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ロシアにおける遵法精神の欠如ー

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ロシアにおける遵法精神の欠如ー
ロシアにおける遵法精神 の欠如 1
法社会学 と経湊史の側面か ら見たロシアの基層社会
富
山 栄 子
はじめに
ロシアとのビジネスが うまく進展 しない理由として、 日本や米国の企業によって、中央 と地
方の行政上の不整合、マフィアによる犯罪、所有権 にかかわる紛争、高い税率 と税制の頻繁な
変更、官庁による規則ルールの変更、金融情報が入手 し難い、商法体系の未熟 さ、文化的 ・言
語的相違、通信 ・道路 ・銀行 ・港湾などインフラの未整備、未払いや遅延、口座の凍結、政策
担当者の額繁な変更、外資に対する不公平な行政や保証の欠如、抵当権の不備、企業間を調整
する法的機能の欠如、不安定な法制度 と、中央 と地方による法解釈の相違などが指摘 されて き
た 2。
国際協力銀行開発金融研究所の上席主任研究員である隅部 ノ
(
2
0
01
) は、ロシア啄府は市場経
済の基本が 「
信用」や 「
信頼」であるということを十分 に認識 してお らずロシア政府が信用 を
築 く努力 を怠って きたことカモ
、 日本企業が対 口直凄投資に慎重である最大の理由のひとつであ
ると分析 している。 また、かねてよりロシアの潜在力 に着 日し、経済交流 を進めてきた日本 ロ
シア経済委員会は、2000年 6月に 「ロシアとの経済交流 に関するアンケー ト調査」を会員企業
9
4
社 を対象 に実施 した。 うち2
9
社が回答 した同調査結果によると、「日本企業は依然 ロシアにお
ける遵法精神の欠如 に悩 まされている」 ことが明 らかになっている。 さらに、ロシアとの ビジ
ネスの最大の障害 として、法制度・
税制の未整備 を挙げている企業が最 も多 く、「
適用基準が不
」
」
」
明確で窓意的 「
法・
税体系 を把握できない 「
当局の指示通 り納税すると赤字になる 「
窓口が
最新税法 を把捉 していない」「
免税 を含む外資優遇措置が不備」等 と回答 している。経団連 日本
ロシア経済委員会の事務局長である杉本 (
20
01
)はこれを受 けて、「
制度の不透明性や運用の窓
意性 は、相変わ らず多 くの外国企業が指摘するところであ り、行政の不当介入やマフィアによ
る妨害、加 えて西側 とは異なるビジネスモラルなどが、外国企業の経済活動
を阻害する要因と
I
して存在 している」 と、分析 している 3。
筆者は、ロシアに市場経済が一向に根付かず外国 とのビジネスが うまくいかない理由は遵法
精神が欠如 していると言われている低信頼社会 とい うロシアの 「
基層社会」か らくる 「
連続性」
に原因の一端があることをこれまで指摘 して きた 4。 しか しなが らなぜ ロシアでは、法体系が
-25-
未熟でかつ不安定で矛盾 してお り、規則ルールが頻繁に変更され、制度が不透明で運用が窓意
であ り、「
信用」や 「
信頼」が欠如 した低信頼社会であるのか、なぜ ロシアでは遵法精神が欠如
していると言われているのか、それが どのような理由に起因するものなのかに関する分析や考
察は行っていない。ロシアとの経済関係 に関す る調査論文はロシアとのビジネス上の問題点を
指摘するにとどまり、なぜ このような国になったのか というロシアの 「
基層社会」を探究する
視点が希薄である。 しか しなが ら、この間題はロシアとの経済関係 を活発 にしてい く上で非常
に重要な問題である。
一方、 この間題に関 しては法社会学、経済史の観点か ら、多 くの既存研究が存在する。 しか
し、 このテーマは筆者の専門外である。 従って、本稿では主 として日本語文献 に依拠 しつつ、
なぜ ロシア社会が上述のような社会になったのかについて、歴史的に遡 り分析 ・考察を行 うこ
とを課題 とす る。
歴史的に遡 って分析 ・考察を行 う理由は、現代社会 昼、社会的 ・文化的 ・宗教的 ・法的な規
範を土台にした 「
基層社会」の上に成立 してお り、一
経済学の領域のみではロシアを分析するこ
とは不可能であると筆者が考えるか らである。 経済学は法律や制度が外生的に与えられたもの
として捉 え、それを所与 として経済の効率性の問題 を考える傾向にある。 経済環境や制度が安
定 している状況においては、そうした分析手法 も意義があるのであろうが、ロシアのような不
安定な環境においては経済環境や制度における分析手法 としては適当とは言えまい。 また、柳
2
0
0
0
)が指摘するように、経済学、 とりわけ ミクロ経済学の基礎 は市場取引であるとされ
川 (
ている。そ して、 ミクロ経済学の教科書では、財や生産要素について、簡単に市場取引が可能
に行われるように書かれている。 しか し、現実には様々な法律 という市場経済 システムを支え
る制度に支えられて市場取引が可能になっている。法制度によって法的責任や権限を明 らかに
し、それを裁判 システムによって守 られてい くことが市場取引には必要である。 その意味で、
「
法の支配」 という制度は、現実の市場取引、市場経済を支える基盤 と言える。近年、法律問
題は経済学において も重要な検討課題 となってお り、柳川 らによって法律 に関する経済学者に
よる経済分析 も行われている 5。 ロシア社会の分析 も同様 に、法律や経済史の知識 を用い̀てそ
の特徴 を再認識する必要があろう。経済の相互依存 は政治、
社会的分野の要因を内包 してお り、
経済分析 にあたっては政治、社会、文化などの総合的観点を含めた分析が必要 になって きてい
る。安定 した民主主義体制が構築されず政治的混乱 に陥っているのは政治 と法文化的な要因が
複雑に絡んだロシア的な政治文化経済社会上の問題 とも言えるのである。
1.法文化
近年ロシアでは 「
法文化」という用語が用い られるようになったが、森下 (
1
9
9
7
)によると、
もともとロシアの文献では法文化 という言葉は使われていなかった。それが、ペ レス トロイカ
期以後、用い られるようにな り、「ロシアでは法文化が遅れている」とか、「ロシアには法文化
-2
6
-
がない」 といった文脈で使 われてきた。 ロシアにはロシア独 自の伝統的法文化がある、 といっ
た意味では用い られてこなかった という。 つ ま り法文化は1
0
0
0
年あまりに及ぶヨーロッパの中
世封建制の中で発展 したものであ り、ロシアが これか ら導入 しなければならないもの として認
識 されているという。
1
-1
.西欧における法の支配
そ もそ も、鈴木 (
1
9
9
3
)によれば、法 も正義 も西欧文化圏において1
0
0
0
年あまりの歴史の中
で発展 した概念であ り、多 くは自然法思想 といわれる法思想 として発展 してきた。 自然法 とは
特定の法社会 において人為的に形成 される実定法 に対 し、人為 に関係な く自然的に存在 し妥当
すると想定 される法を指す。実定法が法社会 によって内容 を異にするのに対 し、「自然」に基礎
を置 く自然法は不変的かつ普遍的に効力 を有する法である。 実定法以外に法規範を認めない法
実証主義は、自然法の存在 を否定する。 森下 (
1
9
8
8
)によると、「
法治国家概念の本質は、それ
以上に、実定法体系 を指導する原理 としての一般的 ・普遍的な正義の存在 を認め、権力者 (
立
法者)もそれに拘束 されるべ きだ とする自然法的概念 に立脚する点にある (
傍点は引用者)6。」
自然法は理論的にマルクス主義の対極にある思想で、キリス ト教文化圏の中で形成された経験
的人知の成果で、 この法思想は、ローマ法の法典 を具体的に適用 し、解釈する法学、哲学 とし
て1
0
0
0
年の歴史を持つ。ローマ法は、ローマ時代 に完成 した人類最初の総合的な市民法典であ
る。 ローマ法は古代 ローマにおいて高度に発達 した市民社会的経済活動 をめ ぐる慣習、判例 を
集大成 してお り、
法典化 という法技術的特色 に示 される法的合理主義の結集である。「
市民社会」
とはここでは市民階級 を中心 として成立 した社会で、 自由 ・平等 ・独立な近代的な個人が取 り
c
t
as
u
nts
e
r
va
nda
」は、ローマ法以来
結ぶ民主的な社会 を指す。「
契約 を守 らねばならぬ -Pa
の契約成立の基本的原理であ り、それが近代市民社会の法原理に到達するまでに様々な歴史的
経緯があ り、それ自体が社会の発展の歴史であった。ローマ文明がローマ法、すなわち規律 と
秩序の観念 を生み出 した 7。 ローマ法の発展史は同時に、法秩序 を高度に維持する先進社会の
発展過程のバ ロメーターで もあった。ローマ法の存在が明 らかにな り、その法典のもとで社会
発展が可能 と理解するにいたったのは1
2世紀以降である。 ローマ法教育、そのための大学の創
設をひとつの文明発展度のバ ロメー ター とすることは法史学の通説である。 そ して、1
2-1
6
世
紀 までにカ トリックお よびプロテス タン トの文化 圏に大学が設立 され、ローマ法が継受 され
た 8。東方正教国の中では、最古の大学であるモス クワ大学が1
7
5
5
年にようや く創設 されてい
る。大学創設史か らも明 らかなようにロシアに代表 される東方正教文化圏は西欧的合理主義の
象徴であるローマ法文化の継受をお くれてスター トさせている。 ローマ法文化 という規準でみ
ると、東方正教の文化圏の社会発展への後進性が明 らかになる。西欧では法の支配という伝統
が基礎 にあったか らこそ、立憲主義が生 まれ、専制的な権力の行使 に対する財産権 を含めた人
権の擁護 という考え方ができあがったが、他のほとんどの文明では、思想や行動を形作 る要因
-2
7
-
としての法の重要性ははるかに低かったという9。
ト2.西欧 と遵法精神
社会の もつ法にかかわる伝統的な思考様式や行動様式1
0
」を考察す
ロシアの 「
法文化」- 「
るに際 しては、それを 「
非西欧法」の一つ として捉 える必要がある。米国の政治学者ハ ンテ ン
トン教授は 『
文明の衝突』の中で世界には 7つまたは 8つの文明圏が存在 し、これ ら文明圏は
西欧 と非西欧に二分 され、ロシアは、非西欧文明圏に属すると主張 している。 彼の論点は民主
化 にあ り、ロシアには西欧文明の独特な特徴のうち、宗教、言語、政教の分離、法の支配、社
会的多元性、議会、個人主義が、その経験か らほとんど完全に欠如 していたため、民主化がな
されなかったと分析 している11。 本論の焦点はロシアにおける遵法精神が欠如 していると言わ
れている問題の解明にあ り、民主化 にあるものではない。 しか し、遵法精神 とはそもそも契約
を遵守することであ り、法の支配に関わることである。西欧諸国には 「
契約を守 らなければな
らない」 というローマ法成立以来の契約の基本的原理があった。そ して、一般的 ・普遍的な正
義の存在 を認め、権力者 (
立法者) もそれに拘束 されるべ きだとする自然法的概念に立脚 した
法治国家であった。法治国家である西欧 と何が異 なるのか という 「
非西欧」の視点で、ロシア
における遵法精神の欠如 と言われている問題 を考察することが必要になってこよう。
1
3.ロシアの法文化
ロシアにおいて遵法精神が欠如 していると言われている問題、その伝統的な行動様式 は現在
20
01
)によ
に始 まったことではな く農村共同体の時代か ら指摘 されていることである。栖原 (
1
9
90)は帝政時代の法意識について、「
農民は、隣人や親類 を欺 くことは不道
ると、ミロノフ (
徳なことだと考 えたが、
政府の役人や地主を編す ことは別物 とみなした。-・
隣人か ら物 を盗ん
だ り、耕作地の境界を守 らなかった り、あるいは共同体の森の木を許可な く切って しまうこと
は、不道徳なことであったが、地主の果樹園か ら果物 をとった り、貴族や政府が持っている森
の木 を切った り、地主の土地 を無断で耕作することは、道徳上の非難にはあた らなかった12。
」
と書いている。 これは共同体内の規律 には従 うが、共同体外の人であるツァーリや役人の決め
1
9
97
) によると、「
資材補給の中
た法 は無視する農民の姿である13。 ソ連時代 については谷江 (
断や不揃いのために企業が挽業停止に陥ることが珍 しくな く、それが他の関連企業に次々と波
及 してい くといったことがなかば常態化 していたが、 これ と関連 して企業が賄賂 とコネ、ある
いは合法 ・非合法の 「トルカーチ (
補給促進係)の大群」によって中央か らの割当資材の入手
促進 をはかった り、他の企業 との裏取引やヤ ミ市場で横流 し資材 を調達するといった現象が存
在 したことは周知の事実であった。また、当局 との馴れ合いで報告でつ じつまをあわせること
も頻繁に起 こっていた。-・この他 自分が働 く企業の資材や製品の盗み、
私的工場での闇の生産・
販売 ・-勘定水増 し工作 による横領、賄賂 ・--ときりがなかった14」 と書いている。ソ連時代
-2
8-
の人々の行動は、 このように、あたか も企業の物を自分の物 と見なし、国家が制定 した法 を完
全 に無視 して きたのである。
1
4.法文化生成の論理
1
997)によると、日本 における法学教育の 目的 とされている「リー
そ もそ も「
法文化」とは森下 (
ガル ・マイン ド」 に近 く、.
人権や個人の自主性 ・主体性、法主体間の平等性 を尊重 し、社会関
係 を権利 ・義務関係 として把握 し、抑制 ・均衡 とフィー ドバ ックのメカニズムの上に立って合
1
997)
理的でバ ランスの とれた思考 と行動 を行 うことであるという。 この観点にたてば、森下 (
が指摘する法の無視、法律概念の不明確 さ、役人の横暴 ・愚鈍 ・無責任、裁判所 よりも検察機
関といったロシア独 自の伝統的な法文化は、「
非法文化」 (
傍点は引用者) と呼ぶべ きものであ
るという。
1
997) によると、市場 と契約関係の発展の上に成立する。市場経済は一定
法文化 は、森下 (
の法則性 を生み、かつその法則性 によって支配 される。 市場の交換行為 は、市民が担 うが、そ
の法則性が市民 にとって経済的強制 とな り、規範意識を生む。つ まり市場 においては等量の価
値が交換 されるという等価交換の法則が、その担い手 としての市民においては、契約を媒介 と
して等価 を交換 しなければならない という規範意識 を生む。そ して、 自由な商品交換が、その
担い手 としての自由で独立 した市民を生む。 また、商品交換 を行 う市民は、商品に対する権利
の所有者でなければならず、こうして私的所有権 をは じめ とする諸種の権利概念が明確 にな り、
社会関係全体が権利 ・義務の関係 として体系化 される。商品交換 は相互的であ り、商品所有者
は他の属性か ら独立 して交換主体にな りうるか ら、そこに平等原則が基礎付けられ、 自由 ・平
等の自立 した法主体が ここに生 まれる。 市場の 自由な経済競争の発展の過程において、国家は
消極的な位置づけを与 えられ、市場の自由な経済競争の発展の過程において、国家は市民の自
由な活動に介入 しない よう求め られる。 これが市民的自由の発展の基礎 となる。 市場経済の法
則性の獲得 (
自動的に自己展開する近代的な資本主義経済の成立)は、 自立的な市民社会の成
立を意味 し、そこにおける市民 は、イデオロギー的な転倒 を通 して、国家 に先行する 「
生 まれ
なが らの自由かつ平等の人間」 と観念 されることになる。 同時に、人 とその形成する市民社会
の先行性の論理は、そ こに生 まれる 「自治法」の国家に対する先行性の観念を生み、そこに国
家 もまた法に従わなければならないという法治国家の理念が基礎付 けられるという。
すなわち、
市民社会 と法治国家の二元的構成が、近代社会の基本構造 となっている。市場経済の下では、
自由な経済競争によって商品の価格が決 まり、その価格 を基準に、資本 と労働力の合理的配分
が 自動的に実現 される。 ここに見 られる均衡 とフィー ドバ ッグの精神及びメカニズムが、権力
分立論の リベラルな権力構造原理を生み出す根拠 となる。近代市民社会は、契約法を発展 させ
ると同時に、共同体の もとで存在 して きた法にも契約原理を浸透 させ ることによって、それを
近代的な法へ と改編 し、法体系全体が契約原理で再構成 されてきた150
-2
9-
2.ロシアにおける法文化の歴史
それではロシアの歴史において、市場 と契約関係は発展 し、市場の交換行為 は行われ、市民
社会は成立 したのであろうか、 自治法の国家に対する先行性の観念、すなわち国家 も法に従わ
なければならない という法治国家の理念がロシアでは存在 したのであろうか、オー トマティッ
クに自己展開す る近代的な資本主義経済は成立 したのであろうか、これ らの点について西欧 と
比較 しなが ら、その歴史を年代別に、検証 してい くことにする。
2
-1
.1
6
-1
9
世紀初頭のロシア
1
6
世紀以前のロシアは、佐藤 (
2
0
0
1
) によると、 しばしば封建的な分裂状態 にあ り、 リュリックの子孫たちか らなる 「
大公一公一 ボヤール16」の身分的位階制によって支配される大小
6
世紀末にイヴァン雷帝の下で統一国家が形成 された。 しか し、・
の諸公国か らなっていたが、1
ヨーロッパの絶対王政 とは以下の点で異なっていた
。
第 1に、 ヨーロッパの封建制は相互に私的な関係にある 「
王-諸侯-騎士」の間の レ-エ ン
契約関係17に基づいたものであった。 レ-エ ン (
封土)の授受を伴 う主従関係 は、 自由人 と自
由人の間で結ばれる関係であ り、従士 (
家臣)だけが義務 を負 うのではな く、主君の側 も法的
拘束を受けるという意味で、双務的であった。主君が不当な要求を強制するとき、従士はそれ
に服従する必要がないだけではな く、従士はそれに抵抗する権利、むしろ義務 さえ持っていた。
こうして、ヨーロッパでは 「
誠実」が、従士のみならず、主君にも要求 される倫理的態度 となっ
ていた。
一方、ロシアでは、封建的な支配者たちは契約関係ではな く、相互に血縁関係 にある者たち
の集団 (
リュ- リコヴイチ)であった。その後 に成立 した絶対主義では、ツァーリが無制限の
ち
つろく
専制君主であ り、土地貴族は君主に対する勤務 を条件 として土地を秩禄18として一代限 りで授
与 される官僚以外の何者でもなかった。そ して、農地 ・農奴は持ち主の貴族の意思によって売
買 された。ロシア皇帝 も含め、ロシアの貴族 と農民の間には契約関係 はな く、農民は貴族の私
物だったのである。 このように、ロシアでは領主権力はヨーロッパの封建領主的発展 をなし遂
げず、家産官僚的性格 19を持つにとどまっていたのであ り、契約関係は発展 しなかったのであ
る。
第 2に、西欧の中世村落では7-7ェ制が成立 してお り、農民の小家族は 1フ-フェの土地
(
屋敷地 と耕地)が分与 され、それを相続によって子孫 に伝 える権利 と義務 を持つ世襲地保有
制であった。 これに対 し、ロシアの村落にはこのようなフ-フェ制が欠如 してお り、1
7世紀以
降、土地共有 と均等的な土地割替に特徴づけられる村落共産主義的な土地制度が形成 されてい
た。
肥前 (
1
9
8
6
)によれば、西欧では、7-フェ制度に基づ く土地配分は個別農家の諸事情、人
ー
30-
数、年齢別、性別構成、その他に基づ く耕作能力や土地需要の相違 を勘案せずに、形式的に平
等に行われた。経済的な観点か らみれば不合理なこの ような 「
法的な観点」の優先はアジア的
共同体の土地配分には存在 しないものであ り、 ヨーロッパに固有の法 -権利意識の所産であっ
た。そ して個別農家 はフープェといった再生産の諸条件 を永続的に我が物 として経営の主体 と
なった。農民のフ-フェ制度 (
-私有財産)の成立 と法によるその擁護によって、労働の果実
が我が物にな りその安定性が保障された。すなわち個人にとって働 きがいのある社会になった
のである。そ して、「
祈 りかつ働け」という勤労観、労働の理念が封建的自営農民の労働 を支 え
てきた。こうしてフ-フェ制度に基づ く封建的自営農民が成立 した。換言すると、形式的平等
の土地配分原則 に示 されるような農民の法 -権利意識が成立 し、農業生産力の向上 をもた らす
経営の理念が成立 した20。 この領主 -農民関係 は、誠実の上 に築かれた双務関係の性格 を帯 び
ていた。 これが レ-エ ン契約関係へ と発展 し、領主権の従臣に対する窓意的な乱用が抑制され
たのである。
一方、ロシアでは長 く農村共同体 ミールが存在 していた。耕地はミールの共同所有の下にお
かれ、個別農家の諸事情 を勘案 して、実質的平等原則の下に配分 された。個別農家の諸事情が
変化 し、それに伴いその耕作能力や土地需要 に増減が出て くると、土地が定期的に割替えられ
た。特定の農家 と特定の耕地の永続的な結びつ きが存在 しなかったため、封建的自営農民は未
成立で、怠け者の農民が得 をし、勤勉な農民が損 をした。ロシアにおける基本的な階級関係は、
国家 とミール共同体 との直接的関係で、貢納制的な階級関係であった0
マ ックス ・ウェーバーは、 ロシアの ミール共同体 における定期的土地割替制度 と対比 して、
ドイツ中世村落におけるフ-フェ制度を 「
経済的な理由ではな くて、ある法的な観点一耕地に
対する仲間たちの平等な持分権 という観念-」を持 っていたと分析 している。 フ-フェ制度に
よる平等な分配 とい うのは純形式的な原理で、「
形式は窓意の敵であ り、自由の双生児である」と
述べている21。 西欧では中世の7-フェ制度による形式的平等原則、すなわち、非人格的、純
形式的なルールの存在が経済発展 をもた らした。そ して、商品経済の発展が、法の効用 を認識
させ、それが商品経済をさらに発展 させてきたのである。
これに対 して、共同体の もとでは法は発展 しなかった と森下 (
1
9
9
7
) は述べている。なぜな
らば共同体 においては、人間関係は全人格的な関係であって、権利 ・義務関係 という狭い枠 に
閉 じ込めることは忌避 きれ、私的所有 も商品交換 と契約の自由も部分的にしか発展 しない。共
同体においては、法体系の中心 を占め、その上 に法文化が開花するはずの私法 (
対等な私人間
の法律関係 を規制する法、民法、商法等)が、存在根拠 を失 うか らである。ロシアでは均等的
な土地割替えによる実質的平等原理によって商品経済が発達せず、形式的なルールは嫌悪 され
1
9
9
7
) の研究によると、成文法 より農民の
「
実質」が重視 された。例 えば、農村では、白石 (
慣習法の方が圧倒的に優勢だった22。 これか らもわかるように、法の支配の原則の一つは形式
的手続 きの重視であるが、 ロシアでは実質的平等が重視 され、そのため法ニヒリズムが育 まれ
-
31 -
て きたと考えられる23。
2
2
.1
9
世紀初頭から2
0
世紀初頭 まで
0
世紀初頭にいたるまで、専制 と村落共産主義の本質的な特徴が維持 さ
その後、ロシアでは2
れた。佐藤 (
2
0
0
1
)によると、「
専制」 は次の点に明確 に現れていた24。
第 1に、行政では、ツァーリが任命 ・罷免がで きる各省の主務大臣は存在 したが、首相 とそ
の閣議は存在 しなかった。それに代わる機関として大臣委員会なる組織が認め られていたが、
ツァーリが事実上、行政権 を持ってお り、親政 を行っていた。第 2に、立法では、国家評議会
という組織が存在 していたが、近代的な立法機関ではなかった。それは、国家評議会の議員及
び議長は、ツァーリに任命 ・罷免権があった上、ツァーリにのみ法案の提案権があったためで
ある。そ して、国家評議会で審議 され、議決された法案はツァーリの裁可 (
「
裁可する」という
文言 と自筆署名)があった場合 にのみ、法案 として元老院に送付 され、公布 された。 このよう
に、国家評議会は皇帝の純粋 な諮問機関で しかなかった。 さらに、ロシアの法体系では、結社
の自由、良心の自由、出版物の自由などが認め られていなかった。 したがって、 自由と権利 を
実現するために自発的に結成 された政党は、 どの ような傾向の政党であれ、弾圧 を避けるため
に、秘密結社 とならなければならなかった。
このように、行政 ・立法 ともにツァー リが行い、ツァーリの法があらゆる法 よりも上にあっ
たのであ り、立法者 も法 に拘束 されるべ きという自然法的概念に立脚 した法治国家ではなかっ
た ところが重要である。そ して、 ツァーリ専制であったため、市民社会 も貧弱であった。司法
1
9
9
7
)の研究によると、1
8
6
4
年の司法制度の改革 まで七 シアには独立 した司法
制度 も、白石 (
がな く、司法は行政の一部門にす ぎなかった25。
その後 、1
9
0
4
年に日露戦争が始 まり、ロシアが 日本海の海戦で破れると、首都 における政治
運動が激 しくなった。専制に対立 し、 ヨーロッパ的な意味の自由と立憲制を求める政治運動が
登場 した。その中にはリベラル派 ・立憲派 (
人民 自由党、カデッ ト) と社会民主派 (
ポリシェ
ヴイキとメンシェヴイキ派)があった。 この他、農民大衆が求めた土地改革を支持するエスエ
ル派 (
社会革命派) もツァーリズムに敵対 した。そ して、1
9
0
5
年革命の十月闘争は、ペテルブ
ルク労働者代表ソビエ トの指導の下、広範な市民層の参加 を得て闘われ、◎市民的諸権利、②
選挙権の拡大、③国会の立法権 を約束 した十月勅書 を勝ち取 り、ヴイツテ内閣の成立を導いた。
その後、各地で市民的諸権利が 自然発生的に獲得 され、政府はそれをなす術 もな く見守ってい
たが1
2月にモスクワで挑発的な武装蜂起が起 こり、それが軍隊に鎮圧 されたのをきっかけに、
風向きが一変 し、政府は断固たる反動の方向- と旋回した。 しか し、ロシアは債務国であった
ため政府の反動化はあか らさまに現 さず、
債権者であるヨーロッパ諸国の国際世論 に配慮 した。
ロシア政府は、国内的には反動政策をとる一方、対外的な配慮か ら一定の譲歩政策をとり、外
見的立憲制への移行を図った。それは、一方で市民的諸権利 を約束 しつつ、他方ではそれを官
-
32-
僚の 「アジア的術策」によって空洞化 して しまう政策であった。換言すると、西 ヨーロッパ市
民革命の基本理念に高められたような類型の法 -権利 (レヒ ト)を好外的に約束 しつつ、対内
的にはこれをロシアに伝統的なアジア的な家父長制的家産官僚の窓意、法 -行政規則 (レ-グ
ルマ ン)の下に抑えこもうとす るツァー リ専制の 「
外見的立憲制」への移行であった26。
帝政 ロシア末期のヴイツテやス トルイピンの政府は、
土地共有 を廃止 し個人所有 をうみだ し、
農地の分割 ・細分化 を防 ぎ、農村過剰人口の問題 を解決する政策を行い、近代的な経済を生み
出す基礎構造を創出 しようとした。 このようにして、権威主義体制を維持 しつつ、他方で資本
主義経済の基礎 を創 出 しようとしていたのであ り、開発独裁が帝政ロシアの末期 に生 まれてい
た。 しか し、カデ ッ トや社会民主派、エスエル派の革命諸派 -民主派はこうした政策を拒否 し
た.カデ ットは一方で自由と権利 を要求 し、他方で村落共産主義の維持 を求めたのである。 そ
の一方で、ロシアで地方 自治 と市民的自由と議会政治の面で最大の貢献をしたのは、カデッ ト
とその周辺の自由主義者たちである。 法の支配、憲法制定 と国会開設をめざした彼等の運動は、
人類の進歩の道 に沿ったものであった。 しか し、専制政治が延々と続 き、統治者 と被統治者の
双方に法意識が薄かったロシア (
傍点は引用者)では、「
法の支配」を求める西欧派 自由主義者
の運動は、国民全体の中では大 きな広が りを持つのは難 しかった 労働者は 「
市民的民主主義」
。
よりもマルクス主義の影響 をより強 く受け、農民は共同体的な農業共産主義を体現 していたた
め、専制への反対勢力 とはなっても、立憲民主主義の支持者 とはな り得なかった。カデ ッ トは、
法の領域 における問題提起 において余 りにも 「ヨーロッパ的」であったために、ロシア社会に
定着することができなかったのである27。
ス トルイピンの土地革命の結果28、1
9
1
6
年 までに全 ヨーロッパ ・ロシアの農家の約 4分の 1
が共同体か ら離脱 した。そのなかの比較的富裕な農民が資本主義的経営を行って、ロシアの穀
物生産 と輸出を増大 させた。 ところが1
9
1
8
年の土地改革 によって、ス トルイピンの土地改革の
成果 (
私有化)は無に帰 し、村落共産主義が強化 された。
このようにロシアでは佐藤 (
2
0
0
1
)によると、ス トルイピンらの土地革命 (
私有化)が唯一
資本主義経済の発展 を準備する ものであった29。その土地革命 も1
9
1
8
年の土地改革によって無
に帰 され、村落共産主義が強化 されたのである
。
したがって、ロシアにおける発展 した資本主
義の実験 は、ある意味では1
9
9
2
年が初めてである。 ロシアの基層社会には資本主義を排除する
要素、すなわち村落共同体 による村落共産主義があ り、それを民主派のボリシェビキが擁護 し
ていたことが重要である。そこには、市場の交換行為 も、市場 と契約関係の発展 もな く、私的
所有 も、商品交換 と契約の自由 も発展 しないか ら、法体系の中心 を占める私法の存在根拠はな
かった。個人は共同体 に埋没 し、権利 ・義務関係の主体 にはな りえなかった。法的思考は忌避
され、道徳的諸観念が共同体の秩序 を維持 していたのである。そ して、共同体の上部構造 とし
てのツァー リの専制国家 は、窓意的な官僚支配 とな り、伝統的なアジア的な家父長制的家産官
僚の慈意、法 -行政規則 (レ-グルマ ン)で住民 を抑 えこんでいたのであ も 30。
-33-
3.社会主義的法治国家論
3
-1.社会主義時代の法治国家の概念の否定
1
9
95)によると、資本主義否定の政治経済体制 として誕生 した。
その後、社会主義は、岩田 (
資本主義の需給調整 は 「
市場」を通 して行われるのに対 し、社会主義体制下では 「
経済計画化」
すなわち 「
非市場経済」 によって需給調整が行われた。社会主義の体制的成立は、資本主義、
す なわち 「
交換」の 自然発生的文明化 ・機構化 によって先行 され、触発 された 「
再分配」と
「
互酬」 とい う社会的統合パ ターγの文明化 ・
機構化 を合意する社会 システム機構である。「
交
換」の経済 メカニズム化 は、 自然発生的な長期 プロセスの果実であったが、「
再分配」や 「
互
酬」の経済 システム的自立化 は、主体的・
思想的・
意識的行動の被造物である (
傍点は引用者)。
それは自然の果実ではな く、
作為の成果である。
現代社会主義体制は、
近代資本主義の市民社会 ・
経済社会の外部に組織 された革命党 として、成立 し、展開した (
傍点は引用者)31。 それはオー
トマティックに自己展開もせずに、近代的な資本主義経済 とは裏腹の非市場経済、つまり近代
資本主義の市民社会 ・
経済社会の外部に組織 された共同体 (
傍点は引用者)の成立でもあった。
ソビエ ト法制の基軸的原理 としての 「
革命的合法性」ない し 「
社会主義的合法性」法理は、
森下 (
1
988) 及び桧下 (
1
993) の研究によると、国家の緊急 に際 しては政治権力が法を超越す ー
るポテンシャルを常 に持つことを正当化する法理であった. ここら
言は、本来、法を破 る権力の
政治的 「
合 目的性」 と法を守る 「
適正性」 との両モメン トの対立、あるいは論理的矛盾が内在
していた。 この ≪
正統≫法理論は、「
法は権力の命令である」という権力主義的 「
法」把握にあ
り、非常緊急性 を常在化する 「
革命」の法理論であった。例えば、1
960年当時のヤ ミ ・ドル買
いに対 し、検察長官のロマ ン ・ルデンコは、フルシチ ョフに対 して、死刑 を科す法的可能性が
な く、法の遡及的適用はで きない と説明 した。 これに対 してフルシチ ョフは 「
我々が準の主人
であ り、法が我々の主人なのではない。 しか もこれはブルジ ョア国家ではな く、ソビェ ト国家
の事件である。
」 と論 じ、死刑罪 (
旧ロシア刑法典88条)の遡及的適用 (
1
961
年)を、本来、新
たな法創造 を行 うべ き命令ではない最高会議幹部会令 (
uka
z
)の発令 によって行い、遡及的に
死刑 を適用 した32。 法制度の体系性 は、規範論理 に基づ く法的合理性 によって整合的に保証 さ
れていた。 この法体系の論理的 ・合理的整合性 を破 る権力の政治的 「
合 目的性」がつねに伝家
の宝刀的ポテンシャルを持ち、法制度の体系基軸たる第一義の 「
合法性」原理は存 し得なかっ
た。社会主義的合法性概念の最大の陥葬は、法 を守るべ き主体の中か ら、法 を作る人々 (
機関)
が除外 されていたことにある。そこには、法を作 る人々である党 と国家の最高指導部は論理的
I
に法 よりも上位 にあることになるか ら、法に拘束 されない という理屈が存在 していた (
傍点は
引用者)。 さらに、「ソビェ ト」方式は、立法機能 と執行機能 との 「
有機的統一」 を特質 とし、
I
権力分立を体制的に拒否 して きた (
傍点は引用者)。 この国家権力の統合的単一形態が、尊命の
緊急状況にあって全権力の機動性 を維持することを可能にした。「ソビェ ト」
社会主義体制は、共
-
34 -
産党の 「
指導」の もとに勤労者代議員 「ソビエ ト」の民主的立法機能が形骸化 ・
空洞化 し、「ソ
ビエ ト」執行機関の行政機能が異常肥大 し、国民か ら離れ、社会 を窒息させる 「
行政的 ・指令
的」党官僚の牙城 と化 したのである33。 森下 (
1
999) によると、大統領令 (
ukaz) は、社会主
義時代 には、最高会議幹部会令を、帝政時代 は皇帝の勅令 を意味 した。立法権は最高会議に帰
属 し、同幹部会は法律 を制定で きなかったが、最高会議による追認 によって法律 を改正するこ
とはで きた。それ とは別 に幹部会は無限定で 「
幹部会令」 を公布で きたので、幹部会令 によっ
て事実上頻繁に立法がなされていた。最高会議は稀 にしか開かれず、その閉会中は同幹部会が
最高会議 を代行することになっていたか ら、この ような実務が公認 されていた。「
権力分立」原
則 に代わるこうした 「
権力代行」原則は、社会主義時代の権力機関の相互関係 を規定する重要
な原則であった34。
近代 「
法治国家」論は、松下 (
1
993) によると、国家権力の行使 に、国民の意思の表現たる
法の枠組 を設定 し (
合憲性 ・「
法の支配」)、権力行使 の正当性の根拠 をその適法性-合憲性 にす
え、国家権力行使の合憲性の もとで、
個人の基本権 を保障する民主主義を骨子 とする。
民主主義 ・
個人基本権の保障、合法性の三位一体 は、民主的立憲政治あるいは近代立憲主義の原点にはか
な らない。 これに対 して、
ソビエ ト社会主義体制の政治 と法制の特質は、(1)国家権力の分立
を拒否 して全権力の機動的な発動 を可能 とする 「ソビエ ト」権力方式、(2)議会制民主主義に
拠 る複数政党制を拒否 して、共産党の全体主義的な一党独裁制、(3)法を超越する権力の発言
革命的合法性」法理にあった35。 立法
をポテンシャルとして内蔵する 「
社会主義合法性」= 「
1
871
年 3月、民衆蜂起 によっ
権 と,
執行権の一体化 については、マルクスが、パ リ・コミュー ン (
て樹立 されたパ リの自治政府)に対 し、「
そのなかで労働の経済的解放を成 し遂げるための、つ
いに発見 された政治形態」と評価 し、その世界史的意義を解明 し高 く評価 した。マルクス・レー
ニ ン主義者 はこれに影響 され、 コミュー ンをロシア革命に先行す る 「プロレタリア独裁」の革
命政府 と規定 した。マルクスに影響 された レーニンは1
905年革命で出現 したソビエ トを高 く評
価 し、その後、ソビエ トを社会主義国家の政治形態の基礎 にしたことが影響 している36。
3
2.ソビエ ト法の特質 と混乱-全体的法社会の法理
社会主義社会では、鈴木 (
1
993) によると、マルクス ・レーニ ン主義に基づ く唯一の合法政
党である共産党が支配する社会で、すべての社会的秩序、法の源泉は党にあるとされて きた。
すべての国家権力の行使は党の決議、解釈が最終的な法 となっていた (
傍点は引用者)。国家あ
るいは社会の命令、決定を行使する下級の執行機関は、裁判官か ら警察官にいたるまで党の上
位機関の指示 によって行動 し、義務 を果た していた。いかなる種類の政策決定にも党以外の意
見が反応することは現実にはなかった。 こうした階級支配、
すなわち党組織 による全国家機関、
全社会の完全な一枚岩的支配体制は、分権的な市民社会の政策決定 とは異な り、多元的な社会
的要因、諸現象などを考慮する必要がな く画一的で形式的であった。 この ように社会主義的法
-3 5 -
治主義は、西側でい う法の支配 という意義 とは大 きく異なっていた37。
これに対 し、資本主義社会では、森下 (
1
98
8) によると、実定法は最低限のルールを定める
に止まり、あとは市民社会の自治に委ね られる。そこでは実定法は社会関係の一部を規律する
にす ぎない し、市民は実定法に抵触 しないように、法律体系の外で生活 している。人間は実定
法 と接触 をもたないことによって、実は 「
法」 を実現 していることになる。 このような社会を
「
部分的法社会」 という。それに対 して社会主義社会は 「
全体的法社会」である。 そこでは人
間の意思が社会全体 を合理的に編成 ・運営するため、社会は実定法の 目で覆い尽 くされること
になる。ソビエ ト社会はすべてを些細な点に至 るまで規則で取 り締 まろうとした。全体的法社
会では、市民は法律 に触れないように生 きるのではな く、法律 を積極的に実現すべ く法律のな
かで生 きなければな らない。だか らこそ、ソビエ ト法は、行為の実現 を命 じていた。資本主義
社会の市民は 「
法に抵触 しないように」生 き、社会主義社会の市民は 「
法か ら逸脱 しないよう
に」生 きた。ソビエ ト社会はすべてを法的に包括す る完壁な法体系 を求める心理が働 きやす く、
ソビエ ト法は、 日常生活の些細な問題にまで介入すると同時に、社会全体 を統合的に総括する
原理であった。加 えて、ソ連では何が生 きた法であ り、何が死んだ法なのか誰にも区別で きな
かった。死んだ法令 も、役所の窓意的判断でいつ生 きかえるか もしれない。事実上死んだ法令
ばか りではない。法令は頻繁に改正 されるが、旧法の失効措置は必ず しも的確にはなされない
か ら、公式に死んだ法令 さえ正確 には分か らない。各法令は相互に関連 しあっているか ら、 1
つの法令の改正は他の多 くの法令 にも影響 を及ぼす。改正は、複数の分野にまたがって複合的
であった りする上、複雑 に入 り組んだ新法 と旧法の対応関係その ものが明確ではなかった。連
邦 と各共和国の法令の二元性 も、立法技術の拙劣 さと相侯って、ソビエ ト法体系 を混乱 させて
いた。法律 と幹部会令の二重制がそれに拍車 をかけてきた。膨大な法令、拙劣な立法技術、複
雑な法システム という条件のもとでは、何が現行法なのかわか らなかった。 こうした法体系が
社会全体 を覆い、法が過剰であるのがソビエ ト社会の特徴であった380
3
3.行政規則の拡大
1
98
8) によると、法治国家、立憲主義、権力分立にあ
ー
近代法上の基本概念 ・原則は、森下 (
るが、ロシア革命後のソ連では、明示的に法治国家 ・権力分立が、黙示的に立憲主義が否定 さ
れ、ソビェ ト法文献か ら姿を消 していた。権力者は法を超 える存在で自由気 ままに振舞い、上
か らは窓意的ともいえる厳 しい法が下されるが、庶民はどこ吹 く風で法の裏をかいてしたたか
に生 きて きた。か らっぼな頭 を持つ青年官吏が、地方都市で役人たちか ら微行中の検察官 と間
違えられ、 さんざん飲み食い したあげ く、後ろ暗いことがある市長や役人たちか ら金を巻 き上
げて遁走するゴーゴリの 『
検察官』は、帝政時代の悪 しき執行者を風刺 し、官僚制皮を告発 し
たものである。 ここで措かれているように、ロシアでは権力者 も遵法精神が希薄でなかったと
は言えない し、現在で もそうした傾向は続いているとロシアの国民は考えているようである。
-3 6 -
例えば、1
9
99年 3月にロシアの世論調査基金がロシア国民1
5
00名に対 して実施 したアンケー ト
調査によると、ロシアで最 も汚職が見 られるのは、警察、税関、検察庁、裁判所であると48%
の国民が回答 してい る。以下、国会、各省庁 な どの国家権力 の最高機 関 (
3
4%)、交通警察
(
320
/
a
) と続 く。そ して、T
3
l
シアで汚職 を根絶す ることは可能か という問いに対 しては290
/
Oの
国民は可能であると回答 した ものの、61% の国民 は不可能であると回答 している39。
法治国家が確立 されない根拠について森下は次のように解明 している。 すなわち、
商品経済、
およびそれを媒介する近代法は、共同体 と共同体 の狭 間に発生 した。近代法は共同体外的な存
在であ り、共同体の内部には存立の根拠 を持たない。商品経済は、共同体 を破壊 して社会全体
を自らの論理で包摂することによって近代市民社会を生み出し、それを物質的土台 として近代
法が展開 したものである。 社会主義は共同体型秩序の復活であ り、そこでは、経済 と政治の自
由競争の媒介形態 としての 「
私法」型法関係 も存続せ ざるをえない。社会主義は、人間の理性
の力 によって社会 を合理的 ・計画的に編成 ・道営 しようとする社会である。 そこでは社会 を理
想 とする方向に向かって指導 しようとする目的原理が法 -人民の意思の形態をまとって全面的
に登場する。例 えば 「
結社の自由」は 「
社会主義的 目的」 に合致する限 りで認め られたが、 目
的に反す る結社 は禁止 された40。 資本主義社会では、市場 を媒介 とした自治的規則 ・分配原則
(
傍点は引用者)が支配 しているが、社会主義社会では、それに代 わって行政的 ・刑法的な規
制 ・分配原則が支配 している。 前者では、国家は必要最小限の規制 しか行わないか ら、法規制
め背後 に広範 な自由の領域が確保 されるo 後者では、基本的には全社会領域が法によって合理
的に方向づけられる。資本主義社会では自由な経済競争が必然的に生み出す経済法則が規範 と
しての法則 -法 を生みだ し、経済的強制がその第一次的実現 を保証するo利害の錯綜する多元
的社会 を前提 とした自由競争の下では、紛争の存在 はノーマルな現象であ り、紛争の解決を通
して正義は実現 されるという観念が生 まれる。 紛争、そ して、法は、正義の生みの親である。
法は単なる社会関係を規制する手段ではな く、 目的 ・理念 にまで高め られ、 自然喋的な観念 も
生み出す。他方、社会主義社会では経済的強制は作用せず、それに代わって膨大な行政的規制
が、
合理的な最適社会の形成 を保証する。ここでは紛争は合理的規制か らの逸脱 としてアブノー
マルな現象 と見 なされ、権利主義 は忌避 され合理的規制-の自己同一化が求められる。 資本主
義社会が、市場 における市民の自由な活動に委ねている広範な領域 を、社会主義社会では行政
敵 に規制せ ざるをえない。市場の経済法則 に代わるのが行政規則である。 社会主義社会におけ
る物質的財貨は、自由市場 に媒介 されることな く、行政的に配分 される。 ここに膨大な行政法
体系が成立する根拠があ り、それを創造 し運用する行政機関の権力の基盤があった。そ して官
僚主義の芽がここにあった41。
官僚機構 は、森下 (
1
99
7) によると、非市場社会 においては、独立 した存在であ り、それを
有効に規制する原理はない。そのため過度に窓意的、非合理的である。そこでは官僚機構 を規
制するために別の官僚機構 を新設するといったかたちで、ます ます官僚機構が肥大化する。市
ー
37 -
場社会の法は、対等な当事者の権利 ・義務関係の調整 を通 して社会関係 を正常に機能させるこ
とがで きるが、非市場社会の法は、当事者の権利 ・義務 に代わ り、役所の統制、監督、調整、
協力などによって上か らの法規範を実現 しようとする。 役人はそれぞれの持ち場において万能
な権力者 とな り、役人の窓意的な権力行使が即法律 になる。そこでは 「
権利」は 「
権力」にとっ
て代わ られる。非市場社会では共同体 と専制国家の二元的構成を取 り易 くな り、 自治法の貧困
と管理法の過剰 とい う現象が見 られる。 そうした社会では、法の規範的性格は希薄にならざる
をえない42。
3
4.訓令による法律の歪曲
1
988) によると、それは法治
ロシアではペ レス トロイカで法治国家論が復活 したが、森下 (
主義の確立をめざし、その標的は官僚主義的な行政機構 にあった。ソビエ ト中央権力 自体がこ
の官僚主義の頂点に立ってお り、官僚主義はソビエ ト権力の生 まれなが らの病巣であった。体
制転換 に伴 う最大の課題は、旧社会主義社会の秩序 と根本的に異なる市民社会の法秩序 をいか
に構築するかであった。権力主義、非能率、腐敗などソ連の官僚主義の弊害は深刻であ り、 ゴ
ルバチ ョフ政権 を除 き、それ との闘いに真剣 に取 り組んで きたとは言えない とい う4
3
。
1
988) によると、訓令の支配であった。
ペ レス トロイカの敵 と見なされていたのは、森下 (
は )とは、国家権力諸機関の決定類のうち、官庁の内部規則 と違って、市民、
訓令 (HHCTpyKuI
団体、企業等の権利 ・義務、利害に直接関わる規範類 (
「
規範的法令」 (HOPMaTHB払I
f
iaKT)
)
のうちの、法の位階秩序の底辺を成す もので、各省や各国家委員会 (
国家計画委貞会いわゆる
ゴスプラン等)が発するものである。省や国家委員会は、各行政・
経済部門の最高指導機関で、
「
官庁」 (BenOMCTBO) と呼ばれることが多 く、官僚主義の別名にさえなっていた。ソ連邦省
一股規定により、省 は、法律や閣僚会議決定に基づ き、 またはその執行のために、「
命令」や
訓令」を発 し、あるいは 「指示」を与えることがで きる。実際にはそれ らは 「規則」、「回章」、
「
「
指示」、「
方策」、「
勧告」、「
指令」等種 々の名称で呼ばれてお り、「
訓令」という言葉で総称 さ
れることが多かった。ソ連では法律の数は少 な く、 この膨大な訓令が国家機関や市民の活動 を
日常的に規制 していた。時には官庁の法令や一回限 りの 「
上か らの指示」さえ法律 と見なされ
1
988)
ていた。ソ連ではこの訓令が法律 に代わる役割を果た していた (
傍点は引用者)。森下 (
の研究によると、ク ドゥリヤフツェフは、市民 と組織は、 ソ連邦の憲法や法律 によってではな
く、官庁の法令 によって方向づけられてお り、それが事実上優越性 を持っているというような
状態がつ くられてお り、 こうした法律の最高性原則の違反が法 システムを解体 し、法適用活動
を機能麻痔 に陥れていると述べているという。 そ して、シムイコフも、多 くの省がいかなる社
会的コントロールもなしに全住民の利益 に触れる規範的文書 を発 してお り、
、立法権 を有するの
は最高会議だけであるが、実際には省庁 も自分の 「
法律」を出して きたという。 さらに、 トウ
マノフは 「
下位法令の多 くが法律の理念 を無に帰 し、それを働かないようにし、訓令が法律 に
-3
8-
とって代わるという事態が生 じている」 と述べているという。 また、ラザ レフは、これまで多
くの重要な社会諸関係が、法律ではな く、政府決定および省庁の規範法規 によって規制されて
お り、法律の空自の存在、行政立法が多い と述べているという。 さらに、『コムニス ト』誌によ
ると、「
訓令の多 くが法律の親近 にとって代 わってお り、あるいはそれと直接矛盾 さえしている」
という4
4
。 この ようにソ連では、法律 よりも行政立法が大 きな役割 を果た してきたのである。
この点が非常に重要やある。
上述の通 り、訓令 は法律の空白を埋めているだけではな く、それに違反 した り、それを無視
した りしてきた。 さらに、抽象的な法律 を訓令で具体化する段階で、 しば しば法律の精神が骨
抜 きにされ、「
合 目的性」を理由に、訓令 によって法律が修正 されて きた。多数の官庁の訓令が
法律や憲法に違反 し、人民 と勤労者のイニシアティブを抑制 し、その権利 と利益 を犯 してきた
のである45。
また、森下 (
1
988)によると、科学アカデ ミー国家 ・
法研究所の所長であるク ドゥリヤフツェ
フとルカシェワは 「
上層部の法の無視が住民の法ニ ヒリズムを生み、それが犯罪、道徳的退廃、
酒 ・麻薬の蔓延、冷淡 ・無慈悲な精神の拡大を招いた。
」 と述べているとい う46。 この上層部の
法の無視 とは、ツァーリであ り共産党書記長であ り、大統領であ り、そ して法 -権利に違反す
る行政規則 を次か ら次へ と出したソ連官僚制であると言 えよう。こうした上層部が法 -権利 (レ
ヒ ト) を無視 し、窓意的に作成 した法 -行政規則 (レ-グルマ ン) によって統治 しようとして
きた結果、本来国民 を守るべ きはずの法が国民 を守って くれず、逆 に国民はソ連の省庁が発 し
た行政立法に苦 しめ られ、住民の法ニヒリズムを生んだ ものと推察 されるのである。
3
5.社会主義 と 「
訓令の支配」の必然性
法律 に代わる訓令の支配が確立 したのは、森下 (
1
988) によると、1
930年代である。 農業の
集団化 ・
急速な工業化 と計画経済の成立によって、法は社会関係の規制手段たることを止めて、
管理の法令が規制者 となった。管理法令が法にとって代わ り、法律の概念に含 まれるようにな
り法律概念 を歪曲してきた。そ して、法は、指令的管理方法や禁止のことだ と考える通念が数
十年にわたって形成 されてきた47。だか らこそ、ロシア人は 「
法律で禁止 されていないか らやっ
て もいい。
」という発言をしばしばするのか もしれない。社会主義の もとで、こうした行政立法
の果たす役割が大 きいのは偶然ではなかった。社会主義社会は、法 を媒介に社会全体 を上か ら
合理的に編成 しようとする社会であ り、膨大な法令類 を必要 とした。上位法は、社会関係に完
壁 な法的表現 を与えるための、総合的 ・一般的な内容 にな り、規範的性格が希薄で、社会関係
の合理的 ・体系的な説明の要素が強かった。ソビエ ト法学は具体的要素を欠 き宣伝的な性格 を
有 していたため、それに代わって具体的な規範 として機能する 「
訓令」が必要であった。近代
法では、一定の禁止規定や行動基準 を法律で定めておけばあとは自動的に機能 してい く。 労働
者の賃金 は、資本主義社会では最低賃金等一定の基準や原則 を決めれば、後は企業や労使の関
-
39-
係 に任せることができる。 しか し 「
労働 に応 じた分配」原則 を実現 しなければならない社会主
義の もとでは、すべての職種の労働の価値 を測定 し、合理的な賃金体系 を作 らなければならな
いため、賃金等労働者の利益 に直接関わる国家労働委員会の訓令だけで も約 5千 もある状況で
あった48。
むすび にかえて-分析 と考察
本稿では、 ロシアでは法体系が未熟、不安定でかつ矛盾 してお り、規則ルールが頻繁 に変更
され、制度が不透明で運用が窓意であ り、脱税や汚職に帰着するような系統的な詐欺が広 く受
け入れ られ、容赦 される社会的規範になったのか、ロシアにおける遵法精神の欠如 と言われて
いる問題について法社会学1経済史的な側面か ら検討 してきた。
契約を守 らねばならぬ」は、ローマ法以来
「
法の支配」の観点では、西欧文化圏において、「
の契約成立の基本的原理であ り、ローマ法文化が定着 した社会か否かは、社会発展の皮合いを
検証する上で有効なバ ロメーターであった。そ して、
西欧では法の支配 という伝統が基礎 にあっ
たか らこそ、立憲主義が生 まれ、専制的な権力の行使 に対する財産権 を含めた人権の擁護 とい
う考 え方がで きあがった。 ところが、ロシアではツァーリが無制限の専制君主であ り、事実上、
行政権 を持ち、親政を行い、国家評議会の議員及び議長まで も、ツァーリに任命 ・
罷免権があっ
た上、ツァー リにのみ法案の提案権があった。すべての権力はツァー リにあ り、「
法の支配」と
制度的補完性 を有する立憲主義 も社会の多元性 も代議機関もロシアには欠けていたのである
。
その上、ロシアの基層社会の根底 にあるのは形式的平等を嫌い、実質的な平等を好んだ ミー
ル共同体 と家産官僚制を敷いた専制であると筆者は考 える。共同体では私的所有 も自由な商品
交換 も発展せず法的な観点 -形式的平等が嫌われ非法的な観点 -実質的な平等が好 まれ、近代
的な法観念が発達 しなかった。農民は共同体 に埋没 し、権利 ・義務関係の主体 とならず、法 権利意識が育 まれなかった。国家 とミール共同体は、貢納制的な階級関係で、ロシア皇帝 も含
めたロシアの貴族にとって、その所有地の上に載っている農奴は私物であ り、契約 による双務
関係ではなかったのである。 このことが問題の形式的 ・法律的な面一般 をブルジョア的、反動
的であると嫌悪する 「
法ニヒリズム」 を惹起 した もの と推察 される。
そ して、ソ連時代 は、法治国家、権力分立、立憲主義の概念が否定 され、権力者は法を超 え
る存在で自由勝手に振舞い、上か らは窓意的 といえる法が下 され、法は個人を守るのに全 く役
に立たなかった。法 を作 る人々である党 と国家の最高指導部は論理的に法 よりも上位 にあった
ため、法に拘束 されないという理屈が存在 していた すべての社会的秩序、法の源泉が党にあ
。
り、党の決議、解釈が最終的な法であった。役人が万能の権力者 とな り、役人の窓意的な権力
行使が即法律 となっていた。膨大 な行政規則や訓令が国家機関や市民の活動 を規制 し、訓令
(
行政規則)カモ
法律 に代わる役割を果た してきたのである. 訓令は法律 を違反 ・無祝 し、法律
(レヒ ト) よりも行政規則 (レ-グルマ ン)が大 きな役割を果た してきた。
-4
0-
では、 ロシアではなぜ法治国家が確立 されなかったのであろうか。それは、近代法が共同体
外的な存在であ り、共同体の内部には存立の根拠 を持たなかったか らであると考えられる。共
同体秩序 において、物資やサービスは、互恵や権力的配分によってなされる。社会主義時代で
は、国営商店での売買 も、商品の価格 は政策により決定 されていたので等価交換ではなかった
し、車の販売や住宅の配分 も権力的配分の色彩が強かった。貨幣に代わ り、 コネが物 とサービ
スの流通 を媒介 していた。商品経済は、共同体 を破壊 して社会全体 を自らの論理で包摂するこ
とによって近代市民社会 を生みだ し、それを物質的土台 として近代法が展開 した。 ところが、
社会主義は共同体型秩序の復活であ り、そ こでは、経済 と政治の自由競争の殊介形態 としての
「
私法」型法関係 も存続せざるをえなかった。
市場経済 と私的所有制によって基礎づけられる市民社会はロシアにおいて未成熟で、 ロシア
は共同体 と専制国家の二元構造をとった。社会主義 ロシアは、市場 と私有 を否定 したのである
か ら市民社会は形成 されず、擬似共同体的秩序が生 まれ、物資やサービスの提供は、互恵や権
力的配分によってなされた。つま り貨幣に代わってコネが物 とサービスの流通を媒介 したので
ある4
9
。ロシアは、西欧のような市民社会 を持たず、市場経済 も、私的所有制 も十分発展 しな
かったので、市民が 自主的に制定すると同時にそれに拘束 される市民社会の内的秩序 を定める
「自治法」が発展 しなかった。また、社会 を形成 ・運営すべ き合理的理性 は、法の形式をもっ
て登場せ ざるをえないので、上か らの国家秩序 を定め維持するための権力の道具 としての法令
「
管理法」や刑法が法体系の中心 となっていた。 自治法なき管理法の版雇が、合理的理性の名
の下、独裁権力の窓意的発動 を許すことになったのである50。
では、ロシアにおける遵法精神の欠如 と言われている問題はどこか らきているのであろうか。
大江泰一郎は、ソ連の法をめ ぐる否定的現象 を生んだ原因は、社会主義にではな く、ロシアの
古 き伝統にあると主張 している。 これに対 し、森下 (
1
99
7
) は1
00%社会主義 (
マルクス主義)
の原理にあると主張 している51。 この間題について実証することはで きないが、最後に筆者の
考えを以下に述べる。筆者は、大江 と森下の どちらの主張にも同意で きない。筆者は、ロシア
の数百年にわたる歴史がロシアの共同体 と専制に体現 される基層社会 を形成 し、その上 に社会
主義体制が成立 したと考える。 何百年にもわた り続いて きた共同体 と専制の伝続がロシアにお
ける法のニヒリズムを作 りあげ、その上に社会主義体制が追撃ちをかけるように、市民の法に
対す る否定的現象 を育んで きたものであると認識 している。森下 も、共同体が与えた影響につ
いては認めているが、それは後発共同体 -社会主義社会のマルクス主義の原理その ものが法を
め ぐる否定的現象 を生んだのであ り、旧ロシアの伝統 については否定 している。 ところが、森
下 (
1
9
9
7
)は、「
1
91
7
年のロシア革命の投階で も農民は人口の 8割を占めていたか ら、農村の共
同体秩序 とそれに基礎 をお く農民の法意識が、ロシアの法文化 を規定 してきたはずである。
」と
ミール共同体がロシアの法文化 に与 えた影響 について認めているのであって、 これは森下の前
掲主張 と矛盾する。 マ ックス ・ウェーバーが指摘 した通 り、ロシアにおいては実質的平等原理
- 4 1 -
によって商品経済が発達せず形式的手続 きが嫌悪 され、法ニヒリズムが蔓延 したのであって、
これが現代 ロシアの法ニヒリズムへの経路依存性 となっていると考えることに何 ら疑 うべ き点
はないと思われる。 ただ、制度が不透明、運用 に窓意性があ り、行政が不当介入 をし、官庁 に
よる規則ルールの変更、不安定な法制度などに関するビジネス環境の問題については、社会主
義体制の遺産 という要素が強いことは確かではあろう。
このように見て くると、法が市民を守ってこなかったロシアの社会 において、市民が法を遵
守 しないの も理解で きよう。 ロシア人にとって、法は自分たちを統制するために、国家が作 り
出 した制約で、それを遵守 しようとする内在的なインセンティブはな く、その行動規範 も法 に
適合 したものではなかった。帝政時代か ら、窓意的な行政規則が法律 にとってかわ り、それは
市民 を全 く守っては くれず、市民 を管理 して きたにす ぎない。
最後に法秩序が確立されていないロシアとビジネスを行ってI、く指針 について私論を述べて
むすびとしたい。ロシアは法秩序が確立 されてお らず、約束や契約 も遵守 されないリスクの多
い社会であるか らロシアとビジネスは行 えない という議論は早急である。 そうしたリスクを回
避する生活の知恵 として、ロシアでは自己防衛のためにプライベー トな関係において特別の信
頼関係 を構築する必要があったし、特定の共同体内において、特別な相互信頼の関係が発達 し
てきた。ロシアでは依然 として、人的なコンタク トやネッ トワークが ビジネスの正否 を決めた
り、汚職を生む重要な要因 として残 ったままである。Bha
t
i
ae
ta
l
.(
1
9
9
7
)の研究によると、ロ
シアにおいては 「コネ」が ビジネスにおける潤滑油であ り、ロシアの経営者はロシアでビジネ
スを成功 させ る唯一の方法は法律 を軽視することであると考えている52。 ロシアは依然 として
「
共同体」社会であ り、そのビジネル文化 は個人的な関係 ・ネッ トワークを重視 している。 こ
うした環境下では良好な個人的な関係 に基づいたネットワークを構築することが ビジネスを行
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1
9
9
8
), Kuz
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1
9
9
9)
,
う上 で 重 要 な 競 争 優 位 と な る (
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va(
1
9
9
9
),La
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moe
ta
l
.(
2
0
01
)
)。個人的な関係が、ネッ トワークへ接近する
ためにより重要 となる。 つ まり、西側企業は信頼できるロシアのパー トナーを見つけることが
求め られる。 ロシアの取引先 と信頼関係 を構築すれば、相互の保護、個人的な信頼 と忠誠 とい
うロシア的な価値観か ら恩恵を受けることがで きる。 よく発達 した相互信頼に基づいた協力関
係 は、法の支配、倫理的なビジネスの規範が まだ確立されていないロシアのビジネス環境にお
いて生 き残 ってい くための重要な点である53。不確実や不信の関係が社会全体 に支配的だか ら
こそ、特定の共同体 においては、誠実 さや信頼が特別に重視 されている。 ロシアでビジネスを
行 うには、 このようなロシア社会の仲間にならない とビジネスはしない という文化 を理解 し、
共同体の内に入ることが重要であると筆者は考 える。
-
42-
1 本稿作成にあた り、新潟大学経済学部小山洋司教授、同佐藤芳行教授、東京大学名誉教授前新潟大学経済学部
教授、現帝京大学文学部肥前栄一教授 よりご指導を賜 りました。記 して御礼申し上げます。
2 望月
(
20
0
0
)1
6頁参照。原出典は日本貿易振興会の調査で対 口商取引上の問題点 :
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www.
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1
9
1
8
.
ht
m) は既に閲覧不可能であったので望月論文を引用 した。
j
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Pr
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s
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9
7
3隅部 (
2
0
01
)杉本 (
2
0
01
) 日本 ロシア経済委員会 (
2
0
0
1
)参照。
4 富山
(
1
9
9
9
)(
2
0
01
)
5 例 えば、柳川
・藤田 (
1
9
9
8
)がその例 として挙げられる (
柳川 (
2
0
0
0)2
7-3
0頁参照)0
6 森下
(
1
9
8
8) 51
1
貢。
7廉岡
(
1
9
9
3) 8
9-9
0頁0
81
2
世紀にイタリアで大学が創設された。1
4
世紀には中東欧においてチェコのプラハ、ポーランドのクラクフ、ハ
5
世紀∼
ンガリーのペ-チに相次いで大学が設立され、西欧世界か ら中欧世界の一部にローマ法が継受された。1
1
6世紀にかけて、ゲルマンの諸民族があちこちに大学 を創設 し、これ らは中世 ドイツ大学 といわれた。このカデ
1
9
9
3
)1
0
2
頁)0
ゴリーに含 まれる大学はケ一二ヒスベルグ大学、 どリニウス大学である (
鈴木 (
9 鈴木
(
1
99
3
)7
7-1
0
4頁。
1
0森下
(
1
99
7
)
l
lHunt
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P.(
1
9
9
6
)
1
2楢原
(
2
0
01
)参照。原出典のMi
r
o
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1
9
9
0
),"TheRus
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c
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y, Unwi
nHyma
n.
pp.
l
l
1
2.
は入手できなかったので楢原 (
2
0
01
) に依拠 している。
1
3同様のこ とを白石
(
1
9
9
7)はヤク-シキン研究に依拠 して以下のように指摘 している。「
農民は、「自分たち」
の財産、つ まり共同体 とその成員に属する財産が侵害 されると、激 しく反応 を示 したが、「
他人の」、つまり共同
体 とその成員に属 さない財産が侵害 されでも、一向に平気であった。同時に、共同体のなかでは自他の財産を区
別する意識が弱かった。ここに、農民の基本的な倫理観があった」 (
白石 (
1
9
9
7
)1
5
6貢.原出典の 5
I
KyuKHH ,
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1
9
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1
9
9
7
)
研究に依拠 した。
め、白石 (
1
4谷江
(
1
9
9
7
)1
0
4-1
0
8頁。
1
5例えば、国家法は、王権神授説に代わ り、社会契約論に基づいて、独立市民の自由な契約原理によって再構成
された。行政法は、国家 と市民を対等な当事者 とする契約的関係 として再編 された。婚姻は、フランス革命後の
1
7
91
年憲法以来、宗教的秘蹟 (
サクラメン ト (
Sa
c
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a
me
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um);カ トリック教会がキリス トの救いの力 によって
施行する儀式において発揮する活作用。聖体、洗礼、堅信、品級、婚姻、告解、終油の七つ)ではなく、契約 と
見なされた (
森下 (
1
9
9
7
))
0
1
6ボヤール
(
bo
ya
r
eロシア語) とは、ロシアの名門貴族層である。公 (
クニヤージ)の上級親兵、行政官とし
て貴族会議の一員で、公の重臣。 自由に君主 をかえるため退去する権利や、巨大な世襲地 (
ポッチナ)における
独立の裁判 ・
徴税権 を持った。モスクワ国家の台頭 に伴い、公 とともにモスクワ大公に奉仕 して、大公のボヤー
ル層 を形成 し、重要な官職を占めた。最大の任務 は大公の貴族会議に出席 し、立法、政策決定に関与すること
で、大公に次 ぐ地位を占めた。 ピョ- トル1
世の改革により、その称号は消滅 した (
(
伊藤幸男)小学館スーパー
ニ ッポニカ2
0
01
)
0
1
7 レ-エ ン
(
Le
hn ドイツ語)は、中世西 ヨーロッパの封建制皮において、家臣 (
封臣)に対 し、その奉仕 (
多
くの場合騎士 としての軍役奉仕)の代償 として主人 (
封主)が授与する土地 (
所領)のこと。一般に封土 と訳 さ
れる。 ドイツ語のLe
hnはLe
i
heなどと同根で、一般に借地を意味 した。 レ-エ ンとして授与 されるものは、土地
ー43-
-所領である場合が大部分であったが、グラー フ (
伯)職や大公職の ような官職、 また高級裁判権、関税徴収
権、貨幣鋳造権、市場開設権、鉱山採掘権の ような経済的収益 を伴 う権利 もまた、 レ-エ ンとして与 え られた
(
(
平城照介) 小学館スーパージャポニカ2
0
01
)0
ちつ ろ く
1
8秩禄 とは、国か ら給与 される俸給のことである。
1
9家産官僚制
(
pa
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r
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mo
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lbur
e
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uc
r
a
c
y) とはマ ックス ・ウェーバーが、近代的な合理的官僚制に対比 して用
いた概念である。伝統的支配の典型である家父長制の支配範囲が拡大 したために、家長に絶対的忠誠を誓 う支配
幹部、すなわち家産的官僚が、家長にかわって彼の家産である領土や人民の支配を中心 としなが ら、それ以外の
周辺領域 をも支配する制度のことである。このような家産官僚制による支配の歴史的事例 として、ウェーバーは、
古代エジプ トや古代 中国における皇帝の支配や、近代の絶対君主による支配をあげている。家産官僚制において
は、官吏の君主に対する支配服従関係 は、恭順の感情 に基づ く隷従関係であって、官吏の人格 は認め られない
0
01
)
。そ もそ も、家産制 (
pa
t
r
i
mo
ni
a
l
i
s
m) とは国家や集団の首長が
(
佐藤慶事)小学館スーパージャポニカ2
その構成員や人間関係、財産、物品を自分の家産のごとく支配する前近代的な統治制度 をいう。 この概念 を初め
て用いたハ ラーによると、家産制国家では国内のいっさいの関係 は君主の私的関係 とみなされ、領土と人民は君
主の所有物であ り、財産は君主の私収入で、戦争 は君主の私事 とされる。 したがって、一般に、国家が君主の世
襲財産のごとく扱 われ、統治 (
支配)権 と所有 (
財産)権 との区別がない ような政治形態をさす (
森 博)小学
0
01
)。例えば、アレクセイ ・ロマノフ帝 (
1
6
4
5
7
6
) は、家父長制的な専制の権化で、帝
館スーパージャポニカ2
1
9
9
3
)1
00
頁)0
国を自分の大家族のように統治 し、廷臣たちを子供のように扱っていた (
贋岡 (
2
0肥前
(
1
9
8
6
)3
0
5-31
1
頁参照。
21ウェーバー
2
2白石
(
1
9
0
5
)邦訳7
7-7
8頁、肥前 (
2
00
0
)註 (
5
5
)参照。
(
1
9
9
7
)1
6
0頁。
2
3森下 (
1
9
9
7
)前掲論文。
2
4佐藤
(
2
0
01
)5
0-5
2頁。
25 白石、前掲書 1
5
9頁。
2
6肥前 (
2
0
0
0
)1
9-2
0頁参照。
2
7肥前、前掲論文 、1
7-1
8、2
8頁、佐藤
2
8
(
2
0
01
)5
0-51
頁参照。
「
土地改革」ではな く 「
土地革命」としたのは、カデ ッ トが主張 したような制定法に基づ く改革ではなかった
か らである (
佐藤教授の御教示 による)0
2
9佐藤教授か らの御教示 による。
30佐藤、前掲論文、5
3頁、森下
31岩 田
(
1
9
9
7
)前掲論文参照。
(
1
9
9
5
)3
8-4
0頁参照。
3
2佐藤教授か らの御教示 による。
3
3松下
(
1
9
9
3
)1
6-1
7頁、森下 (
1
9
8
8
)51
0-51
1
頁。
34森下
(
1
9
9
9
)l
o買o
35枚下、前掲論文 、1
5、1
7頁。
3
6小 山教授の御教示 によるOパ リ・コミュ丁 ンの経験 は、民衆が史上はじめて自分たちの政府 をつ くろうとした
試み としてたたえられ、また、革命の起 こし方や未来社会のイメージなどについて、当時の社会主義者たちに多
くの教訓 をあたえた。
3
7以上の記述 は、鈴木、前掲論文 、(
1
9
9
3
)7
7-1
0
4頁による。
38森下
(
1
9
8
8
)
、前掲論文、5
2
8-5
31
頁参照。
3
9h
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/
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www.
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om.
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2
0
01
年11月2
6日現在).
⊥4
4-
4
0佐藤教授か らの御教示による。
4
1森下 (
1
98
8)、前掲論文、49
8-50
4頁参照。
4
2森下 (
1
99
7)、前掲論文。
4
3森下 (
1
98
8)、前掲論文、50
4-年07頁参照。
4
4森下 (
1
9
88)、前掲論文、5
44-5
45頁参照。ク ドゥリヤフツェフの論文 KyJ
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987T.
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1
4,CTP.
44.
は入手で きなかったため、森下 (
1
9
88)
に依拠 している。
4
5森下 (
1
98
8)、前掲論文、5
5
2-5
53頁参照.尚、森下はヤ コブ レフ論文 3aEOHnJT兄BCe
XO
AHH,W p
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na》,
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兄1
98
8 r.
を参照 しているが、同論文は入手できなかったため、森下研究に依拠 した0
1
2 HOJ
4
6森下 (
1
98
8)、前掲論文、5
01頁.原出典は、 昆m6
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eCTHbn4,≪Ⅰ
もBeC
TH5
I
》,
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5
I1
9
87r.
1
9
8
8)、前掲論文、546頁参照。尚、森下は,ヤコブレフ論文Ka
K伽 EO皿XHO6
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4
7森下 (
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I1
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88
千.
4
8森下 (
1
98
8)、前掲論文、546-5
47頁参照。
4
9森下 (
1
9
97)、前掲論文。
5
0森下 (
1
997)、前掲論文。
5
1大江 (
1
9
92)、森下 (
1
99
7)、前掲論文。
5
2Bha
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.(
1
997
)
5
3Ma
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1
9
99)pp.
49
52
.
参考文献
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1
99
8), "
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マ ックス ・ウェーバ ー著 『
古 ゲ ルマ ンの社 会組織 』(
世良晃志郎訳、創
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)「IT活用により直接投資促進 と問題解決を
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)「グローバ リゼーションと東欧 ・ロシアの社会経済発展一近代史の再検討か ら- 『グローバ リ
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年 3月。
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北東アジア経済
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会議2
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谷江幸雄 (
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富山栄子 (
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)ビュ」 タ-が果た した役割- Fロシア東欧学会年報』1
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9年
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号、ロシア東欧学会、2
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版、2
富 山栄子 (
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)「ドイツ企業の旧ソ連 と東欧諸国への市場参入行動- ロシアと中欧諸国の基層社会の相違に基
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研究の再解釈
学院現代社会文化研究科環 日本海研究室。
2
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) 「ロシア との経済交流促進 に向けた 日本企業の考え方 (日本ロシア経済委員会ア
日本 ロシア経済委員会 (
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北東アジア経済会議2
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01イン新潟発言要約集』環 日本海経済研究所 、 Ⅲ7
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袴田茂樹 (
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肥前栄一 (
」F聖学院大学総合研究所
肥前栄一 (
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0)「マ ックス ・ウェーバーのロシア革命論- ロシアにおける国家 と市民
紀要』聖学院大学総合研究所。
贋岡正久 (
1
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3) Fロシア正教の千年一聖 と俗のはぎまで-iNHKブックス.
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(
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8)「
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上)-ペ レス トロイカと法-」
F
神戸法学雑誌』3
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巻 3号 、
1
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8
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3)「ロシアの憲法問題
松下輝雄 (
森下敏男
年1
2月、4
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7-5
5
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森下敏男 (
1
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7)「ロシアの法文化」、ht
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年
5月、
1
7日現在)0
森下敏男 (
1
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9)「
現代 ロシアにおける権力分立の構造
」『神戸法学年報』第15号。
」F北海道極東研究』第 3
望月喜市 (
2
0
0
0)「
北海道 と極東 ロシアとの間の経済交流 を発展 させ る戦略について
号、 目口北海道極東研究学会、2
0
0
0年 9月。
I
柳川範之 ・藤田友敬 (
1
9
9
8
)「
会社法の経済分析」、三輪芳朗、 神田秀樹、 柳川範之編 F
会社法の経済学』東京
大学出版会。
柳川範之 (
2
0
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)「
法律問題の ミクロ経済分析
」『経済セ ミナ- 3』2000年、 日本評論社。
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