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見よパソ
広
報
下之郷
№36
発行日
編集 発行
2001.11.15
郷づくり広報部会
私たちの区
目次:
第25回区民運動会
1.2
長寿祭・百灯祭
3
地蔵盆・二階堂川水車前に石灯籠
4
営農コーナー
5
ふるさと大発見 中世の下之郷⑥
6
読者のページ 短歌・クイズ
7
2001.11月1日現在
*戸数
214戸
*人口
男421 女448
計 869人
十月七日午前八時半より、二
十一世紀初頭の運動会が盛大に
開催されました。
思い起こせば時の下之郷公民
館長でありました阪東九郎氏
︵故人︶が甲良町内のトップを
切って桂城神社境内で開催され
たのが始まりで、以後北池跡地
でも開催され、圃場整備面工事
が終了した後、現スポーツ公園
で開催され、今年で二十五回を
数える記念すべき運動会とな
り、区民の皆様もそのことを思
い浮かべながら、雰囲気を盛り
上げて和やかな談笑の中で時の
過ぎるのを忘れてゲームを楽し
まれていたと思います。
プログラムについては分館長
が昨年の反省と区民の要望を取
り入れた内容でした。分館長、
体育推進員、各組体育協力員の
皆様、大変ご苦労さまでした。
大物がつ
れたぁ!
入ってくれ!
お願い!
負けてネ
1
第36号
広報下之郷
2001年11月15日
よ っ し ゃ、こ の
調子やでぇ!
ほれ、しっかり歩かんかい
2001年11月15日
広報下之郷
ぼくだって
やるぞ!
何 と い っ て も、三 組 対 抗 つ な ひ き は、運 動
会 の 花 形 種 目。一 発 逆 転 を こ の ひ と 引 き に
こめてヨーイショ・ヨーイショ。
ジョギング大会もすっかり定着。
見よ!女性ランナーの勇姿を
優勝おめでとう。健闘をたたえて
トロフィの贈呈。
最後は、江州音頭で締めて。
とっても楽しい一日でした……
2
第36号
長寿祭
辻
辻 登美江 上野 泰子
西堀 治男 川並 保之
阪東 祥久 嶋路 俊彦
松宮 太一 西堀 幹男
辻 大和
還暦
松宮 きぬ
川並登代子
米寿
二階堂正七 阪東駒治郎
喜寿
博和 寺居 芳三
古川 竹利
辻
はる
川並 一男 藤居 國蔵
松宮 きぬ 西堀 信栄
百灯祭
九 月 二 十 九 日、氏 子
から五百余灯の献灯を
い た だ き、天 候 に も 恵
ま れ て、多 数 の 参 詣 者
や、老 人 会、婦 人 会、
自 警 団、P T A、郷 づ
くりイベント部会等の
出 店 で 賑 わ い、舞 台 で
は各クラブ員さんの積
極的な参加をいただ
き、社 務 所 に は 立 派 な
生花で例年になく活気
に満ちた百灯祭にな
り、最 後 は、松 宮 吉 蔵
師匠一門江州音頭に合
わせて老若男女の踊り
子 に よ る 江 州 音 頭、そ
して抽選会で終演とな
りました。
3
例年の通り十一月一日十時か
ら桂城神社拝殿にて長寿祭が斉
行 さ れ ま し た。日 々 体 調 に 留 意
さ れ、健 康 で 温 も り の あ る 心 遣
いでますますご健勝での長寿を
お祈り致します。
百灯祭初のハンドベル演奏
第36号
広報下之郷
2001年11月15日
八月十八日、
小学校PTA、
児童の一大イベ
ントとして催さ
れ、多数の参詣
者で賑わいまし
た。特に子ども
たちが和服・ゆ
かた姿でお詣り
してくれて、例
年にはない昔懐
かしい雰囲気の
地蔵盆となりま
夏休み最終日のラジオ体
操に子どもたちが
一生懸命でした。
終わった後、誰言
うとなく公園の草
刈りを始めまし
た。この姿を見て
胸がドキドキし
て、うれしさがこ
みあげてきまし
た。年に何回か公
園、農免道路の除
草奉仕を聞いて、見ていた
のですね。郷づくりは人づ
した。
尚、当日昼
には郷づくり
河川部会の発
想で十組、十
四組、桂城の
滝などに小学
生学年別に錦
鯉が放流さ
れ、着水して
泳ぎ回る錦鯉
に見とれて喜
んでいまし
た。
くり、住んでよかった、住
んでみたいとと
言われる下之郷
にしたいと、子
どもたちは親の
姿、大人の姿、
取り組みをしっ
かり見ていてく
れるのですね。
下之郷の将来
に大きな希望と
夢を描きながら
シャッターを切りまし
た。
皆さん大変ご苦
労さまでした。
下之郷も今後は
早く大きくなあーれ。
ナイター設備
の竣工を記念し
て八月十八日、
十九日の二日
間、ソフトボー
ル町民大会が開
催され、十八日
はPTAチーム
が、十九日には
区役員が出場さ
れました。舞台
では歌謡ショー
が開催され、郷
づくり部会はテ
ント内でかき氷
の販売をされま
した。出場者の
ナイター行事を
計画し、利用し
たいですね。
十 四 組 で は、郷 づ
くり事業で設置され
た水車が用水量の増
減により止まる時が
度 々 あ り、遠 近 各 地
から視察にお出で下
さる方々に申し訳が
ないと組内で調整し
て い ま す が、今 年 は
大 々 的 に 調 整 し、よ
うやく正常に回るこ
と に な り ま し た。そ
の 時、対 岸 に 花 を 植
えたが何か良いもの
はないかと相談の結
果、ミ ニ 石 灯 籠 を 立
て よ う と 決 ま り、五
つの灯籠ができあが
り、立 派 な ミ ニ パ ー
ク に な り ま し た。視
察にお出で下さる方
にも好感をもってい
ただけるだろうと思
う と 同 時 に、み ん な
で 力 を 合 わ せ れ ば、
こんな立派なものが
出来ると喜んでいま
す。
十四組一同
4
第36号
広報下之郷
2001年11月15日
みんなでがんばる
集落営農事業の県指
定を受けて本年が
三ヶ年の終わりにな
ります。
農業組合機械部で
は 種 々 協 議 の 結 果、
作業時間二千時間を
超えたトラクターを
廃 車 し、機 能 抜 群 の
一等
七三.四%
七四.五%
植え付け後の小雨、高温
が続き、犬上川ダムの貯水
量が日ごとに減少し、各日
配水となりましたが、農家
の皆さんの適切な水管理で
収量的にはほぼ平年作︵県
平均作況指数は一〇二%︶
でしたが、高温の影響で乳
白米、胴割れ米が多く検査
等級は例年より一等米が激
減しました。
品種別の等級割合は次の
通りです。
品種
日本晴
コシヒカリ
新型機と溝切り機を
導 入 さ れ、去 る 十 月
十 二 日、貫 名 宮 司 に
よる入魂式を斉行さ
れ、作 業 事 故 の 起 き
ないよう安全祈願を
されました。
各農家のご利用を
お願い致します。
キヌヒカリ
玉栄等酒米
四八.二%
九八.四%
︵特等︶
特にキヌヒカリが最悪で
した。原因については現在
分析中ですが、登熟期の温
度差が十度以下であったこ
とと、植え付け、刈り取り
期にあるようです。来年は
植え付け、刈り取時期を五
日から十日ぐらい遅らせる
ようにすることだと言われ
ています。
生産調整対策が
政府の都合だけで農
家生産者と自然環境
を無視した方向で、
麦、大豆の本格化と
か、作 況 指 数 一 〇
〇%以上の場合は青
田刈りとかの線が打
ち出されましたが、
下之郷農業組合の英
断でその事を見込ん
だ面積割がなされ
て、青田刈りはせず
に収穫が終わって
ほっと一息といった
第 一 区︵下
之 郷︶は 次 の
方です。
理事
川並 稔男
二階堂昭三
上野 清蔵
辻
栄一
辻
康平
古川 竹利
古川 浩之
監事
古川 耕資
小麦播種作業
尚、今 後 の
事 業 進 行 上、
小規模から大
規模土地改良
組合にするた
めの合併検討
委員会が設置
さ れ、平 成 十
四年三月に結
論 を 出 し、合
併へ向けて検
討がなされま
す。
保全、食糧自給の農
の原則をふまえて実
践することを自然が
認めてくれたのか、
大豆の生育は順調で
収穫期となりまし
た。豊作であること
を念じるばかりで
す。
ご承知の通
り土地改良区
の役員任期は
三 年 で、今 年
は八月末で任
期満了とな
り、八 月 二 十
日下之郷農事
集会所で臨時
総会が開催さ
れ、理 事・監
事が承認され
ました。
ところです。
さて、麦作の後に
はほぼ全面的に大豆
が栽培されました。
農 業 の 重 要 性、即
ち、自然保護、環境
平成十四年の生
産 調 整 面 積︵集 団
転 作︶の 配 分 が 九
月末に行われ約三
百三十反を五班に
分けて十月下旬に
ら播種作業が行わ
れました。
5
第36号
広報下之郷
2001年11月15日
と述べている。
さ て、高 忠 に つ い て、
さらに二木氏の書から引
用 し て み よ う。﹁多 賀 高
忠は京極氏の重臣として
領国近江の治政に参画し
て い た の は 当 然 だ が、ま
た 彼 は、主 家 京 極 在 京 時
の 近 臣 と し て、し ば し ば
上 洛 し、高 忠 自 身 陪 臣 の
身にありながら見事な園
池をもった豪壮な私邸を
構 え、文 人 墨 客 を 招 い て
は和歌会や唐絵の鑑賞に
興 じ、好 事 家 と し て も そ
の 名 を 知 ら れ て い た。こ
の 高 忠 が、や が て 寛 正 三
年十月侍所所司代に任ぜ
ら れ、文 正 元 年 十 二 月 ま
で、約 四 年 の 間 京 都 の 治
安維持に奔走するのであ
る。中 略。京 極 氏 は、秀
綱、高 秀、高 詮、高 光、
高数など室町初世以来の
歴代が所司をつとめてい
る。そ し て 多 賀 高 忠 の 主
君京極持清は嘉吉元年七
下之郷城百七十年の盛衰と
名将多賀豊後守高忠②
三代城主高忠は応永三
二 年︵一 四 二 五︶に 生 ま
れ、文 明 十 八 年︵一 四 八
六︶に 六 十 一 歳 で 没 し て
い る。彼 の 出 生 に つ い て
は幾つかの説が有って断
定 は 出 来 な い が、京 極 持
清の弟というのが一般的
である。
し か し 二 木 謙 一 氏 は、
﹁朝 鮮 の 申 叔 舟 の 海 東 諸
国記や寛永諸家系図伝な
ど に、高 忠 が 京 極 持 清 の
兄 弟 で、多 賀 の 家 を 継 い
だことを記しているとこ
ろ か ら、太 田 亮 氏 は 高 忠
の 京 極 出 身 を 説 く が、私
は、こ の 高 忠 の 京 極 出
身、多 賀 養 子 説 は 首 肯 で
き な い。そ れ は 海 東 諸 国
記や江戸期の諸系図の疑
わしいこともその根拠の
一 つ だ が、当 時 の 記 録 の
中に高忠の京極出身説を
裏付ける記事の見られな
い こ と に よ る。云 々。﹂
月 の 就 任 以 来、途 中 一
時、一 色 教 親 と 交 替 し た
こ と も あ っ た が、ほ ぼ、
応 仁 の 大 乱 に 至 る ま で、
所 司 の 任 を つ と め、時 に
山城守護職を兼帯したこ
と も あ っ た。中 略。そ し
て高忠は寛正三年十月こ
の出雲守に代って所司代
の 任 に つ い た の で あ る。
多賀出雲守から高忠への
所 司 代 の 交 替 は、罪 科 僧
を捕らえるために出雲守
が士卒を率いて長福寺に
赴 い た 折、元 明 和 尚 以 下
僧、行 者 を 多 数 殺 傷 し、
二院を破却して蔵物まで
奪 っ た こ と か ら、旦 郡 山
名 の 訴 え を う け、幕 命 に
よ り 出 雲 守 は 罷 免 さ れ、
その弟は切腹を強いられ
た こ と に あ る。高 忠 は、
初 め こ れ を 固 辞 し た が、
京極持清の再三の説得に
よ り 受 け た と い う。中
略。所 司 代 と し て の 高 忠
は、就 任 の 翌 日 に 土 一 き
を鎮圧して首魁の蓮田兵
衛という牢人を生け捕り
そのスタートから華やか
な 功 名 で 飾 っ た。長 禄 元
年以来打ち続く大飢きん
に立ち上がる元気をも
失 っ て い た 一 き が、こ の
秋再び大蜂起して京の七
口 を ふ さ い だ の で あ る。
この時の高忠の目覚まし
い 活 躍 ぶ り は、云 々。﹂
とある。
6
第36号
広報下之郷
2001年11月15日
中世の下之郷 ⑥
川並稔男氏著「古代・中世の下之郷」より
古川
和子
ふさ
川並みよ子
藤居
上野たつの
上の二枚の絵にはちがうところが7ヶ所
あります。見つけて下さい。
答えのわかった人は解答用紙に書い
て、集会所まで。正解者には粗品進呈。
半世紀父母が金繰りしし晴着物箪笥に眠るも捨てるに偲びず
寝つかれぬ秋の夕べの虫の声寝返りうちて無理に目を閉ず
川並
川並
上野
克子
千町
りえ
不自由にも病みにもほどよく付き合ひてパソコンデビューの友の輝く 上野二紗絵
作りかけの短歌と向き合い幾日かわれの思いが歌にはまらず
親と子が高々揚げしプラカード微笑ましきかな踊る夏まつり
足痛く八十歳を越えし今畑掘りでき達者よろこぶ
夕立のつづく畑の白菜の虫らも共になくなればよい
クイズ まちがいさがし
指先を紫に染む茄子の実を生るたびちぎる秋の深まり
こ の た び、下 之 郷 自 警 団 が 長 年 の
活動に対して知事賞という名誉ある
賞を受賞
されまし
た。お め
でとうご
ざ い ま
す。こ れ
からも区
の防火安
全のため
によろし
くお願い
します。
編集後記
百灯祭、区民運動会と大きな行
事も過ぎ、落葉の舞う晩秋を迎え
ようとしています。 今回は載せ
たい記事が多く割愛せざるを得な
いものもありました。それだけ充
実 した日 々であっ たと
いうことでしょう。
7
読者のページ
短歌クラブ 九月の詠草から
第36号
広報下之郷
2001年11月15日
前号のクイズ正解者
上野 佳奈さん
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