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国家主権と栄典制度、ドイツの栄典制度の変遷を例に

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国家主権と栄典制度、ドイツの栄典制度の変遷を例に
国家主権と栄典制度
国家主権と栄典制度
――ドイツの栄典制度の変遷を例に――
小
川
賢
治
はじめに
本稿は、第二帝政以降のドイツの国家形態の変遷と、それに伴う栄典制
度の変化をたどることによって、栄典制度の存立が国家主権と大きく関わ
り、それを前提としていることを示す。第二帝政の時代には、栄典に関す
る主権は、帝国ではなく、その下に位置する領邦国家にあった。次のワイ
マール時代には、憲法によって国家が栄典制度に関わることが否定された。
しかし、同じ憲法の下で、ナチス権力は自由に栄典を撒布した。第二次大
戦の終結後、被占領状態にある間はドイツは栄典制度を持つことは出来な
かった。そして、占領解消後に、ようやく栄典制度を設けることが出来る
ようになったのである。このように、国家形態が変化するのに伴って栄典
(1)(2)
制度も変っていくことを以下に示す。
(1)以下、 Hans Karl Geeb, Heinz Kirchner und Hermann - Wilhelm Thiemann の
“Deutsche Orden und Ehrenzeichen” 4.Auflage(1985年、Carl Heymanns Verlag
KG)に依拠して論を進める(以下、カッコ内に示す引用頁数は、特に記す
ものを除いて、この文献のものである)。この文献は、Geeb と Kirchner(連
邦内務省局長)が基礎的な部分を書き、その後 Kirchner 自身と Thiemann
(同省上級事務官)が新版を出版した。この本は、195
7年に勲章法が公布
されたことを受けて出版され、称号、騎士団勲章、栄誉勲章に関する法規
について解説し、また、中世から現代に至るドイツの勲章について説明を
加えたものである。
21
(2)「勲章」に相当するドイツ語には、Orden、Ehrenzeichen、Auszeichnung(ま
た Auszeichen)がある。Orden は、かつての時代に存在していた騎士団への
所属を示す勲章(あるいは、その流れを汲む勲章)、Ehrenzeichen は騎士団
とは無関係に、栄誉を称えるために授与された勲章、Auszeichnung はそれ
以外の表彰勲章である。本論文では、 Orden があらゆる勲章を総称してい
ると思われる場合に「勲章」と表記するほかに、各々を区別して、 O r d e n
を「騎士団勲章」、Ehrenzeichen を「栄誉勲章」、Orden und Ehrenzeichen と
連記されたものを「両勲章」、Auszeichnung(Auszeichen)を「勲章」とする
場合がある。その他、 A b z e i c h e n は「記章」、 M e d a i l l e は「メダル」、
Denkmünze は「記念メダル」とする。
1
5−1
7)
1.国家と栄典の関係(pp.
称号 Titel、騎士団勲章 Orden、栄誉勲章 Ehrenzeichen は地上のほとんど
全ての国家において、特別な公的栄誉を表す指標として授与されてきた
(原注)。勲章は、国家による栄誉の証明が形に表現されたものであり、国
家による奨励のより大きい分野、より正確に言えば、国家の自己表現、の
一部である。国家の自己表現の他の例としては、国家の象徴、国民の祝日、
国家的祝祭等が挙げられる。
(原注)ただし、スイスのような例外は存在する。自らが勲章を授与しないだけ
でなく、自国民が他国から勲章を受けることをも禁止している。またワイ
(3)
マール憲法も109条4項 において、自らに勲章授与の禁止を、国民に
対しては勲章受章の禁止を定めていた。これらの例からは国家としての地
位と勲章授受の重要なつながりを見てとることができる。
(3)ワイマール憲法10
9条〔平等原則、男女同権、称号の授与、勲章〕(高田
他、p.
1
3
4)
すべてのドイツ人は、法律の前に平等である。
男性と女性は、原則として同一の公民的権利および義務を有する。
出生または門地による公法上の特権および不利益取扱いは、廃止されるも
のとする。貴族の称号は氏名の一部としてのみ通用し、かつ、今後これを
授与することはもはや許されない。
称号は、官職または職業を表示するときにのみ、これを授与することが許
22
国家主権と栄典制度
される。しかし、学位はこのことによって影響を受けない。
勲章および栄誉勲章は、これを国が授与することは許されない。
いかなるドイツ人も、外国政府から称号または勲章を受けてはならない。
国家の自己表現は、単なる国家機能の遂行以上の意味を持ち、国家活動
の精神的意味連関、主導観念あるいはまた正当性原則を、強調し、公的に
可視的にする、という目的に資する。功労ある個人を公的に讃えることは
昔から国家の機能に属している。国家は、国家に対する功績や、国家が評
価する公的な善に対する功績を、あらゆる場合に、目に見える形で報いる
ことによって、自己自身を表現する。
ずっと昔から国家のシンボルの中に国家性が表現されてきている。その
ようなシンボルは、公共体 Gemeinwesen の存在と国家共同体への国民の
統合とにとって根本的な意味を持っている。国家シンボルは国家性の必要
要素と見られる。近代国家はこれらの表現形態を前国家時代から、またカ
ルトや宗教から引き継いでいる。また、国家的栄誉証明において国家はよ
り大規模にシンボル表彰を利用する。勲章においては物の形を取って、称
号においては言語によって、それは行われる。
称号や勲章の形態をとる国家的栄典の他に、メダル・記念メダル・証明
書・その他の勲章 Auszeichnungen と位(位階)Würde の授与、また、授与
の公的告知あるいは公的表彰がある。栄典授与の目的の一つは、際だった
功績を上げた個人を報奨することであるが、それ以上に、国民全体に対し
て、持てる力の全てを全体の利益のために活用するよう奨励する、という
ものがある。
Herbert Krüger によると(Allgemeine Staatslehre , 2. Auflage 1966, S.570f.)、栄典
授与の意味は伝統的な理論が与えている。その理論によれば、命令・強
制・処罰の他、それと同様に報奨も、望ましいけれども強要は出来ない行
為を国民に奨励するのに役立つ。 Robert von Mohl (Staatsrecht, Volkerrecht
und Politik )は、栄典授与は統治手段として決して弱いものではない、と言
23
っている。栄典の存在は今日、君主の時代と同じ意味は持たないにしても、
その意味を全く失ってはいない。民主主義国家もまた栄典のような形式的
存在を、また、形式への尊重を、利用している。国家シンボルについても
同様である。全ての人間の経験から国民は、共同体・国家を体験するため
に、一目瞭然のシンボルと形式を用い、それを望む。
国家的栄誉証明においては、章を受けた者が、あらゆる場合に他の国民
の目に際立って見えることによって称賛される。それのもたらす宣伝効果
は二重である。栄典は、一方では、栄典を受けた個人を公に知らしめる。
他方では、国家は、一般的な善の保護者として、その一般的善のために為
された功績を公的な表彰によって評価する権限を持っている、ということ
を強調することによって、国家自身を宣伝するのである。
たいていの場合は国家が栄典の授与機関であるが、時々は別の組織、多
くは公的・法的社団法人が栄典の授与主体となる。それは自己の活動領域
の内部で、歴史的な起源をもつ権限に基づいて、ある種の栄誉の標識を授
与する権限を行使する。これには特に大学と地方自治体が含まれる。
近代にはより広いカテゴリーの栄典授与が明確になってくる。国家は、
一定の限定された領域での勲章の制定と授与を私法的組織に委ね、それに
認可を与えることによってそれらに公的性格を与える。この発展は特に、
国家が勲章を制定・授与することを禁じたワイマール憲法の下で生じたが、
19
45年以降もまた、そのような勲章が新しく制定された。たとえば、ド
イツ赤十字の栄誉勲章や、ドイツ消防隊連合が制定したドイツ消防栄誉十
字章 Deutsche Feuerwehr-Ehrenkreuz がそれに当たる。
1
8−2
0)
2.ドイツ勲章前史(pp.
近代的な意味での勲章が誕生するよりもずっと以前に、多くの文化圏に
おいて、功績ある個人を表彰するために、携帯できる印によって彼(女)
を他者に知らしめる方法が用いられてきた。もちろん、古代の表彰形態、
24
国家主権と栄典制度
特にローマ人におけるものから、我々の近代的な勲章制度へと直線的につ
ながるわけではない。むしろ、今日公的表彰の記章として授与されるよう
な騎士団勲章は、起源としては教会組織に遡る。この本来の騎士団勲章が、
十字軍の時代にホスピタル騎士団勲章 Hospitaliterorden やリッター騎士団
勲章 Ritterorden に引き継がれ、それらが近代勲章の先祖となった。
宗教的な誓いに基づいて、ホスピタル騎士団員には、病気の巡礼を世話す
るという義務があった。また、騎士団勲章の団員は非キリスト教徒と闘う義
務があった。この種の騎士団の最初の例としては聖ヨハネ騎士団とテンプル
騎士団が知られている。聖ヨハネ騎士団は、イタリアの商人が設立した協同
組合の一つに由来するもので、エルサレムでキリスト教徒の巡礼のための
宿と病院を運営していた。その後11
1
3年にホスピタル騎士団として設立さ
れたが、まもなく諸般の事情から、リッター騎士団の役割をも引き受ける
ようになった。テンプル騎士団は、十字軍の騎士の多くがフランス人であ
ったので、1
1
1
9年に、純粋にフランス的な特色を持った新しい騎士団とし
て設立されたものである。ドイツ騎士団 Deutschherrenorden は119
0年に、
宿泊地 Akkon での疫病をきっかけとして、病人の看護のための団体とし
て設立された。それは、12
26年にはまだ異教の地であったプロイセンで
も設立された。その地でこの騎士団は、騎士修道団団長 G r oβm e i s t e r の
Hermann von Salza の下で誓いを成就し、キリスト教の信仰のための戦いを
続けた。勢力範囲は当時、東プロイセンから Reval の地に至った。
これらの宗教的な騎士団の所属員は記章と、装飾的シンボルとして、ゆっ
たりしたマントに十字軍の十字を付けた。聖ヨハネ騎士団の騎士は黒いマ
ントに白い十字、テンプル騎士団員は白いマントに先が八つに分かれた深
紅の十字、ドイツ騎士団は同じく白いマントに黒い十字であった。ドイツ
騎士団勲章の十字は鉄十字の範型となった。
宗教的騎士団は次第に高い尊敬を獲得し、1
3、1
4世紀以降に出現する
世俗的騎士団の模範となった。宗教的騎士団が、独立の団体として自治を
行い、国家の中の国家となったのみならず、自ら国家を設立したのに対し、
25
世俗的騎士団は初めから常に君主(主権者)によって設立された。君主は
自らがもつ全ての騎士団の団長となった。これらの騎士団への入団承認は、
騎士団の創設の際に公布され騎士団の衣装や印を定めた規約によって規定
されていた。それらの衣装や印によって外部からその成員が識別できた。
騎士団への入団を認めることは領主や宮廷の恩恵的行為であった。
騎士団は、発展するにつれて、元来の宗教的な目的を失った。必ずしも
異教徒と闘うことはなくなり、かつての騎士団の誓いは実質と厳格さを失
った。次第に、騎士がキリスト教的な精神を持つことを義務としないなら
ば、騎士団は何ら使命をもたない、と考えられるようになった。それゆえ
騎士団は、騎士団長である君主との人格的なつながりによってのみ、また、
共通の騎士団の装飾によってのみ結びついた世俗的団体になった。騎士団
の勲章はその後宮廷勲章 Hoforden になり、次第に勲章装飾が自己目的に
なった。それは大抵領主によって、影響力の大きい貴族 Standesherr を宮
廷につなぎ止めるために、また功績ある貢献に報いるために、制定された。
宮廷勲章は初めは等級に区分されていなかった。宮廷貴族以外で勲章の
受章者に数えられたのは支配的政治家か精神科学の飛び抜けた代表者のみ
であり、少数だった。その後、次第に領主は、自身の臣下の功績に、勲章
をもって報いるようになった。今や国家において制定された勲章の数は増
える一方であったので、まもなく勲章間に等級を設ける必要が生じた。そ
れにより、ある種の高位の勲章、騎士勲章 Ritterorden、功労勲章、が区別
された。高位の勲章は主に、領主の一族や外国の君主家の一員、古くから
の家柄の貴族の一員、に与えられるものである。騎士勲章は単なる貴族に
与えられるのではなく、大抵は特別な貴族(世襲貴族 Ahnenadel )を想定し
ている。功労勲章は決まった種類の貢献を為した者に授与されることが多
い。例えば、バイエルンの Max-Josef 軍事勲章のように軍の功労者に与え
られるもの、プロシアの Pour le merit 勲章の平和部門やバイエルンの
Maximilian 勲章のように科学上文化上の功労者に与えられるものがある。
騎士団への加入を認められた個々人の間に、地位と貢献に従って等級上
26
国家主権と栄典制度
の差異を生じさせるために、単一の勲章の内部にいくつかの等級が設けら
れた。Groβkreuz(大十字)、Kommenturkreuz、Kommandeurkreuz、と最下位
の等級としての Ritterkreuz(騎士十字)、がそれである。大十字章は、幅広
の大綬で肩から腰へ掛けられる。Kommentur と Kommandeur の十字章は、
首から綬で吊り下げられる。騎士十字は幅の狭い綬でボタン穴に付けられ
る。有名な軍事功労勲章の多くは、将軍、幹部士官、下級士官の階級に対
応する3等級区分を維持してきた。それには、オーストリアの
Maria-
Theresia 軍事勲章、バイエルンの Max-Josef 軍事勲章、バーデンの KarlFriedrich 軍事功労勲章、ヴュルテンブルクの軍事功労勲章、などがある。
最も重要な文民的勲章の国際的基準はナポレオン1世によるレジョン・ド
ヌールの制定である。等級は、下から、 R i t t e r(騎士)、O f f i z i e r e (士官)、
Kommenture、Groβoffiziere(上級士官)、Groβkreuze(大十字)である。この勲
章は制定以来今日までほぼ変わらずに維持されている。この伝統的な等級
付けは、ドイツ連邦共和国の功労勲章などの部門にも明瞭に反映している。
一定の勲章の授与に結びついて、被授与者には、勲章を佩用する資格の
他にも権利が与えられた。もちろん大抵は、例えば宮廷の式典に参列する
権利のような、ただの名誉としての権利であったが。それは宮廷において
は高い席次をもたらした。高位の黒鷲勲章の席次は、最高位の宮内官の次
で、枢機卿の前とされた。Pour le merit 勲章の平和部門は退役陸軍少将を
宮廷席次の中に位置づけた。プロイセンでは高位の黒鷲勲章を受けると直
ちに世襲貴族の地位をも与えられた。同様に、ザクセン公爵位のザクセ
ン・エルネスティーネ家勲章 Sachsen-Ernestinischen Hausorden の最高位
(大十字)を受けた市民は、もし、一定の期限内に、貴族になる権利を行使
し貴族証明書の発行を希望すると表明するならば、世襲貴族の地位を獲得
した。バイエルンでは、自国人に関しては、バイエルン王冠功労勲章(文
民) と Max-Josef 軍事勲章に、一代貴族や「○○の騎士」の称号を名のる
権利が結びついている。同様にヴュルテンベルクでも、ヴュルテンベルク
王冠勲章の上位4等級と軍事功労勲章の全ての等級に、「von」の付く一代
27
貴族が、同じく、18
56年までに授与されたフリードリヒ勲章には一代貴
族が結びついていた。ある種の勲章は、一連のドイツ諸国家では、自国人
に関しては栄誉年金が付いていた。特に、軍事的な、何よりも戦争の功績
に対する勲章の場合にそのことが当てはまる。例えばバイエルンの MaxJosef 軍事勲章の場合がそうである。
3.1
9世紀からワイマール憲法成立までのドイツの勲章
(p
p.
2
1−2
2)
19世紀には、騎士団勲章の他に、それに類似した別の栄誉の勲章
Dekoration が出現した。これも君主によって授与されたが、これは、騎士
団勲章とは異なり、歴史上の法制度に基づいていなかった。これの例とし
ては、勇敢行為メダル Tapferkeitsmedaillen と軍人功労メダルが挙げられる。
それらは既存の騎士団勲章に統合されることがあり、それまで騎士団勲章
を受ける資格のなかった下士官と兵のための記章として用いられた。
第一次大戦の終わりまで、騎士団勲章の等級は、成し遂げた功績によっ
てではなく、授与される者の地位によって専ら決まっていた。だが、鉄十
字勲章 das Eiserne Kreuz は、初めて士官・下士官・兵のための統一的な記
章となり、栄誉勲章の中で特別な地位を占めている。ここにおいて、等級
区分はもはや授与される者の地位の上下に対応せず、実際の功績を示すも
のとなっている。
さらに、フランス革命打倒のための戦争以来、戦闘で特別な勇気を示し
た者に、特にそのために鋳造したメダルを授与することが通例となった。
18
13年に、ナポレオンと戦争をしているほとんど全ての国の君主が、た
いていは分捕った大砲の青銅から鋳造した戦争記念メダルを作った。それ
に続いて、常備軍・警察・消防・税関に関する平和功労勲章、一定の出
兵・戦闘・百年祭・戴冠式・政府記念祭・王侯貴族の結婚式などへの参加
に対する記念メダル、が作られた。後者もまた勲章に数えられた。なぜな
28
国家主権と栄典制度
ら、そのような出来事への参加はともかくある種の「功績」を意味あるい
は前提したからである。これらの勲章に等級が存在する場合、その等級分
けは、佩用の様式によってよりも記章の形や大きさによって、ただし大抵
は材質 (銅か銀か金か) によって、区別される。これらは通例、ボタン穴
に付けられた。
ドイツでは、191
8年までの帝政時代には、称号の授与ならびに騎士団
勲章の制定と授与は領邦君主 Landesherr の権利に属していたので、帝国
勲章 Reichsorden を作ることはできなかった。その時期の騎士団勲章の多
くはプロイセン等のドイツの領邦国家 Bundesstaat の勲章だった。確かに
皇帝 Wilhelm 1世は1
8
7
0/7
1年戦争の記念メダル Kriegsdenkmünze を作
り、Wilhelm 2世は1907年の中国メダル、1912年の植民地記念メダル、
1
9
1
8年の負傷者記念記章 Abzeichen、を制定したが、それらは、皇帝とし
てではなく、プロイセン王としての資格において行われたのである。た
だし、プロイセンの勲章、特に戦争勲章は、プロシア国籍者以外にも多
く与えられたので、ある程度まで帝国勲章としての性格と意味を持ってい
た。このことは特に鉄十字勲章に当てはまる。これは第一次大戦時に、全
司令官中の最高司令官としての皇帝によって、プロイセンだけではなくバ
イエルンその他の部隊派遣軍に授与されたものである。この時期には、そ
れ以外にも、2
2の領邦君主 Bundesfürst の各々が様々に異なった固有の勲
章を制定したので、ドイツの勲章は際だった多様性を示した。
4.ワイマール憲法成立以後ナチス政権成立までの勲章
(p
p.
2
2−2
3)
ワイマール憲法は勲章の授受を禁止したが、必ずしも厳格には守られず、
特にナチスの政権獲得以降は自由に勲章が撒布された。ここには、国家主
権と栄典制度の密接なつながりを見ることが出来る。
1918年に帝制が倒れるとともにドイツの勲章制度は終わりを告げた。
29
ワイマール憲法の10
9条によれば、国家は勲章を授与することは出来ず、
また、いかなるドイツ人も外国の政府から称号や勲章を受けることは出来
なくなったからである。ただし、ワイマール憲法の発効までに獲得された
勲章は引き続いて佩用することができた。禁止の例外として許されるのは、
ワイマール憲法175条によると191
4−19年の戦時の功績による勲章だけ
(4)
であったが、それにもかかわらず、鉄十字勲章と傷痍軍人記章 Verwundetenabzeichen はその後も何年間も授与された。だが、1
9
2
5年3月7日の命
令 Erlaß(上級官庁から下級官庁への命令) によって、戦争勲章の授与もまた
停止されることが最終的に指示された。
(4)ワイマール憲法1
7
5条〔第一次世界大戦の勲功に対する適用除外〕
(高田他、
p.
1
4
9)
第10
9条の規定は、19
14年から19
19年の戦争中の勲功に対して授与され
るべき勲章および栄誉勲章には、これを適用しない。
勲章の制定と授与を禁止するために、憲法における明文の規定が(単な
る法律におけるものではなく) 必須のものと考えられたということは、いか
に国家性(国家としての地位)Staatlichkeit
と勲章制度のつながりが密接で
あると見られていたかを示している。
この時期以降、勲章制度が、君主 Fürst よりも、君主が代表する国家に
よる表彰という性格を強くもつようになると、授与する君主と授与される
者との個人的・人格的な忠誠の関係という性格を勲章受章は失った。
新しい国家的勲章の授与の禁止という事態に直面して、第一次大戦後、
多くの戦争記念記章 (と戦後の活動への参加記章) が私的な団体によって作
られた。例えば、Kyffhäuser (注:山地の名前)記念メダル、Langemarck(第
一次大戦の激戦地) 十字章、Schlageterschild、等の連隊記念十字章がそれで
ある。しかし、それらは法的な意味での勲章ではないし、刑法上の保護も
受けなかった。また、かつての領邦君主も、君主制の終わりとともに勲章
授与の権利を失っていたにも拘わらず、折にふれて騎士団勲章を授与した。
30
国家主権と栄典制度
ワイマール憲法1
0
9条の禁止は、私的な団体が守らなかっただけではな
い。公的機関にも、その例があり、州によるメダルの授与がライヒ政府の
黙認の下で再び行われた。例えばプロイセンでは、192
5年6月9日、プ
ロイセン国務省の決定 Beschluβ によって救助メダルが授与された。プロ
イセンではまた、
「消防団体への貢献」に対する記念記章が1
9
2
5年8月6
日の決定によって再び制定された。さらに1922年には復興省によって、
植民地における功績に対して植民地勲章が作られた。赤十字の記章に関し
ては、これは国家ではなくドイツ赤十字総裁によって授与されるという理
由で、ワイマール憲法109条の禁止は、適用を免れた。また都市と各種団
体に忠誠貢献功績記章 Treudienstabzeichen と他の栄誉勲章を作ることが委
ねられた。
2
3−2
4)
5.ナチス体制下の栄典(pp.
ナチス体制は勲章法を制定して総統に権限を与え、栄典制度を大々的に
利用した。
ワイマール共和国は称号と勲章の授与を完全に禁止したが、国家社会主
義体制は栄典 Ehren の授与という手段を大々的に用いた。まだライヒ大統
領ヒンデンブルクの存命中に、生命救助メダルと第一次大戦参戦者のため
の栄誉十字章 Ehrenkreuz を制定し、国家による勲章の制定と授与を再開
した。
これらの新しい勲章の制定の法的根拠を、授権法 Ermächtigungsgesetz
の公布の後、19
33年4月7日の称号勲章法と19
34年5月15日の補足法
が提供した。この二つの法は最終的に19
37年7月1日の称号勲章法に引
き継がれた。3
3年と34年の二つの法においては、称号と忠誠功績勲章は
帝国地方長官 Reichsstatthalter(=総統) の他、州政府によっても授与され
たが、193
7年の称号勲章法によって、授与の権限は独占的に「総統=帝
国宰相 Reichskanzler」に与えられた。より詳細な規定は、19
35年11月
31
(5)
14日の称号勲章法実施命令 Verordnung に定められた。この命令は元々
は、1933/3
4年の法律のために公布されたものだが、19
37年の勲章法
のためにも適用されることが明文によって記されていた。詳細な規定はま
た、19
35年の命令を変更するための19
36年3月17日の命令にも含まれ
ている。これらの法的規定に基づいて19
45年まで、特に第二次大戦の間
に、多くの勲章が制定された。それらの再制定については19
57年の勲章
(6)
法、6条1項の2号と3号がより詳細な規定を設けている 。
(5)Verordnung は、行政官庁が法に従って出す命令を言う。それには、法規命
令 Rechtsverordnung ( 一 般 国 民 に 義 務 づ け る も の ) と 行 政 命 令
Verwaltungsverordnung(現在では行政規則 Verwaltungsvorschriften という)
の2種類がある。法規命令は、施行令 Durchführungverordnung と警察命令
Polizeiverordnung(刑罰をもって一定の行為を命じまたは禁ずるもの)に分
かれる(山田、p.
9
4。田沢)
。
(pp.
83,
84)
(6)勲章法6条〔かつて授与された勲章〕
(1)この法律の条件に従って授与される騎士団勲章並びに栄誉勲章の他、次の
ものを佩用することが出来る。
1.領邦君主・皇帝・領邦政府・帝国政府・ライヒ大統領・連邦大統領に
よって、あるいは、彼らの承認のもとに、制定された騎士団勲章と栄
誉勲章、並びに、 S c h l e s i e n 防衛記章 B e w ä r u n g s a b z e i c h e n (別名
Schlesien 鷲記章)と Balt 十字章。19
3
3年1月30日から1
94
5年5月
8日までの時期に授与された国家社会主義の表象をもつ勲章は、元来
の形態においてのみ佩用できる。
2.1
9
3
4年8月1日から1
9
3
9年8月3
1日までに、1
9
3
6年のオリンピッ
ク大会・防空・消防・坑内災害防止への貢献に対して制定された騎士
団勲章と栄誉勲章、並びに、その時期に制定された国家貢献勲章と忠
誠貢献栄誉勲章。これらは、国家社会主義的表象を除いてのみ佩用さ
れうる。その形態については、連邦政府が定め連邦内務省が保存する
雛型が標準となる。
3.1
9
3
9年9月1日から1
9
4
5年5月8日までに、第二次大戦における功
績に対して管轄のドイツの機関によって制定された騎士団勲章と栄誉
勲章、並びに、武器記章と傷痍軍人記章。それに対応して、2号の2
も妥当する。
4.外国の国家元首あるいは政府から授与された騎士団勲章と栄誉勲章で、
32
国家主権と栄典制度
受章を承認されたもの。同じことは、かつて同盟を結んでいた諸国の、
第一次・第二次両大戦における功績に対する勲章にも当てはまる。こ
れらは、受章の承認が与えられていない場合や取り消された場合も可
である。
(2)1項に挙げられていない騎士団勲章と栄誉勲章、並びに、国家社会主義
的な表象をもつ記章は、佩用することは出来ない。制作すること、提供す
ること、販売すること、流通させること、は出来ない。
(3)連邦大統領は、かつて同盟を結んでいた諸国の、第一次・第二次両大戦
における功績に対する勲章を佩用する権利(1項4号の2)を、剥奪する
ことが出来る。それに対応して4条の2と3も妥当する。
ワイマール憲法1
0
9条3項で勲章と同様に禁じられた称号の授与もまた、
1
9
3
3年以降再び大規模に行われた。根拠は上述の法律(最後のものは1937
年の称号勲章法) と、これらの法律に対して出された1
934年1 月30日の、
称号に関するライヒ大統領の命令であった。これらの規定を根拠にして以
下の称号が導入された。
1.「教授」の称号。これは、193
7年8月27日の称号授与に関する第
一の命令による。
2.「劇場総支配人」、「音楽総監督」、「国家演劇監督」、「国家オペラ監
督」、「国家常任指揮者」、「宮廷歌手」、「宮廷巨匠」、「宮廷音楽家」、
「国家バレーマイスター」、「マイスターダンサー」の称号。これらは、
舞台、映画、音楽芸術家に対してのものである。これらは、1
9
37年10
月2
2日の称号授与に関する第二の命令による。これは、19
3
9年6月
5日の命令によって補足されている。
3.「建築監督官」、
「衛生功労医」(ただし、1918年に廃止)、「功労獣医」、
「法律顧問官」の称号。これらは、1
9
3
8年1
0月1
8日の称号授与に関
する第三の命令による。
33
2
4−2
7)
6.1
945年以降勲章法成立まで(pp.
6.
1 被占領期の連合国による栄典制度の禁止
ナチス国家が行った勲章授与の濫用は、ドイツの勲章の威信に深い傷を
負わせた。少し前には勲章に値したことが、今では嫌悪すべきことと見な
された。
第二次大戦後の占領体制はドイツの勲章制度を徹底的に縮小させた。ア
メリカ地区ドイツの軍事政府の194
5年7月14日の法律 Gesetz 15
4号は、
初め、諸々の勲章の内、軍事的なあるいは国家社会主義的なもののみにつ
いて、授与と受章を禁止し処罰した。これに対して、管理委員会法
Kontrollratsgesetz 8号4条は軍事的のみならず文民的勲章についてもまた、
佩用の禁止を宣告した(注:管理委員会は最高管理機関である)。これによっ
て、新しい勲章の制定と授与は占領法による制限を受けることになったの
だが、この管理委員会法8号4条は最終的に、1
9
4
9年9月21日の連合国
高等弁務官会議 Alliierte Hohe Kommission の法律 Gesetz 7号によって効力
を停止された (注:連合国高等弁務官会議は英米仏3カ国代表の会議で、最高管
理権を行使した。5
5年まで存続した)
。
しかし、この、占領軍による制限を否定した連合国高等弁務官会議の法
律7号が発せられて以降も、ドイツ国籍を有する者には、「かつてのドイ
ツ軍の、ナチスの、あるいはその併合されあるいは管理下に入れられた組
織のいかなる騎士団勲章、栄誉勲章、記章、階級記章 (いかなる様式のもの
であれ) をも」佩用することは禁止が続いた。この決定は、占領権力によ
って、第一次大戦の騎士団勲章と栄誉勲章をも禁止の対象に含むと説明さ
れた。そこには、「Wehrmacht (国防軍)」と呼ばれる国家社会主義時代の
軍隊だけではなく、文字どおりには「以前のドイツの軍隊 frühere deutsche
bewaffnete Kräfte」と翻訳される軍隊も含まれた。この禁止は占領状態の
解消後も維持された。その根拠は、戦争と占領から生じる諸問題に関する
34
国家主権と栄典制度
規定を定めた条約の第一部1条1項によると、「権限をもつドイツの立法
機関によって廃止されるまで、
占領当局が発した法規則は効力を保持する」
からである。
6.
2 基本法は勲章を禁止しない
この占領法的規定以外には何も、称号と勲章の制定と授与の再制定を妨
げるものはなかった。19
4
9年5月に成立した基本法はワイマール憲法1
0
9
条の禁止を引き継がなかったので、連邦と州は再び新しい勲章の制定と授
与に転じた。称号の授与も個々の州によって再開された。
6.
3 ナチス体制下の勲章の効力に関する二つの見解
最も論議を呼んだのは、194
5年までの多くの施行令とともに称号と勲
章の授与と保護の法的根拠となったナチス時代1937年の称号勲章法で、
それが、国家と憲法の根本的な変化に鑑みて引き続き妥当なものと見なさ
れうるか否か、という点であった。この論議は今日なお、勲章制度と国家
ならびに国家形態との関係について考察する際に意義を持っている。
一方では次の意見がある (Werner Weber 等)。193
7年の称号勲章法は国
家社会主義体制の崩壊以降は効力をもたない。なぜなら、それは全くその
体制の精神と総統の権力のために作られたものであり、従って基本法12
3
(7)
条以降通用する法律においては受容を否定されるからである。
(7)基本法1
2
3条[旧法および旧条約の効力の存続](高田他、p.
2
7
2)
(1)連邦議会の集会以前の時代の法は、それが基本法に抵触しない限り、引
き続き適用される。
(2)略
これに対する見解(特に Giese)は、基本法が発効するまでは、占領法や
新しい州法 Landesrecht によって修正・停止されない限り、この法律の引
き続いての有効性は、全体として是認されうる、というものである(新し
35
い規定の例としては、バイエルンの、国家社会主義支配の下で授与された称号の失
効に関する19
4
6年5月2
0日の法律17号がある。これによって、19
37年の称号勲
章法と施行令が停止された)
。
Bachof は教授称号の授与の許可の研究において、19
37年の称号勲章法
の効力の継続については根本的な疑義は存在せず、ただ、「総統=帝国宰
相」に称号と授与条件の法的決定を委ねた2条2項の決定のみが今では妥
当しない、という結論に達した。それと反対の意見を、 Thieme は代表し
ていた。彼によれば、国家社会主義的な称号制度全体と193
7年の称号勲
章法はもはや存立しえない。それは、君主制の廃止とともに君主制下の称
号制度も廃止されるのと同様である。
その後、19
5
3年5月13日の連邦内務大臣の告示 Rundschreiben におい
て、19
37年の称号勲章法の1条から5条の効力が否定され、単に、外国
の勲章の受章許可に関する規定と、この法の6条1項の罰則規定のみが有
効と見なされる、とされた。
6.
4 勲章発行の源泉は国家元首か立法機関か、という問題
同様の論議が、称号と勲章の再制定が立法機関によって可能なのか(Werner
Weber、Bachof、Thieme らの立場)、それとも、この権限は法律上当然に国家
元首に属するのか(Giese、Lechner und Hulshoff らの見解)、という問題をめぐ
(8)(9)
って生じた 。後者の見解の代弁者はその見解の根拠を、特別な法的権限
なしに表彰を発議することは国家元首の変更しえない法的に推定される権
限である、という点に求めた。彼らはそれに加えて、それまでの憲法の運
用例に拠り所を求めることが出来た。というのは、それまでに連邦大統領
によって行われた勲章の制定の全ては、彼の官職の本性から生じる権限に
基づけられていたからである。
それに対して逆の意見の代表者は次の点を根拠にする。称号と勲章の具
体的な授与においては法的な根拠づけが問題となる。この点に関する法的
地位の変更は、単なる執行権にはふさわしくなく、立法機関が法律によっ
36
国家主権と栄典制度
てその権限を執行権に与えた時にのみ妥当する。
(8)195
7年の称号勲章法の2条と3条で、称号(学位・官名・職業名を除く)
の授与、勲章と名誉記章の制定と授与は連邦大統領の権限とされた。5条
で、ドイツ人が外国の称号・勲章・名誉記章を受けるには連邦大統領の許
可が必要と定められた(山田、p.
5
9)
。注(9)参照。
(9)1
9
5
7年の称号勲章法(p
p.
4
4,
4
9,
7
1)
2条〔称号〕
(1)法に他の定めがない限り、称号は連邦大統領によって授与される。称号
の名称とそれの授与の前提条件は法によって定められる。
(2)学位と、官位並びに職業上の名称には、この法律は言及しない。
3条〔騎士団勲章と栄誉勲章〕
(1)騎士団勲章と栄誉勲章は連邦大統領と彼の承諾によってのみ制定され授
与される。制定の命令 Erlaβ と承諾は連邦官報において告知される。
(2)スポーツにおける功績に対する表彰は、連邦大統領によって、この法律
における意味での栄誉勲章として授与されることができる。
(3)公的な地位あるいは学位に関わる勲章はこの法律によって言及されない。
同じことは、単に団体への所属や集会等の催しへの参加を示す記章、ある
いは、業績や寄付に対する表彰として規定された記章、にも当てはまる。
ただし、それらが、外形や佩用方式の点で、1項に基づいて制定され2項
と6条に基づいて授与される騎士団勲章と栄誉勲章に似ていない場合に限
る。
5条〔受章の許可〕
(1)ドイツ人は、連邦大統領の許可がある場合にのみ、外国の国家元首ある
いは 政府から称号・騎士団勲章・栄誉勲章を受けることが出来る。19
45
年5月8日 以降に外国の称号や騎士団勲章・栄誉勲章を得て、称号を称し
記章を佩用しようとする者も、この許可を必要とする。この許可は取り消
されうる。それに対応して、4条の2と3も妥当する。
(2)同じことは、この法の適用領域以外の機関によって授与される称号・騎
士団勲章・栄誉勲章の受章についても妥当する。
37
2)
7.勲章法の成立(pp.28−3
7.
1 新勲章法制定の必要性
1
95
1年にドイツ連邦共和国の功労勲章 Verdienstorden が制定されて連
邦による勲章の授与が再開された時、勲章に関する法的状況が確かではな
かったので、この領域の新しい規則が絶対に必要なことが明らかになった。
新しく授与される勲章には、異論の余地のない法的根拠が設けられなけれ
ばならなかった。今日の民主主義国家が与えるべき表彰 Ehrungen を、国
家社会主義体制の法律と「総統=帝国宰相」の指示に基づいて支持するこ
とは、現在の国家の威厳を踏みにじることになる。自らが授与する表彰の
前提を自身が規定することは民主主義国家の高貴な義務である。さらに、
二度の世界大戦に関わる全ての戦争勲章の佩用に対する連合国の継続的な
禁止は、新しい勲章が制定・授与されたことに鑑み、また、連邦軍が建設
されたことを考慮するならば、改正を受けなければならなかった。
7.
2 占領の終結による勲章法成立の可能性
1
95
5年5月5日のパリ条約の発効によってドイツ立法府は、障害とな
っていた占領軍法の廃止の可能性を手にし、それと共に勲章制度の新しい
(10)
規定の制定への道が開かれた。その後、1956年6月21日に連邦政府は、
以前から準備されていた称号勲章法案を連邦議会に対して示した。それは
既に連邦参議院を通過していた。
(10)19
52年5月26日にボンで署名されたドイツ条約 Deutschlandvertrag は、
ドイツ連邦共和国と英米仏3カ国との関係に関する条約で、3カ国による
占領を終結し高等弁務官府の解体を定めていた。これは、その後、54年
10月23日にパリで署名された「ドイツ連邦共和国における占領体制の終
結に関する議定書」によって修正確認された(55年3月24日付法律とし
て公布された)
(山田、p.
1
8
5)
。
38
国家主権と栄典制度
一連の修正を経た政府案が1
9
5
7年6月2
8日に連邦議会を通過した。修
正によって、かつて授与された勲章の禁止の範囲が拡大された。その他の
点では所有証明に関する規則と帯勲者特別給 Ehrensold に関わる規則が変
更をうけた。
連邦議会の本会議での特に激しい論争の対象は二つあった。一つは、こ
の時点での勲章法の通過はそもそも差し迫った問題か、あるいは単に暫定
的な問題か、という点であった。もう一つは、第二次大戦時の勲章は、制
定時の規定に従って黒と白と赤のリボンにつるされるべきか、現在の体制
のもとでは黒と赤と金のリボンにつるされるべきかという問題であった。
連邦議会は、 C D U / C S U (キリスト教民主・社会同盟)、F D P (自由民主党)、
D P( F V P )(ドイツ党)、G B / B H E (難民同盟) 諸派の共通の提案に基づいて、
黒と白と赤のリボンの存続を決定した。提案した諸派の代表者の見解では、
過去の時代の勲章は現在の連邦の色と結びつけることはできない、という
点であった。かつて授与された勲章の変更は、唯一、ナチスの権力支配の
象徴であったハーケンクロイツの除去に限られるべきであるとされた。
7.
3 旧勲章の効力の否定
新しい規定に関して為された論議の際に、もう一点、ナチスが政権を握
っていた1
9
3
3年から4
5年までの時期に制定された多くの勲章が特に問題
となった。これらの勲章は、ほとんど全て国家社会主義的な表象を示して
おり、これらの形では決して再び容認されえず、また、それらの制定が目
指した目的ゆえに、再開はそもそも禁止されなければならなかった。第二
次大戦時の勲章に関して生じた問題の検討のために、連邦政府は連邦大統
領の提案に基づいて専門家委員会を招集した。この委員会には、かつての
国防大臣である D r . G eβ l e r 議長の下に、全ての戦争犠牲者団体・兵士団
体・帰還兵団体の代表が加わっていた。この委員会は、195
3年の秋に連
邦政府に対して提出した意見書において、第一次大戦の戦争勲章の無制約
の再発行と、第二次大戦の全ての勲章の最大限の発行を、ハーケンクロイ
39
ツを除くという条件を付して、支持する見解を示した。委員会はその提言
を、戦争勲章の佩用という行為は、国家社会主義体制が戦争にあたって持
っていた政治的な目的とは結びつけられない、という点に根拠づけた。そ
して、態度表明の初めに、
「戦争勲章と勇敢行為勲章Tapferkeitsauszeichungen
は今なお栄誉に値し、佩用者の行為は賛美に値する」という声明を発表し
た。委員会の見解によれば、戦争勲章の再発行によって、「今なおドイツ
兵の心に残る名誉毀損感情の除去に一歩が進められる」はずであった。
7.
4 外国勲章の授受
(11)
外国勲章の受章に関する連邦の立法権限は、基本法73条1号 に基づい
て与えられている。というのは、栄典大権から派生する外国栄典受章承認
の権限 Befugnis は、外交事項の領域における連邦の権限との関係において
考えられなければならないからである。いかなる国家も、外国人への勲章
を、相手国との関係を考えて授与するのが常である。外国勲章の受章を拒
否することによって相手の国家との外交的関係に支障が出てくる。
(高田他、p.
236)
(1
1)基本法7
3条〔連邦の専属的立法権限のカタログ〕
連邦は、次の事項について専属的立法権を有する。
1.外交事務、および、民間人の保護を含む防衛(1
9
6
8年6月2
4日改正)
(以下略)
おわりに
国家体制の変遷とともに栄典制度も変わる。ドイツの第二帝国は領邦国
家の連合体であり、そのことの反映として、栄典の授与は、皇帝ではなく、
領邦国家の君主が持っていた。ワイマール憲法の成立後は、憲法の規定に
従って、国家は栄典の授与を禁じられた。しかし、その規定は、ナチスが
権力を握ると、存在しないのと同様になった。第二次大戦終了後、占領さ
れて国家主権を失っていた時期は、当然のこととは言え、ドイツは栄典を
40
国家主権と栄典制度
授与することは出来なかった。そして、その後、独立を回復した後、あら
ためて、栄典を授与する権利を回復した。
以上から分かることは、国家は主権を持っていなければ栄典を授与する
権限を持てない、ということである。被占領期はまさにその例であり、帝
政時代もある意味でそうであった。ワイマール期は、栄典授与の権限を持
つ国家が、自らの意思でそれを放棄した例である。しかし、憲法といえど
も紙の上に書かれたに過ぎない主権は、ナチスのような実質的な権力によ
って反故にされてしまう。
この間のドイツの国家体制の変遷は、栄典制度と国家主権の密接な関わ
りをよく示していると言える。
参考文献
Hans Karl Geeb, Heinz Kirchner und Hermann-Wilhelm Thiemann,“Deutsche Orden
und Ehrenzeichen”4. Auflage, 1985, Carl Heymanns Verlag KG
高田敏・初宿正典編訳『ドイツ憲法集』
、信山社、1
9
9
4年
田沢五郎『ドイツ政治経済法制辞典』、郁文堂、1
9
9
0年
林健太郎編『ドイツ史(増補改訂版)
(世界各国史3)
』
、山川出版社、1
9
9
1年
山田晟『ドイツ法概論Ⅰ(第3版)
』
、有斐閣、1
9
8
5年
41
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