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第1節: 本牧北部地区
153隻3章談話・潮騒本牧北部地区 第三章p談話潮騒 1111111111 第一節、一木牧北部地区 いむかし本牧 ●吾妻神社 千葉との関係で、天平年間に地元の漁師が本牧で御神木を網に があります。 お吾妻様の所にヘンデルソンとかいう、外国人の名が刻まれて いた、平くったい大きな碑がありました。戦争前まではありまし たが、そう、今はありませんね。向かって、碑の左側に塔かあり ましてね、それは戦争の時に撤去されてしまいました。 本牧には名木古木というのが、沢山あったようですが、その一 o一山王松 おいたら、夜ご光が射したので、もったいないからと今の吾妻神 つに、山王の松というのが(八聰殿参道入口、左側山の卜)に現 かけ、一度は捨てたが、三度かかったので引き上げ、家に置いて 社のところに祭ったというのが、吾共神社のおこりといわれてま 在もありますこ横浜で一番大きな松ではないかなQ 七・八年前に国から松を切りたいからお願いしますと来たが、 す・今、吾妻神社の前に由緒が書いてありますが、あまり正確で はないとuいますロ だ生きてるんですもの》それはいい枝ぶりですよ……。 何百年もの松で、とんでもないと一一一一戸って切らせなかった。まだま 社には御神体がないのです□それは火事になったので御神体を海 |o天王洲の石 木更津の海岸のすぐ近くに吾妻神社がありますが、その吾妻神 岸へ置いておいたら行方不明になったという。それで海に流され 司が来たらしいのです。それ等もそのことが原因であると思われ い伝えられています。昔は吾妻の大祭の時に木更津の本社から宮 ってもとれないときなど天王洲の万も一緒にとったんじゃないか 目が悪くなるとか、いわれていました。例えばあさりをとりに行 この場合十二天の天王洲の石を持ち帰ると、ロクなことがないc よく御神木にふれると、どうだとか、いう話がありますが、こ るのです。それを「ひらつえ一(注、始ったの方言)家をそれ以 なんていわれました□迷信ですがね。 てこちらの浜辺にたどりついて御神体になったのではないかと言 来一どんげん様」といいます。今でもごんげん様という股沿の家 談話・iWj駁水牧北部地区/5J 第3章 乱づつと とってたとき「水垂れ」の所は水が多いというので井戸を翻った 幕末の話ですが、黒船が来た時、鳥取の文離が八王子山に陣を た。本当の地名でないでしょうが、時には船なんかの人が飲料水 一奉れていたので、木牧の人は水ったれ、水ったれと言っていまし そこのことを、八聖殿の東側が雌でいつも水が海の方へ自然に のだと思います。惜しいことをしました。 といいます。八聖殿が出来る前たしかにそれらしい井戸がありま としていました。 ●一水垂れ した。今は埋めてしまいましたけどね。 木牧は土地補としては、半農半漁だったのですが、どちらかと ●|半農半漁 のは今の亀井さんのところにあります。いわれはよく判りませ いうと、農の方が多かったですね。大型から間門にかけては農家 別に陣屋の谷戸の井戸というのがあります。陣屋の谷戸という ん、井戸はその二つと八聖殿に上がる右側と全部で、二つありま が多かったで一ヲね。八聖殿の下の方は全部畑でした。けれど、牛 川治の木頃、今の大里から間門にかけては全部畑でした。それ 粋な漁師町でしたね。 込は漁と股をやっていました(』それから昔の原、今の四丁目は純 -)一L・ 水垂れ、というのは、水が垂れてくる所という意味です。 八朶殿へ上がる道の上の方の水垂れの辺りは、子供のころ怖か ったですねえ。 我々の学校にあがっている頃は、一一一と谷から間門にかけて、見 から多聞院から上の三之谷に行くまでの間も畑でしたね。 ごく深いんで、物を落とすとカンカンと音がよく粋いたんだそう 渡す限りの田んぼだったんですよ。それに三渓鬮と八聖殿の間の 井戸ですか。カンカン井戸と言われてました。何しろ、ものす です。昔のことで、井戸の上に蓋もしていない上に、長い間です 谷戸地でさえみんな川んぼでした。 てくれ」って地主に泣きつくんですよ。 に入れてもってゆくんですが、その時「今年は不作だから、負け 今の二渓園あたりの田で獲れた年貢米を、地主さんのところへ俵 背は貧しかったんですよ。私の子供のころ(明治三十年代)、 から、落葉などが上に溜って、分らなくなってたんでしょうね。 人が落ちたことがありましたよ。ええ、助け出されましたけれど a。 、列 八聖殿のすぐ前に有名な八王子富士がありましたが、この土地 の人も誰も知らなくなってしまいました。その上に家でも建った 談話・潮騒本牧北部地区 155第3卦 人いただけだと聞いています。明治になってからは、お医者さん がいましたけれど。あとになって歯医者さんもきましたよ。 漁業も同じで「今旧は海がしけだから」と一言って、南京米一一台 とか、米五台とか、麦とかを持っていくことだってあったんで Cl一家 背は分家をするとき、杵んなに土地を二反半ずつ分けたが、庄 すC どの家も、三色も四色も入ったご飯を食べていましたね。一斗 のときも一「墓もやるよ」って土地と一緒に墓地もやってしまっ 米なんて買う家は、ほとんどないくらいでしたね。 昔から続いている店は、蕎麦屋の「江戸渚」、商売を替えて旅 た。貰った人も先組の墓石を削ってしまって自分の所の名前を彫 ったのではないかって、蕊を調べたところが、許の事だから分家 鋳をやっている一竹の寿司」、金物屋の一…松尾」、有名な一代吉屋」 ってしまった。今になってご先柧を調べようとしても判りませ 左衛門という人だけは三反だったので、父がきっとこの人は偉か という菓子屋もありましたけれど、息子が跡を純ぐのを嫌ったと ん。調べようがなく父も残念がっていました。 c一むかし本牧 いうことで絶えましたね。三色団一. いうことで絶えましたね。三色団子とか、八聖一殿ができた頃は八 三渓園の周辺でいえば、入口のところの「地の子さま」、あれ ワバク、カンダ、カワシリ、オカ、一一力イヤ、イナリマエ、ラン ン、サトウモチ、プンゾウ、カーヤ、カワラヤ、イケッパタ、カ 聖殿煎餅とかを売っていたんです。 が古いんです。初めはm が古いんです。初めは四丁目の角の進駐軍に接収された所にあっ プ十、チョウチンヤ、ヤマザキャ(綿谷)などがありますね。 木牧の屋号ですが、権現様のほかに、ソバ屋、ニコギ、テンペ たんですロ四丁目のバー たんです○四丁目のバス停の前に鞄の子屋という液屋があって、 その前だったんですよ。 れは親の識業とかあだ名をもとにつけたようですね。瓦屋という だいたい旧家の屋号のほかに迦称というものがありますが、そ が、戦後区画整理をした時にどこに置こうかということになり、 のがありますが、その瓦屋も親がそういったものに閏係していた 躍災の後ですか、今の交番の前にしばらく般いてあったんです 結局、原さんの土地で道路わきの今のところ(水牧三之谷一五六 んでしょうな。そういえば、チョンマゲキョさんという屋号があ 十七、八年のⅢ露戦争の時代ですよ。がんこでね。切るのが嫌だ りましたね。維新になっても丁慌を絃っていたんですよ。明冷三 地先)へ、ただで安置させてもらうようになったわけです。 私が祖母から聞いた話では、この辺りでは明治前は鍼灸師が一 水牧北部地区156 第3厳談話・潮騒 ロー川流れる つえといってね。私達もその人を見ていますよ。 オソソ本裁ちだよ嫁に行く。 蓉物は川シ身 いいから貸すから飲んできな クラサッサ、ヨイサヅサ 晦日に勘定はターントタント 三之谷の町は、昔は田でした。田というよりも他のようでした から杭を打って地所の境をして……稲をとる時は舟でやりまし 「数え歌一なんですが、漁師町で八十過ぎのお爺さんが一本釣り これ本牧の茶屋で歌いました。 た。魁二畳ぐらいの舟を買ってきて、それに乗ってやりました。 今の三之谷の公園が池でそこから水がずっと流れていました。 川幅は一間半から二間ぐらいでした。子供の時にその川でフナを 獲ったり、水車を作ったりして遊びましたね。 今の細い道は、その川を埋めた道です。 て来たところを、親父が若い時たす一け、その時作った歌がありま をしていたのですが、南風が炊いて流され、本牧の沖まで流され 角》。 あまた漁師がある中で 在の野島というところ 人も知りたる横須賀の 、一つとせいえ ・すO 古い尾口一ロの「矢根屋」というのは、川の始まるところで、宇矢 の根の入口にあたっていたので、矢根屋といったのです。だもん だから震災の侍に池田さんのうちに、屋根を直してくれって、道 話がかかってきて困ったそうです。 「川端‐|は川のはたにありました。同じように「川尻」は川のし まいに.ありました。 二つとせいえ 八十と二歳になりながら 古い漁師のお爺さん かなければいけないといわれてました。谷戸坂を越えて今の関内 漁に出るとは何ごとよ 昔はどんな金持の人でも本牧の人は一回は、お茶場へ働きに行 へ行ったんです。一つには見聞を広めるためでしょうがね。 南風にと吹き・来たり ――一つとせいえ 湫げども掴げども流されて ①一本牧で唄う 、アー頭チョンチョンまげコラセ 本牧の歌にこんな歌がありました。 157第3章淡話 ・潮騒水牧北部地区 〒-1本牧沖へと流される 四つとせいえ ようす凡て来るまぐろ船 本牧沖で坪ぱわれば しこ揚げ船にて助け船 これは私が学校へあがる明治の末頃、婆さんが歌ってたんで {go o一本牧町 て電車を敷いたのが、・不牧にとって大きな変革のもとになりまし たね。 電鉄会社が用地を買収し、区画整理をして、分譲した時の道路 が、いまも水牧一・二丁目に残っています。戸部にそれを行った 横浜土地会社がありました。電鉄会社からのち、独立したと聞い ていますが.…・・・ 五台から七台のトロッコで、本牧神社、本牧中学校、小港消防 署の辺りの裏山から土を運びました。この工事はだいたい平塚組 が請け負いました。この工輌の臓附は三一丁目辺りまで、小港は 神奈川県本牧本郷村字云々、何番地というのが、明治三十四年 三月一一一十一日までの正式地名でした。横浜市に編入されてから、 入っていませんでした。 千代崎町・台・小港・嵐原ですが、戦後少し変りました。 之谷商店釘人口、交番前の付近でした。停留所は麦田町・上野町・ 軌近(註・枇浜電気鉄道)が敷かれて最初の終点は、現在の三 っていましたね。 も巧妙だったと附いていますⅦしかし片が付くには鰹災頃まで脚 もっとも中には八円というものもありましたけれど」買収方法 その後、本牧町字云々となりました。 村役場は本願寺の剛にあり、半四洋館のような建物でしたが、 戦災で焼けました。 この本牧辺はよその土地のようにチョピチョビと家が出来たの でなく、昔から区画整理したみたいになっています。 C}横浜電気鉄道 明治の終りごろまでは、木牧の人口の一判くらいが他所の土地 の人でした。漁師、農家がほとんどで、酒屋がすこしぞれに風呂 ンネルを出て、木牧まで屯屯の道しかありませんでした。あたり 明治四十瓦年ごろ、電車が救けましたが、そのころは麦爪のト 水牧の中心は牛込あたりで、現在の千代崎町、t野師が一時で は田んぽで、開けてからその脇に人道ができて、さらに人道の卜 屋がありました。他の商売は他所の土地の人がやっていました。 したが、繁華街でした。明治の終りに電鉄会社がトンネルを堀っ 潮騒木牧北部地区ノ58 第3章談話 松影町に市場がありましたが、トンネルが出来るまでは、手車 ですからね。 る人も、常雇いはごく僅かで、殆んどが他の土地からの臨時雇い 土地との結びつきは、あまりなかったですね。そこで働いてい んですよ。 でいちいち引いて作物を持っていきました。その道は桜道を上が ンネルができました。 り、地蔵坂を降りたんです。玉い荷物は桜道から地蔵坂まで、馬 その人たちは、昼を外で食ったりせずに、弁当を持ってきて、 食べているといった人迷だから、平塚組の人達によって地元の商 に引っぱってもらい坂を上がりました。これを「先がけ」といい ました。当時手間という手数料は十銭でしたね:….。 店が潤ったなんてことはないですね。 本牧というと、やはり海水浴ですが、私なんぞは、もう二つの ことではないかと思いますがね。 たcですから、海水浴は大正生れの方が、初めての経験者という 私述の若いころは(註・明治生れ)海水浴などしませんでし ロー海水浴 口いなり識・まんねん識 渋れてしまいましたよ。 私の地区では半分位の農家が没れ吉したね。瓦屋根の家はみな ったんでしょうc すか。農家ではねごみな山際に建っていましたから、地鑑がよか この辺で、鰹災で没れえ家というのは、なかったんじゃないで C震災 (注、平塚紺のことは祁仙) (●武ちゃんと平塚組 平塚武二のことは{タケちゃん」、私たちはそう呼んでいまし たね。本牧小学校で同級生でね。だけど、小学校の時は、兄さん は平塚と名乗っていましたけれど、タケちゃんは、川材武二郎と いっていましたよ。 子供の頃、おとなしくって、勉強もなかなか俊秀でした。イク ズラはしなかったですねこ 武ちゃんは平塚組の子ですが、その会社は今でいうと、「花シ ョウ」のところにありましたが、四丁目の手前ですね。ただし事 務所というのは、別段なくってね。 三渓図を全部埋め立てするまで平塚組がやって、終ってから、 大里の方も開発したんですよね。平塚組というのは、当時、大変 な土木業者なんですよねえ。 平塚組は、平塚から来て、出身地の名をつけて平塚紙としたん ですからね。原さんが平塚の後押しをしていたので経営が出来た ノ”露3章淡話・潮騒水牧北iIflj地区 こなったのを覚えています。 ろは潮の流れがひどいんですねcそれで渡されましてね。死に一て 時には、凶、五人の子供と一緒に泳いでいましたね。ここのとこ ちの泳ぎ場の方へ、口本人の子供が沢山入ってゆくから注意して 子供がそっちへ行こうものなら、「須藤さん、須藤さん、今、う 取締りをやっていたんです⑪うるさい人でね。一寸でもR本人の 海水浴といって外人が大勢来ましたよね。そのときの地元では っては見に行くんですよ名前なんか呼ばないで、杵んな、ハチバ 陸からは入れないものだから、子供達は海をず1と泳いでまわ 下さい‐|って必ず怒ってくるんだよね。 まだ海水浴のレジャーというのはありませんでした、子供は別で ンハチバンと呼んでいましたねc クなもんでしたね。 らジャーと下に流すという、簡単なものでした》それでもユニー といっても、井戸水を汲み上げて天井裏の桶に入れておいて上か サ→、-ハウスには、シャワーがチャンとついている⑪シャワー 七、八軒待っていました。 u本人が経営していて、貸していたんですが、半五郎さんは 十二軒位、あっちの方にも十軒位あったかしらね。 それが八・B・C.D……と幾つもあってね。そう、こっちが けの簡単なものよれ。 ような仮造りの家でね。巾は八畳で、あとはシャワーね、それだ サマーハウスというのは、赤くペンキを撃った掘っ建て小屋の 二九九番あたりの所から入るようになっていたんです。 柵の向こうには、サマ1ハウスがあって、外人は今の水牧元町 c一サマー・ハウス すが。 その時分、我々はフルチンといってね、まる出しでやるんです よ。そうすると外人がね、、本人とても不潔でいげないっていっ てね。外人の方へ泳いで行くと、駄目だ駄目だと手をふって怒ら れるんですよ。だから泳ぐに泳げない……。 外人専門の海辺がありましてね、そこでいつも外人だけが泳い でいる。そこには柵がしてあったんですよ、陸にずうっと、トン ボ線(鉄条網)の仕切りがしてある。 そして、そこに立入禁止と書いてあって、日本人は入れなかつ {‐」’八一C、-9s 外人海水浴場の立入禁止っていう副木の字は「ハチバン」とい う外人が書いたんです。 ハチバンっていうのは、山手の八番に住んでいた英国人の老人 でしてね。馬に乗ってやって来て、その人がこの辺全祁の外人の 第3素談話 ・潮歴木牧北部地区J60 そしてね、三軒の家を一人のⅢ本人が而列見ていましたね□ 茶を入れたり、コーヒーを入れてやったり、海水杵を干して、 た翌日肴られるようなサービスを一うるんですよ。 海岸に外人がよく泳ぎに来ますが自動車でヘッドライトを照、っ す、そこでレコードをかけてダンスが始まるんです。それを凡て いると踊らないかって言われて、はじめてブルースを踊りました わ、十六載位の侍だったと思い一一二一プ。で6はずかしくって……。 大熊さんというダンス教師もいましたわね。 太汝の中心というと、元町通りですね。と一一一一コってもあそこのご 一G本枚の店 朝からは来ませんからね。お昼頃来て晩方帰るんですよ。その く限られたところに、あっちに三好、こっちに四軒といつたふう に、店がペラパラとありましたね。ほとんどが万扇(注、よるず や、灘貨等なんでも売る店)でした・ 水牧には塩をつくるに場がありました。 ロー飛行機 いってくれるんですよね。南京ナスだから、いらないなんていっ 大正三年博覧会の時に、追浜から飛行機が飛びましたが、当時 サマーハウスは、ひと叉単位でね。ふた月でも、ひと叉ってい 風上に向かって飛ばないといけないのに、風が強いために斜めに 八王子海岸について、そこから飛び出していくのです。一磯だけ、 の飛行繊は横須賀からイサカャ(?)の沖まで飛べなかったので、 っちゃうんだけれど、それで一年の家賃を取るぐらい高い値段で スミス飛行機は伸風まかせ ナイビスつづいてスミス 、スミス飛行機は 八王子の浜にスミス飛行機が来た時に流行った歌があります。 ってしまいました。 飛んだので、落ちないうちに転覆してしまって、飛行士は亡くな 若い時の遊びで紀憶がありますが、虞災の前の年ぐらいです。 いって目をつけていたようです。 なく、その上大変水がきれいでねえ、外人は早くから海水浴にい 根岸の・万は、遠浅で駄目でしたけれど、本牧はそういうことも パートを一軒持っているようなものでしたね。 したね。だからサマーハウスの三、四軒も持っていれば、今のア は食べなかったんですよ。 てね。牛乳だ、肉だと、そのころ珍らしい物一定貰っても、昔の人 見ていたんだけれど、外人がトマトが余ったから食べろ、なんて うちのお袋なんて、そのころ三、四軒のサマーハウスの一面倒を パカパカ来る……。 頃は自動車なんてありませんからね。みんなベットつきの馬車で を抜いて板敷きにしたりして、家を貸したりしてましたね。 そのころは普通の家でも、叉になると一部屋だけ貸したり、畳 ま紅 本牧北部地区 /6ノ第3章談;Ji・潮騒 弘しやあなたあなたの心まかせに なる身じゃないか テヤノ~l~ノー~イササカリンリン つかれちゃドンノー 0子供の遊び 昔の子供の遊びには、ケン玉、軍艦ごっこ、たが辺し、なわ飛 び、メンコ、ネッキ、竹馬、凧揚げ、ベーゴてこま廻し、陣取 り、アヤッリ、あやとりなどがありました。 石合戦は私たちより二十歳位上の人達がやっていましたね。そ 市喧が鮫かれたのが昭和二、一二年頃ですね、二」のとき、皆んな 喜んでいましたね、反対する人なんていませんでしたね□背、本 牧で下町(伊勢佐木町のこと)に行くには、テクテク歩いて行っ たんですもの。それに市電ですからね。のちに二業綱合も出・来て きましたね。 北方にキリンビールが工場孝一微いたので、その辺りは附けまし ’0-本牧の農業 たが、本牧には直接の影響はありませんでした。本牧と北方に柱 む人の身分が逃う、というのがその剛由で、水牧は当時、北流の くわがた虫を戦わせるのがありましたね。たしかホンチはずiと 技を使ったんですね、まだ色々ありますがねえ。それとホンチや 電通りから犬徳寺、和田山側)から根岸までの合は緋作地でし 郷町一丁日あたりは水田でしたし、もとの接収の二号地(Ⅲ、市 明治から大正にかけて、妙香寺のこっち側が附けましたが、本 人達が住んでおり、職工が住むような町ではなかったんですC あと(注、昭和十年代)までやっていましたね。くわがたはもう た。 のほか、カギ引っかけ、というのもありました。あれはミズキの その頃にはやらなかったんでしょう……。 木牧は埴巾が蚊けてつからが変りましたね。現在、アメリカの 行きました。昔はよく出来たのですが、段・々とれなくなり、一〉{し なすなどの苗は作ることが出来なくて、東京の馬込まで買いに C一新開地 接収地がありますね。あそこが終点だったんですよ。あの辺り た。速くから仕入れた苗の方が成是がよかったんですね。地面は 王でした。それと、地形的に良い所でないと作れないため、水牧 葉物はよく取れましたが、榎岸は阻洋野菜、本牧は日本野菜が そうですね、戸塚、讓沢あたりと同じくらい良いと思いますね。 は。そのころ、原さんがあらまし買い占めましてね。 市電が敷かれ、原さんが一、二、一一一之谷を買い占めたというこ とですね。 この辺の地付きの人達は、三渓關の遣りの商店街を一新開地」 といってました。待合小が出来てねど ・潮騒本牧北部地区162 第3章談 は西洋野菜は作れまく一こんでしたね。 野菜市場の分所の方にいい野菜が集まり、根岸、水牧の野菜が 集まる(注、入荷)と、粗場が狂ったといいますね。まあそれほ どよい作物がとれました。 根岸も本牧も戦後四、五年まで組合は一緒でした。北方の人達 は農業はあまりやっていませんでした。大抵、作男というのを雇 っていましたが、今のように農薬などが発達していないので、農 業はだいたいどこの家でも大規模には出来なかったんですね。そ れと耕作而穣が狭いので、一年に兀同くらいの作付の阿砿をして うことで……。学校が出来ましたがね。 川水池はほとんど共有でしてね(』ただ、共有の池や沼は部落毎 にはなく、大谷一P、三之谷、間門にありました。 ガス山はガス会社の所を上がった所で、緑ケ丘両校に抜ける逆 がガス山通りです。平地に大きなガスタンクがありました。 この辺では、ナスとキュウリが特殊な産物でした。 O一牧場 牧場がたくさんあり、乳牛ばかりを飼っていましたc谷戸の奥 には必ずといってよいほど牧場があったもので、大正初期ごろに があったことによって、農家の利点としては、草を刈って牧場に いました。 存は一うぐいす」といって、三月上旬に秘を藤いて五月に取り 売ったことと、農家の人が牛糞をもらって肥料にしたことなどで は、オオクラ牧場、ワタナベ牧場などがありましたが、この牧場 ました。一種類の野菜を専門にやり、その間に作物を作るとい す。肥料としては牛糞は岐両のものでしたものね。 です。 衿の大原が水牧に来て、泊って、熱釣りに行った例もあるそう ば記録がありますc つり船は本牧の長崎さんの親のところから始まったということ ●釣り船 七か所ありました‐。 牧場は他所の土地の人がやっていましたが、本牧だけでも六、 う、間作をしましたc小カブとか赤菊とかが間作でした。そうで すね、ネギはよいのが出来ました。けれどお米は肥料がなかった ので沢山は護れませんでしたc 作物はネギ、コマッナなどの野菜が主でした。この辺(注・本 牧二丁目辺)は田んぼでした。いまの緑ケ丘高校の所が畑で、当 時三中に買収されて畑はなくなりました。農地が潰れるので少し は問題にはなりましたが、これは当時のこととて仕様がないとい 談話・潮騒木牧北iilj地区 163第3素 瀝崎旗次さんが一づり船の一本づり」の元柧です。ですから八 十年前ぐらいから一木づり専門でやっていましたもの…… 親父さんが釣りについては名人だったんです。 一●お馬流し 淵悉があって舟に乘った人をご馳走する、その時、船頭は上 座と、この間に座り、新参は桟歎をこしらえて、そこに座りま す。各櫓間にも櫓間長というのがいて、櫓について古参の人が新 新町、八王子の六か所(大正五年以降は八王子、新町南・北の四 れは無形文化財になっていますごそれは、宮本、宮原、北、南、 繰り返します。そのためにそれだけの人数がどうしてもいったの がなくなると交代しますc沖の方まで行くと何回も何回もそれを 交代します。でないとつかれるんです。自分が、め一杯猶いで力 |っの櫓を瞥ぐのに一一一人で漕ぎます。はげしくこぐので何回も 参を指導します。 か所)でやるんです。八月は吾妻神社の大祭、と十二夫さんの大 です。前からいうと、艫櫓、怖さし、五丁柵、四丁腿、前櫓、脇 八月には「船こぎの祭り一(注、お馬ながし)があり三す。そ 祭、九月は十三Nに八王子の祭りです。嚇大で、店が山の上まで 櫓、先頭とあるんです。漕いでいる所を見ると、濯が-度に揃っ ていて、絵に書いたようになります。狂うと船は舵行するとか、 ずっと並びました。 ところで船こぎの祭りは船の乗り子は鉢巻きで、字毎の色分け 一番向こうの四つ目の鉛が突然に回ると、それをみんなが見て 遅れるというわけです。 「お馬」をつくる人は木牧に昔から一篝だけで、羽鳥さんの家で いて合図します。そうしないと何処でかえるかわからないので をします。新町と八王子が赤の臆か黄、ブルー、緑、白です。 す。お馬流しのときの役割は各町内で決めるんです。どの船に 、-9c 馬を早く流すということは、お馬さんは村の厄病神を乗せて、 したものが勝ちで、その年に幸逃が向いてくるというのです。 早く帰って十二天神社にお神酒の角樽を早くお宮に一一床してお参り つか》」夕) ない訳です。中の瀬の本船麺りの手前ぐらいまでが一悉沖です。 台の上のお馬さんを流す、船くりから離すから櫓でひっかき回さ 取りかぢ川の舟くりに駆り、体を船くりの外側へ乗り出し、末広 回る時船は取りかぢ廻りで、岸に向いますが、お馬を流す人は 乗る人も、みな役割が決まっていて、櫓を麿ぐにも自分の勝手に は出来ないのです。一番頭に乗る人は、年配者、蝿さしというん で、そして両脇二人ずつの四人です。 船頭は一番後ろで交代で漕ぐから、最低一つの櫓にn人位で二 十五人位です。そうですな、全部で四十人位乗るのです。 新参の人では舳先の方の術がまわって来ます。だんだん心得 て、みんなの眼鏡にかなうと、よし船頭にしょうじや・ないかと。 耕頭になると一審貫禄があります。 談話・潮騒木牧北部地区16J 第3 沖へ流れていくので、早く流して、その帰りを争うのです逗 櫓で舵をとるので、みんなが気が合わないと舵行するので、枠 昔、町内の古い家には砦、お稲荷さんがあったものです」 私達子供の僻一分、お正月のⅢ松、しめ飾り等を燃して出来たて の餅を雛いて食べると、風邪をひかないなんて言われましてね。 『お神棚銭、お神祇銭1-と言って、お金をⅨいに行くんです小恩 へ行くと、どれを目標に漕ぐか決めておき、みんなが舵をとる 船のへ先についている印は、八王子がかたばみで、色が紺とブ をこしらえてねこそのお金で、袖揚げとお酒を買って、お穂荷さ 二月十二日にそれをもやすんです一が、子供が集まって町内の家へ ルー、新町は鰹紺と白、北と南が色が白字に紋が菜、十二天(宮 んにあげて、あとお金をくれた家(お供物といって、小さいお菓 と、真直ぐ行きます。 原)と宮本は鶴、亀で空色です。 めた子供達で分けるのが非常に楽しみでしてね。私が小学校の四 子を配るんだけれど、それでもお金が余るんですね。それを、集 町がブルー、南は黄色、北が桃色、十二天は白です。 年から五年までやっていたんですけれど、学校で先生が、お金を 町内によって乗組員の鉢巻きの色が違います。八王子の赤、新 服装は各乗組員は、股引と補絆を着たもんです。 貰っちゃあいかんというので、止められちゃうてね、ただし、そ れは男子の方途だけです。 乗子は当川は三時起きして、風呂に人って、体を清めてから 船に乗るのです。もう祭りの当日は、風呂屋と朝勘を特に契約し て、誰も他の人は入れないで、船に乗る人と、特に当番組の人と 初午の時に子供が集まって、歌って太鼓を叩いて、町中歩いたも 木牧には一いなりこ」(稲荷洲のこと)というのがありまして、 すが、たいへんなものですね……。 のです。そして稲荷さんの前に番小屋をこしらえて、近所の子供 か、希望する人が光に勘に入ります。まあ、そうして姉ぬるんで G』しきたり が小屋にこもって、いろんなものを町中の家から皮って歩くんで イナリコ、マンネンコオイナリサンのオハッオハッのダン 部落ごとにふるまいがありましたご 一迫祖神」(喪の神)で、大きな草粧を上げてましたcそれにお 二文でも……。 からおっこって膏薬代をおくれ、おくれ、おくれ、|文でも ・す。 飾りなどを燃やしましたこ二丁目の人達には和田山に共有地があ お正月の行覗としては、三が囮が「お飾り」で、一月十五日に りまして、そこでやっていました。 近所のおばさん達が頑雛に赤飯とか、五日ずし、肋あげ、みか Ii・潮騒上牧北部地[え 165第3章 ん、菓子うどん粉で練ったものなどでこしらえて、お蒋荷さんに 習があるんです。 送る時も、送り火にします。お難にもそれを持って行って作る風 と砂をひらって(籍って1万一一s来て、玄閏先へ小さい川と大 サルボオ(今の池貝)という貝で、その貝だけを使う、その貝 じないですね迄 焼きを食べると、虫歯にならないといわれていました↓虫歯のま それと、一止月の十四日お札でだんごを焼きます屯こあ一のたんご ーイ、ホーイと怒鳴っていました’ 大風が次いた時『は、風追といって、風の中で大声を脳して、ホ にいわれてたんですねえc それとか、露が鵬ったら蚊帳の中に入ればいい。これは全国的 をつけると治るとかいいましたⅢ 例えば、でき物が出来ると、ドクダミの草を抹んで、二度シバ なんて誰も考えちゃいません。 今でこそ迷信といいますが、それか一一一一Eわれていた当時は迷信だ |、迷信 も同じです。 水をかけて消します。木牧海岸一帯でやります。上(山の)の方 蓮の葉に茄子を刻んでおがらをもした後、ミソハギという草で おいて、今でも必ずやっています。私たちもやっていますc 本牧元町の安藤さんや金外さんの家では、毎年その貝を取って 本牧でなければ見られなかったです。 前に海がある土地柄から、木牧の家の人は皆んなやりました。 あげに行きますc勿論、子供が食べるのです。それが昔の風習で した。但し、女の子はオミットでしたね。どういう訳かね……。 海岸がありましたから一‐ドンド焼き」、但し、男の子だけでや り、女の子は入れないのです。七草で飾りをとりますが、菅は大 かご きな竹と大きな松を門に立てたもので-9.|月十四日にやりま す」『ドンド暁くらつせ1』と言います。 お飾りを燃した火で、四角い切餅を焼き、それを食べると、病 気をしないんですc 節分には、かと(門)柊(しいらぎ)に、おがら(枝豆の枝) に鰯の頭を刺し茄子を刺します。それから一いわしの頭も信心か ら」と言うんでしょうかね□この辺では、いわしの頭のことを 一やつかがし,|と一一一一いいますこ 木牧の風俗といいますかその特色ですが、前が海であったの きい山とを作って、その貝を綺麗に並べて、帆立貝を山のてつぺ C谷戸 で、お盆になると、みんな「諭山一というのを伴ったものです彦・ んに立てて、山の上で一おがら」を炊いて、お迎え火にします、 第3素談話・潮騒木牧北部地区166 家が少しあった所にガス会社が出来まして、平地に大きなガス タンクがありました。昔の洋雛みたいのは事務所でしてね。 こを作るには、いい水でなくちゃあいけない…:. 口本牧の海 o 一●本牧の海苔(のり) このガス会社では土地の人を正式に従業員としては採用しませ んでした。またガス会社があって、特にこの辺が開けたというこ l砥ども存じていろ:水牧ののりですが、越じ麹に、のり についてお願いします。 とはありませんでしたねc この辺(ガス谷戸)は沢が旧道で、農道のようなのが本辿で で、のべなわに使う鋲を採るとか、採らせないとかで、本牧の沖 「のり栽培が盛んになるきっかけは、むかし富岡の漁師との間 この辺には古い木が多いでしょう。その中でも大きな木のとこ す。 ろに「お稲荷さん一がありますが、ここの水は御柳水となってい して裁判にまでなったことによります。 までその樅利があるとかいって、紛糾があり、それが常岡事件と 1すo 織の中に入れて組合員としたのです。いわゆる権利を与えたので そのために、漁師でないから糾合員ではないんですが、机合組 を負塾してもらったのです。 用が大変かかるので、問屋さんとか、可の有志の方々に裁判費用 裁判の時に、組合組織でやったのですが、その時分、裁判の費 ます。昔、海からその木が見えて、漁師が目印にしていました ねC ガス谷戸のことを明治の初期から巾ぱ頃の背の人は、鋏屋の谷 戸とも呼んでいました。ガス谷戸という呼び名は比校的新しいん です。 ガス谷戸のもうひとつ向こう、池田さん寄りに「あんこ屋の谷 戸」というのがありました。あんこ屋があったからなんです。 これを、オカサクといって、随にいる人がやったというので、 そう呼んだのです。さくというのは、のりのくじを引いて、さく ここにはいい水路がありましてね。上からず1つとつながって いるんですよ。これは地下水らしいですよ。井戸を柵ろといい水 を作ったのです。 現在まで、続いた家もありました。勿論、途中でやめた家もあ た訳です。漁業の・万は、やりませんでした。 それで、一軒当り、何一・さく」というさくの割当の権利を与え が出るらしい……。 そうですね、大沢谷戸も両側はほとんど田んぼだったんですよ ね。その田が埋められていくのを知っていますもの。その水路を 利川していたのが、先程の話にでた、あんこ屋ですよ。良いあん 潮騒本牧北部地区 167第3章淡諦 りました。 「のりの試作については、明治三十年頃、組合の出来るすこし前 ですが、村瀬荒吉という人が、主になって始めたということです が、その他には、根岸又造、大川鶴吉さん等がやってました。」 「のりの試作をしたところ、ほぼ成功するだろうということで、 組合を作ろうということになったのです。 のりの養殖を始めたところが、本牧は、のり漁場としては、非 常に狭いので結局、割当制にしたのです。 しび(竹を刺したのりざく)をする場所を共同にするため、組 で、それを腿き、一枚ののりにする訳です。 漉く方法は、いろいろありますが、のりの漁場は、その様な所 からはじまりました。」 「本牧では、のりだけでは生活が無理だったんで漁業と併用で行 った訳です。 のりは冬期に行いました。農閑期と同じで漁閑期といいます が、そんな時季にのりの養殖を翌年の三月頃までやりました。そ れ以降は海で魚をとるんです。」 (C漁場 時に、埋め立てたということですが、そこに入江があって、今の 「背は、伊勢山神宮の下まで海(注、野毛浦)でしたが、鵬港の l漁場は、どの辺ですか、 「ナラやケヤキ、シイなどの小枝(せだ)を、のりしびとして使 合が必要になったのです。それでないと、協議できないのです」 った訳ですが、今年三本位の一把いくらだ、と話し合の上、近郷 さきほどいった、のり養殖の区画は、あったのですが、魚は自 横浜港に漁場があったということです。内防波堤(赤灯台)、川 い、それを根っ子に作り、海の中へ植込んだのです。植えるにつ 由漁業で、魚を採るのは自由だったんですが、漁法によっては指 の二俣川、戸塚、柏尾、杉田などから買って来たんです。それを いては、海底に穴をあけなければならないので、振り棒を使った 定されたものもあり意したが、のべ縄、六人網とかは、ほとんど、 防波堤、子安の沖のよ-」まくら根付近にあたります。 訳です」 そういった協定はありませんでした。 馬力で述んできて、近所の女の人に一把いくらで葉を取ってもら lその大きさは、どの位ですか、 横浜港の周辺から常岡位迄で、本牧の漁場は、漁業権というの がありまして、この辺の全面区になりますが、漁法や、いわゆる 「海の深さによって違いますが、平均してのりがつかないうちは 三メートルはたっぷりありました。自然にのりの種がつくのを、 魚種によっては、どこへどうとでも行ける訳です。 どこの海面へも出漁でき、それが、いわゆるnm漁業で、漁法 待ってたんですが、のりがつくと重くなって下に下がります。十 一月下旬から種がついてのりが延びて来るので、それをつまん 潮騒水牧北部地区168 第3流談話 は、のべ繩とか巻き網です。一本釣りもありました」 ’-9「| のです。ほぼ五トン位はありました。木牧のは一トン位だったで 先き程の餌の件も、その範閉の中へ入る、入らないということ りません。 焼の二つ石から横菰迩の松島兄迦しまでです。これは、菅から変 とをいいますが)羽田飛行場の突端(灯明)から、根岸と間門の ほぼ、本牧の地域は、上手は、(漁師ことばで、東京寄りの一」 8,あて つを合せる訳です。これを山だてといいます。 直線式に真中に目標を世いて、自分(船)の目標と船と丘の三 をするのです。 昔は、土地と土地とを山だてをする訳です□土地と土地の見通し 「漁場をみるには、いまでは、北純何度から何度といいますが、 lその間に、他の漁村の人も、こちらへ来たり、木牧の人は、 他へ行ったりした時、漁場などの争いはありましたか 一・ありました。例えば、子安が埋立てになった時です。子安との トラブルが一番多かったですね。 彼等は、底引き網が主なんですね。子安の船が、本牧沖を荒ら しに来まして、我々も捕えに行ったりして、トラブルがありまし 、定」 |‐底引き網は、場所が限られているんですが、子安の浜には、底 引きの場所かない。この点本牧はよかったんですね」 |子安は、良い場所が少ないです。ただ子安は、捕る時と魚によ って魚具が違うんですC i本牧一柵の珈場は、漁場によい、悪いの鑑があったのです で、争った様です。」 ケタというのは、ヨウケタとカイケタがありして、ヨウというの か? 一番トラブルがあったのは、ケタという魚具を使った時です。 は、魚がなまって、ヨウいわゆる魚です。カイケタは貝をとる魚 |「ありましたが、本牧の漁場は良いと、よくいわれました。 ししれ 具ですが、ケタというのは、農具のマンガの様に曲っていて、丁 今も多少残っていま-9が、一審魚の寄った所は下松という所で 引く訳ですc 度、熊手に長い網をつけた(二間位)ものを、海の中へ落として そこは、潟離ですので、ケタも網も遮らないです⑮深さは四尋 す。今で地域的にいえば、八聖殿の沖あたりです。 から五尋(五メートルから六メートル)、浅い所で潮の干満が二 大きな船ですと、そのケタを八つ、普通の船ですと五つから三 つ位付けて、海底を引くので、非常に漁場の底が荒れてしまうん メートル位ありましたから、大潮でも根頭に、ろが立った位で、 一寸沖へ行きますと、いきなり、二十メートルから三十メートル で{9」 |子安は、船数も多いし、そうした重い物を引くので船も大きい 本牧北部地区 169第3素談話・潮騒 位になってしまうんです。その辺が良かったんです。」 l下根は、良漁場だったのですが、蝉警蔭どはあり一一一せんでし ,兀・か○・ 一「それは、ありません。」 明治》大正には、棒受予手ぐり、小網、門人引き、六人網等が 。ありますc」 具体的に、まず、巻き網から。 「とる種獅は、コノシロ、イワシ、セイゴ、ボラなどの回遊魚を この辺では、一報深いんです。港に寄るに従って、浅くなるので 「いや、深くはありません。下根というのは、根が下りた時が、 しまう。そこで網を少し開けて、一ぱいの船で追い出すんです。 でしたから全部くるんでしまうと、網をあげる前に全部魚が出て 今は、機能が大きいから機械でしますが、昔は、手こぎで、ろ とります。その全休の漁法なんです。 すと これを手船といいます。もう一ぱいを網船といい、二はいの船で 1本枚の卯は灘かつたんですか? Clとれる魚は やりますが、魚をくるんでしまってはいけないんです。くるむ手 「群れのことを本牧ことばで、『あかみ」といいます。 その網は、底がなくて重りが付いているのです。」 んです。今は網が大きいから全部くるんでしまいます。 前に極いといて、こちらから追い込んでから、網をあげる方越な ’一琴節にもよるでし蝋うか、どんな物が饗れましたか? 「一月から三月、カレイ、アナゴ、コハダ、コノシロ、セイゴ、 ボラ、車エビ、ギンポ、モクソ、タコ。 四月から五月、カレイ、コノシロ、クロダイ、イカ、コハダ、 手ナガジャコ。 遠くから見ると、海の色が赤く見えるんです。魚の群れが赤く 兄えるんですね。魚がたくさんいて、烏も魚を狐って海の中へ飛 六月、カレイ、キガイ、力一一、車エビ、小魚□ 九月から十月、イワシ。 び込んだりします。「あかあじ」ともいいましたc」 張って引く訳です。車えび、しゃこ、もくそ、小魚、赤えび、あ わかさぎ舟の様に帆を張って、直線でなく舟を検にして、網を を引く訳です。 一下のものを引くので、そういわれます。いわゆる根魚(底魚) l艤引誉、手ぐり蔭? 昔は、サメ、トビ魚、アカダイ、クロダイ、アジ、手ナカジャ コ等とれました。」 一の漁法というのは 昭和の初めから、ごく最近迄の漁法はどうですか? 「巻き網、底引き網、廷なわ、もだて、見突、さより網、八朔 網、かり刺し網、ろくだ、かい巻、一木ずり。 第3料談話・潮騒木牧北部地区J70 など等ですご I延べ縄は? 「糸(縄)を何千メートルも延ばして、そこにむかでの壕に沢山 の足を付け、針に露を付けて流す訳です。縄をのべるから、延べ 繩といったのです。 ものによって、餌は違いますが、主に、アナゴ、クロダイ、サ ワラ、勿論、針も違う訳です。 これらは、その当時のものが、間門小学校に寄付してありま す。」 lもだて綱は? 「簡単にいいますと、テニスのネットを底に下ろしたのと同じ で、根魚をとるのです。 「これも刺し綱になりますが、浮き刺し綱です。 浮き調で、水の上に泳ぐ魚をとるんです。さよりは、海面を泳 ぐ魚で、底にも中間庭も居ないんです《》 まるくかけて、下だけあげると下に底ができて、それで獲れる わけですと lろくだというのは? 「アジ、ボラ、セイゴなど、岸壁にかたまってる魚をとる、小ぶ りの巻き網です。 掛けてから、二はいの船で追いまして、追ってたぐって、下だ けあげると底ができ、魚が趣れるわけで、特種な所に仕掛ける網 (長さ五十間位)で、同じ方法でもっと小さなものは、たつきとい って昔は盛んに行われました。」 「八月を八朔といいましたが、その頃に、このしろが染まってく I八朔は? それを端から上げるんです。根魚がくるまってしまうんです。底 るんです。四月に産卵に上って来るんです。産卵が終ると、ばら 藻の生えてる近くに、それを真直ぐ下ろし、底に立てる訳で、 なし網です。クロダイ、カレイ、イカ、セイゴ、ボラ等がとれま ばらになって、群れを作れなくなって、八月の月になって集団を 作るんで、いわゆるアカミになってくるんです。 すが、網の目の大きさによって違うんです。「| ’道具を揃えるのに、大変ですね その時分に魚をとるんですが、魚が非常に早いので、大人網で は、とれないんです。八朔網にして、根魚を網に刺してしまうん 「それには、専門があるのです。昔から親父に教わった漁法を使 う訳で、家の伝統によります。「| です。・もだてと同じ様ですが、これは上の魚ですが、八朔は根魚 小あみは、底に沈めてしまって、せいぜい三尺位ですが、八朔 なんです。 l見簔は? 「めがねをつけて突く漁法ですね、」 lさより網というのは? 潮騒木牧北部地区 17J第3章談話 は高さが高くて六尺、約一・八メートル、水の上に出ているので -9C」 I貝まきは。. 「アサリ、青ヤギ、ハマグリをとったんです。 金網のかごに鯛が出ていて、それに棒をつけたものを、舟のと もに錨を下す様に逆錨にして淀の中に入れて、それをろくろで巻 いて、おき舟を逆行させながら、上でかごを振って砂を取り除き、 貝だけを引き上陽るんです□」 l各家で得懲な漁法、愚密等というのはどうですか、 「字・牛込(牛篭)、山崎屋(福谷)は延縄、川尻(池田)は延 おとどう(岩崎)はなわふね、佐平治や(佐藤)は延縄……と 縄、かあ了や(須藤)は延縄、にこぎは延繼、餅はちは延縄、 かこれは、ほんの一例ですc さより網の代りに、延縄でもサョリをとりまして、さより純と 「おんば流しというのは? 「本牧神社に行けば、舟やのぼりもありますし、灯年やってま す。古いものも、あります。| ●問屋 l当時の仲買人の話や、値段の決め方についてはどうでしょう か? 「背は、封建的で、いさばという一一一一m葉がありました。いさばとい うのは、魚問屋のことなんです。 戦前までは、問屋は漁民を搾取する訳です。漁民が魚をとって 来ると、それをあげる場所が決っていて、問屋同志の申し合せが あって、決っている訳ですc誰が買うとか、指名づけられている んです。 従って、値段もわからない訳です。 それに、何故かというと、私達が子供の時から経験して来たん で、他の問屋に魚をあげようとしても、買ってくれないんですc ですが、どこの家は、どこの問屋(いさば)と協定されてたん イカは、真イカで、普通は、つの(疑似針)でとりますが、其 決まった所でないと、だめなんです。契約は、してないですが、 もいいました。イカもとりましたr| イカは時季になりますと、沢山餌を食べる性質があるので、イワ その原因は、漁業だけでは食べていけないので、冬は、のり作り 金を借りなくても済む時代になっても、お前の所は俺の所とい が伝統的に定着してしまったんですね。 金を借りる。借りると漁民は、問屋に縛られてしまうんで、それ をしてたのですが、それより前は、大変だったんです。問屋から シを餌にして、延繩でとりました。 引っ掛けるのではなくて、餌を度えてくるのを、えまで掬い上 げるのです。延繩でも、こまかい漁法があります。 普通、釣り針のことを私達催、略して、釣り、釣と呼んでいま した。」 のは少なかったね。 「まず、祭りでしょう。祭が一番ですね、だいたい、遊びという 十日位前に決める訳です。‐| の時は、昼は潮が千いて、朝夕が満潮になるので、その時を利用 て来ると練習をするのです。いわゆる、トレーニングです。大潮 が水祭でした。 に乗せて漁にゆくんです。小学校五年生位から夏休みになると、 …その崎、子供は“てる訳ですか? う様に、なってしまったんです。ですから、他の問屋へ持って行 必ず舟に乗せられます。 れ、結局、元の問屋に持って行くから、買いたたか・孔ぼうだいに 雌日ですが……。 か(岸のところ)まで来ないんです。これでは、ろが糊げないの 背は、神社の祭りの中で舟競争があって、潮が低いと、ろがた l櫛さんの一脈を迦しての楽しみはどういうことです?人 で、大潮の時にやります。朝夕二回あるので、タカ、漁から帰っ 「準備の時は、子供も乗せて四一くれるんです。祭りの二、三日位前 します。だから、日にちは決っていないです。祭りの一週間か、 漁に連れてゆかれるんですが、普段、小遣も湯銭とたばこ銭位 にならないと、若衆が集まらないんで、若衆(十五歳から十八 夕方、若衆が帰って来る迫は乗っているんですが、ろ漕ぎ専門 で、子供の頃はそれでも、祭りには、菓子を買う位で、親がみん 他の船に乗り込みますと、割り当ての金が幾らといって、取っ の若衆が帰って来ると、『お前達、下りろ」といわれ、下ろされ 歳)がやってるんですが、木祭には乗せてもらえないんです。 て来るんですが、途中、籾に内緒で、とってしまうんですが、そ 「濫附、舟があがっているでしょう。そのお祭舟に乗って遊ぶの る訳です。競争ですからc」 「その代わり、舟を下ろすんだから手伝ってくれと、町内をどな も、楽しみの一つだったんですね。」 ●祭り その時の言葉は、『祭船おん出すだから、来てくらせI』と夕 って一周することを頼まれるんです。 「祭というのは、吾妻神社が七月十七日、八月十七日の十七の日 l簗の.子供達の期待や大人聯の準蝋は? う訳です。」 よく、親に叱られました。相場が決まっているので、ばれてしま れを方言で、[しっぽを切っちゃったc』というんですが、それで な取ってしまうんです。 漁師というのは、子供が大きくなると、その家では、子供を舟 人、子供を含めまして。 なってしまう訳です。」 八月の本牧の祭は、日時が決まっていませんでした。珪近はⅢ 談話・潮騒本牧北部地区172 くと、お前さんの所は、どこそこの問屋だから買いませんといわ 第3章 方にやる訳で、これをしないと船に乗せてくれないので、子供達 は、喜んでやる訳です。みんな、赤ふんです。 当瓜、朝からトレーニングする訳です。この練稗は、きついで す。 舟に乗れる様になると、お祭りの前に、|升待って仲間入りを するんですc」 「これは特例ですが、議争ですから十二、三歳でも乗れるんで す。試験ではありませんが、不断の健康状態や腕力とか強さで決 めるので、誰でもという訳ではありません。」 l若漿欄というの侭、あったんですか? 、いけなかったんです。女は椴を絶対、またげなかったんで 祭り船の品物など注、女に触らせなかったし、舟には乗って 古姿で先頭で歩きました。 らl・特雌な金織らの蝋噸どは、纐興の光の、企縢をついて手 「この頃は、男の祭りで、はだか祭りのようなものでしたか 娘達は○ 「そういうのではありませんが、ほぼあかしやでやったもんで つ す 。、 「これは、各人の舟にまつるんで、 舟の神様、猿田彦命です。 l船霊様は、祭っていましたか? の一船霊 すは 潮騒本校北部地区 173第3灘談話 正月には、乗り初めを二日にしました。先の丸いなた(舟なた) で、おそなえを削って、それにお米と木の根っ子をまるめて、酒 と一緒に船態様にあげるんです。| まだたくさんお話がありましょうが、この辺で。ありがとう 存じました。 第3章談話潮騒木牧南部地区17烈 鐘一節○本牧南部地区 円本牧さまざま C間門さまさま 背といってもはっきりしませんが、間門は四七軒しかなかった そこで作っていた作物は、ネギや大根、さつまいも、じゃがい のも作っていたこともあります。 もや、麦で、本牧荒井には西洋のアスパラガスなど、珍らしいも この辺の特色ある言葉としては、チャブ屋(小港・木牧にあっ た)、方言では、バカー(馬鹿のこと)、チッチッカー(小さいこ 虚災前、間門の持物のおかぐらさんがありました。間門は十一一 と)、じぶくる(子供が駄々を戸)ねる)、などがあります。 屋号がありますが、屋号があるのは木家筋で、分家は当主の愛 んです。 称や通称で呼ばれてました。明治の末までは、これなしでは通用 くなりました。木牧神社もその一つです。 天の氏子です。昔は祭のための船を持っていましたが、明治に無 外人がそのホテルに馬車で遊びに来ました。 建物でした。庭が広く、平屋建てでした。 震災前、間門ホテルがありました。外人のホテルで大変綺麗な の|間門ホテル のですね、たしか……。 ました。これは間門の古い人でないと知らないと思います。海軍 五、六十年も昔ですが、大砲が海に向けて、実際に据えてあり か今の大鳥中学の入口にも小さな芝居小屋があったと思います。 間門の人達は本牧の本牧亭や北方の松島座へ行きました。たし しませんでした。今でも若い人の間でも、その屋号や愛称でお瓦 しませんでした。 い通じています。 綿屋だったんで「綿コー」。かごやたったので「カンゴャ」、井 戸棚をやってたので「エドャ」、桟間神社に関係あって「セゲ様」 そのほかに「ヤギャ」これは山羊を飼っていたらしい……。それ と大工八五郎さんの「サブ」、荒井五郎さんの「桶屋」などです ね……。 間門の海では、アサリ、ノリ、夜はカニをカンテラをつけて捕 っていました。 こちらの畑は緑ケ丘、本牧、もとの競馬場などにありました。