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「海を渡った自衛官 異文化との出会い 」
2013/01/30発行 「海を渡った自衛官─異文化との出会い ─」 今回のアルジェリアの武装勢力と政府軍の戦闘で亡くなられた邦人の方々に謹ん でお悔やみを申し上げます。また、日本人を守るために尽くされた他国の方々に お礼を申し上げます。 それにしても、依然としてあるテレビ番組では、まだのうのうと「話し合い」 とか、「武力以外の方法」とか語る人がいます。風土も歴史も異なる、人間観や 世界観が違う人たちとの対話。しかも、相手が武器を持ち、確信的に私たちに敵 対行動を取る時に、話し合おうという呼びかけ。それにどれほど実効力があるの でしょうか。「理想のために死ね」というのは、その人個人の問題で、テレビで 言い散らかすことではないでしょうに。そういう方は決して自分は安全地帯から は降りずに、高い所から説法をするのです。 ご遺骸が政府専用機で運ばれました。空港での出迎えの場面です。あれれと違 和感を覚えました。最初の映像では、何も巻かれていない棺、動かないようにネ ットがかけられた棺そのままに献花がされていたのです。まるで、江戸時代の罪 人を運んだ藤丸篭(とうまるかご)ではあるまいし、ネットが隠されず、そのま ま花が捧げられていました。拙速ということだったのでしょうか。さすがに夕方 の映像では白い布に覆われていましたが、こうしたことに私たちは慣れていない のだなと思いました。 ▼「打物騎兵」が主役になっている太平記 昭和の教科書8社はみな、後醍醐天皇と並べて「足利尊氏」の画像を載せてい る。 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1f/Ashikaga_Takauji. JPG/1059px-Ashikaga_Takauji.JPG ざんばら髪で、馬のたてがみも大きく乱れ、乱戦の中を切り抜けてきた・・・と 紹介されてもいた。注目すべきは、弓を持たず、太刀を担いでいるところである。 もちろん、背中のえびらの矢はあるので、弓を落としてきたか捨ててきたのか。 この馬上の太刀づかいを明らかに見せている南北朝期の武将の姿。これが、私 たちの中世武士の戦闘についてのイメージを大きく育ててきた主役でもあっただ ろう。事実、源平合戦のころから、馬上の組み打ちや、下馬しての白兵戦も増え てきていた。楯を並べて、その後方から矢を飛ばしたり、土塁を造ったり、石垣 を築いたりもして、そこでの最終段階では白兵戦も起こったことだろう。 しかし、この馬上の足利尊氏像。現在の教科書では1社しか載せていない。し かも、つけられたキャプションは『南北朝の争乱の頃の武士像』とあるだけであ る。どうしてそうなったのか? この画像は京都国立博物館に保存され、絹布に描かれた、たて1メートル、横 およそ53センチのものである。江戸時代の所有者は不明だというが、江戸時代か ら大正ころまでは「足利尊氏」像だということになっていた。教科書は学界の大 勢にしたがって、昭和にいたるまで、足利尊氏だと書いていたのである。 では、足利尊氏である根拠はどこかというと、有名な松平定信のおかげだった。 定信は八代将軍吉宗の孫で御三卿の家から奥州白河藩を継いだ。当時も「古典的 教養」を身につけた人だった。彼が編ませた「集古十種」という本に、足利尊氏 であると明記されている。 もちろん、戦前の学界でも、これに対する反論はあった。 まず、他の資料にある尊氏像とはずいぶん印象が異なる。 尊氏の愛馬は栗毛であり、このような黒毛の馬ではない。 尊氏のような高名な武将が、兜もかぶらず、乱れた総髪で、抜刀、しかも矢も 折れているような状態で描かれるとは納得しがたい。 画像の上に据えられた花押(書き判)は息子の義詮(よしあきら)の物であり 、父の上に書かれることはないなどである。 山本博文氏によると、戦後になって、ようやっと本格的な研究が始められたと いう。 花押があることから、もしやすると義詮自身ではないか。あるいは、足利氏に 関係が深い一族の誰かではないかという説が出た。鎧の造りや太刀の姿は鎌倉後 期の製作と思われ、よほどの高い身分の武士ではないか。描写が入念で、実在の 人物の特定の時期を描いたのだろう。などの議論がなされたが、中でも「人違い 」を決定づけたのは次の発見である。 太刀の目貫(めぬき:刀身の脱落を防ぐために柄に通した金具)や鞍の部分に は、輪違紋(わちがいもん)がついている。これは、高氏の紋どころである。そ こで、高師直(こうのもろなお)か、その一族の誰かではないかとなった。これ までの定説が覆されたときだった。 高師直は「仮名手本忠臣蔵」では善玉の塩冶判官(えんや・はんがん)の敵役 に名前が使われたことで有名になった。江戸時代の歌舞伎は現実の物語にしばし ば題材をとった。その時に、実名や時代を明らかにすると差し障りがあったので 、古典から登場人物の名前を使うことが多かった。実在の高師直は足利尊氏の執 事だった。幕府草創期の官僚との対立があり、義詮の擁立にも功績をあげ、足利 直義(ただよし)との戦い(観応の擾乱)では打出浜の合戦に参加、敗れて殺害 されたという。 この画像は、その後、復活した高氏の一族が、師直の十七回忌に供養のために 描かせたのではないかと想像された。それによって、1990年代までは、これが 高師直像であると解釈されていたのだ。 ▼師詮(もろあきら)だろうという説が現れる 2000年代に入ると、またまた異説が出てきた。これは、高師直の子、師詮で はないかというのだ。『太平記』によれば、高の一族は1350年には多くが殺 されてしまった。師詮だけは落ちのびて片田舎に隠れていたところ、家来だった 阿保忠実(あぼ・ただざね)や荻野朝忠(おぎの・ともただ)たちに担ぎ出され た。再び、二代将軍義詮に従って戦いの場に立った。しかし、山名軍の攻撃を受 け、敗走する途中、阿保や荻野に見捨てられ、馬上で切腹して死んだと書かれて いる。 ふつうの画像には見られない、この異様な姿こそ不本意な死に方をした師詮に ふさわしいというのだ。何のために書かれたか? それは供養のためだとも解釈された。没後の七回忌の法要に阿保や荻野が描かせ た、だから二代将軍義詮にわざわざ花押を添えてもらったのではないか。そうし た説が出てきている。 さらに描かれた武者の年齢である。およそ、こうした画像は本人の亡くなる数 年前の肖像であるのがふつうだそうだ。この画像の主は、おそらく30歳代だろ う。そうであると、高師直の死去は50代だったので、これとは合わない。また 、太平記には高師直は『清げなる老武者』と書かれていて、この顔の濃いヒゲと は似合わない。むしろ、片田舎に隠れ住んでいた倅の師詮こそ、画像の主に違い ないとも言われたのである。 こうしたことから、学界でも足利尊氏であることは否定されたが、高師直か師 詮か、今でも決着はついていない。このように、ある時期、確定とされて、教科 書にも載るような資料や画像が、のちに否定されることは珍しくない。他にも源 頼朝の肖像画も学界の論戦によって確定していないものもある。 ▼太平記に見る「打物騎兵」の戦い方 太平記の特徴は、馬上での長刀の使用である。平家物語などをずいぶん読んで も、馬上で長刀をふるう様子は見られない。すでに絵巻物などでは徒歩の武者が 担いで歩いているのは確認できるが、それを武者が馬上で使うのは太平記が初め てである。また、太刀を使っての戦闘も、太平記ではしばしば見られている。近 藤好和氏の指摘によれば、1309年の目録が付いている「春日権現記絵巻」が 長刀をもつ騎馬兵の最初だそうだ。 前に義詮を見殺しにしてしまった阿保忠実も、戦闘においては勇者だった。太 平記には、わざわざ「阿保秋山河原合戦」という記事がある。また、このシーン は太平記の中でも有名で一般にも人気があり、よく扇の絵柄にも使われていた。 秋山光政と阿保はいずれも大鎧を着用。秋山の主武器は長さ一丈(一尺の10 倍、およそ3メートル)余りの両端に石突(いしづき・防護用の金属)をつけた 樫の木でできた棒である。しかも八角に削ってあるというから、戦闘用の装備だ った。阿保はこれに対して四尺六寸の太刀、三尺二寸の小太刀を差し添えていた というから、そろってなんとも長大なものである。 江戸時代の武士がふつうに差して歩いた打刀が二尺八寸とか、脇差は一尺九寸 などだから、馬上の打物戦とは長大な太刀を使ったことが分かる。実際、阿保は 敵との遭遇で鞘を投げ捨てているから、ふだんは従者などにかつがせて歩いてい たのだろう。 平家物語をはじめとした源平合戦の軍記物では、三尺五寸が「大太刀」の基準 だろう。また二尺九寸といえば、なかなかの長さと評価されている。これに比べ れば、阿保の太刀はまるで、近世初期の厳流佐々木小次郎の背負ったものだ。 この戦闘に先立っての両者の描き方も源平時代のそれとは違っている。源平時 代には必ず、弓矢の装備の説明がある。これに比べると、明らかに身分が高い騎 馬の兵である二人は弓矢を持っていないことが分かる。ついでに、「撮棒(さい ぼう)」についても説明しておく。近世になって棒術が生まれたが、もともと撮 棒は武具にもなった出家者がもつ災いを避けるための棒である。金属製のものを わざわざ「金撮棒(かなさいぼう)」という。これは完全に武器になったもので ある。 さて、戦闘描写にもどろう。興味深いのは、互いに駆け違った方向である。ヨ ーロッパ中世の騎士たちは、馬上の槍による突き合いをトーナメントとしたが、 あれは映画や画像で見るかぎりは左手(ゆんで)側に駆け違って槍で突き合う。 だから、左方向の方が鎧の防御力も高くできている。おそらく楯を右手にもって 、左で槍を操作するからだろう。では、秋山と阿保はどうだったか。ふつうに考 えれば、片手でふるう太刀や棒を使ったら、右手がわで戦うのではと思う。それ が『弓手に懸違へ(かけちがへ)、馬手に開き合ひ』とされている。 弓が主武器であった時代には相手を弓手側において騎射した。しかし、馬上で 両手、もしくは片手で太刀や棒を操作するなら、左右、どちらであってもいいこ とになる。有職故実研究家の近藤好和氏の指摘によれば、この時代の太刀の長寸 化についての定説がある。太刀を徒歩の武者が使う時には両手で保持して戦うの が主流になる、だから太刀は長く重くなったのだというのが定説である。しかし 、と近藤氏は言う。騎射ではもともと手綱などもたないし、両手を太刀遣いにあ てることは普通だった。その証拠は、秋山阿保の合戦描写にも表れている。 『秋山はたと打てば、阿保うけ太刀になりて請け流す、阿保持て開てしとと切れ ば、秋山棒にて打則(うちそむ)く、三度逢(あい)三度別る・・・』とあるよ うに、一回限りの打撃戦がくり広げられた。結果、秋山の棒は折れて5尺あまり になり、手元にわずかしか残らなかった。阿保の太刀も鍔元から折れてしまい、 差し添えの刀を抜いた。いわゆるチャンバラなど起こっていない。互いに馬を突 進させ、ここぞというところで、相手の身体目がけて武器を振りおろす。そうで あればこそ、あれだけの長寸の刀もまた実用化されていたのだろう。 ▼弓矢は主武器の地位を譲ったか よく知られているように、近世江戸時代の武士の身分象徴といえば「鑓(やり )」だった。『弓馬の家』と同じ意味合いで『鑓一筋の家でござる』といえば、 堂々たる士分を指す言葉だったという。この鑓が登場するのも太平記の時代であ る。「飛び道具とは卑怯なり」というフレーズがどれだけ一般化されていたかは 不明だが、この時代の死傷者の中での割合を見る限り、弓矢は依然として最高の 武器だった。 すでに鈴木真哉氏などの「軍忠状」の分析により、受傷者の大部分は矢による ものである。もっとも、これは受け手の分析であり、攻撃側のものではない、あ るいは太刀や刀による方が致死性が高いだろうから太刀が主武器だったという方 もいる。しかし、弓を持った騎兵による弓射は影をひそめ、むしろ徒歩弓兵によ る戦闘が盛んになったことは確かである。 詳しい説明は省くが、騎射による矢への防御を最優先にした大鎧も形が変わっ てくる。兜も変わり、草摺(くさずり)もカーブを描くようになってきた。身体 により密着したスタイルになってきている。小具足の発達も戦闘の変化の証拠の 一つとしてあげていい。これは甲冑では防ぎきれない部分を守るもので、籠手( こて)、臑当(すねあて)、面具、膝鎧(ひざよろい・佩楯=はいだてともいう )などである。幕末の新撰組などが戦闘前に『鎖帷子(くさりかたびら)』を着 込むが、それもこの時代に生まれたものらしい。 では、騎射はすたれたかというとそうでもない。田中盛兼という打物を装備し た武者が戦死する。まず、彼の武装はといえば、鎖帷子の上に鎧を重ねて着て、 すね当て、膝鎧もはき、兜をかぶる。武器は八尺余りのかなさい棒、それに五尺 あまりの太刀である。金属製の撮棒は、手元二尺あまりを丸めてとあるから、現 在の金属バットの握りのようになっていたらしい。『誠に軽げにひっさげたり』 とある。 相手はやはり騎上の士、島津安芸前司(しまづあきのぜんじ)とあるから、元 安芸守に任ぜられていた島津の一族。これは「三人張に十二足三伏(じゅうにそ くみつぶせ)の矢」というわけで、強弓に長い矢をもっていた。 田中は棒を振りながら静かに近づいて行った。島津は弓をひきしぼる。馬を互 いにしずしずと近寄らせていって、矢比(やごろ)になり、『旦(しば)し堅め て丁と放つ』。その矢は田中の内兜(うちかぶと・顔面)に命中し、右の頬から 兜の内側まで射ぬいてしまい、田中はあっさりと戦死してしまった。これで分か ることは、馬を激しく走らせて、急速に接近などしない。しかも騎射の瞬間には 静止していることも分かる。 また、わざわざ下馬して射る方法、遠距離で城内にこもる敵を狙撃するなどの 描写が増えてくる。 いよいよ次回は、鑓の登場や、戦国末期の「武田騎馬軍団」などへの反論など も含めて戦闘の実際を説明して見たい。