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Page 1 Photo: Kyoko Yoshida ウォーカー・アート・センター シニア
2008.12.24
⦆
⦆
長い歴史をもつ米国ミネソタ州ミネアポリス市のウォーカー・アート・センターは
Photo: Kyoko Yoshida
フィリップ・バイザー氏
(Philip Bither)
全米屈指の総合アートセンター。東京ドームの1.5倍の敷地に美術館、劇場、彫刻庭
園等を備え、近現代美術、舞台芸術、映像、デザイン、ニューメディアなど幅広い
ジャンルの事業を展開している。1960年代から時代をリードする舞台芸術のアー
ウォーカー・アート・センター
ティスト支援を続け、レジデンシーや新作委嘱を行ってきた舞台芸術部門につい
シニア・キュレーター
て、シニアキュレーターのフィリップ・バイザーに聞いた。
(聞き手:吉田恭子[日米カルチュラル・トレード・ネットワーク・ディレク
*1 パーマネント・コレクションには、マ
シュー・バーニー、ロイ・リヒテンシュタ
ター] 2008年11月10日)
イン、ヨーコ・オノ、ナム・ジュン・パイ
■
ク、アンディー・ウォホール等の作品があ
る。舞台芸術部は、マース・カニングハ
ム、オーネット・コールマン、ウース
ター・グループ、ロバート・ウィルソン、
ビル・ティー・ジョーンズ、メレデス・モ
──ウォーカー・アート・センター(以下ウォーカー)は、全米五指の一つに数え
られる総合アートセンターです。特にその舞台芸術プログラムは近現代美術のコレ
ンク、マボウ・マインズ、トリシャ・ブラ
クションや展示とともに国際的に知られています(*1)。まず、センターの歴史と
ウン他のアーティストの作品を委嘱制作
今日に至るまでどのようなビジョンに基づいて発展してきたのかを聞かせてくださ
(コミッション)してきた。
い。最初はアート・ギャラリーとして始まったとのことですが。
*2 ミネソタの州都であるセントポール市
ウォーカー・アート・センターは、工業化の進むツイン・シティーズ(*2)の名
と、州最大の市であるミネアポリスを総称
士であったT.B.ウォーカー氏のアートコレクションのギャ
するニックネーム。
ラリーとして始まりました(*3)。ウォーカー氏は木材業を営んでいましたが、
*3 ウォーカー・アート・センターは、
アートに非常に興味をもっていて、世界中を旅し、古今東西の民芸品から伝統的な
トーマス・バーロウ・ウォーカー(Thomas
絵画まで珍しいアートを収集していて、それを一般に公開したいと思ったのです。
Barlow Walker, 1840─1928)によって
1879年に始められ、1927年に中西部北部
最初のウォーカー・アート・センターは彼の自宅の中にありました。ちなみに、
一帯で最初のパブリック・アート・ギャラ
ウォーカー氏の自宅のあった土地には、現在、2005年に増築されたギャラリー・ス
リーとして現在のウォーカーの建物のある
ペースが建っています。
地に正式に設立された。
ウォーカーが、現代アートにフォーカスするようになったのは1940年代に入って
*4 The Works Progress Administration.
からです。大恐慌に対処するためにルーズベルト大統領が設立したWPA(*4)のプ
大恐慌時代の米国のニューディール政策最
ロジェクトの一環で、ウォーカーは、アーティストに仕事を与えるとともに、広く
大の連邦機関。特に米国の田舎や西部山岳
地域を中心に何百万もの人々に職を与え
一般の人々とアートを結び付ける役割を担うことになります。WPAのプログラムの
た。フランクリン・ルーズベルト大統領勅
おかげで、ウォーカーはエリートのための美術館ではなく、中西部の一般の人々と
令によって創設され、1935年4月8日に国会
芸術を結び付けるための“場”となる大切な基盤が築かれました。現在のウォー
で可決された。以後、1943年までに約800
万の雇用を調達。そのプログラムの下、多
カーの教育やアウトリーチ・プログラム、現代アートを広く一般の人々と結び付け
くの公共施設や道路が建設、整備され、大
る姿勢の基礎は、この時代にまで遡るものだと思います。
掛かりな美術、演劇、文学プロジェクトが
1940年代と50年代を通して、ウォーカーは基本的にはコレクションを一般公開す
行われた。現在も、全米各地にWPAによっ
るための美術館でしたが、50年代に、セン
てつくられた公園、橋、学校、などが見ら
れる。
ター・アーツ・カウンシル(以下CAC)(*5)というボランティアの委員会が設立
され、ダンス、ジャズ、レクチャー、映画など、数々のプログラムを提案し、制作
*5 ウォーカーのプログラムに関するアド
バイザー/サポートグループ。ウォーカー
のスタッフがミーティング等をコーディ
をサポートするようになります。この段階ではまだ、パフォーミングアーツを含む
これらの演目は、ウォーカーの正式なプログラムとして行われたわけではありませ
ネートした。
1
んが、それでもウォーカーの旗印の下で上演されるようになり、素晴らしいアー
ティストが招かれ、時代のリーダーたちの講演なども行われました。それが徐々に
正式なプログラムとして行われるようになっていきます。
60年代に入り、ウォーカーはガスリー・シアターでのイベントの担当スタッフと
してジョン・ルドウィグを雇用し、彼がCACの正式な初代コーディネーターを務め
ました。その後、スザンヌ・ウェイルという女性が雇用され、彼女の下で特に舞台
ウォーカー・アート・センター
http://www.walkerart.org/index.wac
芸術プログラムは大きく発展します。ウェイル氏を起用し、彼女にできる限り実験
的でエキサイティングなプログラムを企画するよう奨励したのは60年代初頭から
ウォーカーのディレクターを務めたマーティン・フリードマン氏で、ウォーカーの
転機となった人物です。ジャンルを超えてさまざまなアートを企画することをモッ
トーとしたフリードマン氏の下で、ウォーカーは国際的に知られる存在になってい
きます。ウェイル氏はフリードマン氏の期待に応え、ガスリー・シアター(*6)で
当時最も人気のあったロックバンドのコンサートを幾度も行いました。ガスリー・
シアターも、元々ウォーカーがその誕生に大きく関わっています。ウォーカーの
ボードメンバーがタイロン・ガスリーにアプローチし、初期資金を提供し、ウォー
カーの所有地(*7)に劇場を誘致したのです。それで、ガスリーが劇場を使用して
いない時はウォーカーが舞台芸術の企画で使用することができました。
Photo: Gene Pittman
60年代を通して、ザ・フー、レッド・ツェッペリンやフランク・ザッパをはじめ
とするロックバンドや、多くのフォークシンガーのコンサートが上演されました。
当時、ロック系のミュージック業界は今と比べてはるかに未発達で、フリードマン
氏もウェイル氏も、1960年代は、ロックンロールの音楽にこそ時代のエネルギーが
集中しているのを感じたのだと思います。彼らは、60年代の音楽とロックをつくっ
ていた実験好きでオープン・マインドな世代を、ビジュアルアーツ界の革新的な流
れに結び付けたかったのでしょう。
ポップミュージック以外では、チャールズ・ミンガス、マイルス・デイビス、
オーネット・コールマンらジャズ界の大御所たち、フィリップ・グラスや、ス
ティーヴ・ライヒをはじめとした現代音楽の草分けのアーティストのコンサートを
企画しました。ダンスでは、マース・カニングハムやトリシャ・ブラウンらのレジ
Photo: Gene Pittman
デンシー・プロジェクトを行ったり、演劇ではマボウ・マインズ、リチャード・
ウォーカー・アート・センターは、17エー
フォアマン、ロバート・ウィルソンらを呼んだり、新作の委嘱制作(コミッショ
カー(6万9,000m)の敷地内に、セン
ン)を行ったりしました。
ター・ビルディングと彫刻庭園(11エー
このようなプログラムが70年代から80年代を通して展開しましたが、パフォーミ
カー)を併せもつ。増改築され、2005年に
オープンした現在のセンタービルディング
ングアーツにとって組織的に重要なのは、1970年に、舞台芸術部門が正式に発足し
はそれ以前の2倍の規模で、従来のギャラ
たことでした。それまでは、コンサートや公演はビジュアル・アーツ・センターの
リースペースとオーディトリアムに加え、
補足的プログラムと見られてきましたが、これを転機に正式な部門となり、ウォー
385席のマクグワイヤー・シアター、レス
トラン、新たなギャラリー・スペース、映
写室等が施設に加わった。
カーは本格的に総合(マルチ)アーツ・センターとして発展していくことになりま
す。
70年代から80年代の舞台芸術プログラムは、ウォーカーの建物の外で行われるこ
とがほとんどでした。2005年の改装前のウォーカーには、劇場施設がなかったの
*6 1963年、タイロン・ガスリーによりミ
ネソタ州ミネアポリス市に設立された全米
初のリージョナル・シアターで、近年まで
で、ウェイル氏や彼女に続く舞台芸術部のディレクターたちは、ツイン・シティー
ズの他の劇場と提携したり、街中のスペースを利用したり、アーティストたちに頻
劇場付きの劇団(レジデント・シアター)
繁にサイト・スペシフィックな作品を奨励したりしました。ウォーカーの舞台芸術
制で運営されていた。
プログラムが国際的に知られるようになったのは、この頃から国際的に活躍してい
*7 2006年に移転して再オープンするま
たアーティストたちが、ウォーカーのレジデンシーやコミッションで作品をつくっ
で、ガスリー・シアターはウォーカーと同
た後、海外で活動する時に、その経験を業界に広めてくれたからです。60年代から
じビルの中にあった。
ウォーカーでは革新的な海外アーティストとその作品に対して広く門戸を開けてい
ましたが、それでも、主に焦点を当てていたのはやはり米国内のアーティストたち
でした。
2
⦆
──ウォーカーが舞台芸術のプログラムを始めたのは、難解と思われがちな現代美
術だけでは人々を惹き付けるのが難しかったからですか?
観客開拓のための戦略として始めたというより、理念的に、現代芸術の表現の多
様性を認識してのことだと思います。「重要な芸術表現をしているアーティストた
ちがたまたま、美術ではなく音や動きを使った表現をしているのだから、彼らも、
彫刻家や画家と同様に、ウォーカーが支援するべきだ」という認識です。もちろ
ん、結果としてはウォーカーを訪れる人が増えたので、それは素晴らしいことです
が、出発点は現代芸術表現はギャラリースペースに納まりきらない多様なものだと
いう理念です。
また、背景として、60年代から70年代を通して米国では、現代舞台芸術家の活躍
の場所が非常に限られていたことがあります。当時から著名なアーティストであっ
たジョン・ケージやマース・カニングハムやフィリップ・グラスでさえ、例えば、
ニューヨークでも、公演や演奏をする場所があまりなかった。ロングランを行うよ
うないわゆる普通の劇場施設は、マーサ・グラハムやアルビン・エイリーの公演は
上演したかもしれませんが、まだ“アバンギャルド”に対して門戸を開いていな
ヘルツォーク&ド・ムーロンの拡張工事に
よるシアタータワー(左)と、バーンズビ
ル(ギャラリー・タワー、右)。グランド
かった。そこで、実験的作品をつくるアーティストたちはギャラリーやアーツセン
ターに活躍の場所を見出す必要があったのです。実際、当時の最も興味深いアート
オープン数カ月前の2005年2月。
作品は、例えばニューヨークのソーホーのギャラリー・スペース、ロフトや倉庫の
Photo: Gene Pittman
スペースで演じられていました。そのような状況下、革新的なアーティストの後ろ
盾としてウォーカーのような大規模な組織の名前があることにはとても意味があっ
たのです。中には社会的良識を揺るがすような挑発的なアート作品もあったので、
大きな組織の太鼓判があると、容認されやすくなり、例えば米国内のツアーが行い
やすくなったりしました。
2005年にウォーカーはセンタービルを増改築して新規オープンしましたが、その
時に編集した総合カタログ(*8)で、美術作品に加えて初めて舞台芸術を含む他
ジャンルの作品と、そのジャンルの歴史を掲載しました。これで、パフォーミング
アーツが正式にウォーカーという組織の歴史に刻まれることになり、とても誇りに
思っています。
新たに組み立てられたウォーカー・アート
ギャラリーの玄関の壮大な階段の上のトー
マス・バーロウ・ウォーカー(1927年)
──60年代から舞台芸術の前衛的作品をレジデンシーやコッミッションを通してサ
ポートしてきた組織は、米国内でウォーカーの他にありますか?
現在、米国の舞台芸術界では、コミッションやレジデンシーに重きを置いていま
すが、ウォーカーはその流れをつくり、リーダーシップをとってきた先駆けだとい
えます。
*8 8年ほどの周期で編集するウォーカーの
パーマネント・コレクションのカタログ。
──ウォーカーのビジョンが全米に影響を及ぼしたということですね?
“BITS & PIECES PUT TOGETHER TO
実際、ウォーカーにいたディレクターたちは、その後、業界において非常に大切
PRESENT A SEMBLANCE OF A
WHOLE”というタイトルで、ウォーカー
のギフトショップで販売もされている。
*9 MassMoCA、ボストンのICA、Museum
of Contemporary Arts in Chicago、オハイ
な仕事をしてきました。例えば、ウェイル氏はNEAへ行きましたし、彼女の後の
ディレクター、ナイジェル・レディンもNEAでの仕事の後、さらにリンカーン・セ
ンター・フェスティバルやスポレト・フェスティバルで指揮を執っています。私の
前のディレクター、ジョン・カラーキーはサンフランシスコのイェルバ・ブエナ・
オ州コロンバス市のWexner Center、
センターを経てサンフランシスコ・ファウンデーションで活躍し、ロバート・ス
Portland Institute of Contemporary Arts、
ターンズは、オハイオ州のワクスナー・センターの創設ディレクターとなり、その
テキサス州ヒューストンのDiverse Worksな
ど。
後アーツ・ミッドウェストでも重要な仕事をしています。また、ウォーカーより10
年から15年ほど後に建てられた全米で約12ほどある総合コンテンポラリー・アート
センター(*9)にとってウォーカーは一つのモデルとなっているのも嬉しいことで
す。
3
──ツイン・シティーズには、ガスリー・シアター、チルドレンズ・シアター、ミ
ネソタ・オペラ、ミネソタ・オーケストラ、プレイライツセンターなど、ウォー
カーの他にも地元に貢献し、全米に影響を及ぼしている文化施設や団体がいくつも
あります。何故この地に先見の明をもつ芸術文化のリーダーたちが集まり、活躍し
ているのでしょうか?
理由はいくつかあるでしょう。一つには先見の明のあるフィランソロピストたち
がいて、アートの組織に多額の寄付をし、方向性をアドバイスしたり、冒険するこ
とを奨励したりしてきたこと。地元のコミュニティーには、百年以上も前から個人
や家族でミネアポリスが芸術において全米で抜きん出るためにと資金を提供してき
た人々がいます。例えば、ターゲット(*10)の生みの親、ケン&ジュディー・デ
イトンは、前述のウォーカーの転換期、フリードマン氏の提唱した新しい方向性を
支持し、何億ドルもの寄付をし、ツイン・シティーズの他の芸術組織にも寄付をし
ています。
また、ここは助成財団にも恵まれています。マクナイト(McKnight)財団、ジェ
ローム(Jerome)財団、ジェネラル・ミルズ(General Mills)やセント・ポール・
ミネアポリスの1710リンデール・アベ
ニューにあるウォーカー・アートギャラ
リーの“荒れ地の多い”正面(1930年)
カンパニー(St. Paul Company)の財団のほか、文化を支援する多くの財団があ
り、非営利組織がさまざまな試みにチャレンジし、共同で事業を行うことを支援し
てきました。そうした環境に、アーティストたちが集まってきました。文化は公共
の資金によって支えられ、人々の生活に根ざしたものであるべきだとし、それを支
える努力をするスカンジナビア系移民の伝統もあったでしょう。このようなさまざ
まな理由と土壌があり、相乗効果も生まれ、文化施設がますます発展し、ウォー
カーがある、ガスリーもある、ということで人々が集まってきたのだと思います。
つい先週(2008年11月4日)の選挙では、全州レベルで文化支援と土地活用、水
の清浄化のために州税を増やす法案が可決したのは嬉しい最新ニュースです。
──今シーズンは、マース・カニングハムの大規模なサイト・スペシフィック作品
『Ocean(海)』で始まりました。海外からは、イスラエルのバットシェバ・ダン
ス・カンパニー、日本の劇団チェルフィッチュ、英国からはホイ・プロイ・シア
東から見た1985年のバーンズビル(ガス
リー・シアターはバーンズビルの右で屋根
から広がっているバナーに接続されたビル
ターや、サウンド・アーティストのレイ・リー、フランスのパーカッション・アン
サンブルなどが招聘され、ニューヨークのエイコ&コマ、ビルダース・アソシエー
にある)
ションや地元のアーティストがプログラムされ、今年の9月から来年の5月末までに
Photo: Glenn Halvorson
28のさまざまな演目が上演されます。こうした現在のプログラム方針について聞か
せてください。
ウォーカーの方針は、全米、あるいは世界的に著名なアーティストと新進アー
*10 全米にチェーンをもつ日用雑貨品を中
ティストの両方の作品を上演することです。前者の場合は、そのアーティストが引
心としたスーパー。近年、小売業界の売り
き続き自分と芸術のジャンルに対して挑戦をし続けているかどうかを重視します。
上げでは全米五指に入っている。
例えば、今シーズンのマース・カニングハムの場合、彼はもうすぐ90歳ですが、今
なお自分とアートに対峙して野心的で面白い挑戦を続けています。それでも、
ウォーカーのプログラムの中心はいわゆる中堅アーティストの作品です。30歳代半
ばから50歳代後半くらいのアーティストで、国際的、あるいは全米ではまだ知られ
ていないが良い作品をつくってきた経歴をもち、興味深い問いを投げかけている
アーティストの作品を中心に企画します。
そして、私も、私の前のディレクターたちもそうだったと思いますが、コミュニ
ティーの中にあるアート・インスティテューションは、地元のアーティストをシー
ズンに組み込み、真剣に支援する必要があると信じています。ですから常時、ロー
カル・アーティストに新作を委嘱したり、既存の作品を上演する可能性を探してい
4
⦆
ます。比率でいうと、国際的または全米で知られているアーティストが80%、新進
アーティストやローカル・アーティストが20%くらいですが、両方のアーティスト
の作品を上演することによって、ウォーカーは、ローカルと全米および世界のアー
ティストとの架け橋の役割も果たしています。
もちろん、ウォーカーがサポートできる新進アーティストの数には限りがありま
す。また、地元にはウォーカー以外に、特に新進アーティストをサポートする専門
機関がいくつかありますから、ウォーカーはツイン・シティーズの文化的エコシス
テムの中でその役割の一端を担っているにすぎません。
──ウォーカーのレジデンシー・プログラムについて詳しく教えてください。
“レジデンシー”いう場合、大きく分けて2種類あると思います。一つはアー
ティストが作品をつくるサポートのための「プロダクション・レジデンシー」で
す。通常、新作の初演の場合でも、アーティストはリハーサル室から大劇場に移動
して2、3日で技術関係の仕込みをし、すぐに幕を開けなければなりませんが、改装
後のウォーカーには、マクグワイヤー・シアターがあるので、アーティストに作品
を仕上げる場所と時間を十分提供することができるようになりました。
──ディベロップメントの時間の為に、どのくらいの期間、マクグワイヤーを提供
するのですか?
「プロダクション・レジデンシー」に選んだアーティストの場合は、作品の技術
的複雑さやアーティストの必要性によって異なりますが、大体10日から1カ月間で
す。その間、アーティストは地元のアーティストと交流したり、コミュニティーの
ためにクラスを教えたりもしますが、主たる目的はあくまで作品をつくることで
す。可能な限り最高の作品に仕上げて、ニューヨークや海外に送り出せるようにし
ます。
──ウォーカーでのレジデンシーでつくられた作品は当然マクグワイヤーで初演し
てからツアーするのですね?
ほとんどがそのケースです。しかし、新作を初演するのは必ずしも良いことばか
りではありません。観客に見せるにあたって、本当に良い作品になるかどうかは賭
けですし、新作パフォーマンスの場合、初演の幕を開けてから作品が発展してゆく
場合もあります。それでも、ウォーカーにとって新作の初演は素晴らしいことだと
思います。2005年の改装オープン以来、すでに15から20本のレジデンシーとプレ
ミアを行ってきました。そしてほとんど全ての作品が海外でも上演され、観客から
も批評家からも非常に高い評価を得ています。
もう一つのレジデンシーは、アーティストが作品をつくる過程の初期の段階のリ
サーチ、またはツイン・シティーズの人々の問題にアーティストが関心をもって地
元のコミュニティーと交流するケースで、私は「コミュニティー・レジデンシー」
と呼んでいます。地元の問題や情熱をアーティストが作品に取り込む形になるの
で、創作の過程に非常に深く関わることになります。何かをつくる、あるいは探求
することに関して芸術とコミュニティーが一体となるということで、人々にとって
は心が豊かになる体験です。そしてアーティストにとっては作品の初期段階の研究
開発の糧となります。
これまでビル・ティー・ジョーンズやラルフ・レモン、リズ・ラーマン、ビジュ
アルアーティストのネリー・ワードらとこのタイプのレジデンシーを行いました。
もちろん、アーティストがつくろうとしている作品からフォーカスがずれないよう
5
⦆
にしますが、地元のコミュニティーから何かを得、何かを与えることができると感
じるアーティストとのみ、このようなレジデンシーは成立します。
例としては、数年前、詩人でありパフォーマンス・アーティストであった故セイ
コウ・スンディアタのレジデンシーがありました。「アメリカのデモクラシーは一
体どうなったしまったのか」というテーマでした。私たちはこのプロジェクトをミ
ネソタ大学と共同で進めました。スンディアタは、ミネソタに来て、アフリカ系ア
メリカ人の詩人の眼で「アメリカ人であるとははどういう意味か」「デモクラシー
とは何か」を探求しました。クラス、ワークショップ、ディナー・パーティー、サ
ロンなどで地元の人々から話しを聞いたり、自分が話したりしました。1年後にこ
の作品(*11)はウォーカーに戻ってきて上演されました。コミュニティーの人々
との対話のビデオ録画が一部、作品の中に使われていました。
──そのようにコミュニティーと深い関わりをもつプロジェクトは、貴方が提案す
るのですか?
色々な要素が組み合わさっています。多くの場合はアーティストがある問題や関
マクグワイヤー・シアター(2008年)
Photo: Cameron Wittig
心をもっていて、かつ、このコミュニティーにも同様の問題意識があり、アーティ
ストの関心を非常に直接的な形でコミュニティーに結び付けることができる、また
はそのアーティストと一緒に共同作業をしたいと希望するコミュニティーが見つか
るだろうと、私が確信した時点から始まります。
*11 the 51st (dream) state
時には地元の組織や、コミュニティーのメンバーからの提案が先にあって、その
米国の51番目の夢の州という意味のタイト
要望に合ったアーティストを探す場合もありますが、どんな場合でも、アーティス
ル。米国は50の州より成る。
トがその問題に純粋な情熱をもっていることが大切です。コミュニティー・エクサ
サイズに終わってほしくはないですから。あくまで芸術作品が本来の目的ですが、
その創作の過程がコミュニティーの人々を包み込み、力づけるようなものであると
いうことが大切です。
今の時代は、芸術作品の上演、芸術作品とのインターアクション、芸術作品の創
作過程への参加という3つのことの境目が曖昧になってきていると思います。作品
を見に行くだけでは満足しない人々が多くなってきています。人々は、何らかの形
で芸術作品に参加したい、または“楽屋”にまで入っていって、何故、そしてどの
ように作品がつくられたか知りたいのです。
そして、レジデンシーだけでなく、委嘱制作(コミッション)のプログラムでも
何らかの形で地元のコミュニティーやアーティストが参加するケースが多くなって
きています。アーティストの場合もあれば、そうでない一般の人々の場合もありま
す。ローカルとグローバルの境界線もどんどん曖昧になってきている感じがしま
す。これは私にとっては、大変興味深く、やりがいがありますが、同時に資金面や
スケジュール等々の調整が大変になっています。
──ローカル・アーティストや地元コミュニティーの参加という文脈の中で今シー
ズンの舞台芸術プログラムのハイライトを紹介してください。
シーズンのオープニング、マース・カニングハムの『Ocean(海)』は、御影石
(花崗岩)の採石所で上演しました。この作品にはクラシックのトレーニングを受
けた器楽奏者150人が必要でした。舞台はツイン・シティーズから1時間半ほど車で
走ったところにある採石所につくりました。カニングハムは世界的アーティストで
すが、ミネソタ全州から集めた150人のミュージシャンがジョン・ケージに触発さ
れた作品を演奏して参加し、採石現場で働く人々も、地元セント・クラウドの市民
も巻き込み、ミネソタ大学のノースロップ劇場、セントベネディクト大学他、ミネ
ソタ州のさまざまな組織とパートナーシップを組みました。
6
エイコ&コマは、3週間のレジデンシーで新作を仕上げました。特定のインドネ
シア音楽が作品に必要となり、私が地元のシューベルト・クラブ(*12)を介して
ガムラン奏者を紹介したところ、意気投合し、そのミュージシャンは共同創作者
(コラボレーター)になりました。
ビルダース・アソシエーションの作品も大規模なレジデンシーを行いました。
アーティストが地元の移民コミュニティーをインタビューし、それを作品の映像と
音声デザインに取り入れました。また、ツイン・シティーズ中のコミュニティー・
*12 1882年にミネソタ州セントポール市
センターのコンピューターにアーティストの作成したウェブサイトをセットアップ
に設立された非営利組織。器楽博物館を運
し、誰でも個人史や話を書き込めるようにし、それを演劇作品の一部として取り入
営するとともに、クラシック音楽の普及の
ためにコンサート他、さまざまなプログラ
れました。
ムを行う。
ジャズの大御所ヤセフ・ラティーフのコンサートは地元のミュージシャンで全米
に知られているダグラス・エワートとのコラボレーションになりました。このプロ
ジェクトは、ある時、ダグラスが私に自分の夢はヤセフと共演することだと語った
のが発端です。
30年の歴史をもつシリーズ、「コレオグラファーズ・イブニング」は、地元のダ
ンス振付家のための登竜門およびネットワークになっています。今年は、地元の振
付家のサリー・ルースが地元の新進からベテランまで数人の振付家を選び、短編作
品を上演します。
このように多くのプロジェクトにローカル/ナショナルのインターフェイス(交
流面)があります。この傾向は、私たちの仕事が発展したことを示すもので、ま
た、地元の観客に深い興味や親近感をもたらしています。
──ローカル/ナショナルのインターフェイスや、創作過程への参加要望といった
トレンドは、インターネットの発展と関係あると思いますか?
もちろんです。インターネットは、コンテンツの所有、過程への参加、双方向の
コミュニケーションが最大の要素ですから。アーティストの創作の過程自体にも変
化が現れ、よりインターアクティブな要素が増えてきていると思います。今は現代
芸術の分野や舞台作品にその影響が顕著ですが、これから10年、20年先には伝統芸
術の分野にも影響を与えていくでしょう。ウォーカーの役割はそのような時代のト
レンドを先取りして受け入れ、試行錯誤も辞さないこと、全米の舞台芸術にとって
のリサーチ&ディベロップメントの原動力であることだと思います。
──ワークショップやマスタークラスなど、いわゆる伝統的な意味での“アウト
リーチ”プログラムも行っていますか?
ウォーカーには、多くの賞を受けている素晴らしい教育部門(エデュケーショ
ン・デパートメント)があります。その下には6つの小部門があり、さまざまなア
ウトリーチ活動を行っています。例えば、前述のビルダース・アソシエーションの
公演の一環としてコミュニティー・センターにウェブサイトをセットアップした時
は、教育部門と共同で行いました。そのような地元のコミュニティーとの橋渡し的
役割のほか、常時、素晴らしいエデュケーション・ガイドを行っています。従来は
ギャラリー・ツアーが主でしたが、現在は舞台芸術プログラムも取り入れ始め、美
術、舞台芸術、映像芸術の3部門で展開しているテーマやアイデアを繋ぐように
なってきています。例えば、ツアーガイドが、美術作品の解説をするだけでなく、
それに関連して翌月行われる演劇やパフォーマンスのテーマの解説などをすると
いった具合です。
学校関係のプログラムもあります。地元の何百もの学校と提携して行います。多
7
⦆
くの場合は学校の芸術関係の授業に実際に行って教えたり、ウォーカーへのエデュ
ケーション・ツアーを行ったりします。ウォーカーのウェブ・プロジェクト「アー
ツ・コネックテッド」を通して現代美術に関する資料をオンラインで提供したりも
します。
一般向けのプログラムもあり、例えば、デザインのトレンドに関するシリーズ講
演など、芸術、文化、社会問題に関してスピーカーを招いて常時講演を行っていま
す。さらに、これらと別に、教育部門の中に「コミュニティー」プログラムがあ
り、地元のさまざまなコミュニティー組織や小さな近隣グループなどに対するアウ
トリーチを専門にしています。それらの組織はアートとは直接の関係がない場合が
多いので、こちらからアプローチしていかないと、なかなか関係がつくれません。
現代美術や舞台の作品を“解説”するのも教育部門の主な仕事の一つです。もと
もとは美術作品の解説、教育ガイド等が主でしたが、近年、舞台作品やアーティス
トにも同様のアプローチを始めています。
──教育プログラム、アウトリーチやレジデンシーなど、完成作品と観客の距離を
シアタータワー内の管理事務所(2006年)
Photo: Cameron Wittig
近づける努力の結果、観客は増えていますか?
ウォーカーは、現代アートセンターとしては過去15~20年間、他の同様の施設に
比べて一貫して多くの来館者と観客を集めてきました。それでも、ウォーカーのプ
ログラムには、人が聞いたこともないものや、何と呼んでいいかもわからないよう
な表現や作品が多いので、集客は簡単ではありません。ウォーカーのミッションは
新しい芸術の形、新しい表現、それを生み出すアーティストを支えることですか
ら、まずは芸術作品があって、その周りに教育プログラムやレジデンシー、コミュ
ニティープログラムを構成しています。ある意味で、自分たちで目標の達成を困難
にしているようなところがあります。それでも、舞台芸術のプログラムでは平均し
て70%から80%の席が埋まり、売れ切れる公演も数多くあります。
教育部門のプログラムには、多くの人々が参加してします。特に、「フリー・
サースデイ」というプログラムは、毎週木曜日の午後5時から9時まで美術館の入館
U.S. Bankオリエンテーションラウンジ
料を無料にし、レクチャーやパフォーマンスなども行うもので、何千人もの人々を
(2005年)
集めています。若い世代の中には、毎週木曜日ウォーカーに通って、“ウォーカー
Photo: Cameron Wittig
体験”を楽しむ人もいるくらい人気の高いプログラムです。
「スペシャル・プログラム」と呼ばれるイベント・シリーズでは、「ロック・
ザ・ガーデン」などがあり、彫刻庭園の中に舞台を組んでロックバンドのコンサー
トを催し、8千人もの人々を集めることもあります。このようなイベントで集まっ
た人々の中から沢山の人々がウォーカーのメンバーになります。幅広い層の人々
に、ウォーカーのやっていることに興味をもってもらうための効果的な戦略だと思
います。
──現在、ウォーカーはどのような組織構成で、何人のスタッフが働いています
か?
全館のフルタイムスタッフは120から125人くらいで、この数にはマーケティン
Bazinetガーデン・ロビー(2005年)。ダ
ングラハム彫刻ビデオ視聴エリア
Photo: Cameron Wittig
グや経理関係、広報関係、プログラム関係のほか、受付や美術品を管理する人々も
含まれています。
プログラム関係は、3部門あります。ビジュアルアーツ部門が一番大きく歴史が
あり、アソシエイトやアシスタントキュレーターも入れると常時、5、6人のキュ
レーターいます。映像(フィルムとビデオ)部門には4人のスタッフ、そして舞台
芸術部門には5人のスタッフがいます。
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──予算はどれくらいですか?
全館予算は2200万ドル(約22億円)で、舞台芸術部門は100万ドル(約1億円)
です。但しこの100万ドルの予算はいわゆるプログラム予算で、アーティスト・
フィー、アーティストの宿泊や旅費、技術関係費、マーケティングなどで、同部門
の運営費、人件費等は全館予算の方に含まれています。
──プログラム関係の3部門は、コーディネイトして同じテーマやフォーカスの下
に芸術作品を上演、展示することがありますか?
できるだけそうなるよう、努力しているところです。ウォーカーの現総合ディレ
クターも、将来に向けての新しい方向性として、さまざまな芸術表現のジャンルを
超えて統合して企画することに強い興味を示しています。しかし、ジャンルが違う
と、通常、企画のタイムラインも全く違うことが難問です。具体的には、ビジュア
ルアーツの展示の企画は、今、4年先の計画を立てていますが、舞台芸術部門は、
来年度、つまり今から1年から1年半先のプログラムを私が最終決定しているところ
です。そして、映像部門は3カ月から6カ月先のプログラムの準備をしているといっ
Photo: Kyoko Yoshida
た具合です。ですから足並みを揃えるのが難しいのですが、共同で企画をしたり、
既存の企画から共通テーマを打ち出す可能性がないか、3部門で話し合えるシステ
ムをつくっているところです。
3つのプログラム部門が一緒に仕事をすることはこれまでにもありました。例え
ば、ヨーコ・オノのショーの時は、私は関連音楽プログラムを上演し、他にスライ
ド・レクチャーもあり、ヨーコのパフォーマンスもあり、映像部門は彼女の映像作
品を上映しました。
──ヨーコ・オノの例もそうですが、ウォーカーではこのインタビューを行ってい
る現在も大島渚監督の映画上映をしていますし、過去にも日本関係の大掛かりな展
示や日本の現代舞台芸術作品を何度も上演してきています。ウォーカーの企画の方
向性と日本の芸術表現には、“美意識の一致”のようなものがあるのでしょうか?
理路整然とは説明できませんが、確かにウォーカーのプログラム部門は全ての
ジャンルで、日本という国が現代アートの表現において革新的な考え方と形式を生
み出す中心的存在の一つであるという見方をしてきたと思います。例えば、ウォー
カー史上、最も人気のあった展示の一つは、フリードマンの指揮下に1980年代半ば
に行われた「Tokyo: Form & Spirit」で、本当に多くの人々を惹き付けました。日本
のデザイン、建築、ファッション、美術、メディアなど広範囲にわたる素晴らしい
展示でした。
日本のアーティストはテクノロジーを上手く使い、現代社会に生きる問題点につ
いて先見的な見方、考え方をしているという印象があります。それに応えるべく、
ウォーカーは彼らの北米での活躍の大きな窓口の一つとなってきたのです。ギャラ
リーでの展示作品はもちろん、舞台芸術でも、特にコンテンポラリーダンスは、大
野一雄、山海塾、大駱駝鑑、ダム・タイプ、伊藤キム、田中泯、笠井叡、エイコ&
コマ、彫刻庭園でのケイ・タケイなど、本当に数多くのアーティストを紹介してき
ました。
映画部門も、非常に国際色が強く、日本映画に関してはその新しいトレンドと並
行して巨匠たちのレトロスペクティブを長年にわたって上映してきました。
──近い将来、また日本からのパフォーミング・アーティストの上演を検討する場
合、どのようなアーティストに興味がありますか?
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⦆
──近い将来、また日本からのパフォーミング・アーティストの上演を検討する場
合、どのようなアーティストに興味がありますか?
それは欧米のアーティストと同様、これまで見たことのない表現か、その形式に
おいて、また内容において新しい視点をもっているかどうかということです。ここ
数年は、例えば演劇を例にとってもそうですが、テクノロジーの革新性もさること
ながら、同様に力強い内容をもつものに注目しています。
私は、多くの日本のアーティストの作品に感銘を受け、魅了され続けています。
そして今、助成金申請など、招聘の努力の真っ最中なのが勅使川原三郎さん。ずっ
と呼びたかったアーティストです。彼もジャンルを超えて作品をつくってきたアー
ティストですから、ウィリアム・フォーサイス、メレデス・モンク、マース・カニ
ングハムなどと同様、ウォーカーに最適だと思います。
──ウォーカーの将来へのビジョンはどのようなものですか。
一つには、現代アートの表現がジャンルを超えて刺激し合い、混じり合う方法を
希求し続けることだ思います。そのためには、例えばギャラリーやロビーでのパ
ミネアポリス彫刻庭園にあるマーク・
ディ・スヴェロの彫刻『分子』(1998年)
Photo: Glenn Halvorson
フォーマンス、これまでもやってきましたが、ビジュアルや映像作家と舞台芸術家
とのコラボレーションを反映したプログラムを増やすなど、全館レベルでよりさま
ざまな工夫をしていくつもりです。ウォーカーは、ジャンルが違うという理由でこ
れまで出会う機会のなかったアーティストたちが出会い、お互いを刺激する場であ
りつづけたいと思います。
それから、経済の不振に関わらず、コミッション・プロジェクトは続けていくつ
もりです。まだ日の目を見ない初期の創作段階で、アーティストに資金を与えるこ
とはとても重要だと思います。ヨーロッパや日本では、「コ・プロデューサー(共
同プロデューサー)」と呼ばれる役割をウォーカーが果たすことは、不況の影響で
新作のコミッションを控える組織が増えるこれからの時期、一層大切なことだと思
います。
──最後に、フィリップ・バイザーさん自身についてですが、業界のリーダーの一
ミネアポリス彫刻庭園にあるクレス・オル
人として、全米各地の助成金の審査員やプログラムのアドバイザーをするなど、幅
デンバーグ&コーシャ・ヴァン・ブリュッ
広いネットワークをもって活躍されています。貴方やウォーカーの舞台芸術部門が
ゲンの彫刻『Spoonbridge and Cherry』
Photo: Dan Dennehy
関わっている組織について、簡単に教えてください。
私は、舞台芸術プログラムを総合現代アートセンターの一環で行っている全米12
の組織を繋ぐ「コンテンポラリー・アート・ネットワーク」の共同創設者です。ま
た、ウォーカーは、ナショナル・パフォーマンスアート・ネットワーク(NPN)(*
13)の12の創設組織の一つで、私自身、このプログラムには大変積極的に参加して
います。アフリカ大陸と北米の芸術交流促進のために新しくつくられた「アフリカ
ン・コンソーティアム」には現在10の組織が参加していますが、ウォーカーは、創
設組織の一つです。コンテンポラリーダンスの新作制作とツアーにとって大切な支
援プログラム、「ナショナル・ダンス・プロジェクト」(NDP)にもウォーカーは
積極的に参加していますし、私自身もアドバイザーを務めています。また、私は
ニューヨークのジャパン・ソサエティーのアドバイザリー・ボードもここ2年間、
務めています。私とジュリー・ヴォイト(舞台芸術部シニアプログラムオフィ
Haegue Yangの『Blind Room』は「Brave
サー)は両名とも国際交流基金のパフォーミングアーツ・ジャパン・プログラムの
New Worlds exhibition」(2007年)のため
助成金審査員を何度も務め、日本にも定期的に行きました。米国のプレゼンターが
に設置された
Photo: Gene Pittman
海外のプログラムを増やす転機となったIPF(インタナショナル・プレゼンター
ズ・フォーラム)の議長をジェイコブス・ピロー・フェスティバルの会議でエッ
*13 NPN
→「今月の支援団体」
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⦆
ラ・バッフと務めたこともあります。米国とフランスのアーティストの交流を促進
する助成金プログラム、「エタン・ドネ」でも助成金の審査員を務めました。そし
てオーストラリアのアーティストに対する人々の理解を深めるために、オーストラ
リア・アーツ・カウンシルのアンバサダー的役割も務めています。また、個人的
に、ブラジル、南アフリカ、インドネシアで将来の芸術交流のためのリサーチもし
ています。
──ウォーカーが国内外の舞台芸術ネットワークの要となっていることがよくわか
りました。本日はブラジルからもどってこられたばかりでお忙しいところ、ウォー
カーの歴史やビジョンをお話しいただきまして、どうもありがとうございました。
ギャラリーでの展覧会、Kara Walker『私の
補足、私の敵、私の抑圧者、私の愛』
(2007年)
Photo: Gene Pittman
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