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ドイツ・ポーランド国境地帯の文学:パヴェウ・ヒュレ『ヴァイゼル・ ダヴィデク』
「スラブ・ユーラシア地域(旧ソ連・東欧)を中心とした総合的研究」報告書 井上 暁子 私は、平成 21 年度に実施された共同利用型(個人による研究)の一環で、2010 年 3 月セ ンターに一週間滞在し、 「ドイツ・ポーランド国境地帯の文学:パヴェウ・ヒュレ『ヴァイ ゼル・ダヴィデク』」という研究課題に従事した。ヒュレ(グダニスク生まれ。1957-)は、 現代ポーランド文学を代表する作家のひとりで、上記の作品によって「ドイツ=ポーラン ド国境地帯」というトポスをポーランド文学にもたらしたことで知られている。センター 滞在期間中、私はこのトポスの形成過程ついて調べた。 第二次世界大戦後ポーランド領に併合されたドイツ=ポーランド国境地帯は、 「東部国境 地帯」(ポーランド語で「クレスィ Kresy」と呼ばれる)と同様、戦前は多民族的・多文化 的・多言語的空間であったが、その世界は、ホロコースト、戦後の領土、政体の変更、住 民の強制移住などにより激しく損なわれた。東部国境地帯が、1950 年代から、チェスワフ・ ミウオシュをはじめとする、数多くの著名な亡命作家の作品やエッセイで取り上げられた のに対し、西部国境地帯がポーランド文学の題材となったのは、1980 年代半ばのことであ った。中心的担い手は、1949 年グダニスク生まれたステファン・フフィンのほか、1960 年 前後グダニスク、シロンスク地方、シチェチンに生まれたパヴェウ・ヒュレ、オルガ・ト カルチュク、インガ・イヴァシウフといった若手作家たちであった。 彼らの作品の特徴のひとつに、少年や少女の目から西部国境地帯が語られるということ がある。とくに後者の若手作家たちは、自らが少年少女時代を過ごした 1970 年代のポーラ ンドを回想する語りの形式をとることで、当時のプロパガンダや公的な言説と、子供の目 に映る世界(それは。現実と幻想の間をいつも揺れ動いている)との差異を描き出し、個 人の物語として提示した。こうした特徴は、ポーランド文学研究で、1960 年代生まれの作 家に共通する「大文字の歴史からの逃避」と呼ばれている。 もちろんこの特徴と、「大きな物語から小さな物語へ」という、ポストモダンの傾向とが 連動していると見ることも可能かもしれない。しかし、90 年代のポーランドで、ポストモ ダンを自称する一部の作家たちによる偶像破壊が過激さを増す中、西部国境地帯出身の作 家たちは、それ自身が目的と化した「脱神話化」傾向と一線を画し、失われた地域の「神 話」を、ドイツ人やユダヤ人といった〈不在の他者〉と共に探すことを選んだ。モダニズ ムの伝統を継承する彼らの文学は、現代ポーランド文学の主流となっただけでなく、ドイ ツ・ポーランドにまたがる地域の越境的文学とみなされている。