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第四十七巻 - 法然上人鑽仰会

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第四十七巻 - 法然上人鑽仰会
協初+年五 H二十日
昭和二十四年四月二十八日遅幽鴨谷
第四十七巻
昭和五十六年九月二十五日印廊
1
9
8
11
0
合理的精神に学ぶ
!中国のスポ
ー
ツ精神
l
本年以、八月七 Uより卜七日迄、附市品川十佐川小球
μ
述・
盟必
の
弘子
ぬのM
V
l
ムは
、
上海についで中国第二位の大変強力な
チで
lム
、
この
長として中同に行ってまいりました。巾同では、河北m
省.
の
ゎ
・白
家爪と
いうところで、中同の選手と一緒に練習させ
いて
ま吐
した。この川北約
の女子チ
中には、世界選手権の中間の代表選手になよる
うな選手が二人も加って
間
、
おり、また大変よいコ1チがいるチl ムです。毎日の練山内は
午前三時
、
午後三時間の六時間です。この三時間の問に休憩は十分間ありま
、
す。小生がまず部一に感心したのはとても激しい総刊でも中同の巡子
はあまり汗をかかないのです。聞いてみますと、訓
練て
勿、そのよ
hH
し
、
、
、
ポール等はふんだんにつかい
選手を休ませないようにしてお
、
的にも、制神的にも午ぶところの多い十
日た間
でし
。〈佑勝行い〉
、
り、すべてにわたってAH内m的であり むだははぶいています。大変此術
時間中
もう一つは、練習場の照明等十分間の休み時間でも、すぐスイッチ
をきります。大変節電しており このことは徹底しています
。反簡総刊行
一回しかユニホームを活信えません。
、
、 ら
ルカリ性にするそうで 山鉱労の快復も早いそうです。ですか
一川に
うな体質にするそうです。すなわちあまり水分をとらないで、体質を
一中間の卓球関係者と飲dする強者一
? 十月号 ;
第九の真身観 lま、これ観仏三昧
の法なり 。
一-r選択本願念仏集』
(定本法然上人全集 1
P.
1
7
4
)
目次
一一一一法
億一一一一
十夜法要…-.... ・ H ・ ..H ・ H ・....…....・ H ・..…...・ H ・-… 村上博
lm 悦
7 …… ( 2)
…く J 法問
阿弥陀仏に染む る心….....・ H ・....・ H ・-……真野家信 !… ( 6)
甲子園余録
制神力が栄光を呼んだ...・ H ・ -・一…菊地牒維…… (10)
一心の数11の揚が少ないー
=シ)1,..ク ロードの旅=
砂漠の風物と数埠<
1>- ..・ H ・...・ H ・...・ H ・..・ 山野井賞誘 …… (21)
-r~高 BJ 管見一
詩・ ・・ 秋の断想. . .・ H ・ . .. ..・ H ・.. .・ H ・ H ・ H ・ .. .・ H ・-・・ 渚
J
I
I
宗
治・ ・・・・・(15)
法然上人の仏教観 … . ...・ H ・.....・ H ・... ・ H ・... . .・ H ・... 津村時
堂 ・・・ ・ ・・ (32)
1<踊シ ロ ーの
哉l ω
浄土句集 .. . ・ H ・..……...・ H ・..…...・ H ・ . . …………ー図牛畝
遺・・・・・・ (28)
<表紙のことば>秩……...・ H ・.....・ H ・ .. . ..・ H ・ ..…… 大西
銚
三・・・・・・ (30)
<表紙.・巻頭曾>合理的締紳に学ぶ ・ H ・ H ・ ....・ H ・...佐
藤
行
信
念仏ひじり 三国宏、@ 一一法然をめぐる人々・ H ・ H ・..寺
内
大吉 …… (37)
まんまるお月さま を みた ....・ H ・ H ・ H ・-…… 布村哲
紙大西緋三画一一一-
1J,..
-1-
大豆大学 輿術毎
; 話 ;
十
夜
、
、
、
く、山 野の紅
澄 地上には賞金色の稲の穂波が美し
ここに十夜の李節を迎え 空向く 大気は特に山川
夜月と云う。
し い旧十月(現在十、十一月〉を、 おいl
普からお米と雑伝、野菜、品々の泉耐え類収穫の楽
; 法 j
要
荻茨
22 上主
町区
聖教 f輩 e主
品回
了
、
主化
機長
党鑑戸と祭りばやしの特色が
、
( 村吉
、
、
、
各穐のくだもの祭りとも呼ばれ
、
性の噂い「おかげさま」の表現であり生ま れ なが
作であらんことを阿弥陀如来さまに紛い願う
人。
間
、
る。錨しい収穫の感謝祭であり 明年もまた盛年万
つり、野菜まつり
十夜とは十日十夜法要の略称であり 俗にお米ま
、
各地に冴えわたる さわやかな時節となった。
議また天地を飾り
法
-2-
、
一
法要 か盛大徹底すべく、日時を分かちあい
、
ら持って いる仏性を育てる行事である。各等院が協
力し
、
相互に随喜して盛会をはかり、民意に容える行官。晴、
ある。
十夜法要は 旧十月六日から十五日成満までの十
もある。
、
、
本尊阿弥陀如来の宝前に 赤ろう
、
日間修行されていた わが浄土宗の勅会の大法要で
本堂を清掃し
、
、
双雄
、
そく を立 て、如法の寄花灯明霊膳、大御霊を各積野
菜果実類を山盛りに供養する。
、
法要には礼讃 引戸阿弥陀経 引戸念仏
、
、
時に向くまた低く明和し 誰も気軽に向仰
、
鉦を用いためでたい音楽法要で 大衆もまた念仏を
、
、
内川
然と
古人の句に
緩楽は
、
いつも月夜の 十夜かな
と云う有名な句がある。
、
、
、
取 を取ったり して、 我
A
,P
ゃ収穫のときを迎う。
結肥したり
、
早春商代をかき稲の常闘
を悶に移拙 し、
、
秋はその年で よろず収納の大切な秋 (と き〉であ
る。思えば
水をかけたり
が子のように育成し
若しも先般台風十五号のような集中豪雨禍または
、
、
、
でき きく人もまた音階を有難くうけとめ
、
、
、
梅雨期さでの多雨冷得 天候不順であれば 一年の
、
新亡紛盤泊以uが
、
天下和願 日月初切 一百一冨
、
普心が生じ n・ぃ仏性を育て よい人生を作る伝灯
の別時念仏会である。
、
で きる無双の有能障い大法要である。
に感謝と後世菩提と ご先狙代々
寺院では珍らしい「めでたい」法要で 如来さま
、
苦労もまた水の抱となる。浄土一一一部艇の『
一無つ
量海経』は 大町閉または双冶経とも愛称されるわ仰紙
いお鉱酷である。その中如
で来さまは
向唱し
- 3-
、
、
と誓願し 毎年天候が五風十雨で めでたい収穫を
天 と なり
、
、
めでたく無事に収納が出来て それこそ
、
守り下さるみ教えがある。月夜であれば 型日は附
極楽である。
、
だぶとは南
、
サ然もだぶだぶと 十夜哉
お十夜法要を表現する。
あなだぷと
十夜法要につき燕村は
と、
、
あなとは感嘆調で ああという意味
、
、
収
、
あなだぶとは、ああ宥
、
単に「だぷ」という南無阿弥陀仏、南無阿弥陀
と 唱和する音声であって
、
無阿弥陀 仏の 下の句 だぶつの つの文字をのみこん
で
仏
、
、
だぶだぶといただくこ
、
茶碗の底に 少しうすいのをいただ
のでな く、 呑みたいだけ
の時だけに
各与の十夜法要念仏の令聞にいただくお茶も
難 いナムアミダ仏ということである。
穫
く
とを指している。またぷまで念仏の功徳で
「だぶだ
、
、
誰の心もなどんで 大らかで 仏
、
ぶ」と同化する有難いお十夜法要かなという訳であ
る。収穫も豊作
性
、
親切さが一杯であかるい明日が期待される。
、
、
また先組さまの御供養もと
、
お互いに社会生活は 生業〈なりわい〉に忙しく
如来さまの大慈大悲や
かく忘れ勝ちとなる。まして生れながらの仏性も袋
り勝ちである。
、
如来の本願念仏を
、
、
心ゆくまで唱え
、
、
真の幸福であ
先ず如来さまご先祖さまに供養し
、
めでたい収位に当り おいしい主食の有難い新米
等を手にとり
、
おかげさまと有難くいただくことは
そうして
る。
み
、
、
カが全身に湧きよる。やるぞと生
。
お念仏は唱えつづけると不思議と心が「き
心のつかれを打ち払い、人間と生れた悦びを感
ご先祖さま の追警と各人自身の後世菩提の功徳をつ
謝する
わやか」となり
、
、
つまり『無量寿経』 数音ハく
活,Hぷ欲がでる、有難いことではないか。
、
十夜法要は 大経
をん〉戸経等に説かれて
いる。品叫が祭では勅会の法
- 4-
される。そうして、忘れがちの仏性にあかりを点じ
ていると、いつか心が「きわやか」になる。
を唱える。お念仏は不思議なもので小さい戸で申し
、
明日なり明後日のことを考えると大変に淋し
人生は、依ロが将い央
良いことをしなくてはいられない。親孝行
、
南無阿弥陀仏
、
『浄土』誌の購読希望者のど紹介
広を
くお …
、
一 会費諸代を三OOO円に値上げいたしました
「
ll
凶idl一
jji
ji
ji
g
く庄
一 が、お見限りになることなく、どうぞ末永一
一 しくお願い申し上げます。
…
一
一 願い申し上げます。昭和五十六年四月より 年 一
一
の花を咲かせ、挙結生活を迎えたい。
いざ十夜法要を迎え、お念仏を唱え、一家団らん
得ない。
せずにはいられない。子供述のよい友とならざるを
であり
如来きまと共にあれば心がつねに平穏ハおだやか〉
あるからである。
如来さまの大慈大悲が現われて我らといつも共に
要であり、宗定の大切な法要で浄土宗全寺院で修行
て、人間としての真の悦びを味い、如米さまに感謝
の「まこと」を搾げ、明年もまた都刑事息災で良作が
盛年万作であらんことを願うことは、本当に右舷い
人生の冥利である。
新米の悦びを見ないで亡くなった方々には、十夜
法要は特に担調ハふじ〉文田向を捧げ
新米を手厚く
、
供養し 供会一処の冥祐を共に味い合う。年固なり、
水子回向、忌日田向にまた先制悦代々追苫には、お
W
給
油換供養も大切な十夜法要勝紋の利益功徳である。
、
人生は都知常で明日も期しがたいことが普通であっ
て
。
い。しかし淋しいからといって、なにもしないで、
ふさぎこむ況にも行かない
在である。『山家学生式』条項に、「一隅を照らす
生活をつみ盈ねよう」とある。生のある限り、少し
なり共、世のため人のために役立ちたいと心がける
生活が大切であり、やればなにかができる。
まず暖かい心を持ち親切にする。またいつも念仏
ー
5
-
、J
法師抄
」
付
は、恰も何かの遺跡を怨わせる程に少くなってゆく。所
、
この私の生きざまを熟慮したいのであ
私は今、徒らに感協に耽けようとしているのではない。
謂「都市化」である。
今生きる人問
、
自省するためにこそ頂きたい。
、
而もはかな
る。秋の夜長を天与の時として、ったなく
いとの現し身を
いav,a
つぶさには知る由もなし虫の音に
拳のめぐりに応じて、時の必れを告げた肥沃のm畑も、
yでの乾杯の管顕を取るようにど指名を受けた
、の
そで
私は、総本山知恩院の成人式に出席して、レセプシg
尊き生命しらさるる吾
減反と宅地化によ って 賞金の被うちも 、近在において
、
-6-
く
i
裏山の雑木林は色づきはじめた。その
ー阿弥陀仏に染むる心
、
中でも、一廓人目をひく批判の突が、布図の陶工を魅入ら
せたといわれる色づきで、叫軌を告げる昨今の風情ではあ
る。
京阪の中聞に位置するこの辺も、急速な開発の波にお
、
態 信之
寺
、J
鑑めて淋しいことである。復元のな
長孝 2
〈う〉
し流されるように、大自然の恩沢が 景観の変貌と共に
、
市
、J
失われ てゆくのは
会 野の
〈そ〉
い推移と喪失を、「近代化」の三文字で片付けられ、四
真ま
つ
〈 い〉
つ
何時の間にか
〈 ず〉
きてゆかれる人の世の長い旅路の営為に、他者との競い
合いではなく、その人、その人の成敗得失を踏み越える
の適否を考える間もなく壇上に立って、
「ど両親を最もお身近かに、数えきれぬ悠久のご先祖
った。
中での生き甲斐を、心から念ずることのできた一日であ
れた用語かと想われるが、円熟期の年齢を意味するもの
命の延び、老齢化社会等から、壮年と老年の間に設定さ
最近、「熟年」の周知が日にとまるようになった。刃
いapE
勺
の出来ぬ、久遣の子孫にまでお伝えになる疎いみ命を宿
のみ命をおあずかりになり、更に良縁を結んで、見届け
されている皆さんの、今日のこの立派なご成人を、心か
、
私は 古い歌を借りて乾杯の序弁とさせていただくこ
らお祝い申し上げます。
であろうか。「熟」はもともと、ものを煮てやわらかく
た度世の旅の足跡が印されている。それは、恰もかれた
一 7 -
とをど容赦顕います。
に」「なれる」「つらつら」を意味する熱掛からもその
することであろうし、「じゅくする」「うれる」「十分
ように受けとれるのである。「熟年」と熟字することの
-e&
可否はともかく温か味のある用語である。そこには所調
キャリア即ち経歴とか経験が裏打ちされている。
壮年期を過ぎる頃から、身心共に老化することが覚ら
れる反面に、これまでは気付かなかった人間性の生地
うちに、ご両親の健否、また何所からといったことはも
手になる絵草紙のように、その一葉一葉の診みに、その
ハ紫地〉が浮き出しはじめてくる。そこには、幾歳月を経
とより、ど本人のお名前すら存ぜぬ私の胸に、何ものに
いえばよいのであろうか。
人、その人の味が秘められている。「酷ハこくことでも
この液刺とした若人の、ただ一度きり、与えられて生
もまして尊い生命の実像を覚えたのであった。
全国から怠加された満誌の新成人を、じっとみつめる
あった。
の口をついて発した真備であり、歓喜であり、願いでも
と絶叫して降壇した。この蕪辞は人の子の親として、私
乾杯 ! 」
人、人となれ人
Bま
人多き人の中にも人ぞなし
蒋
幾歳月をかけた長途の旅路には、山あり谷あり、また
平坦路あり、高低浅深、砂岩磁土、緩急難易をはじめ、
先般、高祖(善導大師)を首都って、善導犬師
O二
Oニ
年
遠忌奉讃の、浄土宗祖蹟怠拝議員団の一員として訪中の
。まことに
る人にこうしてお脊てをいただいたのである
また味のわか
々の音楽を紋として、その人を味づけし、
に御恵与下さったことに感閉するものである。
の経説と雄も、特にこの仏意を混んでこの需を選び、私
御染筆の中には、『七宝行樹尚微妙音』と。ともに仏陀
は、『水品樹林皆説法』と。また、噂敬する通一一法師の
春夏秋冬、謀略行涼眠、附雨忽勾の他にも、健、捕、傷等 折、前時敬する趨侠初先生からいただいた御染恨の中に
ことは有難い。
n己流の便宜から、その音符のみを利用して、
私は、短歌や俳句についての約束ごとや定型も存ぜぬ
ままに、
』き尽きぬおもいを、部川予を少なく設現する習慣がつい
てしまったのであるが、紙片に、
。
吾が力ならぬ縁カを弥陀の光益と気付かせていただける
たちならぶ仏の顔を今見れば
みな苦しみに耐へしみ襲
O年は、私たちにテキストをあたえて
「人生最初の四
の歌を詠んだ歌人も、おそらくは熟年の感得であろう
あなとうと音なきみ芦わが胸に
ハ一七八八|一八六
O〉
'J
本今の御勉「串どに恕いを寄せた仏前で
、
南無阿弥陀仏と称えて拝む度毎の仏のみ
、
ざまが恥しい。その一面に、私を訓し教えて下さった思
、
戸は 私へのお蛤しであって、悔むことの多い私の生き
の悦びであ
と誌したのは
覚らせ給うみ仏の慈拡
くれる。それからの三O年はテキストについての註釈を
l ベンハウエル
宮える味のある格宮
の言葉もまた、熟年にしてはじめて
あたえる」とのシ・
である。
る、と思う。いうまでもなく、ね仰は学問ではないから
師も、私を育てて下さった父母も、既に西往の友も縁者
m すものであ
私は、信仰の人生経験に比例して深みを
である。然し、如何なる道も極まれば 、そこに開かれる
うれしい。
民の内に、信仰の柱と前床が用意されている。ただ、措 も、お先述がうち揃って還米同座して下さることが最も
舗のときの到来をおつのみである。
8 ー
-
十数年前の私は、元組法然上人の御法語の、
る正定の業たる称名正行〉の体解実践の乏しさを。||三
α--wb
、
らせていただいたのである。然し、「米だ、未だ 未だ、
たり、問慌を三間一二符すること等〉を、『つくづく』感じと
つには、「三返」することの大切さ(同諸制句を一-一喝し
、
トナフレパ、仏、コレヲキキ給フ。衆
「衆生、ホトケヲ礼スレパ、仏、コレヲ見タマフ。衆
生、ホトケヲ
生、仏ヲ念ズレパ、仏モ、衆生ヲ念ジタマフ
03町」
品、。,
を、普滋大師の三紙〈親緑・近縁・増上〉
ぶの相川縁〈仏そ衆生 の私」が、臨終にまで及ぶのである。
て、拝読、拝請の繰返しと、字句の解釈や説明に終始す
からである。
nの開かせ給うところ
常に、
、
を鰐と踏しめたい。どの一歩も、二度ない大切な一歩だ
e ,、ふゐ
m
m
に噂く、険しさの放に楽しいのである。足の運
びく
は
たゆ
とも、休まず弛まず歩きつづけたい。そして、一歩一歩
モ、親子ノ如タナル故-一の名づけ〉を釈し
とう
し た御教 求道の道程は遥かにして、而も険しい。遥かなるが故
-給
m
、
恩師増上寺椎尾弁医大僧正の、
る程度にすぎなかった。
けれども
元祖大師法然上人のみ
四方浄土か阿弥陀仏かお念仏のことであったと承る。
そこに願成の弥陀も補処治衆
何事も念仏をψ すれば
も法然上人も信じて申した祖先
今挙に臨んで、私は、私ながらの慢で 元組大師の、
、
市無阿弥陀仏
、
-|「つくづく」法師
の有難い御説法を拝聴させていただくことにする。
||阿弥陀に染むる心||
とのおうたを過して、夜長の一時、
秋のこずえのたぐひならまし
阿弥陀仏にそむる心の色に山山は
3
・ Avb
もゐますことを還相と承り念々
往還一如とわからせて頂きました
の御染筆に接して 繰返し三度読ませていただいた。一二
、
頭上に、
返自の「:::わからせて頂きました」の瞬間
鉄槌を下されたように全身に震いを覚えた。そのとき、
「知っている」がほんとうにわかっていないこと。〈
mm
推
先生が御生前に、神間におおせになったことlだ
lが
吏〉
に。
、
「和トルル」「市中小ルル」ハ浄土宗の佐和恥の献がか吟であ
9 ー
-
-・・・""・・1I illlllllll・ IIUUI IlItIll UIIHUU“"・・IIII IIUIIIIII“ 1111111111・・“".・e・ II I UUl II IIl IIIIIIIIIUUIlIIIUl IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIUIIIII“1Ullllllmllllillllt“JlIIU・{tIIUIU・s・-鋪M・
、
、
、
ν1 ボードが掲げられて試合の運びを逐一報
あふれて全国を湧かしたものであった。
私は今ここに古いこの優勝の栄光を記そう
とするのではない。当時世評もマスコミも静
ぜられるので、いずこも県山の群衆が街頭に
10 ー
-
を呼んだ
伊史
善 雄す
νピもラジオもなく街の要所要所に験
市
況掲示所が設けられ また公園等広場にはプ
時はテ
2 1血ち
ー心の教育の場が少ない|
大正十五年といえば半世紀も前のことでは
に、はっきり余影が残っている。それは第十
二回全問中等学校優勝大会に旧制貼立静岡中
学が優勝した時のことではる。
近年浄土宗関係の上宮 東山 鎮西高校が
優秀な成績を単げて全国を湧かしている。当
菊?
精神力が栄光
η1/!5::11・i
,.
.
あるが、未だに私の胸中に昨日のことのよう
甲子園
a.~~...a\.
相続刷剛剛IUfUIUIIAlJ剛酬剛刷剛刷附剛剛剛刷剛剛闘",,,"m".1剛開問刷II Ulttllllllnl鴎酬IUtttA酬・・醐賀町剛制附棚刷馴 UIIIIIIII IIIIUUUtnrnlll"咽柵欄剛調.
同が優勝するだろうとは夢にも思っていなか
訓練も空しくチ
きびしい特訓もコ lチャーや先議達の必死の
小な体躯と性来の小心は野球には適しない。
大連商を破って見事に優勝
、
、
、
ム細成にこと欠く
せたのであろうか。
励ましたり慰
、
部二回戦で十
、
間大会に出場することが出来た。何がそうさ
九対一で破って神静代表となって甲子園の全
郷土中を第一回戦で十二対四
れが県下を勝ち抜き、神努川戦抜の県立横浜
めたり般の粉を飲ませたり育ててくれた。そ
れでも交谷口のない野球部は
等が当時のファンの真実の気持であった。そ
「あいつに打順が廻ると、もうあきらめる」
一二塁へ球が飛ぶと、ひやっとする:」
::
て自他共に認めていた
ムのウィークホイントとし
ったし静岡のフ 7γ だって万一の優勝も期待
高松中
、
一体何がそうさせたのか を考え
1
i
していなかったのである。温暖な気候と州立寄
、
な海、山の傘に忠まれた土地に育つ務の特質
〈?〉とも骨闘争えようか、温和で、はげしい進取
の気性に欠けた忍耐力の少い静岡子が早実、
前橋中
したのは
て見たかった。
大正十四年夏の大会に甲子園に出た六人の
という弱少というよりチ
選手を卒業させた野球部は総長 僅かに六人
始末であった。教師、先鋭、後盛会得の必死
大正十五年八月十三日、白熱快晴の甲子園
で第十二回大会の閉会式が始った。数万の観
、
静岡
-11-
衆の拍手 空に乱舞する飛行峨十三機、祝賀
、
れ 人々の熱意と法類であり保証人であった
な人集めが始った。その中に私の名が挙げら
x
ラ
報土寺戸崎潜竜師の強い勧めによって
ラ
x
入部した。四年生の三学期のことである。倭
、
x
ラ
""111111・ ""11 “111111111111111111“Ul HIII“ 1111111111111111111111111111111111111111111111111111・'"1111111“ III UlIIII“1U llllllllllltllfllmnlllll“fIIUl1 lUIUllU lllltUlllllltlllllllmn・・
ー
i
イスカー
チをくぐって行進する二十一一一
ムの感激は如何ばかりであったろうか。
l
n にグランドに吟る。ポ
花火のとどろき 、音楽隊の行進曲に迎えられ
て第三番
チ
トの団伎のア
「脚が地についているか」、「夢ではないか
l
ムのニ屯手に選ばれたのは不思
、
守に救われ:: :」の讃評を頂いて 全国ピッ
クアップチ
、
普の怠に戻って敗因をつくってしま
後日静岡に帰り OB と歓迎試合を行った時
ぶというより他はない。
の私は
った。遂に弱小本4で
7 学校を卒楽したのであ
それ程の緊
る。
、
あたりの状況を見ながら行進ができ
、
むしろ平常な気
どうしたことか私には
尻をつねってみろ」とささやきあった。みん
、
な緊加の緩に治していた。
然し
、
張感もこちこちにもならず
持ちで
た。守備についても、バッターボックスに立
っても心が落付けたし度胸が据った。
:::
。
これだけの観衆の見ている晴れの場所
:・
で球にあたって死んだら本盟だ
また中村部長は「技より精神と
、
選予が合宿をして寝食
、
ソを通して緩和した力がチl ムの力以上のカ
となって現れたのであろう。朝日新関の大会
を共にし、立師と先議と共にコミエケl シ重
な私にどうしてそんなカが品いてきたので
北術の巧拙や体力
の優劣を超越した意気と心の始時さ
::
:
」とカ
、
d にも「山米の良し思し
をきけないで凝視して打てた。気の弱い劣勢
述べておられるのも
いうことは潟しく経験し体得したところ」と
し :::」と
当時の根弁校長は記念誌に「選手が能く和協
MM
神 -M
の偉大さを少年ながら深く感じた。
ラ
ととびつけたし、からだに迫る変化球にも身
これが私の内心であった。猛ゴロにも敢然
x
あろうか。当時の野球評論家、飛m制洲氏に
、
「内野の整備 殊に二塁少年本多の出色的川町
- 12-
x
"IIIIIIIIIIIIII IIIIIIIIII U" ・ 0 ・Hl IU .... 1tI1II・ "' '''"・ I U.."IIIII IIIII. ..II I・ UI' lIft1 l1 'lll lI lIlI・ II lIlIm・ 11 "' "11111'11'111“ 111111111111111.111111 1111 111111111 1 “ 1 1111111 1111. 1111111 1111111・
説している。
ばかりの社会でありながら其に平和な、暮し
知識の所産である物質文化は向上した。便
よい世の中と言えるであろうか。
っている事柄を見ることが出来る。宇宙旅行
利な世の中で 座 っていて今、世界の 一隅で起
仏教は和を以て貸しと説いている 。 人と人
も可能という。ありがたいことに違いない。
、
洗溶機を使えば
どんなにたくさんな汚れ物
如何に人生にとって大切であるかは白明のこ
だって手を使わないでボタン一つで潟ぎから
盟に水を滋み込んで洗濯板にひろげて石鹸を
、
親は私の汚れ物を寒風吹き荒れる井戸端で
、
利で其にありがたい。それが一昔前 私の母
、
とであるにもかかわらず、今日は第二義的に
脱水まで仕上って千すだけの労力で終る。便
良いと称されている学校 へ入学すること
こすりつけて、ごしごしもみ洗いしてくれた
、
ものだ。そのヒピわれた アカぎれだらけの
精神教育の場は真に少ない時代である。
、
が出来ない。優良枝を卒業しないと優秀な会
母の手が今でも限底に残っており 子供心に
大学教育を受けない
、
社へ入社することが出来ない。生涯下積みの
生活となる。だから親は子供の為にどんな犠
親の労苦をありがたく思うのであった
ph 、。
、
。
牲を払っても試験問題を手に入れたくなる。
と
他の子供より一点でも多く評価をとらない
家庭も社会も学校教育も知識優先の時代で
扱われているように思われてならない。
との和
人と万物との和、人と自然との和が
ラ
そこには願共諸衆生の互助の気持ちは少しも
知識教育は徹底して
ラ
ゅん L
、
X
13 ー
ラ
人の少ない今日 物の理屈のよくわかった人
ラ
-
X
-“"““"““ IIU“111111111111(1“1nIIIfllU nn.lI",“ IllUIUUHlllllllllllnllUtllllHlllflllltltlUJllIlU“UlIIIIIUHnlllltnHIIIlIUI I JUllltlnllmtiIIU""U “"‘"“ullmunu・・
お釈迦様は因縁生起と説いておられる。世
の中のすべてのものはひとりだちでない。と
うるに人もなく、 一
示すに彼もなし 然る問、
得脱の法を究めることにならなかった。「教
」とて
、
、
、
、
、
自らひらき比しに
3m
増大師の観経の疏の「一心専
念弥陀名号」の御文に到達されたのである。
:・:
なげきなげき級訟にいり かなしみかなしみ
、
比叡山での学修も 高野 奈良の研学も凡夫
いうことで因をとりまく諸縁がうまく和合
型教にむかひて手ずから
、
しないと現象しないと教えられている。一一粧
の睡もそれを取まく土、太陽、空刻、水等す
べての紋が正しく加わらない限り発芽しな
、
い。私の今日あるのも同じことで因紋生起
ひたすら念仏を称えることを勧めら
さって
、
「相官者のふるまいをせずして」とも遺誠な
から無限の諸縁に育てられて今日あることを
れている。ひたむきな信の生活である。
した先祖代々の生命を根源として、生を待て
知らねばならない。
、
然も非力な
官執は少年時代、野球な通して
おが優勝という意外な成果を体験できた。散
、
なまやさしい他力のお蔭ではない。円分の
力で生産し白分の力で生きていると考えて
万の観衆の万引の声援を全身に吸収すること
それが大きなカとなったことを追懐して
、
如
によって、無心の中に強い精神方を割いて、
他を押し除き征服し、酌紛おとして忙の中を渡
ることはできない筈である。
何に「心」の問題が処世の上に肝要であるか
このことわりは愚痴の私にはとうてい了解
を信じ、仏教信仰による以外に「知情一如」
、
し得ることではないが 法然上人は称名念仏
の人格形成は出来ないことを知り
数てこの
により阿弥陀如来の御本願の光明によって了
拙文合ものした次崎別である。
、
ている。即ち称名念仏によって往生するハ正
解し得たと同様の世渡りが出来ると教えられ
しい生活に更生する)ことができるのである。
14 ー
-
八
<詩>
V
八
く詩>
く詩>
<
>
秋
の
断
そして体を動かし、走る
想
今、ひとつひとつ恕いめぐらす
また、想いを深めて行く、時ーー
秩は想いも新た
ll
記憶の簡の中につめ込んだ経験を
体でっかんだ記憶を、経験として高めて行く
体で触れる
体で感じる
ll
心を配る
気を使い
想うことの余りにも多い
>
清5
かわ
11
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郡吉
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、
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台 Il--l
Jvf
と てもにぎやかです
哉や
瀞
、
、
ピ
a
、
、
ソ士口がいちばん最初だ。」
大きな戸でいいますと
、
とくまのゴロベエがいいました。
、
ひつじのメイコがいいます。
いっしょに
、
かくれんぼをしていたりすのチイコや
ハギのトンネルくぐります
だれかさんの耳がみえている
「わあl い またピョン士日が鬼ょ。」
「こんども
が
といいながらかくれんぼの鬼になっていたさるのそン太
「うさぎのピョソ士ロみつけたぞ。」
哲三
16 ー
-
童話シリーズ
お 山の秋は
歌がきこえてきます
まんまるお月さまをみた
どこからか
村吉
ススキの中のかくれんぼ
カキの笑タリの笑ひろいましょう
布2
しかのツノ助もわらいながら、
、
「だめだなあ ぼくみたいに、もっと早く走らなくち
aソ士口の鬼だぞ。あっちへ行って H
だるま
g
ン士日の鬼だ鬼だ
H とはやしなが
Hと十回かぞえな。」
よわ虫ピ
H
日γドウやオミナエシの花のあいだへ、かけこみま
あたり
、
、
、
それに、
チイコのかわいいしっぽ
ッノ助の長いつのも
ゴロベエの大きなからだも
も、メイコの白い毛も
、
、
、
だれも見つかりません。
さがしました。
、
も
ことだよ
出てきておくれよ。」
ススキのホが
そこだよと手まねきしてい
西の空は
、
ところぽそくなったピ
もうタやけです。
、
1
木の葉が
、
、
ピ
l
gγ世間がまた呼びま
a
ょう
ン士回をどうやって
くん。メイヨちゃん。ッノ助く
、
ん。」
きこえてくるのは
だれの
話しあっている戸だけです。
みんな、 だまって家へかえってし玄ったので し
つかまえようかと
、
へんじもありません。
「おーい 、 ゴロベエ
した。
だんだん
るのですが、そこにもどこにも、だれもいません。
、
「モン太〈ん、どこへかくれたんだよ。チイコちゃんも
しかし、どこに
コスモスの中も
ススキの中をきがしました。
すばしつこいそソ太のすがたなどは もちろんどこにも
g
ン士ロは、いつもびくびくしているよ
ゃ。」
ピ
といいますと、モン太が、またいいます。
、
見あたりません。
「そうなんだ
、
よわ虫ピ
わ虫だからな。かくれるのもへたなんだ。さあ、こんど
は
、
みんなは
さんころんだよ
ら
Hとかぞえま
ン士回、
一の
はそ のそとハギの花の中へはいると日を
a
した。
ピ
。
ソ士ロが鬼になると、みんなはゆっくりと、いちば
2
っぷり、ゆっくり Hだるまさんころんだよ
す
ピ
やっと目をあけて
、
んいい、かくれ場所をきがせまずから、かくれてしまう
、
となかなかみつからないのです。
十回かぞえたピ gγ 奮が
を見まわしました。
みんなは、よほど上手に、かくれたのでしょう。
何,
それとも、まだ、どこかにかくれているのでしょう
0
、・
占H
か。急に出てきて、おどろかそうとしているのではない
もう、こわくて、あるけません。
でしょうか。
陪さがまさしてくると、大きな木や小さい木が、大き
、
ly 。」
、
ヤツ
なおばけになって、前や、うしろから つかみかかって
きます。
「こわいよ!。だれかきて l。ェ
いままで、がまんをしていたピョγ吉でしたが
デのはっばに顔をなぜられてとうとう泣き出しました。
、
ll
自の上にたまった涙が、光っているのです。
おおっぷの裂を、ぼろぼろと、たがしながら、ふと見
ると
そこには
きん色に、きらきらとかがやくお月さま。
まんまるお月さまが、うつっているではありません
か。
お月さまのように。
こんな小さな涙の中に、大きなお月さまがうかんでい
るので す 。
池の水にうつった
出刊の上にのぼったお月さま、
がうつっているのかとお
ピaγずは、空を見上げました。
もったのです。
でも、またどこにも、お月さまは出ていません。
a
ン/・
一
ン吉か、たのしそうに、いったときです。
1
、
、の
どこ
では、い?たい、ピョン士回の一波にうつった
は
のお月さまだったのでしょう。
それは、一年まえの秋のタぐれでした。
ン吉と
a
おかあさんのまっ ている家
カキや、タリの笑を 、たく さんひろったピ
、
へ、山の泌をいそいでいました。
ピョン士口のおとうさんは
「こんなに、いっぱいの、ごちそうを持ってかえったら
ピ
おかるさんは、きっとよろこぶだろうね。」
ズド
わからなかったど,
、
y
という鉄砲の管といっしょに、おとうさんがピ gン吉の
上に、かぶさりました。
いっとき、なにがおきたのか
古が、やっと立ちあがると、おとうさんはたおれたまま
です。
- 18-
もうロをひらくカもないおとうきんでしたが
しっかりして/」
はしっかりとあけて、ピョン?を見ています。
「おとうさん /
、
森の上には
、
、
、
目だけ
おとう
まんまるお月さま
浮んでいるお月きま。
そのとき
のぼりました。
、
、
いっしょうけんめいに呼びながら、見たのが
、
ちょうど
さんの自の中に
が
、
、
、
野ギクが ゆれています。
、
あのとき
、
、
おと
明るい、おとうさんのお月さまをやっと比る
、
、
ピ gγ士口・をみつめながら、しずかに日
と
をじまし
お月さまの光を、やさしく自の中に浮べたおとうさん
は
た。
そばで
そうだつたのです。
、
ピ aγ世田の涙の中に
うつったのは
大きく
うさんの自に浮んだお月さまだったのです。
ことができました。
a
ソ・すのまわりを明るくてらしてい
森の上のお月さまは、まだ出ていませんが おとうさ
んのお月さまは、ヒ
ます。
、
、
ピカピカとシャンデ
リ
、
ヤです。
、
木の葉は ふわふわと あたたか いふとん です。 コス
、
、
ど乙からか よぶ戸。
、
モスや、ハギの花は
と、そのとき
l
。」
耳をすましてみると、地面の下の方から
「たすけて l。だれかきて
、
あれは、たしかモソ太と ゴロベエの戸です。
どは
戸のする方へ、ススキをかきわけて行くとこん
「だれか i、穴へおこち平つよ l。」
ツノ助の、なきけない声。
「エ 1 ン、 zly。」
泣いてばかりいるのは、チイコとメイコのようです。
、
ぼくが
H
、
か
みんながおちている穴をみつけたビaytzu戸を出
そうとして、ふとおもいました。みんなは
、
、
、
大
aγ
、
助けてあげるのや
くれんぼの」になると、いつも笑ってよろこぶんだ。こ
めようかな
んなときに、さまあみろっていって
H
しかし、いつのまにか おとうさんのお月さまが
戸でいいました。
「いま幼けてあげるから
lね
J
穴の中は、まつくらで なんにも見えません。ピ
ぬヨ
小さい涙の中にうつったよ
まんまるお月さまをみたよ
たいます。
ど gγ吉のおかげで、ぶじに穴から、ぬけだすことの
できたみんなは、野ギタの花の中を、とびはねながらう
まんまるお月さまが、うつっています。
きゅうに、元気のでた、みんなの自の中に、うれしい
いちどに明るくなりました。
士回は、そばにあった山いものつるを、するするとおろし
「わあlい、お月さまが、たすけにきてくれたんだあ。」
おちそうになるピaン士ロを、おさえてくれているのは
ます。
おとうさんのお月さま。
穴の中ではそン太やゴロベエまでが、自に涙をためて
います。
いっぱいの涙をためて泣いていた、りすのチイコが、
か見えます。
大きなあかるいお月さま
戸のした上のほうを見あげたときです。涙の中に、なに
そう い わ れ て 、 み ん な も 上 を 見 あ げ ま し た 。
さっき、ビaン士回や、モン太たちが見たのとおなじお
が、のぼりました。
そのとき、深の上に、ぽっかりとまんまるいお月さま
「あら、お月さまだわ。」
「ほんとだ、お同月さまがみえる。」
と、しかのツノ助がいいますと、ひつじのメイコもいい
「ほんと 、明るい、まんまるお月さま・たわ。」
ます。
目をつぶっても。
「山いもの、つなだ。あれにつかまってのぼれば、みんできる、あのお月さま。
な、たすかるぞ。」
いままでは、だれの顔かも、わからなかった穴の中が
ハおわり〉
「ゃあ、お月さまといっしょに、なにかおりてくるぞ。月
」さまです。
それは、いつでも、どこでも、だれでもが見ることの
くまのゴロベエがいうと、きるの毛ン太も、
- 20-
4SZEE-盤
Z霊
建
1
「英高窟」
見管
|
市
芸 賞士
号宇
一
位
l
警 務?
物
と
敦
ド
風
;旅
が、外吹く風は府娘、く感ぜられた。用使を済ますと旅行
後には前向氷山主避に泊四した。傘いに今阿も晴天である
漠を眺めながら、いつしか武威も張披も越して二時間の
く地に走献なし」という-コピタソ真只中の現地であった
建てられている。四快紀の求法僧法顕が「上に飛ぶ烏な
端の成鍛をなし、拐の洪武五年、今から六百余年のサに
漠の丘の上に第かれた平域である。これは万世の長城西
w時
m間である。当綾は山政重々たる山総と巡って 砂
のだ。明代には漢民族の防人たちが常時四百人も待機し
、
社援し回しのマイクロバ久は山ちに出発した。いよいよ
&Fa,、かん
もなく病予丘の上に賞砂の大きな城が見えてくる。
河西附廊の真只中を突走るわけである。プピ砂漠の西市
何人だけで閑散たるものであった。機窓にアラシャン砂
りの小用ながら、眠旅骨骨はわが団員一行十七名と数人の中 など見えたが、取は次第に砂臨時の原へと進んでいく。ま
ポプラの並木、道のおには煙突の林立する抵 t業の工場
は、甘粛省と訴置とを結ぶ甘新公路である。しばらくは
ハ 野の
E の
州摂港を籾八時に郷い上がった中庁民航機は約五十人采
長 井い
I
V
<
山3
の
十月八日〈水〉それは今回の旅に出て六日目である。蘭
ン
端に消えていく、相十メートル程の簡易舗裟のこの道路
21 ー
-
漠
ロ
砂
)1, :
ク
帰路には立ち寄って心ゆくまで見学したが、往路の今日
ていたという。今回の旅行では初めて見た長城の一郎、
までも官いている。出発前田物で読んだ酒来縮機の四方
くれる。左手には美しい郁連山脈が予にとるようにどこ
定る。降火台は時折り現れてわれわれの日を猿しませて
・
北通砂漠
H
‘
.,ぽ〈
eい念。いご《 aav-m,、令.
は五分 担 道 路 に 寧 を 停 め て 遠 望 し た だ け で あ っ た
m。
は
d
n
・‘.
,ehん
と。今それを思い出しながら、本当だ、本当
一‘W
,いかが,、色ん
H 民迎準滋・南望郁連
西逮伊吾
・
の額に 市
だと、中国人の文宅の巧みさに一人感心して
もみた。この街道を旅した品目人こそ私以上に
深い思いを味わったことであろう。そんな感
贋気絡である。窓の布手活か砂漠の地平線
、
慨に耽っている時、醐細川から同行した蘭州大
E
制刊の十八歳だい
とう梁ガイド設が
学日本 同
という。
「ほれ幻の湖が見えますよ」
,
水が現われてくるのであった。帰路には政百
長い逃水もなの走りと共に失せ、また次の逃
は一名 7 一水」ともいうそうだが、以に長い
て疲労のために倒れていったという。中何で
ってその湖を門惜別したか、いつの間にか消え
は叩向いた眠を潤さんと、れ以後の力をふりしぼ
上かすかに幻の湖が微に良く見える。市中の進
行と共に次錦にはっきりしてくる。廿の旅人
-2
2-
いよいよゴピタンの中へと八十キロのスピードで走りに
ー務略関 l
ah'
Lん
メートル先に大きな湖
、
-h
ん
そして向うに更に砂漠と加速山
やがて一つの部落に入った。玉門鎮である。十二時二
脈の見える美しい贋気横に出会っている。
、
十分玉門鎮第二招待所の君授が自に入いる。ポプラの参
ジュースは本当をいえば余り美味ではなかった。この辺
0.,、ちんか
地においても結構ご馳走はあった。食後初めて食点に山
a- ずゐ
、
たメロン、吉住随行女はそれは白附瓜というものだが
余り食べると腹に障るという。一同は遠慮をして手を出
食卓では 運転手や
すのを渋った。隣の
、
い家があった。何となく兵営を思い浮かべた。表には解
道 煉瓦携の中に入ると幾つもの煉瓦造り平屋建ての長
二人のガイドは本当
、
放寧のトラック 庭には丸腰の民兵さんが三三五五のん
いる。私もものは試
にうまそうに食べて
、
びりと 歩 い て い る 。 写 真 撮 影 を 所 望 し た と こ ろ
三人の
、
しと 一
切れの半分を
、
にもなる所かと そんなことを想像してもみた。ここで
議味したが これは
、
よ瓜州〈安阿〉も近く
奨味だった。いよい
なった織がある。中
間では同抗体みは将泊
二時間という。私た
ー
ドで走
、
玉門銀第二叙待所入l
口 る。約一時間の後
ロのスピ
あった。再び八十キ
ちの出発は十四時で
-
- 2
3-
民兵さんは喜んで応じてくれた。あるいは解放寧の屯所
1
予定の昼食である。渇いた喉ではあったが 幅拡
い込んだ
一時火台一
巴・3
-£
e ,上司んa
本は近から左に折れて砂中を三百メートル程入った。
、
今若いたこの古い土の城駈は橋情城だという。この
城は今から二百五十年程前清朝乾隆帝が夢に名城を
、
ふ 9血
va'eAV
こんな光景が二十キロ近くも展開したであろう。地
姿を表しているかに見える。白然の成せる伶大な芸術作
品
図でみる限り安西近くの布隆士回の辺りである。その普も
このような光景があったであろうか。漢民族と北方遊牧
ろばら〈
・
Hh
本日のパスの道程は慨ね三百三十キロ。旅人の日を楽
えんぺい食し
V
部下大臣に建設を命じたが城壁だけで中絶し放躍さ
ような光景であったろうと却像をしてみる。
民族が戦闘を締り広げたならば、掩蔽維として絵に見る
、
れ、 9
引災共に幻の減となったという。東南附三百メートル
見
程の城間だけのこの減は、今日も吹く風に砂が寄せられ
て、今にも朽ちかけようとしていた。そんな中で私たち
、
設れを忘れて三十分程
、
、
取のクラクシ
a
牛な
・
ンに周なして道の両側の砂原に逃
酪庇 ・学
しませてくれたものがなおある。撞馬
、
瓦の絞片や古銭を採すのに
風蝕によってできた奇
散する。この他愛もない後ろ療に一人ほくそ笑んでもい
群は
は
、
どの放牧に時折り出合った。追いっぱいに広がった羊の
日の前の両側に現れてきたのは
過した。やがて幹線に戻った寧はひた走りに走る。今
妙な土岐昨である。
た。阜の最先端に旗揚けていた私は八十品ロのスピード
で走る草のパウソドで再三ならず、頭を天弁に当てた。
かよ〈かん
運転手は親句に右上の取っ手につかまるよう前言をして
、
風化土権ともいっている。嘉略闘を西に出ると関外の三
とるゐるんはみ
絶というものがある。それは吐魯番の熱さ 恰密の然、
くれ~~。
P先端は眺めもよかった。なおこの果てない荒
a〈
' だそ,
涼たる砂漠にゆけども点々と生えている半円形の色あせ
欧界でも最強風地帯ということだ。その夙に砂か
いが
たおが品以初から目に入っていた。梁ガイド君は臨舵むと
そそら〈
吹き飛ばされて賀褐色の、前さ二、三メートルから十メ
いう。正しくは蘇蘇草といって薬用にもなるという。騎
続く限り長期の旅に耐えられるのだと説明してくれた。
uι
ートルくらいの巨大な土焼、む狼が林立している。無数
、
庇は喜んで食べ、広い砂漠の中に行動しても、この草の
、
仏塔にも、怪獣にも似て 裟婆世界のあらゆる
、
24 ー
-
神も
にも、
に、 無 雌 制 作 に 立 つ こ の 老 風 口 は 、 鋒 火 台 に
人にも
、
さ、そしてここ安西の鼠である。今日は幸い余り風はな
.
.
カイドは「老鼠口という。作物によれば風蝕土とも
,,.,
,
aq
われるが、背中窓から隠れないものがもう一つある。それ
ん
後日鳴砂山行の際、足元に生えていたこの立に触ってみ
は電柱。左側の柱列は途中郡連山の谷聞に消えていった
,、
-h
たが、トゲかあってわれわれには真に厄介な般物にしか
が 右側のそれは道と援行して未だ航れないn。
然の成
一様湾域社に昔物を採すー
老風口|
l
- 25-
せる業には人力の及ばないものが限りなくある。今、右
、
思えなかった。
l
、
・陸
.
_
今朝酒泉を発ってから既に三百キロ以上は走ったと思
ー橋湾披入口
.
:
.
.
.
.
q
e
Z
1
.
.
eョ‘
ー-唱・司・ー-
側 の柱列こそ止めどなく続いている。この人為の業は何
.'語t
このような光舟を満喫
、
し、
つまらぬこと に感嘆 してい
、
、
、
ベッドは堅く
、
しか
シ守ワーは制限時間もあ
トル
らい離れて足元も危
く
ない。砂狭りは飛び散ってう
ー
る。加えてトイ νは屋外百メ
て
も電気は暗い。風呂はなく
は土問
さすが僻地の宿舎としか思えない。部屋
一安西県革命餐員会招待所入口一
、
、
十六時二十分 出A
四県本命接員会招待所に到流
る問に
、
処 まで 行ったら果てるのか。仲茶としか考えられない。
ところも多く
F
i-a
、
出発前の予報
すら寒じ。旅中の最低の翁泊
所であったが
によって党析はしていた。台
日の旅人が幾たびか野宿を
今宵の稿は傘せ
、
し、命をかけて往還したこと
を考えれば
のm
眠りでもあった。
- 26-
した。ことも鯨瓦造りの平屋建てであり 来だ建築中の
。
.
大自 然の 中における人為に 改めて敬意を表してみたの
である
向うはi 官述山脈一
ーゴピタソのらくだ,
1~
明恥
w、i 匂険
E突い
て宮の
左心しさいん献
記よ
、
てただ身泌
ー司
ててて
要りま
、
だ味的土
締枚内
で願電の
す
ま。 いご誌
くゆて d
深尽本
ぃカ文
毎回俳もま
会
句
匝り ,Z欄aSE
月 百文茸す
作わア
っせシ
領おたこきわな』
いね
切数容 号し壁土
れ上げや旬
山
五字
日
結
句
し
く
お
用会 願
紙
て
い熱と
あう
寸ない
ま心も
使 い
るぞ
、俳う
八 りし
いほ
心句ベ
枚等ま
はか
を主夫
半の士宮のこ季
程随
度想
浄
土
ス|
、
ど
。
詰主 Z
をあオ
へて
、
。
│
及
ぴ
俳
るも
折で
々き
上
人
争'M
を
け
多
く.
.
.
.
ご
投投
H
、に欄
11
欄
へ
寄
の
ま."吉可 お
投、で
願
ごて者
の
句二あお
さペるし、
れ
1
ホ
たて様がギ
だい
方 情
味
ら ス
くたへ問
願
し、
<
>
こだ心人。
とく
をと
会
に願
勾
心に れら 選、
祷句るジト
いし
皆なト
況は
仰
れ兄
熟守は
z随
想
のs だる
然
集
に忠
宅る必 文 の
まの
作
諸
会
員 土等 投
つ方句句
わ々さ11,(の
法
句
かー<>
Eら;11;
、回
こ主語ま Z
こおき反旅"
先
せに生
の必
東京
衆僧を皐ひ歯施餓鬼の緋衣遺骨飾
牛 畝選
、
野 大本山韓請噂九サの関山忌には鋭商問仰の
何嗣像の御輿が花の怠滋を府々と拙輔られる
のである。その御輿の下なくぐれば聞事
が叶えられると言うので阪やかである。
敏二郎
評 浄土宗二筏鎮西信節の誕生寺は藤の名
苔の間にある背中はなかなか取りにくい石
。臨聞を混む人波藤の寺
間町苔の手入れはこまごまと大変である。
緋 衣は 最高の僧蹴聞の人に詩可されるの 箸に挟 んでそれを取っている。若い者に
所として有名である。人波が石階に溢れ
人々で線路しているのである。
、
・本堂には観飾品陣が関候さ
安れ
産幅制限の
東京其野
結ひたての割安定かかげて宵宮へ
28 ー
評
福岡
である。この大和尚が施餓鬼の衆僧の大は線HAが統かぬが 掃除第一の老僧だ。
潟簡である。施餓鬼衆は手を合せて先立
、
ちし波銀縁者の供養をし 法悦の涙を流
しつつ大潟節を訂作んでいるのである。 よき子等の鯨成本山山'涼し
、
毎年夏 休 み中に総本山知恩院にて全問
の子供の錬成道織が聞かれているが そ
れ
解
東京 帝国原授起子
'
代
、
も
ー』
秀
山持潟地
Vにて開かれている 予を合せて
中
れに@加出来ぬものの為に九州では大本
'つ
、
の
大きな問'での念仏は無邪気で涼しく流れ盆決に高原の花文字病以
蝶
-
J
i
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国
風
問
綴諮凝議認
慈
震
う
子供述は 七夕の竹を軒先に建ててい
の
集
新
生
た
良
回
包
高
前
七夕や阪をおぶ笹に風
得
ひ
土
んでいる。その恒一冊は風にゆれている。 て来る。
番2
浄
る。その詐にはそれぞれの願を禽いて給
福岡
や
弁
新
山
小笠原容符
草
句
重
縮
S奈
回
府々と花の品世道組耐酬の輿
夏
緩綴義務
東京
来常てる子
富電車障問は背兵舎の夢の跡
山口三弁
魯き了えて夏風入れる写経の箆
福間 上減浄弥音
朝顔に昨夜の怒夢忘れけり
士回国ゆきゑ
東京
真野よし子
季子
東京栗原阜、ぇ子
花右側独りの部屋の独り曾
‘山市・・
カナダより否娘帰り来る糠雨晴間
東京
振り草いくさ敗れし丘に咲く
東京鈴木
生き甲斐のありて六十路や若業風
東京消回 m衣稲子
紫陽花の一つ濃 くなり梅雨に入る
三重
紫陽花の見頃の中を列をなし
東京松添
佐賀 金ケ江総次郎
姉時雨施餓沌念仏高らかに
大分
間際若葉起居静かに茶の稽古
京都
化野に赤き三ヶ月総雨情るる
福間荒牧
港の風邪しっこし相恨の鋭かざる
福岡 繍膝みきを
征爾の芦御手織の藤今に
諮問
水仙の 一株残り咲いてをり
徳間関友
否のみにとどめおきたき容の鼠那
天童
押仏鎌倉めでたき +夜飢筒
29 ー
東京
お浄土の絵巻も斯 くや騒獲に
開叶附州
立鱈とぎれしひ支を秩の甥
山口上野
よだれかけとりかへられし地蔵盆
福岡
田向ぞみし花火のあとを掃きにけり
桐畑弁
夏郊の供織をしてある無縁謡
説
書E
中
隆
星
-
軍車
党
遼
E弘
丹
羽
江
子
安
藤
永
国
葉
土
畝
畝
不信心の我に怒阪の徹仏
稲闘
病む友の忽にHあ
A ぐる夏の怨
亀
静
枝
敏
江
銀
寿
傘
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治、
明
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喜左
深
弁
f
l
t
牧
高
の
、-
、,
、
はや肌典、さを
それに涼し気な心由民い昨日色を互
けなければならないと思いながらも
、
その名
「十月には天下の神々が総て出雲に集っ
「かんなづき」については諸々の説がある
十月を「かんなづき」ともいう。
、
せて下さいといいたげな気持を祭して、片付
の問中楽しませてくれた風鈴、もう少し働か
けのよしず
覚える獲の朝夕のこの頃、涯の名残りの日除
、
」
ば
「
秋
と
暑い暑 いと思っている中に
紙
残りを惜しむ。
が
耕
国内に神無しの状態に なると
、
西
、
ころ
九月に多かった雷鳴もこの頃には
、
皆無月ハかみなづき〉だとく
説。
、
、
限無月であるというので
、
からだという。その他にも説があるが
こう
ある。陽を「かみ」と読むのは神は陽の塁だ
陰の月であるから
している。これは八卦の十月の卦が純然たる
貝原益軒は陽無月〈かみなづき〉だとの説を出
なくなるので
淵は八月
からこの臼宮神無月という」説 また賀茂真
てしまい
大
なっては設晶子の筆者でい
はずれを是とすべ き
- 30-
表
e
一四一一一~.一……一一・一一
かわからない。筆者は唯十月の呉名は神無月
逮をスタl扱いにしてしまう。これら総て若
取巻く環境が、ことさらお祭騒ぎをし、選手
十月十円は体行の円、また各地で樋々の虻
、
、
少年連のことよりも、白分逮の栄誉心 欲望
γツに拘るから起る現象であろう。嘆かわ
しい限りだ、とはいえ帥比一品此刊のためにも運
メ
、
い人比を指摘惜しなければならない大人速が
と覚えているだけである。
物、体育祭が附加されるであろうが、近頃は体
調けの原点を忘れて、ただお祭鼠ぎに走る傾向
が強い。
念毎日続けたいものだと思いながらも、・米だ
動は必要であるから、無理のない程度の運動
球にしても然り、少年速は純粋な気持でプレ
実行 に移せないでいる鉱者である。
すでに涯の暑い盛りに行われた全国高校野
ーにだけ投撤しているのでのろうが、それを
。『浄土 』表紙版画販売についてのご案内
、
好評の『浄土』誌炎紙版画絵は、大閉山州三先生のご好意を高
得軍
て事額紋に災了して販売させていた
いだ
て
l
八一二八七
おります。額融代も含めて、金二五 OOO 円というお求めやすいお値段で、家節鋭に滋れた芸術味授かな版画
織物が購入できるわけです。どうぞ振替にてご注文願えれば掌いです。
上人鎖仰会振替(東京〉八
ハ
由申し込み先〉一
Tm 東京都千代国区飯田橋一 l 一一・
l六…
法然
31 ー
-
一口
、
労ミ
上
熱烈な求道心と卓越
法
、
、
。
m の叡空上人
儲 かコ一年にして比叡山を去って隠遁しm谷
、
ここでも意を得ずとして黒谷を去り 各家
人
せんでした
。
が、 遂にそれらからも心を打つ教税を得ることが山来ま
学置の許を訪ねて求むる仏教の本質を問い続けました
ところ が
す
の門 に於 て浄土教の修学にはげんだのでありま
、
在山
せる制官能を以て仏道述成に遁進せられたのですが
法然上人は若くして仏門に入り
モう
そこで法然上人は
として一切を捨て
、
普湾大師の鋭経疏の文
、
、
一心専念弥陀名号行住座臥不問時節久近 念
是名正定之業仏願放
けた仏教の本義即ち法然
の文によって始めて永年求め続
々不捨者
「日頃学んだ智慧は往生の為には何の用にも立たず」
-3
2-
の
、
上人の心を充す仏設に到違し、四十一一一歳の
他年
の市宗
、
、
とは全く異る薪しい仏陀の段説の展開樹立を完成され
伶土宗を創附されたのであります。
、
める為ではなかったでしょうか。
「学梁にはげみ最後には天台座主になるように」
、
と常にその師皇円から云われていたが 在山僅か三年に
るのであります。
して延磨寺を去り、商搭m谷
m叡空上人の門に隠遁し てい
この事から法然上人出家の動機は前述の父母叔
父のす
えは一一般僧侶のそれとは異っていたことが理解れ
さ
、
げようとした動犠については、其説必ずしも一致してい
す。
天台座主の蹄かしい地位を 目指 し て
、
のことではなかったことは明らかなことであり玄す。
身の栄遣を願い
ないようであります。
父 の遺吉を履行する為
母の希望のすすめの為
叡父観乍のすすめの為
法然 n身宗掛私的天才であった為
当時念仏聖とか上人とか呼ばれた隠逝者は非常に多か
「かつてはその依も努力と学徳によっ
てか ち得 た僧侶
ったようです。そしてそれらの隠遁者の隠姐の動機は、
然し 法 然 上 人 出 家 の 動 也 僚 は 何 れ に あ る と し て
法も
然
と し ての最高位たる天台座主は 、この時代 に於ては殆
など色々あるようであります。
上人の 心 の 叫 び は 人 間 苦 の 数 済 と
して の仏陀の教えを求
、
ω
ま
法然上人が年十五歳にして叡山に登り仏門に生涯を採 すめによって仏門に入ったとして も 求むる其 の仏の教
のであったでありましょうか。
の人間 と し て の 苦 悩 の 数 わ れ る 仏 教 と は
どのようなも
然ら ぱ 法 然 上 人 が 求 め 続 け た 仏 の 教 え と は
法然上人
ω
。。
僧官も事併を等しくするものであった。従って一般的
全くその過を附されていた。独り座主だけでなく高級
んど摂関家出身の貴族に独占され貴族以外の出身僧は
臨んで桟した父時同の酬怨為総の遺 Zの遵守蹴行という
、死に
く世俗的仇討という手段に於て解決しようとせず
の限界状況を
、苦悩
の怨情、悲痛 煩悶と一公うギリギリの不安
、絶望
源頼朝
、
、
の・中にはこのことへの不満から隠辺若の群に身を投じ
、前述の如き腐
ひたむきな若き法然上人の歪納に対して
、
、
義経の如く 或は曽税兄拐の如
た人々。ぷ天台座 主 は上脳貴族の名門利島の手段とな
り、市民主をめぐって骨肉相陥没むの闘争が絶えず、一般 り切った当時の仏教昇、特に叡山の仏教は全く相入れら
衆僧に於ては他他的官の虚栄を苦い、志を得ないもの
それ
、
は遂に不可能なるを悟って、これを否定して隠遁生活に
法然上人はその人間苦の超克を叡山に求めたが
ざるものであったからだと思われます。
入り、他にこれを求めたものと考えられます。
は徒党を組んで暴挙に出るという教界の堕落と腐敗に
見切りをつけて真実の仏法探究に踏切った所初出家の
a
山山家者述。吏に自己の生活が僧侶としてのそれに適し
ないことを覚って叡山を去った人々」
斯くして法然上人は、自己及び人々の人間苦と社会不
安と危僚を人附の外に於てでなく一人一人の深い心の内
れ、その覚りを組織体系化して新宗派浄土宗を創略され
然上人の悶沼の動機はこれらとは全くその意義を災にし
即ちそれは翠やかな僧位伯官の栄遣の達せられざるを
たのであります。そしてそれは当時の天台其雷の呪術性
奥に於てその解決法を説く唐僧善導大師によって与えら
嘆き、或は自ら磁波無戒に陥って僧侶としての資格なき
ました。
と源伝らの空想性に対して否定的立場に立つものであり
即ち父の脳死、ほとの生別、一族脂散、かてて加え
、
て仇敵明}制定明の泊求の危一し、それらに伴う人間として 批判的利神を以て型道門仏教の非仏教性と密教的呪批判
悩
を傍つての結果ではなく、幼にして体験した人間的苦
ているのであります。
などその動機は又色々であ ったようであります。然し法
~1.Q)
拡を摘み取ったのであります
。
その結果貴族独占によっ
性及び非現実性を否定して実存主義的立場から仏教の真
専修念仏はかかる時代の要望に応えるものとして出現し
たものと見られます。
法然上人が三十年をかけて修学し続けた仏数含一切捨
て去ったということは、法然上人の持つ仏教観が既成仏
て変説してしまった仏 Jを、その本来の盗に引き民し、
人間苦悩克服の古来としてお行作土門の専修念仏を樹立
数端的派とは全く典っていたからであります。
人は仏教を、
て仏教は人間苦解脱の教えである。
先老州死の解脱
て万人に平等に妥当する敬えである。
一切衆生悉有仏性
て主体性を人聞に置く数えである。
人間の立場からの信楽発願廼向
てその行は万人可能の教えである。
易行道
て医術性の無い教えである。
人間の覚り
P司
令J
私はそれを次のように考えるものであります。法然上
うなものであったでありましょうか。
然らば法然上人が心の中に抱いていた仏教とはどのよ
されたのであります。
法然上人は人間の総力の限界を意訟し、印刷越的根源と
しての弥陀の本願力を信じ、笹維なその現実に対処する
実践的主体性を守り抜くことが其の仏教の教えであると
いう拡釘に立っておられたように思われます。
かかる確信は先述したように、法然上人白身の人間的
苦悩から生れたものと思われますが、更に法然と人をし
てこの砿釘を強附ならしめたものは、当時の深刻な危晶
状況下に悩み抜いていた日本人全体が数われるべき新し
い仏教 へ の 期 待 で あ っ た と 思 い ま す 。
ずしも決定的な救済とはなり得なかった時、払然上人の
む土、欣求浄土の救説もそれがnH制する空紹性の為に必
つあったし、源伯、μ
・忍与の現実否定と朱来往生の服臨
当時漸く聖道門仏教はその然カを露呈して無力化しつ
伍〉
と考 え て お ら れ た と 推 察 さ れ ま す 。
従って明時の仏教は決して法撚上人の心を満すらので
鈴木大拙氏は
、
はな か っ た の で あ り ま す 。
「弥陀b魔
z 術師と思わせる如き考えは斯かる意味から
すれば仏陀の真意に合わないもののように考えられ
る
b
、
慈悲をもすけにさすな
すけにさし、持戒をもすけ
、
「本願の念仏にはひとりだちさせてすけをささぬな
り。すけといふは科尽を
にさし、道心をもすけにさし
、
ただむまれつきのままにて念仏する人を念仏に
、
り。義人は諮問人ながら念仏し
悪人は悪人ながら念仏
して
、
、
即ち相官怠 持戒
、
道心
、
慈悲などは往生の為には第
人は往生不定の人なるべし」
ぬ物ゆへにとあらんかからんと思ひて決定心おこらぬ
人となりて念仏せん人は仏の御心に叶ふぺし。かなわ
すけささぬとはいふなり。さりながら態をあらため恩
と
、
二義的なものであり 根本となるものは者海大師の専修
以上法然上人の浄土宗開宗の根拠を極めて独断的に述
、
法然上人が出家当初から求め続けた仏教は 義務大筋
仏陀
し人々をして攻れにも仏性のあること宮n 覚させ
念仏なのであります。
むことによって弥陀の本願に出逢い往生を得ることが
の観経疏によって人聞の苦悩超克の教えとして 専修念
、
出来ると説いておられます。つまり人聞の得往生の道は
仏即ち浄土宗として結実したのであります。
主人
体の
性
て得 ら れ る 、 一 広 い 換 え れ ば 衆 生 の 得 往 生 は 個
べて見ました。大方の御叱正と御批判をお願い致しま
法然上人はこのことを次の如く一去っておられます。 す。
に在 る と 主 張 さ れ て い る も の と 考 え ら れ ま す 。
、
弥陀の本願を俗じ、 n主的に念仏行にはげむことによっ
、
の突体験たる念仏往生の磁災住を併・しさせ、念仏にはげ
法然上人は弥陀を魔術節と考えることを徹底的に否定
と云 っ て お ら れ ま す 。
L-
念命令U2 ・一週の志
え吃
i ま いきのぐ
寺内会。
権力者たちの意
、
「それで、お前らに伺を言わせようとするのだ」
住蓮は息を品めて告白を聞きながら
図を探ぐりあてようとした。罪もない下人どもを姉めつ
いうのである。
宮での拷問ぶりは残忍きわまりないものだったという。
「そちらのお上人さまなら、よくご存知でごぜえましょ
「みそかごとの泥:::」
「みそかごとの泥を・吐かせようとしますだよ」
う。観音堂のお念仏にはいつも近在のカカ〈女房〉や娘が
、
マロウは空阿弥陀仏の方へ視線を診した。
「火責め 水責めか」
、
「うむ」
と
混じってきますだね」
短りにむせて息もできません。また
、
両手足 を 縛 っ て 口 や 鼻 か ら 水 を 流 し こ み ま す だ 」
んです。熱いこと
「きょうで。柴を燃やした炎の上へ顕ごとおさえつける
殴る蹴るは日常茶飯で、火責め水貨めでいたぶられたと
八兵衛方の下人でマロウと呼ばれる興が居る水無瀬離 ける目的はいったい何であるのか。
宗治
「念仏に名をかりて
、
、
きあ泥を此け。まことしやかに念
じつはカカや娘と戯れておるんじ
、
ど ζの誰なんじゃ 、 と究め
、
お上人さまらも ねらいはカカや娘ど
の身体。その名を明かせ
く
ゃろ。不届きな奴ら
も
仏 の布難さを説
はふ くれ っ面で水無瀬離宮のやり口 を非難し
たてるん でどぜえます」
マロウ
た。
たし かに観音堂 の別時念仏会は、僧俗男女が一体とな
、
農村は純朴であった。
って念仏に励みこそすれ風俗の乱れなぞ全くなかった。
橋綴のかたしき衣さむしろに
待つ夜むなしき宇治の明けぼの
うかりける人の心の朝寝髪
ll
遊女の
なにいたづらに乱れそむけむ
、
橋柄鮮は橋のたもとに立つ辻姫
、
、
、
ことだが
役人どもは信じて くれ ません 」
、
多分そうでごぜえましょう」
、
、
ける とは気の毒な話じゃ。ひ
と つわ しらで御所 ヘ出かけ
「それにしてもいわれなき罪業をかぶせられ
て拷問を受
なので
「よくはわかりませんが 恐ろ しく 力の強い奴らばかり
住蓮が言葉をさしはさんだ。
「役人と雷うと・
・・
・検
・
・ 非違使の武士どもかな 」
を言うのですが
の
つまりこの時期
彼女たちを宇治や水無瀬の離宮へ連れてき て、朝寝髪
、
これらの歌はいずれも建永元 二年
情感をしっぽりと楽しむのである。
に詠まれている。
そ の点
「御所のなかとは違うわい」
」
御所に捕らえられた仲間もみんなそ れ
「わしらはみな其剣に念仏を信仰 してい る」
、
「そのとおりで
空阿弥陀仏は吐き楽てるように言った。下人のマロウ
も同調 して、
:::
「きょうでごぜえます。御所では京の辻から得体も知れ
ねえ白拍子を拾ってきて乱痴気騒ぎ
後鳥 羽 院 の 悪 趣 味 で あ る 。
、
し か し彼は帝王であり
権力者であった。
悪趣味ときめつけるのは誹誘であろ
いや、芸術に親 しむ一人の男性として後為羽院像を撫
。
でま わし たとき
う
現在に残 る歌からもその耽美な生活がしのばれる。
38 ー
-
く後烏羽院と白拍子>
《宮
内。
「わからんか」
住越は笑いだした。あまりにも率直である。
てい って 申 し聞きを してやろうではないか」
住避は空阿弥陀仏をうながすように見た。
「ひとつだけ曾えることは 逆をねらっ ておるな」
、
「うむ・
・
・・・・
」
、
「逆をねらうとはどういうことだ」
、
何となく態度が煮え切らなかった。
「つまり御所の狩人たちは 観出u笠に集る念仏衆のあい
と点め立てている。だがねら
だで淫らな風儀があろう
、
狩人たち に何の
H
得 Hがあるんじ守ろうか。責め立
「
きょう。そこからがわからん。まじめな集りだとした
「中し開きを聞いてどうするつもりなのか」
念仏者の集りだということをじゃ」
「樫らではないという申し聞きを待っておる。まじめな
、
「淫らなのは御所の内側にこそというわけか」
、
このあと往症は水無瀬雄官の内部の様子をくわしく訊
きだした。下人には似合わず斑傾のいい珂子でマロウは
いは逆で 語らな風儀をあばきたてることではない」
、
変だとは思わんか」
た。
ゆ回っ
、
これに答えている。
、
空阿弥陀仏が
な
・
その娩、住蓮たちは八兵衛の本宅に泊めてもらった。
「さっきの男な
二人きりになると
「変とは?」
、
「御所で拷問を受けたと言うが 顔のどこにも火責め
ら
てるいわれは全くない」
ぞ受けた跡がない」
「ないはずだ」
、
「と宮うと・・・・・」
・
眠とうなったぞ。こんな頭
、
えてしまった。じきにイピキが洩れてきた。
、
そう台うと空阿弥陀仏は ごろりと壁の方へ向きをか
もらうぞ 」
でいくら考えても詮ないわ。住蓮どの。先にや
すませて
「そこがわからん :::むむ
「御所のまわし者かもしれぬ。それと あのマロウだけ
、
なぜ五郎丸たちは許されないのか」
さすがは平家武者上がりの空阿弥陀仏だった。六波羅
が帰ってきて
の陰険な機略には充分通暁していた。
、
「まわし者だとすれば ねらいは何であろうか」
、
「それを ずっと考えてきたのじゃ。わからん」
ー
- 40
「そうしなければならんじゃろう」
「そうしなければ、とは?」
住建は、ややあきれてそのmm
い寝祝b
賀眺
zめゃった。こ
のところ仲 間との交渉を一切絶って山野を政浪している
えた」
「今朝早〈起き出てからな、あの辺りを歩きまわって考
隣人に眠りこまれると、根が冴えてしまうものだ。住
という。図太い神経に変質しているのであろう。
水無源離宮を指さした。
、
「それで ::: 」
河床の彼方
「ひじり姿にもどることが最良の策だと怒えてきた」
蓮は藁床の上で反転をくり返しながら戸外が白んでくる
まで寝つかれなかった。あれこれと、自分たち念仏者が
精神の安らぎを与えてくれる念仏に、なぜう
「最良の策か」
、
人の救い
当面した現実を思いわずらってしまうのである。人間個
、
ひじりが御所へ出かけて申し聞きをしてくる必要があ
る。狩人たちはそれを待っておるじやろう。そして
かを要求してくる」
進んでそ
、
何
仕鈴けてきた。五郎丸たちの潔白を証かすため
には誰か
「唯一つの策かもしれん。先方はあの下人定使って民を
体力に限界がきたにちがいない。戸外の自みが次第に
るさ く 干 渉 し て く る の だ ろ う か 。
。
靭の光りを呼びこんでくるなかで住蓮は深い眠りへ落ち
こんだ
「何を要求してくるのだろう」
「さ、それが民だ 。民の正体を知るためには
「わしもゆこう」
こへ落ちこんでみるしかない」
ませると、空阿弥陀仏は裏山へ誘いだした。いきなり要
「いや、住蓮どのは此処で待っていて欲しい。ニ人そろ
翌朝おそく限をきました住蓮が八兵衛宅での制舶をす
求してきたのである。ざんばらに伸びた髭をぜんぶ剃り
って殺されることはない」
「狩人たちは殺したりするかな」
落してくれという。
「また、ひじ りの姿になるのか」
- 41-
た。折からの強い目ざしに輝いて、住蓮はたいへん尊い
せた。いぎたない髪は落ちて清潔な頭肌が露出してき
お互いが口ずさむ念仏。住躍は軽やかに山刀を上下さ
って御所へはいれば殺される。だが仲間が外で待ってい
「それはわからん。ただこれだけは言える。二人がそろ
れば殺すまい」
ものに見えた。
「それはあの下人が告げるはずだ」
「ほほう。この前の出家は間違いだったと申すのか」
「再度?いや、こんどが初めての出家じゃ」
「再度、出家した気分はどうか」
空阿弥陀仏の心底も説きとみたかった。
「証人がいるという意味か。でも、わしが外で待ってい
「なるほど。狩人の手先であればそれくらいのことはや
「そのとおり」
ることを狩人たちはどこで知るのか」
「覚悟の上だ。それと、いま一刻も猶予ならぬのは五郎
「お上人ハ法然〉のみ教えも雌だと申すのか」
るな。しかし、危険な自に遇うことは間違いない」
丸たちを助け出すことだ。あの老人では身体が保つま
「お上人さまのみ数えに、強も間違いもない。血仮〈こ
る。最 -M
かK
どうかはともかく、五郎丸ら村人の危難を救
「わしはおのれ一身だけが救われたいがために武士を捨
「なぜ?」
け〉はこの空阿にあった」
って や れ る 唯 一 つ の 手 段 で あ ろ う 。
てた。出家した。おのれ一身だけを、とこだわっておる
たしかに空阿弥陀仏が立てた方策には筋が通ってい
い」
「これで頼む」
ところ、すでに仏法を大きく踏み外ずしている。おのれ
の数済なぞ一番あとまわし.た。まず他へ救いの手をさし
と空阿弥陀仏は腰にきした山万を抜き取った。剃提の
nに
H 用いよ、と手渡してきた。
われる」
、自 分も投
のべるのが真の仏法。他人が放われることで
流れを発見した。空阿弥陀仏は端座した。住蓮は手のひ
「うむ。それが大乗仏教だ」
二人は流れを求めて林間をさまよった。じきに小さな
らで水を掬うと、その髪
蓬を濡らした。
42 ー
-
、
いまのまま山男でいようが
、
「こんどの出家。わし n身には何の関係もない。わし一
、
どうでもいいことだ。昨日、わしの
身のことだけを思ったら
ひじりに戻ろうが
山男姿を見て伎蓮どのは言ったな。逃げ出す気なのか、
飢を眺めた。その総出には、昨日までの起ましさに加え
、
て 新しく目ざめた内薗からのまばゆい光りでおおわれ
師の法然を継ぐような大念仏者になるであろう
と住速
、
、
このひじりが生き永らえることが許されたら 必ずや
ていた。
と」
住蓮のこの予感は正しかった。われわれは乏しい資料
は予感した。
、
「官った」
ながら法然没後の京の鍔で持見苫女に念仏を悦き統ける
「御所の様子が異様なので わしは還俗してそれを探ぐ
ることにした。観音堂へ集ってくる念仏然が御所へしょ
、
ものに時折ふれている。
欧人藤原定家はその日記「明月記」でその消息らしき
空阿弥陀仏の姿を垣間見ることができる。
と自分に曾いきかせておった。おぬ
、
っ引かれていっても気にかけなかった。わしはお上人の
身だけを守るんだ
、
しは軽い意味で口走ったのだろうが 仏法の本道に立て
建保五年ハ士二七〉一二月二十九日。
ほかの人間なぞ、どうなってもか
さまの身さえ守れば
近年、天下ニ空阿弥陀仏、念仏を称ウル事アリ。
、
わしは明らかに逃げ出そうとしていたんだ。お上人
まわぬ。虫ケラみたいなこの里の念仏衆と運命を共にし
件ノ伯、党 H
ヲ粘ピ多ク胤ヲ集ム。天下ノ貨股鏡
-M
ば
てはたまらぬ。空阿弥陀仏が、そんなところで野たれ死
イテ結紋ス。殊ニ放宗通卿ノ後家、造ル所ノ堂ヲ
、
いまは違うぞ。との出家は迷うぞ。
念仏宗ノ張本タル放ナリ
占メハ九条、位、大宮縮問ノ盆ト称ス〉ソノ道場トナ
、
専修教団の損失だ、ぐらいのおごりたかぶ
にをしたら
そのことばかりを考えていたわけだ」
りがあった。だが
、
ス。 n
ん.レ陸付朝出ノ娘、九立衆院生ムトコロノ尼公。
、
住避は しげしげと僧形を取り戻した空阿弥陀仏の横
「
今朝から
仏法の本道へ立ちかえっての出家なのだ」
-4
3-
嘉禄元年三二二五V四月二日。
去月下旬、入道和問中山ノ迎講エオイテ、ワザワ
ついでのことながら、蕗縁三年七月六日三ニ二七〉の
山門ノ訴エ強織。神輿ヲ援ルベキノ曲、シキり-­
「明月記」は次の消息を紹介している。
依リ推シテ入浴ト云々〉事、密情ユアラズ。総ジテ
以テ騒動スルノ問、今日雅親卿陣-一-診ズ。左大弁、
Z
在リ。コノ背中
Z
ザ空阿弥陀仏ヲ諦フ〈勅働、天王寺
公卿度目一列シ管絃ト云々
高級元年五月四口。
房上人〈{主将官随遂ノ師ナリ)山門訴訟。ソノ数ユ
陀仏、成覚ハ岬中凶〉等流罪去々。::::
持中
必略:
:
、
結政ニ参ズ。張本隆寛〈モト山ノ掛律
川師〉空阿弥
近日伝エ聞ク。上人空阿弥陀仏〈専修念仏ノ法邸)山
、
同且ツ公
入ルノ由之ヲ間ク。周章シテ誓状ヲ書キ
関ノ外-一出サレオワγ ヌ。而
衆徒ノ訴訟ニ依リ
前大的正 um依、臨終普知岱トナス。之ヲ以テ証国
家ニ逃ム。妙容院又披キ陳べ給フト一広々。古水ノ
、
モ入道相聞ノ招dzu
依リテ入裕。中山ニオイテ迎
隆寛や空阿弥陀仏が流卯されたいわゆる嘉
U
憾の法鯵だ
トナスト去々
講ヲ修シ、天王寺へ紛ルノ問、時ヲ煩イ給フノ由。
日来之ヲ聞ク。去ル月ノ下旬ヨリ一条高倉ノ辺リ
ニ在日。只今住生スルノ由、開港騒動ス。天下ノ
が、後半は替恵房証空にふれている。自分の名が山門衆
貧賎尼女悉ク群集シ、面々各々珍脚ヲ鯵ゲテ供餐
ス。ソノ物、皆風流ノ飾リ玉、結ピ花ヲ周ィ、薬
特恵珂証空の人絡を云々する加に、彼が育った環境や
、。
知識をつとめた事実を反証の資料として提出したらし
、
周章狼狽して奔走につとめ
徒の訴状に列なるのを知り
、
物 飯楽ヲ入ル。毎数之ヲ受ヶ 之ヲ食ス。往生
たという。士ロ氷の前大僧正懇円の帰依念受け、臨終の静
であろう。
いかに巷聞の人気、評判が高かったかを実証する記述
、
十余日=及ピ病漸ク滅ニ付タ。供養怠ラズト云々
- 44-
へ逐電したのか。以後の消息を絶った。御所の諜私自
と
すなわち型安点二年(一二二八〉正月十五日に寂
、
現さなかっ
がこの下人 科ぴ住迩が待つ八兵衛宅へ聾bz
と て空阿弥陀仏をこのまま放置 しておくわ
彼がのこして い
、
ニ人そろって殺されることはあるまい。
、
とタイムリミットをもうけ
っ
眠りかけた住蓮は八兵衛の戸に起こされ
、
、
ついに水無瀬離宮から待ちに特っ
た 反応 が あったの
住蓮はハネ起きた。
「何っ五郎丸が」
ぞ」
ってま い った様子です
「お上人さま 五郎丸どんが mm
た。
た四日自の夜
明日一日だけ待ってみて
すでに盟友は殺汗されてしまったのであろうか。
ll
た言葉がよみがえった。
でみょうかと思った。だがその都度
けにもいかない。何度かみずから水無瀬離宮へ采りこん
らない。さり
気が気ではないのである。吉水の縛室へも戻らねばな
二日三日と八兵衛宅へ滞留した。
。
往症はじりじりしながら空阿弥陀仏の帰りを待った
、
却の拍子で、平安貴族の血液が機停に体内を流れてい
いう空阿弥陀仏の澗察は正施だったようだ。
しまったの か。どこか
接した階層に思いを及.ほすべきであるう。住空は久山似通 た。あのまま厳守町内へ駿収さてれ
た。
、
-ae
へ流出州ときまった空阿弥陀仏だが罪地へ到荒す
る以前
したとったえられる。行年七十三歳であった。
法然門下ではこ
、
建永二年当時の空阿弥陀仏は血気旺んで 未だ
、
「明月記」が紹介するこれらの記述は二十年もあとの
ことで
、
2
宇
- 45-
前身である武脅の前影をとどめていたらしい。
明遍も同名の空阿弥陀仏を号したが
の同名異人たちを「有智ノ空阿」と「無知日ノL阿
拘」と
、
呼ぴ別けたという。もちろん「街智」は明週であって
‘・・・"・......:
、
r -'"、
そこまで案内して い ったのは下人マロウであった。だ
・
「無輸省」には級学というよりも行実
動践の念仏告とい
:-:
2
うユユアンスが強かったはずである。
!_!
空阿弥陀仏は水無瀬隊宮へ去った。
.ー.
とつぶやいた。
「甚だ」
c めて隠僚らしく、未
だ。ただし長老五郎丸の釈放はbわ
だ里人は議も知らなかった。それとなく留守宅に気をく
住迩は八兵衡をうながした。この家の裏手がどうなっ
襲戸がそっと引かれ、住蓮たちは室内へ上がりこむこ
ているのか、住維には見当がつかないのだった。
ばって い た 八 兵 衛 が 察 知 し た だ け な の で あ る 。
住避は身仕肢ももどかしく五郎丸宅へ出かけていっ
た。
の戸.かした。鯨らしい。
いるにちがいない。
いる。白布の下は残忍な拷問の傷痕でずたずたになって
床に仰向いた老人は、顔・なすっぽりと白布でおおわれて
とができたが、五郎丸との面接は終にひとしかった。襲
「東山のお上人さまが長老どんに会いに来なすった」
かたく閉ざされた板蔀を八兵衛が小突いた。内から女
「爺さまは、たいへん痕れています。明日にしてもらえ
眠つてはいなかった。だが何を訊いても返事はない。
だけはする。口中を傷つけられて言葉がつづれないので
聞こえている証固に首を怒ったりうなずいたりして返事
口を付けた。
「空阿弥陀仏、観音堂のあのひじりに会ったか」
ある。
水無綴雄官の紘内で顔は合わせたが周聞の監視がきび
首は抑制に揺られた。
「・・・・・・」
「何かことづけは?」
老人はうなずいた。
「・・・・・・」
「是非、今夜会っておきたい。いや、ここで話をするだ
。
「裏 へ 、 袈 へ ま わ っ て 下 さ い 」
やがて、野ネズミが叡をかじるような低い戸で、
長い沈黙があった
「それが・・・・・・」
「すこしだけ起こしてもらえないかな」
「ぐったり寝こんでいます」
けでもいい」
変によそよそしい。住蓮は八兵衡を押しのけて板蔀に
ま位んか」
46 ー
-
しく言 葉 な ぞ か わ せ な か っ た に ち が い な い 。
hu
を動かすだけのシグナルで
拷問の内容を問いただしてみた。反応は全くない。部
とへ口を寄せた。
「おい、みんないなくな
とかあるのではないか」
ったぞ。何かわ
しに宮いたいこ
「 ・・・・」
・・
りたいことが多泣すぎて、
はまかないきれぬのであろう。
相変らず戸は指しなかったが、し きりに右手 の指で顔
、
はなかった。
手を貸した。だが 、し ゃべるために白布を剥いだので
「そうか。これがあってはしゃべりにくか
い」
面をおおうた白布を刺ぎ取ろうとする。
「つまりおぬしは あのひじりと交換だったんだな。ひ
じりが閉じこめられたことで、おぬしは許された」
この問いかけには明確な合 意があった。
結局、住速は空阿弥陀仏が同じ水無瀬離宮内の獄へ押
しこまれた本誌を確関しただけにとどまった。
それは想像を遥かに越えるものだ
、
った。皮膚はいたるところで裂かれ、左阪はえぐり出さ
むき制された孤面
れて空削になっている。鼻孔はつぶれ
、容は日常の三倍
八兵術ともども引きあげようとして、住速はふと必人
し招くような仕市をする。
「これは?」
あった。それを引きずり出そうとする。
。
と
られた隙聞の部分にもう 一枚、絹の小片がはさみこんで
さらし木綿を二枚かさねた白布だった
、が
そのかさ ね
もしないで 、い ま剥ダ取った白布をまさぐっ ている
五郎丸老人は、そんなおのれの顔なぞかえりみよう
か 、発戸 H不
M 能だった。
にもふくれあがっていた。舌先を詰められでもしたの
のぷ:日然な動作に叫をとめた。何やらしきりと住地をさ
そっと八兵衛の耳もとでささやいた。
「ひと足にいってくれ。わしはな、この爺さまの傷が早
く回復するように祈ってやりたいから」
「へえ
b 」
さらに若いこの門家の嫁にも、
「冷 め の 迩 と 水 を 持 っ て き て く れ な い か 」
と命じた。
藁床のまわりには住避だけになった。位は主人の耳も
- 47-
、
たのであるうか。
、
え
「・
・・
・ ・・」
「そ う か 。 空 阿 弥 陀 仏 の 袖 片 じ ゃ な 」
、
水無瀬篠宮へ出かけるとき 空阿弥陀仏は山男の若衣
ナマコ色の僧衣に若換えたのを思いうかべた。ひじ
を
りのころ愛用していたものだった。
その僧衣、袖の部分が引き千切られて五郎丸老人の傷
、
「おお これか」
包帯の 聞 に し の ば せ て あ る 。
住建はふるえる手で取り上げるとひろげた。袖片のナ
マコ地に黒い文字が書きつらねであった。これもおそら
く水無瀬行きの折に用意したものであろう。木炭の様芯
、
読んでいる般はなかった。足音が近づいたので
で普か れ た も の だ っ た 。
だが
ある。
「こんなものでよろしゅうございましょうか」
若 い妻女が椀に盛った塩と水宏運んできた。
::」
「結構じゃ。ひどい傷だ。これを浄めてな:
づ く〉
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と袖片をふところにしまいながら住蓮は白布の方で顔
面を拭 いてやった。
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水無瀬 の獄中から空阿弥陀仏はどんな報告をもたし
関
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読
定
規
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第四十七巻鰐
と法 は人によるミ
正法弘 宣 は あなたに よって,古来,法は独り弘ま るも
募
ので はな く,人によ っ て弘まる といわれて おりま す。
関
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唱和十年五島二十日内 第 一一
一
種鄭便鈎冨 可》
毎 R ・E ・-h 行
昭如五十六年 九月二十五 日印刷輔昭
和五十六年 + 月 一日車問符
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TEL 0
7
5
(
5
2
5
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2200(代)
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