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人生のターニングポイント ―優仁ホームの想い出― 成瀬一郎 鳥取大学

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人生のターニングポイント ―優仁ホームの想い出― 成瀬一郎 鳥取大学
人生のターニングポイント
―優仁ホームの想い出―
成瀬一郎
鳥取大学・医学部・保健学科・教授
アゼリア会設立 50 周年、おめでとうございます。私は、昭和 46 年 4 月から
昭和 47 年 2 月末まで、優仁ホームで働かせて頂きました。たった 11 ヶ月の勤
務です。そんな私が、ここに想い出を書かせて頂くことは、何か出しゃばった
ようで、長年お勤めになられた方々に失礼ではないかと恐縮しております。
私は、昭和 46 年 3 月、大学 3 年を終えた時点で休学し、東海林隆次郎先生(戦
後まもなくの頃、アゼリア会の木場の方に勤務され、退職後、大学・大学院へ
進学し、北海道大学理学部で助手をしておられた)の紹介状 1 通を持って、札
幌から、肩まで伸ばした長髪姿で、引越しの荷物を入れたリュック1つを担い
で、美山苑苑長の中山三男先生のご自宅に突然押しかけました。さぞ、ビック
リされたことと思います。その時の中山先生の言葉、
「しょうがないな~。もう
大学休学してきちゃったの~。参ったな~。もう引越しの荷物持ってきちゃっ
たの~」、呼び寄せた村田さんと話しながら、「まあ、明日から優仁ホームで働
けばいいよね~」と村田さんに同意を求めておられました。
と言うことで、翌朝、優仁ホームの事務室へ行き、出勤して来られた大きな
耳の藤沢さんに、
「今日から働きます成瀬一郎です。宜しくお願いします」と言
ったら、
「そんな話し聞いてないよ!!」とのご返事。昼近くなって、優仁ホー
ムの中西寮長と中山苑長が話しあって、正式に、採用が決まりました。私の宿
舎として、優仁ホームの 2 階にあった 2 畳くらいの隔離室のような個室を頂き、
優仁の布団も借りました。若さゆえの、無鉄砲な行動で、今では信じられない
採用のされかたでした。
当時の同世代には、小坂さん、平沢さん、藤田さん、片山さん、西川さん、
鳥越さん、知念さんがいました。私の退職後に笈川さんが採用されました。私
は保父として、障害者のケアをしたり配膳したりしました。配膳の準備ができ
ると、カランカランカランと鐘を大きく鳴らして、
「ご飯ですよ~~」と知らせ
て回るのが、K 君の毎日3度の日課でした。配膳後、余ったご飯で塩だけのおに
ぎりを作り、「欲しい人は取りにきてくださ~い」と言うと、T さんを先頭にし
て行列ができていました。空き時間には、M 君と畑を耕したり、Y 君とキャッチ
ボールをしたりしました。優仁ホームの全館放送で、
「今から、グランドでボー
ル蹴りをします」と放送すると、15 名から 20 名くらいの人達が飛び出してきて、
輪を作りボール蹴りをして遊んだりしました。全館放送といえば、何かの連絡
事項の前に、ちょっと思いついた川柳を入れたら、I さんが、評点付けてから、
「俺は、こんな川柳を作ったよ」と見せてくれました。
カランカランカラン!!
トミー、行くぞ~~。
ごはんですよ~~!
大石さんの竹薮から竹を 2 本貰ってきて、M 君と両肩に担いで、エイホウ、エ
イホウと掛け声を出しながら運んできまして、これで中庭に布団干しの欄を2
つ作りました。これは誰も褒めて呉れませんでしたが、西川さんが黙って布団
を干していましたから、結構好評だったのではないかと思っています。また、
中庭に花壇を造ろうと鋤鍬を出してきて掘り出したら、「そんなんじゃダメ
だ!」と、造園の経験のある T さんが、率先して、花壇を 2 面造ってしまいま
した。私は、ホーホーと感心しながら T さんの助手になりました。
M 君と裏の荒れた畑を耕して、近所の養鶏所で鶏糞を貰ってきて撒きましたが、
その年のジャガイモは不作でした。これが生まれて初めて農作業でした。しか
し、翌年は豊作だったと聞き、1 年経ってから鶏糞の効果が出たのだと信じてお
ります。ただ、買い物や諸用に使う車に鶏糞を乗せたので、車が臭くなり、こ
れは不評だったことでしょう。それでも、止めろとは誰からも言われませんで
した。ただ、川又さんが、
「運転免許証を取ってからにしてくれよ」と注意して
下さいました。
エイホウ、エイホウ。
ある日、K 君が入所してきまして、中西寮長から、「K 君のケアを任せる」と
言われました。彼は自分で食事もできず、話すこともできませんでした。最初
は、スプーンで食べさせていましたが、スプーンを持たせて自分で食べるよう
に訓練すると、意外に早く自分で食べられるようになりました。また、朝食後
しばらくすると、大きな立派な大便をするので、朝食後少し時間をおいて、ト
イレに連れて行けば排便できることがわかり、ずいぶん寮母さんの洗濯が楽に
なったことと思いました。当時は知りませんでしたが、これは胃・直腸反射だ
ったのですね。
小児麻痺後遺症の A 君が、ベッドで寝たきりでいました。A 君とは結構、話し
がはずんで、運動したいと言うので、例の大石さんから貰った竹を組み立てて、
ベッドの上に枞を作り、足にヒモを引掛けて、自分の手でギューと引っ張ると、
足が上がる簡単な装置を作りました。A 君は、結構喜んでくれていましたが、寮
母さんから、ベッドメーキングがしにくいと言われ不評でした。
そもそも、何故、優仁ホームで働きたいと言い出したかと申しますと、私の
大学 2-3 年生の頃は、大学紛争真っ盛りで、毎日のように、石を投げたり、ゲ
バ棒を振るって、機動隊や他勢力と闘っていました。その大学紛争も終焉期を
迎え、
「明日から授業再開します」と言われても、素直に講義に出る気がしなか
ったのです。
「つい先月までバリケードで封鎖していた校舎で、急に、勉強なん
かできるかよ」と言う思いでした。同時にその頃、自分のこの無気力さや虚無
的な心を、どうにかしないと、生きて行けない気になっておりました。そのた
めに、自分の甘ったるい人生と対極にある厳しい人生をおくっておられる心身
障害者と真正面から付き合ってみよう思ったのです。
優仁ホームでの仕事は楽しく、今までの無気力さは消え、積極的に行動でき
るようになりました。職員の皆様には、本当に可愛がって頂きました。中山苑
長、中西寮長、楚々とした水上さん、不思議なくらい親切だった青木さん、息
子に接するようにして下さった小沢さん夫婦、常盤さん、村田さん、大石さん
らに。何故、こんなに可愛がって貰えたのか不思議です。前にも後にも、こん
なに他人から可愛がられた時期はありません。若さゆえでしょうか。あの時代
は、まだ若者には前途洋々たる将来があると信じ、若者が好き勝手なことをし
ても許す寛容な時代(あるいは寛容な職場)で、今のように、若者が何をする
か解らないと警戒する時代ではなかったのでしょう。運転免許証を取る練習の
ために、中山苑長の車を時々借りて練習していました。苑長に断わられたこと
はありませんでした。大石さんが「苑長の車、洗いなよ。車を借りたら洗車し
て返すのが常識だろう」と言われ、
「それもそうだな」と気づいて洗車していま
した。さすがお坊さんだけあって、世間の常識とかコミュニケーションの方法
を上手に教えて下さいました。ある時、美山苑の職員室で、中山苑長はじめ数
人で、中西寮長を批判しあっていました。中山苑長が、私にも同意を求めてく
るので、その時、私は「中西寮長のことを悪く言わないで下さいよ。僕の上司
ですから」と返事したことがありました。それで、中山苑長は黙ってしまいま
したが、この返事の仕方によって、私を信頼できる人間として見て下さったと
感じました。
1年という短い日々でした。居心地が良く、このまま大学を退学して、優仁
ホームに居座ろうかとも思いましたが、中山苑長、青木さん、川又さんが、
「後
1 年で卒業できるのなら、卒業しておいでよ。また勤めたかったら、必ず採用す
るから」と諭されて、結局、3 月に札幌へ戻り、1 年後に卒業しました。
私は中学・高校時代を受験専門の男子校で過ごしたためか、女性に免疫がな
く、やたらと惚れっぽい性格で、美山で多くの恋もしましたが振られてばかり
でした。そんな中で、西川千枝子だけが、私を振らないでくれました。優仁ホ
ームを去ってから、1 年間、札幌と八王子との遠距離恋愛の末、2 年後に結婚し
ました。
大学卒業後の就職の選択肢の1つに優仁ホームもあったのですが、結局、森
下製薬と言う会社に入社しました。薬の催奇形性の研究をするためでした。し
かし、企業と言うのは、社員個人の希望どおりの職には付かせてくれないもの
で、滋賀県の研究所で新薬の毒性試験を担当しました。それで「自分の初志で
ある先天異常学を研究するのだ!」との強い意志のもとに退職して、名古屋大
学の研究生になり、正式に先天異常学を学び始めました。これが 28 歳の頃です。
すでに長男も生まれておりました。その後、愛知県心身障害者コロニー発達障
害研究所、国立水俣病研究センター、京都大学医学研究科・附属先天異常標本
解析センターなど7つの職場を転々とし、平成 12 年から米子市にある鳥取大
学・医学部・保健学科に落ち着きました。このように転々としながらも、研究
テーマだけは先天異常から離れないようにしてきました。
長男は、昔、私が闘っていた相手の警察官になりました。次男は、再チャレ
ンジで、2つめの学校へ通い、今春、30 歳にして新米の理学療法士になり、米
子市にある鳥取県立皆生小児療育センターで心身障害児(者)のリハビリテーシ
ョンを職業にする予定です。私も家内も還暦を過ぎました。私の人生のターニ
ングポイントになった優仁ホームでの心身障害者の皆様とのお付き合いを思い
返しながら、息子達の人生を眺めると、これも人生の綾なんだろうなと思う日々
です。
すでに故人になられた方々も含めて、お世話になった皆様に、この機会に、
心より感謝を申し上げたいと思います。有難うございました。
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