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豪農地主の経済と思想の二形態

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豪農地主の経済と思想の二形態
豪農地主の経済と思想の二形態
庄
司
吉 之 助
近世農民の思想形態はその時期によって各種に分れようが、ここでは、寛延年間以後天明凶作から寛政.享和に至る幕
藩が、改革を行なわざるを得なくなった政治的、経済的原因をしばらくおいたうえで、この時期に形成された豪農地主の
経済とその思想形成およびその実践について、さらに、寛政以後弘化年間に至る問の幕藩政治と豪農地主の経済およびそ
の思想形成と実践の、二つについて述べることにする。
前者は、陽明学とみられる心学を中心とする伊達郡高子村の熊坂台州︵宇右衛門︶の場合、後者は、中村道二を中心とす
る心学で、同じ伊達郡の北半田村早田弘道︵伝之助︶の場合である。熊坂は百三十五石の持高、早田も百石前後の持高と推
察される。両者とも地主であり、その経営からみれば豪農ともいえる。
この両者は思想形成を全く異にしている。熊坂は儒学を研究して、徂徠、仁斎や松平定信を批判し、農民の免税と労役
の負担軽減を主張しつつ、倹約や禁令は自ら行なわれるとした。早田は、幕府代官の年貢徴収と倹約、奢侈禁令を道話と
している。この相反した思想は、幕末思想史の上で見逃すことのできないものである。しかも信達世直し一揆では、熊坂
の門人の血をひく菅野八郎等が右の早田家を打ちこわすに至ったのである。両者の共通した点は、貧農救済を行っている
ことであるが、その方法については、熊坂が自力で行なっているのに対し、早田は心学の門人と自力との両者を併用して
一豪農地主の経済と思想の二形態1 . ﹃ 一
−豪農地主の経済と思想の二形態! 二
いた点にまず差異がみられる。また経営的には、熊坂家は集積地を居村民に耕作させている、早田家はこれを小作地とし、
しかも半田銀山をも経営している。以下両者について述べてみることにする。
信達地方の心学とその特徴
1 早田家の経営と貧農救済
天保年間から慶応の百姓一揆で打ちこわしにあうまでの早田伝之助家の経営は、土地集積をすすめつつ半田銀山の経営
︵文政年間と慶応年間︶をも行なう地主であった。また村の名主を勤め、近村の兼帯名主でもあった。
その蓄積は高利貸付と小作米にもとづくといえるが、貧農への施米、籾の貸付、米金の貸付を行なうと同時に道普請や
金・米 そ の 他
白根、山舟生
北半田村小前へ売渡し
摘
桑折、小坂の農民へ
要
河川の修復等にも努力している。天保三年から弘化三年までの間に行なったこれらの手当等は第1表の通りである。塩の
販売、米、籾、菜、小豆等の外に薬の配付も行なっている。
塩三〇〇俵
窮民へ
山舟生、白根へ手当
八一人へ手当
小前へ
白根、山舟生、茂庭、
米五俵、蒸米二〇俵、小米王侯、塩二〇俵
二両、蔵米四俵、米六石六斗、菜米四石一斗、
八斗四升
薬八○貼
蔵米七一俵
一〇〇俵
籾五二石
小
豆
第1表 早田家手当米金高︵天保三年∼弘化三年、嘉永四年 伝之助 書付︶
天
保年
六不五四不四三号
年詳年年詳年年
北半田村五三人外、中瀬、八幡、山舟生、石田二野
一二年
七年
三七石四斗︵三町四反六畝︶
土蔵一箇所、麦一六〇石
二四両二分
大黒籾と称し各村に備う
田畑改出、新田共起返し
村貯穀
二石五斗、玄米五斗六升、蒸籾六俵、外干葉など
不詳
籾五〇〇石︵内︶三〇〇石は外村々
藤田村貯穀
七年
一二年
籾二〇俵
各村巡回
一四年
四〇両二分、米一〇石八斗九升
二〇〇両
湯野村外堰組二三力村普請金
郡中助成金
銀山労働者助成
無利子にて各村に貸付
一一力村へ
一三年
北半田村医岡本施薬
袋外両郡へ
一三年
一四年
二〇〇両
関波村堰普請金︵心学者四人出金の内︶
五〇両︵費用六〇〇両の内︶
二五両︵一〇〇両の内︶
藤田村に建つ
弘化 二年
二年
土蔵一棟外二両
一四年
元年
谷地、徳江両村へ
小坂村田地用水普請金
二〇両
一〇両
二年
二年
北半田村備金︵無利子︶
村内借家水呑へ手当と四九人へ、一人一斗づつ
村内五六人へ]人二斗づつ
関波村心学舎中孝子手当
一五〇両︵文化十三より三六年間名主役心学のため︶
八石七斗
二年
不詳
玄米七斗
一一石二斗
不詳
玄米四石九斗
不詳
三年
−豪農地主の経済と思想の二形態1
三
−豪農地主の経済と思想の二形態! 四
三年 二五両︵五〇両のうち︶ 二野袋村境界論費へ無利子
三年 一四両三分 五九人へ、一人一分づつ
この内、籾は五〇〇石にものぼり、また金では二百両から十両の間を出している。米類は利子付と無利子とがあり、ま
た詰替を行ない備荒貯穀としている。その範囲は居村北半田村の外、泉田、小坂、鳥取、内谷、山崎、石母田、桑折、南
半田、万正寺、谷地、塚野目、徳江等の周辺諸村である。これ以外の諸村は後出の心学舎門人居住村でいずれも幕領とそ
の周辺である。
早田家のこうした貧農救済的事業は、多かれ少かれ、信達地方の名主層もそれぞれ蓄積した資力を以て当っている。恐
らく代官所年番を勤める各村名主の共通した対策であったとみられる。この貧農救済策と心学の普及との関係は後でも述
べるが、とりあえず注意すべきことは、ω農村内部に生じた貧富の差にもとづく農民層の分化、ωとくに貧農層の転落防
止と離農もしくは生産力の低下防止、さらに③幕府とくに代官所が年貢の減収を恐れ幕府の財政窮乏打開のため、間引の
防止や開墾、倹約や五人組前書の強化等の以外に方策がなく、支配村の政治を名主層の手に委ねるに至ったとみられるこ
とである。したがって、名主や豪農層は自ら施米と諸普請等によって生産を維持させなければならない状態に至った。名
主や豪農層は、経済活動としての施米や備金政策とともに、精神的に心学の導入によって自力更生をはかることとの二つ
を表裏一体として採らざるをえなかったといってよいであらう。 .
2 代官の民風改正と心学
ζのように天保の時期には、代官政治が豪農名主の農村対策にまたざるを得ないほど政治力は低下していたと見られる
が、これより先天明の凶作対策は、各種の農村振興策をたて幕藩共改革を行なったことは述べるまでもない。とくに幕府
は、代官を通じて対策を行なわせるのであるが、信連両郡と塙と小名浜の各幕領地は寺西代官の支配地であり、寺西代官
が民風改正に活動したのは寛政五年からである。改正は三つの段階を経て心学と結びつけられる。ω寛政五年の寺西八カ
条の時期 ②文化八年の十一藩会議における十禁の制 ③天保三年一十年の心学普及の時期と区分できる。
ωの時期における寛政五年の寺西八カ条は、寛政改策に際し、農村の人口減少防止のための間引防止︵このための施米や
教導︶を行なうこと、夫婦、兄弟の家庭内のことや、百姓は農業が専一であり、また村民間の相互信頼の必要等を強調し
たものである。
寺酉八カ条
一ケ条 天はおそろし
毎日く人間の心の内と、しわざをば天は見通しなり、こころを正直にして、良き事をする者には、どこぞでは御恵あり、悪心
をたくみ、わろき事をする者には罰あたるなり、恐るべき事なり
ニケ条 地は大切
人々の喰物着る者、其外何にても地より出来ざる者はなし、地を粗末にすると自然に罰あたり、食物其外何事にも手づかへ困る
事出来るなり 、 少 し の 地 に て も 大 切 に す る 事 な り
三ケ条 父母は大事
面々人なみに育ち働く体は皆父母よりさづかり、色々の手当、苦労の養ひを受け人になる父母の大恩限りなし、大事にせねばな
らぬ事なり
四ケ条 子は不 憫 、 可 愛
子は不憫かあいく思ふは生類皆同じ、一人の子にても、五人、七人ある子にても、皆我肉を分けたる子なればかあいさに違ひな
し、いくたり出来ても同じ様に大事に育て上べし、年老いては子や孫より外に頼みはなし、子を粗末にすれば、鳥獣にも劣り
て、天の理に そ む く 故 末 あ し く と 知 る べ し
−豪農地主の経済と思想の二形態一 五
1豪農地主の経済と思想の二形態一 ■ 六
五ケ条 夫婦むつまじく
夫婦は天地自然の道なれば、夫は女房を不憫に思ひ頼みに致し、女房は夫を親の如く大事に致し夫の心に背かぬ様に一生睦しく
暮すべし
六ケ条 兄弟仲よく
兄弟は前後に生れたる違ひにて同体なり、随分仲よくして互の力になるべき事なり
・七ケ条 職分を出精
田畑の作り方、其外、百姓のなすべき業を年中油断なく精出しかせぐべし、精出せぱ諸事整い段々に栄へ、油断すれば貧乏苦労
たへぬなり、平日ともに衣類・食物を始め何事も奢りがましき事なく倹約を守りかせぐ事随分出精すべし
八ケ条 諸人あひきゃう
人間一生の世渡り人ににくまれては災出来、憂苦労たへぬなり、相互に情深く実儀を以て美しく世を渡る事を心掛け、凡難儀な
る者事、腹の立つ事をも勘忍を第一にして愛嬌を専らにすべし
右八カ条の趣を、ふだん心掛け守れば、人間の道にかなふ故其身子孫繁昌に栄ゆる事疑ひなし、若し又右を守らず身持心持悪しき
者は改めの上急度とかめ申付候聞良くく大切に相守るべし
寛政五年正月 ︵金沢春友﹃農山村社会経済史﹄四八ページ︶
さらに寛政八年には五ヶ条の申馨酷し貯穀の心がけ藁・ひえ、麦の貯穀の仕友倹約、休日、餅の制限箋申渡
している。
五ケ条の申渡書
近年は豊作打続き格別の連作も無之所、小前百姓困窮致し、春夏より夫食差詰り、買食或は借米等致し、引続き候もの有之由、当
年は畢立見費事多く、諸事心掛けよろしからざる故に付左の通り申渡す
一、前以て仰渡され候貯穀之儀、凶作打続き候節之夫食と心得、聯なる違作の夫食と心得間敷事
二、粟、稗、麦の類を年々心懸け銘々貯穀し、違作年の夫食と致し申すべく、右貯方見届人、坪限り一人宛相定の可申事
三、吉事凶事に付、近き親類組合は格別、村中大勢集り呑喰致問敷事、但婿嫁取之節は成たけ手軽に致し可申事、凶事は執、ホ酒すべ
く候
四、正月は七日五節句其外鎮守祭礼等、定例遊日の外神事は一ケ月に一度取り遣り致間敷事
五、餅は三月、七月、十月、十二月、一月、一ケ年に四度春候共親類組合の外取り遣り致し申間敷候事
右五ケ条之趣急度相守可申候、若し相背候者有ば答申付くる者也
寛政八年辰年八月 塙御役所
いずれも倹約を中心として年貢の徴収をはかっている。ついで⑧の文化八年十二月幕藩の民風改正会議は、塙陣屋に次
の十藩があつまったものである。
白河藩 松平越中守、平藩 安藤対島守、神谷藩 牧野越中守、横田藩 溝江伯耆守、 ︵八島田溝江伯耆守︶湯長谷藩 内藤幡摩
守、棚倉藩 小笠原佐渡守、三春藩 秋田信濃守、釜子私領陣屋 榊原式部大輔、泉藩本多弾正少弼、蓬田藩 土屋相模守、塙
六、餅舂候事年に三度に限る事
この時取決められたのが﹁寺西十禁の制﹂として次のように行なわれた。
公料陣屋 寺西重次郎︵金沢春友﹁寺西代官治績集﹂︶
出席したのは藩の代表者とみられるが、
寺西代官十禁の制
七、婿取嫁取の奢を禁ず一類の振舞を減ずる事
八、地狂言買芝居を禁ず
一、勧農
二、博奕の禁
九、畑に死体を葬る事を禁ず
七
︵文化八年︶
十、酒の小売、飴菓子の持出し売りを禁ず
三、絹布着用の禁
四、神事遊びの禁
五、神祭供物の制限
一豪農地主の経済と思想の二形態−
1豪農地主の経済と思想の二形態一 八
勤農を第一とし、以下ばくち、衣類、休日、供物、餅、婚礼、酒や菓子、死体︵間引の子か︶等についての禁止で、前に
述べた五ケ条の強化である。この禁止条項は五人組前書より強権的であり、この政策によって農村の復興と年貢の徴収と
を確実にしょうとしたのである。民風改正はいずれも禁止と制限で、さらに天保三年の場合は信達の村々で次の取きめを
行なわしめている。
天保三辰年本村内熟談之上不宜仕癖をはぶき村規定取極候箇条書
一 従御公儀様被仰出候前々御法度之趣弥堅相守可申候事
一 家内熟談之上万事倹約勧農筋相守農業出精相励可申候事
もめ
一 親二孝行を尽、下を憐み家内之中口揉等にても堅無用、近所隣は勿論之儀、村内一統は一家の内と存、相互に申合、睦敷相交
り可申候事
一 応接の儀は絹紬より結構なる品着用無用の事
一 下駄、足駄、雪駄都てはきもの類革緒相用中間敷候並女の擶かふがい、かんざしに不限、鼈甲、銀類堅無用の事
一 神仏事祭並年廻、婚取・嫁・婚礼・祝儀弘め事は格別其外振舞堅無用、且料理方は畑芋、午募、大根等在合の品を以て賄い客
人は五人に限り、尤客人は五人故並献立書致世話方へ差出改を請、役元聞済之上当日為立会取賄可申候事
一 親類縁者の付合、新規普請堅致間敷、尤無拠繕ひは格別︵借︶多く金銭入候儀は無用之事
一 女は倹約之元なれば家内の苦労万事可心付事
一 正月祝ひ神備餅は三升其外一人に付一升五合づyにて賄可申候、猶常体は狸に餅賄は無用之事
一 春秋共彼岸念仏寄集と唱候儀は致間敷、其家限農業手透見合何遍にても勝手次第之事
右之通村規定箇条を以申聞候条来巳より未進向三カ年堅相守可申候、若心得違のもの候はゾ及沙汰聞糾始末により御役所江奉訴候
条規定堅相守可申候以上
天保三年辰壬十一月 役 元
天保三年の時狸代官奮衷郎であるが、やはり+力条の文意藷馨ている.天保四年笑凶作再び養はいた
めつけられるが・天保八年に竹垣代官は八ヶ条を畏し、父母に孝、農業、倹約、育児、ばくち、酒、麦、ひえ等の貯穀、
くず・わらびのかて物叢等・寺西の肇を守っている.天保+三年等西重次郎の孫直次郎薙代官に赴任するが、そ
こでは五人組前置と年貢納入筆頭とし、翠の選米と享保、寛政の改革のお触れの遵守等、その政策は五人組前置の強
化に戻り、しかも詳細になっている︵﹃寺西代官治績集﹄︶。
以上寛政から天保+四年までの蚤改薯忠に代官の籍対箏みてきたが、いずれも五人組前置と寺西代官の禁制
を忠とし養嚢励・鶏人・増殖の三豪忠政策であった.この考釜村対策は、幕藩体制の基本である土地
の領有制と高額地代の徴収箏変化喜ぬ叢、合増殖のための施米金と備荒対策を追加したのであった.
あようにして封建制度の再編成を行なうには、精神力の強化が必要であるが、寺西代官以後の禁製申渡しがそれで
あり志学の導入が盤の精参して自力塞へと向かわしめるため穫立った.そこでは、白河藩松平定信、泉藩本多
轟箋噛めとする心学導入と、前出の雷伝之助等罠問の心学舎の創設とが軌をだしたとみられるに至ったので
ある。
3 信達地方心学の特徴
東北地方の心学は・畏導が手島罐の手奮はなれて江戸にき萎永八年胃吉は量った関悪学の影禦東
北地方に波及してからといわれる.その時期は寛政五年、七年頃とみられ、下野足利の華戸田、白河藩松平、泉葉多、
出翌山藩松平等が心学墨け入れたといわれる.寛政八年に北条玄養が東北遊説に白河、泉に来ている.九年には泉藩
で蓑舎が設立されている・東諸藩の心学襲のよう篭陸、下野、岩代、陸奥、羽後、羽前、越後等の+五藩二+六
大名にのぼった︵吉田正愛﹃本多弾正嚢侯に関する史料﹄︶.当時の心学は武士層では道話でなく、精神修養的な経典の講釈
九
i豪農地主の経済と思想の二形態1
二万石
一万三千石
常陸 谷田部
一万二千石
常陸府中
下野大田原 一万一千石
一万一千石
下野 黒羽
岩代 下手渡
一万八千石
陸奥 泉
二万石
16藩
20大 名
一万一千石
陸奥 七戸
本田忠壽の子
二万五千石
羽前 庄内
十四万石
羽前 山形
六万石
羽前 上ノ山
三万石
信古の子
越後 三日市
一万石
越後 村松
三万石
村村村村
部取田沢
上知古料村
下鳥柱泉
伊達崎村
同 南組
上中瀬村
同 下 組
成 田 村
岡 村
万正寺村
瀬野上村
直教の子
直方の子
一万石
越後 椎谷
備考『本多弾正大弼忠簿侯に関する史料』
村村村村村村村
瀬倉板代田田根
下長小宮鎌掛白
一〇.
に向けられたという。したがって町民
や農民の場合とは導入の仕方が異って
いた。藩主や代官は道話による町人・
農民の教化を主とした。本稿でとりあ
げる信達地方では、代官でなく民間人
である名主職早田家が主導し、普及し
たのである。
それでは信達地方にどの位門人がい
たかというと、黒田源六氏の﹃石門心
学者中村徳水門人譜抜萃﹄伊達心学の
部︵篠原理男氏借覧︶によると表のよう
上小国村
御代田村
箱 崎 村
梁 川 宿
伏黒 村
二本松村
高 子村
以上66ケ村
0 0 4 6 2 1 1 0 1 7 7 2 8一1−一9−30 36−8一3一6 3,1,質卜−r−−−3−1 3 2−2iラ
ー
2 11532 −1211 一一11 1 9
小 原村
下仁井田村
備考『石門学者中村徳水門人
譜抜萃』黒田源六氏作成
国 別 領 地 高
町 村 名い執
藩 主 名
一万石
下野 足利
説弾徳清伸陽善壽誠誉良徳朝古愛教教方庸哉
頼総興愛忠増種忠忠信忠忠久信信泰直直直直
平川川原田関花田田部井井元平平沢
田
松石細大戸大立本本南酒酒秋松松柳堀堀堀堀
羽後 松山
一豪農地主の経済と思想の二形態1
常陸 下館
伊達郡光明寺村
泉 田 村
第2表東北諸藩の心学
人 (村名と門人数)
村 名 1人数
排寓器i磐;割合−抽一2・一諾.舜3澹㌔一3−塗−7真勇−域一旧時5諄一銑−勿−四9B
翻
伊
一豪農地主の経済と思想の二形態− 一一.
話に不相成様心懸申候、たとへ善事なる事と云共、隙費は難渋の基に候間、聴衆に相はなし候は、前々日日道話有之趣承り候は
迄同志中相及申候、右村々心学道話罷越候節は握飯持参、昼飯をいたし、尤五里、六里の場所は日帰りにいたし、可相成は出先世
相成候所、其節に至り千三百人程に相及申候、右村数御支配所をはしめ、保原領、湯野村領、川俣、梁川、手渡、瀬野上、福島等
去ル卯年中より心学道霜初繭年中同志致候舎中のみ共、弐拾人程有之候処、翌辰年量り九拾人余、巳年に至芸百人程に
諸人江教諭いたし候には心学道の筋なれば、よく会得もいたすべく事に候とて親被初候、年元並舎中に及候人数午六月調置
川俣、梁川、手渡、瀬上、福島等の幕藩領内に普及した。道話者は握り飯を持参して説話したという輔
ぼり・弘化二年に六百人差り、ついに千三百人に達するに至った.この門人は、前にみたように代官領、保原、湯野、
雷家の記録﹁覚﹂︵仮題︶によると天保+四年吉心学諜じめ、この年に二+人加入し、弘化元年に九+人余にの
十人以上の村、この外は一人以上三十人未満まで各村区々である。
田村八+天が多い村・笛五+天、新田四+七人、大立呈+七人、内谷一二+交、泉沢一二+人、谷地二千人簑三
て信夫郡は僅かである・門人の多い村は代官所在地である桑折村︵宿駅と早天、早田家の地元北諸村八tパ人、藤
に六+五ケ村門人舌九+五企のぼっている.この数字箪田家の記録の壬二百人と略璽である.伊達郡忠であっ
町
灘繊礎鑛灘畑講灘欄灘
第3表 中村徳水門
t豪農地主の経済と思想の二形態− 一二
ば、夫迄に稼出し、緩々聴聞可致、猶亦、当日聞及聴聞被致候はば、其翌日より聴聞日日の隙費をはけみ出し候様にて一同心懸可
申渡相諭申候事
このように時には五里、六里を日帰りし、また聴衆の時間を考慮して出かけていくといった普及方法をとっている.、
心学普及方法は弘化二年五月に勧善社という組織をつくっている。前記の門人が社員である。名主層が村毎に連絡また
は事務的な仕事をしていたと思われる。最初は心学舎と名付けているが、その趣意の全文を掲げてみる。
これには行司申渡しとあり、前書に天恩と国恩があることを述べ、これに背かず六カ条の守るべき道を示している。
ωは主人への忠義、③兄弟、夫婦、親類の睦まじくあるべきこと、父母に孝行すること。㈹夫婦和合、家内取締り、㈲
親類朋友の交り、㈲博奕や賭事、㈲無益の殺生等で、道話の中心思想が盛られている。
心学舎中行記
心学舎中行司申渡之事
天恩国恩之難有事行住野臥寝食之間も不奉忘第一従御公儀追々被仰出候法度之趣堅相守聯二而茂不相背様大切相心得可申、若於
相背は国中諸神社、仏棒記証神文奉誓所之可蒙御罰儀は的前、然る時は心学之行事にも相背け自然身を亡し家を失ひ先祖之祭も相
疎之朋友之親ミも薄く相成、讐は舎中之内不心得之者壱人有之時ハ余多之舎中一同は不及申、他之人之善道に入之差障にも相成候
事故、是に過たる大罪は有間敷、此所を得と御勘考被成、寸陰之問も分陰之問茂不忘堅相守身杯正敷、心学道を行へ、先祖、父母
之名を輝し、他の人の善道は徳孤ならざる事を相願候様専要之事
附り 天恩と言て天の誠を以四時行われ、万物生い育し玉ふ中々人間業にて米壱粒、豆壱粒生る物にあらず、能々此所を考へ味
ふべし、又愚なる人は御国恩と申事如何成訳と知らぬ人も有物也、先国恩と申は第一銘々相互今日を安穏に暮し其家業家職を出
精し悪事をせず、身を持は身分相応之楽は事各もなく楽なるの難有事、又盗人、火附之守り、押込、強盗其外悪党者迄之御守に
昼夜を不分御守りが有ればこそ枕を高し、寝食を安んずる事御国恩にあらずんば何を以て今日斯親子、兄弟、夫婦、安穏同居に
候哉、是全御国恩之難有事聯之問も不奉忘、主人有輩は其奉公に精を出し親孝行を専に致し、御国恩報之端にも謹而可被相行
候、昔乱世の時分には押込、強盗さかんにして米穀、金銀貯は勿論みめよき女房娘は彼がために奪へ取られ、いやと云は命はな
し、又軍場の最寄は家も蔵も物置等其外共に焼失われ、難堪苦労申様もなく、親子、兄弟同居所々散々ばらはら逃歩行か仕事の
様に聞及べり、前後引合御考へ御治世の御代の難有義を可存、又田野の民は農業に無油断、出精いたし、春は耕し、夏は芸り等
勿論、養い糞に茂年中之間二心静置十分入、猶植仕付等迄時刻遅れには不成様、前方々々と取急ぎ手入可致候、尤家内男女共に
心を一致し、以力を尽し候へは、実り宜、取揚物も十分相成、是は眼前信徳之致也、亦御神詠にも
心だに誠の道に叶ひなば
いのらずとても神や守らん
御詠の如く誠心の徳にて感応ましく追々格別之福を降し玉ふなれば、益正直を元として可勤、道を尽し、家内和合致し福を
得、飢へ寒にものあらば施し亦聯の場所にても御田畑不荒は勿論壱歩所たり共不捨置開発いたし御取箇奉願上侯様心掛候得ば御国
恩報之端二茂 相 成 べ く と 朝 暮 信 心 可 被 成 専
蜷lに忠義親に孝行を尽し人倫大切二朝暮陰陽なく実心を以仕ひ可申事
ハ レ
陥り 聖人有輩主人百事知て家身の有事忘て仕るが、臣たる物の道なり、先祖より代々主人御陰をもって日々安穏に家内を養と
−豪農地主の経済と思想の二形態一 ‘ 二二
ものと思ひ、且は我身の行状を堅謹ミ守りて善道を教諭が兄の道也、能々此訳を心得、兄弟之道を尽し候後は孝道第一是に過たる
附り 兄の道を以て弟を憐み猶父母の後は親に成替り別而いつくしみ深く、兄之道と申者第一歳をとりたる者なれば万事不行届
て兄弟夫婦諸親類は不及申、他の人とも睦敷く交り相互に我を不立、堪忍を強く、今日々々を目出度御営専一之事
第一は親之御 心 を 養 ふ 様 に 万 事 御 勤 可 被 成 候 事
間も不忘仕 る が 人 之 道 也
忠孝共に目当を附主人に忠儀、親に孝行を尽玉ふとおもひば陰陽の出るものなれば忠孝の目当なく唯主恩親恩の難有事を寝食之
云て、主恩の難有因なれば大切に精勤可被成候、尚親に仕るも我を忘れて親有事を思ひ、聯も御心不背様、明暮真孝可被成、尤
一、
i豪農地主の経済と思想の二形態−−− 一四
はなし、又弟は兄を敬ふ道は何事によらず、兄の云ふ儀に不背、敬ひ仕るが道なり、猶父母のなき後は兄を敬ふの口為に親と思
ひ、親兄の敬を尽し、聯も我を不立、兄に随ひ、兄弟和合致、今日を目出度くらしなば父母江之大孝となるべし
v婦和合し交り家内取締相続向大切に可被相勤候事
如しと云事なり、又衆口骨を削ると云見得たり、大勢の者の云事は根のない事にても根之有様なり、誤を引出すと有なれば、衆
ちくは死してもたおれずと世の讐へあり、又虻雷をなすと云事或書に見えたり、虻とはあぶのこと、虻も多く集り暗時は雷の
て友ある事を思ひ堪忍を強くして睦敷相交り人は八方敵なしと申事あり、敵なければ皆味方也、みかたなれば皆我手足の如くげ
附り 諸親類は皆先祖之身を分たる者に候得ば平生睦敷相交り猶他の人と申ても四海兄弟なりと聖人解置きたる事なれば、分隔
︵者︶
はなき筈の事を覚悟し、尤朋友は血縁之なき物なれば実に真実を以て交らねば朋友の道たるものあれば相互に我を不立、我を忘
柏e類朋友其外世間之人とも睦敷交り、聯にても人之障に相成候事不致様、堅相謹可申候事
返すくも舅姑江者勿論孝行、貞節を尽すべし、内を守るは女の役とあれば聯も不取締なき様相謹み猶諸親類他之人に至迄、柔
︵者︶
和をもって交り厚今日を暮す様に心掛候は女たる物の勤とする道なれば専相謹可申事
特に夫への不貞、両親江之不孝、此上も有間敷、且は身代之障にも相成甚しきに至っては家を亡し路道にも迷へ候様成物なれば
し目上を敬ひ目下を憐み家内和合いたし候様万事心附聯にても不和合なれば妻たる者之諸行宜しからずは世評にも掛り候様成行
に候、尤女たる者は夫を夫と敬ひ、嫉妬偏執之心なく、質素倹約専にし家内之取締向大切に相守り身上正敷致し舅姑に孝行を尽
物に施を誠の倹約と申事にて候、乍然御上も質素倹約之事は御慈悲の余りに厳敷被仰出、如此相守候得は家内安全子孫長久之基
︹者︶
事を倹約と思ひ、是は吝嗇と申もの也、倹約と申事は前に申通り衣食住ともに其身より内はくと心掛暮し余りを以て飢寒たる
りんレよく
ば、能々此所を弁ひ可被成、不弁之人は倹約と云は人に物を遣ることをおしみ其身は衣食住守て暮し、施の心なく只手前に取入
候、併しながら質素倹約と中業は先家之主人始家内之者三度之食事並衣類諸道具、其外共万端不奢様悉倹約に取計うを言事なれ
心を一致して家業、家職を出精し質素倹約を専にし、家屋敷、田畑其外家賃に至迄不失は勿論、家名不秩様第一に心掛可相勤
附り 夫たる物は其身正数致、女は智恵浅きもので万事不行届事を覚悟し、何にても堪忍を強く相用、柔和を以て教導し、夫婦
︵者︶
一、
一、
人と不和合なれば是等之難問かるべし、又衆人と和合なれば是等之難逢ふ事なし、歌に
我よきに人の悪きは
なき物を身を慎て交をせよ
此道歌の如く心得、親類縁者は不及申、衆人とも交り厚く決而我を不立、我身を謙り人の益を先として我益を後にし、目上を敬
之類並賭之諸勝負致、決而致問敷事
ひ目下を憐み人倫之道にかないし事を行ひ為すべき事
字
一豪農地主の経済と思想の二形態− 一五
歌 に 傀儡子むねにかけたる人那箱鬼を出さふと仏出そふと
背様御信心可被成候事
教道にも相叶ひ、況乎神仏之御感応有之多福を降し玉ふ事なれば、舎中一同は不及申、外聴聞之衆中此度道理を弁ひ人倫之道不
久之願望、是に過ぎる事なし、心学徳不孤の憐有なれば他の人道江入るの一つなれば面々心願不労し、成就いたし先師くの御
の時至れば聯も遅滞なく信心堅固に被成、今日安穏に相営み箇条にも申通、自然と人倫之部に茂相叶、父母江孝行之第一子孫長
は家内悉く和合いたし和合なれば家業家職も自ら面目出来、面々福之基にて是天誠あれば福を降し玉う聖語の如くにて急度開運
元一宇皆済いたし、目出度御越年仕儀得者御歳徳神御満悦に被思召候儀難有候事に而自然と人倫之道も相勤候様に成行、然る上
右之条々能々被成会得心学舎中発起之不失信義様堅く相守可申候、第一は御年貢御上納未進等不致、其年限りに米永は勿論、役
に福を満る事天之与うる所なれば此道理を弁ひ聯も殺生いたす間敷候事
を残、我身は蟄、日日に積り其辛労尽る期なし、殺生謹時は悪心衰へ善心日日に増長し、積善之余慶を子孫に残し其身には日々
︵時︶
附り 殺生之心ある時は悪心盛んになり人々をもなやまし人の難儀も不顧様相成然る時は善心を亡し、終には子孫江積悪之因果
ウ益殺生堅致間敷候事
も所蒙天罰被行断罪候場合にも至り候ものなれば右等之諸行堅謹可申事
附り 博奕と云う物は第一御上之御法度に背き、身を亡し家を失ふ基になるものなれば終には悪心も出来、人をなやめ或は家尻
一、
一、
;豪農地主の経済と思想の二形態−
堪忍は一つ二 つ で な を た ら ず 一 日 中 に 千 も 二 千 も
接木てもっかぎる木でも同じ事やしなへ得れば春も実も
なる
妻ならばいせ次は裾も合すまし裏は表に任す身なれば
闘諍は空山彦の谷間かや、われはだまれ向ふ音なし
世の中に花も 紅 葉 も 金 銀 も 備 へ て あ る ぞ 働 て を れ
あざみ草其身のむりを知らずして花とおもいし今日のい
ままで
明日ありと思 ふ 心 の あ だ 桜 夜 に 嵐 の い ぬ も の か わ
芳野肝其水上を尋れば蒲の雫萩の下露
一六
咲ざれば桜も人は折ましや桜のとがはさくらなりけり
争いぬ風の柳も糸をもて堪忍袋縫べかりけれ
倹約の伝受といふて外になしこらい袋の紐のしめやう
日々に御上を恐れ忠と孝家内和合に家業大切
日に三度膳にむかへば父は㌧や天地御代の御恩味へ
真似をせよ主人江忠義親に孝おこたらざれば誠とぞなる
いふ人の高言いやしき撰ますによき言の葉を我徳とせよ
右道歌を味ひ知り、心学御信仰可被成か、若於相背は舎中一同世間の人々にも︵□□□︶相成候間此所を得と御考へ心学道堅相守、
聞時は実もつともと法の道帰る時には置て行なり
専可被相行候事
早田伝之助述
弘化二年巳五月
改 勧善社 弘 道
この六力条は他の機会に述べる﹁六諭街義大意﹂の中にあり、また前に述べた寺西代官の教諭にも見出すのである。ア︸
こでの心学の趣旨は、後に述べる熊坂家の心学とは異っていて、代官が早田家を賞称した際の村内郡中の取締りと法度の
徹底と心学の五常の道を織り交ぜ、 ﹁申諭し屈服いたし行状改り候﹂とあるように教義の普及にあった。
其方儀常々取締宜敷、村内は勿論郡中迄茂世話方行届、御法度筋をはじめ五常道等能々会得致候様、自他村々のもの共に念頃に申
諭、屈伏いたし、行状改り候もの不少趣或は位置道筋取繕、従来のもの助けに相成候様、却て不容易、深切の至り一段の事に候、
右の趣は追々其筋江申上候事に候得共、先当座褒美として白銀差遣候
弘化二巳八月廿八日
このように勧善社の道学は法度の遵守と儒教とから成り、これを教学としたのであるが、門人は自給的農業維持のため
と村内共同連帯を強要された年貢の納入制度はこれを受け入れざるを得なかったと思う。それは早田家の施米や貸付によ
る救済をみても農業の維持困難の状況を示し、幕藩の農村対策がもはや行詰まりをみせ、豪農層の救済によらざるを得な
かったことをみても首肯される。そして勧善社は趣旨の実行者を孝子・節婦としして賞讃したのである。たとえば、関波
村の八石七斗をもつ農民の妻の貞節を巡回講話中に聞き、これを表彰している。困窮農民で夫が家出し未進があったが、
老若五人の暮らしを女房の手で未進分皆納した。それには豆腐のからを食してまで年貢米を納入したものである。一家の
悲惨な状態を描いているのであるが、この女房に対して金三分と米三俵外を給与している。その全文を掲げてみる。
関浪村孝子人有之候に付当年四月
御支配御役所江申立候其控
乍恐以書付奉願上候
次男源之助
伜 富之助
当年八拾壱歳
当年 七歳
当年 拾壱歳
当年三十三歳
父 要 助
当年七拾六歳
、一 高八石七斗 関浪村弥六女房と め
母 た き
外弥六家出 〆五人
孝心のものに候得共夫弥六儀不束のものにて必至と困窮に陥り、
一七
役元向米永共多分の古未進四五年前に家出仕候、然る処老年若年
右は当月朔日関浪村路下小国村迄心学道話順村仕候処、関浪村一宿付
、
名主又次郎その村内の様子柄杯相はなし申右とめ儀悉実躰
−豪農地主の経済と思想の二形態1
一八
i豪農地主の経済と思想の二形態一
の孟家内五人の暮箕身一つにて考にも収穫箆て必至と難渋仕候得共、実心なる妻入擁は、夫弥六家出後、桑畑壱枚
所持罷在候を年毎売代銭壱讐幕方に某相用、直様役元霜稜事警未進の分皆納相成り尤去巳年の分は当霜納候倦成行
候趣深々相咄振麩愚心仕候次第依て名主方にても禦当篭頂戴為仕、尚夫々平なるもの共も見継合候得共長々の事故中
々日々の給もの難取続趣を以て、味そ汁など給候儀は壱ケ月に両度くらいも可有之候哉、又拾三歳の子供を相手に致し、松葉様の
ものをきり出し近村新田村杯に背食出し売代なし、真価を以て豆腐から買調過半食事のたり合いたし候趣様申聞候に付下役共は勿
論・心学随意のあ共奄其段相尋侯得鱗も相違無之、極難の趣、老盛の女なれども身状も正敷相守り、世間の蝶集り候様
の儀は決して無之呉々親裏ひ・両人の子供の萎目耳に心苦まを綾、歎敷存じ少々心付いたし候所、直様老夫より相噺候
哉私を小国村江罷越候道筋江釜子供青れ出居心付の一礼姦、三人共悉く落榛たし其容躰覧候得ば、父要助儀は老躰のも
の難渋なれば困苦に迫り相疲労候攣、その儀は身肌も見罎綴袷様のものを着し、出。田之助儀は破れ股引に破れ疑薯、藤はば
きをはき・顔色青く・目の上少々腫居倭に賀得、至而おとろへたる有様、落涙致引別れ候得共、余り不便の事に藁覧るに
不忍儀依之奉覆癌村の儀恐妻存候得共何蕃別の御仁董以て御助合被成下度奉願上候、右願の通り被仰付下置候はば親
子五人のもの共は不申及村役人郡村内一統並私迄重々御仁慈の程難有仕合奉存候以上
弘化三年午四月︵五日︶
北半田村名主伝之助
右奉願上候所御閣被仰役則翌?呼出し饗養戴被仰付候−金三分米三俵頂戴嚢外岡部栄次郎墜釜弐百疋被下岸桑野
村善兵衛右孝養の次第及被開白麦一俵、小幡村名主長蔵金一分手前よりも金二分遣候事
こうした孝子節婦の表彰はすでに元禄度以降会津肇各肇行なっているが、盤の年貢納入という原則はくず享農
民の教化による収取策とした.さらに門人は道路や堰の修理等に参加した.河川の普請や堰普請は人足割で行なっている
が・門人等は名主層や心学指導者の手で宴われた.たとえば次の蕾村の石母田村、森山村の道路の普謹は、二+町
の道路を早田家で行なうことにした、心学者同志の手伝をうけて一人で三人分の働きをして村民から喜ばれたという。
藤田村地内初石母田村、森山村光三ケ村地内往還筋大悪路に付普請仕候次第 ・
一輪野原と申場所往古より至て悪路往来の旅人不申及牛馬共悉く難儀いたし!牛馬の儀は、右廻り道等も出来兼、藤田村、貝田
村両駅の馬子共並人馬等初牛馬怪我致候もの年二十は不少一去二月中二十丁余普請方の儀一親伝之助一人にて普請方仕候心
組にて取懸り候所、心学同志のものは勿論近村の夫々手伝呉難有事にては心学舎中の外も心学と中心きざし居候砺にて常体の人
ハわすレ
足とも事替リ一人にても三人前も仕候位に精進いたし呉候に付不容易大普請には候得共繍か四、五日にて皆出来猶滝川及道法一
度往返にてならし十丁余の場所出来候依之近村には不申及見聞候ものは大に歓び是則気の一致いたし候より出来候事と噂仕候事
さらに堰普請は二十五両と七十五両の寄附金で行なった。これには卯右衛門、長蔵、善兵衛等の寄附で心学者の人々が
当った。
関浪村堰普請成就致候二付留置
一金弐拾五両也 奇特差出候分
外金七拾五両也
︵三︶
是は高子村熊坂卯右衛門どの、小幡村名主長蔵どの、粟野村名主善兵衛どの〆三人にて奇特差出候分
〆金百両 右四人に奇特差出候高
〆金四百両也 午年中無利足貸付分
右は関浪村地内砂子堰切替切通普請入用金に御座候所発端の儀は百姓阿部様御領分、保原下仁井田村名主庄蔵どの心学舎中入門い
是者前四人のもの共無利足金にて引替置翌年迄に追々返済可請取筈
たし罷在候処、同人相歎相頼候には右砂子堰〆切揚口の儀は川底追手深く相成、既に三丈余も種揚げ〆切不申候ては水揚り不申其
に砂川にて時々破れ養水最中悉く難渋仕、年々旱損のの愁い多く、歎敷次第に付、十三、四年同村片海山の腰通右〆切場より弐百
五六拾間以上切替切通普請取懸り候所至て堅石にて;入用金八百両余相懸け切抜普請は出来侯得共前文の堅固にて一三分の一
も水引取兼、依之組村の内十九力村、其内梁川村、大川村、関浪村、新田村は切通し新堰をもち此外十三力村は古堰を用ひ候様右
一豪農地主の経済と思想の二形態− 一九
−豪農地主の経済と思想の二形態一 二〇
成一右庄蔵儀−小幡村名主長蔵との方へ罷越し1同人妻より高子村熊坂卯右衛門どの頼入れi粟野村名主善兵衛どのへ頼
み右四人にて前文の通り奇特金差し出し外金無利足にて四百両余引替金出入五年にて!請取候筈︵以下略︶
このように信連地方の心学が道話と共に村道や諸普請などに出役したことは、豪農名主層指導であって、代官等の権威
で行なわれたものでないことを示している。このことは実質的にこれ等の有力層が農村を支配する陣列ができあがってい
たといってもいいすぎでないであろう︵この普請について菅野八郎との問に紛争が生じているが、不詳︶。
二 近世儒学批判と実践思想
1 熊坂家の系譜と台州
伊達郡高子村は百四十五石七斗余の村高でこの内三石九斗余は溜井の永引地である。年貢率は貞享四年は二つ六分一厘
で、低かった。新田が二十五石余もあるので、新田開発も行なわれた。西に高子沼があり、かつて金山磯石の洗場でもあ
った。東に保原村に隣りし家数は二十二軒であった。
熊坂家は児島高徳や熊坂長範を先祖にもっと記録され、保原村に居を構えたのが慶長の末といわれる。その家譜は前欠
のものが残っている。それによると寛文九年に土佐が死し、その伜与惣右衛門がいたが、その子佐兵衛は溜井を構築し、
伜太左衛門の代に至って松平出雲守の御用達しを行なう程蓄積している。苗字帯刀御免となり、享保十三年に家屋敷と田
畑山林を高子村に買求めている。最初は保原で農業と商業を兼営したとみられる。享保度の土地買集めは太左衛門をして
﹁休耕﹂又は﹁霊苔﹂と改めさせる程農業に力をつくしている。元文三年に村内の二人の農民から荒地、畑、畑地、山を
買取っている。
太左衛門の伜となった太右衛門は甥で高子村に引越している。その子卯右衛門というのは児島左内と称し、熊坂家に入
りその子を孫右衛門の子とする。したがって入婿したものの子である。その卯右衛門の子が宇右衛門と称し、含州と称し
た。この人が後に述べる﹁文章緒論﹂や﹁道術要論﹂等を著述したのである。
︵前欠︶慶長之末、伊達郡保原江罷越申候、寛文九年酉七月二日死去、法名釈了然土佐義、福島康善寺旦那二罷成居候所、其節
土佐伜
大洪水二而大隈川船通ひ不申無拠、上保原村受円寺江葬申候趣申伝候
与惣左衛門
与惣左衛門伜
元和元年に生ル、元禄五申年九月七十八二而死去、法名法銅院紅山道実居士、保原長谷寺墓石塔有之候
佐 兵 衛
天和二年戊年四十四二而死去、法名清浄院念応常現居士、墓所右同断、明暦弐申年大鳥村と申所江溜井築候節、此佐兵衛と申も
の年十八二而村役人相勤候由之所、右溜井之義二付、何か存付、領主江申立候二付、其功二より右ではの溜井之水ハ只今迄も保
佐兵衛枠
原二而自由二引取候趣申伝候
熊坂太左衛門
此太左衛門義、与惣左衛門代より段々松平出雲守様御用相違、太左衛門代二至、松平出雲守様、同式部様、同主計頭様二御奉公
仕御領主様より苗子帯刀御免を蒙御格式も被仰付罷在、曾祖父太左衛門義も其節は苗字帯刀御免之もの二御座候、依之右享保十
三年申之九月二家屋敷、田畑山林買証文二は苗字を付有之侯、然ル所享保十六年松平主計頭様尾張江御入被遊御料所江罷成、右
熊坂太左門義休耕と名改仕、又霊苗と名改仕、苗字帯刀不仕候段、元文三年午八月高子村権助、佐五平よりもとは荒地畑並畑地
付畑下之山共二買諸候、証文之宛名二は苗字無之、霊苗殿へと有之候、右曾々祖父熊坂太左門義右之通之白絹のもの二有之、御
領主様より品々拝領もの等も有之候由
太左衛門枠
葵之御紋付二御羽子板壱枚私家二今以持伝罷在中候、然ルを源三郎、熊坂屋久雲と書上侯は心得違二御座候
太右衛門
実ハ熊坂太左衛門甥、享保十三年保原中村より高子村に引越申候
−豪農地主の経済と思想の二形態一 二一
1豪農地主の経済と思想の二形態一 二二
太右衛門伜
実ハ京極丹後守高国家来児島七郎左衛門定政次男左内と申もの流浪仕、奥州江参熊坂氏江後家入二罷成、熊坂孫右衛門と申もの
卯右衛門
卯右衛門粋 今 環 と 伜 当
の子二御座、右之児島左内持参之品々二細川幽斎公より享極若狭守宮次公江之御手紙一通有之候
熊坂宇右衛門 名改 熊坂宇右衛門
右伜系図がましき義百姓之身分として書上候義至而恐多奉存候得共、御糾二付、乍恐前書之過書上申所少も相違無御座候 以上
寛政八年辰十月 高子村百姓
熊坂宇右衛門、㊥
同 村組頭
勘 七 ㊥
桑折 ﹁ 同村名主
御役所 善 八㊥
宇右衛門は享和三年三月二十一日六十五歳で死んでいる。
2 村と周辺村の実態と熊坂家経営
熊坂宇右衛門が活動した宝暦一享和間の農村は、天明の凶作を前後とした農民全体の危機に陥った時であると共に、幕
藩政の危機の時期でもあった。熊坂の居住村高子村は、百四十五石の小村で、耕地不足のため隣村保原村へ出作している。
この高百三十五石である。村高並の出作地である。いつ頃からの出作かは判らない。出作の事情は質地、借入地などによ
るものとは異っている。というのは、この出作地は多分に熊坂家が集積した土地を村人が耕作しているようである。熊坂
家の出作地についての後出の願書には、居村持高として九一石余、出作高百三十五石余の土地とあり、この出作地は熊坂
家の持高と出作高合せて百十一石余と略同一である。この内実持高は十石一斗余ともある。いずれにしても隣村の百三十
五石前後の土地は蕪坂家の集積にかかわるものである.出作地の経営は自村民に分散して耕作せしめたとみられる.文
政年間暑上げ奮窪は前文が欠けているが、次の二+二人︵獲家共丙訳が示される.前文書がないので持高と出
作票どちらか判ら奈ので︵?︶を付して蓉たが、自村民の出作であることは確実である.そうすると熊坂家は身
ぽ出作地の耕作を芋竃村昏耕作させるという方馨とったと思われる.それが自村民との間に小作契約を結んでい
螂図−聯一酬、㎜副、脚如函−倒猫聯加−御鰯油謝謝、劃側側灘 一
たカ どうかは明らかでな、
、 I I 1 − 一
一一
I
I I I一 、 、 、 ︹一
考
備
︷
B牌治縢八七作響七蔵綜製七蔵鷹作
制覇聯卿欄禰嬬落棚馴器圃盟罵囎防
は ユ 書
パ 願
年
10
政
文
一 1一 一1− 困難し、出作地分の年貢分も納
入できず、ついに弁納するに至
った。凶作のため寛政六年より
窮民救出に六百二十七両と御手
以下村と出
1ーーII III 一 一−一一 IIF
金
□
源
平
文
八
宇
出
甲
勘
口 勇
清
瀬 瀬
庄 重
徳 周
文 善
行
伝 兵
居
嚥七
作以後、自村民は年貢の納入に
しか
出作
石3臥2生乳生7生生222 2 生凱 333射
nも6
9地は畑地が多く、凶
農民矧持副出作割
二三
−豪農地主の経済と思想の二形態i
村之儀者小村二露村持高九拾壱石余弩で墨描御座候処、御領分上保原村江小前出作高百一二拾六秦越石製貢上納仕罷在簑
及極窮如何様二も相続難相成﹄同及共潰可申体二相成亡村窒可相成程之儀二付、無拠奉愁覆儀者前書奉認上候通、一体高子
相嵩・小前一襲極難候得共、大切之御年貢之儀二付食物代替候而茂努上納向鉦蒲、皆納仕候処、去ル酉凶作以番必至に小前
右者当御領分上保原村江小前出作高書面之通銘々所持仕、御百籍続罷在候処、近年追々困窮相募り御年貢御上納向萎、弁黎
もほしいと願い出ている。
い
願
掲
こみ
の村
亡、
村に
と しく
窮 して
る作
ので
作地につ
て の
書 を
げ て
るが.
ひ 困 い出
地、畑方の年貢半免と弁納相続の手当
また天明以来、出作地の弁納を態坂家で行い、
当籾六百
石の下付をうけている、 また米金の助力をしている.
第4表 高子村持高・出作高
一豪農地主の経済と思想の二形態一 二四
奉拝御領分江是迄聯たり共前文難渋二付御歎キ奉申上候儀無御座、窮民相続方之儀者、御公儀様江奉願上、年々諸御手当筋莫大二
︵?︶
枝下置、右御仁恵を以、漸相続罷在、既二寛政元酉年以来汐去子年迄凡四拾年の間二窮民其外相続方諸手当共金六百弐拾七両余並
御手当籾及六百石頂戴仕、右体迄高大之御手当技下置候問天明年中凶作以来♂連々及困窮候もの共可立直処、出作弁上納多分仕候
故いづれ二も難行立儀を当村熊在宇右衛門甚相歎き、祖父卯右衛門同様、清々続相続世話致呉、是迄不少之米金助力致呉候儀茂眼
前弁納難渋難見捨故之儀と奉存、違作之年柄は勿論、御上納皆済数度いたし貰、其外田植夫食に至迄無利息二而用立呉、品々厚恵
を受候得共、いずれも出作御百姓相続難儀二相成、居村持高之儀者御年貢上納仕ケ成二農業出精之余潤も御座候得共、ひたすら御
歎奉申上候儀者御領分上保原村江出作高百三拾五石余相続方の儀者いづれ二も御取箇辻の内別而畑方御上納辻の儀者多之分弁上納
二相成候儀故従御公儀様莫大之御手当前文之通被下置、熊坂宇右衛門﹂祖父卯衛門氏汐も多くの助合仕呉候得共引立二難相成、歎
敷儀者全出作畑方御上納向井上納之償二右御手当金差向候故、連年消金、相成、極貧之者難立行次第二相成、奉対御公儀様江候而
も御仁恵を以、相続御手当被下置候御趣意難相立誠二以、奉恐人並熊坂宇右衛門奇特之功茂無詮様二成行、重々歎敷難渋至極仕候
得共右体の儀恐顧奉申上候儀甚以奉恐入侯間、是迄は可及力丈ケハ精々取詰弁上納仕候得共、前文段々御歎奉申上候通り極難二差
詰り最早亡村二も可相成程之儀二付此上御慈悲之御意不被下置候ては暦然一同及潰候外無御座極貧相続難相成歎敷奉存候、依之無
是非御慈悲奉而奉願上候儀者何卒格別之御評儀を以、当丑年δ来ル成年迄拾ケ年の間、畑方出作御年貢半免年季御引方被仰付被下
置候様奉願上御引方被成下候ハバ年季中精々仕、御百姓丈夫二相続罷成候様仕、年季明二至り本免御上納可仕候間、偏二御救御引
方奉願上候、右御引方難被仰付御儀二も御座候ハマ何卒此上際立弁納相続方御手当被成下候様奉願上候何れ二も両様之内格別の御
憐愍を以願之通り被仰付枝下置候様幾重二も挙而御慈悲奉願上候然ル上ハ承之百姓相続可仕難有仕合奉存候依之連印を以奉縄願書
奉差上候以上
寸■: ■ ・
ホ
文政十弐年 丑 二 月
保原御役所
前書小前一同奉願上候趣、聯相違無御座歎敷奉存候間奥印仕御憐愍本願上候︵本文は下書︶
右村熊坂宇右衛門
以上のこと奮蕪坂家の土地集積が自村内は少く、他村へ向けられ、しかも畑地に多く、それも桑畑等であったとみ
られる。出作地は自村民の農民耕作とし、その小作関係は不明であるが、年貢分と村の慣習的小作料を徴収したとみられ
る。ところが凶作前後から村罠が窮乏して出作地も耕作できず、弁納をする程になったというのが実状である。卯右衛門
が村内外農民の実情を身を以て知り、後出の救済策を示したのであり、それがまた、幕藩制下の農政と学者等の批判とが
生れた理由でもあろう。
それでは自家の農業はどの考にして建ったか.自営地酊浸余豪内議と雇人葛篭と.つくと脅紫︶次
の文書琉右衛門の子の時代であるが、質物奉公人の一、書掲げてみる.文化七年士再に村からあ寳遠くな高河
原の勇七三±豪身代金五噌五カ年季の奉公をし年季内に撃取る場合は一両につき房の増金である.労働は主人
の命の蜜で暮夜嵩わず勤め人代も出して田地の耕作をする.欠落の際はさがし出し人代も出す、御法度を守り、年
に青の黛・その外は百何程と相場を以て支払う.病死の際は半金御容赦、投身、首響、密会、喧嘩等で死んだ場合
は代人を出す・夏冬の薯施や元奪あぶら簑支給するというものである.この契約茎一一口はこの地方の通例文書である
が・五年の長年季から一年、半季と短縮してくるのが幕末である。また居消しも行なわれている。
質物奉公人差置申証文之事
一司河原村百姓勇七讐吉年=壁宿身代金五両砦之あ羅者共人義人にて書面の通身代金借り請、質物奉公人に蕾申所
実正也・但年期の義粟る亥の嚢五ケ年限に想疋農、年期明候はば身代金五両急度碧御暇可聚、年期之内勝手を以て御
暇有之候はば金壱両江雰宛の蓼相加へ、身代金ハ両雰急度相済可申候、若不撞繁、又は御はたら不宜、御さし戻し被
成候はば何時にても御用に可立、人代早速さがし出し年期の通り御奉公急度相勤め留地御耕作に御さしっかへも相成不申、年
二五
i豪農地主の経済と思想の二形態−
1豪農地主の経済と思想の二形態一 二六
期明の日進御奉公急度為相勤、身代金五両急度相済申候若取逃、欠落仕候はば取候品々早速相弁じ御用に可立人代早速さがし出
し少も御差支に相成不申、年期明の日迄御奉公急度為相勤、身代金五両無滞相済、人代のもの引取可申侯事
一、従御公儀様被仰出候御法度は申に不及御家の御作法急度為相守、昼夜、風雨にかぎらず何成共御奉公急度為相勤可申候、永煩
仕候はば御用に可立人代早速さし出し可申候、日料銭にて御望み候はば年に三日は御用捨其外は一目何程其節の日料相場を以て
急度内定相立可申候、万一病死仕候はば身代半金御用捨被下筈に相定申候、井入、川入、喧嘩、口論、首懸け、自害、密懐、刃
傷其外、何にても其身相求候儀にて相果侯はば何時にても御用に可立、人代早速さし出し年期通御奉公急度為相勤、身代金五両
無滞、急度相済可申候、尤右体の儀に付、如何様の六ケ敷義出来候共拙者とも引請、何方迄も罷出、貴殿の御苦労少も相懸ケ不
申急度塀明け可申候、但夏冬仕着の儀は思召を以て被成下候筈、其外たばこ、元結、びん付なきもの等被下侯筈に相定申候事
一、宗旨の儀は代々一向宗にて梁川常福寺旦那に紛無御座候、寺請状御入用の筋は何時にても旦那寺に申聞ケ取之、早速さし出し
可申候事
右証文の通り少も相違申問敷、為後日質物奉公人証文仍て如件
文化七年午十二月九日
向河原村人主奉公人親 勇 七㊥
同 村請人同断 おぢ 九 蔵㊥
高子村熊坂八百板殿
この勇七は翌年に継証文をし、五両の内二両二分を返済し、残金分を働くが、勝手に暇取る場合は一分の増金と三両二
つぎ
朱を支払うというものである。
質物奉公人継添証文之事
一、去午十二月拙者共人主請人にて質物奉公人に差置申候彦吉儀身代金五両の処、此度金弐両弐分相済申候に付身代金弐両弐分に
相成候処実正也、但年期の義は本紙証文の通相定申候、若年期の内勝手を以て御暇被取侯はば金壱両江壱分宛の増金相加へ身代
金三両弐朱急度碧可農事奈某紙質物妻人証文之通り少霜奮間覆為後日継証携て如件
文化八年末十二月
一向河原村人主 勇 七㊥
同村請人九 蔵㊥
高子村熊坂八百板殿
この考な形態謹人経寡宴われた.これ窶するに、熊坂家の経営は地主的であると同時に雇人姦てする誉
で冠主・自作讐とみることができる.出作地を村民に耕作させていることは地主、小作の轟でなく質地主的群で
ある。
3 熊坂家の貧農救済事業
寛延二年の蓬百些覆藤案の凶作、つづいて天明の大凶作がつづき、寛政改革を行う程幕藩の経済易論、
農民経済が立行がなくなったことは述べる專美い.熊坂台州が、この変動期に学問的立場から護筆者姦判した
ことはさきにも述べた通りで・その思想は知行豪の実践ξあった.甚救済はそうした思想の表われともみることが
できる・蓑救済鯖和からはじめ彼の餐享袈でつづ覚れ、その子も継続しているが、さしあたり卯右衛門時代に
ついてのみ述べてみる・豆麦粟等の年貢米以外の食料の無型もしくはこれを元資とする利恩による維持、貸金、質
物奉公人の帰農+三力楚わたる蓑への貸金、火災にあった養の救助等を行なっている.次に余してみる.
熊坂家救済事業
明和三年 衣食に貧する者多く餓するを麦を散じ毎歳里中貧民を撫位す、豆麦を貸すも利を取らず、
安永六年 粟百石を代官に納入し貧民に貸し、利を収む、毎歳その利を以て貧民を賑恤
寛政六年 再び粟を賑恤
二七
−豪農地主の経済と思想の二形態1
一豪農地主の経済と思想の二形態− 二八
天明三年 東奥穀登らず、銭または五百三十石粟を以てす、高子、箱崎、瀬上、鎌田の貧民に貸金し死を免かる。高子十六戸、六
十二人、箱崎五十丞尺二百三十五人、瀬上二十七戸、九十六人、鎌田四十戸百十人
天明四年 春一斗値銭三千餓者あり秋貧民を救済、右の四力村のため、利を取らず
天明七年 箱崎、瀬上、鎌田の三村貧民にして質物奉公人となる者十三人、寛政八年その代価を払って帰農せしむ
享和二年 四百両を代官所にあづけ、その利を以て桑折、藤田、貝田、小坂、南半田、北半田、松原、万正寺、宮岡、小幡、北
原、長倉、岡の十三力村の鰥寡孤独癈疾の貧民を救う、この利毎歳三十四両、さらに百五十両を以て十余年間に高子、箱崎、瀬
上、鎌田、中島、伏黒、東泉沢、大塚、杉田の九力村の貧民に貸す
享和元年 瀬上、中島、大塚の三力村は他領のため除いて、高子は山間不毛の地のため流亡、荒田の村である。金義干を以て利と
し荒田の組とす
寛政十年三月 岡村、長倉二村大火、三十五両を以て七十戸の貧戸を救ふ︵﹃継志編﹄︶
この治績は桑折代官の手で次のように報告されている。
奥州高子村熊坂宇右衛門寄特御褒美之儀奉願候書付
寺 西 蔵 太
私御代官所
奥州伊達郡高子村
百姓 熊坂宇右衛門
当未 四拾四歳
一、持高百拾壱石余
内高拾石壱斗三升七合 屋敷畑
此反別壱町弐反壱畝九歩
此奴米四石三斗三升壱合四勺
内米弐石壱斗六升五合七勺
永三百九文四分 役七石代
此米弐石壱斗六升五合七勺
右宇右衛門儀、他村に出作共高百拾壱石余所持仕、前々より身元相応二而農業出精仕、至而篤実二而勧農筋二志厚困窮人を餓、
飢饉、凶年之節者貯置候米金等差出、当日凌兼候小前百姓救候儀者数代之儀二有之、同人曾祖父宇右衛門代より祖父宇右衛門代之
節、籾百石金百両差出二仕、右利金籾を以困窮百姓相続御手当二相願、其外奇特之取斗仕候二付、天明三卯年松平陸奥守御領所
之節、取調申上候処、御褒美銀拾枚被下置、祖父宇右衛門儀其身一代帯刀御免苗字者子孫迄名乗候様、被仰渡、同五丑年同人御預
所之節去々卯年凶作二而、村々及飢候節、金米差出、相救奇特之儀二付、誉置可申旨被仰渡、養父宇右衛門儀祖父之志を請継万事
行状正敷、品々奇特之取計仕、天明七未年寛政元酉年鰥寡、孤独、癈疾之者為御手当両度二金弐百三両弐分陸奥守御領役所江差
出、御貸附相願、寛政十年年隣村岡村、長倉村家敷百四拾軒類焼人江為手当金五拾両合力等仕候段、岸本弥三郎取調申上候付、為
御褒美銀三枚被下置、其後竹内平右衛門支配之節、両度二金弐百五拾両差出金仕、猶此者居村百姓三人他村奉公出仕、退転可仕躰
二付、右持地弐反四畝歩余、質地請戻之上、農具等夫々手当之上、銘々引戻、百姓相続為致並村方及人少候儀を相歎、新百姓弐軒
取立、家二作、農具等迄一式相調、当分之夫食米迄差出、居村並隣村極貧之小前相続相成兼及難儀侯儀を見兼、籾弐拾七石五斗金
弐拾五両三分上納金立替、納致遣、其外度々寄特深切を尽し、稀成志二付、 ︵以下略︶
右は台州時代のものでその子も救済を行っているが、含州の時代、無利子の場合と、元金を出し利子を以て貸金、貸石
をする場合の二つの方法をとっている。たとえば自村民外に籾七十石を貸渡し、五ケ年間無利息その後利籾を以て積替え
るものである。
松平陸奥守御領所伊達郡去卯年凶作二付村々及難儀候二付同郡高子村熊坂宇右衛門貯置候、籾七拾石御領所に差出、高子村、箱崎
村、瀬上村、鎌田村右四ケ村に貸渡、辰巳両年取立相延、午δ戌迄無利足五カ年賦二取立、其後は村々之内相定候もの江年壱割五
−豪農地主の経済と思想の二形態− 二九
1豪農地主の経済と思想の二形態− 三〇
分主利籾を加へ貸渡、其年之取立之作徳新籾二引替、其村限囲置、追年困窮百姓共為手当囲籾二取斗候様仕度旨奉伺候処此度伺之
通取斗候様被仰渡承知奉畏候、依之御請書奉差上候以上
辰四月十日 松平陸奥守家来
山 口 長 吉
幕藩の貯穀策と似ている。いずれにしても、このような方法しか貧農救済はできなかった。学問からの思想が貧農救済
といふことであるが、自作地や出作地の維持のためにもとられた仕方と思う。代官や藩もこの政策を行ったが、台州の立
場は貧農自体におくが、幕藩は年貢御徴収のためで、この立場が全く違っていた。
4 儒者熊坂台州の思想
以上は熊坂家の経済的実態ともいうべき実際を述べたが、以下では台州の思想にふれてみることにする。他の機会にも
述べたが、台州の著書は多くあるが、中でも﹃信達歌﹄、 ﹃文章緒論﹄、 ﹃道術要論﹄が主著とみられる。この内﹃道術要
論﹄は他の機会とし﹃文章緒論﹄に表われた思想の一部を述べてみることにする。
人生観ともいふべき点から始めてみる。彼は、人生に三大幸あり、ωは眸子つまり眼が瞭かである、②は性甚だ愚なら
ざること、⑧は家少くあることの三点であるとした。目は盲であれば天地月日をみること不可能であり、書を読むことも
できない。性悪︵才智︶ならずんば先ず仲尼︵孔子︶の道を学ぶことができない。そして家︵財︶少しとは﹁菽麦を ぜん
と﹂つまり、豆や麦を食い、水を飲み暮すことのできることである。そして人はこの三大幸福があって学ぶことができる
とした。
この人生観は学問するという立場から述べたものであるが、健全な身体と家産は生存に必要なだけということである。
前に述べた土地の集積過程はここでは無視されている。享和二年に刊行されているので、 ﹁道術要論﹂の要約編ともいう
べきであるが、学問的にも、生活についても礁熟した時期である。以下政治、学者、都市と農村とに分けてみる。
政治の在り方については、仲尼の説を引いて仲尼は先聖王の事を述べて﹁千乗の国を道びくに、事を敬して信じ、政を
サら
なすに徳を以てす、之を道びくに政を以てし之を斉うるに刑を以てす、民を免して恥無し、直を挙げて諮れを柱に錯サば
寵す﹂という・徳の政治を説くことを強調し、そして﹁明繁天下緕かにせんとす薯は先づ其国落む、琶落
めんとする者は其家を斉ふ、其家を斉んとする者は先ず其身を脩む﹂と述べ、自分は﹁吾脩小人の如きは、家の斉うべき
なく、国の治むべきなし唯だ身の脩むべきのみ﹂と自己を如何に脩めるかを述べ、 ﹁用を節して以て父母を養ふこれ庶人
の学とす﹂と述べ﹄唯だ行うべき者を之を行うのみ﹂と身を脩め行うことを笹とした.これが彼の信念であった.
次に当時の学者について、徂徠、仁斎、春台、蕃山等の学説を批判している。その内容の全体については判らないが、
いずれも彼の目には浮華とし、世に媚びるものとした。
一世学暮華嬰成し慮義を以て人鍛き、名を売り、文章各与、世に媚び、詐に飾るの目⋮ハ差す、忠厚の属地を掃ひ軽薄
の習天に浴る
と慨嘆し・さらに新井暑以来の諸家の儒学論婁あげ、これ姦て﹁余近世の詩文をみるに、模擬、裂瞬目に満る
に論なし﹂と批判している・そして﹁五・邦伊物二氏論著する所折衷する所量塗を附するのみ﹂とし﹁物氏︵繰︶の文変
の如きは亦英雄人を欺くのみ﹂とその説﹁牽強伝公人を欺くも甚だし﹂とのべ、信達地方に徂徠の復古の学を入れたのは
桑折の医者桑島叔明であるが、このように徂徠を批判している。さらに伊藤仁斎の﹁制度通者﹂、太宰春台の﹁経済録﹂
を評し、制度通者は﹁本邦古今の制度を挙げて読者をして自ら択ばしめ、以て尚ふのみ﹂、経済録は﹁頗る成否︵善悪︶す
る所あるが、其位にあらずんばその政を謀らず﹂ということを忘れ、損益のみをみる、無用に属すと述べている。また物
氏の政談は大に禍心を包蔵し、これも無用で、それは﹁其心に生じ其政に害ある﹂ためである、熊沢蕃山の﹁大学或問﹂
一豪農地主の経済と思想の二形態一 一二一
一豪農地主の経済と思想の二形態− 三二
は迂潤無用の論のみ異邦を征するは過慮である、そのため天下を失うとした。そして仲尼の学者にいうことは、書を序し
礼を論じ、楽を正すことで、天子諸侯の事に非ざるなりと論じている。
この詳細については他の機会にするが、いずれも朱子学者への批判で幕藩政治と結びついているとみている。そして信
連地方の学問については
吾が信達は上世蝦夷の巣穴なる時、其の余習其俗桿を除かず、仁も以て懐きがたく、義も服しがたく、1即ち教るべき者あるも
或は名のために学び、或は利のために学ぶ、その名のために学ぶ者は僅かに名を得ることあれば止む、また学ばず1余教へを信
達の間に施してより以来三十年一人も出さず。
と名利に動くもの多いと述べている。彼の同時代には中村以貞、桑島叔明、石金宣明、小野常建等がいた。それはともか
く、都市人の生活状態について次のように述べている.、
今昇平の久しき西京の富庶、東都の繁華なるに論なし、即ち列国の国都および諸州の大都会の如き、紬黄、乞篶、巫医卜祝、娼
妓、俳優、大好巨狗および緑林の亡命、無頼の博徒まで織らずして衣、耕さずして食う、いづくんぞ数十百万人
と城下都市の繁栄と庶民の職業別生活を述べ、これは耕さず、織らずして生活するものとした。このような都市生活に比
して、農村では貧農の耕作は作付もできず、父母妻子の養いも不可能である、という。
窮郷僻邑、草葉開けず、耕す者は仰ては以て父母に事ふるに足らず、俯せば以て妻子を畜うに足らず、楽歳には終身苦み、凶年に
は死亡を免れざるや
そして凶作には餓死するという。農民は田畑をはなれて都市に行く、耕すもの一人で、食する者十人という。
即民唯だ農畝を離れて浮食とならんことを是れ望む、是を以て南畝に縁る者、日に一日より少し、遊手となる者日に一日より多し
昔人謂ふ一人耕して之を十人餐て食す、将に耕す者 にして食ふ者十五なるに至らんとす
このような状況では凶作にあえば餓死せん︵天保の凶作あり︶と、これを正す道は税を安くし、労役を省くことである、
一と述べている。
万一凶旱水溢の災あらば、即ち天下大に餓漣せんとす、堂殆からざるや、何せば可ならん、其税斂を薄くし、その後役を省き民を
して末をすて本に反らしむ
そうすれば農民は農業に精を出し田畑も開ける。移奢は禁ぜずして風俗が改まる。
葦簾命せずして關け、隻省禁ぜずして止む、風俗教へずして厚きにしくはなし
という。強収奪をやめれば自然に税は入る。
草葉開くる時は其税斂薄くすと錐も倉実ち府庫充つ、且つ民南畝に縁る時は即ち恒産あり
農民も恒産をなすという。以上が熊坂の思想と農民に対する考え方である。何よりも減免と労役の負担をなくすことと
した。この思想は政治や、学者の批判から生れたもので、儒者としての立場もあるが、早田家の選んだ、幕藩体制の政策
を心学によって行なうものと全く反した思想である。この思想が門人の菅野八郎へとひきつがれるのである。
︵九月九日︶
三三
附記 最近中国では文化革命後の第二の文化革命といわれる孔子の批判があり、孔子は封建制を維持した思想とされた。日本の儒
学者の再検討が要請されることも近いと思われる︵三月三十日︶。
−豪農地主の経済と思想の二形態1
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