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在野の教師・田中裕一の「総合学習」実践の軌跡から
在野の教師・田中裕一の「総合学習」実践の軌跡から ESDのエッセンスを考える 竹村景生 (附属中学校) It thinks about the essence of ESD from tracks of "Integrated study" practice of the teacher Yuichi Tanaka Kageki TAKEMURA (Junior High school attached to Nara University of Education) 要旨:「ESDとは何か?」「そのエッセンスとは何か?」「その実現のための基本的な方法論は何なのか?」と問われ たとき、私たちはその返答に窮してしまうことがある。それは、現場における各実践者のESDへの思いとして語られ 併存しているからではないだろうか。それがこれから推進しようとする教師にとってESDのわかりにくさにもなって いる。本稿ではそのESD的展開が、30年前に田中裕一という一人の教育実践者の中で「総合学習」として見事に体現 されていた事実に着目し、多岐にわたる田中の「総合学習」の記録(「水俣病の授業」、「地域環境カリキュラム」)を 手がかりにESD的エッセンスとしての「地域」を導きだす。 キーワード:ESD, 総合学習 Integrated study, 地域 Region, 環境教育 Environmental Education, 田中裕一 Yuichi Tanaka 1 .はじめに 田中裕一(1930−2003)は、戦後初めて、水俣病事 件の授業実践「日本の公害―水俣病の授業」(1968) を行った教師として、またその後の民間教育サークル として「公害と教育」研究会を立ち上げ、今日の環境 教育ならびに総合学習の草分け的存在として知られて いる。 本稿で田中裕一を取り上げる理由は、彼の教職初期 から熊本大学に於ける病床からのビデオ撮影による 「死の授業」までの生涯の教育実践の軌跡そのもの 【図 1 ESDのエッセンス】ESD-J作成 2003 が、今日展開されるESD(持続可能な開発のための教 育;持続発展教育とも国内的には呼称している)の理 全 3 冊(以下『実践の奇跡』と略す)で知ることがで 念に合致するものであると考えるからである。 きる。 図 1 に示すようにESDの実践はそのエッセンスを だ が「ESDと は 何 か?」「 そ の エ ッ セ ン ス と は 何 核として多岐にわたる表現形態をとる。本稿で紹介 か?」「その実現のための基本的な方法論は何なの する田中の実践はまさにオールラウンドといえるもの か?」と問われたとき、私たちはその返答に窮してし で、ここに提起されている教育活動(○○教育として まうのも事実である。教育現場における各実践者の思 図示)が学校の内外を問わず、実践の記録として残さ いの文脈から語られるものがESDのエッセンスとし れている。そのすべてをここで紹介することは本稿の て読み替えられ、それぞれの立場からのESDが展開さ 目的ではないが、その詳細は和井田清司著『戦後日本 れているのが実情である。たしかに、そのエッセンス の教育実践』ならびに和井田によって編纂された研究 の多少のゆらぎは現場実践においては保障されなけれ 資料集『戦後教育実践の奇跡~田中裕一リカバリー~』 ばならないだろうが、逆にそれがこれから推進しよう 39 竹村 景生 とする学校現場にとってESDのわかりにくさにもな の学びに「地域」を位置づける「総合学習」とは対照 っている。 的に、むしろ気付きやつながりといった自己の深化と しかし、その窮してしまうESD的展開が、30年前に しての学びに「地域」を位置づける山之内義一郎の 田中裕一という一人の教育実践者の中で見事に体現さ 「総合学習」との比較を行う。山之内実践の特徴は、 れている事実に、そして教育課程として学校現場で合 ESDの 3 つの柱(経済・環境・社会)の土台にある文 意形成がなされ展開されてきた事実に驚かされてしま 化といのちのつながりに注目した実践として、その地 う1)。本稿では、多岐にわたる田中の「総合学習」の 域へのホリスティックなアプローチ「学校の森」実践 2) 記録(主に実践前期「水俣病の授業」、実践後期「地 で知られている。また、学校現場でのESD実現のため 域環境カリキュラム」)やその著述・インタビューか の方法論、いうならば田中的手法も併行して探ってい ら今日的にも敷衍されるESD的エッセンスを、その きたい。なお、田中実践への論述の引用・資料は、主 「地域」概念に求め検討していく。また、田中実践の として研究資料『実践の奇跡(全 3 冊)』(和井田清司 近代民主主義の主体形成(近代的自我の確立)として 研究室)に拠っている。 【図 2 田中裕一略年譜】 40 在野の教師・田中裕一の「総合学習」実践の軌跡からESDのエッセンスを考える 図 2 は、田中裕一の実践の展開過程を和井田による 和井田は田中の実践の展開過程を 4 期に区分し、そ 「田中裕一略年譜」から改編作成したものである。田 の 3 つの転機を挙げている。 3 つの転機とは(Ⅰ)水 中の問題関心や一貫した姿勢はこれだけからも十分う 俣病授業実践(Ⅱ)第 2 回ヨーロッパ環境教育国際会 かがい知ることが出来る 。カテゴリー化が難しい内 議(1980)への参加(Ⅲ)退職期を指している。 容がその多数を占めている。それは、田中自身の根底 本稿が捉える展開過程は大きく 2 期に区切って田中 で「つながりあう」ものという信念が具体化され展開 実践を捉えている(前期;第 1 期+第 2 期、後期;第 してのことであるのは言うまでもない。その総合学習 3 期+第 4 期)。つまり、ヨーロッパ環境教育会議に への埋め込み方の一端については、資料に掲載した龍 参加して以降の田中実践の「地域環境カリキュラム」 南中の年間計画表を参照されたい。さらに、田中の社 の作成や「民藝の授業」「郷土教育」への質的な転換 会科教師としての教科実践はここに示された限りのも に注目する。田中には近代の未成熟という認識がある。 のではない。また、教科でいえば美術・音楽・英語な 近代的自我の確立を目標とする公害教育から人権総合 ど天草時代も含め他教科に及んでいて、彼のいう「マ 学習へと内発的に展開する前期実践を田中総合学習の スターキー」5)による教材選択や授業の構成は、決し 縦糸とすると、そこに環境権の確立を強く意識した環 て平板な内容や関心に終わらない実践であったことは 境正義や環境倫理の問題をはじめ、環境と文化の領域 想像に難くない。 から人間の生き方にも言及していく後期実践へのひろ 田中は、1930年に熊本市に生まれ、太平洋戦争の最 がりは田中総合学習の横糸といえる。この縦糸と横糸 中に多感な中学時代を送っている。戦後熊本大学哲学 によって田中の「総合学習」はその生涯を通して編ま 科に進み、1953年に熊本県の教員に就いている。田中 れていく。 の生涯を通しての実践の根底にはこの戦争体験がその 1972年のストックホルムでの「人間環境宣言」、 信念形成や教職倫理として大きく影を落としている。 1975年のベオグラード憲章ではクオリティー・オブ・ それは戦前から戦後へ代わる教育内容の大転換期に ライフという「生活の質」や「人間の幸福」が問われ 3) 「見てしまった」教師の豹変した姿への言及であり 、 出し、公害教育や人権総合学習に取り組んできた教師 また、田中の生涯を通した「総合学習」を、その多岐 田中は、持続的発展を目指す循環型社会の形成にこれ 6) にわたる実践記録(「田中裕一著作目録」 )から、そ までの「総合学習」に位置づけていこうという確信を のいくつかを図 1 を参考に分類し図 3 としてESD的 1980年の環境国際会議で得たのではないだろうか。田 な鳥瞰図を与えてみた。ただし、田中実践は平和・人 中の問題意識は、まさにESDの歴史と重なっていると 権・環境など相互に関連し、熊本大学の教員養成の現 いえる。社会科教師として人権・平和の問題を扱うだ 場への失望であり、彼自身が卒業論文の研究テーマを けに、ややもすると政治的な偏見で見られがちな前期 「ハイデガーにおける自由の問題」とし、その戦争責 田中実践が、後期の横糸をしてESDの捉える実践課題 任問題に取り組んだことからも伺える。この「転向」 として、より地球規模の空間的広がりと重厚感(いの という問題は、「人間は如何に生きるべきか」という ちの多様性の認識)をもったといえる。 問いかけとして、総合学習の形を取りながら最後の熊 それゆえ、田中の戦後教育(「総合学習」)の軌跡は、 本大学の病床からのビデオ映像による「死の授業」 私たちがESDの範例として、ESDが捉える教育の射程 (2003)まで、一貫して伏流水として流れているよう を検討し、十分認識しうる内容をもった実践と考える。 4) に思う7)。 【図 3 田中裕一「総合学習」の実践分類表】 41 竹村 景生 田中の実践のESD的エッセンスや方法論を次章以 現れがある。それは、取材の場で、取材対象である 降で探っていきたい。 相手(被害者)の「顔」(ここには田中が上原専禄の 「死者との連帯」への共感を示すように、戦死者や水 2 .田中の前期授業実践の軌跡 ~「日本の公害―水 俣病の死者や原爆犠牲者などの具体的な死者の「顔」 俣病の授業」~ を含んでいる)に自らの「顔」をさらけ出すことであ る。ここで大切なのは相手(他者)の前に立つ 1 人の まずは田中裕一という一人の教師を理解するにあた 人間としての田中の「顔」と教師田中の「顔」との二 って、田中自身が語っている「最高の学問や芸術の成 重性にある。目の前の事実(水俣病や土呂久鉱害等) 果をうすめることなく凝縮し、単純化する」姿勢は、 を人間田中が「知ってしまったこと」を、教師田中の 彼の生涯を通した実践のスタンスとして特筆される。 授業表現として「知るべきこと」へと昇華させ、 「知 また、田中実践の授業構成は「教えること学ぶことの ってしまったこと」を如何に共有化し、生徒個々が思 バランスが配慮されている。」(和井田)ことを特長と 想にまで高めていけるかを念頭に教材化を試み、授業 している 8)。そのことは、総合的な学習の時間で問題 として再構成していく。これが、生徒の「顔」に自ら となりがちな教師の立ち位置への指針となるだろう。 の「顔」を晒す表現者田中の教師倫理(田中が言う 田中の人権教育をはじめとした実践のスタンスは、 「プロの教師」)の責任の取り方として特徴づけられ 自らその現場に足を運び資料を自ら収集し、ありのま る。田中は自らの「顔」の二重性を抱えながら、己の まの事実を凝視することにある。それを和井田は「主 「顔」と「顔」の間に、また田中と生徒の相向かい合 題設定の鋭さと周到な教材研究の準備」と特徴づけて う「顔」と「顔」の間に、ポール・ヴァレリーの詩作 いる9)。さらに「田中は、水俣病の問題を身近な地域 の建築学的な構成としての「飽くなき厳密」11)の方法 問題として授業を構成したのではない。むしろ、地域 を以て立つのである。ややもすると、私たちは日常の から出発し、日本と世界を貫く課題を精選する問題と 多忙化の中でどちらかの「顔」または両方の「顔」を して扱おうとしたのである。」 と、「知ったこと」だ 曖昧にし見失いがちであるだけに、田中の実践的スタ けにとどまらないで、私たちに「つながる」問題(対 ンスは、ESDを展開していくにあたって私たち教師は 象を社会認識においても、科学的認識においてもみる) 反省的に学ぶべきものがある。しかし、田中の水俣病 として授業の中で学習課題として展開し、生徒と共に 事件への立ち方は、彼の「実践への配慮」からもうか 学びを創り上げていこうという姿勢が貫かれている。 がえるように、「生き方」という形で自ら丸ごと受け 田中が水俣病の授業実践を組むにあたり、水俣から 止めてそれに同行するスタンスとはまた別のものであ 問いかけられたこと、そしてその水俣(地域、水俣病、 った12)。 患者・死者)からの問いに応答すること、その対話の 公害教育は70年代初頭に、まず四日市の子どもたち 中で一体何が彼の中に起こったのであろうか。後日田 に現れた喘息問題から起こった。そして水俣病が問い 中は、「水俣病の授業になぜ取り組んだのですか?」 かけられたのである。しかし、地元の教師達にはあま と問いかけられて、「それは、知ってしまったからで りにも身近すぎる重たい課題であり、またその地域性 す。」という返事を返している。おそらく、田中の「知 故に当時熊本教祖の教文部長をしていた田中が引き受 ってしまった」衝撃の背景には、かつて教師達が教壇 けたのであった。もちろん、社会科教師としての田中 で軍国教育を実践し、終戦後にその実践へのためらい 自身の強い関心や責任感も伏線としてあった。他の公 や反省もなく民主主義を標榜した教育者として転向し 害教育の実践もそうであるように、その始まりは被害 た姿を目の当たりにしてしまった衝撃を田中に呼び戻 者である目の前の子どもたちが生活する地域の教師の したであろう事は想像できる。そして、「知らされな 実践から立ち上がってくる。水俣で教えていない田中 かったこと」「知らなかったこと」による戦争への道 は、それだけに自らが全身で患者と向き合い、生の資 に無力であった時代の教育への憤りと反省がある。田 料を得るべく現地へ足繁く通ったのである。その意味 中をそのような社会正義と反省に駆りたてたものは、 で、田中の言う「知ってしまったから」という言葉 近代化のネガとして現れてきた公害事件であり、水俣 は、その地域に立った教師が問いかけられ応答してい 病であり、土呂久鉱害であり、それがどうして今私た った、共通した実践の身体性と意識を持つものである。 ちの目の前に現れて「なぜそうなるか?」が問われる それでは田中が行った「水俣病の授業」について、 こともなく、「どう解決すればいいのか?」という展 その発言から「総合学習」に位置づけられていく実践 望が子どもたちに示されない普段の学校教育が田中の のプロセスを以下にたどっていくことにする。(*は 周りにあったからである。目の前の事実に「無関心」 筆者のコメント) を装うことは、田中にとって正義を示せない「加害者」 実践への配慮 としての教師の姿を生徒の前に晒すことに等しかった 一つは「日本の公害-水俣病」としたように、水俣 であろう。田中の実践を貫いている姿勢に、倫理観の 病が、特定地域の特殊現象ではないという普遍的な意 10) 42 在野の教師・田中裕一の「総合学習」実践の軌跡からESDのエッセンスを考える 名高き1959年12月30日の「見舞金契約書」と、同年10 月 7 日発病の猫400号実験との日付の対比でした。チ ッソが猫実験でみずからの責任を知りながら、それを かくして「原因がわかっても新たな補償を要求しな い」と被害者を切り捨てたことを、日付の対比で理解 したとき、生徒のいきどおりは大きく、その 4 年後に 熊本地裁水俣病判決(73年 3 月)がこの契約を「公序 良俗違反」と判決した意味をさきどりしていくので す。また、このチッソの非道が、企業利潤を憲法25条 【図 4 水俣病の授業 指導案 田中による】 の生存権や人間の尊厳に優先させた資本の論理から起 こることを理解したのです。(『実践の奇跡』第 1 集 義を強調したかったということである。もとより、そ p.153.「総合としての校外教育」1983) れはかつて上原専禄先生が指摘されたように、世界ー *田中の方法論の原型は、斉藤喜博の「最高水準の単 日本-地域という課題把握の意識の中で占める地域そ 純化」(和井田)や上原専禄の「地域論」やピカソ のものが、いかに大きな課題を凝縮しているかという の「決定的単純化」(和井田)にも求められるが、 原理を示すことであった。・・・いま一つは、・・・「沖縄・ 田中自身の生涯を通した教育を通した表現活動の根 水俣病を教える」のではなく、「沖縄・水俣病で教え 底には、以下にその一端を示したが、ヴァレリーか らの影響を強く感じさせる。 る」という強調が必要なのだが、そのことが公式的な 性急さで受け取られたのでは、冷静で即物的な沖縄や 「今この万遍万能の人も、また、まず第一にただ 水俣病の確固たる認識と、そこからつき上げてくる激 観ることからはじめ、そうしていつもその観てきた しい民族の人間的怒りや変革のエネルギーを、観念的 ものを身一杯に染みこませて帰ってくるのである。」 (『方法』p.27.) な教育の彼方に弱めてしまう恐れもあった。だから私 は、「教育におけるレアリズムとは何か」という課題 「芸術の作品は、その今われわれの見ているもの についても考えてみた。(『実践の奇跡』第 1 集p.116. がこれはわれわれの今までに見たこともなかったも 「水俣病授業研究から学ぶもの」1969) のだということをきっと教えてくれるものでありた *田中の特殊から普遍へ、ローカルからグローバルへ いものである。深い教育というものは、初手の教育 の帰納的なアプローチ法は、ESDのそれに通じる。 を解していくことにある。」(『方法』p.29.のメモ) 教育のレアリズムは「地域」を凝視した先に現れて 「一切万物が不規則であるか、それともすべてが 規則的であるとしたら、思考などはいらぬこと、な くるという主張に注目したい。 事前学習 ぜなら、思考というものは無秩序から秩序へ移る企 「資料をずっと集めて、新聞記事を貼って集めてで てにほかならないからであり、それにつけても思考 すね。もう、会社の動き、原因究明の動き、市民の動 には、この無秩序という誘因―それにまた、秩序の き、患者の動き、行政・企業の動き、そういうのをグ 型というものが必要なわけである。(『方法』p.38.) ループ別にまとめて、教室に貼って、生徒たちに事前 田中自身も、「感動を叩きつけるのでなく」「知的 学習をさせたんですね。各グループごとに好みのテー に再構成して」というとき、このレオナルドの「飽 マを決めさせて、レポートを書かせたんです。事前学 くなき厳密」とヴァレリーの詩作の力学的・建築学 習として、レディネスの学習をしたんです。大体貼っ 的な感動の再構成の技法による思想性の高揚と持続 てあるから、お互い読むでしょう。自分のグループの を想定していると披瀝している13)。ESDの学校現場 を読み込めば、隣のグループのも読み込みやすくなり での実践の中で大切にされるべき事は、その内容が ますから。だから、それで全般の動きを知ったんです 広範囲に及ぶことから、「生徒に何を教え、どのよ ね。」(『実践の奇跡』第 1 集p.45.) うに学ばせるのか」という主題設定とその教材研究 *田中は、自身の感動を生のままぶつけることはしな にある。そのために、教師は「いかなる意識のもと い。それは、生のままの感動は消えやすいからだと で、どのような方法論で教材を選び、授業を組み立 いう。感動を再構成した教材が、子どもたちの中で てるのか」という授業構造への向き合い方が不断に 思想化され残っていく。「飽くなき厳密」のための 問われてくる14)。 再構成という建築学的な構成のために、田中は資料 構成理由 を徹底的に揃えるのだという。 わたしはここで「水俣病」を授業したかったのでな 授業内容と展開 く人間の幸福とはなにか、子どもたちの未来とはなに 複雑な水俣病の本質をうすめずに、濃縮しつつ単純 か、豊かさとはなにか、住民の自治とはなにか、真の 化する教材を精選し、たどりついたのは、今日では悪 医療や行政とはなにか、人間とはなにか・・・という、 43 竹村 景生 ひとが生きるという意味と権利について、問いと答え このように「わが内なる水俣病」を語る田中には、 を無限に生徒と学び続けなければならなかったのだ。 地域とは①具体的な内実(リアリティ)である。②死 (『実践の奇跡』第 1 集p.186.「社会認識と環境教育」) 者との共闘という歴史性(記憶)を現在に持つ場所で *この問いは田中自身の戦中体験からくる教育不信に ある。③創造的主体として土着し、土語で語られる場 根ざしたものといえるが、それ以上に生徒の前に立 所として、また自身の存在の証明を問い返される場所 つ教師として、社会的関係性の中にある人間として として捉えられているのではないだろうか。 の己の存在を厳しく内省することによって導き出さ 3 .田中の後期教育実践 れた問いとも言える。それゆえに、田中は、「子ど もを考える、人間を考える、基本的人権を考える」 視点がはっきり定まってきたと述べている。総合的 第 2 回ヨーロッパ環境教育国際会議(1980)への参 な学習の時間でのテーマとして、たとえば「環境」 加後の田中実践の問題意識は、「子ども達から遊ぶ時 が取り上げられる。そこでは環境学習を通した「学 間と場所と仲間と人間的な共同体と自然を奪った大人 び方を学ぶ」といった方法知の獲得が言われたりす 達」と述べているように、子どもたちによる生活圏の るが、田中の構成理由は「方法知」からのESD的乗 創造を意識したものへと移っていく。それは「持続可 り越えの展望を与えてくれる。 能性をテーマにするなら、校舎の空間、教師と生徒と 以上の「水俣病の授業」の実践のプロセスから、 の関係性、ひいては我々大人の生き様までをも問われ 次の「総合学習」の方法論が導かれてくるのである。 るようになる」(ティーズディール)17)という自己の精 教授への方法論 神的な深化やつながり感といったような、地域に根ざ (1)現象羅列でなく、地域から出発し、日本や世界に したサスティナブルな暮らしを創造していくという かかわる構造を持つ典型を精選する。(2)感動的な素 文化的な深まりへの問題意識から来るものと考えられ 材を生のままでなく、冷静に再構成し、入手可能な る。前期田中実践の特徴でもあった、より具体的に地 最高の学問や芸術の成果を極度に単純化すること。 域の環境権や生存権に個々人がその責任を負い創造的 (希釈より濃縮)(3)つねにトータルな構造を読みと にアクセスしていく持続可能な社会に向けた住民自治 り、疎外されている社会的弱者の基本的人権を原点と 力の形成を想定した「総合学習」から発展継承されて して配慮すること。(4)つねに自然と社会の現場で学 いったと言える。そこには、レイチェル・カーソンか び、民衆とともにリアリズムの視点を失わぬよう学ぶ らの影響や、五家荘訪問での「気づき」が、その転換 こと。(5)子どもたちの未来への自立を保障するため の契機になったのではないかと推察する18)。 に、その学習権・発達権をじゅうぶん尊重すること。 後期田中実践を特色づけるものに、「地域環境教育 慎重と臆病、科学的配慮と政治的配慮を峻別すること、 プログラム」がある。これは、今日的な水俣の吉本哲 教師のことをあとに、子どものことを最優先に考慮す 朗「地元学」の方法論である「あるもの探し」や「地 ることなど、いうまでもない。(『実践の奇跡』第 1 集 域再生のための住民決定」、それに「インタープリテ p.186.「社会認識と環境教育」) ーション」の技法など似通ったところも多く、「参加 次に、この前期田中実践から後期実践のコアへと引 と住民自治」を目指すプログラムである。共に、地域 き継がれていった「地域」概念についてみていきた で住まうこと、生きることの豊かさ(QOL)がテー い。田中は水俣に見た「地域」観について次のように マになる。 語っている 。 このプログラムの一貫として、生徒会の取り組み 1 )分析された「地域」をいくら総合しても、それは (丸刈り問題)、校舎デザイン、雑草調査、校内緑化 現実に存在し、その中で民衆が喜び、苦悩している地 計画、民藝の授業などの実践が生まれてくる。 域とはどうしても別物なのだ。 ・・・地域の水々しさ、 ここでは、後期実践を特徴づけている「民芸の授業」 苦々しさ、切なさ、苦悩の表明が消える形では地域を についてふれておきたい。田中のこれまでの人権教育 把握しえないのである。地域の実体を全体として統一 を柱としてきた実践の文脈からは、「なぜ民藝なのか」 的にとらえるということは、決して診断、分析、総合、 はある意味で意外な展開に思われる。この民藝につい 処方というような単層のものでないことを、とくに水 て田中は多くの著述や実践の記録を残している。今で 俣病の被害者とともに訴えたいのである。 こそスローライフや低炭素社会が私たちの関心とな 2 )地域を空間的にのみ理解するのでなく、時間的、 り、若者達の間でもライフスタイルとしての「農志向」 歴史的に理解することが必要なのではないか。 や「脱車化」や「無印良品」がひとつのムーブメント 3 )地域の中の私という主体は、何をなしうるのか、 になっているが、田中の「良い仕事は美しい生活と文 15) 何をなしえたのか、という問いかけに答えることなく 化を生む-民藝品を考える」(1983)の授業はちょう 16) (「原罪」 としての水俣病)、地域研究を推敲しえな ど日本がバブル景気のただ中にあった。消費の加熱 いのではないか。 (経済原理主義)は、「生活の豊かさ」のすべてをお 44 在野の教師・田中裕一の「総合学習」実践の軌跡からESDのエッセンスを考える 金で買えるという錯覚(物神化・私有意識)に陥って 直しの運動だとも。同じ事は田中自身も「『子育て』 いたと言える。近代的な自我の確立以前に、私たちが と『世なおし』の統一」として総合学習を次のように 住む地域の周りの自然環境(地上げやリゾート開発) 語っている。 や共同体が壊されてゆき、逆にエゴに人間は支配され、 「今必要なことは、総合学習はかくあるべきだとい そして子どもたちもこの消費社会を当たり前のように う概念を呈示することよりも、各地の総合学習の創意 受け入れ飲み込まれていく(荒れる教室)。田中の方 工夫に富んだ努力と実践の成果を、地域の人々の生き 法論はそのような時代の流れを敏感に批判的にかつ創 死にを籠めた、かぎりなくゆたかな民衆の遺産として 造的に斬り込んでいく。ここでの田中の問いは、「私 集積し、破局にいたろうとする未来を教育の力によっ たちの豊かさは、本当に真の豊かさと言えるものなの て変えようとする、地道でしかも歴史的運動としてと だろうか?」というものである。では、人間が見えな らえることでしょう。つまり、総合学習は、教科の寄 い時代に真の人間を見出すもの、本物の価値とはどの せ集めの『合科』ではなく、子育てが成功しなければ ようなものなのか?そこに民藝を考える意味がうまれ 世なおしができず、世なおしがなければ子が育たない てくる。レジュメ「『美味求真』の世界」(2000)の中 という、古典的ではありますが現代というのっぴきな に真の「良きもの・善きもの」(goods)について田 らない状況で強く意識されはじめた、人間性回復の科 中は以下の点を挙げている19)。 学的な教育運動といえるでしょう。21) (波線筆者) (1)民衆の、真に健康な生活の役立ち 田中総合学習の到達点といえる「共生する共同体」 (2)丈夫で、安全で、使いやすく は、ESDの実践の中で語られる「Think globally Act (3)働くことによって内面から輝き出す美しさと豊 locally」という、価値形成を以て達成される地域観で かさを私達に与えてくれるものである。 ある。 それ故にそのものは 今日学校現場で展開されている「総合的な学習の時 (4)人間と人間の関係を修復し(共同体の再生) 間」のねらいは、「自ら課題を見つけ、自ら学び、自 (5)人間と自然の関係を修復し(持続的発展) ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資 (6)大人と子どものとの関係を修復(世代間の平等) 質や能力を育てること」「学び方やものの考え方を身 その中の 1 つに民藝が教材として選ばれていく。 に付け、問題の解決や探究活動に主体的、創造的に取 「『あたりまえ』ということは、すなわちあたりまえの り組む態度を育て、自己の生き方を考えることができ ことである。」と、授業で本物の井戸茶碗を体感した るようにすること」との2点が記されている。その具 子どもたちに、「あたりまえであることのすばらしさ」 体化として、「①課題発見②情報活用能力③まとめる とは何か?を問いかけていく。「火と土と釉薬という 力④発表能力⑤学び方を学ぶ⑥ものの考え方を育て 自然に依拠しながら熟達した職人の業が、地位も、名 る。がある。その学習内容として「学習活動について 誉も、権力も、利欲も、一切の作為から解脱し、ただ は、学校の実態に応じて、例えば国際理解、情報、環境、 ひたすらに民衆の日常生活の茶碗を作ったという、も 福祉・健康などの横断的・総合的な課題についての学 うそれ以上何を付け加えることも、何を差し引くこと 習活動、児童の興味・関心に基づく課題についての学 もできないという、そして当時の身分の低い作者の銘 習活動、地域の人々の暮らし、伝統と文化など地域や もないという、その上この圧倒的な存在感は何だろう。 学校の特色に応じた課題に応じた学習を行うこと。」 平凡のすばらしさの前で、あらゆるものが色褪せる。 として記され、特に今回の改訂では「地域の人々の暮 ・・・平凡の価値は『一隅を照らす者これ国宝なり』に らし、伝統と文化など地域や学校の特色に応じた課題」 尽きているであろう。」と、井戸茶碗との対話の中で、 が加わり、ESDの文化とのつながり、たとえば地域の 自ずからの答が子どもたちから導かれていく。ここか 伝統的な祭事や生活習慣、産業、経済への関心など地 ら、「環境を想うシステムの再構築」を地域に打ち立 域共同体への関わりや風土への言及がみられるように てていく、「共生する共同体」が後期到達点として語 なった。ただ、そのねらいや方法論から伺えることは、 られていくのである。そして、田中は、「人はすべて、 地域を通して「学び方を学ぶ」と言うことに主眼が置 かならず死ぬ。」だから「人生は 1 回限りで、生き直 かれ、課題解決に向けた方法知の獲得に力点が移され しがきかない。」しかし、「人は、自分の生き方を選ぶ ている。また、「自分の地域のよさに気付き、地域へ ことができる。」と、絶望ではなく人間への信頼をレ の誇りと愛着を育んでいく。」という自分の中の実感 ジュメ「やさしい哲学Ⅱ」 (1998)の中で語り20)、2003 レベルにとどまっている。そして、田中実践に比較し 年に「死の授業」へと昇華されていくのである。 ていえば、「総合的な学習」は顔の見える他者との真 の対話と協働や連帯を組織した自治の道筋を示すもの 4 .田中「総合学習」におけるESDのエッセンス には届いていないと言える。 「われわれが、この地域・この自然・この現実に生 きている意味をいま一度見なおし、考えなおして、水 ESDは価値の教育だといわれる。そして、それは世 45 竹村 景生 俣の原点からわれわれの地域へ、われわれの地域から あるいは流通の仕方、生産のあり方とはどういうもの 水俣をはじめ各地の実践へ、相互に交流し、学びあう か。」25)が見えてくる世界だと述べている。私は、地域 必要があるのです。・・・歴史や自然や人間を大切に がESDのエッセンスとして位置づけられるには、「生 する教育はまた、科学的で永続的な発展やトータルな 命の結び合いが見える世界を回復する」場、すなわ 構造と、未来への見通しや連帯をもった、基本的人権 ち、「人間だけではなくて、自然も含めて生命が連帯 を中核とする豊かな教育なのです。しかも、私たちは、 しあう。」26)場でなければならいと考える。 地域の足もとを掘ることによって無限にゆたかに湧 つまり、ESDは、「総合的な学習」が発達段階や公 き出る泉をこそ総合学習の成果と考えたいのです。」 教育という名の「中立性」の下に裁断した、自治意識 し、それはそのまま、「現在や未来にかかわる市民 という政治的な側面(近代的自我の確立)と、いのち 権の保障や住民自治へのオリエンテーションともなる を見つめる精神的な側面(自己の深化)を回復する取 でしょう。」23)(波線筆者)につながっていく。地域を り組みであり、その両方の課題の結実を目指し地域か 基盤とした「世なおし」「子育て」を通した住民自治 ら対話を起こしていく共創の教育実践であると考える。 22) を創造していくための、オリエンテーションを未来の 5 .さいごに 地域を担う子どもたちの教育に据えたところに田中の 「総合学習」は位置づけられている。私はこの根拠地 としての「地域」に、持続可能な社会の再構築を目論 田中実践のESDのエッセンスとは何かを考察して む田中のESDのエッセンスをみるのである。 きたが、私はそこに「地域」をあえて置きたいと思う。 ところで、ESDの 3 つの領域である「社会」 「環境」 それは、人間は「いかに生きるべきか?」という、近 「経済」の基底となる次元としての文化に着目すると 代的自我がニヒリズムに陥らないために、その根源的 き、「精神・こころといった人間の内面的な側面はど な問いかけに具体的に答えていこうとする哲学徒田中 24) のように位置づけられるのか」 が問題となってくる。 の正義感や倫理観に根ざした誠実な戦後を生きた教師 この文化のいのちにつながっていくホリスティックな の応答であるからである。 ESDの日本的展開として山之内義一郎の「学校の森」 田中の実践をその生涯を通して眺めてみたときに、 (新潟県長岡市川崎小学校)の実践がある。山之内は そこには「水俣病の授業」がそのすべての基調になっ 奇しくも田中とまったく同年代(1930年生れ)であ ていたように思う。27)それは、田中自身が絶えずヴァ る。学校の中に縄文の古層にあった地域の潜在植生を レリー理解を超えていき、ヴァレリーつまりはダ・ヴ 再現するのだが、この森のあらわれを山之内は「地域 ィンチの精神を創造的に生き通したからではないだろ を支えている潜在的な自然力」と呼び、そこから「地 うか。「レオナルド・ダ・ヴィンチの方法」の訳者あ 域のいのち」に結びついた学習活動を開発(共創) とがきの中で山田がヴァレリーの精神を次のように解 し、「総合学習」をコアとした教育課程は「学校の森」 説しているところに、田中その人を見る思いがするの とともに展開されていく。「学校の森」は、森が持つ である。 場のスピリチュアルな次元と共に、地域共同体が解体 ・・・「この人はその建物をどれもみな幾度も立て直 した後に「鎮守の森」としての役割を担い、小学校区 してみる。」という文句が思い出され、さては、こう の再生を企図していく。山之内実践は、「感じること」 して生まれるレオナルドの発明や創造の〈方法〉はや を土台として「いのち」へのつながり感覚を育て、子 はりヴァレリー自身の中にもあったのか、または採り 供たちの精神性(魂)の成長を促していく。 入れられたのかと、ふと又、「かの出直しによる推理 この山之内の「学校の森」の「精神・こころ」にあ 法(数学的帰納法)」、「私の行為を自覚をもって模す たるのが、田中の「民藝」であるが、私には何か実践 るということは私の最初の行為に可能だった適応の仕 上の隔たりを感じさせる。その違和感はどこから来る 方のありたけ」を予見させ、「個々において見ようと のだろうか。ここでは、「時間」の認識差を指摘して していた事象」を「全一体」として観じ、「それらの おきたい。 事象の継起の結果を想像できるまでに導く私のいう感 田中の社会を捉える「時間」は、歴史を形成する時 能」こそ「およそ全一普遍なることの前提条件」との 間であり、歴史的な時間は時に過去を想起し死者と連 べていることとも思い合わせてみるのであります28)。 帯する「過去」と「現在」と「未来」を貫いていく時 田中の「地域」への気付きとは、彼が授業実践で取 間である。しかし、山之内が文化を基調とする地域の り上げ教材としてきた水俣、土呂久、長崎、風成、荒 時間は、物語的な認識を要求する循環的な時間である。 尾・・・という土地に、人間の尊厳や当たり前の暮ら 内山節は地域とは「生命と生命が結ばれながら形成 しが、近代の暴力によって破壊されても逃れられずに されている世界、この部分が見える社会にどうやって 地域に縛りつけられている、またはその地域で生き抜 変えていくのか。あるいは、生命の結びあいが社会の くしかない人間たちの現実に飛び込み、「知ってしま 基本だということがはっきりするような労働の仕方、 った」ことを原点とする。それは「悲」や「共苦」と 46 在野の教師・田中裕一の「総合学習」実践の軌跡からESDのエッセンスを考える いうには人間の尊厳や人権への暴力や差別・環境破壊 8)9)10)『実践の奇跡』第 1 集 和井田論文 p.41. に対する「怒り」に近いものである。田中の総合学習 11)ポール・ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチ の「学力観」とは、現実を凝視し己のこころの底に生 の方法』(本文中も含め以下『方法』と略す。) 起する「怒り」や「違和感」の本質をつかみ取り科学 pp.12−13.「私はこの人間には森羅万象が測量標 的な態度で明らかにし、その状況からの解放とそこで になっていることを思い浮かべる。この人が常に の近代民主主義の完成と自我構築へと導く知と力を 想うのは万有であり、また厳密ということである。 「学び取る」力である29)。ESDは先進国のためだけで それは存在するものの錯雑する中に入りくるもの なく、この地球上で途上国と共に生きていくために必 の何一つ、たとえ一木一草たりとも、忘れぬよう 要な教育である。そこに田中の「総合学習」が捉える に出来ている人間である。この人は、万人のもの 「地域」が、ESDのエッセンスとして輝きを放つので たる物の奥底へと降りてゆき、そこに遠く分け入 ある。 り、そして自分を視る。この人は、自然の習性、 自然の構造に手を触れ、これをあちらからもこち 註 らからもいじくっているうちに、ふとひとりにな 1 )和井田清司編著「戦後日本の教育実践 リーディ って組み立てたり、拾いあげたり、人を感動させ たりという具合である。・・・私は、こういう人 ングス・田中裕一」学文社、2010 間が、この世界の生なる全体とその密度の中をど 通史的には「第Ⅰ部 教師田中裕一の戦後史」を う動いているものか、その足どりをたどり、そこ 参照されたい。 2 )山之内義一郎「森をつくった校長」春秋社、2001 では自然をいかにも手訓づけて、これを模しては 3 )(1)pp.222−228. これに触れ、やがてはついに自然の中にないもの 4 )(1)pp.223-233. を考え出してみようという難題にまでも立ち向か 5 )田中は「環境教育とは、未来に生きる若者たちに、 うところを見ようというのである。」 ([註]厳密; 厳密一徹―レオナルドの座右銘) 基礎的には人間的に生きるマスター・キーを学び とる学習・・・」といった使い方をしている。田 12)田中はインタビューの中で次のように述べてい 中は病床でのインタビューでマスターキーについ る。「少し水俣の先生たちと私の違うところなん て次のように語っている。「説明するときにこれ ですよ。水俣の人たちは水俣病患者を助けるって は便利だなって、まあ社会科学的方法論といって 言うことを盛ん言うんですね。当然必要なことな しまえば、それっきりですけれどもね。なんかね んですけどね。しかし教師であれば教師の仕事が 部屋の扉を開けるいろんな専門家の扉を開けるん あるだろうと思うんですね。・・・その最大公約数 だけど、その専門の鍵では開かない鍵が、部屋が をやっぱり、原理・原則まで掘り下げなきゃいけ たくさんあるんですよ。すべての部屋に共通して ない。いわゆる地下水脈まで掘り下げた時に、そ 開く、共通概念みたいなものが・・・。」 の地下水脈を単純化することが教師の仕事だと思 うんですね。・・・だから、そういう問題が日本の 和井田は、上原専禄の地域論もマスターキーの一 重化学工業っていうんですかね、石油化学工場な つとして指摘している。 6 )『戦後教育実践の奇跡~田中裕一リカバリー~』 んかそういうものが背後にあるっていうことをき (第 1 集)p.273. 田中裕一書簡より「戦前戦後 ちんと見定めないと、水俣病の解決というのは出 来ないですね。」『実践の奇跡』第 2 集 p.35. の『教育体験』に深い絶望感を感じ、それらを反 面教師として今日に至りました。戦時中の帝国主 13)『実践の奇跡』第 1 集 p.64. 義下の教育政策に忠実に対応していく教師達と、 14)『実践の奇跡』第 2 集 p.41. 戦後無惨に転向していく教師たちの群像と、その 15)16)『実践の奇跡』第1集 p.252. 犠牲となって戦場に消えた生徒たち、そして危う 17)永田佳之・吉田敦彦編『持続可能な教育と文』ホ くそうなりかけた私たちとの亀裂は、かなり決定 リスティック教育ライブラリー8、2008、G・R・ 的なものでした。」 ボブ・ティーズディール「ESDへのホリスティッ ク・アプローチ」p.32. 7)(『実践の奇跡』第1集p.37.「私の取り組んできた ものは教育という縦割りのものではなくて、人間 18)田中も後述する山之内義一郎もレイチェル・カー というものを追究していったという。人間という ソンの「センス・オブ・ワンダー」を引用する。 ものをいかにして理解していくかという過程だっ 田中は、そこに詩人の感性と科学的な認識の融合 たんですよね。そしてその過程に、例えば、水俣 を説き、山之内は同じく詩人の感性と物語的構成 の授業があり、古代史の授業があり、美術や音楽 を説くのであるが、それは田中の詩人の生理の捉 の授業がありますね。何か一つのものをとりあげ えの差異と考える。たとえば、「石牟礼さん良い て、 一つの項を極めるということはないんですよ。 」 んだけど、あの人詩人ですから、詩人では本質的 47 竹村 景生 な解決は非常に難しい。だから、やはり政治に対 チ)認識の発展が、新しい自立や自己変革が感動を以 しては政治で戦わないといけないところがあるで て体得されるもの。また、新しい行動のバネにな しょう。そのへんなんですよ。どうしても、患者 るもの。 さんに体験聞かなければいけないんだけど、私的 リ)大人が訳知り顔に生徒を強制的に引きずり廻すの な体験をいかにその、原理原則化するかっていう ではなく、子供自身の発展を、経験と知識を積ん ですね、それがないと教育に一般化できない。」 だ大人が、「自立への介助」としてかかわるもの。 というように、田中にはレオナルド・ダ・ヴィン ヌ)人間の一生において、学校教育や入試対策として チの「厳密一徹」(田中の言う「あくなき厳密」) ではなく、終生の課題としてマスターキーとなる に感銘を受けた詩人ポール・ヴァレリーの豊かな もの。 感性と表現としての「建築学的詩作技法」を詩人 つまり、以上の「学力」形成の実現を担う中核として に見出しているのである。五家荘訪問について 「総合学習」が教育課程に位置づけられている。また、 は、『実践の奇跡』第 2 集pp.286−289.参照。「五 その実践と実現の(協働でつくりあげていく)場が田 家荘」連載最終回に「不滅の五家荘を大切に」と 中の「地域」であるといえる。他方、山之内の「学力」 訴えて結んでいる田中にとって五家荘は、「身も は次のように捉えられている。 心も疲れ果てたとき、私達が黙って森の中に座っ “行為と気づきの「つながり」が連続し、それによ ているだけで、見失っていた大切な原点に還るの って作り上げられてくる意味とその自覚、そして様々 だ。」と言うほど、「人生の意味が変わる程の重大 な物事がつながりの中で配置され、自分がそこに主人 な原体験」(田中)となる実存的深化であったと 公として位置づけられるーその総体が「物語」なの いえる。田中の「実存主義」についての言及は、 だ。その「物語」づくりこそが、自己発見であり、「学 『実践の奇跡』第 2 集pp.283−285.「J.Pサルトル ぶ喜び」の本質である。” そのためにも、本質的な「喜 氏のこと」参照。 びの自己発見」に導かれる「問い」を持たせることが 19)『実践の奇跡』第 3 集 p.199. 学びの中で大切にされる。「自己=生きがいの発見」 20)『実践の奇跡』第 3 集 p.207. となる「生きることの価値」を自ら実感できる場とし 21)『実践の奇跡』第 1 集 p.151. て、「総合学習」が教育課程に位置づけられている。 22)『実践の奇跡』第 1 集 p.154. このとき山之内の「地域」は、気づき=発見に導かれ、 23)『実践の奇跡』第 1 集 p.149. つながり、生き通す、身体性を持ったものとして現れ、 24)(17)吉田敦彦 p.5. 再構成される。 それが、 山之内の言う「共創」といえる。 25)内山節『未来についての想像力』 参考文献 26)(25)p.44. 27)「水俣病」とは環境汚染によって食物連鎖を通じ て起こった有機水銀中毒事件であること、住民に 1 )吉田敦彦『ブーバー対話論とホリスティック教 よる「水俣」の病名変更運動に見る二重の差別性 育』勁草書房 2007 があることを、原田正純は『水俣学研究序説』(藤 2 )吉田敦彦『ホリスティック教育論』日本評論社 原書店. 2004)で指摘している。「水俣病の授業」 1999 について何度も解釈を深め直す田中にとって、 3 )岩岡中正『ロマン主義から石牟礼道子へ』木鐸社 「水俣病」は彼の内発的な「総合学習」実践のコ 2007 アとなっているといえる。 4 )今井重孝・佐川通『学校に森をつくろう!』ホリ 28)(11)『方法』p.236. スティック教育ライブラリー 7 2007 29)「学力」について田中は次のように述べている。 5 )佐藤義之『物語とレヴィナスの「顔」』晃洋書房 イ)時代国家によって変化しないもの。 2004 ロ)国際的に交流可能なもの(地域・日本・国際社会 に共通する課題)。 ハ)民衆の生活体系に根ざすもの。 ニ)過去の反省によって未来社会を目指すもの。 ホ)真の学問体系に根ざすもの、批判精神に根ざすも の。 ヘ)教科領域の独自性と、それらの相関連する総合性 を重視するもの。 ト)生徒の基本的人権、認識や成長の発展を重視した もの。 48 在野の教師・田中裕一の「総合学習」実践の軌跡からESDのエッセンスを考える 【資料 地域教育実践資料 『実践の奇跡』第 1 集より p.288. 龍南大学】 49