...

カントの 『人倫の形而上学の基礎づけ』 についての 一 考察

by user

on
Category: Documents
16

views

Report

Comments

Transcript

カントの 『人倫の形而上学の基礎づけ』 についての 一 考察
I
カントの﹃人倫の形而上学の基礎づけ﹄についての一考察
今、私は、机上の、コンラートークラーマー著﹃非-純粋でアープリオリな綜合
鈴
木
文
孝
(哲学教皇)
認識﹂とに区分している。(以上については、﹃第三回国際カント会議報告書﹄、二
四六ページ、及び﹃非︲純粋でアープリオリな綜合諸判断﹄の、特に二八ページを
参照。) コンラートークラーマー教授は、カントの同時代人に、﹃純粋理性批判﹄
スター大学で第三回国際カント会議が開催された。その会議において、コンラー
士論文において成立した。一九七〇年三月三〇日から四月四日に亙って、ロチェ
同書の基底を成しているカント解釈は、ハイデルベルク大学での、同教授の博
原理﹂が﹁非︲純粋でアープリオリな命題﹂であるならば(﹃第三回国際カント会
る(﹃非︲純粋でアープリオリな綜合諸判断﹄、三六ページ)。同教授は、﹁原因性の
の一例であるという記述との矛盾を指摘した読者がいたことを、指摘しておられ
﹁最も常識的な悟性使用に基づいて﹂例示され得る﹁アープリオリな綜合諸判断﹂
ジにおける、﹁﹁凡ての変化は、原因を持っているにはずである﹂という命題﹂は
第二版、﹁序文﹂、第三ページにおける、上に見た記述と、同﹁序文﹂、第四-五ペー
トークラーマー教授は、﹁﹃純粋理性批判﹄における、非-純粋でアープリオリな綜
しない、そして感官の一切の印象にすら依存しない認識﹂のことであるが、カン
な諸認識﹂についての規定によれば、﹁アープリオリな認識﹂とは、﹁経験に依存
粋理性批判﹄における﹁経験の諸類推﹂を、﹁非-純粋でアープリオリな綜合諸判
而上学的基礎論﹄に即してのカントにおける﹁運動﹂の概念の究明を通して、﹃純
著作の表題に則しての徹底した解釈を通して、そして、カントの﹃自然科学の形
いて、﹃純粋理性批判﹄の﹁超越論的感性論﹂、﹁超越論的分析論﹂について、その
-232-
的諸判断﹄(一九八五年、ハイデルベルク)を、読み返している。
合諸判断﹂という研究報告をされた。その研究報告は、ルイスーホワイトーベッ
議報告書﹄、二四八ページ。﹃非-純粋でアープリオリな綜合諸判断﹄、二七ページ
以下、参照)、﹁いかにしてアープリオリな綜合諸判断は可能であるのか?﹂とい
﹃第三回国際カント会議報告書﹄
いる(二四六上一五四ページ)。(本稿では、
哲学における、非︲純粋でアープリオリな綜合諸判断は可能であるのか?﹂という
う、﹁批判哲学における主たる問いの、部分的な問いとして、いかにして超越論的
ク編﹃第三回国際カント会議報告書﹄(一九七二年、ドルトレヒト)に収録されて
により引用するが、﹁﹃純粋理性批判﹄における、非︲純粋でアープリオリな綜合
参照)。
オリな綜合諸判断﹄、一五ページ。﹃第三回国際カント会議報告書﹄、二四八ページ、
問いが問われなくてはならないことを、指摘しておられる(﹃非︲純粋でアープリ
諸判断﹂は、ルイスーホワイトーベック編﹃カントの知識論﹄(一九七四年、ドル
トレヒト)に収録されている。)
コンラートークラーマー教授のカント解釈の基底を成している考えを要約すれ
ば、以下のようにまとめることができるであろう。
トは同﹁序文﹂三ページで、次のように述べている。﹁⋮⋮だから、例えば、﹁凡
断の体系﹂として把握しておられる。(同上書、第九章の標題は、﹁非︲純粋でアー
コンラートークラーマー教授は、﹃非︲純粋でアープリオリな綜合諸判断﹄にお
ての変化は、その原因を持っている。﹂という命題は、アープリオリであるが、純
﹃純粋理性批判﹄の第二版の﹁序文﹂、ニページでの、カントの﹁アープリオリ
粋ではない。なぜなら、変化[という概念]は、経験に基づいてのみ導出され得
プリオリな綜合諸判断の体系としての経験の諸類推﹂である。)
自然界における諸実体の力学的交互作用に対応させて、目的の王国における諸人
私か、﹃純粋理性批判﹄の﹁経験の類推﹂における、その第三の原則に即して、
る概念であるのだから。﹂だから、カントは、第ニページでは、﹁純粋﹂な認識で
あることが﹁アープリオリな認識﹂であるような表現の仕方をしながら、第三ペー
ジでは、﹁アープリオリな認識﹂を、﹁純粋な認識﹂と﹁非︲純粋でアープリオリな
九
228, March, 1997
pp. 232
46 (人文・社会科学編),
愛知教育大学研究報告,
格の倫理的共同態についての解釈を試みようとしたとき、コンラート・クラーマー
と見なされ得るのである。
の命法である⋮⋮﹂(レクラム、ウニヴェルザール文庫、六八ページ)と述べて法
カントが、﹃人倫の形而上学の基礎づけ﹄において、﹁定言命法は⋮⋮ただ唯一
目的の王国は、自由に行動している人格の共同態である。だから、目的の王国
基づいて﹁自然法則の法式﹂(H・J・ペートン)を導出し、﹃実践理性批判﹄に
式化している定言命法の﹁普遍的法則の法式﹂(H・J・ペートン)から、それに
教授は、次のような趣旨のアドヴァイスを与えて下さった。
と自然界における諸実体の力学的交互作用を直接に対応させることは、不可能で
題提起に、私はあまりにもこだわりすぎてきたのではないか。なるほど、カント
﹃純粋理性批判﹄における、カントの、意志の自由をめぐっての、二律背反の問
いが、私の哲学的思考にとって非常に貴重な着想であるように、私は考えている。
その夜、私は、貴重な着想を得た。それは、私の独断的着想であるかもしれな
可能であろう。
性界﹂についての目的論的な把握をも﹁念頭に置いていたと理解することも、
の際、﹁感性界﹂と﹁叡知的自然﹂(叡知界)との親和性をもIしたがって、﹁感
置いてそのような考えを展開していることを断っているにもかかわらず、彼はそ
それらに伴う記述において、自然法則に固有の︽形式的な普遍妥当性︾を念頭に
る﹂(レクラム、ウニヴェルザール文庫、一一四ページ)と言うときも、カントが
おいて、﹁⋮⋮感性界の自然を叡知的自然の範型として用いることは、許されてい
はないか。目的の王国における諸人格が自由に行動している実践的主体であるこ
にとっては、その問題提起は超越論的哲学における主題的な問題提起であったに
とに留意した方がよいのではないか。
違いない。しかし、我々の意志が自由であることは、西洋の人々にとっては自明
くてはならないという、主体に対する定言命法の要求を、コペルニクス的転回を
フリートリッヒーカウルバッハ教授は、﹁我々は、自分か立法者の立場に立たな
とは、自明の事実であったに違いない。意志の自由に関しての二律背反は、カン
づけヒ、一〇〇ページ)と述べておられる。﹃人倫の形而上学の基礎づけ﹄、第二
意味するものとも解釈し得る﹂(﹃イマヌエルーカントの(人倫の形而上学の基礎
の事実ではないのか。カント自身にとっても、実践的主体の意志が自由であるこ
トにとって超越論的哲学における﹁超越論的﹂問題であったにすぎないのではな
庫、九五︱九六ページ)という見出しの節がある。その﹁実践哲学におけるコペ
章には、﹁道徳の最上原理としての意志の自律﹂(レクラム、ウニヴェルザール文
いか。
フリートリッヒーカウルバッハ教授の﹃カントの哲学における行為の原理﹄二
ルニクス的転回﹂(F・カウルバッハ、同上書、一〇〇ベーシー一〇八ページ、参
九七八年、ベルリンーニューヨーク)においても、カント哲学における﹁人格﹂
は現実の状況において自由に行為する実践的主体として把握されているという読
照)は、カントにおける﹁人格﹂概念の確立でもあった。カント自身の意識にお
いては、意志の自由は、明証的事実であったに違いない。カントが﹁感性界﹂と
後感を、私は持っている。
H
を意味している、と理解すべきであろう。カントは、理性的存在者を﹁自然全体
引用文中の﹁それの諸目的﹂の﹁それ﹂という語は、文法的に見て、﹁自然全体﹂
自然の王国という名前を与える﹂(レクラム、ウニヴェルザール文庫、九三ページ)。
性的諸存在者に、それの諸目的として関係を有する限り、この根拠に基づいて、
我々は、自然全体に、それが機械︹論的全体︺と見なされるとしても、それが理
行動をもって、そして、彼の行動を通して、自由を実現するのである﹂(一二六ペー
基本行為において人間は、自分が自己立法者の立場に立ち、この立場から、彼の
為、すなわち意欲の基本行為を遂行する限り、実践的に現実のものである。その
同節において、次のように述べておられる。﹁自由は、人間が実践的思考の基本行
のとしての自由﹂という節(こ一〇︱一二七ページ)を設けておられる。そして、
の﹁人倫の形而上学の基礎づけ﹂﹄第三章の冒頭に﹁理念としての自由と現実のも
なくてはならない。フリートリッヒーカウルバッハ教授は、﹃イマヌエルーカント
一〇
の目的﹂と見なしているのである。また、カントは、上記の引用文が記されてい
ジ)。フリートリッヒーカウルバッハ教授の、カントの世界観についての解釈につ
る拘東から自由であるならば、道徳的な共同態は、現実的世界において実現され
呼ぶ、現実的世界において行動している我々の意志が、本来的には自然法則によ
るのと同じ段落において、﹁自然の王国と自然の王国の合目的的な秩序⋮⋮﹂(同
いては、同上書、第三章の第六節﹁世界の必然的﹁客観性﹂と世界の視角的性格﹂
カントは、﹃人倫の形而上学の基礎づけ﹄において、次のように述べている。﹁⋮⋮
ントの世界観においては、理性的存在者が存在することによって、自然界は、目
二六〇ベージーニ八六ページ)、第七節﹁人倫の形而上学の可能性の根拠づけと
上ページ)という表現を用いている。﹃人倫の形而上学の基礎づけ﹄に見られるカ
的論世界と見なされ得るのであり、﹁自然の王国の合目的的な秩序﹂を具えた世界
-231-
孝
文
木
鈴
カントの『人倫の形而上学の基礎づけ』についての一考察
て、カントの﹁自由﹂の把握の仕方に新しい地平が拓かれた、と言ってもよいで
うことを、強調したいのである。﹁実践哲学におけるコペルニクス的転回﹂を通し
が現実の世界において自由を実現し得る存在者であるとカントが考えていたとい
私は、ここにおいて、フリートリッヒーカウルバッハ教授の記述に即して、我々
及びF・カウルバッハ著﹃カントの哲学における行為の原理﹄を参照されたい。
実践的視角を通しての行為世界の認識﹁意味の真理﹂二六六-一七五ページ)、
クラム、ウニヴェルザール文庫、六七ページ)と述べている箇所を見いだす。私
因を完全に支配するような、理性の理念のもとで)行為を結び付ける。・⋮⋮﹂(レ
的に(単に客観的にではあるが←なわち、︹我々の意志の︺凡ての主観的な動
或る傾向性に基づいて前提された条件なしに、アープリオリに、したがって必然
述べ、その﹁綜合的︲実践的命題﹂という語に注を施して、﹁私は、意志に、何か
定言命法、道徳の諸法則︺は、ア・プリオリな綜合的︲実践的命題である⋮⋮﹂と
我々は、﹃人倫の形而上学の基礎づけ﹄の中に、カントが、﹁それ︹すなわち、
ある。﹁行為する﹂、﹁取り扱う﹂というような、定言命法の諸法式において使用さ
在者である。﹁目的の王国﹂は、現実の世界において実現されるべき人倫共同態で
﹁人格﹂は、現実の世界において行動する実践的主体であり、身体を具えた存
合的-実践的命題﹂として把握してみたい。
は、その﹁アープリオリな綜合的︲実践的命題﹂を、﹁非︲純粋でアープリオリな綜
あろう。
﹁実践哲学におけるコペルニクス的転回﹂を通して、カントは、デカルトによ
カントは、︿近代的自我﹀の概念構築を完成した。カントによれば、﹁道徳法則﹂
築を遂行した。﹁意志の自律﹂に基づいて﹁人格﹂の概念を確立することによって、
れている用語は、我々の経験に基づいて成立する概念を表している。
る、いわゆる﹁近代的自我の確立﹂に匹敵する、近代哲学上での画期的な概念構
は、﹁普遍的法則﹂である(﹃実践理性批判﹄。レクラム、ウニヴェルザール文庫、
いる。私は、私の論点を明確にするために、﹃人倫の形而上学の基礎づけ﹄の中で
したがって、定言命法の諸法式には、﹁純粋﹂でない諸概念・諸用語が含まれて
五五ページ)。しかし、﹁人格﹂は、﹁道徳法則﹂に拘束されているのではない。﹁人
格﹂は、自由に行動する人格として、自立的である。そして、﹁道徳法則﹂は﹁人
格﹂に、他の諸人格との道徳的交わりI道徳的な共同態の地平を拓く。
カントが、定言命法が﹁アープリオリな実践的・綜合命題﹂であることを表現し
な、アープリオリな綜合的、実践的命題は可能であるのか。それは、人倫の形而
る﹂(レクラム、ウニヴェルサール文庫、六七ページ)。O﹁いかにしてこのよう
は、﹁目的の王国においては、凡ては、価格を有しているか、尊厳さを有している。
的存在者として把握されている。﹃人倫の形而上学の基礎づけ﹄において、カント
﹁人格﹂は、カントにおいては、現実的世界において自由に行動している理性
から純粋実践理性の批判への移行﹂における基本的な考えによれば、﹁アープリオ
握しなくてはならない。﹃人倫の形而上学の基礎づけ﹄、第三章﹁人倫の形而上学
かである。我々は、定言命法を、﹁アープリオリな実践的・綜合的命題﹂として把
ることは、そこに﹁ゾレン﹂という言葉が用いられていることを考えれば、明ら
-230-
今、私は、カント倫理学に即して、ドイツ哲学における倫理思想の特徴を論述
上学の限界内では解決できない課題であり、我々は、それが真理であることを、
ている記述を、総括的に、ここに引用しておきたいと思う。
﹃純粋理性批判﹄の﹁経験の類推﹂における、自然界における諸実体の力学的交
理想的﹁人格﹂観である、自律的人格の理念が哲学的に確立されている。私は、
ここでは︹すなわち、﹃人倫の形而上学の基礎づけ﹄第二章では︺主張しなかった
O﹁︹定言命法ないし道徳性の法則︺は、アープリオリな綜合的・実践的命題であ
互作用との直接的な類推によって﹃人倫の形而上学の基礎づけ﹄における﹁目的
きないであろう。しかし、カントの倫理学においては、近代ヨーロッパにおける
の王国﹂について私特有の解釈を試みることに代えて、﹁目的の王国﹂そのものに
いうことは述べていない﹂(レクラム、ウニヴェルザール文庫、一〇二ページ)。
し、なおさら、それが真理であることを証明することが我々の力で可能であると
している。カントの倫理学にドイツの倫理思想が集約されていると言うことはで
ついての考察を試みてきた。その結果、私には、カントにおける﹁人格﹂の概念
O﹁その定言的ゾレンは、アープリオリな綜合命題を表現している﹂(レクラム、
を明確に捉えることができるようになった。本節においては、その成果を集約し
て叙述した。﹁目的の王国﹂については、次の節においても論じる積もりである。
⋮⋮﹂(レクラム、ウニヴェルザール文庫、八七ページ)と述べている。﹁目的の
それの成立根拠を解明することが極めて困難な綜合命題である。
リな綜合命題﹂としての定言命法は、それを我々が意識しているにもかかわらず、
右記の第三の記述においても、定言命法が︽実践的命題︾として観念されてい
ウニヴェルザール文庫、一一四ページ)。
王国﹂は、いわゆる﹁仮想界﹂において実現されるべき人倫共同態ではなくて、
Ⅲ
現実の共同態として実現されなくてはならないのである。
一
孝
木
文
鈴
﹃純粋理性批判﹄においてカントは、﹁いかにしてアープリオリな綜合諸判断は
﹁⋮⋮それを解決することは、人間理性が全力を尽くしても不可能であり、それ
あるのか﹂という﹃人倫の形而上学の基礎づけ﹄において定式化された問いは、
﹁いかにして︹アープリオリな綜合的・実践的命題である︺定言命法は可能で
を説明しようとする、一切の努力・仕事は無益である。﹂
な問題設定を行なっている。カントが念頭に置いている﹁超越論的哲学﹂は、﹁純
可能であるのか?﹂(第二版、一九ページ)という、﹁超越論哲学﹂の最も基礎的
粋理性の一切の原理の体系﹂(第二版、二七ページ)である。﹁超越論的哲学﹂に
﹁いかにしてアープリオリな綜合的諸判断は可能であるのか?﹂という、﹃純粋理
綜合判断﹂の成立可能性について、新しい問題設定を行なっているのである。我々
﹃人倫の形而上学の基礎づけ﹄において、︽実践哲学︾における﹁アープリオリな
性批判﹄において定式化された問いの中には包含され得ないのである。カントは、
志︾の立法の基づいて成立するのである。﹃人倫の形而上学の基礎づけ﹄の中で、
は、ここに、﹁いかにして定言命法は可能であるのか﹂という問いに対する、カン
しかし、﹁アープリすりな綜合的・実践的命題﹂としての定言命法は、人格の︽意
おける諸原理・諸命題は、人格の︽意志︾にかかわりなく成立する。
カントは人格を、﹁アープリすりに作用する原因﹂として把握している。例えば、
トの特別な問題関心を、認めなくてはならない。
﹁アープリオリな綜合的・実践的命題﹂である定言命法の基礎づけがなぜ﹁超
次の記述を見られたい。﹁しかし、我々には、なお一つの考え方が残っている。す
越論的哲学﹂のうちに包含されていないのかについて、私は、上述したように、
なわち、我々は我々を、自由によってアープリオリに作用する原因と考えるとき
には、我々自身を、我々の諸々の行為に関して、我々の眼前にある諸々の結果と
定言命法が成立するためには人格の︽意志︾の自己立法が必要であり、定言命法
は、﹁純粋数学﹂・﹁純粋自然科学﹂におけるアープリオリな綜合諸判断の成立とは
いう考え方が、残っている﹂(レクラム、ウニヴェルザール文庫、一〇九ページ)。
異なる成立根拠を有するからである、と考える。定言命法は、﹁純粋数学﹂・﹁純粋
クラム、ウニヴェルザール文庫、六八ページ)の概念も、﹁人格﹂の概念も、経験
(同
― 229 ―
考える時とは異なった立場を占めているのではないかということを考えてみると
引用文中の﹁考え方﹂とは、﹁自由と意志の自己立法の両者は自律であり、した
身は、一つの可能的な論拠として、感性界における︽自己︾と悟性界における︽自
がって交換概念である﹂(同上ページ)ということに起因する、定言命法の成立根
己︾との行為的主体の﹁二つの立場﹂の(綜合︾として﹁アープリオリな綜合命
自然科学﹂における綜合諸判断とは異なり、﹁命法﹂の形で定式化される。それも、
己活動性﹂、﹁純粋な自発性﹂を強調し(レクラム、ウニヴェルザール文庫、一一
題﹂である定言命法が成立するという考えを、﹃人倫の形而上学の基礎づけ﹄第三
定言命法の成立には人格の︽意志︾の自己立法がかかわるからである。カント自
一ページ)、﹁理性的存在者﹂を﹁叡知者としては⋮⋮感性界にではなく、悟性界
章において提唱している。それは、実質的には、一つの可能的な論拠であるにと
とである。これに続く記述の中で、カントは、﹁︹純粋実践︺理性﹂の﹁純粋な自
に属する﹂者として把握する、理性的存在者に﹁二つの立場﹂を許容することに
拠の基礎づけをめぐる﹁循環︹論法︺﹂(同上ページ)を脱却する﹁考え方﹂のこ
よって(同上書、一コーページ)﹁いかにして定言命法︹単数-引用者︺は可能で
どまらず、彼の実践哲学を支えている最も基礎的な考えである。
定言命法が、感性界における︽自己︾と悟性界における︽自己︾との行為的主
あるか?﹂(同上書、一二一ページ)という問いを解決する解決法を、主題的に論
体の﹁二つの立場﹂の︽綜合︾として成立するということは、定言命法は﹁非︲純
究している。私自身の考えによれば、そこにおいてカントは、定言命法の成立の
可能性の完全な基礎づけを遂行することができたはずであるが、彼は、﹁叡知者﹂
粋でアープリオリな綜合的・実践的命題﹂として定式化されるということである。
から独立している概念ではない。﹁目的の王国﹂の概念に経験に基づく諸概念が含
そして、﹃人倫の形而上学﹄における﹁行為﹂の概念も、﹁普遍的自然法則﹂(レ
ないし﹁物あるいは存在者それ自体﹂(同上書、一一九ページ)、﹁諸事象それ自体﹂
展開していない。﹃人倫の形而上学の基礎づけ﹄においては、カントは、﹃純粋理
まれていることについては、既に述べた。ここで私は、カントが、定言命法の﹁目
(同上書、一二二ページ)を、したがって﹁悟性界﹂を、積極的な概念としては
性批判﹄において彼がその解明を目指した、人間の認識能力の限界性の考えに則
的の王国の法式﹂(H・J・ペートン)において﹁道徳法則﹂ないし﹁定言命法﹂
して、彼の論述を展開しているのである。
の﹁直観﹂化がなされていることを明言していることを、強調しておきたい
ここで、私は、定言命法が﹁実践的命題﹂であるというカントの所論について、
私なりの解釈を与えてみたいと思う。カントは、﹁いかにして定言命法は可能であ
上書、八九一九〇ページ)。
カントは、﹃人倫の形而上学の基礎づけ﹄において、定言命法の﹁普遍的法則の
るのかという問い﹂(同上書、こ一四ページ)を、﹁いかにして純粋理性は実践的
であり得るのか﹂という問いに集約して、言う(以下、同上書、二一五ページ)。
一
一
一
カントの「人倫の形而上学の基礎づけ」についての一考察
と述べながら(レクラム、ウニヴェルザール文庫、六八ページ。同様のことが、
法式﹂を定式化する際、﹁定言命法は、それゆえ、次のような唯一の命法である⋮⋮﹂
のではないであろうか。なぜなら、﹁人倫の形而上学﹂においては、普遍的な徳論
う。その際、我々は、カントの﹁人倫の形而上学﹂の理念に立ち返る必要がある
の促進ために、我々は国際化社会におけるジッテを考えなくてはならないであろ
の体系の構築が目指されているのであるから。
(平成8年9月11日受理)
同上書、九〇ページでも述べられている)、同書、第二章に﹁道徳の最上の原理と
しての意志の自律﹂(同上書、九五一九六ページ)という節を設けている。
それは、カントが﹁意志の自律﹂の理念に基づいて﹁アープリオリな実践的・
綜合的命題﹂である定言命法の成立根拠を解明しようとしているからであるが、
の王国﹂の理念及び定言命法の﹁目的の王国の法式﹂が(そして、定言命法の﹁自
我々は、更に下記のような理由を考えることもできるであろう。すなわち、﹁目的
然法則の法式﹂も)あまりにも﹁非︱純粋﹂な理念であるがゆえに、彼は、定言命
法が﹁純粋﹂な﹁実践的・綜合命題﹂であることを強調しようとして、﹁意志の自
律﹂をもって﹁道徳の最上原理﹂と考えようとしているのではないであろうか。
私の考えによれば、定言命法の﹁自律の法式﹂(H・J・ペートン)は、定言命法
の﹁普遍的法則の法式﹂と同様に、他の諸法式よりも﹁純粋﹂である。カントが
﹃人倫の形而上学の基礎づけ﹄において最初に定言命法の﹁自律の法式﹂を定式
― 228一
化する際、彼は、﹁行為﹂の概念を用いないでそれを定式化している。すなわち、
ム、ウニヴェルザール文庫、八二ページ)。その際、彼は、その法式を、﹁意志が
一
一
一
﹁普遍的に立法する意志としての各々の理性的存在者の意志という理念﹂(レクラ
普遍的で実践的な理性と合致するための最上の条件としての、意志の第三の実践
的原理﹂(同上ページ)と呼んでいる。なお、定言命法の﹁自律の法式﹂は、同上
そのように考えることによって、我々は、なぜカントが定言命法の﹁自律の法
書、九〇ページにおいて、命法の形で定式化されている。
式﹂を、最初、﹁理念﹂の形で定式化したのかを理解することができる。彼は、そ
れを﹁純粋﹂な法式として定式化しようとしたのである。しかし、彼がそれを﹁命
法﹂の形で法式化するとき、彼は、﹁行為する﹂という﹁非︲純粋﹂な概念を用い
ざるを得なかった。定言命法には、そのように、経験に基づく概念が本質的に含
まれているのである。
結び
ジッテ(道徳・儀礼)は、民族・国民によって異なる。それぞれの民族・国民
には、固有のジッテが備わっている。しかし、我々相互がそれぞれの民族・国民
に敬意を抱く限り、我々は、お互い同士を理解し合い、親密な人格的な交わりを
ますます進展してゆくであろう国際化社会における諸民族・諸国民の相互理解
結ぶことができるはずである。
一
Fly UP