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バーク『崇高と美』再読 - Researchmap
『イギリス理想主義研究年報』4 号(2008 年 8 月)用原稿 #提出した原稿を PDF にしたものですので、掲載されたものとは若干違っています# バーク『崇高と美』再読 ――〈言語の政治学〉のために―― 小田川大典 1.はじめに――政治思想史における言語の政治学 アリストテレスが『政治学』において人間を「ポリス的動物」と呼んだ際の根拠の一つ が、人間の言語能力(ロゴス)であったことを考えるならば、言語の政治学――政治生活 の中で言語が果たしている役割を理論的に明らかにすること――という研究テーマは古典 古代にまで遡ることができよう。だが管見のかぎりでは、現代欧米の狭義の意味における 政治理論研究において、この言語の政治学というテーマが本格的に論じられ始めたのはご く最近のことであり、その最も代表的な論者であるマイケル・シャピロの作品から伺われ るように(Shapiro 1981; do , ed. 1984.)、そこには、リチャード・ローティが(ベルクマ ンに倣って) 「言語論的転回」と呼んだ 20 世紀初頭の知の大転換以降の人文社会科学にお ける言語への関心――就中、モダニズムとポストモダニズムをめぐる激しい論争――が明 らかに影を落としている(Rorty ed. 1967; 新田ほか編 1993)。 こうした言語論的転回以降の言語の政治学をめぐる研究動向の一端について、たとえば 現代北米の代表的な政治理論研究者の一人であるスティーヴン・ホワイトは、①言語の「行 為調整的」機能を重視するハーバーマス的な「行為への責任」論と、②言語の「世界開示 的」機能に着目したフーコー的な「他者への責任」論という二つの系譜の存在を指摘して いる(White 1991)。ホワイトによれば, 「行為への責任」とは,近代に特有の,言語の「行 為調整的」機能に基づく「確かな知識を獲得し,実践的な目的をある弁護可能なかたちで 達成するよう行為するための道徳的で分別のある義務」のことであるが,ともすれば人間 存在の「有限性」(ハイデガー)を忘却し,「無限の知識や支配や安全を求める絶望的な運 動」の暴走を招く危険性を孕んでいる。したがってわれわれは,こうした近代特有の「有 限性についての無知」を克服すべく,言語の「世界開示的」機能によって, 「他者への責任」 感覚――「近代の認識装置が,不協和の根絶不可能性を否定するために用いる〔抑圧的な〕 方法を暴露し跡づけようとする強い責任感覚」――を陶冶しなければならない。現代日本 の代表的な政治理論研究者の一人である杉田敦によれば、現代政治理論の主な課題は、政 治社会における公共性――〈共通のことがら〉(res publica)――の理性的討議による問 い直しと、政治社会の構成員一人一人の自我形成に影響を及ぼしている権力についての系 譜学的考察の二つに分けることができるが(杉田ほか編 2006)、前者の公共性論に関わっ てくるのが、ホワイトのいう①「行為調整的」言語論の系譜――問題解決において言語が 果たす役割を重視する系譜――であり、後者の権力論を支えているのが②「世界開示的」 言語論の系譜――隠蔽された何かを顕わにするという言語の役割を重視する系譜――であ ることを考えると、これら言語の政治学の二つの系譜は、公共性論と権力論という現代政 治理論研究の二大トピックと、ほぼパラレルであるといっても過言ではない(Cf. 齋 藤 2000; 杉田 2000)。 だが、政治思想史研究に目を向けるならば、 「行為調整的」言語論の系譜を思想史の中に 探る研究がハーバーマスの影響の下で盛んに行われているのに対し、 「世界開示的」言語論 1 『イギリス理想主義研究年報』4 号(2008 年 8 月)用原稿 #提出した原稿を PDF にしたものですので、掲載されたものとは若干違っています# の系譜については必ずしも十分な研究がなされていないように思われる。そこで本稿では、 政治思想史における「世界開示的」言語論の系譜の一端を、エドマンド・バークの若き日 の著作である『崇高と美の観念の起源についての哲学的探求』(1757-59 年,以下,『崇高 と美』と略す)に探ることを試みたい。 2.「崇高」の「共感」をもたらす「強い表現」――『崇高と美』の言語論 『崇高と美』は、大きく分けるならば、再版の際に付された序論「趣味について」と、 「崇高」 (the sublime)と「美」 (the beautiful)の相違を論じた第一∼四編、それに視覚 芸術との対比によって言語芸術の特質を論じた第五編という三つの部分で構成されている。 以下ではまず、第五編を中心にバークの言語論について瞥見し、その後『崇高と美』の本 論にあたる第一∼四編について詳細な分析を行うことで、 『崇高と美』の議論の内在的再構 成を試みたい。 (再版の際に付された序論「趣味について」については、本稿では立ち入ら ない)。 まず第五編冒頭において、バークは言語の特質を、言語芸術と絵画を比較しつつ、言語 芸術が「厳密には模倣芸術ではない」ということを指摘している。 ……言葉に関していえば、私には、言葉が、自然界の対象や絵画や建築とはまった く別の仕方で、われわれの心を動かしているように思われる。 ……実際のところ、詩歌や修辞は、正確な描写ということでいえば、絵画よりも劣 っている。詩歌や修辞の本分は、模倣よりも共感によって心を動かすことに、すなわ ち、事物そのものの明晰な観念を示すよりも、事物が語り手や他のひとびとの精神に もたらす効果を再現することにある。これこそが詩歌や修辞の最も大きな持ち場であ り、面目躍如たるところにほかならない(Burke 1958: 163-172)。 そしてこの言語芸術の本分である「模倣ではなく共感によって心を動かすこと」につい て、バークはミルトンの『失楽園』の一節を手がかりに、次のような分析を行なっている。 ……一つの例として、ミルトンの次のような一節を検討してみよう。そこにおいて ミルトンは、陰鬱な場所を進む堕天使たちの旅路を次のように描いている。 暗く、荒涼とした、幾つもの谷を越えて 幾つもの荒地を越えて、彼らは進む。 氷と炎に覆われたアルプの幾つもの山々を越えて。 岩、洞、湖、沼、沢、窟、そして影――死の、 それはまさに、死の宇宙。 この「岩、洞、湖、沼、沢、窟、そして影」という一行には統合の力が示されている が、もしも行末の「死の」が無ければ、その効果の最も強い部分が失われてしまって いたであろう。 こうした言葉によって生み出され、言葉によってしか与えることのできない観念や 感動は、きわめて強烈な崇高を発生させ、この崇高は、続く「それはまさに死の宇宙」 という一行によって、さらに強められる。心に明晰な映像を一切示さないものを観念 と呼んで構わないのであれば、ここにおいてもまた、〔「死」と「宇宙」という〕言葉 2 『イギリス理想主義研究年報』4 号(2008 年 8 月)用原稿 #提出した原稿を PDF にしたものですので、掲載されたものとは若干違っています# によってしか表現できない二つの観念があり、この二つの観念の、圧倒的なまでに偉 大にして驚異的な結合がある。しかし、依然として理解に苦しむのは、どのようにし て言葉が、リアルな対象に属する情念を、リアルな対象を明晰に表現することなくし て突き動かすなどということが可能なのかということである。この理解の困難さは、 われわれが言語を観察する際に明晰な表現と強力な表現とを十分に区別していないこ とに起因する。この二つは、実際にはまったく異なるものであるにもかかわらず、混 同されることが多い。前者は知性に関係しているのに対し、後者は情念に属している。 前者は事物をあるがままに描写し、後者は事物を感じられるままに描き出す。何かに ついて表現がなされるとき、表現される対象とは無関係に、感動的な語りの口調や、 情熱的な表情や、激しい身振りがわれわれの心を動かすのと同じように、情念に憑か れたひとが情念的な主題について用いる言葉やその配列の方が、同じ主題をはるかに 明晰かつ判明に表現している言葉やその配列よりも、われわれの心には強く訴えかけ る。描写に対して拒んでいた何かを、われわれは共感に対しては許してしまう。実際 のところ、言葉による描写は、純粋にそれが描写であると考えるならば、言葉のそも そもの不正確さは不問にするとしても、描写の対象について、あまりにも貧しく不十 分な観念しか与えないのであって、語り手が、自らの内にある強烈で生々しい感情を 表現する前述の話法を援用しないかぎり、言語による描写は、何の効果も生むことは ないであろう(Burke 1958: 174-176)。 絵画のような明晰さは持たないが――あるいは持たないがゆえに――事物を「感じられた ままに」描き出すことで情念に直接訴えかけることができる「強い表現」。バークによれば、 これこそが言語芸術の独擅場であり、それが最も鮮明なかたちで現れるのがミルトンの詩 句に見られたような「崇高」の「共感」であった 1。このことを確認した上で、われわれは 1 崇高の観念の分析にあてられた第二編の次の記述も参照。 「観念を明晰にすることと、観 念によって想像力に訴えかけることとは同じではない。宮殿や、寺院や、風景を絵画に描 けば、こうした対象について明晰な観念を示すことができるだろうが、しかし(模倣とい う営為が発揮するそれなりの効果はもちろん認めるとした上で)そうした絵画は、せいぜ い現実に存在する宮殿や、寺院や、風景が与える程度の感動しかもたらさないであろう。 他方、自らの能力の及ぶかぎり生気と気持ちを込めた言語表現は、そうした対象について 非常に曖昧で不完全な観念しか生み出さないが、この言語表現は、どれほど見事に描かれ た絵画よりも、強い情緒を呼び起こすことができる。このことは経験的にも明らかである。 心の感情を互いに伝え合うための適切な手段は言葉であって、言葉以外の意思疎通の方法 には、すべて、重大な欠陥がある。映像の明晰さは情念への影響にとって断じて必要なも のではなく、まったくそのような映像が与えられない場合でも、情念への影響に適した一 定の音響があれば、情念が非常に強く揺すぶられるということは、楽器のみによって奏で られる音楽のことを考えれば明らかである。実際、明晰であるということは、情念に働き かける上ではほとんど何の役にもたたないし、ある意味では、明晰さは、すべての熱狂的 な激情の敵である。……詩歌は、その表現がどれほど曖昧であろうとも、情念に対し、 〔絵 画などの〕他の芸術よりも、より力強く、より普遍的な支配力を発揮する。思うに、適切 に伝えられるならば、曖昧な観念の方が、明晰な観念よりも、より力強く心を動かすとい 3 『イギリス理想主義研究年報』4 号(2008 年 8 月)用原稿 #提出した原稿を PDF にしたものですので、掲載されたものとは若干違っています# 次に、 『崇高と美』の本論にあたる第一∼四編の崇高論を検討したい。というのも、そこに おいて、言語芸術がもたらす「崇高」の「共感」の倫理的な含意が明らかにされているか らである。 3.「喜悦」と「共感」の倫理学――『崇高と美』の崇高論 バークの崇高論の検討に際しては、幾つか踏まえておかなければらない思想史的な文脈 が存在する(Cf. 桑島 2007; 岸本 1989; 濱下 1993)。特に重要なのは,同作品において バークが「崇高」と「美」を区別する 17 世紀以来のイギリス崇高論の伝統を意識的に踏 まえていたことと,一般的な通説とは異なり,そこで述べられているバークの崇高論には, カントが後に『判断力批判』(1790 年)で展開した崇高論とは全く異なる問題構成が認め られるということ,この二点である。以下,この二点に着目しつつ, 『崇高と美』第一∼四 編の崇高論の内在的な再構成を試みたい。 (3.1)前史――イギリスにおける「無限性の美学」の伝統 通説において,18 世紀崇高論の起源は 1674 年にボワローがフランスで翻訳解説した (擬)ロンギノスの修辞学書『崇高論 Peri Hypsous』であり,外的自然に崇高を見出す イギリスの崇高論は,このフランス製の「修辞学的崇高」が通俗化されたもの――「堕落 し た ロ ン ギ ノ ス 主 義 」 ― ― に す ぎ な い と い う ふ う に 理 解 さ れ て き た ( Monk 1950. Cf. Nicolson 1959: 29-30)。だが,マージョリー・ホープ・ニコルソンが明らかにしたように, イギリスでは既に 17 世紀後半から,修辞学的崇高とは異なる「自然的崇高」を論じる伝 統――その原型は大陸旅行(Grand Tour)に出たイギリス人たちがアルプスの山巓で覚え た「喜ばしい恐怖,恐ろしい喜悦,限りない快感」である――が存在していた。すなわち ニコルソンによれば,イギリスにおいては,このように自然がもたらす感情の中に美しい 「調和」と喜ばしい「恐怖」という範疇的区別を見出す自然的崇高論の伝統が先行してお り,そこで深められた崇高と美の区別についての議論を,ロンギノス的な修辞学的崇高を も踏まえつつ, 「無限性の美学」へと仕上げたのがジョゼフ・アディソンであり,それがマ ーク・エイキンサイドの長編詩『想像力の快楽』(1744 年)を媒介として,若きバークの 『崇高と美』へと引き継がれたのである(Nicolson1946, 1959, 1973)。 (3.2)被制約性と有限性を強調する生理学的崇高論――カント崇高論との相違 このように『崇高と美』は自然的崇高論と修辞学的崇高論という二つの伝統を背景とし て成立した作品であるが,通説において,そこで展開されている崇高論は,専らカントの 『判断力批判』を「自覚されざる到達点」とする「カント的主観主義」の先駆形態として 捉えられきた(Monk 1950: 4ff)。だが,1990 年代になると,こうしたカント主義的な『崇 高と美』解釈に抗するかたちで,バーク崇高論を含む 18 世紀イギリス美学の独自性を強 調する研究が現れてきた(Furniss 1993, Ashfield and Bolla eds. 1996, Ryan 2000)。た とえばライアンによれば,崇高と美を峻別するバーク崇高論をカント崇高論の先駆形態と 見なしてきた通説は誤りであり,むしろ両者は,まさにその崇高の捉え方において決定的 に異なっている。 うのは、自然の理由によることである」(Burke 1958: 60-61)。 4 『イギリス理想主義研究年報』4 号(2008 年 8 月)用原稿 #提出した原稿を PDF にしたものですので、掲載されたものとは若干違っています# これら二つの崇高論の最も決定的な違いの一つは,崇高体験における対象と認識主観 の関係についての捉え方にある。一方の〔バークの〕崇高論は,崇高体験において〔認 識主観たる〕自我が圧倒されると考えるが,他方の〔カントの〕崇高論は,自我に強 烈な存在感,高揚感,さらには自己超越がもたらされると考える。中心となる問題は, 認識主観がどの程度の崇高を体感するかということではなく,崇高なるものの体験が 認識主観にどのようにしてその力を及ぼすかということにこそある。果たして崇高が 認識主観にもたらすのは高揚か,それとも圧迫か。崇高体験において自我は確固たる 同一性を与えられるのか,それともぐらぐらと揺らいでしまうのか(Ryan 2000: 266)。 周知のように,カント崇高論において,崇高は,間接的に――想像力の破綻という否定 的な契機を媒介にして――ではあるが「どれほど偉大な感性的能力よりも,理性的な認識 能力の本分の方が優位にあるということを直観的に示す」ことによって,自我に高揚感と 同一性をもたらすものと捉えられていた(Kant 2000: 141)。それに対し,バークは,崇 高体験においては「大いなるもの」が自我を圧倒するという自然的崇高論と修辞学的崇高 論に共通する見解を更にラディカルに推し進め,高揚感や超越論的な自己同一性ではなく, 圧倒的なまでの人間の被制約性と限界性を強調する独自の崇高論を展開したのである。 注目すべきは,そうした認識主観の非制約性や限界性を強調する際に,バークが,アデ ィソンらのように連想心理学に依拠するのではなく,独自の生理学的な議論を展開してい たことである。 『崇高と美』の執筆目的について、バークは初版序文で次のように述べてい る。 ……筆者の見たところ、崇高の観念と美の観念はしばしば混同されている。また、 この二つの観念は、全く異なった、ときには真っ向から対立する事物に対して見境無 く使われている。ロンギノスですら、あの比類無き作品において、崇高という共通の 題目の下、相反する全く異なった複数の観念を一括している。そして崇高に比べ、美 という言葉は更に曖昧な使われ方をされてきたのであって、その結果事態は好ましく ないことになっている。 こうした観念についての混乱があるために、この問題についての考察は全て、ひど く不正確で要領を得ないものになってしまっている。思うに、もしもこうした事態の 改善が望めるとすれば、それは次の三つの作業を通じてであろう。第一に、われわれ の胸中にある情念を正しく分析することによって。第二に、そうした情念に影響を及 ぼす――ということを我々が経験的に知っている――事物の属性を注意深く眺めるこ とによって。第三に、そうした属性が身体や情念に働きかける際の自然の法則を注意 深く分析することによって、である(Burke 1958: 1)。 ライアンが指摘するように,「第一」(人間の内的情念の分析)は第一編,「第二」(情念を 刺激する外的事物の属性の分析)は第二・三編,「第三」(外的事物の属性が身体への作用 を通じて情念を刺激する際の自然法則の分析)は第四編で扱われており、それはいわば, 認識主観の側の様々な心的能力――理性,悟性,想像力,判断力,あるいは観念連合など ――の積極的な役割を認めず,専ら外的事物が感覚的知覚を通して内的情念を刺激する生 理学的なメカニズムに即して,そこから発生する美の観念と崇高の観念を区別する生理学 的崇高論とでも呼ぶべきものであった(Ryan 2001: 268-269)。 5 『イギリス理想主義研究年報』4 号(2008 年 8 月)用原稿 #提出した原稿を PDF にしたものですので、掲載されたものとは若干違っています# (3.3)「美」と「崇高」の相違――「社交」的「弛緩」と「自己保存」的「緊張」 『崇高と美』第一編は、情念論の観点から見た崇高と美の区別の試みであり、そこにお いては前述の「第一」人間の内的情念の分析が,快と苦という「定義不可能な単純観念」 についての考察から始められている。一般にわれわれは――ロック『人間知性論』が述べ ているのと同じく(Locke 1975: Bk. 2, Ch. 20, Sec. 2)――苦の除去が快をもたらし,快 の除去が苦をもたらすというふうに快と苦を相互的に捉えがちである。だがバークによれ ば、両者は相互に独立した観念であって, 「その作用の最も単純で自然な仕方においてはそ れぞれが積極的な本性を備えており,決して一方の存在が他方に必然的に依存するもので はない」。そもそも快とは専ら「社交」に関わる情念であり、それに対し,苦は「自己保存」 にのみ関わっており,両者の間に相互性は認められない。したがって「苦の停止もしくは 減少から結果するところの感情」は「積極的な快」ではないし, 「快の除去」も「積極的な 苦」ではないのである。そして第二∼四編では,そのような快と苦が、 「第二」どのような 外的事物の属性から、「第三」どのような作用因によって発生するのかが検討されている。 バークによれば,一方で苦や恐怖は,崇高にして偉大なる何ものかが人限の自己保存を脅 かすことによってもたらす「緊張」によって惹起されるが,他方,快は美しいものが社交 との関連においてもたらす「弛緩」を通じてひきおこされる。 崇高と美の効果と原因について述べてきた全部のことを再度振り返っておくと,崇高 と美は互いに全く異なった原理に基づいて成立しており,したがってそれがひきおこ す感動もまた互いに異なること,偉大〔崇高〕はその基礎に恐怖を有し,この恐怖が 柔らげられるときには精神の中に私がかつて驚愕と呼んだ情緒を生ぜしめること,こ れに反して美は単なる積極的な快に基づいており魂の中に愛と呼ばれる感情を生み出 すものであること等々が明らかにされたと思われる(Burke 1958: 160)。 このように,崇高な存在が自己保存を脅かすことで緊張をもたらし,その緊張から苦や恐 怖が発生するというプロセスと,美しい存在が社交に関わる弛緩をもたらし,その弛緩か ら快が発生するというプロセスが別物である以上,そこから生じてくる崇高の観念と美の 観念とを混同することは端的に誤りである。 (3.5)「共感」を媒介とした倫理的感性の陶冶――「喜悦」論の政治的意義 しかし,このように認識主観の心的能力を軽視し,ほとんど生理学的プロセスのみによ って崇高を論じることに,しかも,高揚感や超越論的な自己同一性ではなく,圧倒的なま での人間の被制約性と限界性だけを認識主観に痛感させるようなネガティブな崇高を論じ ることに,どのような積極的意味があるのだろうか。カントが批判したように,バークの 崇高論は超越論的な道徳性を欠いた「心理学的所見」に過ぎなかったのではないか(Kant 2000: 158)。 たしかに『崇高と美』の生理学主義にカント的な道徳性を見出すことは不可能かもしれ ない。だが,以下で述べるように,崇高がもたらす「喜悦」をめぐるバークの記述の中に は,ある種の倫理的感性の陶冶という構想が読み取れるのである。 バークによれば,喜悦とは,崇高がもたらす大いなる苦が除去されることにともなう「相 対的な快」――ただしそれは厳密な意味での快ではありえない――のことである。 6 『イギリス理想主義研究年報』4 号(2008 年 8 月)用原稿 #提出した原稿を PDF にしたものですので、掲載されたものとは若干違っています# 切迫した危険から逃れたり或る甚だしい苦痛の辛さから解放されたとき……われわれ は,自分の精神が畏敬の念をたたえた極めて厳粛な状態,恐怖の影がさした一種の平 穏状態にあることに気づく。……この多くの点で極めて快適ではあるが全ての点で積 極的な快とは極めて異なる感情は私が知る限りでは何の名称も有しないけれども,し かしこのことはそれが極めて現実的な,そして他のあらゆるものとは全く異なった感 情であるという事実を動かすものではない。……わたしはこの種の相対的な快につい て語る機会がある場合には,これを喜悦と呼ぶ(Burke 1958: 34-36)。 自己保存を脅かす崇高な「大いなるもの」の手が自らに及ばなかったと気づいたときの, ある種の「茫然自失の状態」としての喜悦。このように崇高なるものがもたらす苦や危険 も,「一定の距離と一定の変形」を伴う場合にかぎってであるが,「相対的な快」としての 喜悦となりうるのである(Burke 1958: 40)。そして,この喜悦をめぐる議論において, バークは,本来ならば社交にのみ関わるはずの「共感」を自己保存の領域へと越境させ, 自己の苦や危険への感覚だけでなく,他者の苦や危険へのリアルな共感によっても,喜悦 がもたらされるということを指摘する。すなわち,バークによれば,われわれは,共感の はたらきによって,苦や危険にさらされた他者の状況にもある種の喜悦を覚えることがで きるのであり,更には倫理的な実践へと突き動かされるのである(Burke 1958: 44-45)。 われらの創造主はわれわれ人間が共感の絆で結びつけられるように予め配慮し給うた が故に,神はこの絆がそれに相応した喜悦によって強化されるように,とりわけ他人 の苦難というわれわれの共感が最も必要とされる場面で特にそれが強化されるように 取りはからわれた。……ある種の途方もない悲しむべき災難の光景ほど,われわれが 目の色を変えて追い求めるものはほかにない。したがって,不幸な事態がわれわれの 眼前に繰り広げられるにせよ歴史の中に見出されるにせよ,それは常にわれわれに喜 悦を感じさせずにはいない。これは純粋な喜悦ではなくて,少なからぬ心配がそこに 混じった喜悦である。このような物事においてわれわれが感じる喜悦は,われわれが 悲惨の光景から逃げ出すことを妨げ,われわれが感じる苦は,これらの苦しんでいる ひとびとを救うことによってわれわれ自身の苦を取り除くようにわれわれを促す。そ してこれらはすべて,いかなる理性的な推論にも先行して,われわれの側の協力なし に われ われを それ 自らの 目的 達成へ と駆 り立て る本 能のは たら きによ るも のであ る (Burke 1958: 46)。 このように崇高は,共感を媒介とすることによって,悲劇,歴史,そして現実の惨状に 対する喜悦――自分が免れた苦や危険が他者に及んでいるということについてのリアルな 認識――をもたらし,他者の苦や危険を除去するための行為へと――「いかなる理性的な 推論にも先行して」――われわれを駆り立てる。しかもバークによれば,崇高がもたらす 緊張は,生理学的プロセスにおいて,美がもたらす快い弛緩が神経を摩耗し,身体を劣化 させる傾向を持つのに対し,弛緩した神経を引き締め,活力を喪失した身体を鼓舞し,健 全な状態に戻すはたらきを有している(Burke 1958: 134-135, 149-150)。だとすれば,示 唆的なものに過ぎなかったとはいえ, 『 崇高と美』には,ある種の倫理的感性の陶冶という, すぐれて政治的な構想が――バーク自身がそう考えていたかどうかはともかくとしても― 7 『イギリス理想主義研究年報』4 号(2008 年 8 月)用原稿 #提出した原稿を PDF にしたものですので、掲載されたものとは若干違っています# ―潜在的に秘められていたといえるのではないだろうか 2。 4.むすびにかえて 言語芸術である詩歌は、絵画のような明晰さは持たないけれども、だからこそ強烈な情 緒をひとびとの心中に呼び起こしうるのであって、その最大の力が発揮されるのは「崇高」 の「共感」においてである。そしてこの恐怖と緊張をもたらす「崇高」は、快と弛緩をも たらす「美」と根本的に異なるものであり,さらには「共感」を媒介として,他者の苦や 危険を除去するための倫理的行為へと「いかなる理性的な推論にも先行して」駆り立てる 「喜悦」をもたらす。――以上が本稿において瞥見したバーク崇高論の要諦であり、われ われには、こうしたバークの「喜悦」論を 18 世紀思想史の中で位置づける作業と、更に は言語の政治学の中で位置づけるという作業が残されている。だが、本稿が限られた紙幅 の中で試みたのは、あくまでも言語の政治学という観点からのバーク崇高論の再構成であ って、残された課題については、後日、別稿にて取り組むことにしたい。 (付記)本稿はイギリス理想主義研究会研究大会(2006 年8月 26 日、於京大会館)での 報告「審美主義と政治――バーク崇高美学とその周辺」に加筆修正したものである。当日、 桑島秀樹会員から丁寧なコメントを頂いた。厚く御礼申し上げる。 参考文献 Ashfield, A., and de Bolla, P., eds. 1993, The Sublime , Cambridge University Press. 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Newton Demands the Muse: Newton’ s Opticks and the Eighteenth Century Poets, Princeton University Press. Niocolson, Majorie Hope 1959. Mountain Gloom and Mountain Glory , Ithaca, 1959.(小 黒和子訳『暗い山と栄光の山』国書刊行会,1989 年) Nicolson, Majorie Hope 1973. "Sublime in External Nature," in The Dictionary of the History of Ideas: Studies of Selected Pivotal Ideas, edited by Philip P. Wiener, 2 「崇高」の「共感」がもたらす倫理的感性の陶冶ということの、最も分かりやすい事例 を挙げるとすれば、たとえば政治学教育におけるシェイクスピア作品の観劇の効用がその 一つであろう。この点については、ブルーム 2005 の序論「政治哲学と文学」が興味深い 議論を展開している。 8 『イギリス理想主義研究年報』4 号(2008 年 8 月)用原稿 #提出した原稿を PDF にしたものですので、掲載されたものとは若干違っています# Charles Scribner's Sons, New York, 1973-74.(高山宏訳「崇高(外的自然における)」 『西洋思想史大事典』平凡社,1990 年) Rorty, Richard ed. 1967. The Linguistic Turn: Recent Essays in Philosophical Method, University of Chicago Press . Ryan, Vanessa L. 2001. "The Physiological Sublime: Burke's Critique of Reason," Journal of the History of Ideas, 62(2). Shapiro, Michael J. 1981. 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