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公共建築としての「パラッツォ・デッラ・ラジョーネ」―トポス の
公共建築としての「パラッツォ・デッラ・ラジョーネ」―トポス の再検討と展望 “Palazzo della Ragione”as Communal building in the late medieval Italy. review and perspective 黒田 加奈子 KURODA, Kanako 要旨 北部イタリアのコムーネであったパドヴァによって建造された市庁舎兼裁判所であ るパラッツォ・デッラ・ラジョーネの存在意義について再検討を行う。従来の研究史では あまり問われることのなかった、北中部イタリアの各コムーネに共通するトポスとしての 公共建築群の位置づけからパドヴァのそれを捉えなおすことにより、その特異性を明らか にする。また、共和国条例集等の同時代史料の精読によって、パラッツォ・デッラ・ラ ジョーネというタームの含む意味と問題性について論じる。同時に、都市の中心において 市民と密接にかかわる場の状況を史料分析から明らかにする。 本稿は、北部イタリアのコムーネであったパドヴァによって建造された市庁舎兼裁判所 であるパラッツォ・デッラ・ラジョーネと、その2階部分にあたる大広間(以後「サロー ネ」と呼称する)の存在意義について再検討を行うものである(1)。 1 1世紀末から1 2世紀の北中部イタリアでは、市民による自警的誓約団体が主として司教 である都市領主及び神聖ローマ皇帝の支配権に対抗して、裁判、徴税、立法の権限を獲得 することにより、自治都市国家の形態をとっていった。1 1 6 7年、北部イタリアの諸都市は 3−9 0、在位1 1 5 2−9 0)に対抗しミラノを中心 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(1 1 2 2/2 としたロンバルディア同盟を結び、戦いを重ねるうちに都市内の結束を固め、都市国家コ ムーネとしての組織を整備するに至った。そして1 1 8 3年のコンスタンツの和約により皇帝 (1) パラッツォ・デッラ・ラジョーネを中心としたパドヴァ・コムーネの公共建築群建造の経緯について は本論で詳述する。現存するサローネは、長さ8 1. 52m、幅27. 16m、屋根の頂点までの高さ27. 08mを誇 る巨大空間である。内部装飾は、主に壁画によって構成されており、窓と枠組みを除く全てに壁画が施さ れている。壁面は、その構成から上下二つに分割することができるとみなされている。上部は、約3 30の 区域に分割されており、黄道十二宮の記号、月暦の擬人像、惑星神などを含む占星術的主題が描かれてい る。さらに、壁面下部は、およそ72の区域に政治的主題が表されている。現在見ることのできる装飾は、 後述する1420年の大火災以後、壁面上部が1435年頃までにジョット様式の影響を受けるニコロ・ミレット (Nicolo Miretto, 1375ca.‐?)と、ステファノ・ダ・フェッラーラ(Stefano da Ferrara, 1436−1441 に活動) によって再制作されたもので、壁面下部は、13世紀から16世紀まで装飾は繰り返し描き直されている。ま た、火災で焼失した壁画装飾はジョット(Giotto di Bondone, 1267ca.−1337)によって制作されたといく つかの史料によって伝えられているが、この問題については後述する。その他の壁画装飾の詳細な配置に ついては Barzon, Antonio, I cieli e la loro influenza negli affreschi del Salone in Padova, Padova : Tipografia del Seminario, 1924 を参照。氏によるこの研究がサローネの装飾についての研究史のほぼ出発点といえる。 また、論者は既にこの装飾の構造、とくに占星術主題を含む壁画について分析している。 『コムーネと占 星術―パドヴァ パラッツォ・デッラ・ラジォーネの壁面装飾を中心に―』 (千葉大学大学院平成12年度修 士論文)、「パドヴァのパラッツォ・デッラ・ラジョーネの占星術主題壁画の一解釈―占星術と自治都市国 家の社会秩序―」(第55回美術史学会全国大会(2002年5月)での口頭発表) 42 公共建築としての「パラッツォ・デッラ・ラジョーネ」―トポスの再検討と展望(黒田) 権から独立し、自治都市国家としての体制を確立した(2)。 この時代の各コムーネの史料に登場する「コムーネのパラティウム」palatium comunis は、ローマ帝国時代以来の「パラティウム」palatium のような支配者の住居としてでは なく、行政執行のための、市民が参集することのできる空間を有する公共の場として求め られ建造されたが、その存在そのものが当時新たに発生したコムーネという自治都市国家 の権力を顕示するシンボルとして機能していたといえる(3)。そもそも「パラティウム」 という語は元来ローマの7つの丘のうちのひとつを示す固有名詞であったが、アウグス ティヌス皇帝以下の貴族たちが競ってこの場に自身の居住する屋敷を建造したことから、 純粋に居住という機能のみを有する豪奢な屋敷を示す語として用いられるようになった。 しかし、ローマ帝国の版図拡大とともに皇帝が自身のパラティウムをローマの外の建設し 始めたこと、さらに各属州にプラエトリウム Praetorium を設置したことがこの語の指し 示す建物の意味の変容の出発点となった。プラエトリウムは、各属州を統治を担当するプ ラエトル Praetor の所在地において、行政や裁判を行う場としての建物を指した言葉であ る。帝国の崩壊後半島に侵攻したゴート族は、このローマ帝国のプラエトリウム跡を彼ら の王の「パラティウム」 として修復あるいは拡張したりしながら利用しはじめた。これが、 「パラティウム」という語に公共機能的な意味、特に司法行政上の機能を示す意味が付加 された経緯であるとされている(4)。こうした経緯を経て、当時のパラティウムという語 は、権力者の居住空間、執政空間、さらには裁判を行う場、という意味を示すものとなっ ていた。 「コムーネのパラティウム」は、その呼称においてすらも、既存の支配権力から 奪取した権利を執行する場であり、自治組織そのものの存在を顕示する場として機能して いたことを示していた(5)。 (2) 京大西洋史辞典編纂会編『新編西洋史辞典改訂増補版』創元社 1 993 p.283;清水廣一郎『イタリア の中世都市国家研究』岩波書店 1975 p.1。 (3) cfr. Andenna, Giancarlo,“La simbologia del potere nelle citta ` comunali lombarde : i palazzi pubblici”, Cammarosano, Paolo, a cura di, Le forme della propaganda politica nel Due e nel Trecento : relazioni tenute al Convegno internazionale organizzato dal Comitato di studi storici di Trieste, dall’École française de Rome e dal Dipartimento di storia dell’Università degli studi di Trieste : Trieste, 2-5 marzo 1993, (Collection de ´ l’Ecole fran!aise de Rome ; 201), Roma : ´ Ecole fran!aise de Rome, 1994 pp.369-393 この呼称はパドヴァにおいて確認される最古の公共建築の呼称でもある。cfr. Gloria, Statuti del Comune di Padova dal secolo XII al 1285, Padova 1873(以下『共和国条例』と呼称) (4) Bruhl, ¨ Carlrichard,“Il «Palazzo» nella citta ` italiane”, Centro di studi sulla spiritualita ` medievale, a cura di, La coscienza cittadina nei comuni italiani del Duecento : 11-14 ottobre 1970, (Convegni del Centro di studi sulla spiritualita ` medievale, Universita ` degli studi di Perugia 11), Todi : Accademia Tudertina, 1972 pp.263-282, p.269 実際のところ、パラティウムが複合的な意味を獲得していく経緯の詳細を追跡する ことは難しい。ローマ帝国末期からフランク族の侵攻に始まる当時の半島に侵攻したフランク王国におけ るこの語が示す意味は11を数えるという。これらの複合化された意味の中には、宮廷、建物、複合建築物、 君主に使える人々という意味も含まれていた。cfr. ---,““palatium”e“Civitas”in Italia dall’epoca tardoantica fino all’epoca degli Svevi”, in Congresso storico internazionale per l’8. centenario della prima lega lombarda, I problemi della civiltà comunale : atti del congresso storico internazionale per l’8. centenario della prima lega lombarda (Bergamo, 4-8 settembre 1967) , a cura di Cosimo Damiano Fonseca, Bergamo : Comune di Bergamo, 1971 pp.157-165 ;“Palatium”, in Enciclopedia dell’arte medioevale, vol.9 Roma 1998 (5) 同時代的に発生、発展した各コムーネのパラッツォは、名称における共通性ばかりではなく、建築様 式学的にも共通項が見出される。Romanini は、13世紀のロンバルド文化圏内におけるゴシック様式的造 形言語、とくにシトー派建築様式との結びつきを明確にしつつ「コムーネの公共建築群」という建築様式 上の枠組みを提示した。またここから、北中部イタリアのコムーネに現存する公共建築群をひとつの総体 43 人文社会科学研究 第 16 号 さらに「コムーネの公共建築群」は、単なる政治的なシンボルという建物自体の位置づ けを超えて、建築物内のフレスコ画を初めとする内部装飾によって、その場に集う「市民」 へ向けて、政体のとしてのコムーネによるイメージを介したメッセージを発し、政治的プ ロパガンダとしての役割をも果たしていた。これらのイメージを解読する作業は、 各コムー ネの有していた政治的意図を理解することを意味する。このような社会史的かつ図像解釈 学的視点からコムーネの公共建築空間の壁画を再検討する研究傾向は近年主流を成しつつ ある。とりわけ、シエナのパラッツォ・プッブリコ内の1 4世紀におこなわれた壁画装飾の 主題解釈は、コムーネの公共建築に配置されるイメージの役割について考察する出発点の ひとつとなったといえる(6)。 美術史上の様式の伝播、とくにジョット様式の伝播研究も、この政治的プロパガンダと して機能する公共建築の装飾に対する一連の研究の出発点のひとつであるといえる。ヴァ ザーリが記録する、フィレンツェのパラッツォ・ポデスタにあったが消失したジョットに よる寓意像《盗まれたコムーネ》の図像が、シエナ、さらにサローネをも含む各都市の公 共的性格を持つモニュメントの装飾へと応用されているという事実は、芸術家としての ジョットの影響力の大きさを指し示すのみではなく、その寓意像のもつ主題の重要性をも 示唆する(7)。 さまざまな「コムーネの公共建築群」 へのアプローチのなかで、本論の対象とするパラッ ツォ・デッラ・ラジョーネ、およびサローネの内部装飾についてのそれについては、再考 されるべき段階にあると考える。 「コムーネの公共建築群」のひとつとしてのパドヴァの パラッツォ・デッラ・ラジョーネについての研究は、Romanini の唱えた視点に添い、ポー 川流域の文化圏に属するコムーネの公共建築群に見られる建築様式上の類似とその中での 位置づけについて特に注目したそれが出発点といえよう(8)。しかしながら、各地に点在 する「パラッツォ・デッラ・ラジョーネ」という名で呼称される建築物そのものが示す俯 瞰的な意味での歴史的位置付けは未だになされていない。また、政治的プロパガンダを行 として捉えなおした史料解釈が進められ、コムーネの発生とその発展の歴史における神聖ローマ帝国に対 抗する権力の象徴として位置付けられるに至った。Andenna, op. cit. ; Romanini, op. cit. (6) とくに、Norman により編纂されたフィレンツェ、シエナ、パドヴァを多角度から比較検討した論文 集、さらに Maria Donato によるパラッツォ・プッブリコから出発した、イメージを個々のコムーネの有 する政治学によって読み解く手法は、パドヴァのように相似する状況の基に制作されたイメージを解釈す るための方法論として有効である。Norman, Diana ed., Siena, Florence, and Padua. Art, Society and Religion 1280-1400, 2vols. Yale Univ. Press ; New Heaven & London, 1995 : Donato の一連の研究、とくに“Il princeps, il giudice, il «sindacho» e la citta. ` Novita ` su Ambrogio Lorenzetti nel Palazzo Pubblico di Siena”, in IMAGO URBIS. L’immagino della città nella storia d’italia. Atti del convegno internazionale (Bologna 5-7 settembre 2001) , a cura di Francesca Bocchi, Rosa Smurra, Roma : Viella 2003 pp.389-416 を参照。 (7) Wieruszowski, H.,“Art and the Commune in the Time of Dante”, in Speculum , vol.19, Issue l (Jan. 1944), pp.14-33 p.24-25 では、諸コムーネが建設する公共建築には市民の富や生活を表現し、市民の連帯を 促す目的で装飾がなされたことが示唆され、同時代に建設された公共建築物は、コムーネの理想をプロバ ガンダする場であると位置づけられた。さらに、裁判官としてのコムーネあるいはポデスタという意義づ け、良き政治と悪しき政治の二項対立という表現は、ジョットのフィレンツェの失われた寓意像およびパ ドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の《正義》と《不正》の図像表象が導きとなって他都市へ派生したと指摘す る。この視点から、Malerei und Stadtkultur in der Dantezeit : die Argumentation der Bilder, hrsg. von Hans Belting und Dieter Blume, Munchen : Hirmer, 1989 などの成果が導かれた。 とくに Belting による序文を参照。 (8) Zuliani, Fulvio,“i Palazzi Pubblici dell’eta ` comunale”, in Padova. Case e Palazzi , a cura di Lionello Puppi e Fulvio Zuliani. Vicenza : Neri Pozza, 1977 pp.3-20 44 公共建築としての「パラッツォ・デッラ・ラジョーネ」―トポスの再検討と展望(黒田) う場としての役割についても、その考察は充分深められているとは言い難い。またサロー ネの壁画装飾は、ジョット様式のパドヴァでの波及を示す一例としてその重要性が指摘さ れながらも、装飾プログラム全体としての主題解釈でもはかばかしい進捗はない(9)。そ れは、政治体制の変化や経年、湿気による劣化に伴うたび重なる描きなおし、保存状態の 悪さ、装飾変更の経緯を示す史料の大部分の散逸などの理由のほかに、壁面全体を統一し た図像プログラムとして解釈することの困難さ、芸術家としての力量の劣る者によりなさ れた作品に対する研究の遅れなどがあげられる。 こうした歴史学/美術史学/建築史学上の研究傾向をふまえ、本稿では特に、パドヴァ のパラッツォ・デッラ・ラジョーネおよびサローネのトポスとしての意味について再検討 を行う。北中部イタリア全体に点在する数多くの「パラッツォ・デッラ・ラジョーネ」内 での位置づけ、さらにパドヴァ・コムーネにとってどのような存在としてあったのかを現 存する同時代史料の再解釈を通して行いたい。 パラッツォ・デッラ・ラジョーネの来歴 現存する数少ない同時代史料から当該パラッツォの建設および改築された経緯を描出す る作業は1 9世紀末から行われ、現在では以下のように考えられている(10)。 1 3世紀以前の共和国条例に散見される domus comunis(あるいは comune palacium) と呼ばれる建物がパラッツォ・デッラ・ラジョーネの原型とされている(11)。この説を導 (9) すなわち、なぜ裁判を行う場に上述した主題の壁画が描かれたのかという大きな問題に直面する。こ の問題について、当時のパドヴァの社会的状況をかんがみた仮説を提示しているのは、管見の限りでは、 とくにパドヴァにおける占星術主題を持つ細密画の研究からサローネの壁画にアプローチを続けている Mariani Canova が、パラッツォ・デッラ・ラジョーネ修復作業中間報告書において、天上界での星々に よる運命統治論と地上における裁きの関連性について短く言及されているのみである。Ministero per i Beni Culturali e Ambientali. Soprintendenza per i Beni Artistici e Storici del Veneto. a cura di Anna Maria Spiazzi, Il Palazzo della Ragione di Padova. Indagini preliminari per il restauro. Studi e ricerche. (Laboratorio Aperto N.5), Canova : Treviso, 1998 pp.23-61 p.24 占星術に基づく運命論を描くことによって、コ ムーネがこの場で執行する裁判の正当性を顕示しているとする仮説については、論者も前掲修士論文にお いて提出している。この問題は、元来の研究史で唱えられてきたように、当時のパドヴァ大学において占 星術研究が盛んであったから、という単純な回答では説明しきれないと考える。eg. Berti, E.,“Filosofia, astrologia e vita quotidiana nella Padova del Trecento”, in I Dondi dell’Orologio e la padova dei Carraresi , Montagnana, 1989 pp.17-28 (1 0) 現存する建物の原型を議論することについての研究史上の問題も含め、おおよその来歴は Centro Internazionale di Storia dello spazio e del Tempo, Il Palazzo della Ragione a Padova , Roma : Istituto poligrafico e zecca dello Stato, Libreria dello Stato, 1992 3vols. (以下 CISST と記す)に所収された Bozzorato による論文でも集成されているが、ここでは特に論者が来歴を精査するために参照した史料をもとに組み 立てている。史料上の最大の問題点は、1285年から14世紀半ばまでの共和国条例を初めとする公文書がほ とんど散逸している点にある。このため、とくにパラッツォ・デッラ・ラジョーネ建造の来歴については、 現存する3つの条例集、および個人による年代記、文学的作品等から再構成された曖昧といわざるを得な いラインを描出することしかかなわない。 (1 1) コムーネとしてのパドヴァが政体として機能していた期間である13世紀から15世紀までの間に、条例 集として編纂され現存していることが確認されているのは、パドヴァ市美術館図書館(Biblioteca del Museo Civico di Padova)に保管されている以下の3つの版である。①1 276年編纂『共和国条例』ms. B. P.1235、②136 2年編纂『カッラーラ家版』ms. B. P.1237、③1420年編纂『ヴェネツィア版』ms. B. P.1236。 ①は、1 285年にいくつかの条例を加え再び編纂された。この版が Gloria によって刊行された『共和国条 例』である。②、③については、現段階では Roberti の研究などをはじめ部分的な抜粋が刊行されている のみである。cfr. Roberti, Melchiorre, Le corporazioni padovane d’arti e mestieri : studio storico-giuridico con documenti e statuti inediti, Venezia : Istituto veneto di scienze lettere ed arti, 1902 ①と②の間に共和国条 45 人文社会科学研究 第 16 号 いた Gloria によれば、domus comunis は1 1 6 2年より建設が着工され、1 1 6 6年には既に完 成していた。この年の春にパドヴァ人はフリードリヒ1世に対して反乱を起こし町からそ の勢力を駆逐したのだが(この翌年にロンバルディア同盟が結成される) 、domus comunis はその勝利を記念するシンボルと位置づけられていた(12)。 Moschetti はさらに、1 3世紀初頭に行われた現在地周辺の用地買収の記録や domus comunis の登場する他の史料の精査から、1 2 1 8−1 9年にあらためて石、煉瓦を用いて改築 あるいは建設されたと特定した。彼は特に、1 3 1 6年頃に成立した『パドヴァ王エジディウ スの幻視 Visio Egidij regis Patavie』 (以下『幻視』と記す)に登場する magnum palacium (regale palacium , principale palacium communis)および他のコムーネの公共建築物の 記述を分析することで Gloria の説を支持した(13)。 『幻視』によれば、1 3 0 6−9年頃、アウグスティヌス修道会陰修士フラ・ジョヴァンニ (Fra Giovanni degli Eremitani, 1289−1314 に活躍)によって同建築の大々的な改築が行 われた。この改築によって完成した形―地階に市場を擁するアーケード、2階には市民が 参集するための大広間、外部に接続する4つの階段と南北面に各々のロッジアを有し、 「船 をひっくり返した」形の青銅葺き製の屋根を持つ―が、現存するパラッツォ・デッラ・ラ ジョーネの基本となる姿とされている(14)。また、内部装飾もこの改築の直後にジョット 例が編纂されている可能性も示唆されているが現存しておらず、この間の条例は、②、③に部分的には組 み 込 ま れ て いる。Magliani, Mariella,“I tre manoscritti degli statuti comunali di Padova (sec.13.-15.) conservati nella biblioteca del Museo civico : note storiche e codicologiche”, in Bollettino del Museo Civico di Padova(以下 BMCP と略す)LXXVIII(1989) pp.155-164 ドムス domus は、古代ローマ時代の、上流階級の家族のためのアトリウム (中庭)をもつ平屋建ての都市 型住居を指す言葉だった。パラティウムの丘にこぞって建設された貴族の宮殿を domus と呼んでいた。 翻って皇帝の居住する住居も domus と呼称され、ここから神の座す家、至聖所、教会を示す意に派生し た。domus comuninus と comunis palatium は、文脈上同一の建物と特定されている。 (1 2) Gloria, Andrea,“Intorno al salone di Padova”, in Rivista periodica dei lavori della R. Accademia di Scienze. Lettere ed Arti in Padova, XXIX(1879) p.8 (1 3) 『幻視』は、パドヴァで裁判官を務めていた Giovanni da Nono(1276−1346)の手による詩的な形態を 取った同時代記録であり、後述する1306−09年頃の改築についての詳細を伝え、建築構造及び改築直後の 内部装飾プラン全体を伝える最古の記録とされている。Moschetti, A.,“Principale palacium communis Padue”, in BMCP , XXV(1932) pp.143-192(I-II-III), XXVI(1933) pp.99-155(IV-V-VI-VII), XXVII-XXVIII(19341939) pp.189-261(VIII-IX-X) ; Fabris, G.,“La cronaca di Giovanni da Nono : Visio Egidij regis Patavie”, in BMCP , XXVII-XXVIII(1934-1939) pp.1-30.『幻視』は数世紀のわたる多数の手稿がパドヴァコムーネ領地 内に残存しているが、全ての手稿を比較対照させた形で既に Fabris が出版している。論者が参照してい るはこの刊行版である。 (1 4) 屋根の形状について、 『幻視』では以下のように述べる。 “Cohopertura vero huius regalis palacii ex lighis aericis contexetur ad modum navis subvolte.”「木製のこの宮殿の現在の屋根は、引っリ返した船 の形として青銅で葺かれるだろう」 (以下ラテン語邦訳は全て論者による)Fabris, op. cit., p.20 この船を ひっくり返した形に整形された理由についてはいくつかの説が提示されているが、根拠となる史料は未だ 提示されていない。 また、改築前後のパラッツォ・デッラ・ラジョーネの形態については、Moschetti が推測を行っている。 パラッツォ・デッラ・ラジョーネの研究史上の問題のひとつでもあるが、Moschetti 以後、建築要素を再 考する動きは管見の限りまだ起こっていない。彼は改築によって、①最上階の両脇にロッジアを設ける② 屋根を木製から銅製にし、補強と銃眼小窓の設置のために外壁を6メートルほど高くする③礼拝堂、ポデ スタ(行政長官)のオフィス、4人の裁判官と14人の判事の裁判所、様々な行政上の事務所と公証人のオ フィスが集められていた中2階を除去し、二階構造にする④最上階の4本の円柱が除去され、屋根を1 16 のリブによって下から支えるようにし、12(後に20)の鉄の小屋梁の配置することにより、二階を大広間 にする、などを行った。中二階で行われていた業務はすべてこの大広間で行われることとなり、布などで 仕切りを作って用いられていた。 46 公共建築としての「パラッツォ・デッラ・ラジョーネ」―トポスの再検討と展望(黒田) によって制作されたと考えられている(15)。フラ・ジョヴァンニは当時、アディジェ川に 関する事業、ヴィチェンツァのへ向かう幹線道路事業(ともに1 2 9 5) 、現在のプラート・ デッラ・ヴァッレにあたる場所にあった都市郊外にあった湿地の干拓事業(1 3 1 0) のほか、 アウグスティヌス修道会教会のファサードのアーチ、穀物商館建造(1 3 0 2)など、コムー ネの発注する公共事業および同市の都市計画の中心に携わっており、史料上では“enzegnerius”と称される。このパラッツォ・デッラ・ラジョーネの改築も、同時期に建設 されたパラッツォ・ディ・コンシリオ(1 2 8 5年建造)と相似するの重厚な石造りのアーチ の連続性などに見られる建築要素の一致から、この都市計画に沿って行われたものと考え られている(16)。 1 4 2 0年に発生した大火により、同建築の屋根は破壊され、壁の一部は落ち、壁画も甚大 な損害を被った。当時既にヴェネツィア共和国の支配下に置かれていたパドヴァに、ドー ジェが修復士と技師を派遣し数年の年月を経て再建された。当時パドヴァ大学で医師とし て教鞭を取っていたサヴォナローラ(Michele Savonarola,1 3 8 4?−1 4 6 2?)による Libellus de magnificis ornamentis regie civitatis Padue(以 下 Libellus と 略 す)で は、プ レ ト リ オ “Pretorio” 、すなわち現在のパラッツォ・デッラ・ラジョーネの再建直後の内外部の様子 について触れられている(17)。 (1 5) 1306−09年の改築に伴い、最上階内部装飾も一新されたと推測されている。『幻視』では、“Duodecim coelestia signa et septem planete cum suis proprietatibus in hac cohopertura fulgebunt a Zotho summo pictore magnifice laborata et alia sidera aurea cum speculis et alie figrationes similiter fulgebunt interius.”「その名声を広く知られる最高の画家 Zotho による、黄道1 2宮の記号と七つの惑星が各々の属性 を伴って(あるいは各々の惑星が属する「家」に配されて)この屋根(覆い)から輝くであろう。さらに 光り輝く黄金の星々と他のイメージが同様に内部を照らすであろう」と記されている(Fabris, op. cit. p.20)。さらに、1313年頃に成立した年代記では、 “Zothus pictor florentinus agnoscitur quelis in artis fuerit, testantur opera facta per eum in Ecclesiis Minorum Assisii, Arimini, Paduae, ac per ea quae pinxit in Palatio Communis Paduae”(フィレンツェの画家 Zothus は、アッシジの下院、リミニ、パドヴァで行っ た作品によって、そしてパドヴァの市庁舎に描いたことによって、技量において絶対者として認められて 保証された事であろう)としている。Riccobardo Ferrarese,“Compilato Chronologia”, in Rerum Italicarum Scriptores(以下 RIS と略す) , tomoIX 255A 本装飾の制作年代を示唆する記録は数少ないが、1 7世紀に成 立した旅行記によれば、サローネの内部は1 312年頃装飾されたとある。Portenari, Della felicità di Padova, Padova 1623 しかしながら、スクロヴェーニ礼拝堂壁画制作のためのパドヴァ滞在(1 302−05頃)以後、 パドヴァに再び滞在したとは考えがたい。さらに、1309年にはフィレンツェで Palmerino di Guido(アッ シジの聖フランチェスコ教会上院での共作者とされる)との賃貸契約を交わしているため、サローネの壁 画の制作年代は、最大でも1 306−1308年の間であると考えられている。D’Arcais, Flores, Giotto, Milano, NY, 1995 ; Sgarbi, Vittorio, a cura di, Giotto e il suo tempo, Padova 2000 さらに、1440年頃成立した別の年代記で、初めて図像プログラム発案者への言及が登場する。これによれ ば、かの“Zothus”は、同時期のパドヴァ大学で教鞭をとった哲学者であり天文学・占星術学者であるピ エトロ・ダーバノ(Pietro D’Abano, 1250−1318)に導かれフレスコ画を制作したことになる。Michiel Savonarola,“Libellus de magnificis ornamentis regie civitatis Padue”, in RIS , Nuova ed. tomoXXIV parte XV, Citta di Castello : S. Lapi, 1902 p.44, 47-8 また、Thomann, J.“Pietro D’Abano on Giotto”, in Journal of Warlburg and Coutaurd Institute, LIV(1991), pp.238-244 も見よ。 (1 6) Prosdocimi,“Note su Fra Giovanni degli Eremitani”, in BMCP , LII(1963) pp.15-61 ; CISST , p.16 ; 彼 がこれらの公共事業において、どのような役割を果たしていたのかという議論について、 “enzegnere”と いう呼称が問題となる。この語が示す意味と、同時代の建築士、設計士、監督などの定義についての再考 と分析を促しているのは、特に Valenzano, Giovanna,“Giovanni degli Eremitani, un“enzegnere”tra mito e realta” ` , in Medioevo : immagine e racconto. Atti del convegno internazionale di studi (Parma, 27-30 settembre 2000) , Milano ; Electa 2003 pp.413-423 ; ibid., il saggio in Costruire nel Medioevo. Gli statuti della fraglia dei murari di Padova, a cura di G. Valenzano, Padova, 1993 pp.2-37 である。 (1 7) Libellus, op. cit. pp.47-48 47 人文社会科学研究 第 16 号 1 7 5 6年8月1 7日発生した巨大な竜巻により、天井の東側の一部を残しほぼ失われ、1 7 5 9 年までに再修復が完了した。それまで同宮殿は司法の場として機能していたがこれ以後そ の機能は失われた(18)。 パドヴァにおける「パラッツォ・デッラ・ラジョーネ」呼称の発生 上記の1 5世紀までの史料からも明らかなように、少なくとも1 5世紀半ばまで、この建物 に対して「Palazzo della Ragione 理性の宮殿」という呼称は用いられていなかった。1 3世 紀以前の共和国条例の中で、さらに現存するパラッツォ・デッラ・ラジョーネの基礎とな る建築物が完成した1 4世紀初頭において、この建物は「パラティウム」という語をもって 呼びならわされている。また、1 5世紀前半には「プレトリオ Pretorio」という語で表現さ れている。 “Pretorio”は、Praetorium あるいは Praetor から派生した語で、ラテン語の プラエトリウムを示す。つまり、両者の言葉の意味の成り立ちを考えるならば、司法行政 を執行する場であり、それを取り仕切る権力者の座があった公共建築物を指していること に変わりはない。このことは、 1 4世紀初頭の改築前後と1 5世紀前半の修復後のパラッツォ・ デッラ・ラジョーネの果たす機能に変更点がなかったことを示すと同時に、1 5世紀の時点 で、パドヴァコムーネの司法の場という機能を強調しているとも考えられる(19)。 では、 「パラッツォ・デッラ・ラジョーネ」という呼称が登場した根拠はどこに求める られるのか。この呼称は、主にロンバルディア地方で用いられている(20)。建築様式的に は、特にこの地方のコムーネの公共建築の一つであるブロレット Broletto の様式を模倣 2,1 3世 した後継にあたる大部分のそれを指すと Zuliani は指摘する(21)。ブロレットは、1 紀のロンバルディア地方において、司法行政およびその他の行政機構の機能を果たすため のコムーネの立法府を指す。この呼称はコンスタンツの和約(1 1 8 3)以後、すなわち、神 聖ローマ皇帝に対抗する自治権獲得の抗争を経てそれを確約させた後に各地に出現し、ミ ラノ、コモ、ノヴァラなどのロンバルディア地方およびマントヴァ、クレモナ、ヴィチェ ンツァなどのロンバルディア同盟に参加する都市でこの名称の建物が確認される(22)。建 築的特徴としては、地階にアーケードを持ち、2階に単一の大広間、さらに大広間に直接 接続する外部の階段を持つ。これは、パドヴァのパラッツォ・デッラ・ラジョーネが現在 に残す特徴ともほぼ一致している。しかしながら Zuliani の定義に従えば、これらのコムー ネの公共建築群の様式的特徴が、エミリア・ロマーニャ州の都市ポンポーザにある 「パラッ (1 8) Giuseppe Gennari, Lettera intorno alle rovine causate al Palazzo della Ragione dal turbine 17 Agosto 1756, Padova 1756 (1 9) 当時、パドヴァは、カッラーラ家によるシニョーリア制を引きつつも実質ヴェネツィア共和国の影響 下に置かれていた。このことから、ローマ時代の属州統治官の座としての呼称を持ち出すことは非常に興 味深い。この点については、作者であるサヴォナローラの分析とともに別の機会に分析を試みたい。 (2 0) 「コムーネの公共建築群」の各名称を地域ごとに分類する試みは Reggiori によって提出されている。Reggiori, Ferdinando,“Aspetti urbanistici ed architettonici della civilta ` comunale”, in I problemi della civiltà comunale (op. cit.) pp.97-110 特に p.104しかしながら、各名称の出現した時期については論じていない。 (2 1) Zuliani, op. cit. (2 2) さらにコムーネの権力拡張は、公共建築物が機能に従い分化あるいは複合化されていく過程にも見ら れ、ブロレット以外の公共建築、すなわち Podesta, ` Consoli など、組織の上位に置かれる役職のための居 住空間や執政空間を生み出していく。そしてこれらの Palazzi は、新しいパラッツォ Palatium nuvum と いう総称で示される。Enciclopedia dell’arte medievale, vol. 3 Roma 1992 pp.765-767 48 公共建築としての「パラッツォ・デッラ・ラジョーネ」―トポスの再検討と展望(黒田) ツォ・デッラ・ラジョーネ」にその様式のプロトタイプを求められるように、この 「パラッ ツォ・デッラ・ラジョーネ」というタームには様式的な厳密さはない(23)。Carlo Gustav Mor は、Romanini によるコムーネ時代の造形表現としてブロレットを初めとする教会を 含めたコムーネ時代の建築物群の造形表現を分析した論文に寄せて、多種多様な特徴を示 すコムーネの公共建築 palazzi comunali は、すべて「パラッツォ・デッラ・ラジョーネ」 という名の元にその多様性が隠されてしまっていると指摘した(24)。また、このブロレッ トの様式的特徴とされる要素についても、Andenna によれば全てのブロレットにおいて 有効ではない(25)。 こうしたことから、 パラッツォ・デッラ・ラジョーネというタームは、 北中部イタリアの他のコムーネの公共建築群研究においても管見の限りでは建築様式的な 厳密な定義はいまだに存在しないと考える。 しかしながら実際のところ、パドヴァ・コムーネでは、1 2 8 5年以前の共和国条例におい て、司法行政についての章を“de racione reddenda”と呼称し、裁判を行う場を Palacium (パラティウムのヴェネト方言化した表現)としているのである(26)。さらに『幻視』にお ていは、一箇所だけ“maius racionis palacium”と表現された箇所がある(27)。この箇所は、 パラッツォ・デッラ・ラジョーネの地階とその周辺の広場に展開された市場の配置につい て述べている箇所で、 「正義を執行する」や「唯一の」といった他の箇所で見られるよう なこの建築ついての修飾句は用いられていない(28)。“racione”という名詞は、ラテン語 rationem の当地の方言であり、rationem はイタリア語 ragione の語源のひとつとなってい る。ragione は本来、計算すること、数えること、計測することを意味しており(ゴート 語で数字を意味する rathjo からも派生) 、そこから理性、判断する・裁判するという意味 が派生した(29)。racione という語が示唆する意味は、法律あるいは正義、神そのものであ るとされる中世法学研究上における意味をももちろん包含し、裁判を執り行う場としての 建物を表象するにふさわしい言葉として用いられているのである(30)。 (2 3) Zuliani, op. cit. Romanini, Angiola Maria,“Le arti figurative nell’eta ` dei comuni”, in I problemi della civiltà comunale (op. cit.) pp.83-96 特に p.93 (2 5) Andenna, op. cit. (2 6) 『共和国条例』pp.159 ff. Gloria の云うところの「粗野なラテン語」 (ibid. 当地の方言化した単語をラ テン語文法によって文章にしている)を現代イタリア語に訳出した Statuti del Comune di Padova, traduzione da Guido Beltrame, Guerrino Citton, Daniela Mazzon, Cittadella : Biblos2000では、該当章を Amministrazione della Giustizia、Palacium を Palazzo と訳出している(pp.202ff.)。 (2 7) “Alia vero decem palacia circa maius racionis palacium constructa erunt, sub quibus vendetur diversa rerum genera.”「大きな理性のパラティウム、この下ではさまざまな種類のものが売られるように なるだろう、この周りを取り囲み、さらに10のパラティウムが建設されるだろう」『幻視』(Fabris, op. cit.), p.12 (2 8) 『幻視』 (Fabris, op. cit.) , p.11 ( “PALACIUM REGALE, SEU COMUNE, …facient reddere ius uniquique” ) , 14(“…, ad principale solarium, in quo ius reddetur, …”), p.15(“Super medium magni solarii…”)など。 (2 9) Pianigiani, Ottorino, Vocabolario Etimologico Della Lingua Italiana , Firenze : Ariani, 1926 ; Devoto, Giacomo, Avviamento alla etimologia italiana. Dizionario etimoligico, Firenze : Felice le Minnier, 1968 p.347 (3 0) 法学研究においての raciones と、パラッツォ・デッラ・ラジョーネという呼称の関係性、基準度量 衡のレリーフおよび計測機器とともにあり、 “racio”と呼ばれる「正義」の擬人像(サローネの北壁に存 在する壁面装飾の一部に当たる)について、論者はすでに、 「正義と裁きの図像学的伝統の形成──1 4世 紀パドヴァ・コムーネを中心として──」池田忍編『権力と視覚表象(第3巻)千葉大学社会文化科学研 究科 研究プロジェクト報告書』 (20 03年3月)所収 pp.31−47において部分的にまとめている。また、 Ascheri は、 「パラッツォ・デッラ・ラジョーネ」という呼称の発生理由について、コムーネの条例制定 (2 4) 49 人文社会科学研究 第 16 号 パドヴァにおけるパラッツォ・デッラ・ラジョーネの都市学的意味 他のコムーネのパラッツォ・デッラ・ラジョーネのように、 『幻視』によればパドヴァ のそれの地階とその周辺にさまざまな商店が集められ市場として機能していた(31)。 また、 パドヴァのパラッツォ・デッラ・ラジョーネは、ドゥオーモと対置する形で都市旧市壁内 のほぼ中心に置かれた。都市計画の意図として、都市の中心に、宗教的機能 (ドゥオーモ) 、 行政的機能(市庁舎、裁判所) 、経済的機能(市場)を集中させていたと考えられる。行 政機能の集中は、1 1 7 4年に行政長官ポデスタを置き、コムーネとしての都市体制を整える 中で行われた。 『幻視』 では、エッツェリーノ・ロマーノ (Ezzelino da Romano, 1194−1259) の侵攻に耐え勝利したコムーネの平和への祈願としてコムーネのパラッツォ palacia [パドヴァ人が ius unicuique commnia が建造されたと記されている(32)。magnum palacium 唯一の正義によって裁かれる場] 、palacium Consilii(議会) 、palacium potestatis(ポデ スタのパラティウム) 、palacium senatorum urbis Padue(長老部のパラッツォ)が建て 3世紀初頭のことである。原 られた(33)。現存する4つの建造物の配置が決定したのは、1 初のサローネは、1 2 1 8年に建造を開始し、1 2 1 9年に完成した。この敷地はマンフレーディ 家からコムーネによって公用徴収された土地であった(34)。この4つの公共建築は、地階 にロッジアを設けてあり、そこでは様々な商店が営業していた。また、広場の再整備を行 い、サローネの両脇に二つに広場が設けられた。それらは野菜市場と果物市場と呼ばれる ような市の立つ広場となった(35)。また、商業活動の場とパラッツォ・デッラ・ラジョー ネが密接な関係にあったことは、1 2 7 7年に制定された共和国条例の一項目においても伺え る。第8 5 2条では「鳥の扉に密接する階段/扉」という表現があらわれるが、これは、1 2 3 6 年以前よりコムーネが定めた煉瓦、瓦の規格モデルが存在し、 1 2 7 7年にはその規格がパラッ ツォ、つまりパラッツォ・デッラ・ラジョーネの外部に接続する「鳥の階段」の一角に展 『幻視』によれば、 「鳥の階段」とはタカ類、キジ 示されていた事を示すものである(36)。 類、ヤマウズラ類などの鳥を売っているそばにある階段のことを指し、1 3世紀の市場の配 置を基にした名前として現在でも使用される。実際サローネ北東部分の階下に当たるこの 一角では現在でも鳥製品が売られている。サローネにロッジアを経て出入りすることので きる四つの階段は、鳥の階段のほかに、ワインの階段(南東) 、鉄の階段(南西) 、布の階 段 (北西) と呼称され、 各々市場での各商品の売り場とサローネの接続点を示している(37)。 のよりどころとするのが「書かれた理性 ratio scripta」であったからと説明している。Ascheri, Mario, I diritti del medioevo italiano. secoli XI-XV , Roma : Carocci editore, 2000 pp.279-281 (3 1) 『幻視』(Fabris, op. cit.)p.11ff. (3 2) ibid. (3 3) ibid. ; Cessi, R.,“Le prime sedi comunali padovane”, in BMCP , LIII(1964) n. 2 pp.57-80 p.57 (3 4) Norman, op. cit. vol.1 pp.7-27 Chap.1 The three cities compared : urbanism (3 5) 元からこのエリアには商業機能が集中していたと思われる。なぜならば、そこは古代より運河の港と して栄えていた広場(Piazza dei Noli, Piazza delle Legne)に隣接しているからである。陣内秀信『都市 を読む*イタリア』法政大学出版会 1980 p.77 更にその商店の配置は業種ごとに区画分けされ、塩など 重要な業種は公共建造物の下に置かれた。コムーネによる行政機能の集中によって、市民を構成する商人 と市民による都市運営のシステムが統括されたことになる。このエリアには12世紀以前に聖マルティヌス 教会があり(以後サローネ内に組み込まれた) 、この空間が古代ローマのフォルムを踏襲して形成されて いるという説もある Norman, op. cit. vol.2 p.19 (3 6) 『共和国条例』p.286注(e) (3 7) 『幻視』(Fabris, op. cit.)p.17 ; Il palazzo della Ragione in Padova , a cura di Pier Luigi Fantelli e 50 公共建築としての「パラッツォ・デッラ・ラジョーネ」―トポスの再検討と展望(黒田) ことほどさように、行政執行の場と商業活動の拠点は、しっかりと結び付けられていた。 結びにかえて 本稿は、パドヴァのパラッツォ・デッラ・ラジョーネを、北中部イタリアにおける公共 建築群研究の一端として再検討するとともに、同時代の史料解釈により、その名称と場の 意味を再考した。「パラッツォ・デッラ・ラジョーネ」という、イタリア語そのものが「裁 判所」という意味を持っているという状況を考えると、このタームによってす各コムーネ のパラッツォ・デッラ・ラジョーネの差異や特色が見えにくくなっているという Zuliani の指摘は的を得ていると考える。同時代史料を精読することによって初めて、パドヴァの パラッツォ・デッラ・ラジョーネが他の「コムーネのパラティウム」という場とは大いに 異なる意味を有して表現されていたことを確認できた。こうした状況は、他のコムーネで も同様なのかもしれない。しかし、今後の各都市の個別研究の進展がその整理分類を進め ることを可能とする状況を作るであろう。さらに、パドヴァに見るように、外階段や度量 衡レリーフなどの建築的要素やあるいは内部の壁面装飾などを分析することによって、一 層その位置づけを明らかにすることが出来る。装飾の図像プログラム単体、度量衡の意味 づけ単体ではなく「コムーネの理性のパラティウム」という複合的な場の概念を構成する 各要素として捉えていくことが重要であろう。これらについては別稿でまた論じていく予 定である。 (くろだ・かなこ 社会文化科学研究科博士後期課程) Franca Pellegrini. Padova : Editoriale Programma, 1990. p.20『幻 視』を 基 に Andrea Verdi が 作 成 し た 13世紀の市場の配置図 51