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当日発表資料

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当日発表資料
2010年度第1回キリスト教学科修養会
「信仰と学問」
演題
アドルフ・ヒトラーとカール・バルト
――忠誠宣誓拒否とバルト追放の顛末――
アドルフ・ヒトラーとカール・バルト
――忠誠宣誓拒否とバルト追放の顛末――
序 ドイツ教会闘争とカール・バルトについて
忠誠宣誓拒否とバルト追放の事件(1)
1、事件の発端
2、停職処分、講義中止、懲戒裁判
3、判決
忠誠宣誓拒否とバルト追放の事件(2)
1、控訴
2、控訴審判決
3、事後のこと
宣誓拒否問題の本質(まとめ)
参考文献
序
ドイツ教会闘争とカール・バルト
ドイツ教会闘争(1933--1945年)
と
カール・バルト(1886--1968年)
について
ドイツ教会闘争(1933--1945年)
1、ヒトラーによる教会の統制化(均制化)に抗して
ヒトラーの権力奪取(33年1月)
ドイツ的キリスト者(信仰運動)
帝国教会創設(7月)
2、告白教会の成立
牧師緊急同盟(33年9月)
全国告白会議、バルメン宣言(34年5月)
3、戦後ドイツ教会の礎
シュトゥットガルト罪責宣言(45年10月)
ドイツ福音主義教会(EKD)成立(48年)
ヒンデンブルクからヒトラーへ
Van Nordenによる資料集より
Van Norden による資料
集から
帝国教会監督ミュラー、軍旗授与式
カール・バルト(1886--1968年)
1、弁証法神学、神の言葉の神学の主唱者
スイス出身、『ローマ書』(1919初版)を機に
ザーフェンヴィル教会牧師からゲッティンゲン
大学神学部教授(1921年)へ
ボン大学を追われ(35年)、バーゼル大学へ
2、告白教会の中心的な神学者
『今日の神学的実存』(33年6月)、「バルメン宣
言」起草、他
3、神学大系の樹立と多方面の問題提起
『教会教義学』(1932~67年、未完)
左上、1932年ベルリン、講
演会後
左下左、今日の神学的実
存
左下右、1933年7月、教会
選挙
右下、バルメン宣言、草稿
Busch, Karl Barths
Lebenslauf より
1934年、フィレンツェ。左、
ペーター・バルト。手前、
長男マルクース・バルト。
右後ろ、エルンスト・ヴォル
フ。
左、ピエール・モーリー、
右、フィセルト・ホーフト。
現在のボン大学
忠誠宣誓拒否とバルト追放の事件(1)(2)
忠誠宣誓拒否とバルト追放の事件(1)
1、事件の発端
2、停職処分、講義中止、懲戒裁判
3、判決
忠誠宣誓拒否とバルト追放の事件(2)
1、控訴
2、控訴判決
3、事後のこと
忠誠宣誓拒否とバルト追放の事件(1)
1、事件の発端
・8月2日、ヒンデンブルク大統領死去
・8月19日、ヒトラー大統領を兼務
・8月20日、「官吏及び国防軍兵士宣誓法」法制化
⇒バルト、スイス滞在中にこのことを知り(20日)、ただちに「信
仰告白ノ事態」(status confessionis)と認識
・10月30日、ボン大学学長ハンス・ナウマン、バルトに対し、他
の教授と共に11月7日に、大学講堂で宣誓を行なうように指
示。
⇒バルト、「付帯条項」(「私が福音主義〔プロテスタント〕のキリス
ト者として責任を負いうるかぎり」)を付けての宣誓を通告(宣
誓そのものを拒否したのではない)。ナウマン、期限内実行を
猶予、文部大臣ルストに連絡することを約束。
誓約文
y 要求された誓約文
私はドイツ帝国と民族の指導者ヒトラーに忠誠をつくして
服従し、法を守り、自分の職務の義務は良心をもって順
守することを誓います。神よ、我を助けたまえ。
y バルトの誓約文
私はドイツ帝国と民族の指導者ヒトラーに、私が福音主
義〔プロテスタント〕のキリスト者として責任を負いうるかぎ
り忠誠をつくして服従し、法を守り、自分の職務の義務は
良心をもって順守することを誓います。神よ、我を助けた
まえ。
2、停職処分、講義中止、懲戒裁判
11月26日、ベルリン(文部大臣ルスト)からの通達で停職
処分(理由は示されなかった)
11月27日、職務停止命令、講義中止。懲戒裁判第一回審理
弁護士オット・ブライプトロイ(G・デーンの従兄
弟)。
告訴事由 1、宣誓問題。2、ヤコービ宅発言問題。3、ド
イツ式挨拶を講義の前後に行わなかった
こと。
バルトの発言、ヒトラーへの忠誠の内容は無制約的、それでは忠誠
を果たすことはできない。それを限定するのが福音主義信
仰によるというものだ、と。
12月7日、学長、バルトの代講者にドイツ的キリスト者ヤピンク任
命。学生200人、抗議声明をもって拒否。
この出来事を巡っての反応
⇒ブルトマン、フォン・ゾーデン、批判・忠告。条件の修正ないし撤回の提案。
⇒バルト、告白教会に、教会全体の問題としてこの問題に対しての態度表明を
求める。告白教会指導部はバルトに対する敵対心から曖昧な態度に
終始。
⇒事態を憂慮した友人らの仲介により、ようやく「臨時教会指導委員
会」(VKL)が12月7日に声明文を発表した。「神の名によっ
て指導者アドルフ・ヒトラーに向かってなされる忠誠宣誓は、そ
の真実と服従の義務を神の前に責任あるものとなし、同時に正当な
根拠を与える。そしてその宣誓は神の名によってなされるゆえに、
聖書に証しされている神の戒めに逆らうような行動は除外される。
そうすることによってわれわれは、カイザルのものはカイザルへ、
神のものは神へという主のみ言葉や、人は人間に従うより神に従う
べきであるとか、すべての人は、上に立つ権威に従うべきであると
いう使徒の教えを守る」。
⇒改革派連盟が12月14日に支持発表、VKLとバルトの立場は一致していると。
付帯条件の取り下げ
⇒バルト、告白教会の態度決定を受けて、付帯条件を取り下げ
る(ヒトラーへの忠誠義務は神の言葉によって原則的に限定
された内容しかもっていないということは、自分の見解だけで
なく、福音主義教会の公式の立場であることがはっきりしたゆ
えに)。
⇒「国家は教会を承認することによって、国家としての自己に措
定された限界を、国家自身のために肯定するのです。そして
国家公務員としての神学教授は、この限界を守るために国家
自身によって任命された見張り番であり、またまさに、現在広
く行われており、あの検事によって布告されたような国家理論
によるあの限界の突破の見張り番なのです」(トゥルナイゼン
宛て書簡より)。
3、判決
12月20日、ケルン懲戒裁判所判決(第一審判決)。
バルトの罷免と一年間の半額年金の判決(公表は1月16日)。ヤコービ宅発言
とドイツ式挨拶をしなかったことが問われ、かつ全体として現行のナチ国家に
対してよろしからぬ関係に立っており、ドイツの青年の教師に不適格として罷
免が決定された。宣誓問題については、被告が宣誓の用意あり表明したこと、
ナチ国家は基本的に宗教と神には肯定的態度をとっており総統が神の命令に反
する決定をする可能性はないこと、宣誓はすでに任命をもって引き受けられた
義務の強化確認でしかないこと、などにより、取り上げず、むしろ被告が保留
をする態度そのものが国家否定の証拠になりうる、という理由で、直接の判決
には反映させなかった。
忠誠宣誓拒否とバルト追放の事件(2)
1、控訴、
2、控訴審判決
3、事後のこと
1、控訴
⇒バルト、2月4日に、再審請求支持を告白教会に要請。し
かし全国評議委員会はこれを 引き受けず、バルトから距
離をとる。
⇒バルト、学外で、講演・説教・講義などを行なう。いくつか
の重要講演がこの中には含 まれる(たとえば「信仰告白の
一致の可能性」、あるいはユトレヒトでの『クレドー』 の講義、
など)。
⇒バルト、3月1日、講演禁止の処分受ける。
⇒バルト自身、3月14日に、ベルリンのプロイセン高等行政
裁判所に控訴手続き。弁護 士ブライプトロイ。
⇒4月、ラインラント領邦告白教会、バルトが支持声明。
2、控訴審判決
6月14日、高等行政裁判所控訴審判決。原判決(ケル
ン裁判所の判決)破棄(ヤコービ牧師宅発言とドイツ挨
拶問題について)。宣誓問題についてのみ、罰金刑
(一年間、五分の一の給料カット)。第一審と著しい相
違する判決。(ブライプトロイのすぐれた弁明)。ナチス
的判決を示さず。
⇒バルト、「ベルリンにまだ裁判官がいた」、「小さな奇
蹟」。
⇒教会闘争初期においては、むしろ法廷闘争に持ち込
み、勝利した。しかし宗教問題が民族裁判所に移され
て激変。
3、事後のこと
6月22日、文部大臣ルスト、バルトを休職(退職)処分に処
す。
⇒バルト、6月24日、バーゼル市政府からバーゼル大学
招聘。
⇒助手のゴルヴィツァー、牧師に(ベルリン・ダーレム)。エ
ルンスト・ヴォルフはハレ大学に移動させられる。
⇒ボンのバルトの講座は廃止された。バルト7月8日、ドイ
ツを去り、バーゼルへ。
宣誓拒否問題の本質(まとめ)
1、信仰告白ノ事態(第一戒の問題)
y ペトロの告白(マルコ8章29節「あなたこそキリスト」と14章71節「そんな人は知
らない」)
y ペトロの告白(使徒言行録5章25節)「人間に従うよりは神に従わなければな
りません」
2、「バルメン宣言」(1934)の立場
y キリストを教会と世の唯一の主と告白しつつ歩む教会を目指して
3、まとめのまとめ――信仰の学問
キリスト教研究には、さまざまなアプローチが可能である。各自それを模索し
てほしい(「信仰と学問」「学問と信仰」)。
神学は信仰の学問。信仰とは信頼、認識、告白を意味する(バルト)。この正
しい告白に信仰の学的反省は不可欠。そしてその営みはみな「神の栄光な
れかし」との祈りにおいて遂行されるほかない。
資料集・主な文献
y 資料集
y Hans Prolingheuer, Der Fall Karl Barth 1934--35, 1977.
y Karl Kupisch, Quelle zur Geschichte des deutschen
y
y
y
y
y
Protestantismus, 1871 bis 1945, 1960.
参考文献
Karl Kupisch, Karl Barths Entlassung, in : Hören und
Handeln, 1962, S.252ff.
雨宮栄一『ドイツ教会闘争の展開』1980.
笹川紀勝「カール・バルト事件」(宮田光雄編『ドイツ教会闘
争の研究』107頁以下)1984.
テート『ヒトラー政権の共犯者、犠牲者、反対者』宮田、山崎、
佐藤訳、2004.
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