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独立後 50 年を経てみた人民憲法

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独立後 50 年を経てみた人民憲法
JAMS News No.39 (2007.11)
〔 特集―独立 50 周年を迎 えたマレ ーシア〕
独立後 50 年を経てみた人民憲法
原
マレーシアは、1969 年 の「5.13 事件」以外大 きな種族
1)
不二夫
衝突に見舞 われるこ
と な く、 冷 戦終 結以 来 改め て世 界 各国 で吹 き 出し た 民族 紛 争を 尻目 に 、い わば 模
範的な多種族協和国家として独立 50 周年を 盛大 に祝った。種族間の対立はもはや
マ レ ーシ ア の主 要な 課 題で はな い 、と 言わ れ て久 し いよ う に思 う。 し かし 、最 近
の他教徒に不寛容なイスラム強硬派 の台頭や統一 マレー国民組織(UMNO)内(と
り わ け青 年 部) のマ レ ー至 上主 義 の隆 盛を 見 ると 、 独立 後 半世 紀を 経 たの に種 族
問 題 は果 た して どこ ま で解 決さ れ たの だろ う か、 と いう 疑 問が 湧く の を禁 じ得 な
い。
一方で、近年マレーシア国内では 、UMNO 主導で行われた国家建設のありよう
を 見 直す 時 期に 来て い ると いう 意 見が 、主 に 、か つ て弾 圧 され 口を 封 じら れて き
た 左 翼の 人 たち の間 に 高ま って き てお り、 そ のよ う な立 場 から の文 献 も多 数刊 行
さ れ てい る 。左 翼政 党 がほ とん ど 姿を 消し て しま っ た今 、 彼ら の多 く はす でに 政
治活動を離れているが、これ までの正史は UMNO や連盟党、国民戦線の立場から
書かれたもので、歴史事実を客観的 に叙述してい ない、と見ているのである。
正史では、種族問題は基本的には UMNO とマラヤ華人公会(MCA)、マラヤ・
イン ド人 会 議(MIC) との 「 取引 き」 で 解決 が 図ら れた と され る。 マラ ヤ 連邦設
立(1948 年)当時の移住民 とその子孫に対する 厳しい公民権(市民権)取得条件
(華人の 20%しか 資格を認められなかった )を 緩和する代りに、マレー人の特別
な 地 位を 認 める 、と す るも ので 、 独立 憲法 に もこ の 原則 が 反映 され て いる 。こ れ
に よ って マ レー シア の 安定 がも た らさ れた 面 は否 定 でき な いで あろ う 。で は、 別
の途はなかったろうか。最大の「対 案」は 、1947 年に発表された「人民憲法 」で
は な かろ う かと 思う 。 マラ ヤ連 邦 の厳 しい 公 民権 取 得条 件 がな けれ ば 「取 引き 」
もなかったはずで、種族関係 も自ずから違ったも のとなったろう。「人民憲法 」は
そ の 緩や か な公 民権 取 得条 件を 目 指し てい た 。そ こ で、 こ の「 人民 憲 法」 がど の
よ う なも の で、 どの よ うな 背景 の 下に 生ま れ 、も し 施行 さ れて いた ら どの よう な
状況が生まれる可能性があったかを 、独立後 50 年を経た現在の視点から探ってみ
1)
「 民 族 」と い う 人 も い る が 、特 定 の 居 住 領 域 を 持 って そ の 地 域 に つ い て 一 定 の 統 治 権 を
求 め て い る わ け で な い の で 、 日 本 語 と し て坐 り 心 地 は悪 い が こ の 言 葉 を 使 わ せ て い た だ き
た い 。 因 み に 、 マ レ ー シ ア の 華 語 で は 通 常こ の 語 が 使わ れ る 。
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JAMS News No.39 (2007.11)
たい。マレーシア国内に再評価の声があ るためで あろう、
「人民憲法草案」は、2005
年 5 月に英語版
2) 、華語版 3)
が相次いで復 刻出 版された。以下、主にこれを基に
検討 を進 め たい 。な お、 人 民憲 法の 規 定す る国 家は 、名 称 は同 じ「マラ ヤ 連邦 」だ
ったが、イギリス案と違ってシンガ ポールを含め ていた。
人民憲法は、1946 年 12 月に植民地政府、 UMNO、スルタンの協議を経て発表
されたマラヤ連邦案への対案として、マレー人左派、非マレー人左派の連合体
(Putera-AMCJA) が 47 年 8 月 に策定したもの である。Putera(Pusat Tenaga
Rakyat)の中心は マレー国民党 PKMM、AMCJA(All Malaya Council of Joint
Action)の中心はマラヤ民主同盟 MDU、全マラ ヤ職工連合総会 FTU など華人系
組織(その背後にはマラヤ共産党[マ 共]がいた)や MIC だった。起草したのは MDU
の John Eber(ユーラシア人)と Quok Peng Chen だった。Quok の本名は郭鶴
齢(William Kuok)で、後の大富豪ロバート・ クオク(郭鶴年)の次兄だった。
マ共党員でもあり、53 年に抗英 戦争で戦死する 。
人民憲法の内容
1
公民権
人民憲法の公民権条項は 、総てのマラヤ出生者 に自動的にムラユ(Melayu)公
民 権 を認 め 、外 国生 ま れの 帰化 条 件も 極め て 緩や か だっ た が、 マラ ヤ への 忠誠 を
誓う者のみに公民権を認めるとも繰 り返し述べて いる。解説の中で、「当局側のマ
ラ ヤ 連邦 案 は国 籍と 公 民権 を区 別 し、 公民 権 を忠 誠 と無 関 係に 認め て いる 」と 批
判 し ても い る。 華人 の 多く は中 国 への 帰属 意 識を 持 って お り二 重国 籍 を望 んで い
る が 、マ ラ ヤへ の帰 属 意識 を持 ち マラ ヤへ の 忠誠 を 誓う 者 のみ が公 民 権、 従っ て
国 籍 を 認 め ら れ る 、 と も 記 し て い る 。 当 初 案 で は マ ラ ヤ 公 民 権 ( Malayan
Citizenship) だ っ た が 、 協 議 の 中 で 「 Malayan は 非 マ レ ー の 響 き が あ る 」 と の
PKMM のムスタファの主張
4)
が入れられて「ム ラユ」となったのだという。
華 人社 会 一般 が人 民 憲法 に冷 淡 だっ たの は 、こ の ムラ ユ とい う言 葉 への 反発 が
あったろ う。2005 年 にマレ ーシア で開か れたあ る会議に 出席し た時、「あな たは
ムラユ民族 Bangsa Melayu を受け容れるか」と 質問された元左翼活動家の華人が
「マレーシア民族 Bangsa Malaysia ならと もか く…」と言葉を濁したのが印象に
2)
The People’s Constitutional Proposals for Malaya 1947 , Kajang, Ban Ah Kam, 2005.
万 家 安 編 『 1947 年 馬 来 亜 人 民 憲 章 草 案 』 Kajang, 当 代 本 土 史 料 研 究 室 、 2005.
Mustapha Hussain, Memoir Mustapha Hussain: Kebangkitan Nasionalisme
Melayu sebelum UMNO , Kuala Lumpur, Dewan Bahasa dan Pustaka, 1999, pp.459-469.
同 書 の 英 語 版 Malay Nationalism before UMNO: The Memoir of Mustapha Hussain ,
Kuala Lumpur, Utusan Publications and Distributors, 2005 で は 、 こ の 苦 心の 用 語
Melayu が 不 用 意 に Malay と 訳 さ れ て い る ( p.345)。
3)
4)
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JAMS News No.39 (2007.11)
残 っ てい る 。反 発は そ れだ けで は なか った ろ う。 中 国と の 絶縁 を迫 る よう な憲 法
は 、 当時 の 華人 には 容 認で きな か った に違 い ない 。 しか し 、時 代を 経 て中 国へ の
忠 誠 心、 帰 属意 識が 華 人に とっ て 無縁 にな れ ば、 こ の問 題 も解 消す る 。独 立時 に
はほぼそんな状況になっていた。「取 引き」は不 要だったろう。
2
種族問題に関わるその他の条項 (要旨)
(1)議会と選挙:種族(communal. 華語では「地方性」)を基盤とする立候補、
割当ては認めないが、最初の 3 議会まではマレ ー 人議員の比率は 55%を下回って
はならない。
(2)種族評議会(Council of Races)
:マレー人 、華人、インド人、ユーラシア、
先住民、アラブ、ユダヤ人他、 各 2 人の委 員か ら成る。議会で可決された法律が
種 族 、宗 教 面で 差別 的 でな いか 否 かを 審議 す る( 差 別的 と 判定 され た 場合 どう な
るかなどについて、詳細な規定が盛 られている)
(3)言語:公式機関での使用 言語はマレー語と するが、当面他言語の使 用も認め
る。公用語はマレー語とする。
(4)イスラム教とマレー人 の慣習:マレー人自 身が管轄する。
こ のよ う な憲 法か ら 現在 以上 に 良好 な種 族 関係 が 生ま れ たか どう か を判 断す る
こ と は難 し い。 ここ で は、 マレ ー 人へ の配 慮 は伺 え るが 、 現憲 法に あ るよ うな 永
. .. .
続的 な「マレ ー 人の 特別 な 地位 」は 規定 さ れて い ない 。種 族 のし がら み か ら 脱却し
ようとする姿勢がにじみ出ていると いえよう。
今 日か ら 見れ ば、 憲 法の 内容 以 上に 、決 定 に至 る 過程 が 重要 だっ た よう に思 わ
れ る 。 UMNO の 圧 倒 的 な 発 言 権 が 際 立 つ 昨 今 の 国 民 戦 線 内 の 状 況 と は 違 い 、
Putera-AMCJA の 協議は、対等な立場で、 相手 を尊重しつつ、きわめて率直なや
り取りを経て進められている。 AMCJA は、後 の 社会主義戦線(1957~ 66 年)内
の 労 働党 よ りマ レー 人 の立 場へ の 配慮 があ っ たよ う にみ え る。 植民 地 政府 によ っ
て解体(1948 年 4 月)されずに存続していれば 、国民戦線に代り得る真の「代替
戦 線 」と し て機 能し 得 たの では な いか 、そ れ は再 び 顕在 化 しつ つあ る やに 見え る
「 種 族の 溝 」を 乗り 越 える 上で 極 めて 有効 な 枠組 み にな っ たの では な かろ うか 、
というのが小論の結論である。
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