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ドイツにおける基本権教義学をめぐる一考察

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ドイツにおける基本権教義学をめぐる一考察
論説
ドイツにおける基本権教義学をめぐる一考察
一一イプゼン・アレクシー論争を素材に一一
高橋洋
はじめに
しイプゼンの基本権論
II.
イプゼンの基本権論に対するアレクシーの批判及びイプゼンの反論
まとめにかえて
はじめに
基本権に関する違憲審査の構造をめぐって、
(1)
(1
)(
2
)
ドイツの三段階審査が注目
三段階審査論について様々な論稿が公にされている。ここでは、松本和彦『基
本権保障の憲法理論~
(大阪大学出版会、 2001 年 )、小山剛 H 憲法上の権利」の作
法 ・新版 ~ (尚学社、 20 11年)、石 川 健治 「 憲法解釈学における『論議の蓄積思考』
一『憲法上の権利』への招待」樋口 ・ 森 ・ 高見・辻村 ・ 長谷部編著『国家と自由 ・
再論』所収(日本評論社、 2012年)だけを挙げるにとどめる 。
(2) ドイツの基本権教義学にとっては、 三 段階審査論は「標準モデル J (後掲アレ
クシ ー 論文 87 頁)とされる。イプゼンは、これを「基本権教義学の原成岩
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J (後掲記念論文 374 頁)と呼ぶと同時に、「教理的地位 kanonischer
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J (後掲反論論文 266 頁)を得ていると(半ば皮肉交じりに
7) 述べる 。今日
のドイツの基本権に関する教科書は、基本的にこの三段階審査論に依拠した構成と
なっている 。 Vg
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3 (その第 15版の邦訳として、永田秀樹・松本和彦 ・ 倉 田原志 訳 『現
代ドイツ基本権~ (法律文化社、 200 1 年)) ; Manssen , S
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2
愛知学院大学論叢法学研究第 56 巻第 3 ・ 4 号
を集めている 。 三段階審査とは、小山教授の定式によれば、「審査の第 1
段階においてそれぞれの憲法上の権利の保障範囲を画定し(保護領域)、
第 2 段階において、その憲法上の権利に対して《正当化を要する制限》と
言えるだけの強さの干渉が加えられたのかを確認する 。 そして、第 3 段階
で、憲法上の権利に対する制限が例外的に正当化されるべき憲法上の条件
3)
(
を充足しているのかが審査される」というものである 。
呼ばれる手法は、
この三段階審査と
1985年に初版が出版されたボード・ピエロートとベノレン
ハルト・シュリンクの共著になる Grundrechte StaatsrechtII によ って定
式化された 。 同書では、各章の冒頭に提示された事例問題について、章末
でその三段階審査構造に従って解説がなされている。あくまでも教科書で
)
4
(
あることに徹したという同書は、以後多くの読者を獲得し、三段階審査は
ドイツ基本権教義学上の「標準モデ、ノレ j
とまでいわれるようになった。こ
うした枠組みが形成され、それがまた多くの支持を獲得した 背景として、
当時の連邦憲法裁判所の判例の理由付けが決して追証可能 nachvollziehbar
ではなく、したがって学習しやすいように書かれていなかったことがピエ
(5)
ロートによって指摘されている 。
こうして、国家試験を受験する学生を念頭に置いて生まれた三段階審査
は、今世紀に入って急速に我が国に紹介、受容されることとなった 。
背景には、最高裁判所の判例に対して、
この
ドイツの連邦憲法裁判所の判例が
(6)
影響を与えている可能性があること、また同時にこれまで日本の違憲審査
.
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3)
(
(4)
小山 ・ 前掲書 4"'5 頁 。
ピエロートによれば、 2012年 末までに、 28版を数え、販売部数は 26万部に及ん
.
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(5) B
(6) たとえばドイツの薬局判決 (BverfGE 7, 377) と日本の薬事法距離制限条項違
ドイツにおける基本権教義学をめぐる一考察(高橋)
3
論をリ ードして きた審査基準論に対する再検討の気運が生まれていること
なども考えられよう。そして、法科大学院の発足という日本の事情が、国
(7)
家試験を念頭に置いた理論構成を求めたという点で、大きな要因となった
(8)
ことは否めないであろう。
とはいえ、
ドイ ツにおい ても三段階審査は完成された形で存在す るわけ
ではないし、また日本における受容も始まったところであろう。本稿で
(9)
は、ヨルン ・イ プゼンの基本権論を中心に、三段階審査の持つ意味を探っ
てみたい。具体的には、 K ・シュテノレ ンの 80歳記念論文集に寄せたイプゼ
(
1
0)
ンの 論文(以下「記念論文 J) 、それに対する R ・アレク シ ーの Der Staat 誌
(
1
1)
上での批判 (以下「アレクシ ー論 文 J) 、そしてさらにそれ へのイプゼンの
(
12)
同じ Der Staat 誌上 での反論( 以下「反論論文 J)
という三つの論文を軸に
検討を試みる。さらにイプゼンは、 1997年にすでに上記二論文とほぼ同旨
憲判決との関係について 、野中俊彦「薬事法距離制限条項の合憲性一薬局判決」栗
城寄夫 ・ 戸波江 二 ・ 根森健編集代表『ドイツの憲法判例(第 2 版) ~
(信 山 社、 2003
年) 274頁以下の解説を参照 。
(7) ただし、 三段階審査の三段階目、すなわち正当化の段階では、たとえば基本権
侵害立法の憲法上の正当 化 の可否が問われるが 、正 当化の論証責任を負うのは基本
的に国家の側であって、その点で日本の司法試験の公法系第 1 問の出題形式が設問
1 で人権侵害立法の違憲の論証を求めるというのとは方 向性 が異なることには注意
が必要であろう 。
(8) たとえば、駒村圭吾『憲法訴訟の現代的転回~ (日本評論社、 2013 年) 1 頁以
下参照。
(9)
ヨノレン ・ イプゼンについては、自治研究第 72巻第 7 号 108 頁以下に、
1992 年の
来日時に上智大学で行われたドイツ憲法判例研究会での講演「政党の憲法上の 地
位 j の、山本悦夫教授による翻訳並びに略歴の紹介がある 。
また、名前の表記は石
川敏行編著『 ドイ ツ語圏公法学者プロフィーノレ~ (中央大学出版部、 2012年) 221 頁
によった 。
(
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4
愛知学院大学論叢法学研究第 56 巻第 3 ・ 4 号
)
3
1
(
の論文を Juristenzeitung 誌上に公表しており、それも適宜参照したい
(以下 rJZ 論文 J) 。
)
4
1
(
また、 2014年の段階で 17版を数える基本権に関する教科
ドイツの基本権
書(以下「教科書 J) も出版している。イプゼンの見解は、
15)
(
教義学の代表的な見解とは多少のずれがあるようであるが、そこからの照
射によって、三段階審査という手法の論点が多少とも浮き彫りにできるの
ではないかと思われる。
1.イプゼンの基本権論
1. 基本的考え方
(1) 基本権の構造
イプゼンは、その記念論文を、基本権が主観的権利であることの確認か
ら筆を起こす。基本法 1 条 3 項が、
「 以下の基本権は、直接に適用される
法として、立法、執行権及び裁判を拘束する」と規定していることから、
それによって「その主観的公権としての法的性格が規定されている」とい
うことである。
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) J
3
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:JZ52(1997) , S
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1.(2014) . ただし、本稿での引用は
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) J
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1
(
同書の第 16版からのものである。
) カーノレは、イプゼンを三段階審査論者に位置づけながら、ある種の異説である
5
1
(
としている 。 W .
Kahl , VonweitenSchutzbereichzumengen
.
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t43(2004) , S.167 , F
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) とはいえ、そのことは基本権が客観法であることを排除するものでない。イプ
6
1
(
ゼンは JZ 論文 (473 頁)では、「規範のヒエラノレヒーの中で、最高位を占める憲法
の構成要素として、基本法は客観法である」こと、そしてそのことによって、「立
法者が、基本権によって自己に対して号|かれた境界線を越えてしまったように思わ
れるなら、当該法律は、抽象的ないし具体的規範統制手続において、連邦憲法裁判
所によって、基本権との 一 致の如何が審査されうる J
ことが指摘されている。しか
し「基本権がこ の客観法 的作用に尽きるならば、個人は、
主観的権利の欠知に
ドイツにおける基本権教義学をめぐる一考察(高楠)
5
主観的権利は、基本的に主体、客体、そして内容という三部構成でとら
えられる。基本権にそくして言えば、それは基本権主体、基本権客体(名
宛人)、そして基本権内容からなり、
「基本権はしたがって、それによって
基本権主体 u市民J) が基本権の名宛人(国家)に対して作為または不作
(
1
7)
為を要求することのできる主観的公権である J
と性格づけられる。このあ
る意味で当然と思われる主観的公権としての基本権の性格付けが、イプゼ
ンの理論立ての柱になっている。たとえば、基本権の名宛人は、国家であ
るから、私的法主体(私人並びに私法人)は、基本権の名宛人ではなく、
基本権の第三者効力は否定される。ただし、国家の保護義務は肯定される
し、また基本権による国家の拘束は、その行為が私法の形式において執行
より一基本権に依拠することができず、個人的な権利侵害を主張しえないことに
な」り、また個人が法律の違憲審査を求めることができなくなるであろうとしてい
る。このことからいえば、主観的権利と客観法の境目は、憲法異議手続の成否とい
うことになりそうであるが、イプゼンは、「憲法異議(基本法 93条 1 項 4a 号)は、
特別な法的救済手続として、主観的権利としての基本権の前提条件には属さない」
としている 。 イプゼンはこれ以上ふれるところがないが、基本権の客観法的側面に
ついては、様々な論点のあるところである 。 基本権の客観的内容ないし客観的原則
規範としての性格については、さしあたり、ハンス ・ D ・ ヤラス著、松原光宏編
『現代ドイツ・ヨーロッパ基本権論~ (中央大学出版部、 20 11 年)、とりわけ同書 101
頁以下「基本権:防御権と客観的原則規範一一基本権の客観的内容、特に保護義務
と私法形成作用一一J
(土屋武訳)、さらにヤラスへの好意的言及を含め、K.
Stern,
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tIIII1 , 1988S69 , S
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. (井上典之・鈴木秀美 ・ 宮地基 ・ 棟居快行編
訳『シュテノレン
ドイツ憲法 E 基本権編~
(信山社、 2009 年) 45 頁以下・棟居訳)
を参照。
(
1
7
) ]
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10) , S
.370
(
1
8
) 国家の基本権保護義務について、イプゼンはそれほど積極的ではないように見
える。すなわち、彼は、 一 方ではアレクシーを引用しながら、
「保護義務は、基本
権教義学的にはそれ自身何ら新しいものではなく、国家が保護を与えるという意味
での給付請求権として、主観的権利の構造と難なく調和させられる J
番号 102)
(教科 書欄外
とし、また基本法 1 条 1 項が「全ての国家権力に対し、人間の尊厳を
『尊重し、保護する』ことを義務づける J
(同 103)
こと、あるいは「基本法 4 条 2
項が誰にも妨げられない宗教活動を『保障している』とすれば、基本法 4 条 1 項を
超えるこの規定の意義は、国家が宗教活動の(第 三者による)妨害を妨げることを
6
愛知学院大学論叢法学研究第 56 巻第 3 ・ 4 号
)
9
1
(
されるということによっては除外されないことになる。
(2) 基本権論における 19世紀的立憲主義の残津
さらに彼が 批判す るのは、
19世紀以来のドイツの立憲君主 制思想 の影響
が未だ基本権教義学に残 っ ているということである 。 その典型が、「基本
権が付与される gewährt werdenJ
という 言い 回しである 。こ れはまさに
君主が臣民に「基本権を付与する」という、君主主義的な発想、に基づくも
のだということである。君主主権から 人民 主権に移行してからは 、「人民
が自分自身に基本権を付与する」というのは成り立たないというのが、イ
)
0
2
(
プゼンの主張である。
義務づけられるという点にある J
(同 103)
こと を認める。また連邦憲法裁判所が
「基本権から国家機関が負う広範な保護義務を導き出している J
(同 101)
こと、「連
邦憲法裁判所によって基本権から導き出された保護義務は 、 安全と秩序の保障とい
う国家の原則的任務を超えるものであり、事情によっては立法者に特別の立法行為
を義務づける。あるいはむしろ立法者にそのための限界を設ける J
あること、そこから「過剰の禁止 j
と並ぶ「過少の禁止 J
(同 105)
もので
という憲法原理が作り 出
されるまではほんの小さな一歩であったとしている。しかしイプゼンは、ここで次
の三点を指摘する。すなわち、第 一 に、こうした相互に基本権主体である保護義務
の受益者相互の法益の調整は 、
もともと蓄積のある通常法の仕事であり、憲法は何
らの規準も提供しないこと(相互作用問題 ・ 同 106 ) 、第二に、過剰禁 止と 過少禁 止
の狭間にある立法者は、憲法の規準のない、その枠内で衡量による決定をなすので
あり 、 連邦憲法裁判所の決定が立法者のそ れ よりも高度の納得を要求することはで
きないこと(権限問題 ・ 同 107) 、第 三に、 保護法益の相互作用が憲法訴訟上のディ
レンマに至ることである 。つ まり保護請求権が真の主観 的権利として理解されるな
らば、必然的にあらゆる基本権主体がその保護法益の実現を憲法異議によって争う
こ と が可能となるに違いない、ということである。( 同 108)
これらのことから、イプゼンは、「これら三つの理由全てが、客観的な保護義務
から主観的な(請求権的)権利を導き出す、あるいはそれどころか客観的な保護義
務を主観的な権利 と同視することに反対する J
(同 109)
として、国家の基本権保護
義務は認めつつも、主観的権利 としての基本権保護請求権については、否定的な態
度を示している。
.
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7f
n(Fn.4) , Rn.6
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9) ]
1
(
) イプゼンが 19世紀の立憲(君主制)思想からの脱却を主張していることは、戦
0
2
(
後 70年も経過した現段階では、一見すると奇異な感じを与えなくもない。しかし、
この 19世紀型立憲(君主制)思想からの脱却は、戦後日本憲法学においても無縁な
ドイツにおける 基本権教義学をめぐる 一考察 (高楠)
7
イプゼンによれば、そのことは、そうした言い回しにとどまらない意義
を有する。つまり、君主が基本権を付与するということは、それまで何も
なかったところに権利を創設するということであり、君主による付与がな
ければ無権利状態に置かれているということを意味する 。 イプゼンはそう
した考え方を斥けて、基本権は既に存在する保護法益を保障することを主
張するのであり、このことが、記念論文の一つの柱である「保護法益 J 論
につながるのである 。
3)
(
前国家的、前憲法的存在としての基本権保護法益
イプゼンの基本権論の前提にある考え方は、このように保護法益が基本
権に先行するということである。すなわち、生命や身体の安全、そして
様々な行為ができるという法益が基本権 よりも先にある、というも のであ
21)
(
る。
イプゼンは、このことを人類学的な見地に裏付けられたものと述べて
いるが、それらは人聞が一つは生物として、動物として、他方また他の動
物とは異なる人間として、本来的に持っている特性であり、利益であると
いうことであろう。そしてこの法益の前国家的、前憲法的性格は、自然法
思想によって裏付けられたものではない、ということが各所で繰り返し確
)
2
2
(
認されている 。
そして、こうした法益を保護することが基本権の任務であ
り、基本権は既に存在する法益を保護するために保障される 。
2.
(1)
三段階審査とイプゼンの理論
基本権による保護法益の保障
以上述べてきたように、イプゼンにあっては、基本権は主観的公権とし
て、基本権主体が名宛人たる国家に対して、その保護法益の保護のために
課題ではないように思われる。
.
4
.(Fn.14) , Rn.7
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n(Fn. lO) , S
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1
2
(
) ]Z 論 文 476 頁、記念論文 371 頁、 教科書欄外番号 75 参照。自然法思想において
2
2
(
は、自然権が認められるわけであるが、イプゼンはそうした権利の前国家的、前憲
法的性格を認めるわけではないからである。
8
愛知学院大学論叢法学研究第 56 巻第 3 ・ 4 号
作為または不作為を請求する権利である。ここではそのうちの不作為請求
権、つまり防御権としての基本権に関して、その保護法益を具体的に分析
し、さらにそれが、三段階審査論にいかなるインパクトを与えるのかを、
彼の所説に即して見ていきたい。
①
3 種類の保護法益
基本権の保護法益は様々な分類が可能であるが、イプゼンは、記念論文
において、防御権の保護法益を次のような 3 つの種類に分ける。一つは、
何らかの行為ができること Handlungsmöglichkeit (以下、「行為可能性J)
である。第二は、一定の状態 Zustände であり、そして 3 番目が法律によ
る制度形成を必要とする法益である。それぞれを順に見ていこう。
a
. 行為可能性の保護
イプゼンが最初に挙げる保護法益は行為可能性であるが、これは「自
由」を言い換えたものである。人がどのような行為ができるかは、「年齢、
天分、そして財産状態」にも応じて様々であり得るが、「それにも拘らず
争いのないのは、このような行為可能性はあらゆる人に固有であり、それ
(
2
3
)
ゆえどの憲法にもプリセットされている」ことだという。そして「基本権
ーすなわち自由権
化され、そして
によってその種の行為可能性に名前がつけられ、断片
異なった制約の可能性の下で一保護される。行為可能性
は、したがって一方で憲法に先行し、他方しかし保護法益として憲法に採
(
2
4
)
用され、その保護が保障される j
ということになる。しかし、断片化され
ても、元は全体としての行為可能性であるから、断片から漏れた行為につ
いて、「一般的行為自由(基本法 2 条 1 項)による補充が必要であることは
すでに啓蒙主義にも意識され、フランスの人と市民の権利宣言においても
(
2
5
)
プロイセン一般ラント法においても表現されていた」とするのである。
(
2
3
)
J
.Ipsen(Fn.10) , S.370f
.
(
2
4
) J
.Ipsen(
F
n
.10) , S
.3
71
.
(
2
5
) Ebenda. この箇所でイプゼンが引用しているは、フランスの 1789年 8 月 26 日
の人と市民の権利宣言 4 条 1 文であり、またプロイセ ン一般ラント法序章 83条であ
ドイツにおける基本権教義学をめぐる 一考察 (高栴)
9
b. 状態の保護
防御権が名宛人(国)に対して保護する法益は、行為する自由だけでな
く、一定の状態の場合がある。そのようなものとしてイプゼンが挙げるの
は、まずは基本法 2 条 2 項 1 文が保障する「生命への権利、身体を損傷さ
れない権利 」 である。また「その 他 の基本権を挙げることは確かに困難で
ある 」
と前置きしつつも、住居の不可侵(基本法 13条)、所有権(同 14条)
も、行為可能性の保障も含みつつ、状態の保護としても把握されるとす
る。
c. 法律による制度形成
ここでイプゼンによって取り上げられているのは、基本法 6 条の婚姻
と家族であり、 14条の所有権である 。 これらは数世紀以上の歴史を持つも
のであるが、法律上の制度を必要とし、それによって基本権保護が始まる
とされる。つまり、
「基本法 6 条 1 項は、男女の ー もしくは同一の性のペ
アの一共同生活の任意の形式を保護しているわけではなく、婚姻のみを、
すなわち男女によってそれに対応する法的形式で結ぼれた、継続をめざし
)
7
2
(
た生活共同体を保護している j からである。所有権については、
「憲法上
の所有権概念は、あらゆる財産的価値のある権利一加えて個々の主観的公
権ー を包括している J が、「権利にまで昇華していない、利益への期待や
見通しは、周知のように基本法 14条の保護の下にはない J のであり、それ
らを区別して所有権の流通を確保することが、 14条の目的となろう 。
d. 法益の他の分類
イプゼ、ンは、上記の法益の三分類以外に別の分類も行っている 。 J Z 論
る。後者については、その訳を掲げておく。「人の一般的権利は、他人の権利を傷
つけることなく、その固有の幸福を追求し、促進することのできる自然的自由に基
づく。 J http://ra . smixx.de/Links-F-R/PrALR!PrALR-Einleitung.pdf で全文を読
むことができる。
a.
d
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) Ebe
6
2
(
.
6
7
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.10) , S
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n(
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) ]
7
2
(
) Ebenda.
8
2
(
1
0
愛知学院大学論叢法学研究第 56 巻第 3 ・ 4 号
(
2
9
)
(
3
0
)
文でなされているものを紹介すれば、まず第一に生命法益 Lebensgüter、
(
31)
そしてその延長線上にある私的領域における法益、次いで自由権によって
(
3
2
)
保護される行為可能性、そして所有権を典型とする諸権利、さらには積極
的な行為への請求権(庇護権 16a 条、陳情権 17条、出訴権 19条 4 項)の 5 種類
(
3
3
)
に分けるものである 。
e
. 保護領域概念への批判
こうして、基本権の保護領域は、基本権によって保護される法益へと分
解される 。そ してイプゼンは、この「保護領域 SchützbereichJ 概念自体
を批判する。
②
保護法益への作用 Einwirkungen
保護法益の分類は、それへの負荷を課す国家の措置の特性を明らかにす
ることに資する、というのがイプゼ、ンの見立てである。周知のように、多
(
3
4
)
くのドイツの国法学の教科書ではこうした措置には侵害 Eingriff という用
(
2
9
) J
.I
p
s
e
n(Fn.13) , S.
4
7
7.
(
3
0
)
この生命法益に分類されるのは、生命、身体を損傷されないこと、人身の自
由、そして人間の尊厳とされる。 J.lpsen
(
3
1
)
(
F
n
.13) , s
.477 , d
e
r
s(
F
n
.14) , R
d
n
r
.8
5
.
ここに分類されるのは、「人格の保護、住居の不可侵及び信書、郵便、そして
通信の秘密によって保護される外部との接触」である。].
I
p
s
e
n(
F
n
.13) , s
.4
7
7.
教科書ではイプゼンは、さらに「婚姻と家族における緊密な社会関係及び子供の教
育」を私的領域に数えるが、これは自立した保護法益であるとする。 ders.
(Fn.
14) , Rd町 .87 .
(
3
2
) とこに分類されるのは、「意見表明(基本法 5 条 3 項 1 文)、芸術的及び学問的
活動( 5 条 3 項 1 文)、集会 (8 条 1 項)、団体及び会社の形成( 9 条 1 項)、ある
場所から他の場所への移動 ( 11条 1 項)、職業の行使 (12条 1 項 1 文)、そして請願
の提出 (17条) J 、そして一般的行為自由( 2 条 l 項)である。
(
3
3
)
教科書では、婚姻と家族を自立した法益に分類し、最後の請求権は落としてい
る。].
I
p
s
e
n(
F
n
.14) , Rdnrn.8
5f
f
.
(
3
4
) ただし、訳語としては「介入 J (前掲永田他訳『現代ドイツ基本権』脚注
(2)、三宅雄彦「論証作法としての三段階審査 J 法学セミナー NO.674 、 8 頁以
下)、「権利侵害 J
(前掲 ・ 石川「憲法解釈学における『論議の蓄積志向 ~J 脚注
(1))、「制限 J (前掲・小山 rw 憲法上の権利』の作法 J 脚注( 1)、渡辺康行「ミ
ニ講義 3J 木下智史 ・ 村田尚紀 ・ 渡辺康行編著『事例研究憲法[第 2 版] ~日本評
ドイツにおける基本権教義学をめぐる一考察(高栴)
1
1
5)
3
(
語が用いられている。そしてこれもよく知られているように、侵害という
用語は、その古典的な意義から現代的なそれへと大きく意味を広げてき
た。すなわち、古典的な、狭義の侵害概念にあっては以下のようなメルク
マーノレが充たされることが必要とされてきた 。 すなわち、
目的性、直接
36)
(
性、法的行為、命令または強制性である。しかし、現代的な、広義の侵害
概念は、以上の 4 つのメノレクマ ー ルを全て拡大し、意図したものかどう
か、直接か間接か、法的なものか事実的なものか、命令や強制を伴うもの
かどうかは問わず、侵害とは、「各人に対して基本権の保護領域に属する
7)
3
(
行為態様を不可能にするあらゆる国家行為」と定義される。こうした定義
では、侵害は広い範囲に拡散することになる。しかし、今までのところ広
義の侵害概念に代えて 他の用語を持 って充てるという試みは疑問視されて
きたとされる。イプゼンによれば、
rw新しい』侵害概念もまた、常に『古
典的な 』 侵害概念への連想を呼び覚まされる。というのも、後者(古典的
な侵害概念)は、昔から一定の基本権教義学的機能を果たしてきたし、今
も果たしているからである。というのも、相変わらず基本権の保護領域へ
8)
3
(
の 『古典的な』侵害が存在するからで ある J 。また彼はさらに、次のよう
に批判する。すなわち、「侵害概念は、たしかに広く解釈されるかもしれ
ないが、その意味論的な中身を持ち続けている。何かの中に『食い込み
eingreifen~ 、ないし『突っ込む hineingreifen~ のであるから、この概念
論社、 20 13年、 324頁以下、宍戸常寿『憲法
解釈論の応用と展開 [第 2 版 ) ~日本
評論社、 2014年)などの例がある 。
)
5
3
(
もちろん、
ドイツ国法学でも Eingriff 以外に同種の国家作用を示す類義語が多
derEinschränkung 、 Beeinträchtigung 、
数存在する 。 Schranke 、 Be -o
Verkürzung 、 Begrenz ung などで ある 。 Pieroth/Schlink/Kingreen/P oscher ,
3 (前掲 ・ 永田他訳『現代ドイツ基
2
.2
r
n
d
.R
l
f
u
9.A
tII , 2
h
c
e
r
s
t
a
a
t
GrundrechteS
本権~ 74頁)。永田教授らは、それらの概念に、それぞれ順に、制限、制約、干渉、
縮減、限定という訳語を当てている 。
) その説明については、前掲 ・ 永田他訳『現代ドイツ基本権~ 83 頁参照 。
6
3
(
)
7
3
(
前掲 ・ 永田他訳『現代ドイツ基本権~ 83""'84頁
8.
7
4
n(Fn.13) , S.
e
s
p
.I
) ]
8
3
(
愛知学院大学論叢法学研究第 56 巻第 3 ・ 4 号
1
2
には一『保護領域』の概念と同様一、必然的に空開化する観念が内在して
いる。それゆえこの概念は、外と内との区別を基礎とし、原理的に(外か
内かの)決定を必要とする。かかる決定論的な傾向は、保護領域が全般に
損なわれているのかどうかが審査される場合には、有害であることが明ら
(
3
9
)
かとなる J という。
そこで、イプゼンは、これまで侵害概念で一括されてきた国家の措置
を、法益の区別に合わせて三分割することを提案し、さらにその三類型の
上位概念として作用 Einwirkungen を置くのである。なぜこうした上位概
念が必要かといえば、それはやはり「基本権によって保護された法益への
(
40)
作用が確定されたなら、それは正当化を必要とする j からであり、正当化
(
41)
を要する作用とそうでないものを区別する必要があるからである 。
a
. 状態への侵害 Eingriff
生命法益や私的領域への国家の措置に対しては、侵害という用語が維持
(
4
2
)
される。こうした法益の共通の特徴は、基本法によって「不可触
u
n
a
n
t
a
s
t
b
a
r
J (基本法 1 条 1 項 1 文)、「不可侵 unverletzlichJ (2 条 2 項 2
文、 4 条 1 項、 10条 l 項、 13条 1 項)とされているということである。とはい
えこうした法益も、同じ条項が侵害可能性を規定しているのであって、絶
対的な不可侵ではありえない。イプゼンはこのことの意味を、こうした保
護法益の侵害は、緊急事態類似の状況下でのみ、一時的な侵害を認め、そ
の侵害目的が達成されたならばまた元の不可侵の状態に戻る、というとこ
(
4
3
)
ろに見ている 。つ まり恒常的な侵害は許されないということである。
さらに、ここでは侵害が有する空間的連想は適切であるとされる 。
(
4
4
)
に身体や人格への侵害は、内部に侵入してくるからである。
(
3
9
) ]
.I
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s
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F
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.13) , S
.478.
(
4
0
) J
.
I
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n(Fn.10) , S.
3
7
8.
(
4
1
)
ただし、
その区別の基準が明確に示されているわけではない 。
(
4
2
) ]
.I
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s
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F
n
.10) , S.374f
.
(
4
3
) ]
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n(Fn.13) , S.4
7
8
.
(
4
4
) ]
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p
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n(Fn.14) , Rn.152 丘
まさ
ドイツにおける基本権教義学をめぐる一考察(高栴)
1
3
b
. 行為可能性の制限 Schranken
行為可能性に対する国家の措置に対しては、制限 Schranken という語
が充てられる。イプゼンによれば、これらの保護法益については、「制限
概念 Schrankenbegriff (基本法 5 条 2 項、 14条 1 項 2 文)あるいは『権利』が
『制限 beschränkU
される(基本法 8 条 2 項)とか、『制限 eingeschränkU
される(基本法 11条 2 項、 17a 条 1 項、
2 項、 19条 1 項 l 文)という用法が見
いだされj 、さらにこれらの行為は社会的領域に属し、「他者の行為と潜在
的に衝突する」がゆえに、柵 Schranke の比喰が全く適切だとされる。
c
. 法律による制度形成
イプゼンによれば、
r~侵害』と『制限』とは、基本権の保護法益が減じ
られるという共通性を有する。しかし、かかる減少の観念は、基本権の保
護法益が法的形成を必要とするときには、問題であることが明らかにな
る。もちろん法的に既に存在する『何か』のみが侵害され、あるいは『何
か』のみが制限されうる。『それ』が法秩序によって初めて生み出されな
ければならない場合には、そのような法規範は、同時に制限ないし侵害と
(
4
7
)
は理解され得ない。それはむしろ第三のものである。 J
こうした場合には、
「基本権の保護法益に輪郭を与える法的規律と保護法益を制限する(もし
くはその不可侵性を侵す)法的規律との区別は、それほど簡単ではない j
が、基本法 14条 1 項 2 文が所有権の「内容と制限」は法律によって定めら
れる、としているように、基本法自体が、法制度による内容形成と、法益
の制限とを区別しているとされる。
(2)
三段階審査の構造
こうしてイプゼンも通説に対応する三段階の構造を持った審査論を展開
守ai
吋'i
斗4
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よ
司1
円
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5)
6)
7)
8)9
qA 斗
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( (斗
1
4
愛知学院大学論叢法学研究第 56 巻第 3 ・ 4 号
(
5
0
)
する。それは、構成要件、作用、正当化という三つの局面 Ebene からな
るものである。これも順に見ていきたい。
①
構成要件
イプゼンによれば、「基本権審査の第一歩は、基本権カタログの中から、
具体的な事件において考察される基本権を見つけ出すことである。その選
択は、(基本権の)構成要件 Tatbestand と(生きた)事実との『視線の往
復 ~J
によってなされる。そして「まず基本権内容の解釈によって、ある
基本権が関係しているかどうかが究明されなければならない。」この際、
「基本権の内容を探究するための最も重要な洞察の源は、連邦憲法裁判所
(
5
3
)
の主要判決である」が、「学問的洞察はそれに拘束されるわけではない」
こともまた当然であろう。そしてこうした考察によって
í (国家の)ある
措置が基本権の保護法益に何らかの仕方で『ぶつかる』なら、ある基本権
が関係していることになる。 j
こうした場合を、連邦憲法裁判所や有力な
文献は、「基本権の『保護領域』に『抵触する berühren~ J
という表現を
用いる。そしてこの保護領域という観念に対してイプゼンは批判を行う。
すなわちその「空間的比轍」に対してである。いわく、「基本権は『空間
Raume~ も『領域 Bereiche~ も開くものではなく、一般に通常の空間化
(
5
0
) イプゼンは「保護領域」に代わるものとしてこの「構成要件」という概念を用
いるが、その詳しい説明はその教科書においても、連邦憲法裁判所の判例の用語か
ら意識的に離れることは明示するが、その積極的な理由づけは見られない 。
ただ、
いわゆる広い構成要件を採用していることは「社会に害悪を及ぼさないあらゆる行
為が基本権によって包摂されているという公理が有益である J
126)
は、
(教科書欄外番号
としていることか ら もわかる 。 基本権教義学における構成要件概念について
さしあたり中野雅紀「ドイツにおける狭義の基本権構成要件理論ーイーゼンゼ
ーの学説を中心に一」法学新報 102巻 9 号 143 頁以下、 賀原孝志「基本権の構成要件
と保障内容」千葉大学法学論集 23巻 1 号 155 頁以下参照 。
(
5
1
) ]
.I
p
s
e
n(
F
n
.14) , R
n
.1
2
3
.
(
5
2
) ]
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F
n
.14) , Rn.1
2
6
.
(
5
3
) J
.Ipsen(Fn.14) , Rn.129.
(
5
4
) ]
.I
p
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n(Fn.14) , R
n
.1
3
0
.
(
5
5
) Ebenda.
ドイツにおける基本権教義学をめぐる一考察(高楠)
5
1
された観念は、主観的権利としてのその性格にふさわしくない 。 基本権事
案においては、常に、いかなる基本権がいかなる国家の措置に対置されう
るのか、という問題が提起される。このことを探究するに際して、憲法が
『保護領域』をひろげるような、いかなる似非形而上学的な過程も生ずる
ことはなく、むしろ憲法上の概念の下への包摂が求められている。この場
合、さもないと検証可能な法学的解釈や包摂が、衡量のもやの中で霧消し
てしまいそうなのであるから、あらゆる比喰的ないし他のなんであれ思わ
せぶりな抽象性は有害である。たとえ基本権が断片的なテキストしか持っ
ていないように見えるとしても、基本権は、
基本権主体、基本権の名宛
人、基本権内容からなる一(三部構成の)主観的権利へと完成される 。 基
本権主体は、個々の基本権において規則的に指定され、基本権の名宛人は
基本法 1 条 3 項においてあらかじめ挙げられているのであるから、基本権
内容の再定式化のみが、主観的公権としての基本権の性格を明らかにする
)
6
5
(
ためには、必要である 。 」
②
作用
前述のように、この局面は、通説的には侵害が存在するかどうかを審査
する段階である。そこでの「侵害j 概念は現代的な広義の侵害概念が採ら
)
7
5
(
れているが、イプゼンは、この侵害概念を、この段階を表す総括的な概念
)
8
5
(
としては拒否する 。そ して保護法益の違いにしたがって、侵害、制限、そ
して制度形成という分類を導入する、とい うことは 前述した 。
③
正当化
正当化の局面においては、そこでの論点について通説的な理解と大きな
差はない。ただ法律の留保にしても、法益への異なった作用の観点からそ
)
9
5
(
れぞれ「侵害留保J 、「制限留保」、「規律留保J
に分けて論じられている 。
) Ebenda.
6
5
(
)
7
5
(
そのため、
三 段階審査に関する邦語文献においては、(広義の) Eingriff に
「介入 J 、「制限」などの語をあて、「侵害j
.
8
3
.1
n
.14) , R
n
F
n(
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I
.
) J
8
5
(
とは訳さないのが普通である 。
1
6
愛知学院大学論叢法学研究第 56 巻第 3 ・ 4 号
また過剰の禁止の表題の下で、
(
6
0
)
例性」が取り上げられている。
3 .
「 正当な目的j 、
「適切性 」 、
「必要性」 、「 比
基本権教義学への演鐸
こうした法益と基本権との区別は、基本権教義学における諸問題に解決
をもたらすというのがイプゼンの見立てである。ここで彼は 「 基本権行使
の意味」、
「 基本権衝突 J 、「基本権放棄」、
「本質内容保障」 、「基本権喪失 j
という五つの項目を挙げる。「基本権衝突 」
についてはアレクシ ー の批判
とともに取り上げるが、他の項目については掲記するにとどめる。
II.
イプゼンの基本権論に対するアレクシーの批判及び
イプゼンの反論
(
6
2)
アレクシーは、イプゼンの記念論文の要点が、標準モデ、ルの保護領域、
侵害、そして正当化という三段階構成を、構成要件の局面、作用の局面、
そして正当化の局面に構成し直すこと、そして、保護領域の概念を保護法
益の概念で置き換え、侵害の概念を作用の概念で置き換えるところにある
(
6
3)
と考える。そしてこれらイプゼンの主張の主要な部分を、標準モデ、ルの立
場からほぼ全面的に批判することになる。
(
5
9
) ]
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.14) , R
n
.1
7
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.
(
6
0
) ]
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8
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f
.
(
6
1
) J
.l
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s
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n(Fn.10) , S
.3
7
8f
f.
(
6
2
) アレクシ ー が、その教授資格請求論文 Theorie d
e
rGrundrechte (1985) をは
じめとする著作によって、基本権教義学に大きな影響を与えていることは、周知の
ことに属する 。
さしあたり、 2014年に来日された際の講演の記録及び松原光宏教授
による紹介を参照されたい 。 松原光宏「理念的なるものと事実的なるもの」、ロパ
ート ・ アレクシー「基本権・民主制・代表 J
立英彦訳)法律時報 87巻 3 号 57頁以下 。
(
6
3
) R
.Alexy(
F
n
.11) , S
.8
7.
(松原訳)、同包摂的非 実 証主義 J
(足
ドイツにおける基本権教義 学をめぐる 一 考 察 (高栴)
7
1
1. 保護領域概念と空間的比喰
はじめにアレクシ ー が取り上げるのは、空間的比喰をめぐるイプゼンの
主張である。すなわち、アレクシーは、イプゼンが構成要件概念の下に
「憲法上の概念への包摂J を求めていることを正当とし、また保護領域に
ついて、
「保護領域を『開く eröffnenll というような流布された言い方が
64)
(
暖味であることに同意する」が、しかしそれがイプゼンの他の非難、すな
わち空間的比喰が見当違いであること、似非形市上学という非難、そして
主観的権利としての基本権の構造に鑑みて妥当ではない、という非難まで
)
65
(
正当化するものではないことを指摘する 。
第ーに空間的比喰への非難に対してであるが、アレクシーは、連邦憲法
66)
(
裁判所のスピ ー ド仕上げクリ ー ニング決定を取り上げ、「連邦憲法裁判所
のスピ ー ド仕上げクリーニング決定から引き出される定式を用いて、スピ
ード仕上げクリーニングの店舗やその作業場が、住居の不可侵という基本
権の保護領域にあると言う者は、それらが『基本法 13条の意味での「住
)
8
6
(
7)
6
(
居」という概念の下にある』、ということ以外、何も言っていない」と指
摘する。すなわち、「何かがある保護領域の下にあるということは、従っ
て、それが基本権規範の構成要件をなすある概念に含まれるということ以
外の何も意味しない」というのである 。
第二により積極的に、「領域という言い方がまさに何らかの空間的な意
味を持っているということも認められなければならない 」
とし、そのこと
は「概念の性格」、つまり概念は外延の集合からなる「領域J
69)
(
う、その性格に内在するのだという。
8.
.11) , S.8
n
F
.Alexy(
) R
4
6
(
.
9
.11) , S.8
n
F
.Alexy(
) R
5
6
(
) BverfGE32 , 54.
6
6
(
8).
6
4(
) BverfGE32 , 5
7
6
(
9.
.8
.11) , S
n
F
.Alexy(
) R
8
6
(
) Ebenda.
9
6
(
を持つとい
1
8
愛知学院大学論叢法学研究第 56 巻第 3 ・ 4 号
2 .
保護法益論について
アレクシーは、イプゼンのもう一つの中心的テ ー ゼとしての保護法益論
についても、批判的に取り上げる 。 すなわち、イプゼンによれば国家のあ
る措置が作用するのは基本権にではなくて、保護法益に対してであるこ
と、そうしてその保護法益への作用が正当化されない場合に、初めて基本
権が国家に対する防御請求権として登場する、とされる 。
この点でアレク
シーは、イプゼンの基本権はもっぱら確定的な権利として理解されている
(
7
0
)
と把握するのである 。
このことは、基本権をノレーノレとしての権利と原理と
しての権利に類別し、後者の権利の保護領域への国家の介入 (Eingriff)
については、基本権に 一応の (prima facie) 地位を認め、正当化の段階で
の衡量の結果、その介入が憲法上正当化されるかどうか、違憲か合憲かが
決まる、というアレクシーの論証枠組みからは外れることとなる 。
アレク
シ ー にとって多くの基本権はこうした一応の地位を持ったものであり、最
適化を命ずる原理としての基本権であり、その要件への包摂
(Subsumition) の可否によって介入行為の合違憲の定まるノレールとしての
基本権、 prirna facie な地位とは対極にある確定的な地位を持った権利は
少数にとどまる 。
したがっておそらくは、アレクシ ー の批判の最大の論点
はここにあるように思われる。
この点についてのアレクシ ー の批判の要点は、以下のようである 。
まず
彼は、「もし基本権がもっぱら確定的な権利であるなら、イプゼンが権利
としての基本権への侵害ではなく、基本権的保護法益への侵害がなされて
(
7
1
)
いると言うとき、彼はしたがって正しい」としてイプゼンの主張を認め
る。しかし 「 もし確定的な基本権の法的位置と並んで基本権の一応の地位
(
7
2
)
も存在するとすれば、その光景はもちろん根本的に異なってくる 。 j そし
nHd
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J
ドイツにおける基本権教義学をめぐる 一考察(高楠)
1
9
てこの基本権の一応の地位を受け入れることは不可避なのだというのが、
アレクシーの立場である。なんとなれば、「一般的行為の自由は、誰にも
一応は彼が望むことをしたりやめたりする権利を与える、しかし最 終的に
(
7
3
)
は、多くの行為が十分な憲法上の根拠から禁止されている」のだから。と
はいえ、イプゼンからの反論も予想されるとして、「基本権の一応の地位
の概念の助けを借りて言うことができることは、全て基本権の保護法益の
(
7
4
)
概念の助けを借りて言うことができる」、また「最適化の対象は、基本権
(
7
5
)
の一応の地位ではなく、基本権の保護法益である」という見解を並べる。
そして、このテーゼの試金石は基本権衝突であるとし、基本権衝突に関す
るイプゼンの見解を検証する。
3. 基本権衝突について
まずイプゼンの基本権衝突の議論を一瞥しておこう。イプゼンにあって
は、基本権と保護法益との区別においては、衝突するのは互いの法益であ
って基本権ではない、というのが基本である。そして相互に対立する基本
権に違反しうるのは「行為可能'性」であって、「状態 J ではないというこ
とである。つまり、あるジャーナリストが批判的な記事を書いて政治家を
攻撃する場合衝突しているのは、一方での意見表明の自由であり、他方で
の人格権である。そして「もし意見乃至プレスの自由が制約され、ジャー
ナリストがその基本権に拠り所を求めて初めて、基本権の次元で紛争が生
じる。もし侮辱された政治家が、制約的な国家の措置を正当化するため
に、彼の側でその基本権によって保護された人格権を拠り所とするなら、
(
7
7
)
一種の『基本権衝突』に至る」。こうして双方が基本権をよりどころとし
(
7
3
) Ebenda.
(
7
4
) Ebenda.
(
7
5
) Ebenda.
(
7
6
) 基本権衝突についての先駆的な検討として、中野雅紀「基本権衝突の問題点」
中央大学大学院研究年報 23号 15頁以下がある。
(
7
7
) J
.Ipsen(Fn.10) , S
.3
7
9
.
2
0
愛知学院大学論叢法学研究第 56 巻第 3 ・ 4 号
て法廷で争うとき、裁判所は、一方で意見の自由への不作為請求権と、他
方での人格権に基づく保護請求権という、互いに逆方向の請求を突きつけ
られることになる。こうして基本権衝突は、「基本権が同ーの名宛人に同
(
7
8
)
ーの状況下で、二つの相反する命令を出す場合にのみ生ずる」とされるので
ある。したがって、イプゼンは「基本権衝突」を全く否定するわけではな
いが、ごく限定的にのみ把握しようとしているといえよう。
この点で、第ーにアレクシーが指摘するのは、イプゼンが例としてあげ
ている意見表明の自由と人格権の衝突の事例では、一方の人格権の保護法
(
7
9
)
益は「行為可能性」ではなく、「状態」ではないか、というものである。
この点では、イプゼンはアレクシーの批判を受け入れているように見え
る。つまり反論論文では「主観的権利としての基本権とそれによって保護
された法益との区別は、いわゆる『基本権衝突』の場合にも、役立つ。す
なわち、ここでは衝突しているのは権利ではなく -基本権でもなく 一、人
(
80
)
の行為乃至状態である」として衝突の可能性を「状態」にも認めているか
らである。
さて、基本権衝突の事例としてアレクシーが取り上げているのは、「タ
(
8
1
)
イタニック事件」である。この事件では、風刺雑誌「タイタニック誌」
が、横断麻痘の身体障碍を抱えながら軍事訓練への招集に応じ、それを勤
め上げていた予備役将校を 「生まれながらの殺人者」、「不具者」と呼んだ
ことが問題とされ、タイタニック誌は民事裁判でデュッセルドルフ上級ラ
ント裁判所によって損害賠償を命じられた。この民事判決がタイタニック
誌の意見表明の自由を侵害するとして、タイタニック誌側が憲法異議を申
し立てたのである。アレクシーは、この事例において、タイタニック誌が
(
7
8
) ]
.I
p
s
e
n(Fn.13) , S.476 , d
e
r
s(
F
n
.14) , Rn.81
.
(
7
9
) R
.Alexy(
F
n
.11) , S
.9
1
.
(
8
0
) J
.
l
p
s
e
n(
F
n
.12) , S
.2
7
6
.
(
8
1
) BVerfGE86 ,
1.また、小山剛「トーク・ショーにおける風刺的表現 J
(ドイツ
憲 法判例研究会編『ドイツの憲法判例 m~ 信山社、 2008年) 148頁以下の解説を参
照されたい。
ドイツにおける基本権教義学 をめ ぐ る一考察(高楠)
1
2
なした表現をただ事実としてみれば、それは「予備役将校の人格の不可侵
)
2
8
(
の侵害ないしはその原因である」にとどまるのであって、それ自体が「紛
争 KonfliktJ であるわけではないとし、それを紛争と見るのは「既に規範
)
3
8
(
的な解釈を行っているのである 」
と指摘する 。 そして「この規範的な解釈
の根底には、予備役将校の人格そのものの不可侵が侵害されるべきではな
いこと、したがって一応禁止されていること、そしてタイタニックそれ自
身はその表現をなすことができること、したがって一応 prima facie その
表現がゆるされていること、がある 。
この規範性は、既に法益の概念には
め込まれているように見える。人格の不可侵は法益である 。
というのも、
人格の不可侵が侵害されないことは、一応良いことであるからである 。
し
かし人格の不可侵が侵害されないことがもし一応良いことであれば、それ
を侵害することは 一応禁止される 。 逆に、タイタニツクがその意見を表明
することができることは、 一応良いことである 。 意見の表明は、したがっ
て一応認められる 。 それゆえ、基本権は原理の形態、において規範として衝
突する 。
こうした側面の下でのみ、タイタニック事件の基本権教義学的問
)
4
8
(
題は完全に把握されうる j
と述べる 。 すなわち、この事件では、予備役将
校の人格権とタイタニックの意見表明の自由が双方共に基本権の 一応の地
位において衝突しており、それらの衡量の結果として結論が導かれるとい
うのがアレクシーの主張である。
これに対してイプゼンは、その反論論文において、「連邦憲法裁判所に
よ っ て決定された、通常は『基本権衝突』という法的タイプに分類される
事案にあっては、権利の衝突は存在しない 。 アレクシーによ っ て典型的な
)
5
8
(
ものと見なされた『タイタニツク』事件はそうした事案に属する」とし、
タイタニック事件における「基本権衝突」自体を否定する 。 すなわちこの
.
.91
.Alexy(Fn.11) , S
) R
2
8
(
.
2
.9
.Alexy(Fn.11) , S
) R
3
8
(
) Ebenda.
4
8
(
.
6
8
.2
.12) , S
n
F
n(
e
s
p
l
.
) J
5
8
(
2
2
愛知学院大学論叢法学研究第 56 巻第 3 ・ 4 号
事件では、異議申立人(タイタニツク誌)は人格権侵害を理由とする損害
賠償訴訟、つまり民事裁判手続の当事者であったのであり、異議申立はそ
(
8
6
)
の際の民事裁判所の判決に向けられていたからである 。 直接に対 1I時してい
たのはタイタニック誌の意見表明の自由とそれに対して損害賠償を命じた
民事裁判所の判決という公権力の行使とであった 。 つまり、
「 民事裁判判
決や刑事裁判判決に際しても、憲法裁判所の決定に際しても、重要なのは
(
87)
二 つの法益の衡量である」が、憲法異議手続で問題となったのは、あくま
で意見表明に対して権力的介入の不作為を求める請求である、というのが
イプゼンの主張である 。
ところで、こうした基本権衝突とされる事案では、(潜在的にではあれ)
両当事者は基本的に私人である 。
したが っ て、こうした場合、基本権の第
三者効力いかんという、困難な問題を含むことになる 。
との点でイプゼン
(
8
8
)
は第三者効力を否定するから、基本権衝突というものに対しても否定的で
あり、対立の中身は基本権の保護法益の対立であるとしても、
「 常に国家
(
89)
機関が一場合によ っ ては民事裁判所が一基本権の名宛人であり続ける J の
である 。
日本における「石に泳ぐ魚 J 事件のように、人格権を侵害された
と主張する者が表現する者に対してたとえば本の出版差し止めを求めるよ
うな事案では、原告は自己の人格権の保護を裁判所に対して請求し 、 被告
は防御権をもとに自己の表現に対する不介入を裁判所 に請求することにな
ろう 。
この場合には、裁判所において同一の表現に対する差し止め請求と
不作為請求が交錯するから、イプゼンにおいても基本権衝突を認めること
になろう 。 ただ日本では、国に対する保護請求権という理論が未だ学界の
大勢を占めるに至 っ ておらず、ましてや判例で認められている訳ではない
から、民事上の法益としての保護を求めつつ、併せて憲法上の人格権を
(
8
6
)
と の 構図は北方 ジ ャーナノレ事件 の それとほぼ同様であると 言っ てよい 。
(
8
7
) ]
.I
p
s
e
n(
F
n
.12) , S.2
8
7.
(
8
8
) J
.Ipsen(Fn.14) , Rn.68f
f
.
(
8
9
) J
.Ipsen(
F
n
.14) , Rn.7
0.
ドイツにおける基本権教義学をめぐる一考察(高楠)
3
2
(人権の間接効力説を媒介として)主張することになる。ただしこれは、「実
90)
(
は今までのところ説明が確立していない難問」でもある。
4 . 侵害 Eingriff と作用 Einwirkung
続いてアレクシーが批判するのは、通説的見解の「侵害」の審査の段階
に対応する「作用 j の局面についてである 。
(1) まずアレクシーが問題とするのは、通説的見解が「古典的乃至狭
義の侵害概念を、現代的で新 しい、乃至広 義の侵害 概念へと拡大してき
た」ことへのイプゼ、ンの異議である。そもそも「狭義の侵害概念は、目的
性、直接性、法形式性、そして権力性のメルクマーノレによって規定され
91)
(
るJ
というも のであるが、これに対して広義の侵害概念は、
14 つのメノレ
クマールを全て放棄し、目的規定的でもなく、直接的でもなく、単に事実
r臘htigen する措置を
的であって、権力的にでもなく基本権を制約 beein t
も侵害 Eingriffe に分類する」というものであった。とこでは、侵害を特
徴付けていた特性が捨て去られ、残ったのは侵害が侵害たるゆえんである
「個人にとって基本権の保護領域に包括されるある行為が国家によって妨
)
2
9
(
93)
(
げられる J 場合の、全ての国家行為ということになる。
) 前掲・ 宍戸『憲法解釈論の応用と展開(第 2 版)~脚注目、
0
9
(
.
3
9
.
) R.Alexy(Fn.11) , S
1
9
(
99頁。
.
3
2
n.2
Poscher (Fn.2) , R
n/
Kingree
/
k
n
i
l
h
c
S
/
h
t
o
r
e
i
) P
2
9
(
)
3
9
(
侵害概念の詳細な検討は後日の課題として、ここではいくつかの教科 書から
「広義の侵害概念」について紹介してみよう。「基本権の保護領域は、保護された状
態(生命、身体を傷害されないことにもしくは保護された行為(意見を表明する、
職業を行う)を表現する。そのような状態や行為のあらゆる阻害
Beeinträchtigung で あって、基本法 1 条 3 項によって義務づけられた高権主体の一
つにその責任が帰せられ得るものは、基本権侵害である。 J
(vonM ch/Mager
.2) , Rn.113 ) 、「侵害とは、個人に対し、保護領域に含まれるある行為を全面
n
F
(
的ないし部分的に不可能もしくな困難ならしめる、あらゆる国家行為である J
)Rn.39) 。後 者については、「不可能もしくは困難ならしめる J と
(Epping , (Fn.2
いう程度を要求していると見ることができょう。前掲 ・ 三宅「論証作法としての三
段階審査」脚注 34 も、第二段階においては、「当該国家行為が、保護される人権へ
2
4
愛知学院大学論叢法学研究第 56 巻第 3 ・ 4 号
アレクシーの整理によると 、
イプゼンの異議は 4 点に及ぶ。第一は、
「包括的な広義の侵害概念が見当違いの空間的思考の表現であるとする主
張」である 。 第二の異議は、「狭義の古典的な侵害概念が基本権の重要性
を、措置から説明するが、その措置の効果から把握しようとしないこと、
広義の現代的侵害概念もまた 、
この点である『傾向.1I J
を有するのだとい
うものである 。 つまり「常に『古典的』侵害概念への連想を 」 呼び起こす
のだというのである 。 第三に、広義の侵害概念の輪郭が全く不明確である
ということ、そして第四に 、 イプゼンの次のような記述を引用する。すな
わち、
「侵害概念の空間的な含意は、(
一)ある国家の措置が保護された
空間に入り込んでいるのか、それともその外側にとどまっているのか、と
いう問題を絶えず投げかける。このことによって、避けられたであろう決
(
9
4
)
定論的要素が、基本権教義学に持ち込まれたのである J と 。 こうした四つ
の異議を、アレクシーは 「 空間化の異議、措置指向性の異議、不明確性の
異議そして決定主義の異議J
と要約した。その上で、アレクシ ー は第一に
移動の自由(人身の自由)を取り上げて、イプゼンが一方で人身の自由を
(
9
5
)
状態と同じ地位に置きながら、 他方で移動の自由の場合行為可能性が問題
であることが「明らか」であるとしていることを取り上げる 。 すなわち、
状態への国家作用が 「侵害」であり、行為可能性へのそれが「制限 J
と区
の介入といえるほどの強度を持っか」が吟味されるとしているから、介入すなわち
Eingriff には 一 定の強さを要求されるとしている 。
(
9
4
) ]
.I
p
s
e
n(Fn.10) , S
.3
7
7.
(
9
5
) アレクシーによる明確な引用箇所の注はないが、おそら くは ]Z 論文の「 一連
の基本権は、生命、身体を損傷されないこと、人身の自由及びーとりわけ一人間の
尊厳によって、侵害されてはならないものとして保護されている『生命法益』を保
護する」という叙述などを念頭に置いているものと思われる。この点でイプゼン
は、さらに反論論文でも「生命、身体を損傷されないこと、そして人身の自由は、
その不可侵が(国家の)行為によって損なわれうる、ないし変更されうる、そうし
た状態として把握されるべきである J
ではない J
(288 頁)とする一方で、「移動の自由は状態
(同 291 頁)ことを認めている 。 移動の自由が人身の自由に含まれるので
あれば、矛盾していることになろう。
ドイツにおける基本権教義学をめぐる一考察(高楠)
5
2
別されたわけであるから、基本権そのものが「状態 J であったり「行為可
能性」でもあったりするのであれば、侵害と制限との区別そのものが不明
確となるということである。そこでアレクシーにとっては、「そのことが
示しているのは、状態の概念が限定された基本権教義学的給付能力しか持
っていない 、とい うことである。決定的な点は、法益としての状態が問題
なのか、行為の可能性が問題なのか、ではなく、どんなにしてか調達され
た法益への侵害がいかに強いか、そして侵害を正当化する根拠がいかなる
)
6
9
(
重みを持っか、ということである」ことになるし、また「イプゼンが状態
と行為の可能性との区別と並べて、彼の狭義の侵害概念を説明するために
)
7
9
(
さらに三つの基準を担ぎ出すことも、驚くにはあたらない」ことになる。
その三つの基準とは、「不可触性 Unantastbarkeit ないし不可侵性
Unverletzlichkeit の基準、個人的領域の基準、そして『緊急事態類似の
状況』乃至『例外的性格』の基準であるんこれは、従来の、そして現在
の通説的な侵害概念が、行為可能性を妨げる行為にも及ぶのに対して、対
象を限定するために持ち出されたものである。侵害概念を状態に対する国
家行為に限定するためである。
(2)
こうしたアレクシーの批判に対してイプゼンが持ち出す反論は、
「侵害」概念の意味論的な指摘であり、また連邦憲法裁判所の「礁刑像決
)
8
9
(
定」による例証である。すなわち同決定に関して、イプゼンは、「この手
続における決定的な問題は、『教室における十字架』が生徒の信仰の自由
への侵害であり、それゆえに 正当化を要するも のであったかどうか」であ
ると指摘し、反対意見が「教室の十字架 J
について「非キリスト教徒の生
徒が授業における十字架の『強制的な知覚』を受忍しなければならないと
4.
.9
.11) , S
n
F
.Alexy(
) R
6
9
(
) Ebenda.
97
(
) BVerfGE93 , 1. さしあたり石村修「公立学校における楳刑像(十字架) J (ド
8
9
(
イツ憲法判例研究会編『ドイツの憲法判例 II
(第 2 版) ~ (信山社、 2006年) 115 頁
以下を参照されたい 。 イプゼンはこの決定を侵害概念に対する試金石 Nagelprobe
であると指摘する。
2
6
愛知学院大学論叢法学研究第 56 巻第 3 ・ 4 号
いう『心理的な害や精神的負担』は、わずかでしかない 」
としてその侵害
的性格を否定し、それゆえ正当化の必要も否定したことを指摘する。そし
てイプゼンは I~ 古典的な侵害』の前提条件が存在しないことは明らかで
ある」が、「しかしまた広義の侵害概念も充たされておらず、この概念が
あらゆる輪郭を失う、というわけではない」とする。 問題は多数意見が
「術策」を用いたところにあるとして、以下のように述べる 。
「すなわち、
国家が宗教的事項において免れない、中立命令に従うこと、そしてそれを
憲法異議手続に適用す る、ということである。ただしそのことによって、
教義学的パラドックスは明らかである 。 侵害のメルクマールの肯定がある
措置の正当化の必要性を根拠づけるのではなく、逆に中立命令という基準
に関して正当性を必要とする措置から侵害の存在が推し量られる 、
という
パラドックスである 。 『教室の十字架』は、侵害概念により強力な輪郭を
付与することが具体的問題のために不可欠であることを明らかにした。と
いうのも、すでに多数意見と反対意見との対決が、いかなる不安定な土台
(
9
9)
の上で法廷が動いているかを示したからである 。 」つまり広義の侵害概念
は憲法上の正当化の段階に進むか否かの判断基準として役立たない、とい
うことである 。 それに対して、イプゼンの侵害概念は古典的なメノレクマー
ノレを維持していると考えられるから、その意味で規準は明確であるが、果
たして狭きに過ぎないかが問題となろう。
まとめにかえて
以上、イプゼ、ンの基本権審査の枠組みを中心に、それに対するアレクシ
(
9
9
) イプゼンは、この事件では正当化を必要とするような広義の「侵害」が存在し
ないと考えているように見える 。
ところで、中立化命令というのは日本でいえば政教分離原則の一つの内容であ
り、こうした主観的権利とは考えられていない憲法の「制度的保障j 規定ないし客
観法的規定違反が、憲法異議手続において問われうるのかは、興味深い問題であ
る。
ドイツにおける基本権教義学をめぐる一考察(高楠)
27
ーの批判を見てきた 。簡単 に振り返ってみれば、三段階審査の第一段階
(局面)については、イプゼンが広い構成要件をとる以上、保護領域とい
う用語に関する空間的比輸の問題はあるにせよ、両者にそれほど大きな違
いはないように思われる。問題は第二段階の侵害にかかわるところであっ
て、イプゼンが古典的な侵害概念をたとえ一部にせよ維持することは、ア
レクシーとの問で違いを生じることになる 。それが まさに礁刑像事件の例
であろう。
ドイツの連邦憲法裁判所の判例や国法学は保護領域を広くとら
(
1
00
)
え、また侵害(介入)も広く認めて、憲法上の正当化の審査に付す範囲を
広げている 。しかし 、近年のグリコーノレ決定及びオショー決定を契機とす
(
1
01
)
(
10
2)
る論争や、「保障国家J 観を前提としたホフマン ニリー ムの主張など、興
味深いやりとりが続いている。
イプゼンの理論をドイツの基本権教義学全体の中で位置づけ、評価する
ことは今後の課題である し、また その理論が個別の基本権ないし事例に関
していかなる有効性を有するのか、そしてそれが彼自身の基本権論の中で
どう方法論として使いこなされているのかの検証も今後に残された課題で
ある。また、アレクシーの側から見れば、その議論をめぐる様々な論争に
(
10
3)
関連して、イプゼンの理論とのやりとりがいかなる意味を有するのかにつ
いても課題として残されたままである 。これらにつ いては他日を期した
レ\。
(
10
0
) たとえば、基本法 2 条 1 項の「人格を自由に発展させる権利 J を一般的行為自
由権ととらえれば 、
ほとんどの行為が、この基本権の保護領域に含まれることにな
る。
(
10
1
) さしあたり、小貫幸浩「基本権が保障するもの」は何か ・ 続」高岡法学第 16巻
1.2 号
1 頁以下参照。
(
10
2
) さしあたり、 三 宅雄彦『保障国家論と憲法学~ (尚学社、 2013 年)特に 46 頁以
下参照 。
(
10
3
) さしあたり、渡辺康行「憲法学における『ルーノレ』と『原理』区分論の意義
R . アレクシーをめぐる論争を素材として
代表『日独憲法学の創造力
参照。
」樋口陽一 ・ 上村貞美 ・ 戸波江二編集
上巻一栗城害夫先生古稀記念
~ (信山社、 2003 年)
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