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私からのメッセージ~ 垣添忠生さん 「医師として、がん

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私からのメッセージ~ 垣添忠生さん 「医師として、がん
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~私からのメッセージ~ 垣添忠生さん
「医師として、がん体験者として、そして妻をがんで亡くした夫として」
アストラゼネカ株式会社 『がんになっても』 http://www.az-oncology.jp
垣添忠生(かきぞえ・ただお)
国立がんセンター名誉総長、(財)日本対がん協会会長、
(財)がん研究振興財団理事
プロフィール
1941年大阪生まれ。1967年東京大学医学部卒業。東京大学医
学部附属病院、都立豊島病院などを経て、75年から国立がんセン
ター泌尿器科に勤務、病院長を経て2002年総長に就任。2007年
より現職に加えがん対策推進協議会の会長も務める。専門は泌尿
器科学だが、すべてのがん種の診断、治療、予防に関わってきた。
がん関連の審議会や検討会などの委員、座長などを数多く務める。
著書多数。2009年末に、妻をがんで亡くした体験を記した『妻を看
取る日』(新潮社)を上梓した。
【目 次】
Vol. 1 医師として病気と向きあってきた 40 年間
同じ苦悩を抱えている人に~『妻を看取る日』を著した理由~/生命の不思議さに惹かれて医師を志す/
がんの専門医を目指す~臨床と研究の必要性~/患者さん一人ひとりの想いや目標を大切にする
Vol. 2 自身の 2 度のがん
早期発見すれば怖くない病気/検診を受ける重要性
Vol. 3 妻の病気
治せないがん/家族を亡くした喪失感/遺された家族にも必要なケア
最終回 患者さんやご家族の希望につながるがん医療の実現
患者さんが希望をもつことは医療者の励みとなる/患者さんやご家族の声が医療を変える/
がんになっても普通の生活を送ることのできる社会に
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Vol. 1 医師として病気と向きあってきた 40 年間
■同じ苦悩を抱えている人に~『妻を看取る日』を著した理由~
―― 2009 年の年末に『妻を看取る日』が出版されました。なぜ本を出されたのか、お聞きしたいのですが。
2007年の暮れ、がんを患い入院していた妻がどうしても家へ帰りたい、と言うので用意を整えて12月28日に迎
えたんです。その嬉しそうなこと…。しかし翌日には妻の容態が悪くなり、あんまり苦しそうだったので担当の先生
に来てもらったり、妻が頼んでいた近くの方にも手伝ってもらったりして手は尽くしたのですが、次の日には意識が
なくなりそのまま亡くなりました。大晦日でした。自分の病を理解し、受けとめていた妻は、死期を悟っていたのだと
思います。
本を書いたのは、妻を失った私が半年間どん底に陥り、自殺も考えて、そこからどうやって立ち直ったか、同じ
苦悩を抱えている人に読んでもらい、何らかのお役に立てればと思う気持ちがあったからです。
■生命の不思議さに惹かれて医師を志す
―― 奥さまを看取られた経験については後ほど詳しくお聞きしたいと思います。まず、先生ご自身のことについ
て、医師を志した動機から教えてください。
私が幼年時生まれ育ったのは大阪郊外の、近くに溜池があったりして自然豊かな所でした。小学校の1~2年
までそこで育ったのですが、そういった環境ですから昆虫だとか野鳥だとか、生物への関心が自然にわいたことが
素地にあります。高校2年生のときに飼い犬が死んで、抱いているとどんどん冷たくなっていったときには生命の不
思議さを実感しました。また、母が病気がちでよく寝込んでいたことも影響したと思います。
―― 泌尿器科を選ばれたのはなぜですか。
泌尿器科は腎臓、膀胱、前立腺などを扱う領域ですが、がん、感染症、結石、代謝性疾患、生まれつきの病
気などもあって、奥が深いんです。患者さんの症状や検査所見から病気を推察する内科的な要素、手術で病気
を治す外科的な要素、両方を併せもっている。そこに魅力を感じました。もともと外科医志望で、そのころ、腎移
植が始まったのも大きかったかもしれません。
当時泌尿器科はあまり人気がなく、同級生120人のうち泌尿器科に進んだのは私一人だけでした。しかし自分
にとっておもしろいと思えることを選んだので、不安に思うことはありませんでした。
■がんの専門医を目指す~臨床と研究の必要性~
―― いつ、がんという病気を専門とする医師になりたいと思ったのですか。
卒業後、1969 年に医師免許を取って、都内の一般病院に出向していたときですね。
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いい医長がいて泌尿器科の基本を教えてもらいました。ただ当時の泌尿器科では、手術のとき腹膜が開いて
しまったときも、その内側にある胃や腸などの様子を見ずに、すぐに腹膜を閉じていました。もし、がんの手術であ
れば、転移の可能性も考えてお腹の中の臓器も見ておくべきじゃないか、また将来、腸を使って尿路も再建した
いと思ったこと、また膀胱がんが何度治療しても再発するのを見て、その理由についての研究が必要だと思った
こと、こういった課題に気づいたのが大きなインパクトになったと思います。
まず広く腹部外科の技術・知識が必要と思い、次の外来病院へ移りました。個人病院ながら手術件数が非常
に多い病院でしたが、特に胃や大腸のがんの手術が多かったです。副院長が手術の名手で、手術の基本手技を
叩き込まれました。月に一度、土曜日の朝に出勤して、月曜の夜まで働く宿直などもあったのですが、技術を覚
えるのに没頭していたので全然苦にならなかったですね。
この経験から、膀胱がんの手術で、膀胱を全摘したあとに患者さんの腸を使って新膀胱をつくり尿道につなぐ手
術をごく自然にやれるようになりました。
―― 国立がんセンターにはどのような経緯で入られたのですか。
出向した病院で手術の腕は磨けましたが、膀胱がんの再発の仕組みを研究したいという課題には東大の医局
に戻ってからも取り組めず、まだ道半ばという気持ちがありました。そんなとき、国立がんセンターに派遣されること
になりました。
その当時の国立がんセンターは、仕事がきつい割には給料が安い、だけど国立だからアルバイトはやってはいけ
ない。ないないづくしで人気がなかったです。しかし研究も臨床も両方やりたい私にとっては理想的な環境でした。
―― 当時の様子を教えてください。
研究所の生化学部長として、後に総長にもなられた杉村隆先生がいらっしゃいました。魚や肉の焼け焦げの中
に、それまで知られていなかった発がん物質があることを発見するなどすぐれた業績をあげられた方です。その杉
村先生の厳しさは尋常でなく、怒鳴ると白墨が飛んでくるようなことがしょっちゅうあったんです(笑)。先生にはず
いぶん鍛えられました。
臨床にも研究にも夢中になりました。朝早く動物を確認したあと、患者さんを回診し、手術か外来を受け持って、
夕方の回診をして、研究所へ行って実験。最後に動物舎をまわって、家に帰るのは夜 11 時ごろ。それが毎日で
す。実験をしているときは正月も関係なしでした。
今の医師は忙しくて、臨床なら臨床、研究なら研究どちらかしかできません。それが当時は両方できたのです。
その意味では幸せな時代でした。
── その後、国立がんセンターの病院長や総長を歴任され、「がん対策基本法」の制定にも尽力してこられた
わけですね。
国立がんセンターで責任のある立場になってからは、膀胱がんではみんなで力を合わせて治療をしていく必要
性を感じていたので、チームをつくって新しい手術の研究を進めました。まだチーム医療という言葉がないころのこ
とです。
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また、1984 年、「対がん 10 か年総合戦略」の研究事業の一環としてアメリカに派遣される機会を得て、メイヨ
ークリニックで前立腺がんの手術を学び、がんセンターに取り入れました。当時のわが国では早期の前立腺がん
手術を実施する機会はありませんでした。
そのころから厚生労働省の審議会や検討会などの委員、座長、そして学会などの仕事が多くなってきました。
また、患者さんの声がきっかけとなった「がん対策基本法」が 2007 年に施行されました。私もがん対策を推進し
ていく一人として関わりをもってきたのですが、現実にはまだまだいろいろな課題が残っていて、もう一仕事も二仕
事もしなければいけないと思っています。
■患者さん一人ひとりの想いや目標を大切にする
―― これまでに多くの患者さんやご家族と接し、大切にしてこられたことは何ですか。
患者さんは一人ひとり、本当に多様なんですね。特に進行がんで見つかったときは、違いがあります。一生懸
命治すことに全力を尽くす人、あまり治療は積極的に行わず残された人生を充実させる方がいいと言う人、いろ
いろな人がいます。つまり、どう病気と向きあうかは、その人の人生観、死生観、価値観、パーソナリティー、家族
構成や社会的立場などによって左右されるから、一人ひとりの想いや目標が違うのです。
その中で私が大切にしてきたことは、一人ひとりの患者さんが個々の目標にあわせて最良の選択を行えるよう
に、患者さんやご家族への説明をしっかり行い、相手の立場で接することでした。一貫してこれを実行してきまし
た。
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Vol. 2 自身の 2 度のがん
■早期発見すれば怖くない病気
―― ご自身も 2 度、がんを体験されました。発見の経緯はどうだったのですか。
1 度目は 10 年前のことです。職員健診で便潜血反応が陽性に出て、大腸の内視鏡検査をして 3 個のポリープ
が見つかって切除したのですが、そのうちの 1 個にがんが含まれていました。
2 度目は 2004 年に国立がんセンターに予防や検診の研究をするために開設された「がん予防・検診研究セン
ター」で 2005 年 4 月に 2 日間の総合検診コースの体験受診をしました。このとき、左の腎臓に直径 1cm のがん
が見つかったのです。超音波検査で描出された影を見て、こんな早期で見つかるのだと感動し、必ず治ると確信
しました。
―― 治療を受けて、どんなことを思われましたか。
私の場合はどちらも早く見つけることができて幸運だと思いました。国立がんセンターの総長が、この病気で死
ぬわけにはいきませんから。すぐに左腎の部分切除をして、翌日からチューブをぶら下げながら院内を周回する
などして、体力維持に努めました。1 週間で退院し、手術後 2 週間目にはジュネーブで WHO の会議に出席でき
たんです。そのとき思ったのは、やはり早期発見すればがんも怖くはない病気だということです。普通の病気と変
わらないということを感じました。検診の体験受診で早期腎がんを発見することができたのは、がんセンターの研
究部門だからこそ見つかったというラッキーな面はあったのですが、大腸がんを早期に発見し検診の重要性を知
っていたからであることは間違いありません。
■検診を受ける重要性
―― 早期発見すれば怖くないのでしょうか。
一般的に、がんが全身に広がる前に見つけて治療すればよい結果が得られます。
また、早期発見すれば治療の選択肢が多い。乳がんの乳房温存手術がよい例です。患者さん自身の身体
的・精神的負担の軽減にもつながります。でも進行してからではそうはいきません。手術や放射線などの治療が
できなくなっていたり、手術しても再発の危険性が高くなったりします。抗がん剤やいろいろな治療を組み合わせ
るので、患者さんの負担になり、患者さんの負担は家族の負担にもなります。
たとえ自覚症状がなくても、自分は大丈夫だと思っていても、検診を受けてほしいと思います。
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Vol. 3 妻の病気
■治せないがん
―― 奥さまの病気や治療の経緯はどうだったのですか。
2000年に左の肺にがんが見つかったのがそもそもの始まりです。腺がんと言って、日本人の肺がんの半数を占
めています。この時は手術で治りましたが、数年して次に甲状腺がんになり、しばらくして頸部のリンパ節に転移し
ました。どちらも手術をして治りましたが、再発の心配があるので、最低でも5年間は定期的に検査を受けていく必
要がありました。
2006年春、その経過観察で、今度は右の肺にりんごの種ほどの小さな影が見つかりました。3ヵ月待って再検
査をするとさほど変わりはなかったのですが、さらに2ヵ月後に検査をしてみると明らかに大きくなっていてドキッとし
ました。新たながんが見つかったのでした。
担当医と話しあって治療法を検討しました。前回の手術で肺の一部を取っているため肺機能が低下しているし、
持病の膠原病でステロイド治療をしている影響で肺の組織が脆くなっている。手術は回避して、放射線治療の一
種で、日本ではまだ公的医療保険が適用されない先進医療である陽子線治療を受けました。
この治療で完全に影が消えて喜んだのですが、半年後に肺門部に再発、悪性度の高い小細胞肺がんであるこ
とを確認しました。それを抗がん剤で治療するうちに全身に転移しました。この進行の様子から見て、さすがにこ
れはダメではないかと思いました。
―― このとき、どのようなことを感じておられましたか。
私自身は妻の病気を治すことができそうにもないとわかったとき、一時的に「病気に負けた」という無力感に襲わ
れましたが、最善は尽くそうと思い、事実その通りにしたと思います。妻が助からなかったのは、現代医学の限界
だったと考えざるを得ません。そして、この限界を破るのは、基礎研究であると考えています。
―― 奥さまの病気との向きあい方をどうご覧になっていましたか。
妻はその後、抗がん剤治療も受けました。本当は、つらい治療は受けたくなかったのでしょう。「あなたのために
受けているのよ」と言いました。何とか妻の命を救いたいと必死になっている私の期待に応えてくれたのでしょう
ね。
全身に転移していることがわかり抗がん剤治療を受けていたころから、妻は自分がこれからどうなるか、つまり明確
に死を意識していたのだと思います。
―― 奥さまは、最期を家で迎えられたわけですが、その要望を叶えるための準備は大変だったと思われます。
どのように奥さまを迎えられたのですか。
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自分の命が間もなく尽きようとしていることを妻はよくわかっていました。最期は家で迎えたいという思いは切な
る願いだ、と私は痛いほどわかっていたので、少し前から準備を始めていました。家に来て看護をしてくれる派遣
看護師や介護士、そして末期の在宅医療に必要な酸素ボンベや医薬品などの手配を済ませていました。でも看
護師や介護士が家にいると落ち着かないという妻の希望を叶えるために、私がその代わりを務めることにしたんで
す。痛み止めや栄養剤の点滴、そのための自動注入ポンプの操作法など、病棟の看護師から特訓を受けて準
備しました。
帰宅した夜は、妻の所望で九州からアラ鍋のセットを取り寄せました。それを妻は口内がただれていたにもかか
わらず、「おいしい、おいしい」「家は、つまり自宅はこうでなくちゃ」と喜んで食べていました。私は妻が喜んでくれる
のが嬉しくて、帰宅させてよかったと泣けてきました。妻の「家で最期を迎えたい」というささやかな願いを叶えるこ
とができ幸運だったと思います。
ただ、妻の場合は、私が医師、看護師、介護士の三役を兼ねてようやく在宅看護が実現したものの、医療知
識のない人の場合には在宅看護のハードルはかなり高く、よほどしっかりとした社会的な支援体制がないと難しい
と感じています。
■家族を亡くした喪失感
―― 奥さまを亡くしてからのご自身の喪失感はすさまじかったそうですね。
入院中、妻の世話をするのは何の苦もなく、病室でできることは何でもしました。下着の洗濯、抜けた髪の毛の
掃除、食後の口腔ケア。床ずれ防止のために背中にクリームを塗ったり、マッサージもしたりしました。妻が明るい
顔をすると嬉しかったですね。病院で妻と過ごした 1 日 1 日は、私の人生の中でもっとも充実した密度の濃い時
間でした。
その分、妻を失って、妻と話ができないことが何よりつらかった。夜は睡眠剤を飲まないと眠れなくなり、酒びたり
で、体重は減る一方でした。
妻は「葬儀をしないでくれ」と言っていたので、妻のことはよほど親しい人にしか知らせていなかったのです。だか
ら私のところへは何のお構いもなしに仕事が山ほど来続けました。日中は出かけて行って猛然と仕事をこなしまし
た。忙しくてつらいけど、その間は妻のことを忘れられました。それでも半年くらいは気が滅入ってしかたがなかっ
たですね。
■遺された家族にも必要なケア
―― 十分に知識をお持ちであっても、そのような精神状態になるのですね。
医師になって 40 年あまり、朝から晩まで年中忙しく働いてきました。どんなに早く家を出ても、どんなに遅く家に
帰っても、妻は嫌な顔ひとつせず、いつもそばで支えてくれました。退職してようやくこれから妻に楽をさせられると
思っていたのに皮肉なものです。
私はたくさんの患者さんを看取ってきましたし、ご家族を見ていて、最愛の人を亡くすのはすごい喪失感なんだ
なと、わかっていたつもりでした。でもいざ自分がその身になってみて、十分理解していないことに気づきました。
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―― そういったご自身の経験から、家族に対してどのようなケアが必要だと感じましたか。
そうですね。悲しみや落胆はしようがない。大事な人を亡くしたのですからしかたのない一面があると思います。
問題はそれがどれくらい続くかには個人差があって、当人にも周囲にもわかりにくいということです。
やっぱりどこかで意識的に立ち直らなければだめだと思いましたが、私は周囲の助けを借りようとは思いませんで
した。でも助けを借りたいと思う人はいるはずです。その助けをいつでも必要なときに受けることができるのなら、よ
いサポートになると思います。
私は、家族を亡くした人の悲しみを癒すグリーフケアの存在を知っていましたが、一人で耐え抜きました。しかし、
希望者に提供するグリーフケアの内容を深める必要があると思います。
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最終回 患者さんやご家族の希望につながるがん医療の実現
■患者さんが希望をもつことは医療者の励みとなる
―― がん医療をよくするために、医療者が行えることはありますか。
医療者はそれぞれの立場で、自分の役回りを意識して尽力し、そして患者さんやご家族とのコミュニケーション
の取り方に気をつけてほしいです。特に告知の際、進行・再発の患者さんと接するときには相手の立場になって
接してほしいです。
たとえば、検査でデータがよくなったことや、つらい治療をがんばられたことをほめると、それが患者さんにとって
励みや希望につながると思います。患者さんが希望をもつことは、医療者にとっても励みとなります。医療者は、
患者さんの希望につながるような接し方を考え続けてほしいですね。
■患者さんやご家族の声が医療を変える
―― 「がん対策基本法」は患者さんの声によってできたと言われていますが、どのような背景があったのでしょ
うか。
2007年に施行された「がん対策基本法」ができたのは、患者さんらの声が強くなり、政治がそれを受けたから
です。それまで政治家に我々医療者がいくら必要だと声を上げても全然立法など考慮されなかったのですから。
そしてこの法律によって、患者さんやご家族の意見が、がん対策に届くようになったということが重要です。
今、全国のがん医療の地域格差、施設格差をなくすことをめざして、各地にがん診療連携拠点病院が指定さ
れています。しかし、まだ形ができたばかりです。人材の育成などには10年ほどかかります。これから中身を充実
させていく必要があると思っています。
患者さんやご家族は、これからも声を上げ続けてほしいですね。もちろん全部の要望が実現するわけではあり
ませんが、どういったことが今のがん医療に不足しているのか、医療者や行政、政治家が知るためにはその声が
必要です。
■がんになっても普通の生活を送ることのできる社会に
―― 一方、患者さん自身が病気と向きあうにはどうすればよいか。この点についてのお考えを教えてください。
患者さんは一人ひとり、違います。そういう意味で、共通の病気との向きあい方なんてないと言ってもよいかもし
れません。ですから一人ひとりの向きあい方をしっかり家族や担当医と話しあっておく必要があります。化学療法
や放射線療法などの治療を試みても効果が上がらない場合、積極的な治療から、残された時間をより豊かに生
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きるための緩和ケアに切り替えることもひとつの手段です。
今は、早い段階から緩和ケアをするようになりつつあります。WHOも早期の段階から緩和ケアを行うように勧
告しています。実際、がん患者さんの全体の3割ぐらいは、診断されたときに痛みなどの症状をもっているというデ
ータもあります。治療を進めながら、医師も患者さんもそういう緩和ケアについて、頭のどこかに置いておくことも必
要ではないかと思います。
さらに社会では、患者さんが職場で差別を受けたりすることのないような取り組みも重要です。この病気への社
会的な理解を進めることで、がんになってもあたりまえの生活ができ、希望をもってよりよく病気と向きあえる社会
をつくっていけたらと思います。
そして、在宅ケアをもっともっと充実させたいですね。今、地域によっては在宅ケアを支援する熱心な医師や看
護師が活躍しています。でも日本全体からみるとまだまだ少ない。方向性はそういう形に間違いなく進んでいるの
で、そこを充実させるにはどうしたらよいか、私ができることを考えていきたいです。
―― どんな抱負をもっていらっしゃいますか。
まず、早期発見によって亡くなる方が減るように、検診の受診率をもっともっと上げるべくアピールしていきたい
です。受診の効果が上がると思われる50%まではまだまだ遠い道のりですが、どうにかがんばりたいです。全国各
地へ出向いて訴えると、みなさんよくわかってくださいますから。また、たばこ対策を中心とした、がん予防も課題
ですね。
一方で、妻を亡くした経験を生かしたいです。配偶者を亡くす方が毎年20万人います。遺された家族の喪失感
や悲嘆についての研究が必要です。どういう時期に、どんな悲しみが生ずるのか。肉体と精神は直結しているから、
肉体的にもいろんな反応が起きます。それが研究でだいぶわかってきています。たまたま私は援助を求めなかっ
たけど、援助を必要とする人も数多くいます。いわゆる遺された家族へのサポート、グリーフケアが社会的に定着
するように、一翼を担っていきたいと思っています。
この病気は誰にでもなり得るという現実がある中で、がんになっても、あたりまえの生活ができる社会になるよう、
これからも医療の一層の充実に貢献していきたいです。
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