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イスラエル史における王権の確立とその特質

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イスラエル史における王権の確立とその特質
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イスラエル史における王権の確立とその特質
宇野, 光雄
北海道大學文學部紀要 = The annual reports on cultural
science, 12: 83-105
1964-03-18
DOI
Doc URL
http://hdl.handle.net/2115/33279
Right
Type
bulletin
Additional
Information
File
Information
12_P83-105.pdf
Instructions for use
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
イ ス ラ エ ル 史 に お け る 王 権 の 確立 と そ の 特 質
,-'-.
二
ヨ
野
光
雄
イスラエ ル史における
王権の儲立とその特質
光
しかし、この王国創始は、イスラエル宗教連合の内的発展の
m
治機構、 また連合それ自体に属するいかなる軍事機構も持たず、
一の中央官職であった士師も政治職でなく、あくまでもこの神との
契約締結から生じたイスラエル人の遵守すべき神の律法に携わるも
のであった。また連合の構成要素である各部族はヤハウェに対する
礼拝奉仕、神の律法の遵守に対する責務の外は独立自存の生活を行
ないむしろ相互に閉鎖的であり、外敵に対し、部族領域の拡張に際
して、各々独自の判断にもとづいて自主的に行動したと言える。従
本稿は
ると、土師時代は、。
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H
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日百九山巾
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U
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ω ・-
PHMOo--OMO回
・。・である。
50庄日∞ロ町立問件。ロNEHOgnrrrHO ︿o-rg-m
つ一)わ戸﹀55nE ﹀丈一一
(三)北海道大学文学部紀要8、三七頁以下。
円阻止
て多くのことをイスラエル人に熟知せしめ、また、武装費自己負担の原則に
もとさついて召集された己が兵力と比較して、合理的な軍事制度のもたらす兵
(四)イスラエル人は、王国の制度を知らなかったわけではなかった。二世紀
にわたるカナ γ人の小都市国家群との接触、角逐は、王国の機構、制度に関し
v
エジプトの例が代
この点に、注目しつつ、 イスラエル史における王国創始か
国とは相互に相いれざる存在形態であったと言える。
(四)
表するような賦役国家が嫌悪すべきものであったように、連合と王
イスラエル人にとって、
って、何等の政治的要素をもたない宗教連合の形態から専制的君主
Q
ら王権確立に至る道を検討することによって、 王 国 の 特 質 を 明 ら か
した
結果としてあらわれたものでなかった。むしろ宗教連合と王国と
にしようとこころみたものである。
s
いて、神ヤハウェ
﹂の連合は、独自の体験にもと つ
﹁イスラエル宗教連合﹂の小論において、 この連合の特質に言及し
たのであるが
とイスラエル一二部族との契約締結によって成立したもので、決し
て政治的統一体ではなかった。連合神ヤハウェのみを己が神として
崇拝すること、その限りこの神は、この民のみを己が民として、
民とともに万難を排して進むということが、契約の内容であった。
従って、連合の真の指導者は神ヤハウェであり、連合の真の守護者
もヤハウェの外に考えられなかった。連合は、各部族を統治する政
北大文学部紀要
田gロロ巳﹀己ggpm 切手gHB522呂
(一)吋}再建
o
w 何岳片ぬ︽同S C・肘
弓・司-kr-mry-uup}U・ S-なお、この年表によ
巧口問rpHり・︿・司ニ ωDpd
は、本来全く質を異にする存在であったと言える。筆者は、すでに
の
行きつく道程ではなく
一二部族の宗教連合として、パレスティナにおいてはじめて統一
J
によって支配される王国への道は、 その内的発展の結果おのずから
(一)
サウル王の即位をもってはじまり
師時代を経て王国を創始することになった。
王国の創始は
。タピ ア
、
ある共同体を形成したイスラエルは、その後ほぼ二世紀におよぶ士
点
佳
モンの時代を通して、比較的短期間のうちに確乎とした基盤を獲得
ソ
ロ
'-
- 85 -
野
イスラエル ψんにおける主権の確立とその特質宇野
力の強さも十分知っていたと考えられる。従って、王国創始への動きも、シ
ケムのアピメレク(土師記九章)の例が一不すように、土師時代にも皆無でな
に、イスラエルを治めるのはヤハウェのみであり、神のみがイスラエルの困
かった。しかし、こうした動きは、ギデオン(土師記入章)の例が示すよう
窮を汝い得るという確信によって退けられたのである。
さて、上述のように、連合神ヤハウェに対する礼拝を中心として、
そ れ の み に よ っ て 結 合 し て い た イ ス ラ エ ル 人l そ れ 以 外 で は 、 各
われわれは、 サ ム エ ル 記 の 歴 史 伝
部族ごとに独立自存の閉鎖的生活を行なっていたイスラエル人ーを
して王国創始へと促したものを
一般から明らかに読みとることが出来るように思われる。即ち、それ
(一)
は、ベリシテ人のイスラエル人に加えた圧迫であった。
イスラエル人は、 徹 底 的 敗 北 を き つ し た 。 (
Hω 戸 虫 色 特
パレスティナ中央山岳地帯の制覇をめざすべリシテ人との二度の
決戦に、
に、二度目の戦闘で、戦場に運ばれた﹁聖なる箱│神の玉坐が奪
2y
(門戸﹄
エフ一フ,寸ム、 ベニヤミ
﹂れが当時のイ
ベリシテ人の圧制下に苦しまねばならな
GW。 ) イ ス ラ エ ル 人 ! 特 に
われ、連合の中心聖所であったシロの神肢も破壊された。
吋一ロリエゆ民一
ンJ
d 放の領域の人々ーーは、
州
かった。 (nhHFB・E ・51NH)
﹂のベリシテ人の明から解放されるということ、
一つの機縁が与えられた時、 イ ス ラ エ ル 人 を か り た て て
スラエル人の切実な願望であったと言うことが出来る。この切実な
願望が
王国創始へと向わせたと考えられ、 そ の 機 縁 と な っ た 事 件 を わ れ わ
(
一
一
一
)
サムエル記上十一章の伝承から知ることができる。以下この
Q
7 ・旧約聖書緒論、第三巻前の予一言者、石田友雄、石田道子
﹀-Fo俊一 D目
ynFfEM-u足止・)しかし、 A- ロlの説にも欠陥があり、た
だちに従うことは出来ない。ここでは、最も明瞭にサウル王即位の事実を伝
れたという説を唱える。その理由は、ベリシテの支配下にあったギベアから
サウルがヤベシ救援の軍を起すことは、不可能であるというのである。(口町・
テ人に対する反乱をおこし、ミクマシで勝利を収めた後に、ギベアで王とさ
ロ lは、即位式に関する記事は失われた、が、サウルはゲパでベリシ
た
、 A・
ユ
∞
と比絞して二次的である。(ファイアて前掲書、一 O 一頁以下参照。﹀ま
m
r
H一﹀出Eoqc同HmgofsupM︾・区ご第三の資料は、第一の資料
に抵抗しながらも屈しミヅパでサウルを王としたという伝承である。(門町・同・
章、十章十七節l 二七節までで、土師サムエルが民の王をたてようとする要求
在していたヤベシの資料(十一章)が組込まれたと考えられる。第二は、八
節、十三章三節(後半)凹節(後半)│十五節で、これに、もとは独立に存
にする資料が見出される。その一つは、王国に好意をもっ記事であり、他
は、敵志をもつものである。第一の資料は、サムエル記上九章一節│十六
得ないことを知り、連合の名において﹁聖なる箱﹂を戦場に運び勝利を得ょ
うとしたものと思われる。(拙稿、前掲書、三七頁参照。)
(一二)サムエル記上において、サウル王即位の事実を告げるこつの態度をこと
これまでのように、真接脅威を受けた部族、あるいは部族群でこれに対抗し
訳、一九六二、九九頁参照。)従って、イスラエルは、最初の敗戦の結果、
た。(ファイブ
イスラエル人やカナγ人と比較してはるかに優れた武装と組織をもってい
市国家には見られないことであった。(ロ同・﹀・﹀}同い D
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仏
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目
以
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戸
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-ロ
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ωニω岡田O Y 吋55-mgLSω ・出-Ecorp-3uu 可-us・)また彼等は、
に協力し、軍事行動を共にした。このことは、これまでのパレスティナの都
は、相互の独立性を損うことなく、外部に対する政治目的遂行にあたって互
(二)ベリシテ人の都市国家エクロ γ、アシドド、アシケロン、ガザ、ガず
(一)(以・﹀-﹀H
H
D
H
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2
f
ω ・ニ同・
聞の事情を伝承に従って見て行きたい
l
主
えているものとして、ヤベシの資料をとる。
86 -
~
れ
っても同様であったと思われる。彼の召命の記事が物語るように、
V
てサウルを王とし、新制度のもとでベリシテ人からの解放戦争をか
ちとろうと企図したものと思われる。サウルを王としたことは
一時的偶然的なカリスマ的指導者と、従軍を促さ
自己の意志で王となったのでなく、 また専制君主たることを企図し
L-
アンモン人によって包囲されたヤベシ・ギレアデ l東ヨルダンの
マナセ部族の地に属すーから派遣された使者の救を求める訴えをき
れまでのような、
れて集った武装費自己負担を原則とする召集兵力のみでは解放戦争
きながらも、 ペリシテ人の支配下にあって苦しんでいたギベアの人
なすすべを知らず、 ただ嘆き悲しんでいた時、 それを伝え聞
μ
を行なうことが不可能であることを覚り、継続的に軍事力を養成し
2人 ふ
(
︿ - G ) カリスマ的指導
??為、
いたサウルに突如神の霊が激しく臨んだ。
即けたものと推測される。サウル王即位の事実は、 M ・ノ lトも主
ょうとし、 サウルをして、常備兵力の養成者、指導者として王位に
的方式に従って、各部族に従軍を促いc 召集された軍を指揮し、ア
張しているように、イスラエル人の決意にもとづく政治的行為であ
者として、神から召命されたことを自覚したサウルは、連合の伝統
ンモン人を急襲し、輝かしい勝利を得、ヤベシ・ギレアデの人々を
ったと言うことが出来るであろう o 何 故 な ら 、 連 合 神 ヤ ハ ウ ェ の み
(五)
イスラエルを救い得るのであり、 それ以外の要素、例えば、兵力、
(四)
救った。士師サムエルは、戦勝後各部族(各部族の長老)をエリコ
﹂こでサウルを王とした。
装備等によるものではないと言う連合の伝統的確信がくずれ、ベリ
その二は、 サウル王の即位は、 イスラエルにとって、全く新しい
たわけでもなく、あくまでもペリシテ人の圧迫からイスラエル人を
- 87 -
の近くにあるギルガルの聖所に集め
サムエルの宣言に讃同した。
シテ人に対抗し得る、 またこれを陵駕する兵力を白からの手にょっ
巾
さて、以上の主旨を伝えるサムエル記十一章の記事から、 われわ
て養成しようとイスラエル人が決断したと見ることが出来るからで
5・老若宮B -prp) 民は、
れは、 サウル王即位について、二つの注目すべき事実を指摘するこ
ある。勿論、 イスラエル人は、彼等の行為が自己の決断にもとづく
(
︿
・
サウルの公的舞台への出
とが出来るであろう。即ち、その一つは
ものであり、それが連合の存立そのものを否定する結果となること
土師時代、連合の非常事態において、 その都度、連合神ヤハ
現が
ω 回目・。一 5
を意識しなかったと思われる。むしろ、彼等は文献 ρ
からも読みとれるように、王国の創始は、神の
政治体制の出現、 しかも、 これまでの連合のありかたから見て、考
意志であり、神のわざであると考えたようである。またサウルにと
- R J H C υ H V ]戸 ] 戸 い Hω)
ウェによって召命されイスラエルを救ったいわゆる大士師、 ギデオ
︼
己
門 Y 口一一出)等と同じ型に属するカリ
時
一
) エフタ (
(
一
﹃
ロ
門
﹁
。
一 ω九
{-一)
えられないような新事態の出現であったと言うことである。恐らく
しかしながら、 上述のことから推測し得るように、結果は、神の
解放するということがその目的であったと思われ石。
北大文学部紀要
導者としてのサウルの出現、 ア ン モ ン 人 に 対 す る 勝 利 を 機 縁 と し
ペリシテ人の支配下で苦しんでいたイスラエル人が、 カリスマ的指
スマ的指導者であったと言うことである。
ン
イスラエル史における王権の確立とその特質 宇野
は、古き伝統の擁護者として、神の意志として、 サウルからカリス
このこ
直 接 支 配 す る 宗 教 連 合 と 位 俗 的 王 権 が 支 配 権 を も っ 王 国 と は 、 その
NG) 伝承は、
マ的資格を剥奪したのである。
(HF5・白い
木 質 上 、 相 互 に 否 定 し あ う も の で あ っ た の で あ る 。 従 っ て 、 サウル
とを、神の霊ーかつて、 ヤベシ・ギレアデの危機を伝え聞いた時、
山
EWEWMω)
由
自
・5 一
(Hω
サウル王にとって決定
的に重大であったと思われる。何故なら、 サ ウ ル 王 は 、 神 の 召 命 を
カリスマ的指導者としての資格の喪失は
エから下されたと表現している。
突如として下った神の霊ーがサウルから離れ、代って悪霊がヤハウ
{七)
王即位の事実は、宗教連合の基盤の上に、 こ れ と 相 矛 盾 す る 要 素 を
もつ王国を建設しようとしたことを意味するであろう。即ち、
るであろう。
受けたものとして、諸部族の承認を得たのであるから、今や
スマ的資格の喪失と共に、王位の正当性及び寧の召集を諸部族に対
171 tま
J
I:
-A
﹄
っ
ー
二つの要素を内蔵していた点に見出すことが出来るように思われ
して要求する権利も失ったことを意味したからである。
余王
裕 6v
こ
的ノレ
サウル王は、その地位をささえていた宗教的基盤を失い、独力で
王国の機構整備へと向わねばならなくなった。しかし、
とって、 こうした内的諸問題を解決し、
る
時サ
間ウ
(九)
u
︼巾
・
)
(U
uuuwP4u・
ルボア山で搾れたからである。(門同・ 500
(一)拙稿、前掲書、四四頁参照。
)(UFH 市虫凶
RR口一円切円宮山アロ H H ︿
の努力は、失敗に終った。しかし、イスラエルの政治的発展における新しい
によって、士師の継承を堅固な基盤の上にうちたてようとした。しかし、こ
固な政治制度を必要とした。サムエルは、自分の息子をその職につけること
即ち、イスラエル人の富の増大は、ベリシテ人の脅威と結びついて、一一層堅
職制 (
EE
) があったと考えている。彼は、大略以下のように述べる。
問F
のカリスマ的指導者と玉制の聞に、一代限りのイスラエルの指導者としての
e
ォ iルフライトは、王制の出現が突然のものでなく、土師時代
)W-F・
2一
(一一
・
切
た決戦で、 サ ウ ル 軍 は 完 全 に 打 破 ら れ 、 王 自 身 も そ の 子 等 と 共 に ギ
が な か っ た よ う に 思 わ れ る 。 ベ リ シ テ 人 と の 聞 に 、 まもなく始まつ
立
す
(し﹃ロ仏・
(H
権
を
確
デオンの例のように、神にその支配権を返さねばならない。
∞
一
一 NNVNω﹀しかしながら、 王 と し て は 、 そ の 国 家 理 性 の 要 求 に 従 つ
て、新制度の整備、 王権の確立をはからねばならない。従って、
われわれは、 サ ウ ル 王 と サ ム エ ル の 離 聞 を 伝 え る 伝 承 か ら
︿大)
ウル王の前途には、甚だ困難な問題がよこたわっていたと言うこと
ど
が出来るであろう。こうしたサウル王のもつ内的矛盾の端的なあら
つ1
11nqpすAJ'
サウル王が〆アマレク人と
読 み と る こ と が 出 来 る よ う に 思 わ れ る 。 伝 承 に 従 え ば 、 サウル玉の
即位に積極的役割を演じたサムエルは
アマレクの王アガグを捕虜とし、戦利品を持帰ったこと
自己の功績(神の
王
に思われる o カリスマ的指導者としては、 その目的遂行の後は、
る。また、 サウル王の悲劇的結末の原因も、 こ こ に 見 出 さ れ る よ う
サウル王国の特質を以上のような相互に否定しあう
ことにする新しい体制の基礎を確立しようとしたと見ることが出来
ラエル人は、古い宗教的伝統の権威をささえとして、それと性質を
イ
の戦において、家畜を含めて一切を滅しつくせという神の命令に背
1tvvl
、:
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∞
同5・
5 一巳)を伝え聞いて、
ω即
日
・ 5 一一江戸)並びに、戦勝記念碑をたてて
ではなく)'を誇ったこと
- 88 -
カ
リ
ス
ギ
サ
今
度
ELr(一時的でな
段階がはじまったのである。即ち、カリスマ的人物を E 出
ねばならなかった。彼らのベリシテの朝から解放されんとする願望
- Y向
ベリシテの朝からイスラエルを解放し
ダビデ王国建設への道は
を支配する大王国を
サウル王のそれとは全く異って
設に向ったと考えられる。ここで彼の王国建設に至る道を検討しつ
(Hω B
同 ・
E-Euω 。 ) 万 人 に 愛 さ れ た た め 、 サ ウ ル 王
ここで無頼の徒
部下と共にベリシテのガテの王アキシに仕え、 チ ク ラ グ を 封 土 と し
デは、当時南方諸部族と密かに誼を通じていた。その後、ダビデは
回一一 ω お ) 部 族 の 統 制 下 を は な れ 、 独 自 の 生 活 を 行 な い つ つ ダ ピ
を 集 め 、 そ の 頭 目 と し て 略 奪 を こ と と す る 生 活 を 行 な っ た 。(
Hω白
戸
西ヨルダンの山岳地帯の南部にひきこもり
の嫉視にあい、故郷のベツレへムに逃げ、更にサウル王の追跡をさ
したものの
じ ま る 0(Hω 回
目
・ 5hNH) 彼 は 、 戦 功 に よ っ て 次 第 に 頭 角 を あ ら わ
ダピデの公的舞台への出現は、 サ ウ ル 王 の 従 者 と な っ た 時 か ら は
っ、まずこのことを明らかにして行きたい。
周到な準備のもとに与えられた機会を最高度に利用しつつ、 王国建
更には、部族の統制外にあって、自己の実力と才能を背景として、
いた。われわれの見るところ、 ダ ビ デ は 、 宗 教 連 合 の 外 に た っ て 、
しかし
建設するのに成功した。(口問-Nωgf ∞
一 5RWEuEu ロ・混同町)
)
らエジプトの川に至るまで(昇。ロ∞・ 8
たにとどまらず、更にシリア、パレスティナ全土ハマテの入口か
、
ι
-伊反十
41l イスラエルを統一し、
ついで王国を建設したユダ人ダピデによって成就されたのである。
は 、 未 解 決 の ま ま 残 さ れ る こ と に な っ た 。 こ の 願 望 は 、 サウル王に
サムエルが玉の代りに一代限りの指導者をおこうとした計画は、失敗に終っ
く、その生涯にわたるイスラエルの指導者)とすることであった。サムエル
M--o一戸)に任命したのである。しかし、
は、サウルをこの EmELr(三山 E
回
HEケ
た。それは、新しい指導者の就任に対して、ただちに王(自己岳どという
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言葉、が適用されることになったからであるとo
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(五)拙稿、前掲書、四四頁参照。 ・
日
(六)冨-Z210℃ n
XJω. aM・
々にとって、サウルの行為は、神を無視する暴挙である。しかし世俗的王と
(七)戦が聖戦であり、戦勝を与えるのは神であると言う連合の伝統にたつ人
い
8!
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H・均一 H同町・)彼は、
て受け、 ベ リ シ テ の 一 諸 候 と な っ た 。 (
イ
しては、敵の王を捕虜として、また戦利品を民に示すことは、民に威信を示
すことであり、民の心を得るに必要であろう。また戦利品を得ることは、消
即ち、世俗的玉として当然と考えられる行為も連合の伝統的慣例からは悪に
耗した軍備を回復するため、またより充実するために必要なことであろう。
外ならなかったのである。
(八)サウル王の統治に関し、サムエル一記上十三章一節で﹁サウルは三十歳で
王の位につき、二年イスラエルを治めた。﹂となっている。この記事は、後
代の編集者の手になるもので、信溶性を欠いている。(ファイブて前掲書
一一一一一真参照。)サウル王統治の期間に対してまだ一致した定説を見ない。
しかし、われわれは、この記録が事実上と違っていたとしても、その統治期
。
一 CHM-nFfω--3・
間は、そう長いものでなかったと考える。口﹃・冨-ZO件
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1・﹀5H仲r
H
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V
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(九)﹂司間H C
M︾ 口H
さて、以上のように、 イ ス ラ エ ル 人 の 王 国 創 始 は 、 そ の 内 的 矛 盾
を解決できず、再びベリシテ人との戦闘に敗れ、 その支配下に服さ
北大文学部紀要
~
け
て
イスラエル史における王権の確立とその特質 宇野
スラエルの仇敵であったベリシテに仕えながら
一方では、 王をあ
ざむいて、忠誠を尽しているようにふるまうと同時に他方では、
クラグ周辺のゲシュル人、 ゲゼル人、 アマレク人を冠略し、 その戦
利口聞の一部を南方諸部族の長老に贈り、その歓心をかっていた。
2 r g S 一一以l 出 ) ペ リ シ テ 諸 王 の サ ウ ル 王 攻 撃 の た め の 進 軍
に際して、ベリシテの諸候の一人として、従軍の義務をもったダビ
デは、もとサウルの家臣であった理由により、他の‘ベリシテ王から
戦場で裏切るかも知れないという疑を受け、従軍を免かれてチクラ
(Nrg-C 時節の到来を知り、
Hω B
グに一戻った。 (
NmEhkp 。民u
ω 。hH) ダビデは、 チクラグで
同サウル王の惨敗と彼の死を聞き
ネルは、 ダ ビ デ の 将 軍 ヨ ア ブ に 殺 さ れ
一時、全イスラエル統一の
アブネル殺害に対する北方諸部族の疑惑を除いた。
企は挫折したかに見えた。ダビデは、 ア ブ ネ ル の 死 を 悼 み 盛 大 な 葬
儀を行い
(
ω
ω
m
w
B
ω 一ω叶)アブネルの死によって、 イ シ ボ セ テ は そ の 勢 力 を
失い、家臣によって殺され、その首がへブロンに届けられた。ダビデ
(七)
は、この者たちを主刑判を暗殺した大罪を似合めて殺し、イシボセテを手
ヘプロンに下り、
ダビデに油をそそ
厚く埋葬し、 イシボセテ殺害に関する疑惑を取除いた。 (
N
ω 同BAC
イスラエル諸部族の長老は
(八)
ユダ両国の王となり、全イスラエルを統一した。
(
ω
ω 同
B-ωυω) ダピデはここで、
ぎ、イスラエルの王とした (
一ブエル
ス
ダピデは
いずれも手兵をもってこれを打破り、圧倒的
(NEB-守口!凶﹀ ベ リ シ テ 人 は 、 海 岸 地 方 に 閉 じ
イスラエル人の多年の願望であった独立
。
-L 吋
2SBSFSuuw
ここを主都として、名実備わるイスラエルの統治者となった。
片
(二﹀この時期は、ダピデのその後の生活に対して重要な意味をもったと思わ
れる。彼の軍人としての性格、傭兵軍の指揮者としての性格は、この時期に
}U.M品
・
,o
HLOBEEopro
F
]山口問﹀・回向唱え一、Hr
(一﹀(以-
R)
ブス人の都市国家で要害堅固なエルサレムを攻略し、 (NFB-uhG
ここで達成されることになった。ダビ一アは、その後、独力でエ
込められることになり、
勝利を収め、
撃したが
さて、 こ の 事 態 を 見 た ベ リ シ テ 人 は 、 二 度 に わ た っ て ダ ピ デ を 攻
イ
形成されたと考えられる。門戸沼-zcguD司C
H
F
v
ω ・日 aa・また部族体制の拘
束力から離れたことによって、当時のパレスティナの状況を客観的に判断す
ることを学んだと考えられる。
(一二)ダピデは、この期間に二人の妻を姿っている。 一人は、マオンの富裕な
守
- .
90
モの徒党、家族を含めて、南部山岳地帯の中心地へブロンにのぼっ
(四)
た
。 (
N
ω B
ダビデに油を
同 -NHH民・)ユダの人々が、そこに来て、
{五)
注ぎユダの家の王とした。(∞ ωEM-NHK件 )
N
い]戸
は
一方、 ギルボア山の敗戦後、 サウルの将軍アブネルは、 サウルの
山一∞同町・)こ
(
N
ω回
目
・ ω一 H)
問HHfM
遺子、 イシボセテをたて、遠く東ヨルダンのマハナイムで王とし、
(
N
ω
(六}
タピデとの聞に屡々戦闘が繰返された。
全イスラエルに支配権のあることを主張し
ぶ
円
ノ
ニ
コ
、
,
σ
T
しかし、 ア ブ ネ ル は 、 暗 愚 な 王 イ シ ボ セ テ に 見 き り を つ け 、 北 方 諸
部族をダピデの支配下に入れることによって、全イスラエルを統一
ω
ここでダビデに
B
同-
しようとしダビデにこのことを申し出た。ダビデは、 サ ウ ル 王 の 娘
へブロンに下り、
ω
ω
ミカルを妻にすることを条件として交渉に応じた。 (
、ヵルを連れ、
両者は同盟を結んだ。 (
ω
ω 8
同 ・ω一呂町)しかし、帰途アブ
同・)アブネルは
N-
、
必
エL
チ
は、この結婚を通して名望ある家の後援を期待し、それによって、自己の地
の地エズレル出身のアヒノアムである。 (-ωmg-MU一品 Mh
・)恐らく、ダピデ
ナバルと一言う男の妻であったアピガイル、他はへプロンの南東にあるケニ人
る。え﹄・回ユ四﹃昨日
は、ベリシテ人にとってむしろ望むところであったと推測し得ることであ
なったことは、事実上イスラエルの分裂であり、ダビデとイシボセテの戦斗
ベリシテの一諸候と見なしていたと考えられること。二、ダピデがユダ王と
2fHU--ョ・しかし、ダピデがイスラエルを統一
位を強化しようとはかったものであろう。町内回・回H-mEHD匂-n-FWHY-36
テ人にとっては、明らかに反逆行為であり、彼等の支配権は、ダビデによっ
・
旬
し、その王となったこ
とは、中央山岳地帯をその支配下においていたベリシ
C
の宗教連合を想定し、その中心がへブロンにあったと推定している。 ζ
内
田SLognyB2]
ノ lトは、南方六部族lFEw 問主与w
O岳Eof円
(
四) M・
て脅かされることになったのである。ダビデにとっても同様に、イスラエル
を統一するためには、ベリジテを撃破しなければならなかった。
(九)文献では、ベリシテ人との決戦の前に、エルサレムを攻略したことにな
っている。しかし、原資料では、サムエル記下五章十七節は、五章一一一一節
の地が古くから南部諸部族の中心地であったことは、アブサロムが、父王ダ
prs-
Z20HOMY-fω Ha J ・ブライトは、この説に対してそれが証拠をもた
・
・
吋
・
口
比 J ] M H吋
しかし、こ
ないことを表明している
。同・切江田宮・ 0司
ピデに対し、此の地によって南部諸部族の支援を得、兵をあげたことからも
のすぐあとに続いていたと思われる。五節で、ダピデはへブ戸ンで七年六ヶ
月ユダを治めたとなっている。また二章十節で、ィシボセテのイスラエルの
治世は二年となっている。若し、此の年数が正確とするならば、ダビデが、
PP3rb昏与は﹁ヨセブの家﹂ EPZmえと同じく︿拙
ハ(五)﹁ユダの家﹂ σ
らでなくへプロンから率いて行ったと考える。エルサレム攻略は、その後遂
って、われわれは、ここから、ダピデがベリシテ軍攻撃の兵をエルサレムか
へプロ γでイスラエルを治めた年月は、ほぼ五年間と見ることが出来る。従
たと考えられる。即ち、ダピデは、ユダ部族の王となったのでなく、南方諸
﹂こからサウルの場合
サ ウ ル 王 か ら 逃 れ た 以 後 の ダ ビ デ の 行 動 は 、 イスラエル刊硝
れたこと。
第二、彼の軍隊は
サウル王の場合と異なり、彼自身が養成した
部族の領域外で、宗教連合の伝統に拘束されることなく自由に行わ
第一、
が出来るであろう。
と比較して、 ダ ビ デ の 特 徴 と し て 以 下 の よ う な 事 実 を 指 摘 す る こ と
経過を概観したわけであるが、 わ れ わ れ は
以上は、 ダ ビ デ の 王 位 就 任 、 お よ び イ ス ラ エ ル 統 一 に 至 る ま で の
は考えられないからである。
ベリシテ人がイスラエル統一後五年間も、ダピデの行動を見過ごしていたと
稿、前倒拘書一一一一頁参照。)ユダ一部族でなく、他の南方諸部族が含まれてい
ものであろう。
ったと思われる。従って、へブロ γ への移動は、かねてから企てられていた
彼等の兵力、装備を知るダピデにとって、サウルの敗北は、自明のことであ
十分推測出来る。(口町 -MωmwHHM-G-コご恐らく、ベリシテの一諸候となり
-w
zog・0℃・己了 ω-3w ﹀ロB-r 何故なら、
行されたものであろう。ぇ・冨-
ロ
ー
部族を統一する﹁ユダの家﹂の王となったのである。口同・云-ZORH8・
ω・広∞・一﹃・切同日間}見い cun--u 司・日吋m
会ハ)サウルをたてて玉としたイスラエル諸部族は、ここで事実上分裂したと
見られる。従って、従来、十二部族の統一名称として使用されて来たイスラ
エルは、二つの意味で使われることになった。一つは神ヤハウェに対する信
仰告白にでてくるように、従来どおり諸部族全体を一示す名称として、第二
は、政治的にユダ王国に対するイスラエル王国の名称としてである。
る。従って、一この者たちの待遇如何でダピデはイシボセテ殺害のみでなく、
(七)ーィシボセテの家巨は恩賞を期待して主君の首を持参したものと思われ
アプネル殺害の嫌義をも受けかねなかったであろう。
(八)ダピデがチクラグからへプロンに移り、ユダの玉となったことに対する
のことを静観していたと考えられる。その理由は、てダピデを依然として
ベリシテ人の動向に関し、文献は沈黙している。恐らく、ベリシテ人は、こ
北大文学部紀要
~
91
〒
イスラエル史における主権の確立とその特質
=,巴f
寸肝長
もと会ついて
A 一)
職業軍人からなる傭兵隊、即ち、私兵であり、決して伝統に従って
る
。
ユダ、 お よ び イ ス ラ エ ル 両 王 国 の 王 と な っ た こ と で あ
Jh
、 ダビデ王即位に関し、 その
斗イ A d lイvXJV
フーフーキ
しかもダビデ王家の私有地であったと言うこと
第五、 ダビデ王国の主都エルサレムは、本来、 イ ス ラ エ ル 連 合 と
各部族から召集された軍隊ではなかったことである。勿論、熱心な
アキシ王に
h
ア フ、不ルム﹂の
イシボセテ殺害
れた傭兵隊の力を背景として築かれたものであったと言うことであ
ル王国と異なり、 ダ ピ デ 王 国 は 、 宗 教 連 合 の 基 盤 の う え に 成 立 し た
アブネル、
ωg
ニ02n
M
M一
M
V
M
U ・5uo
白 ・
)(U 同
としても、他日、サウル王の正当の後継者がいなくなった時ダピデがその後
・なお、
を継ぐ権利をもつことを意味する。ぇ・冨-Z20H8・ifω ・ミ0
ノ lトは、同頁註一でサウル王存命中ダピデがミカルと結婚したことを
M・
(四)サウル王の娘ミカルとの結婚は、若し、ァブネルの計画が失敗に終った
仲間
H
O
D
c阿佐Lg ﹀-Z口、叶2'
M
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M-ruHGUMU- 。・︿-MNR7 吋}
公一
田 ・
吋ω
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BSF 切 回 ロ ハ ︼ ア 日 甲 山v
3一)の同.﹀・﹀-rc]MifωS.
(一)日
は、形式的には、諸部族の長老であったのである。
を征服したのでなかった。 王 位 就 任 の イ ニ シ ア テ ィ ブ を と っ た の
よって、 王 位 に つ け ら れ た の で あ り 、 決 し て 、 武 力 に よ っ て 諸 部 族
る。即ち、 ダビデは、 な お 部 族 体 制 を 堅 持 し て い た 諾 部 族 の 長 老 に
とダビデとの契約によって成立したものであったということであ
第二、ー上述のことにもかかわらず、 ダ ビ デ 王 国 は 、 南 、 北 諸 部 族
Q
ペリシテの一諸候として
忠誠を尽じていると見せかけ、その戦闘方式、装備等を知り、他方
では、南方諸部族の長老たちに贈物を贈って将来にそなえていたこ
一品[叶)
そ の 子 ら の 屍 を ひ そ か に 葬 っ た ヤ ベ シ ・ ギ レ ア デ の 人 々 に 、 その忠
誠 を 誉 め 称 え 、 勇 気 づ け た こ と ο (NrB-N
(NωgrT515)
同盟の条件よして、既に他家に嫁していたサウル王の娘ミカルを己
(四)
が妻としたこと。
に関して、 己 に 嫌 疑 の か か る こ と を ひ た す ら 恐 れ 、 北 方 諸 部 族 の 疑
(五)
惑 を は ら そ う と 懸 命 に 努 力 し た こ と 。 こ れ ら の 事 実 は 、 いずれも、
る
に進んだことである。即ち
第二寸彼は、 サウルが意図せずして王位についたのとは異なり、
王 国 の 性 格 を 明 瞭 に 知 る こ と が 出 来 る で あ ろ う 。 即 ち 、 第 一 、 サウ
さて、 以上の考察から、
る干然、
0(
5
関
係
の
な
ヤハウェ崇拝者であるダビテは、自己の戦争をヤハウェのもとで行
(-一)
なわれる聖戦と信じ、神の託宣を受けて行動をおこしたのであるが、
その内容は連合時代のそれと全く異なるものであった。彼は、
私 兵 を 指 揮 し て 、 ベ リ シ テ 人 と の 決 戦 に 勝 利 を 収 め 、 またエルサレ
(一一一)
では
ものでなく、あくまでも、 ダ ビ デ 個 人 の 力 量 と 、 彼 に よ っ て 養 成 さ
ムを攻略したのである。
あ全
王位就任に対して明瞭な意図をもち、 そ の 目 的 達 成 に 向 っ て 計 画 的
の
イスラエルを統一するためには、諸部族の承認を必要とすることを
洞察していたダビデの意図、 そ の 計 画 を 如 実 に 物 語 る も の で あ ろ
第四、 ダ ビ デ の 王 位 就 任 は 、 南 方 諸 部 族 、 北 方 諸 部 族 と の 契 約 に
-
9~
-
'
-
へブロンで﹁ユダの家﹂の王に就任した後、 サウル玉、 および
と
。
ぅ
。
告げるサムエル記上十八・二七は後代のものであり、際史的に正しくない。
サムエル記下三・十四の記事は、この結婚を指唆しているが二次的のもので
ある。十五節のイジボセテはアブネルでなければならない、との見解を表明
に恩われる。しかし、いずれにせよ、ダピデがミカルを要求した意図は明瞭
している。しかし、ノートの説もそれを証明する十分の根拠をもたないよう
である。
(五)伝承は、アブネルの死を悼み盛大な葬儀を行ったダピデに関し、明らか
に次のように述べている。﹁その日すべての民およびイスラエルは皆、ネル
U H U吋 )
の子アプネルを殺したのは、王の意志によるものでないことを知ったに
(
M
r
s・
へブロンは、なるほど南方諸部族にとっては中心地であっ
公ハ)イスラエル諸部族、が、ダビデを王とした場所は、ヘブロンであった。
︿MωmHHM-uuM)
さて、 ダ ビ デ 王 国 が そ の 成 立 時 に お い て 、 以 上 の よ う な 特 徴 を も
ったとするならば、われわれは、 ダ ビ デ 王 国 が サ ウ ル 王 国 と 同 じ く
相互に相矛盾する要素を内に含んでいたと言わざるを得ない。むし
ろサウル王国以上の問題を内に蔵していたと見ることが出来るよう
に思われる。何故ならば、 サ ウ ル と 異 な り 連 合 の 宗 教 的 伝 統 の 拘 束
をうけることなく、自由に己が目的達成のため、終始政治的、軍事
的配慮のもとに行動しながらも結局、 な お 宗 教 連 合 の 構 成 要 素 で あ
り、その伝統的体制を維持していた南、北諸部族から選ばれて王位
につけられたからである。
さきにベリシテ人との決戦における敗北の結果﹁神の箱﹂が奪わ
れ 、 そ の 中 心 聖 所 で あ っ た シ ロ の 神 股 も 破 壊 さ れ (本文八六頁参照)
イスラエル宗教連合は、 そ れ 以 後 そ の 成 立 根 拠 を 失 っ た も の と 見 ら
れる。しかし、二位紀にわたる連合の存続の聞に培われたその本質
的なものが、 そ れ を も っ て 終 り を 告 げ た わ け で は 勿 論 な い で あ ろ
ぅ。連合の構成要素であった各部族は、連合の宗教的伝統の拘束の
もとに、依然として部族体制を堅持し、 上 述 の よ う に ダ ピ デ 王 即 位
J
に関し、 そ の 自 主 権 を 主 張 し 得 た の で あ る 。 そ し て 、 ダビ ア、もこの
ことを十分承知していたのである。彼の政治的行為が、すべてこの
(UOB-
へブロンに下つ
ことに対する配慮から出ていたことは、既に見て来たとおりであ
ー
門
EmEF Q E号ア
云求
土、
(本文九二頁参照) i
;
l (Nω27?NZ
たイスラエルの諸部族の長老が、ダビデを
(-)(一一}
ロ血肉}戸山(凶}戸
に刻する見解に従うならば(本文六頁註
B田口(同日﹀ととして、仙川を注いだことを伝えている。 W-F ・オ l
ルゃフライトの
- 93 -
たが、しかしイスラエル全体から見るとき、あまりに南方にかたよってい
た。またユダの王としてへブロ γに居をかまえることはできてもイスラエル
主としてへプロンに居をかまえることはできなかったであろう。何故なら、
へブロンにおいてイスラエルを治めることは、北方諸部族にユダの王によっ
て統治されているという印象を与える結果になるからである。イスラエル諸
部族は、ユダの王に統治されることを承認したわけでなく、伝承の語るよう
に、ダピデ自身をイスラエルの王に即位させたのである。また、北方に位置
する都市、例えばシケムに居をかまえることは、南方諸部族を考えるとき、
これまた不可能であろう。こうした南、北諸部族問の複雑な関係を考慮する
時、特定の部族の領域内に王国の中心地を求めることは、将来に禍根を残す
ことになる。恐らくダピデはこうした点を洞察して、いずれの領域にも属せ
ず、しかも、南北の境に位置する要害の地、エブス人の都市国家として存続
-uHν
2
含
・ ω・
ヨ
ゴ α日い切E55ロZSELF-r
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していたエルサレムに目をつけたものと考えられる。口町-Z-ZOR一
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ω・込町・﹀ -FO乱回日毛・ロユ
四
∞
甲
・
dimBE95串少ω・
E
北大文学 出紀要
る
。
イスラエル史における王権の確立とその特質
宇野
参照) イ ス ラ エ ル 諸 部 族 は 、 ダ ビ デ に 一 代 限 り の 指 海 老 と し て の 権
限を与えたに止まり、 そ の 王 朝 の 永 続 的 支 配 権 を 承 認 し た わ け で は
なかったと言うことが出来る。
いカリスマ的資質を発揮したのである﹂と。われわれは、ダピデがイスラエ
に賛成することは出来ない。ダピデは、ギデオ γ ・サウルのような型のカリ
スマに属さないが、しかし、彼は疑もなく明らかに選ばれたのである。何故
なら彼の成功が民をして、彼は、ヤハウヱに任命されたものであると確信せ
しめたからである。彼は、│サウルには出来なかった│一時期に限定されな
冗来エブス人
同
仏ω一CHyifHyua-(四)(以・﹀ -HLC
白
J
われわれは、 ダピ
J
今、結論を先ばしって言うならば、 わ れ わ れ は 、 二 つ の 事 実 に よ
と、が出来たであろうか。
さて、 それでは、 ダ ビ デ 王 国 は こ の 基 盤 を い か に し て 獲 得 す る こ
証する確乎とした基盤を欠いていたことを知るのである。
ル王国と同じく、 その王位の正当性、 そ の 王 朝 の 永 続 的 統 治 権 を 保
王 国 が そ の 当 初l 王 国 樹 立 に 至 る 道 程 は 異 っ て い た と し て もl サウ
﹂うした王国成立時の事情を考察するとき
ア
一
句
・
品
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同
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間
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二
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︿ U ζ・
・
同
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SN戸田﹀-HEAPωSEEP-3吋
h
吋 M・
vω ・
ル諸部族によってE匹目舎として選ばれたことは間違のない事実と考える。
ユダ両王国を統治す
しかも、政治的、軍事的見知からイスラエル
るに絶好の位置を占めていた主都エルサレムは、宗教的、精神的見
知からは、過去の伝統と全く無関係の場所であった。上述のように
このエルサレムは、もともとカナン人であるエブス人の都市国家で
あったのであり、 ダ ピ デ の 居 城 と な っ た 後 、 諸 部 族 か ら こ の 地 へ の
(四}
大量の移住者もなかった。ダビデは、以前から間作していたエブス
その聖所は
﹁、夕、ヒデの一町。同町仏担当正ゲ﹂
ダピデ王宣の私有地であり
であり、 また、
ってこの問題が解決されたと考える。
エルサレムに遷座されたこと。
即ち、第一、 ダ ピ デ 王 に よ っ て ヤ ハ ウ ェ の 玉 坐 で あ っ た ﹁ 聖 な る
箱﹂が
第二、 そ れ ま で イ ス ラ エ ル 史 に 見 ら れ な か っ た 全 く 新 し い ﹁ 神 と
王との特殊な関係﹂をあらわず教義が、予言者の口を通して、
この二つの事実はダピ一ア王権確立に対していかなる役
固に導入されたことである。
それでは
割を果したであろうか。
- 94 -
人のうちに彼の一族、従者、親衛隊をひきつれて住み、実質的に
﹂の町は、
はエブス人の王の後継者として、都市国家の休裁を存続させること
になったと考えられる。
2ロ・)
(本文頁一 O参 照 ) 文 字 ど お り の 意 味 で
(
ω
ω 由自 - G
一
5
ユダ、 イ ス ラ エ ル 両 王 国 の い ず れ に も 属 し な い 、 本
の聖所で、 そ こ に 行 わ れ て い た 礼 拝 、 儀 礼 も 異 教 的 な も の で あ っ
た。ダピデは
来宗教連合とは何等の関係をもたないエルサレムから、南、北諸部
族を統治することになったと言うことが出来る。
日
H
H問
﹁
昨
日 DV 2了 可 - A
(一)ヨー・司﹀F
・
∞
(
二
﹀ J ・プライトは、彼の前掲書一七七頁註二一O で以下のように述べている
﹁われわれは、カリスマが、ダピデの選びにおいて、事実上何等の役割を果
m
T包﹁とする)はダビデの王
していない。サムエル下五・三(ダビデを g
位を古い伝統的型にもとずいて成立したことを示そうと脚色した架空な作り
話であるという A ・アルトの説 (A・アルト前掲書三七四二頁、一二九頁)
の
既にふれたように、伝承に従えば、 ヤ ハ ウ ェ の 玉 坐 で あ り 、 イ ス
ラエル十二部族を結合する礼拝の対象であった﹁聖なる箱﹂は、ベ
放ヤ
置リ
れの
てギ
さム
いベ
人
の
家
置
安
さ
れ
( N ω回
目
・
5
さて、
通して次のような神託を下した。
斗一色
﹁わたしはイスラエルの人々をエジプトから,導き出した日から今
B
田
﹃わたしがわたしの民イスラエルを牧することを命じたイスラエ
Gω
日 ま で 家 に 住 ま わ ず 天 幕 を す ま い と し て 歩 ん で き たo
長 時 間 ( 伝 承 で は 二O
ルのさばきっかさのひとりに、 ひ と 言 で も ﹁ ど う し て あ な た が た は
(
E
m
z
ι
﹁わたしはあなたを牧場から羊に従っている所から取って、
あろうか﹄(︿・ 3
わたしのために香粕の家を建てないのか﹂と、一一一口ったことがあるで
ダビデは、 このギベオ
﹂のダピ、タによって﹁聖な
シる
ロき箱
な
終の
に」
る宮
ー居
L
北大文学部紀要
示しているところである。即ち、 ヤ ハ ウ ェ は 、 予 言 者 ナ タ ン の 口 を
〆ビデの神殿建立の企に対して下されたヤハウェの神託、が明らかに
を真に受付ぐ後継者として受取られることになった。このことは、
伝統に熱心なヤハウェ崇拝者によって、 イ ス ラ エ ル 宗 教 連 合 の 伝 統
﹁聖なる箱﹂が至聖所として天幕に安置されたことが、沙漠以来の
拝 を 受 け る 地 位 を 獲 得 し た の で あ る 。 第 二 、 ダビデによって、
ー
の
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一
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四
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﹀戸内︼問問0
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2 5 r g色u N唱巳芯u︿んとご間2
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同・出 -H-H3
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w戸
)Q-声明-KE悶庄一毛-口止-
と思われる。
H 7-MuFManauU)を修
ル王にとって、破壊されたシロの神殿(え・ HO・
復したり、﹁聖なる箱﹂を他の然るべき聖所に移したりする余裕はなかった
(一)拙稿前掲書二八頁参照。
つ一)恐らく、ベリ γテ人の支配下で苦しんでいた当時のイスラエル人にとっ
て、また、ベリシテ人との決戦を前にして、多くの問題をかかえていたサウ
Q
ヲ O
壬国をして宗教連合の正当な後継者たらしめることになったのであ
ダピデ王をし
この神託は、明らかにダピデを沙漠以来の指導者たちの系譜に入
ごとし﹂た。(︿・∞)
しの民イスラエルの君
り
、
聖
殿 の 祭 司 で あ っ た エ リ の 家 系 出 身 者 を 採 用 し た こ と 合 同-Hωgr
まー
パ
らム
れているのである。以上のことから、われわれは、〆ビデのこの事
始円
Nω回
﹂の遷座は、あとでふれるナタ
NN NO
目 NO一い山印)しかも
町
同
ンの予言と結びついて、 ダピデの独断的行為でなく、 ヤ ハ ウ ェ 自 身
{
{四)
J
ふレ
業が、 ダ ビ デ 王 国 に あ た え た 意 義 を 明 ら か に 知 る こ と が 出 来 る の で
r
n
ニ
工
二
の意志、即ち、 ヤ ハ ウ ェ 白 か ら が エ ル サ レ ム を 己 が 常 住 の 宮 居 す る
>
+
>
ある。即ち、 こ の ﹁ 聖 な る 箱 ﹂ の エ ル サ レ ム 遷 座 は
。
H
ω 由自・。ぃ吋問問・ゅロロ)
場所として選ばれたと受取られたことは、合同-
、
<
、
て神の召命を受けたイスラエル指導者の系譜に属せしめ、またその
R
、コ/レ
0 dサ
ι
なったのである。
する場所として、
千子第
連の宗教辿合の中心聖所の系列に入ることになり、南北詰部族の崇
ム、
ダピデ王朝及びその主都エルサレムに決定的な意義を与えることに
る 箱 ﹂ が エ ル サ レ ム に 遷 座 さ れ た こ と 、 その祭司として、 シロの神
に移したのである。
γ人 の 家 か ら 、 盛 大 な 儀 式 を 行 い つ つ 、 ﹁ 聖 な る 箱 ﹂ を エ ル サ レ ム
¥ーノ
リシテ人に奪われ、兵の後ベリシテの地を移動し、最後にキリア
。
=
(HFB-∞│三 ω)
たっオ
ン
シ即
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- 95 -
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年テ
イスラエル史における王権の確立とその特質 宇野
同
・
∞-Z02553g
吋宮叶,Rny
w
片山ぬ少
(五)拙稿前畑問書二八頁以下参照。
(六)エルサレムは、サムエル上・六l七章二節迄の聖所伝示との関聯から連
G
合時代の最後の中心聖所シロに結びつくものとなった。門町・ 5
p
v
M
V・M
-M-u
℃
の永続性を主張するためには、 イスラエルの主権者、守護者である
こうした観点から、次に述べるサムエル下七章のナタンの
神ヤハウェとの特別な関係が設定されなければならなかった。われ
われは
予言のイスラエル史において果した役割と、 その歴史的意義を知る
ことが出来る。何故ならば、予言者ナタンの口を通して告げられた
戸市
UA山
山wv]U
(
七)Q- 当・宮口EShH 伶口 ω問自己主
さて、以上のように、 ダビデは、﹁聖なる箱しのエルサレム遷座
ヤハウェの神託が、 ダビデ王権の確立のために、明瞭な基盤を与え
たと考えられるからである。
﹁聖なる箱﹂のエルサレム遷座の後、神股建立の企をいだいたダ
ュ
、
夕
、 イスラエル諸部族に対する指導権を
﹂のことをもってなお問題が
ビデに対して下されたナタンによる託宣は、 まずその企を拒否する
伝統を受縦ぐ者として、
﹂れまで考察して来た
得たと見られるのであるが、 しかし
解決されたわけではなかった。何故ならば
ことを伝え、更に、 ダビデに対して以下のような約束を与える。
以上の神託は一、 ダピデが、 イスラエルの正当な王であること。
∞市山一同市山片山一・)
h
3 ・N H 叶 町 内-w
十六節:::王朝と王国を永遠に存続させよう。(円 ・
十四節・・・・・・父と子の関係を締結しよう。
十二節:::ダビデの血統によって、 壬国を確立させよう。
十一節後半:::ダピデのために家│王朝いを造ろう。
ダピデの名を偉大ならしめよう。
九節:::神は、常にダビデと共にあり、敵に対する勝利を与え、
ように、宗教連合は、世俗的王権を否定する要素をその内に含んで
いたからである。王位の正当性、尊厳性を過去の宗教的伝統に求め
ることは、当然不可能である。イスラエル人は、 元来こうした王位
サウル王の悲劇的結末が教えるよ
の権威に対する観念をもっていなかったのである ο 宗 教 連 合 と 王 制
とは、木来異質的なものであ一り
うに、宗教連合の伝統に王制のゆるぎなき茶磁を求めることは、
可能であった。従って、 ダビデ王国が、宗教連合の後継者としての
地位を前一一祝すればする程、それは、 その内に含む肘俗的王権を否定
する要素を強くすることを意味したのである。即ゎ、神に召命され
程、それと共に王制の永続性を否定する要素が強まることになった
遠に統治さるべきこと。四、父(神)と子(ダピデ王及びその後継
度であること。三、 王国は、ダピデの血統をひく王朝によって、永
二、王国が、 イスラエル史における士師時代のあとに続く正当な制
のである。これまで王制をもたなかったイスラエルにおいては、神
者﹀の特別な関係設定。王がイスラエル人に対して、特殊な地位を
たカリスマ的指導者としての資格が王に対して強調されればされる
ヤハウェと王との関係を表わすいかなる観念もなかったと言うこと
上述のように、
与えられたことを伝えている。即ち、
﹂の神託は
が出来る。従って、 ダピデが、 イスラエル人に対して王制及び王朝
- 96 -
によって、 イスラエル連合の後継者としての地伎を獲得し、連合の
不
ダピデ王国が、宗教連合の後継者たる地伎を得たことを明らかにす
イスラエル史におい
る と 同 時 に 、 ダ ビ デ を イ ス ラ エ ル 人 の 王 と し て 正 式 に 承 認 し 、 その
このナタンの予言によって、
王朝の、氷続性を保証したのである。
phv
1つ し
工
、
つ
qふ
イ
﹄44did-
この時をもって、 己 が 意 志 に も と づ い て 、 旧 来 の 部
て、王による統治の正当性がはじめて可能となったことを知るので
ある。王国は、
族組織を改変し、 王 国 の 政 治 的 軍 事 的 機 構 の 新 樹 立 、 整 備 を 押 し 進
でなく
﹂れまでのカリスマ的指導者とし
(四)
ω
ω 同日自己同・
神の意志を此の地上において代行す
王をして、
めて行く基盤を獲得したと見ることが出来る。ヤハウェとダビデの
(EmEF)
父と子の関係成立は
ての地位
い叶﹀
る権限を担う地位にあるものとしたのである。(口町・
同)印∞川町一品町内 - N
土・
)Q-巧云ロ rgmU8-nxwHν 司-M-
(一
(二)ナタンの予言を伝えるサムエル記下七章は、複雑な文章構成を示し、こ
の文章の成立年代を決定することは、甚だ困難であるOR-M・ファイブア
(前掲書一一八頁)は、この神託を歴代志記者 ((UmMUO切・の)より古く
それに先立つ一位紀の聞に室聞かれたものと推定している。じかし、最近の研
究はこの伝承が非常に古い時代、恐らくダピデの時代にさかのぼり得る﹁核﹂
ニ
(
︿ --lN y-a・5 M r M U M S を中心として形成され、今日の姿を
とったことを明らかにした。即ち、この予一言の骨子は既にダピデの時に成立
していたと見られるのである。
更に、この章の基本的事項であるて王によって企てられた神殿建立の
計画二、王権の保証に対する神の宣言。三、父と子の関係設定に対する神
の宣言等が、実は、エジプト宮廷の儀式文と全く同じであることが発見され
たのである。エジプトにおいて、玉の名、神性(神の子としての身分)統治
の委託、永遠に続く支配の約束等を内容とするi神白,身が記したとされる│
北大文学部紀要
の祭司長エホヤダからヨアシ王に手渡された﹁律法の書ゲFPF﹂は、王位
文章が、即位にあたって手渡されたのである。恐らく、列王紀十一章十二節
継承の印として手渡されたものと考えられ、その内容も以上のようなもので
-wm
山・お門出・﹄・同55HC匂・己了 ω
M
M
- 以上日比た
r
αロ
なかったかと思われる。また、ソロモンの夢におけるヤハウェの神託 Q
凶一品目四)も同様、エジプト宮廷の儀式文のなかに多くの類例が見出せる。
主H
口戸の︿-MN
Dロ・口町
ものでなく、他から導入されたものであると言うことが出来る。
M
所から、われわれは明瞭に、この教義が、宗教連合の伝統から導き出された
(一二)王国の政治的、軍事的諸制度は、ダピデ王によってはじめられ(氏・
特に、部族体制の解体は、ソロモン王によって強力に押進められたと見られ
F自・∞二血lSUMO一MUlNa) ソロモン王の時代に完成されたと見られる。
る。ソロモンの事業として大略以下のことがあげられる。て軍事上要衝な
H
Z ?HU都市(エルサレム、メギド、ハゾル、ゲゼル等)の要塞化。 (
・
ロ
-唱)二、騎馬、奉納軍の編成、配置。 C0・N
貿易の振興
a
) 一二、陸上、海上
公OUHVEMMU2
口・)銅山の開発。四、土木建築、特にエルサレムにおけ
る神殿(完成までに七年)宮殿(完成までに十三年)建築。五、イスラエル
領土を十二の行政区にわけ行政官巳忽与 Yの任命。(品・ 3 徴税、徴兵制度。
l
l
S 等である。
賦役制度 (uhHU) 六、中央官制の整備宗 -Mlデ 印I
ソロモンのこれらの事業、特に本国の領土を行政的に再編成した結果、往
時の中央の権威を知らず、政治的義務もなく、ただ連合の危機に際して、参
加する宗教的義務のみによって拘束されていた部族は、その体制が解体さ
的義務は、ヤハウェとの契約によってでなく国家の意志に制約されることに
れ、その独立性を失い、納税、徴兵、賦役の義務をもっ国民となった。社会
z
o同町いの2岳山口EO
なったのである。江戸∞同仲間ZHD
V
2
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山内山・
ゲ
凸
同
開u-uaHWMM・M
Wロ
何等かの儀式を伴って行われたことは疑うことが出来な
さて、以上のような独自な意義をもっ﹁聖なる箱﹂のエルサレム
遷座が
- 97 -
れたことを予想させる。このことは、列王紀八・一以下の、 ソロモ
ろう﹂というダビデの言葉は、この祭礼が一定の時期に繰返し行わ
たことが描かれている。一一一節のつわたしはまた主の前に踊るであ
る迄、歓呼、舞踏、犠牲奉献の一連の祭礼的行事が厳粛に繰返され
なる箱﹂のエルサレム入城に際して、 それがシオンの山に安置され
ぃ。文献もこのことを明瞭に伝えている。サムエル記下六章で、﹁聖
られるからである。恐らく
ラエル全家の参加するこの祭礼に結びつかねばならなかったと考え
けるこの神託を
のイスラエル人にとって、全く未知であった、 王国の存続を根拠づ
礼は必然、以上の神託と結びつかねばならず、 また逆に、 それまで
ものであることを宣言したのである。従って、
えられる。ナタンの予言は
宇野
ンによるシオンから新しい神殿への遷臨め行進を物語る記事からも
ウェの神託ダビデの契約は、文書として固定され、王の即位式
イスラエル史における王権の確立とその特質
予想されるところである。またダピデによるこの大祭が﹁イスラエ
には勿論、 また定期的に繰返されたこの国家的祭礼を通して確認さ
また、 ダピデの大偉業の成就、 ソロモンの富と、豪華な神殿、宮
w
e
このナタンの口を通して下されたヤハ
ひろく民に周知徹底させるためには、必然、 イス
エルサレム入域の祭
﹂のダピデの事業を、神の意志による
ル全家L(HFB・
め
い ωw5) の参加を見たこと、 ソロモンが上記の
れ、更に強化されていったと推、測されるのである。(口問・昇。ロ・∞一一
(-}
行事のために、﹁::;イスラエルの長老たもと、 すべての部族のか
しらたちと、 イスラエルの人々の氏族の長たちを・ :L 召し集めたこ
殿とを含む大土木建築事業に裏づけられて、
﹂の祭礼と結び
ユダ王国の人々のうちに、 こうした祭礼を通して浸透
)L
が
、 この王朝の、氷続的
﹂のように、繰返し行われた祭礼のうちで確認され、強化されて
していったことも十分推測し得るところである。
ル人、特に、
の国民として支配者の地位を享受することになった当時のイスラエ
L
とから、この遷座の儀式が王国にとって最も重要な国家的行事とし
が、すぐその前までペリシテ人の圧制下で苦しみ、今は逆に大王国
﹂の﹁ダピデの契約
て挙行されたのではないかと考えられる。
また、聖所としてエルサレムを神自ら選ばれたことを宣言する神
が
、
託、ダピデを王とし、 ダ ピ デ 王 朝 の 永 続 的 統 治 権 を 保 証 す る 神 託 │
NωmHB-Nω いω
いわゆるダビデの契約合同)
ついたことも当然予想されるところであろう。何故なら、既述のよ
いった﹁ダピデの契約(口出い山∞回目N
ω 一
切
統治権確立に果した役割を、 われわれは、分裂後のイスラエル王国
エルサレムは、本来宗教連合とは関係のないエブス人の町で
あり、諸部族の承認を受けて王位についたダビデにとって、彼等の
のそれと比較するとき明らかに知ることが出来る。
うに、
信任を得るためには、過去の伝統と密接に結びつく必要があった。
ソロモン王の没後、イスラエル諸部族は、 ソロモンの子レハベア
この王をか
ム
﹁聖なる箱﹂の安置は、この要請をみたしたのである。しかし、連
-SNー白ω切の・叶)を王とする契約を締結すべく、
合の中心聖所を独断で異教の聖所に移す資格を、独立性を維持して
つての連合の中心聖所にまねき 合同拝。ロロぃむその条件として
((U
田
いた諸部族に対して要求し得る権利をダピデは、 もたなかったと考
- 98 -
(玄)
重 税 、 賦 役 の 軽 減 を 申 し 出 た c (︿
-AH)
しかし、 レハベアムは、
(hpSN回・。・)(︿-NS
v エ)ために、彼等は、 ダビデ王朝から離れ、
れを拒否し、(︿・ 5
エプライム人ヤラベアムをたてて王とした。
J
タ
ピ ア、 ソ ロ モ ン と 同 一 の 王 を い た だ い て い た 両 王 国 は 完
ここで、 ゃ
全に分裂したのである。
イスラエル王国の王朝は、 ダ ビ デ 王 朝 の よ う に 、 そ の 永 続 的 統 治
ダビデ契約のよ
﹁聖なる箱﹂の安置されているエルサレムに匹敵す
権を主張し得る宗教的精神的基盤を持つことが出来なかった。イス
ラエル王国は
FE ロ一民間・)、
る聖所をもつことも出来、ず (1・
うな王朝の統治権を保証する宗教的基盤を符ることも出来なかっ
た。イスラエル諸部族の長老は、往時のカリスマ的指導者の理念に
もと守ついて、 ヤラベアムを王としたのである。このことは、 ダピデ
王朝を拒否した以上、彼等には王を選ぶ基準を他に求めることが出
来なかったことを物語るものと言える。しかし、往時のカリスマ的
指導者の原理が採用されたことは、 イ ス ラ エ ル 王 国 の そ の 後 の 運 命
を決定的に規定することになった。即ち、 ヤラベアム壬が、 ヤハウ
エの予言者アヒヤによって予言されたように(目。ロ戸二江戸)王
は、あらかじめ予言者によって、 ヤ ハ ウ ェ の 名 に お い て 王 た る 資 格
を 認 定 さ れ ね ば な ら な か っ た の で あ る 。 こ の 考 え 方 に 従 え ば 、 王位
は、世相撲を原則とするものでなく、後継者は、 そ の カ リ ス マ 的 資 格
例えば、エヒウの革命
o(
」
ωFE目
を喪失したと見なされたとき、何時でも、他のカリスマ的資格を得
たものにとって代られるのである
∞)ここに、 われわれは、 イ ス ラ エ ル 王 国 の 王 朝 交 代 の 激 し か っ た
北大文学部紀要
0)
原因を見出すことが出来るのである
に九壬朝の交代を見た
ユダ王国では
ダビデ王
SN 斗出回h ・
約二世紀間門出-
0(
以上のようなイスラエル王国に対して
朝の統治権に対する疑問は、一度も起らなかった。ダビデ王に与え
ω
(
∞斗切目。・﹀変らず、
られたヤハウェの約束は真実なものとして受取られ、民のダビデ王
家に対する信頼と忠誠は、その滅亡に至る迄
特別な原因によって混乱が起きたときでも、それは、宮廷内の出来
(七)
事にとどまり、ダビデ王朝の主権そのものが問題となることはなか
ったのである。
で、﹁聖なる箱﹂遷座のため、ソロモンに召集された﹁イスラエル人は、皆
(一)この祭礼は、年毎に行われたと考えられる。列王紀上パ・一以下の記事
エタニムの月すなわち七月の祭にソロモ γ玉のもとに集った﹂(︿-G と記
されている。エタニムの月は、イスラエル人の三大節の一つである﹁仮庵の
巾
同
m山
U
u泣│む・ zcg-M唱-G18)H祭﹂が行われる月である。(口町戸2・M
J ・クラウスは、この祝祭が仮庵の祭の最初の日に挙行されたと推定してい
円
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る。出 - H・関5 5一O
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三)2 ω・宮25ro-一回op:052rv早
・
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H
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H
U・ URモlヴインケルは即位式の次第を以下のように描写している。ヤハウェ神殿
内で挙行される主行事を取行なう為に必要な儀式を終えて後﹁王位継承者は
神殿と祭壇の聞にならんでいる親衛隊 ( M同αp ご・ご﹀の前を祭司を先導
として進み、国民の見まもるなかに高壇に登る。 (MHG
ロ・ご HEWMの可UTUC恐らく、この時予言者が、王の選びとその正統性を宣言する神託
(3・ 20)を述べ、祭司が王冠をのせ、神の約束と玉の大権を根拠づける
印 (M同んいロ・二二 MUEY
含巴を手渡し油を注ぐ。聖衣を著飾った王(口同Z 戸B-MUHMH) が高檀にたつとき、国民は、王に対して臣下たる本分を誓う
行事を行なう。ラッパが鳴り、国民は手をたたき王万才を唱する。 CMUB
- 99 -
V
-o-
イスラエル史における王権の確立とその特質
︼
宇野
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一
同
門
戸 TU 唱 烈
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一一
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) 犠牲が搾けら
w
M
ロ
れ、聖餐が祝される。(注油の前後)次に大・
祭の他の主行事が行なわれる。
即ち、聖所から王宮に至る行進が厳粛裡にはじまる。ファンファーレと舞踏
さて、 わ れ わ れ が 木 論 文 の 冒 頭 に 掲 げ た イ ス ラ エ ル 史 に お け る 、
L
をエルサレムに遷座し、それと共に過去
王権確立に関する問は、 以 上 の 論 述 に よ っ て ほ ぼ 明 ら か に さ れ た よ
うに思われる。
﹁聖なる箱
イスラエル諸部族の信任を得たこと。
エジプトの宮廷神学にその典型を見出せる(本文九七頁
権を主張し得る根拠を得たということが出来るであろう。
という形で導入することによって王制の正当性、 王 朝 の 永 続 的 統 治
たであろうか。
既述のように(本文九七頁註一一一参照) 王 国 の 諸 制 度 は
ソロモンに
的、軍事的諸制度樹立の経過において、 そ れ は ど の よ う に あ ら わ れ
の正当性を保証する役割を果したのであるが、その後の実際の政治
サレム遷座の国家的祭礼において、相互に相補いつつ、 ダ ビ デ 王 制
る関係を示したであろうか。この一一つの要素はつ聖なる箱﹂のエル
は、その国家目的遂行の途上において、 上 述 の 二 つ の 要 素 が 如 何 な
その国家目的を遂行することが出来ることになった。さて、それで
与えられたものとして、諸部族の承認をあらかじめ得ることなく、
ダピデ王国は、今や神の意志を此の地上において代行する権限を
イスラエル王国との比較考察から明らかにされたように思われる。
また、この二つの要素がこの王国の存続に果した役割も分裂後の
ラエルの全地から強制的に労働者を徴募したと述べ、九-一五以下では、徴
募の対象は、イスラエル人でなく、カナ γ諸都市に居住するイスラエル人以
註二参照)神と壬との特殊な関係を示す教義を﹁神とダビデの契約﹂
二、他方、
ることによって
の宗教的伝統を受入れ、王国をして宗教連合の真の後継者たらしめ
一
、
が続く。玉は宮殿の高壇にのぼり、世界の頂上、ヤハウェの右手を象徴する
王座に坐り、王職に就任したことを宣言する。そして、親衛隊および民の祝
z
d
賀を受ける。公開んいロ-Tお
)
﹂
司。田仲田区間件。同呂田件。ュg
-旨 gmHO 任 命 切HEP同・
M 戸以下の王位
︿四)叫,
の年代は、この書の年表による。
︿五)イスラエル人が賦役義務に服したか、どうかという問題に対して、伝承
ち
ノ lトは、その著上掲イスラエル史一九三頁以下
外の住民としている。 M ・
の伝えるところは明確でない。列王紀上五・一三では、ソロモ γ王は、イス
!n
T
よって完成されたと見られるのであるが、 そ れ は 当 時 の オ リ エ ン ト
100-
ー
で、土師記一・二七以下の記事との関聯から、この九・一五以下の記事を正
しいとし、更に一九四頁の註一で、レハベアムに対するイスラエル諸部族の
条件のうちにある﹁ソロモ γのきびしい使役とくびき﹂は、恐らく、ソロモ
γの課税をさしているものと思われ、賦役義務ではなかったと主張してい
る。これに対して、J・プライトは、上掲書二O 一頁および註八八でノ lト
の見解に次のような観点から反対している。一見したところ確かに、上記の
個所は矛盾しているように見えるが、ソロモンのアラパ銅山の開発、その他
の土木連築事業は、多数の人力を必要とし、ソロモンの奴隷およびカナ γ人
の強制労働だけだは不足であったと考えられ、従って、五・一一一一以下の記事
が正しく、イスラエル人も賦役義務に服したと主張する。ここではJ・ブラ
(M烈
αロ・日目)
イトの解釈に従った。
(六)例えば、ダピデ王晩年の王位継承問題(門戸 M
Eg--ulsw-HGロ・3
アタリヤの事件
H
-KEmZ 一品・己H
- ぉ・
・
︿-FTO℃
F
v
ω ・uo同・声明
(
七) Q・0・
・
ロζ・
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υ のgnznrgrgovwω-MO∞止・
五.
(五)
の行政区画のうちに解体され、往時の独立性を失うことにな戸、更
治の体制を維持していた諸部族は、徴税、徴兵、賦役の単位として
王国諸制度の整備によって、ダピデの時代なお己が領域内で独立自
って整備された政治的、軍事的諸制度であり、政策であった。この
めの国勢調査、諸外国に対する外交政策、 これらは、 ソロモンによ
を受ける宮廷祭司、宮廷予言者でもあった。従って、 王の外交政策
る。そして、神般に奉仕する祭司、予言者は、 いずれも王室の給与
と同時に、 王室の財産であるという二重の性格をもっていたのであ
建立された神殿もこの都市と同じく、 イスラエル全家の神殿である
地であったことは、既にふれたとおりであるが、 ソロモンによって
スラエル人の中心聖所の所在地であると同時に、 ダビデ王室の所有
自国の神礼拝を行なうことが許されていたええ・い山問。υ・民一臼民)
に、ヵナン人の都市国家が解体され、行政区画のうちに編入された
の結果、この神殿に異教礼拝が行なわれることになったことは、この
諸国家と本質的に異なるところはなかった。賦役制度、徴税制度、
﹂れまでの部族領域の境界が除去され、次第に、都
従って、この観点から見る時、エルサレムの神殿で、異教礼拝が行な
ことによって、
神股が王室の所有である限りにおいては、特に問題となるものでは
徴兵制度、十二の行政区画、これらを統轄する官僚制度、戦車軍を
市が政治、経済の中心として有力な氏族の都市集中を促すことにな
なかったであろう。しかし、 ﹁もろもろの部族、 すなわち主の部族
われたことは、特に不思議なことではなかった。 エルサレムが、
った。これがため、 カナン人とイスラエル人との混交が一層促進さ
がそこに上って来て主のみ名に感謝することは、 イスラエルのおき
-101 -
主力とする職業軍人からなる傭兵隊、国力及び徴兵軍を算定するた
れ、ヵナン人の異教的儀礼がイスラエル人の生活のうちにひろまる
の安置されているイスラエル人の全家の中心
の言葉が明瞭に伝えているように、
てである o
﹂
(
可
凹
・
L
品)
HNN一
ことになったのである。
神肢は、 ﹁聖なる箱
聖所であり、過去の宗教的伝統が、そこに生き続けている筈のもの
﹁ダビデの契約﹂ に基
盤をもら、 ヤハウェの意志を此の地上において代行すべきこの王国
であった。こうした宗教連合の伝統に生きるイスラエル人にとっ
以上の簡単な考察からも明らかなように、
は、そのはじめ契約団体として成立したイスラエル人にとって、嫌
るように、この神のみに礼拝をささげることが、絶対の条件であっ
の教え
的になんら異なるところのない東洋的専制君主制度、賦役王国に外
たと言える。このことは、 ま た ヨ シ ュ ア 記 二 四 章 の シ ケ ム に お け
(口一︹何凶・ N
AF)
て、イスラエルの救済、繁栄は、 シナイ契約
伝らなかったと言うこと、が出来る。しかも更に、 ソロモンの平和外
る連合会議の明瞭に伝えているところでもある。こうした人々に
-tF 。ぃ切uHω 一ω2n・)と本質
悪すべきエジプトの制度合同開凶
交政策は、異国の多くの王女を後宮に入れる結果となり、そこから異
とって、ヤハウ且の神殿で異教の神礼拝が行なわれていることは、堪
(
四
﹀
'
KLJh
r:、 エルサレムでも行なわれることになった oQ問。ロ・口一同
et-Aμ
44Jイl
え難いことであり、神の怒りをまねき、その罰に値することに外な
{七}
同門)当時の国際慣例上、他国に輿入した王女は、 その固においても
北大文学部紀要
イ
コ
。
イスラエル史における王権の確立とその特質
﹄子予
J
E mエ
らなかったのである。伝承は、 イスラエル王国の分離の原因を、
ロモンの異教礼拝に帰している。。州内。υ・口一。再)
(七)
このように見てくるとき、諸外国に対する外交政策上、 国 家 の 存
一見相補いつつ重大な役割を果した
続が必然異国の神礼拝を将来する結果となったとするならば、既述
の、ダビデ王権確立のために
と見られる二つの要素も、 そ の 本 質 に お い て は 、 相 互 に 相 反 援 し 合
うものであったと言うことが出来るであろう。このように見る時、
イスラエル人の救済とその繁栄を告げるシナイ契約│宗教連合の成
立 川 依 拠 で あ り 、 宗 教 的 伝 統 の 源 泉 で あ っ た シ ナ イ 契 約 と 、 ダビデ
契約王国によるイスラエル人の輝かしい未来を告げるとは、同
一の神ヤハウェが、 イ ス ラ エ ル 人 に 与 え た 相 互 に 矛 盾 す る 約 束 で あ
ヤハウェの神託を求めつ
﹂の矛盾は、熱心なヤハウィストとして、過去の宗教的伝
ったと言わざるを得ないであろう。
刀
ん
問
、
,ノノ壬 M
統合)白らも弁えそれと結びつきながら
ソロモ γ王 に よ る 賦 役 国 家 と し て の 体 制 確 立 後 、 当 時
っ、国家体制の確立に遭進したダピデの時代には問題とならなかっ
た。しかし
をはかり、それ自身の目的実現を追求した時、
この二つの要素の相
﹂の矛盾は、表面に
のオリエントの世界史の潮流に梓差す一国家として、 そ の 存 立 維 持
あらわれて来ざるを得なかった。われわれは
反嬢する様相をユダ王国の具体的な歴史的推移のうちに、 記述予言
者の予言、史料編纂者の態度のうちに読みとることが出来るのであ
{八}
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百
片
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2
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同
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﹀ -FO ωHCHν 口
(
五 )(U
U
町
了 ]
・
品
(
)
日
・
(六)拙稿前掲書二八頁以下、三九頁以下参照。
(七)例えば、イスラエル玉閏では、アハブ王(口出・∞Sl∞uo回・。・)とヅロの王
M同
α 8 また、ユダ王国がアッシリアに対して、従属関係を結ん
エテパアル (
E
- ∞∞吋∞ ua﹀の娘イゼベルとの結婚公一関 αロ--auuCは
、
パアル礼拝を宮廷に引入れ、これが、オムリ王朝の滅亡の重要な原因となっ
た。(門戸
ロム宮殿でアッシリアの神礼拝が行なわれた。例えば、アハズ
だ時、エルサ・
レ
をあらわすために、アッシリアの祭壇と同型の祭壇をエルサレムの神般に造
王(口Paulご四)は、アッシリアの王テグラテピレセルに服し、その忠誠
り、アッシリアの神に礼拝をささげた。 (M同αp-aHHO同町・)これも古代オ
・M品0・
ロごiω
リエントに行なわれていた、支配固と従属国の慣例であった。え-Z・22r
HCHY
(八)一例をあ引ければ、サムエル上第二四章でダピデによって行なわれた国勢
っており、十五節以下では、当時おこった疫病の原因をこの国勢調査に帰し
調査が伝えられている。一節では、神がダピデに国勢調査を命じたことにな
ている。われわれは、この不明瞭な伝承のうちに二つの態度を読みとること
が出来る。一つは、﹁ダピデ契約﹂のもとに、国家目的遂行のための国勢調
査が神から出ているものとする考えであり、他は、宗教連合の聖戦の考え
照。予言者は、玉、貴族に対して激しく敵対したのであるが、ダピデ王朝の
方(ヤハウェのみ勝利を与え得る)にたつものである。なお本文八六頁註三参
正当性を否認したわけではなかった。賦役王国としての諸制度、止むを得ざ
る異国神礼拝が攻撃されたのである。特に、エジプトとの同盟は、ィザヤ書
二八・一八におけるように黄泉の園との同盟として嫌悪された。ロ同・冨ケ品ド
ニ M2n-Z-認。ゲ 2 ・DHU-2fωMご
・
-wrm-MUMR-w
uuHOL2M-
一
ニ
なお、予言者に関し
ては、項を改めて論じたいと思う。
二円
-102-
ソ
さて、以上の考察から、
ユダ王国においてその王権を保証する基
一つの政治機構に過ぎなかったのである。イスラエルの神ヤハウュ
﹂の神を見ることは、死を意味
の絶大な権威は、既にゆるぎなく
シナイの伝承はまさしくこのことを
盤となった﹁ダビデ契約﹂と宗教連合の存立基盤であった﹁シナイ
一
。)
N
したのである。
ω
契約﹂とが統了融合されることなく、 たとえその果した役割に比重
伝えているのである。従って、この考え方にたつ限り、 王を神とし
(何阿・
の軽重があったとしても、 王国成立から滅亡に至る迄、並存してい
て崇拝する観念、 王制を永遠に続く神的秩序とする観念はもつこと
(ダビデ王朝) の関係を設定しており、 また、﹁おまえはわたしの
父(ヤハウエ)と子
たと考えざるを得ないのである。そして、 まさしく、ここに、
王制の
が出来なかった、と言える。 ダピデの契約は
一方では既述のように相補いつつ
子だ。きょう、 わたしはおまえを生んだ﹂
(HM印
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﹂
の ダピテ
﹂の関係設定は、 王に超人としての資格を附与する可能性を合
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正当性、永続性を保証しながら、他方において、歴史的経過を通し
という言葉にもかかわらず、 それは、 エジプトにおけるような血統
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、
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て相反嬢しあうことによって、 この王朝にそれ以上のものを与える
関係としてでなく、山中に比撒的な意味に用いられるに止まった。勿
論
、
んでいたことは間違ないであろう。われわれは、後代、
の契約が終末思想と結びついて、・メシアがダビデの苗脅から出ると
(
四
)
の神的秩序であり、不変の体制であった。それは多く神話によって
(五}
いう信仰を生んだことを見るのであるが、現実の歴史において、王
J
は神性を保有することは出来なかったのである。
王国の存続は、徹底的家父長的文化段階にとどまっていた部族体
制を解体し、イスラエル人を宗教的超個人的秩序、氏族生活の超個人
国民から超自然的力をもっ存在であ
ると信ぜられた。また、 アッシリア、パピロニアの王も同様、文字
的秩序の鉄鎖から解放していったのであるが、彼等は、今や新しく
彼らは、むしろ、 王国の山現をとおして、歴史に働く神の業を見て
史的経過において神の導によって成立したものに外ならなかった。
のである。こうした人々にとって、王国の出現は、イスラエルの歴
(七)
シナイ契約にその源を発するヤハウェによる救済史と解した
{六)
通りの意味で、神の子、あるいは神の兄弟と信ぜられていたのであ
国民として、新しい目で自己自身、及び共同体を眺め、 その今日の
て、王の意志は即神の意志に外ならず、その命令は絶対的権威をも
ったのである。
しかし、 イスラエル人にとって王国は、 はじめから存在する神的
を
る。彼等は、神の化身であり、神の血統をひくものであった。従っ
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町
付
﹄25FH) と呼ばれ、
r は単に神宮町同﹄開門)または、善
トの多くのテキストでは、同νZE。
裏づけられ、 王は、神聖を保有するものであった。例えば、
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古代オリエントの諸国家において、王制は古来から存続した一つ
ければならない。
ことにならなかったと言うことである。この点立入って、敷初しな
﹂の二つの要素が、
1 十、
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﹂の王国の特質を認めることが出来るように思われる。即
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秩序ではなく、二世紀に亘る宗教連合の後に生成した一つの制度、
北大文学部紀要
姿
ー 103-
ち
神
イスラエル史における王権の確立とその特質
宇野
いたと言える。即ち、 王国成立以前士師時代において、屡々カリス
マ的指導者を召命し、彼らを導き、敵を彼らの手に渡し、 イスラエ
ル合救ったヤハウェが、 ダビデを興し、彼と共にあり、彼を導き、
王国を建設せしめた。ダビデの偉業はヤハウェの業に外ならず、
の点でのみダピデ王国の出現は、 正当であった。従って、 ダピデ及
わたしは人のつえと人の子のむちをもっ
びその王朝の統治の正当性に関して、疑問の余地はなかったとして
﹁彼が罪を犯すなら、
て彼を懲すLGω 回目・吋二品﹀﹁その道を慎んでわたしの前に歩むな
同・官。 100
句切の)が、
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エルサレム神殿を改修したとき発見さ
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れ、この王の改革を促したと言われる (N r - N N一ωωω 一宮)
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) ユダの
わゆる申命記律法を、 イスラエル王国の滅亡後 Q N H∞
ヒゼキア王
(九)
﹀ からヨシュア王に至る聞に、北
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のイスラエルからユダ王国に入って来たものであると言っている。
若し、 これもユダ王国で宗教連合の律法が保存されていなかったと
言う意味であるとすれば、 われわれはこれに従うことは出来ない。
エルサレムに保存されたと考える。〆
これまでの論述から明らかなように、 われわれは、連合時代に地わ
れた宗教的伝統、律法等は
ビデが、連合時代の指導者の後継者として、 士師が携わっていた律
(H
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同
巴という神託に明瞭にあらわれて
∞
一ω
とはないであろうし
この王朝の歴史に果した偉
が父と子の関係設定に十分の条件ではなかったのである。
以上のように、 ﹁ダピデの契約しは、
﹂の王朝に決してエジプト、パビロニアの諸国家に見ら
大な役割にもかかわらず、 上述のように宗教連合の本質的要素は止
揚されず、
れたような﹁神性﹂を与えなかったのである。
この二つの要素が、相反援しつつ、歴史を通して、宗教史上独自
の発展をとげて行くことは、 また項を改めて論じたいと思う。しか
し、ここでなお、 ひとこと附言しておかなければならない。
・。・)イスラエル王国で保存され、
同- S N H W
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われわれはシナイ契約に源を発するイスラエル宗教連合の諸伝統
は、王国分裂後
ロスト
ヨシュア王
主国ではダビデ契約の背後に完全に退いて了ったという﹂、
(八)
の見解に従うことは出来ない。また、 J-nフライトは、
問。レ・吋一吋)エルサレムに巡礼することが、 イスラエルのお
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) と言っている
﹁主を恐れることを楽しみとし、
その目
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r はシナイから出主の
) ﹁律法吋A
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等のダビデ王朝、
言葉
品
一
一
また北王国について予言したアモスの﹁主はシオンからほ
エルサレムに対する予言者イザヤ、ミカの
号
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早
業
、
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EEF問│J門出耳目はエルサレムから出る﹂ Q 2・N一ωv呂町・
って定めをなさず﹂
の見るところによって、 さばきをなさず、 その耳の聞くところによ
法が含まれていたことは、
こと等々から明らかであろう。この﹁さばき﹂に連合時代からの律
座、ダピデの家の王座が設けられてあった﹂
きてであることを告げる詩篇一一一一一が、 つづいて﹁そこにさばきの
広間
るサムエル上十五章一ーー六節の記事、 ソロモン王の造った﹁審判の
は、イスラエル諸部族から王にさばきを求めて人が来たことを告げ
法業務に従事したことは十分考えられる。王が裁判を行なったこと
らばおまえにはイスラエルの位に座する人がわたしの前に欠けるこ
し
、
いるようにへ ダビデの血統であること、 王となったということ自体
そ
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夕
、
-104-
も
エ ル サ レ ム か ら 芦 を 出 さ れる﹂(﹀5・ Hい凶)という言葉から十
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分推測できる。恐らく、王は、実際の﹁さばきしにおいて、かって
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士師の職務に含まれていたように、 こ う し た 古 来 か ら の 律 法 を 解 釈
し、新事態に適応させる業務を司ったと考えられ、また責任あるも
の と し て 受 取 ら れ て い た と 思 わ れ る 。 エレミヤの﹁、タビデの家よ
(同町一円- N H
一HN) の一マ一日来は、
﹂のことを物語っているも
朝ごとに正しいさばきを行ない、物を奪われた人をしえたげる者の
手から救え﹂
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のと思われる。また、父アハズ (
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吋ωω12ω 回・ (
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) のアッシリア
に対する従属政策をすてて、独立をはかったピゼキア王の改革は、
シナイ契約において最も重要な規定であるヤハウェのみを礼拝する
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﹁ダビデ契約﹂が、 祭礼
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(六)ダピデ興隆物語、ダピデ晩年の王位継承問題の記者、ヤハウイスト伝
の成立は、こうしたイスラエル人を前提している。
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ということを実現するために異教的儀礼一切をエルサレムから追放
われわれは、
す る こ と か ら は じ め ら れ て い る の で あ るo
以上のように見てくる時、
を通して強化された結果、 た と え シ ナ イ 契 約 お よ び 連 合 時 代 の 伝 統
が表面にあらわれなかった時があったとしても、潜在的に常に存在
し、上述のように王制のあり方を徹底的に規定したと考えるのであ
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