持ち帰り、祭りに来ていなかった家には、各組の組頭がまとめて持
ち帰ったものをその日の内に配る。
『奈良市民俗芸能調査報告書 ──田楽・相撲・翁・御田・神楽』には「午前十一時半、ようやく相
撲の取組がすべて終わり、ゴクマキ(餅まき)に移る」
〔奈良市教育委員会編 1990;38〕という一文が、
ホウダイを配ることを指すように書かれている。また、旧水間小学校に通っていたE氏(1988年生ま
れ 女性)は、現在は見られないが、
「奉納相撲後、むしろの上で 5 ∼100円玉の入った餅を撒くことを
ゴクマキと言っていた」と言い、ゴクマキに関する認識は人によって違う。
以上、2011∼2013年の秋祭りの様子を順を追って明らかにした。話しを伺った氏子の方々のうち、氏
子総代を務める男性曰く、
「基本的に秋祭りの進行に大きな変化はなく、昔からの内容を現在も執り
行っている。ただし、各所に小さな変化は存在する」と言う。筆者のフィールドワークの結果と「大正
四年調 神社調査書」などの記述を比較しても、B氏が言うように、神事内容の変更など大きな変化は
見られなかった。しかし、高齢化や時代の変化により、神事の簡略化が随所に見られた。対して、神役
の秋祭りでの働きには大きな変化は見られなかった。
第 4 章 祭祀組織の変遷
第 1 節 現代の祭祀組織
第 2 章第 2 節では『東山村史』を参照し、各神役や宮座の記述内容をまとめ、第 3 章ではフィールド
ワークを基に現代の祭祀について記述した。本章では第 2 章、第 3 章を踏まえ、筆者の2012年から2013
年までの聞き取り調査の結果を基に、表 2 にまとめた水間八幡神社の祭祀組織の現状・変遷について詳
述する。
表 2 水間八幡神社に関わる役職名の変遷
社僧
神官
イチ
オトナ
氏子総代
ドウゲ
年預
当屋
近代
戦後
現在
「神職/神官」へ神仏分離令により変更 「宮司」
「神主」
宗教法人確立により変更
現在はこの名称で呼ばれる
神仏分離令により出現
「イチ/ミコ」
村史には「巫家へ嫁した」という元禄時代の資料や、名称変更についての記述があったが、聞き
取りでは村内に固定の役職としては存在していなかった。
「オトナ(年寄)」
氏子総代制度の確立によって、職務の混同がおこり廃止
「氏子総代」
氏子制度の確立により出現
「ドウゲ」
水間では村小使をそう呼んだ。仕事内容
は年預に同じ。
「年預/年番」
水間では年番と呼ぶ
「当屋」
祭礼の時にのみ勤め、年番の中から 1 人
選ばれ、水間では大当屋と呼ぶ。その他
に当人という役がある。
註)『東山村史』〔1961年刊行〕より作成、改変
11
まず、戦後に宗教法人が確立された際に、神職の「宮司」という名称が定められたが、現在は「宮
司」ではなく「神主」と呼ぶことが一般的になっている。しかし、
「昭和十一年 祭祀並宮座調」(1936
年刊行)内の「神職をよぶ特別名称がありますか」という項目には、既に「神主(カンヌシ)
」と呼ん
でいたという記録があり、馴染みのある戦前の名称がそのまま現在まで使われているものと考えられる。
また、同公文書内の「現在に於いても実際は世襲の様ですか」や「何時迄世襲でしたか」という質問項
目の回答には、
「然らず」
・
「世襲の事なし」と書かれている。以上のことから、少なくとも1936年の時
点では、水間地域の神職は、特定の家筋が世襲的に勤めていたものではなかったと言えるだろう。C氏
(1944年生まれ 男性)によれば、かつては他の地域の神主が一人数社の神主を兼任していたが、神事
の日が重なることから、神主不在の時期が30年間続いたという。その間は氏子総代の一人が代行を勤め
ていた。現代の神主は、聞き取り調査を行った2013年 8 月現在、氏子総代 3 人で話し合い、村内の信頼
のおける人物に頼み、神主になる講習会に出てもらっているという。
「イチ(ミコ)
」については、昭和
初期の記録から現代まで存在を確認できず、聞き取り調査においてもイチ(ミコ)について知る人物は
いなかった。
「氏子総代」は現在、村内でもめ事などがあれば、自治会から仲介役を求められるなど、地域内の実
質的な権力者にあたる。
「氏子総代」が現在のような、実質的な権力者たる位置に就いた正確な時期は
聞き取り調査でも明確にならなかった。しかし、これはかつて「オトナ」が祭政両面の実権を握ってい
た時の影響が現在も残っているものと考えられる。よって、
「オトナ」の職務内容はそのままに、名称
のみが「氏子総代」へ変化したという第 2 章での仮説が確かなものとなった。そして、
「昭和四年 大
和国神宮神社宮座調査書」
「六、宮座の財産會計と神社の経理経営上に寄与せる事例」の回答では、
「神
社の財産経理、会計等は年番か氏子総代に於て掌務し…」という文があることから、昭和初期には既に
「氏子総代」として神社の諸事に深く関わっていたことが分かる。筆者の曾祖父(1903年生まれ)が氏
子総代を務めた1967∼1971年には、「昔は10年15年と連続して務めることがあったが、筆者の曾祖父の
頃に負担を減らすため、今の任期( 1 期 3 年・連続で勤める場合は最長 2 期 6 年まで)に変更された」
(B氏 1933年生まれ 男性)という証言がある。また、 3 人の氏子総代内にも階級があり、一番下の者
は「墓守」、真ん中の者は「寺方」
、最年長者が「総代長」として神社のことに加え総括を勤める。
水間では年預のことを「年番(ネンバン)
」と呼ぶ。村の北部にある家から家並び順に、当番制で職
務が回ってくる。職務内容は、氏子総代の手伝い(下働き)であり、毎月 1 日に行われる月例祭やお宮
の榊の準備、境内の掃除などを勤める。戦前に廃止された「ドウゲ」と呼ばれた村小使が前身に当たる
と考えられ、その職務内容や、
「昭和四年 大和国神宮神社宮座調査書」
「三、往古より現今に至る慣行
又は特殊行事の詳細」の回答にある「往古より氏子三名宛、一ヶ年交代にて神社一般の事務に当たり毎
年二月一日に順次事務引継をなす。是を年番と称す」という文から、変化はほとんど見られない。
ドウゲに関する詳細はイチ同様、聞き取り調査の段階でも知る人物はおらず、
「かなり昔、江戸時代
くらいにはあったのではないか?」
(B氏 1933年生まれ 男性)という曖昧な回答しか得られなかった。
3 章 1 節で詳述した「当人」も年番同様、
「大正四年調 神社調査書」や「昭和四年 大和国神宮神社宮
座調査書」にある記述から変化がない。
第 2 章第 2 節で引用した『東山村史』の記述を、過去「株座が存在した」と捉えるならば、現在の水
12
資料 1 水間八幡神社2013年度秋祭りパンフレット(一部改変)
間八幡神社の祭祀組織は株座から村座への変遷を辿っていると言える。そして、このような変化は戦後
の農地改革や地方の過疎化・高齢化の影響が大きいと考えられる。聞き取り調査では「今まで何かしら
の役に選ばれるのは各家の長男のみとされていたが、今後高齢化や過疎化の影響で他所から村入りして
きた者が役に就く可能性も出てくるのでは」(A氏 1926年生まれ 男性)という声も聞かれた。実際に
数年前、他地域から水間の土地柄を気に入り、初めて水間地域に縁者のない家族が転入し、祭りに参加
している男性もいる。祭礼日の変更と同様、祭礼の担い手の減少により祭祀組織の形態が変化している
といえるだろう。
また『東山村史』では、
「宮座」という項目で祭祀組織の説明を行っているが、聞き取り調査を行っ
た結果、
「祭りを執り行う組織に名前はない」ということが明らかになった。
「宮座」という言葉は使わ
れるが、意味は「祭りの時に地域の人が集まるつまり座を持つ」というものであるとA氏(1926年生ま
れ 男性)とC氏(1944年生まれ 男性)は言う。その言葉通り、秋祭りのチラシの「本祭り」の欄には、
毎年神事として昇殿の次に「宮座」という文字が記されている(資料 1 )
。『東山村史』祭礼の章にも、
「神拝がすんで氏子が参籠或いは会所に集まって神饌の酒肴・御供餅を頂くナオラエ(直会)を座と
いっている」
〔東山村史編集委員会 1961;524〕という記述が見られる。しかし、F氏(1931年生ま
れ 女性)は、
「生児の当」が「宮座」であると言う。これは、現在では『東山村史』や個人の解釈が混
ざっているため、人によって「宮座」の言葉が指す意味が違ってきていると考えられるだろう。
また、
「昭和四年 大和国神宮神社宮座調査書」や「昭和十一年 祭祀並宮座調」にも、祭祀組織たる
「宮座」を指す記述は見られない。
「昭和四年 大和国神宮神社宮座調査書」の「二、宮座の由来、沿革、
13
変遷、規約又は之に関するもの」という質問事項の回答では、
「當社は何の地より覲請又は遷祀せられ
しか記録口碑に存するものなし」あり、「昭和十一年 祭祀並宮座調」においては、
「宮座はあります
か」という項目の「以下なし」という回答から、以下16項目全てが空欄になっている。しかし、両文書
共に「祭礼」の欄では現在と殆ど変わらない神役の勤めが書かれているため、これらの両文書から判断
すると、昭和初期から現代に至るまで、祭りを執り行う組織は存在したが、その祭祀組織を指す名称は
無かったことになる。
第 2 節 考察と今後の展望
本稿では、水間八幡神社の祭祀組織の変遷について、各神役の働きの変化に注目し検討してきた。こ
こで、第 1 章「祭祀組織の先行研究」で触れた「宮座」の定義について、再度振り返りたい。
肥後和男は『宮座の研究』にて、
「宮座と呼ばれる集団組織の目的」は「神事の遂行」にあり、
「氏子
全体がこれを組織している」と定義した。また、宮座の組織形態を血縁的な「株座」と地縁的な「村
座」に分け、双方の特徴を「名主・家筋などの特定の家々の人物だけが参入できる閉鎖性の強い組織形
態」と「一定の年齢、又は元服等の特定の儀式を済ませた村人であれば資格を獲得できる開放的な組織
。
形態」であると明記した〔肥後 1941;23─78〕
また、肥後の研究を基盤に「宮座の変遷」について研究を進めてきた福田アジオは、
「宮座」を学術
用語として定義する際の 3 つの留意点を挙げ、宮座を「ある地域社会の成員の中の一定の資格を有する
男子を定員制を設けて組織したもの」
〔福田 1989;12〕と定義した。更に、社会人類学の立場から宮座
の構造原理や存在機能について分析を行った高橋統一は、宮座という組織において「年齢階梯」という
構成的要素、「当家」という機能的要素の存在を重視した〔高橋 1978;10─11,254〕。
本稿で明らかにした水間八幡神社の祭祀組織の資料内容・聞き取り調査の結果を、以上の定義に照ら
し合わせると、水間八幡神社の祭祀組織は「宮座」であり、現在は「村座」の形態をとっているといえ
る。それは第 2 章第 1 節にも記述した「村入り」の内容からも読み取ることができ、肥後の定義する
「村座」の特徴である「一定の年齢、又は元服等の特定の儀式を済ませた村人であれば誰でも資格を獲
得できる」に当てはまる。また、本稿で扱った水間八幡神社の場合、高橋の義する「宮座の構成要素」
である年齢階梯や、当屋(家)の存在を確認できた。しかし肥後の定義に即して、祭祀組織の名称が
「宮座」であるかという点を前提にすると、
「宮座という組織は存在しない」という矛盾が発生する。
なぜなら水間八幡神社における「宮座」という語は、
「集まる場」という意味の民俗概念として用いら
れているからだ。つまり、同じ「宮座」という語を分析概念として用いようとするから混乱が生じてし
まうのである。
以上のことから、関沢まゆみ〔関沢 2005〕や市川秀之〔市川 2011〕などが指摘する、歴史性を排除
した分析概念としての「宮座概念」の再検討が必要となることがわかる。それゆえ筆者は、論文のタイ
トルに「祭祀組織」という用語を用い、これを分析概念として、「宮座」そのものの歴史性、地域性を
議論の俎上に載せようとした。それが成功しているかどうかは読者の判断に委ねたい。今後は、奈良県
の他の地域の祭祀組織と比較しながら、研究を進めていこうと考えている。
14
〔謝辞〕
本稿は、2013年12月に天理大学文学部考古学・民俗学研究室に提出した卒業論文に手を加えたもので
ある。また本稿脱稿後、2014年 2 月22日の「第 5 回 京都民俗学会卒業論文発表会」にて発表する機会
を得、フロアの皆様から貴重なご意見をいただくことができた。この場を借りて御礼申し上げる。
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15
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