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「子どものための演劇」 とは何か?
- 愛知教育大学 幼児教育研究 第13号 「子どものための演劇」とは何か? 一お伽芝居の誕生とその意義− 愛知教育大学非常勤講師 南 元子 はじめに 一般に「児童劇」[児童演劇]と言うとき、「子どもを観客にする劇」と「子ども自身が演じる劇」 との2つを含めて総称することが多い。日本で初めて子どものための演劇が誕生したのは、1903 (明 治36)年の川上音二郎・貞奴による「お伽芝居」であるが、この時のお伽芝居は「子どもを観客とす る劇」を指していた。 19年後の1922 (大正11)年に坪内逍遥が「児童劇」という名前を初めて世に出 した時は、「子ども自身が演じる劇」を指していた。しかし現在では「児童劇・児童演劇」と言えば、 「子どもを観客にする演劇」を指すことが一般的であろう。 この「子どもを観客とする演劇」に関する文献としては、最も古いもので、川上音二郎とともに「お 伽芝居」を始めた巌谷小波による1927 (:大正16)年の雑誌「児童劇の沿革(1)(2)」(『歌舞伎研究』)1 があり、「お伽芝居」の始まりから坪内逍遥の児童劇運動、小寿々座の童話劇公演までがまとめられ ている。書物としては、演劇史研究者による秋庭太郎『日本新演劇史』2、河竹繁俊『新劇運動の黎明 期』3をはじめ、最近では大笹吉雄『日本現代演劇史』全8巻4がある。これらは演劇史全体の流れの 中に児童演劇を位置づけたものである。児童演劇を論じた演劇史については冨田博之による研究があ げられ、冨田の「学校劇運動史」(『教育文化史体系V』)5、『日本児童演劇史』6、『日本演劇教育史』7 の3部は大変重要である。 さて本論文においては、ドイツで見聞した子どものための演劇を日本で始めたいと考えていた巌谷 小波と、欧米の演劇を観てきた川上音二郎・貞奴とが協力をし、川上一座が1903 (明治36)年に東京 本郷座で上演した、日本初の子どものための芝居である「お伽芝居」について考察する。このお伽芝 居は、巌谷小波、川上音二郎・貞奴、久留島武彦らにより、お伽噺の運動へ普及していった。これは 先の分類からすると「子どもが演じる劇」ではなく、「子どもを観客とした商業演劇」であるが、「子 どもと芝居」の関係が始まった「お伽芝居の開幕」という視点から重要であるので、その歴史をたどっ ていく。 1 川上音二郎・貞奴のお伽芝居運動 先に述べたように「お伽芝居」は、ドイツで子ども向けの演劇に接し、日本の子どものためにも演 劇創作の必要性を感じた巌谷小波(1870-1933)が、雑誌『少年世界』(1903年・明治36)に「お伽 芝居」という名で戯曲『春若丸』を発表したのがその始まりとされる。そしてこの「お伽芝居」とい う演劇ジャンルが初めて上演されたのは、川上音二郎(1864-1911)・貞奴(1872-1946)一座が、 小波の作品である「狐の裁判」(ゲーテ原作)と「浮かれ胡弓」(スイスの伝説)の2本の、同年10月 3日・4日に行われた東京本郷座での上演である。 川上はオッペケペ一節で今日よく知られるが、1891 (明治24)年には「書生芝居」として『板垣君 遭難実記』など時事的な芝居を、歌舞伎に比べ写実性の高い演技で一躍有名になった新派劇の旗生で あり、その後欧米へ行き、帰国後1903 (明治36)年2月に、歌舞伎でもない新派でもない全く新しい 39 一 「子どものための演劇」とは何か? 演劇を「正劇」と銘うって立ち上げた人物であった。帰国した5ヶ月後、川上は1903年(明治36)年 7月に、横浜のメソジスト教会で子どもたちに口演童話の会「お伽会」を開いていた久留島武彦(1874 −1960)を訪ねた。そこでドイツ・ベルリン大学付属東洋語学科で教鞭をとり、1902 (明治35)年に 帰国した巌谷小波を紹介された。 ドイツで見たような子どものための芝居を始めたいと考えていた小 波と、欧米の演劇を観てきた川上は意見が合い、ここに本邦初「お伽芝居」が誕生したのだった。 小波自身の記録8によると、「お伽芝居」の演目には自身の『春若丸』(1903)が企画されていたが、 新派である川上一座にはあまりにも歌舞伎調すぎると言うことで、小波の『世界お伽噺』の中から、『狐 の裁判』(ゲーテ原作)『浮かれ胡弓』(スイスの伝説)の2編9が選ばれたと言う。この興行の一部は、 高尾亮雄『「浮かれ胡弓」由来記一日本児童演劇史料の一部としてJloに記録されているが、川上一座 は明治40年1月から6月の半年間で、14ヵ所72公演というハードスケジュールをこなしている。これ は、いかに熱心に一座が子どものための「お伽芝居」の普及に努め、またどれほど多くの一般の人々 に、好意的に受け入れられたかがわかる資料である。 久留島主催「お話の会」は、「お伽倶楽部」(巌谷小波顧問)へと発展していった。久留島は1909 治42)年から博文館の講話部主任をしており、小波と共に全国を講演してまわり、それにともない横 浜、静岡、京都、大阪、神戸、岡山、広島各地に「お伽倶楽部」の支部が出来ていった。このように 「お伽噺」が全国的な運動として広がりを見せるのと平行して、子どものための演劇である「お伽芝居」 もまた全国的に普及することとなった。 2 お伽芝居の確立と「お伽劇団」の設立と普及 こうした活動の中で、素人劇の「お伽劇団」も生まれた。中でも活発な活動をしたのが大阪お伽倶 楽部で、その創設者で関西での活動の中心人物となったのが高尾亮雄(1879-1946)である。高尾ら は、東京に先立ってお伽芝居専門劇団を大阪に設立した。高尾の著『大阪お伽芝居事始めーうかれ胡 弓』回想と台本−』(堀田穣編・1991)によると、高尾は「児童のための劇を職業俳優にのみ任せて おけない」と考え、素人劇団を1906(明治39)年に始めたのだという。これは川上らのお伽芝居上演 とほぼ同じ時期に当たるのだが、川上一座と大阪お伽倶楽部「お伽劇」の動きは対立するものではな く、川上一座の上演にも関わりを待った高尾が、そのまま役者もやってしまったような形であったと、 編集の堀田は述べている。 一方「お伽倶楽部」の運動の一環として始まった東京のお伽劇団は、後に「東京お伽劇協会」と名 を変更するが、この「東京お伽劇協会」は有楽座で土曜日曜・祝日のマチネーである「有楽座子供日」 に出演するようになる。このお伽劇協会の評判11は良かったのだが、興行として成り立たず開始から 12年して終わってしまう12.このことについて顧問の小波は「童話劇の沿革」で次のように述べている。 「然し何分にも、毎月の内、日曜大祭日のみを当込むマチーネの興業では、役者も充分の俸給が 取れません。従って大正初期の時世を渡って行くには、つらいことも多くなります。始めは一身 を児童のために捧げてーと言うような強い決心で役者になった人も、子供相手の芝居では飽足ら なくなって、芸が上達するにつれて本当の芝居、大人の方の芝居に行ってしまいます。仕込みの 方も、物価が騰貴するにつれて、上って行くばかりです。これでは一ト月、数回の芝居は損失を 免れることは出来ません。遂に経営の困難から、この唯一の子供に見せる芝居である『子供デー』 も中止するより道がなくなってしまったのです。J13 経営上の問題によって終わってしまうとはいえ、「お伽芝居」という子どものための演劇が始まっ てすぐに全国に広がって、川上音二郎一座に続く専門劇団ができたことは、この時代においていかに 40 (明 - 愛知教育大学 幼児教育研究 第13号 「お伽芝居」が高い評価を受け、子どもやその保護者および教育者だちから好意的に受入れられたか を如実に表している資料と言えよう。 3「お伽芝居」の用語とその問題 「お伽芝居」という用語であるが、これは明治期の童話が「お伽噺」と言われていたので、それに 対応して用いられたと考えられている。小波は、白身の主宰する雑誌『少年世界』『少女世界』で、「お 伽芝居」「お伽歌劇」「少女対話」「学校芝居」と題した作品を多数発表している。年表『日本の児童 演劇の歩み 児童劇・人形劇・学校劇 80年の年表』14によると、小波は最初それらの戯曲に「学校 芝居」と名付けて、1906(明治36)年に4作発表しているが、この「学校芝居」は、用語も活動も当 時の日本では受け入れられなかった様子で、その後は「少女対話」15と題した作品を書くようになる。 [司じ頃に、生田葵山、久留島武彦、海賀変哲、竹貫佳水などが、『少年世界』『少女世界』『お伽倶楽 部』に作品を発表しているが、これらの作品には「少女演劇」「お伽芝居」「対話」「少女喜劇」「お伽 小劇」「お伽笑劇」などの名称がつけられている。 この様に色々な名称が使用されるのは、明治末期から大正期にかけてはそれらが平行して使われ過 渡期的状況であったからであろう。そしてもう一つの要因として、明治期には世間の演劇に対する差 別や偏見が残っており、教育界では特にその傾向が強く見られたために、劇や芝居と呼ぶところを「対 話」と呼んで、それまでの「お伽芝居」と区別していたのではないか、と富田は分析16している。 ようやく全国へ広がりを見せたお伽芝居であるが、1907 (明治40)年に巌谷小波が雑誌『婦人と子 ども』(第7巻10号)によせた「お伽芝居に就いて」では、世間の偏見と闘いながら、この新しい運 動を推進させていく際の苦労がうかがわれて興味深い。 「社会一般に対しては一つ断って置く事がある、それは他でもない、お伽芝居は読んで字の如く、 子供のお伽の為の芝居である。決して教育的の演劇では無い。…此間京都でお伽劇の演ぜられた 時、其地の所謂教育家連中は、之に要求するに今少し教訓的の材料を以てしたさうだ、僕は聞い て腹が撚れてならない、…とは云ふものの、何もお伽芝居だからと云って決して教訓を排斥する ものではないノ」(傍点強調は著者による) お伽芝居の目的を、教育材料と見る世間の偏見を打ち破ろうと、小波は「お伽芝居は教育的の演劇 では無い」と述べているのであるが、当時の教育関係者は「お伽噺・お伽芝居」の存在そのものに不 満を感じていたことが伺われる。また当時は、俳優を河原乞食視するような演劇全般に対する旧弊な 偏見が根強く、子どもの世界に演劇を受け入れる土壌自体も極めて不十分であったことも事実だろう。 4 虚構性の意義 小波は、お伽噺・お伽芝居をどのように捉えていたのだろうか。 1906 (明治39)年第6巻8月号『婦 人と子ども』に寄せた「嘘の価値」18では、次のように説明される。 「1日に三度の飯も、米ばかりでは済まされないお菜も入れば、漬物も入る。また食後には菓子 も良い、果物も妙だ、…お伽噺の彼等に於ける、そのお菜で無ければ少なくとも食後の菓子であ る。果物である。・‥かくて善良な菓子、果物ならば、人も食って決して害の無い斗りか、大いに 消化を助けまた、血液を肥やすのに相違無い。丁度その通りに、お伽噺の健全なものならば、只 に教育に補益する斗りで無く却って更に之が為めに、一種の精神教育を施すに至るのだ。」 お伽噺は、子どもの食事にとっての菓子や果物に位置するもので、害ではなくて子どもの心身の発 達を促すものであり、小波の言葉では「精神教育を施す」ものである。ここで情操教育としての「お 41 一 「子どものための演劇」とは何か? 伽芝居」の価値を強調している点は、その後の児童演劇のあり方を考える上で注目に値する。 1909 (明 治42)年に三田文学会での講演会の一部を『婦人と子ども』(第9巻4号)にのせた「お伽噺を読ま せる上の注意」では、「お伽噺の第一の目的は児童に面白く読ませる」ことであると目的を明言して いることからも、情操教育としての一環としてのお伽噺・お伽芝居だという認識は明らかであろう。 「嘘の価値」での主張はさらに続く。 「此頃何とやら云ふ博士殿は、何処やらの演説で、お伽噺類を排斥し、精神病者の多いのに、之 に依て迷信を養成されるからだと云はれたげな、天晴れの誤迷論、僕等は只アッと云う斗りだ。 …お伽噺は成る程嘘斗りだ、が、それは皆嘘らしい嘘、即ち邪気の無い嘘斗りだ、偶々子供心に 之を信じたとしても、…誰が何時までこの嘘を信じて、知識の発達を妨げられやう。・‥宍の穴の 狭い先生方は、子供の空想を助長すると云って、此種の読物を嫌ふ様だが、此等も一知半解の迂 論、所謂道学先生の鼻元思案で、実に臍茶の至である。」 お伽噺への偏見や誤解に対して論戦を挑むところを見ると、世間からの「空想の世界・嘘の世界」 であるお伽噺への風圧は相当に強かったことの察しがつく。 さてここで小波が、2種類の嘘というかたちで説明している点も興味深い。一つは「裏山で雷が太 鼓を枕に昼寝をしていた」と言う様な無邪気な嘘らしい嘘、もう一つが「横町でスリが捕まって大勢 に殴られている」と言う様な、編された人が腹を立てるような誠らしい嘘を指すという。「空想が何 故悪いだらう…此位大切なものは無いのだ」と、子どもにとっての虚構の世界の価値を強調し、「子 供には子供の文学」即ちお伽噺を勧めたいと訴える。小波は「嘘らしい嘘」こそが、お伽噺の世界の 嘘であると言い、芸術における虚構性の意義を述べている。ここに、子どものための作品を書いたオ スカー・ワイルドの『虚言の衰退』(TTie Decay ofLying-)の影響がうかがわれないだろうか。小波の 文学観の根底には、同時代のヨーロッパの文化運動の理解がある。 5 巌谷小波の活動の意義・役割 物語の空想を評価し、娯楽と怠情を同一視する保守的な教育界に対して異議を申し立てるために、 小波は、少年文学を「文学」として確立しようと努めた。例えば小波の成人向けの文学作品では、「地 の文は雅文、会話は口語」という伝統的な文体ではなく、早くから「言文一致」を用いて書かれてい るのであるが、少年文学の処女作となった「こがね丸」は、伝統的な文体で書かれている19.このこ とについて管忠道は、子どものための文学が社会的にも文壇的にも認められていなかった時代に、子 ども向け作品でもこれだけの筆力があるという事を、意識的に凝った文体を綴ることによりアピール したのではないかと説明する2o。 児童文芸が軽んじられてきた時代に、少年文学を文学として打ち出しその確立に努力した小波であ るから、始まったばかりの子どものための「お伽芝居」に対しても当然質の高い要求をした。 1907 (明治40)年『婦人と子ども』第7巻10月号の「お伽芝居に就いて」では、明治40年に新聾館 にて本郷座の若手俳優らが上演したお伽芝居を例に挙げ、「殆んど物に成って居なかった」と酷評し ている。お伽芝居を演じる役者については、「今までの演者を見るのに、大阪のはまだ見ないから知 らないが、兎角芝居をすると云ふ方に傾いて、お伽と云う点を忘れた観がある、中には、お伽芝居な どの子供だましは、馬鹿馬鹿しくて本気に成れないと、全く上ずった演り方をするものもあった。」 とも述べている。同様のことは昭和2年に書かれた「童話劇の沿革(1)」でも、「始めは一身を児童 のために捧げてーと云ふやうな強い決心で役者になった人も、子供相手の芝居では飽き足らなくなっ て、芸が上達するにつれて本当の芝居、大人の芝居の方に行ってしまいます。」21と述べている。少年 −42− - 愛知教育大学 幼児教育研究 第13号 文学を「文学」として確立しようと奮闘した小波は、お伽芝居を演じる役者が「子どもだまし」の意 識を抱くことについて嘆いているのだ。 お伽芝居の価値はなかなか世に認められなかったが、そんな中で1910(明治43)年大阪に、北浜銀 行出資で日本最初の洋風劇場帝国座がつくられた。これは様々な演劇革新に挑んできた川上にとって の最後の仕事と言えるもので、川上一座の活動の根城となった。「浮かれ胡弓」も再演され、明治 43・ 44年には大阪市の小学5・6年生が、毎週土曜日・日曜日に招待されている。この大阪での鑑賞教 育活動について、高尾亮雄は「児童芸術研究」(1935)で、「秩序正しい演劇の方法を以て、児童に根 強い印象を与え、劇の情操教育を一般に認めしるに到った。これはお伽倶楽部の趣味教育的な仕事が 漸く教育界に認められてきた時代」22であると回想している。革新的な演劇運動を追求していた川上 であるが、帝国座が建てられて間もなく1911 (明治44)年に病死し、大阪帝国座における「お伽芝居」 の活動も終わった。 一つの独立した演劇ジャンルとしての「お伽芝居」の確立を願った巌谷小波の思いは、革新的演劇 を創造しようとした川上率いるプロの俳優によってのみ十分に報いられた、と言うことが出来るのか もしれない。日本の演劇界に大きな新しい動きが見られる黎明期に、「お伽芝居」は誕生したのである。 6 お伽芝居の上演のスタイルと伝統芸能 小波は、お伽芝居の上演に決められた型は無いと言うのであるが、それでも「見た目の美しく、面 白く無邪気に上品にあれば可いのだ、それには多く喋って筋を通さうと言ふより、多く動いて意を判 じさせるが優しだ」23と述べている。言い換えると「子どもの耳に入り易く、目を楽しませる」とい うことで、例えば音楽・振り付けなどの工夫がなされるとより良いという。 「見た目の美しく、面白く」というフレーズは、小波がお伽芝居のあり方に何を求めていたのか考 える際の手がかりとなる。なぜならばこの文章の後に、「此点から云ふと、どうもお伽芝居なるもの は、新派より古派の物らし」と述べるからである。お伽芝居の面白さを、歌舞伎や能に代表される伝 統的な演劇様式である古派の芝居に求めるというのは、何を意味するのだろうか。 お伽芝居は、巌谷小波がドイツでの見聞をもとに移植され始まったものであるが、これを新派であ る川上一座が初めて手掛けたことに象徴されるように、その芝居の表現方法やドラマトゥルギーは、 歌舞伎などに代表される前近代的なもので、それに改良を加えた初期の新派劇に近いものであった。 この前近代的な演劇方法にみられる、歌舞伎における「見栄をきる」というような派手な身体の動き・ 視覚的な面白さを味わうということが、鑑賞する子どもにとって大切であると考えたのである。日本 の伝統演劇である歌舞伎・能が、作品全体よりも場面を重視する傾向があるが、巌谷は、その部分的 な場面を視覚的にも聴覚的にも存分に楽しむことが大切であると考えた。 この考え方は、後の大正期の坪内逍遥の児童演劇活動へとつながっていく。坪内逍遥の児童劇運動 については、拙論「坪内逍遥の児童劇の今日的意義−「おろち退治」にみる演劇的身体表現の可能性 についてー」24で詳しく述べた通りであるが、お伽芝居の明治時代を経て、『赤い鳥』の久保田万太郎 にみられるような近代的なドラマトゥルギーによる童話劇が生まれ、坪内逍遥らの文芸協会、小山内 薫らの自由劇場へと、新劇の影響を受けた子どものための芝居が生まれてくる中で、実は逍遥は児童 劇を考えるとき、もう一度スペクタクル要素の強い歌舞伎や能に立ち返ることを提唱するのである。 しかし当時の「お伽芝居」や宝塚少女歌劇(1914年発足)は、大人が子どもにみせるために作った 演劇で、子ども自らが演じるものではなかった。例えば和田實は、新派である川上一座によるお伽芝 居については「彼の一波の所謂お伽芝居」と言う描き方をして、子どもの劇遊びをさせる題材として 43 一 「子どものための演劇」とは何か? は、子どもの実生活から生まれてきていないので「お伽芝居」を取り上げることはふさわしくないこ とを述べ25、また倉橋惣三は、お伽芝居を子どもが鑑賞するとき、「お伽芝居」で扱われる内容が「子 供の経験や感情」と関わっているかを問題とし、舞台上に展開される世界が子どもの日常や想像力と つながっているかを問題にしている26。 しかしここで大切なのは、日本において子どものための演劇を考える際に、巌谷小波の仕事をまず スタートとし、小波に対して肯定的であれ否定的であれ、誰もが「お伽芝居」を意識せざるを得ない ほど、このお伽芝居の影響力は強かったということであろう。児童演劇史に於けるこの明治期を、冨 田博之は「お伽芝居の時代」と要約しており、子どものための演劇を、意識的に、大人の責任におい て創ろうとした我が国における初めての運動であったと位置づけている27. 終わりに 「お伽芝居」という日本にはなかったものを創り出すにあたっての理想と妥協はいたしかたなく、 お伽芝居の創始者である小波自身も、その限界と制約については、後に雑誌『歌舞伎研究』の中で次 のように書いている。 「私は、明治四十年以降、少年世界、少女世界を通して、此等の作を翻案して二三十の作を発表 致しました。有楽座の子供日では、一番目にお伽芝居風のものをやって、二番目には此の種の対 話劇風の児童劇をよくやりました。然し有楽座の子供日でやることは、私自身の考へでは、児童 劇の目的に叶ったものではないのでありますが、当時如何とも致し方がなかった為であります」28 お伽話に代表される当時日本の児童演劇を取り巻く状況は、子どもの視点に立ったものでもなけれ ば、子どもが自ら演じるものでもなく、そのような児童向の演劇が商業主義との妥協の産物とならざ るを得なかったことが、小波の言葉によく表れている。しかしこれまで日本になかった子どもを対象 にした演劇運動を普及させ持続させるためには、興行的にも成立させる必要があったのは当然であり、 決してそれによって巌谷小波の功績に対する評価を下げるものではない。むしろこのような小波の先 駆的仕事のゆえに、坪内逍遥の児童演劇運動や、和田實、倉橋惣三といった教育者たちによる演劇的 な教育活動へと展開していくと言うことが出来よう。 1 巌谷小波「児童劇の沿革」1、2『歌舞伎研究』12、14輯 1927年 歌舞伎出版部 2 秋庭太郎『日本新劇史』1955 理想社 3 河竹繁俊『新劇運動の黎明期』雄山閣 1947 4 大笹吉雄『日本現代演劇史』全8巻 白水社 1985 5 冨田博之「学校劇運動史」『教育文化史体系V』金子書房 1954 6 冨田博之『日本児童演劇史』東京書籍 1976 7 冨田博之『日本演劇教育史』国土社 1998 8 巌谷小波「児童劇の沿革(一)」『歌舞伎研究』第12輯、1927年5月 歌舞伎出版部発行 9 川上一座の2編の台本は未だ発見されていない。 ・堀田穣編・高尾亮雄『大阪お伽芝居事始めー「うかれ胡弓」回想と台本』 関西児童文化史叢書6 1991 p 101 ・冨田博之『日本児童演劇史』1976 東京書籍 p43 10 高尾亮雄著・堀田穣編『大阪お伽芝居事始めー「うかれ胡弓」回想と台本』 関西児童文化史叢書6 1991より p38「浮かれ胡弓」由来記一日本児童演劇資料の一部として一 当時の座員、故和田巻二郎氏の調べ 44 W〃 愛知教育大学 幼児教育研究 第13号 年 月 日 回数 上演地 明治37・2・2 25 大阪 朝日座 38・10・ 1 7 名古屋 御園座 10・16 6 岡山 高砂座 10・23 3 道の尾 偕楽座 10・29 7 広島 寿座 11・10 7 熊本 東雲座 12● 2 5 松山 新栄座 12・16 7 土佐 高知座 39・2・7 7 京都 歌舞伎座 3●1 7 神戸 大黒座 12・ 5 5 和歌山 紀国座 40・1・7 6 津山 新地座 1 ●29 5 呉市 呉座 2・6 5 下の関 稲荷座 2 ■15 7 博多 教楽座 2 ●28 7 長崎 舞鶴座 3・U 5 久留米 恵比寿座 3 ●30 4 佐賀 喜楽座 4●6 5 小倉 常盤座 5 ・ 10 6 徳島 稲荷座 5 ●25 5 岐阜 美殿座 6●4 4 福井 加賀屋座 6 ・ 10 5 金沢 福助座 6・19 4 豊橋市 豊橋座 6 ●25 4 浜松 歌舞伎座 11 冨田博之『日本児童演劇史』1976 東京書籍 p62には、「東京お伽劇協会」の上演に対する、当時の新聞の論評が載って いる。 12 12年間続いたと冨田は書いているが、この「有楽座子供の日」が始まった正確な時期は記録として残っていない。ほぼ毎 週行われたこの催しは「お伽倶楽部」の催しの一つとして自然発生的に始まり、興業上の理由から公演が行われなくなっ ていったのだろう。 13 巌谷小波「児童劇の沿革」『歌舞伎研究』第12輯、1927年5月 歌舞伎出版部発行 14『日本の児童演劇の歩み 児童劇・人形劇・学校劇 80年の年表』(日本児童演劇協会1984)の出版物の年表によると、小 波の「学校芝居」と題してものは1906 (明治36)年の「時計の罪」「不思議の卵」「腕白倶楽部」「催眠術」の4作を発表 したのみである。 15 巌谷小波『小波お伽全集9巻・少女対話編』吉田書店 小波お伽全集刊行会 1933 主に『少女世界』誌に発表された。 16 冨田博之『日本演劇教育史J p 195 国土社 1998 17 巌谷小波「お伽芝居に就いて」『婦人と子ども』第7巻10号 1907(明治40)年 18 本論考では1906年『婦人と子ども』第6巻8号から引用をしているが、管忠道『日本の児童文学1総論』1956 大月書店 p47によると、「嘘の価値」は同年報知新聞に載せられている、とある。 19『こがね丸』「かし或る深山の奥に、一匹の虎住みけり。幾星霜をや経たりけん。躯尋常の憤よりも大く、眼は百練の鏡を 欺き 髭は一束の針に似て、一度吼ゆれば聾山谷を轟かして、梢の鳥も落ちんはかり」 20 管忠道『日本の児童文学1総論』1956 大月書店 p30 21「童話劇の沿革」巌谷小波「歌舞伎研究」第十二輯 1927年5月 22 高尾亮雄著・堀田穣編『大阪お伽芝居事始めー「うかれ胡弓」回想と台本』 関西児童文化史叢書6 1991より p41 「浮かれ胡弓」由来記一日本児童演劇資料の一部としてー「児童芸術研究」4号 1935年6月 23 巌谷小波「お伽芝居に就いて」『婦人と子ども』第7巻10号 1907 45 (明治40)年 一 「子どものための演劇」とは何か? 24 南元子「坪内逍遥の児童劇の今日的意義−「おろち退治」にみる演劇的身体表現の可能性についてー」愛知教育大学 幼 児教育研究第12号 pp 23 − 30 2005 25 南元子「明治・大正・昭和初期の幼稚園教育における演劇の位置 和田実の演劇教育論」(2002)「金城学院大学大学院 人間生活学研究科論集」第2集 pp 75 − 85 26 南元子「倉橋惣三の幼稚園教育における演劇教育論」(2003)「金城学院大学大学院 人間生活学研究科論集」第3集 pp 45 - 53 27 冨田博之『日本児童演劇史』1976 東京書籍 p71 28 巌谷小波「童話劇の沿革(二)]『歌舞伎研究』第十四輯 p255、1927年7月 −46−