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し上げます。 `
寺 禅 松 三 第 61号 (1)平成26年1月1日 檀家の皆様 ご寄稿を お願いします を越え、国境も越え、自 っている。 現場の融通が利かなくな 雲居を全面的に肯定する。 問答と同じであったぞ。﹂ 巌大和尚に参禅した時の 堪えず﹁わしが先師、雲 現したので、洞山は感に うを﹁いただく﹂と言い 粥さん﹂・箸を﹁お箸﹂・喰 かず﹂・粥と言わず﹁御 ﹁ご飯﹂・かずと言わず﹁お が溢れますと、めしを している ﹁私のいのち﹂ 休息する−坐禅 ︵心の平 諸縁を放捨し万事を ﹁あのときは大変だ もするし、扱いたくなる。 棟の道を歩き、損得 他の垣根をも越えて活動 美味しいものを口にし、 和と行動の安定︶ 本堂にて大般若祈祷し、 十時∼午前三時引き続き 大晦日の徹宵坐禅 午後 お陰様で例年の如く、 し上げます。 交の程、宜しくお願い申 五百八十年 本年も御道 ︵きのえうま︶ 仏紀二千 平成二十六年・甲午 洞山﹁閣梨、名は什塵ぞ﹂ 対面の時の問答 師に身を投じる。その初 西省に住する洞山良介禅 ある僧の勧めで南方の江 才で学問仏教から訣別し、 少年から出家し、二十八 北京の近くで生を享け、 ﹁自分の名前は何か﹂ 紹介いたしましょう。 今日も生きている、名前 前のない生命と同じ体で すると洞山は ﹁その名 は無いです。﹂ ﹁その時 ︵向上︶ の名前 時︵向上=真理︶の名だ。﹂ たがまだ母の胎内にいた が聞いているのは、あな けられた名前だろう。私 ﹁それは生まれてから付 ィ、どうようと申します。﹂ 何ですか?。﹂ 読者の方 いるの?あなたの何とは 行き・何に成ろうとして 求め・何をしに・何処へ きて・何が不満で・何を う。あなたは ﹁何処から 限定を ﹁什磨・何﹂と云 名詞に振り回されない無 になっている。 の時自身が安らかな先祖 らぎを寺社にて願う、こ となっている、子孫の安 のままで安楽な微笑み仏 ああ幸せ﹂ この時、自身 いのちの尊さを悟ること。 信を育てる。﹁知・情・意﹂ で す 。 産んでいただいた、 というは自己を習うなり﹂ んで知る。﹁仏道を習う 具わっているものをじぶ もともと自分にきちんと 師知﹂という﹁知﹂がある。 じての﹁生知﹂﹁学知﹂﹁無 い仏道は、生老病死を通 師はいう。卒業証書の無 ことを﹁学知﹂と道元禅 識・常識を他者から学ぶ 自分に無いもの・知 期に云われました。 ちは甘美である。﹂ と最 ﹁この世は美しい、いの 世寿八十歳、お釈迦様 回されない自信となる。 欲﹂ 他人の評価に振り 思が日常活発になる ﹁意 良かった。﹂ 微笑みの意 が出ると、﹁生きてきて 良かった。﹂ 生きる意欲 ったけど、あれを続けて ﹁有難い・美味しくて、 ﹁檀信徒各家の諸縁吉祥﹂ 雲居﹁道膚﹂ の付いた自分の経歴や学 も何故?を力まずに眉間 〇∼九〇一︼ の名前に由 時の祇対と異なる 洞山﹁われ雲巌に在りし 善人だ・病人だ・貧乏人 ﹁俺は白人だ、大臣だ・1 これだけのことを今まで 対立のない無限定︵俺は で名前に振り回されない、 る ﹁生知﹂心臓のある生 支えられていることを知 電気・時間等のいのちに 物・新陳代謝・空気・水・ る桜﹂ 良寛 ﹁散る桜 残る桜も 散 この世の別れに、京 寝られやはする﹂ の秋だにも 今宵の月に ﹁また見んとおもひし時 世寿五十四歳、道元禅師 を祈願致しました。 歴等も大事だが、名前の 伶︻八〇七∼八六九︼と 曹洞宗の名は、洞山良 洞山﹁向上更に遣え﹂ 雲居﹁向上に遣わば即ち 今の自分の心身を健全に 来する。しかし菅山の系 こと無きなり。﹂ だ・悪人だ・男だ⋮。﹂ 自 してきた人間だ、こんな 物だけがいのちでは無い。 その弟子曹山本寂︻八四 譜は四代で絶えたが、洞 閣梨は阿闇梨の略 意 分で自分に案外縛られて に尽くしてしてやったの 哀想・尊い・椅麗・美味 すると、有難い・可 祈っております。 大切に、皆様の御多幸を 今年もいのちを見る目を められました。 都の月を一睡もせずに眺 山の弟子の一人、雲居道 訳は軌範士・正行という、 いる事が身近にある。勝 に、あいつの対応は何だ、 しい等々、命に ﹁情緒﹂ 保ってくれる、呼吸・食 暦︻?∼九〇二︼ の法孫 大衆の規範、手本となる 手に線引きしておいて、⋮ 軟心︶ の真理は尊いと体 雲居は初対面の問答 は脈々と現代にまでつづ 正行の人、禅宗では﹁僧﹂ などという想いがない柔 ないとバリアーを張って もっと大事だ。﹂ いている。この意味で雲 これ以外は私の仕事では■ ﹁あなたの名は何?﹂﹁ハ と呼ぶ。 では、教えをヒトツご 居の法は重要である。 道膚と名づけず﹂ してみてください。 佐織 皆川大貴 平成26年1月 第 61号 付かない自分︵真理︶は、 射舛 三 松 禅 寺 第 61号 三 松 禅 寺 平成26年1月1日(2) 二あ誕生の日t匿評『 還芸l:まつ蘭 ∴∵…腑W ̄−TW「 2月15日 捏磐会(花まつり) お釈迦さまは、今からおよそ2500年前の4月8日に、イン お釈迦さまは2月15日にお亡くなりになりました。お釈迦 ドの北、現在のネパールにあるルンビニーの花園でお生まれに さまの場合は亡くなったことを「捏紫に入る」といい、この日 なりました。お釈迦さまの誕生日のお祝いを、「花まつり」と を捏薬会というのです。 いうのはこのためです。 この日は、美しい花が咲き乱れる花園に見立てた花御堂に誕 生仏をおまつりし、甘茶をかけてお祝いします。甘茶をかける のは、うぶ湯の代わりに、天が甘い雨を降らせて誕生をお祝い したという言い伝えによります。 この「花まつり」とは、何と優しく希望に満ちた響きを持っ お釈迦さまは、35歳で仏陀となられてから80歳で捏柴に入 るまでの間、多くの地域で人々に教えを説いてまわられました。 その最後の地となったのは、クシナガラというところでした。 いよいよ自分の最期が近いことをお察しになられたお釈迦さ まは、沙羅双樹の木のもとに体を横たえ、「私の亡きあとは、 自らを大切にし、これまで私が説いた教えをよりどころとして、 た言葉でしょう。長く厳しい寒さの続いた冬が去って、暖かい いつも心を正しく保ち生活するように」と、最後の説法をされ 太陽の日差しに草も木も美しい花を咲かせ、人も自然も生き生 捏柴に入りました。命あるものは、いつかは滅するという真理 きと活動する春の訪れ。お釈迦さまがこの世にお生まれになっ をお示しになったのです。 たことが、私たちの生活に一筋の希望をもたらす明るい春の日 捏薬会には、お釈迦さまの最期の様子を描いた捏柴図をかけて、 ざしのように感じます。私たちをお救いくださる尊いお方、お そのご遺徳を偲びます。捏柴図には、弟子たちだけではなく多 釈迦さまの誕生日をみんなでお祝いいたしましょう。 くの動物や昆虫までもが集まってきてお釈迦さまの死を嘆き悲 しんだ姿が伝えられています。 ◎お釈迦さまってどんな人?◎ お釈迦さまは、今からおよそ2500年前にインドの北にあった、 カビラ国という小さな国の、釈迦族の王子としてお生まれにな りました。何不自由のない生活を送られたお釈迦さまでしたが、 12月8日 成道会 悟りを開き、仏陀になることを、成道といいます。12月8日は、 お釈迦さまが悟りを開かれ仏教が誕生した尊い日で、成道会と いいます。 お釈迦さまは日々、「人は、せっかく生まれてきても、病気 にもなるし、年もとる。いつ死ぬかもわからない。皆が何の心 配もなく、幸せに暮らすことはできないのだろうか」と思いを 「人はどうして生まれ、年老いていくのだろう。いつ病気にな るかわからないし、いつかは死を迎える。人生には、どうして 悲しいことやつらいことが多いのだろうか。何の心配もなく、 皆が幸せに暮らすことができないのだろうか」と、人生に対し て悩み苦しみ、深く考え込む青年時代を過ごされました。 この間題を解くためにお釈迦さまは29歳のときに城を出て それまでの王子としての生活を捨て去り、修行者となりました。 6年間に及ぶ修行を経て、35歳のときについに長年の疑問が 解け、悟りを開いた人「仏陀」となられたのです。 それからのお釈迦さま しゃ か そくせき 巡らせておられました。この答えを求めて29歳のときに出家し、 は、教えを伝える旅に出 お釈迦さまの足跡 6年間苦行を続けましたが、どうしても心の安らぎが得られま ました。これが仏教の始 せんでした。そこで、苦行を離れる決意をし、疲れた体を癒し まりです。以後、80歳で てから、大きな菩提樹の木のもとで坐禅瞑想をされたのです。 お亡くなりになるまでの そして、明けの明星をみて、ついに悟りを開かれたのです。 45年間、人々に教えを説 お釈迦さまは、私たちの苦しみの原因を正しく見極め、その き続けました。その教え 苦しみを取り除くために、毎日をどのように過ごせば良いのか は絶えることなく今日ま を、説き示されました。それは、頭で考えるだけでなく、生活 で連綿と受け継がれてい 態度そのものをきちんと整え、実際に行動に移すことが大切で ます。 ある、ということなのです。 (3)平成26年1月1日 第 61号 寺 禅 ヾノ・十÷・㌻i おしゃかさまは、 シャカ族の王子さ まとして、お生ま れになるまえに、 なんどもなんども、 生まれかわって、 そのたびにたいへ んりつばな、おこ ないをされました。 そのけっか、シ ャカ族の王子さま に、お生まれにな ったのだといわれ ています。 では、おしゃか さまは、どんなよ いおこないをされ たのでしょうか。 なまけものの子じか むかしむかし、おしゃかさまは かしこい おすのしかとして お生まれになり、森の中に すんでいました。 ある日のことです。 おねえさんの しかが 子じかを つれてきて いいました。 ﹁これは わたしの 子どもです。しかが、しって いなければなら ないたいせつな ことを、この子に いろいろ おしえて やってく ださい﹂。 おすのしかは ﹁よろこんで﹂と いって ひきうけ、﹁あすから ま いにち べんきょうしようね﹂ と、子じかと やくそくしました。 ところが、子じかは あくる日のやくそくの じかんに おすのし かのところに きませんでした。 つぎの日も、そのつぎの日も、また そのつぎの日も 子じかは べんきょうに いかずに、まいにち あそびまわって いました。 そして 八日め、子じかは 森の中に しかけてあった わなに かかって しまったのです。 りょうしは、なまけものの 子 じかを ころして、その肉を た べてしまいました。 子じかの おかあさんは ﹁ど うして あの子に たいせつなこ あなとゝつと なな ほとけ こと 尊名阜 七の仏の ふる言は ま女工に六っの 道を赴えけう 古来この歌は、いろいろに筆写され伝えられた。七の仏は、奈良の仏・とをの仏・ ななの仏などに、ふる言は、古言葉・古言・古詞などに、越えけりが、超けり・越え たり・ヨユタリなど、さまざまに書かれている。道元禅師全集には、左のような註が あ る 。 天正本﹁永平高祖建噺記﹂ ハ ﹁此歌不審、安名尊 ななの仏の 宣言 学ぶに六つ の道に、越ゑたり、若し如レ此なるべきか﹂ト註シ、欄外二別ニ﹁我たのむ 七の やしろの ゆうだすき かけても六の 道にかえすな﹂ ︵自賛アリ︶ ノ一百ヲ掲グ。 とある。 七のやしろのゆうだすき と詠まれたところが、奈良となり、七の仏となったよう でもある。七のやしろ ︵七社︶は、山王七社のことで、比叡山に伝教が、大和三重の 大三輪神を勧請し、山王守護神として祀った ︵日吉神社のこと︶もの。この歌は疑問 点多く、今後の研究にまちたい。 ﹁安名尊﹂尊しの語に、嵯・噴・あやなどの感嘆詞を接続したもの。催馬楽に、﹁あ なたふと、今日のたふとさや、古へもはれ、古へもかくやありけむ﹂とある。 ﹁七の仏﹂過去七仏をいうが、その第七仏としてこの世に現われた釈尊のこと。 ﹁ふる言﹂古き言葉、古き教え。上の句、七の仏のをうけ、陳ぶる、宣ぶる意。 ︵ 歌 意 ︶ ほんとうに尊いことである。お釈迦さまをはじめ、おおくの仏たちの教えを学び、 つくづく思うことは、宿業とも云える六趣の世界を超えて、菩薩の世界や、仏の世界 へも導いて下さることである。仏の教えに会うことができ、これを学び、美しい浄い 心を発すことが、これにかなう道といえる。 串禅ヰ冬日の月 調べや月の各 軍忠ふるや月今宵 覇する良風か七 の蜜刺子中朝の絃 忍の三 高 藤 慈一宮 ヰ或ニ 十 五 阜 九 月 含 8 け塵に奉る とをおしえて くれなかったので すか﹂と、なきながら おすのし かに いいました。 おすのしかは かなしそー丁に こたえました。 ﹁あの子は べんきょうに こな かったのですよ﹂。 ︵1一五︶ ほ輿の し 上 ろのせき な 伊沫ぎー甑打皆、 ﹁なまけものの 子じか﹂ 文・豊原 大成 絵・小西 恒光 自照社出版 ﹁ジャータカのえ ほん①﹂より再掲 ま後象美津 松 三 平成26年1月1日(4) 第 61号