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Title 再生可能エネルギーを基礎とした社会構築に関する考察 : 社会哲学

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Title 再生可能エネルギーを基礎とした社会構築に関する考察 : 社会哲学
Title
再生可能エネルギーを基礎とした社会構築に関する考察 : 社会哲学的観
点からの試論
Author(s)
角, 一典
Citation
北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編, 66(1): 197-212
Issue Date
2015-08
URL
http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/7836
Rights
Hokkaido University of Education
北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第66巻 第1号
Journal of Hokkaido University of Education(Humanities and Social Sciences)Vol. 66, No.1
平 成 27 年 8 月
August, 2015
再生可能エネルギーを基盤とした社会構築に関する考察
社会哲学的観点からの試論
角 一 典
北海道教育大学教育学部旭川校社会学研究室
A Consideration about the Social Construction Based Renewable Energies
An Essay on Social Philosophical Perspective
KADO Kazunori
Department of Sociology, Asahikawa Campus, Hokkaido University of Education
概 要
本稿は,再生可能エネルギーをエネルギー供給の基盤とした社会を構築・形成する上で,市
民社会において熟考が求められると思われる事柄について,社会哲学的な見地から整理と検討
を試みたものである。
再生可能エネルギーへの転換は,現在の地球環境問題は基本的にオーバーユースと格差に基
づく不正義・不公正という前提を持っており,そこからの脱却を基礎としながら進められる必
要がある。同時に,単なるエネルギーの置き換えにとどまるものではなく,集中型のエネルギー
構造を基盤とした社会そのものの革命的変革を要求するものである。技術および制度のダイナ
ミックな変革にとどまらず,市民の意識や行動の源泉となる規範の変革をも達成しなければな
らない。
はじめに
がある。しかし他方では,既存のエネルギーを代
替するだけの能力はなく,さらには持続可能性や
現在,再生可能エネルギーは「微妙な」位置づ
自然環境との調和の観点から問題が指摘されるよ
けがされている。一方では,既存のベースのエネ
うにもなっている。このような分裂状況は日本特
ルギー源である化石燃料や原子力が,それぞれ持
有のものとはいえないが,ことさら日本で目立っ
続可能性の観点から深刻な問題を抱えているとみ
ていると感じられる。
なされるようになっている中で,今後のエネル
上記の状況に解答を出すためには,自然科学を
ギー問題を解決に導く救世主としてみられる側面
ベースとした技術論が大切なことは間違いないと
197
角 一 典
ころであるが,それと同じくらい社会科学におけ
想について言及しながら,その支柱となると考え
る論争も大切である。環境社会学の分野で生活環
られる内発性・連帯経済・倫理的消費について,
境主義が提起した問題は,環境保全は,科学技術
再生可能エネルギーの視点から改めて考察する
によって達成可能であるというユートピア(ある
(第4章)。
いはディストピア?)を信じることによって予定
調和的に手に入れられるものでもなければ,人が
生きるということを無視した解決方法にも意味が
ないことを指摘しつつ,まさに「人は住まねばな
1 絶対的な前提としての省エネルギーの必
要性
らないという現状において,どのような現実的な
1. 1 持続可能性からの視座
政策が成立」するかを考えることが必要だという
これはエネルギー選択以前の問題である。ロー
点であった(鳥越編,1989:6)。このような認識
マクラブの問題提起以来,資源が有限であるとい
に立つならば,
「純粋に」自然科学的な技術論争
う点については誰も否定しないが,個別の資源の
を戦わせるのと並行して,あるいは互いに交差し
有限性について,人は往々にして楽観的であり無
ながら,人文社会科学における論争が展開されて
頓着である。例えば,『成長の限界』の中で21世
しかるべきだろう。
紀への変わり目の前後には枯渇が想定されていた
かなり大きな話をしてしまったが,本稿はあく
石油は,その後生産量を伸ばしたにもかかわらず,
までも試論としての位置づけで執筆されること
新たな油田の発見・開発によって今なお数十年採
を,先に断っておきたい。最も大きな要因は,回
掘が可能である。こうした状況に慣れてしまった
答を示すにはあまりにむずかしいエネルギー問題
現代人にとって,資源の枯渇はリアリティのある
の社会的解決というテーマを包括的・総合的に論
問題と認識されにくくなり,みずからのライフス
証するには,筆者の能力が著しく不足していると
タイルを見直す契機にはほとんどならない。21世
いうことではあるが,他方で,一つのたたき台を
紀に入ってからの原油の高騰には目を見張るもの
ベースとして修正をくりかえしながら解答に近づ
があったが,それでも多くの人々は自らのライフ
いていくという方法にも一定の意義があるであろ
スタイルを大きく変更することはなく,未だに高
1
うという,若干安易な考えに基づいている 。
水 準 の エ ネ ル ギ ー 消 費 が 持 続 し て い る。 ブ リ
以下では,エネルギー問題全体に関わる事柄と
ティッシュペトロリアム(BP)が公表している
して,省エネルギーの必要性を,持続可能性の観
統計では,1970年,世界の一次エネルギー消費の
点と分配の公正・正義の視座から検討し(第1
合計は石油換算で49億トンであったが,第二次石
章)
,社会正義や社会的公正を意識した自主的な
油ショック以降の1980-82年とリーマンショック
選択・自己決定の重要性の観点からエネルギー選
翌年の2009年を除いてコンスタントに増加し,
択と民主主義との関係について言及し(第2章),
2011年には123億トンに達した。
再生可能エネルギーへの転換は,単なる社会改良
こうした状況に対して,近年はさまざまな指標
を超えた社会
「革命」であることを強調した上で,
が提起され,問題の視角化が試みられている。例
それが,市民社会における確固とした基礎を持ち
えば「エコロジカルフットプリント」はその一例
ながら進めていく必要があることについて「陣地
である。エコロジカルフットプリントとは,
「あ
戦」および「文化化」を用いながら説明し(第3
る経済システムに流入し出ていくエネルギーと物
章)
,近年目立ってきたコミュニティパワーの思
質の流れ(フロー)を明らかにし,このフローを
“面積”に変換して表す分析手法」であり,「こ
1 なお,本稿は,角(2013a)および角(2013b)をた
たき台としつつ書かれている。
198
こでの面積とは,このフローを維持するために,
人間が自然界から必要としている土地および水域
再生可能エネルギーを基盤とした社会構築に関する考察
表1.日本のエコロジカル・フットプリント(EF)(主に1990/91年の値)
一人当たりEF
(ha)
日本全体のEF
(百万ha)
国内現存面積
(百万ha)
必要面積/現存面積
(倍)
耕作地
食料生産
0.23
28.1
4.4
6.4
牧草地
牧畜用
0.17
21.5
0.8
26.9
森林
木材・紙原料
CO2吸収地
(国内分)
CO2吸収地
(海外分)
0.18
22.2
25.3
0.9
1.61
199.3
25.3
7.9
0.57
70.4
25.3
2.8
0.03
4.3
4.3
1
生産能力阻害地
社会インフラ・住居等
陸地合計
上記の総和
2.8
345.8
-
9.2
海洋淡水域合計
漁業資源再生産
1.9
234.5
-
6.2
4.7
580.3
37.8
15.4
総 計
出所:サステナビリティの科学的基礎に関する調査(http://www.sos2006.jp/index.html)
の面積」と定義される。(Wackernagel, M. and
に枯渇の問題のみから必要とされているわけでは
W.E. Rees, 1996=2004:24)。ワケナゲルらによれ
ない。丸山が指摘する「分配の正義」からの観点
ば,地球の表面積が510億ha,うち陸地が131億
(丸山,2009)からみれば,エネルギー問題を考
ha,さらにそのうち89億ha弱が生産可能な土地
えた時,不正義の状態にあるといわざるを得な
で,原生自然が残っている15億haを除いた74億
い2。特に,先進国と発展途上国との間の格差は著
haが,人間が積極的に利用できる土地である。
しく大きなものとなっている。BRICSを代表とす
これを全人口で割れば「公平割当面積」となるが,
る国々の発展がエネルギー消費を押し上げている
仮に60億で計算すれば1.23haとなる。しかし,ワ
のは事実ではある。しかし,バウマンも指摘する
ケナゲルらの試算では,1991年のエコロジカル
ように,少なくとも,現在のエネルギー問題の大
フットプリントは世界平均で1.8haに達している。
部分は先進国に起因する(Bauman,2010=2012:
単純化すれば,これは,現在の消費水準を維持し
202)。したがって,先進国に生きる我々日本人に
続けるには1.5倍の陸地が必要であり,逆に,地
は,エネルギー問題の解決に真摯に向き合ってい
球を持続可能な状態に維持するためには現在の消
く義務がある。
費水準を3分の2程度まで下げなければならない
例えば,エコロジカル・フットプリント・ジャ
ということを示している。試算というものの難し
パンによれば,エコロジカルフットプリントの世
さはあるが,現状の消費水準が持続不可能なレベ
界平均は一人当たり1.8haだが,日本人一人あた
ルにまで達しているということを示す一つの例で
りのそれは4.3ha,アメリカでは9.5haに達してい
ある。
るという3。また,表1は,「サステナビリティの
・
・
・
「定常経済」を提唱したデイリーは,「マクロ
経済は,地球の生物物理的な限界を超えて規模の
2 もちろん,地域による条件の差なども勘案する必要
成長を求められる場合,不合理なものになる」と
はあるだろう。例えば,日本の中で北海道は一人あた
指摘している(デイリー,2014:63)
。この原点の
確認から出発することなしには,いくら再生可能
りのエネルギー消費が大きいが,それは人口閑散地域
であるということによる自家用車への依存度の高さや,
寒冷地であることによる暖房の必要などと関わってい
エネルギーの普及が図られたとしても,人間社会
る。しかし,それが「免罪符」になると考えるかどう
ひいては地球環境の持続は不可能である。
かはさまざまな観点がある。文化相対主義を強調し過
1. 2 分配の公正・正義からの視座
しかしながら,省エネルギーの必要性は,単純
ぎることは,むしろ問題の着地点を見出しにくくする
ことになるだろう。
3 このような数字の出し方は,得てして相対的優位に
ある者達の自己弁護に陥るリスクをともなうが,問題
199
角 一 典
科学的基礎に関する調査」において行われた日本
機器の高効率化あるいは新たな技術や機器の発
のエコロジカルフットプリントの試算である。お
明・開発によるブレイクスルーは非常に効果的で
およそ25年前のデータになるが,これにしたがえ
はあるし,今後も技術的解決の努力は継続されな
ば,日本の現在の生活を維持するために必要な面
ければならない。しかし,同時に我々は,それが魔
積は,陸地面積だけで現有国土の9.2倍に達する
法の杖ではないということも肝に銘じておかなけ
のである。
ればならない。技術が問題を解決してくれるとい
戦後のさまざまな論争の中で,折に触れて発展
う発想だけでは問題の根本解決にはつながらない。
途上国は人口増加を理由として地球環境に負荷を
これを考える上で教訓的なのが,日本の大気汚
かける犯人扱いされてきた。もちろん人口抑制は
染と自動車の関係である。1960年代に入ると日本
エネルギー問題と無関係ではないが,それをもっ
は未曽有の経済成長を遂げ,それと同時に激甚な
て,より一層重い先進国の責任を回避しようとす
環境破壊も経験することとなった。大気はその最
るのはあまりに身勝手である。むしろ,先進国に
たるもののひとつであり,工場からの排気や急増
おいて持続可能な生活を確立し,そのノウハウを
した自動車の排ガスが大気を汚染した。こうした
発展途上国に順次移行していくことが望まれてい
事態に対処すべく,1970年にアメリカで制定され
るのである。
たマスキー法に準拠して,1975年式自動車以降の
一酸化炭素・炭化水素および1976年式以降の窒素
1. 3 総量規制の重要性
酸化物は,それぞれ1970年式以前の一酸化炭素・
エネルギー削減を考える際に必要になるのは総
炭化水素および1971年式の窒素酸化物の少なくと
量規制の考え方である。京都議定書では,日本は
も1/10以下に低減するという環境基準を設けた。
1990年比で6%の削減を義務づけられたが,これ
当初各メーカーは達成不可能として否定的な姿勢
は持続可能性の観点から示された数字ではない。
を示したが,それぞれの独自の技術開発によって
政治的判断で,本来目指すべき削減の値は議論の
不可能とみられていた同基準を達成した。その結
枠から外れたのである。合意形成をする上では,
果,日本車の優秀さは世界に認められるところと
総量規制という考え方は合意のハードルを高くす
なった。ところが,1980年代に入っても,都市部
る機能を果たすため,あまり歓迎されないが,今
の大気汚染,特に窒素酸化物濃度は高止まりし続
後の国際合意の枠組みに必要とされるのはまさに
けた。理由は簡単で,自動車の性能向上によって
総量規制である。
実現した削減は,自家用車の急速な普及やトラッ
ク輸送の絶対的優位の確立などの要因によって相
の根本はそこにないことは,あらためて言うまでもな
い。しかしながら,アメリカのライフスタイルが環境
に対して高負荷であるということは動かし難い事実で
殺されてしまったわけである。
技術の進歩によって資源利用の効率性が向上し
ある。その点に反省を求めることは正当性を有してい
ても,コストが下がるため,新たな需要が喚起さ
ると思われる。他方,ロビンスの議論などからうかが
れ,結局のところ,資源の消費量は減らずにむし
えるのは,
「今の生活水準を維持しながらエネルギー利
ろ増えてしまうことを「ジェボンズのパラドック
用を減らすことができる」という,一般受けしやすい
ロジックである(Lovins and Rocky Mountain Institute,
ス」というが,上記の事例はそれをまさに象徴す
2011=2012)
。後段でより深い検討を加えるが,エネル
るものであった。エネルギーに振り返ってみれば,
ギー問題は技術の問題であると同時に文化の問題とし
先にも記したが,オイルショック以降,世界のエ
て捉えるべきものでもあって,ロビンスの議論は,自
ネルギー消費は,一時的な減少を除けばコンスタ
動車のサイズ等の適正化等々,文化的な側面が含まれ
る指摘も散在することは事実であるが,アメリカ向け
ントに増加し続けたし,それは日本も同じである。
に執筆されているという点を考慮したとしても,その
石油に代わる資源として原子力エネルギーや天然
点に関する配慮が軽視されているようにみえる。
ガスなどの開発を進めた結果,日本は豊かな社会
200
再生可能エネルギーを基盤とした社会構築に関する考察
を獲得したが,その一方で環境高負荷なライフス
いかないだろう。国として脱原発を宣言したドイ
タイルをも確立したのである。
ツ・イタリア・スイスだけではなく,原発に積極
デイリーは,
「『効率を上げれば,総量が減るだ
性を見せるフランスやイギリスなどでも,地球温
ろう』ではなく,『まず総量を減らし,効率改善
暖化対策としてそれを位置づけ,同時に再生可能
で対応する』というのが,エネルギーや温暖化に
エネルギーの推進を進めることで二酸化炭素の排
関する政策の第一の設計原則」と指摘する(デイ
出量削減に意欲的に取り組み姿勢を見せている4。
リー,2014:8)
。地球という物理的限界を超越す
残念ながら,日本における原発再稼働の主張は,
ることが不可能である限り,おのずと決まってく
経済的な面がいわれるだけで,国際的な枠組みの
る総量をベースにした検討は不可欠である。
中での日本の役割に積極的に言及するようなこと
が,少なくともエネルギー分野については希薄で
2.エネルギー選択と民主主義
ある。
先にも触れたとおり,エネルギーに関する日本
少なくとも,日本においては,戦時体制下に行
の制度は,消費者に選択の余地を与えないものと
われた電力一元化を基に作られたいわゆる9電力
して存在してきた。電力各社のホームページなど
体制下で,
一般消費者は独占価格を押しつけられ,
をみても,未だに再生可能エネルギーの技術的難
また,電力源の選択の余地も与えられることはな
点を強調し,それがエネルギーのメインにはなり
かった。新自由主義的風潮の下,2000年3月に部
得ないことを主張する。しかし,既にヨーロッパ
分的自由化,2005年4月からは高圧受電者に限り
の一部の国では再生可能エネルギーが電力を含め
完全自由化となった。さらには,2016年には一般
た総エネルギー供給において不可欠のものとなっ
消費者も含めた完全自由化が予定されている。
ており,そのためのシステム形成が進んでいる。
制度は次第に整えられつつある状況にあるが,
もはやこの点は「やる気」の問題としか言いよう
ある意味で,それは外圧や3.11のような不慮の事
がない。
故をきっかけとしたものであり,国民的合意と呼
人それぞれ価値観が異なる以上,一つの正解に
ぶには語弊があるとも評価できる。現在の政権が,
落ち着くということはきわめて困難なことである。
多くのアンケートで国民の多数が望んでいないと
ここではあえて,再生可能エネルギーを社会基盤
いう結果になっている原発再稼働を前提とした方
とするという本稿の目的に準じて,エネルギーと
向へと舵を切らんとしている。その反動として,
社会正義・社会的公正について考えてみたい。
再生可能エネルギーへの逆風も吹きはじめている
ヨーロッパでは,1980年代以降,酸性雨やチェ
昨今である。
ルノブイリなど,国境を超える汚染の脅威を経験
こうした状況に鑑みれば,あらためて選択と民
した。こうした背景もあり,国境を超えた責任と
主主義との関連性を問う必要が生じて来ざるを得
いう点について非常に自覚的であるように思え
ないように思われる。多様な意見がある中,本論
る。同時に,現在世代の恩恵のつけを後の世代に
文の題名であるところの「再生可能エネルギーを
なるべく残さないということについても,日本よ
基盤とした社会構築」のためにいかなる論理が必
りも進んだ意識を有しているように思われる。い
要なのか,以下ではそれを検討しよう。
わゆる地球環境問題を考えるとき,地球温暖化は,
2. 1 エネルギーと社会正義・社会的公正
ヨーロッパでは,地球温暖化や原子力エネル
ギーをめぐる社会的なコンセンサス形成が,日本
よりも一歩先んじていることを認めないわけには
4 一説には,核保有国としての地位を維持するために
原子力発電が必要と考えられているということも言わ
れる。そうした意味では,原子力発電と核兵器との関
連性という観点からの視点も必要であるかもしれない。
201
角 一 典
科学的には不確実な部分が未だ残されているとは
対を明瞭に打ち出しているが,その主張は次のよ
いえ,昨今の異常気象からも実感されるように,
うなものである。「まずは,多様なエネルギー源
その蓋然性はきわめて高いと判断するべき状態に
を一方的に排除してしまう『原子力一辺倒』の政
すでに入っていると考えられる。そういう前提に
策を停止させなければならない。この意味からわ
立つ時,再生可能エネルギーは,化石燃料依存か
れわれは,使用済み核燃料の再処理とMOX燃料
らの脱却の有力な手段として位置づけられるので
(ウランとプルトニウムの混合酸化燃料)の生産
ある。
を中止するよう提案する」(フランス緑の党,
また,先述のとおり,ヨーロッパにおいても原
2002=2004:89)。上記の主張は非常に重要である
子力エネルギーに対する対応は一様ではない。地
ように思われる。3.11以前,電力各社はしきりに
球温暖化を考えた場合,発電時に二酸化炭素を排
原発推進をアピールし,出力調整が難しい原発の
出しない原子力エネルギーは確かに魅力的なエネ
夜間の余剰電力対策として夜間電力を利用した給
ルギーとも考えられる。しかし,事故のリスクや
湯サービス(エコキュート)の普及や揚水発電所
廃棄物,特に高レベル放射性廃棄物の処理問題を
の建設,さらにはオール電化住宅の拡大を試みた。
考えた場合5,原子力エネルギーを安易に化石燃料
原子力エネルギーは,実際のところ無駄を発生さ
の代替エネルギーとして位置付けることは危険だ
せ,その対応として自然の改変や私たちのライフ
し,また,
『10万年後の安全』が示唆するように,
スタイルの変更を暗に進めてきたともいえる。
極めて危険な物質を人為的に生み出し続けること
3.11によって節電の意識が高まった結果,今日で
の倫理性を問わねばならないだろう。そして,そ
も電力需給は逼迫することなく安定した状態が続
ういう危険な物質を生産する原子力発電所のよう
いているが,考えてみれば,日本人は,
「安全神話」
な施設が人口閑散地域に建設されるという点につ
に胡坐をかいて,原発によるエネルギー供給とい
いても,社会正義や社会的公正の観点から問われ
う前提の下に「思考停止」状態にあったといって
なければならない。ここには明らかなリスク分配
もよい。
の不公正が存在する。
また,「安い原発」ということも,近年は否定
フランスは原発大国として知られるが,国民世
されはじめている。というのも,運転開始までの
論が必ずしも原発推進に同調的かというと,必ず
リードタイムが長いことによって生じるコスト,
しもそうとはいえない。中でも,緑の党は原発反
解体費用や廃棄物の処理費用などが適切にコスト
に反映されていなかったり(大島,2010),原料
5 2014年,日本科学者会議が深地層処分にNGを突き
であるイエローケーキの採掘地域における放射能
付けたが,間接的には,そもそも廃棄物の適正処分が
汚染の問題等,われわれに適切な環境コスト情報
不可能である原子力発電へのNGでもあったかもしれな
い。深地層処分にお墨付きを与えれば,原発の存続を
が提供されていなかったり(細川,2001),原子
促した可能性もあるわけで,廃棄物処理の問題を改め
力エネルギーに関わるコストは決して小さくはな
て突き付けた同会議の提言は重く受け止めるべきもの
いのである。デイリーが指摘するように,
「市場は,
であろう。
価格が機会コストについての真実を伝えない限り,
なお,過渡的手段としての原発の必要性を主張する
議論も少なくないが,それらに決定的に欠けているの
は,社会正義・社会的公正の視点であろう。ある意味で,
沖縄に基地問題を押しつける日本の構図と,危険施設
その正当性を失う」(デイリー,2014:63)のであ
り,逆説的には,エネルギー選択を行う上では質
の高い情報の供給および共有が不可欠である6。
を周辺地域に押し付ける原発政策の構図は相似形であ
る。よしんば過渡的エネルギーとしての地位を認める
にしても,フェードアウトに向けての明確なビジョン
6 その意味では,再生可能エネルギーも完全無欠な存
の策定と,その遵守を保証する制度化が絶対に必要で
在ではありえず,さまざまな問題点や欠点も有してい
ある。
ることも,共有されなければならない。
202
再生可能エネルギーを基盤とした社会構築に関する考察
2. 2 新自由主義的傾向とエネルギー問題
ロッパでは,エネルギー協同組合などの形で消費
新自由主義は,市場原理を優先させ,福祉およ
者が同時に生産者になることが一般化している。
び公共サービス縮小・対外的経済開放・民営化促
わずかではあっても自らが生産者となることで新
進・規制緩和などにより,競争を促進させること
しい解を作り出すことは可能であるし,市場に新
が社会の活性化につながると考える主義・思想な
しい解を要求する自由も持ち続けなければならな
どと解説される。さまざま議論のあるところでは
い。市場の名の下に自らの経済活動の自由,言い
あるが,新自由主義的な流れによって最も恩恵を
換えれば既得権益の保護を強硬に主張し,企業活
受けたのは多国籍企業であるといってよい。そして,
動を阻害する規制や制度を障壁とみなす多国籍企
近年その弊害がさまざまな形で指摘されはじめてい
業の論理は市民の選択肢を制限する方向に進む傾
る(ATTAC,2001=2002;Boris,2005=2005;
向にある。新自由主義的傾向と再生可能エネル
Bauman,2011=2011;Chavagneux & Palan,
ギーによる社会基盤の形成とは,本質的な部分で
2006=2007)
。
噛み合わないものと考えるべきである。
再生可能エネルギーへの移行は,脱化石燃料な
ども含んだ,抜本的なエネルギー革命でもある。
したがって,何らかの形で化石燃料を生業の種と
3 「革命」としてのエネルギー転換
している企業にとっては,再生可能エネルギーは
3. 1 「革命」の含意
敵といってもよい存在であり,再生可能エネル
経団連を中心とした経済界の中枢が原発にこだ
ギーの社会基盤化にとっては非常に大きな抵抗勢
わり,再生可能エネルギーを基盤とする社会基盤
7
力となる (McQuaig,2004=2005)。
形成に疑義を申し立てるのは,ある意味では「正
巨大な権力を握る既存のエネルギー業界を相手
当な」根拠がある。それは,特に大企業の生産シ
にするには相当の困難がある。いわゆる石油メ
ステムが,原発のような集中型のエネルギーシス
ジャーといわれるような多国籍企業だけではな
テムを基礎として構成されているという意味にお
く,日本国内に立ち返ってみても,まだ9電力体
いてである。大規模な火力発電や原子力発電に
制に大きな風穴を開けるには至っていない。大企
よって生み出された,質の良い安定した電力とい
業の経済活動が優先される社会において,それが
う基礎を失うことは,それを前提として形作られ
企業の利益になる範囲では推進されても,企業の
ている生産システムにとっては脅威である。「従
利益を損なうと判断されれば,経済活動の自由を
来型のエネルギー技術に最適化された送配電のシ
奪う存在として問題視されることも考えられなく
ステムや,それに適合した社会にとって様々な課
はない。仮にそのような状況に至ってしまうとす
題が発生する」からである(丸山,2013:222)。
れば,生産と消費の分離による消費者の疎外,あ
つまりは,再生可能エネルギーがエネルギー供給
るいは構造化された選択肢という問題の解決は非
の基盤となる社会とは,単に原発や火力発電と風
常に困難になる。
車や太陽光パネルを置き換えるといった単純なも
多様な選択肢を残しておくということは,自己
のではないということである。再生可能エネル
決定の範囲を広げておくことに他ならない。ヨー
ギーへの移行は文明的大転換を意味するのである。
「再生可能エネルギーの推進とは,既存のエネ
7 代替エネルギーという点では,シェールオイルなど
ルギー供給を分散化することで,産業構造を,経
の新たなエネルギーも,既得権益を有する主体にとっ
済構造を,社会を変革する一大事業であって,既
ては既存のエネルギーシステムを「攪乱」する敵とみ
なされる。2014年の原油安の背景にはさまざまな説が
存の枠組みやインフラを堅持したまま,その前提
示されたが,中でも有力だったのは,既存の産油国に
を変えないで単に太陽光発電などの発電装置を加
よる新エネルギー潰しという説であった。
えるものではない」し(滝川他,2012:226)
,
「従
203
角 一 典
来の大規模集中型の大量生産・大量消費の産業構
れが改善されない場合,変化を目指す動きとして
造や,人々の生活様式を改めていくことが同時並
市民運動やNPOが登場」し,「既存のシステムを
行的に進められないと,その転換はきわめて困難」
変えるには,官僚と利益集団によってつくりあげ
(古沢,2015:9)なものでもある。
られた強固な既得権の構造を変える必要があり,
したがって,既存の,化石燃料および原子力を
…市民の力を,政党あるいは圧力団体へと組織化
中心とするエネルギー供給構造から再生可能エネ
しなければ,そうしたリーダーシップを実現し,
ルギー中心の構造への転換は,丸山の言を借りれ
支 え る こ と は 難 し い 」 か ら で あ る( 足 立 編,
ば「 社 会 的 イ ノ ベ ー シ ョ ン 」 で あ り( 丸 山,
2009:163)。いわば,市民の自発的な意思の高ま
2013)
,古めかしい言葉を使うならば「革命」で
りを基盤として行われる革命が求められているの
ある。産業政策や都市政策の大胆な発想・思想の
である。
転換の必要性はいうまでもなく,日本ではこれま
再生可能エネルギーの拡大において,陣地の拠
であまり考えられてこなかった立地政策にも大き
点性を高める(陣地を強化する)一つの方法は面
8
な発想の転換を要求するものである 。
的拡大に結び付けることであり,施設や人・組織
の集積を高めることである。近年,再生可能エネ
3. 2 「陣地戦」としての再生可能エネルギー
への転換
ルギーをまちづくりの核とする自治体が徐々に増
える傾向にあるが,上記の意味において,これは
グラムシは,ロシア革命による社会主義国家の
望ましい傾向と捉えるべきものである。また,再
成立と西ヨーロッパにおける革命の未達成状況の
生可能エネルギーへの転換という革命の陣地は,
比較を通して,資本主義が相対的に成熟した西
ただ施設が増えていくことのみを意味しない。施
ヨーロッパでは,封建的色彩が色濃く残ったロシ
設に象徴されるひとつひとつの陣地は,これまで
アのように,暴力的革命による一足飛びの社会主
に検討した民主主義や自己決定や社会正義などと
義化・共産主義化(機動戦)は困難であり,市民
の関連を持ったものであることが望ましい。その
社会の中に地道に拠点を作っていくことによって
意味では,ヨーロッパで拡大している協同組合方
革命状況の成熟を待つ,ある種の漸進的な戦い方
式は非常に示唆的である。日本でも,固定価格買
(陣地戦)が必要であると主張した。グラムシ的
い取り制度がスタートして再生可能エネルギー施
発想に立つのであれば,先進社会である日本にお
設の設備容量の拡大は著しいものがあるが,現在
いて,強力な権力によって機動戦的革命を遂行す
の拡大はほとんど太陽光発電であり,また地域外
ることは困難であり9,むしろ持久的な陣地戦に
の資本によるものであるという点において必ずし
10
よって構造改革 を行うといったイメージがふさ
も望ましい拡大ではないと評価されるようになっ
わしいように思える。なぜならば,佐野が指摘す
てきている。いわば陣地の質についても,すなわ
るように,
「一般に,既存のシステムが社会の変
ち,再生可能エネルギー施設の所有や運営あるい
化に対応できなくなっているにもかかわらず,そ
は発生利益の分配などについての仕組みづくり等
についての議論も必要になるだろう。
8 広井は,これまでの日本では立地政策が不在であり,
人口減少が不可避な今後における立地政策の重要性を
指摘する(広井,2013:85)。
9 ちなみに,中国における再生可能エネルギーの急速
な普及は,社会主義国家としての集権体制に支えられ
ているという指摘がある。
10 レギュラシオン理論の発想はこれに近いかもしれな
い(cf.Lipietz(2002=2002))。
204
3. 3 意識革命としての文化化
さらに付け加えたいのは,革命は,エネルギー
施設の変換にともなうインフラを中心とするハー
ドの大幅な改変およびそれを支える制度の改革に
とどまるものではなく,それが市民の意識の中で
共有されるものとなることによって「完結」する
再生可能エネルギーを基盤とした社会構築に関する考察
ということである。身近な例を示すならば,ごみ
要性を強調した12(松下,1990:65-69)。他方,本
の分別はその典型である。1960年代以降急速に増
稿での文化化は,むしろ個々の市民における市民
加し,またその質を変化させたごみに対して,従
文化の定着という意味を強調するものであり,松
来の処理方法(直接埋め立て)が不適切なものへ
下が用いたのとは含意が異なる。
と変わってしまった結果,新たな方法(焼却処理)
文化化という言葉には,例えば,東日本大震災
が広がっていったが,その一方で,ごみの中に含
後の電力不足の状況において節電のキャンペーン
まれる有価物を取り出してリサイクルルートに乗
が展開されたような,ある種の「やせ我慢」や極
せるというアイデアが静岡県沼津市からスタート
端なエコロジー論などに導かれる可能性もある
し,現在ではほぼすべての自治体が何らかの形で
が13,それのみを示すものでもない。松下圭一の
ごみの分別収集を採用している11。日本の分別は
社会構成体論に準拠して,政治・経済・市民社会
世界が認める優れたシステムであり,また,日本
という3要素によって人間世界が構成されている
の分別は今日も最先端に位置づけられていると
とするなら,市民社会は,相対的自立性を有しつ
いってもよい水準にあるが,これは制度が優れた
つも,政治および経済からの影響を受けながら,
ものであるだけでなく,それが個々の市民に内面
文化形成を行っていると考えることができる14。
化している結果でもある。程度の差があることは
否定できないが,市民のレベルで,分別の意義に
関する認識が共有されているからこそ,制度が円
滑に機能するのである。
このような,ある種の制度への市民のコミット
12 ここで注意しなければならないのは,文化行政とい
う意味が,松下独特の含意を持っている点である。松
メントに関する議論は,ウェーバーの支配の正当
下によれば,「文化行政は,それゆえ,通常理解されが
性の議論以来積み重ねられたものであるが,ここ
ちな,①お祭り・イベントの主催,②美術館・博物館
では,松下圭一の言葉を借りて「文化化」として
おきたい。松下は,市民文化を「市民が存在する
とすれば,市民が当然もつであろうような生活様
式,あるいは価値意識・行動準則,それにともな
う表現活動によってうみだされる文化状況」と定
義し(松下,1985:2),市民と直接対峙する位置
にある自治体行政の文化化・文化行政の確立の必
づくりのみではない。文化行政とは,都市型社会の成
立にともなう市民の文化水準の変化,また分権化・国
際化をめぐる,質のたかい政策水準の模索,と位置付
ける必要がある。それゆえ,③生涯学習の官治型振興
ではもちろんない」
(松下,1990:66)
。
13 だからといって,節電努力が無駄だとは考えていな
いことをここに記しておく。文化化の重要な点は,東
日本大震災のようなアクシデントからスタートしたと
しても,それが個々人の行動規範として内面化され,
結果として恒常的な電力需要抑制の方向へと社会が導
かれる,といったようなこととも捉えられる。
14 具体的な例として,筆者が調査した空知管内におけ
11 沼津市は1970年代にごみ処理をめぐる深刻な紛争を
る雪冷房について考えると,国策あるいは市場に対応
抱え,当時の井出市長は『ゴミ戦争』を宣言した。沼
して作られていった雪冷房施設群というハードは,主
津市は,ごみの成分分析から,ごみの中にかなりの量
にマスコミュニケーションを媒介してその地域のイ
の有価物が含まれていることを見出し,これを分別収
メージを形成し,それまで厄介物でしかなかった雪に
集することを,全国で初めて決めた。ちなみに筆者は,
対する地域住民のイメージに影響を及ぼす。その結果,
舩橋晴俊法政大学教授の沼津市調査に同行したことが
雪を単なる産業的資源あるいはエネルギーとみなす考
あるが,1995年に訪れた沼津市の分別ごみのヤードは,
え方からさらに一歩抜け出し,雪をイベント利用した
清掃工場特有の異臭が一切しない空間であった。それ
り教育に利用したりする活動が展開されるようになる。
が実現しているのは,資源化のために缶や瓶を洗浄す
いわばソフト利用の拡大である。このような,ハード
るという行為規範を個々の市民が実践しているからで
の整備とソフト利用の普及・拡大との相互作用の中で,
あり,そうした行為が内面化している状態を文化化が
地域アイデンティティとしての雪という新たなフェー
成功したと評価できる。
ズへと到達していくのである。
205
角 一 典
3. 4 正当性の根拠としての文化化
経済的なベースで考えるならば,既存のエネル
文化化の重要性は,制度が円滑に機能するとい
ギーには未だコスト面で十分な対抗力を持ちえて
うことだけにとどまるものではない。政策の正当
いない(と考えられている)再生可能エネルギー
15
性(あるいは科学技術の正当性 も含めて)の最
が参入する余地はない。コスト面では劣位であっ
終的な根拠は市民社会の承認に求められるもので
ても,環境負荷や持続可能性といった評価スケー
あり,文化化の深度と拡がりは,市民社会の承認
ルを導入して比較優位を作り出すことで対抗が可
の度合いを示すものとみなすことができるからで
能となる,という状況は,多様な評価スケールに
ある。
よる判断という前提が共有されて初めて成立す
飯尾は次のように述べている。
「新たな政策課
る17。
題も,
問題の所在が認知され始め,支持をする人々
が増えることで,推進勢力が強力になってゆくと,
3. 5 闘争としての文化化
次第に実現に向かうことが予想される。しかも,
文化化は,市民社会における自然発生的なもの
いったん政策の枠組みが出来上がってしまうと,
というよりは,むしろ公共空間における論争を通
そこに『既得権』が生まれるだけではなく,政策
じて形成されるものと捉えるべきものである。
がルーティーン化することによって,政策が自己
ハーバーマスの公共圏の提起にはじまり,構築主
保存的な傾向を持つようになり,その関連の政策
義などを媒介としつつパブリックアリーナやある
が簡単に実現するようになる」
(足立編,2009:28)。
いは熟議民主主義へとつながる一連の系譜には,
この指摘は二面性を持っている。すなわち,一方
コンセンサスの形成過程における討議・議論,
で,主に官僚機構による政策形成に対する批判的
もっと砕けた言い方をすれば人々の話し合いの重
側面であり,他方で,新規の政策の一般化に必要
要性という通奏低音がある一方で,ある種の政治
なプロセスとしての側面である。飯尾の指摘のう
性をもった言説によって公論が形成されていく点
ち,文化化は初期のアジェンダセッティングから
の問題性についても意識をめぐらせている。ひと
多数派形成にかけてのプロセスで重要である。
つの課題に対する種々雑多な主張のどれが正しい
新自由主義的な観点からは,このような政策の
かを評定することの困難さはいうまでもないとこ
正当性獲得のプロセスも市場の機能によって達成
ろであるし,そこに意識を傾注することは生産的
されるものと考えられるのであろうが,ウェー
ではないが,市民社会が選択および意思決定から
バーの行為論の指摘を待つまでもなく,人間の行
逃れることができない以上,強い意志を持った市
動はすべて利己心に還元できるものではなく,市
民は自らの主張に沿った着地点を追求するのが普
場メカニズムの前提からすればありえない認識や
通だし,それがメインストリームとなるよう他者
行動をすることは十分にあり得る16。少なくとも,
や組織との連携を模索していくことも必然といえ
よう。その意味で,文化化とは政治的・文化的闘
15 那須は次のように指摘している。「通常人の信念や合
意の有無とは独立に真理を確立できることは専門諸科
学共通の美質だが,民主政はまさに政治社会の構成員
間の討議と合意から諸々の政策・制度の規範的権威(=
争の要素も含んでいる。
そのような観点から考えると,文化化とは,市
民に共有される意識・認識や行為規範という面と
正統性)を構成するのであり,またそれ以外の規範的
権威の源泉を認めないのである」(足立編,2009:91)。
論的に無視できないのは,このような社会的関心に支
16 例えば,竹下は以下のように指摘している。「市場的
えられていることが政府による公共財の確定を正当化
メカニズムで統合的に意識化できる私的利己心とは異
することである」
(足立編,2009:115)
。
なり,社会的関心は明確な形での統合的把握が困難で
17 したがって,ここでも,経済的市場の判断というス
あるといわざるをえないし,それを政府が確定すると
ケールに最も高い価値を与える新自由主義的な考え方
なると政府の優位論に移行することになる。ただ,理
との不一致が現れる。
206
再生可能エネルギーを基盤とした社会構築に関する考察
ともに,共有される範囲を拡大するという動的な
面に対する目配りも必要である。その意味では,
4 何のための再生可能エネルギーかを問う
再生可能エネルギーに関する研究および研究者が
4. 1 コミュニティパワーの思想
増加し,その知見が普及することも文化化の一側
近年,日本でもコミュニティパワーに関する言
面といい得る。
及がされるようになっている(古屋,2013;丸
那須は,環境ガバナンスの視点から次のように
山,2014)。コミュニティパワーの定義で最も知
指摘している。
「今日の環境問題は,専門諸科学(と
ら れ て い る も の は, 世 界 風 力 エ ネ ル ギ ー 協 会
りわけ自然科学)による再構成を待たなければ解
(WWEA)によるものと思われるが,その定義
決すべき問題の存在や所在そのものを認識でき
は以下の3つのうち2つを満たすこととされてい
ず,その解決手段の探求・実行もまた,高度に専
る。
門的な知見の指導なしにはほとんど一歩も進める
1)地域のステークホルダーが事業の全体ある
ことのできない種類のものなのである。またさら
に厄介なことに,被害の抑止と予防のためには,
一部の“意識の高い”人々の自覚的な行動だけで
なく,理解の不十分な一般の人々の慣習化された
ふるまいの制御が不可欠になってくる」
(足立編,
いは大部分を担っている
2) 地域社会に基づく団体が事業の議決権を
持っている
3)社会的,経済的利益の大部分が地域に分配
される
2009:90)
。高度な科学技術に囲まれた世界に住む
そもそも,なぜコミュニティパワーという考え
われわれにとっては,もはや自己の経験や感覚の
方が必要とされるようになったかということにつ
みで世界を認識することが不可能になっている。
いては,特に風車をめぐる合意形成との関わりに
それゆえ,強固な陣地を基点としながらヘゲモ
おいて理解することができるだろう。再生可能エ
ニーを掌握する継続的な闘争が必要となるのであ
ネルギーの中では市場性が最も高いといえる風力
る。
発電は,特にヨーロッパでは普及の度合いも高く,
ただし,同時に肝に銘じておかなければならな
その反動として,地域問題の火種となることも増
いのが,科学は道を指し示しはするが,常に最適
えるようになった。そしてその背景にあったのは,
解を保証してくれるものではないということであ
社会全体の利益と私的レベルでの利益の不一致で
る。
「ある程度の精度での確率予測が可能であっ
ある。丸山によれば,「ステークホルダーの反応
ても,その解釈は価値判断の問題であり,これも
は負の影響の有無のみを原因としているわけでは
科学では決められない」
(丸山,2012:169)。「科
無く,正の影響との相対比較や総合的評価の結果
学無しでは解けないが,科学だけでは解けない」
であ」り(丸山,2014:9)。「合意形成とは受益も
(Weinberg)のである。決定の責任は市民社会
含めた相対的バランスとして捉え直す必要があ
が負わなければならず,科学に,過度に依存する
る」
(丸山,2014:11)。IEA Wind task28提言は,
ことは,自己決定の義務(=権利)を放棄するこ
①大きな社会的摩擦が予見される場所の回避,②
18
とに異ならない 。
環境影響の最小化,③ステークホルダーにとって
の利益の最大化の3点にまとめられたが,単に環
18 科学についてもうひとつ付け加えておかなければな
境への配慮だけでは問題が解決しないことを踏ま
らないのは,科学が目指す普遍性と個別の地域におけ
えての提言とみることができる。その延長上にコ
る特殊性との間には解消しがたい溝が存在し得るとい
ミュニティパワーという思想が存在しているので
うことである。
「それぞれの命題に疑義を提示すること
は可能であるため,論点を拡大すればするほど―言い
換えれば汎用性のある命題に基づいて個別事例を正当
てしまう」
(丸山/本巣,2011:47)という指摘は,それ
化しようとすればするほど―議論の収束は困難になっ
を言い表したものである。
207
角 一 典
ある19。
近代資本主義の相対化あるいはポスト近代の構想
日本の現状を振り返ると,丸山が指摘するよう
はさまざま提示されてきたが,その通奏低音には
に,
「日本における再生可能エネルギー事業の大
分権化があり,リニアーな発展モデルの放棄があ
半は地域外の企業が所有しており,地域社会にお
り,それに依拠した内発性の重視というパースペ
ける利益は固定資産税や建設需要などに限られて
クティヴがある。
いる。そのような状況を前提として,利益を享受
再生可能エネルギー開発については,日本に一
できない地域の人々がリスクゼロを求めるという
歩先んじているヨーロッパの取り組みは非常に参
図式がある」
(丸山,2013:226)
。昨今,主に風車
考になる(丸山,2014)。これまでにも繰り返し
をめぐる反対運動が目立ちはじめているのには,
言及してきたエネルギー協同組合はもとより,固
開発において地域および住民が疎外・客体化され
定価格買い取り制度やゾーニングなど,合意形成
ている状況がある。日本においてコミュニティパ
のための制度設計や,ファイナンスのモデル構
ワーの議論が盛んになりはじめた背景も,海外の
築20や地域の意思を実現するためのコンサルティ
それと同じであるならば,何らかの形で地域およ
ング事業など,中間支援組織の充実なども,日本
び住民の主体性を確保する取り組みが必要であ
に比べてはるかに進んでいる。それも,単に再生
る。
「地域住民が主体となる場合には,責任に応
可能エネルギーの拡大を目指すのみならず,地域
じて地域に配分される利益の割合も大きくなる」
でのハレーションの極小化,それを実現するため
(丸山,2013:226)
。そのことによって,再生可
の,地域および住民参加のシステムも含んだもの
能エネルギー開発に対する理解を深めていくこと
となっている点に,われわれは注目しなければな
が重要である。
らない。もちろん,優れたシステムを移植するだ
けでよいわけではないが,参考にすべき部分は非
4. 2 内発性をどのように確保するか
常に多い21。
1970年代の,玉野井芳郎らによる地域主義の構
内発性を担保するために必要とされることのひ
想を経て,1980年代には,鶴見和子や宮本憲一を
とつに,目的と手段の明確化があるように思われ
中心とした内発的発展論が注目を集めた。以来,
る。現在のところ,再生可能エネルギー開発はそ
れだけで十分な話題性をもっているものであるた
19 なお,コミュニティパワーについては,西城戸によ
る以下の言及がある。「『コミュニティ・パワー』の方
20 日本でも,固定価格買い取り制度(FIT)が導入さ
針が,再生可能エネルギー事業にとって,社会的規範
れたことにより,地域金融の動きに変化が現れている
になるべきだという主張は正しい。しかし,地域社会
という。主に地方銀行で,新たな融資先として,FIT
に内発的な事業形成,コミュニティ・パワーとして機
が導入されたことによって安定的な収入が見込めるよ
能するための運営を担う事業主体のポテンシャルは現
うになった再生可能エネルギー施設への融資の枠が拡
状としてはそれほど多くない。そして,そもそもこの
大している。他方,より地域に密着している存在であ
ような社会的規範の構築は容易ではない。つまり,規
る信用金庫および信用組合では,再生可能エネルギー
範論としての再生可能エネルギー事業の内発性の重視
への融資に積極性を見せるところが少ないという。
は,スローガンに過ぎないし,またそのスローガン―
私が調査で関わった範囲でも,雪冷房の専門会社で
近代化論への対抗言説としての内発的発展―は,市場
ある雪屋媚山商店が,北海道銀行から融資を受けた例
原理の導入と地域間競争を強いる新自由主義的な地域
がある。これはFITと全く関係ないが,地方銀行のレ
開発政策と共鳴し,地域住民の主導性と地域資源の積
ベルで,新規の融資先開拓が意識されており,再生可
極的な活用を謳うことで,地域が逆に混乱し,疲弊し
能エネルギー事業がその有力候補として認識されてい
ていくという『罠』に誘うことにもなりかねない。ひ
ることを暗に示しているように思われる。
とつの内発的発展の『成功例』と同様の事例を『模倣』
21 市民出資による再生可能エネルギー開発のように,
し,自立という名の,内発性もどきの外圧型発展が繰り
日本でも独自に発達してきたシステムがあり,そうし
返されることになるからである」
(西城戸,2014:54-55)
。
た先進事例からも多くを学ぶことができる。
208
再生可能エネルギーを基盤とした社会構築に関する考察
め,開発ありきで事業が進んでしまうことも少な
る経費の削減の効果もあるが,環境保全の取り組
くない。作るまでは盛り上がるものの,その後次
みが浜中ブランドのイメージを高める。世界一ク
第に関心が薄れてしまう例は,残念ながら枚挙に
リーンな環境で将来にわたって農業生産を維持・
いとまがない。その一方で,当初から再生可能エ
発展させていくために,未利用地に樹木を植え,
ネルギーを手段とみなし,明確な地域づくり・ま
動物が行き来できる『緑の回廊』づくり,町内の
22
ちづくりのイメージを持った開発もあるし ,ま
河川に魚道の設置などにも取り組んでいる」(白
た,そうした反省を受け,近年ではさまざまな工
水,2014:44)。まちづくりのビジョンの延長上に
23
夫を凝らした開発もみられるようになっている 。
位置づけられるメガソーラーは,外部資本によっ
最近では半農半電・半電半福(祉)といった発
て設置されたそれとはまったく意味が異なるので
想もみられるようになった。農業収入と売電収入
ある。
で生計を立てるという考え方は,グローバル化の
再生可能エネルギーをどのように活用するかと
中で苦労している農業者の生き残りのモデルとな
いうことは,生まれたエネルギーの直接活用を考
り得るし,売電収入をどのように活用するかは,
えることも重要だが,同時に収益の活用法も大切
ダイレクトにまちづくりへとつながるものであ
である。繰り返すが,地域にとっては,再生可能
る。下川町の例にみられるように,森林を活用し
エネルギー開発は手段であり目的ではないのであ
たまちづくりの延長上に再生可能エネルギーを位
る。その一方で,再生可能エネルギー資源には恵
置づけるという発想はきわめて理想的な形といえ
まれているが,物的にも人的にも資本に恵まれて
24
よう(原田,1998;下川町編,2014) 。
いない周辺地域での内発性の確保の難しさという
また,浜中町では,農家へのメガソーラー導入
問題にも注意しなければならないだろう。
が行われているが,「(JA浜中町では,)農山漁村
6次産業化対策事業の補助金を使い,おそらく世
4. 3 連帯経済・倫理的消費の観点から
界初ではないかといわれる約100戸の農家へのメ
連帯経済という概念が使われるようになったの
ガソーラー導入も,…エネルギーの地産地消によ
は,1970年代以降と思われるが,大胆にまとめて
しまえば,グローバル化によって衰退を余儀なくさ
22 例えば,茨城県波崎の市民風車はNPOの活動資金捻
出のために作られたし,京都府宮津市の例では,竹の
ガス化にともなって発生するメタノールにも着目し,
れた発展途上国の農村地域における,ある種の地域
再構成のためのモデルであるとみなすことができる
再生可能エネルギーによる一点突破ではなく,複合的
(Scott,1976=1999;Hirschman,1984=2008)。
利用の道を歩もうとしている(山本,2012)。
近代化の恩恵から取り残された地域をどのように
23 市民風車は,設立当初は非常に盛り上がり,その後
見学ツアーなども企画されて,出資者である都市住民
と地域とのつながりが保たれるが,年を経るにつれて
再構築していくかというテーマは,先に検討した
内発性の議論とも通じる。グローバル経済化にお
活動が減退する例が多かった。その反省を活かす形で,
ける再生可能エネルギーの意義を考えたとき,上
生活クラブ生協グループが秋田県にかほ市に設置した
記のような連帯経済の発想は示唆的である。
風車では,生協の販売ルートに地場産品を乗せて生産
自由貿易の不公正・不経済については,バー
者との接続を図っている。ふるさと納税でも,地元産
品を謝礼として贈る取り組みに対して賛否両論あるが,
チャルウォーター25やフードマイレージなどの概
間接的ではあれ,地域経済の活性化と結びつくこの手
の発想は評価すべきだろう。
25 バーチャルウォーターは,ロンドン大学東洋アフリ
24 森林にせよ畜産にせよ,バイオマスエネルギーの場
カ学科名誉教授のアンソニー・アラン氏がはじめて紹
合は,一定量のバイオマスが必要となるため,健全な
介した概念と言われている。もともとの含意は,例え
林業や畜産業の存在が不可欠である。そうした意味で
ば水資源の少ない西アジアのような地域で農業生産を
は,バイオマスエネルギー開発はまちづくりにつなげ
増やそうと努力することは,当該地域の政情を不安定
やすいといえるのかもしれない。
化する要因となるため,輸入への依存度を高めること
209
角 一 典
念によっても説明が可能である。貿易は本来相互
化を図ってきたとすれば,連帯経済は,そうした
利益になるべきものだが,1980年代以降の新自由
流れから取り残された地域が,中心地域から相対
主義的風潮の下で進んでいるのは,他国の産業を
的に自律した空間を形成しながら生き生きとした
破壊したり,他国の富を収奪したりすることで多
社会空間を創造しようとする試みとみることもで
国籍企業が潤う事態である。さらにそれは,生産
きよう。日本をみてみると,小泉内閣のもとでの
国における大きな環境負荷をともなっている。世
都市再開発や市町村合併の推進,また近頃では,
界銀行副総裁を務めたセラゲルディンが「20世紀
東京オリンピック誘致や農協改革などから垣間見
は領土紛争の時代だったが,21世紀は水紛争の時
えるのは,一方で地方分権や地方創成を謳いなが
代になるだろう」と述べたように,水が重要な資
ら,他方でグローバルシティとしての東京の地位
源とみなされはじめた今日,東アジアのような水
向上に汲々としている政府や経済界の姿勢であ
に恵まれた地域で農業生産ができなくなるような
る。また,それと同時に,自己責任論に基づいて,
事態は矛盾しているのだが,WTOやTPPのよう
努力をしない(変わろうとしない・変わることを
な自由貿易への圧力は,その矛盾の解消とは全く
拒絶する)地域や主体を切り捨てていくという発
逆方向のベクトルである。
想である。連帯経済の発想は,それぞれの自主的
地産地消という言葉はすでに一般にも普及して
な地域づくり・まちづくりによって,いわば新自
いるし,その意味もある程度共有されている。食
由主義的競争社会のチキンレースから距離を置く
品であれば,遠くのものを食べるよりも近くのも
ものである。新自由主義的な貿易体制によって「押
のを食べる方が,環境負荷が低く,また地域の経
し付けられる」外国産の食料やエネルギーを消費
済循環が活性化されるために,地域の持続可能性
するのと違い,身近なところで生産されたものを
を高めるものである。消費者は,価格という目先
消費する連帯経済は,環境負荷の面にとどまらず,
の利益に囚われず,環境や地域経済への配慮,あ
より広い視野でみた場合,そうした産業に従事し,
るいは貿易に潜む不公正などさまざまなことを勘
多国籍企業に搾取されている人々の解放をも視野
案しながら選択すべきなのである。いわゆる倫理
に入れているのである(入れなければならない)。
的消費である。
近代資本主義においては,多国籍企業を主とす
エネルギーについてみると,化石燃料やウラン
る巨大企業がヘゲモニーを握るが,連帯経済の下
を外国から購入するのは,日本の富を海外に流出
では,社会的企業と呼ばれるような主体の存在価
させていることと同義であり,国内で生産される
値が大きくなる。社会的企業が中心となる社会に
再生可能エネルギーは,富の海外流出を防ぐと同
おいては,新しい労働モデルが必要となるだろう。
時に地域経済の活性化につながるという発想が,
平等な競争機会の名の下に持つべきものが勝ち続
ヨーロッパでは定着しつつある。また,先に触れ
ける社会の価値観とは異なる,共生を重視したそ
た下川町でも,このような認識の下で木質バイオ
れへと変わっていかなければならない。再生可能
マスの利用拡大が図られている。そして,結果と
エネルギーへの転換はそのきっかけを提供してく
して,環境が保全され,経済的公正が保たれるこ
れる。
ととなる。
あえて言うならば,地産地消の発想は連帯経済
の発想と共通している。近代資本主義システムが,
集中による効率化を強力に推し進め,利潤の極大
おわりに
冒頭でも述べたように,本稿は精緻な理論化・
体系化を目指したものではなく,展開が不十分な
で地域内での水による紛争の可能性を回避しようとし
ままの部分も残っているように思われる。引き続
た方が合理的であることを示すためだったという。
き本稿のテーマについて考察を続け,ブラッシュ
210
再生可能エネルギーを基盤とした社会構築に関する考察
アップを図っていきたい。
/サピール・J/松川周二/中野剛志/西部邁/関曠
エネルギーをめぐる状況も刻々と変化している
野/太田昌国/関良基/山下惣一,2011,
『自由貿易と
中で,対応の仕方も変化を余儀なくされることだ
ろう。しかしながら,持続可能性や社会的公正と
いった基本は,
状況の変化とは無関係に,不変の,
普遍の真理であり,国際社会で共有されるべきも
のである。それを実現するための陣地戦は,永続
革命として継続されることになるだろう。
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