...

女性の美に関する考察 - 北海道教育大学旭川校 社会学ゼミ

by user

on
Category: Documents
3

views

Report

Comments

Transcript

女性の美に関する考察 - 北海道教育大学旭川校 社会学ゼミ
平成 24 年度卒業論文
女性の美に関する考察
北海道教育大学旭川校
教員養成課程 社会科教育専攻 社会学ゼミ
学生番号 9311
國枝なつき
目次
はじめに
第 1 章 時代・世界による“美”の変化
1-1
時代による“美”の変遷
1-2
日本の化粧歴史
1-2-1 古代(古墳時代:3~7 世紀)
1-2-2 飛鳥・奈良時代(6 世紀末~8 世紀)
1-2-3 平安時代(9~12 世紀)
1-2-4 鎌倉時代(13~14 世紀初頭)
1-2-5 戦国時代(14~16 世紀)
1-2-6 江戸時代(17~19 世紀)
1-2-7 明治時代以降(19 世紀中期以降)
1-2-8 昭和 20 年代~昭和 50 年代
1-2-9 昭和 60 年代~平成
1-3
ヨーロッパの化粧の歴史
1-3-1 古代エジプト
1-3-2 古代ギリシア・ローマ
1-3-3 中世
1-3-4 16~17 世紀
1-3-5 18 世紀
1-3-6 19~20 世紀
1-4
多種多様な“美”
1-5
まとめ
第 2 章 トレンディドラマから見る“美”の変化
2-1
トレンディドラマとは
2-2
トレンディドラマにおける主要キャストからみる“美” の変遷
第 3 章 美容整形
3-1
美容整形の起源
3-2
美容整形が必要とされる理由
3-3
美容整形のニーズの変化
3-4
美容整形におけるランキング
3-4-1 国別ランキング(2009 年)
3-4-2 美容整形治療ランキング(2013 年 1 月)
3-4-3 美容整形でなりたい顔ランキング(2012 年)
1
3-5
まとめ
第 4 章 男女の“美”に対する意識差
2
はじめに
“美”というものは昔からだれもが気になっているものであり、だれもが追求している
ものである。私もその中の一人であるのは言うまでもない。しかし、
“美”というものは、
時代が変わると共に、“美”の認識も絶えず変化し、また地域、場所によっても非常に異な
るものである。例を挙げると、昔「世界三大美女」というものがいた。この世界三大美女
とは、日本では「クレオパトラ、楊貴妃、小野小町」と言われている。しかし、世界での
最も広まっているものは、
「クレオパトラ、楊貴妃、ヘレネ」という三大美女であり、いつ
しか日本人が勝手に小野小町を押し込んだのだと言われている。それぞれの姿を下記の表
にまとめてみた。
●クレオパトラ
世界三大美人の中でも、代表格がクレオパトラで
画像 1 クレオパトラ 7 世頭部
ある。カエサルやアントニウス等、時の権力者を魅
了し、コブラに胸を噛ませて最後を遂げたという、
絶世の美女にふさわしい生涯が語り継がれている。
映画でもヴィヴィアン・リーやエリザベス・テイラ
ーなど、その時を代表する美人女優がクレオパトラ
を演じている。しかし、実はクレオパトラはそれほ
ど美人じゃなかったという説がある。2000 年前、ク
レオパトラが亡くなってすぐの古代ローマの銀貨に
クレオパトラの横顔が刻まれているが、それが美人
出典:Wikipedia
ではなかったとする証拠となっているようである。
●楊貴妃
ライチを好んで食し、音楽や舞踊に恵まれた絶世の美女と言わ
画像 2 楊貴妃画
れる楊貴妃だが、当時の美女の条件からすると豊満な女性だった
のではないかと言われている。歴史書によると楊貴妃の身長と体
重について、身長 164cm 体重 69kg、あるいは、身長 155cm 体
重 60kg であったとのことである。そうだとすると、肥満である。
出典:Wikipedia
3
●ヘレネ
ヘレネは成長すると、地上で最も美しい絶世の美女とな
画像 3 ヘレネとパリス
り、ヘレネの結婚に際しては、求婚者がギリシア中から集
まった。ヘレネの義父は、彼らの中の誰を結婚相手に選ん
でも、それ以外の男たちの恨みを買う恐れがあるため、あ
らかじめ「誰が選ばれるにしても、その男が困難な状況に
陥った場合には、全員がその男を助ける」という約束をさ
せ、結婚相手を選んだ。
出典:Wikipedia
●小野小町
若い頃の小野小町は多くの男性に言い寄られたが、熱心
画像 4 小野小町
だったのが深草少将であり、小町も断り切れなくなり、
「私
の所へ百夜(ももよ)通って来たら言うことを聞きましょ
う。
」と答えた。99 日間せっせと通い詰めた深草少将、百
晩目に大雪のために死んでしまった、という歌(古今集)
がある。
出典:Wikipedia
現在の私たちが見たこの世界三大美女は、美しいとはとても言いがたい。特に、楊貴妃に
いたっては、肥満体型となっており現在の私たちの“美”の認識からは程遠い。
このように、時代、場所によって異なる“美”について、私は非常に興味を持ったので、
今回このテーマをもとに卒業論文を作成することとした。
第 1 章では、時代や地域、場所によって異なる“美”、そして“美”を構成するうえで欠
かせない「化粧」について追っていき、どのように変化しているのかを考察していく。
第 2 章では、その年代のトレンディドラマをもとに、
“美”というものの認識は、どのよ
うに移り変わっていったのかを考察していく。
第 3 章では、今日、世界中で広まっている「美容整形」について論じていく。
第 4 章では、さまざまな“美”を見てきた中で、どうして“美”というものは作られて
いるのか、そして何をもとに“美”というものを作っているのか、という“美”に対する
意識を考察していく。
4
第 1 章 時代・世界による“美”の変遷
1-1 時代による“美”の変遷
まずは、時代によってどのように人々の“美”の認識が変化していったのか、平安時代
から現在に至るまでをおおまかに追っていく。
平安時代は、きめの細かい色白の肌、小太りで、顔形はしもぶくれ気味の丸顔であご先
は丸く、細い目が尊ばれた。頭髪は長くしかも水分の多いしなやかな髪の毛が美人の条件
とされているが、これは成熟した女性の証でもあった。
江戸時代以来、日本では色白できめ細かい肌、細面、小ぶりな口、富士額、涼しい目元、
鼻筋が通り、豊かな黒髪が美人の条件とされた。こうした美意識は、明治時代から大正時
代に至るまで日本の美人像の基調となった。井原西鶴の作品には、低い鼻を高くしてほし
いと神社で無理な願いごとをするとの記述があり、当時は、鼻の高さを好んだ傾向が伺え
る。
明治 40 年アメリカの新聞社が、アメリカ・カナダ・スペイ
画像 1-1 末弘ヒロ子
ン・スウェーデン・イギリス・日本の 6 カ国でミス・ワール
ドコンテストを企画した。そこでコンテストの予選として日
本で初めての全国美人写真コンクールがおこなわれた。1 位
には、九州・小倉市長・末弘直方の令嬢で学習院中等科 3 年
生の末弘ヒロ子(数え年 16 歳、1892-1942)が選ばれた。日
本第 1 位の彼女は世界では第 6 位として入選した。
大正時代には、大正三美人といわれる大正を代表する 3 人
が存在した。九条武子、柳原白蓮、江木欣々の 3 人である。
画像 1-2 九条武子
出典:Wikipedia
画像 1-3 柳原白蓮
出典:Wikipedia
5
出典:Wikipedia
画像 1-4 江木欣々
出典:Wikipedia
関東大震災後から、パーマネントや断髪、口紅を唇全体に塗るなど、欧米の影響を受け
て従来の美意識と相容れないような美容が広まった。戦後の日本では、西洋の影響を受け
て、白人に近い顔立ちが美人とされた。また、健康的と考えられた小麦色の肌が美しいと
思われ、一部で日焼けが流行するなどした。
20 世紀には映画・テレビをはじめとする動画が一般化日常化するなかで、静止画的な美
しさだけでなく、動的な美しさも評価されるようになった。美人の基準も多様化している
ため、美人の代名詞と言えるような女性はいなくな
画像 1-5 森理世
った。上記の美人像とはかなり異なる顔立ちの女性
であっても、美しいと見なされることもある。
2007 年に行われたミス・ユニバース世界大会にお
いて、日本代表の森理世が優勝した。日本人の優勝
は 1959 年以来 48 年ぶりの快挙であった。
出典;森理世公式サイト
1-2 日本の化粧の歴史
つぎに“美”を語る上では、切っても切り離すことのできない「化粧」
。現代でも、
“美”
をつくるには必要不可欠である「化粧」は、時代ごとにどのような変化があったのかを追
っていく。
画像 1-6 巫女の埴輪
1-2-1 古代(古墳時代:3~7 世紀)
縄文時代の土偶や弥生時代の埴輪の顔面に赤い顔料が
塗られていることから、顔に赤土を塗ることが当時の風習で
あり、日本の化粧の始まりで、魔除けのために顔に紅殻(ベ
ンガラ:酸化鉄)を塗る“赤化粧”が行われ、赤は悪魔の進
入を防ぐ色とされていた。
出典:ポーラ文化研究所
1-2-2 飛鳥・奈良時代(6 世紀末~8 世紀)
6 世紀初頭に始まった遣隋使、遣唐使や中国や朝鮮からの渡来人などにより文字を筆頭に
種々の文化、文物の伝来と共に、身だしなみ、化粧品、化粧法なども伝えられ、魔除けか
ら日本の伝統化粧の始まりとなった。伝来したけしょうは“化粧・仮粧”と書き“けわい・
けそう・おつくり”などといい、化粧・髪型・服装・態度などを含めた身だしなみ、と云
う広い意味に使われていた。この時代の美的感覚は正倉院の“鳥下立女屏風”や薬師寺の
“吉祥天女蔵”に見られるように当時の先進国、中国での流行を意識したものが主流で、
唇を濃い赤で染めあげ額と口元には鮮緑色の花鈿(かでん)、靨鈿(ようでん)を付ける様式が
宮廷を中心にして流行した。その後の変化は高松塚古墳の壁画に描かれた美人画のように
本来の眉毛を抜いて細長く眉墨で描いた眉が当時の流行を表している。お歯黒は、聖徳太
6
画像 1-7 鳥毛立女屏風
子がしていたと云われており、虫歯予防に行われていた。
753 年に渡日した鑑真和尚が、鉄漿水(かねみづ:酢酸第一
鉄:液体)の換わりに緑バン(硫酸第一鉄:粉末)を使う方法
を伝え、悪臭がなく、付きもよいものだったが高価であっ
たので、あまり普及しなかった。また、騰脂(えんじ:紅花
のこと)も渡来し、明治初期までの基礎的な化粧品が揃った。
出典:奈良 NPO センター
1-2-3 平安時代(9~12 世紀)
遣唐使の廃止と前後して中国の真似ではなく衣冠束帯
画像 1-8 源氏物語絵巻
や十二単といった日本独自の習慣や風習が芽生えた。源氏
物語絵巻に描かれているように長髪をそのまま下ろし白
く白粉を塗った顔に、眉毛を全部抜いて眉墨で描いた眉
(引き方は男女、年齢、身分、階級によって描き方が多数
あった)と、下唇だけに少し紅を差す化粧と変化し、鳳仙
花を使って“爪紅(マニキュア)”もするようになった。髪
が長いので手入れが大変で、米のとぎ汁で丹念にブラツシ
ング、洗髪は年に 1 回、臭い対策として香枕を使い白檀な
出典:ポーラ文化研究所
どの香りを髪にしみこませた。これらが香りの文化も生み
出し、男も女性と同じような化粧をするようになり、お歯黒文化も復活している。平安時
代後期となると、武士団が台頭するが、宮廷文化に憧れ、白塗りの顔に置き眉、口紅を塗
りお歯黒もするといった貴族の習慣を取り入れた平家が繁栄した時期になる。その頃、流
行した白拍子達によって化粧が広められた。
1-2-4 鎌倉時代(13~14 世紀初頭)
源氏は、平家に対する反動からか質実剛健を旨とし、平安貴族風の化粧は女性だけのも
のに戻った。また、赤化粧が復活して、地肌の色を強調しあまり白粉を塗らない化粧法へ
と変化するが、眉化粧が貴族中心から一般的な化粧法となり、新しい化粧法のほお紅の使
用が始まった。
1-2-5 戦国時代(14~16 世紀)
女性の化粧はあまり変化せずに、戦に臨む武士達が化粧をする風潮が生まれ、敵に首を
取られても醜くないように、眉墨を引き、白粉を塗った。中には口紅やお歯黒をつける者
もいたといわれている。また、
“バサラ”と呼ばれ、若い男が派手な着物を身にまとい、時
には傍若無人な行動を取ったり、奇抜な化粧をしたりすることが流行した。戦国時代の後
半となると眉墨で描いた眉から自分の眉に戻り、白粉に紅色を混ぜた“小西白粉(紅色白粉)”
7
が作られ、ここに白一辺倒でない白粉が生まれた。
1-2-6 江戸時代(17~19 世紀)
最も古い女性の教養書の一つである『女鏡秘伝書(1650
画像 1-9 時代かがみ
年)』によると、江戸初期の化粧の仕方、特に白粉の塗り
方について“おしろいをぬりて、そのおしろい、すこしも
のこり侍れは、見くるしきものなり、よくよくのごひとり
てよし”と薄化粧をすすめている。また、
『女重宝記(1692
年)』でも“紅などもうすうすとあるべし”と書かれてお
り、濃くぬるのは卑しいこととさとしている。江戸の中盤
以降になると町人文化の繁栄が化粧をする層の裾野が広
げ発達させるが、その流行を主導していたのが歌舞伎役者
や遊女達であった。延宝(1673~1681 年)ころの歌舞伎俳
優上村吉弥は、吉弥結びという帯結びや吉弥帽子、吉弥笠
などの流行を生んだ。引退後に京都四条通りに白粉店を開
き、吉弥白粉を発売して大いに繁盛した。その他、中村数
出典:ポーラ文化研究所
馬や二代目瀬川菊之丞など数多くの俳優が新しい化粧法
や化粧品の開発・宣伝に大きな役割をはたした。化粧に関しての総合的な知識をまとめた、
『女子愛敬都風俗化粧傅(みやこふうぞくけわいでん:1813 年)』があり、その後、大正時
代に廃刊になるまでのロングセラーとなって日本の伝統的化粧の指導書の役割を担った。
実際に化粧を視覚的に伝えたのは浮世絵版画であり、実際に伝えたのは、幕末の江戸市中
1400 余人いたという女髪結達であった。しかし当時流行の化粧はいわゆる白塗りであって、
それが日本の伝統化粧であったとは云えないようで江戸末期の『守貞漫稿(1853 年)』によ
ると、一般に京都・大坂の化粧は濃く、江戸は薄く、素顔も多かった。中でも京都の官女
は濃く、遊女・芸著なども上方は濃いが江戸は薄化粧か素顔もあった。一般の庶民は普段
は素顔で、晴れの日には薄化粧をした程度だったようで、薄化粧もしくは素顔でいられた
のは、ぬか袋や生薬類を使った肌の手入れ法が普及していたからだと云われている。その
化粧法も、薄青色を混ぜた白粉を鼻すじの両側や上瞼に塗ってシャドーを作って鼻を高く
見せたり、また、当時の紅花は最高級の口紅用材料として珍重されて、非常に高価にも関
らず、紅を濃く塗って黒に近い暗緑赤色にする“笹紅”が流行したり、下唇に墨を塗った
後に紅を塗って、笹紅と同じ効果出す化粧法も考え出されたりした。また、ペディキュア
なども行われていた。白粉はまだまだ鉛や水銀製だったのだが、反復使用するうちに慢性
毒が体内に蓄積され一種の職業病(鉛中毒、水銀中毒)として幾多の悲劇が生まれている。日
本固有の化粧として伝えられてきたお歯黒は古代から男女ともに成年式などの通過儀礼と
して行われてきたが、結婚と同時に歯を染めるようになり、また出産と同時に眉を剃るよ
うになり既婚者の証とする風習も生まれた。
8
1-2-7 明治時代以降(19 世紀中期以降)
1870 年のお歯黒は旧習であるとして、禁止令の太政
画像 1-10 美人絵葉書
官布告を契機として、次第に白歯が増えて、お歯黒をす
る者は減ったが、明治初期に即席のお歯黒ができるよう
になり再び増えた。しかし日露戦争の大勝以後、女性風
俗も近代化の途をたどり、お歯黒人口も再び減少した。
同時に無鉛白粉の開発と舶来化粧品の輸入増、それに新
聞・雑誌などによる広告・宣伝の活発化によって、化粧
は一般化し、化粧品産業も基礎が固まった。大正時代に
は化粧水・化粧液・乳液などの基礎化粧品を始め、香水・
石鹸・歯磨など洋風化粧品がその種類を増し、大衆化し
た。昭和に入るとクリームやルージュが種類をまし、更
に第二次世界大戦後は、メーキャップファウンデーショ
ン・アイメーキャップ類・フレグランス(芳香製品)類・
出典:ポーラ文化研究所
男性化粧品と、化粧品も化粧法もまったく世界共通のも
のとなった。
1-2-8 昭和 20 年代~昭和 50 年代
高度経済成長期の日本、人々の生活が便利に豊かになっ
画像 1-11 ツィッギー
ていった時代であった。百貨店で化粧品や洋服の買い物を
楽しんだり、おしゃれに時間とお金をかける余裕がでてき
たりした昭和 30 年代は、
「化粧はピンクに」
「化粧は少々ピ
ンクの肌色にして」
「ここ 2、3 年ピンク調で白めのファン
デが主流・・・」とあり、ピンク系ベースメークが主流であっ
た。この流行は昭和 30 年代の終り頃まで続いた。そして、
昭和 50 年代以降、よりナチュラルな肌色を求める傾向へと
繋がっていった。一方ポイントメークでは、それまでのリ
ップメークにプラスして、アイメークが重視されるように
なっていった。まつ毛を長く見せる化粧品としては、マス
カラは戦前に、つけまつ毛は昭和 20 年代には既に登場して
出典:毎日 JP
いた。ただ、当時のつけまつ毛はより美しく見せるメークとしてではなく、まつ毛が短い、
少ないといった人に修正メークとして使うことが薦められていた。それが、昭和 30 年代に
入るとおしゃれとして使うことが少しずつ浸透しはじめ、さらに昭和 42 年に、イギリスの
女優ツィッギーの来日で、彼女のメークを真似たアイライン、アイシャドー、マスカラに
つけまつ毛とアイメーク化粧品をフル活用して目もとを強調するメークが一挙に大流行し
9
画像 1-12 anan 創刊号
た。それは昭和 45 年、これまでにないファッション誌と
して創刊された『anan』でも、長いまつ毛とアイメーク
で目を強調したファッションモデルが登場した。その後し
ばらく続いたつけまつ毛ブームも昭和 50 年代のナチュラ
ルな目元への流れとともに終息していった。
出典:ポーラ文化研究所
1-2-9 昭和 60 年代~平成
昭和 50 年代後半から 60 年代、いかに素肌っぽい質
画像 1-13 ビューティ専科
感に見せるかがポイントになっていった。当時の女性
誌を見ると「もしかして素顔!?と思わせるような薄
化粧はメークの理想」「ベース作りに重点を置いた素
肌美メーク」といったタイトルで特集を組み、素肌っ
ぽい仕上げのテクニックをこぞって記載していた。一
方ポイントメークでは、それまでと大きく変化してい
るのが眉メークであった。昭和 40 年代後半から昭和
50 年代前半にかけてアーチ型で細めの眉が定番だっ
たが、昭和 50 年代後半から 60 年代には自然な太眉へ
と変化していった。そしてナチュラルな肌、眉に合わ
出典:ポーラ文化研究所
せ、リップやアイメークも変わっていった。リップは
落ち着いたベージュ系が注目され、目からはつけまつ毛が取れマスカラのみになった。ア
イシャドーも肌色になじむブラウン系が主役になった。ブラウン系の濃淡で自然な立体感
画像 1-14 Coffret
を出し、当時流行していたピンクやパープルといった色物
は、華やかさをプラスしたり、グレー系のアイシャドーと
合わせ、知的感や大人っぽさの演出に使われていったりし
た。
平成に入っても女性誌には「好感度 No.1 はやっぱり薄
化粧風」「色をおさえたナチュラルメーク全盛の今」とい
ったコピーが並び、ベースメークはなお、素肌っぽいナチ
ュラル志向が続いていた。一方ポイントメークは、眉メー
クはそれまでの直線的な眉から、再び眉山をとり眉尻にか
出典:ポーラ文化研究所
けて細くなる山型に変化した。アイシャドーは光やパール
感を感じるものも流行し、リップははっきりして落ち着い
た色味が再び登場した。こうしたポイントメークの変化は小顔がキーワードになっていた。
女性誌の特集を見ても「日本人顔を小さく見せる 30 の方法」「顔を小さくすっきりみせる
10
ヘア&メーク」といったメーク特集を組み、さまざまなテクニックを紹介した。目と口の
印象を強めて顔を小さく見せるため、下まつ毛の内側に白いラインを入れて白目を大きく
見せる、目の周りにハイライトを入れる、濃い目のリップをくっきりと付けるなどのメー
クが流行。眉、目、唇のどこを強調するか、バランスをとりながら小顔を演出していた。
一方、こうした大きなメークトレンドとは別に 10 代
から 20 代前半の一部の女性に特有のファッションやメ
ークが登場したのもこの時代である。昭和 40~50 年代
画像 1-15 げーはーこ
(ヤマンバギャル)
には、細い眉に目元を強調したメーク、小麦色の肌とホ
ットパンツや編み上げサンダル、またサーファースタイ
ルといったギャル系の元祖的ファッションやメークの
流行。雑誌「anan」
「non-no」から生まれたファッショ
ンやメークが若い女性の最先端となった。平成に入ると
トレンドを生み出すのは女子高生に移行した。そこでミ
ニスカートにルーズソックス、厚底靴といったファッシ
ョンのコギャルが登場。茶髪に日焼けした肌、メークは
極細眉に目元を強調したアイメーク、白っぽいピンクの
リップが特徴である。また、極端に肌を焼いたガングロ
に白い髪、隈取のようなアイメークに真っ白なリップメ
ークのヤマンバギャルが登場したのもこの頃であった。
その後、小麦色の肌に細い眉の安室奈美恵メークを経て、
出典:読モニュースサイト
目元を強調した歌手の浜崎あゆみメーク、そして肌の色
は小麦色から美白ブームの白い肌へと移り変わっていった。さらに、近年では雑誌
「CamCan」モデルのえびちゃん、もえちゃん、関西のお嬢様スタイルによくみられたロ
ングの巻き毛ブーム、そこから茶髪の巻き毛をアップスタイルに結い、高く重ねた盛りヘ
アとアイラインやつけまつ毛でとにかく目を強調したメークが特徴のアゲ嬢スタイルやメ
ークが特徴的な流行となっている。
1-3 ヨーロッパの化粧の歴史
つぎに日本だけではなく、ヨーロッパにも目を向けてみる。化粧の起源は、現代の人類
に近い骨格を持っていると言われているクロマニヨン人のいたおよそ 4~5 万年前までにさ
かのぼると言われ、長い歴史を持っている。この時代は遺品から生活道具や武器が発見さ
れ、歴史上初めて動物やその他の家畜・生活様式を壁画に残したといわれている。また、
一説には約 20 万年前のネアンデルタール人の時代までさかのぼるとも言われている。この
時代の化粧とは、狩猟の儀式の際に体にペインティングしたものという説があり、赤の粘
土・赤い顔料を体に塗ったものを言う。また、紀元前 3000 年ごろの遺跡で化粧瓶・化粧パ
レット・手鏡・コール壺が発見された。これが、はっきりとした化粧行為の確認といえる。
11
1-3-1 古代エジプト
西洋の化粧文化流れの出発点とされている。この
画像 1-16 古代エジプト画
頃には樹脂や練り香水が作り出され、エジプト人は
香りのよい水で水浴するという習慣もあった。また、
特徴としては目を強調するためのアイメークがよく
見られたようである。当時の女性は今でいうアイラ
イン・アイシャドーみたいなもので目の周りを真っ
黒に塗っていた。この化粧は目をパッチリ大きく見
せるために目を縁取っていたのかもしれない。しか
し、これには他の意味があったと言われている。そ
れは太陽の光を和らげるためや信仰のための二つで
出典:Floral Musee
ある。今では美しさのためにとする化粧だが、化粧
の始まりは宗教に関連していたようである。
1-3-2 古代ギリシア・ローマ
化粧はエジプトのものが伝わったと言われている。ローマでは色白が美しさの基準であ
ったため入浴が盛んに行われていた。現代で言うパックのようなものも盛んに行われ、鉛
白や白亜(チョーク)などが使われていた。また、スプレニアも流行した。この時代の付
けぼくろはオシャレが目的と言うよりは、吹き出物などを隠す役割を果たしていた。そし
て、贅沢を好むローマ人は香料を大量に使用していたようである。特に貴族たちは髪に付
ける香油を浴室に持ち込み、一日に三度もすりこんでいた。
1-3-3 中世
中世の時代は、キリスト教の影響で化粧はあまり進歩せず、むしろ回教(イスラム教)
の世界で大きく進歩した。
(ここでは、ヨーロッパを取り扱っているため、割愛させていた
だく)
1-3-4 16~17 世紀
ルネサンス期を迎えるころ、イタリア・スペインを中心に香水が流行した。これは、入
浴して体を清潔に保つといった心遣いがなくなり、衛生に気を配るよりも香水のにおいで
ごまかすことをしていたということである。その後、香水は欧州全域にも拡大しました。
香水は官能を刺激するものとしてだけではなく、いろいろな伝染病(特にペスト)に対し
て有効な予防薬として考えられていた。また、この時代にもつけぼくろ(パッチ)が流行
した。これは古代ギリシア・ローマ時代のものとも異なり、肌の白さを引き立たせるため
のものであった。素材もベルベットやサテンでつくられており、この流行は次の世紀まで
12
続いた。
1-3-5 18 世紀
この頃から化粧の様子が少しずつ変化していった。
画像 1-17 貴婦人画
具体的には頬の上に紅を丸く塗ったり、唇いっぱいに
紅を塗ったりなどである。これはルイ 14 世の愛妾モ
ンテスパン夫人の影響があるといい、彼女が出入りす
る以前の宮廷では紅はあまり使われていなかったよう
である。また、市民階級は地味な色、上流階級の貴婦
人たちは鮮やかな色など紅の色合いで女性の階級など
を区別していた。化粧品はすべて匂いが強かったが香
料水を使うことも流行し、匂いが強ければ強いほど珍
重された。さらに、エチケットとして毎日香水を変え
出典:ameba
ることも要求され、この香水の流行が貴族階級から市
民階級へと広まった。この時代も 16~17 世紀同様に肌の白さは重要視され、引き立たせる
ために皮膚の上にうすく青色で 1~2 本の血管を書いたりもした。
1-3-6 19~20 世紀
時代とともに濃厚な化粧はすたれ、控えめな化粧や香
画像 1-18 若い女性の肖像
り、そして再び白い肌が好まれるようになった。第一次
世界大戦後は日焼けした小麦色の肌が健康美としても
てはやされたが、1930 年ごろまでにはまた日焼けを嫌
う傾向へと変化していった。そして、1955 年ごろにフ
ァンデーションが発売され、世界共通の化粧方法が生ま
れはじめた。その後、各国の化粧品メーカーが科学技術
品としての化粧品に腕を競うようになり現在に至った。
出典:ヨーロッパ芸術街道
1-4 化粧に関する引用資料
化粧に関して調べていく内に、興味深い記述があったので、引用させていただく。
1-4-1 引用資料 1
13
電車の中で化粧をする少女の姿は、東京ではもはや日常風景となっている。彼女らの視
界には、そこに人は存在していない。人を魅せる化粧には、工程は見せないという約束事
があったのだが、彼女達は化粧の醸し出す秘め事のイメージを打ち砕き、不精なオバサン
よろしくシルバーシートに鎮座していた。
ルール違反として断罪される彼女たちだが、少し知恵がある少女なら反論するだろう。
映画の中だって、女優が化粧をするシーンがあるじゃないかと。しかも、
「魅力的」といっ
た評判まである。しかしその後には、女優の嘲りが返ってくる。
「私はあのシーンを魅せて
いるの」と。化粧をする姿が見苦しいわけではない。日本画はもとより、
「化粧する女」は
芸術の一つのテーマだ。舞妓の化粧姿を撮る写真家は、髪を結い上げ、丁寧に塗ったおし
ろいの顔に、緊張した面持ちで最後の仕上げに紅をひく、その一瞬にシャッターを合わせ
るだろう。そこには秘匿の美しさを覗き見る魅惑と緊迫感がある。舞妓もまた魅せている
のであり、無防備に見せているのではない。おしろい半ばの顔は、決して撮らせない。
大人の一方的な少女たちへの断罪は、さらに加わる。
「なに、その厚化粧」というのだ。
不細工な女を表現するときは、厚化粧をさせるのが手っ取り早い。厚化粧というだけで、
充分その効果を発揮する。再び知恵ある少女は反論するだろう。
「舞妓さんの化粧は濃いじ
ゃないか」と。そのとおりだ。しかも舞妓は少女より若いかもしれない。
「若いうちは素顔
で充分きれいなのよ」などとオバサンは言うが、少女は納得できない。それは、そもそも
少女とオバサンで化粧に求めているものが違っているからだ。
オバサンたちが絶対に理解できないのがガングロ化粧だ。ちっともきれいじゃなく、第
一あそこまで描いてしまうと、どの子だかわからない。しかしながら、ガングロと舞妓の
化粧には大きな共通点がある。
舞妓には、化粧から仕種、衣装、髪型まで詳細な決まり事がある。髪は丸く愛らしい「割
れしのぶ」に結い、化粧は顔から首、襟足の一面に鬢付け油を伸ばしたうえに練りおしろ
いを刷毛でたっぷり塗り、白塗りが終わると目元に紅をさし、眉も赤で描く。口紅は下唇
だけにおちょぼ口に少しだけ塗り、
「おぼこく」仕上げる。赤い長襦袢に赤に金糸の刺繍が
入った衿、振袖には肩上げがあり、だらりの帯をしめて、
「おぼこ」という丸い高下駄を履
く。お座敷では常に控えめに振舞い、旦那衆との話を盛り上げるのは芸妓になったお姉さ
んの仕事で、舞妓ははにかみ、微笑み、幼子の頼りなさを漂わせて、本当の幼子にはある
まじき酒宴の席に彩りを添える。全てが旦那衆の心地よさのために、長い歴史をかけて創
り上げてきた虚構の世界であり、舞妓はそこに配置されるひとつの役所なのだ。
完成された雅の世界で、舞妓はあくまでも舞妓として振舞う。化粧はカンバスに描くが
ごとく、素の顔に舞妓の顔を描く。舞妓に仕上がったときには、素がだれであったかは問
題にならない。ここに化粧の持つ仮面性がある。雅な世界とガングロを同列にしてはお叱
りもあるだろうが、ガングロも同様にガングロを描く。舞妓にとって化粧は非日常世界へ
の支度であり、ガングロ娘も日常からのささやかな脱出を求めて顔を塗る。ガングロ娘が
目指すのは美しく装うことではない。「化ける」ことが目的なのだ。化けること、それは別
14
の人間、別の存在に変身することであり、化粧の原点である。
遡ること 7 万年、旧石器時代の人骨には目や口の周辺に染料の痕跡が見つかっている。
日本では古墳時代の埴輪などから、顔全体に朱を塗る風習があったとされている。朱には
魔除けの霊力があると信じられた。卑弥呼が神と交信していた時代には、目を隈取ること
で邪気の侵入を防ぎ、神の言葉を話す巫女の口は火の色に染められていた。化粧をするも
のは神の代弁者であり、特別の存在だった。
時代を下り平安になると、富を集め、広い寝殿造りに暮らすこととなった貴族たちに中
国から白粉(おしろい)がもたらされ、労働から離れて薄暗い奥座敷で過ごす彼等の顔を
白化粧が引き立てた。この頃には呪術的な色彩は薄れてくるが、恋に身をやつす貴族は、
丁寧に眉を抜き、高価な白粉を惜しみなく塗り、額に人にはあらぬ形の眉を描いた。この
頃には、魅惑という大きな目的が化粧に付け加わるが、異様な厚化粧は特権階級の象徴で
あり続けた。
さらに時代が下ると、町人が経済力を有してくる。豊かな上方商人の妻や娘は、成り上
がりの常よろしく貴族を真似て化粧に手を染めた。もちろん高価な白粉をたっぷり塗り、
黒光りするほど濃く紅をひいた。
薄化粧が登場するのは江戸以降である。交通の要に位置した江戸は、開幕後経済の中心
地としても栄え、町人文化も花咲くが、上方商人ほどの財を手に入れるのは江戸も後期を
待つこととなる。活気とそこそこの経済力を持った江戸っ子は、白粉を慎重に伸ばし、大
事に紅をつけた。着物も金糸銀糸などは高嶺の花、地味なものを身に着けた。しかしそれ
だけでは将軍様のお膝元というプライドが許さない。そこで江戸っ子のやせ我慢は「粋」
という文化を編み出していく。
こうして化粧が大衆化してくると、経済的事情から薄化粧となり、薄化粧には素地が残
るところから、素をきれいに粧うための化粧が生まれていった。江戸の女は肌に気を遣っ
たのだ。
さて、男性諸氏が恋人や妻に日頃求めるのは、
「粧う」化粧でこそあれ、
「化ける」それ
ではないだろう。女は、化粧をせずにはやっていられないときに、鎧さながらの化粧を施
す。薄化粧が恋心なら、厚化粧はいわば戦闘服だ。
「化ける」と「粧う」を間違えた女がパ
ロディなのは言うまでもない。傍らに座る女のファンデーションの厚みの中に、女の本当
の心が隠されているかもしれない。
1-4-2 引用資料 2
化粧は女のするもの、と私たち教わってきた。しかしその常識は、歴史的には嘘である。
明治政府が国民国家の精神的支柱として崇めた明治天皇は、断髪に髭の軍服姿で閲兵式に
臨む凛々しい姿が強調されてきたが、それ以前は化粧の似合う少年だったようだ。維新直
後に天皇に謁見した西欧人は、顔を真っ白に塗った女のような天皇の姿を書き記している。
宮廷の化粧法だ。徳川によって権力から遠ざけられた 300 年間も、公家たちは化粧の習慣
15
を維持していた。天皇もしかりである。しかし明治政府には、天皇と化粧という事実を抹
殺しなければならない事情があったのである。
男の化粧は平安貴族に始まり、連綿と続いてきた。質実剛健を美徳とした武士も、最初
から野暮だったわけではない。平氏の武士は化粧をしていたらしく、源平入り乱れて戦っ
た戦乱期には、平氏の落ち武者は化粧をしているからすぐ分かったというエピソードが残
っている。敗走という生死の際に、白塗りの武者というのはいかにも軟弱そうで、泥臭い
関東武士を中心とした源氏は平氏の姿を嘲ったものだが、源氏が負けた時には日焼けした
顔を百姓侍と馬鹿にされていたのである。
実は、戦というのは見栄えが非常に大切なのだ。武勇には、カッコよさが求められる。
血まみれで転がり悶える負のイメージだけでは、だれも志願などしない。戦とは、勲なし
名を馳せる檜舞台である。腕が立とうとみすぼらしくては、覇者の名誉を獲得できない。
戦争にはこういうトリックがある。
実際、源氏平氏に関わらず、戦場に赴く武士たちはとてもお洒落だったようだ。馬具か
ら武具、鎧兜はできる限りに最高のものを設え、そのグッズも自慢の種で、手入れを怠る
はずもなかった。戦法が一騎打ちから集団戦に変化するにつれ、動員された足軽などは衣
装といえないほどになっていたが、武将は見た目にも威厳を保った。そして、いざ決戦と
いう日、老いた武将は鏡に向かった。万一この首が敵の武将に渡った時、なんだこんな老
人が大将かと思われたのでは当方の戦意にも影響し、親方様にも申し訳ないと、かつらを
かぶり、若作りの化粧を施した。死化粧である。化粧にはこんな使い方もあったのだ。
お歯黒もまた、女だけのものではなかった。平安貴族はもとより、武士も鉄槳(カネ)で
歯を染めていた。武士の場合は主君に仕えたときに染めたらしく、歯が黒ければ主君がい
る証拠で、二君にまみえずという意思表明だったようだ。実際にはお歯黒の武士も、口を
すすいで主君を渡り歩くこともなかったわけではないようだが。
このように公家も武士も、自らのステイタスを表す道具として化粧を活用してきた。し
かし、徳川時代になると男の化粧は廃れていく。そこには関東武士を基盤とした経済事情
や精神文化もあっただろうが、それ以上に、戦のない、戦の禁じられた武家社会に男の化
粧は馴染まなかったのだろう。時代は雅よりも質素を、武勇よりも秩序を、男の美徳とし
て押し付けていく。武士は大人しい武家となり、活力も町人に及ばなくなっていった。江
戸期の 300 年は、町人文化が武家文化を半ばなし崩しにしたことで救われたのかもしれな
い。町奴は化粧をしていた証拠こそないが、市中には伊達者たちが溢れ、三味を爪弾き、
幕府を茶化してもいたのである。
さて、日本で最終的に男から化粧を奪ったのは、西欧化だった。富国強兵、国民軍の創
設の中で、男たちは三々五々に歩くことも許されず、行進の仕方を叩き込まれていく。可
憐な明治天皇も偉勲ある姿へとファッションを転換させる。男が化粧などもってのほかと
され、派手な着流し姿の「はぐれ雲」は東京から放逐された。偶然かどうかは知らないが、
男色が人にあるまじき行為として全面否定されるのもこの頃である。
16
では、一足先に近代化を走った西欧はどうだったのか。17 世紀のフランスでは宮廷を中
心に男たちは華麗な衣装を身に纏っていた。太陽王と呼ばれたルイ 14 世は、かつらをかぶ
り、フリルを多用した色鮮やかな上衣に豪華なキュロットを身につけている。彼の治世は
ヴェルサイユの宮廷文化が最も華やいだ時代であり、慎重 160 センチ足らずという小柄な
王が好んでハイヒールを履いたことから、宮廷の女たちにもハイヒールが流行していった
と言われている。おそらく化粧や香水にも凝っていただろう。また、王はプロの男性ダン
サーに舞台衣装を着けてダンスを踊らせ、時には自らも一緒になって踊った。華美であり
優雅であることが、この時代のステイタスであったのだ。
しかし、男のお洒落が絶頂に達した時、終焉の序曲も始まっていた。やがて、売春を生
活の糧とするパリの洗濯女や、マイスターの道も閉ざされた徒弟男は、手に手に銃を取り、
バスチーユを、ヴェルサイユを襲撃し、ルイ王朝は崩壊する。百年の闘争を経て市民社会
が定着したとき、男のファッションはどれも同じようなカラススタイルとなっていた。と
いうのも、華美な姿は権力者の象徴であり、民衆を不当に収奪した結果ととらえられたの
だ。民主主義こそが絶対真理とされる社会では、労働こそが尊敬され、多忙であることが
美徳とされる。革命期を生き延びてブルジョアジーに転身を遂げた貴族も、富はあくまで
も自らの労働と才能の産物であるという顔を装わなければならなかった。労働の妨げとな
るフリルは断念し、一見、そのへんの中産階級と変わらない、ただ服地が高価なだけの背
広で身を隠した。自らダンスに興じることもなくなり、歌舞音曲はコンサートホールで楽
しむばかり。お洒落の快楽を女に譲り、男はめかした女を連れて歩くことで間接的にステ
イタスを主張した。そのことが女性への敬意を高めたのか、所有欲を増長したのかは知ら
ないが、見るからに訓化された男性の姿がポピュラーになったようだ。
こうしてハイクラスのファッションが抑制される一方で、みすぼらしかっただけの下層
には、ささやかながらお洒落を楽しむ余裕が生まれる。大量生産が安価な衣服を供給し、
カラフルなシャツを着ることも、いいかげんな服装でいる気楽さも覚えていった。ただし、
針の穴から秩序の階段を目指す上昇志向の男は、カラススタイルによる「誠意」の表明を
よぎなくされる。自由という言葉の氾濫ほどには、男は自由にならなかった。
近代化の怒涛は、男たちから外見上の艶やかさを奪ってしまったようだ。それが単に外
見だけならいいのだが、長い尾羽を切り取られたオス鳥でないことを祈るばかりである。
1-5 多種多様な“美
17
いままでは、「世間一般的」な“美”を取り上げて追ってきたが、世界には顔を加工して
きれいなものに創りあげるのではなく、また違った視点で“美”を認識している人たちが
いる。世界にはさまざまな“美”があるが、こ
こでは一度は耳にしたことがあるであろう「首
画像 1-19 首長族
長族」と「耳長族」を取り上げる。タイ北部、
ミャンマーとの国境近くで、
「首長族」と呼ばれ
る人たちが住んでいる。この辺りは山岳地帯で、
少数民族の村が点在している。首長族もそんな
少数民族であるが、首長族というのは民族の名
前でない。カレン族などの一部が、女性の首を
長くしていたために、そのように呼ばれるよう
になったのである。彼女たちの民族衣装を見れ
出典:Thaismile.jp
ば、民族的にはどこに属するのかはすぐ分かる。
「首長族」という名称はよくないのではないかと言われたことがあったが、現地でも
「Long-Neck People」と呼ばれている。首を長くするためにつけている首輪は、実は 1 本
の真鍮でできたコイル状の輪である。彼女たちは腕や
画像 1-20 耳長族
足にもこの輪を巻いている。なぜ、このような首輪を
巻く風習が誕生したのか、その由縁には諸説がある。
例えば、虎に食べられないようにするためとか、村の
外に逃げていくのを防ぐためとか、ただのお洒落だと
かである。首輪はかなり重く、3~4kg くらいある。腕
輪足輪もそれぞれ 2kg くらいあるので、逃亡防止説が
かなり有力である。村はジャングルの中にあるし、川
もあるし、この錘りを担いで村の外に出るのは大変で
ある。しかし、現在は逃亡を防ぐためにこの風習が続
いているわけではなく、女性たちは純粋にお洒落とし
出典:手のひらの中のアジア
て、好んで首輪をしている。ここでは首輪をして、首
が長いほど美人なのである。首輪は 5 歳くらいからつ
け始め、徐々に長い首輪に変えていく。それで、年老いた女性ほど首が長くなっている。
また、首長族と村を接して、耳長族の村がある。耳たぶを大きく、長くし、その耳たぶ
に穴をあけ、円盤形の大きなイヤリングをはめ込んでいる部族のことである。ここでは、
耳たぶに巨大な穴をあけることが美人のしるしなのである。
1-5 まとめ
この章で“美”を追ってきたところ、時代や国(地域)が変わると、
“美”の認識も変化
し、また“美”の認識は多種多様なものであることがわかった。自分では“美”とは思え
18
ないようなものでも、別の誰かにとっては“美”となり得るものが多数存在するのである。
人によって時代によって“美”はさまざまなものに変化し得るものなのである。
第 2 章 トレンディドラマから見る“美”の変遷
2-1 トレンディドラマとは
トレンディドラマとは、都会に生きる男女の恋愛やトレンドを描いた現代ドラマ(ゆえ
に「トレンディ――」)のことである。配役はドラマ製作の時点で、演技や芸能活動が活発
であり、美男美女、もしくは目立った個性が、視聴者に極めて好意的に受け止められてい
る俳優や歌手、タレントが起用されることが多い。女優では浅野ゆう子、浅野温子の『W
浅野』や中山美穂、山口智子、鈴木保奈美が活躍し、俳優では三上博史、柳葉敏郎、陣内
孝則、石田純一、江口洋介などが特に活躍した。現在ではトレンディドラマという用語自
体はほとんど死語と化し、年月の経過と共に『トレンディ』と見られる価値観そのものも
大きく変化しているが、トレンディドラマ同様の特徴を持つドラマは今もなお多数製作・
放映され続けている。また、トレンディドラマという言葉でドラマを呼ぶ以前にも、
『ハー
フポテトな俺たち』
(1985 年)がこの特徴を持つドラマであったとされるが、
「いまを思え
ばトレンディドラマの先駆けだが、かなり早すぎた。」と言われている。
基本的に、バブル景気時代の女性の願望を具現化した作品群であり、恋愛主体の少女漫
画の王道に準じた点もある。一時期、トレンディドラマ全盛の時期には主に男性から批判
されることも多く、当時のドラマが極端にトレンディドラマへ偏っていた点は否めない。
ただし、従来の多くのドラマが男性の願望主体に傾倒していた(バブル以前のメディアで
は、このことは当然であったため、男性にはその自覚はない)のであり、テレビ番組に女
性の視点が強く反映されるようになった過渡期に現れたため目立っただけだという意見も
ある。ゴールデンタイムに放送し、視聴者は最も視聴率の取れる主婦、OL 層、社会人層を
ターゲットとした娯楽作品。当時の『F1 層』
(20 歳~35 歳であった新人類世代の女性)が
ターゲットで、低年齢者や高齢層はあまり対象とされていない。
2-2 トレンディドラマにおける主要キャストからみる“美” の変遷
ここでは、その時代の顔ともとれるトレンディドラマの主要キャストを見ていくことで、
当時どのような“美”が主とされていたのかを見ていく。20 年間という短い間で、人々の
“美”に対する認識はどのように変化していったのか。
以下に主なトレンディドラマのタイトル、放送年、出演者を表にして記載し、また、ド
ラマ放送時の出演者の画像を見比べ、どのような変化があったのかを記述していく。
番組名
放送年
出演者
19
ハーフポテトな俺たち
1985 年
中山秀征、香坂みゆき
金曜日の妻たちへⅠ~Ⅲ
1983~1985 年
古谷一行、いしだあゆみ、石田純一
男女 7 人夏恋物語
1986 年
明石家さんま、大竹しのぶ
君の瞳をタイホする!
1988 年
陣内孝則、浅野ゆう子、柳葉敏郎
君が嘘をついた
1988 年
三上博史、麻生祐未
愛しあってるかい!
1989 年
陣内孝則、小泉今日子、柳葉敏郎
東京ラブストーリー
1991 年
鈴木保奈美、織田裕二、江口洋介
101 回目のプロポーズ
1991 年
浅野温子、武田鉄矢、江口洋介
もしも願いが叶うなら
1994 年
中山美穂、浜田雅功
ロングバケーション
1996 年
木村拓哉、山口智子
バージンロード
1997 年
和久井映美、反町隆史
魔女の条件
1999 年
松嶋奈々子、滝沢秀明
やまとなでしこ
2000 年
松嶋奈々子、堤真一
美女か野獣
2003 年
松嶋奈々子、福山雅治
花より男子
2005 年
井上真央、松本潤
プロポーズ大作戦
2007 年
山下智久、長澤まさみ
ドラマの出演者を追って見ていくと、特にヒロインの顔に 2 点変化が見られる。画像を 4
枚掲載するので、画像を見ながら比較してほしい。
画像 2-2 東京ラブストーリー
画像 2-1 金曜日の妻たちへ
(1990 年代前半)
(1980 年代)
出典:BS-TBS
出典:TI-DA
画像 2-3
画像 2-4 美女か野獣
ロングバケーション
(2000 年代)
(1990 年代後半)
20
出典:Yahoo ショッピング
出典:amazon
1 点目にあげられるのは、髪型である。1980 年代のドラマでは、前髪がカールしまとめ
られている。また、現在ではほとんど見かけなくなった 1 本の三つ編みの髪型も多く見受
けられた。1990 年代のドラマでは、80 年代とは異なり、まっすぐに伸ばされた前髪で、短
くカットされているのが特徴である。さらに言うと、その前髪は浮き気味である。現在で
は、浮いてしまう前髪は女性の最大の敵とも言える髪型である。2000 年代に入ると、いわ
ゆる「現在風」の髪型であり、ナチュラルに分けられた前髪と軽くパーマ、もしくはカー
ルがかかった髪型である。そして、どの年代にも言えることだが、女優はみんな長さは違
えど同じような髪型をしている。まさに、“美”の認識が時代ごとに全員共通のものになっ
ている証である。
2 点目にあげられるのは、眉である。眉は女優だけではなく、俳優にも同じような傾向が
うかがえる。1980 年代、1990 年代前半ではほぼ手付かずの眉である。そのままかあるいは、
元の形を変えずに整えている程度である。また、眉の濃さも変えずにいるため、顔の中で
も強調されて見えている。1990 年代後半に入ると、眉が少し細くなっているように思われ
る。元の形から少し細くし、整えられている。2000 年代に入ると、眉は元の太さよりも、
だいぶ細く整えられ、また眉の濃さも薄くなっている。そして、自分の眉で完成形をつく
るのではなく、アイブロウ(眉をかくペンシル化粧品)を使用して、理想の形にしている
場合が多い。元の眉はおそらく非常に細く薄く、化粧でつくりあげている人が多い。
以上の 2 点が、20 年間のトレンディドラマのキャストからうかがえる大きな“美”の変
遷であった。女優ということもあり、元々整った顔立ちの人が多く、2000 年代までは、化
粧はベースメイクとリップメイク(口紅)しかしていない人がほとんどであった。2000 年
代に入ると、眉を加工し始め、そして多少ではあるが、アイメイクもする傾向にあった。
第 3 章 美容整形
ここでは、近年世界各国で広まっている「美容整形」について論じていく。今日、“美”
を求めるあまりに、化粧の枠を飛び越えて、顔自体を変えてしまう人が増えている。以前
よりも、金銭的負担が少なくなったこともあるし、また、手軽に行えるようになったこと
が広まった大きな理由であると思われる。
3-1 美容整形の起源
美容整形と形成外科の原点は同じところにあり、紀元前6世紀頃の古代インドと言われ
ている。そこでは「スシルタ」と言う名前の医者がいた。その医者が造鼻術を実践していた
と言われているようである。この技術はギリシャやローマにも伝播し、
ルネサンス期の 1597
21
年にはイタリアのタリアコッティが形成外科の教科書を執筆している。19 世紀までには技
術的な進歩を遂げ、続く 20 世紀には、2 つの世界大戦を通して、形成外科は「医療」として
確立することに成功した。美容整形の歴史としては、1845 年に世界初の近代的な美容外科
手術が行なわれたことが重要になる。当時、ヨーロッパにおいてユダヤ人の顔は嫌われて
いた。その理由としては、当時のヨーロッパの美しい顔といえば「ギリシャ・ローマ」的な
顔だったからである。この人種偏見の中でユダヤ人がより良く生きるために、ここで得た
戦傷を修復する技術が美容整形に応用されることになった。また、美容整形は日本にも輸
入された。日本には昭和初期にヨーロッパから美容整形に関する技術が紹介されている。
第二次世界大戦後、日本では昭和初期にヨーロッパから技術が紹介されたことによって、
美容整形が始まった。戦後はヨーロッパやアメリカ人への憧れもあり、高い鼻、美しいス
タイル、はっきりした目元を求める女性が増え、美容整形業界はシェアを広げていった。
美容整形のシェアは 21 世紀になって、どんどん広がっていて、その理由は大きく分けて 3
つある。1 つ目はプチ整形、2 つ目は男性、3 つ目は高齢者である。現在ではプチ整形とい
う簡単な美容整形の手法があるので、美容整形がより身近なものに感じられる。また、昔
は美容整形を受ける人間は若い女性だけだったが、今では「男性も美しくあるべき」という
考え方を持つ男性や「老後を美しく、良く生きる」という考えを持つ高齢者による美容整形
も増えている。美容整形の始まった当時の考え方が美容整形の発展に大きく影響を与えて
いるのである。
3-2 美容整形が必要とされる理由
美容整形が必要とされる理由は主に2つあり、昔からあった形成外科的な意味でけがの
修復技術、これが進化して、より、人間として自然な姿への修復という意味で美容整形が
必要とされるケースが一つである。もう一つは、現代美意識の中で「美」の範疇から外れ
ると思い込んでいる人々が、少しでもその「美」に近づきたいと外科手術を希望するケー
スである。美容整形では、現代でも両方のケースが存在しますが、世間一般に認識されて
いるのは後者の「美」の追求のケースである。単なるけがの修復でも、今は日常生活に不
便だからというだけでなく、やはり、人間として美しくありたいという願望もある。特に
今の世代が「美」の象徴としているのは「トップモデル」や「目鼻立ちの整ったスリムな
有名女優」である。昨今は男性でも女性でも、そうした「美」にお互いの価値観を置くこ
とが多いので、最近は男性も美容整形に関心を持つ比率が急増している。美容整形を訪れ
る人の多くは女性であるが、上記のような傾向で、男性も増えている。「美」の範疇から
外れるということは、「美」に重い価値観を置く人々にとっては重大な問題であり、自尊
心の喪失、生きる意味や目的の喪失など、心理面に影響する重大な問題を抱えるケースも
増えている。そうした人々は、多くの場合、この問題を放置することで鬱病やひきこもり、
人間不信、対人恐怖症など、日常生活に支障をきたすほど、大きな問題を抱え込んでしま
うケースがある。一時期、テレビ番組で美容整形を取り上げたシリーズが高視聴率を記録
22
したのも、「失われた美の回復」というテーマが人々の関心を呼んだからである。似たよ
うな番組は世界各国で放送されている。美容整形が必要とされるのは、人それぞれの価値
観の中で、上記のように「美」に関して重大な問題を抱えてしまう人々も多いという現実
があるからである。しかし、上記のようなケースは、現代的な「美」の範疇から外れてい
るだけなので、その「美」に近づけてさえあげられれば、つまり、外科的手術で「美」を
作り出せれば、心理的な問題も解決することが多いのも事実である。現に、自分の希望す
る美容に近づけた人はほとんど、失った自尊心や生きる意欲などを取り戻し、笑顔が見ら
れるようになったという報告がほとんどである。美容整形の必要性は上記のような必要性
から、日々需要が増してきている。
3-3 美容整形のニーズの変化
美容整形は、欠損した人体の部位を、なるべく欠損前と変わらない状態に戻すことが最
初であり、社会的な事情と本人のメンタル面を考慮しての外科手術が主であった。顧客の
メンタル面を考慮するというのは現在も継承されていて、やはり、高い費用を払ってまで
美容整形手術を受けようとする方は、それなりにコンプレックスや、社会生活において不
自由さや自尊心の欠如というものを内面に抱えている。美容整形は費用が高いということ
もあるが、昔では「親からもらった身体に傷をつけるなんてとんでもない」という考え方
も社会通念にあったことから、自分の容姿にコンプレックスを抱え、非常な苦痛を抱えな
がらも、なかなか美容整形の敷居を踏めないという、言ってみれば、美容整形の敷居は非
常に高かったのである。美容整形を訪れるには、お金があって、なおかつ、「社会からな
んと言われようともキレイになるんだ」という固い決意が必要だった。美容整形はこれま
で保険が使えなかったため、完全自由診療で費用も高額になるのが一般的であった。確か
に、現在でも保険適用外の外科処置は多く、現状、美容整形手術は自由診療ということが
できる。しかし、乳癌摘出手術後の乳房再建術などは保険が適用になるケースもある。ワ
キガの治療でも保険が適用になるケースもある。これまで、まったくの自由診療であった
美容整形に保険適用の分野ができてきたということは、一つの光明といえる。また、全体
的に需要が高まるにつれて、完全自由診療とは言っても、昔と比べるとレート自体が下が
り気味になっているのも事実である。美容整形はこれまで大きな手術を必要とする要望が
大半を占めていた。高額な医療費を支払ってまで受ける手術である、脂肪吸引やフェイス
リフトなど、技術開発の問題もあるが、やはり、身体にメスを入れて美容整形するのが一
般的であった。ところが、現在はいろいろなハイテク医療機器危機が開発されて、ほとん
どメスを使わなくても、つまり、身体に傷を残さなくても外科手術が受けられるようにな
った。そのため、「全身のスタイルや顔をモデルのように美しく」という憧れから、もっ
と現実的に、肌を白くしたい、毛穴を引き締めたい、ワキガの問題を解消したい、顔の皺
をとって若返りたいといった、個人個人の要望に美容整形が応えられるようになった。美
容整形外科クリニックにはこのため、様々なメニューが増えた。昔からある皺取りや脂肪
23
吸引にもいろいろな手法が取り入れられ、比較的リスクの少ない手術法も開発されている。
また、「気軽にイメージを変えたい」という理由で「プチ整形」という外科手術を受ける
世代が増えたのも最近の傾向である。一重まぶたを二重にするなど、昔なら「そんなこと
で?」と思われそうなことも、今では本人に与える心理的影響から、決して軽視されるこ
となく、きちんと美容カウンセリングも行なわれるようになっている。
3-4 美容整形におけるランキング
美容整形におけるさまざまなランキングを以下に記述していく。
3-4-1 国別ランキング(2009 年)
美容整形市場における美容医療施術件数の国別ランキングでは、1 位がアメリカ(303 万
件)
、2 位がブラジル(248 万件)
、3 位が中国(219 万件)であった。日本は、6 位(74 万
件)という結果であり、美容整形大国といわれている韓国(7 位、66 万件)よりも、件数
では上回っていた。しかしながら、人口に対する比率でみた場合は、やはり韓国がトップ
なのである。
3-4-2 美容整形治療ランキング(2013 年 1 月)
「気になる!美容整形」サイト内による、美容整形治療人気ランキング(2013 年 1 月)
は、第 1 位が目元であり、くっきりパッチリ、二重まぶたや希望のアイラインにするため
に行われるそうだ。第 2 位が鼻であり、鼻筋を通してメリハリのある顔立ちにさせるため
に行われ、第 3 位は、しわ・たるみの除去である。
3-4-3 美容整形でなりたい顔ランキング(2012 年)
美容整形「高須クリニック」の高須幹弥院長は、「美
画像 3-1 板野友美
容整形でなりたい顔ランキングベスト 60 女性編」
(同院
調査、2012 年 4~6 月度)の結果を発表した。
1 位は AKB48 の板野友美だった。高須院長のブログ
によると、板野については「ギャルの間では圧倒的な人
気を誇ります。総選挙前から多かったのですが、選挙が
終わってからますます増えたように感じます」と高評価
を下した。AKB48 の中で、最も商品価値が高いとも評
価しており、「ともちんの顔のようになりたい」という
女性がたくさん来院するのだという。
2 位はトリンドル玲奈で、高須院長は「ハーフなんだ
けど、堀の深い目鼻立ち、高くて尖った鼻、シャープな
輪郭といった白人特有のきつい感じがなく、日本人の庶
24
出典:Google+
民的な可愛い女の子に近い顔立ちをしているので、みんなから愛されるのだと思います」
と分析している。その上で「同じハーフタレントのベッキーさんや長谷川潤さんやローラ
さんにはない癒しの魅力があります」と魅力に踏み込んでいる。
TOP10 は以下の通りである。
1位
板野友美(AKB48) 2 位
3位
佐々木希
4位
キム・テヒ(韓国人)
5位
安室奈美恵
6位
益若つばさ
7位
沢尻エリカ
8位
菜々緒
9位
浜崎あゆみ
10 位
ユナ(少女時代)
トリンドル玲奈
3-5 まとめ
世界青年意識調査 の結果と結びつける。
⇒現在の美容整形の多くは、コンプレックスや自尊心の欠如など心理的影響から行われて
いる。
⇒おそらく化粧も同じである
●黄金比率美人説
カナダのトロント大学の Kang Lee が視覚研究の専門誌「Vision Research」で白人女性
のみを対象にした研究結果を発表した。そこで女性の見た目の美しさは両目の間隔や目鼻
と口の距離が顔全体に占める割合によって決まるという研究結果が発表されている。その
研究結果は目と口の距離は顔の長さの 36%の時に一番美しいと感じられ、両目の間隔は顔
の幅の 46%の時に一番美しいと感じられることが分かった。
ORICON STYLE http://www.oricon.co.jp/
女性がなりたい顔ランキング
Livedoor ニュース http://news.livedoor.com/
世界で最も美しい顔 100 人
TUTAYA ランキング http://www.tsutaya.co.jp/rank/alacarte/movie/090713.html
好きな顔ランキング
美容整形でなりたい顔ランキング
女性はなぜ化粧をするのか
ポーラ文化研究所
女性は見た目が 10 割
ニコニコニュース http://news.nicovideo.jp/watch/nw336841
25
26
27
謝辞
本論文を作成するにあたり、ご協力してくださった皆様に感謝を申し上げます。
28
参照 HP
・美の起源を探る http://www.yy-google.info/
・Infogra.me http://infogra.me/list/10066
・美容整形で人生を明るく http://biyouseikei.mobileappple.com/sitemap.html
・YUCASEE media http://media.yucasee.jp/posts/index/11601
・ヨーロッパ芸術街道 http://www.europe-museum.com/
・読モニュースサイト http://www.gsp.jp/
・BS-TBS http://www.bs-tbs.co.jp/
・Yahoo ショッピング http://shopping.yahoo.co.jp/
・TI-DA http://tamihbo76jackie.ti-da.net/
・amazon
http://www.amazon.co.jp/
・京都産業大学文化学科 国際文化学科 石村裕香
論文
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/ishimura(05-1-29)
・
http://www5f.biglobe.ne.jp/~homepagehide3/zatugaku/kesyounorekisi.html
29
Fly UP