Comments
Description
Transcript
中国美術の源流・台北国立故宮博物院 - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE Title 中国美術の源流・台北国立故宮博物院 Author(s) 重藤, 威夫 Citation 研究年報, (13), pp.1-24; 1972 Issue Date 1972-03-31 URL http://hdl.handle.net/10069/26383 Right This document is downloaded at: 2017-03-31T18:52:13Z http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp 美術の源流・台北国立故宮博物院 1 中国美術の源流・台北国立故宮博物院 重 藤 威 夫 目 次 一、国立故宮博物院の成立の歴史…………・・……・……・・…………・1 二、国立故宮博物院の収蔵品…………・…・…・…・・……………・……4 三、故宮博物院の前景……・…………・・…・……………・・……………5 四、甲骨文字・………………・…一……………・…・・……………..._7 五、玉 器……・・…………・…・…・…………・・……・…………・…・8 六、緯糸・刺繍…………・……………………・……・・…………・……ll 七、青銅器・金文……一…………・……・・…………・…・……・………16 八、絵 画…・…………・…・……一…………・…・……・…………19 習研究社発行「国立故宮博物院、緯糸、刺絹」中の写真版を複写転載することを同社より 容されたことを感謝する。 真撮影については東南アジア研究所山田英世氏を煩わしたことを感謝する。 1 国立故宮博物院の成立の歴史 瑛術の源流ならびにその世界最大の渕叢を求めようとすれば,台北の国立故宮博物 2 院を訪ねるほかはない。故宮博物院の成立までの歴史的過程は,中国の歴史が古いよう に,かなり古い時代まで遡らねばならぬ。 元来中国美術品は昔から,もっぱら歴代王朝の宮廷内に秘蔵されて来た。中国有史以 来,唐時代(西紀618−906,以下数字は西紀を示す)までの宮廷の収蔵品については,文 献的に調査することは困難であるが,北宋(960−l126)以後の官幣の収蔵品ならびにそ の変遷の歴史については文献的に知ることができる。北宋の徽宗皇帝の勢和2年(l120) に,「宜和書譜」と「宜和画譜」とが編修された。この二書は北宋の宜和年間(1119−25) に宮廷に所蔵された書画の目録である。この中の零点かの書画で,現在,故宮博物院に所 蔵されているものがある。 魚鋤宮廷所蔵の貴重な書画は l126年に金の侵略に会い一部は金軍に掠奪され,一部は 民間に散快した。それらの散侠したものは南宋王朝(1127−76)によって買戻され,収集 された。南宋が滅びた後は,諸文物は元朝(1277−1367)の所有に帰し,それらは南宋の 首都臨海(杭州)から海路大都(今の北平)に移された。 元が明(1368∼1643)に亡ぼされた後は,元宮廷の所蔵品は明朝の所有に帰し,明の将 軍徐達はそれらの文物をすべて南京に運んだ。明の第3代目の皇帝成祖(在位1403−24) が首都を北平に定めた後は,南京から北平に移された。明の滅亡(1644)後は,所蔵品は すべて清朝(1644−1911)の所有に帰した。清朝第6代の皇帝,高宗(1711−99)はシナ の文化史上偉大な功績を残した英君である。彼は学問,芸術を愛好し,民間に散侠してい たおびただしい数に上る諸美術品を宮廷に多数買戻し,その収蔵を著るしく豊富にした。 彼は別名を細砂帝と呼ばれ,1736年から1795年まで在位した。その間対外的には朝鮮,ア ンナン,ビルマ,シャムなどを朝貢国として勢威を振い,対内的にはシナの学術史ならび に文化史上不滅の価値をもつ四庫全書を編集し,シナ学術史上輝かしい一大金字塔をうち 建てた。彼の多数に上る遺愛品は故宮博物院中にとくに一室を設けて陳列してある。その 中に英国のエリザベス女王(1558−1603)時代の金貨が数個陳列されていたのが注目に価 するが,それが如何なる経路で入手されたものかは明かではない。 四部全書は18世紀の後半,高宗が中国の重要な書籍を集め筆写させて作った一大叢書で ある。79,070巻から成っている。四庫の意味は,中国に古くから行われた書籍の分類法 であって,経・史・子・集の4部のことである。 清朝宮廷収蔵の大部分は,北平の清朝の故宮に保存されているが,またかなりの数の書 画が,藩陽の故宮,熱河の避暑山荘ならびに北平西方の円明園離宮などにあった。しかし 円明園に収蔵されていたものは,成豊10年(1860)に英仏連合軍によって,焼打にあって 焼失した。 英仏連合軍による円明園焼打事件は1856年に生じたアロー号(Arrow)事件によってひ き起されたものである。この年に広東の清国官兵が,英国船のアロー号の清国入水夫を海 賊め容疑で逮捕したことが,この事件の発端になっている。広東での反英運動になやんで 中国美術の源流・台北国立故宮博物院 3 おり,また1842年に締結された南京条約の改正を望んでいた英国は,同年広西省西林県、で 宣教師を殺害されたフランスと連合して強硬手段をとり,1857年に広東を占領,1858年天 津に迫って,米・露:2国と共に清国と天津条約を締結した。さらに翌年,同条約の批准交 換のために白河口に至った英・仏公使が清国兵に砲撃されたので,1860年英・仏連合軍め 北京攻撃,円明園離宮焼打にまで発展した。この事件は同年の北京条約締結によって終結 した。 円明園以外の右の三ケ所に収蔵されていた書画は,一部の亡失はあったが1911年に中華 民国が成立するまで,大部分のものが保存されてきた。清朝の故宮の収蔵品はそのま㌧保 存されたが,北平の収蔵品を豊富にするために,藩陽の故宮と熟河の避暑山荘に集められ ていたものを北平に移した。これらの尊像と熱河の2ケ所の分を合せて,故宮とは別個に 古物陳列所という建物に収蔵した。したがって中国歴代王朝の宮廷所蔵の美術晶は,清朝 の故宮と古物陳列所のニケ所に集められて展覧されることになった。 民国14年(1925)の双十節に,北平に故宮博物院が成立し,北平の清朝の故宮の全収蔵 品はここに集められた。というのは,清朝の故宮には,三大殿があり,中央に大和殿,中 和殿,保和殿の三殿,左右に文華殿,武英殿に分れていたので,これらに分散収蔵されて いた書画古文物を故宮博物院の1ケ所に集中したという意味であろう。結局,歴代宮廷の 全収蔵品は完全に故宮博物院と古物陳列所の2ケ所に保存されることになった。 民国20年(1931)に満州事変(9.18事変)が勃発するや,中華民国政府は,民国22年 (1933)に故宮博物院と古物陳列品の収蔵野中の貴重品を精選して,巨大な数量の古美術 品を上海に移送した。民国25年(1936)に南京の収蔵庫(中央博物院)が完成したので,す べての収蔵品は南京に移されて,まさにそこを中心にシナ文化史上ならびに美術史上の活 動が初まろうとした。しかるに民国26年(1937)7月7日に盧溝橋で,日四壁国軍の衝 突,交戦に端を発するシナ事変が勃発した。そこで貴重な美術品,古文物の安全を計るた めに,中国の奥地に再び移送しなければならなくなった。貴州省の安順,四川省の楽山と 義媚の三地区に疎開された。シナ事変はさらに大東亜戦争にまで発展したが,民国34年 (1945)8,月15日に日本敗戦の結果,第二次世界大戦は終了した。日本軍隊がシナ大陸か ら引揚げたので,民国36年(1947)にようやく北平に戻ることができた。古物陳列所は第 二次世界大戦終了の後に解散し,その所蔵品と北平に残して移送されなかったものは,北 平の故宮博物院に収蔵された。 1931年の満州事変から第2次世界大戦終了後の1947年掛いたる16年間にシナの貴重な美 術品は 北平→上海→南京→貴州省・雲南省→北平と広大な中国大陸の東西南北にわたっ て長距離を移送され,4回にわたって転々せざるをえない不幸を見ねばならなかった。こ ρような不幸な運命は,世界の文化史上ほかに比類を見ないものである。中国の悠久な歴 史的過程の中において,数度にわたる北境異民族の侵略,それに伴う頻繁な王朝の変動, また近代にいたっては諸外国軍隊による侵略,それに伴って国土が度々戦火にさらされる 4 という不幸な歴史的事実がその根本原因になっている。したがってシナ政府の指導者たち は国宝としての美術品,古文物の安全保存ということに,極めて敏感にならざるをえな い。細心周到な配慮によって,その安全を保持し,貴重な文化的遺産を後代の国民に伝え ねばならぬ責務を負う。これが1931年に満州事変が勃発し,その翌年の1932年に日本軍の 手によって満州国が成立するや,1933年には早くも上海移送に踏切った理由であろう。蒋 介石政府はその後日本の侵略が次第に北平を中心とする北支一帯に及ぶべきことを敏感に も予知したからであろう。その後頻繁な移送はすべて以上の理由に基くものである。この 点は我国は幸にして国内が外国軍隊の侵略によって,国土が戦火に焼かれるという不幸な 深刻な経験をほとんど知らないのである。この度の大東亜戦争における米国のB29による 大量の広範囲にわたる爆撃を除いては,有史以来まったく経験していない。しかもB29に よる爆撃は米国側の文化財を尊重するという配慮によって 史蹟と文化財に富んだ京都や 奈良地方の爆撃は故意に避けられたことは周知の事実である。これは岡倉天心の弟子であ り,日本美術史家として著名なラングドン・ウオーナーの特別の配慮による。民族の文化 的遺産の尊重という点については,今後,我国はシナ政府指導者の態度に学ぶところがな ければならぬ。 シナの古美術品の受難は以上で終ったわけではない。大東亜戦争が中華民国の勝利に帰 した後,不幸にも内乱が起り,またもや古美術品は戦火の危険にさらされることになっ た。民国37年(1948)になると毛沢東に率いられる共産軍と蒋介石の国民政府軍との間に はげしい内戦が起った。第二次世界大戦終了後わずかに3年後である。そこで戦火を避け るたら6に,北平の故宮博物院と南京の中央博物院の古美術品は,民国38年(1949)の初め に台湾に移された。その後10数年聞喪中の郊外に保管されていたが,台北郊外の風景の美 しい士林に近代建築の粋をこらした壮麗な国立故宮博物院が,民国54年(1965)9月に完 成すると共に,そこに全部移された。 (1) 2 国立故宮博物院の収蔵品 故宮博1物院は国父孫文の生誕100年を記念して,民国54年差1965)9月に150万ドルを費 して新築され,さらに民国59年(1970)に大幅な増築がなされ,現在14,197㎡の広さ・をも っている。すべての部屋に空気調節が行われ,防湿,防火,盗難に対して,万全の設備が 施されている。 現代における中国美術品の世界最大の宝庫と称されるだけに,その所蔵品は巨大な数に 上っている。北平の国立故宮博物院から運び出されたものは,2,972箱,230,863点。南京 の国立故宮博物院から運び出されたものは,852箱・U,729点,両院合計,3,824箱・ 242,592点の多数に上る。 の (2) 中共側の発表では「・・…・かれらは故宮所蔵の重要な文化財を2,972個の箱につめて盗み 出し台湾へ運んだ」(人民中国1971年IO月号)とされ,「これは北京に現存する膨大な文化 5 中国美術の源流・台北国立故宮博物院 遺産のごく一部にすぎない」といわれている。一部にすぎないかどうかは我々日本人にと (3) って判断の資料はないが,総数で24万点余に上る古美術品の数量と現在故宮に陳列されて いる多数の優品から考えて,充分に精選されたものであり,美術の各部門にわたって大部 分を網羅したものと考えるべきであろう。 美術品の種類と点数は次表の通である。 (1967年調) (4) 銅器………………・・…・……4,402 資 器 ・… 。・・・・・・・・・・・・… 。・・・・・・… 23,780 玉器…………・……・…・…… 3,894 書画……………・…・・……… 6,411 緯糸,刺繍…・・……………・……… 344 漆 器………………………… 421 王郎…………・・…・………… 1,927 図 書・・……・…・・……・………149,514 文 献…・・… そ の他…・・… 合 計……・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… @ 28,920 。・・・・・・・・・・・・・・・・・・… @ 22,979 ・・・・・・… @。… 。・・・・・… 242,592 これらの巨大な数に上る美術品を一度に全部陳列することはできないので,3ケ月に一 回陳列換をしている。 中国は有史以来4,000年余の悠久たる歴史があり,広大な国土をもっている。現在中共 政府の下にあってもたえず発掘はつづけられている。プロレタリア文化大革命に発掘され た出土品の数種が,中国通信社を経て我国に報ぜられた。それらを次に摘録する。 (5) 1968年に河北省の満城県で発掘された前漢時代(206B.C.一8A.D.)の古墓中に漢代皇 帝と高級貴族の葬服が発見されたgこれらは「金縷玉衣」と称され,各服には2,000余枚の 玉片が金糸でつづられ,上,下の服に仕上げてある。発掘した時は,玉片の大部分が連っ ており,三衣の中の遺体はすでに泥となっていた。現在は加工復元されており,男性の服 装と女性の服装の別がある。 1969年新彊トルフアン県アスタナで発掘された唐代古墓の中から,710年に書かれた朴 天寿手写の「論語両氏注」(長さ520センチ)の一部分が発見された。この「論語鄭氏注」 は,敦煙で発見されたものよりも整っており,書写した時代もそれより二世紀近く古いも のである。 3 故宮博物院の前景 士林の故宮博物院は,背後にうっそうたる樹林に覆われている小丘を控え,左右と前方 はよく開けた広大な地域を占めている。博物院に近づくと,シナ風の石の巨大なアーチが 6 あり,それに額がかかげられていて,次のように書かれている。(写真参照) 孫 公 為 下 天 文 さらに石段を上って行くと,巨大な青銅製と見られる青みがかった黒色の巨大な鼎があ る。 (写真参照)漢語の熟語に「紅鼎の力」という言葉があり,その意味は両腕で鼎を もち上げうる超人的な力ということである、強力な男を表現するのに塵藻虹鼎の力を蔵す などという。宮殿や廟の庭などに備付られている巨大なものは,祭や儀式などのときに香 をたく器として使われる。小さいものは家庭内での食器として,シナ占代から広く使用さ 磯’礁 七難華丁丁吾 ’灘雛撚難灘灘灘臨ド1皆 中国美術の源流・台北国立故宮博物院 7 れた。食器としての青銅製の鼎は,すでに商時代(1766B.C.一l122B.C.)からの遺品 が,多数故宮博物院に陳列されている。 さらに石段を上って,正面玄関に達する。年中無休である。入場の際は,カメラは預け ねばならず,場内での撮影は一切禁止されている。したがってこの論文に写真を多数掲示 できないのは残念である。パリのルーブル美術館では,館内でフラッシュをたかぬ限り, 撮影は自由であってはなはだ寛大である。故宮の場合は創設年代が新しいので,厳重であ るが歴史が古くなると,ルーブルのようになるのではなかろうか。 4 甲 骨 文 字 一階のメイン・フロアの中央に国父孫文の巨大な銅製の坐像がある。三つの壁面と両側 の展示室は,すべて書画が展覧されている。肉筆による絵画のほかに絹糸の細い刺繍によ る絵画が入りまじって陳列されているが,肉眼だけでは全く区別がつかない位に刺繍によ るものは精巧をきわあたものである。 欧米の美術館になくて,故宮博物院にある独特のもの,換言すれば,シナ美術品と古文 物に独特のものといえば,(1)甲骨文字 (2)玉器 (3騨糸・刺繍による絵画の三部門をあげ ることができる。 甲骨文字は一階の東側の第一室にすべてが展覧されている。甲骨文字は1899年に河南省 安陽県単屯で発掘された殿嘘の中で発見されたもめである。 段嘘は殿末;期の盤庚以下10人の王(1,401−1,191B.C.)の首都の遺跡であることが確認 された。李済ら民国学者の手により,1928年から37年にかけて15回に上る発掘が行われ た。巨大な王墓,宮殿のあと,亀甲獣骨,水溝,青銅器,利器,戦車,玉器,象牙細工, 貝製品,白陶など多数の出土品が発見された。 野里から発掘された亀甲,獣骨に漢字の最も古い原型の文字が彫りこまれている。亀甲 は背面ではなく,すべて潮面の甲である。獣骨は大腿骨で,大さから判断すると牛馬の骨 であろう。それぞれ一つの文章を成している。ト笠に関することが多いので,殿町卜辞と いわれる。博物院内の説明文によると,甲骨文の内容は単にト笙だけでなく,当時の政治 上の事件も記録してあるので,中国古代史の貴重な資料でもある由である。室内には100個 前後の亀甲,獣骨が陳列されている。中国における甲骨文の研究は近来著るしく進歩して いる由であるが,これらは貴重な研究資料であろう。 甲骨文については白川静著「甲骨文の世界」が公刊されている。それによれば,前世紀 末に甲骨文が発見されてから,すでに70年になる由である。その間,中国にあっては甲骨 学が著るしく進歩し,漢字の原始形態である象形的文字の甲骨文が解読された。甲骨文の 内容は,(1)股王朝の王室関係 (2)封建制 (3)軍事,戦争 (4)農耕など各方面に及んでい る。 8 5 器 玉 欧米の美術館に見られないところのシナの古美術品の第二のものは玉器である。 古来新彊省や雲南省などの中国大陸の奥地は玉の産地として有名である。玉というのは 美しい石の意味であるが,白玉,青玉(saphire)黄玉,碧玉(emerald),墨玉,ダイ ヤ,ルビー,ヒスイ,メノー,水晶などの宝石類の総称である。 玉は非常に硬いので,彫刻,研磨して器にするのは容易でない。しかしシナでは数千年 来,簡単な道具を使って,多種多様の精巧,美麗な玉器を作った。この技術はシナが世界 に誇っている。玉器は宝石による製品であるために,古来人々の間に珍重されてきた。ま た材料の関係で,その容積が限られ小品が多いので取扱に便である。このような関係で, 昔から莫大な数に上る玉器が宮廷から民間に散侠した。また我国にも昔から多数渡って来 た。それらの渡来品については次の9,10ページに述べる通りである。 玉器は次の三種類に大別される。 e 祭杞品として礼拝の対象とされるもの ⇔ 朝廷で使用される礼器 日 民間の装飾品,喪葬品 玉器が陳列をされている部屋は,二階の東南部の一室をあてられている。古代の商(17 66−1122B.C),周(1122−221B.C)時代から,下って清(1644−1911)の時代まで,各 時代にわたって,多種多様の玉器が200個位陳列されている。これらはこの博物院所蔵の 玉器の3,894点からみれば,極めて一部分にすぎないが,とくに逸品だけを選択して陳列 された様子がみられる。 すべてを紹介することはできないが,その主たるものを次に記す。 (6) (1}商 旧玉圭 1 商(1766B.C.一1122B.C.)時代のものである 「 下 長 さ 30.6佛 五 五 代 ○ 珍平細 敦勾起 N 薩羅 丙 合玉有1 擁翻 ㊥ 最:広幅 7.2伽 厚 さ 1.25伽 二身は細長く,上に一つの孔がある。茶褐色である。一面には蝉 文が彫られ,上に鳥文一筋と象文で「五代五福」の円璽が一つが彫 ってある。 圭は広くして薄い方が上であるが,清の乾隆帝(1736−95)が御 題の詩文を彫らせるのに便利なように,圭をさかさまにして彫って ある。 圭は国内で最高級の爵位をもつ人に授与され,かれらの権力を象 徴する。天子のほか,公,侯,伯の爵位をもつものが所有する 中国美術の源流・台北国立故宮博物院 9 ② 周 旧玉穀紋壁 周(l122B.C.一221B.C.)時代のものであ る。 径26.4伽厚さ0.7伽 器は板状の円形で,中心にまるい孔がある。玉 の色は茶褐色で,両面とも内側に穀文があり, 外側を竜文でかこんでいる。 周礼に壁は朝三六瑞の一つで,圭と同じよう に用いられ,所持者の高い身分をあらわすもの であって,子爵の所持するものとされる。形状 としては直径5寸と定められている。しかし壁の用途は広く,中には祭礼用として山河に 埋沈したり,または贈答に使われることもあった。この器はその寸法の大さにより,必ず しも子爵の所持するものではないと判断されている。規定の5寸より1.7倍大きいのであ る。 古玉器は周時代になって大いに発達した。朝廷に紙誌があって,そこに玉人,彫心があ って,服忌,侃玉,含玉などの玉器を製造し,六端,六器の玉制が完備した。六端とは天 子や,公,侯,伯,子,男爵などの身分をあらわす圭と壁をいうのであって,各種寸法が規 定されている。六器とは天子が天地四方を祭るときの祭杞器をいう。古玉器は我国の遠い 上古にもシナから伝来したといわれる。戦前前田侯爵家所蔵のものに周時代の穀壁と面壁 の2個がある。穀壁は子爵の身分を塗壁は男爵の身分をあらわすものである。一献は米粒 の文様ををあらわし,蒲壁は籠目に編んだ蒲席の文様を彫ってある。この蒲壁は文政元年 (1818)に日向国那珂郡今町村,農夫佐吉所有地の字王之山から掘出された古墳の石棺の 中にあった古玉,古鉄器30余品の中の一つであったことが,前田家の記録に残されている この王之山の古墳は普通の古墳でなく,遠い昔にシナ本土と関係のあった人の墓で,副葬 品として同所に葬られたものであるといわれる。 (7) (3)漢 1日玉喀蝉 8個 0〈◎ この漢(206B.c−A.D’220)の玉器は8個陳列されている.何 / 、 れも長さ4.69伽一6.67粥,幅2.550%一3.45微,厚さ0.5伽一L23伽 くらいの大さで,人の舌感の大さである。ずべて面形をしている。 色彩は青色又は青白色で,しみの部分は茶褐色を呈している。 これは喪葬玉の一つである。中国では人の死後屍体の穴9ケ所 (眼2,鼻2,耳2,口,排泄孔2)におけば,腐朽しないと伝 えられ,玉を殉葬用にした習慣によるものである。古墳から出た 「」(口におく喪葬玉をいう)には蝉形が多い。これはロ中によ く合うように蝉形につくられたものであろう。 10 この喀蝉(漢時代)の一つが現在東京国立博物館に陳列されている。我国に如何なる経 路を経て伝えられたか不明であるが,前掲の蒲壁と同様に我国に遠い昔に中国から伝来し たものであろう。また休館には清時代のヒスイの香炉2個が展示されている。 (4)清 碧玉贅吊花挿 これは清(1644−1911)時代のもので ある。高さ16.7伽,縦3.6伽,横1LO6 磁 魚形で大口,壁が深い。はね上った 大小2匹の大魚が彫られている。玉質 は光沢にみち,色は深緑色である。花 瓶の一種である。口下に蒙書で「乾隆 年製」としてある。 以上はわずかに数例にずぎないが, そのほかヒスイ,メノウ,黒水晶など の宝石を彫刻し,研磨した花瓶,香炉 酒器,茶壺,筆洗器,筆筒などが多数 陳列されている。殊に珍しいのは,美 しい朱色のメノウの筆洗器である。こ れを見た後では,台北市内に市販され ている朱色のメノ田鰻の諸品が,人造 石であることは一目瞭然とする。古代 から近代までの玉器の各時代の代表的 碧玉贅魚花挿「故宮玉器選葦」 (38)より 逸品が,一室に集められ展示されてい ることは壮観である。 中国の玉器はアメリカに移ったものもある。ワシントンにあるフリーア(Freer)美術 館に展示されているものが,数個見られる。 (8) フリーア(1856−1919)は鉄道,自動車で成功したアメリカの産業人である。彼は東洋 美術に深い趣味と造詣を有し,中国・日本を4回訪れ自ら収集した1万点以上に及ぶ東 洋美術品を米国政府に寄贈した。そのコレクションはフリーア美術館の建物内に収蔵さ れ,その中の逸品を展示されている。 中国美術品の部の中に,古玉器として,玉響,玉笏,偲玉2,玉里などがある。 (1)玉壷(Jade Battle−Axe Pi Disc) 股時代(1766B.C−1122B.C.) 径22.5伽 全体に淡黄色で,茶褐色と黒色のしみがある。これは儀式用の玉である。複合形のもの 中国美術の源流・台北国立故宮博物院 11 で,円形の壁と斧のような玉戚という武器に起源があ る。 (9) これは壁と斧との複合形であるが,純粋な斧を具象 した形式の玉戚は,台北の故宮博物院に周時代(1122 −221B.C.)のものが展示されている。戚は武器の一 種であるが,台北のは舞楽器である。(故宮玉器選葦10) (1① (2)玉窟(Jade Covered Cup) 周時代(1122B.C−221B.C) 総高12.1伽 全体に青玉の色彩を呈し,高文が 地文となっている。 窟(れん)というのは化粧品を入 れる壺を意味する。故宮博物院には (11) 戦国時代(481B.C.一221B.C.)の 銅器のものが展示されている。 (② シンガポールのTiger Balm o OOo OO Gardenは註文虎が造ったものであ 00 OOO O 0 OO oOo O◎O OQO OOOo OOOρ 000 o or8 00 0000 0蕊 0000 000 o ooO OOOO OOO6 ρ0 るが,その庭園内の胡文虎の邸宅に 彼が生前集めたヒスイのコレクショ ンが展示されている。約1,000個に 上るヒスイは逸品揃いである。その 屏風,花瓶,彫像など大形,中形, 0 000 ・B ・。。 小形のものが入混って展示されてい て,我々の眼をおどろかす。しかし ヒスイのコレクションとしては,世 界に誇るに足るものであろうが,ヒ スイに限られている点は,故宮博物院に比べて,や㌧物足りなさを感ずる。故宮博物院は ほとんどすべての種類の宝石から成る玉器を集めている点で,何といっても世界第一位の 威力をもつものであろう。一個人の資力と歴代宮廷の資力の相違であろう。 6 繹糸・刺 繍 欧米の美術館に見られないで,故宮博物院に独特のものの第3は緯糸と刺繍である。 緯糸というのは,我国に昔からある綴錦又は綴織と同じく絹糸を織物機械によって,美 しい模様に織上げたものである。西洋ではTapestryの名で知られている。とくにフラ ンスではゴブラン(Gobelin)織として発達した。 Colbert(1619−83)の奨励政策によっ 12 て,ゴブラン織は17世紀後半から国立工場(Manufacture d’Etat)として著るしく発展 した。 西洋のtapestryと緯糸との主な相違点は,前者は毛糸によるものであるから,織目が 後者に比べて粗いことである。tapestryは西洋では装飾用として壁掛に多く用いられ る。この西洋の壁掛の代表的な実例は,昭和45年の万博におけるバチカン市国の展示館に 展示されたものがある。これは我々に強い印象を与えた。ルネッサンスの巨匠ラフアエル ロが1515年頃,ローマ法王レオ10世の依頼で下絵を描きブリッセルで織らせたものであっ て,はじめて海外に持出されたといわれる貴重な美術品である。「使徒の漁り」「テベリ ヤの海における復活のキリスト」「アテネにおけるパウロ」の3点が展示された。また万 ⑬ 国博美術館にはロレト法王離宮から出品されたラフアエルロ作の「足萎えをいやす聖ペテ ロ」 (皿160a)と「犠牲を拒むパウロ」 (皿160b)の2点があった。これは何れも1515− 19年の作品である。前者はタテ4066%ヨコ539翻,後者は405佛×670翻に及ぶ大作である。 qの バチカン市国の3点もこれらと同じ位の大作である。材料の関係であろうと思われるが, tapestryは絹織のものには見られないような大作が見られる。 刺繍は緯糸とよく似ているが,緯糸は織物機械を操作してつくるものであり,刺繍はも っぱら手工芸によるものである。西洋ではembroideryといわれるものである。緯糸は 芸術的観賞用として掛軸或は冊子(album)の形式のものに限られているようである。刺 繍は昔から実用品として衣服,枕カバー,布団カバー,靴の飾りとして発達した面もある が,芸術的観賞用として,緯糸と同様に掛軸,冊子としても発達した。故宮博物院所蔵の 刺繍は179点あるが,ほとんど全部芸術的観賞用のものである。 刺繍の歴史は古く,その起源は上古の伝説的な英雄である帝舜(2255B.C.)の時代ま で遡るといわれる。シナの古典「周回」にも,刺繍の記述が見られる。周礼に刺繍を職と する者の記述があるので,刺繍が宮廷内の専門職として設けられたのは,春秋戦国時代 (722B.C.一221B.C)以前であろうとされている。 1 現在残っている刺繍の最古のものは漢時代(206.B.C−219A.D.)のもので,1906−8 年と1913−16年にイギリスのスタイン博士が敦煙の千仏工で刺繍を発見した。その繍帳 (掛軸に仕立てた刺繍画)の「霊鷲山釈迦説法図」は現在ロンドンの大英博物館に所蔵さ れている。 宋時代には神宗の元豊6年(ユ083)に久しく廃されていた成都(四川省)の山院を再興 した。この院には二二300余人が集められた。また徽宗は崇寧記聞(1102−6)に二二専 科を設けた。次に南宋の初期,高湿の一遍3年(U29)には今の臨二二(今の杭州)にも錦 院を設け,茶馬司,転運司などの官署で種々の高級錦繍をつくらせた。 (1紛 以上見たように,中国の刺繍は上古時代から長い歴史を有し,歴代王朝の宮廷によっ て,王立工場が設けられ,そこを中心として発達したと言いうる。 緯糸は刺繍に比べると歴史が比較的浅く,その技術は南宋(1127−1276)の初期にウイ 13 中国美術の源流・台北国立故宮博物院 グルから伝来した。刺繍と同様にその発達の中心は,宮廷の奨励により官署で織らせたこ とによるであろう。元朝(1277−1367)の創建当時,元朝の名臣鎮海が緯糸の官立工場を 宏州(甘粛省)に設けて天下の名工を集めたが,間もなく西域の織金と縄文(絹織の綾) の回匠(回教徒の工人)300戸あまりを集め,代々織製を担当させた。 (16》 故宮博物院に収蔵されている刺繍と緯糸の数量は他の美術品に比べてその数は少い。 時代別の収蔵品は次の通りである。 qの 刺 繍 緯 糸 代…………・…・…・ 1 宋 70 34 元 3 元 1 明 32 五 宋 明 20 清戸時代…………………123 不明 179 刺繍はその歴史は玉器や銅器と同様に上 古に遡るが,その品質が腐朽,破損し易い ために,その所蔵品を古代にまで遡ること はできない。緯糸はさきに述べたように, その歴史が比較的新しいので,故宮の所蔵 品も宋時代以後に限られるのは当然である。 故宮に緯糸・刺繍が陳列されている部屋 は2階の西側の一室である。緯糸,刺繍室 という掲示がなければ,誰でも普通の絵画 の部屋と思うであろう。緯糸と刺繍とは同 室に陳列されているが,説明文を読まなけ れば両者の区別はつかない。何れも主とし て掛軸であるが,冊子も陳列されている。 美麗な山水花鳥などが多い。仏画もある。 さらに緯糸の中には詩文もある。宋時代 (960−1276)の四大書家,画家の一人,獣 帯の書,七言詩を掛軸にして織出してあ 右の写真は 米帯書七言詩 (44) 〔繍網野慧漸時鷺讐齢副〕 雛及時代・………………・・ 70 不明 175 14 る。(l13×55αの写真参照) 日に仙雲を観て瀬頭に随う 天門の瑞雪は竜衣を照らす 珊箋,綺席は方に終夜なり 妙舞,清歌の歓びありて未だ帰らず (日本文訳) 一階のメイン・フロアには絵画の代表的な大作が多数展示されているが,それらの中に 緯糸と刺繍の大幅が各々一幅つつ掛けられている。小さい説明のプレートを注意して見な ければ,普通の絵画と誤って見るほど,精巧緻密を極めた作品である。 そこにある緯糸はタテ182.7伽ヨコ117.0傭という大幅である。これは新時代のもので 「宋緯糸群仙献寿図」と題してある。美しい色彩で山や海,樹木,24人の仙人などが織出 してある。 (写真参照) 宋緯糸、耕仙献寿図 (41.42) 中国美術の源流・台北国立故宮博物院 15 メイン・フロアに陳列されている刺繍はタテ202.7伽,ヨコ123.3伽という大幅で,清時 代(1644−1911)の作品である。全体に明るい華麗な色彩であって,刺繍の代表作とし て,ほかの絵画の大作と共に陳列するに価するものと考えられる。「清繍線瑠池上寿図」 と題してある。シナ上古に信仰された仙女の一人西王母が仙芝をもち美しい鳳に乗って天 宮からまさに地上に降りんとするのを,仙女が舟で迎える情景が絹地に刺繍されている。 (写真参照) 清繍線瑞池上寿図(51,52) 清心出訴苑長春 これは清時代につくられた刺繍である。絹地で12枚24幅のアルバム形式である。タテ 32.9伽,ヨコ29.8佛の小品にすぎないが,写実的な原画を精巧に刺繍し,原画の趣をよく 伝えている。対副の方には,薄紫色に塗ってから金砂子を蒔き,黒色の繍糸で各体(豪, 16 隷,草,楷書)の七言律詩を刺繍している。(写真参照) 清繍線閲苑長春(部分) (41) 7 青 銅 器・金 文 青銅器文化というのは,古代の石器時代の文化が,鉄器時代に移るまでの過渡期を占め る文化である。古代の文化民族は青銅器文化の時代を多くの場合もっているが,その期間 は石器時代や鉄器時代ほど長くはない。石器時代は有史以前からの悠久たる長い期間があ り,鉄器時代は古代から現代にいたるまで継続しているからである。 輸送機関が発達しなかった古代社会では,その地質的な条件に左右されることが大き い。古代の中国にかなり発達した青銅器文化があったことはその豊富な遺物によって証明 されるが,それは青銅器文化が栄えた古代の周国家が支配した地域即ち中原にかなりの銅 産地があったからである。中国の古銅器はシナの古代文化を象徴している。またこれと同 様の事情は古代ギリシャに見られる。古代ギリシャに高度に発達した彫刻の文化は,その 地域に豊富な大理石が埋蔵されていたからである。 シナの青銅器文化の時代は約1,000年に及んでいる。それは殿代の中期(鄭州期)におこ 中国美術の源流・台北国立故宮博物院 1ワ り,後;期(安陽;期)に絶頂に達し,周代に及んだ。股(商)が支配した時代は1783B.C. ⑬ からl123B.C.までの600余年である。また中国の青銅器文化の時代区分については,白川 (1窃 二二「金文の世界」では次のように区分されている。 中国の青銅器文化は前後約1,000年に及んでいるが,大体次のような時代別がなされう る。 e 股周期300年(1401B.C.一II54B.C.)……神秘的な世界観が支配した時代 口 西周期200年(1122B.C.一770B.C.)……貴族社会の祭器として栄えた時代 日 列国期(春秋・戦国時代)500年(770B.C.一250B.C.)……衰退期に入った時代 古銅器はその制作において殿周;期を最高とし,西周期の古銅器(舞器れいきといわれ る)は,その銘文は中国古代の最も貴重な資料になっている。 ⑳ 金文というのは,甲骨文に対して言われる言葉であると考えられるが,それは主として 西周;期の古銅器に刻印された銘文であって中国古代史の最も貴重な資料である。しかしそ れは甲骨文よりは時代は新しい。甲骨文はすでに股の武丁期(1324B. C.)の甲骨文に長 文の刻辞がある。しかし古銅器については,毅末(U54 B. C.)にいたって,ようやく銘 文を付刻する数器の例が発見されたにすぎない。 ⑳ 殿時代に作られた銘文のある古銅器17個が,台北の国立故宮博物院に展示されている。 これらの17個の例は国立故宮博物院編「故宮銅器選葦」中に取上げられたものの数であ る。故宮博物院所蔵の銅器4,400点点に上る多数の中から選ばれたものであるから,実際 にはもっと多数のものがあると考えられる。またこれらは前記の白川静著「金文の世界」 に書かれているように殿末のものかどうかわからないが,殿(商)時代のものとして展示 されている。 (22} 金文は中国の古代史の貴重な資料であるが,その一例を次に示す。 周代の初期,康王(1078B. C.)の時代に作られた大孟鼎:がある。これは現在,上海博 物院に所蔵されているが,高さ1メートルを超える大鼎で,291字の銘文がある。その銘 文が股周革命即,周が股を亡して周の統一国家をつくった史実を記している。周の国王で ある康王が,執政官の孟に対して与えた,執政上の訓令や御沙汰書をその銘文の内容とし ている。康王治世の23年に孟がこれを作った。 「そこには股の滅亡の理由を,かれらが上下をあげて飲酒に耽り,政治への関心をもた なかったからであるとする。古く神政国家として神を杞り,二二を通じて神入の交歓が可 能であると信じていた殿人の生活は,荒涼たる陳北の山地に質実な生活を営んでいた周人 から見れば,それは酒乱のうちに沈回する頽敗した社会の姿とみえたのであろう。書経に も酒諮という一篇があって,やはりの滅亡を酒乱のためであるとしている。」 1231 その大二二の銘文については解読されて,その内容が明かになっている。その逐語的な 邦訳文は,前記白川静著「金文の世界」に掲載されている。こ\ではその大意を記す。 幽 その第一段には周が毅を亡して天下を統一したのは,天から大命を授けられたことによ 18 るものであるとする。周の国王の代々にわたって天命を受けて地上に明徳を明かにした。 とくに祭杞や儀礼にあたっては,飲酒してもあえて乱れることがなかったので,天上から の保護をうけて天下を統治した。酒乱のことが強調されているのは,第二段に殿の滅亡の 原因が,上下をあげて酒に淫し,天命を顧みなかったたあであるとするとの照応する。鼎 銘に「天の有する大命」といい,また徳経を敬重し,天童を畏れよとする考えかたは,後 に天の思想と呼ばれ,儒教の政治思想の中心をなすものである。 台北の国立故宮博物院に所蔵する西周時代(1122−722B.C.)につくられた銘文をもつ 銅器のうち代表的なものは次の二であろう。 C.)の南征の偉業を称えたもので 、、 る。 (写真参照) ㈱ (2)西周 毛公鼎 Ting, Cauldron, made by Duke of Mao, West− ern Chou Dynasty. 高さ58.3,深さ27.8,口径47.9 ’ll 500字の銘文が腹部の内側にある。 銅器の銘文としては最:も字が多く著 名な銅器である。鼎は食器を意味す 寒 る。 (次のページ写真参照) 〔27} この銘文の大意は次のようなもので ある。 言立が執政者の一人である毛公に対 \㌶ イ認ご、.魚・∴.、・∵蒙 して,政治上の訓令を与えたものであ 西 周 宗 周 鐘 る。周王朝の創業は文武の二王が天意 (故宮銅器選鞠Oより) を奉じて,よく徳を修めた結果であり, また群臣もこれを助けて,その王業を成就し た。しかるに現在,国家は天の怒りに遭って亡国の悲運に直面している。したがって国 家の元老としての毛公に王を輔佐して,時局を匡救することを嘱する。そのためには先 王の遺徳を規範として,肇国の精神に立帰るべきである。 中国美術の源流・台北国立故宮博物院 1g 先に述べた肇国の精神を説く初期の大立鼎とそれへの復帰を説く後期の毛公鼎とは, 周回の金文中最も思想的な意味をもつものとして注目されている。 (写真参照) (28) …、 ゼ’ 西 周 毛 公 鼎 (故宮銅器選葦10より) 8 絵 画 中国の美術を取扱って絵画に及ばないのは画竜点晴を欠くものであるが,中国絵画の 2,000年にわたる長い歴史と巨大な数量を考えると,この部門は別個の独立した論文が必 要である。こ\では簡単な印象記に止める。 国立故宮博物院には各時代にわたっての名品が陳列されているが,三ケ月毎に陳列換さ れることになっている。 唐(618−906),王代(907−959),宋(960−1276),元(1277−1367),明(1368− 1643),清(1644−1911)の各時代にわたって代表的な名家の書画が所蔵されている。日 本と同様に中国においても重要な美術品で国外に流出したものが多いが,6,400余点に上 る故宮博物院の書画(絵画と書軸)の中に,中国美術の代表的逸品が多いことは当然であ る。 唐代のものには言立本の「職貢図」 (絹本着色)がある。 宋時代のものには,有名な徽宗皇帝(1082−1135)の「文会図」 (絹本着色)がある。 (29) 20 (写真参照)徽宗のものはボストン美術館にも所蔵されている。そこに「揚画図巻」 (絹 本着色)と「五色懇懇離離」 (絹本着色)の二品がある。 宋 徽宗、文会図(部分) 「故宮名画選葦8」より 「掲練図巻」は昭和45年の我国の万国博覧会美術館に出品され人々の注目を集めたので 多数の人々の記憶に残っているであろう。 (万国博美術展IV7.p.138−9) ⑳ 「五色鵬鵡図巻」は本年の3月一5月に京都と東京の国立博物館でのボストン美術館東 洋美術名品展に出品された。この画には徽宗の頗句が書かれている。彼は絵画だけでなく 書道の達人でもあり,欝金体(slender gold style)と称される高雅な筆蹟をその図巻に 頗句として残した。(写真参照) 宋 徽宗、五色鵬鵡図巻 講談社発行、世界の美術館「ボストン美術館東洋」より 中国美術の源流・台北国立故宮博物院 21 この「五色鵬鵡図巻」は,大正,昭和時代の著名な政治家山本悌二郎が,中国で買集め た1,000点に上る美術品の中に所蔵されていたものであるが,昭和初年の「世界恐慌」時 代に手放され,昭和8年にボストン美術館に入手されたものである。 元の四大画家,黄公望,呉鎮,王蒙,悦雲林の作品もある。侃雲林は視 ともいわれ る。我国にも作品が少数ながら渡来しているが,故宮には「松林亭子」 (絹本墨画)があ る。(写真参照) 元、侃雲林、松林亭子 「故宮名画選葦25より」 明の四大画家のうちの沈周,文徴明の画がある。また明代の著名な宮廷画家呂紀(1477 一?)の「松鶴長春」と「秋渚水禽」が一階のロビーに陳列されていた。呂紀の絵は我国 にも少数ながら輸入され,我国の万国博覧会にも「四季花鳥図」 (絹本着色)(東京国立 博物館蔵)が出品された。 (写真参照)繊細華麗な色彩は忘れがたい。また明代のものに 22 夏塑「奇石修篁図」 (紙本墨画)がある。 (写真参照) 呂紀、梅花鮭双図 明 夏韻、奇石修篁図 平凡社「世界美術全集」18巻の8 「故宮名画選葦」29 (万国博美術展IV−33dp143) 中国美術の源流・台北国立故宮博物院 23 清時代のものに王時敏,王 ,黄鶏(渓竪林影図)(紙本着色)のものなどがある。王璽 は名画の模写に巧で,唐宋以来の名画で散侠したものは,大ていこの人の模本で後世に伝 えられている。王翠は画聖といわれ,北宋,南宋の二大流派はこの人によって統一され た。故宮には「臨関門山水」がある。 (写真参照) 61) 清、王螢、難関全山水 「故宮名画選葦46より」 (註) (1}国立故宮博物院略説, (国立故宮博物院発行,1969年) (2) 全 ヒ (3)山内正博:,「中国の文化遺産を見て」(朝日新聞,昭和46年12月22日) (4)国立故宮博物院略説。 (国立故宮博物院発行)。国立故宮博物院宝物,緯糸,刺繍。 (学 術研究社発行,昭和45年) (5)中国故宮博物誌展示の出土品(朝日新聞,昭和46年9月16日) (6}故宮玉器選葦,(国立故宮博物院発行1970年) 24 (7)世界美術全集(平凡社発行,昭和3年)第2巻,図版p.127,解説p.ユ05 (8)世界の美術館第34巻フリーア美術館1(講談社発行,昭和45年) (9) 〃 〃図版15,解説文p.155 ㈹ 故宮玉器選葦図版10,解説p.72 α1)フリーア美術館1.図版20、解説p.156 ⑫ 故宮銅器選葦,図版20,解説p.95 q3万国博覧会公式ガイド, p.119 (1の万国博覧会美術展p.240 ⑮ 国立故宮博物院刺繍,(学習研究社発行,昭和45年)p.4−6 α6) 〃 ,緯糸(〃〃)p.6−9 働 〃 〃 刺繍,p.8,緯糸, p.7 個 世界の美術館,第13巻,東京国立博物館∬,(講i談社発行,昭和45年)解説文p,172 qg Lin Yu Tang:My Country and My PeoPle. P.365 ⑳ 白川静:金文の世界,p.14 (21) 〃 〃 ,P.15 (22故宮銅器選葦,(国立故宮博物院発行,1970年) ㈱ 白川静:金文の世界,p.IO C∼4) ” ” ,p.75−81 ㈱ 故宮銅器丁丁,図版50,解説文p.95 ⑳ 白川静:金文の世界,pユ18−124 ⑳ 故宮銅器選葦,図版10,解説文p.186 佗8>白川静:金文の世界,p209−222 四 故宮名画選華(国立故宮博物院発行,1970年)図版8,解説文p.82 ⑳ 世界の美術館,第15巻,ボストン美術館,東洋,図版71−72,解説文p.170 万国博覧会美術展 図版p.138−9,解説文p.173 (31)故宮名画選葦,解説文p.94 (昭和47.6.19) ’