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内 包 存 在 論 草 稿 目 次 Guan 創刊にあたって 熱くて深い夢 ︱中村哲論 内包存在論 Ⅰ 63 5 苦海と空虚はなぜ回帰するか ︱辺見庸メモ ﹁第二ステージ﹂論 箚記Ⅰ 箚記Ⅱ 147 ﹁第二ステージ﹂論 ﹁幻想としての性の境界線﹂考 107 77 萩原幸枝 原口孝博 163 13 203 内包存在論Ⅱ ︱テロと空爆のない世界 内包世界論1 ︱内包論 附 ﹁内包﹂という名の贈り物 つながり 313 43 内包の 性 ︱悲しみの彼方に在る光明 331 295 内 包 存 在 論 草 稿 Guan 創 刊 に あ た っ て Guan 創刊にあたって 5 う。 無だろうとの予想に反して、未知の人もふくめ、かなりの数 よ っ て 賄わ れ た ︶ ﹃ 内 包 表 現 論 序 説﹄ を 出 版 し た 。 反 響 は 絶 一九九五年に︵その費用のすべてが美術家桜井孝身さんに るという意味において、いずれの論考も商品性がなく市販の れる。まだだれもかんがえたことのないことをかんがえてい じて書かれた文章ではないことの長所も短所もここにふくま 原理的なことを論じるという方法がとられている。注文に応 1 の的確な応答があった。孤立したおもいのなかで出版された ルートにのりようもないのだが、なんらかのかたちで公的な ︶ で も 具 体 的 な こ と を語 り な が ら ので、反応があったことに驚き、それらの批評にずいぶん励 視線に曝されたものだけを集めた。良くも悪しくもそれが現 私家版﹃Guan ﹄︵ まされた。当時も今もわたしは無名であるから、続稿を﹃G 在のわたしにとっての表現の場である。そのことについては uan ﹄︵ 元来ことばは同一性の彼方に属するものであるから、この であることを示唆しているのだが、どうであれつたわりにく 社会の制度を突き破ろうとする内包論は、同一性が拘禁する 以後、 ﹃Guan﹄は継続的に公刊され、予告している﹁G いことに変わりはない。ただ経験に根ざした私的な文章が多 なにかをなしつつあるたしかな手応えはあっても、試みが胡 uan・Live﹂の集まりで、日頃かんがえていることを いので、巻末の書き下ろしと附をのぞき、それぞれの論考の 貨幣に一義的に還元することも、同一性の差異化による価値 とつおいつ話していこうとおもっている。むしろそれがある 頭に発表された経緯と論旨の大要を解説する一文を寄せても 蝶の夢にすぎぬものか、それとも見果てぬ夢が熱くて深い世 ことによって人間という現象が立ち上がってくる、ありえた らった。新聞に掲載された二つの短文以外は身近な友人や知 増殖をなすこともできない出来事としてある。そのことは逆 けれどもなかったものをこの世にあらしめること。すべての 人に手渡されたものである。附のほかは発表した時系列に沿 界となって現前するのか、まだ俯瞰する余裕はない。ともか ひとのなかにあるこの同一のものは無限小の公理としてしか って掲載した。一冊にまとめるにあたって若干手を入れた。 ことは今後も変わらない。それが果たされれば充分だとおも 囲で述べること、それをわたしが表現の第一義的な場とする るほど手軽ではなく、まして博学さや才能で歯が立つほどや わたしたちが生きているこの現実は、さかしらごとで変わ 内包論を持続し、そのつど関心の所在を顔が見え声の届く範 あらわすことができない。ことばは一粒の芥子だねである。 説的に貨幣を超える潜勢力としてかぎりなく価値の濃いもの している。 ﹃Guan﹄ ︵ ︶はその途次での悪戦苦闘の跡だ。 過大な思い入れも過小な評価もなく醒めている。 ︶ と し て 私家版 で出 版することにした。い っ そ 02 く、わたしは行く、と表明するだけである。 02 う険しい、未知の思考の領域に踏み込みつつあることを実感 02 6 わでもない。そういうものの手の内は知り尽くしている。衆 せるのだ。世界の無言の条理が、じぶんもできるものならば かない。面妖な現実が、このとき一瞬怯み、満面の笑みを見 わたしはじゅうぶんに殺伐とした出来事に挟撃されて生き そうありたいと相好を崩し、堅く閉ざした鎧戸をひらくのが た味わい深いものとしてもあらわれる。大衆を騙り、社会を てきた。だから挽歌をつきぬけて、なにがあってもどんなこ の一人として生きる才覚も度量も持ち合わせぬ、知に寄生す 俯瞰する一般知ではなく、そしてそれらはおおむね巧妙に粉 とがあっても生きる元気が出てくる思想をつくりたいとおも る者らの小癪な文化言説より、現実ははるかに懐が深いもの 飾された役割論という遺制を隠れみのにした自己本位そのも っている。そこで、ながいあいだかんがえていた個人誌を創 ここだ。表現の器量とはそのほかではない。 のの姿にすぎないのだが、それなしにはすぎゆかぬ我が事を 刊することにしたのだが、 ﹃Guan﹄ ︵ ︶おいても、根本 だ。生身を晒して生きるとき、現実は空恐ろしくもあり、ま 究尽することによってしか知が普遍へと至ることはない。そ かむことができるなどというのは、かんがえることの怖さを 弁と欺瞞で固められたしゃらくさい能書きごときで世界をつ いったいみずからを一箇の修羅として生きることもなく、詭 ろにしたたかな現実に絡めとられ、制度のなかに回収される。 刺身のツマみたいなものにすぎない。そんなものはたちどこ うとおもうのだ。現実の鉄面皮にとって小賢しい物言いなど るのではなく、ことばのおのずからなる力でなびかせてみよ 的なものとしてあらわれる現実の堅固を才知によって否定す わたしはまったくべつのことをかんがえている。常に両義 こにおいて自己の陶冶がおのずと他者への配慮を現成する。 のだ。生きる勇気がわいてくる自己の陶冶がそこにある。こ とで、すでにして同一性の彼方にあることばを現出させたい 固有のこだわりの、語ろうとして語りえぬことを究尽するこ かかんがえることができない。わたしはほかならぬじぶんに るわけでもない。ひとはだれもじぶんが生きてきたようにし たりするために書くのではない。ましてそのために生きてい という単純な理由による。わたしは世界を説明したり解釈し がやってゆけないとわたしがおもうことしか書くことがない らというわけではない。そのことをかんがえなければじぶん 的なことを当事者性において語るという表現上の方法だけは 生きたことのない、身の程知らずのものたちの分不相応な思 そのときわたしは匿名のだれでもありえないものとして世界 の余は予定調和を旨とする制度の知が囲い込み、この世のあ い上がりというものだ。堕ちよ、生きよ。じぶんを貫いて言 を手にする。そしてそれだけが普遍的な世界論たりうるのだ 手放さなかった。それがわたしにいちばんなじむ書き方だか わずにおれぬこと、語らずにはおれぬこと、かんがえずには とわたしはおもう。 りようを追従することになる。 、こ 、こ 、をど 、か 、にす おれぬことだけが、現実に亀裂を走らせ、こ る。この世が革まる機縁は存在のこういうあり方のなかにし Guan 創刊にあたって 7 02 割などありようがない。時代の制約があったにせよ、役割論 考えをつくるということはこの世のいかなるものにも帰属 だ一度もない、と。無論、この物言いがさらなる内面を喚起 言ってもよい。ことばが世界の無言の条理に触れたことはま 決定的な思考の転換が迫られているように感じてきた。こう 2 しないということだ。思念を言葉として書き継ぐ行為がなり という愚劣に人びとは数世紀のあいだ囚われてきた。なにか わいになることは、考えるということのうちには起こりえな わたしは人びとが悠遠の暮らしのなかで培った思考の慣性 し重畳するものではない。共同性がそうであるように、内面 さらにいくつも属性をつけくわえることができるけれど、そ 、る 、を明かす彼方からの襲来に誘われて、 をくつがえそうと、在 い。かくて考えるという行為は、この世のどこにも身をおく してそれらのいちいちと思考はたしかに相関はするのだが、 意識にとって尋常ならざる領域へと踏み込んだ。むしろ、あ もまた同一性が存在に穿った窪みにすぎないからだ。背後の その関係の総和をはみだすところに、考えるという無償の行 るものが他なるものに重なるからこそ、意識にとって、ある ことができないみなし児となる。親たちの子であるわたしは、 、る 、の感得は、いつ、いかなるばあいもそれらの 為がある。在 の機微については言わなかった。この事態は自己という存在 一閃に存在が不意撃ちされる。共同性とともに内面という心 、 諸関係を超越することとしてあらわれる。なにより思考は在 、を垂直に貫いて往還する。 る に先立つ存在の、存在可能性を示唆する。わたしたちはその 子たちの親であり、なにがしかの職業をもち、ある時代を揺 この無償の行為を名づけることはできない。考えるよりほ 存在を、意識という表現の形式でしか指し示すことができな の襞も、思考がやがてゆるりと包越する。 かにこの世で為すことがないから考えるのである。もちろん いが、存在するとは別の仕方であるこの存在は、同一性の彼 籃期として過ごし、やがて時代に遺棄され⋮、必要とあらば この行為は知的な上昇を少しも意味しない。じぶんの固有の 方の出来事だと言える。 ということはなにものでもありえないという事態をひきうけ 語ろうとして、考えることを考えるのである。だから考える 同一性としてではなく、性としてあらわれるのだ、と。わた 立つ存在の彼方によぎられるとき、わたしたちは自己という わたしはひそかに興奮する。こう言ってもよい。自己に先 ものとそのものがひとしいこととしてあらわれる。だれもこ こだわりの由来をつかまえようと日を繋ぎ、語りえぬものを ることだ。見通しがあって考えるのではない。考えるほかな 有者という。わたしたちの知る歴史の知性はここまで行くこ しは自己よりも疾くふたりである。この存在のありようを分 考えるということは共同性としてあらわれるどんな役割も とができなかったので、この大洋感情を同一性に封じ込め、 いから考えるのである。業病といえば言える。 拒絶するということだ。考えることにもともと果たすべき役 8 その心残りを神仏に言寄せてさまざまに言表し、近代の知性 はそれを自己意識の無限性が外化されたものにすぎないと批 判した。いずれにしても同一性という存在の形式そのものを 疑うことはなかった。しかし出来事の核心がそれで言い当て 行く。間に合うだろうか。 3 て人間という現象があらわれてくる由縁を現にあらしめるた て世界を表現したことがない。むしろそれがあることによっ 包者と呼ぶこともできる。わたしたちはまだこの知覚によっ ほかならないから、分有者のことを、根源の性を分有する内 れたあらわれを分有者と名づけた。内包存在とは根源の性に わたしは存在の彼方を内包存在と言い、内包存在によぎら じように矛盾や対立や背反することを避けられないのではな 関係は、同一性論理から派生する個と共同性という観念と同 互にどう連結するのだろうか。結局、分有者と分有者たちの うか。内包存在という根源の性によぎられた分有者たちは相 、ち 、の複数性の問題はどうあらわれるのだろ 世界では分有者た のかたちづくる世界とどこが違うのだろうか。内包と分有の して共同体や国家をつくるとして、分有者の世界は外延論理 同一性論理が自己をつくり、自己の外延的な延長が必然と めに、わたしたちは気の遠くなるような万余の歳月をくぐり いか。内包存在論を書き継ぎながらこの問いが頭から離れる られたことにはならない。 抜けるしかなかったのかもしれない。 たしはかんがえている。人びとの営みの前史が終わりもう一 う。内包と分有に拠る内包表現がそのことを可能とするとわ 収 で き な い お の ず か ら な る 世 直 し の機 縁 が あ る の だ と お も しい世界を現象させること。そこにだけこの世のあり方に回 自存の深みにおいてのみ、自己の陶冶が他者への配慮にひと 比類のないかなしみがあり、ふるえるような激しい夢がある。 の固有さにふれることができない。どんなささやかな生にも ちの同一性という意識の慣性が、抱いてもさしつかえない疑 的な過渡期の重畳ということができる。おそらく、わたした 立ち、歩き、触れ、呼吸しているからだ。この錯綜を人類史 張が内包論理だとしても、わたしたちは外延論理の世界を、 ときにこの混乱が生じる。故なしとはしない。外延論理の拡 りつつある世界をつい同一性論理の思考の慣性で視てしまう から、疑念は錯綜したかたちであらわれた。内包論理でつく わたしの試みは、迷路を手探りで進むようなものであった ことはなかった。 つの人類史がはじまる。それを内包史と呼びたいとおもう。 問と、理解がかなう答えを、制限している。内包存在論がこ 自己意識の外延表現という思考の慣性ではわたしたちの生 あたらしい生の様式をこの世にあらしめたいので、すでにあ の制約を跨ぎ超しつつある。 ﹃Guan﹄ ︵ ︶がその瞬間に 立ち会っているというべきか。 Guan 創刊にあたって 9 る知とは異なる思考に拠って、まっさらな世界認識をつくろ うとおもった。遠大な夢ではあるがそれをめざしてわたしは 02 この事態は人間の思考にとってただならぬ出来事なのだと わたしはおもう。同一性を拡張する内包と分有から、自己と 内包存在のそれぞれの分有者は、根源の性を分有する内包 者でもあるから、わたしによって生きられるあなた、あなた る生が一方的に受動的であること、そこに自己同一性から感 いう自然態と、それが織りなした必然としての共同体や国家 つまり、内包と分有の世界では人称がひとつずつずれて繰 知された生の不全感や死への恐れの淵源がある。生の奇妙さ によって生きられるわたしは、自己表現ではなく内包表現す りあがり、繰りあがることで同一性が事後的に分節した三人 の由来を根源まで遡ってかんがえると、生誕の謎という明暗 の彼方が遠望される。おのずからなる生とは内包存在を分有 称が、内包と分有に上書きされて消えてしまうのだ。それは 不明にゆきつく。みずからの意志で生まれたのではないこと する内包者の繋ける日々のことであるから、べつの言い方も 分有者が直接に性であるからにほかならない。内包の世界で に、生の意味を問い尋ねることや生の不全感の源がある。そ るものとしてあらわれる。分有者と分有者たちの微妙なあわ は、分有者は二者にして一者であるから、あるいは他なるも して生誕の謎は死の恐怖へと反転してあらわれる。死はなぜ いは、同一性の思考の様式に倣って謂えば、あたかも一人称 のが自らにひとしいものであるから、さらにひとりのままふ 恐いのか。それは生誕が謎だからだ。意味をめぐるすべての できる。みずからの意志がまったく関与することなくはじま たりが可能なるものとして生きられるから、三人称が存在し 問いはここへと回帰する。自己同一性を基点とするどんな表 と二人称の関係に比喩されてもよい。 えないことになる。 ままじかに性であるから、内包者は一人称と二人称を併せも 出されてしまう。ほかならぬわたしであるということがその この自然的なおのずからなる関係のなかでは、内包存在にた で本源的な関係は、内包存在にたいする分有者の関係である。 わたしのかんがえでは、人間の人間にたいする最も直接的 現もこの自同律をひらくことはできない。内包と分有が自己 つことになり、併せもつことにおいて内包者たちの相互の関 いする分有者の関係は、内包存在を分有する内包者にたいす 一人称が二人称をふくみもつということにおいて、世界は、 係は、あたかも同一性論理においての二人称の関係に似たも る内包者の関係であり、同様に内包者にたいする内包者の関 についての意識の起源にある闇をひらく瞬間だといってもよ のとしてあらわれることとなる。同一性が人倫として語る善 係は、内包者の内包自然にたいする関係となってあらわれる。 ︿わたしという性﹀と、それ以外のものへと転位してあらわ 悪の彼岸ではなく、思考が権力の始源をはじめて無化する瞬 、る 、が 、ま 、ま 、の現実にたいし、当為として、自 ひとはここに、あ い。意識の内包史がこうやってはじまる。 間だといってよい。こうやって内包史という歴史があらたに 己の陶冶が他者への配慮へと至る夢の懸橋を構想した若いマ れ、同一性論理が三人称と名づけるあり方がこの世から押し 立ち上がってくる。 10 おける思想の未踏は思考としては 超えられるものとしてあ のこしたあいまいさは剔抉されてよい。なによりマルクスに 体意志をもつ善きものであるとするなら、マルクスの思想が もしも人間という現象が事物とは異なるものであり、それ自 ルクスの熱い意志が拡張されているのを感じないだろうか。 の様式をつくりだす 。﹃Guan﹄は内包存在論を手がかり 包の知覚は、同一性がかたどる世界とはべつのやわらかい生 試みではあっても、神仏ではなく恋愛の彼方を可能とする内 史を内包史へと転換することになるだろう。系譜なき思考の 者の存在の形式と内包表現は、同一性が縁取った意識の外延 形態がかたどった軌跡の総体が人類の前史だとすれば、分有 に、内包表現がおのずと可能とする革命をこの世に現成させ る。 何事も初めがむづかしい。マルクスが商品の分析をもって るべく、少しずつ歩みを進めていく。 ﹃Guan﹄ ︵ ︶はそ 二〇〇二年︵平成十四年︶水無月 の入り口まで到達した。 間然するところのない﹃資本論﹄を著したように、わたしは あ る 存在を究尽することで︿内包論﹀を創ろうとかんがえている。 無謀な試みだとしても、彼が世界を向こうに回して闘った野 性の意志だけは受け継いでいる。今は残骸となって遺棄され ている、マルクスが紡いだ人倫についての夢想は、あるいは 若い頃にわたしを震撼させた吉本隆明の思想は、彼らの思想 を根底で支える同一性原理を拡張すれば、意志論として成就 するとわたしはかんがえた。 これから登攀することになる険しい理路を仰ぎ見ながら、 わたしは電脳社会の彼方を虎視眈々として狙っている。わた し の 構 想 の な か で は 、 同 一 性の 拡 張 を も っ て 、 ﹁人間社会の 前史はおわりをつげる﹂ ︵マルクス﹃経済学批判﹄ ︶ことにな る。国家も社会も貨幣も人間が自然と不断に交感するなかで、 自然を粗視化して不可避に編みあげた自然の代償態である。 、る 、の制約を ひとのこの生存のありようは避けようもなく、在 被った。ともあれ、内包論に即した貨幣論や社会論や浄土論 が、内包論の進展に見合って、これから書き継がれる。 国家と市民社会という制度や、制度を循環する貨幣という Guan 創刊にあたって 11 02 12 熱くて深い夢︱中村哲論 13 熱くて深い夢−中村哲論 本論は一九九六年、 ﹁部落﹂問題における差別︱被差別関係の解体を﹁部落︱共同幻想﹂として提示した原口論考への応答であり、 その深化をめざす。だが、 ﹁部落﹂には直接ふれず、彼は、パキスタン・アフガンの地でらいと難民の診療活動を展開するボランティ その理由は何か? 問題の根は部落解放運動のみにあるのではない。現代社会が、資本・テクノロジー︵金と情報科学︶を最強の ア・人権運動の旗手︱中村哲︵ペシャワール会︶の思想を俎上に乗せる。 幻想に仕立て上げ、そこに住まう人間達を我が身可愛さ︵自己同一性︶と競争原理で縛り、課題解決の処方箋を持ち得ない今、その 混迷に風穴を開ける思想的懸崖と隘路は、 ﹁知の処遇︵ふるまい︶と当事者性︵我がこと︶ ﹂にあること。そして、優れた人間的魅力 と力量を持つ中村哲もまたその限界を免れない、との揺るがぬ確信による。言い換えれば﹁地獄を目にし、部外者ではあり得ずと苦 悩する﹂私︵あなた︶と﹁自ら復讐を実行し、地獄を網膜に焼き付けた﹂あなた︵私︶が、じかにどこで関係をなしているか、を根 彼は、欲望や科学的迷妄の中で虚構の繁栄に酔う近代社会を撃ち、人間の背後にある﹁神聖な空白﹂に活路を求める中村氏の深い 本から問い直すことこそ重要であることを告げる︵自己同一性によらない新たな存在概念への拡張︱内包の知覚︶ 。 人間的洞察に共鳴しつつ、それを紙一重で不徹底ととらえる。神には目の中の塵は見えず。人は症例や解釈を拒み、固有の生を生き る。我が身を切る思いであれ、我が事ではなきことを語れる﹁司祭﹂の振る舞いは﹁知者︱権力の視線﹂なのだ。そして、自︱他の 隔てがない匿名の﹁無音の風圧のような輝き﹂︱﹁根源の性﹂を手がかりに、その数歩先︱﹁大団円﹂を遠望する。 中村哲が三十歳を過ぎて関わったボランティア活動に先行し、彼は学生時代、地域セツルメント︱部落解放運動に深く関与した。 彼はそこで、人間の愚劣や身体が凍りつく体験を経て、生還する。見聞したのではない。彼の身体の中には、 ﹁ハリマ﹂も﹁ムーサー﹂ も、 ﹁ケララ村の惨劇﹂も貫通し、今なお息づいている。 ﹁殺る﹂側にも﹁殺られる﹂側にも属さず状況を俯瞰できる第三の位置など ありはしないから。そして呻くようなつぶやき︱言葉が始まる。彼はおのれの︿生﹀の意味を熟考し続け、わたし︱人間の根幹の奥 全編に流れるのは、豊穣な詩である。そして、我が身を通し、人間の未来可能性の扉をこじ開けんと渾身でひた走る彼のうなり声 深くで息づく名を持たない﹁根源の性﹂=世界に触れていく。 が響きわたる。不可侵の︹熱さ︺が不可被侵の︹深さ︺と出会う地点とは、人が真実共に生きられる場所のことだ。個の網膜に焼き 付けた地獄は、ここで美しい音色の風景へと反転し神仏によらず豊かな大洋感情をもたらす、という彼の夢は信じるに値する。彼が れ﹀である︺という表現の格率から 、 ︹わたしは︿性﹀であ 書けぬことも書かぬこともある 。 ︹おれは人間ではなく︿お 有の体験というものがある。それは言葉に最も遠い場所だ。 開いた地平によって、人間は決して終焉せず、秋晴れのようにさわやかに、新たな歴史への一歩を踏み出すに違いない。 ︵原口︶ はじめに︱ It sent a chill up and down my spine. たとえどんな生涯であれ代理不能のふかく刻みこまれた固 14 世界の出来事だった。そうやって十数年を生き延びた。それ んであることのすべてだった。書くということはどこか遠い こんだ皮手袋を身につけ重ねた十数年。それがじぶんがじぶ をブルゾンの袖にしのばせ、灼熱の夏にボルトナットを縫い 二四時間。麻紐の滑り止めを巻きつけた一尺の肉厚鉄パイプ こを潜るほかなかった。不意の一撃にそなえ全身を眼にした すべてを賭け、殺されても殺してもゆずれないこととしてそ や 笠井潔 や ト マ ス ハ ・ リスの小説よりもサイコでハード・ボ イルドだった。終戦も手打ちもどこにもなかった。じぶんの た、避けようのない、昏い、仁義なき戦いだった。船戸与一 一人でながいあいだ戦争をやった。時代がうねって渦巻い 口論考の感想を走り書きする。 る︺という内包の知覚に至る、わたしの三〇年を賭けて、原 もなく思想のこととしてある。 だ。部落問題はいつもはじめから躓いている。それはまぎれ 落﹂をめぐるあれやこれやの論議はすべからくその後のこと 知の処遇と当事者性をめぐることにあるとわたしは思う。 ﹁部 えば 、 ﹁部落﹂を﹁両側から超える﹂ことの懸崖と隘路は、 たちは手にしたいのか。考えたいのはそこだ。理念としてい ら御免。そうではなくて、いかなる︹関係の内包︺をわたし 発は論外である。へつらいと甘えの凭れあった関係はまっぴ ことから言うのが筋だと考えた。 ﹁部落﹂問題の啓蒙とか啓 語っても嘘になるから徹底的にこだわる。原口さんとの﹁部 丁寧に書こうと考えた。 部 「落 を 」﹁両側から超える﹂という ことはどういうことか? 若い頃陥った愚劣に蓋をして何を いる。合評会の席で言いたかったことのひとつについて少し 余裕がありすぎた。おれたちの連合赤軍としてひきうけた一 たいで一切の感情がなくなった。コトバも消えた。死でさえ に見えた。じぶんがそこらに転がっている石ころとおなじみ る。一九八六年、三六の歳だった。自殺する人がやたら元気 は能面になった。迂闊だった。書かぬことも書けぬこともあ されるのか。また人はなぜわけへだてなくという心映えを思 な興味やのぞき見趣味からさかしらなことが言いたいのでは ることがあるという直感がわたしを捉えてはなさない。知的 したことのなかに、部落解放運動の超えがたい隘路と直結す 動をする中村哲という人がいる。中村哲が突き当たって煩悶 まだ会ったことはないが、パキスタンやアフガンで医療活 落﹂についての三〇年近い関係をしきりなおすには、自分の でもアタマのなかが一瞬で真っ白になる出来事のまえでおれ 九七三年春の昏い衝撃も吹き飛んだ。 Jumping Jack Flash!そ してわたしはビッグピンクにさわった。そこから内包表現論 念したり祈念したりするのか。そしてそれはなぜ可能なのか。 た。この二十数年、考えに考えてきたことをいくつか喋った 月刊誌﹁こぺる﹂合評会の席で原口発言に煽られ少し喋っ うとしたのか。この隘路を貫通しようと試みる者を時代遅れ の現地報告に渦巻いている。この艱難を中村哲はどうくぐろ こういう根本的で根柢的な、生身を裂くような煩悶が中村哲 ない。立場の違いを超えるとはどういう機微によってもたら をはじめ、一〇年が過ぎた。 つもりだが、何をいっているのかわかりにくかったと思って 熱くて深い夢−中村哲論 15 るまわれる者のあいだの亀裂に︱それは権力の関係だが︱条 に、思考の力をもってあたるとき、知を所有する者と知をふ 化のすべてを異にする。それにも関わらず、解決したい対象 高度︹消費︱情報︺社会の日本とでは政治・経済・宗教・文 ずに日を過ごせたことを感謝せよ。むろんかの国アフガンと る。人の足元を見るのも、見られるのも拒む道理が根づかな に世界や歴史を編み直そうとわたしは表現の未知に挑んでい 、た 、︺で 、あ 、こ 、点 、し 、は 、︹性 、る 、。こ 、を起 、 は作品であり、なによりわ 思想にすぎない。ここにはどんな思想の共同性もない。思想 、た 、し 、に 、と 、っ 、て 、だ 、け 、の においてだけだと思う。そしてそれはわ 、た 、し 、が 、生 、き 、て 、い 、る 、というそのこと 越はない。あるとすればわ 活性化の譬いである。生は超越であるが、わたしの思想に超 理が一度もとどいたことがないということ、そのことは歴然 いと、社会の成熟ということは金輪際ありえない。 ︹ わたし と嗤う者は、現実にも、考えるということにも一度も遭遇せ としている。ここを曖昧にやり過ごすから道理が根づかない という性︺を機軸にした道理が根づく傲然とした思想をつく 中村哲メモを書きながらわたしは終始じぶんの部落体験の し、社会が成熟しない。知をめぐる権力の関係の内包化は、 しく転変したかに見える。転変にみあってさまざまな意匠が ことを考えつづけた。このメモはわたしの三〇年に渡る︹部 りたい。熱ではぜる昂然とした思想を手にするにあたって踏 にぎやかに通りすぎていった。しかし思考の型というものは 落解放運動︺論の一つである。原口さんとの約束に応えたく、 今なお未踏の世界史的な課題として厳然と存在する。貧から なにひとつ変わってはいない。 ﹁諸価値は変わることができ ﹁中村哲メモ﹂を﹁原口孝博第二第三論文を読んで﹂︵*︶の み外すまいとする原則はこれだけである。 るし、人間は神の場に、その代わりを位置することができる。 第一章とする。 富へ、生産中心社会から消費社会へと、この世界はめまぐる 真なるもの、善、神聖さなどの代わりに、進歩、幸福、有用 性などがその場を占めることもできる︱しかし本質は変わら 号︵一九九六年五月 不変かどうかはともかくこの言葉は何かを言い当てている。 文は、 ﹃夕刊読売新聞﹄一九九六年七月四日∼五日掲載﹁思想課 号︶掲載の﹁部落差別と共同体意識の関連について﹂を、第三論 ︵*︶⋮第二論文は、雑誌﹁こぺる﹂ 思うに言葉には始まる場所というものが必ずある。そこで 題としての部落﹂のことを指している。なお、この論考以降に、 ないだろう ﹂ ︵G・ドゥルーズ﹃ニーチェ﹄湯浅訳︶本質が 言葉は世界とじかに触れている。それは社会からもっとも遠 第四論文として雑誌﹁こぺる﹂ 号︵一九九七年九月号︶に﹁部 いところだ。そこからしか言葉が始まらないということは、 NO 38 人がどうであれ、わたしの体験的確信である。わたしはすで 落差別と共同性をどう考えるか﹂が、第五論文として﹁﹃同和は ︵一九九八・八・一〇︶に、 ﹁︿部落・部 こわい考﹄通信﹂ NO 54 に思想を共同性の指標や拠りどころとする思考法からずいぶ ん遠いところに立っている。思考は生の縁飾りであり、生の 落民﹀=共同幻想の理解について①﹂が掲載された。さらに福岡 NO 127 16 一論文は﹃パラダイスへの道 ﹄に﹁部落に関するノート﹂とし 阿吽社刊﹃﹁部落民﹂とは何か﹄がそれぞれ上梓の予定。幻の第 水平塾双書として﹃藤田敬一さんを囲む座談会﹄という小冊子と、 であり、オルガナイザーとしても抜きんでた才をもっている。 ダラエ・ヌールへの道だった。すぐれた政治家にして経営家 のが一気にバッと躍りでた。それが彼のペシャワールであり 中村哲の4冊の著作を読んで即座にそうおもった。彼はヒン ズークッシュの白い峰を仰ぎ見ながら辺境の地で医療活動を している。 微妙なことをわたしはいいたくてたまらない。中村哲の著 作を読んで妙に気分がざわつく。中村哲の言葉の核にあるも の に わ た し の体 験や 実感の 核に あ る も の を ぶ っ つ け て み た い。中村哲とは何者か。 あという印象があり、なんとなく気にかかっていた。まるで 業作家より巧くて、切れ味のいい凛とした文章を書く人だな たが、本屋で時折ぱらぱらながめると、ハードボイルドの職 た本を買うことも、手にとってじっくりめくることもなかっ 中村哲とは何者か。そのことが気にかかる。中村哲の書い り、アフガン戦争であり、つまり新聞やテレビの報道をつう ていることは、ホメイニのイランとかイラクのフセインであ 言っている。わたしたちが西南アジアや中近東について知っ への道﹄という4冊の本で中村哲はしきりにそういうことを らの報告﹄ ﹃アフガニスタンの診療所から﹄ ﹃ダラエ・ヌール 星眼や赤眼になった。 ﹃ペシャワールにて﹄ ﹃ペシャワールか わたしたちの目はいつも西に向いているのでいつのまにか 船戸与一の﹃砂のクロニクル﹄みたいじゃないか。遠い国で じてつくられたイメージである。そしていつもピンとこない ある。ほんものだ。いったい中村哲とは何者か。本について らかれる気がした。はじめてのことだった。この男には芯が 暮らしているひとびとのくらしぶりがつたわってきて蒙がひ はわからない。中村哲の本を読んで﹁空白の西南アジア﹂に 陀仏もいくらかはわかる。しかしアッラー・アクバルの気風 字で見たことがあっても身につかない。アーメンも南無阿弥 の医療活動については人づてにたまに耳にしていた。しかし ヌーリスタンの渓谷︵2︶﹂ ︵﹁ペシャワール会報﹂ 落とした凛とした音色のいい言葉に惹き寄せられ、そこに稀 読もうとおもった直接のきっかけだった。彼のむだ肉を削ぎ ︶をもらった。このとき読んだ小文が中村哲の著作を全部 かれ 二年前の秋、友人から﹁ケララ村の惨劇︱生きる者驕るな のだ。イスラム原理主義とかムジャヒデンとかいう言葉は活 NO 別段そういうことに関心はなかった。 わたしたちはいつもどこか狭間にいる。世界は寒い。 ペシャワール遠望 は第三論文までである。 て掲載されている。なお、この小論を書く以前に発表されたもの '90 な地声を感じた。ふかいものに駆られ中村哲のなかの熱いも 熱くて深い夢−中村哲論 17 41 での医療活動を続けるようになった﹁縁﹂だったと本に書い の日本人医師が/高度消費社会のなかで/羅針盤を見失 タッフとともに/らいと難民の診療に従事する/ひとり パキスタン・アフガンの地で/1984年以来/現地ス くてよかったとわりきればそれまでだが、私はどうしてもそ くなることがおおくなった 。 ・・・こんなところに生 まれな ではあったが診療活動をとおして身近になるにつれ、気が重 ﹁はじめは興味本位で見ていた村人たちの生活も、ささやか いる腰巻きの宣伝文をそのまま引用する。 い/漂流を続ける/私たち日本人へ向けて放った/痛烈 れができなかった﹂ てある。 な/メッーセージ︵﹃ペシャワールにて﹄帯文︶ いふりをして通り過ぎることもできるのに、彼はどうしても わたしは中村哲のこの素朴さが妙味だと思う。気がつかな アフガンの山岳地帯の村々に/診療所を展開する/ひと それができなかった。このさりげない追想のなかに、人であ つまらぬ因縁だが、この人とわたしはYMCAの学生寮で りの日本人医師が/現地との軋轢/日本人ボランティア /ニッポンとは何か/﹁国際化﹂とは何か、を/根底的 一緒だったことがあるらしい。記憶にはなかったが、送られ ることの機微が語られているとわたしは思う。 に問い直す/渾身のメッセージ︵﹃ダラエ・ヌールへの てくる寮便りの名簿を見てふと知った。そのころわたしは六 の挫折/自らの内面の検証等/血の憤き出す苦闘を通し 道﹄帯文︶ 者さんとか聞くと、何となくこそばゆい気がするものだ。何 言葉は根づいていないので、難民の医療活動に専心するお医 ージはつかめるはずだ。まだこの国ではボランティアという だいたいこれで中村哲のやっていることのおおまかなイメ 気をつけんとよ と 」 いってくれたのを覚えている。別府橋に バリケードをつくって、うんかのように押し寄せてくる機動 下宿のおばあさんが 鉄 「 兜はちゃんと持ったね。毒ガスには あるその寮に転がり込んでいた。バリケード封鎖解除の前日、 ード火炎瓶事件の事後逮捕の人狩りで下宿を追われ、名島に 八年一〇・一四九大教養部本館死守別府橋ゲリラでのバリケ か崇高な使命感のようなものを抱いて中村哲は恵まれない人 隊に石ころを投げていたら、知り合いの女の子が﹁森崎さん、 瓶投げないわけにいかないじゃないか。おかげで面が割れた を救済しようとしているのだろうか。あなどってはいかん。 山登りが好きな中村哲は、一九七八年六月、福岡の山岳会 ぞ。あ、そういえば 、 ﹁パクられたら面会にいくけんね﹂と がんばって﹂なんか声をかけるものだからカッコつけて火炎 の遠征隊に参加して、ヒンズークッシュの白い峰を仰ぎ見て かいっとったなあ。ドン、ドンと水平撃ちのガス弾が景気よ そうではないと中村哲は言っている。 圧倒される。それがパキスタン北西辺境州やアフガニスタン 18 みたいだった。このとき現行犯逮捕をまぬがれたのはひとえ ラ狩りをする強力なサーチライトが闇を切り裂きまるで映画 く、数えたら天空にヘリコプターが十機も舞っている。ゲリ 納得したくて、このメモをとる。 わたし自身のぬきさしならぬ関心の所在を、腑に落ちるまで 称える世評を追認するためでもなく、貶めるためでもなく、 に百メートル 秒フラットの俊足によるものだった。青くて が跋扈し、バリケードという﹁サティアン﹂では口舌のガキ 一途な小さな諍いだった。学内や街角に針小棒大な不逞の輩 二年間ずっと気になってきた。それはすごく微妙なことで危 もいうようなものがある。それが何なのかということがこの わたしと中村哲のあいだには世界への関わり方の違いとで ういところであり、いったい他者にわたしの真意がつたわる が群れていた。わたしもつまらぬその一人だった。 中 村 哲 はあまり 目立 たない 学生 だったのではないかと 思 、き 、である〟などといってやられている かせ、〝世直しをすべ が大人になっていい仕事をするんだなあ。キラキラと目を輝 とにそこで遭遇した。つまりそこでわたしは剥きだしになっ に一所になだれ込んだことがある。世界が裏返る生々しいこ 若く血気盛んな頃、時代のうねりに翻弄され、錐揉むよう だろうかと、そこを書こうとするたびにぶれてきた。 〝医療〟ではないのが、じつに気分がいい。それにも関わら た世界の生地に首根っこをつかまれた。たしかにそのとき世 う。それがよかった。学生の騒動なんかに毒されなかった人 、り 、ができなかった。 ず難儀している人を見て彼は知らないふ ない、喉元が凍りつく体験のなかでわたしが身につけたこと 界にじかに触れた。表現ということを考えるときいつもその 彼は医者という知的な優位にいるから職能を使って恵まれ がある。それはすごく単純なことだ。 ︹我が事に終始する︺ 。 そのことを中村哲は﹁縁﹂といっているが、ここは中村哲の ない人に施しをするのではない。自他未分の無音の風圧のよ ここをじぶんの思想の格率とした。どんなに緻密に彫琢さ 生々しさが脳裏でちりちり音を立てている。この言いようの うな善悪や倫理に先立つ繋がりの応答として行為する。それ れたものであってもけっして他者の代理はやらない。そう思 世界の要だと思う。 、い 、ものにしているとわたし が彼の医療活動を偽善ではない強 そうやって二十数年、じぶんの生存感覚を貫くリアルなも い決めた。またそうするよりほかわたしはもうどこにも行け オヤジのように金策に走り回りながら、やりたい仕事を、た のをつかむことにかまけてきた。言うならば、世界の無言の は思う。親鸞の自然法爾という言葉が浮かんでくる。そのよ んたんとこなしている。その姿は颯爽として信じるにたる。 条理とでもいうものをこの手にしたかった。じぶんをふかい なかった。 わたしはじぶんのやむにやまれぬものに駆られて、彼の凛と ところで衝き動かすわけのわからない狂おしいものをつかま うなものとして彼はじぶんと気風のあった国で、中小企業の した立ち姿を遠くに見ながら、このメモを書く。彼の仕事を 熱くて深い夢−中村哲論 19 12 ているならば、それはとてもじぶんになじむような気がした。 サー﹂の昏い灼熱であり﹁ケララ村の惨劇﹂である。彼は﹁神 手をたたき、膝を打つ。それが﹁ハリマ﹂の悲であり﹁ムー さが緩急に姿をあらわす。その場面でわたしたちは息を呑み、 なによりもうあの愚劣をくり返さなくてすむ。しかし、どこ 聖な空白﹂というつながりの応答を梃子に、勢いに駆られ、 えようとするそのなかに、気がつくと社会や世界がふくまれ にもじぶんが欲しいと思う思想はなかった。やむなくわたし 痛烈に金満日本の消費文化と安逸を貪る者らを批判する。〝 わたしはこれらいくつかの断片だけを使い、編みなおして、 我々を砲撃せよ。 ﹁トウキョウ﹂を砲撃せよ〟、と。 れるスルメのような気分に何度もなった。内包表現論の世界 彼とは違うもう一枚の絵を描くことができると思う。きっと は吉本隆明の思想と格闘しながら、息をつめるようにしてじ から中村哲の仕事はどう感じられるか。阿呆な救済家や倫理 ここではもっといい風が吹く。いい風に吹かれて﹁ハリマ﹂ ぶんの言葉や概念をひとつひとつつくってきた。七輪で炙ら 家のゴタクなら一蹴できる。中村哲の遠い国での仕事はそう が恋をするわ、 ﹁ムーサー﹂が笑うわ、なんの拍子か ケ 「ララ 村哲の現地報告だ。中村哲の思想はこのパターンのなかに織 ぶかく残ったところがある。読後二年経ってもまだ忘れてい 中村哲がかの地でどういう仕事をやっているかとても印象 ハリマ を遂げる。 はおかない。そこまでいってはじめて思想という器量が本懐 村の惨劇 の 」 面々が踊りだすはずだ。そんな無茶な。いや、 それはけっして夢ではない。思想がそのことを可能とせずに 、ら 、ぬ 、こ いうことでは片づかぬ魅力に溢れていた。わたしがや 、る 、。それもまたそれぞれの﹁縁﹂ということ とを中村哲はや だろうか。 著作から中村哲の仕事を丹念にたどっていくと気がつくこ とがある。印象に残った箇所に折り込みを入れ、そこをパソ コンに入力して、じっと眺めていると、わたしの関心はいく つかの断片に分けられるように思えた。それは﹁ハリマ﹂だ ったり、 ﹁ムーサー﹂だったり、 ﹁ケララ村の惨劇﹂だった。 り込まれている。彼のなかには自他未分の無音の風圧のよう ない。中村哲の気分がよくつたわってくるところだ。 これらを人間の奥で息づく根源の場所から編みあげたのが中 なある輝きの実感があって、そこから陰影あざやかな印象深 深淵を覗くようでもある彼の文章の固有の力からきている。 の波及力と持続力と魅力は、活劇を見るようでもあり、魂の せると思わずスタッフたちも息をのんだ。妹は三〇歳に らい病棟をおとずれた 。 ︵中略︶別室でチャダルをとら 一九八五年のある日、二人の姉妹が老母をともなって いうねりに富んだ文章群があふれてくる。 ﹁ペシャワール会﹂ 善悪や倫理に先立つ絆の応答として彼の独特の自在さと激し 20 た皮膚は悪臭をはなっていた。 ていた。母親は右足に大きな火傷があり、壊死をおこし は顔の変形はまぬがれていたが、頭髪は完全にぬけおち 人だったというが、その面影もなかった。二歳歳上の姉 る骨格に見えた。無惨な姿だった。登録当時、非常に美 化した膿庖があり、まるでぼろぼろの皮膚をまとってい も鷲の爪のように曲がっていた。らい反応で全身に潰瘍 もならないのに鼻筋がおちくぼんで顔面が変形し、手指 みきった 。 ︵中略︶当然、患者は呼吸困難からは解放さ 数ヶ月ののち、たまりかねた私は、ついに気管切開にふ か生きながらえさせるかということであった 。 ︵中略︶ のまま重症肺炎におちいらせて死を待つべきか、なんと になかった。私がひそかにいだいていた暗い自問は、こ 痛々しいさけびも無視して病状のおさまるのを待つ以外 の特効薬は手にはいらなかった︶ 。 ﹁殺してくれ﹂という しば呼吸困難と肺炎におちいった︵その当時、らい反応 た。ソ連軍の侵攻で内乱が本格化したのが一九八〇年頃 ニスタン領内にある。彼女らもまた戦争の犠牲者であっ 彼女らの出身はクナールという、国境にちかいアフガ ていた。また、その当時のアフガニスタンとペシャワー のだろうかという疑問は、しばらく自分を暗い表情にし いう患者、ハリマという一個の人間はこれで幸せだった が困難になったということをも意味していた。ハリマと れたが、声を失った。同時に、それはまともな社会復帰 からで、当時クナールは激戦地のひとつであり、数十万 ル の 状 況 は あ ま り に 絶 望 的 であり 、 ﹁人間﹂にかんする いものにしていたからでもある。まるで闇の中からはげ 人 が難 民と し てパ キ ス タ ン 領内 の国境地帯 に 難を 逃れ 兄弟 の 多く は ム ジ ャ ヘ デ ィ ン ・ ゲ リ ラ と し て戦 死し しく突きあげてくるような、怒りとも悲しみともつかぬ いっさいの楽天的な確信と断定とを、ほとんど信じがた た。いとこ数名に守られてバジョウルの難民キャンプに 得体のしれない感情を私はもてあましていた 。 ︵中略︶ た。 身をひそめ、ペシャワール行きのバス賃さえなく、かろ あえて私は詮索しないことにしていた 。 ︵中略︶こうし 何かにおびえていた。過酷な体験は容易に想像できたが、 峠にせまっていた。峠のてっぺんでは激戦が展開され、 ことができない。ソ連軍はペシャワール近郊のカイバル この一九八五年の暗いクリスマスを私は一生涯忘れる う じ て 配 給 の 食 物 を 得 て 生 きていた 。 ︵中略︶彼女らは て 彼 女 ら は 少 し ず つ 快 方 に 向 かっていった 。 ︵中略︶半 復していた。市民たちは耐えざる爆破工作におびえてい 負傷者を乗せた車が連日連夜、市内の各病院と峠とを往 妹のハリマは病棟に残されていた。らい反応がくりか た。冬の雨期にはいったペシャワールの空は鉛色にくも 年後には母親と姉のほうは小康を得て退院した。 えし体を痛めつけていた。喉頭浮腫で声がかすれ、しば 熱くて深い夢−中村哲論 21 協力団体からは、はるかにはなれた国外で行われる 重 「 要 ﹂ 会 議 に 出 席 す る よ う 矢 の 催促 が き て い た 。 ﹁ 発展途 あふれていた 。 ︵中略︶当時所属していたある海外医療 帰れぬ者、ふるさとを失った者たちが病棟とベランダに れでよかった。彼ら患者たちとハリマの笑顔こそが何も 一片とともに命あることの楽しさを思いおこせれば、そ 忘れるあたたかさが必要だったのである。それが私の感 害と戦乱に疲れた者にとっては、たとい一瞬でも暗さを ︵中略︶鉛色の空と冷たい雨にこだまする砲声の下、迫 上国の現実に立脚して海外ワーカーとしての体験をわか のにもかえがたい贈り物であった。 ︵﹃アフガニスタンの り、砲声が間断なく市内まで聞こえていた。ふるさとに ちあい、アジアの草の根の人びととともに生きる者とし 診療所から﹄ ︶ ﹁出席命令﹂を力をこめて引き裂いた。私は、催しもの 自暴自棄の方が真実だった 。 ︵中略︶最後通牒のような くかざられたことばより、天をあおいでさけぶハリマの にした中村哲の眼のなかの塵。彼は司祭だ。司祭のようにふ を手に取りたいのだ 。 ﹁殺してくれ﹂と叫ぶ﹁ハリマ﹂を前 しは中村哲の独特の息づかいを感じたいし、彼の固有の思想 むやみやたらに長い引用を重ねているわけではない。わた 傷からでたものであろうと、口の中でとろけるケーキの て・・・。美しい自然と人びとに囲まれたアジアの山村 と議論ずくめのわりに中身のない﹁海外医療協力﹂と、 るまう。彼女ははたしてあれで幸せだったのだろうか。それ で語らいの時を・・・﹂白々しい文句だと思った。美し この時決別したのである。 豪華な食べ物であったろう。あるスタッフがいった。 た。山の中からでてきた患者にはおそらく最初で最後の キをヤケになって大量に買いこみ、入院患者全員に配っ クリスマスの日、ペシャワールでいちばん上等のケー のケーキの代金で五〇週間食費が賄える。 ﹁これくらいのぜ の暗いクリスマス﹂の情景がひしひしと迫ってくる。五〇個 ない。ケーキを喰おう、ケーキをふるまおう。 ﹁一九八五年 カイバル峠にせまり、連日激戦が展開され、砲撃の音はやま ともつかぬ得体の知れない感情を彼はもてあます。ソ連軍は は彼を暗い表情にし、激しく突きあげてくる怒りとも悲しみ ﹁ドクター、やつらにはこの味はわかりませんぜ。この いたくは、たまにはさせろ。おれの道楽だ﹂いいじゃないか、 ここでは中村哲は筋金いりの首領だ。この文章を読むわた 小さなケーキ一個二〇ルピーで一週間分飯が食えると聞 ﹁かまわん。ミルクをたっぷり入れた上等のお茶といっ したちは何者か。この文章を書く中村哲は何者か。奈落に沈 それが感傷であっても。よくわかる、文句ない。 しょに五〇名全員に配れ。これくらいのぜいたくは、た んでいくような気がする。神の眼のなかにある塵。神にも司 きゃあ、口が腫れますよ。もったいねえ﹂ まにはさせろ。おれの道楽だ﹂ 22 るものか 。 ﹁ハリマ﹂は一つの症例か。むろん症例は比喩で 祭 に も眼 の な か の 塵 が 見 え な い 。 ﹁ハリマ﹂は司祭の所有す ﹁あるゲリラ闘士の変貌﹂として次のように書いている。 とができるか。中村哲の思想は懸崖に立つはずだ。中村哲は 彼女の固有の生を生きている。それが﹁ハリマ﹂が生きると ンプルではない。引用の﹁ハリマ﹂は引用から伺えるかぎり かれることを拒否することが、生だとわたしは思う。生はサ の思惑がどうであれ、症例であることを拒否することが、書 哭を我が身を削ぐように書きとめる。しかし、たとえ中村哲 例として﹁ハリマ﹂を書くわけがない。彼は﹁ハリマ﹂の慟 いる。中村哲はそういう人だ。わかりすぎるほどわかる。症 さが表情に現れていた。ゲリラ仲間たちにさえ恐れられ ったのだろう。多くの殺戮と死を見てきた者に特有な暗 歴を人に話したがらなかった。言われぬ苦労と体験があ 途で剛直なパシュトゥンであった。ムーサーは自分の経 ラム教徒の習慣と節を守り抜く、私の知る限りで最も一 シュトゥン、ムーサーもその一人である。 ︵中略︶イス れ心の中に戦争の傷を背負っている。古参スタッフのパ JAMSの発足初期に集まったスタッフは、皆それぞ ある 。 ﹁ハリマ﹂が痛みで絶叫するとき中村哲の心も裂けて いうことだ。人は症例であることや解釈されることを拒むよ る歴戦のつわものであった事は知られている。 ある時、彼の故郷の、戦場の近くのバザールでの出来 うにしか生きていない。それがわたしの言いたいことだ。わ かるだろうか。 事である 。 ︵中略︶通りがかりに見ていると、ゲリラ党 派の若い戦闘員がバザールで何かやり取りをしていた。 食事の代金を払わずに立ち去ろうとしている。ただで食 ある。わたしのイメージのうちでは﹁ハリマ﹂と﹁ムーサー﹂ は比喩としていえばまた﹁部落﹂を両側から超える隘路でも 男が。そして﹁ムーサー﹂というゲリラ闘士と中村哲の関係 するところをあげてみる。いるんだな、こういう万国共通の ポジがある。それが﹁ムーサー﹂だ。こんどは胸がスカッと ﹁ハリマ﹂の物語が現実のネガだとすると、ここに現実の え﹂と言った。いくらこの世界でも、公衆の面前で他人 が向き直ると、ムーサーはライフルを構えて﹁代金を払 ムサルマン︵イスラム教徒︶か 。 ﹂意表をつかれた若者 に戦っとるんだ。貧しい者からふんだくって、それでも 本当にムジャヘディン︵イスラム戦士︶かい。誰のため ー サ ー が 足 を 止 め 、 若 者 の 襟 首 をつかんだ 。 ﹁おめえは 護神であるかのような傲慢な態度が看て取れた。突然ム ムーサー の両者は﹁ケララ村の惨劇﹂で再び出会うことになる。 ﹁ハ に銃を向けることは滅多にあるものではない。それに、 わせてもらうのが当然とばかり、自分がまるで住民の守 リマ﹂と﹁ムーサー﹂と中村哲の三者は大団円をむかえるこ 熱くて深い夢−中村哲論 23 ﹁払わなければ、おまえを殺す﹂と吠えるように言った。 元を覆った。そして、今度は水平にライフルを構え直し、 て数回たて続けに発砲した。銃声とともに土煙が彼の足 視するように﹁払え﹂と怒鳴りつけ、若者の足下に向け いるんだ。ただでは済まさんぞ 。 ﹂ムーサーはそれを無 でムーサーに食ってかかった 。 ﹁俺たちを誰だと思って 顕さない 。 ﹁ケララ村の惨劇﹂でわたしたちはそれに出会う が知れない。体験の底をあらいざらい抉らないとそれは姿を はいったい何に基づくのか。その道行きはまだ杳として行方 ことだ。 ﹁超える﹂とはどういうことか。 ﹁わけへだてがない﹂ 、か 、に 、ど 、こ 、で 、関係を成しているのかという サー﹂と中村哲がじ が関心を持つのは、皮膚の下に暗い苛烈を焼きつけた﹁ムー むきさを一皮剥けば生身の﹁ムーサー﹂が躍りでる。わたし きついた灼熱の氷原が溶けることはない。一途で一徹なひた 形相が変わっていた。本気だった。さすがに若者は仰天 だろう。このリアルの不分明に見合ってその間隙に中村哲の この若者の党派の仲間が大勢周囲にいた。彼は数を頼ん し、遠巻きに見ていた群衆もムーサーを支持したので身 金満日本の消費社会批判がひょっこり芽をだす。 は自分の経歴を人に語りたがらない。中村哲の器量が﹁ムー り過ぎていった。それは間違いないことだと思う。だから彼 しは云いたい 。 ﹁ムーサー﹂の眼と耳と体を多くの殺戮が通 神の眼にある塵のような見えない権力の関係でもあるとわた は一途な信義で結びついている。しかしこの信義の関係は、 ことをいう。一徹なひたむきさをもつ﹁ムーサー﹂と中村哲 謳歌していた時代は去り、日本はまるで、高度に管理さ 報化社会﹂や﹁テクノロジーの時代﹂の到来を無邪気に 対する怪しげな信仰と信頼は陰りを帯びてきていた。 ﹁情 に現実のものとなりつつあったと言える。進歩や発展に よりは、以前に危惧していた漠然たる予感と不安が次第 った。日本もまた急激な変化にさらされていた。という この五年間に変化したのはペシャワールのみではなか 我々を砲撃せよ﹁トウキョウ﹂を砲撃せよと中村哲は云った に危険を感じたらしく、金を払って立ち去った。 ︵ ﹃ダラ エ・ヌールへの道﹄ ︶ 喝采を送る。 ﹁ムーサー﹂は義しい。 ﹁ムーサー﹂のような サー﹂を惹きつけていることは想像に難くない。彼のうちに れた社会と﹁進歩﹂の奏でる喧しい不協和音で狂ったよ 男がわたしは好きだ。胸のすくような気がするとはこういう はいかなる欺瞞も驕りもない 。 ﹁縁﹂によって彼は成すこと 一九八八年夏に帰国した日本の状態は、元来﹁日本で うにさえ思えた。 慢はかけらもない。だから地獄を見た剛直な﹁ムーサー﹂が しか生きられぬ﹂と言っていた保守的な日本の庶民たる を成すだけである。彼には難儀する人を救うておるという傲 中村哲に付き従う。しかしそれでも﹁ムーサー﹂の網膜に焼 24 と嘆息させた。親殺しや子殺しのニュースが続き、溺れ 家内をさえ 、 ﹁こんな国で子供を育てるのをためらう﹂ る。中村哲みたいにめんどうなことを云う必要もない。実感 とは理念でもなんでもない。人と社会が金とテクノロジーに に即して云えば、 ト 「ウキョウ を 」砲撃しようが、我々を砲撃 しようが、現地アフガニスタンに金と情報が流入すれば、早 なびくのは火を見るより明らかなことにすぎない。なぜなら る者を目前で見捨てた自衛官や警察官の報道が連日行わ すべてがカネに換算されて評価される﹁カネさえあれ 晩、金満日本の二の舞をするのは眼に見えている。そんなこ ば﹂という露骨な風潮と、およそ非常な、過度に組織化 資本とテクノロジーが現代社会の最大の宗教であり、その利 れていた。 ︵中略︶ された機構とが不気味な対象をなして目についた。 ︵中 便と安逸が人類がつくりえた普遍であることは疑いようもな ある。妄想をたくましくすれば、国内外を問わず、我々 と自然を壊し、カネを東京や西欧諸国に貢いでいる訳で 行した。進歩や近代化の名の下に、せっせと自分の古巣 る。日本で、憂さ晴らしに女性を数ヶ月監禁して暴行を 冷厳な現実を以て審き、生の尊さを知らしめるべきであ がある。理由もなく他人を死に至らす行為は、死という 私は安易なヒューマニズムに基づく死刑廃止論に疑問 ない。痛快なことを臆せずに語る。 いからだ。もちろん迷妄なことだけを中村哲がいうわけでは 略︶ こう見ると、ペシャワールでも問題は同じであったよ うな気がする。難民援助が消費生活にはずみをつけ、不 が 眉を ひ そ め る地 域 社 会 の 打ち 壊し と 拝 金 主 義の 根源 加えコンクリート詰めにした事件や、少年たちが集団心 釣り合いな奢侈と隣合って、貧困と伝統社会の破壊が進 は、手前の都合で人間を置き去りに自己運動する﹁トウ 理で浮浪者をなぶり殺しにした事件を聞いて慄然とした 我々を砲撃せよ 。 ﹁トウキョウ﹂を砲撃せよ。これは を聞いて更に恐怖感を覚えた。飛躍するようだか、まさ が、各人が集団性の中で罪悪感を持たなかったという事 さば キョウ﹂にある。 ︵中略︶ 虚構の繁栄と余りの貧しさとの間で覚える私の正直な実 にこれは集団による殺戮行為たる戦争の心理に通ずる。 引用のこの箇所だけ勘案すれば、似たようなことを書いた だろう。 ︵﹃ダラエ・ヌールへの道﹄ ︶ われようと、あらゆる手段で断固たる私的制裁を加えた 私がもし殺された者の肉親であれば、たとい法で罪に問 感でもある。 ︵﹃ペシャワールにて﹄ ︶ だんだんと核心に近くなってくる。アフガニスタンで苛烈 な見聞と体験を深めたから金満日本を中村哲は批判するので はない。もっとはるかに深い善悪未生の根拠から日本を撃ち、 かの地をも同時に撃っているのだ。かれはしかし混乱してい 熱くて深い夢−中村哲論 25 り喋ったりする 口舌の保守はいくらでもいる︵﹁死刑﹂制度 の是非についてはわたしには一般的に論じる習慣がないので 脇 においておく ︶ 。この頃妙に威勢のいい、機を見るに敏な 新保守の風見鳥どもの、気骨のカケラもない口舌は言うも愚 か、論じるにすら値いせぬが、わたしは中村哲の著作を丹念 空白﹂と交差する。だんだんメモのクライマックスに近づい ている。 たる私的制裁を加えると彼はいう。あたりまえだ。殺人者に 説を中村哲なら一蹴する。自分が被害者の肉親ならば、断固 のない欺瞞家芹沢俊介らの﹃密室﹄という本の腐れ果てた言 まるで違うことがよくわかる。吉本隆明にゴマをするしか能 さない。彼の表現の凛としたふるまいはいつもここから流れ だ。この感覚は中村哲を根っこのところでつかんでいてはな 著作のなかからひろってみる。それはとても音色のいい言葉 ︵﹃ペシャワールにて﹄ ︶について中村哲がいっていることを ﹁神聖な空白﹂という﹁人間の奥にひそむ確かな何ものか﹂ 神聖な空白 妙に理解を示す生煮えの文化人を嫌悪し憎悪する。彼らには てきている。 に読んできたので彼の云うことが口ペラの保守や倫理家とは 肝というものがない。解釈と時代へのへつらいだけが表現だ と錯覚している。こういう馬鹿どもと中村哲を一緒にするわ ︹﹁自動販売機文化﹂の一現象で、金を用意して電話一本か きである﹂という或る神学者の主張は頷けるものがある。 なく、もっと大きなもの、人間が共通に属する神聖な輝 良 心 や 徳 と 呼 ばれるものでさえ 、 ﹁その人の輝きでは けさえすれば、カタログ通りの望みのものが手にいるという、 づかぬ傲りや偽りを生ずるというのが私のささやかな確 けにはいかない。 気軽な風俗︺ ﹃ダラエ・ヌールへの道﹄ ︶なんか気に入らな ( いと現実を痛撃するとき、彼のなかには 、 ﹁人間に本当に必 信の一つである。 ︵ ﹃ダラエ・ヌールへの道﹄ ︶ にすぎない。そしてここが中村哲の思想の懸崖であり、危う それがなければ中村哲の言うことはつまらぬ倫理家のゴタク ている。この実感のことを中村哲は﹁神聖な空白﹂と呼ぶ。 に異なる文化環境の中でさえも、その核にあるものはそ 修飾され、洗練され、或いは覆われていく。しかし極端 いる。それは生まれ育った環境と出会いの中で、様々に 我々はそれぞれに、心の中に死生観や善悪観を持って これを自分の業績や所有とするところに倒錯があり、気 要なものはそう多くもなければ複雑でもなく、時代と所を超 くてきわどい消費社会批判が一挙に曝されているところだ。 う変わりようがないというのが私の確信である。幻覚妄 えてある ﹂ ︵同前︶ということがリアルな実感として存在し ︹我々を砲撃せよ 。 ﹁トウキョウ﹂を砲撃せよ︺が﹁神聖な 26 る﹁テーゼ﹂が現れようと、根幹で一致できるなにもの マホメットが現れようと、はたまたそれらを一切否定す れようと、蓮の花に囲まれる仏陀が現れようと、精悍な 想の病理は別として、後光のさすイエス・キリストが現 ではいえない︹なにか︺がわたしのなかにあった。それは︹内 糾弾。わたしはどうしても譲るわけにはいかなかった。言葉 引き寄せられた。知の所有をめぐってなされた存在への絶対 った。わたしたちの小さな諍いも、あり地獄のようにそこへ によるテロルだった。今は残骸だとしてもそういう時代があ の内ゲバ殺人であり、連合赤軍による死の粛正であり、爆弾 さば かを人間は共有している。それらの一致点をなおざりに とてもよく似た感覚だ。ここまでくるのに、ふーっ、三〇年 包の知覚︺ということだったが、中村哲の﹁神聖な空白﹂と、 するところに、優劣の尺度で人を審いたり、価値観の押 しつけが生ずる。 その﹁一致点﹂について、哲学者でもない私がとやか の傲り、偽りが生ずる。投影図の操作で実態を操作でき 私は思っている。実体と投影図を混同するところに人間 この、人の言葉の限界と相対性を自覚することにあると 葉で意味を与えようとする事である。謙虚さの根源は、 呼べるものを共有し、それに自らの生活から滲み出た言 人はそれぞれに、侵してはならぬ﹁神聖な空白﹂とでも きるのは、およそ人間と名のつく動物の集まる社会では、 ない。先を急ぐ。これはわたしの滝沢哲学に対する感想でも 想を走らせる。しかしもう明日は原口さんと会うから時間が をつきあわせて話ができたらいいのになあと、ふとあらぬ空 ﹁根幹で一致できるなにものか﹂について滝沢さんを交え膝 克己やバルトをものにしている。なまなかなことではない。 した中村哲の風貌は滝沢克己によく似ていた。中村哲は滝沢 己やカール・バルトの言葉が思い浮かぶ。テレビでふと眼に 中村哲が﹁神聖な空白﹂と名づけるものからすぐに滝沢克 近くかかった。 ると信ずる所に、人間のこっけいな悲劇が生ずる。 ︵ ﹃ダ あるが、インマヌエルというも 、 ﹁神聖な空白﹂というも、 くいえるものではない。ただ、現地での体験から確信で ラエ・ヌールへの道﹄ ︶ わたしは﹁根幹で一致できるなにものか﹂についての不徹底 もっと緻密に絞り込むことができはしないかということだ。 ﹁神聖な空白﹂という言葉が鮮やかな印象として残った。 が中村哲の消費社会批判を呼び込んでいるのではないかとい 彼は﹁神聖な空白﹂の表現のしくみを﹁実体﹂と﹁投影図﹂ 中村哲の云わんとすることがビンとくる。中村哲の生の根柢 にある。彼の表現はすべてここから流れ下ってきているのだ。 という比喩を用いて説明する 。 ﹁実体﹂とは人間の背後で息 う気がする。 その昔まだ若かった頃、小さな諍いが軋んでめくれるように づく人間となにものかとの﹁根源﹂をなす関係のことであり、 には﹁神聖な空白﹂の手触りの感触とでも呼ぶものがリアル 一所に追い込まれていった。人々の知るところでは、党派間 熱くて深い夢−中村哲論 27 です、というのならわかる。この奥深さは 、 ﹁ハリマ﹂とは ですよ、いやぁ、これで道楽の世界もなかなかに奥深いもの たしの理解では、滝沢哲学の﹁インマヌエル﹂とその表現点 何者か 、 ﹁ムーサー﹂とは何者かを問うことに等しい。人間 ﹁投影図﹂とはその現れとしての﹁現世﹂のことである。わ としての﹁物﹂や﹁主体﹂という思想の核心が、中村哲の﹁実 もっとそこに接近したいので中村哲の歴史感覚がかいま見 体﹂と﹁投影図﹂に対応している。だから滝沢克己とおなじ しかしこの思想は固有の歴史概念をもちえないから、現実 えるところを引用する。人間の精神生活は思考の型としてみ の奥で息づく 根 「 源﹂の由来を考えつくすことの不徹底と、 症例の﹁ハリマ﹂を描写する中村哲の眼のなかの塵が、どこ に対処したとき現実に異和をおぼえるあふれた意識の余剰は れば、前近代の迷妄が現代化された迷妄に取って代わるだけ かで共鳴している気がしてならない。 概念の節目をつくることができず、倫理的言説として表現さ だと彼は言う。おのずからなる人々のくらしをみずからなる ようなことを中村哲はいう 。 ﹁投影図の操作で実態を操作で れるほかない。それが中村哲の︹我々を砲撃せよ。 ﹁ トウキ 言葉で中村哲は掬い取る。 きると信ずる所に、人間のこっけいな悲劇が生ずる﹂と。 ョウ﹂を砲撃せよ︺という心情となってあらわれる。世界に そこには言葉にはならないものがいっぱいつまっている。安 しなんかどこにもない。三〇年は生涯にとって長い歳月だ。 なくまるごとこの倫理を生きてしまうのだ。砲撃されるわた がない。倫理はけっしてここにとどまらない。とどめようも だ。 ︹生︺の狂おしさがこの程度の現実批判におさまるはず は通過儀礼としてとうに通り過ぎた既知の世界の風景だから 近代化の恩恵は我々の日常生活の便利さと快適以外に何 あるだけマシであった、と私はつくづく感ずるのである。 すぎない。そして、古い迷信の方がまだ人情味の残滓が もらしい科学的迷信におきかえられてゆく過程であるに 限り 、 ﹁近代化﹂とは中世の牧歌的な迷信が別のもっと だすことができる。人々の精神生活をらいを通してみる らいをこの地で見ることを通して、一つの結論をひき 吼えたい、その気分はよくわかるのだが、不満である。それ 逸を貪るなどという形容を一刀両断する苛烈と狂おしさと戦 があったのであろう。人間の意識の中で空白となった神 現代の最強の偶像が資本とテクノロジーであることは言う はあるまい。 ︵ ﹃ペシャワールにて﹄ ︶ の座に別の目に見えぬ偶像が居座ったといっても過言で 慄に満ちたささやかさ、それが︹生︺だ。 中村哲の﹁神聖な空白﹂という根源は拝金主義の金まみれ の現実の魅力に負けているような気がする。人間という自然 深いというのがわたしの実感だ。なんだかんだいって、要す までもない。中村哲にならえば、現代とは近代が世俗化され の欲深さは、中村哲が思い描くものよりはるかに手強くて根 るに人助けというのが私は好きなんですね、金のかかる道楽 28 た迷妄にすぎないということになろうか。彼はたしかな手触 てる者の驕りだという気がしてならない。おのずからなる人 残滓があるだけマシ﹂なのだろうか。わたしはこの鳥瞰は持 か し 中 村 哲 よ、 ほ ん と う に 、 ﹁古い迷信の方がまだ人情味の のの説明を試みるらしい。ここに哲学や神学が発生する 般化せぬ間は、形而上学的な観念操作で納得のゆかぬも 活様式とを矛盾なく同居させようと努力する。それが一 人間は常に、新たに流入してくる価値観と、過去の生 性を示しているところだ。 々の生のありようをみずからなる言葉で切り取るとき、知が 基盤のあることは、現地社会を見ているとよく理解でき りでそのことを実感している。それはよくわかるのだが、し 見え な い 権 力を 引き 寄せる 。こ の わ ず か な 隙間 に中 村 哲の るのである。 ︵ ﹃ダラエ・ヌールへの道﹄ ︶ ひ と 他人事性がうっかり姿を現してしまう。渦中にあるとき、貧 や苦にまみれた生が、ここではないどこかをめざさないとい いう俗耳を蹴飛ばすこととは全くべつのことではないか。古 貧しかったが、今はくらしはともかく心が貧しくなった﹂と から崩したいと思っている 。しかしそう思うことと 、 ﹁昔は わたしもまた懲りずに出没する新式の偶像という奴を土台 学や神学の発生する基盤だという中村哲の見事な見解を、そ 崖はそこにはない。表現とかたちのあいだのタイムラグが哲 上学的な観念操作そのものである。しかし中村哲の思想の懸 なんら事情は変わらない。科学もまた対象を粗視化する形而 くとも、ガン治療の迷妄をもちだすまでもなく、この国でも あ ま ね く思 考 と は こ う い う も の で あ る と い う見 本 の よ う い迷妄の方がまだしも人情味があるなどという郷愁を感じる のまま中村哲の思想に押し返してみるとどうなるか。そこが うことがあるだろうか。たとえその軌跡が、ふりかえってみ とき、人は頭の後ろに眼をつけて進んでいるのだ。弁当のお 問うてみたいところだ。中村哲が哲学や神学というとき、す な、普遍性をもった言い方だと思う。たしかにわたしたちは かずのことで物語がつくれなくなったのは良いことではない でにそれは規範化した哲学や宗教を指している。もちろんそ れば、ある牧歌的な迷信が別の科学的な迷信におきかえられ か。くらしのいくばくかの豊かさが、つるんとした心映えと んなものはクソだが、時と所を超えてある人間の背後に息づ 中村哲が言うように生きている。表現の高度化は常にくらし 生の貧血を競りあげたからといって、それが何だ。景気はさ くなにものかを、 ﹁根幹で一致できる﹂ 、譬わば﹁神聖な空白﹂ るだけで、そこに目に見えぬ別の偶像がまた居座ってしまう っぱり、低空飛行というのが実状だ。郷愁を感じる余裕なん と中村哲が呼んでいるのはまちがいない。たしかに明暗未明 のありようとずれ、そこに迷妄が生ずる。べつにかの国でな かないぞ、と言いながら、彼の次の物言いは、うん、面白い。 の自己未分の無音の風圧が存在する。そこが人間という概念 にすぎないとしても。 危うい他者の代理がきわどいところで欺瞞にはならない柔軟 熱くて深い夢−中村哲論 29 の消滅するところであり、どうじに人間という輪郭が出来す てきた。しかしわたしも七面倒くさいことをよういうなあ。 こから世界がまたあらたにはじまる。人間の奥にひそんで息 はある出来事の事後的なあらわれだ。根源を巻きなおしたそ う。世界も存在も幾重にも褶曲している。中村哲が触る根源 さあ、中村哲の﹁神聖な空白﹂という醍醐味を編みなおそ めくれかえって反転する。そこは﹁ケララ村の惨劇﹂でさえ 界や人間という概念は︹根源の性︺という︹存在︺に陥入し、 概念に拡張しようというのだ。おそらくこれまでの歴史や世 思考の転換を指している。 ︹根源の性︺をそっくり︹存在︺ いうまでもなくわたしが表現の未知ということは、根本的な わたしたちはかなりきわどいところまできているはずだ。 づくなにものかの背後のふいの一閃。 ﹁根幹﹂の背後に、世 怯んでしまうなまめかしくて狂おしい世界だ。凍りつきなが るところだ。 界のもっともふかいものよりふかい、一瞬の閃きがある。ふ ら﹁ケララ村の惨劇﹂とまみえる。 ﹂一九九四年十月二六日︶ 議、仮面の﹁ハリマ﹂が笑い、 ﹁ムーサー﹂が恋をし、 ケ 「ラ ラ村の惨劇﹂が輪になってダンスする。ほんとうはそういう の知覚という根源の一閃がはるかに流れくだって、あら不思 その余熱が衆生︵救済︶や余儀なき社会を生んだのだ。内包 十軒連なるだけである。最近内戦の痛手から少しずつ立 たかだか一千名前後の人口で、ひなびたバザールが約数 スタンのワマに向かうには、クナールの州都・チャガサ ダラエ・ヌール診療所から、ダラエ・ピーチ︱ヌーリ ◆一五〇〇名を殺戮 ●ヌーリスタンの渓谷︵2︶JAMS顧問医師中村哲 ︵﹁ペシャワール会報 ケララ村の惨劇︱生きるもの驕るなかれ ケララ村の惨劇 いの一閃がよぎったあらわれを歴史の制約のなかで、ひとび とは神や仏と称してきた。インマヌエルに先立つ内包の知覚 が存在する。それが世界の一切の根源だ。人間も神も、世界 も社会も代理せず、ただ在ることを、考えることを感じ、感 じることを 考えると 、何があらわれるか。 わたしはそれは ︹性︺だと思う。 ここまできてやっと﹁超える﹂とか﹁わけへだてがない﹂ ということが現実のものになる。根源の︹性︺は、自他をお のずと超えているということにおいてすでに超えており、わ けへだてようがないということにおいて、すでにへだてがな ことだ。あまりにながいあいだわたしたちはおもいちがいを ち直り、平和になってきた。戦乱の面影は一見うすれ、 ライを通過する 。 ﹁州都﹂と言っても、農家を除けば、 してきた。この錯覚のうちに世界は巻きとられ歴史を彩なし い。根源の一閃があるから神仏という大洋感情が可能となり、 NO 41 30 るようになった気がする。ここで述べても、死者に失礼 なって、このことについて触れる気持ちのゆとりが持て 来事が、見る人の気を重くする。私自身、やっと最近に かれている。しかし、これにまつわる恐ろしい過去の出 程の日干しレンガの、質素な塀に囲まれ、ひっそりとお 外れに六〇坪ほどの大きな共同墓地が、高さ二メートル 心地よいバザールの人混みの喧噪が広がっている。その 由のないことではなかった訳である。 難民たちの、一種異様な、敵意と暗さを感じたのは、理 バジョウルの﹁ケララ・キャンプ﹂である。当時これら 退避先が、五年後の一九八六年、私たちが初めて訪れた にパキスタン側の国境地帯に退避した。この村人たちの ったか想像に難くない。当然、生き残った者はいっせい 口の少ないアフガニスタンの村落で、いかなる惨事であ 千名以上の無抵抗の村人が数日で屠られたのである。人 されて昇進したと云われる。だがクナールの住民は彼の タナイ将軍は 、 ﹁匪賊討伐の大戦果﹂をソ連軍に評価 にはなるまい。 この墓地はケララ村の一五〇〇名の犠牲者を地下に眠 ララ村は 、 ﹁ゲリラをかくまっている﹂とされてソ連= 一九八〇年四月、州都チャガサライの北側に隣接するケ 反旗をひるがえした地域として、徹底的な攻撃を受けた。 未遂事件である。権力奪取に手段を選ばぬ行為は、多数 将軍と或る反政府イスラム党派の結託によるクーデター 湯を飲まされることになる。すなわち、政府軍のタナイ する ゲ 「 リラ活動﹂を以てその復讐にかけたが、十年後 の一九九〇年四月、味方であるはずの反政府党派に煮え 名を長く忘れることはないだろう。彼らは政府軍に抵抗 政府軍に包囲された。当時この師団を指揮していたのは の住民を、決定的な政治党派不信に陥れた。アラブ系団 らせている。 アフガン政府軍のタナイ将軍で 、 ﹁匪賊討伐﹂と称して 体に押される軍事組織は、この無節操をなじり、クナー 内戦の初期、クナールは、共産政権に対して真っ先に ジ ャ ラ ラ バ ー ドを 基 地と す る機 械 化 部 隊が 進 出し て い で手厚い保護を受けて生活している。おそらく、彼がま ルにおける党派抗争の一因となった︵タナイ自身は、こ 第一回が八〇〇名、第二回が七〇〇名、それぞれ広場 ともに外出することはできないだろう。生き残りの村民 た。同年五月 、 ﹁匪賊討伐﹂で、ケララ村の虐殺が始ま に集められ、老若男女を問わず、無差別に銃弾が浴びせ たちの手によって、いつかは制裁が行われるにちがいな の事件後、ペシャワールに逃れ、その後イスラマバード られた。村民の多くは確かに反政府ゲリラに同情的では い︶ 。 った。殺戮は二回に分けて行われた。 あった。しかし、自分の故郷を廃虚にしてまで戦う意志 はなかった。殺戮と略奪は付近の村落にも及び、実に二 熱くて深い夢−中村哲論 31 ◆血で血を洗う抗争 以上は、アフガン全土で起きた、ごく一例にすぎない。 内戦中は、数百・数千の﹁ケララ村﹂が存在した。しか の力﹂が支配していた。彼らは︱殺された者も殺した者 も︱地獄を見たのである。 ◆地獄を知らぬ者の残虐 で、血で血を洗う抗争がくりひろげられた。復讐は伝統 ク ナ ー ルと ダ ラ エ ・ヌ ー ルが 地 元 民 の 手に 帰す る ま 無かった。或る元軍人などは、避難民になってからでさ らが支えた国軍による蛮行に思いを馳せる者はほとんど ル避難民たちも、多くは自らの悲惨を語るに忙しく、彼 一方、ペシャワールで観察する限り、銃後に控えてあ し、ここで単に内戦の悲劇、特に被害者の惨状のみを語 的な掟である。わが地元ゲリラたちも、旧ソ連=政府軍 え﹁任務﹂に終わった明るい解放感で、罪悪感のみじん るのは事態を正確に伝えることにならない。伝える価値 に対して、過酷な報復を行った。政府軍に協力する村落 も見られなかった。彼らの中央意識と共に、この気楽さ の光景を知らぬ者たちは、カブールが壊滅した後も、相 を襲撃し、一挙に数十名を殺戮した例も珍しくなかった。 が、暗い不平と同様、私にとって異様かつ不愉快であっ があるのは、むしろその後の地元アフガン人たちの反応 捕らえられた政府軍兵士は、彼らが行ったと同様に、鼻 変わらず﹁アフガニスタン﹂と天下国家を語った。超大 や耳をそがれ、恐怖の極限で処刑された。公衆の面前で、 た。 亡 「 国の憂い﹂も、どこか作為的な響きを拭いきれ なかった。 である。活動地クナールで私が見聞きしたものは、当時 ナイフで生きながら捕虜の首をはねる光景も、普通に見 この対極がダラエ・ヌールなどの農村であった。現地 国の干渉をなじり 、 ﹁イスラム﹂を論じた。彼らにとっ られた。さらに、この﹁見せしめ処刑﹂は住民の恐怖心 で見る限り、戦後、復讐にいきり立ち、銃をもって闊歩 の大部分の庶民︵旧難民かつゲリラたる農民たち︶に共 を倍加させ、暗い闘争心に油を注ぐ悪循環を作った。こ していたのは、決して地元の旧ゲリラたちではない。党 て、カブールがアフガニスタンの全てであり、戦場の農 の私的制裁に比べればカブールで行われた政治犯の逮捕 派の傭兵か、戦時中難民キャンプで何も知らずに成長し 通する出来事であったと思う。おそらく表面には決して や投獄・処刑は紳士的にすら思える。農村地帯の出来事 た若者たちである。強者と弱者が逆転したとき、弱者も 村は舞台背景に過ぎないのであった。逃げてきたカブー は生易しいものではなかった。人間がいかに残虐たり得 またそれ以上に残虐になり得る事実を彼らは知らない。 知られることがなかろう。 るかという実験場の観を呈した。そこには確固たる﹁死 32 のではなかった。 奪・暴行の主役も、ほんとうに地獄を見た者たちによる おそらく、政治権力をめぐって争う者も、カブールの略 て、故郷再建の作業でこの空白感を克服した。やり場の れ地を耕し、羊を追い、或いはJAMSの協力者となっ 希望をいくらかでも持ち得たものは、廃屋を修理し、荒 ていた村民がおそるおそる戻っても、残虐な仕打ちはな 示すものが多かった。また意外にも、政府軍の下で働い 論ずることもなかった。反ってカブール避難民に同情を げには語らなかったし、アフガニスタンの将来について 沈黙していた。彼らは決してジハード︵聖戦︶を誇らし きつけた者は、農村の情勢が安定したとき、敵も味方も 死の力に翻弄される人間の現実。それを網膜の奥にや ◆﹁死の力﹂に抗して なかった。ここに、信頼に足る人間の希望が潜んでいる げるバカげた集団狂気は、おおむね人々を動かすことが う血なまぐさい掟を緩和したのである。宗教や民族を掲 さにおいて、確かにとらえていた。それこそが復讐とい らもまたアダムの子 ﹂ ︶を、被造物としての低さ・謙虚 た。自己に内在する矛盾︵彼ら自身の言葉を借りれば﹁彼 介して、生命の意味を﹁死の力﹂に対置させたのであっ た。それは、健全な生きる意志であり、希望という灯を れぬ罪悪感を、巡礼の行で清算しようとした者もいた。 ない闘争心は再建の情熱に昇華された。或いは、割り切 かった。なるほど、これが二年前であれば、彼らは八つ ように思える。 うな敵意に続いて、一種の虚脱感が現地住民を支配した。 ダラエ・ヌールの戦闘が終息した直後、まずは燃えるよ これもまた、部外者の評論である。事実はそうではない。 明しようとする。確かに或る程度はそうであろう。だが、 政治的マキャベリズム﹂ 、 ﹁温情的な部族主義﹂などと説 に関わった全ての者︱武器を与えて戦争をあおった者は に口を閉ざして語らない。しかし 、 ﹁アフガニスタン﹂ 隔てる壁が厳として存在する。人々は、その重さのゆえ そこには死者の沈黙が冷然と生者の営みを眺め、両者を が、平和を回復しつつあるバザールの賑わいと対照に、 ケララ村の墓標は、さりげないたたずまいである。だ ◆死者のまなざし 日々 の 糧を 得る の に忙 しかったからだけではなかっ 裂きにされたことであろう。この逆説は、しかし、私に は当然と思われる。 現地社会を知ると自認する外国人は、これを彼らの﹁し それは空白感とも呼びうるもので、敵意のかたまりにな もちろん、自覚なきアフガン人たち、人道的支援で喝采 たたかなアジア的血縁関係︱、力関係の変化に対応する った自分の存在感が失われたことによるものであった。 熱くて深い夢−中村哲論 33 過酷な報復を行った。政府軍に協力する村落を襲撃し、一挙 に数十名を殺戮した例も珍しくなかった。捕らえられた政府 を受けた外国人、アフガニスタンを語ったジャーナリス ト・評論家︱死者を踏み台にして生きた者は、等しく、 極限で処刑された。公衆の面前で、ナイフで生きながら捕虜 軍兵士は、彼らが行ったと同様に、鼻や耳をそがれ、恐怖の 私自身はすでに部外者でありえなかった。私もまた、 の首をはねる光景も、普通に見られた 」 復讐と生は分かちがたく結びついている。なんどか⋮、命 この﹁死者のまなざし﹂に戦慄すべきである。 死者のまなざしに脅える者のひとりである。少なくとも 根底で共有できる希望を分かちあうことで、真実となる 時に、内戦で逝った二〇〇万の魂を鎮める祈りは、人が て、 ﹁ 自覚 な き 生 者 の 驕 り ﹂ を 伝 え ず に は お れ な い 。 同 死の力の跳梁を全世界に見るとき、犠牲者になり代わっ ることができなかった。しかし今、生者の破局的な営み、 ただろう。だからそのことはどうでもよい。そういうことが い。彼の立場からはそれ以外の態度をとることができなかっ 私 「自身はすでに部外者でありえなかった と 」中村哲は書く が、そうであるとしても、彼は凄惨な地獄の傍観者でしかな おう、嵐のなかから生まれた。 のやりとりがあった。内包表現論は、 Jumping Jack Flash!、 目前で展開されたこれらの事実を、軽々と器用に総括す と信じうるからである。 くことに二年間拘泥してきた。彼のアフガニスタンでの仕事 中村哲が﹁私自身はすでに部外者でありえなかった﹂と書 聞することと、殺ることとはまったく違う体験の世界に属す うことと、復讐の実行者のあいだには千里の径庭がある。見 言いたいのではない。しかし部外者ではありえなかったとい のすべてが、ある意味でここに集約されているとわたしは思 る。 ハ 「 リマ﹂の仮面のような顔⋮。地獄を網膜の奥にやき つけた者と、地獄を目撃した者とのあいだのなにが世界を隔 の夜のように、今でもまだなまなましく、思いだすと血の気 に至る愚劣とその後の十数年のあいだに遭遇した惨劇は百億 九七三年の春だった 。 ﹁ケララ村の惨劇﹂が出現した。ここ あったとしても、見聞するは我が事にあらず。この格率はゆ ではない。目前で展開されたことがどれほどの凄惨な地獄で じる紙一重の欺瞞がそこにある。中村哲の実践を貶めたいの てるのか。 ム 「 ーサー﹂の凍りついた灼熱⋮。わたしがこだ わるのはそこだ。中村哲のペシャワールからの現地報告に感 う。深みにはまった部落解放運動が雪崩をうって敗退してい がひいて意識がこわばる。言いようのない、痛切な、一人の ずれない。網膜の奥にやきついた修羅は他者の代理を不能に くとき、わたしもまたすでに部外者ではありえなかった。一 戦争だった。まだわたしはそこに立ちつくしている。 の破局的な営み、死の力の跳梁を全世界に見るとき、犠牲者 、こ 、か 、ら 、しか始まらない。 ﹁しかし今、生者 する。言葉はこ ケ 「 ララ村の惨劇 に 」 喉元 が 凍 り つ く 。 復 「 讐 は 伝統的な 掟 である。わが地元ゲリラたちも、旧ソ連=政府軍に対して、 34 に な り代 わ っ て 、 ﹁自覚なき生者の驕り﹂を伝えずにはおれ 人間ではなく︿おれ﹀である︺というのがここだ。それはだ ラ ラ 村の 惨 劇 ﹂ が こ わ ば り を と き は じ め る 場 所 だ 。 ︹ おれは が、 ﹁ ハ リ マ ﹂ や ﹁ ム ー サ ー ﹂ が 、そ し て も し か す る と ﹁ ケ ころ、体験の固有とはそういうものだとわたしは思う。そこ ︹思考︺はいつもここで音をあげてきた。偉大なマルクスの 遅れてしか到達できないのか。思考は内省にすぎないのか。 いし、なにひとつ教えない。なぜ考えるということは現実に るのか。万巻の書物は単純なこの問いに、なにひとつ答えな 人はなぜ、殺し合い、略奪し、奢り、懲りずに愚劣を重ね 不可侵・不可被侵の思想の内包化 れにとどくとも知れない。そしてここから、気が遠くなるよ 思想もこの逆理を覆すことができなかった。わたしたちは残 、か 、に世界に触れると ない﹂という代理が絶対に不可能な、じ うな、ほんとうの闘いが始まる。貧血や空虚を喩とする現在 骸のような知に囲繞されている。生が貧血するのはそのせい ﹁ダラエ・ヌールの戦闘が終息した直後、まずは燃えるよ だ。 にあっても、なお。 何を、どう、中村哲にいえばいいのかわたしにはわからな い。他人事を我が事に代理する自覚なきすり替えと 、 ﹁神聖 うな敵意に続いて、一種の虚脱感が現地住民を支配した。そ ひ と な空白﹂という人倫の根源の由来への不徹底が交錯し、その れは空白感とも呼びうるもので、敵意のかたまりになった自 吉郎もおなじことを言う。生々しい敵意や復讐の殺戮の意志 隙間に消費社会批判の言説が呼び込まれる。そこに中村哲は 中村哲の躓きの彼方へ歩を進めたい。そこにフーコーらが は戦争の終結とともに一挙に根拠を喪失し、ゆきくれてとま 分の存在感が失われたことによるものであった﹂と中村哲は 思 い 焦 が れ た 未 踏 の 生 が あ る 。な が い あ い だ 、 ︹おれは人間 どい、生はむなしく、虚脱感や空白感が襲う。やがてなにご 立っている。中村哲が眼のなかの塵に気がつくことがあるだ ではなく︿おれ﹀である︺を格率として日を繋けた。そこが とかがむくむくと身をもたげ、おのずと生の再建にむかう。 見聞を記す 。 ﹃夜と霧﹄のフランクルも﹃望郷と海﹄の石原 たしかなじぶんの根拠だと思えたからだ。そう思うよりほか 食うしかないからだが、そこに中村哲は希望を見いだす。 ﹁日 ろうか。 に一人の戦争を続けることはできなかった。当時 ㎏ほどあ の渦中で不意打ちをくらった。 ︹おれは人間ではなく︿おれ﹀ ったこのリアルが、比喩としていうが 、 ﹁ケララ村の惨劇﹂ 味を﹁死の力﹂に対置させたのであった。自己に内在する矛 健全な生きる意志であり、希望という灯を介して、生命の意 々の糧を得るのに忙しかったからだけではなかった。それは、 盾︵彼ら自身の言葉を借りれば﹁彼らもまたアダムの子﹂ ︶ である︺が色あせたのだ 。 ︹おれは︿性﹀である︺というリ アルが心臓を貫いた。ふいの一閃だった。 を、被造物としての低さ・謙虚さにおいて、確かにとらえて 熱くて深い夢−中村哲論 35 65 いた。それこそが復讐という血なまぐさい掟を緩和したので 血なまぐさい掟を緩和した﹂のはおのずからなるひとびとの で記すことではない 。 ﹃歎異抄﹄の親鸞においてもなお。書 身をもって生きたのではないかとわたしは思う。それは言葉 聖句として遺されているわけではないが、この苛烈と逆理を ることができるのか。原始キリスト教の伝承されるイエスは、 、れ 、にどうして触 心臓を貫かれることもなく、言葉ではないそ んとうには鷲掴みにされたことがない。凍りつくこともなく、 、っ 、て 、い 、る 、。しかしほ の深みで息づくなにものかをたしかに知 ず、そのことを書けてしまうことができすぎなのだ。彼は人 の底 の底 か ら彼 の身 をよぎったことではないにもかかわら めされ、生身を引き裂かれ背筋を喪った、そのただなかで心 ているというのではない。しかし中村哲が、凍りつき打ちの めているのは、むろんよく承知している。嘘を中村哲が言っ 無音の風圧のように息づくなにものかがこう中村哲に言わし 美しい言葉だが、言わせてくれ、美しすぎる。自他未分の に熱い﹁不可侵﹂の思想もこの亀裂に触ることはできないし、 い亀裂がある。世界はいつもここに閉じられている。どんな に、知を所有する者と、知をふるまわれる者とのあいだの深 生活の智恵であるなら、その智恵をなぞるのも言葉だ。ここ たいのだといってもよい。復讐という血の掟を緩和したのが いうものも言葉が抽象した観念だから、言葉が言葉を癒やし 矛盾したことをいうが、 復 「 讐という血なまぐさい掟を緩 和した﹂のは言葉だ。言葉が現実を癒やしたいのだ。現実と 者になり代わることはできぬ。 か訊く理由を持たない。まして内戦で逝った二〇〇万の犠牲 復讐の殺戮を担い、むなしさに襲われた彼らがどうであった と感受するのは、まぎれもなく中村哲がそうするのであって、 造物としての低さ・謙虚さにおいて、確かにとらえていた﹂ く生をたどりなおすという﹁自己に内在する矛盾﹂を 、 ﹁被 敵に屠られ、歓喜のうちに敵を屠り、やがて為すすべもな 生活の智恵にほかならない。 かれぬ、苛烈が、そして言葉が、ある。それは文字としては、 その亀裂を埋めることもできない。 ある﹂と。 けっして書かれてはいない。聖句や経文が心を打つのはその ているのかがわたしには見えない。わたしの老眼のせいでは 可能にする。中村哲のからだのどこからこの言葉が生えてき ことか。危うい罠だ。知者の見聞は出来事を一般化し俯瞰を 何 が ﹁ 健 全 な 生 き る 意 志 ﹂ であり 、 ﹁希望の灯﹂とは何の て、じつは権力をはらんだ関係なのだ。それはほんとうに彼 人間 の 希望 が 潜ん で い る と い う彼の 物言 い は あ り ふ れ て い かにとらえることで集団の狂気を緩和し、そこに信頼に足る かし、復讐や殺戮に明け暮れた者らが﹁被造物﹂の低みを確 て中村哲が自身を癒やしたいという気持ちはよくわかる。し わたしは考えるという思考の力を信じるから、言葉によっ ない。度重なる復讐と殺戮の応酬に疲れ果て、やむなく生の の身に起こったことか。このかすかな欺瞞を﹁神の眼のなか ためだ。 再建に向かったというのが実状だろうと思う。 ﹁復讐という 36 立っているわたしたちがいる。そういいあらわすのがいちば の豊かさを享受しながら情報の洪水にあらわれてつくねんと 史の概念だといってよい。その極まったところにいくばくか 過程でもある。それが現在までわたしたちがつくりえた人類 の実現の過程はまた︹3 ︺ ︵群あるいは共同体︶の離散する そして現代を大衆の自己愛の物語の時代というべきか。 ︹1︺ ブルジョアジーの自己愛の物語、それが近代の歴史である。 史であり、貴族の自己愛の物語、それが中世の歴史であり、 愛の軌跡に比喩される。王の自己愛の物語、それが古代の歴 いうならば、歴史は︹1︺があまねく行き渡っていく自己 ここなのだ。思考はまだ一度もここをこじあけたことがない。 い意志が、そして﹁ケララ村の惨劇﹂が行きくれているのが きない。症例の﹁ハリマ﹂の悲が、剛毅な﹁ムーサー﹂の昏 の塵﹂と比喩した。神は自分の眼のなかの塵を見ることがで ー﹂はいつもここにいる。おはよう、今日は風が冷たいね。 む﹁ハリマ﹂と鬱然とした昏い意志を秘める剛毅の﹁ムーサ はじめて︹熱さ︺が︹深さ︺と出会う。悲に憑かれて空を睨 たしたちが言葉や関係や我が事に出会うのはそこだ。そこで れが思想のダイナミズムであり思想の器量というものだ。わ 可被侵﹂の声を轟かせ、再び﹁不可侵﹂へとひるがえる。こ ﹁不可被侵﹂は、やがて一切の計らいを超えて傲然とした﹁不 の狂おしい戦慄。それが道理だ。 ﹁不可侵﹂がたぐりよせた 寄り添う余裕すらないことの激しさ 。 ︹固有︺を生きること ようにして﹁不可被侵﹂へとなだれこむのは必定ではないか。 の余りの熱さに身を灼かれ、見えない糸にたぐりよせられる 可被侵﹂から生まれる。熱い﹁不可侵﹂をふるまう者が、そ げた 不 「可被侵 の 」、ふてぶてしい面構えがない。わたしには そのことが手に取るようにありありとわかる。 ︹深さ︺は﹁不 中村哲の思想に熱い 不 「可侵 は 」あるが、昂然と雁首をかか ささやかということの激しい夢。老齢の親鸞がつぶやく こ 「 の道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねにさ んいつわりがないことだと思う。 自 己 意 識 の外 延 表 現 とか 第一次 の自 然 表 現と わ た し が呼 ぶ、 ︹ここではないどこか︺を思念し祈念する意識のうねり 者であるのか。もっと率直に言おう。自と他︵多︶のあいだ ないのか。 ム 「ーサー と 」の関係が一途な信義で結びつくにも 関わらず、関係が傾くのはなぜなのか。なぜ彼はいつも見る らない。 侵が渾然一体となった満月の思想が根づかないと世界は革ま のずと響きあうのもここだ。何度でも言う。不可侵と不可被 がこういう歴史を象ってきた。なぜ﹁ハリマ﹂は中村哲では 、れ 、る 、よ 、う 、に 、舞 、 で、施し、傾斜する関係が権力なのだ。なぜ流 しらなことを言う必要がどこにあろう。自然や道理について たすべきことにはあらざるなり ︵ ︶という赫奕と 」﹁末燈鈔 ﹂ した言葉と、渾然一体となった不可侵・不可被侵の思想がお 、あ 、す 、が 、る 、関 、係 、ができないのか。なぜ施 、こ 、と 、が 、施 、さ 、れ 、る 、こ 、と 、 い 、等 、し 、い 、一義的な関係がありえないのか。これを綺麗事や空 に 思うとおりのことを言っているにすぎない。知を所有する者 じねん わたしはつまらぬ倫理を語っているのだろうか。今更さか 論にすぎぬとして嗤う者は去れ。 熱くて深い夢−中村哲論 37 と知をふるまわれる者とが見えない力で引き裂かれ、衆生の ついていない。このわずかな隙間に彼の倫理的言説ときわど ジグソーパズルの断片をひとつずつうめてきたが、できあ い他人事性がしのびこんでいる。そうだとしても巷間の浮薄 がる絵は中村哲のものとは少しちがうものになるだろう。最 救済を祈念する者が司祭になるのは、知と非知のあいだの亀 いる。ここがわたしたちが知っている世界の限界だ。闇夜の な口ペラを暴く彼の決然とした行動の本領がゆらぐことはな 新月が思想だとしたら、そんなものが欲しいと思うものか。 びあがってくる。よく見ると、あら不思議、 ︹わたしは︿性﹀ 裂を三日月のような﹁不可侵﹂の表現で埋めようとするから そんなものはいらんと、 The Jon Spencer Blues Explosion がロ ックする。上弦の思想も下弦の思想もいらない。わたしが欲 である︺と描かれているはずだ。わたしの好きな︹不可侵・ い。それが中村哲の魅力の不思議だ。 しいのは満月の思想だ。不可侵・不可被侵の思想が、知るか 不可被侵︺の思想は、人間という自然を︹性︺の内包表現へ だ。常に﹁不可侵﹂の思想は︹1︺の外延表現に閉じられて ぎりもっとも気骨に溢れる一言で言い尽くされた満月の思想 と巻き戻して、はじめて本願成就する。それがわたしが考え 後の断片がピタッとはめこまれると、そこに一枚の絵が浮か だとして、いや、もっと遙か彼方までゆける。 あらわれが、人の背後で息づくなにものかなのだ。このなに る。世界のもっとも深いものより深いもののおのずからなる 在する。ここがこのメモのひとつの眼目でもあり主張でもあ 果てでもない 。 ﹁神聖な空白﹂という根源に先立つ一閃が存 があるからにほかならないのだが 、 ︹1︺の回路が実体でも すと軽いものより速く落ちそうな気がするではないか。そん なことを思いつくだろうか。高いところから重いものを落と わりに時空が伸び縮みすると彼は考えた。いったい誰がこん インの着想は卓抜なものだった。光速度Cは不変である。代 照らすと光は2Cで前方に到達するだろうか。アインシュタ 光速Cで飛行する宇宙船のてっぺんから懐中電灯で前方を る 、 此 岸 が 彼 岸 に 等 し い 思 考 の 器 量 と い う こ と だ。 言 葉 は ものかを︹1︺の回路でなぞるとき、それをわたしたちは古 なことはないことをすでにわたしたちは知っているし辻褄に いずれにしても不可侵の思想は︹1︺の回路に閉じられ、 来より神や仏と称してきた。これもまた幾千年ものあいだ絶 ついてもいうことができる。放り投げた石は、石の主観とし ︹力︺だから、理念としては︹力︺の統一理論のようなもの えることなく人を打つ、練りに練られた満天の煌々とした満 てはまっすぐ宙を飛んでいる。しかし重力によって空間が曲 劫火となっていつも現実は過ぎる。それにも関わらず世界は 月の思想だ。それが中村哲の﹁神聖な空白﹂という根源のこ がっているので石の気持ちとしてはまっすぐ飛んでいるにも が想定されてもよい。内包表現論はそれをめざしている。 とにほかならないのだが 、 ︹根源の性︺のあらわれが、人の かかわらず弧を描いて地上に落下するのだ。光速度不変に比 ひとりでに拓かれてきた。それは人の深みで息づく絆の応答 背後で息づく﹁神聖な空白﹂だということに、中村哲は気が 38 るものが人々の抱く歴史や世界の像だ。親鸞の自然法爾でさ 喩されるものが︹根源の性︺であり、石の気持ちに例えられ とか、おはようとか、冷え込んできましたねとか、そういう あると考えている。ケチつけにならないように、こんにちは このメモを書きすすめながら﹁ケララ村の惨劇﹂がなんど 世界のシンプルな道理だけを書いた。 ︹不可侵・不可被侵︺の思想の内包化、これだと思っている。 ふらふらだ。このメモもそろそろ大団円を迎える時だ 。 ﹁ケ え︹根源の性︺の一閃によぎられたあらわれにすぎないのだ。 そこが、なぜ? が消え、 野 「の花、空の鳥﹂がいっせいに色 めく世界の地平だ。リーアン。世界のもっとも深いものより ララ村の惨劇﹂を突きぬけよう。自己同一性に拠らない︹根 もなんども去来した。それはなんとも、もう⋮、憔悴した。 深いものが存在する。 源の性︺という新しい存在概念から世界をつくろうとする内 包表現論は、なぜ人は殺戮と復讐にあけくれ、懲りずに愚劣 をくり返すのかという問いを逆転する。禁止と侵犯は分かち るうちの鍼灸院にきていた7ヶ国語読み書きできる高齢の品 あるとき、中村哲を彼が高校生の時の私の教え子だと名乗 にものかをひょいと折り畳み、たまの稼ぎにいい気になった り、生だった。人間という自然の奥深くにひそかに息づくな と戒めた。そしていつも禁止は侵犯される。それが歴史であ 大団円 のいい紳士が、言いにくそうに﹁ペシャワール会﹂はこうい り、調子にのってやらしいことを妄想したり、現世の酷薄を がたく結びついている。だからモーゼは﹁汝、殺すなかれ﹂ う趣旨でカンパを募っていますという。善行を誘うのは勝手 呪って天を仰ぎ言葉にならない声を挙げながら、ひとびとは 度重なる戦乱に焼かれ、天変地異に打ちのめされ、虫のよ だがわたしは若い頃からこの種の問答がたまらなく嫌いなの 来なくなった。あのお爺さん、どうしているのだろう。もう うに地を這いずりまわる人々の修羅がたわみにたわんではち 連綿と生をあやなした。おのずからなる生とはそういうもの 腰は痛くないのかなあ。と、ここまで書いて、なじみの患者 切れ、ふいに天啓のように、謂わばマルクス主義の古代起源 で、即座に﹁僕は日本の難民みたいなものです。できたら僕 さんにこのメモ文をざっと読んでもらったら、中村哲という ともいうべき衆生へのまなざしに宿られた。聖句や経典とし だ。 人をはじめは誉めているのに、あとになってくさすのはどう る人々の生をみずからなる言葉で掬いとる。それが他者を配 にカンパしてください﹂とハキハキ答えたら、次からうちに してですか、と言われて、一瞬、言葉につまった。中村哲が 、る 、ら 、ことをわたしはや 、な 、い 、。譲れぬこの一点にわたしは思 や 慮する衆生救済ということだ。不可避であったとはいえ生の て遺されているものがそれだ。このまなざしはおのずからな 想の全重量を賭けている。そこにだけこの世が革まる契機が 熱くて深い夢−中村哲論 39 それが最強の思想だ。まだわたしたちはそういう世界や歴史 られている。もし禁止が存在しない観念がありえるとしたら おのずからなる人々と、他者への配慮をみずからなる言葉 の概念をもったことがない。わたしは︹不可侵・不可被侵︺ 根本に関わる未遂がここにあった。 で成す者とのあいだには深い亀裂がある。そこでは知は現実 の思想を︹根源の性︺で内包化できたらそれが可能だと思う。 かえ と矛盾や対立や背反するものとしてあらわれる。この軋みや そう思うからこのメモを書いてきた。 の智恵がぎっしりつまった聖句であれ経典であれ、近々の西 したくて、じぶんの熱くて深い夢のありかについて触れてみ している中村哲の凛然とした立ち姿に、礼を尽くした挨拶が ヒンズークッシュの白い峰を仰ぎ見ながら、黙然と仕事を しなりの反りを歴史の推力と思想は考えてきた。ヘーゲルや 欧近代由来の社会の救済信仰にせよ、また我が国の稀有な思 た。わたしはすこし中村哲につらくあたりすぎたのかも知れ マルクスの思想もこの逆理が孕む囚われのうちにあった。生 想 家 吉 本 隆 明の 共 同 幻 想 論 に せ よ、 い ず れ に し て も 世 界が りものでもない、やっとたどりついたわたしの一箇の意見が、 ない。しかし、部落問題についての、他者の代理でもなく借 ︹一︺を基準に世界を構えるどんな思想も﹁ケララ村の惨 こ の ﹁ 中 村 哲 メ モ ﹂ のなかにある 。 ﹁内包存在論﹂がこの先 ︹一︺と︹多︺に閉じられている。 劇﹂を笑いで包むことはできない。思想の器量とはそんなも を引き継ぐ。 補遺 傾いだ世界についての私的なあとがき のにすぎないのか。眼を覆う惨劇が愚劣だからくり返すまい と誓うのではない。殺戮や復讐などということを思いつかな い観念といったものがあってもいいではないか。言葉が強い 力をもつならば現実の方が怯む。いい風が吹く言葉があるな い。リアルの源泉が︹わたしという性︺にあり、その余熱を 学問がどれだけ緻密になろうと思想のリアルは毫も変わらな ての、科学や学問とはことなった固有の領域がある。科学や はできない。思想には考えることを考えるということについ ことを考えるという思想のリアルを科学や学問がつかむこと 考えている。思想はけっして科学でも学問でもない。考える 思想はうなり声。思想とは概念で書かれた詩だとわたしは ういうことであるのか、それをつかみたいという欲求があっ 史的な歴史の大転換のなかで変化することや不変のことはど いるのだ。世界自体が漂流しているというべきか。この人類 いという気がする。とんでもない時代にわたしたちは生きて がいやおうなく大きな変化を被ることになるのはまちがいな の大変動のなかで、生や死の概念、そして知覚や体験の意味 のか、生成の途上だから輪郭ははっきりつかめないが、社会 天空をゆきかう濃密な電子ノイズがどういう社会をつくる らば音色に誘われて現実が言葉になびく。 なぞったものが思想だからだ。わたしはそういう思想に魅入 − 40 迷をさらに深めたととるか、赤眼を可能とした歴史的な思考 おりをもろにうけているということなのだ。ソ連の消滅が混 るところにばら撒かれている。ボスニアもルワンダもそのあ 思っている。その兆しは、サイコな小説にも風俗にも、いた 社会というところまでは、ほっておいてもゆきつくだろうと かった。わたしの漠然とした予感では、摩擦ゼロの資本主義 た。なにより漂流している世界の核心を自分の言葉で言いた た。 とびとが終わったとみなすことをほんとうに終わらせたかっ だ、わたしの傾いだ世界の考察が効いてくるのはここだ。ひ う道理が根づかない。摩擦ゼロの資本主義社会の彼方を睨ん ごすから、いつまでたっても、〝どうだ、文句あっか〟とい そういうことをいつも考えている。ここをあいまいにやりす った。からだからはえてくる言葉とか、思想の根づきとか、 こだわりがあったので、そのことについて言わずにおれなか つらいは楽しい、夢のある﹁部落﹂論というものがあって の型が未知のものにむかって解き放たれたととるかはともか く、人類は歴史上経験したことのない未知の体験の圏域をす でに生きはじめている。剥きだしになったハイパー・リアル は大きな弓を引こうと、虎視眈々として彼方をめざしている。 の相対論とでもいうものが可能だということだ。内包表現論 加速度が相対論で等価なように、贈与と利潤が等価な、思想 が予想もしなかった資本論がそこで可能な気がする。重力と だと思う。無償の贈与が豊潤さとして還ってくる、マルクス には何があるのか。言葉はどうでもいいのだが、内包の思想 の超資本主義社会の向こうを睨んでいる。摩擦ゼロの向こう 情報と消費を意味している。わたしの内包表現論は摩擦ゼロ かつて労働や生産は搾取を意味した。現在は社会の中核は そ行きしてしまう、粛然とした﹁部落﹂の論議じゃなくて、 とにして許してくれぇ。内省とか啓蒙という、言葉がついよ ど、ガンズのヘヴィ・メタも好きだし、ともかくそういうこ わたしはストーンズもZZトップもルー・リードも好きだけ ハードな文章になって、とまどっている。変ですぅ。しかし とか OASIS とか聴きなが The Jon Spencer Blues Explosion ら、うんうんうなって、ちょっとずつ書き加えていったら、 が違ったからだと思う。 を分析したり占ったりする、よくあるあの手のものとはワケ した分量の文章ではないのに書くのに難儀した。世間の傾向 もいいのではないかと思っている 。 ﹁中村哲メモ﹂は、たい ﹁中村哲メモ﹂を書きながら、今はどういう時代なのかと 元気のでる﹁部落﹂論があってもいいではないか。それしか が見る夢はどんな夢。けっこうやらしい夢だったりして。 いうことが頭からはなれなかったが、そのことについてはと ないとわたしは勝手に思っている。 もう何年か前のことだが、原口さんとよもやま話をやって りあげなかった。国家や資本のシステムについての分析とい ってもいいが、そのことは脇においてメモを書いた。そうい いるとき、これまでの﹁部落﹂についての関係をしきりなお わ が こ と う意味では穴だらけのメモだが、知のふるまいと当事者性に 熱くて深い夢−中村哲論 41 を眼にした。書かれた文章を読んでいろんなことが思い出さ いたということもある。まもなく原口さんの論文と新聞記事 言葉で﹁部落﹂を説明することに飽き足らないものを感じて うことを言った気持ちのなかには吉本隆明の共同幻想という たうえで原口論文を論じないと、つい手持ちの言葉でつじつ る。 ︹1︺の回路を︹根源の性︺という存在概念へと拡張し 覆っ て い る 自 己 同 一 性と い う概 念を 組み替 え よ う と し て い 継ぐ﹁内包存在論﹂で西欧近代に発祥し、世界を普遍として ﹁原口孝博第二第三論文を読んで﹂が、 部 「落 に 」ついて直 接言及するにはもうしばらく時間がかかる。このメモを引き そうと思う、というようなことを言ったことがある。そうい れた。感想は五〇〇枚書くから、と本人につたえた。このメ すれば、吉本隆明の共同幻想としての﹁部落﹂論はあっさり まをあわせてしまいそうで、自戒している。この草稿が貫通 わたしは若い頃、学生の騒動に首まで浸かった。学生の騒 組み替えられる。西欧近代以降まったく未知の思想が出現す モはその初回分である。 動 は 遊 び の 気 分 でやれたが 、 ﹁部 落 ﹂の こ と は そ う は い か な るはずだ。わたしはひそかに未踏の革命の可能性を狙ってい ﹁乾ききった現代社会を乗り越える日本文化の源流 ﹂ ︵読 かった。延々とひっかかってきた。ともあれひとつ﹁中村哲 ない。衆生救済という他者への配慮が、なぜ不可侵というお 売新聞掲載﹁思想課題としての部落 ﹂ ︶として﹁部落﹂の可 る。 節介としてしかあらわれないのか。人間の奥深くに息づいて 能性を探る原口さんの熱くて深い夢はどこに行きつくか。行 メモ﹂を自分の言葉で書いた。このなかに借りものの言葉は いる絆の応答として、そうせずにはいられないものがわたし 方は必定だと思う。 一九九六年十二月十三日 たちのなかにたしかにある。人のことがじぶんのことのよう に感じられることがあるのはどうしてなのか。それは人間の どういう機微からくるのか。それを内包表現論にひきよせて 云ってみたかった。 ︹当事者︺性からしか強い言葉は生まれない。わたしの知 るかぎり 、 ︹不可侵・不可被侵︺という思想が、もっとも端 的にそのことをあらわしていると思った。この含蓄のある思 想 を わ た し は も っ と 磨 きたかった 。 ︹不可侵・不可被侵︺の 思想を、宗教的な大洋感情の発生を可能とした︹根元の性︺ まで巻き戻すことができたら、そこには一陣のもっといい風 が吹いているような気がした。 42 内包存在論 Ⅰ 43 内包存在論Ⅰ 個という揺るぎない自己同一性を絶対的な基盤に据え、その外延で全てを統治する近代の思想、その発想そのものを問い返すべく、 ありえただろう原初を取りだすことで、まったく新しい、でも誰もが知っているあり方をことばとして現前させようとの試み。一九 九五年九月に上梓された﹃内包表現論﹄の後、森崎思想の根幹のひとつをなす存在論として満を持して書かれ始めた﹃内包存在論﹄ の第1論考です。個から出発しその欲望を限りなく肯定しつつ、枠組みとしての禁忌をつくり続けた︵当然にもその侵犯を繰り返し た︶これまでの思想は、結局のところわたしたちに、永遠に何にも、欲望の充足にさえもたどり着けない不全感と、ジェノサイド︵大 ﹁ ﹃わたし﹄という定点もまた歴史の巨大な制作物であって、根元的な出来事の事後的なあらわれだ﹂とし、その一人称を拡張する 量殺戮︶だけをもたらしたのではないのでしょうか。 ことで、個に分割される以前の根源の、 ﹁﹃我﹄が﹃我にあらず﹄をすでにふくみもつ﹂内包存在、つまり一個のパンが当然のことと して、あるがままで分け持たれるような存りかたを、人の出発に据えようとします。そのことで、強引に﹁個﹂を創ることで生まれ た矛盾やしこりとしての共同性との対立、 ﹁個﹂の不全感を払拭し、新たな利己でも利他でもない世界を再構造しようという願い。あ らゆる生の現場で生まれ続けるようにみえる﹁権力﹂関係を突き崩すためにも、また国家の起源である三人称を生まれさせないため にも。 ﹁ ﹃マチウ書試論﹄考﹂が半分以上を占めていることからもわかるように、続けられている吉本隆明論のひとつでもあり、その思考 の型そのものへの鋭い考察です。また卓抜な近代知識人論であり、現在の︿空虚﹀を埋めることができないから、彼ら知の贖い人が のことをやっているのではないかと思うようになってきた。 しだいにのめり込み、そのうち、とんでもない身の程知らず れが終わったらつぎは何を書こうかなどと考えているうちに 年に渡るやみくもな体験を経て、やっとじぶんが探してい と湧きあがってくる。わたしの青年期のすべてといってよい があって、それを言葉で言ってみたいという衝動がむくむく だり人から聞き知ったこととは違う、ある気分のようなもの かに、ピタッと言いあてることはできないけれど、本で読ん 現に属しているのか自分ではわからない。それでも自分のな で、そちらの事情には疎く、内包表現論がどういう領域の表 競って︿悪﹀を代入することへの痛烈な批判も含まれています。 ︵安部︶ 点と外延の思考から内包へ 10 内包表現論という論稿を書き始めてから 年ほどたつ。こ 1 気とほど遠い、殺伐とした日々をながいあいだ送ってきたの 本を読んだり文章を書いたりするいわゆる文化や教養の雰囲 ここにある。それは途方もないものだった。その気分のこと たものや表現したいことに出会ったというたしかな手応えが 30 44 ふかくなった。それはからだに貼りついたこころがあり、そ 独感などという生温いものではなく、私の孤立感はかえって 知れないと当惑した。真剣にそのことを考えるにつれて、孤 らしいということだった。変なのは世界ではなく私の方かも 、の 、解 、世界の了 、の仕方 ︵*︶とはずいぶん違うもの ととするこ 、き 、在 、て 、在 、る 、という存 、論 、の 、根 、 んわかってきたのだが、それは生 、にじかにかかわることで、 柢 ﹁私は君ではない﹂を自明のこ こととも違うものだった。考えたり書いたりしながらだんだ ーの本を読んで得たものとも、いや、ほかの誰の言っている この感覚はヘーゲルやマルクスあるいは吉本隆明やフーコ たことは一度もない。ヘーゲルやマルクスに体当たりして木 ズらの試みを知ることができるが、うまく解体できたと感じ 性の思想を解体しようと力を傾けた。翻訳を通じてドゥルー しようと、ポストモダンの思想の諸家はヘーゲルの自己同一 は西欧においても事情は変わらないから、この特異点を解消 つくってきた。この特異点が自己同一性の周りに生じること れるのかということである。思想は不可避にここで特異点を 的にはなにも決着していないと私は考えている。 く、左のイデオロギーの終焉とともに拡散しただけで、本質 するのか。この問題は突き詰められた上で解決したのではな る。存在が意識を決定するのか、それとも意識が存在を決定 のひとつきりのからだとこころを所有しているのはじぶんだ っ端みじんに砕け散ったというのが実情だという気がしてい をとりあえず︹内包︺と名づけ呼んできた。 とする存在のありようの圧倒的な根深さのためだった。まる る。まるでなかなか当たらない宝くじみたいなものだ。 い。そこをほんとうに生きるには、超えるべき現実のいくつ もちろんかんたんに対 の内 包が手 にはいるとは思 っていな を主体とする内包存在に感応する豊穣な未知がそこにある。 とであり、なにより新しい生の様式のことである。対の内包 ったものを可能とする。それは世界のことであり、歴史のこ たりなのだ 。 ︹ 内包 ︺ と い う 概 念は 、 あ り え た け れ ど も な か はなかった 。 ︹ わ た し は あ な た ︺だ か ら 、 ひ と り で い て も ふ それが歴史の近代がもたらした象徴としての、人間の法の下 分離を前提として見かけ上の調和を保っているにすぎない。 年を要したが、個と集団の間の対立や背反は建て前と本音の 行方を阻んでいる 。 ﹁平行線公理﹂の謎は解明するのに二千 問題はユークリッドの第五公理に比喩しうる巨大な罠として み て は い る が 、 い ず れ も 成 就 していない 。 いわば 、 ﹁逆立﹂ 問題がある。加藤典洋や瀬尾育生らがこの問題を解こうと試 わが国では思想家吉本隆明の自己幻想と共同幻想の﹁逆立﹂ もうひとつは、利己の追求とその総和はなぜ矛盾として現 で世界と一人で闘っているような気がしている。いやそうで かの階梯とねばりづよい考究がともに必要だと考えている。 における平等という理念だ。この理念を手にするまでに人間 近代がつくり敷衍したこの観念のなかで日々をやりくりして は数千年という目のくらむ永い歳月を必要とした。私たちは 私は内包存在論でいくつかのことをはっきりさせたいと考 えた。 ひとつは、存在と意識はどう相関しているかに関してであ 内包存在論Ⅰ 45 いる︵不景気だあ ︶ 。私は人類史をあらためる観念の革命が 可能だし、その条件はすでに与えられていると思っている。 ずにはおかない。 消しようとすれば、この謎に迫るほかないと私は考えた。そ 在と意識をめぐる問題や、個と集団の間の矛盾を本格的に解 古来この謎はだれによっても充分には解明されていない。存 の中心に、存在論の謎が深々と沈黙しているというわけだ。 在と意識の相関に還帰する。このふたつの大きく困難な問題 と利他のはらむ矛盾は、ぐるっとひとめぐりしてふたたび存 もってこようとだ。そのことは肝に銘じたほうがよい。利己 ﹁私﹂を自明とする 、 ﹁私﹂を根拠とする、どんなリクツを 矛盾や対立や背反をほんとうの意味で解くことはできない。 い換えれば、世界への視線を変更しないかぎり、個と集団の ︵谷川俊太郎﹃女へ ﹄ ︶ というその ﹁ 私 ﹂ はいったいだれな たり﹂と数えたとき私はもうあなたの夢の中に立っていた﹂ い生として生きられる。 ﹁まわらぬ舌ではじめてあなたが﹁ふ するから、あふれるくるおしさがそのつどまったくあたらし ってくる。世界のもっともふかいものよりふかいものが存在 秘めやかに内包化される。それはひそかにあるいはふいにや はいったいなにものなのか? 音もなく桜が舞う夜、存在は たしかに存在する。すると固有名からもあふれたこの︿ ﹀ が私の固有名にほかならないのだが、私よりふかい︿ ﹀が 不能な、ほかのだれでもなく私が私であるということ、それ 始まりがあって終わりがない渦がある。社会や現実に還元 わずかな世界への視線の変更がそのことを可能とする。言 れが思弁的なたんなる言葉だけのものか、それとも繋ける日 ﹀ 。わたしはあなたである。この微妙なあわいに存 ﹀ 。なづけられたことの のか。存在の内包によぎられた︿ ない︿ 、の 、だ 、世界で表現可能なものがま 、存 彼らの思想とは異なってこ ように語ることはできないが、内包存在論を書き継ぐ過程で、 みなされていることはいうまでもない。私はまだ若く巨匠の フリカ的段階について﹄が、思考の生理において全く同型と の思想と、ヘーゲルの絶対近代史観の拡張を意図した近著﹃ア 包存在論を対置したい誘惑にかられた。もとより、ヘーゲル だ。この事態は対幻想ということでは言いあらわしえない。 られて分有者となり、宿られた分有者が内包存在を生きるの 名づけられる。そうではなく内包存在が﹁私﹂をよぎり、宿 では表現できない。 ﹁私が君でない﹂なら、 ︿ ﹀は対幻想と いう同一性の言葉からはみだしているから﹁私﹂という言葉 のだろうか。 ︿ ﹀を言い表そうとしても、 ︿ ﹀は﹁私﹂と ︿ ﹀とはなにものか。はたして︿ ﹀は私の内面にある 在の内包がある。 在するという確信がゆらぐことはなかった。内包存在論は、 ︿ ﹀が主体であることの戦慄。繋ける内包の日々は自然に じねん 未見にして、これまでと異なった新しい生の様式を可能とせ 明確な動機に貫かれている。私は吉本隆明の思想に対して内 内包存在論は吉本隆明の幻想論を根柢から超えようとする を生きうるものかは、言葉という思想の力が決するだろう。 2 46 自然史的過程と考えるマルクスの考えも、この臆見はすでに前 ヘーゲルの﹁段階﹂という歴史の概念も、人間の社会の発展を あらため 世界を 革 る。内包存在論を要とした内包表現論はやがて歴 に かずにただ指摘するだけでは存在概念の拡張はありえない。こ ようを受け入れたことには充分な根拠がある。そのいわれを解 たことはなかった。もちろんひとびとがこういった存在のあり 提として繰り込まれていて、自己という存在の一義性が疑われ 史を、人類史の規模で新しく創世するだろう。 ふいつ ふ 内包存在 と 、内包存在 がおのずとくびれた分有者 とは、 ふいつ ふ に 、 不一不異の関係にあり、どうじに不一不二の関係をなし、つ 、に、内包存在から分有者へと、関係は一 、意 、的 、にあらわれる。 ね の点に関して三木成夫の著作からいくらかの示唆を受けた。 ﹁い で、彼は天与の直感によって、生きているということを自然に 感ぶかく包みこむというのが三木成夫の表現のいちばんの特徴 まのここ﹂に﹁かつてのかなた﹂の﹁面影﹂を感得し、生を情 との根柢があり、はるかなふかみでこの驚異が熱く息づいて 還元して考える最良の思想を見せてくれた。内から湧きあがる 、在 、論 、的 、差 、 内包存在と分有者の間柄は表現においてそういう存 、の構造をもつ。不即不離に︹一︺をなすここに人であるこ 異 いる。だから内包存在という主体から自己がでてくるにもか 葉にはある。 ぞらえたがるのも無理はない。それほどの圧倒的な力が彼の言 学だ。吉本隆明が三木成夫の﹁初期論﹂的方法をマルクスにな ままに、解剖学の言葉でリクツをつけてみた、それが彼の自然 広大な無償の気のうねりを、湧きあがるエネルギーのおもむく かわらず、分有された自己のままに内包存在にふれることが できるのだ。 つまり、あるものが他なるものと融即することがなければ、 あるものがそのものに等しい︵自己同一性︶ということはけ っして起こりえない。重なり融即することから身を引き剥が ﹁食﹂と﹁性﹂の双極性を、あらためて対の内包という︹性︺ お い て 見 る と い う の が三 木 成 夫 の 基 本 的 な 考 え だ が 、 私 は 、 ところで、生物の基本的な体制を﹁食﹂と﹁性﹂の双極性に 来する。それが内包という主体が分有された自己同一性とい で結びなおした霊長類が人間と呼ばれるものではないかと考え すときにはじめて同一なるものの回帰が可能なものとして到 うことの本来の意味だ。このとき自己はずっしり軽い︹性︺ 概念において結びなおしたら人間はもっと良いものになる気が になった︿流﹀の世界を、対の内包という性を主体とする存在 成夫に宿った天与のうねりがイメージする︿融﹀の世界や螺旋 た。そこにおいてはじめて人間に固有なものが現象する。三木 としてあらわれる。私が感じる内包存在には手足が 本生え ている。とても使い勝手がよく、なかなか飽きがこない。お まけに丈夫で長持ちするときて。生きてるだけで丸儲けの気 分になれる内包という思想は絶対にお買い得だと思う。欲し してならない 。 ﹁いまのここ﹂に﹁かつてのかなた﹂を感得し みだしまう。それが生きるということなのだから。つまり人間 い方にはお裾分けしたい。 ︵*︶ ・・・通常ひとびとは存在は自己が所有する出来事だと は﹁食﹂において動物と連なり﹁性﹂において断続し、ここに ても、 ﹁いまのここ﹂は﹁かつてのかなた﹂をいやおうなくは 思っている。こういう臆見が人類の歴史をかたちづくってきた。 内包存在論Ⅰ 47 8 戦争の暗い記憶があり、共同の意志の体現と個の恣意性のあい だの分裂や矛盾をどうしたら解消することができるかというこ おいて言語が起源を成している。ここを少し敷衍する。歴史の 近代が発見するとどうじに隠蔽した罠にはまっているという点 とに思想の命運を賭けてきた。 対する関係のなかに人間の由縁である自然的な本質を洞察し、 考えなかった。彼は思想の根柢に関係を据えた。男性の女性に じぶんだけだったのだと思う。マルクスは自然哲学ではそうは 揶揄するわけではないが、ヘーゲルにとって可愛いのはきっと 神であると考えた。それが私たちの知るヘーゲルの意志論だ。 現することは世界を実現することに等しく、その体現が世界精 という︹存在︺のがらんどう。がらんどうをうめようとする表 もっている我欲と空虚をうめることはできない。 ︹自己=意識︺ うと︱ほんらい自己=意識という一枚のコインが表裏をなして ある。存在をどんなに外延しても︱社会化しようと内面化しよ 人の意思の対立や離反という近代が孕んだ逆理をもたらすので でもなく、自己を一義とする存在論の制約が、共同の意思と個 された吉本隆明の思想のどこに欠陥があるのだろうか。いうま か。あるいはヘーゲルやマルクスの思想を吟味し、周到に配慮 条理をつくした彼らの思想のどこに落とし穴があるのだろう で、ヘーゲルもマルクスも吉本隆明も同じ轍を践んでいるとい その精緻な外延化の総体を意志論を手放さずに表現した。 ﹁個 、意 、題 、識 、の 、外 、延 、表 、現 、と私は呼んできた。問 、は 、共 、 現の衝動を、自己 える。ヘーゲルにとって意識は世界そのものだから、意識を実 人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていて ひっきょう も、社会的には畢 竟その造出物にほかならない﹂ ︵ ﹃資本論﹄ ︶ 、の 、迷 、妄 、以 、前 、に 、こ 、そ 、あ 、る 、の 、だ 、。 同 わたしたちはどこに行こうとしているのか という確信を貫き、間然するところのない﹃資本論﹄という作 品を創った。思想はいつも誤読される。しかしマルクスの思想 の布教者がひき起こした人類史的な厄災の大半はすでに過ぎた 吉本隆明は経済的な範疇の決定論にたいして、ある﹁前提﹂ といってよい。 を設けた。人間の対象にたいする観念の振る舞いは、経済とい う下部構造が決定しうるものではなく、 ﹁ある構造﹂を介して 関係するまで、その影響をしりぞけることができると彼は考え 、代 、思想を動態化できないかと妄想にも似た思いを 吉本の近 これ以後渾身の力を込めて吉本隆明の思想を論じることはも ながいあいだ抱いてきた。 ﹃内包表現論序説﹄を書いたとき、 この祖述のなかにどんな問題がかくされているのか。共同の が﹃内包表現論序説﹄だが、吉本の言葉をいじくることに食 は痛切だった。がむしゃらに吉本隆明の思想と格闘した軌跡 う。当時吉本隆明の思想ではおれは生きられないという思い うあるまいと考えていた。あれは一種の憑きものだったと思 した。また吉本隆明には未曾有の集団発狂をもたらした太平洋 通をせき止める疎外の打ち消しに現実の歴史の推力をみようと 想の根柢に︹関係︺をおいて、個と類を接合し、個と類との交 思想であり、そこに観念の倒錯があると直感したマルクスは思 意志の発現のなかに自由を見るヘーゲルの意志論が極限の自力 た。それが彼の幻想論、観念の位相的な三層構造である。 1 48 でも、そういうことではこちらの気持ちがピクリともおどら る。今現在起こっていることの分析力や整合力には甲を脱い あたりまえで、だからなんなのだという気持ちがつのってく ともかく、いい歳になってくると、吉本の言っていることは 傷した。なにかもううんざりという気がしたのだ。若い頃は いう思いに変わりはない。 あれ、吉本の思想にふれずして世界を語ることはできないと するにたる匿名の巨大な思想といいうるからである。だれで えた。吉本の思想が稀有なすぐれた達成であり、近代を象徴 に、内包存在論からみた吉本隆明の思想の骨格を書こうと考 ない。考えるべき課題や問題が目にもとまらぬ早業でこれで むきにも似た空虚感は吉本思想の根幹にかかわることではな 葉が、生きていない、死んでいるのだ。このラッキョウの皮 が走るかどうかに言葉のいのちがある。世界を語る吉本の言 これは決定的だ。ふいに世界がストンとふかくなるヤバイ音 御利益がないわけだ。なにより吉本の言葉が走っていない。 年待てばいいのだ、そんなに待てないぞとなる。いっこうに っぱり松本大洋のマンガは面白い 。 ﹁やれやれ﹂の村上春樹 していられなくなったぞ、とそういうヘンな時節のなかでや 麻原︱オウム事件があり、景気が低迷し、うかうかネアカも 日本ではバブル経済とバブル文芸がはじけて、阪神大震災と たような気がしている。この間、冷戦終結と湾岸戦争があり、 この数年、皆が一斉におなじ顔つきをした言葉を喋り始め もかこれでもかと囀り散らされ、予見が現成するのにあと何 いのか。空虚と抱き合い心中なんかまっぴらごめんだという が あ 「たえられた責務 を 」果たす歳になったと社会を語りだす かと思うと、一方で戦後民主主義の欺瞞を暴くとばかりに浅 枝葉を削ぎ落とした簡潔な吉本隆明論が可能なような気がし 現論は存在論に帰着するという実感に即していうと、もっと では吉本の思想は尽きぬ源泉でありつづけるだろう。内包表 隆明の思想を呼びだしてもいいと思っている。そういう意味 ではなく、じぶんの考えを展開するなかで必要に応じて吉本 接することができる。つまり吉本隆明の思想に不満をいうの だ、今はその頃より吉本隆明の思想にいくらか余裕をもって つきすすんでいるからそのことに感慨をもつ余裕はない。た しかしそれはもう過ぎた。私は全力で未知の思想の領野を ﹃戦争論﹄と、ものごとを善からではなく悪から始めよと偉 戦 争 は 聖 戦 だ っ た と い う小 林 よ し の り の世 迷 い 言 の マ ン ガ が印象にのこり、私はひそかに有害図書と名づけた。大東亜 汚れを自覚する歴史主体の回復を詠う老獪さとのねじれだけ 後論﹄は、ノン・モラルを権利に掲げるあざとさと、戦後の んでもこれではいかんと思いなした加藤典洋が書いた﹃敗戦 い慰安婦をめぐる人権派と 新 「しい歴史教科書をつくる会 の 」 論争は不毛なだけの口舌の商いに熱を上げている。いくらな いい気になって社会を騙り、何が問題なのかさえ抉りだせな 田彰を裏返しにしただけのブロイラーのガキ保守福田和也が 気分が﹃内包表現論序説﹄の通奏低音として流れていた。 た。なによりじぶんの内包論の輪郭をもっと鮮明にするため 内包存在論Ⅰ 49 2 よく釣り合っている。かと思うと、国家から共同幻想をどう 育を受けること、人間関係を培うこと、家庭生活を送ること、 やすい坂を滑り落ちているか﹂と私たちに問いかける。 ﹁教 ﹁人格だけが生存権をもつ﹂という考えは、はたして﹁滑り 抜き取るかを市民社会原理として追求している市民主義の党 経歴を身につけること、貯蓄をすること、休日の計画をたて そうなことを宣う加藤典洋の﹃敗戦後論﹄は愚劣さにおいて 派が幼児返りして目を覆うばかりのを醜態をさらしている。 ので、たとえば︵生後 日までの新生児とおなじように︶ ﹁ダ ること﹂ができない﹁意識のない生命はまったく価値がない﹂ 彼らは、 皆 「 さん、国家から悪玉の共同幻想を抜き取って作 ったこの木でできた鉄の舟を見てください。立派なものでし 幼稚なことをマジメに言い散らしている。アホか。ああ、う きな声を出してはいけません。それもルール違反です﹂とか 下を走ってはいけません。それはルール違反です。教室で大 のか。考える力もセンスも根性もないのに、あちこちで﹁廊 ょう と 」 いうようなことを言っている。もちろん竹田青嗣ら のことである。文言の命題として成立しないのがわからない 質とするからだ。こういうあやうい現実をいま私たちは生き 欲が表裏になった市民主義が擬装されたニヒリズムをその本 学の生への侵入を受容するしかないと思う。それは空虚と我 たどる合理はより強い動機づけを拒むことができないので科 しく倫理にかなったことではなかろうか、と。市民主義をか とにして﹁望まれた子どもだけ産む﹂ことにするのはすばら ウン症の子どもが生存しないように死に至る措置をとる﹂こ ざったい。吉本隆明のオウム言説に反感を持って吉本批判を ている。おう、 ﹃ロンドン・コーリング﹄ ︵クラッシュ︶ 。 渇した現在をよく象徴している。思想も批評もあったもので ってよい。唾棄すべき卑怯な奴らだ。この事態は想像力が枯 はじめた者たちは、おとろえた吉本を見るに敏な風見鶏とい 28 ろにルールが設けられて法制化されることになる。生命倫理 事実だ。患者の生存権と甚大な医療費の負担がつり合うとこ 動機を満足する死の定義がもとめられた。これは歴然とした ことができない。たとえばまず臓器移植という動機があって、 るかぎり自然︵生命︶科学の生への土足のままの侵入を拒む びである。近代発祥の市民原理は自己という定点を準則とす おそらく現在の風潮から優良クローン人間生産までは一跳 る何か存在者として、見つけることはできないのである ﹂ 。 うであるからこそ、私たちは、歪む働きを、存在者に付着す 存在そのもののうちに生き生きとあり続けるのであって、そ 深い激怒の邪悪さにもとづくのである。 ・・・歪む働きは、 に存するのではない。むしろ、憤怒に燃えた悪事の本質は、 怒に燃えた悪事の本質は、人間行為のたんなる背徳性のうち 開けた明るみのうちには、憤怒に燃えた悪事も出現する。憤 郎訳︶で言っている 。 ﹁無傷の健全なものと同時に、存在の ハイデガーは戦後﹃﹁ヒューマニズム﹂について﹄ ︵渡邊二 学者ピーター・シンガーは﹃生と死の倫理﹄ ︵樫則章訳︶で、 はない。 3 50 とした問題があったんですよ﹂ ︵﹁宗教論争﹂吉本隆明 小川 をつくることを善の方向にしか考えていなかったから、見落 いだったのかもしれません 。 ・・・、もともと、理想の社会 会のイメージを、善の方向にだけ暢気に考えてきたのが間違 ム事件に思想的な意味を見いだしたい吉本隆明は﹁理想の社 徊している﹂と言う。やれやれ、悪酔いしそうな気分。オウ 険なものもうろついている。妖怪というか、不吉なものが徘 っていたはずの世界がある。でも、自我の底には、非常に危 れは、すばらしいですよ。現実が消えて、自分がもともと持 んな世界ですか﹂というインタビュアーの問いに答えて、 ﹁そ 三日︶でオウム事件に触れて 、 ﹁自我の底に見えるのは、ど また﹁ポスト・オウムの時代 ﹂ ︵ 夕刊読売一九九八年四月二 ナチ加担の狡猾な詭弁であることは一目瞭然だ。村上春樹も その代償として彼らはひそかに﹁悪﹂ ︵や﹁人類﹂ ︶を代入す たない﹁我﹂では存在の空虚を埋めることができないからだ。 なぜこういうことになるのか 。 ﹁我にあらず﹂︵*︶を含みも どころかしだいに悪い夢を見ているような気になってくる。 代主義なのだ。なぜこんなふざけたことになるのか。悪酔い 課題は繰り延べられ、先送りになる。この意識の呼吸法が近 て普遍的な人類はめでたく世界市民となり、解決を迫られた 破る手だてとして﹁人類﹂という概念をもってくる。 而し 刊読売﹄一九九七年十二月十六日︶と。社会の閉塞感を突き 類﹄が存在しはじめたと思う﹂ ︵ ﹁100人インタビュー﹂ ﹃夕 行人はインタビューに答えている。 ﹁抽象概念ではなく、 ﹃人 何だ。村上龍の言う﹁人類﹂は柄谷行人のひき写しだ。柄谷 界﹄一九九八年二月号 ︶ 。この弛緩した言葉のたれながしは 人吉本隆明もまた考えたあげくあるがままの現実を追従する 国男﹃文学界﹄一九九六年二月号︶と言う。かくして考える のあげく自己の空隙や共同性との矛盾が﹁悪﹂ ︵や﹁人類﹂ ︶ る。近代主義では﹁我﹂は世界へと際限なく外延化され、そ で。今度の金融不安もそうでしょう。だからといって、国家 ていると思う。ただし、特定の国家からではなく、地球規模 らですかね。黒船が来るしかない。/村上 それはもう、来 言う 。 ﹁ 庵野 来る可能性があるとしたら、やっぱり外国か まだある。ひとしきり日本社会を小馬鹿にして、村上龍は 果てなく円還する計量可能な世界との予定調和。これでは生 に空虚をもたらし、こぼれた空虚をさらに社会が商品化する。 消費社会は、欲望を無限に増殖させ、欲望の充足とひきかえ 社会の実務化と科学のテクノロジー化が抱き合わせになった う。そうやって口にまかせて一生を 囀 り散らしたらいい。 近代主義の延命に過ぎぬことで、じつにつまらぬ考えだと思 として﹁自己﹂に刷り込まれることになるわけだ。もちろん 目標をもう一度創り出して皆を目覚めさせるために、戦争だ きることは空虚だ。また欲望のおこぼれが地に平安をもたら だけでふりだしにもどってしまう。 世界征服だというのは、不可能だと思うんです。そうすると、 すとは思えない。私たちのまわりにある文化的言説は近代主 さえず ある意味で普遍的な﹃人類﹄に加わるしか選択肢はないと思 義そのものではないか。虚妄なさまざまなる意匠とでもいう 内包存在論Ⅰ 51 vs うんだよね﹂ ︵村上龍 庵野秀明﹁何処にも行けない﹂ ﹃文学 vs ことなのか。なにかが決定的に変わらねばならない。人類史 には絶対にないものだ。吉本思想の最大の魅力はここにある。 自分の体験を振り返っても吉本隆明の明晰のなかにある無明 の還相の知に惹きつけられてきたという気がする。非知を偏 が革命されるほどに。 ︵*︶⋮辺見庸の朝日新聞連載記事の﹁法廷と塩辛﹂と題する文 愛しながらなかなかそこへ到達できないどはずれのはにかみ だれ ことのない生にからみついた不幸の気配や不全感を生みだす が吉本隆明の思想にあり、そこにおそらくけっして語られる 章の﹁﹁われ﹂とは、全体、誰なのだ、われとは?﹂ ﹁﹁われ﹂と は﹁われにあらず﹂の両義を含み持つのではないか﹂に触発され 言葉を借用した。 幽冥がひそんでいる。それは言葉でないかぎりで端的に謎で あり、そこを吉本がときほぐすことはもはやないように思え る。しかし、もしかすると吉本の思想の初期の論考にその謎 がかくされているのではないか。少しそんなことを思う。 青年マルクスが﹃経哲草稿﹄を書いたように青年吉本が﹁マ チウ書試論﹂を書いた。吉本が 歳ぐらいのとき、今から 年前のことだ。敗戦の打撃から低く身を起こし、労働争議と 人妻略取のこじれた三角関係を抱え込んでいた時期ではない かと思う。それら一切に吉本は自己の存在を賭けて対峙して いたはずだ。その頃 、 ﹁ぼくがたふれたらひとつの直接性が たふれる ﹂ ︵﹁ちひさな群への挨拶﹂ ︶とか﹁ぼくが真実を口 ぼくは 廃人であるそうだ ﹂ ︵﹁廃人の歌﹂ ︶ という詩 を にすると ほとんど全世界を凍らせるだろうといふ妄想によ って 書いている 。 ﹁マチウ書試論﹂というこの異端の書は地軸を 傾かせるほどの苛烈な意志を秘めていた。血煙をあげ疾走す る意志の化身となった﹁マチウ書試論﹂の風圧の強さに近著 ﹃アフリカ的段階について﹄は遙かに及ばない。文明の外在 史と精神の内在史の相克するものを歴史と考えるとき 、 ﹁ア フリカ的段階﹂という概念を人類史の母型とみなせばヘーゲ 43 ﹁マチウ書試論﹂考 吉本隆明の思想の概念は幾重にも折り重なり複雑な屈折率 をもっているので、容易には概念の全貌をつかみにくいとい う際立った特徴がある。分かったつもりになっても、次の瞬 間に、たしかにつかんだと感じたその感触が、するりと手の ひらから抜け落ちていく。その繰り返しの振幅が吉本隆明の 思想の魅力のようなものだ。そういう意味では吉本の造作し た概念はほとんど呪文のようなものであり、なんとでも解釈 できるのだが、概念がふくみもつおおづかみの直観の比類の ない鋭敏さは驚嘆にあたいする。それでも韜晦な表現を透か しみて、まちがいなく理解できることがある。それは吉本隆 明が人間に固有の観念化の力能を好いていないということで ある。大衆の原像といい、観念の上昇路が自然過程にすぎぬ ことといい、総じて観念の果てる場所を愛好するぬきがたい 精神の傾きをもっている。この質感はいわゆる文化人の口舌 30 1 52 はある。 いるというべきか。それほどの激しさが﹁マチウ書試論﹂に かと一途に思いつめた、直立する意志の片鱗をうかがわせて かろうじて若い吉本が抱いた、世界をねじ伏せずにおくもの 、理 、の強靱さだけが、 ルの絶対近代史観は拡張できるという論 る。ここには敗戦期吉本がくぐった体験の心象が投射されて に マ ル ク ス 主義 からの 自 立 的な思 想の 萌芽 を み る こ と に な ない思考の革命だった。私たちははじめて﹁マチウ書試論﹂ 化させたのだということになる 。 ﹁マチウ書試論﹂は途方も 争が、ユダヤ教に対する敵意と憎悪感を思想の型にまで普遍 返して、マルクスの﹃経哲草稿﹄の言葉にあるおおらかさと に、なすすべもなく呆然とした吉本の屈折した感情を﹁マタ 主義になだれをうって転換した根こそぎの理念や社会の豹変 いる。八紘一宇や大東亜共栄圏という大義が敗戦を境に民主 吉本の言葉がもつ秩序への昏い叛逆の心意の違いがどこから イ伝﹂をだしにして内省的に語っているのが、 ﹁ マチウ書 試 えた原始キリスト教批判の思想的な精髄のどこに落とし穴が やがて﹁マチウ書試論﹂が書かれ、編者の解題によるとそれ オ若くはカール・マルクスの方法についての諸註﹂があった。 ﹁諸註﹂で彼は考えた。存在が意識をつくるのだとしたら、 あってつきつめられていないあいまいさがあるのか、精読し り、 ﹁マタイ伝﹂を手がかりに世界の臍のありかを身を削る しかし、この確からしさは、意識がなければ存在を指し示し から3年後に﹁転向論﹂が書かれたことになる。このトライ ように問い尋ね、たどりつき、ついにつかんだと信じた吉本 えないことを同時に意味するはずだ。この確信を手に、ラン てたしかな手応えがあった 。 ﹁マチウ書試論﹂は現存する世 幻想論の要である﹁関係の絶対性﹂の思想は、しかし私の考 ボーの詩に幻想論︵上部構造︶を、マルクスの﹃資本論﹄に アングルのなかに吉本思想の原石のすべてがある。 、え 、う 、る 、ものとしてある。私のなかで 年の歳月を経 えでは超 界と相渋るときの吉本の資質をなまなましく抉ったものであ みごたえのある文章の力にあらためて驚きながら、吉本が考 論﹂だといってもいい。まず吉本 歳のときの論文﹁ラムボ くるのかひどく気になった。 年という風雪にたえてなお読 昔若い頃読んだことがあったが、それから 年経って読み 30 た﹁マチウ書試論﹂はそのようなものとして立ち現れた。彼 経済論︵下部構造︶の可能性を読み込み、のちに﹁ある構造 いに、経済論は重力︵素粒子︶の作用に比喩されてよい。彼 を介して関係する﹂という吉本の特異な方法論となって、私 吉本隆明 は、 ﹁マタイ伝﹂を、ヘブライ聖書やユダヤ教か に大きな波がやってきた。見えない力にさらわれ勢いに乗っ がつかんだと思いなした確信の深さの由来も思想的なあらも らの﹁人類最大のひょうせつの書﹂だという。吉本の言葉を て、 ﹁転向論﹂で、日本近代社会の構造を総体のヴィジョン たちの知るところとなる。幻想論は素粒子︵重力︶の振る舞 借り て い え ば 、 ﹁ マ タ イ 伝 ﹂ に は原 始 キ リ ス ト 教 の た え て き においてつかまえようとする大胆な構想が提出された。すさ ふくめて間合いを見切ることができたように思う。 30 た風雪の強さがあり、眼を覆う血なまぐさい現実と苛烈な抗 内包存在論Ⅰ 53 25 30 にすべて出そろっている。吉本がめざしたものはいわば表現 になる。ある意味でここに晩年に至るまでの思想の型がすで きさを﹁ある構造﹂という可変なボリュームが調節すること つの力が交錯してつくった、偏心してゆがんだ、編み目の大 幻想論が横糸の反重力として経済論を垂直に貫く。そして二 れた共同性は、どういう命運をたどることになるか、という に入ったとする。そのとき、その人物や、そこでともに担わ ある集団が、秩序や支配的なイデオロギーとの全面的な抗争 イデオロギーが支配的なものとして存在するとき、ある人物、 録と考えた。ひとつの秩序があり、そこには秩序と和解した えそうと空を切って描いた言葉の軌跡を吉本はイエスの言行 しなりにしなった心意が限界までたわんで一気にたわみをか の統一場理論だった。たしかにこの希有な思想は吉本隆明が のが﹁マチウ書試論﹂がえぐりだしたことである。イエスの まじい膂力というほかない。経済論を縦糸の重力とすれば、 創案したものには違いないが、第二次大戦の歪みやねじれが 物語も 、 ﹁マチウ書試論﹂の結末も、その後の彼の 年余に 軋みをあげながらしなりをかえすとき吉本隆明という個性を 吉本はイエスに象徴される原始キリスト教団をパラノイア わたる思想の営為もすでに私たちは知っている。 チウ書試論﹂で呪詛する吉本のつぶやきは私にとっても身近 だと考える。そこにふれた箇所をまたいくつか任意に拾って よぎったというのが、思想が生まれる本義に近いと思う。 ﹁マ な資質であり、同時に超えうる思想でもある。私は内包論を みる 。 ﹁ 迫 害 を う け た ら 喜 べというのは、 いったいどういう 、ろ 、つ 、き 、と同じ形の 二三人の子分をつれて陰性におしかけるご は吉本隆明ではないのか。そんな錯覚がやってくる。ここで、 意に拾ってみる。 ざっとこんな具合だ。ひとことで云うと﹁否定性﹂として 神戸の事件の少年が書いた 、 ﹁殺しをしている時だけは日頃 心理 ﹂ ﹁ 無 茶 苦 茶 な こ と を 言 う 妄想狂 ﹂ と い っ た ぐ あ い だ 。 表象される言葉の一群が多用されている。とてもくらい気持 の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。人の痛みの 敵意、憎悪、攻撃、過酷、悲惨、秩序からの重圧、疎外、圧 ちになってため息がでる。アッシリア人の侵略や、バビロニ みが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである﹂というコ ほかにも似たような文言はいたるところに散見される。ふと アの虜囚、ローマ帝国の支配が原始キリスト教団の直面した トバを思い出した。そうなのだ。少年がさかむけした言葉を 迫、叛逆、被害感、陰惨、迫害、偏執的、倒錯、神経症、欠 宿命的な現実の背景をなしている。否定性であざなわれた、 思う。あれ 、 ﹁ジェジュ﹂批判を騙って、天に唾しているの いる﹂ ﹁ひとの弱みにつけ込んで脅迫し、きき入れなければ、 る病的な鋭敏さと、底意地の悪さをいたるところで発揮して 心理か ﹂ ﹁人間性の脆弱点を嗅ぎ出して得意げにあばき立て 吉本隆明の思想が到達し歩みを止めたところから始めた。 40 如、敗残、裏切り、猜疑心、 ・・・。 吉本隆明の﹁マチウ書試論﹂から使用頻度の多い言葉を任 2 54 そう思えてならない。 いしれる卑俗なイエスよりかなりしたたかなはずだ。私には ったイエスのイメージは吉本が決めつけたいマゾヒズムに酔 い。だれもがふとそんな思いを抱くはずだ。伝記作家がつく イメージ は 吉本 とよく 似た 相貌をしている 気がしてならな 秩序に叛意を貫くありさまが描かれるとき、なぜかイエスの つきをしているように、吉本によってイエスという妄想狂が 社会へ浴びせるとき、その言葉が彼の憎悪する社会と似た顔 根拠はここにあり、この根拠以外のなにものも必要とはしな 論においてひらくこと。私が﹁マチウ書試論﹂の批判をなす るのがここだ。当事者性を決して手放さず、その軋みを存在 それはじかに起こる。伝説のイエスが喩としてのイエスにな 信とは無関係に、また自己意識の用語法からすれば無媒介に、 ない。あらゆる断念を超えて、一切の宗教理念やその信・不 を兼ねそなえた満月のこころを思想という。それは言葉では そんなものは思想の名に値しない。 ﹁不可侵﹂と﹁不可被侵﹂ 私は原始キリスト教もこんなものだったのだろうと思った記 化する必要があった。オウム事件がマスコミを賑わせたとき、 い。そのためには聖なるイエスをなんとしても俗化して相対 にふれてこない。土壇場の体験にたいする根っからのコンプ も身にしみてわかることがある。吉本の言葉はすこしもおれ 臓がめくれかえる修羅場をくぐればよかった。やればいやで 原始キリスト教団の一党にまじって、吉本も一度ぐらい心 かった。たしかな思想の転回がここにある。 憶がある。しかし私は吉本の﹁マタイによる福音書﹂の批判 レックスが吉本の幽冥の場所にあって、防御のために神経を 、の 、結末を言いたくてたまらな 吉本は﹁マチウ書試論﹂のあ に、ひたむきだがどこかすれっからしの感じをどうしても持 とがらせ相手を底意地悪く徹底的に痛めつける精神の傾きを 文言で批判することと、そこをかいくぐることのあいだに ってしまう︵﹁ジェジュ﹂がクソなら麻原もクソであるはず なぜこうまでムキになって﹁ジェジュ﹂の言行録を否定した は天と地のひらきがある。そんなこともわからないのか。こ 吉本はもっていると私は思う。良寛も言ったではないか。 ﹁災 いのだろうか。それは吉本のなかにあるゆずれないなにかが の天地のひらきが聖句に書きつけられていると錯覚できる脳 なのに、半端な批判のツケとして晩年の吉本は麻原彰晃を持 そうさせるからだ 。 ︿おれは人間ではなくおれである﹀と繋 天気さが吉本にある。伝承されるイエスが身にしみて思い知 難に逢う時節には 災難に逢うがよく候 死ぬ時節には死ぬ けた日のかつてのじぶんのこととしてよくわかるが、吉本の ったことが言葉として書かれるわけがない。またそれは喩と ち上げた ︶ 。吉本の原始キリスト教批判の否定の激しさはな ﹁マタイ伝﹂批判程度ではなまぬるいのだ。吉本の言説には してのイエスが歴史的人格であるかどうかにも、 ﹁マタイ伝﹂ がよく候 是は災難をのがるる妙法にて候﹂と。 底のぬけた言葉がもつ強さがない。否定性に縁取られた言説 の作者の意図にもまったく関係のないことだ。聖句や経文の にに由来するのか、なぜだろうかと一晩頬杖をついて考えた。 はどんなに激しくても﹁不可侵﹂の圏域にとどめおかれる。 内包存在論Ⅰ 55 、い 、だ 、に 言葉がたがいに衝突し、矛盾し、脱臼しているそのあ だけ書かれぬ、見えない言葉がある。これは体験主義ではな い。吉本の﹁ジェジュ﹂批判がおれにふれてこないから、と たどりつくのに、人間はながいながいすさまじい歳月を必要 からもっとも遠い場所にある。おそらく伝説のイエスも抱き ような体験はけっして語られることはない。体験は体験主義 石をパンにかえてみよ、と言う。イエスは﹁人はパンだけで とき、彼を験す者が現れて、もしおまえが神の子なら、この イエスが荒野で四〇日、四〇夜断食をして腹が減っている とした。 ようのない苛烈を抱いてそこにいたと思う。世界に叛逆し、 生きるのではなく、神の口からでる一つ一つの言葉で生きる どかないから、そういうほかないのだ。身にしみて思い知る ひとりゆきくれ、ねじくれささくれだった言葉の膝を抱えた のである﹂と答える。サタンよ去れ、とイエスが言ったとさ なぜパンなのか。胃袋の飢えや病苦が圧倒的な現実であり、 イエスのふるえがつたわってくる。聖句や経文がこころをう 私たちの知るところでは、人類が歴史の初期につくった、 人為によってその現実を改変することがまったく不可能だっ れるこの場面をめぐる応答は深い。イエスはなぜ人はパンの ありえたかもしれないひとつの超越は、のちに神や仏という たからだ。パンは端的に現実の喩だといってよい。戦乱で家 つのはそのためである。そこに分け入って共同化された理念 共同幻想をつくりだすことになる。このときニーチェが叫ん を焼かれ、飢餓で飢え、疫病で虫けらのように死んでいく地 みで生きるのではないと言ったのか。イエスの答えは尽きぬ だ神の死にはるかに先だってひとつの超越が人類史に封じ込 を這う衆生をまのあたりにして鎌倉時代を生きた親鸞も、念 のもつ欺瞞と詭弁のおぞましさに一太刀浴びせるのが宗教の められた。しかし神や仏という超越よりはるかにふるくはる 仏を一回唱えたら浄土にいける、と同じことを言った。吉本 謎をふくんでいる。イエスは謎のありかを知らなかった。 かにふかい根源の情動がまずはじめに存在したというべきな は﹁マタイ伝﹂のこの場面を次のように解釈する。 こにありえたかもしれない、うすく朱をひいた豊穣な驚異に もらした﹁空の鳥、野の花をみよ﹂という言葉が秘めた、そ 判する。原始キリスト教団を率いた首領﹁ジェジュ﹂がふと でそれは妄想であり人間という自然に反する倒錯であると批 配を否定し神の国の到来を予言し、吉本は﹁マチウ書試論﹂ に、人間が生きるためにぜひとも必要な現実的な条件が、 存在していることをほのめかしたのではない。実は、逆 できない現実的な条件のほかに、より高次な生の意味が 原始キリスト教は、人間が生きていくために欠くことの 人間はパンだけで生きるものではなく、と言ったとき、 包存在を知らなかった 。 ﹁ジェジュ﹂は現世の秩序による支 のだ 。 ﹁ジェジュ﹂も吉本も﹁衆﹂と﹁自﹂の根源である内 批判にほかならない。 3 56 ない強固な条理であることを認めたのである。 がえしたのではなく、かえって、それがくつがえし得え る。つまり、悪魔の問いがよって立っている根拠をくつ うばうことのできないものであることを 認めたのであ にない。なんとなれば、人間は眼にみえないものの存在より、 れるには、神が現世に降り、支配的な秩序となり果てるほか 神と人間との一義的な関係が人間と社会の関係にさしかえら とによる現世の俗化をさけることはできない。言い換えれば、 、は 、な 、ぜ 、パ 、ン 、を 、め 、ぐ 、っ 、て 、か 、く 、も 、争 、う 、の 、 ばならなかったのだ。人 、、と 、。反逆の意志が苛烈なら、問いはかならずそこまでゆ か 、本 、は 、現 、実 、が 、な 、ぜ 、か 、く 、も 、ゆ 、る 、ぎ 、な 、い 、も 、の 、と 、し 、 よくわかるが、吉 、現 、れ 、る 、の 、か 、と 、は 、問 、わ 、な 、か 、っ 、た 、。ほんとうはこう問わなけれ て サタンはパンを操る匿名の現実と秩序の象徴である。それは 現実や秩序を支える譬えだということはよくわかる。ここで たしかにそうだ。吉本のこの解釈は切れ味がいい。パンが パリサイ人に禍あれ﹂とわめきちらし、あちこちで衝突をは る。イエスに率いられた者らは 、 ﹁汝ら偽善なる律法学者と 対象となりやすい。このことは文化や民族や宗教を超えて秩 える権力よりも秩序にたいして叛逆する集団同士のわずかな ちたものとして彼らにうつった。経験的にいって、遠くに聳 原始キリスト教が現れたときユダヤ教の神はすでに地に墜 かたちあるものになびくという度し難い本性をもつからだ。 きつく。吉本の思想は現実を俯瞰し追認するだけでこの問い じめた。壊せ、壊せ、すべてを破壊せよ。憑かれたように彼 つユダヤの民もそのようなものとして古代の空を吹く風を呼 と現実の関係に重なる。モーゼの十戒を共同体の掟としても することができる。ここでは神と人間の関係はそのまま人間 らなる関係で過不足なく結びついている情景を無理なく想像 神がおおきな腕で抱いている、いわば、神と人間がおのずか るうつりかわっていった。古代の民のくらしの輪郭を古代の 見ては念ずることを繰り返す。古代の空はそうやってゆるゆ 袋をみたすことである。地に伏し、喰い、寝て、天空を仰ぎ 物の籾を蒔き、耕し、収穫し、風雨をしのぎ、暖をとり、胃 人間が生きるのに欠かせない現実的な与件とはなにか。穀 ようなところだ。まぎれもなく確乎としたゆるぎないひとつ いじみた執念が、驚嘆する思想として躍り出た、身震いする たちで吉本によって宣明される。吉本隆明の敗戦体験の気狂 心情のすべてが﹁マタイ伝﹂の物語として包括的な理念のか の、秩序から迫害されるものが、追いつめられた果てに抱く くところまでゆくほかに止むことはない。秩序へ叛逆するも い、と言ったに違いない。対立のこの単純な明快さはゆきつ の御心に背く偽善者だ。おまえたちは暴徒で破壊者にすぎな は、原始キリスト教の盲信者にたいして、おまえたちこそ神 侮辱され、そのまま引き下がる手はない。パリサイ派の面々 らは酷い現実に手を染めた。不逞の輩に一方的になじられ、 序 へ 謀反 を 企て る者が 陥る 心情の 普 遍 的な 型と し て存 在す 見解の相違の方が、反秩序の徒にとって激しい憎悪と攻撃の にけっして答えない。 吸していた。しかし、いかなる宗教神も戒律を社会化するこ 内包存在論Ⅰ 57 の思想だ。 ここでマチウ書が提出していることから、強いて現代的 ぐり出してみる。そのとき、ぼくたちの孤独がある。孤 独が自問する。革命とは何か。もし人間の生存における 、係 、の絶対性のなかで、人間の心情から自由に 意味は、関 を 導 入 す る こ と に よ っ て の み 可 能 である 。 ︵略︶加担の 、係 、の絶対性という視点 倫理に結びつけ得るのは、ただ関 ︵略︶秩序に対する反逆、それへの加担というものを、 が強いる絶対性のまえでは、相対的なものにすぎない。 選択にかけられた、人間の意志も、人間と人間との関係 よみがえるのを感ずることができる。だが、この自由な 択する自由をもっている。選択のなかに、自由の意志が るものであるということだ。人間の意志はなるほど、選 意志にかかわりなく、人間と人間との関係がそれを強い だ。ひとたび戦争がおこるや、個人の叛逆の意志や内面など 史 的 な 広 が り ま で視 野 に 入 れ て そ う い っ て い る の は明 ら か である﹂と断言するとき、じぶんの思想のおよぶ範囲を世界 、係 、の絶対性だけ よい。吉本が﹁人間の情況を決定するのは関 つくならば、あるいは吉本の言説は真理であるかといっても 君でない﹂を自明のこととする、自己意識の外延表現の途に かのような錯覚をおこさせる強い磁力をもっている。 ﹁私は 文言は、身につまされ、まるでじぶんのことが言われている う言葉の硬い芯の手応えに衝撃をうけた記憶がある。引用の 、係 、の絶対性﹂とい く名状しがたい余韻がのこる箇所だ 。 ﹁関 おそらく﹁マチウ書試論﹂を読むだれの胸奥にも印象ぶか 矛盾を断ち切れないならばだ。 離れ、総体のメカニズムのなかに移されてしまう。マチ いちころに押し潰してしまった国家や共同体というものはい な意味を描き出してみると、加担というものは、人間の ウ の作 者 は 、 ︵略︶現実の秩序のなかで生きねばならな ぶりは吉本に大きなしこりを残した。この体験に目をつむっ ったい何なのだという、苦い戦争体験がこの奇妙な考えを導 人間は、狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想 て、過ぎた昔をチャラにする器量は吉本にはなかった。吉本 い人間が、どんな相対性と絶対性の矛盾のなかで生きつ を信ずることもできるし、貧困と不合理な立法をまもる は身を削って考えた。革命の可能性をもとめ世界をむこうに いた。皇国を信奉した愛国者が敗戦を境に一夜にしてインタ ことを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来 まわして一人で戦った。それは口舌ではなかった。この世界 づけているか、について語る。思想などは、決して人間 る。自由な意志は選択するからだ。人間の情況を決定す の秩序へ叛逆する自由な意志は、関係の絶対性という総体の ーナショナリズムと民主主義を偏愛する人民に豹変した変節 、係 、の絶対性だけである。ぼくたちは、この矛盾 るのは関 メカニズムに繰り込まれて充分咀嚼され、のちに自己幻想と の生の意味づけを保証しやしないと言っているのだ。 を断ちきろうとするときだけは、じぶんの発想の底をえ 58 共同幻想は﹁逆立する﹂という思想となってあらわれること 私は吉本の思想を好悪とは関係なく近代思想のもっともす 配する世界は 、 ﹁狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思 、係 、の絶対性﹂の支 と冷たい膝を抱える。吉本隆明のいう﹁関 えない言葉で、世界とはなにか、ここにいるおれはなんだ、 よく闘った者が、追いつめられ、退路を断たれて敗残し、み が固有時をもとめて世界に挑みかかった。よく世界を感じ、 のがあった。世界は在るものでなく感じるものだから、意志 世界が寒かった。この世がこうでしかないことにたぎるも の被抑圧人民が 、 ﹁不可侵﹂を唱える者の実存の意味を充た 如︵貧困︶の時代に、プロレタリアートが、ついで第三世界 るさに意味を読み込む。かつてよく見た光景ではないか。欠 じめ、想像力の枯渇した口舌の輩が、若者のかったるさやだ が主題化され、それにふさわしい倫理観を皆が一斉に探しは 倫理は消費資本主義の興隆とともに漂白され、代わりに空虚 に無意識に自然と身につけてしまったものだ。たぎる叛逆の 悪戦の果てに切り拓いてつくった思想は推移する時代がすで ぐれたひとつの達成とみている。しかし、吉本が戦後一人で 、ろ 、つ 、き 、と、 想を信ずる﹂ご ﹁貧困と不合理な立法をまもるこ すものとして主題化された。いまや貧血や空虚というわけだ。 になる。 とを強いられながら、革命思想を嫌悪する﹂わが忍従の民で そしてパッとしない主体に気合いづけとしてひそかに悪が導 ある時期から私は﹁奥行きのある点﹂という概念をつくれ 占められることになる。そんな馬鹿な。胸が痛くなる。敗残 はそのどうでもいいことを、これでもか、これでもかと暴き ないかと考えはじめた。それは点の思考に窮屈さと権力の気 き入れられる。この思想的構図のうちに世界は閉じられてい 立てる。赦すことのない吉本の言葉は執拗で、容赦なく、笑 、係 、の絶対性﹂は吉本が見た夢で 配を嗅ぎとったからだ 。 ﹁関 者を尻目に、この世をうまく泳ぎ渡った者が明るく人々に世 いがない 。 ﹁思想などは、決して人間の生の意味づけを保証 あって、おれの夢ではなかった。現実はさまざまに入り組ん る。文学であれ、思想であれ、現存するすべての言説はここ しやしない﹂という言葉はまた吉本のつぶやきでもある。否 だ観念の編み目によって成り立っている。そこで﹁くつがえ 界の行方を語りかけるというのは、昔から変わりばえせずに 定の対象を痛罵することでじぶんの生の不全感を保守すると し得えない強固な条理﹂から吉本は思想を立ち上げる。パン を超えるものではない。これではパンの問題はおろか、生の いうのが吉本の根本をなす思想の構えだ。吉本はここを超え がここに一個あるとする。堅固な条理は、人はそれを奪い合 よくあることであり、これからも変わらずありつづけること ようとはしなかった。彼の﹁ジェジュ﹂批判がどこかはすっ うものであると考える。マルクスの経済論や吉本の幻想論は、 空虚さをうめることも、絶対にできない。 ぱでなげやりなのはそのためだ。それがまた吉本と世界との 身体に心が貼りつき、それをひとつきりの身体と心からなる で、そんなことはどうでもいいのだ。そうではないか。吉本 機縁だった。 内包存在論Ⅰ 59 の偉大と背理がそこにある。吉本の点的な思考は、点的な思 間の生命のかたちの自然をみるからだ。言い換えれば、近代 このことを疑うことは彼らにはなかった。なぜならそこに人 から始める限り妥当なものである。人々はそれを人間の本性 人間の我欲や我執を本能や生得的とみなすのは離散的な自己 は内包存在を主体とし、2つの自己が分有されることになる。 くびれて分有されたものを自己と考えればよい。私の考えで 内包存在を主体とする内包というつながりが、身を節目に 考をいわば秤の原器にして、そこから世界への触手を延ばし と思いなしている。それは根拠のある頑迷な臆見であり、し そのものが所有することを、暗黙に表現の公理としている。 ていくという方法だ。この思想は不可避に空虚を抱え込む。 そこに空虚や我執が棲まうことになる。たしかに︿わたし﹀ かし歴史の制約であるということにおいて、不変ではなく可 私は吉本とまったく異なった考え方で、吉本の考えたこと と︿あなた﹀は身を隔てそれぞれ個人として生きている。人 この存在には穴があいているからだ。 ﹁ジェジュ﹂の﹁汝姦 をふくみもって拡張することができることに気がついた。 ﹁ひ 間というかたちの自然によって︿わたし﹀と︿あなた﹀が離 変である。点的な思考をとるかぎり、自己は善悪に分裂し、 とりの個体という位相﹂を向こう側から見て、向こう側から 接するからだ。それにもかかわらず、点と外延の思考を縁取 、係 、の絶対性﹂が理念 淫するなかれ ﹂ 、 を 批 判 し た 吉 本の ﹁ 関 、ら 、体 、み 、を主 、とする概念を創れば、 の視線とのか ﹁ ひとりの個 る近代がはらむ背理は内包の思想で超えられる。内包存在は 自己のなかに善悪をふくみもつことになるほかない。そして 体という位相﹂が拡張されると内包表現論で考えた。吉本が 、か 、に存在する。内包存在を根拠 自己=意識を一跨ぎにしてじ と実感を分裂させるのはこのためだ。 そこにくつがえし得ない条理があるという人間の自然も、私 とするほかにどんな手をこうじても、近代発祥の自己意識に 人であることの根源をなすつながりのあらわれが自己であ の内包論では観念の問題として扱うことができる。眼にみえ と考えられるものがおのずと胸襟をひらくのがここだ。マル り、自己にはつながりがあらかじめうめこまれていて、他者 ついての理念が超えられることはない。 クスや吉本の社会思想は、はじめからゴルディオスの結び目 をすでにふくみもつものとして存在している。 我 「 が 」 我 「に ないものよりも、かたちあるものや実利になびく人間の本性 を抱え込んでいたというべきだ。私は自己というものを彼ら 、係 、 とき、 関 「 の絶対性 は 」おのずと内包化される。点の思考が 、係 、 外延された吉本の 関 「 の絶対性 は 」 人 「 間の生存における矛 盾 を 」 いやおうなく引き込むようにもともとできあがってい じねん とは違って考えた。人間の意志が人間と人間との関係が強い あらず を 」 すでにふくみもつから、一個のパンが自然に分け じねん もたれることになるのだ。内包存在という自然を主体とする る絶対性のまえで相対的なものにすぎないようにあらわれる のは、自己を質点とする思想がその分裂を呼び込んでいるか らなのだ。点の思考は内包存在論によってヘーゲルやフロイ トともまったく異なった思想として領域化されうる! 60 る。 人 「 間は、その生活の社会的生産において、一定の、必 然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれら の 物 質 的 生 産 諸 力の 一 定 の 発 展 段 階に 対 応 す る 生 産 諸 関 係 を、とりむすぶ ︵ 」 岩波文庫 ︶ と い う マルクス の ﹃ 経 済 学 批 判﹄の序言を吉本はよく知っていた。マルクスの経済論を吉 、係 、 本は幻想論の立場から意志の関与しえない 関 「 の絶対性 と 」 読み替えた。裏返しにされた同型の思想とマルクスへの隷従 がここにある。自己意識が外延的に表現された世界ではたし かに自己幻想と共同幻想は 逆 「立 す 」る。それは内包という主 体を躰のなかに自我として閉じ込め、身に貼りついたこころ を 所 有す る も の を自己 とみなす近 代 思 想か ら の 自 然な 帰結 、体 、は 、い 、か 、な 、る 、意 、味 、で 、も 、自 、己 、に 、属 、し 、て 、い 、る 、の 、で 、は 、な 、い 、。 だ。主 内包存在の分有者と、自然の粗視化された代償態である 社 「 会 を 」 拡張する内包自然とがあやなす世界には、 逆 「立 す 」る 、係 、 という思考法が存在しない。私は 関 「 の絶対性 を 」起動する 点と外延の思考の彼方に途方もない夢を見る。不倫の吉本思 想、倫の内包思想。内包には孤独と空虚がなくかなしみがあ る。 一九九八年七月三一日 内包存在論Ⅰ 61 62 苦海と空虚はなぜ回帰するか︱辺見庸メモ 苦海と空虚はなぜ回帰するか 63 辺見庸は、著者が﹁中村哲論﹂を記した一九九六年以降登場する文章家の中で、その﹁気骨ある文章と遊牧的気風﹂に魅かれた数 少ない人物である。両者は互いに未見だが、写真でみると風貌、眼差しまで不思議によく似ている。剣道を嗜み頑固一徹﹁肥後もっ 世界各地の戦場を巡った辺見庸は、現地の凄まじい悲惨に憤りを覚え、人間の奥底の不可思議な闇、どす黒い狂暴性に絶句しつつ、 こす﹂の著者とは、気質がかなり合うとみてよい。 澄んだ目で苦海を凝視する彼女ら︵ファルヒアやナサカ︶こそ世界の密やかな中心と語り、 ﹁人間を別人格にしていく暗くて深い謎﹂ の在り処を問う。その激しい息遣いは、 ﹁内包﹂の思想によって殺戮や復讐を超え、 ﹁わたしたちはだれも固有の生を生きており、そ の固有さこそ世界の中心﹂として、人間存在にまつわる謎の解明に向かう著者とほぼ重なる。だが、著者の重心はこの先にあり、彼 の手を取りつつ人倫の根源︱﹁人々の暗い記憶の森﹂へと遡っていく。 辺見庸を論じる理由は何か? 菩薩・ファルヒアに合掌して佇む一方、唾棄すべき﹁日本のぬえ社会﹂で傍観する卑怯を恥じる辺 見は、アフガンの地でハリマらの惨劇を前に﹁もはや部外者ではあり得ず﹂と呻き、返す刀で﹁トウキョウ︵近代︶を砲撃せよ﹂と 叫ぶ中村哲の位置と、期せずして一致する。一方に飽食あれば、他方に飢餓ありという﹁両義的﹂矛盾は未解決のままあり、分裂す る自︱他へのいらだちは、暴威を振るう自由社会・強国批判や禁欲的な人倫︵配慮・寄添い︶へと向かうしかない。明敏な二人にし て課題は共通にあり、ここをどう解き明かすかに現在の思想的命運がある。 目を覆う苦海を引き寄せる人間同士の愚行の根は何であり、どうすればそれをやめさせることができるか。著者は、辺見や中村哲 の憤怒や洞察に深く共感しつつも、彼らの近・現代社会、国家批判では、自︱他を根源で結ぶ術はなく、既存の自己︵個︶を保存し たまま底なしの内面・ニヒリズムへ向かうしかないとみる。なぜなら、自己︵個︶が﹁われにあらずを含み持つわれ﹂として改変さ れない限り、 ﹁わたし︵自我︶ ﹂に始まる自己同一性原理の延長線上で表裏をなす﹁個と共同性︵国家・民族・三人称⋮︶の矛盾・対 立﹂は避けられず、自︱他を結べぬ個の内面は、際限なき欲望を導くサイバー資本︵共同幻想︶の威力の前に、蹂躙されるほかない からだ。欲望のための欲望は、誰のためでもない﹁がらんどうの一人称﹂で再び苦海へと走り、終わりなき不全感をもたらす。 円環する苦海と空虚を根本から断ち切るために、著者は﹁われにあらず﹂を含み持つ﹁われ﹂の本来の源へ、 ﹁一人称﹂を改変する ような気がしている。池田晶子の自己の陶冶と辺見庸の世界 ぶせると視界がすっきりし、世の中のことがよく見えてくる そうだ。この二人の発言をよりあわせて網をつくり世界にか 存在論の革命へとひた走る。著者が投じた大きな石に、辺見庸はいかに応じるか。近い将来、両者の真摯な対談が実現することを強 く望みたい。 ︵原口︶ 遭遇 この数年気になる文章家が二人いる。池田晶子と辺見庸が 64 の陶冶。意識をめぐる自己と他者。この二人を表現の視野に 彼らの姑息なあり方を容赦なく叩きつぶそうと考えている。 りなく彼らの言説とまみえることもあるだろう。そのときは 求を辺見庸の書く文章に感じた。こういうことはめったにな む行為が批評だということになる。誘われながら誘いたい欲 読む体験があるとすれば、作品に魅入られつつ作品を誘い込 作品に触発され誘い込まれて心の襞が波打つことに作品を た凄惨な殺戮の体験にゆさぶられ、連続射殺魔﹁永山則夫﹂ 想起して﹁あれは・・・、人間の言葉では語れない﹂と呻い れた 。 ﹁ショア﹂に登場した反ナチ戦士がワルシャワ蜂起を 声をもつ危機の人としてわたしの目の前に辺見庸は唐突に現 彼ら欺瞞人のさかしらな文化面とは異なって、自分の顔と づら 据えると今はどういう時代なのかが浮きあがってくる。 い。そういう稀な体験をした。そこで辺見庸の言葉の世界を 友人からそれらのことについて書かれた﹁眼の探索﹂と題す の刑死に釈然としないものを感じていたちょうどそのころ、 このメモは辺見庸について書いたものだが、彼の表現の核 る新聞記事のコピーを数回分もらい、言い難い思いで一気に わたしの関心に巻き込んでみようと考えた。 心を衝くことでこの国の言説家の根ぐされのありかを抉ると 読んだ。それがはじめての辺見庸体験だった。この出会いが 不思議なことに彼の気骨ある文章と気風が合った。対談本 いう言外の意図もある。細川隆元風のお調子者福田和也ら保 の人権主義の欺瞞や、その論敵を擬した加藤典洋の自己チュ とハイパーエッセイのあちこちから重心の低い遊牧的な雰囲 なかったら辺見庸を読むことはなかったと思う。 ーという倫理主義に隠れた空疎さの批判を、それらの詭弁の 気が立ち昇り、この男の気性は農耕民ではないなと直感した。 守のごたくは論外として、戦後の応答責任を唱える高橋哲哉 いちいちにふれることはないまでもわたしは強烈に意識して 辺見庸の遊牧性と消費社会に対する批判の眼はどう絡まって ともなく辺見庸とは何者かということを考えた。 いるのだろうか。この引っかかりをのこして、数年、考える いる。 なぜならば彼らの言説は、譲渡不能の自己以外のなにもの にも拠らずに言葉を手繰りよせることでわたしたちの生きて 今、目の前に 冊の本がある。まだ直球の言葉を投げる人 からは、彼らの思惑がどうであれ彼らは権力を弄する治者に 遊びに興じている。内包の思想をつくっているわたしの場所 の程度が知的なものとして珍重される信じがたく低劣な言葉 だ。彼らの生煮えの言葉は不快で醜悪だ。この国の言説はこ に 根 づかせるという表 現の 本義を 巧妙 に回 避しているから 言葉をつくることができるのは彼をおいてほかにない。暗く 勢をなぞると、世界の気圏がずいと濃くなる。いまこういう 売りにする阿呆どもともまったく違う。彼が風景に触れ、地 もいい気分だ。そうかといって最近いやにのさばって保守を 彼の発言のどこにも人権派の嫌なにおいはない。これはとて がいるということに驚き、あらためて胸のすく思いがする。 いる世界を浮かびあがらせ、そのことをとおして言葉を現実 見える。寄り添い、俯瞰する視線は権力にほかならぬ。ゆく 苦海と空虚はなぜ回帰するか 65 13 ろだ 。 ﹁・・・各 々が別次元で真理値の等価を主張するのみ おのおの か知らずか思わず新しい存在論の可能性を口走っているとこ 向からそのことを受け止めようとする心意気に、強く共感す の同一律を貫徹しても、事件の底は見えてこないのではない て重い出来事にたいし、はすかいに構えるのではなく、真っ るものがあった。ぷすぷす煮えたぎりながら彼は世界を渉猟 か。 ﹃われ﹄とは、全体、誰なのだ、われとは? ・・ ﹃われ﹄ すところのない彼の正直さにわたしはぎくりとする。そこは ふんぎりのつかなさがいらだちとともにひそんでいる。かく ていないということだ。ここに彼のためらいやもどかしさや ことであり、そこで彼はぶれており、納得のいく決着をつけ 一言でいうと、表現と生身性の関係についての根幹に関わる ある。辺見庸のなかになおのこされている不分明さ。それは すべての頁を丹念にめくるなかでしだいに見えてきたことが たるところで爆発する。 が辺見庸の秘められた心のありかだ。辺見庸のこの想念はい み持たないならば、そんな生は生きるにあたいしない、それ てはないのだが、もしも 、 ﹁われ﹂が﹁われにあらず﹂を含 辺見庸の言葉がふいに亀裂を走らせる。あからさまには云っ のありようを現実と思い為している。この頑固な思いこみに ﹁われ﹂と﹁われにあらず﹂を対立的に生きており、またそ うだ、ここだ。ここをもっと絞り込め。通常わたしたちは、 とは﹃われにあらず﹄の両義を含み持つのではないか ﹂ 。そ この 年、わたしがこだわり考えつづけてきたことでもある そこでわたしは彼の著作を丹念に読み込んだ。 冊の本の だれ する。 13 奏でる音色の良い言葉の響きに感応しながらわたしの息づか 挑みかかり、のたうちまわる。風景を探索する辺見庸の眼が 起する独特の魅力でもあるのだが、彼の言葉は悲鳴をあげ、 からだ。この箇所にさしかかると、それが辺見庸の言葉が喚 含み持つ﹁われ﹂をまるごと生きてみよということを、巷間 ではなく、われとは、全体、誰なのだ、 ﹁われにあらず﹂を いやれなどという傲慢なことを言っているのではない。そう ん誤解されやすいところだが、辺見庸は苦海にあえぐ人を思 おそらく﹃もの食う人びと﹄や﹃反逆する風景﹄のいちば にあふれる騙りの社会批判や倫理的言説から遠くはなれて吼 えている。まるで言葉の駁撃だ。それは存在論の可能性であ ると同時に世界がそれまでと違って感じられる苛烈な恐ろし い問いでもあるのだ。 ﹁目の探索﹂と題された辺見庸の文章を一読して目が釘づ を浴びてみる 。 ﹃おれの心臓をなめることができたら、染み ﹁しばらくは記憶をして静かに語らしめる。悪夢のしぶき あるいは﹁記憶を視る﹂の次の箇所。 けになった 。 ﹁法廷と塩辛﹂のなかの一節。辺見庸が知って ファルヒアとナサカ 辺見庸に届けようと思う。 いも荒くなる。それはなぜなのか。そのありかをえぐり出し、 30 66 トに登場する元ゲットーの反ナチ戦士は語った。そう、少し ついている毒で、あんたは、死んじゃうだろうよ﹄とテキス 見庸は考え、彼は﹁ここに世界の中心があると確信﹂する。 イズによる死が確実に訪れる。その彼女たちの死の意味を辺 し、 ﹃いま﹄の危うさと、人の隠し持つ闇の底なしを、かい 味見してみる。記憶はそうしてはじめて、胸の奥深くに結像 女がかわりに答えるのだ 。 ﹁もう、声も涙もでないんだ スマユという地方からいっしょに逃げてきたという中年 ともあれ、彼女は私を見ない。問うても答えない。キ ばかり心臓の毒もなめてみる。この国にかかわる記憶の毒も ま見せてくれるのだとわたしは思う。それは﹃自虐﹄ではな よ。この娘は。いまは食いものもあるというのに、ちっ 見聞するは我が事にあらずというわたしの表現の鉄則に照 になるわけさ ﹂ ︵略︶彼女は、この世のありとある苦し とも食えないんだよ。あと何日ももたない。もうすぐ楽 やみ い﹂ らしてもここで辺見庸が言うことは﹁自虐﹂ではないと断言 だの一部となったしまった、言葉に遠い生存感覚があり、そ その菩薩の目は、しかし、一度も私をみることはなく、 三度、私は彼女のもとに通った。 くかい みを、他人の分まですべて一身に負うた目をしたまま、 れをわたしは出来事の当事者性と名づけている。けっしてそ 私の背中の向こうの苦海を凝視していた。苦海に私はな だ い じ だい ひ できる。考えてみたいのはここから先のことだ。どこからは の当事者性を手放さず、このありかたがそのためにあげる軋 く、人の苦しみをただ傍観し、記述するだけの人でなし す 死 に 呼び こ ま れ つ つ あ っ た 。 そ れ は大 慈 大 悲で 苦海 の みを存在論の根柢においてひらきたいという、わたしにとっ であるから、彼女は目をやることすらなく拒否している さいど いってどう辺見庸を論じても、同じところに表現の核心は収 衆 生を済度する、どこまでも澄んだ聖なる目である。 ての感じることや考えることの妄想にも似たモチーフが、辺 のだと私は思い、それはけだし正しいと納得したものだ。 しゅじょう 斂してくる。わたしには、わたしに棲みついて、すでにから 見庸の重心の低い駁撃する言葉と共振し火花を散らす。それ その時、なぜだろう、ここに世界の中心があると確信 した。飢えの末に、一片のニュースにもならず、出自も は次のようなことだ。 ﹁旅すがらに千回はすでに考えた、彼女たちの死の意味と 十四年の道程も、世界の誰にも知られることなく、墓も に死ぬるためだけに存在しているファルヒア。そう、た 卑怯な私について、いまひとたび思いをめぐらせた﹂ ︵﹃反逆 彼女たちとは、一人はソマリアの首都モガディシオの避難 だ飢えの末に死ぬるためにだけ生きてきた、この娘こそ 墓銘もなく死のうとしているファルヒア。ただ飢えの末 民﹁枯れ枝少女﹂ファルヒアであり、もう一人はウガンダの が世界の密やかな中心でなければならないと私は信じ、 する風景﹄ ︶ エイズ患者ナサカのことである。二人にはまもなく飢餓とエ 苦海と空虚はなぜ回帰するか 67 私を見ることをあくまでも拒否するファルヒアに向かい あることのはるかな深みであつく息づくものを、彼の言葉と 身振りを通して言いあらわしている 。 ﹁合掌﹂には遙かな太 りとして埋め込まれている。それなのにせっかく訪れたこの 合掌したのだった。 ︵﹁飢渇のなかの聖なる顔﹂ ︶ キボナ村で私はナサカという二十二歳の娘と会った。 機微を辺見庸は繰り言をいうことによって﹁われ﹂に閉じこ 古の、わたしたちに連なる者らの祈りや見果てぬ夢がつなが きれいな面だちをしていたが、彼女は相当に発症してい めてしまう。なぜこんなことになるのか。この取り違えと錯 ︵略︶ナサカは今ごろ、バナナ畑の土中に仰向いて、降 二個の眸子だけが燐みたいに青白く、か弱く光っていた。 りあわされていたことに思い至る。資本と権力を撃つ闘いを 社会と自己が移入され、社会救済信仰が意識のこの範型でよ しまい込まれた記憶をひもとけば、西欧近代由来の大衆と つや た。黒褐色の顔が古紙みたいに乾いて艶を失いところど 覚が知識人の役割論という途方もない倒錯をうんだのだ。 かさぶた ころ瘡蓋がはがれかかって皮膚からぶらさがっている。 るような星を眺めているだろう。それは意味でありうる 領導した理念が不可侵の思想であったことは時代性として不 りん よりも感傷でありうるよりも、深い美でありうる。 ︵ ﹁星 可避であったし、生産力と生産関係の矛盾は不可侵の思想で ぼうし を見る顔﹂ ︶ 瞞はかけらもない。たとえ彼がファルヒアのような苦海にな もなくまっすぐ信じることができる。彼の物言いのなかに欺 なければならない﹂と書き記す辺見庸をわたしは微塵の疑い すこしも変わらない 。 ﹁この娘こそが世界の密やかな中心で 言葉だ。引用の箇所に感じた強い印象は読んで数年経っても 辺見庸の心映えがじかにつたわってくるとても音色のいい まもなお色濃く出来事をかたどっている。轟音を立てて変貌 過去のものだろうか。いや、ぬきがたい思考の慣性としてい 襲った厄災のほんとうの根因がある。この堅固な思考の型は 存在論の初期不良に淵源をもつとはいえ、ここに二十世紀を た、それがファシズムであれスターリニズムであれ、たとえ 想を手に入れたいのだ。いずれにせよ革命と戦乱に血塗られ たしたちは施しではなく不可被侵をも合わせもった満月の思 衝くことができる。しかしそれは上弦の月に比喩される。わ く、 ﹁人の苦しみをただ傍観し、記述するだけの人でなし﹂ わたしたちはこの知のとらわれのなかにいる。欠けた月の半 するハイパーリアルな社会のただなかにあっていぜんとして 、わ 、ず 、 なぜならこの事件の現場で辺見庸は思 ﹁われにあらず﹂ 分を手にせぬままに電脳による産業革命に翻弄されていると であるとしても。 を含みもつ﹁われ﹂としてファルヒアに﹁合掌﹂しているか いうべきなのだ。 問題は、だから、断じて 、 ﹁彼女の顔を体に埋めこんでし らだ。そういう機微がときに人を不意打ちすることがある。 彼は出来事に遭遇し、彼ならぬ、だれのものでもない、人で 68 しかし、何も目にせず耳にもしなかった男の、ただの満腹顔 近私はしばしば夜半に目覚めて鏡に見る。鏡のなかのそれは、 落を目にし、あれだけの呻きを耳にしてきたはずの私を、最 のかもしれない﹂ということにあるのでも 、 ﹁ あれだけの 奈 まったのは、わたしの意思ならぬ意思か、恥辱の 証 だった ず﹂を﹁われ﹂に封じ込めるのではなく、逆に、 ﹁ われにあ ﹁合掌﹂の意味そのものにゆきあたっている。 ﹁われにあら ことなのだ。わたしたちはここで辺見庸がつかんではなした わたしたちが知力のかぎりをつくして考えるべきことはその サカの死を思いやる、その﹁われ﹂はとは全体だれなのだ。 だけに生きたファルヒアに手を合わせ、満天の星を眺めるナ あかし である。死に瀕した者たちを前になにもせず、得々とものを らず﹂を手がかりに﹁われ﹂をひらくこと。ここにまだしか 人はだれも比較を絶したひとつの生を生きており、なによ 書いてきた男の、なにも刻んでいない顔である﹂ということ ばならないことは、そういう苦悩とはまったく異なったこと りまず自分においてそれは始まる。生きるということは一切 と は 知ら れ る こ と の な い豊 饒な生 の源 泉が リアル に存 在す なのだ。自我を自己ととり違えるから、疎ましさや心の痛み の解釈を拒否するということなのだ。ささやかでありふれた にあるのでもない。辺見庸を難じるためにこんなことが言い が詮なき内省としてあらわれる。思考が慣性として強いてい 生に秘められた、固有で比類のない激しさが、そのままに、 る。 るとらわれをひらく可能な与件を、歴史の現在においてすで 枯れ枝少女ファルヒアや降る星を眺めるナサカの生と出会わ たいのではない。わたしたちがほんとうに感じ、考えなけれ にわたしたちは手にしている。思考はもっと先までゆけるは ファルヒアやナサカの生はありえたわたしの生のかけらでも ないなら、生きるにあたいする生などどこにもありはしない。 たしかに世界にはいまもなお目を覆う悲惨があまたある。 あるのだ。もしわたしの生の固有さに世界の中心がなかった ずなのだ。 かりにわたしたちの生も悲惨であるとして、わたしたちが生 わたしの主張は社会の救済信仰から遠く距たったところに らどうしてファルヒアやナサカの苦海がわがことのようにあ あるということではない。わたしたちはだれも固有の生を生 ある。問題は断じて社会倫理を担保に融資された自己中心か きるのは、いずれにせよそのひとつだ。ぬくぬくとした生を きており、その固有さに世界の中心がある。それ以外ではあ 他者優先かをめぐる口舌にあるのではない。 ︿わたし﹀が﹁わ らわれるだろうか。 りえない。それなのになぜ辺見庸は難儀を背負った人の生に れにあらず﹂を含みもつ﹁われ﹂としてこの世に根づかない 手中にして、その手のひらのそとに苦海にあえぐ衆生の生が ﹁千回﹂も思いをめぐらし、通りすぎた﹁私﹂を﹁卑怯﹂と なら、世界や歴史は空を舞う胡蝶の夢にすぎない。辺見庸は 言葉や世界の拠って来るところをうまくつかめずに、わたし 考えるのか。 世界のだれにも知られることなくただ飢えの末に死ぬため 苦海と空虚はなぜ回帰するか 69 ぎり、老いも若きもこんなに理念をこばかにし、かつまた、 弱きを痛めつけ強きを支える時代はかつてなかった﹂と言い、 たちが身につけた思考の慣性にひきずられ惑乱されている。 いうまでもなく危機の事態は辺見庸のなかでじゅうぶんに ﹁私がいま感じているのは、ぬえのような全体主義化である。 て空疎な言説をふりまく者らにも、考えることや意志の力を 計測されている。知覚のみならず、臓腑に染みわたる言葉を ﹁ 私 は ﹃ 解 像 度 ﹄ と い う こ と を 考え た 。 ︵略︶そこで、問 放棄した生煮えの現実主義の者らにも与することなく、何か そこには凛乎たるものが何もない ﹂ ︵﹃眼の探索﹄ ︶と言うと 題となるのは解像度である。水平解像度にせよ、垂直解像度 を懸命に彼は言おうとしている。しかし、思惑はどうであれ き、彼の意見の確かな存在感がそこにある。いまこういうス にせよ、言葉の走査線の本数を大いに増やす必要を私は感じ 辺見庸は負け戦を闘っているような気がしてならない。激し も手にしたければ、両眼が探索する風景の分解能をあげる必 た。さらには、言葉の走査線の方向と質を変えなければ実相 いいらだちはわかりすぎるほどわかるのだが、もっと深いと 要があると辺見庸は感じた。彼は﹃眼の探索﹄のはじめで言 はとてもとらえきれないと思った 。 ︵略︶一切の形式を無視 ころから闘い反撃しなければしたたかな現実が言葉になびく トレートな意見に出会うのは稀なことなのだ。人権を盾にし し、一切の形式を動員せよ。解像すべき対象のほうが従来の ことはない。それは経験に照らして火を見るより明らかなこ う。 形式などとうに無視してうごめき肥大しているのだから。政 とだとわたしは思う。おそらくそこが辺見庸の表現にとって 主義﹂の正体を暴こうと起源の闇を尋ねて人びとの記憶の暗 治マクロを、いうところの文芸ミクロの視点から難じてなに 言葉の走査線の本数や質の方向を変えなければ出来事の実 い森へとさかのぼる。彼が思わず口走った﹁われにあらず﹂ のいちばんの難所だ。そこで彼は苦海や﹁ぬえのような全体 相にとどかないと辺見庸は考える。いまさら形式などになん を含みもつ﹁われ﹂の源へ、と。そこはわたしの内包論の核 わるかろう﹂ の意味があろうか、と。たしかにそうだ。彼は危機にかられ、 心にかかわるところだ。 やサラエヴォやアウシュビッツの生々しさが迫ってくる。そ 比類のない自分を生きることにおいて、はじめてソマリア 記憶の森 彼がクラゲの群体とよぶぬえのような社会に唾棄してひとつ の態度を選択する 。 ﹁経験的に言うと、八〇年代にきて、多 くは状況について評論はするけれどもコミットはしない。状 況と 表 現 者 の む な し い 位 置 関 係が定 着し て い る よ う に思え た。その安全な距離が非常に不満だったんです﹂ ︵﹃私たちは どのような時代に生きているのか﹄ ︶ そ の激 し さ は な ま な か で は な い 。 た と え ば 、 ﹁記憶するか 70 事への視線には胸を衝くものがある。彼は言う。 かかわらず、サラエヴォで起こった﹁民族浄化﹂という出来 る。そういう曖昧さを辺見庸の発言は抱えている。それにも 遠いのだが、苦海の意味をつかめずにいつもここで佇んでい の逆ではない。辺見庸の言葉への姿勢はシニシズムからほど 絶句し途方にくれて、しかし、謎のありかを開けはなしてい 間の根源にある暗くて深い謎に解釈や説明を与えていない。 もこの起源の闇に爪を立てたことがない。彼は彼が描いた人 来にまつわる謎を指していると云ってよい。言葉はまだ一度 ここで辺見庸が言わんとすることは、人間という存在の由 る。この猶予には好感をもつ。彼もまたハイデガーと同じく にしていく暗い深い謎が、その光景のなかに隠されてい ということではない、戦争が人間を駆り立てて、別人格 れは考えなくてはいけないなにものかが、特定の民族性 撃をさせるものとはいったいなんでしょうか。もっとこ 人間に、飽くことのない執拗さを植えつけ、偏執的な攻 闇のようなもの、どす黒い狂暴性を見た気がしました。 るのとちょっと異なった、人間の奥底にある不可思議な 教や民族であるとか、あるいは政治というものから発す じました。そのとき、私は、なにかそこに、ただ単に宗 も、それにしても、あの村の破壊には異様な執拗さを感 うものは非常に執拗な破壊であると私は思いますけれど 生きようがない。生の固有さはかように激しく互いに離折す だった。彼は彼を見舞った地獄の底板を踏み抜くよりほかに も脱落しているからだ。それが映像が衝撃として告げたこと 抉る出来事をあらわす言葉がない。言葉の主体が主体もろと も、紛れもなく悪の顕現した世界と言うも、そこには臓腑を わたしはこの言葉は信じられると直感した。神の不在と言う 迫ってくるものがあった。だれが心臓を貫かれないだろうか。 とそのことだけを語った。この語りには忘れようもなく強く ﹁アレハ・・・、ニンゲンノコトバデハヒョウゲンデキナイ﹂ ャワゲットー蜂起の生き残りの戦士は、 ﹃ショア﹄のなかで、 た。ナチの民族浄化に抗して壊滅的な反乱を企てた、ワルシ このくだりを眼に留めたとき、ひとつの情景が浮かんでき 見たいと思うことをそこに見る。 るような気が、私はしたわけです 。 ︵略︶なぜ人間はそ る。しかしいま考えてみたいと思うことはそういうことでは 私もいろいろな戦場を見てきました。だいたい戦争とい うなれるのでしょうか。そのわけを特定の民族であると ない。 辺見庸が触ろうとしている記憶の森は人間という現象の根 か、特定の宗教などに求めるのではなくて、なにか別の、 人間というものの根源、奥底に見ていく視点があっても 幹に関わる、イデオロギーのはるか彼方にある、民族を超え た、原始の宗教が炙りだされる、いわば聖なる空白ともいう べき、事物の起源に先立つある根源的な場所のことにほかな 苦海と空虚はなぜ回帰するか 71 いいと私は思います。 ︵﹃不安の世紀から﹄辺見庸 フア ン・ゴイティソーロ︶ vs はてしない殺戮に人間を駆り立て﹁別人格にしていく暗い深 いって、わたしは人類史というスケールをもってくるしか、 、じ 、ま 、り 、はまだ名をもたない。そういう意味で端的に るこのは きでさえ根源の事象の事後的なあらわれにすぎないものとす をめざさないかぎり、知的な装いを変えただけで同じことが しか苦海と空虚はひらかれないとわたしは思う。またその途 こへいたる途がどれほど迂遠で困難をきわめようと、そこで ち切るためにわたしは存在論の革命の断行を試みている。そ らな、苦海と空虚の、いわば輪廻転生する由縁を根本から断 だ。もちろんこう語ることも半面にすぎない。互いにうらは い謎﹂を解く手だてはないと思う。レヴィナスもおなじこと 飽きもせずに繰り返されるだけだ。 らない。人間や世界の由来を成し、存在という在るのざわめ に 気 が つ い た 。 パ ス カ ル に 言 寄 せて 彼 は 言 う 。 ﹁ そこはおれ 暴性﹂は拡散し、わたしたちの日常から蒸発したかのように 今、 ﹁偏執的な攻撃をさせる﹂異様で執拗な﹁どす黒い狂 ああ、いやだ。宗教から法・国家へと馳せのぼった共同幻想 コンピュターが高速に演算する。そしてそこに描かれる生。 自由な経済と、それに裏打ちされた自由な社会。生命科学を だれもがじぶんにしか関心を示さないこの社会では猶予さ 見える。そうではない。苦海をうむ殺戮と破壊の集団発狂の は、科学の技術化と社会の実務化が焦点を結ぶところにもっ の日向ぼっこする場所だ。ここから地上におけるあらゆる簒 エネルギーの総和は、科学技術と結合した資本の際限のない とも上位の幻想の要をなすものとして、いわば国家を効率に れ遅延された、始まりもなければ終わりもない、のっぺらぼ 欲望の総和へと転化したのだ。かくして苦海は空虚へと円還 おいて劣った構成要素のひとつに貶めるものとしてわたした 奪の歴史が始まった﹂と。過ぎる時代の過ぎゆかぬ苛烈な記 する。苦海といい、空虚といい、そこにどれほどの違いがあ ちの前に立ちあらわれている。サイバー資本の奔流は﹃倫理 うの秤に掛けられた生が授けられる。競争を動機づけにした ろうか。共同幻想という生きものはそこに動機づけさえあれ ﹄で柄谷が主張する人類・世界市民・消費︱生産協同組合 憶をもつレヴィナスが存在の彼方をめざした由縁である。 ばあこぎなことを平然と懲りなく繰り返す。欲望のための欲 のアソシエーションというイデオロギーでさえ楽々と商品化 すでにそのなかにいて、本格的に迎えようとしているサイバ 望が明るい闇のように立ちこめた空虚の時代にあってそれは わたしたちのだれもが日々の実感としてそのことを知って ー社会は、点と外延の思考がたどりついた必然のかたちとみ し、むしろそれらの異議申し立てを健全な社会の潤滑剤とし いる。もちろんわたしは消費の欲望の一面を偏って描いてい なすほかない。闘いの手口を根本から変えるしかないのだ。 凡庸な悪としてあらわれる。ここでは空虚であるというただ ることを充分に自覚している。消費がもつ芳醇と伸びやぎを もちろん辺見庸はこの危機を敏感に察知している。そこで て機能させるだろう。遅いのだこの速度では。わたしたちが わ た し た ち が享 受し て い る こ と は ま ぎ れ も な い 事実だ か ら それだけの理由で苦海があらたに生みだされる。 21 72 ルメによってこの世にもうひとつの風景と地勢を出現させよ 彼は風景を遊撃する。言葉の社会化と内面化の極端なデフォ ペイントみたいに剥げ落ちる愛という喩からそのことがうか の定点として吊り下げている。灼熱の陽光に炙られて安物の とするこのニヒリズムこそがじつはぬえのような社会を不動 辺見庸は問うた 。 ﹁われとは全体誰なのだ﹂と。そうだ。 うというのが辺見庸が狙っている表現の可能性だ。彼のとる 勝敗は必定のようにわたしには思えてならない。内省と遡行 は た し て わ た し は じ ぶ ん の 所 有 するものなのか 。 ﹁われ﹂に がえる。おなじことだが、ニヒリズムは起源の闇に潜む邪悪 は結果として事態を追認する。わたしたちが直面している、 先立つ内包存在が分有されてはじめてわたしが存在するので なものを指し示しえてもそれがもたらす災禍を溶かすことは 巨大な正体の見えない敵を相手にしたとき、つまり一個の見 あって、内包存在と分有者の一意的な結びつきを括弧に入れ 捨て身の方法がわたしたちのぬえのような社会にあって際だ 解 を も っ て 事 態 の 深 刻 さ を 指 摘 し 状 況 に コ ミ ッ トす る こ と て、自己をみている自己から世界や他者を語るとき、わたし った卓越性をもつことはよくわかるが、それでも変貌する社 と、事態を座視することとのあいだにさしたる違いがあると という意識にニヒリズムや孤独や空虚が降りつむ。わたした できないといってもよい。遅いのだ、この感覚では。 は思えない。たとえ彼が、このままでは駄目だと切迫し、 ﹁命 ちはその産物を内面の文芸とみなしてきた。この意識の範型 会の生成変化を射抜くには言葉の速度が遅すぎる。それでは がけで反対していくしかない﹂と態度を表明しようと、事態 の対極に政治︵制度︶が位置する。わたしたちのよく見知っ ってるようなものだ。国家︱市民社会という制度も、内面の た光景だが、これでは千変万化する地勢の観測を尺貫法でや は微動もしないだろう。もっと深く絶望せよ。 久しぶりにエチオピアの山間を旅した辺見庸が生と死を隔 てる激しい熱と光を浴びたときのことを述懐して言う。 を座視するシニシズムから昂然と身を引き剥がす辺見庸が泥 ランボーみたいで格好いいけどニヒリズムを陰伏する。情況 ここからうける感触は精神の荒野を駈けぬけた砂漠の商人 り返り、安物のペイントみたいに剥げ落ちる﹂︵ ﹁風景と身体﹂ ︶ 爆発しつづける陽光にあぶり晒されて、手もなく表裏がめく 感覚だけだ 。 ・・・そうなのだ、愛さえも、黄金色に渦巻き なのだ。もっと大きな弓を弾こうではないか。世界と闘い、 させる可能性にこそ、言葉がもつ本然の力を賭けてみるべき この世を巻き込み、ありうるもうひとつの風景や気圏を出現 も身を置く場所を見いだしえない︱しなりをかえそうとして とうぜんそれは偏ったものとなるほかなくこの世界のどこに 社会化や内面化を拒み続けることによって生じるたわみが︱ そうではなくて思考の慣性が巧妙にしかけてくる出来事の 文芸もひとしく点と外延の思考に閉じられている。 のようなニヒリズムに足をすくわれる瞬間だ。気分は悪くな 世界をその中に呑み尽くすことを表現と呼ばずして何が表現 ﹁たしかなのは・・・ぽろぽろと何かが身から落ちていく いのだが、自己を畢竟一個の見知らぬ他者にほかならぬもの 苦海と空虚はなぜ回帰するか 73 とり﹀も︿社会﹀もまだ発見されていないからだ。近代発祥 、あ 、 足りえようか。わたしはわたしの見たい夢を存在の彼方で 、内包存在の場所から想い描く。なぜなら近代を超える︿ひ る だ。 はない。拡張される自己にみあって社会もまた内包化するの 性はひらきうる。内包存在によって拡張するのは自己のみで う。彼の物言いでさえ言葉に仕掛けられた巧妙な罠にすぎな 辺 見 庸 の対 談 相 手の ゴ イ テ ィ ソ ー ロ は き わ ど い こ と を 言 をわたしたちは人類史と呼び慣わしてきたが、この思考の慣 の﹁自我﹂や﹁社会﹂という一対の概念は、近代がつくった るべき何かとして存在している。なによりわたしはずっしり いかも知れない。 、志 、の 、総 、体 、においてまるごと超えられ 現代の彼方を意欲する意 軽い、熱でぱちぱちはぜる性という自然が欲しくてたまらな つくった現代は、自己意識の外延的な表現ではなく、存在す れのものでもない、それを存在の内包と呼んでいる。近代が 襞のうちに基準をもつものとは違う、わたしのものでも、だ とのできない、分有することで表現される、主観的な意識の とつに意味からあふれてしまうのはこのときだ。占有するこ それはふいにやってきていきなりよぎるものだ。世界がとう しんしんとながれる、名辞以前のあつくてふかいものがある。 それなしには生きてゆけないなにか、身のふかいところで ・ゴイティソーロ︶ 抵抗できるのです。 ︵﹃不安の世紀から﹄辺見庸 フアン り、あらゆる文明の礎となるものである詩だけがそれに るもの、それは詩です。人間の最も美しい表現方法であ のなかに組み込まれています。ただ一つそれに抵抗でき されようとしています。すべての芸術作品も商品の流通 葉の重要性を信じているのです。あらゆるものが商品化 私が作家だからと思いますが、それは言葉です。私は言 私には信じているものが一つあります。おそらくそれは い。 、あ 、る 、内包存在が可能な、この一点において るとは別の仕方で ことになる。身とそこに貼りついた自我のありように存在の したちは往路で対幻想を経験し、復路で対の内包を手にする 現代の彼方を生きることができるのだ。言い換えれば、わた である。だから往相廻向として現代を生き、還相廻向として 見庸が言う﹁われにあらず﹂はそういう自己︵われ︶の謂い 在の分有者へとくるりと反転し、内包存在が主体となる。辺 それはむつみごとのようなたわいないものだったかもしれな が食べていいよ、と言う。いや、少しだけど一緒に食べよう。 しんと張りつめた濃密で静謐なひとときが流れ、やがて片方 空腹な猿が、熟れた一個の果実をあいだに向き合っている。 がある。わたしの考えるもうひとつの人類史はこう始まる。 どういうものだろうか。わたしにはひとつの鮮烈なイメージ ゴイティソーロのいう﹁あらゆる文明の礎となる﹂詩とは のみ思考の余白として超えられる。このとき、自己は内包存 自己同一性の公準をおく思考の型がかたどった文明史、それ vs 74 あるものがそのものに等しいという自己同一性は、内包存 る。それがわたしたちが呼んでいる歴史というものだ。はた 在の表現点にすぎない﹁わたし﹂を世界の始源と考え、実有 い。ここで空想は途方もなく膨らむ。朱色に染まったこの出 は、主観的な意識の襞にとっては超越であり、いわば像であ して歴史はそれ以外にはありえないのだろうか。わたしはあ ってすこしも実体を意味しない。手足を8本生やした、 ︿わ の根拠としている。しかしこの世界の感じ方は思考の慣性や 来事をもし︿じぶん﹀と名づけたとしたら⋮。それが原初の たし﹀と名づけられた︿詩 ﹀ ︵存在︶によって、毛むくじゃ 歴史の制約としてそうであるにすぎないものだ。ちょうど幻 りうると思う。 らの猿は、以来人と呼ばれるものになった。いや、わたしの 想のうち皆の合意が成立する部分を現実ということにして、 詩であり存在だとわたしは思う。もちろん手足が8本の存在 空想だ。 けもつということが悪に先立つ︿善﹀の起源だ。それこそが 対して超越する。どんな例外もない。人間の意識がどれほど 端的に言って、だれにとってであれ、生の奇妙さは自身に そのなかでわたしたちが生活しているのとおなじように。そ 起源の詩︵存在︶にほかならない。起源は闇であるとしても、 明晰になり、その記述の仕方がどれほど精緻を極めても、こ たとえいま、わたしたちに手足が一対しかないとしても、 存在に先立つ内包存在は︿善﹀なるものではなかろうか。わ こが人間の思考の限界であり、それだからこそ意識の明証が ういう意味では自己同一性はきわめて歴史的で過渡的な概念 たしの考えでは詩︵存在︶はまた意識の発生そのものを意味 たどりえぬここに生きることの原理が存在する。わたしはこ 詩︵存在︶はそうやって始まったとわたしは考えている。そ している。もしわたしたちが遠い昔に、このつながりを︿じ の限界がそのままに思考の未知だと思う。自己同一性が搾木 だといってよい。 ぶん﹀と名づけていたら、世界はまったく異なったものとし にかけた思考の限界は、そこに限界があるというまさにその の昔、詩︵存在︶には手足が8本はえていた。つながりを分 て立ちあらわれたに違いない。 身に心がひきずられたからだ。端的にそれは胃袋の問題であ る歴史をつくらなかったのだろうか。背に腹は代えられず、 カの聖なる顔に思わず手を合わせる。わたしは喝采する。自 発しているのだが、それにもかかわらず、ファルヒアとナサ 辺見庸は自己同一性のくびきにとらわれ、そこから言葉を ことによって拡張した思考が存在する可能性を示唆する。 り、かつそれに付随することどもによってだ。その繰り返し 己同一性からはどうにも説明のつかない奇妙な行動というほ ところでなぜ人類は手足が8本生えた︿存在﹀を主体とす のなかで、身に貼りついているのがこころだという強いリア かない。欺瞞を交えずにいえば 、 ﹁自﹂と﹁他﹂は住相廻向 としては、同一性原理によって必然的に分裂し対立する。だ リティがもたらされ、しだいにこころとからだがひとつきり と い う生 存 の あ り よ う が現 実 性 を 獲 得 し て い っ た と 思 わ れ 苦海と空虚はなぜ回帰するか 75 からどんな思惑をもってこようと、個と共同存在は逆立する ほかない。まさかあなたの幸せを祈らせてくださいと拝んだ わけではなかろう。辺見庸のこの行為は無条件に信じられる。 つまり、住相廻向としては﹁われ﹂と﹁われにあらず﹂は背 反するにもかかわらず、還相廻向としては同一なものとして 還帰する。ファルヒアに手を合わせる辺見庸の心映えのかく こ の同 一 性 こ そ が本 来 的 で 可 能 的な自 己だ と わ た し は 思 れた本義はそこにこそある。 う。ここに到達するのに眼の眩む数千年の激烈な歴史を人た ちはくぐり抜けてきた。本然としてある同一性をわたしたち の新しい生の可能性へと媒介するものが根源の性にほかなら ない。媒介をもたぬ出来事とのおそるべき対面だ。根源の性 の可能なすべてにそのまま身を委ねることは自己を滅するこ 、あ 、る 、こ とにほかならないから 、 ﹁存在するとは別の仕方﹂で の信じがたい驚異から自己を保存する戒律として、自己同一 性という意識のあり方が歴史のあるときにえらばれたといえ よう。 言葉の力によって自己同一性をじゅうぶんにひらくことが できるなら昏い記憶の森にいい風が吹く。それが記憶の森が ほんとうは告げたがっていることだ。この機微を辺見庸も世 界もまだ知らない。フォン・ノイマン型コンピュータの見果 てぬ夢を私たちはすでに生きているのだ。サイバー社会はこ こまで到達することができるだろうか。わたしのような読者 をもつことは辺見庸にとっての勇気ではなかろうか。 二〇〇〇年春 76 ﹁第二ステージ﹂論 箚記Ⅰ 77 「第二ステージ」論 箚記Ⅰ 二〇〇〇年九月の福岡水平塾﹁原口幻想論をもっと考える会﹂を前提に書かれ、当日配布された論考。三〇年来の友人であり、 ﹁部 落﹂が共同の幻想であることを根幹に据えて思索を続けてきた原口孝博氏へのオマージュ︵讃辞︶ 、そしてその論考への心こもる批評。 そういう経緯があるため、最初に自己紹介という形で、社会的な属性を取り払い当事者性に徹する姿勢が明確にだされています。 その会のテキストでもあった前年発刊の福岡水平塾双書③﹃ ︿部落 共 ﹁部落﹂ ﹁部落幻想論﹂ =同幻想﹀論を考える﹄を中心にしつつ、 そして原口氏自身へも論究されています。また、かなり具体的に知識人や社会運動家が遡上にあげられていて、森崎思想の現在の位 置が見えやすくなっています。 ﹁ ︵原口氏は︶ ﹁お前に俺の痛みがわかるか﹂という悲痛をはるかに突き抜けて、 ﹁誰もが、ここで語られている言葉を生きることが できる﹂地平まで誘います。まさに部落問題という固有のこだわりが匿名性の場所で語られているからこそ、だれもがそこを生きる ことができる﹂のですと、体験の絶対的なまでの固有性、一般化できない生のささやかな激しさ、〝当事者〟としての在り方が繰り 返し語られています。それはレヴィナスの〝存在することの彼方〟であり、ヴェイユの〝無人格的なもの〟、〝無名の領域〟でもあ るのでしょう。原口幻想論に言及しながら、同時に自身の主題である﹁内包存在論﹂が重ねられていきます。 が、それは極力やむをえないときにとどめたいと思います。 って ﹂︶にとんだり類書に言い及ぶことがあるかと思います んを囲む座談会﹃内﹄と﹃外﹄ 、 ﹃幻想論﹄と﹃現実﹄をめぐ いです。話のなりゆきで﹃福岡水平塾双書①﹄ ︵﹁藤田敬一さ し長くなるかも知れませんが最後まで読んでもらえると嬉し ここで採られている語りかける文体が、主題の難解さへの緩やかなアプローチをなしていて、これ以後の論考のひとつのトーンを つくりだしています。 ︵安部︶ はじめに こんにちは。森崎茂といいます。福岡市内で鍼灸の仕事を しています。 ﹃双書③﹄は素稿のとき一回ざーっと目を通していたんで が途切れることになるとわかっていたからです。やっぱりそ り、延々とノートを取っている﹁内包存在論﹂と﹁原口論﹂ てです。というのは読むと、書かれていることに釘付けにな 鬨の声にたかぶるものがあります。彼が為そうといることは 彼とともに若い頃ひとつの時代を駆け抜け、いま彼が挙げる 口孝博さんによって部落問題の革命が成ろうとしています。 この一文を三〇年余の友人の原口孝博さんに捧げます。原 主たるテキストは﹃双書③﹄にします。 うなりました。今日は九月一三日です。二二日の時間切れま まぎれもなくひとつの革命です。ぼくにとって原口さんの言 すが、ゆっくりていねいに読むのは今回︵九月中旬︶が初め での十日間、書けることを書いてみます。もしかするとすこ 78 論考を著し、ぼくが﹁内包存在論﹂書き継ぐとき、そこに生 の 言 葉 を 読 み と る力 も さ る も の な が ら 、 ﹃双書③﹄が伝えよ なりませんでした。まるでわがことのようにです。片山さん この感想を読んで、やったあ、と思いました。うれしくて 、の 、も 、の 、です。彼が一遍の 説に対する批評は﹁内包存在論﹂そ まれる緊迫が、信頼するに足る、口舌ではない批評の本来の うとする、こう読まれたらいいなという主張の核心が、じか 姿だと思っています。ぼくはそのことを信じています。 に感じとられているからです。固有なものに宿る普遍性は必 ず匿名性としてあらわれます。どんな例外もありません。そ はちまきを、額にきりりと締めた観察人間や調停人間や不在 この原則を踏みはずすと、好みの色でさかしらと染め抜いた へと至る道をこの手でつかむということです。ちょっとでも す。いいかえればそれは生の体験の固有性を手放さずに普遍 みやひきつれを存在論の根柢でひらくという原則は貫かれま この箚記でも当事者性に徹し、そのことがひきよせるひず き る こ と が で き る﹂ 地 平 ま で 人 を 誘 い ま す 。 ま さ に 部 落 問 き抜け て 、 ﹁ そ れ ゆ え誰 も が 、 こ こ で 語 ら れ て い る 言 葉 を 生 は、 ﹁お前に 俺の 痛み が わ か る か ﹂という悲 痛をはるかに 突 の こ だ わ り や ひ き つ れ を 逸ら さ ず に て い ね い に ほ ぐ す こ と がもつダイナミズムとはそういうものです。ひきうけた意識 、の 、社会を超えることができるのです。表現 りように抗い、こ ﹁ ︿共同幻想﹀の彼方へ﹂の深度 人間になります。つまり現場にはだしで立つシンプルな方法 題という固有のこだわりが匿名性の場所で語られているから 、そ 、こ 、、だれもがそ 、を生きることができるのです。言葉がも こ 、か 、ら 、この世のあ れはすでにして社会問題ではないのです。だ によって﹃双書③﹄の批評は可能だと思います。それ以外の つ本然の力とはこういうものだと思います。それがわかれば いざな 読み方にぼくは関心がありません。思想のこの原則が言葉本 ﹃双書③﹄の一番肝心なところは読まれたことになります。 じねん 来の自然に根ざしたものであることは片山恭一さんの﹃双書 葉を生きることができるのだと思います。 ︵﹁福岡水平塾 を受けました。それゆえ誰もが、ここで語られている言 う問題を通して、匿名性の場所で語っているような印象 人間のなかにある誠実なもの、善良なものが、部落とい その彼方までおれは行きたいという熱のようなものが伝わっ 思いました。単独者の位置から部落という共同幻想を撃ち、 る種の狂おしさが原口さんの言葉の端々に見られるとぼくは 険、というかヤバイ本です。濃密な生を希求する人特有のあ 何度も反芻してわかったことがあります。これはそうとう危 ③﹄への応答からもうかがえます。 ﹃双書③﹄全 頁の言葉の一つひとつをじっくり手に取り、 のみなさんへ﹂ ︶ 「第二ステージ」論 箚記Ⅰ 79 58 ん。彼は人類がかたどり塗り固めた理性を︵切断するのでは おけばいいのにという疑念が何度も去来したに違いありませ ます。彼の胸裏でもう戻ってこれないかも知れない、やめて 視観念の由来を尋ねて人類史という壮大なテーマを持ち出し せん。ここでとどまればいいのに、勢いの止まらない彼は賎 テージの課題だと原口さんは言います。なんの異論もありま 部落が共同幻想であるということを理解することが第一ス んの言葉を借用すれば、まさに斧の思想が語られています。 一人荒野を行く立ち姿の荒々しさがカッコいいです。松井さ 明と柄谷行人がいかに激烈に対立しても二人ともそっくりな に一度気づくともうけっして引き返せません。それは吉本隆 想は不可避なものだったのかという問いと同じです。この謎 ﹁︿共同幻想﹀の彼方へ﹂とは、裏返せば果たして共同幻 せん。もとより勝算があるかどうか彼の与り知らぬことです。 さと深さがそう叫ばせるのです。なまなかなことでは言えま ら、ただそう言うのです。彼が手にしたいと感じる世界の熱 生きようがないから、それなしではもうどこにもいけないか そういうことはどうでもいいはずです。彼はそれよりほかに の彼 方へ ﹂ 、 と 。 だ れ に と ど く と も知 れ ま せ ん 。 で も た ぶ ん 帛の気合いをこめ、ひとこと念仏を唱えます。 ﹁︿共同幻想﹀ なく︶言葉によって拡張することをもくろむのです。彼は確 顔 つ き に見 え て し ま う ぐ ら い す ご い こ と で す 。 ︿考え﹀はだ てきます 。 ﹁これからは 第二ステージ だぞ﹂と 啖呵を切って 信犯です。 の実体性や実体的連続は、本質理解において吹っ飛び、 は共 感す る。 この 地点に 立つことで 、 ︿ 部 落 ・ 部 落 民﹀ 見直そうとの提起︵前掲シンポ:師岡佑行氏発言︶に私 差別を考えるべき永久革命の課題﹄として歴史・人間を 関 係で 、どう 起こ っ て き た か ﹄ ﹃ 原始古代 ま で 溯 っ て 、 その意味で﹃人が人を賤視するということは、どういう までの歴史と異なった世界の存在可能性を示しているのでは おいて、逆説的に自己を実有の根拠としてかたどられたこれ した歴史は、しかし、そのことが制約だと気づかれることに ぎり、心が身体をかぎるという人間の存在のありようが制約 を︿わたし﹀と人びとは名づけなかったのか。身体が心をか にかではないのか。なぜ﹁我にあらず﹂をふくみもつ﹁我﹂ れ た の で は な い か と 思い ま す 。 ︿わたし﹀ とは分有さ れ た な れのものでもありません。彼もあのおそろしい問いに魅入ら 人間が、共同体や社会・国家を自分以外の規範対象︵幻 ないのか。 いう気づきが彼にあります。とんでもないことを言ったもの うと歴史のふるまいはその起源において同一であるはずだと 歴史の構築物に穴を穿とうと彼は疾走します。意識のありよ 人間という業に深く刻印された余儀なさが表現した堅固な 想︶としてなぜ生み出し、維持してきたかとの問いと同 じレベルにおいて、差別を考え直す道が開けるはずであ る︵第二ステージの課題︶ 。 彼はじぶんの生の余儀なさとこだわりのすべてを賭けて裂 80 す。 ﹃双書 ③﹄ の﹁す こ し 長いあとがき﹂ で原口さ ん は 彼が だと、いちばんとまどっているのは彼自身のような気がしま のせせらぎ、雨音や雷鳴、木を打つ太鼓など︶の中で︿性 おそらく自然界との音的交響︵鳥や虫の声、風の音、川 ずっと以前、言葉や文字を持たなかった太古の人類は、 い。差別の根絶や人間解放のあり方・理念を、一人ひと どの理念はとてもせまく窮屈で、これに全く届いていな る〝原石〟だ。だが、今ある人権や平等、社会・個人な に触われないか。﹂ ﹁ピュアな内面はどんな人も持ってい を遡るにひとしいことだという直観が彼にあります。なんと 言葉ではないピュアなものがあって、それを探すことは歴史 す。個人の内面の奥深いところには神聖な空白ともいうべき、 ステージ﹂のイメージであり、勘どころだとぼくは理解しま 情動的に語られたこのあたりがおおよそ彼の﹁人類の第二 て日常を彩ったはずである。 や愛﹀を感応し、己れや人のつながりを大きく膨らませ 感じる世界のへそのありかについて言います。 ﹁部落問題や差別を考えることを通じて、人間がまだ無 りの内面精神に触わり、膨らます形で接続し、共同性を してもそこまでたどりつきたいのだという原口さんのたまし 意識のままうまく取り出せていない、ピュアな内面精神 超えられないか。 ﹂ いの熱さと深さがぼくにはよくわかります。そこそこの安息 ・友人らとこの情感を共有し、分かち合いたいという衝 っています。ぼくはすぐ、ああ、これは原口さんの祝詞なの 彼はこの気分を﹁︿共同幻想﹀の彼方へ﹂という言葉で言 の地を彼は求めているのではありません。思いっきり彼は欲 動さえ生まれる。自己が︿外﹀に向かって無限に開かれ、 だなと思いました。一種のまじないです。彼はひとつの言葉 不思議なことだが、様々な音の協奏を感受することで膨 そこでは別の人間=自己が、望まずして産まれている。 にいくつもの意味合いを込めて使います。長いつき合いだか が深いのです。それは業といってもいいかも知れません。ぼ ﹁俺もまだ捨てたものではない。束の間であれ、これは らよくわかるのですが 、 ﹁共同性 になぎ倒 される﹂とか ﹁共 らむ個的な世界では、見知らぬ人もどんな困難でも、無 まぎれもなく己れの中に在り、分身なのだ﹂という驚き 同性にやられる﹂なんかその典型です。水平塾ができるより くのなかにもおなじものがあるからわかるのです。 が 、 私 に と っ て明 日 へ の 、 ︿ 外﹀の現実に 向かう際の、 ずっと前のことですが、二人で夜中の天神をぷらぷら歩きな 心に受け入れることができる心情や、愛する人々・家族 大いなる力や支えになっているという気がしてならな がら不届きな話をしている 最中に、唐突に 、﹁森崎君は共同 性についてどう思うね?﹂と、訊かれたことがありました。 い。 国家や宗教、社会という共同幻想︵規範︶を生み出す 「第二ステージ」論 箚記Ⅰ 81 彼の﹁共同性﹂という言葉には、それへの親和と反力、それ いうのです。ぼくもこのごろやっとわかってきたのですが、 の幕の内弁当みたいです。そしていきなりそのまま喰おうと ところが彼の言葉にはあります。風呂敷に包まれた三段重ね 合うてないし⋮﹂という具合です。もつれた釣り糸みたいな 的核家族やったしね。親父お袋どっちも親族と縁切ってつき うな世界のへそを手にしようとしているのです。共同性へと を問い尋ねることがそのまま社会の行方を語ることになるよ としているものはことばの本然の力です。たましいのありか わうことはありません。原口さんがもがきながら手にしよう 学習することに生の体験を封じ込める者たちがこの世界を味 すべて事後的です。文化人たちにはこの驚きがありません。 を返すとき描く軌跡がことばです。そういう意味では言葉は がなければ表現というものはありえません。たわみがしなり らと渾然一体となった当事者性の三つがからまっていて、任 引き戻す強力な力を単独で断ち切り、匿名の領域にある声を ﹁ん?﹂ ﹁どうね﹂ ﹁そういきなり言われても⋮、おれ、典型 意にそれぞれが結びついて使われています。念のため。 手がかりに共同幻想を根から絶とうとする彼の試みは、あら 彼が語ろうとしているのは言葉ではない何かなのですが、 ぼくの理解する彼の言葉のしくみはこうなっています。ま と彼が呼ぶところのものです。このありようは不当でありい それは﹁︿共同幻想﹀の彼方へ﹂という名号となってあらわ あらしい原石のかたちであるとしても世界性の水準に到達し びつだというこのうえないリアルな実感が彼にあります。こ れました。部落や部落民の実体化を︿部落=共同幻想﹀論で ず部落は﹁日本的な共同体のなかで、千年、二千年の歴史を こに彼はこだわってこだわってこだわりぬきます。そのあら 否定したと思うや、今度は返す刀で共同幻想という思考の型 ています。いや電脳社会の彼方をさえ虎視眈々と狙っている がいが彼の意志論︵表現論︶です。そして本質論を意志論︵表 そのものの批判に向かうのです。よく似たことを考えている 通じて共同体的に受け継がれてきた賤視観念の産物﹂であり、 現論︶で巻き取って展開したものが世界論︵たとえば共同性 ので、ぼくは、やれ、やれ、もっとやれ、と興奮するのです ようにぼくには思えます。 の多義性︶となります。彼の呪文のような言説はかならずこ が、原口さんの名号が波紋や混乱を生まないはずがありませ その本質は共同幻想であると彼は考えます。 ﹁第一ステージ﹂ の三つに分解できます。 本然の知が直観されます。それは言葉ではありません。まし ものにけっして届きません。危機においてじぶんを語るとき、 す。それは吉本隆明の幻想論が、個人、個体、自己を実有の の観念の位相構造がもつあいまいさと窮屈さにあるといえま その一半の責任は共同幻想という概念を創見した吉本隆明 ん。 てルサンチマンでさえありません。この驚きや叫びをたどっ 根拠として編みあげられたものだからです。典型的な近代主 優雅な知の所有者たちが語る教養の言葉は世界の底にいる たあるかなきかのかすかな輪郭がことばです。意識のたわみ 82 うをひとびとは公理とし、そこから派生するいくつかの公準 きています。からだとこころがひとつきりで生存するありよ 義です。ぼくたちはこの知の型のふかいとらわれのなかに生 プラグマティズムです。あれは学級会で、学級会が好きな人 が、それはたいしたことではありません。市民主義の理念は を 啓 蒙 す る 市 民 主 義 の ゴ マ メ たちの 狡 猾 さ は 卑し い の で す 説の規制緩和という時勢にあやかって、今だから言えること 昔ぼくに、私そこらのふつうの主婦とは違うんだからと言 たちは 昔か ら い つ も い ま す 。 ﹁決められたことは守ろう ﹂と 今、電脳を社会の座の中心において、世界はおおきく組み いたくてたまらないオバサンが、がらにもなく﹁森崎さん、 ︵たとえば個人・家族・社会︶を複雑にからませ、異なった 換えられつつあります。まちがいなく新しい産業革命の時期 丸山圭三郎さんのソシュールについてどうお 思いになっ 時代と異なった地勢のなかでさまざまのコードを巻き取って に入っているのですが、ぼくはもうひとつ問われねばならな て?﹂なんか聞くもんだから、気分の悪さに﹁ここで降ろし か、 ﹁ 人 の 気 持 ち に な っ て 考 え よ う﹂ と か そ れ 自 体 は 正 し い いことがあると思います。人類史の規模で問われるような何 てよ﹂といって六本松で車から降りたことがあります。その きました。ともあれ人間の理性が数千年の凄まじい経験を経 かです。それは社会のこの変化を支える思考の型というもの オバサンがきれいなおべべをきて少しだけ片方の眉を上げ、 けど 、﹁ああ、おもしろうない、はよ終わらんかいな﹂とい です。存在了解の制約はさまざまの矛盾を生みます。ヘーゲ ﹁竹田青嗣先生にお聞きしたいことがあります。消費社会の て彫り上げた作品が国家と市民社会という制度であることは ルが考えたことも、マルクスが夢想したことも、ひとつきり 欲望は肯定すべきなのでしょうか﹂と質問をしました。しば う実感から遠いことだけがいつも話されます。 のからだとこころを領有するのが﹁じぶん﹂だという存在了 しの沈黙のあと彼が﹁うーむ。その欲望は基本的に肯定さる 否定しようがありません。 解を暗黙の前提としています。これが近代と同義の自己同一 べきことではないでしょうか﹂と宣ったとき、おれはのけぞ 級会と錯覚して生きられる人たちのことです。それはいくら 性原理です。吉本隆明の幻想論も、世界を席巻する流行の市 金融の自由化と軌を一にして猛威を振るう市民主義はグロ なんでも私の頭の良さが許さないという人には若干クオリテ ったね。なんか爆弾投げ込みたい気分でした。で、落ちは﹁ル ーバルな資本の社会理念にすぎません。彼らが言うことはい ィアップの加藤典洋などが心地いいのです。悪からはじめよ 民主義もその拠って立つ根拠になんら変わることはありませ つも同じです。 ﹁資格・立場の絶対化をやめよう﹂であり、 ﹁被 と い う し 、 だ い い ち他 人 の た め に で な く 、 ﹁自己チュー﹂を ールとモラル﹂です。市民主義のイデオローグはこの世を学 差別絶対主義﹂の批判です。そこでは歴史の理想像をたてる 大切にといってくれるから。巧みな比喩にブレンドされた欺 ん。 ことは羊のロマン主義であり、いけないこととされます。言 「第二ステージ」論 箚記Ⅰ 83 瞞に彼の言説の狡猾さがあります。タチの悪さは相当なもの です。彼らは現にあることを追認することで資本のシステム に彩りを添えるのです。彼らの役割はそれだけです。 かしくなりました。すみません。 三十年前に日本共産党の﹁学問の自由と大学の自治を守れ﹂ は理念的な批判の対象ではありませんでした。市民主義の理 ことがあります。当時うちの鍼灸院にきていた彼らのファン おまえ達はみんなバカだ、と書いた文章を彼らに送りつけた 前のことですが、竹田青嗣・加藤典洋・小浜逸郎・芹沢俊介、 マルクスは商品を分析し、吉本隆明は幻想論をつくりました。 ます。商品と自己は同じ事態の別様のあらわれです。だから 存在論の初期不良が必然的にもたらしたもののような気がし ら来るのかということは考えるに価すると思います。ぼくは 念は現代の歌声運動です。しかしこのばかばかしさがどこか から講演会に行こうよと誘われ、ちょうど批判の文書を送っ 今は 世紀最後の秋ですが、ぼくたちはもうここに手をかけ とこう書いてきて思いだしたことがあります。 年ぐらい たことでもあると思い、出かけてあとで少し話をしました。 10 偶然原口さんも来ていました。でも彼は講演会の話に腹を立 言いたいのだと思います。 る時期にきているのではないか、原口さんはそういうことを はまだ来ないぞ。二人だけの私的なやりとりだったら、言っ えはそういったよな。あれからもうずいぶんたったけど返事 な人だなあというのがそのときの印象でした。たしかにおま 必ず手紙で感想を書いて送ります﹂と彼は言いました。正直 います。まだぜんぶ読んではいないので、ぜんぶ読んだら、 に答えないと今後じぶんは物書きとしてやっていけないと思 たれた感じです。ショックを受けています。森崎さんの批判 で読んできました。後ろからいきなりピストルでずどんと撃 くは森崎さんからじぶんへの批判の文章を昨日もらい、徹夜 愛 す る 公 共 的な 場 で す 。 そ こ で 加 藤 典 洋 は い い ま し た 。 ﹁ぼ のでそのまま引用します。 が、わたしにはある﹂と言う。ここは肝心なところだと思う そういう使い分けをするどっかでやり損なうなという思い うという気がする﹂と言い、 ﹁言いたいことはわかるけれど、 ん。 ﹁ 逆 噴 射 の エ ネ ル ギ ーを 持 た な い と、 た ぶ ん 負 け る だ ろ こ の 当 惑 に 対 す る 原 口さ ん の 応 答 のス タ ン ス は変 わ り ま せ どうするんやろと、ぼくも見ていてはらはらします。しかし 同幻想なんかぜんぶいらないなんて無鉄砲なこといってあと 井さんは﹁これはべらぼうな課題ですよね﹂と言います。共 高倉さんは﹁恐ろしい世界にいくことですよね﹂と言い、松 原口さんの﹁ ︿共同幻想﹀の彼方へ﹂という主張に触れて、 だったぞ。信義にもとるし、原則違反ではないか。それがお まえ達が唱える市民主義の実践の内実だ。ちょっと文体がお 見えてるだけじゃダメなんですよ、押し返していく、共 た言わないはどうとでもつくろえる。でもあれは公共的な場 自己紹介のときのことです。懇親会とはいえ彼らのこよなく ててそのまま帰り、懇親会にはきませんでした。懇親会での 20 84 の関係とかを探る。 いが、今までと違う人と人のつながり方、自分と他者と って別の在り方、それが共同性になるかどうかは判らな がら、自分の独立した在り方をつくりながら、それでも の場所ではやられていく。やっぱり、そこは押し返しな していくだけでは何の力にもならない、結果的には現実 同幻想のほうが圧倒的に強いということを、読んで解釈 れはぼくのなかにもあります。 つしています。三〇年余を共にしてきて、よくわかるし、そ 音さまの顔になったりする分裂とひきつれを彼は行きつ戻り きました。あるときはジハードな気分になり、あるときは観 の身体のうえをいくつもの無念と激しい感情が通り過ぎてい は意志論を内在したものでほとんど当事者性と同義です。彼 ているわけではありません。ぼくの理解では彼の﹁共同性﹂ 選り分けをどこでするかということも含めて。だから何 に、やっぱり共同性にもっていかれるという気がする、 ど、こっちの共同幻想はだめとかいう言い方をしたとき だから個人的な意見ですが、こっちの共同幻想はいいけ のつながり方﹂はないのかという問いは、原口さんにとって ﹁ 何 故 人は 共 同 幻 想を つ く っ た の か ﹂ ﹁今までと 違う人と人 りに体温の違いがあって、それは相半ばしているのですが、 さんの﹁部落﹂に対するこだわりと、ぼくのそれとはこだわ ︵生育史として︶むしろぼくは欠落しています。だから原口 ﹁共同性﹂や﹁共同体﹂にまつわる地縁や血縁の観念は、 故人は共同幻想をつくったのかという問い。 こっちの共同幻想はだめとかいう言い方をしたときに、やっ 的な意 見で す が ﹂と 断り 、 ﹁こっちの共同幻想 はいいけど 、 能 に す る も の を 目 指 し た い と言 っ て い ま す 。 ﹁ だ か ら、 個 人 どうかは判らないが、今までと違う人と人のつながり﹂を可 自分 の独 立した 在り 方を つ う じ て 、 ﹁ そ れ が 共 同 性に な る か 綜しています。この座談会のなかでは 、 ﹁押し返しながら ﹂ 、 原口さんの﹁共同幻想﹂や﹁共同性﹂の意味するものは錯 、断 、す 、る 、次 、元 、と 、生 、成 、の 、次 、元 、が 、違 、う 、 ばん困難なところですが、切 、で 、す 、。それはひとえに︿一人称﹀のつくりかたにかかわる の やろうというのです。そしてここが言葉として言うのがいち 想﹀の彼方﹂で人と人との関係を結ぶというアクロバットを イメージです。つまり、共同幻想をほどきながら、 ﹁︿共同幻 つ、つなぐ﹂であり 、﹁ほどきつつ、よりあわせる﹂という 言ってみます。 ﹁断ち切りつつ、結ぶ﹂であり、 ﹁振り切りつ このニュアンスはこういうものです。しつこくなりますが、 だけではなく、ぼくにとってもリアルなものとしてあります。 ぱり共同性にもっていかれる﹂のではないかと危惧するので 吉本隆明が創案した共同幻想という概念では部落をめぐる というのがぼくの考えていることです。 原口 さ ん は 、 ﹁共同性 ﹂を 、否 定するものと 、創る も の の 諸現象は最終的には解けないという気がしてなりません。ぼ す。 ︿喩﹀として語っています。もちろん彼は意識的に使い分け 「第二ステージ」論 箚記Ⅰ 85 同幻想の使い分けを拒んで、共同幻想そのものをふり切れと ぼくは思います。なぜ、原口さんは、よい共同幻想と悪い共 もそこをめざすほかに世界のへそをつかむことはできないと ないのですから。吉本隆明でさえ中途で折り返しました。で 人間は往路の果てにある思考の闇をいちども照らしたことが こととして。ひどく困難な途次だと思います。なぜというに しょうか。現場にはだしで立ち、じぶんのなかに降りていく ちは怖ろしくてべらぼうな世界に行くしかないのではないで ぬきがたくあります。高倉さん、松井さん、やっぱ、ぼくた い自然が見えてきました。その驚きを言葉にしてみたいと思 み抜くようにして暗い穴から這い出ると、ずっしり軽くて熱 、こ 、に言葉がとどきませんでした。地獄の底板を踏 とうていそ 荒くして言いつのるのはそのことです。借りものの思想では ぶんが共同幻想ということを忘れ⋮。原口さんが息づかいを があります。過ぎゆく時代は過ぎぬものを嗤います。嘲るじ に引き裂きます。時代はいずれ過ぎます。しかし過ぎぬもの 想に外部というものはありません。共同幻想は生をズタズタ と世界が脈うつのです。意識の外延性をたどるかぎり共同幻 間近でした。背中合わせに死があるのです。ドクン、ドクン、 しの暴力との長年の争闘には底知れぬ荒廃があります。死は いうのでしょうか。そこは共同幻想という理解の根柢にかか ったのです。ぼくにはじめて書くというきっかけがやってき くの実感です。部落はまだ何も解かれていないという思いが わることです。ここまでくるとじぶんを語るしかありません。 てきたからです。 ﹁中村哲論﹂のあとがきにも述べたように、 ぎりついたところで、原口さんの諸論考を批評しようと思っ 部 落を 直接に は扱 いませんでした 。 ﹁ 内 包 存 在 論﹂ が ひ と く に応えるべく書いたのが﹁中村哲論﹂です。このノートでは 口さんは部落に関する三編の論考を発表していました。それ し自己や世界を閉じていると思えたのです。吉本においても る典型的な近代思想であり、そのかぎりで現代の現在性に対 きました。吉本思想もまた否定性を媒介として世界を表現す 点と外延の思考に、もどかしさや飽き足らないものを感じて ていたことは事実ですが、ある時期から彼の思想に固有な、 ぼくの部落論がかつて吉本隆明の共同幻想論に骨子を負っ ました。 ぼくはじぶんの概念で部落を論じたかったのです。そうせね 近代は超えられていません。内包論は意識のこの範型を超え 4年ぐらい前に﹁中村哲論﹂を書きました。その時点で原 ばならぬじぶんの側の事情がありました。 ︿部落=共同幻想﹀ ようとする試みです。 年余のあいだに二つの大きな転機がありました。ひ 論を武器に部落解放運動の総体と後退戦を闘い、くぐりぬけ この とつは、 年春の事件とそれ以降ひとりで抱え込んだ暗闘の 30 こだわったこだわりの総体が世界であるということをじぶん 時期で、そのとき地軸が傾くほどに孤立しました。じぶんが 73 たらそこに内包があったというのではつじつまが合いませ ん。 年前のことです。退くか退かぬかは面々の計らいとして も、覚悟と呼ぶにはあまりに生々しい出来事でした。剥きだ 27 86 の行為が共同幻想を否定するためであっても、家族を守るた 技です。共同幻想はそこまで人を追い込むのです。たとえそ のです。ザラザラするリアルな感触です。共同幻想のなせる のとき、まちがいなく殺してしまうだろうじぶんが恐かった れるか相手が怯むか、どちらかです。命のやりとりです。そ は勝負は、はなから決まっています。事態はシンプル、呑ま るかも知れないことが恐いのではないのです。そんな根性で であるとじぶんにいい聞かせるぼくは、一人でした。殺され 新鮮な感覚は変わりませんでした。おれは人間ではなくおれ 験でした。鉄パイプとドスで渡り合うさなかにあってもその れまでとまったくちがって感じました。強烈であざやかな体 思い決めました。そのときぼくは空の色や空気のにおいをそ の表現の戒律としました。いかなる代理もおれはやらないと 二ステージ﹂論の困難もそこにあるに違いありません。 て幻想論を自縛してしまったのです。おそらく原口さんの﹁第 ひらく鍵があります。吉本隆明は﹁逆立﹂にまじないをかけ にあります。そしてここに自己幻想と共同幻想の﹁逆立﹂を ります。いつもすでにその上に立っている世界のへそはここ がたどる固有曲線はあると思います。固有なものに普遍が宿 もがき、のたうち、凍りつくとき、こころというようなもの そういうことはぼくにとって過ぎたことに属します。でも、 すが、それらのことを論じたいという気はもうありません。 犯罪であるとさえ思っています。いらだちも嫌悪感もありま てきました。啓蒙や啓発の理念的錯誤は﹁人権﹂侵害であり から同和教育は百害あって一利なしと四半世紀以上言い続け 一般化や共同化できると考えたことは一度もないのです。だ ら超えるという発想は一切ありません。じぶんのこだわりが かならぬじぶんにとっての固有のこだわりとして、すでに体 て語られる部落問題とはなんの関係もありません。それはほ くことができると考えました。ぼくの体験は、社会問題とし った現代を超えることが可能だし、現代のはるか彼方までゆ のです。もしも存在論を根柢から拡張できれば、近代がつく もしれない﹁忌避と排除﹂関係に自分が引きずり込まれるん にそのことを頭でわかろうとしても現実に惹き起こされるか る ﹂ と し て 藤 田 敬 一さ ん は 言 い ま す 。 ﹁ しかし 、 彼 女 の よ う くわかります 。 ﹁現実の苦悩に切り込まない言説は空疎であ から見ると藤田敬一さんや藤田晃三さんがどこにいるのかよ 何が問題なのかはっきりさせたいと思います。世界のへそ 何が問題なのか めであっても、です。たぶんぼくは冷静に狂っていたのだと 思います。ふり返って思うと、その代償として身体を損なっ たような気がします。 ふたつめは、 年前、内包表現論を書き始めたことであり、 の一部にまでなっています。だからぼくには部落を﹁差別︱ じゃないかというある恐怖のなかにいる人を具体的にどう励 それをきっかけに存在論の拡張について考えるようになった 被差別﹂や﹁部落︱一般﹂の図式で論じたり、部落を両側か 「第二ステージ」論 箚記Ⅰ 87 13 語られぬことがあります。本能としてそれは察知されます。 どんなごまかしもききません。書かれ語られる体験はなにほ ますことが出来るか、支えられるか﹂ ︵﹃双書①﹄ ︶ 。この発言 に対して原口さんはそれは﹁ひとりでやれる﹂と明快に答え ちょうど4年前のことです。原口さんが初めて雑誌﹃こぺ どのものでもありません。 ついているのですが、分からず屋の藤田敬一さんは因縁をつ ます。緒戦でKO勝ちです。ほんとうはここで勝負は完璧に けます。でも、現に苦悩している人がいるじゃないか、それ る﹄に書いた 部 「落差別と共同体意識の関連について﹂の合 評会が京都であって 、﹁一緒に行かんね﹂といきなり彼から 衆生に寄り添うのです。むちゃくちゃ傲慢です。ここにこん どうだこれで文句あるかと腑に落ちる考えをつくるまで、お 電話があったのです。 ﹁ ・ ・ ☆ ・﹂ 。迷いました。 ゚' ・ ,。 :*: ,。 :*: じぶんのなかで収拾のつかない書けぬことや書かぬことを、 はどうするのだ、と。危機においてじぶんを語ることを回避 な苦海がある、ほら、そこにもああやって苦しんでいるもの れは一切政治的ふるまいをやらないと心に決めて、 の歳か する代償として藤田敬一さんは不可侵の人として苦海にある がいる、と痛くも痒くもない人がいうのです。そらぁ、ちょ 彼は過去に決着をつけずに知を振る舞う者としての役割を 章を書いているのもそのときの縁かも知れません。で、いま ぼくがこうやって仕事の合間を見つけてわけの分からん文 ら堅気になり、一角獣のような暮らしをしていたからです。 演じ、彼にとっての抜き差しならぬ事態を覆い隠しています。 場面は京都の﹃こぺる﹄合評会で原口さんが自説の主張を終 っとは痛いか痒いかしれません。でも彼はそこに不在ですか 彼にとっての敗戦が必ずあったはずです。そのあたりのこと わ っ た と こ ろ で す。 最 後 の ほ う で 彼 は 言 い ま し た 。 ﹁・・・ 唐突な要請でした。 ﹁2、3日考えさせてくれん?﹂ ﹁それが を彼はじつにあっさりと言います。 ﹁﹃震えたわたし ﹄ 、 ﹃怯え ・学生がはいってきて引っかき回したのです。運動の最後の ら、問題として取りあげることで、何かそこにかたっている たわたし﹄、 ﹃黙ったわたし﹄を通して、何がそういう関係を 局面は白刃をくぐってのたたかいでした。 ・・・・・﹂ 。聞き 格安クーポン券の申し込みが今日までとなっとるったい。即 つくっているのか徐々に考えるようになりました﹂と。彼の ながら体が震えてきました。ちょうどそのときぼくは回覧さ ︵博多弁︶ような気になるのです。そうやって彼は苦難の人 語りにはよどみがありません。彼は﹁三つのわたし﹂を反復 れてきた紙にボールペンで名前と住所を書き込もうとしてい 答を 願う ﹂ 。この間 3秒 。 ﹁わかった。 行こう ﹂ 。それはわず 可能な芸として語ります。彼はいちども深い淵を渡ったこと ました。手が震えて字が書けないのです。隣に松永幸治さん に知をふるまいます。ぼくたちが最も嫌悪し軽蔑するあり方 がありません。そんなことは文体からも語り口からもすぐわ が座っていました。見られたのではないかととても恥ずかし か数十秒の出来事でした。 かります。書かれ、語られたことの背後に、書かれぬことや です。 26 88 か っ た の を お ぼ え て い ま す 。す ぐ挙手し 、 ﹁引っかき回した ません。過ぎぬものとは藤田敬一さんが語る芸ではありませ くないことを書いているので話がわき道にそれました。すみ ったことがあります。根に持つ人ですからね、彼は。書きた ぞ れ の機 会 に 、 ﹁いつまでこんなままごとやるわけ? ﹂とい と後々の松永幸治さんの弁。藤田敬一さんに都合三度、それ ど、森崎さん、あのときむちゃくちゃなこといいよったばい﹂ ・ ・﹂ と い う よ う な こ と を 喋 りました 。 ﹁ いまやから言うけ うほどなまやさしいものではありませんでした、云々・・・ とができませんでした ﹂ ﹁ し か し 言 葉 は こ れ ら の出 来 事 の 中 にもかかわらず 、﹁起こったことに対しては一言も発するこ つのです。言葉は狂気と沈黙をくぐり抜けて来ました。それ は立つのではありません。言葉が世界にそれ自体でじかに立 す。彼の言葉はあらゆる解釈を拒否します。条件のなかで彼 を 冠 し て も そ こ か ら 逸脱 す る も の と し て 彼 の 存 在 は あ り ま す。彼は反戦詩人でも平和詩人でもありえません。どんな名 一九七〇年四月、セーヌの流れに身を投じたユダヤの詩人で ツェランは、両親を強制収容所で虐殺され、そこで生まれ、 の際の挨拶﹂ ︶ ん。そこに触れ、語ろうとするとおこりにかかり震えてコト を抜けていったのです。抜けて行き、ふたたび、明るいとこ 首 謀 者の 一 人 で す が ﹂ と ま え お き し 、 ﹁事態は原口さんがい バにならないことです。それに慣れることはできません。 、の 、こ 、と 、がないというのでは ろに出 る こ と が で き ま し た ﹂ 。そ をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりません ずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死 て残りました。そうです。しかしその言葉にしても、み す。もちろんぼくが何を言おうとしているか、彼は敏感に察 口さんのいう共同性︶を行使し、そのことを覆い隠していま たものかも知れません。彼は対決すべきことを避けて権力︵原 もうそういうこだわりさえ藤田敬一さんにとっては色あせ ないのです。それはすでに起こった出来事であるにもかかわ でした。言葉はこれらをくぐり抜けて来、しかも、起こ 知しています。つまり﹁資格・立場の絶対化を排除せよ﹂は もろもろの喪失のただなかで、ただ﹁言葉﹂だけが、手 ったことに対しては一言も発することができませんでし 彼の保身のためにあるのです。なにより暴かれないために。 らず、そのことの真芯に言葉の糸をとおすことができるので た︱しかし言葉はこれらの出来事の中を抜けていったの 彼の言説を信奉する人たちは体よく彼のスローガンに使われ に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残 です。抜けて行き、ふたたび、明るいところに出ること ているだけです。部落に関する言説が自由化された現在、 ﹁資 す。何度読んでも激しい感情がわきあがります。 ができました︱すべての出来事に﹁ゆたかにされて﹂ ︵パ 格や立場の絶対化をやめよう﹂をスローガンに掲げることは りました。それ、言葉だけが、失われていないものとし ウル・ツェラン﹁ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞 「第二ステージ」論 箚記Ⅰ 89 しているだけです。この社会と市民主義者達の顔つきが似て 殺されます。秩序維持のために法を行使する社会の後追いを の が わ か る く ら い緊 張 し た の で す。 こ の こ と は 、 ﹃こわ る﹂と言われた瞬間に体が硬くなり、心臓の鼓動が打つ 目は、 ﹁怯えたわたし﹂ 。S君から電話で﹁お前を糾弾す わ た し ﹂ が い た こ と が忘 れ ら れ な い の で す 。 ︵略︶二つ 以前にも言いましたが、部落問題にかかわって﹁三つの いるのはそのためです。藤田敬一さんの欺瞞は﹃双書①﹄を 、か 、の関係が回避され 、 権力と し て 機能 します 。じ ︿声﹀は圧 読むかぎり﹁S君﹂問題に端を発しています。 持ちがわかるか﹂と怒鳴ると、先生はしゅんと頭を下げ に被 差 別 の度 合い を競う 。 ﹁ おまえらハクに俺 たちの気 と﹁部落民﹂とのあいだに生まれた人なのです。お互い ない。いちばん強い立場に立つのは、在日朝鮮・韓国人 ゆる﹁部落民﹂ではないんです。在日朝鮮・韓国人でも らに、この気持ちがわかるんけぇ﹂と迫っていく。いわ を や っ て い た 時 期で す。 典型的 な告発・ 糾弾 。 ﹁おまえ あり、それに出席しました。ちょうど湊川高校が﹁語り﹂ 一九七二年頃でしたか、広島県の福山で高校生の集会が がない。 という一言が関係を硬直させてしまったとしか言いよう わたしが 呆然と し て し ま っ た の は な ぜ か 。 ﹁部落民だ﹂ 部落民だ﹂と名乗られた瞬間にその学生が土下座をし、 ぜ わ た し は S 君の 行為を 止められなかったのか 。 ﹁俺は った。後は殴る、蹴るの暴行が続きました。その時、な は部落民だ﹂と言ったとたんに、学生は土下座してしま がそれを止めに入り争いになったのですが、S君が﹁俺 にやってきて、有無を言わさず殴りかかってきた。学生 です。S君は、実際その後、大学で集会を開いている場 い考﹄にも書きましたから、ご存じの方もおられるはず る。ところが、ある女子高生が﹁私は一般の日本人です 子高生は怯まずに発言しましたが、私は辛くなって会場 人﹂しかないんです。ワーッとなってるなかで、この女 い う こ と を肯 定 的に 表 現 し よ う と す る と 、 ﹁一般の日本 すね 。﹁私は部落民でもなく、在日朝鮮人でもない﹂と 彼女は否定的にしか自己の帰属を表現できなかったんで 雰囲気になりまして、 ﹁なにいってんだ、おまえは﹂と。 すでに部外者ではない藤田敬一さんにとって、彼のとる態度 い加減にままごとはやめろ﹂とその場を制止することでした。 を叩きのめすことであり、愚劣な集会の壇上に駆け上って﹁い はどうでもいいのです。藤田敬一さんがやることは﹁S君﹂ の女子高生を見殺しにしてその場を去ります。出来事の先後 な雰囲気の集会でつるし上げをくっている﹁一般の日本人﹂ ﹁S君﹂の暴力を阻止できなかった藤田敬一さんは、異様 と自己紹介した。そうしたらウォーと会場が一瞬異様な を出てしまいました。 はそれ以外にありえません。彼は事態をやりすごすことでじ 90 した。そしてそのことにはっきり否を突きつければ殺し合い と制動がかからないのです。それはどうしようもない流れで 当時すでに知っていました。しかし行くところまで行かない 立場の絶対化や知の倫理的階梯化がどういう事態を招くか いる暇はないにきまっています。人の苦悩を代理せず、まず て苦しんでいる人がいるじゃないかなど脳天気なこといって ともありません。部落が共同幻想であっても、現にとらわれ 分以外の何者も代表せず﹂というウケねらいを政治にするこ な 戒 律 と は な っ て も ス ロ ー ガ ンに は な ら な い で し ょ う 。 ﹁自 の途をとるなら、部落解放同盟の悪口を言う余裕なんかあり になるとわかっていたのです。いいようもなく昏かったこと 自分のこだわりを語れ、それが筋というものです。ぼくが藤 ぶんを損ねたのです。おれはやったのに彼は逃げたと言いた を覚えています。もうこれ以上蓋をすることはできないとい 田敬一さんというほおかぶり人間に言いたいことはそれに尽 ません。また﹁資格・立場の絶対化をやめろ﹂は彼のひそか う取り返しのつかない事態になってようやくじぶんたちのつ きます。 いのではありません。 くった理念と運動の解体に踏み切りました。ある時代性のな かで起こった極限的な出来事だと思います。土壇場まで行か ぼくは人間の精神がたどる固有曲線のことがいいたいので とに内在する、そのことによってひとであるというなにかで ないと身を起こさないものです。しんどいことや恐いことは 決定的な局面でどうふるまうか、最後は面々の計らいです。 す。いったんそれを明け渡すと、もうじぶんがじぶんでなく す。みえない糸にたぐりよせられるようにして深い淵に立つ しかしそこをどうくぐったかは明らかにすべきです。それは なってしまいます。危機の決定的な局面でそれがすがたをあ 先延ばしにしようとする抜きがたい人の習性があります。命 言説にかかわるものの、なにがあってもごまかしてはならぬ らわします。なにが人間かという定義なんてどうでもいいの とき、それでも歩けとなにかがうながします。ひとであるこ 鉄則で す。 なぜ 事態 を座視 したのか 、 ﹁私は辛くなって会 場 です。しかし人は本能としてそれがなにかということを知っ がかかるとなるとなおさらです。 を出てしまいました﹂や﹁・・・﹁部落民だ﹂という一言が のです。惨劇とひきかえに与えられるものは深さです。もち ています。それは媒介をもたぬ出来事とのおそるべき対面で 出来事が彼にとって書かぬことや書けぬこととしてあるの ろんぼくは﹁倫理﹂や宗教の回心のことを語っているのでは 関係を硬直させてしまったとしか言いようがない﹂という言 なら、そのことをおいてほかに彼が考えることはなかったは ありません。そういう意味では藤田敬一さんの狡さや欺瞞な 、る 、こ 、ことができません。気がつくとそ 、にいる す。彼はもう視 ずです。彼はじぶんのすべてを賭けて考え抜くしかないので どどうでもいいのです。なぜ彼らの、おそらくは他者への配 葉からはその経緯がすこしもうかがえません。 す。そのとき文体と語り口が確実に変わります。もし彼がそ 「第二ステージ」論 箚記Ⅰ 91 ういうあたりまえのことをことさら取りあげる必要があるの 同じように問題のすり替えをしています。なぜあらためてこ みます。山口の藤田晃三さんも﹃こぺる﹄の藤田敬一さんと すぎません。藤田晃三さんの発言を手がかりにそこに迫って の言う﹁逆立する﹂は観察する理性としてのみ可能な解釈に ないが歯を立てることのできない思考の闇が存在します。彼 には、自己幻想は共同幻想と逆立するという吉本隆明のまじ め、大義が一人歩きを始めるのかということなのです。そこ なぜ集団のふるまいを律しようとするとき、必要な殺人を認 です。他者への気遣いという、きっかけは善であるものが、 てあらわれてしまうのか、そのことについて問うてみたいの ルトの世界では生き続けるが、現実の空気に触れるとたちま か み た い と い う﹁ 欲 望 ﹂ は 、 ﹁ いうなれば人間 の観念のレ ト は か な り 一 般 的﹂ な も の で 、 ﹁ ほ ん と う﹂ を な ん と か し て つ ﹁いろんな体験のかたちがあったろうが、この道すじの順序 の関係の世界に戻ってくるという道程﹂をたどることになり、 してやがてそのあまりの独我論的世界に気づいて、人間相互 会的な義﹄から生き方における﹃心の義﹄へ閉じてゆき、そ 遷をおよそ次のように言います。義を求めるこころは 、 ﹁﹃社 ません。竹田青嗣は﹃現代批評の遠近法﹄のなかで精神の変 をこねたことがあるので、人それぞれと思わないことはあり います。ぼくも若いころ吉本隆明の言説に身を寄せてりくつ 青嗣から加藤典洋に乗り換えつつある過渡がよくあらわれて ついていない、そういうことをこの文章から感じます。竹田 でしょうか。加藤典洋の老獪な欺瞞を誠実に踏襲しているよ ち死滅してしまうような性格をもっていた﹂と語ります。レ 慮という主観的な善意が、虚偽の意識や啓蒙や寄り添いとし うに思います。 トルトの世界で生きているのはおまえではないかと、めまい した自分を作り上げることでもなく、いまある自分を臆 があるのでしょうか。人のこころや義は整理ダンスにしまわ いろんな体験のかたちを一般化して語ることにどんな意味 をおこしそうな気になります。彼の言うことは霊感商法より することなく了解し、それを足場としてよりベストな道 れ た パ ン ツ や シ ャ ツと は 違 い ま す 。 彼 の 見 解 は 俗 で す 。 ﹁在 私た ち に と っ て 大切な こ と は 、 ﹁社会のため﹂から出発 へと進むことである。それは、理想の中の自分や理論の 日﹂は彼にとって深い淵とはなりませんでした。彼もまた一 もっと悪質だと思います。 中の自分に思考の始点を置くのではなく、いまある自分 度もことばや関係に出会ったことのない文化人です。読者を することでもなく、また外からやってきた真理に一体化 を了 解す る場 所か ら始め る と い う こ と で あ る 。 ︵﹁﹃敗戦 当て込んで書いてます。その暇があったらもっと世界をめく 得ているなあと感心します。鍼が仕事だからぼくもツボの効 ればいいのです。でも生煮えの人たちを落とすツボをよく心 後論﹄の深い響き﹂ ︶ 文章がぬるい、言葉が走っていない、おまけに言葉に眼が 92 してしまうような性格をもっていたというのが竹田青嗣の固 があります。藤田晃三さんの言葉には、こだわりをこだわり 調和的な言説です。ここに市民主義のすべての理念的な源泉 いずれも生きることを舐めきったじつに喉ごしのよい予定 ﹁無限に恥じいる﹂もコインの裏表の関係にすぎません。同 有の体験であったとしても、そこからどんな一般化も導くこ 用は知っています。社会への反意が挫折をへて内面化され﹁心 とはできません。体験の固有性とはそういうものとはまるで ぬき、考えに考えぬいたあとはどこにも見られません。誠実 根です。 違います。どういう生き方をしようと、生は固有であり、互 なのはわかりますが、優等生ぶりにうそを感じるし、論理の の義﹂へと閉じてゆき、現実の空気に触れるとたちまち死滅 いに離折します。解釈を拒絶しないようなものが生であるは あまりのたどたどしさに呆れるばかりです。竹田青嗣と加藤 けただけです。でも藤田晃三さんを知ってるから言うのです ずがありません。生きることはもっと激しい出来事です。な 藤田晃三さんが﹁その思考方法の渦中でもみにもまれてい が、語られた言葉より藤田さんの精神の遍歴のほうが重いし、 典洋の言葉をシャッフルし、適当にワープロの画面に貼りつ る﹂という加藤典洋は言います。 ﹁﹃他人のため﹄に考えると ぼくはそのことは信じています。 により生は過激に平凡です。 いうことがなぜモラルの始点にならないのか。その理由はそ ことが苦しく、かえって自分を責めているような若い人を見 うとは思わない。ただ、人のために考えようとし、そうする いのである。/ところでそういうことを、わたしは人に言お らはじめ、 ﹃ 他 人 へ の 愛 ﹄ に い た る道 を 開 か な く て は な ら な 達 は わ た し達 に リ ア ルに 感 じ ら れ る 足 場 、 ﹃ 自 分 の た め﹄ か どり着くみちすじを途絶えさせているからだ。だからわたし からです。 想を保持するのは、その社会の人々がそれを必要とする も、それを保持することがあると思っています。共同幻 間というのはたとえその共同幻想の成立原因がわかって 思えます。しかし、僕はそう考えていません。僕は、人 がわかれば共同幻想から解放されると考えているように 原口君の考え方の特徴は、人間は共同幻想の成立の原因 れがいまやわたし達にそこからはじめて﹃自分への愛﹄にた るにつけ、なぜジコチューというものを社会が大切にしない コメントする気も萎えます。今日は二十日でもう時間があり ぼくはこういうおぞましい言葉にであうと鳥肌がたちます。 全なことだと思うのである﹂︵加藤典洋﹃この時代の生き方﹄ ︶ 。 いことだと言い 、﹁・・・自身の差別性︵不可侵性︶のみに になるのは、藤田晃三さん自身がどこにいるのかが﹂見えな てと思ったところです。原口さんは﹁このなかでいちばん気 原口さんは反論します。ぼくが、藤田晃三さんまた嘘言っ のか、そのような視点を提示する人間の少ないことを、不健 ません 。よ っ て 意 見の 陳述 はパス します 。 ﹁ジコチュー﹂も 「第二ステージ」論 箚記Ⅰ 93 目を奪われる一種ののどかさと、どこかで大衆・生活人に知 ができないのです。不眠症ならアモバンを処方してもらいな いうのってずるい。嘘であろうがなかろうが、そういう共同 れを﹁必要﹂としているからだと﹁判定﹂するのです。そう る﹂のです。そして社会の人々が共同幻想を保持するのはそ す。彼は社会の人々が共同幻想を必要としているかどうか﹁視 あらわれをごっちゃにして混乱してるのは藤田さんのほうで 想という概念のもつ抽象性と、部落という共同幻想の現在の と 言 い な が ら急 に 帰 っ て き た 奥 さ ん に 現 場 を 目 撃 さ れ 、 ﹁そ ひ と り で こ っ そ り見 て い た ら 、 ﹁集まりが悪く て流れたの ﹂ 出かけたのをいい幸いに、押入から裏ビデオを引っぱり出し、 ﹁今日はPTAの懇親会で遅くなります﹂と言って奥さんが とする百パーセントの虚偽意識です。論じるに価しません。 ったく違うことです 。﹁無限に恥じいる﹂は不在人間が得意 ﹁無限に恥じいる﹂と﹁お前に俺の痛みがわかるか﹂はま さい。ぐっすり眠れます。じぶんのイケてなさを人のせいに 幻想がおれにはいるんだというのならまだわかります。彼は う な の⋮ 、 あ な た っ て そ う い う ひ と な の ﹂ と 言 わ れ て 、 ﹁無 的に寄り添ってしまう思考の型が、わたしにはどうしても目 じぶんを慰撫してくれる立つ瀬が欲しいのです。彼はじぶん 限に恥じいる﹂のならわかります。やっぱ、調子悪いですよ するなよ、です。 のうしろめたさをふっきろうとしておっつけとんでもないこ ね。うなだれます。 についてしまいます﹂と言います。そのとおりです。共同幻 とを言いだします。 という発想と同質であると思っています。 ︵﹁ ﹃ ﹁部落民﹂ 恥じいる﹂という発想こそ﹁お前に俺の痛みがわかるか﹂ 僕自身高橋哲哉の﹁従軍慰安婦という事実の前で無限に 的に追求した論文として忘れられないものです。つまり せ、人を追いつめ、果ては人を破壊するかを初めて理論 痛みがわかるか﹂という問いそのものがなぜ人を沈黙さ しかし僕自身としては﹃語り口の問題﹄は﹁お前に俺の その声は計らいを超えて聖なるものです。 黙させ、追いつめ、破壊する﹂ことがあろうとなかろうと、 せん。ふりしぼってあげられる叫び声が、たとえ、人を﹁沈 考えなければじぶんがやっていけないという切実さはありま 天を仰ぎます。藤田晃三さんのりくつのどこにもそのことを し、胸に迫るものがあれば﹁つらいなあ、たまらんなあ﹂と いし、からむなら﹁甘ったれるな﹂と言って殴り倒せばいい し い ﹂ と 言 え ば い い し、 し つ こ い な ら 、 ﹁黙れ﹂と 言えばい ﹁お 前に 俺の痛 み が わ か る か ﹂ って言われたら 、 ﹁やかま とは何か﹄を読んで﹂ ︶ ﹁無限に恥じいる﹂と﹁俺の痛みがわかるか﹂を同質であ ことをうながします。そこに自己の自己性と他者の自己性を 会を語らず、観察する理性からではなく、そのことに応える 人であることの深みで息づくなにかが、大衆を語らず、社 ると決めつけ、なで斬りにしないと彼は安心して夜眠ること 94 、の 、生存のありかたこそが、賎 思考としてかたどられた人のこ 一度もここを本格的に考えたことがありません。点と外延の 盾をおこすのかという根源的な問いがあります。人間はまだ 生存のありかたと、他者への気遣いが、なぜ引き裂かれて矛 のですが、ここには、かわいいのはじぶんだけというひとの そしてこの方が語られる理念よりはるかに生々しくて現実な り口でもあり、その道を歩もうとしているのです。それ 幻想﹀論の第二ステージは、人類史・第二ステージの入 う、 壮大 かつ 新し い方向 が あ る は ず で す 。 ︿部落=共同 の誰もが十分に生 きられる世界を再構築していくとい その結果、従来の分節・区分けを取り払い、人間︵人類︶ と思っています。人間の未知の︿存在﹀可能性を探り、 わたしは世界の正体はけっしてカオス︵混沌︶ではない めぐる豊饒な渾沌があります。身も蓋もない言い方をすれば、 視による分け隔てという観念の自然を延命させてきた本態で は け っ し て難 し い こ と で は な く 、 ﹁明確な意志を持 って えたかもしれなかった歴史をありうる歴史へとつくりかえる 、と 、も 、と 、あ 、る 、も 、の 、からではないでしょうか。あり しょうか。も います。ではマルクスはその勇気凛々をだれから貰ったので いました。マルクスの思想が勇気を与えたのはたしかだと思 のでしょうか。処刑されるとわかっているのに彼らは歯向か ば今世紀初頭のロシアのナロードニキ運動はどうして興った ﹁羊のロマン主義﹂といって嘲笑うのは簡単です。それなら こるのはよく考えると不思議です。竹田青嗣のようにそれを です。我が身が大事なのに、我が身を顧みずという気心がお はやりすごしてきました。そうみなしたことの心残りが宗教 考えています。ほんとうはあるのに、ないと考えてぼくたち を語っても、長いものには巻かれて、背に腹は代えられない す。吉本隆明もそこまでは考えませんでした。理念が﹁逆立﹂ く し て 逆 立 す る と い う同 義 反 復 を く り か え し て い る だ け で 関係として、つまり﹁逆立﹂してあらわれます。逆立するべ 慣性のもとで、自己幻想と共同幻想は矛盾・対立・背反する やかたちを変えて生き延びるのはそのためです。この思考の 、の 、然 、生 、存 、の 、あ 、り 、方 、を 、か 、た 、ど 、っ 、た 、同 、一 、性 、原 、理 、が 、、必 、と 、し 、て 、共 、 人 、幻 、想 、と 、い 、う 、観 、念 、の 、型 、を 、要 、請 、す 、る 、の 、で 、す 、。共同幻想がすがた 同 るからでも、共同の不安や恐怖があるからでもありません。 共同幻想が維持されるのはその社会の人々がそれを必要とす か、ほんとどうでもいいのです。まったく問題になりません。 ここまでくると藤田晃三さんのとんちんかんな物言いなん その道を切り開くことなのだと思います。 ﹃独立した在り方﹄を求める﹂生を貫いていくことが、 はないかと原口さんは直覚しています。 遣りたくないけど貰いたいというありかたが人間の本性で しょうか。貰って嬉しいこととあげて嬉しいことがおなじこ ことは夢物語でしょうか。そうではあるまいと原口さんは考 のが現実です。一個のパンを奪い合うのが人間にとっての自 とになる、そういう自然があってもいいじゃないかとぼくは えます。 「第二ステージ」論 箚記Ⅰ 95 という原口さんの声が聞こえてきます。 ﹁︿共同幻想﹀の彼方 へ﹂は一人称のつくりかた如何に関わるのです。ぼくの知る 然なら 、﹁逆立﹂するのは当然です。自己を実有の根拠とす るかぎり、自己幻想と共同幻想が﹁逆立﹂するのは、吉本隆 かぎり宮沢賢治とヴェイユとレヴィナスがこのことに気づき す。国家から悪い共同幻想︵共同意志︶を抜き取り、良いル 共 同 体 派 の 竹 田 ・ 加 藤の 連 合 軍 で あ ろ う と 事 態 は お な じ で の球体のことを指しています。外部派の柄谷行人であろうと、 指します。ぼくにとってヴェイユはつき合いのいちばん長い ると考え、ヴェイユの言説を手がかりに共同幻想の彼方を目 求める﹂生を貫いていくことがその道を切り開くこと︺にな 原口さんは、 ︹﹁明確な意志を持って﹃独立した在り方﹄を 一人称をめぐって す。 ました。それは彼らが当事者性を生き切ったからだと思いま 明の意図することとは逆に、それはむしろ自然です。 同一性原理を意識の外延としてたどるかぎり、たとえ吉本 隆明のように観念の︿位相﹀の軸が異なるという便法をもち だそうと、そこにはどんな外部もないのです。在るのざわめ きが共同幻想を招きよせるのです。どの観念のあり方も互い に相補的であり、入れ子になっています。ぼくが自己保存系 ール︵一般意志︶で差し替えることを市民社会原理として掲 思想家の一人です。 の思想と呼ぶものは自己を実有の根拠にして表現された観念 、の 、現実は本質的にはなにも変わりません。意識の げても、こ ながしているのであって、それは欲望を第一義とする自己保 しょう。なぜなら同一性原理こそがこの世のつくりかえをう モラル﹂を合い言葉にこの変化を唯々諾々として受容するで らす変化を拒むことはできません。むしろ社会は﹁ルールと 瞰することができても、サイバー資本とサイバー工学がもた ば孝ならずという武門の理念や感性を見舞った生の悲劇を俯 る時代の、孝ならんと欲すれば忠ならず、忠ならんと欲すれ まります。ぼくたちの思考の慣性は、たとえば、すでに過ぎ イデンティティ︶が語られ、そのことによる分け隔てがはじ いうと、無人格なものに向かっているんです。無人格な 孤独な単独の作業なんだけど、それが何に向かうのかと 論 集 と さ い ご の手 紙 ﹄ ︶とヴェイユは言い切っている。 ることは 決してない ﹂ ︵ シ モ ー ヌ・ ヴ ェ イ ユ ﹃ ロ ン ド ン であると考える人間は、無人格的なもののなかへわけ入 で あ る 。 自分 を集 団の一 員と し て 、 ︿ われわれ ﹀ の 一 部 に、実生活上の孤独だけではなく、精神的な孤独が必要 へわけ入ることができるのである。そのためには、たん 意力を集中することによってのみ、無人格なもののなか ﹁孤独のなかでしか可能でない、たぐいまれな性質の注 外延性に閉じられています。やがて遺伝子の性能で出自︵ア 存の あ り か た に 矛 盾し な い か ら で す 。 ﹁たいがいにせんか ﹂ 96 す。 ものですから、自分のものではない、共有できるもので まった女子高生桜井椿が織りなす痛快でピュアな恋愛小説で の高校生である﹁僕﹂と、一目見たときから彼に恋をしてし 今までは負けてきた、しかしその向こうを考えていきた からその縛りからわたしたちはなかなか抜けられない、 み故に無人格的なものである。共同幻想の力は強いです わり、たったひとりの孤独な営みなんだけど、孤独な営 りが、さっき言った共同幻想を突き破っていくことと関 それはなんなのか、それは共有できないのか。そのあた やそれによって照らし出されてくる日本の社会、日本人の意 るのは、主人公とその家族の﹁国﹂や﹁民族﹂をめぐる葛藤 愛ものです。と同時にこの小説が単なる青春恋愛ものと異な です。だれもが好む滅びることのないメインストリートの恋 うで、でも嫌みがなく、恋愛ぶりがさわやかで気持ちいいの ふたりともまるで劇画から抜け出してきたキャラクターのよ ﹁僕﹂は喧嘩がメチャ強くて頭も切れるし、椿はきれいで、 す 。 一 昔 前 の社 会 派 テ ー マ 小 説 で は あ り ま せ ん 。 主 人 公 の いんです。 識の在り方を主人公は自分の日常の中できちんととらえ、若 帝国ホテルの一室で、杉原は桜井に国籍が韓国であるとカ い感性で相対化しているということです。 会にかわるもの、国家とか社会とかはいらないという地 ムアウトします。椿は血が汚れるといって怯えてしまいます。 そういうポイントを見つければ、今までの共同性とか社 点まで、こういう人間同士の絆で生きていけるという場 そのとき 杉原が 彼女に 言います 。 ﹁要するに、 何 人 ていうの なにじん 所までの入り口になるだろうという気がします。 に到達できるのだと、ヴェイユの言葉をたどりながら原口さ はおれであるというたしかさだけが、ヴェイユの聖なるもの なことが彼の口をついてでます。ほかのだれでもなく、おれ して最も困難なところです。ほとんど絶句するしかないよう ここで言われていることが﹃双書③﹄の核心部分です。そ どうしてもダメなの。何だか恐いのよ・・・。杉原がわたし ﹁僕﹂ は強 い調子 で言 い ま す 。 ﹁理屈ではわかるんだけど、 でいる。じゃ、君の血は汚いの?﹁君は間違っているよ﹂と 質の弥生人がいるとき、君はどこかでその遺伝子を受け継い かアジアのモンゴロイドがいて、渡来したお酒の飲めない体 まで遡って考えるの?﹂お酒に強い日本人の先祖の縄文人と はルーツの問題なんだね。それじゃ訊くけど、ルーツはどこ んは言います。でもこの道行きは行きついたところが入り口 ドアノブに手を掛け、 ﹁僕の本当の名前は﹃李﹄ ﹂だと告げ の体の中に入ってくることを考えたら﹂ 偶然 ﹃双 書③ ﹄の主 張と 重な る作品とであいました 。 ﹃G て杉原は去ります。でも時代は動くのです。ここで物語は終 であるというとても危険なものでもあるのです。 O﹄という小説です。金城一紀の﹃GO﹄は、在日コリアン 「第二ステージ」論 箚記Ⅰ 97 ・・在日韓国人﹂ここがまぎれもなく﹃GO﹄のクライマッ ﹁え?﹂ ﹁おれは何者だ?﹂桜井は少し迷った末に言う。 ﹁・ みつけるように 見上 げながら言 います 。 ﹁おれは何者だ? ﹂ た。異郷の地で彼は詩を捨て、自己を一個の他者として生き いどこかを探して地の果てアビシニアまで行ってしまいまし 彼はじぶんの固有名が欲しいのです。ランボーはここではな ︽在日︾が偽りの﹁名﹂だという﹁李﹂はランボーです。 イー クスにあたるところです。主人公は在日であることの不遇感 切り、あっぱれ、野垂れ死んだのです。ランボーが砂漠の商 わりません。クリスマスイブに再会した杉原は桜井の顔を睨 や屈折を言いたいのではありません。彼はその言い方では彼 人である由縁です。 ﹁李﹂はそこまで行くでしょうか。 ﹁俺﹂ イー のもどかしさに届かないことをすでに知っています。 えが 勝手 に名前 をつけて 、 ︽ライオン ︾のことを 知った 分のことを︽ライオン︾だなんて思ってねえんだ。おま ︽ ライオン︾ みたいなものなんだよ 。 ︽ライオン ︾は自 きゃそう呼べよ。 ︵略︶でも、俺は認めねえぞ。俺はな、 別にいいよ、おまえらが俺のことを︽在日︾って呼びた だ? の疑問もなく俺のことを︽在日︾だなんて呼びやがるん もぶっ殺してやりたくなるよ。おまえら、どうしてなん 俺はおまえら日本人のことを、ときどきどいつもこいつ します。 ﹁椿﹂のまなざしに宿る、そこに、 ﹁李﹂の固有名が ここがどこかになってしまうのです。固有名は彼女がもたら ないどこかに行きたいとは思っていません。彼女がいると、 ん。もどかしくてなりません。ほんとうは彼はもうここでは なのです。彼はまだそれがなにか言い当てることができませ んなことをいってんだ? ちくしょう、ちくしょう・・・﹂ んとか伝えたいのです。だから﹁ちくしょう、俺はなんでこ ます。彼は﹁椿﹂が好きだから、じぶんのほんとうの名をな みごとな弧をえがきます。いまその固有な曲線はふるえてい あることも窮屈なんだ、と叫ぶとき、彼のたましいは天空に は︵人間ではなく︶ ﹁俺﹂である、そして、 ﹁俺﹂が﹁俺﹂で 気に な っ て る だ け な ん だ 。 ︵略︶言っとくけどな、俺は あるのです。ぼくは﹁李﹂は可愛いなと思いました。でも﹁椿﹂ を忘れさせてくれるものを探して、どこにでも行ってや だ。俺は俺であることからも解放されたいんだ。俺は俺 くれ。俺は俺なんだ。いや、俺は俺であることも嫌なん 道を狂ったように自転車をこいで稼ぎから帰る。とりあえず なる。夕暮れに、ふと凶暴な一瞬︵の永遠︶に見舞われ、坂 していないと、身体の真ん中の不幸をサボっている気持ちに 友人 の植 木 屋 の 鎌田吉一が 言い ま す 。 ﹁ながく書く こ と を イー ︽在日︾でも、韓国人でも、朝鮮人でも、モンゴロイド が﹁俺を忘れさせてくれる﹂でしょうか。 るぞ 。︵略︶ちくしょう、俺はなんでこんなことをいっ は金だ。金さえあればおだやかにやり過ごせる関係を︵重ね イー でもねえんだ。俺を狭いところに押し込めるのはやめて てんだ? ちくしょう、ちくしょう・・・。 98 生の不全感を覆うことはないとぼくは考えています。逆にい 貧困や欠落感や不遇感が生を条件づけることはあっても、 というのです。 ころ世界を扼殺したときのこえだ。ぎお。といって世界は死 うと、生の不全感は欠如や欠落より遙かに規模がおおきいの 嵩ねひとは大人になるのか ︶。ぎお。これはおれがはたちの んだ。それからいったい考えている感じているのは誰なのか。 です。なにか足りないものや手に入れたいものがあるとして、 う、時代が無償で与えてくれる感性というものはたしかにあ した。時代は動きます。生の与件が改定されたことにともな ぬ﹂元気もなかったとき、ぼくはずいぶんそのことを考えま か ば に ぼ く も い や と い う ほ ど そ の こ と を 体験しました 。 ﹁死 あります。そこには凄まじい断層があります。八〇年代のな ここにはひきうける者が時代から超えられていく残酷さが に欠如や欠落があるとき、本来のあるべきすがたを求めて自 がそのものにひとしいことを自己同一性といいますが、そこ まりルサンチマンが、観念の起源ではありません。あるもの あらわれると思います。生きるうえでのさまざまな障害、つ いるのではないでしょうか。生きることはやはり空虚として ような気がします。少なくともぼくたちはそれをもう知って は彼女︶の生は充溢するでしょうか。おそらくそうではない イー ︵略︶世界は転回し、砂浜から上陸するのはもう魂︵たまし るのですが、でも楽にしてくれるのは半分だけです。おおき 己同一性は自身の要請にしたがってその穴を埋めようとしま 努力の末にそれらを獲得したとします。そのとき彼︵あるい い︶で は な い か も し れ ぬ ﹂ ︵﹁断想2 ﹂︶。 ﹁李﹂と 鎌田吉一は く時 代は旋 回し ま し た 。 ﹁ 李﹂がそうであるように、不遇感 す。観念のこの運動のことをぼくは自己意識の外延表現と呼 背中合わせに似た感度を生きています。 をふりきったとき、彼は広い場所にでます。それは一昔前に んできました。人間がながい暮らしのあいだに磨きに磨きを ている感じているのは誰なのか﹂という空虚は、だれもがじ とはありません 。 ﹁ ぎ お 。 と い っ て世 界 が 死 ん で か ら、 考 え けるほかなくなるのです。この時代性から彼がまぬがれるこ しかし、彼はそれをつかんだとたん、うつろな自己をひきう だそれだけの理由で安保世代よりイケてたのとおなじです。 意味ではルサンチマンより遥かに起源がふるいのです。同一 のありかたに封じ込められたのです。生の不全感はそういう いう主体が、自己同一性に召還されたとき、ひとのその生存 ことを延々と考えているのです。生の不全感は、対の内包と ない気がします。それで内包論というだれも見向きもしない ぼくは同一性原理を拡張するほかに電脳社会の彼方にゆけ イー はとうていありえなかったことです。ある意味で﹁李﹂は楽 かけた意識のこのありかたはずいぶん傷んでいます。 ぶんに固有のやりかたで内在的に解くほかありません。だか 性は、内包の事後としてある事態であるにもかかわらず、そ イー 々とそれを手にします。かつて二十歳のぼくが若いというた ら ﹁ 李 ﹂ は カ ム ア ウ トを 否 定 す る に と ど ま ら ず 、 ﹃GO﹄と こに本来性があると錯覚するためにおこる、いわば意識の自 イー いうのです。一瞬も止まるな、移動せよ、じぶんの彼方へ、 「第二ステージ」論 箚記Ⅰ 99 家中毒なのです。フーコーは同一性の拡張をやらないままに 個の内部に襞をつくりその襞を調律することで本来あるべ も知ることができるけど、真に偉大なものは、さらにそ う人たちのことは、ちゃんと記録にも残っていて、誰で そういうことを深く考えた人がいます。それは、ユダヤ きじぶんを回復するというのがこれまでの表現論です。フー の彼方にある﹂といったんです。通常﹁偉大﹂といわれ 病に倒れましたが、あるべき本来の﹁わたし﹂を自己関係に コーはこの表現論の転倒を試みました。そのことに気づきつ ているものよりも、 ﹁さらに彼方に偉大なものがある﹂ 、 系フランス人の思想家シモーヌ・ヴェーユです。ヴェー つあったのに急逝しました。ぼくの理解ではフーコーがめざ と。そこは〝無名の領域〟です。 ︵略︶ ﹁価値の源泉とは ユは 、 ﹁歴史上 、偉 大な人 たちはたくさんいる。そ う い したものは同一性の彼方です。ポストモダンの思想の諸家た 何か?﹂といえば、やっぱりそこだよって。ぼくにとっ 求めるのは畢竟、権力にほかならないと彼がいうのはそうい ちにも一分の理があるとすれば、彼らは主体の解体を通して ては、ヴェーユがいっていることは、自分を支えるつっ う意味です。 あらたな主体を模索したのです。それはまちがいありません。 かい棒になっていますね。 さにその反対のことです。自己は与えられているものではな うことは明らかです。ぼくたちがやろうとしていることはま もうできません。自己関係の果てにあるのが空虚な穴だとい 己の枠組みを残してそのうえで本来的自己を回復することは 残した謎めいた言葉は、内包と分有と読み替えられます。自 的活動﹂に自己関係を結びつけよ、と最後にフーコーが言い そこには第一級のものがおかれている。それらのものは本質 ひとつの深淵でもって距てられた、もうひとつの領域があり、 しかし、この領域を越えて、はるかかなたに、この領域とは 千年にわたって生きのびる、というある領域を構成している。 輝かしい結果が実を結び、それによっていくつかの名前が数 形式であるにすぎない科学、芸術、文学、哲学は、華やかな、 正確にはこう書いてあります。﹁人格の表出のさまざまの かなた 死の床にあったフーコーとレヴィナスは知らずに接近遭遇し く、内包存在を分有することではじめて可能となるのです。 的に名をもたない﹂ ︵ヴェイユ﹃ロンドン論集と最後の手紙﹄ ていたのです 。 ﹁その人 の倫理的活動 の核にあるような創造 そこに同一性の彼方があります。 の﹃歎異抄﹄と同じぐらい好きな箇所でした。吉本は﹁大衆 ﹁人格と聖なるもの﹂杉山毅訳︶。ここは若いころから親鸞 ここで吉本隆明とヴェイユの言説を交差させます。吉本隆 の原像﹂よりこのほうがいいとまで言い切っています。びっ くりしました。吉本の﹁大衆の原像﹂は彼の思想の鍵となる 世紀論 ﹂ ﹄ 下巻 の 最 後 で 、 生 き る 価 値 明は最 新 刊 の﹃超 ﹁ はどこにあるかと聞かれ、答えます。 20 100 するのが彼の思想です。それならおれにあと残されているの 子に背かれ、老いて、死ぬ﹂という生の恒常を価値の源泉と 概念のひとつです。﹁生まれ、育ち、婚姻し、子をもうけ、 個人を解放しちゃえ﹂ということです。それ以外の目標 うか。 ﹁ 個人の自 由を 奪う 制約 は、すべて取 り払って、 れは﹁個人の全的自由の実現﹂ということぐらいでしょ もし、現在、あえて生きる目標を立てるというなら、そ 人の自由を奪う制約は、すべてダメだ﹂ってことですね。 方をしていると思います。人間は個人として生きたい、 は﹁老いて、死ぬ﹂だけということになる、こんな思想はい 彼の思想の背景には大東亜戦争のもたらした影と、戦後、 個人としては自由に生きたいにもかかわらず、やむをえ やだ、というのが実感です。冗談じゃない。年を経るほどに 戦争責任にほおかぶりして赤眼に転向した者らへの激しい憤 ず、社会や集団をつくらざるをえなくなった、というの は立 てられませんね ﹂ ︵ 略 ︶ マ ル ク ス は 、 そ う い う考 え りがあります。マルクス主義が脅迫した﹁大衆に学ぶ﹂への がマルクスの考え方なんです。 色香が増すというおれの内包の考えのほうがいいぞ。 激しい敵対があります。当時はマルクス主義に神通力があり ました。彼も時代の子ですから、マルクス主義から﹁自立﹂ 世紀論 ﹂ ﹄の随所で吉本隆明は﹁実 感 吉本はヴェイユの核心に︵同じく親鸞についても︶逆さまに りしませんが、また引用のこの箇所からはわかりませんが、 言葉には力があります。この箚記は吉本論ではないので深入 では何かを生きる力にはならないのです。ヴェイユや親鸞の の片鱗を引きずっています。カウンターだから﹁大衆の原像﹂ ます 。 ﹁繰り 込む﹂ は﹁ 学ぶ ﹂の 全的否定ではあっても、 そ 義へのカウンターとしての色合いが濃いということがわかり の﹁大衆の原像﹂を﹁繰り込む﹂という考えは、マルクス主 由﹂とかはあいまいではすみません。というか、そういう物 本はいうのでしょうが、ぼくは不満です。 ﹁個人﹂とか、 ﹁自 ﹁個人﹂について、だいたいでいいじゃない、とおそらく吉 していっていません。これもひとつの棚上げだと思います。 全的自由の実現﹂の中身や意味することをじぶんの実感に即 ると、 が ら ん ど う な 自 己が 浮かびあがってきます 。 ﹁個人の ビンビンつたわってきます。しかしひとたび、じぶんに向け を棚上げ﹂した物言いに反感があるからです。その気持ちは に即してモノを言え﹂と主張します。文化人や学者の﹁自己 上 下 二 巻の ﹃ 超 ﹁ 入ろうとしているような気がしてなりません。何か入り口と 言いをするとき吉本はすごく牧歌的です。大衆を愛好する吉 できる思想を必死でつくりました。過ぎる時代からは、吉本 出口をまちがっているのです。それは﹁歴史がめざすもの﹂ 本の癖です。 ﹁樹皮に耳をあて、樹芯のようすを窺うようにして私は話を ﹃夜と女と毛沢東﹄の﹁序にかえて﹂で辺見庸は言います。 についての答えのなかにも見られます。 現 在 、 ウ ソ を つ か ず に、 せ い ぜ い、 い え る こ と は 、 ﹁個 「第二ステージ」論 箚記Ⅰ 101 20 い風が吹いているのだった。幻聴ではない﹂ 。あるいは、 ﹃言 聴いた。耳を澄ますと、この大樹の中ではごうごうと凄まじ 本隆明が答えて言います。 あるようにみうけられのだが﹂という問いかけに対して、吉 在は、この事態を物語っている。このなにかの転倒は、すで がそれだけでなにごとかであるような現在の哲学と批評の現 されましょう。ひとつは、いったん︿人間﹀的な過程に と思います。この︿不幸﹀の内容は、つぎのように要約 もしそう思うならば、人間の本質は︿不幸﹀なものだ 葉 からの 触手 ﹄で、 吉本 は言 い ま す 。 ﹁精緻に︿読 む﹀こと に 現 在 と い う お お き な事 件 の 象 徴 だ と お も え る 。 ︵略︶この 入った人類は、人間のつくる観念と現実のすべての成果 て、 ︿動物生﹀に還るわけには行かないということです。 現状では︿わたし﹀はただ積み重ねられた知的な資料と先だ ここには、この世界で考えることや感じることなんかもう ︵略︶第二に、人間は、他の動物のように、個人として ︵それが︿良きもの﹀であれ、︿悪しき﹀ものであれ︶ ないのだという吉本のホンネがよくあらわれています。それ 恣意的に生きたいにもかかわらず、 ︿制度﹀ 、 ︿権力﹀ 、 ︿法﹀ つ思考のなかに融けてしまって、すでに存在しないものにす がどうしてかということはよくわかりませんが、強烈なニヒ な ど 、 つ ま り 共 同 幻 想 を 不 可 避 的 に 生 み だ し た た め、 を、不可避的に蓄積していくよりほかないということで リズムが吉本のなかにあります。ニヒリズムのことを生の不 人間の本質的な不幸は、個人と共同性のあいだの︿対立﹀ 、 ぎない。そして︿考えること﹀においてすでに存在しないも 全感といいかえてもおなじです。ほんとうはそういうじぶん ︿矛盾﹀ 、 ︿逆立﹀として表出せざるを得ないという点で す。 をなんとかするしかないのにとぼくは思います。そのことを す。︵略︶これらが、人間の本質が︿不幸﹀なものであ のである以上︿感ずること﹀でも、この世界の映像に融けて 覆 い 隠 し て 思 想 を 語 っ て も 言 葉が 力 を も つ こ と は あ り ま せ るということの内容だと思います。ただ、この︿不幸﹀ つまり︿人間﹀を制度的にも社会的にも、さらりとやめ ん。根本的なことなので、あるいは禅問答みたいになるかも は、 ︿不幸﹀なことが識知された︿不幸﹀であるために、 しまって、すでに存在しないものにすぎない﹂ 知れませんが、そのあたりを追いかけてみます。 間が観念を生理から疎外したのだとするなら、ありえたなら 全感というものが吉本隆明の思想のなかに濃厚にあります。 人間という存在にまつわるくぐもった不幸の気配や生の不 究極的には解除可能な︿不幸﹀ではないでしょうか。 動 物の ま ま の ほ う が よ か っ た と い う 考 え に な る の で は な い だから﹁人間は、他の動物のように、個人として恣意的に生 ﹃どこに思想の根拠をおくか﹄で、インタビュアーの﹁人 か、人間の本質は不幸なものであるという認識が吉本さんに 102 がありますが、そういう思想の固有の傾きをさしひいても、 体温とでもいうものになっています。そこに彼の思想の原質 が、戦争期の体験と複雑にからみあって陰影をなし、思想の の根拠から流れでた彼の生の鋳型にある気配のような不全感 値なしに本音を語っているとみていいと思います。父母未生 きたいにもかかわらず﹂と吉本隆明がいうとき、それは掛け とのいちばん根本にある関係なんだ。その場合、異性の人間 係の中でいちばん自然本質的関係であるし、また人間と自然 念になっています。男女の関係はいずれにせよ、あらゆる関 ってきて、その起源もまた、きわめてバッチリと本質的な概 て想定されていて、男女の関係はまっさきに最初に起源にや った。そういう時期がひとりでにマルクスの中に理想像とし プレアジア的段階で自由な男女の関係なんて、そんなこと は相手に自然をみているし、同時に人間をみることができて 実感としてあります。しかしそのことをリクツで言おうとす あるかい、というのが吉本のマルクスへの批判です。しかし、 思想としてじつにおおきな輪郭がここに描かれています。そ ると途方にくれるのです。わかるようでわからないわかりに むしろ、マルクスの男女関係についての考えは近代的だと指 いるんだ、といういい方をはじめにもってくるのですね。そ くさが、吉本思想の圏域にいた人たちが市民主義に流れた一 摘 す る 吉 本 の 視 線 が 近 代 的な の で す 。 ︿動物生﹀から離 脱し れは、 ﹁人間の本質的な不幸は、個人と共同性のあいだの︿対 因でもあると思います。それがオウム事件で吉本が麻原を評 始めた人間が恣意的なものを希求したかどうかわかりませ うするとキツネにつままれたようなところがあります﹂ ︵﹁性 価したことへの反発をきっかけとしたものであった、として ん。吉本は﹃言語にとって美とはなにか﹄でも意識の発生に 立﹀ 、 ︿矛盾 ﹀ 、 ︿逆立﹀として表出せざるを得ない﹂というと もです。彼らはわかりにくさにしびれを切らしたのです。お ついて同じ轍を踏んでいます。いっとうはじめに個人が措定 ・労働・婚姻の噴流﹂ ︶ まけにグローバルな資本から効率の悪い国家はいたぶられる されるなら、あるものがそのものにひとしいという同一性原 ころです。激しい運動の渦中にいるとき︿逆立﹀はリアルな ば か り で威 力 が 減 じ 、 ︿逆立 ﹀が見 えにくくなっているとい 理の自己回転は不可避です。三筋の線状になった意識の流れ 哲学の基礎に男女の関係を据えたことを批判しています。 ﹁人 奇妙なことです。吉本隆明はマルクスが﹃経哲草稿﹄で自然 から人 間へ の転換 の 要 と し て 個人がとらえられています。 しろ個人のありかたのなかに共同幻想を招きよせる種子が胚 ています。ぼくは吉本隆明とは逆に、人間が不幸なのは、む 立してしまうことが人間の本質的な不幸だと吉本隆明は考え 共同幻想が不可避に生みだされたため、個人と共同性が逆 は複雑にからまりあって現在に至っています。 う事情もたぶんあります。 それはともかくとして、このインタビューでは、 ︿動物生﹀ 間が未 開 時 代にはいりかけるちょうどそのあたりのところ 胎されているからだと考えます。ぼくは性の発見が人間の起 かなめ で、人間が自然性的にふるまっていて、すこしも抑圧がなか 「第二ステージ」論 箚記Ⅰ 103 せん。まして世界の中心的なものではありません。内包存在 ります。個人という概念はけっして完備したものではありま たのです。そこに自己同一性原理より豊饒な意識の起源があ 源だと 考え て い ま す 。 ︿性﹀を 分有してはじめて 個が誕生し 課題である。 ︵﹃共同幻想論﹄の﹁他界論﹂から︶ でも依然として、人間の存在にとってラジカルな本質的 自体が消滅しなければならぬという課題とともに、現在 がすべて消滅しなければならぬという課題は、共同幻想 対立は自然です。個人という概念を拡張するほかに共同幻想 ことはありません。挑発的にいえば個人と共同性のあいだの 性を根拠に共同幻想の消滅を図ってもその意図が実現される 封じ込めたことにあります。この同一性の圏域で個人の恣意 とは別の仕方﹂を可能とする内包存在を窮屈な自己同一性に 本隆明の言い方にならえば、人間の本質的不幸は﹁存在する 人です。個人は歴史的な存在であり、ひとつの欠落です。吉 なんというかむちゃくちゃな時代でした。吉本隆明の考えの ッと了解するようなところがあったと思います。そういう、 きないけど、格好いいと思いました。なんとなく気分でスー 青ざめた記憶があります。その衝撃が新鮮でした。理解はで すべての共同幻想を死滅に追い込めという言葉にであって、 うあらゆるものの否定ですから、大抵のことは平気でしたが、 とき、ギョッとしました。若くて血の気は多いし、気分はも 若いころ吉本隆明の共同幻想の消滅という考えにであった を強引にひきはがし、同一性に密封したもののあらわれが個 を消滅に追い込むことはできません。内包と分有によって可 示するようになりました。ところで、自己幻想と共同幻想は 基本は﹁段階﹂というものですから、共同幻想の消滅を遠望 時代の勢いに駆られ吉本隆明は﹃共同幻想論﹄で血の気が ほんとうに逆立するのでしょうか。瀬尾育生のように、自己 能となる世界では共同幻想はありません。共同幻想という概 ひきそうなべらぼうなことを言います。個人の恣意性を封殺 幻想と共同幻想は、互いに還元不能なのだと言い換えても、 しながら、いまでは過渡として、国家を開くための条件を提 するものはすべてとりのぞけ、それが彼が目指した理念です。 なにも言ったことになりません。自己が定点であることに変 念が存在しないのです。 八紘一宇の悪夢の体験を経て、個人の気儘さがなにものにも わりはないからです。このどうどうめぐりのウソにヴェイユ 集団を構成する諸単位のひとつひとつの中には、集団 かえがたく光り輝く原石のようなものだったからではないか 共同幻想が原始宗教的な仮象であらわれようと、現在の がおかしてはならないなにかがある、ということを集団 は気づきました。 ように制度的あるいはイデオロギー的な仮象をもってあ に説明するのはむだなことである。まず、集団とは、虚 と思います。 らわれようと、共同幻想の︿彼岸﹀に描かれる共同幻想 104 存在しない。集団に向かって語りかけるというようなこ 存在ではない。集団は、抽象的なものでないとしたら、 構に よ る の で な け れ ば 、 ﹁ だ れ か ﹂ と い う よ う な人 間 的 はおなじです。 りで間然するところがありません。吉本隆明においてもそれ スがやったことは同一性原理の経済的理念化です。そのかぎ についての考察を理念にしたからだと思っています。マルク ヴェイユはその時代にあって特異な考えをつくろうとしま とは作りごとである。さらに、もし集団が﹁だれか﹂と いうようなものであるなら、集団は、自分以外のものは なものの中に突進し、そこに埋没しようとする傾向があ ようとする傾向があることではなく、人格の側に集団的 その上、最大の危険は、集団的なものに人格を抑圧し つけてやみません。引用に見られるヴェイユの気づきには、 くて深い言葉は、過ぎる時代にあるぼくたちをいまでも惹き わらかさは宮沢賢治に通じるものがあります。ヴェイユの熱 ちは目にすることができませんが、ヴェイユのたましいのや した。若くして亡くなったので思想のその後の展開をぼくた ることである。 ︵﹃ロンドン論集とさいごの手紙﹄田辺・ はっとします。ここでヴェイユが言っていることは、ぼくも 尊敬しようとしない﹁だれか﹂になるだろう。 杉山訳︶ 、部 、 しょうか。マルクスは点と外延の思考がかたどる世界の内 ました。しかしなぜそれではマルクスの思想は衰退したので し、それはマルクスの思想とはべつものだと主張し続けてき 明はマルクスの思想のロシア的展開をマルクス 主義と規定 こに反乱や革命の根拠をおくほかなかったからです。吉本隆 なかったのです。同一性原理を思考の慣性とするかぎり、こ た。そのことをぼくは否定しません。貧しい武器で闘うしか 過ぎてしまった時代にあっては支配的で、現実性をもちまし 家が悪で、善なる個人が国家を覆す機縁をもつという考えは、 っかけが述べられています。吉本隆明にもあるのですが、国 は避けられないとヴェイユは言います。思考が革命されるき 自己のありかたを組みかえないかぎり集団への突進と埋没 ままでは共同性への対抗原理たりえません。個人の人格に降 のです。吉本隆明と違って、ヴェイユの考えでは、個はその し、そこに埋没しようとする傾向があることである﹂という 向があることではなく、人格の側に集団的なものの中に突進 ﹁最大の危険は、集団的なものに人格を抑圧しようとする傾 招きよせるものが人格の側にある、とヴェイユは言いいます。 向きです。集団が人格を抑圧するのは事実だ、しかしそれを を思想としてめざしました。彼女のベクトルは吉本隆明と逆 ユのような発想をとりません。ヴェイユは固有なものの普遍 します。大衆を思想の原理におく吉本隆明はけっしてヴェイ のは、吉本隆明の共同幻想のことを指しているとぼくは理解 あり、だれかという人間的存在ではないとヴェイユがいうも な示唆を含んでいます。集団は虚構であり、抽象的なもので ながいあいだ考えていたことでした。ヴェイユの洞察は大き で、商品から貨幣へ、貨幣から資本へと表現されていく商品 「第二ステージ」論 箚記Ⅰ 105 幻想であると認識すると同時にあらたに始まるものがありま イメージとして重なるもののような気がします。部落が共同 というとき、それは原口さんの﹁人類史の第二ステージ﹂と、 ラシーとは﹁別の形態を創造しなければならないのである﹂ 勢は狂おしいまでに求道者的です。だからヴェイユがデモク りていってそのなかにある聖なるものに向かいます。その姿 ぼくは考えています。 んの﹁︿共同幻想﹀の彼方﹂が目指すことそのものであると 内包存在論で書き換えられることになります。それは原口さ す。じりじりとした歩みですが、やがて社会や歴史や世界は 、あ 、る 、内包存在と分有をこれからも主張しま とは別の仕方﹂で は吉本隆明 の思 想と 袂を 分かつことになります 。 ﹁存在する きると内包存在論で考えています。ここまでくるとぼくたち 二〇〇〇年九月二十三日 す。原口さんがじぶんの精神の固有な曲線にほんとうの名を 与えるとき、部落も部落民も、共同幻想という認識を超えて、 この地上から消滅するでしょう。そのとき原口さんは一箇の 革命者としてぼくたちのまえに姿をあらわします。彼のこだ わりの総体が本懐を遂げるのはここをおいてほかにないと思 います。 時代の制約のなかでヴェイユはよく闘い、思考しました。 しかしヴェイユにも点の思考の残滓があります。それはヴェ イ ユ が 固 有 と 普 遍 を 不在 の 神 と の 関係 に お い て 語る か ら で す。ヴェイユの思想もまた拡張できます。ぼくはヴェイユの 気づきをもう一捻りしようと考えています。果たして存在は だれが領有するのか、とぼくは問います。もしもあるものが 他なるものに重なるということがなければ、どうして、ある ものがそのものにひとしいということが起きようか、という 驚きがあります。この驚異は理念として表現可能だと考えて 、 います。それは吉本隆明の思想への反措定でもあります。も 、も 、と 、あ 、る 、も 、の 、を同 一 性 原 理 に 拠 ら ず に ひ ら け ば い い の で と す。 ︿ 自己﹀を 向こ う側 から見 て、向 こう側か ら の 視線との 、ら 、体 、み 、を主 、とする概念を創れば、個人という理念が拡張で か 106 ﹁第二ステージ﹂論 箚記Ⅱ 107 「第二ステージ」論 箚記Ⅱ 原口論のⅡとして書き継がれた内包存在論であり、二〇〇一年五月に脱稿。事後的な説明しかできないにもかかわらず、今や﹁神﹂ の座にも座ろうとする自然科学の現在を徹底して批判し、自己同一性を自明とする地点から出発するかぎり、けして結果のいびつさ を解決できないことが描かれます。また近親相姦の禁忌を再考し、同一性原理こそが国家を形成していったことが、スリリングに解 き明かされます。 徹底した当事者性はここでも貫かれ、その地点から石牟礼道子、渡辺京二とのずれが丁寧に正確に語られ、批評されていきます。 家族や愛や〝精神の病〟を考察しながら、人の根源にある大洋感情が探られます。内包存在を語るために、 ︿2=1﹀ 、 ︿性という内 包﹀ ︿わたしがあなたであるをさらに超えた世界﹀といった様々な表現が試みられています。対という概念では示し得ない、もっと深 全ての人のなかに在る、神聖さ、ある空白、それは孤絶してあるのでなく、他と重なり合いながらすでにして個であり、だからそ い内包の在り方を描くことが目指されます。 のまま全であるような地点、つまり場でもあるのでしょう。 ﹁ ︿性﹀の発見が人間の起源﹂ ﹁︿性﹀を分有してはじめて個が誕生したの です。そこには自己同一性より豊穣な意識の起源があります。個人という概念はけして完備したものではありません。 ・・・内包存在 を強引に引きはがし、同一性に密封したもののあらわれが個人です﹂ 。自己同一性という現在全てを覆っている存在論の根底を覆す視 ないかずかずの制度が、そして︿正義﹀なるものが蘇っている。さ 属していることに変わりない。万人の認める意見が、異論の余地の ければいいのかは心得ているし、荒涼とした彼らの居場所も世界に けれども、この犠牲者たちは、少なくともその虚ろな眼をどこに向 は、人間たちは憎悪と侮蔑にさらされ、悲惨と破壊を恐れている。 る。人種差別、帝国主義、搾取は依然として情け容赦ない。諸国民 してしまいました。□戦争がおわってからも、血は流れつづけてい 想的な双生児だと思っています。すでに先進地域はその時代を通過 妄想の 吉 対 談 ■ ロシア ・ マルクス 主 義 も ナチズ 「 本 レヴィナ 」ス ム、ファシズムも、工業・製造業︵第二次産業︶中心主義時代の思 主観的な意識の襞のうちにしか基準を見いださないような時代、い 者たちの孤独がおわかりだろうか。善悪をめぐる優柔不断な判断が ったのだが︱によって揺るがされた世界のうちで死んでいった犠牲 の優越はあまりにも確固たるもので、悪は嘘を必要としないほどだ とも孤独な者たちだった。しかし、ヒトラーの勝利︱そこでは︿悪﹀ 不正の犠牲者たちはいつでもどこでも、もっとも悲嘆にくれ、もっ ていた。たったひとりの者たちと絶望した者たちのあいだにあって、 いつもひとはひとりで死に、不幸な者たちはいたるところで絶望し での時期にあって他に例を見なかったこと、それは遺棄であった。 すことはもはやない。これに対して、一九四〇年から一九四五年ま 点の根拠となっている核心が語られます。 ︵安部︶ まざまな言説のなかで、文書のなかで、学校のなかで、善はいかな かなる兆しも外部から訪れることのない時代にあって、自分は︿正 なるときにも︿悪﹀であるものと化す。暴力があえてその名を明か る条件のもとでもつねに︿善﹀であるものと合体し、悪はいついか vs 108 です。つまり、自分は必ずほかの人を差別し、また自分もほかの人 なくそう﹂と思ったって、それはなくならないんだよ、ということ になくならないシステムです。個々の人が、善意から﹁俺、差別を 永久になくならないからです。/資本主義というのは、差別が永久 国家がある限り、階級というものが必ず発生して、民衆間の差別が え込んできました。■なぜ、 ﹁国家は解体すべき﹂なのかというと、 に自分自身に再帰するもののことである、というふうな考え方を教 に、自我というのはつねに自己とぴったり一致しているもの、つね りを持つものもまた自我と呼ばれるのです。伝統的な哲学は私たち に帰還するものだけをいうのではありません。他なるものとかかわ 実に充足し切っているという事態の表現である。/自我とは、自己 重要な課題だと思っています。□自己同一性とは存在するという事 個人の自由を奪う制約をすべて取っ払っていくことが、今後も一番 は異なる他なるものの存在に向けられた配慮。■ぼくは、やはり、 にふさわしい善悪観、倫理観を作ることです。□倫理。自己自身と 者へと結びつけられているのです。■今必要なのは、消費資本主義 性の手前にあるような受動性﹂である。/自我は起源に先立って他 としても、そのことに変わりはない。/﹁﹁自己﹂とは、自己同一 が存在了解から派生したのだ。たとえ存在了解が存在忘却であった ても、将来、ゼロに近づいてゆくのですから。□私たちの文明全体 これからの人類の未来じゃないですか。 ・・・﹁人間﹂はいずれにし 間の内面性も同じことです。ゆくゆくは廃棄処分になるというのが、 点から見れば、 ﹁人間﹂なんて実にお粗末な、空虚な観念です。人 たもので、すでに時代遅れなんだと言いますね。ランドサットの視 ェ ル ・ フ ー コ ーは 、 ﹁人間﹂という概念は十九世紀に作り上げられ か。■ある意味で﹁内面の時代﹂はすでに終わっています。ミッシ 義﹀と同時に死ぬのだなと観念した者たちの孤独がおわかりだろう ことの彼方へ﹄ ︵いずれも翻訳書︶を引用。 だで﹄ ﹃暴力と聖性﹄ ﹃存在するとは別の仕方で、あるいは存在する を、レヴィナスからは﹃固有名﹄ ﹃神・死・時間﹄ ﹃われわれのあい からは﹃遺書﹄ ﹃わが﹁転向﹂ ﹄ ﹃超﹁20世紀論﹂ ﹄ ﹃私の﹁戦争論﹂ ﹄ ︹注︺■は吉本隆明、□はレヴィナスの著作にある言葉。吉本隆明 そのものなのだ。 、の 、在 、仕 、方 、で 、存 、在 、す 、る 、こ 、と 、ではない。それは存 、す 、る 、と 、は 、別 、の 、仕 、方 、で 、 別 、在 、と 、は 、他 、な 、る 、も 、の 、へと過ぎ越すこと。とはいえ、この過ぎ越しは 存 能性があるからこそ、愛があるのです。/存在するとは別の仕方で のではありません。だれかをかけがえのない人として思うという可 中になると、他人をかけがえのないものだと思い込むから、という がえのないものであるということ、それが愛の原理です。恋愛に夢 まで進みます。私の愛している他人がこの世界で私にとってはかけ しまうのを怖れるからこそ成り立つわけです 。 ・・・愛はもっと先 はすべて﹁人間が人間にとって狼である﹂ような状況にまた戻って もそれに従うような一般原則がうち立てられます。こういったこと ては、他の全員も同一の一般原則に従うたてまえですから、私たち る戦いは人間たちを法治国家の建設へと導きます。法治国家におい も過剰であるという事態を指しています。 ・・・万人の万人に対す にとって重要であるからです。善とは、この他者の重要性が私より いては、他者の実存することのほうが、私の実存することよりも私 とへの緊張を弛緩させる一つの仕方なのです。というのも、善にお 自己への気遣いという偽装のもとで行われている、私の実存するこ にするからです 。 ・・・善とは他なるものへの回路です。つまり、 ることに固執するときに、暴力と悪、エゴとエゴイズムを剥き出し 家 族 全 員 を そ こ で 失い ま し た 。 ・・・というのも、存在は、存在す 私自身はアウシュビッツには行きませんでした。けれども結局私は から差別される︱これが、資本主義の一番根底にある問題です。□ 「第二ステージ」論 箚記Ⅱ 109 の幸福であろうと、死のレミングであろうと、ひとびとは訳 と、黒船と戦後が同時にやってきたそういう時代だとすぐに いま、わたしたちはどういう時代に生きているのかと問う 生活を送ること、経歴を身につけること、貯蓄すること、休 を﹂持ち 、 ﹁教育を受けること、人間関係を培うこと、家庭 や が て 時 代 の 合 理 精 神 は 宣 明 します 。 ﹁人格だけが生存権 はじめに 答えることができます。押し寄せてくる大転換期の風圧はり 日の計画を立てること﹂ ︵﹃生と死の倫理﹄ピーター・シンガ も分からずに何かに憑かれたように突き進みます。 くつではなくリアルな皮膚感覚としてあります。かつて経験 ー︶が生の価値である、と。生きることをこういうふうに剪 生命工学はDNAを分子レベルで扱いますが、生きている したことのない大混乱期とも大変動期ともいいうると思いま も圧倒的な無力感。ハイパーリアルな生存競争の開始。グロ ことを工学的に扱う限り、まもなく尖端的領域では時代遅れ 定することは資本と科学技術の機能主義にとってまったく効 ーバルな資本と情報工学と生命工学が繰り広げる欲望をめぐ になります。DNAを量子のふるまいから解明しようとする す。おそらく人類史の規模での激しい変化の時期です。轟音 る際限のない饗宴。審査をパスしたものに供与される管理さ に決まっているからです。分子生物学はやがて量子生物学に 率がいいのです。 れた予定調和の生。人間という豊饒な混沌や生の奇妙さが資 取って代わられます。かつて分子生物学が生態学を古くさい とともに崩れていく戦後の営為、残骸のような思想。何より 本と科学技術によって細かく切り刻まれ、こころの一片にい 学問として駆逐したように、今興隆しつつある分子レベルの 合っています。自我と貨幣が自己同一性のそれぞれの現れ方 利の追求を至上のものとするこの社会のありようとよく息が する奇形的な考えです。その確信たるやすごいものです。実 す。人間のからだは自然物にすぎないから加工可能であると ムの管理する快感原則に沿うかぎり善なるものとみなされま ケラもありません。利便性の追求も快適さへの欲求もシステ の充足を可能とするかが述べられています。そこには魂のカ たりする分子がまたそこに関与します。どこまでいっても話 が活性化します。その活性化した分子を興奮させたり抑制し つくと受容体が変化します。受容体が変化するとべつな分子 容する分子が細胞の側にできます。そこで分子と分子がくっ 考えてみます。何らかの分子をある細胞に与えるとそれを受 素人にはむつかしそうに見える分子生物学の手法について 然と必然﹄が今現実のものになっているとぼくは思います。 ある自然科学です。ジャック・モノーが 年前に予言した﹃偶 されていくのです。それが擬装されたニヒリズムの一形態で である由縁です。たとえ欲望する主体の死とともに潰える生 21 遺伝子工学は博物学になります。そうやって次々何かが順延 たるまでを計測し可視化されることの不快⋮。 ﹃サイエンス ﹄という科学の啓蒙本を読みながらいろん なことを考えました。そのなかで 世紀の科学がいかに欲望 21 30 110 で開発された手法がそこに誘導されていきます。複雑系とか 係を日がな一日やっているわけです。そして漸次数学や物理 はそれだけです。いいようではこんな単純な出来事の因果関 らしそうにきょろきょろ見回し、進藤も石がひとつ増えるご をたくさんぶら下げ血だらけになるも、頭山はあたりをめず を受けることになります。三角の木間に跨らせられ漬け物石 た、と当時を述懐したそうな。 痛いだけのことでなんちゃないが、酒が飲めんのには降参し とに嬉しそうにニコニコし、という具合です。拷問ちうたて これは挿話です。たまたま年輩の鍼の患者さんから夢野久 対称性の破れとか、そういうテクネーです。 作の﹃近世怪人傳﹄という本を貸してもらいました。玄洋社 ﹁オイ。奈良原。今度こそ斬られるぞ﹂ 話には続きがあって、西南戦争が迫ってきて、少年達は獄 らい痛快で面白いのです。作者は明治の人なのに文体が少し ﹁ウン。斬る積りらしいのう﹂ に関係した怪人豪傑の面々の天衣無縫な行状を書いたもので も古くないのです。びっくりしました。むしろ新鮮なのです。 ﹁武士といふものは死ぬる時に辞世チユウものを詠みは 舎から出され鎖に繋がれ護送されます。彼らは当然斬られる 自己表出史の稜線をサーフィンして時代的に相当得している せんか﹂ す。椎名誠がもしこの本を目にしたら彼はエッセイストを廃 町田康のデビューエッセイ﹃へらへら坊ちゃん﹄に勝るとも ﹁ウン。詠んだ方が立派ぢやらう。のみならず同志の励 ものと覚悟します。 劣らないのです。これはすごいことですよ。その上話に芯が みになるものぢやさうな﹂ 業すると思います。書く気がなくなると思うもんね。それぐ あるのです。もう天下無敵、恐いものなしなのです。 ンと火薬を下さい。私ども十六人が、皆、頭から石油を浴び 五の少年が十六名列席します。私どもにランプの石油を一カ 前志士の密議の場に頭山満、進藤喜平太、奈良原到ら十四、 治も若かりし頃の話。西郷隆盛に呼応して決起せんとする筑 公が作つて呉れた辞世なら意味はわからんでも信用出来 て呉れい。何も詠まんで死ぬと体裁が悪いけになあ。貴 ﹁俺にも一つ作つて呉れんか。親友のよしみに一つ頒け ﹁ウム。今その辞世を作り居る処ぢやが﹂ も詠む事ぢやらうのう﹂ ﹁貴公は皆の中で一番学問が出来とるけに、さぞいくつ て、袂に火薬を入れ場内に忍び込み、マッチで火をつけて走 るけになあ。一つ上等のヤツを頒けて呉れい。是非頼む で、天魔鬼神も縮みあがるという奈良原到の登場。時は明 りまはりましたら、火事になりませう。火薬庫も破裂しませ 流石の豪傑、奈良原少年も、此時には松浦少年の無学 ぞ﹂ とを言いますが、お前達は俺たちの後に続け、と乱の首魁武 さが可笑しいやうで、胸が一パイになつて、暫くの問返 う。それに乗じて切り込んでおいでなされ。というようなこ 部小四郎に諫められます。結局少年達は捕縛され、獄で拷問 「第二ステージ」論 箚記Ⅱ 111 は今日まで自分の臓 腑の腐り止めになつて居る。貧乏と はらわた まで泌み透つて居て、忘れやうにも忘れられん。あの声 乱の首領は捕縛を逃れ、警戒網をかいくぐり、いままさに いふものは辛労いもので、妻子が飢ゑ死によるのを見る 事が出来なかつたと云ふ。 薩摩に着かんとするとき、少年達が捕まったことを知り、福 と気に入らん奴の世話にでもなり度うなるものぢや。藩 ちに武部先生が一切の罪を負つて斬られさつしゃる⋮俺 お早やう御座います﹂と口の中で云つて居たが、そのう 眼が醒めると直ぐに、その方向に向つて礼拝した﹁先生。 その翌日から、同じ獄舎に繋がれて居る少年連は、朝 る。貧乏が愉快になつて来る。先生⋮先生と思ふてなあ 来る。何もかも要らん 、 ﹃行くぞオ﹄と云ふ気もちにな 爽快な声を思ひ出すと、腸がグルグルとデングリ返つて なるものぢやが、其様な時に、あの月と霜に冴え渡つた 閥の犬畜生にでも頭を下げに行かねば遣り切れんやうに き つ 岡県庁に﹁すべての非は我にあり﹂と自首するのです。 達はお蔭で助かる⋮と云ふ事実がハツキリとわかると、 ⋮⋮﹂ を聞いて以来、死ぬが死ぬまで腐らなかつた。 奈良原到少年の 腸 は、武部先生の﹁行くぞオーオ﹂ はらわた タくと譲れ落ちるのを筆者は見た。 こぼ と云ふうちに奈良原翁の巨大な両眼から、熟い涙がポ そ げ 流石に眠る者が一人も無くなつた。毎日毎晩、今か今か と其の時機を待つて居るうちに或る朝の事、霜の真白い、 月の白い営庭の向ふの獄舎へ提灯が近付いてゴトゴト人 声がし始めたので、すはこそと皆蹶起して正座し、その 方向に向つて両手を支へた。メソメソと泣出した少年も 子であつたが、忽ち雄獅子の吼えるやうな颯爽たる声で、 はした。少年達の居る獄舎の位置を心探しにしてゐる様 武部先生らしい一人がピツタリと立停まつて四方を見ま て来て広場の真中あたりまで来たと思ふと、その中でも そのうちに四五人の人影が固まつて向ふの獄舎から出 たいからではありません。生命科学の未熟を言いたいのです。 かしわざわざこのくだりを取りあげたのはそんな与太話をし ます。そう思ってやりすごしたことがいろいろあります。し 悪うて死ぬだけたい、だいたいこの気分ぢゃったように思い を思いだします。時代が違うので昏くはあったけど、なんの、 ます。若い頃、乱暴狼藉のかぎりをつくしていたことなんか 昔からぼくはこの手の話は好きで読むと気持ちが熱くなり 天も響けと絶叫した。 脳科学はこころがただならぬふるまいをしたとき脳内ケミカ 居た。 ﹁行くぞオォー オオオー﹂健児社の健児十六名。思は ル物質の分泌異常から行状の説明をします。脳科学は﹁行く ゆ ず獄舎の床に平伏して顔を上げ得なかつた。オイオイ声 ぞオォー オオオー﹂をどう解釈するのか気になってしかた ゆ を立て泣出した者も在つたと云ふ。 ないのです。 ひれふ ﹁あれが先生の声の聞き納めぢやつたが、今でも骨の髄 112 ピネフリンとかそういうものが多量に分泌されているからそ あ、それはね、脳内にドーパミンとかアドレナリンとかエ たい気分になります。 者が喜びそうです。こんなアホな話を目にするとぼくは死に ばいいことになります。処罰から治療への転換として人権論 ヒト・ゲノム計画がほぼ完了しましたが、このことは次の うなるんですよ、それで脳内の神経回路が誤作動しているん 事態を不可避的に招来します。分子記号として解読されたヒ うシステムの改造が可能となったのです。生命は選別・操作 ですね、とかおそらく宣うのです。ぼくはこういう傲岸不遜 ﹁雄獅子の吼えるやうな颯爽たる声で、天も響けと絶叫﹂ の対象としてあらわれます。遺伝子工学の長足の進歩は人間 笑止千万な言い草に猛烈な反感を感じます。ということを告 することは異常な精神のふるまいということになります。断 の限りない欲望の対象となったのです。世情の倫理談義はお ト・ゲノムはコンピュータのデーターベースとして完全に置 じて否です。精神は株価の予想とは異なります。奈良原到の 茶濁しにしかなりません。従来のいかなる倫理的規範も用を げると、あ、いま精神の正常値を超えました、かくかくしか 臓腑の腐り止めになったという乱の首魁が﹁あの声﹂をあげ なしません。そのことは火を見るより明らかなことです。最 き換え可能です。分子記号のデジタル化は人間が生体工学的 たとき脳内にドーパミンやノルアドレナリンが大量に噴出し 後にのこされた身体という天然自然の改良には途方もない市 じかの過剰分泌を抑制するこの薬を処方しましょう、すると たに違いありません。ぼくが言いたいのは、科学の合理はこ 場価値があります。ひとびとの欲望はバイオ産業と金融工学 なシステムとして可視化されたことを意味します。人間とい ころのふるまいや行動にたいして、事後的な説明しかできな そしてやっとほんもののモノそれ自体としての空虚を手にす 安らかになりますからね。 、き 、て 、在 、る 、と 、い 、う 、こ 、と 、は 、い 、つ 、い 、か 、な 、る 、と 、 いということです。生 、も 、科 、学 、の 、合 、理 、的 、認 、識 、の 、手 、前 、に 、あ 、る 、と 、い 、う 、こ 、と 、で 、す 、。この事 き るのです。 人間の精神が科学を包摂することはありえても、その逆はあ が開いています。生きているというのはそういうことです。 象にはなりません。そこには天地の懸崖がそそり立ち、深淵 っと賢い、能を愛好する免疫学者の多田富雄は抗しがたい時 はありません。脳天気なメディアの便利屋さん立花隆よりず のとし、そのことを前提としてシステムを揺り動かすことで ぼくが内包論で目指しているのは時代の趨勢を不可避なも と結合して行きつくところまで突進するに違いありません。 態はどういう精妙煩瑣な科学の方法をもってしても認識の対 りえないのです。それが生きているということです。最近科 のことをもたらすと﹁夕刊読売﹂二〇〇〇年十一月九日号の 代のこの趨勢に危機を察知します。ヒトゲノムの解読は三つ 遺伝子も見つかったそうです。そうすると凶悪犯のサイコな 特集に書いています。 学誌に犯罪遺伝子が発見されたと報じられていました。良心 遺伝子をベクターウイルスを使って良心遺伝子に置き換えれ 「第二ステージ」論 箚記Ⅱ 113 3 基本的人権はヒトゲノムの完結性と安定性にある。 2 人の欲望に火を注いだ。この流れは止まらない。 1 人体部品のパーツ交換が可能になる。 人権などが再定義され、人間を人間ならしめているものの素 べ、 ﹁ゲノムの完結性や安定性の側から、人間存在や基本的 ゲノムを基礎において考える哲学以外にはないと思う﹂と述 性﹂を明らかにすべきで、これが唯一遺伝子工学の暴走にブ こういう風潮は明晰をもって任ずる分析哲学の領域でも起 レーキをかけうる方法なのだと主張します。妄言というほか 止効果として機能する社会が理想だと言っています。しかも きています 。 ﹁本書は、心的なものを何らかの意味で物的な 永井均というあほな文化人が、人を殺してはいけないとい 得 意 がってこれこそ真 理だという 言い 方をするイ ヤな 奴で ものとして理解しようとする物的一元論の可能性を探りたい う理由はほんとはどこにもない。殺すなかれというのは善意 す。自己を棚上げした顔のない文化人特有の物言いですが、 と思う。心的なものを物的なものとして理解するということ ありません。 それはともかく、多田富雄の言う3は永井の言うこととメダ は、心的なものを何らかの仕方で動的世界に定位するという の嘘であり、人を殺したら死刑にするという刑法が犯罪の抑 ルの裏表の関係にあると思います。ここには大いなる錯誤が こと、動的世界のうちに心的なものの適当な居場所を見い出 ることや感じることを自然科学の従属現象とみなすことにお あります。ヒトゲノムはケミカル物質です。こういう問題の 哲学が二千年の永きにわたって思索してきた同一性は、コ いて同じ顔つきをしています。基本的人権とゲノムのもつ安 してやることである。つまり、心的なものを超自然的なもの ンピュータで演算でき、化学的に定量可能な遺伝子的自己と 定性や完全性は無関係です。同じく、心的な現象を物の世界 立て方をした時点ですでに多田富雄は時代に負けているので して生まれ変わります。装いを新たにした自己の誕生です。 に生起する自然現象と理解することも無意味です。なぜなら としてではなく、物的世界に生起する自然現象として理解す そういう時代へさしかかっているのです。ぼくがいつもいう、 いかにあらたな意匠を装ってもそれは心は物の派生物に過ぎ す。物質に人権があるなんてそんなべらぼうな、そんなばか 時代の趨勢への危機感はここにあります。必ずそうなるとい 、念 、論 、に過ぎないからです。手際があまりにも幼 ないという観 るということである。物的一元論はこのような心の自然化を う気がぼくはします。彼の言葉をそのまま引いてみます。遺 稚です。そして社会と科学の実務化を恭しく推進するのが息 な、と思わずにはいられません。時代の不可避の進行に翻弄 伝子工学の成果を逆手にとってなかなかすごいことが言われ を吹き返した学問と教養です。巷はこの手の文化人で溢れて 目指す﹂ ︵信原幸弘﹃心の現代哲学﹄ ︶これらの言説は、考え ます。この記事を読んだときドキンとしました 。 ﹁私は、ゲ います。倦み疲れてうんざりする風景です。 されて、自己同一性は遺伝子へと還元されます。 ノム情報から生まれる科学技術をコントロールできるのは、 114 そこで問いを立てます。電脳革命による社会構造の変化の ただなかで、ぼくたちがなし得ることは何でしょうか。要素 を、神という超越を批判することに性急なあまり、彼らは忘 れてしまいました。 同一性の逆理をひらくことにあります。根源的な点としての 可否がかかってきます。それは近代が発見し罠にかけた自己 互にリンクする資本︱生命︱社会の構造を組み替えることの 観念の力でつくりうるかどうかに、電脳を座の中心として相 とです。端的にそれは存在論の拡張です。拡張した存在論を やぎ深くなる契機を見いだすことはできないだろうというこ ることはないのであり、またそこにしかぼくたちの生がのび 思います。別の言い方をすれば、それしかぼくたちがなし得 究極のデジタルに対して究極のアナログを対置することだと 生の新しいOSをつくりたいのです。ぼくたちがなすことは 完するものとして機能することになるだけです。ぼくたちは と、いずれにしてもそれらもまた急速な社会構造の変化を補 そういうことではありません。わけもなく生まれ、死ぬまで に、学も遷移するのは当然です。ここで問題としたいことは の推移とともに宗教から法へ、法から国家へと変遷するよう れてしまったのでしょうか。習俗や掟という共同幻想が時代 しょうか。諸学の王であった哲学はなぜこうもかんたんに廃 こんな教科書的な批判がなぜ有効であるように見えるので 基本的には仮説の羅列であり、単なる主観的な主張なのです﹂ ますが、実験哲学というのはないのです。哲学説というのは、 法論は取り入れられていません。実験心理学というのはあり ったら、それを実験によって検証していこうという科学的方 な概念をこねくりまわす思弁につきるのです。仮説をこう作 ﹁哲学の方法論というのは、結局のところ、頭の中でいろん で哲学をバカにします。 たとえば自然科学の宣伝屋である立花隆は﹃脳を究める﹄ 主体に孔を穿つことができるでしょうか。思弁ではなくこの は 生 き て い る と い う 生 の 理 不 尽 さ に い か な る道 理 が あ る の 還元主義の科学への批判であろうと、複雑性の科学を導こう うえないリアルな問いなのです。 ちろんニーチェでもマルクスでもかまいません。かりに起源 知です。しかしそれこそが生の価値の根源なのです。ぼくは という考えることの存在理由です。それ自体としては無用の か、考えて考えて考え尽くすというのが考えることを考える の闇にあるはじまりの不明のことを超越と呼んでみます。彼 同一性という理念に科学を誘い入れるなにかがあったと思わ 近代の思想の天才をヘーゲル らは皆、独自の超越性について語っているわけですが、どこ 、き 、て 、在 、る 、ということと科学はまった ずにはいられません。生 (に ) 象徴させてみます。も か彼らは明証におぼれたという気がするのです。彼らが削り 出来事なのです 。 ﹁自己﹂と﹁1﹂と﹁質点﹂は同型です。 くべつものです。生きて在るということは同一性を包越する にあいまいさの余地を残してしまったと思えてなりません。 そのかぎりで科学化しうるのです。しかし同一性を事後的な だし磨き上げた、それぞれの同一性という概念が究尽されず 、び 、目 、にすぎないこと 哲学 を可 能 に す る自己 も ま た一 つの結 「第二ステージ」論 箚記Ⅱ 115 *1 包を刻むことはできないからです。つまり関与的な存在であ 科学の対象にはなりません。逆なら可能ですが、同一性で内 一つの結び目とする内包存在は、原理的にそれ自体としては す。 う こ と は ど う 考え て も 言 葉 本 来の意 味において 神秘 なので から。思想は気合いであり、念力なのです。生きて在るとい そのことがどんな哲学にも息づいています。人倫を変革しよ 奇天烈な︿在る﹀ことの不思議 。 ︿在る﹀ことへの驚愕。 健全な社会だという思想が隠れています。ぼくにはこの枷が ます。そこには暗黙のうちに分に応じてらしく生きることが ギーが、いまこの世で唯一有効な社会思想として機能してい 自己を実有の根拠とみなし、自己意識を外延化するさまざ うとしたマルクスの﹃資本論﹄にもそれは底流しています。 人間という自然の必然的な軛だと思えません。そういう人間 まな思想が現実の後追いにしかならないことはすでに事実だ 人 間の 精 神 現 象の 一つ の枝葉 が自然科学 で あ る に す ぎ ま せ のあり方は不遜であり不逞なものではないかというざらつい る内包存在を﹁1﹂という要素に分解せずそれ自体として扱 ん。いまその枝葉はよく繁っています。しかし、自然科学が た気分が濃厚にあります。先進国全体が学級会化しています。 う方法を科学はもちえないのです。そしてそこにこそ人であ 生の恒常性を資することはあっても、生きて在るということ 合い言葉は、 ﹁廊下を走るな、大声出すな﹂です。 ﹁羊のロマ から、感じることや考えることの芯を抛り投げ、つまり意志 の奇妙さと自然科学の論理には、なんの関係もないのです。 ン主義﹂ ︵竹田青嗣︶を叫ぶ者はテロリストというわけです。 ることの根拠があり、あるいはそうであるがゆえに人間とい かりに相関する領域があるとしても、科学という合理が生き マルクスの思想は壊滅しましたが、依然として彼の意志論 を放棄して現実をなぞり追認するだけの市民主義のイデオロ て在ることの驚異を一意的に汲み尽くすことは原理的にあり は不滅です。ぼくはそう思います。グローバルな資本と科学 う存在が変わらずなにかでありうるのです。 ません。持続可能な循環型社会の物質的代謝関係を科学が構 技術の狂乱に煽られて、近代に発祥したさまざまな思想は朽 棄することに等しいとぼくは思います。フーコーも吉本隆明 想し得ても、生を構想することはできません。それはもうま 生きて在ることの驚異と自然科学の論理の明証性のあいだ も、群棲する文化人たちもまちがっています。人間は終焉す ち果てて風雨に曝されています。しかし、かくあれぞかしと に深淵があることを、そしていかなる意味でも超越が論理の ることもゼロになることもありません。こころやたましいと ったくもって生という観念の固有性に根ざします。もちろん 明晰さに先立つことを、哲学や思想の固有の原理として表現 いうものが自然科学に浸食されつくすということもありえま 荒野に叫ぶ意志を放棄することは人間という豊饒な混沌を廃 できなかったから、自然科学の論理の強い磁力に吸引された せん。生きる帝力我に有りです。科学は衆生、テクネーです。 ぼくは反科学を主張したいのではありません。 のではないかと思います。非合理こそが合理の根拠なのです 116 いちどもまともに生きられたことも生ききったこともない人 間や生をどうやって捨てようというのですか。ただ人間とい ﹁近親相姦の禁忌﹂顛末 も結局考えることは一つのことに収斂していく感じがしてい この頃というか、この数年、だれの、どんな著作を読んで ウスキーの﹃性・家族・社会﹄やモースの﹃贈与論﹄などな 神現象学﹄やバタイユの﹃エロティシズムの歴史﹄ 、 マリノ 一巻第一編第一章の﹁商品﹂ ︵価値形態論︶ 、ヘーゲルの﹃精 ﹁第二ステージ﹂論箚記Ⅱを書くために今回は相当準備し ます。私性と公共性のあいだの矛盾・対立・背反はどう包越 どを吸いつくように読み込み︵さすがにエンゲルスは読みま ました。この十数年来考えてきた共同幻想を超えるというぼ できるか。同一性を包越する考えは可能か、究尽することは せんでしたが ︶ 、再び三度吉本隆明のそれらへの論考にすべ う概念は現実を糧として幹を太くしていくのです。猿が怒る この一事です。ここに世界のへそがあります。おそらく原口 てあたり、さあ、書くぞ、と息巻き、書きはじめて、愕然。 くのモチーフに、今の段階でじぶんなりの決着をつけようと 孝 博 さ ん も ぼ く と 似 た こ と を 考 え よ う と し て い る気 が し ま 近親相姦はなぜ禁止されたか十年以上考えてきて、それらが かもしれませんが、利根川進らの猿なみの智慧なら解明でき す 。 そ れ は 彼 が 部 落 を 共 同 幻 想 ととらえるだけでなく 、 ﹁共 すべて意味のないことに気づきました。呆然としました。近 るかもしれません。彼らはテクネーの職人ではあっても、生 同幻想を超えて﹂と語ることから明らかです。原口さんの主 親相姦タブーの謎の解明は内包論にとってなんの意味もない 思ったのです。長年書きためたパソコンのなかのデータを選 張する﹁第二ステージ﹂の問題は、人類が前史からその可能 のです。どんなに厳密にやろうと、同一性原理がかたどった を考えることにおいては素人です。ひとはだれも生きること 性に向けて跳躍するターニングポイントを意味しています。 意識の線型性をなぞることにしかならないのです。部落をめ り分け、あらためてレヴィ・ストロースの﹃親族の基本構造﹄ 原口さんの﹁第二ステージ﹂論は、ぼくの内包論に相当し ぐる現象をどれだけ誠実にかつ真剣に論じようと、共同幻想 において専門家です。廃棄処分にされるべきは群れることの ます。この続稿でぼくは人類史の未踏の領域に再び分け入る という概念がなければ部落は存在しつづけるのと同じです。 やマルクスの﹃経済学哲学草稿﹄ ﹃経済学批判﹄ ﹃資本論﹄第 ことになります。この道行きはじぶんのなかで困難を極めて 昔ノートにこう書きつけています 。 ﹁近親相姦の禁止とい 好きな賞味期限をとうに過ぎた文化人の口舌です。 います。変わりばえのしない金太郎飴みたいな文章ですが、 う謎は突き詰めると存在論の謎にゆきつくのではないのか。 それがぼくの到達した結論だ。すべては同一性の謎によって 人間の想像力への健気な挑戦として、書きつけられているた どたどしい文字を追ってもらえたらとても嬉しいです。 喚起されているのだ。そうではないか ﹂ 。 そうです 。 す で に 「第二ステージ」論 箚記Ⅱ 117 うして謎の根っこが見えてこないのだろうか。どうどうめぐ これだけ時間をつぎ込みうんうん唸って考えているのに、ど を説明しようとするようなものです。できるわけないのです。 論じているのに、いつのまにか自然数に腰を下ろし、有理数 失敗するとこういうことになるのです。有理数から自然数を 様に微妙なのです。内包モードと同一性モードの切り替えに くの内包は考えている本人でさえ罠にかかるのです。事程左 わかっていたのに、やっぱりわかっていなかったのです。ぼ 変えていくだけで、本質的な解決には至らないのではないか 思考の型が現存するかぎり、共同幻想は次々と憑依の対象を した。部落はたしかに共同幻想なのですが、共同幻想という かったのです。ぼくのなかには次のような問題意識がありま たじぶんがその罠に陥っていることにいまの今まで気づかな つけた思考の習慣の罠に、それが罠だよと警告しつづけてき とを考えさせられたのです。人々が永い暮らしのなかで身に します。自己意識の用語法というのはかくも根深いというこ 唖然としていてもしかたないのでそのあたりの事情を説明 と考えてきました。ここにはそのことにこだわるぼくの固有 りを延々としていたのです。嗚呼。 ぼくは内包と分有という思想で新しいOSを創ろうとして にはレヴィ・ストロースというよく流通しているアプリがあ 掘った穴に足を取られたのですから。近親相姦の禁止の解釈 るアプリにすぎなかったのです。落胆しましたね。じぶんで の禁忌にまつわる謎は、たとえていえばMS・DOS上で走 でいろんな領域に適用できます。この考えに立てば、近親姦 一性原理を喰われてしまったのです。同一性原理は伸縮自在 です。それは同一性原理です。そして哲学や思想は科学に同 きたにもかかわらず、たった一種類のOSしか有してないの までの一万有余年の凄まじい艱難辛苦の歴史をかいくぐって はリナックスというOSもあります。それなのに人類はこれ どに。共同幻想に良いも悪いもないのです。吉本隆明の共同 ズタズタに切り裂きます。生を損なうのです。再起不能なほ ん。身を持ってというしかありません。共同幻想は人の生を 知っているからです。理念からそれを分かることはありませ ような体験を通じて共同幻想というものの怖さを身にしみて 関係のあり方の可能性を考えてきました。若い頃の身が凍る たちは実感として知っています。ぼくは国家を経ない人間の け拡大してもそれはそのままでは国家にならないことをぼく 念として起源の国家が生まれるからです。血縁集団をどれだ 親相姦の禁止にこだわるかというと、近親姦を禁圧すると理 なんで近親相姦の禁止なんやとよくいわれました。なぜ近 の体験があります。 り、バタイユにはバタイユのアプリがあり、それらのすべて 幻想の定義からしてそうです。共同幻想は共同幻想であって、 いるのです。ウインドウズもOSですが、さすがこの業界に を批判する吉本隆明のアプリがありと、それだけだったので この理念に善いとか悪いとかないのです。 そのことについては言いたいことが山ほどありますが先を す。いずれも同一性原理というOS上で走っているアプリに すぎません。なんだ、そういうことだったのか。 118 要です。そのためには近親相姦がなぜ禁止されたのかその謎 ど我慢して値をあげると高く売りつけられると互酬制で考え ストロースは女性を交換の財貨とみなしました。やりたいけ なぜ近親相姦が禁止されたかということについてレヴィ・ で共 同 幻 想 の彼 方を 構想す る こ と は ま っ た く異 なる概 念で をほどかないといけないのです。現に近親相姦は世の大勢で 急ぎます。そこでネックになるのが近親姦なのです。太古の はありません。また国家は現存します。しかし理念としてい たのです。バタイユも吉本隆明もそれはないぜとアタマにき す。延々とそこを考えました。 えば、血縁集団を拡大したら氏族共同体まではつくれるので たかどうかしりませんが、レヴィ・ストロースの考えを批判 面々が氏族共同体から部族共同体に至るには観念の飛躍が必 すが、氏族制が血縁集団であるかぎり、統一国家あるいは統 しました。 ように言っています。 吉本隆明は﹁バタイユ論﹂で近親相姦の禁止について次の 一社会となりえないわけです。氏族制が部族制へと転化する には断層というか裂け目があります。近親相姦の禁止という 一理があれば国家は誕生します。共同幻想の彼方に行くには 山欽四郎訳﹃精神現象学﹄264頁下段及び265頁の下段 とめました︵嘘だと思う人は﹁世界の大思想1ヘーゲル﹂樫 国家形成のターニングポイントを吉本隆明はヘーゲルにも 直に︵自然に︶従えば 、 ︿家族﹀共同体は、崩壊の危機 性を、改めて見直す必然性を与えたし、この必然性に素 いわば、意識的に︿性﹀的な対象としての︿近親﹀の異 なぜならば︿家族﹀共同体の、上位共同体からの孤立は、 ︿氏族﹀共同体からの個々の︿家族﹀共同体の脱落、孤 を見 て く だ さ い 。 あ ら ま 、 書 い て あ り ま す ︶ 。例の兄弟と姉 に見舞われただろうからである。ところで 、 ︿家族﹀共 近親相姦の禁止の謎を解き明かし、それを梃子にして共同幻 妹のあいだのセックスをともなわない性的親和感です。これ 同体の崩壊とは、そのメンバーが解体して個々別々に流 立、内閉こそが、 ︿氏族﹀の︿部族﹀への飛躍と、 ︿近親 でいける、と吉本は思いました。ここを認めてしまうと共同 浪することでもなければ 、 ︿氏族﹀共同体の直接のメン 想を経ない世界がつくれるのではないか、ぼくが考えたのは 幻想の国家への転化は不可避です。うん、じつにうまく説明 バーに転化することでもない 。 ︿家族﹀共同体の内部で 相姦﹀の︿禁止﹀を促した、とわたしにはおもわれる。 できる、そう吉本は考えたに違いありません。そのうえで吉 自閉した対︵ペア︶に分裂することであり、それ以外の おおまかにはそういうことです。 本隆明はあらゆる共同幻想の消滅を唱えます。ぼくは共同幻 ︿自滅﹀そのものであり、どこにも、転化の契機をもた 現実的な行き場所はないのである。つまり、 ︿家族﹀の とはぼくのモチーフに反するのです。自己幻想を梃子にして ないのである。これを免れるためには︿近親相姦﹀を自 想の彼方を構想してきました。吉本隆明の国家論を認めるこ 共同幻想の消滅を遠望することと、内包存在を分有すること 「第二ステージ」論 箚記Ⅱ 119 ら︿禁止﹀するほかはない。 ︵﹃書物の解体学﹄所収﹁ジ ねばならないのです。 暗号文に見えませんか。祝詞よりわかりにくいし、まるで 性についての言説はいつもこの矛盾をあいまいなままやりす 葉によっては言い表しえない何かのように思います。吉本の 男性や女性という名付けと相関はしますが、男や女という言 性は、ぼくたちの知っている︵自己意識の用語法による︶ 呪文。この文面を何年も何年もくる日もくる日もじっと眺め ョルジュ・バタイユ﹂ ︶ たのです。よく友人にこれどういう意味だと思う、と尋ねま う観念を、つまり倫理をもちません。だからそこには侵犯と ごしています。内包存在はそれ自身の内部に禁止や忌避とい 脱落・孤立・内閉の反力として氏族制は部族制への飛躍と いう観念もありません。内包存在は自意識と異なるしくみを したが、答えは決まって、わからん、です。 近親姦の禁止をもたらしたと吉本は考えます。性の自然は家 もっています。そのことはとりもなおさず︿根源の性﹀とい しかし内包存在は分有することでしか個体化されません。 族の自滅に向かってもよいのだが、そうはならなかったこと たとえば、最初の性的な拘束が同性であった心性を吉本が 比喩としていえば、内包存在という手足が8本の存在は4本 う出来事において意識=存在という対称性が破れていること ﹁女性﹂と定義するとき、あるいは、 ﹁あらゆる排除をほど ずつの存在に分節されることで、個体となるのです。そうや の根拠として近親相姦の禁止をもちだすのは、結果から特定 こしたあとで︿性﹀的対象を自己幻想に選ぶか、共同幻想に って個体としてあらわれた人が、同じように分節された他の を意味しており、言い換えれば、内包存在がそれ自体のなか えらぶものをさして︿女性﹀の本質とよぶ﹂ ︵ ﹃共同幻想論﹄ ︶ 一人と向き合ってつくる磁場をぼくたちは事後的に﹁性﹂ ︵対 の原因が探られているような不自然さがともないます。性と と規定するとき、なにものかを定義しようとする心性はすで 幻想︶と呼んでいるのです。灼熱の光球であり、混沌とした に対自︱対他構造をもたないということであり、そのために に男性と女性を分割することを知っています。これでは二点 エネルギーの塊は、喰い、寝て、念ずるひとびとの生活の知 いう根源は硬直した因果論で説明されることではないように を結ぶ最短距離を直線と定義するとき生じるトートロジーと 恵として秩序︵安定︶をめざしました。荒々しい驚異の湧出 そこには対自︱対他意識のあらわれである禁止と侵犯が存在 同じことになってしまいます。定義されるべきなにものかを が狂おしさのあまり我が身を焼き尽くさないように、太古の 思えてなりません。この不自然さは吉本の性の定義の硬さと 定義によって知られるものによって定義しては身も蓋もあり 面々は生存を維持しようとしてあるかたちに就くほかなかっ しないのです。 ません。未知のなにかを手にしたければ概念そのものをあた たのだと思います。それが家族だとぼくは考えます。つまり 同根であるような気がします。 らしくつくるほかありません。なにより性が真っ先に問われ 120 とになるのです。 、の 、ず 、と﹁性﹂と﹁家族﹂とを表現したこ ︿根源の性﹀は、お す。文化人類学の知見は眉唾ものと考えた方がいいように思 を ま っ た く 逆向 きに 見て解 釈の 体系 をこしらえてきたので るかにくだった歴史の詐術だと考えたほうがいいように思い 識するのです。むしろ近親姦の禁止という観念は、時代をは いうことを自己意識の思考の習慣が﹁禁止されている﹂と認 性原理が禁止や侵犯と読み込んだわけです。近親姦がないと 包には禁止や侵犯という概念はありません。その状態を同一 かなかたちで生きながらえたのではないでしょうか。対の内 すが、家族のなかに、倫理をもたない︿根源の性﹀がおだや したちの知る﹁性﹂と、性が営む﹁家族﹂に分節されたので わらず、同一性の彼方の︿根源の性﹀を記述しようとして、 姦の禁止という観念が自己同一性を前提としているにもかか 存在にもともと禁止という倫理はないのです。つまり近親相 ません 。 ︿ 根 源 の 性 ﹀ というひとつながりの 全 体 をなす内 包 縁のしくみを維持するために近親相姦を禁圧したのでもあり 禁止されるから、近親相姦を忌避するのではありません。血 覚したとき、禁止と侵犯という規範が息づいてくるのです。 かのようにかたどったのです。ないものをあるかのように錯 ありえたけれどもなかったものの未遂は、ないものをある います。ぼくの考えはそれらのことごとくと対立し、対立を ます。自己意識のはじまりを宇宙に投影するとビックバンモ ひとびとは近親姦が禁止されていると理解したのです。近親 ぼくたちはここで家族という秩序を維持するために近親姦 デルが考案され、自己意識のきりなさが宇宙の果てのなさに 相姦の禁止は、女性を財貨とみなし互酬性という経済の効用 包括し、ひとの関係のありようについてまったく新しい地平 写像されるように、近親相姦タブーの謎は同一性の謎に重な から解釈しようと、ヘーゲル由来の兄弟姉妹間の性的親和感 を切り拓くことになると思います。なんとなれば共同幻想の り、由来します。ほんとうは同一性という意識の結び目こそ に糸口を求めようと、内包存在という根源の性を同一性で刻 の禁止が導かれたと錯覚します。そうではないと思います。 がほどかれるべきことなのです。ぼくはそのように考えます。 むかぎり、永遠に謎であり続けます。逆にいえば、同一性原 逆に 、 ︿根源の性﹀が家族に投射され痕跡として焼きつけら 未開の種族が近親姦を禁止し、侵犯したものに咎を科すと 理さえあれば、理路はどうであれ、国家は形成できるという 彼方をわたしたちは意欲しているのですから。 します。掟破りの咎がどのようなものであるかは 、 ︿根源の ことです。現に国家が存在し、近親相姦が世の大勢になって れたことのゆらぎだと考えるべきです 。 ︿根源の性﹀はわた 、例 、していると考えられます。痕跡が 性﹀の痕跡の度合いに比 な転換点だったと思います。この内包存在をひとであること いないのですから。内包存在を獲取したことがヒトの画期的 うようにぼくたちには映ると思えます。事実ぼくたちがつく に埋め込まれた潜勢力であると考えています。 ﹁もともとあ 強ければ、禁圧は強く、痕跡がかすかなら禁圧が弱く、とい り叙述した歴史はそういうものです。ひとびとは、ある事態 「第二ステージ」論 箚記Ⅱ 121 ちと片足を跳ね上げながら歩く猫のようなものだといえばそ 歴史は、炎熱に炙られたトタン屋根の上をあっちち、あっち ないという、ぼくたちの実感によくなじむ考えです。人間の 成るようになるものだし 、 ︵裏返せば︶成るようにしか成ら 説だとすると、一方には地動説の歴史観もあります。すべて て意志論を放棄したわけではありません。彼の歴史観を天動 滅を遠望しましたが、その兆しは見えてきません。かといっ 吉本隆明はひとの本来的なあり方を渉猟し、共同幻想の消 るもの﹂という言い回しをそういう意味で使用しています。 な卑しい連中です。 の威を借り、威力が廃れればさっさと見限る、機を見るに敏 ばかりに離反しました。吉本の神通力が甚大なときはその虎 だったので、その重量に押し拉がれていた文化人はここぞと て決裂しました。ぼくの世代にとって吉本隆明の思想は巨大 す。彼と彼の思想の信奉者はオウム事件の麻原評価をめぐっ あるということにおいて、意識の型は似ているように思いま との理念上の違いを語ることは可能ですが、総じて近代的で ます。ここが肝心なところですが、彼の社会思想と市民主義 した。人間は事物の秩序に差し込まれたささやかな影にすぎ フーコーなんかは倦み疲れて、そうじゃないんだと考えま る思考の型を組み替えることが幻想の革命ではないかと考え ました。共同幻想が問題なのではなく、共同幻想を可能とす だと思いながら、考えることを考えるような日々を送ってき ぼくは吉本と同じく市民主義が嫌いですが、自己を実有の ないんだ、彼はそう思いなしました。彼はたぎるあついもの たのです。それはひどく困難な道行きだったし、今もそうで れまでですが、意志を現実や社会に体現できるということが をきっとそうやって精算したのです。死の直前にもしかした あることに変わりはありませんが、どの一点を衝けば世界が 根拠とした外延論理で世界を記述するかぎり、自己幻想と共 ら違うかもしれないと思い直したようにも感じられますが、 ぐるりと旋回するか、そのへそのようなものが見えてきまし ないなら、人間は現実のとるにたらぬ相関物です。事物の秩 ともかくそう考えて真理と性と権力がかたどる三角形のまん た。そのことにはじめて気づいたときの印象はいまなお新鮮 同幻想は互いに相補的で、永遠に逆立するだけのことのよう なかにあるくろぐろとした虚を抱えたまま彼は逝きました。 です。ぼくにとって世界はそれまでとまったくちがって立ち 序と人倫は異なるはずだというおもいがぼくには依然として 吉本隆明にとって同世代のフーコーが最大の思想のライバ 現れました。それは消費することも薄れることもない、始ま な気がしています。なにか決定的な知の転回がありうるはず ルでしたが、彼は意志論を手放してはいないと思います。か りがあって終わりのないあついものです。この驚きをぼくは 抜きがたくあります。 といって一挙にあらゆる共同幻想を消滅させる展望は開けて 内包という言葉で言ってきました。 、の 、 しかし内包存在の歴史としての展開は、わたしたちのこ きませんから、過程として国家を開くというプログラムを提 起してきました。彼は市民主義のイデオロギーを嫌悪してい 122 記Ⅱを書きはじめ、今、五月二十三日午前零時六分、あと三 にすぎません。二〇〇一年五月十六日﹁第二ステージ﹂論箚 れ、ありえたけれどもなかったものとして前史を刻みつけた 人類史にあっては同一性という存在論的な制約にからめ取ら 人になり、あっという間に 年が経ち、おそらくあっという どんな生も、気がついたら名前を持ち、色気づき、やがて大 べきかもしれない﹂と考えたのではないでしょうか。だれの の倫理的活動の核にあるような創造的活動に結びつけてみる 日、このノートは貫通するか。 世界のへそ 生の不全感、つまりニヒリズムと、レヴィナスが解けなか った﹁第三者︵複数︶ ﹂性は相関していると思い始めました。 自己中心性も他者への配慮も同一性によって可能なありかた ですが、この同一性を拡張できないなら吉本思想の祝詞であ る﹁逆立﹂が解消することもありえないということになりま せんか。同一性の彼方が可能なら意識のありようも変わるの ではないのか。このノートは、私人と公共性のあいだの亀裂、 自己幻想と共同幻想の逆立、レヴィナスの複数性のもつ凡庸 さをめぐり、そのすべてを超えるべく意図されたものです。 人間が前史から未知の何かへ跳躍する転回点となるものを目 間にまた 年が過ぎ、そのときいるかいないか︵さすがに ×5はない ︶ 、そんなふうにあるとおもう。じぶんの意志で はなくひとりこの世に生まれ、死ぬまで生きて、じぶんの意 志に関係なくお迎えが来る、というのがこれまでの人間がつ くった生についての疑いの余地のない公理です。ぼくの拡張 表現からすると、ここにある生と死はユークリッドの幾何学 に比喩されます。 ﹁人は、何も持たずに生まれて来、何も持たずに墓へ行く。 何もないのが本然である ﹂ ︵﹃睥睨するヘーゲル﹄ ︶と池田晶 子は言います。そんなことはカラスの勝手で、ああ、どうで もいいのです。もしも孤独が可能なら生きることはどんなに 楽だろうか。このごろそんなことをよく考えます。ここをヘ ーゲルの形式と内容にそっていってみます。ぼくの考えるこ とはヘーゲルとまるで逆向きというか、反対なのです。身に 心が貼りついているという人の生存の形式からはヘーゲルの 青い鳥を追い求める旅は、空洞問題に行き当たるというのが どこかにあるはずのほんとうにほんものの私を探すという 生の形式は内容によって裏切られるのです。だから生が困難 だろうか。ぼくはこんなのは退屈なのです。そうではなくて て一人で死ぬのです。もしそうなら生きることはどんなに楽 言うことはなるほどと納得できます。たしかに一人で生まれ ぼくの偽らざる本音です。フーコーはその探し方が虚妄だと なのです。あらゆる起源の闇、はじまりの不明、ニヒリズム 指しています。 考え、そんなものはないと言いきったんだと思います。だか ︵空洞問題︶はここをあいまいにしていることから発祥しま 30 30 ら﹁その人が自分自身に対して持つ関係のあり方を、その人 「第二ステージ」論 箚記Ⅱ 123 30 す。ここが解けていないのです。ここをつかみ仕立て直すこ してそれは内包という謂わば意識の三層目にあります。 西田幾太郎の絶対矛盾的自己同一と同じことですが、かな はすでに自己意識というものをもってしまっているから、自 の気づきは、なぜ、どういう機縁で起こるのか。わたしたち ﹁存在の存在性ということ、同じことだが存在への存在者 この頃こんなことをよく考えています。 り い い と こ ろ ま で き て い る 禅 者 の 詩 句が あ り ま す 。 ﹁ 億劫相 己意識の用語法にならっていうしかないのだが、性への包越 とがぼくが考えている近代を超えるということになります。 別れて須臾も離れず/尽日相対して刹那も対せず/此の理人 でもね、自己の魂をじねんに融即するこの呼吸法は、我と この言葉いいね。 その分有者が自己であるという認識をもたらす。いわば自己 あり、この経験は︿根源の性﹀という出来事を主体として、 という出来事において遭遇するのは存在の彼方という驚異で しゅゆ 々此れ有り﹂ 無相の自己とが互いに外挿の関係にあることをふっきれてい 生の意味の不確かさやニヒリズムの由来を根源まで遡って や性についての二重の相転移がここに存在する。内包は同一 天皇制とナチズムの問題。ここはレヴィナスの第三者問題、 考えると、そのわからなさは生誕の謎にゆきつくように思え ないとおもうのです。言い換えれば依然として自己を実有の 吉本隆明の逆立問題につながります。自己は実有の点として た。みずからの意志で生まれたのではないことに、生の意味 性を包越することなのだ。内包が同一性の外延でなく拡張だ ではなく、内包存在の分有されたものとしてあります。意識 を問い尋ねることや生の不全感の由来がある。そして生誕の 根拠とする思考の型に閉じられているのです︵ハイデガーも の三層目がぼくにあるとしたらそこです。空洞問題は二層目 謎は死の恐怖へと反転してあらわれる。死はなぜ恐いのか。 ということはそういうことである。 までにしか届いていません。それがぼくたちが知っている大 それは生誕が謎だからだ。意味をめぐるすべての問いはここ うまくやれていません︶ 。 半の文学であり、芸術です。なんと! たという気がします。孤独というのは不可能なのです、ぼく 切っていたなら、その後の吉本の言説は実りあるものになっ した。もしも吉本がついでに﹁大衆なんてない﹂とまで言い 決定 ︶ 、埴谷に対して﹁政治的なものなんてない﹂と言いま けどなあ⋮。ぼくは内包浄土論でこの生誕の謎を包越するこ の自閉、想像力の剪定。ぼくにとってはリアルなことなんだ 一性で刻むから世界が縮んでしまうことになるのです。観念 は媒介のない出来事とのおそるべき体験なのにその驚異を同 金太郎飴を切っているようなものです。好きという不思議 へと回帰する﹂ の存在論では。点を実有の根拠とする生存の形式は内包存在 とができると思っています。内包という考えがここでも効い むかし吉本隆明が埴谷をこきおろしたとき︵例の重層的非 によって裏切られるのです。だから困難な生があります。そ 124 読売 ﹂ ︵二〇〇〇年一〇月二七日︶に画家元村正信さんの個 れないみたいです。読売新聞文化部の小林清人さんが﹁夕刊 しかし、ぼくのこんな考えかたは危なっかしくて見ていら てきます。この領域も早くやりたくてうずうずしています。 が、この内包存在を同一性の視線で見ているから成算がない 存 在 す る と は別 の仕方 そ の も の で あ る 内包存在の こ と で す ている小林さんがいます。よくわかります。ぼくがいうのは、 同一性の彼方ということになります。それをはらはらして見 か。 ﹁絵画の向こうに出ていく﹂とはぼくの言葉で言えば、 ように感じるのです。小林さんに限らずたいていの人がそう 展について書いていました。 ﹁この作家が、絵画をめぐる方法的思考と伝統的な美意識 なりの達成を知っている人の目に、あえて洗練を拒んでいる 注目されたのは六、七年前のことだ。あの一群の作品のそれ 勝手な解釈です。元村さんもそんなことは考えていないと思 いる人間のようなもの、あれは人間ではないのです。ぼくの 元村さんの個展はぼくも見ましたが、絵のなかに描かれて だと思います。でもそれは違うのです。 かのようにも見えるここ数年の仕事は何とも不可解であり、 います。だからあくまでもぼくの勝手な考えです。かつて人 を装飾的な様式のうちに融合させたようなあか抜けた絵画で もどかしくもあって、そのためにかえって気をそそられると 間であったもの、いきなりやってきた秋の気配を懐かしいと 感じるときのようなあの感情です。あるでしょう、そんなと いう奇妙な魅力に彩られて映っているのではないか。 方法を捨て、様式を手放して、この先どんな場所へ行き着 少し言い換えると、小林さんは個人の内部に襞を見ている きが。あれは人間ではないのです。かつて人間であったもの おそらく元村は表現の概念を根こそぎめくり返そうとして のです。フロイトやユングやヘーゲルやマルクスがやったよ くことになるのか。それを見届けたいという期待と、心配で いるのだ。表現するとは、新しさやオリジナリティーを競い うに。ぼくはそうではないと思い始めました。人間や、個人 です。年輪でいうと外側にあるのです。年輪は外側ほど古い 合うような、そんなケチな営みであるはずがないというのは、 として見られ生きられているあり方そのものが制約であり欠 見てはいられないような老婆心。そんな二つの思いに引き裂 すでにこの作家の確信であるだろう。 ﹁絵画の向こうに出て 損ではないかと考え始めたのです。これまでは個を暗黙に実 でしょう。数でいうと、有理数に対する自然数。あれ、です。 行く﹂という作家自身の言葉はその確信のありようをうかが 有の根拠として、その内部に襞を見いだしていたのです。ほ かれずには、この作家の新作を見ることはできない。 わせるが、さりとて絵画の向こうに出て行くというような途 んとにそうだろうか。それがぼくが考えていることです。 自己のなかの﹁絶対の他﹂という出来事を透かしてかすか 方もない企図にどんな成算もあるはずがないのである﹂ この批評を読んでじぶんのことが言われているような気が しました。語り得ぬものについては沈黙せよというやつです 「第二ステージ」論 箚記Ⅱ 125 と共同性 のあり 方をなんとかつなぎ 合わせようとしていま うとこのうえなく困難なことです。渡辺京二も自己のあり方 い、一気に世界をめくり返してしまうのです。だれが試みよ をかいくぐらせ、そこを貫き、通した観念の糸でほつれを繕 に触知するあるかなきかのわずかなすきまに意識の針の尖端 今日の市民社会で実現されている個人主義的なライフスタイ ものですし、一方、私のいう個であろうとする離群の形象は、 な制度としての共同性とはけっしてそのままでは重ならない ﹁私のいうあるべき群の形象への憧憬というものは、実体的 と思います﹂ れぬ心をいっております。そういう心は大衆のもつ心である ぼくの言葉で言えば、ありえたけれども未遂に終わったも ルとは、どうしてもくい違ってしまうものです。私がいいた 自然界は人間にとって第一の他者であったのです。そしてこ のをあらしめよと渡辺京二は叫んでいるのです。わかるとい す。同一性の彼方がどれほど微妙できわどいことかを彼の考 の第一の他者は自分より絶対的に広大深遠であり、その前に うて、これぐらいわかることはありません。熱いぞ、この感 いのは、群を離れて﹃天地生存﹄的に生きたいとねがう心は、 頭を垂れねばならぬ存在です。しかも、へりくだるおのれを 覚は。こういうリクツを超えた理不尽なものへの熱情は吉本 えは如実に示しています。 抱きとってくれる存在です。このような大いなる実在に照ら 隆明には希薄です。内包という出来事がすでにして対幻想と 同時にあるべき群の形象、あるべき﹃社会生存﹄の形象を求 され媒介されてこそ、ひとりの修羅である自己は、もうひと 異なるように、渡辺京二の共同性への希求は共同幻想とはズ ﹁人間が他者と共存できたのは、我と他を繋ぐより大いなる りの修羅たる他者と関わることができるのです﹂ レています。内包存在に性という言葉が適当でないように、 もの、より高きものが在ったからです。それが実在世界、つ ﹁私は吉本さんのいわれる共同幻想ということと、自分が考 離群の心性に宿るありうべきつながりは共同性という言葉で めずにはいない心だということです。こういう矛盾的な合一 えつづけてきた共同性への幻想的な希求ということは、どう は言い得ないし、共同性を逸脱していると理解できます。渡 まり森羅万象でありました。これが根本的なことですけれど も 別 の よ う だ と い う 気 が 、 ず っ と昔 か ら し て お り ま し た。 辺京二の言いたいことはたしかにこちらにつたわります。そ を私は共同性という言葉で表現しているのです﹂ ︵﹃なぜいま ︵略︶私のいう共同性というのは個であることにたえきれな のうえで彼の﹁個﹂あるいは﹁離群﹂は概念の幅が狭くて浅 も、人間は他者と関わる以前に、おのれの外にある世界と対 いで群のなかに逃げこみたいという、そういう性質のことを いように感じます。言いかえれば、自己意識の外延論理を振 人類史か﹄ ︶ いっているのではありません。逆に群から逃げ出さずにはお り切れていないような気がします。だから﹁矛盾的合一﹂は 話するのです。星や、樹木や、雲や、風と対話するのです。 れないでいて、逃げ出さずにすむ群のありかたを求めずにお 126 えて、同一性の彼方へ、とぼくが言うのはそこです。自己の つくりかたに制約があるから他者への配慮が起こるのだとぼ どこか苦しげです。 自然という絶対的に広大深遠な、人間にとっての第一の他 ﹁社会生存﹂の仕方が利害の共同性にしかならない市民社 くは思います。もちろんそのことを頭ごなしに否定はしませ しまうという気がしてなりません。では、その万象という一 会を渡辺京二が心底嫌い、批判しているのはよくわかります。 者との交感を﹁天地生存﹂的というとき、森羅万象が実在と 元はどこから生じたのでしょうか。忽然と出現し、孤児にな 日本の﹁基層民﹂の在り方を通じ国家と市民社会を超えるも ん。でもやはりそれは制約なのです。そしてその自己の触り ってしまわないでしょうか。個という概念を拡張し、内包と のとしての共同性を希求していることも伝わってきます。彼 方は共同性の観念と絶対の矛盾となってあらわれます。 分有 と い う 知 覚 に 立 つ と 、 ﹁天地生存﹂が内包自然へとゆる のなかに吹いている熱い風はなにより好きです。 ﹁文章を書 して語られていますが、もう一歩対象を引き込むというか、 りと反転し 、 ﹁社会生存﹂は内包社会へとめくれかえるので かずに十年、ただ生きた﹂ ︵﹃荒野に立つ虹﹄あとがき︶と書 懐 を 深く し な い と 、 ﹁ 天地生存﹂ は 同一性にからめとられて す。むしろ彼は﹁天地生存﹂と﹁社会生存﹂をともに溶融し、 を人類史の深部に探ろうとする彼の生存感覚が﹁基層民﹂を く彼が苦海の衆生に寄り添うはずがありません。近代の起源 同じ本で、 ﹁世界に意味はあるか﹂と問い、 ﹁われわれも願 して語らしめたのです。だれにも知られず生きて死んでいく 新しい概念を作るべきなのです。 わくば孔子のごとくあらんと欲するものであるけれども、そ 者を倫理ではなく、ありのままに受けいれる存在感覚という 王位継承をめぐって戦いが繰り広げられるとき民衆はその れでもなお﹃道﹄を人とともに行わんという熱情なしにおの たいなもので、そのままでは群から離れようとする衝動の打 闘いを自然の天変地異のようにやりすごしてきたというのが のはぼくのなかにもあります。なにかそういうものへの偏愛 ち消し、つまり否定にしかならないのだと思うのです。離群 アジア的心性の特性であるというのはよく知られていること れの生を充足することはできない﹂と渡辺京二が言う﹁熱情﹂ の心性と群︵共同性︶を希求する心性が互いに写像の関係、 ですが、ほんとうのところどういう心もちだったのだろうか が彼にはあります。 あるいは同型になっていると思います。人になかなか通じま と腑に落ちないところがありました。渡辺京二の北一輝論で は、とても好きですが、この﹁熱情﹂は離群の心性の斥力み せんが、自己本位と他者への配慮が同じ思考の型であるとぼ よって上方に吸い上げられるアジア的共同体は、その強烈な それがよくわかったのです 。 ﹁強大なデスポットの吸引力に 慣で、自己のつくりかたが投影したものを社会とぼくたちは 支配に抗するためには、下方にそれと釣り合う逆方向の吸着 くが言うのはそういうことです。ながいあいだのくらしの習 呼んでいます。この世のあり方のことです。思考の慣性を超 「第二ステージ」論 箚記Ⅱ 127 彼は強烈な専制支配を無化することができるのである。これ きない。自分を草木虫魚と同一レベルまで下降させたとき、 しようとする下方引力なしには政治的支配にたえることがで やって来る。デスポットの奴隷たる共同体民は、自然に同化 力を供えざるをえない。その吸着力は大地、つまり自然から 衝動と群への希求が持つ両義性です。その﹁矛盾的合一﹂を うとして隙間はかたちに憑きます。それが渡辺京二の離群の やり方では意識に隙間ができるからです。その隙間を埋めよ めても意識をめぐるどうどうめぐりはなくなりません。その を生むのです。魂の原初を森羅万象や自然という実在にもと の入り口へと回帰してしまいます。渡辺京二の熱情と森羅万 彼は共同性と呼んでいます。天地生存を可能とする自然への 自然に自身を融即することで帝力の暴威を無化する生存の 象を立ち上げる一元はなんでしょうか。その一元ぬきに魂も が﹁帝力我において何かあらんや﹂という東洋的アナーキズ ありようは、うまくその根っこを掘りあげれば近代を超える 自然という大きな生命も顕現しないのではないでしょうか。 融即は東洋的無そのものであり、行き着いたところがこの世 思想の源泉になりうるはずだ、というのが渡辺京二が構想し ぼくはそう考えます。 ムの実体である﹂ 。なるほどね、見事だと思う。 ていることだと思います。 二は言います。 もう少し踏み込みます。石牟礼道子の文学について渡辺京 幻の共同体を遠望するとき、共同体という言葉にまつわりつ ﹁いわゆる出世作の﹃苦海浄土﹄からしてそうであって、あ ここからは思想の命運を賭けて言うのですが、渡辺京二が いている、それこそが変わらなければならないはずの最後の にこの世とはどうしてもそり反ってしまうような苦しみがあ れは単に水俣病患者の苦境を、正義派ジャーナリストのよう ﹁一人の人間の魂がぜったいに相手の魂と出会うことはな って、その苦しみと患者の苦患がおなじ色合い、おなじ音色 一点が、そのまま取り残されているという感じがします。 ﹁石 いようにつくられているこの世、言葉という言葉が自分の何 となってとも鳴りするところに成り立った作品なのです﹂ ﹁し な眼で外から描いた作品ではありません。もともと彼女自身 ものをも表現せず、相手に何ものも伝えずに消えて行くこの かし彼女の自然描写が独特の美しさをもつのは、知識と自我 牟礼道子の世界﹂で彼は言います。 世、自分がどこかでそれと剥離していて、とうていその中に 意識によって自然と分離する以前の、前近代の民のコスモス ら前近代の民ということになりますが、彼女の真意からすれ ふさわしい居場所などありそうもないこの世、幼女の眼に映 人の魂と魂がこの世で触れあわず、どこにも身をおく場所 ば、彼らはすべて文字以前の世界に生きる人びとと定義して 感覚が輝いているからではないでしょうか ﹂ ﹁一言でいうな がないように思えるのは、もともと魂やこの世のつくりかた よろしい﹂ ︵﹃隠れた小径﹄ ︶ ったのはそういう世界だった﹂ ︵ ﹃新編小さきものの死﹄ ︶ に制約があることの反映なのです。この制約が存在の不全感 128 女の作品であって、それは文字以前の世界を生きる前近代の 苦海にある衆生のたましいの色や音との﹁とも鳴り﹂が彼 いずれにしても自我が同一性に閉じられているということが あるいは﹁とも鳴り﹂の世界であれ、とも喰いの世界であれ、 もともとあるものは消費されたり減ったりするものではあ 事態の核心です。個と共同性をめぐる矛盾は存在了解の制約 利的な市民社会によって滅びるようなせこいものではないと りません。太古の民の狩への狂熱も携帯でメールする若者の 民のコスモスが輝いているからだと渡辺京二は言います。彼 いうことです。渡辺京二は石牟礼道子を論じた著書のどこか 一心不乱もなにも違いはありません。なにか特別なところに から派生しているのです。人類の文明史の欠陥は存在了解の で彼女はその世界を知っているが故に、目を背けたくなる世 それは偏在しているのではありません。コミック﹃バガボン 初期不良にその淵源があります。ぼくは渡辺京二のなかに素 界は書かぬと思い決めているというようなことを言っていま ド﹄は面白いぞお。デジタルロックのケミカル・ブラザーズ の批評はもう少し巻き戻すことができます。ひとつは、 ﹁と した。しかしむさぼり喰うことやとも喰いがなくなる世界を なんかたかがクラブサウンドじゃないかといったってビート も鳴り﹂はとも喰いでもあったということです。じぶんの体 言葉の力で現成しなければ、そもそも批判の対象である他者 は部族の闘いの呪的な戦士の踊りみたいだし、ドラッグなし 朴な実在信仰の残滓があるように思います。そのわずかなゆ を手段とする﹁社会生存﹂の強 力に歯が立たないのではない でトランスできる、ありえたものをあらしめる高度な達成で 験ではそうなります。もうひとつは、文字以前の世界を生き でしょうか。 ﹁とも鳴り﹂の世界を美しく歌いあげることも、 す。スピード感もグルーブ感もばっちしで文句なし。石牟礼 るみが自然の実体化に流れているように感じられます。 市民社会のとも喰いも、じつは表裏の関係にあって、どちら 道子が水俣の海に幻視するものはこの世のあっちこっちに散 る民にいい風が吹いていたとするなら、その記憶や面影は功 か一方を強調するのは生きるということをどこかで損ないま 見できます。そのことは共時性としても通時性としてもいえ ごうりき す。 は違います。ぼくは市民社会の批判をそういうふうにはやり 白になったじぶんの体験ではそうなります。言説の本質を祈 ここであらためて書くことはしませんが、頭のなかが真っ ます。とても大事なところです。 ません。もし石牟礼道子の言葉の世界にいいものがあるとし りだと謂うレヴィナスの呻きが浮かんできます。 ﹁なぜ神を 市民社会をだまし得だまされ損の利害の体系ととらえるの たら、それはこの社会にもそのままあります。だいいち過ぎ 上、そこには悪魔が紛れもなく現存していたからだ﹂ ︵﹃われ 放棄してはならないのか。絶滅収容所で神が不在であった以 をめぐる観念の問題です 。 ﹁天地生存﹂を生きる﹁前近代の われのあいだで﹄ ︶ 。意味の一切が剥ぎとられ、あるのはごろ ゆくものが普遍であるはずがないのです。事は徹底して超越 民﹂ の 衆 の 心 に せ よ 、 ﹁ひとりの修羅である自己﹂にせよ、 「第二ステージ」論 箚記Ⅱ 129 の世の制約から放たれ拡張される契機をもちうるのです。人 てのみ、国家と市民社会という制度や貨幣という形態は、こ りかたで深淵を跨ぐしかないのです。生のこの固有さにおい を語るのはまったく不可能です。当人にとってのみ固有なや ることにどんな共同性もありません。衆の心性においてそれ いう驚異が深い淵となって立ちはだかります。ここを包越す るのです。そしてそのはるか彼方に、あるいは脚下に超越と て語るしかありません。そこからかろうじてことばがはじま ち姿が見えないのです 。 ﹁小さきものの死﹂を我が事におい 、か 、な 、ら 、ぬ 、彼自身の立 ありすぎます。挽歌を突き抜けて輝くほ 辺京二の言説を挽歌にします。彼の挽歌はあまりにも余裕が 、れ 、がどういうことかわかっていないことが渡 にあります。そ が生きたイリヤです。まぎれもなく超越をめぐる逆理がここ んと転がったモノのような事実だけです。それがレヴィナス 助けしたおぼえはありません﹂ ︵﹁夕刊読売﹂二〇〇〇年十一 の方たちに励まされ、助けられました。決して、こちらがお の方もいる。何度も絶望しましたね。でも、そのたびに、あ 判で騒動になると魚が売れなくなる﹂と突き落とされた患者 も、詐病とか金の亡者とか中傷されたり、村の仲間から﹁裁 い、法廷でも闘争しなければならない。ひどい話です。しか した ﹂ ﹁裁判闘争にも参加しました。あんなにひどい目にあ うなだめたらよいのか、そんな思いで﹃苦海浄土﹄を書きま いつしか、自分の中に根を下ろしてしまった深い悲しみをど がらみに縛られ苦しんでいることを知った。つらくなって、 でさえ大変なのに、いろいろな家庭の事情や村落共同体のし です。さらに、何度かお会いするうちに、患者の方は、ただ ていた私が、産業文明の毒に苦しむあの方たちと出会ったん の世は生きづらい、生きていることは恥ずかしい。そう思っ けれど⋮。水俣の世界に向き合うのは、とても苦しいし﹂ ﹁こ 月二日︶ 類史的課題とはそういうことです。 ついでだからもっとじかに 石牟礼道子 に語ってもらいま ろから、日がな一日、祖母と幻想の世界で遊んでいたんです。 ﹁ほら、祖母が精神に変調をきたしていたでしょ。小さなこ りますから。今でも、あちらのほうにばっかりいるんですよ﹂ 物心がついたころから魂があちら側にいってしまう性向があ や短歌を書く、文学好きの田舎の主婦で終わったでしょう。 ﹁もし、水俣病と出あわなかったら、うわごとみたいな詩 がいありません。渾身を込めた世界との激突は、どんな経緯 り、つぶし合い、内と外の支援者のぐちゃぐちゃがあるにち ぼくはじぶんの体験から推測するのですが、内輪の足ひっぱ が湧きあがってきます。現実はもっとはるかにリアルです。 くがくぐった体験からどうしても譲ることのできない違和感 瞞であるし、無自覚的なものだとしたら迂闊な発言です。ぼ 、ち 、﹂ ﹁あの方た ︵傍点は森崎︶が自覚的に言われたのなら欺 ﹁あの方たち﹂という言い方にひっかかりをおぼえます。 きょうはこちらの世界に出てきましたけど、あらぬ世界に行 をとろうと言葉の背骨を喪う体験をともないます。この経験 す。 かないように努めているんです。うまく話がつながるといい 130 人間はかならず個人であると同時にある共同性を背負うも に一体化されています。このことが何を意味するのかについ のとして存在しています。フランスの思想家シモーヌ・ヴェ は言葉になるようなことではなく、また書けぬことです。し こともないはずです。そこを考え抜くほかに言葉が現実に根 イユは個と共同性との間にかならず生起する複雑に絡み合っ て少し考えてみます。 づき、表現が力を持つことはないのです。なんとなればそう かし絶句し立ち竦むほかないそのことしか考えることも書く するほかに生きようがないからです。そしてそこを書こうと ﹁ ﹃わたしたち﹄と呼び合うある環境の中に住み、この﹃わ たいくつかの問題点に関連していくつかの示唆的な言葉を残 か。なぜ﹁あの方たち﹂なのか。もはや﹁あの方たち﹂とい たしたち﹄の一部分となり、いかなる人間的環境であれ、そ するときその表現は、被害者と彼らを圧殺する国や行政とい う言い方で水俣を語ることはできないはずです。たとえ﹁あ の中で自分の家にいるように感じることを私は望みません﹂ しています。たとえば次のように言います。 の方たち﹂が指示性ではなく 、 ﹁祈るべき天とおもえど天の ﹁その中に消えてゆくということは、その一部分となること う図式にだけはなりません 。 ﹁あの方たち﹂とはだれのこと 病む﹂水俣の象徴的な喩だとしても、言葉にゆるみがありま ではなく、すべてのものと融合することができるためには、 石牟礼道子においては、表現するということの核になるは す。彼女のこの発言は社会と本質的に抵触することがないか 彼女は水俣の自然と風土、そしてその中で生きる人々を森 ずの個︵人間︶ははじめから森羅万象の一部であるという感 いかなるものの一部分ともならない、ということを暗に意味 羅万象というおおきなものの一部としてとらえ、その視点か 受があります。そのことが彼女の表現にある固有性を与えて らウケはいいと思います。そのことによって読者は慰撫され ら物語を紡いでいます。もちろん彼女自身もそのなかで生き いるのです。つまり、彼女は自身を器にし、そこに彼女の目 しているからです﹂ ︵﹃神を待ちのぞむ﹄田辺保・杉山毅訳︶ ています。そのような彼女の感受の源は生の鋳型とでもいう を通して見た美しい人間と風土と歴史を注ぎ込み、共同性の るのです。 べき天与の資質であり、さらに水俣病との出会いを経て、深 として再生させるのです。その結果、個人と共同性の間にあ もつ凶暴さや醜さをふるいにかけ、削ぎ落とし、美しい物語 しかし一方で彼女は表現者であり、その事態︵自然・風土 、の 、ど 、ち 、ら 、も 、曖 、昧 、な 、ま 、ま 、人間は森羅万象 る問題は回避され、そ く彼女のなかに根を下ろしていったと想像されます。 ・人々︶をあるがままではなく、彼女の中を通過させること という無限の宇宙の中でちいさな草木虫魚となって漂い始め この世界観の中では、個人としての人間、有限な存在とし ることになります。 によって再構築しているということを忘れてはなりません。 その過程において自然や風土、そのなかで暮らす人々、その 歴史といったようなもはすべて内面化され、分離不能なほど 「第二ステージ」論 箚記Ⅱ 131 のもの、そのような存在として自分を認識するというその認 を消し去ります。彼女自身を含めたそのような存在の仕方そ 的思考は自然への融即によって生の不全感や欠損感や空虚感 るほかにニヒリズムを克服する表現論をもちませんが、東洋 トバデハヒョウゲンデキナイ。それにもかかわらず、ほかな じぶんの部落体験を語っているのです。ソレハニンゲンノコ 脱落します。動詞だけが支配する世界が出現します。ぼくは の絶対の危機に直面するとき、まず形容詞が、続いて主体が つまり、こういうことです。世界に亀裂が入って修復不能 言いたいのです。自存と共同存在のあいだのそり返りを解き 識の方法は、ひとつ間違えれば連綿と続くわたしたちの歴史 らぬ﹁おれ﹂は、 ﹁おれは人間ではなく︿おれ﹀ ﹂であること てのわたし、代替のきかない当事者性、そのようなものは無 を結局はすべてあるがままにしか扱えなくなるという危機を を引きうけるしかないのです。生きるということは不断にこ ほぐし合一することが、なぜいま人類史かを問うことに等し はらんでいるのではないかと思います。個と共同性のあいだ の危機に直面するということです。ここではじめて思弁では 限にちいさなものとしてしか存在しません。人間を物の秩序 の矛盾・対立・背反はいつの間にか消えてしまうのです。そ く、それは共同幻想の彼方を構想することであり、同一性か れこそが東洋的無という境地です。 ない剥きだしになった超越に遭遇するのです。とも鳴りする 、の 、ち 、のつながりのなかで生かされている人間ということで い の狭間に位置するものにすぎないとして人間の終焉を宣明し ヴェイユが言うように、安定は共同体への融合であり、そ この事態を言いあらわすことはできません。ありえたけれど ら発せられる内面をひらくことに重なるのです。禁止と侵犯 の一部分になることによって生まれてきます。石牟礼道子の もついになかった存在の彼方を現にあらしめるほかに主体の に閉じられたぼくたちの生をかたどる大地の余儀なさを、 ︿在 物語のなかに共通している、清らかに美しく生きた人々への 回復はできないのです。ぼくは体験の特異性からこの感受が たフーコーの思想を西欧的思考の極北とすれば、石牟礼道子 哀しみに満ちた挽歌のなかに、諦めとひきかえに安息を手に 来るのではないと思います。生きるということは一般化も共 の﹁とも鳴り﹂の世界は東洋的思考の極北であると言えます。 することへのささやかな弁明が入り込む可能性があるような 同化もできません。ただそのようにしかありえないというこ る﹀の根底において拡張するほかに人類の前史を終わらせる 気がしてなりません。彼女を貶めたいのではありません。な とにおいて固有なのです。生の固有性はこのほかではないと 人間が秩序の影にすぎぬなら生は空虚なものであり、そこに ぜ世界がこうでしかありえないのか。なぜ天地生存は社会生 思います。それがどんなにささやかなものであっても、です。 ことはできません。 存へと引き裂かれるのか。彼女の比類ない文学の達成もまた 同一性の支配するこの世界のどこにも身を置く場所がないこ 人間の意志は関与できません。西欧的思考は神を仲立ちとす 同一性が縁取った内面という観念の球体に閉じられていると 132 とによってある個人が手にした普遍性のことです。そこにこ は人間という普遍的な存在ではなく、彼方から襲来されるこ 理や個人倫理は消滅します。ヴェイユの匿名の領域にあるの と聖なるもの﹂杉山毅訳 ︶ 。この匿名の領域において社会倫 をもたない﹂ ︵ヴェイユ﹃ロンドン論集と最後の手紙﹄ ﹁人格 は第一級のものがおかれている。それらのものは本質的に名 深淵でもって距てられた、もうひとつの領域があり、そこに この領域を越えて、はるかかなたに、この領域とはひとつの って生きのびる、というある領域を構成している。しかし、 果が実を結び、それによっていくつかの名前が数千年にわた すぎない科学、芸術、文学、哲学は、華やかな、輝かしい結 おいてひらきます 。 ﹁人格の表出のさまざまの形式であるに 女はなくそうとしてなくせない苦しみの根底を匿名の領域に のでも、まして個人倫理を語っているのでもありません。彼 ︵﹃重力と恩寵﹄渡辺訳︶ 。ヴェイユは社会倫理を語っている うとしてなくせないもの。それを普遍的なものにすること﹂ く そ う と し て な く せ な い 根 底 である ︿ わ た し ﹀ 、 このなくそ ヴ ェ イ ユ の 次 の 言 葉 がなじみます 。 ﹁わたしの苦しみのな て内包社会としてあらわれます。 二者であり、じかに性である分有者の連結は内包自然によっ 性︵根源の一人称︶の一対の分有者はそれぞれが一者にして 罠に制約された思考の慣性なのです。内包存在という根源の おいて自己や性や社会を語っています。これこそが同一性の に性なのです。歴史の制約としてぼくたちはまだ往相廻向に 、か 、 して拡張されたものと言い得ます。そしてこのとき個はじ ります。この事態を還相の過程の個と呼べば、往相の個に対 られることによって、往相の過程の個では語りえぬものとな 相廻向としては個から出発するのですが、逆に普遍性によぎ いあらわしえないのです。ある個人が手にした普遍性は、往 個ということでも、個が外延された共同体ということでも言 めとられています。ありえたけれどもなかった存在の彼方は、 せん。共同化するとき、そのあらわれは必ず同一性の罠に絡 の考えの眼目ですが、個人が手にした普遍性は共同化できま されます。それはぼくにとって既知の風景です。ここがぼく として赦しが訪れるのです。人びとはそのことによって慰撫 そして同一性という思考の咎を剔抉する困難を迂回する代償 いだの軋轢を回避し、結局、共同体への回帰に終わります。 のちのつながりにおいて実体化する思想は、個と共同性のあ いずれにしても文字以前の世界に生きる前近代の民を、い そヒトが人となった由縁があります。それは存在するとは別 残り時間はあとわずかなのに、とりあえずこれだけは書こ とへの名づけようもなく名をもたぬ渇望の表明です。 の仕方で、人であることに内包されてもともとあるものです。 、れ 、がどういうことであるのか味わいつくすほどヴェイユは そ るということはどういうことかについてあと少し言います。 うとおもっていることからどんどんずれていきます。つなが とが可能です。若くして逝ったヴェイユの未成をぼくは、神 毎日新聞一九九七年五月十四日号に村上春樹のインタビュー 長くは生きませんでした。ヴェイユの思想はまだ絞り込むこ 仏ではなく、恋愛の彼方としてことばにしつつあります。 「第二ステージ」論 箚記Ⅱ 133 グラウンド﹄よりアンダーワールドのほうがずっとずっと好 ド﹄ ︵読んでいません︶についてです。もちろん﹃アンダー が載っています。オウム事件を取材した﹃アンダーグラウン うなことに違いありません。人間はまだいちどもこういうこ 輾転反側⋮。言った途端、その途方もなさに顔が青ざめるよ ﹁共同幻想を超えて﹂とはどういうことか。自問、煩悶、 なんですよ。人の心をかき立てて、実際に被害者と同じ立場 る。そういうふうに感情をかき立てるのが結局小説家の仕事 こととしてひしひしと感じましたという手紙がいっぱい来て ﹁はじめてこういうことだったのかと分かりました、自分の した。それはちがうぜ、という感じなのです。彼は言います。 このインタビューで村上春樹が喋っていることが気がかりで 万部。読者から電子メールや郵便で反響続々﹂とあります。 るときぼくは前者の立場に立っています。だから﹁共同幻想 ちらかしかありません 。 ﹁共同幻想を超えて﹂について考え いう概念はまるごとうけいれるか、まるごと拒絶するかのど の型に就くかぎり逃れえぬ観念です。したがって共同幻想と や心情でどうかできるものではありません。人間がある思考 いということです。良いも悪いもないのです。個々人の主観 、く 、く 、る 、とかつ 、ら 、な 、い 、とかそういった概念ではな 共同幻想はつ てべらぼうなことなのです。思い違いをしてはならないのは、 とを考えたことがないのです。ほんと、いや、まったくもっ に身を置いて感じてもらうことが、僕にとっていちばん大事 を超えて﹂は、マルクスの経済論 ( の) 対蹠的なところに構 きです。わかるかなあ。記事では売れ行き好調で、 ﹁現在 だったんです﹂ 。 別の と こ ろ で ﹁ 読者 と の つ な が り を は じ め 27 ﹁共同幻想を超えて﹂を問うことは、内包論では同一性の 想された吉本隆明の幻想論の全領域を、総体として組み替え つながりを感じています。ぼくは人と人がつながる不思議は 彼方の可能性を問うことと同義のものとしてあります。同一 て感じた﹂という発言も読んでいる筈なんですが、思い出し こういうことではまるでないと思うのです。尻切れトンボに 性の 彼 方が 可 能な ら共同幻想 を経な い世 界が可 能なはずで ることを意図しています。 なりましたが、そのことだけは言いたいと思います。自分か 、の 、の 、世界、こ 、人類史から跳躍できないのはすでに理 たちがこ ちがいます 。 ︿ある﹀がそういうものであるかぎり、わたし とか︿風が吹く﹀という非人称の世界を現前させることとは めざすものは︿ある=存在する﹀の原義をなす、 ︿雨が降る﹀ の権力であり国家の源泉なのです。もちろん同一性の彼方が 世界は可能かという問いでもあるのです。三人称こそが始源 す。別の言い方もできます。つまりこの問いは三人称のない 1 同一性の彼方 きます。 ら取りあげていて言うのもなんですが、お先に御免、先に行 ません。だからこの記事に限定しますが、彼は読者の反響に *2 134 念の問題ですらなくたんなる事実にすぎません。 の本態に迫るために一見迂遠に見える出来事から接近してい うなるのです。そういう考えをつくりたいのにじぶんのナメ 包越する内包思想では、ほおっておいても事態は否応なくそ 革まるほかありません。意志論を横超した親鸞の他力思想も 、の 、ず 、と てくるはずです。国家と市民社会も、貨幣の形態もお 史の幕を閉じ、そこからあらたな文明がむくっと身をもたげ 性の彼方を概念としてきちんと表現できるなら、人類史は前 一気呵成にその概念を記述することはできませんが、同一 じでべらぼうなことをやろうとしているのです。 は電脳社会の只中に火焔の曼珠沙華を咲かせたいのです。ま めき匂い立つ世界を言葉の力で現成させるのです。ぼくたち 的なものは現実的だからです。現実を否定するのではなく色 いからです。思考が革命されるなら現実は変わります。理性 です。同一性の彼方にひろがる世界では共同幻想が成立しな 、べ 、き 、だ 、とみなす︵吉本隆明はそう考えた︶までもないの 滅す うとしているのは彼らの思想が陰伏した同一性の起源なので そしてそのことはいつも不問に付されています。いま考えよ た同一性の雛形がそこに埋め込まれているように思えます。 体系として創られてはいますが、結局のところ無限小になっ 大な知見があります。意識がエスや元型に淵源をもつような の圏域からさまざまな解釈や説明が試みられてきました。膨 だと考えてみます。この心的現象はフロイドの圏域やユング が病としてあらわれる源泉があるのではないでしょうか。 、る 、から乖離した心のあらわれが異常と呼ばれている事態 在 る﹀の不可解さにぼくたちの奇妙な生があり、そこにこそ心 ているのではないかと考えているからです。謎に満ちた︿あ るときいつも感じる疑問です。心の病は存在論の謎と直結し るようなことでしょうか。精神医学の巨人たちの著作をたど 心を病むという出来事は、はたして精神医学の範疇におさま 心を病むということはなにを意味しているのでしょうか。 きます。 クジの思考速度にじりじりしながら、それでもめげずに虎視 す。 もし三人称のない世界が可能なら、あらゆる共同幻想は消 眈々としてその可能性を狙っています。 だから幻聴や幻覚、考想察知や操り体験に隠された意味を は自 己の 自己性 の不 立を心 の病 の本 態だと 考えることしま 求めるのではなく、むしろ自己という自明性の喪失、あるい 同一性の彼方を感得することは︿ある﹀の彼方を語ること 、己 、と 、い 、う 、自 、明 、さ 、 す。そうすると正常と異常をわかつものが自 2 であり、自己同一性の特異点をひらくことにひとしいと言え 、る 、ぎ 、な 、い 、ことなのかという疑問が 点となる自己はそれほどゆ を根拠にしてつくられていることがわかります。はたして定 なにより︿ある﹀の謎。謎を同一性で刻むかぎり意識は必ず 、る 、の謎 湧いてきます。どこからどう考えても精神医学は、在 ます 。 ︿ある﹀の不思議 。 ︿ あ る ﹀ の 驚異 。 ︿ある﹀の戦慄。 空洞問題にゆきつきます。ニヒリズムです。空虚であること 「第二ステージ」論 箚記Ⅱ 135 めくってみせていることにあるのではないでしょうか。自己 は、むしろ自己という概念が狭すぎるということを裏側から す。自己の不在を不安や恐怖という症状で訴えることの真意 かに制約を有しているからではないかと思えてならないので 、と 、も 、と 、この自己という概念がどこ らわれるということは、も ます。心を病む者にとって自己の確立が困難なものとしてあ という自明性を復元しようと試みることが治療行為だとされ もっともあらわなかたちで出現します。いずれにしても自己 ところで、自己が自明でないということは心の病において らわれはひとつの結び目にすぎないのではないでしょうか。 いえない事実だと思われます。そうではなくて自己というあ なりません。彼ら観察する理性にとって自己という観念は疑 場しのぎのこととして抱えこんでいるだけのような気がして の解釈をやりたいのではありません。内包論に拠って存在論 よいと思います。もちろん好事家のふりをして通り一遍の心 などなにほどのこともありません。そのことだけは信じても 未知の世界です。心のこういうありように懼れをもたぬ学問 、な 、が 、り 、の 、う 、ち 、に 、共 、に 、生 、き 、ら 、れ 、る 、広大な 析の対象ではなく、つ に驚きをもたぬ者らの合理性などとるにたりません。心は分 よって解明できぬことは先験的なことに属します。このこと かです。心を科学が基礎づけることはあっても、心が科学に ︵脳の回路︶のしくみに一意的には還元できぬことはあきら すれば言いうるようなことで、ただならぬ心の挙動が、身体 んなものは、結果論として、また病歴の結果としてのみ強弁 を脳の回路や脳内の代謝異常にもとめています。もちろんそ ません。また現在の主流である生物学的精神医学はその原因 ぼくたちの知るところでは深く病んだ心は容易には緩解し 問いや逆説を孕んでいると思えてなりません。 という現象の根幹をなす内包存在を分有する潜勢力が、自己 を拡張したいのです。 や自己についての原理を究尽せずに、臨床という現場をその という器が狭すぎると同一性に告げる悲鳴が不安や恐怖とし てあらわれているのだと思います。 ︿ある﹀の彼方、 ︿ある﹀ き、心は空虚としてあらわれます。いずれも生の不全感の諸 の可能性として生きられているのです。そこまで行かないと 通れない、人類史をたどるように生涯を生きていると感じさ 内包論から同一性の彼方の輪郭を描こうとするとき、避けて ぼくは同一性の起源は内包存在にあると考えてきました。 3 相です。科学は半端な妄想によって合理という名の下に便宜 せる苛烈な本があります。著者ドナ・ウィリアムズはその本 とは別の仕方の包越が、ひっくり返り、制約されて︿ある﹀ 的な線引きをしているだけです。心の病という事態と空虚は ﹁切り立った崖の上で、わたしは自問する/・・・/﹁ゼ に書きつけています。 考えた人はいません。精神医学や精神分析は正常な自己とい ロよりはるかに下﹂の深みでしか、生きられなかった過去の べつものではありません。ぼくの知るかぎりこういうことを うところでつまずいていると思います。このことは恐ろしい 136 ために﹂ ﹁わたしは書いた、自分が正気を失わないように﹂ ﹁自 で彼 女の 叫 びや 驚き や戸惑 いが 見えてきて 感銘 を受けまし だ﹂と思うのです。ありがとうもさようならも言わないで、 た。母親から﹁お前は宇宙人だよ、地球の人間じゃないね﹂ ぼくはこの本を﹁自閉症﹂という生をうけた一人の女性が ただ、黙って母親の前から去った、そのドナが、 ﹁属する﹂ 、 己というものを、自分で感じ、自分でつかみ続けていること。 ある︿根源的な感情﹀を通じて、意識すると否とにかかわら ﹁わかち合う﹂ 、 ﹁いとおしさ﹂という感情を発見していく過 と言われて、ドナは﹁だがこの人は、一体誰なのだろう。ま ずぼくたち一人ひとりがいつもすでにその上に立っている世 程はすさまじく感動的です。個体発生は系統発生を繰り返す しかしわたしたちは、自分の中に自己というものがあること 界のもっともシンプルな熱をみずから手に取り、ひとである と語ったヘッケルに模すまでもなく、人間にとっての︿根源 るで、たくさんのピースがなくなったジグソーパズルのよう ことの原義を発見していくこころの成長物語として読みまし 的な感情﹀をつかんで激烈なパニックに襲われたドナの体験 を、必ずしも初めから知っているわけではないのである﹂ た。 年前のことです。ドナの﹃こころという名の贈り物﹄ は衝撃でした。ドナの﹁わたしは人に属する﹂ ﹁わかち合う﹂ は、人間の由来や存在のあり方に関してふかい示唆をふくん ドナは彼女のそれまでの生涯において人類史を体験したの でいます。 と思えたのです。いまでもその驚きを憶えています。 ういう心映えで生きていたのか、性という根源の感情によぎ 惹きつけ共感を誘います。注意深く読むと、原初の人類がど アンと出会い、感情を発見するまでの壮絶な生は読むものを たしは、まるで目の不自由な人が﹃見る﹄ということばを使 といった単語と同じようなものにすぎなかった﹂ ﹁だからわ じる﹄も、わたしにとっては﹃それ﹄とか﹃の﹄とか﹃で﹄ いう名の特殊な物体だったとドナは言います。 ﹁ ﹃知る﹄も﹃感 だと思います。物たちは意志の力を持っており、人は、人と られたときの激烈な情動がどういうものであったか、リアル い、耳の不自由な人が﹃聞く﹄ということばを使うように﹃知 る﹄とか﹃感じる﹄ということばを使うようになった﹂と述 あるときドナは 、 ﹁物は感覚も知識もない死んだもの﹂と 懐しています。 半ばでじぶんが﹁自閉症﹂だったということを知ります。第 く、物たちに見捨てられた、ものの死骸でいっぱいの世界に いうことを発見します。そのとき﹁わたしは人たちにではな 感じて、書かれていることに半信半疑でした。話の筋が見え 生きている﹂と考えます。ドナの﹁わたしの世界﹂が根底か 一作の﹃自閉症だったわたしへ﹄にはどこかうさんくささを 知的な障害はないのに対人関係を欠落したドナは、二十代 知見がこの本のなかにちりばめられています。 に感じることができるのです。人間の由縁についての豊富な 歳でじぶんが﹁自閉症﹂だったことに気づき、 歳でイ 27 という︿ことば=感情﹀は、ぼくの内包という概念と重なる 5 なかったのです。しかし二作目の﹃こころという名の贈り物﹄ 「第二ステージ」論 箚記Ⅱ 137 25 ます。 に一人佇むのです。小さな余震が絶えずドナをゆさぶり続け 場所を捜しているひとつの文化﹂のように、寄る辺ない世界 得するのです。そうやってドナはまるで﹁これから発生する 家具たちはわたしを囲んでいてくれたわけではないのだと感 していたわけではない、わたしは彼らを信頼していたのに、 わたしにやすらぎをくれていた﹂のに、木の葉たちはダンス も考えたり感じたりせずに、ただわたしと一緒にいてくれて、 らくつがえされます。それまで﹁物たちは、複雑なことは何 息を吸い、一定のリズムで深呼吸を続ける。なんとかわたし ﹃息をして ﹄ 。合い間に、ふと声が聞こえた。わたしは深く ゆくことができず、押し戻されて爆発し、心の中で反響する。 悲鳴でのどが張り裂けそうになるが、叫びは決して外へ出て ついに﹃大波﹄がぶつかってくる。何度も、何度も、何度も。 するかのように、収縮する。やっとその収縮がおさまると、 中の筋肉という筋肉が、わたしの命を絞り出してしまおうと キーをたたいているタイピストのような音をたてて鳴る。体 のビルのように、ぐらぐらと震え出す。歯は、猛烈な勢いで くらしの地所の四隅に図像文字を刻んだ青銅の呪器を埋めた ﹃野性の思考﹄や白川静の著作のことが浮かんできました。 、情 、だったのだ。そしてそれは、う 体は、このあふれ出した感 くるという、身も凍るような、泣き叫びたいほどの発作の正 ﹁真っ暗な底なしの無の世界の主が、わたしを連れ去りに は、襲撃をしのいだのだ﹂ り、道を歩くとき首をぶら下げ結界を張り、未明の時代をお れしさから怒りまでのあらゆる感情によって、引き起こされ このメモを書き継ぎながらしきりにレヴィ・ストロースの ののき生きた太古のひとびとの面貌を空想のうちで思いやる ドナの身も凍るようなパニックはおそらく人類史の初期を ていたのだ﹂ いう疑念がよぎります。物たちと逍遥遊しながら喰い寝て念 生きたひとびとが体験したことに違いありません。自然と戯 とき、文化人類学は巨大な錯誤を犯しているのではないかと じ、おのずと物たちと死別し、みずから物たちのあいだに挟 れていた太古の面々に感情ということばが、ことばという感 ドナの生涯にとっての、人類にとっての大いなる一歩が踏み まって生きるありようは、歴史としても人間の現存性として やがてドナは決定的な出来事に襲来されます。 、に 、属 、し 、て 、い 、る 、 だされました。そしてついにドナはじぶんが人 情が宿った瞬間に比喩されていいかと思います。ついにドナ ﹁首筋に、寒気が走り始めた。わたしは紙とクレヨンをつ ことを発見します。感情の発見から﹁帰属感﹂までは一瞬で もほんとうはまだすこしも表現されていないのではないか、 かんだ。全身をつかまれてしまう前に、わたしは急いで紙に した。感動的なクライマックスです。そしてその発見は同時 に、未明のひとびとに 、 ︿つながり﹀が自覚されたのです。 書く 。 ﹃大丈夫、わたしは戻ってこられる。大丈夫、わたし 、け 、持 、つ 、ことの発見でした。 に分 そんな気がします。 は戻 っ て こ ら れ る 。 大 丈 夫 ⋮ ⋮ ﹄ 。体は、まるで大地震の時 138 人は、胸がいっぱいになった時に、人を抱きしめるのです﹂ しを抱きしめようとするかが、わたしにはもうわかるのです。 までいっぱいになってきてしまいます 。 ・・・ 人 が な ぜ わ た ﹁人が胸をいっぱいにしているのを感じると、こちらの胸 まいなところがあります。ドナがイアンに、イアンがドナに 琴線に触れるところです。ドナの言う特別な絆にはまだあい のものではありません。ここは内包論の要であり内包存在の 感じる特別な絆と内包存在はかなり重なりますが内包存在そ を﹁﹃特別な絆﹄を感じる人﹂と言います。イアンがドナに ドナにとって生きられる世界がこの先もはるかであるよう ﹁ あ あ、 二 十 七 年 、 二 十 七 年 も か か っ て し ま っ た ﹂ ﹁わたし ﹁﹃きみに会えてよかった﹄イアンは言った。/﹃きみを抱 に、ぼくにとってもはるかなこととしてあります。ぼくはこ 属していて、そのことは互いの自己を分かち合う特別な絆だ きしめることができたら⋮ ﹄ ・・・﹃何て言ったの? ﹄ ﹃きみ の先にひらけてくるはずの世界についてながいあいだ考えま は全世界が自分に向かって開かれたような気がした。わたし を抱きしめることができたら﹄イアンは目をまっすぐ向けた した。わたしがあなたであるということを突きぬけたところ とドナは言います。むかしぼくが言った、わたしはあなたで まま、自分自身に言うようにして、もう一度静かにつぶやい 、い 、わ に、ほかならぬわたしであるにもかかわらずわたしでな の根は、新しい土の中に、しっかりと張った。わたしはその た。 ﹃わ た し も そ う し て ほ し い ﹄ / わ た し た ち は ど ち ら も 目 あるという情動に似ています。 をそらして相手の肩に手を伸ばし、相手の袖を軽くつかんだ。 、 たしや、ほかならぬあなたであるにもかかわらずあなたでな 、あなたがあるように思いはじめました。ただならぬものを い 根に﹃帰属感﹄という名をつけた﹂ 二人とも、泣いていた 。 ﹃ あるがまま﹄ でいられることを喜 感じました。西田幾太郎もレヴィナスもこの先には行ったこ とがない、ああ、おれは人間にとっての思考の未知をこじあ び合いながら﹂ ﹁一緒にいることで、互いに自分の感覚を失ってしまうの 嬉しかった﹂ 。イアンといると、 ﹁互いに相手に属している、 るよりもっと深い魂の場所であるような気がしています。 ︿あ そこはとても秘めやかな世界ですが、わたしがあなたであ けようとしているんだという生々しい実感がありました。 感じることができる ﹂ ﹁こここそ、わたしが属するところ。 る﹀の彼方の内包存在はそういう世界です。名づけようもな ではなく、一緒にいながらも互いの自己を分かち合うことが ほんとうの場所﹂ 世界のもっとも深いものより深い場所にドナは立ちます。 の 性 と い う 背中合 わせになった手 足8 本の 存在に 譬喩 され 、じ 、ま 、 く名をもたぬこの根源的な出来事︵大洋感情︶こそがは 、の 、こ 、と 、ば 、なのです。 り ︿初めに言葉ありき﹀の言葉は、根源 いいので語るのは余計なことです。でも胸いっぱい感じたう 、 る、存在するとは別の仕方そのものである内包存在という像 圧倒的に感動的な場面です。ぼくたちはただそれを感じれば えでやはり語ります。イアンへの手紙でドナはイアンのこと 「第二ステージ」論 箚記Ⅱ 139 、あ 、ら 、わ 、れ 、です。内包存在が共軛的 の ( に )くびれてひととい うかたちの自然に宿ったありようは、発出するとか弾けると しかし、この結びつきを分けもつことにおいて分有者は、つ しています。自己と他者が︹一︺において不一不異であり、 神︵仏︶の彼方の内包存在。それは像であり戦慄です。かつ 仏という観念でさえも、そのことを指し示すには不精確です。 、つ 、も 、、 と言葉は同一性の彼方に属しているのです。言葉は、い 、で 、に 、し 、て 、同一性の彼方なのです。神という観念でさえも、 す を︿初めに言葉ありき﹀と呼び慣わしてきたのです。もとも 関与的な出来事の驚異をかたどろうとして兆した思惟の燭光 方。はじめに内包存在という像があるのです。この荒々しい 考えることを生きようとしただれもが挑んだ︿ある﹀の彼 即することから身を引き剥がすときにはじめて同一なるもの 己同一性︶ということはけっして起こりえません。重なり融 融即することがなければ、あるものがそのものに等しい︵自 ことができるという驚き。つまり、あるものが他なるものと そこに人間の根柢があります。つながりから自己がでてくる よって分けもたれるのですが、しかしそのままに︹一︺です。 大洋感情が到来するのです。このつながりは二つの分有者に ながりと初めて不一不二なものとなり、分有者につながりの て︶おり、そのことにおいてつねに自己は自我を超えて存在 か、そういう言い方こそがふさわしいと思います。 て神々の時代があり、いま人間の時代があり、そして⋮。輪 への回帰が可能なものとして到来します。それが自己同一性 にもかかわらず、分有された自己のままに内包存在を生きる 廻転生でもなく、浄土でもなく、この世でもなく、この世で の本来の意味です。しかし事はそうかんたんではありません。 同から他への過ぎ越しに目を奪われて足元の同がおろそかに なるのです。西田幾太郎もレヴィナスもここをやり損ねまし としたドゥルーズの困難があります。彼は貫通できませんで 絆の世界です。分身を生きることで同から他へと過ぎ越そう 対関係の世界を意識の第二層とします。ドナが生きる特別な に属します ︶ 。わたしがあなたをわたしの分身として生きる 国家への融即となるのです。この意識の型は主観的にはどう されるようなことではありません。このあいまいさが自然や された潜勢力は、自己の中の絶対の他ということで言い尽く 盾的自己同一を叙述するのですが、同という内包存在の分有 西田は自己の中の絶対の他を手がかりに、自と他の絶対矛 た。 した。ぼくたちの知る哲学や思想、文学や芸術の大半はここ ︿ある﹀のざわめきを抱えつつ西欧哲学の辺境を生きたレ います。 であれ権力としてあらわれます。すでに歴史として体験して 個人や自己のなかにはつながりが内包されて︵うめこまれ あります。 までしか到達していません。同一性の彼方は意識の第三層に 世界を意識の第一層とします︵吉本隆明の幻想論はこの領域 わたしがほかならぬわたしとしてあなたと出会う対関係の のとします。 あってこの世でもない⋮。この世の革命を内包論は可能なも *3 140 ヴィナスは自我と自己を同一のものとみなすことが惹き起こ した地上の簒奪の歴史を撃つことに性急なあまり、自己に帰 ぼくはそこへ言葉でたどりつけるだろうか。 4 くやいなや自我は自我という言葉ではもはや語りえないので 我を包越しているのです。自我が起源に先立つものに結びつ 端的に存在の彼方であり、そのことにおいて自我はすでに自 は現実的には容認されます。自我の起源に先立つ結びつきは めて読むのだ。スイマセン。言葉というのは欲しいとき う6年も前に受け取ったこの本のこの章、実は今度はじ の最終章﹁大洋の像﹂を舌なめずりして読んでいる。も 連休前からGUAN!︵森崎茂︶の﹁内包表現論序説﹂ ﹁安全地帯﹂ この畏るべき問いへの導きの糸を偶然目にしました。友人 還 し な い 自我 の あ り方 を存在 の彼 方と い う言 葉で語 り ま し す。なぜこんな簡明なことを彼が見逃したのかわかりません。 しか入ってこない。欲しいときしか理解できない 。 ・・ の植木屋詩人鎌田さんがぼくの内包の性を、彼のホームペー 彼にとって︿ある﹀のざわめきがすでにしてイリヤだったと ・︵略︶ ・・・ ︵二〇〇一年五月一一日︶ ﹂ た。それは画期的なことでしたが、起源に先立って他者へと いうことでしょうか。いくつもの自我があるのではありませ ﹁キリンを見ませんでしたか﹂ 結びつけられている自我という概念にのこされたあいまいさ ん。同一性の謎は彼らにあっても剔抉されていません。ある よい天気。/いちにちGUAN!の点を開く領域のこと ジでいいタイミングで批評していたのです。それを﹁共同幻 ものがそのものに等しいことを自己相等︵自己同一︶といい を考えている 。 ︵﹁内包表現論﹂ ︶/自己同一性の貧血し が、他者の複数性をまえにしたとき 、 ﹁判断と正義﹂を要請 ますが、あるものを往相廻向とすれば、そのものは還相廻向 た外延論理を開く内包の像︵イメージ︶ 。/この像を﹁性﹂ 想を超えて﹂の糸口として考えてみます。 として、あるものに重なるのです。神秘です。そしてここに として捕らえることで、GUAN!は人間の概念の歴史 する矛盾に直面します。この思考の型では情報機関のモサド こそ意識の第三層があるのです。内包論がなしえたひとつの 落ちない。/点を開く領域、これがあることは直感でき を塗り替えようとしている。/しかし自分にはまだ腑に どんな国家であれ国家であるかぎり国家は必要な殺人を認 る。/線形的な外延論理を開く内包の像、これも理解で 達成だとぼくは考えています。 めます。吉本隆明の共同幻想論でもそうです。戦争であれ犯 分からない。/﹁性﹂とは何なのか。/GUAN!は、 きる。/しかし内包の像が果たして﹁性﹂なのか、よく とと、共同幻想のない世界はまったく違います。ぼくたちは はじめに﹁性﹂ありきという。/2が意識のはじまりで、 罪への刑罰であれ、です。共同幻想を消滅すべきと考えるこ 必要な殺人が人間にとっての不可避の枷だとは思いません。 「第二ステージ」論 箚記Ⅱ 141 らくる概念だ。線形的な論理を特徴とする。 ﹁1か0か﹂ らは﹁1がすべての出発点である﹂とみなしたところか じまる。/﹁私は私だ ﹂ ﹁考えている私は在る﹂⋮これ がすべての出発点である﹂としたことからその貧血がは が振り返った個体性﹂であるという出自を忘れて、 ﹁1 って、1、2、3⋮が出来たと。/外延論理は、この﹁2 2が振り返った個体性が1で、この振り返った1が集ま はない可能性の領域がある。/そこへゆきたい。/いや、 へゆく。/すくなくとも、社会や宗教やイデオロギーで か。/この領域は生きられる。/生きられるけれどどこ のあいだになる。/点が領域になる。/あ、/これが﹁性﹂ なのだった。/そしてオレはもうひとりの妻になる。そ ゃなく、/妻は妻のキリンを見ているもうひとりのオレ れる日々。/暮らしのあれこれ。/妻はオレのキリンじ 内包する性をめぐって鎌田さんが取りあげているこの箇所 /そこをここにしたい。/キリンを見ませんでしたか。 ある ﹂ 、と言い募った時、かすかに開く情動の匂いは何 は、 ﹃内包表現論序説﹄の最終章﹁起源論﹂の大洋の像のと のデジタルもこの論理のバリエーションだ。自己同一性。 だろう。/情動はどこからくるのか。/1の個体に振り ころを指しています。発表してから6年ほど経つので、その ︵二〇〇一年五月一三日︶ 返る前の2。/この2を主体といってもよいし、神とい 間に ぼ く も 少し だ け 考えが 進み ま し た。引 用の 文中に あ る 薔薇は薔薇である。/けれど﹁薔薇は薔薇であり薔薇で ってもよい。GUAN!は﹁性﹂と呼び﹁大洋感情﹂と ﹁点を開く領域、これがあることは直感できる。線形的な ﹁2﹂は当時考えあぐねて苦しまぎれに便宜的に使用したも オレのキリンなのか。/キリンじゃなければならないの 外延論理を開く内包の像、これも理解できる﹂と鎌田さんは 呼んだ。/オレは若年の詩のなかで﹁キリン﹂と呼んで か。/それともキリンは2の像ではなく、オレの1の像、 言い 、 ﹁しかし内包の像が果たして﹃性﹄なのか、よく分か ので、1、2、3の背後で閃く根源の出来事を意味していま 単なる自己幻想なのか。/妻は妻の2は何なのか。/オ らない﹂ 、そこは腑に落ちないと疑問を投げかけています。 いた。/大草原を悠々と走るキリンの像。/これはオレ レの2と重なるのか。/いま妻はオレの椅子の後ろで湯 鎌 田 さ ん が し き り に ﹁ 分 からない ﹂ ﹁腑に落ちない﹂とつぶ す。今なら自己に先立つ内包存在と言います。またそのあら 上がりの柔軟体操をしているけれども⋮。/それからい やくぼくの﹁性﹂というコトバは、だれよりじぶんじしんが の﹁性﹂なのか。/気持ちのいい父母未生の根拠。/そ まはオレの部分入歯の入ったコップの前で歯を磨いてい ぴったりしないのです 。 ﹁性﹂に代わることばをいつも探し われを︿根源の性﹀と呼びます。 るけれども。/明日のオレの弁当のために米を研いでく ています。でも、ピタッとくることばがないので、しかたな れじゃ、具体的な一人の他者は何なのか。/オレの妻は れているけれども。/なんだか分からない。/繰り返さ 142 同じものになってしまうという不思議のことを︿性﹀という たしでなくなり、あなたもあなたでなくなって、それなのに て、わたしがあなたの気分でいたら、なぜかわたしなのにわ 来事を内包存在と呼んでいるのです。意識のこちら側から見 ら、対幻想をはみだし、対幻想という概念では言い得ない出 くいまでも使っています。つまりぼくは対幻想と重なりなが じた︿神秘﹀とまったく逆なのですが、空間において切断さ だからだというのがレヴィナスの考えです。レヴィナスの感 断である、なぜなら、他者は光の啓示をもたらす空間の特性 ね。存在の他性は外在的なものでなく、他者という実存の切 概念はレヴィナスから借用している︶よりいい状態ですから や、柄谷行人の内面化しえない他者の絶対性︵おそらくこの に関与するもうひとりの私自身ではない ﹂ ︵﹃時間と他者 ﹄ ︶ れる他者がそのままに一心をなしうるということが︿神秘﹀ のです。 鎌田さんは、 ﹁それじゃ、具体的な一人の他者は何なのか。 はもうひとりの妻になる。そのあいだになる。/点が領域に リンを見ているもうひとりのオレなのだった。/そしてオレ なのか。/オレの2と重なるのか﹂と自問し、 ﹁妻は妻のキ 断できるのです。レヴィナスは意識の第一層から第二層を論 矛盾的同一をなすことです。レヴィナスの切断はもう一回切 非他者に反転し拡張されます。神秘は非自己と非他者が絶対 この︿神秘﹀にじかにふれると、自己は非自己に、他者は なのです。 なる。/あ、/これが﹁性﹂か。/この領域は生きられる﹂ じつつ意識の第三層に迫るというアクロバットをやっている /オ レの 妻 は オ レ の キ リ ン な の か ﹂ と か 、 ﹁妻は妻の2は何 と自答しています。ホットな彼の理解です。あたっていると ウケがいいですしね。ぼくはそれより、わたしがわたしを他 ように見えます。わたしとあなたは切断されているなんかは 鎌田さんがいちばん問いたいのは、 ﹁それじゃ、具体的な 者の分身として生きるという入り方の方がなじみます。ドナ 思います。 一人 の他 者 は 何 な の か ﹂ で あ り 、 ﹁妻は妻のキリンを見てい のように﹁特別な絆﹂からはいります。気分はA=Bです。 つまり、わたしがあなたであるというのは意識の外延論理 るもうひとりのオレなのだった﹂というところだと思います。 そこで、性の世界に入り口と出口があると比喩してみます。 から内包論理という驚異の世界にはいりつつあるその状態の 生存の形式としてはA=Aで、B=Bです。 ぼくが考えているのは小浜逸郎や竹田青嗣が好む、入口が恋 ことにほかならないのです。この性を往相の性と呼ぶことに ぼくはいま自分が考えていることからそれに答えてみます。 のはじまりで、出口が失恋とか、恋愛が終わったときに生活 れるのです。わたしがあなたであるというのは意識の外延性 します。内包と分有では生の内容はA=非Aとなってあらわ 意識の第二層からはいってみます。これって、レヴィナス をつきぬけるきっかけをなすだけで、けっして終着ではなく、 が始まるとか、そういうことではありません。 の﹁他者は、どんなかたちであれ、ある共通の実存に私と共 「第二ステージ」論 箚記Ⅱ 143 そこからやっと性の内包が始まるのです。ぼくは性のこのあ フは一貫しています。 るひずみを存在論の根柢においてひらくというぼくのモチー 二〇〇一年五月二六日 ( )精神という主格の劇を歴史と考えたヘーゲル。劇を展開する のが意識であり、絶対精神というたましいのうねりが、意識の種々 ︹注︺ りようを、始まりがあって終わりのない、ますます深くなる 渦と比喩してきました。クラインの壺のように出口が入り口 なのです。メビウスの環が平面だとしたら、それをもう一捻 りしたようなものです。自己と性の二重の転換が起こってい ます。内包と分有が新しい生の様式である由縁です。 意識は極相を相転移し、性はふたたびあちらから還相の出 来事としてあらわれるのです。分有は還相の性を可能としま す。それはわたしがあなたである世界よりはるかに深い世界 です。A=Bの気分で入っていったら、あら不思議、Aが非 Aとなり、Bが非Bに反転し、非A=非Bとなってあらわれ ます。根源の性というのはそういう事態のことです。ここで の形態を節目としながら実現するものを歴史だとヘーゲルは考えて います。精神は意識に宿り、自己と家族と国家というそれぞれの役 柄を演じます。精神のすまいとして自己意識を基点とするスタイル がとられています。意識という形式に精神が宿り、意識が自己意識 によぎられていくその運動が、理性的なものは現実的であり、現実 言い、まるで祝詞ですね。実況中継をしますと、現在、二〇 一性原理は破れているのです。即ち同一性の彼方! この物 造に位相差を導き、自己観念と共同観念を逆立するとみなし、そこ 対精神は偉大なゲルマン共同体に向かい、吉本隆明は観念の三層構 はヘーゲルの精神を三層の観念に振り分けたのです。ヘーゲルの絶 ヘーゲルの絶対精神は吉本隆明の全幻想領域に対応し、吉本隆明 的なものは理性的であるという彼の精神現象学です。 〇一年五月二六日午前三時二〇分。疲れています。頑張って に意志論を挟み込みました。 ( )レヴィナスのいうように文明が存在了解から派生したとすれ ば、人類があるひとつの存在の仕方を選び取った延長上に資本制貨 幣経済があるということです。商品は自己に比喩されますから、商 いつもやってたら身体が壊れます。荒行で身も心もよれよれ してみて、これがぼくの暮らしぶりの限界です。こんなこと 土論もはやく書きたいと考えています。いずれの領域も内包存在論 います。以前から内包経済論として構想していた領域です。内包浄 どうしても出てきます。商品の存在論的な表現を内包論から考えて 品 ð 貨幣 ð 資本という経済的範疇の表現は、あらためて価値形態 論の背後の思想を問うことになります。商品の存在論という領域が です。このノートでも当事者性に徹し、そのことが引き寄せ こうさぼりましたが︶十日間でどれだけ文章が書けるか挑戦 時間切れにて、未了。生業の鍼灸の仕事をしながら︵けっ ぶつん。 ,。 ·:*:·☆ ︰⋮・・・ ゚' ,。 ·:*:· 掛けすぎたからですかね、左足の小指の感覚がありません。 います。勝手にニルヴァーナが鳴っています。椅子に長く腰 同一律はかろうじて形式を保存するだけで、実際はすでに同 *1 *2 144 マルクスの﹃経済学・哲学草稿﹄にある﹁人間の自然本性﹂は関 が要になります。 係的存在のことだとぼくは理解しています。この関係的存在をマル クスは時代の要請から社会化してしまったのだと思います。資本論 のハイライトの使用価値と交換価値の交点に価値を見いだす価値形 態論も﹁人間の自然本性﹂を矮小化したところで1の哲学の経済的 理念化として表現されました。価値形態論の内包化というだれも手 をつけたことのない領域があります。真のマルクスがあるわけでは なく、マルクスの方法的制約が問題なのだとおもいます。マルクス の経済論に対して幻想論を対置した吉本隆明の思想が窮屈なのはマ ルクスの思想の負債だと思います。利己主義の総体が利己主義と衝 突するのは矛盾でも背反でも逆立でもなく自然です。マルクスが考 えた人間の自然本性をぼくは内包存在として拡張しつつあります。 マルクスの﹁人間の自然本性﹂が関係的存在のことだとしたら、 マルクスはその関係的存在をそのまま﹃資本論﹄の価値形態論にも っていくことができなかったのです。何が捨象されたのでしょうか。 つまり自己同一性は特異点をつくったまま貨幣論に転化されたわけ です。同じことは人間の内面がつくる空洞問題という特異点にも言 えます。自己のつくりかたに制約があるから、心残りとして他者へ )内包存在が共軛的にくびれて分有されたものを自己と呼びま の配慮が起こるのです。逆立や第三者問題はここに起源をもちます。 ( a a − すが、共軛について説明すると、複素数の︵ + bi ︶と︵ ︶ bi は互いに共軛です。凸レンズの左にA点があり、A点を通った光が レンズを通過して右側にB点という像を結ぶとき、この凸レンズが 内包に比喩されてもいいと思います。凸レンズをはさんでA点とB 点は互いに共軛の関係にあります。気分としてはそういう感じです。 「第二ステージ」論 箚記Ⅱ 145 *3 146 ﹁幻想としての性の境界線﹂考 147 「幻想としての性の境界線」考 わたしがこの論考を最初に読んだのは二〇〇一年八月、小浜温泉でだった。ひどく暑い夏の夜で、しかも、その場にいた旧知の人 たちのなかではかなり厳しく熱い議論がかわされていた。さらに、すぐ目の前で開催されていた花火大会の打ち上げ花火が、窓越し に見える真夏の夜空いっぱいにひろがり、そのたびに赤や青やオレンジ色の光が部屋の中まで射し込んできて、熱気を増幅させてい た。とにかくある意味で情熱的な一夜だったことはたしかだ。 その年の五月に故松永幸治さんの追悼集会が開かれていた。その過程で噴出していたいくつかの課題をめぐっての反省会をかねて いた小浜での集まりの場で、この論考が発表されたことは、森崎さんの意図を越えて、結果的に追悼集会の実行委員会に参加した人 たちとその関係の在り方にある影響を与えたと、わたしは考えている。そのことの意味について考えるということが、 ﹁孤立﹂でも﹁群 れ﹂でもない、ささやかで深いつながりを模索しているわたしたちひとりひとりの関係のあり方の行方にとって大切なことだという 安部さんはこれまでに書かれた論考のなかでセクシュアリティをめぐるいくつかの課題を基点として、ひとつの世界認識の方法を 気がしている。 つくろうとし、その考えを提出している。いわゆる安部幻想論といってもいいものである。しかし、ささやかな普遍性を手にするた めに書き続けられている世界認識の方法論がセクシュアリティの問題というせまい領域として線引きされ、 ﹁該当者性﹂に閉じこめら れるというようなことになるとしたら、世界や現実はなにも変わらないということになる。森崎さんが﹁安部文範さんの世界﹂を書 いたとき、おそらくそのことに対する危機感があったのではないかと想像する。そして、このようにして書き始められた論考が後半 の部分で、わたしたちにとっては未知の世界の感じ方へと展開しはじめる。安部さんのセクシュアリティを基点とする幻想論を受け た形で書かれることによって、もともと森崎さん自身が長年書き続けている内包存在論のかなめであった︿性﹀という概念がさらに 深化し広がってゆくのである。 かれはこのように述べている。まず、 ﹁内包は、 ﹃自分﹄とか﹃私﹄が分割不能の定点︵質点︶ではなくて、ある出来事の事後的な あらわれだとする思想です。内包存在を分有するあり方を分有者と名づければ、分有者は性別の彼方の︿性﹀ではないのか﹂という 前提にたち、さらに次のように深められていく。 ﹁内包存在と分有の世界では、わたしがあなたと出会って性の世界をつくるのではあ りません。わたしが、そしてあなたが、じかに︿性﹀なのです。分有者は男や女ですらありえません。 ︵中略︶内包と分有においては、 ︿わたし﹀という一人称がいきなり︿性﹀なのです。 ︵中略︶男と女という性別の背後からの根源の一閃によって性が可能となる、そ そして、次のような広がりをみせる。 ﹁従って内包と分有には、自己を一個の他者として生きるという自同律の不快も、離群の衝動 ういう事態のことです﹂ 。 もなければ、群への希求も存在しません。性も社会も共同性も同一性原理から派生した概念であり、内包原理とは少しずつずれてい るのです﹂ 。 このように内包存在という考えは、性も社会も共同性をも包み込み拡張することができる地平へとその歩をすすめていく。つまり すべての考えに共通して、その根底にある自己同一性を拡張することによって、それが可能となると主張するのである。 148 気の遠くなるような長い日々をかけて、縺れた糸をほどくようにして、個と共同性をめぐる矛盾、対の問題、そしてわたしとはい ったい何者なのかという根源的な問い、そのようないくつもの難題にとりくんできた森崎さんのひとつの達成点だといえる。 この論考は言葉でできているふるいのようなものだとわたしは勝手に考えている。 ︿わたし﹀の外側にあるものをきれいにふるい落 としてくれて、 ︿わたし﹀とは何者であったのかを︿わたし﹀にわからせてくれる、そのようなものとして読むことができるからだ。 あの暑い夏の夜に、小浜温泉に集まったわたしたちひとりひとりはふるいの網の目を通過して、あたらしい関係のあり方を模索しは じめたのだとおもう。 いま安部さんと森崎さんはそれぞれの﹁当事者性﹂に拠って、まったくの一人で誰とも違う自分の固有の道をきりひらこうとして いる。それは彼方にある︿どこか﹀を目指すということではない。そうではなくて、いまここ、いま自分が立っているあしもとにあ るここを︿どこか﹀にするのだという過激な夢を手放さないということなのである。このふたりの湧き出てくるように見える言葉の 源泉はそこにあるのだとおもう。 ︵萩原︶ はなりません。意識と性をめぐる根深い思考の慣性をひらく する貨幣という形態も、新しい生の様式をめざして一気にぐ はじめに 熱でぱちぱちはぜるまっさらな性があります。このリアル るんと転回します。そういう様々なおもいを安部さんの文章 ことができれば、国家と市民社会という制度も、制度を循環 を言葉にしたくて内包表現論や内包存在論を書き継いできま は誘発します。 あ る そこで、安部幻想論の世界についての感想を書こうと思い した。存在に︿性﹀が先立つとすれば、男女という性別はど う見えてくるのだろうか。人々は存在に先立つ︿性﹀を、な 号、﹃休会のお知ら 論考に潜んでいます。これらの疑念を意識にとって先験的な ろうか。そういういくつもの疑問を解く鍵が安部文範さんの 起点として、しかるのちに男や女という観念をつくったのだ いありました。こんなことがあっていいのかという信じがた 釈するのではなく、この世を生きようとすることばがいっぱ ゆっくり読み通して驚嘆することしきり。そこには世界を解 せ﹄ 、 ﹃旅行の前に﹄をあらためてじっくり読み返しました。 ∼ ものとみなして切り捨てるのではなく、拡張することで包越 い感じがしました。いまぼくたちのまわりに溢れているのは 立ち 、この 数日 ﹃水 平 塾 ノート ﹄ できることがあるとかんがえています 。 ︿在る﹀を 制約する 解釈のための解釈のことばです。ことばになんの色気も迫力 ぜ︿わたし﹀と名づけなかったのだろうか。なぜ自己意識を 意識の範型が性の自認と性別を固定しているのです。同一性 もありません。総じてことばに根性がないのです。それに反 15 の彼方が可能ならば性別の固定化はけっして普遍的なものと 「幻想としての性の境界線」考 149 13 について書かれたことばはじつにいい顔をしています。けっ して安部さんがつづる﹁識ること﹂ ﹁語ること﹂ ﹁当事者性﹂ ら、一切の解釈を拒むものとして彼の言葉や生はあります。 いがあなたにとって問題となるのですか? 誰に向かって、どこから発しているのですか? なぜその問 して声高に語られなくとも、現実を剔抉することばは容赦な ︵ 私見 ですが 、 ﹁ 知識人︱ 大衆 ﹂論と い う 世紀に 世界を席 言い 換 え る な く、それでいてことばに金色の産毛があり、その軟らかい表 頬杖ついたり、夜中にふと飼い犬のボブの頭をなでたりしな やしくみについてリアルなものをつかもうと、腕を組んだり 目の前にそれらを拡げ、安部さんの観念の世界の成り立ち ルは彼にとって絶対に譲れぬものとしてあるのだとぼくはお アルなものは彼にはありません。性が幻想であるというリア なぜ幻想であるはずの性が男と女なのか。この問いよりリ し、 ﹁大衆の原像を繰り込む﹂の拡張した理念と言えます。 ︶ 巻した役割論は、当事者性を欠落することによって成立した がらまんじりともせず宙を睨み続けたのですが、この猛暑、 もいます。この問いを彼は全身で発しているのであり、この 情が見事に描かれているとおもいました。ことばがひとりで もうあぢあぢです。とうとう残すところあと一日。まだ一枚 、こ 、から 問いにおいて彼はほかならぬ彼に固有の生を生き、こ のだとかんがえています。吉本隆明の﹁大衆の原像を繰り込 も書けていません。だいたいが、安部さんの五十年の生から 彼はたった一人で世界に挑んでいます。節度ある書き方の行 立つことができています。ずっしり軽い未知の性に出立しよ 搾り出された一群の言説の感想を一昼夜で書こうという魂胆 間に、今まさに獲物に襲いかかろうとする激情がちらりとか む ﹂ と い う自 立 思 想 も 時 代 性 の 制 約 を 被 っ て お り 、 ﹁大衆に が横着なのだ。おれは安易ではないのか、不埒なことをしで いま見えます。そんな安部さんの立ち姿に共感するものが、 うとする彼の意気込みが強く伝わってきます。性はまだ未知 かしているのではないのか。でも、当事者性に徹し、そのこ ぼくのなかにたしかにあります。﹁外から対象を抽出、解析 学ぶ﹂のカウンター概念にすぎません。むしろ﹁大衆﹂では とが引き寄せるひずみを存在論の根底でひらくという内包存 することはしたくない﹂ことを戒律とする安部さんにならい、 だから表現に余白があり、性に余白があるから表現は未知な 在論のモチーフと無縁ではなかろうし、なにより内包存在論 ぼくもまたそのことを戒めとして、安部幻想論の世界につい なく︿生の原像﹀という言い方が今という時代にふさわしい は︿好 き ﹀ ︵ 性 ︶ が 世 界 を 創 っ た と い う念 仏 に ほ か な ら な い て少し書いてみます。 ら安部さんの固有な生の曲線にさわってみます。 安部さんの言説からはひとつの声が聞こえます。語る人の 位置を安部さんはいつも問うています。あなたはその問いを、 性と主体性 から、少しはなにか言えるかもしれない。ためらいぶれなが ものとしてあります。 20 150 テゴリーを﹁セクシュアリティ﹂と呼ぶことにします。セク す。 ﹁性の 自認 ﹂と﹁ 性的指向﹂ がそのひとつです 。このカ いくつかの基本的なカテゴリーが安部さんの世界にありま すごくリアルなことがらとして感じられるから語っているの くには抜き差しならない切実なこととしてあって、自分には ﹁セ ク シ ュ ア リ テ ィ の 問題に関 しては、それがたまたまぼ 号﹄ ﹁ セクシュアリティを抜 けて遠 です﹂︵﹃水平塾ノート くへ﹂ ︶ シュアリティを起点に彼は語り始めます。このこだわりの総 体が彼にとっての当事者性の源泉だとおもいます。そこで、 じぶんに切実なことがリアルに感じられるから語ると彼は ﹁ 当 事 者 性と い う の は、 そ の 人 が 生 き る な か で 、 生 の 現 場 ふたつ目のカテゴリーを﹁当事者性﹂だとかんがえてみます。 ぼくの理解では安部さんの世界は知に関するこの三つの基 でぶつかり、抱え込む、抜き差しならないことがらでしょう。 言います。どんなに困難であろうとかんがえるほかに生きよ 本的なカテゴリーによって表現されています。この知のトラ 何かをきっかけにして、関わらざるを得なくなり、また、そ ﹁当事者性﹂は名乗ることをめぐるさまざまな力の場面に遭 イアングルにおいて、ほかならぬ安部さんが彼に固有な生を れなしには自身の生の核が見えなくなってしまうまでになる うがない、そのあり方を安部さんは当事者性といっているよ 生きているのだとおもいます。それぞれの概念が相互に蔦の こ と が ら や 対 象 、 そ れ と の関 係 の こ と だ と 思 い ま す 。 ・・・ 遇します。この権力の場を﹁カミングアウト﹂というカテゴ よ う に か ら ま っ て い ま す が、 力 学 に 比 喩 す れ ば 、 ﹁セクシュ この、当事者性と、該当者性を分けることができた、つまり うにぼくには見えます。 アリティ﹂と﹁当事者性﹂は強い力の相互作用によって結び 幻想であることを掴めた点が、前回とのいちばん大きな、決 リーとします。 つき、 ﹁ カ ミ ン グ ア ウ ト﹂ は あ と の ふ た つ と弱 い 力 の 相 互 作 安部さんの当事者性は﹃旅行の前に﹄のなかにある﹁﹃該 定的なちがいであり、ここが今のぼくの立っている場所です﹂ もいます。すでに﹁カミングアウト﹂の是非を超えた地平に 当者性﹄を超え﹂で一段と深まっていきます。彼は﹁当事者 用によって結ばれているような気がします。おそらく安部さ 安部さんはいます。彼の余儀なさはもうそこにはありません。 性﹂を人が世界と切り結ぶある態度のことであると拡張し、 ︵同前︶ 性という存在論の未知にゆきつくほかないようにおもえてな ﹁主体性﹂という概念を導入します。いうまでもなく彼の﹁主 んにとって﹁カミングアウト﹂は弱い力の環ではないかとお りません。性と主体性をめぐる難関が彼の挑む最後の場所で 体性﹂は独特です。 ことばですが、生の具体性の現場でのたいへんさが、どこま ﹁﹃該当者性﹄と﹃当事者性﹄は便宜的にぼくが使っている あるとぼくにはおもえます。 ともかく 彼は 語り 始め ま す 。 ﹁ なぜ 語 る の か ﹂ に つ い て 安 部さんは書いています。 「幻想としての性の境界線」考 151 15 といった不毛な論議に落ち込むことを避けたいからです。当 でも引き延ばされてしまったり、だれがいちばんたいへんか んにとってαでありωだとおもいます。 考えが安部さんの世界の根幹にあります。この感受は安部さ もう少し彼の考えを追ってみます。幻想としての性という ﹁ ぼ く が例 え ば セ ク シ ュ ア リ テ ィ に つ い て 語 る の は 、 よ う 事者性とはそういう、多くの人がさまざまな形で抱え込まざ するにぼくはこういうふうに世界を、現在を見ている、ぼく っている、共同の観念で立ち上げられているというようにぼ るをえない現場の過酷さを対象化し、抜け出たところで、そ 繰り返して強調しますが彼の﹁主体性﹂は権力の関係のこ くには 思え る ﹄ 、ということです。だ か ら ﹃部 落﹄というこ ういう現場を抱えている世界そのもの、産みだし続ける人そ とではありません。フーコーは﹃政治の分析哲学﹄で言って とが国家や民族と同じく幻想であるように、男性︱女性とい にはこういうふうに見えているということを語りたいからで います。﹁人間の精神的変革が国家の変革の条件なのか結果 う性別やそれから派生するセクシュアリティも幻想だ、とい のものを考えよう、改めて見つめようという主体性のことで なのかという古くからの議論についても、そもそも、個人が うことです。これはひとつの世界の見方ですから、証明する す。 そ し て そ れ は す ご く シンプル で 、 ﹃世界は幻想 でなりた ︿主観性﹀ ︹ 自 己 に つ い て の自 己 の 意 識 ︺ と い う 形 で 自 己 と とかできるとかいうことではなくて、そういうふうにぼくは す﹂ 保つ関係は、実は権力の関係ではないのかと問うてみる必要 感じている 、認 識し て い る と い う こ と で す 。だ か ら 、 ﹃ぼく はそう思います﹄というだけで、ほんとはもう全部終わって がある﹂ 安部さんはフーコーと似た問題意識から出発し、ちがった す。つまり彼の主体性はフーコーの権力の関係や権力の網の に存在しているものとしてでなく、相対的なものとしてみれ そしてそういう立場に立てば、世界が、ものごとが絶対的 しまうわけです。 目を無化しています。このような発想法に出会ったのはぼく るだろうし、より自由な感じ方、考え方が見えてくるのでは くぐり抜け方をしています。ぼくは見事なものだと感嘆しま ははじめてです。フーコーの生のありようと思想は離折して すべては幻想の為せる技だという独特の﹁幻想﹂理解です。 ないか、生き方が生まれるのではないかと期待するからです﹂ 表現から意志論をぬきとりましたが、当事者性は意志論を放 安部さんの特異な幻想論に対して、ぼくの読みえた範囲でふ います。フーコーの言説の奥深いところから響いてくる乾い 棄できないのです。当事者性はもっとつきつめると還相の思 たつの批評がありました。ひとつは松井さんからのものです。 ︵同前︶ 想にまで行きつきますが、ぼくの理解する西欧由来の考えに 松井さんは安部さんの幻想論に対して次のように言っていま た哄笑はそこから発しているようにおもえます。フーコーは はこういう発想法や思想はありません。 152 たら境界は無数に引かれている、で絶えず境界を選び直した 界なんてないという言い方でいうと、ぼくはあえて言うとし じゃないかなと思いました。そのことを説明すると、先ず境 明をきいてると手垢の付いたカテゴリーに戻ってきているん 者性という言い方でいいかえされたんで、なんとなくその説 事者性ということを言われて、それを非部落民としての当事 のをだしてきている。その出し方に違和感を感じました。当 やカテゴリーの相対性、幻想性に対して、当事者性というも い、カテゴリーなんてないという言い方です。それと、境界 ﹁違 和 感 があるとしたら2点 です。ひとつは境界なんてな す。長くなりますが肝心なところなのでそのまま引用します。 かと思うんです﹂︵﹃水平塾ノート の幻想性なりを撃っていくという言い方になるはずじゃない うかはわかりませんが ︶ 、そういうものでもって虚構 の境界 瞭な境界なりカテゴリーなり︵そういう言い方がいいのかど るとしたら、そういう場所というか、自分にとってすごく明 どうかは別として。だから安部さんの文脈で問題をだしてく にとって明瞭なわけじゃないですか、うまく言葉にできるか 己欺瞞がないのであれば、自分が生きてる性というのは自分 境界を当てはめようとしたら曖昧にみえるけれど、本人に自 と思うんですよね。つまり外からカテゴリーを当てはめたり、 たわけですが、おそらく当事者にとっては少しも曖昧でない あるような気もします。性は曖昧であるという言い方をされ 号﹄ ﹁セクシュアリティ りすることが可能だという言い方の方が自分にはぴったりく が、暴力的でかつ恣意的なカテゴリーというのがあって、境 の論点は性についても、当事者性についてもしっかりずれて 安部さんの幻想としての性の境界線という考えと松井さん ︱幻想としての性の境界線︱その②﹂ ︶ 界があって、その下でものすごく抑圧されている人がいるわ います。すべてが幻想だなんてべらぼうな、世界には無数の るんです。たしかに同性愛というようなこともそうでしょう けなんですが、そういうカテゴリーは抑圧的なカテゴリーと れたものだから、境界線なんて絶えず選び直すことができる 境界線が引かれていて、境界線は暴力的であったり抑圧的で 二ばんめの違和感は、安部さんは相対性や幻想性に対して、 のだ。そして境界線を選んだり撃ったりする行為が当事者と してあるわけであって、それをないっていうふうにいう言い 当事者性というのをだしてこられましたよね。あまりうまく いうことなんだ、とするのが松井さんの主張です。なにが言 あったりするわけで、しかもそんなものは恣意的でねつ造さ は説明できないんですが、当事者性ということを言ったとき われているかよく理解できます。論点がかみあっていないの 方はしっくりしなかった。 に、例えば自分の問題として考えるという言い方をしたら、 ああ、なるほど。だから安部さんは﹁該当者性﹂と﹁当事 です。なぜこんなずれが生じるのでしょうか。 の問題はお前たち自分の問題として考えなければいけないん 者性﹂を便宜的にわけたんだ。安部さんがこだわる当事者性 こ れ は あ る意 味 で い わ ば 、 手 垢 の 付 い た 言 葉 で す よ ね 。 ﹃こ だ﹄という、一種、脅しめいたやり方で使われてきた言葉で 「幻想としての性の境界線」考 153 14 という 感覚 が な か っ た ら 、 ﹁幻想としての性の 境界線﹂とい ないでしょうか。 も大切ですが、分節化それ自体を拒むことはできないのでは の分節化﹂という短文があります。直接には原口さんの幻想 そして、その際、世界にどのような輪郭線を引くかは、あ にとって避けられないことです。 ︵サルトル﹁マロニエの根﹂ ︶ きられない。世界についてのある像を描くこと、これは人間 何らかの仕方で世界を分節化しなければ、人間は世界を生 う考えが宿ることもなかったわけだし。なんだ、そういうこ とかと、ぼくだけ納得してもしかたない。 ﹃水平塾ノート 号﹄にKさんの﹁双書③へのメモ︱世界 論への批評のかたちをとっていますが、内容としては性別は らかじめ文化的に与えられているコードに制約されます。私 たちは、コードに制約されながら、それに抗うのです。ソシ 私たちがしなければならないことは、分節化を拒むことでは り引用します。 藤田晃三さんが原口さんへの私信の中で﹃部落、部落民の なく、共同体の文化的制約、つまり既成の世界像に抗いつつ ュールの言う、ラングとパロールの関係はこのようなもので、 ︿共同幻想﹀をめぐって混乱が生じている﹄と指摘していま 世界に新しい輪郭線を引くということではないでしょうか。 そのことと共同幻想が自己幻想に逆立するということは、 どこかつながりがありながら、やはり別の話であるように思 われます。 あるのかという問題です。これは松井さんの発言ともかかわ もう一つ気になることは、よい共同幻想と悪い共同幻想が 原口さんはこう述べています。 ります。難しいテーマですので、ここでは問題として挙げて おくに止めます﹂ 識することは大切だし、その認識を通じて、自分たちにあら それぞれの共同体の文化的仕組みに規定されていることを認 ことが同列に扱われています。世界をどう分節化するかが、 ここでは、世界を分節化することと共同幻想を作り上げる の上で生きていることは自明です。むしろぼくはKさんが問 わかるよ、言いたいこと。ぼくたちが言語の累積された歴史 郭線を引く﹂ことではないのかとKさんは主張します。よく 文化的制約、つまり既成の世界像に抗いつつ世界に新しい輪 ればならないことは、分節化を拒むことではなく、共同体の K さ ん の言 い た い こ と は次 の こ と で す 。 ﹁私たちがしなけ かじめ与えられている分節体系を相対化する視点を持つこと めている点で、わたしの考えとは異なります﹄ けしないと︵共同幻想をもたねば︶人間はいきられないと決 ﹃だが、自分を含めて世界をカオスととらえ、分節=区分 点だと思います。 私もそのことが、双書③の全編を通じてのほとんど唯一の弱 確かに原口さんは混乱しているような言い方をしており、 の︿幻想論﹀がごっちゃになっている﹂と。 す。 ﹃つまり、ソシュールの︿幻想︱恣意性﹀と吉本︵隆明︶ ﹁ ﹃双書③へのメモ︱世界の分節化﹄ 幻想かという安部さんの問いへの疑念ともなります。そっく 13 154 償としてなにかを生き損ねているとおもえてなりません。 語の表記にゆれがないのです。明晰であろうとすることの代 題の所在を指し示すときの文体の安定感が気になります。言 が当事者性という言葉を使うとき、それは脅しのテクニック た言葉である﹂ものとして松井さんは理解しています。ぼく けないんだ﹄という、一種、脅しめいたやり方で使われてき 当事者性という立場は、この世界でとりうるあれやこれや の対極にあります。更にぼくは当事者性という言葉を、世界 しひしとことばが傾いでいかざるをえない生存のありようの の態度のひとつではなく、それがじぶんにとっての現実その をあたらしく創りうる規模をもった概念として使っていま 核心をつかまないと批評したことにならないのです。安部さ もののことだとおもうようになってきました。むしろ当事者 たしかに世界を分節する働きの、ある部分が共同幻想であ んは性の境界線そのものの存立の根拠を問うているのです。 性からかいま見られた世界こそが現実なのだとぼくは考えて るにすぎません。だから共同幻想をつくることと、世界を分 そのことはどうじに無数の境界線を境界線として同定する言 います。当事者性が世界を分節するのだとぼくはおもってい す。政治的な権力のテクノロジーとして使用しているわけで 葉の彼方を渇望していることを意味します。これまでの思考 ます。たとえそれが無限小の公理のようなものであっても、 節することは次元のちがうことです。発言された言葉として の慣性に就くかぎり性の固定化はぼくたち一人ひとりにとっ です。ぼくにとって当事者性ぬきに世界はありません。もち はありません。当事者という言葉は主体のある心的な状態を て普遍性としてあらわれます。決定的な思考の転回をなすべ ろん﹁該当者性﹂でルサンチマンを超えることはできないと は原口さんにいくらかその混乱が見られるかもしれません。 く、それこそ人類史を組み替えるにたる世界認識の転換を彼 ぼくはおもいます。それは先験的であり絶対にできません。 表すだけではなく表現の概念としても適用できるのです。 は希求しているのです。だから男︱女という性の同定は不変 該当者性はひきうけですが、該当者性を突き抜けたところ しかしそれを指摘してもなにも言ったことになりません。ひ なものか、彼はしつこく問います。それは彼の祈りのような いったいこのねじれはどこから由来するのでしょうか。意 いとぼくはおもいます。ぼくの考えの根本です。ゆずること 共同化のなかに生きることの可能性がひらけてくることはな にしか当事者性がないことも明らかです。不遇感の実体化や 見のすれ違いはどういうしくみになっているのでしょうか。 も変わることもありません。出来事の社会化は例外なくここ ものです。 ぼくは理念としては解くことができるとおもいます。当事者 ナチズムとスターリニズム。戦争と革命。奴は敵だ、奴を でやり損ねているとおもいます。 んは当事者性は手垢が付いた言葉だと言っています。当事者 殺せ。目的のためのやむを得ぬ必要な殺人。政治はすべてこ 性ということについての理解に違いがまずあります。松井さ を、 ﹁﹃この問題はお前たち自分の問題として考えなければい 「幻想としての性の境界線」考 155 る、あるいは超えようとしたどんな心情の共同性もやはりこ 力をまだぼくたちは持ち得ていません。ここを超えようとす のラインで行使されました。そしてこのラインを超える想像 念の拡張の形式にあるとぼくはおもいます。 す。松井さんやKさんとのずれやねじれをひらく鍵は存在概 わ る こ と は 同 一 性 に か た ど ら れ た存 在 論 の 拡 張を 意 味 し ま 能だとおもいます。だからいまぼくにとって当事者性にこだ 二十歳の頃、部落のことに関わるようになった当初から直 のデッドラインを超えていないと、理念においても実感にお いても断言できます。政治を超える社会を想像力がつくりえ 験のことを言っているのです。語られ、共同化できるような きるようなことではありません。もちろんぼくはじぶんの体 らないことがあるのも事実です。でもそれは決して共同化で いことがあるというのはほんとうです。身をもってしかわか じた社会の共同体をつくるだけです。苦労しないとわからな 不遇感を実体化し被差別民衆の心情を共同化することは閉 ほんとは蔦のように絡まり合っていてけっして分離できるよ したように、ぼくも不遇感と不全感を便宜的にわけています。 す。安部さんが便宜的に﹁該当者性﹂と﹁当事者性﹂を区別 不全感のほうがはるかに根が深いし規模が大きいとおもいま きるようになるまでながい時間がかかりました。不遇感より いうリアルを、借り物ではないじぶんの言葉で言うことがで が、ほんとうはいつもその時代のもっとも本質的なことだと 観していた、衣食住足りてそれでも充ちることのないなにか ものは、その程度のことです。そういう安易さに世界の可能 うなものではありません。 ていないということになります。 性があるわけがありません。それが当事者性に徹することが 生の不遇感はむしろこの世での社会的属性のあり方にその 不遇感は生の条件に関わり、不全感は意識の空洞感としてあ 引き寄せるひずみを存在論の根底でひらくという、ぼくの考 不遇感や障碍感は﹁じぶん﹂のうちに生じていることです らわれるともいえます。あるいは不遇感が減圧されると逆に 起源をもち、生の不全感はむしろ自己同一性という意識のあ が、 ﹁ じ ぶ ん﹂ と い う 結 び 目 も 歴 史 が 織 り な し た ひ と つ の 制 不全感は強くなるというように現象します。同一性の制約が えの根本です。だれからどう言われようと変えるつもりはあ 作物であり、属性であり、結び直すことができるとおもうし、 、の 、わたしの自己性 生の不全感としてまずあり、ほかならぬこ り方の制約から発祥しているといってよいかとおもいます。 その組み替えのなかにこの世のありようとちがう︿社会﹀が という精神の器のなかに生の不遇感が注ぎ込まれるのです。 りません。 内包自然に照らされてぽっと灯ってくるのです。そのときは いずれにしても当事者性にゆきつくには一度オレハニンゲ 当事者性はこの双方の領域に跨った理念です。 とおもいます。禁止と侵犯に閉じられた思考の型そのものの ンデハナクオレデアルという世界を通過せざるをえないとお じめて生の不全感は解消します。不遇感そのものも消滅する 消滅です。ぼくはそれがありうることだと考えているし、可 156 もいます。これは思弁ではなく実感です。そこで世界の意味 ります。西欧近代が発明した自己・大衆・社会という概念の 同一性ですが、意識の同一性はまたニヒリズムの別名でもあ より見事に事態を言い当てている 言葉を知りません。すご 事者性﹂と﹁カミングアウト﹂の輻輳した関係についてこれ 遠くへ﹂にもどります。ぼくは﹁セクシュアリティ﹂と﹁当 ここでもう一度、安部さんの﹁セクシュアリティを抜けて わたしという性 偉 大 さ と 偉 大 で あ る が ゆ え の逆 理 が こ こ に あ り ま す 。 ﹁もう い! 圧倒的です。 にぶつかります。ほかならぬこのオレを統括するものが自己 だれもわたしのなかにはいってきてほしくない﹂と安部さん 同性愛にしても、偏見や差別がいやだというのは当然 がいう根源的な拒否のことでもあります。神戸の少年Aは生 を裏返してそこを生きてしまいました。そこは荒涼とした体 温の低い世界です。すさまじい深度ととほうもない拡がりが 性別の固定化は同一性原理の必然的な帰結です。性の自認と てこの︿性﹀においてこそ性の二律背反が超えられるのです。 と空いた穴をうめるものが内包存在という︿性﹀です。そし んどうです。彼らは敗走しました。同一性のまんなかに黒々 らが執った方法では依然として生も世界も無根拠でありがら だとおもいます。でも彼らの試みは貫通しませんでした。彼 性が不可避に招くニヒリズムにおいてこそ権力が発生するの 無いという発見がそこにあります。言い方を換えれば、同一 ーズらが主体の解体に果敢に挑みました。自分の中には何も っきりでやってきたのですから。そこで、フーコーやドゥル を経て耐用年数を超えました。なにしろ数千年のあいだこれ 神という自然を入れる器でありえた同一性という概念は時代 ヘーゲルやマルクスがおおらかに呼吸することのできた精 と固定化してしまう場へ入り込む︵入り込まされる︶こ として固定化し︵させられ︶その対象を、同性か異性か 付けられると思います。自分の性を﹁男性﹂とか﹁女性﹂ ものに自分を固定化してしまっては、そこに永久に縛り を受け入れてしまい、実体ではないはずの同性愛という るあまり、かえって性別や異性愛︱同性愛という区分け として仮説されたものでしかないのに、異性愛を攻撃す し、それが中心であり絶対であるとするために、反措定 まうのはまずいと思います。異性愛というものを創りだ 組みや、その根本にある性の区別を受け入れ、支えてし だけなのに、同性への愛を強調することで、そういう枠 か﹁同性愛﹂とかいう枠組みのなかに押し込まれている しかしこの社会が名づけたものでしかない﹁異性愛﹂と 相続などは避けてとうれないことがらだとは思います。 だし、社会的権利、例えば法律的な問題としての結婚、 性的指向は同一性原理から必然的に流れ下ったものにほかな とになっています。そうではなく、もっと広い場、そも あります。 りません。 「幻想としての性の境界線」考 157 し、そもそも境界線なんてあらゆるものに存在しないと すればもっとちがう境界線がみえてくるかもしれない から見返していくことが大切ではないでしょうか。そう 絶対的にみえるけれど、そもそも幻想なんだという地点 そも性別という分け方が仮説なんだ、そういう区分けが という性別にしっかり囚われていることであり、そもそ せられて︶います。それは幻想であるはずの男性︱女性 なってしまい、自分の性自認や指向を極端に固定して︵さ 別で攻撃され、閉ざされてしまっているのでかたくなに れたトランスジェンダーや同性愛も、社会的な偏見や差 固定化してしまい︵させられてしまい︶ます。先ほどふ を持ってくるべきだということではありません。そうい いけない、性別はもっと多様だから、第3、第4の性別 幻想だということです。性別をふたつだけに分けるのが 人そのものが魅力的かどうかでそれは決まると思いま います。社会的外皮や属性を引き剥がしたあとの、その ことがらと、どこかで深く結びつければいいなと願って ぼくは、生きるなかで自分が出会うことのできた人や てしまうという呪縛に陥っています。 も自分自身が否定したいはずの性別の幻想を自分で支え いうような地点までいけるかもしれないと思います。 誤解のないように付け加えますが、性の境界線がない う二つ以上あるという発想、言い方は、やはり根本に二 す、そこからしか大切な関係は生まれてこないと感じて というのは、男性︱女性という性別、性の区分け自体が つの性という性別の区分けをおいていると思います。 いるし、それができないなら自分も世界もまだまだだな そもあり得ないと考えています。カミングアウトするこ からぼくは対社会的なカミングアウトはしないし、そも 者とほんとに関わるということではないでしょうか。だ す。そこはたぶんもう普遍的な場なはずです。それが他 穴をとうして 他の当事者とつながっていけると思いま をしっかり見つめること、考えることで、その奥の深い 可能であるとするなら、存在論の拡張をおいてほかにありま 歴史や現実を、ひいては人類史をあらためうる表現の契機が ん。このことはまぎれもない事実です。もし、ぼくたちに、 は あ る が ま ま の 現 実 を 追 認し 内 省 す る こ と に し か な り ま せ ます。既知の﹁自己﹂や﹁他者﹂から世界を導いても、言説 ぼくは存在論が歴史や現実の考察に先行するとかんがえてい ぼくたちがどこをめざすのか、もうそれはあきらかです。 ト﹂ ︶ と 思 い 返 す し か な い と 思 っ て い ま す 。︵﹁カ ミ ン グ ア ウ ︵﹁性別の固定化﹂ ︶ だれもが様々な形で、自分の問題、つまり生の現場を とで、個としては自分の性の自認︵セクシュアル・アイ せん。 抱えているし、そこに当事者性が生まれてくるし、そこ デンティティ︶や性的指向︵対象をどこに向けるか︶を 158 いまいさがあって、それもまたある種の思い込みによって成 のか、ぎりぎりかんがえていくと、その言い方にはかなりあ ﹁自分﹂とか﹁私﹂という人称や呼称がなにを指している がえています。 動の思考﹄になります。ぼくはもう少し先までいけるとかん 郎の詩集﹃女へ﹄の夕焼け雲の詩になるし、ドゥルーズの﹃情 われるということではないとおもいます。それだと谷川俊太 意識の同一性は心身を男や女として分節します。ほんとう り 立っ て い る と お も え ま す 。 内包 は 、 ﹁自分﹂とか﹁私﹄が 分割不能の定点︵質点︶ではなくて、ある出来事の事後的な 内包存在を分有するあり方を分有者と名づければ、分有者 う一人の個体と出会う世界が性だというふうに通常は理解さ ことはまずありません。そこで﹁私﹂が一人の個体としても はたったそれだけのことですが、ひとびとがこの分節を疑う は性別の彼方の︿性﹀ではないのか。同一性原理に拠るとき、 れることになるのです。ぼくはこの世界が窮屈でたまらずめ あらわれだとする思想です。 男である私という言い方や女である私という言い方には性の そういうところにあります。 くり返そうとしてきました。内包表現論の初発のモチーフは 手前にある﹁私﹂の自己性が前提として意識されています。 、の 、わたしをほかならぬわたしとみなす自己意識そのものに こ もちろん世の中には規範的な意識を強く持つ人もいるでしょ うものがあるとして︶女意識が﹁私﹂そのものではあるまい。 まさか 、 ︵そ う い う も の が あ る と し て ︶ 男意識や︵そ う い 存在の事後的なあらわれが性として分有されているのに、あ も感じる居心地の悪さはこのためだという気がします。内包 男や女ですらありえません。性という言葉をつかうときいつ たしが、そしてあなたが、じかに︿性﹀なのです。分有者は 内包存在という人であることの普遍は、自己と性の二重の う。 ﹁私﹂ というとき 、そのなかにすでに 男という意 識が分 らためて自己から始め、性に到達するというのはかったるい 性はないのですから。性を認識し了解する意識そのものに性 かちがたく結びついている人がいることは想像に難くありま の で す 。そ う で は な く 、 内包 と分 有に お い て は 、 ︿わたし﹀ 相転移を可能とします。内包存在と分有の世界では、わたし せん。おれは男たい、なんか文句あるや、という声が聞こえ という一人称がいきなり︿性﹀なのです。もちろんこの︿性﹀ があるならば自己撞着することになります。つまり意識自体 ます。まあそれはカラスの勝手だから、そうやって囀りまわ が自己を実有の根拠とする同一性がかたどり呼び込む性の彼 があなたと出会って性の世界をつくるのではありません。わ って生きたらいいだけです。そういう人はけっして矛盾して 方にあることはいうまでもないことです。男と女という性別 は性以前になければ自己矛盾がおこってしまうのです。 いるとは考えないのでしょうが、よく考えるとやっぱりそれ の背後からの根源の一閃によって性が可能となる、そういう 事態のことです。 は矛盾しています。 それぞれの生があって、その生の交わるところに性があら 「幻想としての性の境界線」考 159 のは内包存在を分有するという出来事を的確にあらわす言葉 包原理とは少しずつずれているのです。ここで当面している 性も社会も共同性も同一性原理から派生した概念であり、内 快も、離群の衝動もなければ、群への希求も存在しません。 分有には、自己を一個の他者として生きるという自同律の不 た群︵社会︶を引き寄せる必要がないのです。従って内包と い性をつくることや、自己と相補性をなす、自己が写像され ので、意識の第一層にある自己という欠損から他者へと向か 者であり、それ自体としてひとつながりの全体をなしている 内包存在の分有者は分有ということにおいてはじめから二 安部さんが遠望する﹁﹃両方﹄の当事者が、強制される立 んな世界をつくることになるのでしょうか。わくわくします。 ぐるんと転回するのではないでしょうか。分有者の群像はど ここをていねいにたどることができたら、この世のあり方は のです。この微妙なニュアンスはとても大きいと思います。 だから分有は同一性と相関はするけど、同一性の彼方にある というかたちで生きられるのです。なんというぜいたく! それぞれの生ではなく、ひとつの生です。ひとつの生が分有 てもよいのです。好きという情動を通して生きられるのは、 とです。限定されることなしに内包存在へは至らないといっ は分有者として限定されることによって生きられるというこ なって差別や攻撃を受けやすい特定の個人や集団を浮き上が が見あたらないということです。おそらく性というそれこそ 内包存在とは、具体としていい関係があるのか、ないのか らせずに ︵そもそも 実体 はないものだし ︶ 、問題そのものを 場を固定させずに、無記名で差別や抑圧への否定や反論をす ということとは無関係です。存在することの驚異は、身体︵自 突き崩し、無化していく方法﹂に賭ける夢は、どうすれば、 手垢の付いた思考の慣性では言いあらわしえない事態だとお 然︶に電子ノイズ︵意味︶が貼りついて、その渾然一体とな ﹁なにかの感情と呼ばれているものを指し示すための表情や すめることで、カミングアウトすることでスケープゴートに った存在を自己とみなす同一性原理のはるか彼方、あるいは しぐさではなく、そのものであるはずの表情やしぐさを取り もいます。 はるか手前に出現する出来事です。存在が自己に先立つとい るとおもいます。そしてそれは、わたしという性の分有者に だすこと ﹂ ︵﹁ざわめく樹木 ﹂ ︶を実現できるかにかかってい 内包存在のことをぼくは根源の性という言葉で言ったりも よって可能となる出来事のようにぼくにはおもえてなりませ うことはぼくにとって思弁ではなくリアルな感触です。 しますが、内包存在という根源の性は分有という出来事をと ん。 て 、 今 も そ う思 っ て い る け ど 、 ﹁そのものであるはずの表情 やしぐさ﹂をあらわすことが内面の表現だとみんな思ってき ﹁なにかの感情と呼ばれているものを指し示すための表情 おして識られ、知覚されます。だから、わたしがあなたであ るということは、同一性原理を包越する出来事へのほんの入 り口だったような気がいまはしています。 ぼくが面白いとおもうのは、それにもかかわらず内包存在 160 歴史の巨大な制作物であって、根源的な出来事の事後的なあ 気がします。出来事を記述する﹁わたし﹂という定点もまた たし﹂は﹁わたし﹂であると同義反復しているだけのような いう自己意識が同一性に支えられていて、その内面化は﹁わ ではできないと 考え る よ う に な っ て き ま し た 。 ﹁わたし﹂と やしぐさを取りだすこと﹂は﹁わたし﹂の内面化による方法 て出会うのではないとおもいます。 分有することですでに出会っているのであって、男や女とし はないかとかんがえています。人は云ってみれば内包存在を り、その世界を分割するものとして、男と女が生まれたので に お け る 濃 密 な 出 来 事 が 同 一 性 に回 収 さ れ 性 の世 界 を つ く 称で名指されることになりました。そしてそこで遭遇する他 におもえてきます。社会派の主題主義も駄目なら、それを批 ど、近代という時代性を帯びた、すごく制約ある対比のよう あいだにある二律背反は、まるでうそというわけではないけ そうすると、政治と文芸や、共同的なものと個的なものの 張した言葉を創造することが、計量化されたこの世の予定調 るのです。自己や性や社会や共同体を含みもってそれらを拡 います。だから︿表現﹀はまだ描かれぬ広大な余白としてあ あるはずの表情やしぐさを取りだすこと﹂はできないとおも 何度でもくり返しますが、意識の外延表現では﹁そのもので 一人称と二人称以外の世界は三人称として呼ばれます。三 判する内面主義も窮屈なのです。いずれの立場をとろうと社 和を貫通することにつながるとぼくはかんがえています。三 らわれだとかんがえれば 、 ﹁ わ た し﹂ と い う 属 性 は 内 包 の 関 会と内面が互いに入れ子になって相関しているからです。同 人称のない世界をつくることができないならば法による社会 人称があるかぎり自己と権力や国家や貨幣は互いにとって矛 世代の文芸はぼくにはそういうものとして映ります。市場経 の統治、つまり市民社会という群の按配は国家という制度や 数ということになります。つまり生々流転する現象をつなぎ 済と市民主義、商品の消費と作品はこの世ではよく見合って 貨幣の力によってしか統べることができないということに帰 盾的なあらわれしかしないとおもいます。ヘーゲルなんかこ います。それは見事に予定調和の世界を実現しています。こ 結します。そこからはじき出された意識のさわりを内面化し 止める﹁わたし﹂は普遍のゲージではありません。そのこと の予定調和の世界を貫通しないものが︿表現﹀でありえるは ても、この事態を揺るがすことはできません。共同幻想の彼 の意識の運動を正・反・合と名づけましたが、自己意識を定 ずがないとおもいます。根源の一人称を心身に封じ込めて自 方は三人称のない世界と同義であって、それはひとえに一人 をぼくは自己に先立つ内包存在と分有者という言い方で言お 己という観念を人間がつくったので、そこに﹁自分﹂が発祥 称の拡張の行方にかかっているというのがぼくのかんがえよ 点とするかぎりそれはそうだろうなというしかありません。 し︵自 己 意 識として対象化されていたとは 言い難いのです うとしていることです。貧血した世界の拡張は内包存在とそ うとしています。 が︶ 、自分と い う 一 人 称 に続 いて 他なるものが 二人称や三 人 「幻想としての性の境界線」考 161 の根源のつながりを分有する︿わたしがじかに性である﹀と いう生の様式でしか可能でないようにおもうのです。 安 部さ ん が 、 ﹁ やり 方 が ま っ た く ま ち が っ て い た か も し れ ない﹂ ︵﹁﹃ある﹄︱﹃ない﹄を突き抜けて﹂ ︶と言い 、 ﹁たぶ ん今までと全くちがうアプローチを真剣に考えなければなら ないのでしょう ﹂ ︵﹃休会のお知らせ ﹄ ︶と言うことは 、内包 二〇〇一年八月四日早朝 と分有という性別の固定化を超える地平で果たされることの ようにおもいます。 162 内包存在論Ⅱ︱テロと空爆のない世界 163 内包存在論Ⅱ−テロと空爆のない世界 本論は二〇〇一年十二月に書かれ、第四十八回福岡水平塾開催を機に配布された。世界中を深い悲しみと沈黙に陥れた、理不尽きわ まる﹁不正﹂を糾す渾身の一編であり、その激しさと論理の精緻さは、読む者の脳天をたたき割る迫力がある。イスラム急進派の9 ・ 米国自爆テロと、アフガンを蹂躙するアメリカの報復戦争。この﹁空前の愚劣をひれ伏すまで打ち据え、傲岸不遜な輩をこの地 開く﹁固有の生﹂は、彼自身の所有物などでは毛頭なく、いつのまにか私たち自身のそれと重なっているのだから。 ︵原口︶ 動=全ゆる人間がいま・ここに、共に在ることの本当の意味﹀を、初めて了解することができるだろう。なぜならば、彼が歩み切り 在り処﹂を、 ﹁内包存在=情動の性﹂によって提起する。私たちは彼の発するメッセージから、未だ手にすることのなかった︿生の躍 著者は断固として、この飽くなき連鎖を解くために、国家・市民社会の統治という制度に拠らない世界認識︱﹁自他のつながりの い。 双方が出口のない問いを発し、答えのない堂々巡りの中で死んでゆく光景はもう沢山だ。生者も死者も、虚無に襲われないはずがな を生む外力︵国家や宗教や社会 ・・ ︶が働き、個々の人間はやむなく現場に駆り出される。多くの人はもうそこに気づいている。にも かかわらず、数百千年を経てなお人々は、自己化身としての大義=共同幻想により、意志に関わらず敵味方に別れ、争い、殺し合う。 思うに、いつの時代も戦争や殺し合いは、日々を生きる一人ひとりが望み、その意志の総和で起ったわけではない。必ず﹁大義﹂ で再び殺戮・復讐へと向かい始める。 部でつなぐ回路はない。孤立した個は、 ﹁資本システム﹂が喚起する欲望に振りまわされ、迷走する内面︵怨念や虚無︶は、大義の下 は、当面、三人称としての﹁共同性﹂=国家 法 を経由する道しか、私たちは手にしたことがないのだ ( ・ )民族・宗教・市民社会 ・・・・ から。だが、そこには、 ﹁からっぽの自己﹂に見合う禁止・侵犯︵ルール化と逸脱︶の外部装置があるだけで、自己︱他者を互いの内 に身を委ねる。互いに愛する者を持つ身であれ、 ﹁自己﹂の怒りや悲しみ、こだわりをほぐし、未見の﹁他者﹂とどこかで手を結ぶに 虚︶の闘い﹂と見る。どちらも自己への執着を起点に、イスラム原理主義と市民主義的愛国心という共同幻想で武装し、欲望や大義 腔の怒りを以て﹁自己同一性﹂原理こそ諸悪の元であり、事態の本質を、互いに回帰する﹁ルサンチマン︵苦海︶とニヒリズム︵空 ﹁子どもでもわかる理屈﹂がなぜ通用せず、無力なのか?﹁やられたらやりかえせ﹂の連鎖は本当に解けないのか? 著者は、満 道﹂が止む気配はない。 ること。それが許し難い大虐殺以外のなにものでもないことは、子どもでもわかる理屈だ﹂と、辺見庸が心底憤る状況にしてなお、 ﹁非 む。しかも﹁これはまごうかたない非道だ。もはや国家の体をなさない超最貧国に、いかなる理由があれ、さらに激しい爆撃を加え れる。しかし、ここに見る彼の息遣いは並ではない。世界はいま、テロの惨劇と殺戮戦争という事実を前に、為す術もなく立ちすく ﹁内包存在論Ⅱ﹂と題されるように、本論も我が身を貫く﹁具体的なことを語りながら原理的なことを論じる﹂という手法が採ら 上から消滅させる﹂には﹁未見の一箇の世界認識を必要とする﹂という著者の気概は、決して大袈裟ではない。 11 164 1 いま何が起こっているか 、包 、 在する。ここから舞い上がるように未知の新しい歴史が内 、現 、される。天を睨んで非命に斃れた者たちよ、立ち上がれ。 表 不尽な生の簒奪を批判するのではなく、テロや戦争という観 てもよいほどだ。それが人の道に悖るから無差別の殺戮や理 ごすしかなかった。その大いなる過誤の歴史を人類史といっ の暴威に直面して衆生はみずからを草木虫魚と化してやりす なき糧だった。治者の愚にもつかぬ大義の陰に隠された私腹 自己同一性原理が支配する世界では禁止と侵犯は大地の余儀 上から消滅させるには未見の一箇の世界認識を必要とする。 愚劣をひれ伏すまで打ち据え、傲岸不遜な不逞の輩をこの地 火蓋を切られたテロ殲滅を大義とする戦争が惹起した空前の と闘う﹂我が国民にあってテロは喰ったことはないけれどハ 気にする隣組意識丸出しの海外派兵であり 、 ﹁主体的にテロ 国においては﹁旗幟を鮮明にせよ﹂との恫喝に屈した人目を とっては国家の存亡に関わる危急の一大事であっても、日本 化的言説がもっとも醜悪であり有害である。米国の為政者に るからだ。無意識であれ統べる視線から事変をあげつらう文 戦いを前にしてじゅうぶんすぎるだけ無力感の虜になってい あるとは思わない。なぜならわたしたちは顔の見えないこの 復戦争の是非をめぐって主観的心情を開陳することに意味が 同時テロが襲った突然の惨劇や米国主導のアフガンへの報 死もまた生きられる。これは夢想ではない。 念が存在しないこの世はありえないのかと問うとき本格的に リウッド映画では見たことがあるぞというぐらいの、それよ 二一世紀元年秋に米国を攻撃した同時テロと、報復として 思想の器量が験される。 りなにより日々の暮らしの遠い彼方の、はずれてくれたらよ テロと報復戦争はわからないことだらけだ。なぜ未曾有の わたしは、人や歴史の始まりにおいてありえたけれどもつ かで﹁テロと空爆のない世界﹂について書く。無力が光ると 大規模なテロが起こったのか。それだけアメリカが恨まれて かった自然災害みたいな出来事だというのが実情に即してい いうこともあるのだ。いつもすでにその上に立っている、天 いるからだ。それは端的に米国の中近東政策の誤りに起因す いになかった存在の彼方を、悠遠の時空を超え、言葉の力で 意をつきぬけた、あたかも重力の法則を覆すことにも似た驚 る。もちろんそこにはイスラム教を原理主義として掲げるだ て嘘がない。 異が、存在の内包世界にふいに湧出する。それは狂おしい戦 けで大衆的な基盤をもたない急進主義者らのオウム化現象が 現にあらしめることができると考えるから、無力感のただな 慄だが、そこには無差別の自爆テロも、やられたからやりか 世界のシステムを円滑に駆動するために市民社会の外部を駆 ある。なぜ米国はテロ殲滅戦を国家意志として遂行するのか。 能性に充ちている。唯一そこが苦海と空虚があろうとしても 逐したいのだ。もっと直接的には米国本土を攻撃されて報復 えすという復讐も存在しない。修羅の巷であっても世界は可 ありえない生の可能性の源泉だ。根源の性という一人称が存 内包存在論Ⅱ−テロと空爆のない世界 165 の国家・市民社会の最終的完成をめざすグローバル・エコノ しなければ世界の盟主としての沽券に関わるからだ。世界大 居丈高に言い放つアメリカ精神の倨傲を空爆したいと妄念に 個々のアメリカ人は知らないが、自由なアメリカを守れと 義務である﹂を唱和するジハードによって無差別に人々を殺 かられることはある。わたしたちはだいたい次のように考え しまくるテロは悪い。もちろんテロの是非をめぐってイデオ ミーの本来性からすればブッシュ政権の意図する世界戦略は グローバル資本主義もまた危機に瀕している。ITを中核 る。ビンラディンの﹁アメリカ人を殺すのはイスラム教徒の とする産業革命が中近東やアフリカ諸国と世界の多数の諸国 ロギーの色の数だけ解釈はありうる。しかし激しい憎悪と復 小林よしのり化した反動にほかならない。 民を痛打しているのだ。グローバル・エコノミーはその恩恵 ら先なのだ。たしかにテロは許されないことだ、しかしだか 讐の念を米国に対して抱くものを別にしてWTCビルのあの 世界を電子ノイズが攪乱する。この狭間でブッシュとビン らといって空爆は許されるのか、といった思考の回路にはま からずり落ちた諸国や諸国民を産業廃棄物としてうち捨てる ラディンに象徴される二つの復古主義が激突した。断じて文 った途端わたしたちはダブルバインドに陥り、思考停止して 光景 を や っ た や っ た と も ろ 手を あ げ て喜ぶ 者は い な い と思 明間の衝突ではない。文明と野蛮の対立も善と悪をめぐる宗 しまう。この二律背反に身動きが取れなくなり、而して主観 ことで世界制覇の野望を遂げようとする。現実的にはリスト 教間の戦争もすべて擬制にすぎぬ。彼我の力の差は歴然とし 的な心情は倫理的言説となって吐露されるしかなくなる。何 う。ライブ映像の凄まじい破壊のありさまにただ呆然とし、 ており、はなから勝敗は決している。好悪をぬきにしてこの も特別なことではなく大半の人のなかで起こったありふれた ラにともなう失業問題のグローバル化としてもあらわれてい 惑星では今はアメリカ文明が人類の文明の普遍なのだ。この 心的機制だと思う。もしわたしたちがフリーズした思考回路 酷いと一声あげ、あとは内語となる。むつかしいのはここか 仁義なき戦争は自己同一性を存在了解として選び取った人類 をリセットし、別の考えをつくることができるならば、現実 る。 がかたどった文明史に遠い淵源をもち、その宿業から流れ下 唯一現実的な可能性としてあった法治の精神による犯罪捜 は考えによって書きかえ可能となる。どういう現実といえど 義の 古 代 起 源 と し て代理 さ せ る二つ の共 同 幻 想 の衝 突なの 査の選択肢は、本土攻撃のパニックとやられたらやりかえせ った必然的な噴流であり、乱流である。グローバル資本の社 だ。ソ連を崩壊させ、湾岸戦争を引き起こし、ボスニア紛争 の大合唱のなかで為すすべもなく潰えた。わたしは思うのだ も観念が表現したものにほかならないからだ。 へとひた走ったグローバル資本の空虚な欲望が煽り剥き出し があのライブ映像の持った衝撃力は決定的だった。ついでに 会イデオロギーである市民主義と、イスラム教をマルクス主 にしたハイパー・リアルの見る悪夢だ。 166 それがわたしたちが直面しているリアルさだ。資本の無意識 ョンがもたらす必要な代価。阿鼻叫喚のウソみたいな現実。 者を自己の欲望実現の手段とみなす資本のグローバリゼーシ 域化した資本はハイパー・リアルな現実を不可避とする。他 を実有の根拠とするかぎり文明史の必然というほかなく、広 グローバル・エコノミーによる産業構造の組み替えは自己 世紀の権力の地勢図はこの事件を契機に再編されるだろう。 るどんな理念もわたしたちは持ち合わせていないのだ。二一 に滲みて知っている。世界の権力や経済の地勢図を乗り越え 念として語ることはなくてもわたしたちは無力感の由来を身 い同じ土俵の上で立ち竦み、圧倒的な無力感の塊になる。理 情としては両者を否定し、しかし彼らと本質的には変わりな すものに映るのだが、どちらでもありえないわたしたちは心 のタリバンの連合軍の戦争は大悪が一方的に小悪を踏みつぶ ッシュが率いる連合軍とビンラディンのアルカイダとオマル ないこととしていまこのとき地獄が燃え盛っているのだ。ブ そこにあるはずだ。確実に世論は変わる。わたしたちが知ら 悪夢をはるかに上回る凄絶な身の毛がよだつ地獄がいくつも 弾の威力がライブ放映されたら、と夢想する。WTCビルの 言う。米軍がアフガン空爆で使用したデイジー・カッター爆 想はこれを可能だと考える。 陰伏したシステムの欲望を超えることができるか。内包の思 見える。彼らは表裏の関係にある一卵性双生児だ。同一性を 国の戦略もともに同じ思考回路の土俵で闘われているように 復讐に燃えて国家テロによって自由なアメリカを防衛する米 差別の大量殺戮を敢行したイスラム急進主義の自爆テロも、 もなく、わたしたちは世界を生きる地図を持っていない。無 戦略は荒廃しており、アルカイダのあがきに普遍性のかけら いう概念が遡上にのぼってきたといってもよい。米国の世界 のない厄災であるように見える。歴史の上で始めて人類史と わたしには今回の事件は同一性原理がもたらした避けよう できるし、飛躍的に経済の収益性と効率は向上するからだ。 きる﹂ことを旨とする社会のほうが格段に権力は円滑に行使 にめざしている欲動の本態であり 、 ﹁分に応じて、らしく生 ロまで資本は運動する。なぜならばそれこそが資本が無意識 ちは世界市民なのだ。それが擬制であるにしても摩擦係数ゼ ことで、その解決が図られるに違いない。そこではわたした 家へのあたかも地方交付税交付金のような形で富を贈与する 問題と環境問題は、統合された世界単一国家内で、貧しい国 廃藩置県されることになろう。富の偏在と不平等が招く南北 へと底上げされ、比喩としていえば、国民国家と国民経済は 2 事件勃発 の欲望が市民社会の外部を絨毯爆撃し壊滅させ始めた。外部 をなくしたシステムの欲望はテクノロジーと結合し、残され た最後の自然である身体に外部を見出すに違いない。 また現実の政治は惑星大に拡がった世界単一国家、つまり 世界合衆国の建国と市場経済を統括する世界中央銀行の創出 内包存在論Ⅱ−テロと空爆のない世界 167 変貌したかのように語られる。サラエボの一発の銃声から二 テロではない。戦争だ﹂と叫んだ。事件から一週間で世界は て喉元を凍りつかせた。逆上して切れたブッシュは﹁これは した航空機による自爆攻撃のライブ映像にだれもが慄然とし は事実だ。イスラムの大義に憑かれた者らの乗客を道づれに の爆発・炎上・崩落の衝撃が報復戦争の引き金になったこと もかく一瞬で数千名の市民を殺戮した世界貿易センタービル の新冷戦構造戦略におりこまれたものであったとしても、と 発テロ事件勃発。この世界史的大事件があらかじめブッシュ はなんのリアリティもない。マスコミも政治もエンタメ。こ 出兵の光景には哀切さや悲壮さのかけらもなく、皇室報道に り捨てて﹁雅子さま﹂の出産報道をする。恥の上塗り。海外 志を大本営発表するマスメディアが、わずかな内省をかなぐ はやりきれないものがあったし、今もある。日本国の国家意 シュに恭順の意を示し追従する小泉の無様さと薄っぺらさに 手に入れ、戦後初の自衛隊海外派兵を挙行した。臆病者ブッ ﹁恐いな、テロは﹂の本音を裏返し 、 ﹁テロ対策特別法﹂を ッシュの使い走りに勤しみ、NYグラウンドゼロでの第一声 テロも戦争も知らないアイドルの小泉首相は嬉々としてブ ンの掛け違えがある。世界が正気になることはないのか。 〇世紀の幕が切って落とされたように、オウム化したカミカ の国は何も変わらない。いや、世界は欺瞞で塗り固められて 二〇〇一年九月一一日、米国の金融と軍事中枢への同時多 ゼの特攻から新世紀は始まるのか。 々とガラガラポンできるのか。まったく筋が通らない。要す 和感があった。詭弁と欺瞞で糾われた正義。歴史はこうも易 らの世を挙ってのテロ殲滅戦への傾斜のありように猛烈な違 政権が米国の意図の上で踊っている。わたしには事件直後か ン空爆に地上軍が投入されタリバン政権を屠り去った。傀儡 への殲滅戦が開始される。同時テロから三ヶ月を経てアフガ 間に世界反テロ同盟包囲網が形成された。かくして急進主義 与するかはっきりせよとくまなく諸国を恫喝しまくり、瞬く 闘いであると妄言を宣布し、アメリカにつくかテロリストに 保安官よろしく、この新しい戦争は善と悪の、文明と野蛮の こへたどり着こうとしているのか。治者の視線から惨劇とテ 争のほんとうの主役はだれなのか。いったいわたしたちはど 惑星を滅ぼすことを体験してみたかった⋮。はたしてこの戦 世界を破滅させることも可能である。彼は言うだろう。この し純粋の悪意のみで生きる者がいればたった一人でひそかに ならば⋮と、ひとりわたしはおそろしいことを妄想する。も 連合軍を相手取って玉砕覚悟で戦いを敢行することができる して誰もいなくなる⋮。急進主義の組織が地上最強の米国と 日々の膝を抱え、事件の現場に残骸のように遺棄される。そ され、過ぎる時代の過ぎぬことを引きうける者だけが過ぎぬ おそらく今回の出来事もハイパー資本の欲望によって消費 いる。 るに強者が正義だというだけではないか。米国への同時テロ ロ殲滅を論難する巷間の口舌文化人とは異なって、内包表現 米国政府の対応は素早かった。ブッシュ大統領は西部劇の とそれに対する米国主導の報復戦争の対応には初めからボタ 168 問いをめぐって終始する。そのなかで辺見庸と出会うはずだ。 爆のない世界が可能であることを書いてみたい。メモはこの の立場から、今、何が起こっているのかを究尽し、テロと空 、も 、に盛りあがるのを好む傾向が人にはたしかにある。な ずと くなった。可愛いのは我が身であるはずなのに我が身を省み る。おうおうおう、なんてこったと思いながら、なんだか熱 ぜだろうか。 効果があらかじめ期待されたものであったにしても、おそ らくそれは演出されたものではない。巧妙に計算されたメデ るという消費の感覚。このあたりをていねいにたどってみる。 立ち。そしてなにより事件がじぶんのなかでもう過ぎつつあ おれの日々はメディアの報道するテロとは関係ないという苛 返るのだが、テロとの戦いという言葉の実感としての遠さ。 前の昏い森の記憶。きっかけさえあれば痕跡は一気にめくれ えすという感情のもつ自然さ。文化、民族、イデオロギー以 むしろ痛みへの生体防御反応にも似た、やられたらやりか わたしたちが歴史の過渡を生きていることの制約としてそれ る。貨幣による欲望の実現についてもまったく同じことで、 ま だ わ た し た ち が現 実 化 で き て い な い と い う こ と を 意 味す えればこのことは国家による市民社会の統治という理念しか 同の幻想へと昇華する以外に我が手にしえないのだ。言い換 行為であれ利他的行為であれ︱抽象化された一般性として共 とはそういうものだと思う。自己への執着は︱それが利己的 きた。国家権力はこの情動を一瞬にして組織する。愛国主義 3 潜力 復讐と報復にはきりがないというとき人は知らずに人倫の らがあるにすぎないのだ。市民社会原理はかくあれぞかしと ィアの報道からもUSAコールの感情の襞に触れることはで 根源に触れている。やられたらやりかえせ。そこには我が身 かくして自由な国アメリカの理念と反米に凝り固まったテ いう渇望に蓋をするグローバル・エコノミーのイデオロギー 動だ。弱小なアフガンのタリバン政権を米国国家権力の露骨 ロリストと彼らを匿うテロ支援国家の理念が激突する。北朝 に置きかえたとき直観するリアルがある。それは知識による な軍事の発動で壊滅させた背景には欧米以外を野蛮で未開な 鮮のテポドンミサイルが日本列島を無断で跨いだのは無礼な にほかならない。 ものとみなす唾棄すべきかの国特有の傲慢さがあるのは明ら ことだという公論は一夜にして日本国民を即席の愛国主義者 ものではない。人であることに内在するはるかに根源的な情 かなことだが、自国民の大量殺戮の惨劇を弔おうと爆心地を は共同幻想が一人歩きする。異を唱えるものは即ち非国民だ。 にしたではないか。この心的機制はあなどりがたい。この後 き、生き残った同僚から一斉に、USA、USAという声が コソボ紛争の際NATOに空爆のみならず地上軍も投入せよ 訪れたブッシュが廃墟を背にして消防士の肩に手を置いたと 沸き上がった。そのときのことはまだはっきりと記憶してい 内包存在論Ⅱ−テロと空爆のない世界 169 と要請したソンタグは米国のアフガン空爆に反対を表明し、 わたしたちが棲んでいるこの社会は民主主義を政体として し立ての叛乱を﹁わたしは革命の全過程に責任を負うもので ーもおなじ轍を踏んだ。初期ソヴィエト政権に対する異議申 している。クロンシュタット水兵の叛乱を鎮圧したトロツキ 保安官ブッシュと諸国の麾下の将校はおそろしい錯誤を犯 たのだ。それは超法規的に為された。明らかな違反なのだが、 ﹁これはテロではない、戦争だ﹂と言った瞬間に戦争になっ にゆきあたる。それが今回の米国国権の発動だ。ブッシュが 通じて導くことはできない。理念は自己言及のパラドックス に矛盾を持つことはないが、矛盾がないことを政体の理念を いる。市民社会の国家の法による統治は建て前の上では内部 ある。赤軍司令官トロツキー﹂と万感の思いを込めて署名し やられたらやりかえせという人に内在する根源的な情動が民 今その渦中にあるに違いない。 赤軍によって潰滅させた。そのときトロツキーはおそろしく 主主義の理念を突き破って一気にバッと躍りでたのだ。国家 自由の名においてデイジー・カッター爆弾でアフガンの民 孤独だったと思う。〝奴は敵だ、奴を殺せ〟が剥き出しにな もまた危機に瀕したときその埒外にないことをはっきり示し を巻き添えに虐殺を為すことと、ムハマンドの名において乗 の名において報復が正当化されるのを愛国主義に帰するのは た。言うまでもないことだが、アルカイダの首領ビンラディ 客道づれの自爆テロを為すことは同じことではないかという ったときの政治の本質だ。人は人類史においてまだそういう ンもタリバンのオマルも例外ではありえない。ブッシュと同 疑いが頭から離れない。ブッシュが保守する自由の真ん中に 簡単だが何も抉ったことにはならない。 質の政治を行使していると断言できる。容疑の犯罪について は昏い穴がぽっかりあいており、アッラーの神には人 形︵同 共同存在のあり方しか創りえていない。アメリカの自由社会 一切沈黙するビンラディンやオマルはどこかオウムの麻原と 一性︶が埋め込まれている。虚無とルサンチマンの闘いだ。 がしてきてからだが硬くなってくる。なんかヘン。ちょっと ⋮と書いているとなんだかじぶんがりくつ人間みたいな気 4 エミネムのWHY? とになるのか。 戦いに終わりはなく、勝者はどこにもいない。なぜこんなこ ひとがた 似ていないか。 ついでに言う。この社会がこの社会であるかぎり、巨大ビ ルの崩落とアフガン戦争の劫火のただなかから巨大隕石の衝 突に比喩される惑星大に肥大した少年Aが生まれることをわ たしは信じて疑わない。グローバル化した資本の欲望と生命 を選別し操作するテクノロジーの、電脳との結合がもたらす 効率化と利便さの裏側に貼りついた空虚は、モノそれ自体の ようにごろんところがる狂気まで避けようもなくゆきつく。 それはもう狂気でさえないのかも知れない。 170 しのなかでテロと空爆が消えた。それはなにかとても大事な を首を絞めて殺してやる、キル・ユーってお前のことだ、 ﹁も LP﹄というCDの2曲目にある﹁キル・ユー﹂だ。母親 たエミネムの﹃THE MARSHALL MATHERS った。それは事件とはまるで関係ないことで、今春発売され その一歩を超えちゃったわけだけど、そこで二人は﹃もうこ じなのかはわかっているつもりだよ。そこであのガキ二人は められていたし、人を殺したくなってくる気持ってどんな感 することを言う 。 ﹁俺が学校に行っている間、俺はよくいじ コロンバイン高校乱射事件に触れて、エミネムは、はっと ことのような気がする。 う貧乏をネタにラップすることはできないぞってみんな言っ のまま我慢させられるわけにはいかないんだ、やり返すぞ﹄ スイッチを切り替える。 ,。 ·:*:·☆ OK。大丈夫だ。テ ゚' ,。 ·:*:· ロと戦争についての批判についてひとつだけ有効なものがあ てるが/コカインをネタにラップするなとは言ってなかった て潔白だよ。でも、誰もあの二人の立場から事件について考 って思ったわけだよね。それでああいうことをやろうと決心 べつにエミネムのことを好きではないけれど、盆に帰省し えてみようとはしないんだ ﹂ ﹁俺がこういう人間なのも、こ ぜ/・・・/その通りだぜ、ビッチ、今となってはもう遅い た娘からいわれるまでは聴きとれなかったラップの過激な歌 ういうことを考えてこういうことをくっちゃべってるのも、 しちゃったわけだよ。もちろんそれでなんのいわれもないガ 詞のあいだに、数回一瞬﹁Why?﹂とささやくような声が そ れ は 世 の 中 が 俺 をこうしたからなんだよ ﹂ 。 インタビュア /俺のアルバムは300万枚のセールスを上げ/2つの州で 入っている。だれにともなくつぶやかれるエミネムのこの﹁W ーの﹁それを言っちゃったら、もうお終いですよ﹂に答えて キどもも死んでしまった。でも、あの二人はいじめられて、 hy?﹂がずっと耳に残っていた。エミネムの途方にくれた 言う。 ﹁そう。でも、世の中はめちゃくちゃなんだから。で、 悲劇が起こった/俺が暴力を発明したのさ、下劣で有害、キ ような、かすかな、ほんとうにかすかな﹁Why?﹂だけが、 俺はそのめちゃくちゃな世の中の産物なんだから。けれども、 臨界点まで追い詰められたわけなんだからさ。あの二人だっ テロと戦争についてほんとうのことを語っているような気が 俺は自分の娘と自分の家族の落とし前はちゃんとつけている レやすいヤツ﹂ 。 する。消え入るような﹁Why?﹂は激怒や憤激、イスラム んだからね﹂ ︵ ﹃ロッキンオン﹄二〇〇一年七月号︶ わたしはエミネムの発言をすでに処刑された連続射殺魔永 の大義や怨讐を突き抜けて、この世界のどこでもないどこか へわたしたちをさらっていく。なんだかとてもかなしくて不 違いや三〇年という時代のひらきがそこにある。しかし表現 山則夫の﹃無知の涙﹄と比較している。米国と日本の文化の ルからも、デイジー・カッター爆弾の巨大な火球からも﹁W を表出史の稜線でたどるときそれらの差異は括弧に入れるこ 思議な気持ちになってしまう。粉塵となって崩落する巨大ビ hy?﹂が聞こえていたような気がするのだ。そのときわた 内包存在論Ⅱ−テロと空爆のない世界 171 の 中 が俺 を こ う し た ﹂ ﹁俺はそのめちゃくちゃな世の中の産 とができる。それでもなおそこには歴然とした差がある。 ﹁世 シュはそれ自体がニヒリズムであるグローバル資本と連動し つくりたいと考えている。彼は根が反動なのだ。しかしブッ まなく市場経済化することには成功していない。一方で米国 てしか彼の戦略を遂行できない。ここに支配層の矛盾が存在 おそらく彼は無意識にプレイして喋っている。永山則夫は の中東政策の失敗から反米の憎悪は燃えさかっている。パレ 物なんだ﹂と言うとき、彼にはじぶんが﹁くっちゃべってい 殺人を社会のせいにできた。社会的な生存の仕方がその人の スチナを見よ。イスラエルによる国家テロは圧倒的な軍事力 している。ブッシュの復古主義とグローバルエコノミーは一 意識のありようをかたどることが信じられた。言葉の上から でパレスチナ住民を無差別に蹂躙しまくる。またITによる ること﹂がよく見えているのだ。それはエミネムが﹁勝ち組﹂ はエミネムもおなじことを言っているように見える。でも彼 産業構造の転換によりもたらされる富と恩恵はわが国ならず 枚岩ではなくねじれているのだ。グローバル資本も世界をく はそのことを信じていない。じぶんのなかには何もないとい 中東諸国と諸国民を素通りし、膨大なリストラ失業者を産み で永山則夫が﹁敗者﹂であるということとは関係がない。 うことをすでに知っているのだ。おれは人間ではなくおれで 続けている。 ブッシュは顔の見えない敵との戦いだと言う。言い得て妙 あるということをいやおうなく生きるほかない。そこに彼は 立っている。そしてそのことが表現の高度化なのだ。それは にとって敵は米国として明らかに存在する。しかし米国及び だと思う。アフガンの山岳に潜んだアルカイダは、あるいは 何を言いたいのか。エミネムのラップを喩えとして、わた グローバル資本にとって敵はほんとうに見えないのだ。目下 どうしようもないことだ。 ﹁こうして、 ﹃自分の中には何もな しはテロと報復戦争を急進主義としてあらわれるルサンチマ の殲滅すべき敵は苦海にあるテロリストであるにしても、惑 世界のあちこちに隠れているテロリストは、ブッシュらから ンというニヒリズムと、それ自体がモノのように無機的なニ 星を欲望のための欲望に駆られて移動する資本の偽装された い﹄という存在の欠損を意味が、その空虚を観念が充填すべ ヒリズムの闘いに見立てたいのだ。このニヒリズムをめぐっ ニヒリズムもまたブッシュにとって巨大な敵なのだ。テロリ 、え 、な 、い 、。しかし彼らは怨讐 はどこにいるかわからないから見 た戦いは幾重にも輻輳している。まず世界を席巻するテクノ ストもニヒリズムもともに見えない。そういう意味では期せ く非在の彼方から呼び起こされる﹂ ︵ 笠井潔﹃外部の思考﹄ ︶ 。 ロジーと結合した欲望のための欲望をきりなく追い求めるグ ずしてブッシュは本音を吐いている。自身を写す鏡をもたぬ に燃え機会を窺い潜行しているだけなのだ。国際テロリスト ローバル資本のシステムがある。ブッシュはこの動きのもた ことがニヒリズムの本質だからだ。犯行声明を出さず潜伏し この心的機制において権力が発生する。 らす不気味さについていけなくて手触りのある新冷戦構造を 172 こにも行かないように。イスラム急進主義と保安官ブッシュ る市民主義として囲い込み飼い慣らすのだ。もうこれ以上ど という妖怪を 、 ﹁分に応じて、らしく生きる﹂ことを旨とす と、対象を喪失した生の不全感としてあらわれるニヒリズム いう実体化されたニヒリズムであるルサンチマンという妖怪 いている。そこで米国の世界権力とグローバル資本は苦海と するこの敵は侮りがたく社会のあらゆる領域に巣くって息づ ないのは言うまでもないことだ。人類が始めてまともに直面 ろん内包という鏡をもたぬ資本のシステムに自分の顔が見え ズムが知性のかけらもない彼に見えるはずがないのだ。もち 方をすれば、ブッシュを脇役とするグローバル資本のニヒリ なことだが苦海と空虚は互いに回帰する。身も蓋もない言い な顔をした敵にブッシュは包囲されているのだ。そして肝心 義という敵と、グローバルエコノミーというシステムの空虚 ているから正体が見えないだけではない。苦海にある急進主 内包の思想は嵐の中から生まれた。 これは思弁ではない。ジャンピング・ジャック・フラッシュ。 いる。そんなものではわたしは生きることができなかった。 るとき彼の体温は低い。彼のなかを空虚な風が渺々と吹いて することはない。敵をなで斬りにして返す刀をじぶんに向け ないのだ。彼の明晰は人を迷妄から救いはするが、生を熱く していることに気づいた。そんなものでは︿悪﹀に歯が立た 化にあったが、この体験を通じて共同幻想論が思考の闇を残 腔で否定する。当時わたしはまるごと吉本隆明の思想の影響 生還した。だからブッシュの戦争もビンラディンのテロも満 今、そのことには触れない。わたしはそこをくぐりぬけ偶然 廃させるのか、からだに焼きついているからよく知っている。 心理的機制のもとに行われ、関わったものの心をどれほど荒 合いを一人でやって、いろいろ考え込んだ。テロがどういう 簡単に考えた。ツケはじぶんにもどってきた。リアルな殺し 悩む前にどちらかに入って、石を投げればいいじゃないかと 苦海と空虚はある事態の別様のあらわれではないか。主観 5 敵 がともにニヒリズムの代理人として覇権を争う。そして、こ の終わりのない戦いは大文字のニヒリズムにからめとられる ほかない。双頭の蛇となって闘われるこの愚劣な戦いに勝利 はない。 い分を持ち正義を主張して譲らない二つの勢力が衝突したと 的に苦海にあるビンラディンはともかく、アーレントが﹃イ テロと報復戦争を別の面からみることもできる。相互に言 き正義はどちらの側にあるのか。決定不能である。そしてこ がブッシュの阿呆面のなかにある。自己が空っぽに感じられ、 ェルサレムのアイヒマン﹄でいう﹁凡庸な悪﹂とおなじもの た頃、学生同士の衝突の場面に遭遇して作家の高橋和巳は大 生が無意味なもののようにあらわれる事態のことをニヒリズ の問いは不毛だ。三〇年ほど前、学生の乱暴狼藉が激しかっ いに悩んだ。わたしは当時血気盛んだったから、そんなこと 内包存在論Ⅱ−テロと空爆のない世界 173 の果てに空虚という境涯を手にしたことになる。あるいは内 ムと呼んでみる。言い換えると人々は数千年の凄まじい歴史 めをなすのである。 それは純粋な思想であり、かかるものとしてそれははじ じにこれらのいずれにも還元不能な﹁自分の中には何も無い 失敗というルサンチマンが観念の起源ではない。しかしどう 考えようとしていることだ。たしかに、貧困や不遇や社会的 という一人称のつくりかたが狭いからだというのが内包論が てしまう。有がこうした全くの無規定性のうちにあり、 、粋 、な 、有 、ではなくなっ く媒介なしに存在しているような純 与えれば、有はもはや論理学のはじめにおいて、まった しかしこのようなより進んだ、一層具体的な規定を有に 面と社会が矛盾してあらわれるとしたら、それは︿じぶん﹀ という発見﹂に観念の起源があるのでもない。存在と存在者、 全くの無規定性であるからこそ、それは無なのであり、 、い 、あ 、ら 、わ 、し 、え 、な 、い 、も 、の 、なのであり、それと無との区別 言 ・ あ る い は 無 意 識 と自 我と い う意 識の 範型を 根拠 と す る か ぎ はたんなる意向に過ぎないのである。 ・ ・ り、自同律を反復しようと反発しようと、生が根柢でかかえ る不全感からはまぬがれえぬということが重大事なのだ。 、と無 、の区別は、区別があるは 、ず 、だ 、という区別に 補遺 有 態であるからであり、第一のはじめというものは媒介さ それは純粋な思想であるとともに、無規定で単純な直接 、粋 、な 、有 、︹あるということ︺がはじめをなす。なぜなら、 純 ものにすぎず、無もおなじである。したがって両者の区 持たなければならない。ところが有はまったく無規定の 二つのものがあって、各々他方にはないひとつの規定を 、立 、さ 、れ 、て 、いない。区別と言うからには、そこには まだ定 ヘーゲルは﹁有論﹂で言う。 れたものでも、それ以上規定されたものでもありえない 別は、あるはずだと考えられているにすぎないもの、ま すぎない。言いかえれば、両者の区別は即自的にすぎず、 からである。 る。これをわれわれは有と呼ぶ。われわれはそれを感覚 定に先立つ無規定、最も最初のものとしての無規定であ ゆる規定の揚棄ではなく、直接的な無規定、あらゆる規 直接的なものであって、それは媒介をへた無規定、あら はじめにおいてわれわれが持っている無規定なものは、 であるから、その区別には土台がなく、したがってそれ れら二つの規定はいずれも同じように土台を持たないの 共通のものである。これに反して有と無の場合には、こ る。例えば二つの異った類という場合には、類が両者に れ た も の を自 己の 下 に包 括 する 一つ の 共通 の も の が あ ものであるその他すべての区別の場合には常に、区別さ ったく抽象的な区別であって、同時になんら区別でない することも、直観することも、表象することもできない。 174 された思想ではなく、全く無規定な、それゆえに無から と言う人があるとすれば、その人は、有は特殊な、規定 思想であるから、思想が両者に共通なものではないか、 はなんら区別ではない。もし有と無とはしかしどちらも ら組み替えること。内包存在論はそれをめざしている。 想の帰結だという気がする。マルクスの思想の真意を根本か を招いたのは、マルクスの思想の必然であり、ヘーゲルの思 クスにもひきつがれる。マルクス主義が人類史の規模の厄災 ヘーゲルの混沌とした豊穣な﹁有論﹂を︹根源の性︺でた 対の内包を分有するとき、一方に︿あなた﹀が、他方に︿わ どりなおし、内包存在を主体とする存在論をつくりうるなら、 も言わないとすれば、われわれはあらゆる規定されたも たし﹀があらわれる。内包存在を世界の主体とする内包存在 区別することのできないような思想であることをみのが のを看過ごしているのであって、われわれは絶対の充実 論ではそう考える。そうすると、ヘーゲルの﹁有﹂の根底に しているのである。︱次に人はまた有を絶対の豊かさ、 ではなく絶対の空虚を持つにすぎない。同じことは、単 は対の内包が存在することになる。しかしヘーゲルはそこま 近代が発見した自己同一性の弁証はひらかれる。それはマル なる有としての神の定義についても言える。このような で行かなかった。分有されたそれぞれの自己を、否定を媒介 無を絶対の貧しさとして表象するであろう。しかしわれ 定義が正しいとすれば、神は無であるという仏教徒の定 、識 、の 、総 、体 、を世界と考 に自己関係として伸縮した精妙煩瑣な意 、会 、思想を転回することになる。 クスや吉本の社 義も同様に正しい。仏教徒はこの原理をつきつめて、人 えた。 われが全世界をみて、すべてはあると言い、それ以上何 間は自己を絶滅することによって神となると主張してい そうではない。対の内包があるから﹁有﹂が存在し、事後 から立ちあげたことには驚かされる。どんな思想も思想であ じまりの不明というほかない、言語の彼方にある豊穣な混沌 それにしてもヘーゲルが祝詞みたいな﹃小論理学﹄を、は ち出さずに自己同一性の起源を探りあてようとするなら、フ た無規定な﹁有﹂を要請することになる。神という観念を持 ヘーゲルの﹁同一性﹂は起源を訪ね、暗黙のうちに混沌とし と内包存在についての機微︵弁証︶を知らなかった。だから る。 ︵ ﹃小論理学﹄上・いずれも松村一人訳︶ るかぎり、例外なく起源の闇を抱え込んでいる。逆にいえば、 ロイトが自我の探索の果てに混沌と沸き立つエスを見いだし 的に自己同一性が現象するのだ。おそらくヘーゲルは﹁有﹂ 無明のおののきを懐深くにもたないようなものを思想とは呼 たように、あたかもエスに相当する﹁有﹂をそこに想定せざ ﹁有﹂を自己同一性という概念まで抽象化すれば、 ﹁同一 るをえないからだ。しかしほんとうは逆ではないのか。 ばない。 ﹁有論﹂もそのようなものとしてある。 ヘーゲルは﹁有論﹂がもつ豊穣な混沌を﹁同一性﹂に閉じ こめた。ヘーゲルがつめきらずにのこした近代の逆理がマル 内包存在論Ⅱ−テロと空爆のない世界 175 て定義する。すると、直線という最短距離によって直線を定 たとえば、数学では、直線を二点間を結ぶ最短距離によっ スを導入し、自己同一性や自我で世界を遡及的に記述した。 のはじめに﹁有論﹂を据え、フロイトは精神分析学の礎にエ ヘーゲルの絶対精神とはそういうものだ。ヘーゲルは論理学 性﹂は観念の自働性で止めようもなく行くところまで行く。 わたることになる。 に、ニーチェが世にひろめたニヒリズムとしてあまねくゆき 接的な無規定とヘーゲルが呼ぶ﹁有﹂のあいまいさが、のち 論﹂にある。直観することも、表象することもできない、直 、 るというのが、ヘーゲルの認識の根本のかまえだ。なぜ、 ﹁純 、な 、有 、﹂がはじまりをなすのか。明晰なヘーゲルの不明が﹁有 粋 一般および動物から区別﹂される自己意識によって措定され つづ 義するという矛盾が生じる。定義されるものが定義の文言に ヘーゲルも、彼に追随する者も、彼を批判する者も、約め 、己 、の 、う 、ち 、で 、反照する。すなわち純粋な反省であ 本質は自 事として、男や女が︵生理の性も含め︶事後的に分節される ころはない。そうではなくて、性という超越を分有する出来 ふくまれてしまうのだ。同じことをヘーゲルも踏襲する。 る。かくしてそれは単に自己関係にすぎないが、しかし のである。どんな指示性によっても語りえない、ほかならぬ 、の 、︿わたし﹀は、いかなる機縁によってあらわれいでたの こ ると﹁自﹂を実有の根拠とみなす思考の型においてかわると 、己 、と 、 直接的な自己関係ではなく、反省した自己関係、自 、同 、一 、性 、である。 の る。 ・・・人間を自然一般および動物から区別するもの よって生成したものであるから、観念性としての有であ と同じであるが、しかしそれは直接的な規定性の揚棄に 同一性はまず、われわれが先に有としてもっていたもの 近代がつくった現代の累層する歴史の制約がある。 数学のように存在しているのではない。またそこに近代と、 の他者であるかのように﹁わたし﹂と自己関係する。ひとは 形式においては同一であるのに 、 ﹁わたし﹂があたかも一個 あるものとそのものとの関係は、近代起源の意識の粗野な か、このことだけが真に考えるにあたいする。 も、自己意識という同一性である。 したがって同一性は同時に関係であり、しかも否定的な る意味でもA=Aということは、ひとのふるまいや、ふるま て睥睨され統べられる。賢いヘーゲルは知っていた。いかな 近代はヘーゲルに象徴されるから世界は﹁同一性﹂によっ 自己関係、言いかえれば、自分自身から自己を区別する いが収蔵された世界や歴史にとってはありえない。だから、 なる概念で刻み、それらを括る﹁移行﹂という概念で修復し 、れ 、を、区別・差異・対立 ﹁同一性﹂が自体にたいしてもつぶ ものである。 ︵同前︶ ﹁観念性としての有﹂が﹁同一性﹂であり、それは﹁自然 176 わたしがヘーゲルの自己同一性を拡張する。太初に、ヘー 、ア 、ル 、がどこにあるか。 以上のリ れらを貫くリビドーという概念がこれに対応する︶ 。彼はそ 、粋 、な 、有 、﹂を立ちあげる、 ゲルが直接的な無規定と名づけた﹁純 ようと試みた︵まさに、フロイトの自我・超自我・エスとそ れができると考えた。ヘーゲルの弁証法とはそういうものだ。 内包する気のたわみが存在する。内包存在がくびれて分有さ ヘーゲルは直観することも表象することもできない。だから 人間精神がおのずと内蔵する観念の見えない動きにヘーゲル しかし考えてもみよ。なぜはじめに﹁同一性﹂なのか。 ﹁同 ヘーゲルはそのありようを、もっとも直接的な無規定である れた存在を事後的に自己意識が﹁有﹂とかたどるのだ。自己 一性﹂がなぜ普遍的で根源的なのか。ヘーゲルにあっても根 というしかなかった。自己意識によって﹁有﹂にふれること 意識ではつかむことのできない﹁有﹂の興りとそのしくみを、 源の事象は幽霊のように忽然とあらわれる。意識の平行線公 はできないからだ。内包存在によってヘーゲルの﹁有﹂は拡 は論理の筋目をいれた。而して彼の長い足は二〇〇年を一跨 理に比喩され、ゆるぎなくみえるヘーゲルの﹁同一性﹂とい 張され、途方もない転回を遂げる。西欧近代の巨大な才能た ぎにした。 う概念の根柢にあるはじまりの不明は無視できない。ヘーゲ ゲルの﹁有﹂よりもはるかに根源的な気が存在すると考えた。 ちは、 ﹁有﹂を点と外延で縁取ったものを﹁存在﹂とみなし、 ヘーゲルの論理は逆立ちしている。だから同一性が陰伏す 世界をよく感じ、徹底して考えつめると、ヘーゲルが手つ 、い 、あ 、ら 、わ 、し 、え 、な 、い 、も 、の 、﹂であり、 ルがいうように、有が﹁言 る謎が、いまニヒリズムとしてあまねく生きられる。はっは。 、る 、と 、い 、う 、こ 、と 、にまつわる明晰が かずに不明のまま遺した、あ ﹁存在﹂をかたどるものを﹁同一性﹂と呼び、 ﹁存在﹂と﹁同 存在論の拡張が断じて現実や歴史の分析に先行する。そうで も つ 弛 み に 気 が つ く 。 思 想 に と っ て 決定的 な の は 、 ﹁存在﹂ 一性﹂の彼我を往還するものを﹁意識﹂と名づけた。わたし ないとしたら、わたしたちは冷え冷えした空虚をかかえて際 でも﹁同一性﹂でもなく、それらが内包存在に順伏するとい 、い 、あ 、ら 、わ 、し 、え 、 観念としての有が同一性だとしたら、なぜ﹁言 、い 、も 、の 、﹂が自己意識としての同一性を措定できるのか。お な 限もなく内省と遡行を繰り返すだろう。そして時折、神戸の うことなのだ。全くの思考の未知がここにある。内包が外延 は、それなしでは﹁有﹂が﹁有﹂として現象しえない、ヘー 少年Aみたいな事件に遭遇しては喉元を凍らせる。ニヒリズ 化された以降の﹁存在﹂や﹁同一性﹂についての精緻な記述 かしいではないか。 ムからモノのような狂気までほんの紙一重だ。もしかすると 第一次の自然表現としては、おおむね妥当なものであるとい はヘーゲルでも、ヘーゲルを受けたハイデガーでも、意識の 思想はそういう戦慄を不可避とする。存在論は思弁ではなく ってよい。わたしたちの思考の慣性は外延表現にあるから、 すでにそこを生きはじめているのかもしれない。点と外延の 肌が粟立つほどなまなましいことなのだ。思考にとってこれ 内包存在論Ⅱ−テロと空爆のない世界 177 異性﹂に拠る解体表現によって巻き返そうとしたのは、カラ 近代を超えようと意欲した現代が、 ﹁同一性﹂の弛みを﹁差 このなかに超えがたい背理がひそんでいる。 領有されることの信念の表明に近代の偉大さがあり、同時に の規模での革命であったと思う。自己が﹁わたし﹂によって ゆる スになぜ鳴くの、と訊くようなものだった。勝手でしょ、と 、相 、相 、る 、とすれば、そのものは還 、として、あ 、も 、の 、 あるものを往 、る 、も 、 か﹁差異性﹂か、ではなく﹁同一性﹂の拡張なのだ。あ 、とそ 、の 、包 、一 、も 、の 、は、厳密には内 、の関係にあって同 、ではない。 の して見え隠れしていることに変わりはない。問題は﹁同一性﹂ しかしいずれにせよ大文字の﹁同一性﹂が意識の線状性と という自己同一性をそのよりどころとしている。これは疑い であれ、それらの考えは 、 ︿じぶん﹀が﹁わたし﹂に等しい すでに滅んだ社会主義思想もそうだが、どんな考え︵思想︶ ることだから、この矛盾を解こうとさまざまな考えが試みら 行為の対立と背反は、対象的な意識としてはよく知られてい もちろん、即自と対自、あるいは利己的な行為と利他的な に関係する。あるものがめくれて他なるものとメビウスの環 えない事実だと思う。またそのことによって現代の豊饒と奇 ポスト・モダンは考えた。嗚呼。 をなすから、ひるがえって、あるものはそのものに重複する。 形的な繁栄がもたらされた。 は、存在論の拡張においておのずと拓かれる。近代の天才も、 る。たしかな手応えがわたしにある。近代がかたどった現代 かなり変な、しかし内包する意識にとっては自然を語ってい 義としてあらわれ、両者は互いに鏡像関係にある。この自己 その内面的表現が空 虚として、社会的な表現が消費資本主 梃子の原理とする存在の形式である。現代に照らしていえば、 自己同一性原理とは、あるものがそのものに等しいことを れた。文学や批評、マルクス主義の実践もそのひとつである。 それが本然であり道理だ。わたしは外延する意識にとっては 彼らを模倣する者も、思想のこの機微を知らない。そういう 保存系の思想を拡張することに思想のダイナミズムがあり、 じねん 意味では﹁外部﹂が好きな笠井や柄谷は、自己意識の外延的 生きられる可能な世界のすべてがある。 ニヒリズム 表現 がたどりつく 必然を 身をもって 演じているといってよ いうこととしてあらわれた。その規範的表現が、たとえば、 それは 、 ︿じぶん﹀という出来事を﹁わたし﹂が所有すると 代と名づけている時代に大きな転換点があることがわかる。 思考の歴史というようなものを考えると、わたしたちが近 にあえぐサラ金の債務者に似ている。いくら返済しても元金 措定するように思想がかたどられる。このありさまは高金利 へ写像され、しかるのちに無意識が自我を、存在が存在者を られている。まずはじめに、自我が無意識へ、存在者が存在 の存在者と存在の関係も、おなじ意識の呼吸法によって縁取 たとえば、フロイトの自我と無意識の関係も、ハイデガー 法の下における万人の平等という観念だ。わたしの考えでは、 が減らないのだ。もとより元金が空虚に比喩される。 い。 人間・社会・大衆・自己といった一群の観念の出現は人類史 178 男性の女性に対する関係のなかに洞察したマルクスの思想の マルクスも例外ではなかった。せっかく人間の自然本性を よって自己同一性は拡張しうる。 ﹁外部﹂を可能とする第三項さえも存在しない。内包存在に のではない。この世界には、第一項も第二項も、 ﹁内部﹂と ってもよい。吉本隆明の思想の核心をなす自己幻想と共同幻 るようになる。この思考の型をもって近代を定義できるとい のや、出来事の根源自体を指し示しうる権能をもつと主張す ず、そのことをぬぐい去り、やがて逆立ちして、存在そのも 態の 事 後 的 な解 釈として妥 当するにすぎないにもかかわら な時代、いかなる兆しも外部から訪れることのない時代﹂ ︵レ 断が主観的な意識の襞のうちにしか基準を見いださないよう また記憶の坂道を転げ落ちる。 ﹁善悪をめぐる優柔不断な判 なりに引き絞る。からだがばらばらになりそうだ。わたしも 為では起こりえない世界をこの世にあらしめようと思考を弓 同時テロと報復戦争の愚劣が引き起こした惨劇がもはや人 6 敵の彼方 原石は絶え間ない抽象化の過程で、類的共同存在へと至る豊 饒さを捨象し、関係的存在をそのまま価値形態論にもってい くことができなかった。同一性の経済的理念化として﹃資本 論﹄は不朽の名作となった。 想の﹁逆立﹂論も、意識の線形性において同じ轍を踏んでい ヴィナス﹃固有名﹄ ︶ 、そのとき世界はどうした。何事もなか 奇妙なことにそうやってつくられた思想は、ある根源の事 る。わたしは、この表現の型を自己意識の外延表現と呼び、 ったように過ぎていった。分を超えた理不尽な引きうけとい 手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残り 外延表現を拡張した内包存在とその分有者がとりもつしなり 自己同一性が内包存在という主体のかたわれだということ ました。それ、言葉だけが、失われていないものとして残り う事態のなかで、おれは人間ではなくおれであるほかなかっ は、 ︿わたし﹀の根源が︿あなた﹀であり、 ︿あなた﹀の根源 ました。そうです。しかしその言葉にしても、みずからのあ やたわみのあらわれを内包表現と名づけてきた。内包は外延 は︿わたし﹀であることに発祥する。あるものが他なるもの てどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌 た。 ﹁もろもろの喪失のただなかで、ただ﹃言葉﹄だけが、 に重ならないなら、なぜ、あるものがそのものに等しいとい の千もの闇の中を来なければなりませんでした。言葉はこれ の拡張としてある。 うことがおころうか! ﹁自﹂がかまえをほどくその度合い も発することができませんでした︱しかし言葉はこれらの出 らをくぐり抜けて来、しかも、起こったことに対しては一言 する。この事態のことを内包と呼ぶ。わたしはこの驚異をそ 来事の中を抜けていったのです。抜けて行き、ふたたび、明 におうじて﹁他﹂がそのなかに陥入し、ふいに自・他が反転 のまま主体とする存在論が可能だと思う。二項対立を超える 内包存在論Ⅱ−テロと空爆のない世界 179 メ ン 文 学 賞 受 賞 の 際の 挨拶 ﹂ ︶こ の 言葉 に ど れ だ け 励 ま さ れ たかにされて﹄ ﹂ ︵パウル・ツェラン﹁ハンザ自由都市ブレー るいところに出ることができました︱すべての出来事に﹃ゆ 事にやってのけた。そうではなく、わたしたちの存在原理が でもない。たましいの自由についてなら、釈迦もイエスも見 ていかなる敵に遭遇しようとたましいの自由があるというの のだ。敵は、外界に勢力としてあるのでもなく、ひるがえっ 拡張できると考えた。もし共同化不能の根源の一人称を生き する。わたしは貧血と狂熱に引き裂かれてぶれるこの世界を 源の一人称と名づけた。ここにおいて人間という現象が発祥 には熱い風が吹いていた。いいぞ、わたしはこの熱い風を根 の底板を踏み貫いて這いあがると世界の背中が見えた。そこ こることであり、けっして共同化することはできない。地獄 ことではない。ひとえにこの矛盾や背反は、 ︿わたし﹀が︿あ 考えている。問題は断じて、汚れた政治と内面の自由という を拡張したいのだ。内面と社会という思考の慣性を制約だと 的な個人とその頭上に被さる共同性という対位のもつ不毛さ う。マルクスの思想もこの豊饒を大地とした。わたしは恣意 系としてそれはある。人類史における偉大な革命だったと思 発見した法の下における平等から派生するいくつかの理念の この世での自由は我が身の自由としてあらわれる。近代が 偏っていると言いたいのだ。 たか。 時代から残骸のように遺棄される生き難さのなかに敵の彼 切ることができれば、一切の計らいを超えてこの世ならざる る﹀ことの制約から派生しているのだ。 方への可能性がひらかれていると今は思う。それは個々に起 この世が、おのずとこの世にあらわれることになるだろう。 考えることや表現するということの決定的な転回がここに 同一性の彼方にあるというのはこういうことだ。自己表現で ︿ある﹀ということの本来性は人為を超えた潜勢力をもって 根源の一人称と呼ぶ無限小の豊饒な渾沌に、国家による市 、包 、表 、現 、だとわたしがいうのはこの意味である。こ はなく、内 ある。根源の一人称が︿じぶん﹀に驚き、おのずとはじけて 民社会の統治を高らかに謳いあげる治者の美しい詭弁や反治 とばというたましいのふるえが、音もなく降りつむ雪のよう いる。みずからではないおのずからなる世直しというものが 者を仮装する者らの醜い欺瞞を超えて、生きることと、関係 に内包自然となってこの大地に舞い降りる。そのかたちのこ かたちとして宿ったのがことばなのだ。ことばがすでにして することの可能性のすべてが秘められている。そこには共同 とを内包社会と呼ぶことにする。モナドとしての個人とその あるのだ。 幻想がない。共同幻想を一点で吊る自己幻想が内包存在の分 わたしたちの人類史は根源の一人称が身をよぎったときそ 群の間の対立・矛盾・背反を解く鍵がここにある。 の境涯のことを述べているのではない。自己同一性原理が支 の驚きを同一性という存在の仕方に封じ込めた。そしてその 有者としてすでに拡張されているからだ。わたしはたましい 配する世界の自由という名の専制に内奏する詭弁を撃ちたい 180 が衝いた。フォイエルバッハは宗教を人間精神の夢と言い、 では考えていないはずだ。その盲点を西欧近代の巨大な知性 のことを指している。伝承される釈迦やイエスでさえここま た。わたしが神や仏が究尽されていないというのはこの事態 心残 りを 宗 教 的 な大 洋 感 情 と い う共 同の幻 想と し て 疎 外し ち切り、彼方までゆくのだ。 てでもこの難所を超えたいのだ。内省と遡行という思考を断 みではなく、まして哀しみを縁取る挽歌でもない。なんとし したいのはそうでしかありえない、人の存在のあり方の哀し ないかぎりわたしたちは負け続けるしかない。わたしが手に 争をめぐる愚行の核心がある。ここにある困難な背理を超え 美しいアメリカの陰に隠れた悪行の数々を﹃9・ ﹄でチ マルクスは阿片だと言った。唯物思想からの批判は半面の正 当性を持つ。しかしそのことで︿ある﹀にまつわる超越の謎 虐殺が行われるのか。バッと躍りでたこれらの狂念は文化や なり、自爆攻撃をはるかに上回る報復という大義を楯にした とに無関係の人々を巻き込んだ自爆攻撃という殺戮が可能と 教にあっても変わらない。なによりなぜ、アッラーの名のも し、教化するのか。教化は世俗化を不可避とする。イスラム 類史の厄災として結実したのか。宗教はなぜ衆生に警鐘を発 野性のマルクスの思想は現実にはなぜかくもおぞましい人 聞いて、私は林の中へひとりで入っていき、二、三時間たっ ったのだ。私は夏休みのキャンプに行っていた。ニュースを あの日、私は文字通り誰とも話ができなかった。誰もいなか ﹁私は広島に原爆が落とされた日のことを今も覚えている。 していた。 むファシストの国を撃滅して米国民は勝利に湧いて狂喜乱舞 る彼が一五歳の夏のこと。野蛮でクレイジーなジャップが棲 んて、という気になるのだが、のちに天才言語学者と謳われ ョムスキーは暴く。読むと、ひでえもんだアメリカの自由な 民族やイデオロギーの違いによって片がつくほど柔なもので たひとりで過ごした。広島の原爆投下について誰とも話がで が解けたわけではない。 はない。 きなかった。他人の反応がまったく理解できなかった。私は かつての敵国人にこんなにナイーブな感受性をもったひと パスカルの言葉を引用しつつレヴィナスが語る、 ﹁ ここは 愚かだ。玄洋社の杉山茂丸を父に持ち﹃近世怪人傳﹄を書い がいたことを知ってすごくうれしい。つい最近身罷った数学 自分が孤立していることを感じた﹂ ︵﹃チョムスキー・リーダ た 夢 野 久 作 の 長 男 で あ る 杉山龍丸 は 、 ﹁故に私は、カースト 者の倉田令二郎がむかし紅顔の青少年だったわたしにさかん おれの日向ぼっこする場所だ。ここから地上のあらゆる簒奪 問題は、人類のもっている文明の中から生まれた現象であっ にチョムスキーを読めと勧めたことがあった。理詰めのヴィ ー﹄パンテオン・ブックス︶ て、文明そのものを是正せぬ限り具体策は生まれないと考え トゲンシュタイン︵﹃反哲学的断章﹄ 、これいいです︶みたい の歴史が始まった﹂ということを社会的な文脈で解するのは ています﹂ ︵多田茂治﹃夢野一族﹄ ︶と言う。ここにテロと戦 内包存在論Ⅱ−テロと空爆のない世界 181 11 チョムスキーと﹃9・ ﹄を縁に邂逅した。喰わず嫌いとい なあんなもの読むかい、といってそれほどなじみのなかった たチョムスキー は、一つの墓石を見つける。碑文には 、 ﹃こ ﹁感謝祭︵一一月の第四木曜日︶に国立公園を散歩してい 攻とか侵略ということは問題にすらならなかった。ベトナム、 が米国に軍事援助を頼み、米国が軍隊を送り込んだとき、侵 基本的性格が問題にされた。しかし、南ベトナムの傀儡政府 と、それは疑いもなく侵略とされた。そしてソ連システムの いらい︶政権が、ソ連に軍事援助を﹃頼み﹄ソ連が侵攻する たのであって、攻撃していたのではない。カブールの傀儡︵か ﹁公式な歴史によれば、米国は南ベトナムを﹃守って﹄い 瞞だと彼は言う。ロックが好きなわたしは足をすくわれた。 あっても、米国のベトナム侵略という言葉はない。それが欺 あいだ。わたしたちの頭にソ連のアフガン侵攻という言葉は な?﹂と戸惑いながら、はたと気づく。彼の叙述はそんなぐ ーと、そんなことはあったかな、待てよそれはいつだったか うくだりをよんで、頭のなかを?マークがいくつも飛ぶ。 ﹁エ ば、文中に﹁アメリカが南ベトナムに侵攻したとき⋮﹂とい ムを彼は鋭利に取りだす。盲点をつかれはっとする。たとえ とをしない。自由についての幻想と複雑な自己欺瞞のシステ してアーレントのようにシオニズム運動に関わるが群れるこ うこともあるものだ。ユダヤ人を両親に持つ彼は通過儀礼と 自らの身体と、財産とを捧げた﹄と書いてあったとしたら、 の家族とその民族は、この偉大な国家の成長繁栄のために、 場所︶を訪れ 、 ﹃ここにひとりの女性が眠る。ユダヤ人。そ ュビッツやダッハウ︵ナチスのユダヤ人強制収容所があった であるが、別にこれと言う反応は示さない。しかし、アウシ 勢のアメリカ人が訪れ、碑文を読む。善意の、まともな人々 い規模の大虐殺が行われたのだ 。 、 国立公園 で あ る か ら 、 大 れが、一六五〇年には、五%しか残っていなかった。もの凄 アメリカ一帯には八〇〇〇万人のアメリカ原住民がいた。そ アメリカ大陸を﹃発見﹄した一四九二年の時点で、ラテン・ いうのは正確とは言い難い。現在の推定では、コロンブスが 彼ら原住民族が、国家建設の気高い目的のため身を捧げたと れ、人口が二〇分の一に減らされ、追い散らされたのである。 な集団虐殺の一つとされる行為があり、インディアンは殺さ の背後にある歴史的真実を指摘する。歴史上で最も大掛かり 願って、身を捧げ、土地を与えた ﹄ 。チョムスキーは、碑文 その家族と部族は、この偉大な国が誕生し、成長することを こにひとりのインディアン女性が眠る。ワムパノグ族の人だ。 脱帽。征服し同化した傷跡を歴史と称する。野蛮から自由 反応は違うだろう﹂ ︵同前︶ しても、米国システムの基本的性格を問う声は上がらなかっ たら、小犬と出くわした。気性の激しい我が老犬があろうこ い﹂にわたしも同意する。冬至の夕暮れ、犬の散歩をしてい への進歩、そんなことあるかい。辺見庸の﹁よくて国家は災 見事な見本をもうひとつ。 より︶ た。アメリカは違う、というわけだ﹂ ︵ ﹁訳者あとがき・解説﹂ ニカラグア、エルサルバドルなど多数の国にアメリカが侵攻 11 182 いだ。しかし﹁地﹂と﹁図﹂を相互に関係づけることを可能 由という専制が﹁図﹂となって浮き上がってくるというぐあ るとくるりと反転し、反対に﹁地﹂となった征服の歴史に自 に描かれた勝者によって編纂された同化の歴史は視線を転じ は 主 張し て い る 。 ﹁地﹂と﹁図﹂の反転。自由という﹁地﹂ ると、可愛い雌犬だった。というようなことをチョムスキー てもおなじなのだが ︶ 。わたしはこの出来事を内包と名づけ ぬ他者がわたしをじぶんの分身として生きうる可能性といっ 、た 、な 、し 、があ 、た 、であることが可能となるのだ︵ほかなら らぬわ 、た 、か 、し 、がじ 、に 、性 、で 、あ 、る 、同一性の彼方。だから、ほかな だ。わ して同一性の罠だ。そうではなくひとつの生が分有されるの その物語は外延表現︵史︶で語られ尽くした。それはすでに それぞれの生が交わるところに性が生まれるのではない。 ように受け取られるだろう。人びとをして言うにまかせよ。 とする同一性まで疑うことをチョムスキーがやるわけではな た。融即した︿わたし﹀とその︿わたし﹀を分有しそこから とか道を譲る。うちのボブも歳をとって人間が、いや犬がで い。わたしは征服と同化を同一性がかたどっていると考える。 身を起こした︿わたし﹀を、内包と分有者の関係と言い換え わたしは行く。 この標的を組み替えることができないならば、もう考えるこ てもよいが、この︿わたし﹀は、身体と身体に貼りついた︵電 きた。ひとも斯くありたいものだといたく感心して、よく見 とはないのだ。 子ノイズのかたまりのような︶自我を一対のものとする﹁わ たし﹂とは異なる。 融即する︿わたし﹀の分有者は心身を不即不離とする﹁わ 彼方をめざす過程を歴史と名づける。それは人類が群への同 わたしは人びとが同一性原理のくびきから逃れでて存在の もつ我と呼んでもいい。非我は我の外延された、他者にあら 己という現象の本義である。そのことを我にあらずをふくみ てはじめてわたしがわたしであることが成立する。それが自 7 内包史 化から個を析出する過程を歴史とみなした自己意識の外延史 われる他者の我のことではない。自然への融即という心身一 たし﹂につねに先立つのだ。根源の性を分有することにおい を、人であることの根源からもう一度たどり直すことであり、 如を指すのでもない。我にあらざる我とは﹁わたし﹂に先立 つ根源の一人称を分有しうる驚異のことにほかならない。 外延史に対して内包史と呼ぶことができると思っている。 昔、部落は共同幻想であると生存を賭けて行動したとき、 在であった以上、そこには悪魔が紛れもなく現存していたか ﹁なぜ神を放棄してはならないのか。絶滅収容所で神が不 すごかったぞ。どっこい、おれは生きた。三〇年経って勝負 らだ﹂とイリヤをかんがえつめたレヴィナスは自同律の不快 観念論であると嘲られ、その一方で仁義なき闘いに突入した。 はついたと思っている。今、わたしの内包論は当時とおなじ 内包存在論Ⅱ−テロと空爆のない世界 183 なのだ。過誤の人類史!と愚痴のひとつも言いたくなる。 人ランボーのことである。かくも自同律とはやっかいなもの とは一個の他者である﹂と精神の荒野を駆け抜けた砂漠の商 のである ﹂ ︵﹃全体性と無限﹄合田正人訳 ︶ ﹁詩人﹂とは﹁私 自己による自我の否定はまさしく自我の自己同定の一様態な もないこの他性が︿同﹀の戯れでしかないからだ。すなわち、 詩人の想像力を鼓舞することもありうる。が、それはほかで に つ い て 批 判す る 。 ﹁自分を他なるものとみなす私の他性が をかけて視界が悪くなってきた。電脳化した同一性の仕業だ。 報復を批判するほんとうの根拠を見えにくくしている。拍車 他者を自己の欲望の手段とみなす消費社会の浸透力はテロと に仕立てあげた。何かが凄まじい速度で忘却されつつある。 望 とひきかえに ﹁ 私 ﹂ ︵の生︶を人間の本然と軛を争うもの を感じたり考えたりする余裕すらなかった。偉大な近代は欲 りだしたことがなかった。ただひたすらに生きて、そのこと であることの由縁が何かということをいちどもていねいに取 化・民族・宗教の違いを超えて殺人を悪とみなしてきた。も を書いている。人びとはながいあいだのくらしの智慧で、文 世界に到達したいのだ。いや、それが可能だと思うから考え わたしは言葉を戯れているのではない。テロや報復のない のあなたとの風炎の情が、根源の性の感得ということなのだ。 在によぎられた還相のわたしと、内包存在にやどられた還相 、 ることしかできない。つまり﹁存在するとは別の仕方で﹂で 、る 、存在とは、存在に先立つ内包存在のことであり、内包存 あ とがあらわれるのだ。点と外延の思考はそのあらわれをなぞ だからこそはじめて、あるものがそのものに等しいというこ もともと、あるものと他なるものが直接に無媒介に一であり、 相重なるとき、自己意識の同一性がはじめてほどけてくる。 る。その世界を現実のものとしたいから、一心に同一性の彼 られぬ、おのずからなるこの世の革命というものに心惹かれ たしはそのようなものとしてある、とどめようとしてとどめ 斉に色めき匂い立つ。それはどんなにいいものだろうか。わ 他者への配慮を矛盾なく融即したいのだ。そのとき世界は一 拠って人間という概念の幹を太くすることで、自己の陶冶と を切断し終焉させるのではなく、人が人であることの由縁に る。わたしは、フーコーのようにこの厄介な人間という概念 であることのなかに封じ込められた制約を同一性原理がはら 結果としてふるまわれてきた。この人類史的な、自己が自己 しは考えている。いつも人間という概念は制約されたことの まだ人間という善きものは本懐を遂げたことがないとわた だから人は濃密な生を求めてサイコものに走るのだ。 とよりりくつで知っていたわけではない。りくつ以前の何か 方を考えているのだ。かつてのわたしの愚劣があり、いまそ あるものとそのものが、住相廻向ではなく還相廻向として 、れ 、があるために人が人となっ として身につけてきたのだ。そ こにある世界の巨大な愚劣が念頭から去ったことはない。 、れ 、が 、あ 、る 、た 、め 、に 、人 、が 、人 、 途方もない夢を語ることになる。そ む背理と呼んできたのだ。だからこそ禁止はいつも侵犯され 、と 、も 、と 、あるのだ。しかし押し寄せる飢餓と天災と た由縁はも たび重なる戦乱を草木虫魚としてやりすごすのに懸命で、人 184 者のことをわたしたちは制約された思考の習慣で同一性に封 後者はおのずのわたしによぎられた分有者である。この分有 らのわたし﹀ ︵s︶であるとき、前者が根源の一人称であり、 する。 ︿おのずからなるわたし﹀ ︵S︶のあらわれが︿みずか のずのわたし︶を分有するとき︿みずからのわたし﹀が現成 たらしい言葉で取りだすこと。根源の性である内包存在︵お 、な 、と 、っ 、た 、、人であることに内包されるも 、も 、と 、あ 、る 、超 、越 、をあ と 張できるなら充分に可能だ。 するに値するものか。値しないことがあろうか。同一性を拡 社会の統治という制度をこえる契機はないのだ。世界は意志 しここにおいてこそ、いやここにおいてしか国家による市民 にするのではないかと思っている。愚案かもしれない。しか どSがsを共軛することにおいて、三人称のない世界を可能 越す。根源の一人称︵S︶と、その分有者︵s︶は、そのつ ぎられて身体に宿ったのが︿みずからのわたし﹀ということ ことばの本義は︿おのずのわたし﹀にあって、この熱によ 想にこの問いを向けてみる。マルクスが信じた明晰の芯にあ でなにが時代の推移に耐えて残るのだろうか。マルクスの思 るいは念をかたちにしたものが思想であるとして、そのなか 野性のマルクスは熱血の意志を秘め明らかにそこをめざし だとわたしは考えた。わたしのイメージする内包自然のなか る不立文字だけではないかと思う。言葉という思想から青空 じ込め自己と呼び慣わしてきた。いずれにせよ西欧の思想も には群れるとか、離群するとかではなく、群が観念として存 が見えるのはこの箇所だけであり、それだけがわたしたちに ていた。思想が時代の波に洗われるなかで一切の余分なもの 在しない。群の彼方は共同幻想の彼方と同義といってよく、 生きる力を与えてくれる。それは野性のマルクスとでもいう 東洋の思想もsからSを言い当てようとしてきたといってよ 同一性に拠る表現ではフーコーの人間の終焉か、吉本隆明の ものとしてわたしたちのなかに繰り返し何度も甦る。どんな が削ぎ落とされ、じつに他愛のないシムプルなものが姿をあ 自己幻想と共同幻想の逆立論になるかだけだということはも 思想 も 思想 であるかぎり 明晰 の芯に イノセント を有 してい い。古くは神や仏として、近代以降は自己意識の無限性とし うわかっている。あるいは柄谷行人の空疎なカント理解。竹 る。かつて科学として語られた経済学のどこにも善きものは らわしてくる。思想という或る念のかたちがあるとして、あ 田青嗣のクソみたいなルールとモラルの猫なで声。だいたい ない。熱血のマルクスがいて、その熱血を意志論として彼は て。 人間の考えた表現はここで行き止まりになっているといって 終生貫き通した、 関係は、男性の女性にたいする関係である。この自然的 人間の人間にたいする直接的な、自然的な、必然的な よい。けっして回収されない否定性という自己意識のがらん どうが引き寄せた生の不全感にこそ権力の起源もまたあるの だ。 内包論は人間というあらわれの根源からここを一気に跨ぎ 内包存在論Ⅱ−テロと空爆のない世界 185 わたしの考えでは、マルクスの思想はヘーゲルの思想に淵 に対する関係であり、それは男性の女性に対する関係のなか 源をもつ。ヘーゲルがつめきらずにのこした近代の逆理はマ な関係のなかでは、人間の自然にたいする関係は、直接 関係、すなわち人間自身の自然的規定である。したがっ ルクスにもひきつがれた。マルクス主義が人類史の規模の厄 にあらわれるという考えは美しい音色をしている。ゆるぎな てこの関係のなかには、人間にとってどの程度まで人間 に人間の人間にたいする関係であり、同様に、人間にた 的本質が自然となったか、あるいは自然が人間の人間的 災を招いたのは、マルクスの思想の必然であり、ヘーゲルの い信念に貫かれている。 本質となったかが、感性的に、すなわち直観的な事実に 思想の帰結だという気がする。マルクスの思想の核をなす自 いする︹人間の︺関係は、直接に人間の自然にたいする まで還元されて、現われる。それゆえ、この関係から、 さが手つかずに残されている。人間が自然に働きかけて自然 然哲学のなかにはいくつかの突きつめられていないあいまい 人間の全文化的段階︹ Bildungsstufe ︺を 判断 することが できる。 ︵ ﹃経済学・哲学草稿﹄城塚・田中訳︶ を人間化する︵=自然を人間の非有機的身体とする︶ことは、 少しわかりやすく敷衍する。弓を引いたり、槍を投げて獣 同時に、自然が人間を自然化する︵=人間を自然の有機的身 ぎぬものがマルクスの思想にはある。わたしはなんども飽き を狩ることは身体の拡張なのだ。こういう人間の自然への働 なぜ今更マルクスなのかというためらいぬきにマルクスは ずに考える。果たして存在は自己が領有するものなのか。自 きかけが疎外ということにほかならない。つまり自然の人間 体とする︶という反作用を及ぼす。人間と自然のこの相互規 己=存在であり、その存在を自己が領有できるという自明さ 化と人間の自然化に見られる相互規定としての疎外は何ら倫 語れない。人びとが過ぎ去ったこととしてマルクスの思想を がマルクスの認識の根っこにあり、このなかに彼の自然哲学 理を意味しているわけではない。人間はそういうふうに生き 定性のことをマルクスは疎外と呼んでいる。 はすっぽり入っている。而して意識は意識的存在以外の何も ているという認識の問題である。人間の自然への働きかけ︵労 忘却しようがそんなことはどうでもいい。そんなことでは過 のでもないというマルクスの根本認識が、存在の中核を経済 働︶の代価として与えられる剰余物、あるいは剰余物を蓄え ることのなかに、おそらく青年マルクスは資本の起源を看て とみなす確信に貫かれる。それがマルクスの思想だ。 それにもかかわらず、男性の女性に対する関係に人間の自 ところで疎外という概念の起源はどこにあるのか? マル 取った。 共同存在を夢想したマルクスの勇気はとても好きだ。人間を クスは斯様に考えたといってもはじまらない。マルクスに手 然な本性を看て取り、この関係的存在をバネに人間の類的な 自然の一部とみなし、人間の自然に対する関係は人間の人間 186 ねじれをおこす。このねじれに鍵があるとわたしは考えた。 合い、人間の起源をなす性がふくらんで、食の相と性の相が するほかない。食において自然とつながり、相互に組み込み の人間という生命形態の自然があることをまずはじめに想定 について考える。そうすると、こころとからだがひとつきり だてを求めるのではなく、あらためて疎外という概念の起源 同一性の罠から抜けだすことはできなかった。 、こ 、を語ろうとしてついに もっている。しかし巨大な知性もそ イトやユング、ハイデガーやレヴィナスの為した仕事として を自らに禁じたのだ。その悪戦苦闘の軌跡をヘーゲルやフロ とがある。一様に神という超越を持ちだしてそこを語ること 巨大な知は身を捩らせて苦悶した。彼らが暗黙に同意したこ 入り組むことを意味するからだ。社会は自然の粗視化がから するということは、疎外という概念が不可逆的に構造化して することぬきにけっして成立しないし、自然を不断に粗視化 不可逆である。なぜならば補食行動︵労働︶は自然を粗視化 間の対象とする自然が網の目のようにひろがっていく過程は 会という自然が見えてくる。人間が自然に働きかけるとき人 るということであり、自然の粗視化の向こうにぼんやりと社 ﹃経哲草稿﹄にある疎外という代謝関係は自然を粗視化す んで足をすくわれ、穴のなかに落ち込んだ。またしても同一 己意識の際限のなさを数学という言表の形式を使いのぞきこ しは彼らが何をやろうとしているのかわかる。彼らもまた自 界﹂仮説で祈りを捧げる。数式で追うことはやめたが、わた え、ホーキングは宇宙の始まりには境界がないという﹁無境 られる。ビレンケンは﹁無﹂から宇宙は始まったと念仏を唱 はいけないのだ! ﹂ 。それは﹁無﹂からの宇宙創生として語 うことなのか? そういうことにいつまでもかかずりあって だから佐藤文隆は言う 。 ﹁ああ!時空無しにあるとはどうい 彼らの仕事はむしろ今、宇宙論として引き継がれている。 み あ っ て 構 造 化 し た い わ ば 自然 の 代 理 物 で は な い の か ? 人 ここはおそらくマルクスの考察の埒外にあった。 間が社会化することは、社会が人間化の過程にはいるのとお 性というやつだ。こいつはしぶとくてなかなかくたばらない。 、る 、い 、とな 、の曰く言いがたさが、それぞれ洋の東西の精神の あ 宇宙の始まりについての特異点は、けっして回収されない なじことを意味する。マルクスが考えたことをわたしが祖述 内包論でわたしは表現の外延的な形式を転倒した。わたし 否定性という生の不全感が解消されないかぎり言い方を換え 形式によってかたどられている。ああ、このわかりよさ。 たちはふつう、あるものをそのものに等しいと考えている。 て残り続ける。わたしには近代の巨大な知性たちの哲学の基 するとこうなる。 またそうみなして日々の暮らしを繋いでいる。わたしは内包 らない。尖端の宇宙論は端的に観念論だ。仮説を実験によっ 礎への渇望は現代宇宙論のなかに生きているように思えてな ︿ある﹀の不思議をわたしたちの知る西欧近代の巨大な天才 て検証することは原理的に不可能だ。わたしの内包論も観念 論で、この同一性は︿ある﹀の事後的なあらわれだと考えた。 、こ 、を言い当てようとして たちはさまざまに言表してきた。そ 内包存在論Ⅱ−テロと空爆のない世界 187 驚異は、身体︵自然︶に電子ノイズ︵意味︶が貼りついて、 言おうとしている。こころしてかかられよ。存在することの としているわけだ。かなりうまくいっている。微妙なことを 、る 、い 、とな 、の奇妙さを内包論によって取りだそう わたしはあ ない。そのときはわたしたちはそのように生きる。戦い終わ 身が動く不義や不正への異議申し立てを論難しているのでは 々のくらしに根づいた、そうせずにはおれないからおのずと できないのだ。このことはきつく肝に銘じたほうがいい。日 積みあげても国家や制度、貨幣のありようを改変することは のか。この諦念のなかで、できることからやっていくという その渾然一体となったあり方を自己とみなす同一性原理のは って日が暮れる。そして何も変わらない。起こったことをす 論だから相性がいい。わたしは彼らのもがきをそとから愉し る か 彼 方 ︵ 手 前 ︶ の 出来事 なのだ 。 ︿お の ず の わ た し ﹀ と い べて善しとするのもひとつの手ではある。じぶんにひきよせ ことは、なにもやらないこととおなじであり、成るようにし う根源の一人称が生かすふたつの身体と心。ひるがえって、 ていうとこの考えはとても好きだ。しかしことばはもっと熱 、る 、い 、とな 、にかかずりあってはいけな む。ああ!いつまでもあ ふたつの生命形態の自然が︿おのずのわたし﹀によぎられて い。いや、すべて善しとするからこそことばはもっとはるか か成らないことと違わない。主観的な善意や心情をどんなに 、の 、こ 、と 、によって人となった本然がここにある。人 生きる。そ 彼方までいけるのだ。 いのだ!という彼らのうめき声が聞こえてくる。 であることの本然は我にあるのでも︵我の投影された︶他に らためて取りだそうとしているのだ。根源の一人称というあ 、と 、も 、と 、あ 、る 、も 、の 、を根源の性としてあ あるために人となったも わたしは、人であることの深みでひそかに息づく、それが 内包の関係にあって、同一ではない。あるものを往相とすれ と権力の起源があったのだ。あるものとそのものは厳密には いる。あるものをそのものと同一とみなすことに生の不全感 と分有からはじまる人類の内包史が可能だとわたしは考えて わたしはべつの手立てがあると思う。それは同一性に拠ら りえたけれどもなかった存在の彼方がここで可能となる。そ ば、そのものは還相として、あるものにかさなるのだ。東洋 あ る の で も ま し て や 明 暗 未 明の 群 へ の 融 即 に あ る の で も な してここにだけ禁止と侵犯がきりなく円環する人類史があら の自然への融即の思想も、ギリシャから興った形而上学もこ ない生であり、歴史だ。なぜならそれは何も特別なことでは たなものへと拓かれる契機がある。テロと戦争を想起せよ! のことに気がつかなかった。アインシュタインは時空という い。わたしが発見したものはそういうこととはまったく異な それは思弁ではなく、今、現に起こっていることなのだ。 認識の枠組みを認識の対象とした。アインシュタインによる なく、人の始まりにおいてもともとあるものだからだ。内包 眼を見開いてこの事態を直視せよ。もとよりつまらぬ社会倫 自然の革命だった。思考の変化と、その枝葉のひとつである るものだった。 理を語っているのではない。なぜわたしたちは斯くも無力な 188 はあまりに多種多様で一言では言えない。総覧して、わたし リア紀の進化の大爆発ならぬ思考の大爆発がおこった。それ みずからなるわたしの果てのなさに人びとはさまざまな機 抽象とは捨象にほかならないのだが、諸科学の要素還元主 自然科学の進展がべつに軌を一にするわけではないが、時空 義には妥当な範囲があり、また充分に威力を持つものだった。 は人間の知性は意識の第二層まではこじあけることができた 微を読み込んできた。神や仏という大洋感情との絆が薄れて た と え ば 数 学 者 の 岡 潔 は言 う 。 ﹁自然数の一について、もう と考えている。しかし、どういう精妙煩瑣なしかけをもって が拡張できるならアインシュタインでさえ疑わなかった同一 少しお話ししておこう。数学は一とは何かを全く知らないの きても同一性の堅固がゆらぐことはなかった。それは人類史 いくにしたがって、人びとはこの超越を精神の至上物や外化 である。ここは全然不問に付している。数学が取扱うのは、 というに等しいほどの規模をもっている。そしてその果てに 性という認識の枠組みを革めてもいいはずだ。同一性の相対 次の問題から向うである。どういう問題かというと、自然数 、 豊かさの裏に貼りついた空虚という境涯を手にしたのだ。人 されたものとみなすようになってきた。この時期に先カンブ と同じ性質を持ったものが存在すると仮定しても問題は起ら 論的効果というものが考えられてもよい。 ないかどうか。このように数学がわかるためには、自然数の 、と 、が 、み 、ず 、か 、ら 、の 、意 、識 、の 、無 、限 、性 、を 、内 、包 、の 、き 、り 、の 、な 、さ 、の 、あ 、ら 、わ 、 び 、と 、考 、え 、る 、こ 、と 、は 、け 、っ 、し 、て 、な 、か 、っ 、た 、。 れ ここでかんたんに関係の意識の層を定義する。もとより、 一はわからなくてもよいのである﹂ ︵ ﹃日本のこころ﹄ ︶ ︿ある﹀を切断する強さによって数学は成り立つ 。 ﹁一﹂ 存在の彼方に迫ろうとしているのだから、同一性を前提とし 、こ 、において興るはじまりのしくみを取りだした いう現象がそ を識らず不問に付し棚上げするいさぎよい心意気に数学の本 我が親鸞は︿わたし﹀のふるまいの不可思議を究尽し、 ﹁み いのだ。そこで 、 ﹁私﹂は﹁君﹂ではないとして出会う、そ た、自己・対・共同観念のからみのひとつとしてある対関係 ずから﹂と阿弥陀仏のあいだがらを他力思想や横超という考 れぞれの生が交わるところに生まれる対関係の世界を意識の 領がある。そのことに釈然としなかったフッサールは数学基 えとしてあらわした。それは空前絶後のものだった。あるも 第一層とする。わたしがあなたをわたしの分身として生きる 、こ 、からあらわれ、人間と をそれは意味しない。対関係こそそ のが 還 相を 介 してそのものに 還ることを 親鸞は 知悉 してい 対関係の世界を意識の第二層と考えてみる。さあ、意識の第 礎論から哲学へ侵入し現象学を創った。 た。同一性は親鸞によって極限まで拡張されたと言ってよい。 三層だ。第三層は根源の一人称にある。 じぶんでもわからないけど 、 ﹃ノルウェイの森﹄の﹁僕﹂が ﹁テロと空爆のない世界﹂になぜ村上春樹が出てくるのか 老 齢 の 親 鸞 がつぶやく こ 「 の道理をこころえつるのちには、 こ の 自 然 のことはつねにさたすべきことにはあらざるなり 」 ︵ ﹁末燈鈔﹂ ︶に身震いする。 内包存在論Ⅱ−テロと空爆のない世界 189 それは充たされることのなかった、そしてこれからも永 たらした心の震えがいったい何であったかを理解した。 ハツミさんのこと思いだした。そしてそのとき彼女がも ていた 。 ︵略︶そんな圧倒的な夕暮の中で、ぼくは急に すこの感情の震えはいったい何なのだろうと考えつづけ の共震を呼ぶのだ 。 ︵略︶彼女が僕の心の中に引きおこ の発する力はささやかなものなのだが、それが相手の心 強い力を出して相手を揺さぶるというのではない。彼女 強く揺さぶるものがあった。そしてそれは決して彼女が しかしハツミさんという女性の中には何かしら人の心を いたかということにね。僕にはもう二度と、そんな世界 よ。これまでの長い歳月、どれほど自分が飢えて乾いて だ。そしてそれが満たされて初めて僕は気がついたんだ といると、僕はその部分が満たされていくのを感じるん それができるのはこの世界に君一人しかいないんだ。君 ることは女房にもできないし、子供たちにもできない。 部分はいつも飢えて、乾いているんだ。その部分を埋め ているんだ。失われてしまっているんだよ。そしてその という人間には、僕の人生には、何かがぽっかりと欠け の問題は僕には何かが欠けているということなんだ。僕 よくわかるようになったんだ。ねえ島本さん、いちばん ﹁ハツミさん﹂を思いだす場面を手がかりにする。 遠に充たされることのないであろう少年期の憧憬のよう に戻っていくことはできない。 一年ほど前に君と会うようになってから、僕にはそれが なものであったのだ。僕はそのような焼けつかんばかり 部﹀であったのだ。そしてそれに気づいたとき、僕は殆 かしたのは僕の中に長いあいだ眠っていた︿僕自身の一 長いあいだ思いださずにいたのだ。ハツミさんが揺り動 って、そんなものがかつて自分の中に存在したことすら 穴に落ちこみ、あとにかすかな意識の痕跡がのこされる。村 ルのまわりを気配のようなものが旋回する。すーっと意識は いつもコトバがそこに吸い込まれていく。青いブラックホー くらいに青く透明な穴ぼこが村上春樹の意識の中心にあって 酸性雨で生きものの気配が途絶えた湖みたいなぞっとする の無垢な憧れをずっと昔、どこかに置き忘れてきてしま んど泣きだしてしまいそうだった。 太陽の西﹄のなかで 、 ﹁ 島本 さ ん ﹂ と関 係 を や る 決 意 を し た める。だれにでも思いあたる場面だ。あるいは﹃国境の南、 あなたがぼくの一部みたいに思えたとき物語は転がりはじ んだ﹂と村上春樹の分身はいう。おもわずからだが熱くなる。 だ。君といると、僕はその部分が満たされていくのを感じる できるのは 、 ﹁島本さん ﹂、 ﹁この世界に君一人しかいないん 青いブラックホールにふわふわしたひかりを放射することの 上春樹は意識のこの痕跡を﹁飢え﹂や﹁欠落﹂といっている。 ﹁僕﹂が言うこと。 190 でだけ、ここがどこかになっていく。そしてそれはたしかに と呼んでみた。それがどこでもないどこかを可能にし、そこ き﹂を溶かして包むこのひかりのことをむかしメビウスの性 わたしは、ふわふわした雪のように舞いおりて﹁飢え﹂や﹁乾 内包まで行けばよかったのに。内包は、もし孤独や絶望が可 はおそらくそのことと関係があるように思う。ドゥルーズも わたしには不可解で不満でもあった。彼の死のわかりにくさ ファニーとともに生きながら、外への目配りが彼にあるのが 者﹀ ﹂や﹁︿異なるもの﹀ ﹂にもそれがある。 ﹃情動の思考﹄を 能なら生きることはどんなに楽だろうかというのだから。 なく、たえざる他者、あるいは︿非我﹀を内在性にする ︿異なるもの﹀の反復なのだ。それは︿私﹀の流出では ことなのだ。 ︿同一のもの﹀を再生産することではなく、 ︿ 一 つ ﹀ を 二 分 することではなく 、 ︿他者﹀を重複する は、分身︵ double ︶の主題である。しかし、分身は決し て内部の投影ではなく、逆に外の内部化である。それは あるいはむしろ、つねにフーコーにつきまとった主題 が言う﹁他者﹂は、ドゥルーズのあいまいな﹁他者﹂と一脈 与 す る も う ひ と り の 私自身 で は な い ﹂ ︵﹃時間と他者 ﹄ ︶と彼 者とは、どんなかたちであれ、ある共通の実存に私と共に関 ずれて考えることを独行したレヴィナスにもそれはある。 ﹁他 勇ましくて考えが貫通していない。メインストリームからは ﹁主体の解体﹂はみなおなじ顔つきをしている。言葉だけが られているのだ。同一性をふりきろうとしてふりきれないも ドゥルーズもまたおなじようなことを語る。 存在する。 ことなのだ。重複において分身になるのは、決して他者 相通じるものがある。柄谷行人の﹁けっして内面化しえない 彼にあっても﹁外﹂という超越が意識の外延的な形式で語 ではない。私が、私を他者の分身として生きるのである。 関係﹂もそうである。同一性の論理では他者は語りえないの どかしさが彼のなかにもある。ポストモダンの思想の諸家の ︵ジル・ドゥルーズ﹃フーコー﹄宇野邦一訳︶ だ。分有︵分け持つこと︶を自己意識の外延論理で取りだす まだ﹁内部の投影﹂にすぎない。ゆくりなく関係は暴走し、 そのもののあいだに根源の一人称をおくとどうなるか。ある あるものがそのものにひとしいというとき、あるものと、 ことができないのとおなじだ。 ︿僕自身の一部﹀は反転する 。 ﹁私が、私を他者の分身とし ものとそのものは内包の関係にあるから、厳密には同一とは たしかに︿僕自身の一部﹀としてあらわれる︿わたし﹀は て生きる﹂ということがそれにあたる。このこころの状態を まうのだ。往相のわたしは、名づけようもなく名をもたぬこ 言えない。わたしがあなたであるということをつきぬけてし 飴みたいに言ってきた。しかし、ドゥルーズの﹁分身﹂には の根源的な出来事によぎられて還相のわたしとなり、あなた ﹁わたしはあなたであり、あなたはわたしである﹂と金太郎 どこかマルクス主義が影を落としている。彼の﹁外﹂や﹁ ︿他 内包存在論Ⅱ−テロと空爆のない世界 191 とは神秘としてあらわれる。ここにおいて還相のわたしと還 もまた還相のあなたになるのだ。同一性の論理からはこのこ ﹃思想﹄一九九五年第一一号 ︶ る こ と が で き な か っ た ﹂︵﹁西田哲学と 医 学 的 人 間 学﹂ 相のあなたは絶対矛盾的同一をなす。これはただならぬこと たのではなくて、西田哲学の﹁人間﹂や﹁個﹂という概念が そうだろうか。逆だと思う。西田哲学が人間中心主義すぎ 紙一重のところで詰めの甘さをもっていたから、民族や国家 なのだ。同一性はかろうじて形式を保存するだけで内容とし ここは内包論の要だからもう少していねいに言う。 てはすでに包越されているのだ。即ち同一性の彼方! に寄り添うことができたのではないか。マルクスが躓き、西 田が転んだ、個と共同存在のあいだの裂隙は、自己が自己で 木村敏は西田幾太郎の哲学には人間中心主義のかたよりが あって、そこに彼の哲学の限界がある、と批判する。 あるかぎり埋めようのない深淵だった。スターリニズムとフ と人間に関してすら、それ自体で西田のいう意味での﹁歴 において﹁種﹂の概念化を困難にした。種の世界は、こ ちえない 。 ︵略︶この一種の﹁人間中心主義﹂が、西田 いうとき、それは﹁人間存在的﹂という以外の意味をも って﹁個﹂としての自覚に達する。西田が﹁歴史的﹂と るけれども 、 ﹁歴史的身体﹂を道具としてもつことによ れ自身を超えていくことになるだろう。それは利己と利他が 度はおそらく内包自然を節目にしてやがてゆるりと反転しそ 会と呼んでみたい。国家と市民社会という人間がつくった制 分有者と内包自然の連結が縁取るかたちをとりあえず内包社 考えた利己と利他が相克する外延社会に対して、内包存在の 関係の可能性があると思っている。マルクスや西田幾太郎が わたしの内包論の試みのなかに共同幻想を創らない人間の ァシズムが双生児だと言われる由縁である。この論理構成の 史的﹂ではありえない。個の﹁歴史的生命﹂と種の﹁生 融即するあたらしい生の様式だ。世界は、根源の一人称であ ﹁西田が﹁個﹂として﹁種﹂と対立させているのは﹁歴 物的生命﹂の間のこの不整合が 、 ﹁生命それ自身﹂につ る︿おのずからなるわたし﹀と、内包存在というおのずから 内部でなにをどういじったところで営為それ自体が対象的に いての論理化を妨げた。その結果西田は、生物的生命と なるわたしが共軛的にくびれた︿みずからなるわたし﹀と、 史的実在の世界における個物﹂としての人間にほかなら 生命それ自身︵西田自身の表現では﹁生命の源 ﹂ ︶との みずからなるわたしという分有者の複数の連結となってあら 不毛なのだ。世界はまだこのあたりでうろうろしている。 存在論的差異について、十分な具体的直感︵我心ふかき われる。この事態をなんと呼べばいいのかまだわたしにはわ なかった。人間は種としての﹁生物的生命﹂から生まれ 底あり嬉も憂の波もとゞかじとおもふ﹂ ︶をもちながら、 からない。内包と分有においてはもはや孤独や空虚を可能と アントロポロサントリスム 遂にこれを﹁個と全の矛盾的同一﹂としてしか言語化す 192 したちははじめてこの世界のシステムを思考の力によって現 それだけの理由できっと手にするに違いない。そのときわた わらせ、もっとシンプルで深いものを、欲しいという、ただ にせよ、ことばは人間の営みの前史をくぐり抜け、それを終 彼方の性においてわたしは単独ではなく二者なのだ。いずれ 個人と呼ぶことはふさわしくないのかもしれない。同一性の する内面は存在しない。自己ならざる自己を生きる内包者を であらためて﹁テロと空爆のない世界﹂を書いた。 るまい 。 ﹁辺見庸メモ﹂を書いたのもそのためだった。それ いどうしたことだ。一度なんとしてでも辺見庸に会わねばな までも澄み渡っていた。二牟礼、なんかいってくれ、いった 仁義なき殲滅戦へ突入。まるい秋は黄金色をして蒼穹はどこ の号外を手にした。米軍のアフガン侵攻開始。テロ組織との 島の人気のない田舎の川内駅で、米英軍によるアフガン空爆 の友人の奥さんの墓参りをやっと果たした一〇月七日、鹿児 わたしの手元に、辺見庸がテロと戦争に言及した、たまた 実的に無化することができると思う。わたしはそれは意外に 簡単なことではないかと思っている。 ま読んだ新聞記事、友人・知人からもらった新聞記事のコピ ー、 ﹃ サンデー毎 日 ﹄ ︵一〇月二一日号∼一二月二三日号 ︶ 、 及び﹃法学セミナー ﹄ ︵二〇〇一年一一月号︶がある。一二 ての秋に﹁道義なき攻撃の即時停止を﹂ ︵﹃朝日新聞﹄二〇〇 二〇世紀最後の春に﹁辺見庸メモ﹂を書き、二一世紀始め そして今夜もおれは眠らない。人倫の根源に降りていく。 腰が退けた文化人の身過ぎ世過ぎのたらたら文とはまるで違 は吼えて、吼えて、吼えまくる。あっちこっちにいい顔する ことはビンビン伝わってくる。全身の毛を逆立てて、辺見庸 も網羅しているとは言いがたい。それでも辺見庸の言いたい 8 人倫 一年一〇月九日︶のコピーをもらって読む。一読、興奮。米 う、言葉による単独飛行の重爆撃だ。痛快辺見庸。 月刊行予定の﹃単独発言﹄はまだ本屋に並んでいない。とて 国の報復攻撃に反対を唱えるものが絶対少数のなかで空爆に 発言だけを注視してきた。ぱらぱらといくつか雑誌をめくっ 飲が下がる。テロと報復戦争勃発以降、三ヶ月間、辺見庸の 者もでている︵国連世界食料計画︶という、もはや国家 三分の一以上の、七百五十万人もが飢えに苦しみ、餓死 これは紛うかたない非道である。人口二千二百万人の 断固として反対の立場を表明する辺見庸のストレートさに溜 てはみたが、エラソーなさかしら文に猛烈に腹が立つ。こん よ、このうえ、さらに激しい爆撃を加えること。それが、 の体すらなさない超最貧国に、いかなる理由があるにせ んか知ったことか﹂のほうがずっと気合いが入っている。じ 天人ともに許しがたい大虐殺以外のなにものでもないこ なものゴミだ、ゴミ。すぐ捨てた。東京で働く娘の﹁テロな つはおれもそう思っている。癌で亡くなった友人ともう一人 内包存在論Ⅱ−テロと空爆のない世界 193 の国の鵺のような全体主義への抜きがたい嫌悪感が辺見庸に 凛乎たるもののかけらもない荒廃したマスメディアと、こ けないほど透明なのだ﹂ ︵﹃毎日新聞﹄二〇〇一年一一月二七 源は、攻撃当事国だけでなく、攻撃を支持する日本をふ ある。事態を座視しないこと。シニシズムを拒否すること。 とは、子どもにでもわかる理屈だ。米英によるアフガニ くむ多数の国家により、踏みにじられ、無視されている。 日︶というのがわたしたちの日常であることはいうまでもな つまり、アフガンにすでにある耐えがたい悲劇が、爆撃 これらは﹃もの食う人びと﹄や﹃反逆する風景﹄以来の辺見 スタン武力攻撃の是非を考える人間的出発点も結論も、 により、さらに地獄へと追いやられるのを、事実上、国 庸のモチーフだと言ってよい。その辺見庸に今回の米英軍の い。だれもがここにいる。 際社会があえて承認しているということだ。私の憤怒は アフガン空爆と国際的反テロ包囲網の形成は人倫という根源 本質的には、ここにしかない。ところが、この人倫の根 ここに発し、いま、米欧の〝知性〟とはこの程度のもの が決壊したものと映った。そのことを﹁歴史は人知を超えて 飛ぶ﹂ ︵﹁あいれふ﹂主催福岡講演﹁私たちはどのような時代 であったのかという失望も禁じえない。 憤怒と失望の次に生じるのが、大いなる疑問である。 わたしも同じことを感じていた。WTCビルの惨劇から三 に生きているのか﹂二〇〇一年一〇月二〇日︶と言っている。 すやすと加わり、アフガンヘの報復攻撃を支持したのか。 ヶ月を過ぎ大半のことを忘れつつあるが、いくつかのことは なぜ、かくも多数の国家が、国是や立場を超えて、覇権 これの答えを探ることは、たぶん、九月十一日の米中枢 忘れがたいこととして今もある。事件の衝撃はともかく、同 友人から借りたテープを聴くとそう喋っている。 同時テロからより深い意味をひきだし、二十一世紀にお 時テロを契機にあっという間に、犯罪が一切の法的手続きを 主義・米国を軸にした、いわば﹁国際反テロ同盟﹂にや ける国家と革命のありようを予見することにも繋がるの 無視して戦争とみなされ、テロ組織殲滅のために圧倒的多数 ュに盲従する臣下のわが小泉とマスメディアの世を挙っての な戦争を敢行するブッシュと、唯々諾々、嬉々としてブッシ 辺見庸のテロと戦争についての主張はこれに尽きる。非道 あるいはその連合として行使されることの馬鹿馬鹿しさ。で 史は人知を超えて飛ぶ﹂ということだ。超権力が国家意志、 したことのいいようのない異物感。それが辺見庸の言う﹁歴 だなということは新鮮な驚きだった。その事件の現場に遭遇 つな ではないかと私は思う。 ︵ ﹁9・ テロと国家の暴力﹂ ﹃西 の国民国家が反テロ同盟として組織されたことだ。嗚呼、歴 テロ殲滅の包囲網に対して辺見庸は奮然と戦いを挑む。 ﹁日 たらめだ。大半の人はそう感じたと思う。辺見庸が引用する 史はこういう薄っぺらなリクツにもならないリクツで動くん 常の中に入り込んだ戦争構造とは表面は醜悪ではなく、あっ 日本新聞﹄二〇〇一年一〇月一九日︶ 11 194 エンゲルスの﹁もっともよい場合でも、国家はひとつの災い うのは、各成員が、まったく対等の仕方で権利を認めあい、 血縁でなくてもいい︶作り出すことです 。 ﹃一般意志﹄とい 互確認性︵共通了解︶のことです﹂ ︵同前︶ 規定性を作り出し合っている、というそのことについての相 である﹂が強く迫ってくる。 今回の事件に遭遇して、国家から共同幻想を抜き取ること を市 民 社 会 原 理 と す る竹 田 青 嗣 ら は ど う 延 命す る の だ ろ う アホか。そうすると、国家意志の発動によるアフガン空爆 アフガン空爆を正当化する国家及び国家同盟の世界史的な は悪い共同幻想で、米国市民の一般意志である高揚する愛国 どう抜き取って無化できるかということです﹂ ︵﹃現代社会と 愚劣を目の当たりにして今どんな顔をしているのだろうか。 か。竹田青嗣は言う。 ﹁だから、問題はナショナリズムや宗 ﹁超越﹂ ﹄ ︶ ﹁これは少し前に、 ﹃思想の科学﹄で、吉本さんと ﹁湾岸戦争﹂を﹁アフガン戦争﹂に置きかえ、伏し目がちに 教や 国家 と い っ た共 同 的 な も の そ れ 自体が 悪い ん で は な く 加藤典洋、橋爪大三郎とぼくとの四人組で憲法問題について 考えるふりをしてきっと同じことを言うだろう。死ぬまで﹁ル 主義は良い共同幻想なのか。 座談会をやったんですが、そのときに市民社会の概念の違い ールとモラル﹂の学級会やってろ。アフガン戦争の次にどん て、それが特に近代においてもった排他性や侵略性の要素を がかなりはっきりと出てきた。ぼくや橋爪さんの考え方の基 な戦争を代入したら気がすむんだ。 や思想世界での基準なのではなく、生活する人間にとっても いである 。 ﹃善いこと ﹄、 ﹃美 ﹄、 ﹃ほんとう﹄とは、単に芸術 ﹁湾岸戦争を経て、わたしが手にしたのは、いくつかの問 本は、国家︵つまり政治権力︶というものは、その社会が十 分市民社会化されたときには正当化される、ということです﹂ ︵同前︶ ア メ リ カ は充分市民社会 が成熟 していたのではなかった ﹃動かしがたい現実﹄の前に〝挫折〟しつづけてきたのだ。 欲望の〝対象〟であるはずだ。しかし、これらは、どこかで だめ押しでもうひとつ 。 ﹁国家から共同幻想を抜き取れる その理由は何だろうか﹂ ︵﹁欲望と戦争﹂西日本新聞一九九一 か。かつての発言が徒になる。 か? これがぼくらの言う市民社会の本質的な課題であり、 何をスカして言うとんの。わたしは即座に批判した。 年六月二六日︶ ﹃属性﹄と見なす。ルールとの関係だけが本質的なものにな ﹁いろんな言葉の気圏がある。おれはかつてひとつの気圏 目標です。市民社会は、各人の宗教や心情その他を、個人の るので、だから市民社会の本質は﹃一般意志﹄です 。 ﹃一般 を生き、今べつの気圏を生きようとしている。たまたま昔よ く聴いたストーンズの﹃ LET IT BLEED ﹄を数日ぶっ通しで 聴いた。もの凄いパワーだ。圧倒された。こんな凄い音をミ 意志﹄は、ルソーが対比として出している﹃全体意志﹄ ︵= 共同幻想︶と対極のものと考えるといい。 ﹃共同意志﹄とは、 ﹃われわれ﹄という一体性をどんなかたちであれ︵必ずしも 内包存在論Ⅱ−テロと空爆のない世界 195 かの出来事は承服しがたいものだ。そんなことは骨の髄まで の〝挫折〟にはパワーがない。およそ繋ける日を貫くいくつ ックやキースはつくっていたのかと鳥肌が立った。竹田青嗣 思っています﹂ 方とは矛盾する。あるいは逆立してしまう。それが国家だと も思ってないです。国家意志は、個々の市民の具体的なあり 民の意志の総和が国家の意志に発現されるとは、ぼくは少し 竹田青嗣の発言を﹁9・ ﹂のライブ映像やその後の一週 民社会と逆立しないような可能性があるのではないか﹂ 史的条件をもっていた。だけどある条件のもとでは国家が市 るような逆立ということが問題にならざるをえないような歴 ﹁ぼくの考えでは、近代国家というのは吉本さんが言われ 竹田青嗣は吉本隆明の発言をうけて次のように答える。 自明のことだ。おれにはわかるのだが竹田青嗣はまだ一度も わたしは今 、 ﹁べつの気圏﹂を内包と分有として生きてい ことばや関係と出会っていない﹂ ︵﹃内包表現論序説﹄ ︶ る最中だ。 ところで 、 ﹁ 半世紀後の 憲 法 ﹂ ︵﹃思想の科学﹄一九九五年 七月号︶のなかで吉本隆明は竹田青嗣の市民主義理念を二度 批判している。 ていないと間違えるねっていうのが、そのときのものすごい せなければならないときには、自分に論理というものをもっ のブッシュの批判だ。凡庸だが、お前の敵はお前だ、と辺見 で、彼の胸のすく発言をいくつか拾ってみる。まずは辺見庸 なぜわたしにとって 辺見庸 なのかをはっきりさせたいの 間の世界の動向と照らし合わせるとこの男は何も考えていな 教訓なんですよ 。 ︵略︶ところが、戦後、僕らが反省したこ 庸は言う 。 ﹁ブッシュはだれと戦っているのだろうか。どれ ﹁加藤さんと僕が違うところがあるとすると、それは僕の とは、文学的発想というのはだめだということなんです。こ ほど殺せば、気がすむというのか。私の目には、ブッシュの いことがよくわかる。ああ、こういうことにかかずりあって れは、いくら自分たちが内面性を拡大していこうとどうしよ 敵は、タリバンなどではなくて、やはり、ブッシュ自身であ 戦争体験からの教訓ですね。外から論理性、客観性でもいい うと、外側からくる強制力、規制力といいましょうか、批判 るように見える﹂ ︵同連載第 回︶ 。ブッシュのなかの凡庸な いてはいけないのだ。お先に御免。 力に絶対やられてしまう。それに生きてるかぎり従わざるを ですが、そういうもので規定されると、自分をうんと緊張さ 11 えない、そういう生活を強いられるなっていうことがわかっ 悪、それを辺見庸は﹁善魔﹂と言っているが、この臆病男は、 、絶 、﹂ ところで、保安官ブッシュの力説する﹁テロの根 にビンラディンが攻撃をかけた。 事あらば戦を仕掛けようと手ぐすねひいて待っていた。そこ わけですけれども、ぼくはそう思っている。個々の市民、国 必ず矛盾する存在だと思います。この考えはマルクスに負う ﹁国家意志というものと個々の市民というものとは、僕は たんです﹂ 17 196 て、ナチスのユダヤ人に対する﹁最終解決の実践と、ど 言すれば 、 ﹁不朽の自由﹂作戦は、その倒錯の質におい 室で、テロリストは精密誘導兵器で、というわけか。換 に抹殺できるものと信じているようだ。ユダヤ人はガス 種〟をその信念ごと、ナチスの発想さながらに、物理的 と決めつけている気配もある。そして、その〝異なった 主義者ならば、だれでも、テロリストまたはその予備軍 なった種〟かなにかだと思いこんでいる節がある。反米 限定の可変的概念を、自分とは異なった血をもつ、〝異 る。ブッシュという男は、テロリストというほとんど無 ﹁最終解決﹂の語感と、なにやら怪しく響き合うのであ の語感が、私には気になってしかたがない。ナチズムの エルビス・プレスリー、ゲーリー・クーパー、保安官ブ 欠如している。靖国神社、神風特別攻撃隊、 ﹁海行かば﹂ 、 にかの想像力が、彼の大好きな保安官ブッシュ並みに、 なのだ。だが、彼の内面国家においては、〝悪〟とはな て、〝悪〟に対する戦争をすることのほうがよほど大事 非受益者層の命運がどうあれ、米国としっかり手を携え ければならないのである。いいかげんな構造改革による 家では、〝敗者〟ではなく、〝勝者〟こそが主人公でな いささかも憂えるということがない。コイズミの内面国 と絶望のあまり、いくら自殺し、一家心中しようとも、 弱者への思い入れに著しく欠ける。彼ら彼女らが生活苦 情念はあっても、守るべき憲法がない。失業者、貧困者、 に、コイズミにおける内面国家には、右翼少年のような り悦に入っているだけである。 ︵同連載第 回︶ が渾 然一体となったような、不気な味にまみれて、ひと こんぜん ツシュ⋮など、刺身とハンバーガーと山葵とマスタード わさび こか似ているのである。 ︵﹁反時代のパンセ﹂連載第 回 ﹃サンデー毎日﹄ ︶ 今度は辺見庸の小泉の批判だ。小泉にとってテロやテロ撲 最近テレビで見かけるコイズミは、まこと﹁ひとり悦に入 滅は駐車禁止や一方通行とおなじ記号としての意味しかもっ ていない。廃墟となったWTCビルの前での第一声 、 ﹁恐い っている ﹂ 。まあ、こんなことどうでもいいけど、ブッシュ とコイズミの顔が嫌いで、テレビに映るとすぐチャンネルを ね、テロは﹂と言ったときの幼い顔をテレビで見たからわか る。 である。彼は彼の内面の国家の領袖をもって任じている いよいよ新型のファシストめいてきたコイズミとて同じ 内面の国家像の貧困については、このところ、日々に く思う。大手三大新聞よりスポーツ新聞の方が面白いし、主 てる。この頃、マスメディアも、政治もエンタメなんだとよ 方が面白い 。 ﹃邪魔﹄もブッシュの﹁善魔﹂よりずっとイケ いるとき、最悪。おなじエンタメでも奥田英朗の﹃最悪﹄の 換える。もういいかと思ってチャンネルを戻してまだ映って はずである。それはそれで構いはしない。ただ、察する 内包存在論Ⅱ−テロと空爆のない世界 197 14 13 だけの甲斐はない。中高生の生徒会に代議士やらせたら、ま 張したいことがどぎつさも含めはっきりしている。批判する それはよくある。夕方5時半になると弁当の半額セールを近 残りの一冊をおっさんと取り合いになり、競り勝った。ま、 売れ残った弁当がちらほら並んでいるのだ。ささやかではあ 所の店がやる。涙を飲んで半額セールと銘打ったコーナーに 心にもないことを書いてしまう作家では辺見庸はありえな るが熾烈な生存競争なのだ。早く触った者のものになるわけ じめに公平なよい政治をやると思う。 いから、 ﹁9・ ﹂以降の国権の発動への憤怒は本物である。 のとは全然違うのだ。それだけでも抜きん出ているのだが、 んできたのでよくわかっている。彼の社会批判は人権派のも ようへの激しい苛立ちが辺見庸にあることは著書をぜんぶ読 この世の治者、文化言説、くらげの群体みたいな生存のあり さましいとは思うがいつもわたしが勝つ。そういうところが てよく取り合いになる。580円が290円になるのだ。あ ゴツイだけで金のなさそうな兄ちゃんがこの弁当を狙ってい ある。まず譲り合いの精神という美しいことは起こらない。 だが、最後に残ったひとつに同時タッチということもたまに 彼のよさはそこにとどまらない 。 ﹁ 9・ 見を、臆することなく即時に表明したのは辺見庸ただ一人だ した。今、わたしは思いだすのだが、テロと戦争に直裁な意 るところを知らず、へたすりゃCIAに消されるぞ、と心配 た。複数の人々が犠牲になる。青年には殺意はなかった。辺 る。ある少女の磁力にひっぱられるようにして惨劇が起こっ 一、二審で死刑になった青年の上告審の判決がまもなくで ﹂の 見庸は意見書を書くことになっているのだが 、 ﹁9・ た戦争への傾斜と国家主義の台頭に対する憤激は激しく止ま 11 った。心ある一部のものが、テロは許せないことだが、だか 辺見庸の文章にあるというのではない。 ﹂をきっかけにし 11 るで違った。剣道でいえば腰がよく入っていた。周囲の空気 説は腰が退けている。しかし辺見庸の断言否定は気合いがま らといって空爆はよくない、と言うには言った。模様見の言 も、意見書を書くこともさぼっているからだ。 きな正義を主張することに忙しくて、死刑囚に面会すること 死刑が確定する﹂という彼にはどこか後ろめたさがある。大 忙しさにかまけてはかどらない 。 ﹁四日後には、十中八九、 を毎週心待ちにして買ったのだから。このあいだ駅の売店で ったわたしが、一度も買ったことのなかった﹃サンデー毎日﹄ ﹃バガボンド ﹄ ︵ つまり漫 画 ︶ を 読 むかしかしたことのなか ﹃週刊アスキー﹄を見ながらメモリやCPUチェックするか、 熊 本に 住 む父 親の鍼治療 のため 行き 来す るJR の車 内で けて、もう何カ月も会っていない。つまり、私が面会を ないが、顔を見る勇気がなかった。つまらぬ渡世にかま い。あるいは、会うのを拒否されることを。とてもでは 青年と、結局は、会えないことを願っていたかもしれな 土手沿いの道を歩きながら、私は心のどこかで、あの さが言葉にみなぎっていた。 えんげつ が焦げつくような、偃 月刀で寸断するような、ためらいのな 11 198 てい さぼっていたということだ。ことここに至って、どの面 下げて会えるというのだ。これじゃ、体のいい儀礼にす 回 の﹁奈落︵1 ︶ ﹂を読んだとき、ああ、やっと ていた。 ︵同前︶ 連載第 辺見庸が戻ってきたと、すごくうれしかったのを覚えている。 ぎないではないか。最期のあいさつというわけか。まっ たく、冗談じゃない。なにを話せばいいのか。顔をどう 吼えまくる辺見庸と、それをちゃんと見ている辺見庸のブレ がいいのだ。上弦の言葉だけでもなく、下弦の言葉だけでも たくそうともいいきれない気もした。二つの原稿の優先 を、私はおのれに何度か問うた。無関係なのだが、まっ のことを書く必要が生じたからだ。二つの原稿の関連性 意見書はしばしば中断を強いられた。テロと報復戦争 だわりの深さだ。それがどういうことか辺見庸の国家への問 辺見庸に惹かれるものがある。それは彼の人倫の根源へのこ じる。今はもうこういう物書きは絶滅したのだ。もうひとつ 栄を脱ぎ捨て愚直に立つ辺見庸の生身性をわたしはじかに感 は言わぬ。彼の言葉を信じることができるからだ。言葉の虚 なく、満月の言葉をもつ辺見庸。なぜ辺見庸なのか。リクツ 順を私は思案した 。 ︿それは、もちろん意見書を優先す いからはいる。辺見庸は国家について自問する。 からこそ、卑怯なのだ。そうと知っていながら、私はブ る被告人をかばう文章よりは、よほどとおりがいい。だ 文章表現のほうが、一審、二審とも死刑を宣告されてい のである。同じ無駄な情熱でも、テロと戦争についての のは、論理的には正当でありえても、人間的には卑怯な 裁への意見書を中断し、テロと戦争のことを書いている 絶えずせめぎあったり、絡まりあったりしていた。最高 た。頭のなかでは﹁極小﹂のテーマと﹁極大﹂のそれが、 ものなのか⋮。 ︵同連載第 回︶ なのだろうか。それは、私の心を解くものなのか、縛る のなのだろうか。人間にとって、ほんとうに必要なもの のだろうか。それは、この眼で、全体像を見とおせるも のであろうか。そこには、なんらかの中心があるものな は、たとえば、手で触ることのできる、ひとつの実体な 国﹂とは、ぜんたい、なにを意味するのだろう。国家と ミが、まるで自分の持ち家かなにかのように語る﹁わが 国家とはいったいなんなのだろう。ブッシュやコイズ だが、手のほうはしきりにテロと戦争のことを書いてい べきだ﹀と、頭のほうは、いわばまっとうに考えたのだ。 ンデー毎日﹄ ︶ つくろえばいいのか。 ︵ ﹁反時代のパンセ﹂連載第 回﹃サ 20 ッシュとそれにつきしたがうコイズミに、原稿のなかで 悪罵を浴びせつづけていた。人としての自分になかば呆 れ、なかば軽蔑しつつ、報復戦争反対の﹁正義﹂を演じ 14 国家が、本質的に抑圧機関であることは疑いない。け 内包存在論Ⅱ−テロと空爆のない世界 199 20 性︵真理︶体現機関のように、魅力的に見せかける欺罔 れども、まったくそうではなく、あたかも救済機関や理 大事なところなのでおなじようなことについての辺見庸の発 な気が、私はしたわけです ﹂ ︵﹃不安の世紀から﹄ ︶と言う。 していく暗い深い謎が、その光景のなかに隠されているよう ぎもう に長けているのも、近代国家の特徴ではある。要するに、 言を引く。 た ひどく見えにくい。国家の、そうした不可視性こそが曲 ば、国家とは、その図体のほとんどを、人の観念領域に 観念領域︶を併せもつからではないだろうか。換言すれ のが、断片的な実体とともに、非実体である︵底なしの るのか、どう考えてもそれが個別民族固有の問題とは思 る偏執狂的に、壊しつくし、殺しつくすことがなぜでき がいったいどういうものなのか興味があります。いわゆ 私は戦争にいたる人間的情動のメカニズムというもの 者である。なぜ、見えないのか。それは、国家というも すっぽりと沈みこませているのではないか。極論してし えないのです。 私が戦場で知り合った多くの人たちのなかには、戦争 まえば、国家は、可視的な実体である以上に、不可視の 非在なのではないか。 ︵ ﹁反時代のパンセ﹂連載第 回﹃サ の理由をまったく知らない人もおりました。クロアチア 国家は底なしの観念領域を併せもつというところから、底 ア 人に 対 する 憎し み を少 し も持 っていない 人 もいまし ない人もいました。それからセルビア人にも、クロアチ ンデー毎日﹄ ︶ なしの憎悪まではほんの一歩だ。国家を共同幻想ということ た。にもかかわらず、殺し合いの坩堝に入っていくので 側にいる人は、セルビア人に対する憎しみすら持ってい はたやすいが、そうみなすことで覆いかくされてしまうこと す。その坩堝は無制限に拡大していくのです。なぜ人間 っていいと私は思います。 ︵﹃不安の世紀から﹄ ︶ 別の、人間というものの根源、奥底に見ていく視点があ るとか、特定の宗教などに求めるのではなくて、なにか るつぼ があるように思う。わたしの知るかぎり、吉本隆明が戦争体 はそうなれるのでしょうか。そのわけを特定の民族であ 戦場を取材してきた辺見庸は 、 ﹁ 私は 、 な に か そ こ に 、 た だ単に宗教や民族であるとか、あるいは政治というものから 発するのとちょっと異なった、人間の奥底にある不可思議な ﹂と報復戦争でまた同じことをくり返した。なぜ 人間は、特定の宗教や民族によらず、別人格になって、殺戮 ﹁9・ っとこれは考えなくてはいけないなにものかが、特定の民族 の坩堝へと投身するのだろうか。人倫の根源に、不思議な闇 闇のようなもの、どす黒い狂暴性を見た気がしました﹂ ﹁も 性ということではない、戦争が人間を駆り立てて、別人格に 11 いているのは辺見庸だけだという気がしている。 験からつかみだした共同幻想という思想が内在する闇に気づ 14 200 のサリン事件や乗客を道連れにした自爆攻撃がなぜ可能なの たどったからだ。無関係の市民を多数殺傷したオウム真理教 うではない。わたしたちの人類史が人倫の根源を同一性でか や、どす黒い狂暴性や、底なしの憎悪があるのだろうか。そ うと、神という超越のまがうかたなき制約であることは明ら 俗化はこうして果たされるし、そのことを宗教的迷妄といお だ。それは神の名を騙る私心にほかならない。教化宗教の世 に無 関 係 な 人々 を巻 き添え に し て殺 戮す る こ と が で き る の りもなおさず宗教が究尽されずに思考の最後の一突きを残し かである。同一性原理が制約をもっているということは、と 自己幻想の堤防が決壊すると、共同体の帰趨と個人の命運 か。根源の一人称を同一性に封じ込めたからだ。 ているということなのだ。わたしたちの社会における個人の 自己は、表現されるものではなく、もたらされるものであ が融即してあらわれることがある。共同体と個人の命運が不 たかも共同幻想が自己観念を飲み尽くし、自己は共同幻想の り、内包存在を分有することにおいてひっそりとあらわれる。 内面の自由という迷妄においてもまた。 なかに融解してしまっているように見える。しかし、ここで そこでだけ禁止と侵犯に閉じられた同一性という宿業がひら 即不離の状態として出現する。宗教的狂熱というやつだ。あ も自己同一性は保存されている。たしかに自己幻想が共同幻 かれる。内包世界にテロと空爆は存在しない。 二〇〇一年一二月二二日 想に覆われてしまっているように見えるのだが、じつはこの 事態の全体を統覚しているのは同一性原理なのだ。同一性原 理とは容赦なくいえば剥きだしの空っぽになった存在の異称 にほかならない。だからそこにはなんだって詰め込めるし、 そこではどんなことだって起こりうるのだ。わたしたちの理 解してきた自己幻想と共同幻想の逆立論が究尽せずに思考の 闇として置き去りにしてきたことがここにある。 通念とは違って同一性原理こそが宗教的狂熱を呼び込んで いるのである。アラーアクバルという念仏のなかに人の形を した同一性原理が埋め込まれているのだ。アラーという超越 のなかにすでに昏い森の記憶を刻印された人の雛形が潜んで いる。そういう意味では自己意識の至上物や外化されたもの を宗教とみなした西欧近代の哲学は半分は的を射ていたとい ってよい。だからこそ宗教的狂信は、自身を含め、その宗教 内包存在論Ⅱ−テロと空爆のない世界 201 202 内 包 世 界 論1 ︱ 内 包 論 内包世界論1−内包論 203 内包の由来 しの気持ちに変わりはない。事態は言葉の想像力をめぐる攻 防に終始する。そしてそれに尽きる。 言葉にははじまる場所というものがある。言葉には熱さと 深さがふたつながらともに要るという抜きがたいおもいがわ 汲々としているのに、先行き不安は日ごといやましにつのり、 裸眼の風景がひろがっている。だれもがせわしなくじぶんに あたりをぐるんと見渡すと、このところずっと地平線まで ではない。この時代にあって何を生きるのか、かんがえるこ ということのべつの謂いである。いまはどういう時代なのか かならない。当事者性に徹するということは生が固有である いてくる。熱さと深さであざなわれたものが生の固有さにほ 1 わが身が産業廃棄物に成り果てる日をふと指折り数えたりし とはそこにある。この違いは決定的だ。 たしにある。熱さは不可侵から迸り、深さは不可被侵から湧 ている。いっこうに非道が熄む兆しはない。傍らで人の群が 同一なものとして回帰するのか。かつてそこでもがいた無道 熟した空虚をそろって食んでいる。なぜこうも苦海と空虚は 監禁された生を︿存在﹀の根底からひらきたいというわたし う。なぜ内包なのか、内包とは何かという問いに、同一性に 内包というかんがえは耳慣れない響きをもっているとおも うつろ の情景が、いま既知の風景としてふたたびわたしの目の前に のモチーフが先立つ。わたしは、わたしのこの欲望が、わた ている以上にシンプルなのだ。面打ちの現実は破顔一笑を待 性をなくしたものたちの焦りよりもはるかに深刻で、おもっ けて闘う以上、鞏固な現実を怯ませたいのだ。事態はこらえ うのはまっぴら御免だ。なむさん。わが身ひとつを言葉に賭 ことで変わる現実などなにひとつない。わたしは負け戦を闘 の心を撃ち、鷲づかみにすることはない。ましてその程度の こういう世界の感じ方には深さがない。深さがない言葉が人 見た光景であり、いつのまにかなし崩しになって遺棄された。 わたしたちはどういう時代に生きているのかと問う。いつか これではいかんと心ある人が言葉の姿勢を立て直そうと、 のみわたしたちの生と歴史が根底からひらかれるとわたしは だ。神仏ではなく恋愛の彼方を可能とする内包表現によって い。内包表現はまだだれによっても書かれたことがないから ての態度の変更を迫ることになる。おそらくどんな例外もな にとってであれ内包というかんがえは、表現することについ 言葉に先立つ情動が内包という言葉を引き寄せるのだ。だれ とにする。言葉の定義によって表現を規定するのではなく、 性に拘禁された生を救抜する媒介となる理念を内包と呼ぶこ だれもがすでにそのことを知らずに知っている。そこで同一 史にとって普遍的な意味を内在しているとおもう。おそらく し一人の自己の陶冶にとどまらず、人びとにとって、また歴 あ る ある。言葉は視力をなくして世界を裸眼で見ている。 ち望んでいる。時代が急カーブを切ろうと、そうおもうわた 204 根ざした内包表現によって人類史を画すことができるとかん 郭をもつようになってくるにしたがい、わたしは内包存在に もうようになってきた。はじめはとまどい、やがて概念が輪 沌を︿存在﹀の彼方の内包存在によって分別してみたいとお 未踏の領野に属している。いつの頃からか生という豊饒な渾 内包という思想はわたしの知るかぎり人間の思考にとって を内包自然と名づけた。根源の性がたわんで︿有﹀が生じる と呼び、根源の性に誘われて風花を匂い立たせる大地のこと 根源の性と名づけ、存在に先立つ根源の性のことを内包存在 を一気に流れ昇る、始まりがあって終わりのない渦のことを 自然の匂いがした。わたしは、わたしより疾くわたしのなか 嘆した。孤独と空虚のないこの世界はわたしにとって未知の わたしのど真ん中に熱い風が吹いていた。度肝をぬかれ、驚 地獄の底板を踏み抜くようにして這いあがると、いきなり がえるようになった。系譜なき思考の懼れを知らぬ所業であ のであって、その逆ではない。起源の闇から流れくだった奇 かんがえている。 るとしても、内包を究尽することで、国家と市民社会という 妙な生がくるっと反転し豊饒さとなってあらわれるこの気圏 孤立した。抜け出ようともがくたびに心身をすり減らし底の どってきた。わたしは一箇の修羅となり、地軸が傾くほどに た。理念の誤謬は自業自得のツケとなってたんとじぶんにも い。若い頃わたしは世界への壊滅的な異議申し立てを敢行し もちろんはじめからこのかんがえに到 達したわけではな の固有性を手放さず、当事者性が引き込むさまざまなひずみ 心というような退屈な境涯を語っているわけではない。体験 う言葉で云おうとしているのであって、いかなる意味でも回 じあけた。わたしは、可能な思想の観念のかたちを内包とい の性によぎられて、わたしは人間にとっての思考の未知をこ かれることによってはじめてわたしがわたしと成るその根源 あ る 人間がつくった制度や、制度を循環する貨幣の彼方を実現で を人間はまだ歴史として一度も生きたことがない。それに貫 見えない穴ぼこに堕ちていった。胸の悪くなる暗闘はむごく を存在の根底でひらきたいというわたしのこだわりは一箇の あ る きるという想いがわたしをとらえてはなさない。 て容赦なくいつ果てるとも知れなかった。この間、わたしは 普遍にたどりついたとおもっている。 善きものを唾棄したニーチェはけっしてこの風景を生きたこ たくなる悪そのものの闇の深さと真向かってきた。この世の ことでも人は為しうるという悪それ自体のむごさ、目を背け 存在と同一性と意識は線形性をなし強く結びついている。こ は存在をかたどったものが同一性だといってもよい。だから という公準は流れ下ったものだということができる。あるい 心身を一対とするわたしたちの生命形態の自然から同一性 あ る 心善き人びとが語る口先の内面化された悪ではなく、どんな とがない。知によって世界を睥睨するものがいつもこの世を の強い相関のあらわれを人類史といってよいほどだ。むしろ あ る あ る 騙り悪の埒外で安息する。時代は推移してもこの思考の型は わたしたちの人類史は存在を同一性で穿ち分節してつくられ あ る なにひとつ変わらない。 内包世界論1−内包論 205 た意識の外延史を振りきって、ことばの背中から青空がひろ しめんと内包表現することで、わたしたちは同一性が彫琢し どもついになかった根源の性という内包存在をこの世にあら 制約されたものだったということを意味する。ありえたけれ めざしてきた。このことは存在を知覚する同一性がもともと てあらわれるから、人びとは倦まずにここではないどこかを たものではないのか。この事態はいつの時代も生の監禁とし かった抗争の時期。この過程をわたしはじぶんの連合赤軍事 り、暗く、重く、目を背けたくなる、いつ果てるともしれな 過ぎた。そして、何人か死ぬなと予感され、それが事実とな この熱くて深い夢を忘れたことはない。瞬く間にこの時期は ったとしても、わたしも六八年その時、一瞬深い夢を見た。 ランショ﹃ミシェル・フーコー﹄ ︶ 。それが地獄への道行きだ 間であるという 以外の資格証明ぬきで歓迎されたのだ ﹂ ︵ブ 大勢の人間の中の一人として話すことができ、いま一人の人 スと鉄パイプの渡り合いなどたいしたことではない。そんな あ る がるもうひとつの人類史を手にすることができるとおもう。 件としてひきうけた。党派間抗争による内ゲバ殺人。連合赤 軍による凄惨な粛清。無党派による爆弾テロ。わたしたちの わたしは若いころ世界にたいして捨て身の叛乱を企て敗北 もので生が崩壊することはない。そして最後にやってきた生 2 した。大学の騒動と部落解放運動に行動者として深く関与し、 の撃断。死ぬ元気もなくなった。ここからわたしはかんがえ 刃傷沙汰もこれらのひとつだった。ああ、日本刀と木刀、ド 全共闘運動と部落解放運動の結合をめざし壊滅した。学生運 ることと書くことをはじめた。 る時期それぞれの道を歩んだ。そのあと一人で抱え込んだ抗 の過程で、原口孝博さんと共に白刃のなかをくぐりぬけ、あ 事のなかで言葉にはならぬさまざまなことを経験した。敗北 である。それはからだの一部になっている。この一連の出来 縁 があった。そこで体験したことはまぎれもなくわがこと 有されるものを当事者性とおもっているわけでもない。当事 義や体験思想をすこしも意味しない。また、自己によって所 る。わたしが当事者性に徹するというとき、即物的な体験主 としている。当事者性という言葉には多義的な意味合いがあ まざまなひずみを存在の根底でひらくことを世界認識の方法 わたしはいま、当事者性に徹し、そのことがひきよせるさ えにし 動はわたしになにものこさなかったが、部落との出会いには 争がひきおこした胸の悪くなる体験は、いまもまだ言葉に遠 者性は同一性のほつれを知らずに知っているということにお ﹁六八年︿五月﹀の諸々の出来事のあいだ、 ・・・、あれは ふりかえるといくつかの節目がある。 拒むことによって可能となる生の固有さのことをわたしは当 えている。痛切な体験を内面化することも社会化することも いて、意識せずに同一性の彼方を志向しているのだとかんが あ る いこととしてある。 すばらしい時だった、誰が誰にでも、無名の、非個人的な、 206 よせられるさまざまなひずみを存在の根底でひらくこと。わ に徹するということ。そしてこの理念に固執することでひき 理念である。そのようなものとしてかんがえられた当事者性 から当事者性はわたしにとって生存感覚でありながら一箇の 固有の生を手に入れることはできないとかんがえている。だ 事者性とよんでいる。当事者性を貫くことでしか内包という る。 ﹁ぼくは、大衆のとらえかたが鶴見さんとはものすごく えた。吉本隆明は鶴見俊輔の主張にたいしてがつんと反論す てわかった。加藤典洋が彼を思想上の師とする由縁もよく見 からだ。鶴見俊輔の思想はなまなかなものではないとはじめ した。当時は読めていなかった文脈を読みとることができた きり異議を申し立てている。三〇年後にふと読み返して感動 が抜きがたいのですよ﹂と、吉本隆明の思想にたいしてはっ と吉本隆明の対談のずれと、吉本隆明の石原吉郎への批判の この国の言説をめぐる情況は一九六〇年代後期の鶴見俊輔 れ違いは現在まで持ち越されている。のちに鶴見俊輔の思想 俊輔の同伴思想を激しく否定する。ここでの双方の主張のす あなたがウルトラとして出されたものですよ﹂として、鶴見 あ る たしはこの態度を世界認識の方法としている。 すれ違いに淵源をもつとわたしはかんがえている。ひとは生 の水 脈 は市 民 主 義の 思想と し て 受け 継が れ て い く こ と に な ちがいますね。ぼくのとらえている大衆というのは、まさに きてきたようにしかかんがえることができないから、わたし もうひとつ現在まで引きずり影響を及ぼしているとわたし る。 かんがえると、わたしのなかで吉本隆明の思想のかたよりや、 がかんがえる、解かれていない思想上の課題がある。吉本隆 の指摘にどんな普遍性があるわけでもない。ただそのように 吉本隆明の思想の影響をうけたものたちのその後の変節がよ 明の批判が石原吉郎の沈黙のど真ん中を射抜いていないこと ベリアの抑留体験は遠い昔の出来事であり早晩、体験者はこ く見えてくるような気がする。そしてそれは言説をめぐるひ 一九六七年二月に行われた﹁どこに思想の根拠をおくか﹂ の地上からいなくなる。理屈の上では吉本隆明の完璧なKO からそれはきているとわたしはおもっている。石原吉郎のシ ︵﹃どこに思想の根拠をおくか﹄所収︶という対談で、鶴見 勝ちなのだ。それは石原吉郎が納得した勝利ではないような とつの情況を映しているとわたしにはおもえた。 俊輔は、 ﹁私はどんな思想でも対象をまるごとはつかめない﹂ 気がする。そしておそらく石原吉郎は吉本の批判になんらか このふたつのすれ違いは浮き沈みをしながらうねりをなし という立場から、敷衍すれば 、 ﹁私の場合、人間の究極の問 考えて排除することはできないというのが、基本的な考え方 てからみあい、増幅と消長をくり返している。ひと昔かふた の不如意を感じたはずだ。 です﹂と述べ 、 ﹁ 私は 吉 本 さ ん に 一 つ批 判 を も っ て い る と い 昔まえの柄谷行人ら﹁外部﹂派と竹田青嗣・加藤典洋ら﹁共 題として、自分がまちがっているという可能性は、科学的に えば、私には純粋な心情というのがいやだなという価値判断 内包世界論1−内包論 207 たしには感じられる。はじめに吉本隆明が石原吉郎的なあり まいなまま、未解決のかたちでもちこまれたもののようにわ も、一九六〇年代末のふたつの言説のすれ違いやずれがあい への嫌悪を示す者らとの間になされた言い掛かりのつけあい 同体﹂派の論争にしても、従軍慰安婦をめぐる人権派とそれ る。わたしはあるひとつの思考と格闘しているのだ。 しの 内 包 論 が吉本隆明論のようでもあるのはそのためであ 吉本隆明によって象徴された︿思考﹀が圧倒的なのだ。わた たのだとおもう。ここでは吉本隆明は一箇の記号であって、 思想家に憑依して、戦争の愚劣さのあれやこれやを物語らせ れた太平洋戦争のひずみのエネルギーのものすごさが一人の このなかで体験のもつ意味や、出来事の当事者であることの また吉本隆明の思想の核心をなすいくつかの概念と争う。 方にたいする批判の型をつくった。もちろん吉本はじしんの 思想の立場と原則を貫いて批判した。しかし、続く世代の者 にとって、吉本の批判は型として様式化された。 わらず吉本隆明の石原吉郎への批判の型をけっして踏み外す 吉本隆明の石原吉郎への批判を生煮えのまま、それにもかか の発言は☆ ︶ 。うっかり読むと石原吉郎と吉本隆明が対談し 隆明が石原吉郎に言及した批判を織り込んでみる︵吉本隆明 ﹃石原吉郎詩集﹄の﹁三つのあとがき﹂のそれぞれに吉本 意味をはっきりさせたいとおもう。 ことなく、楽々と批判した。彼らは物書きとして物言いする ているような錯覚をおこすはずだ。 芹沢俊介や瀬尾育生らの石原吉郎論がそうである。彼らは のであって、石原吉郎をあつかうどんな切実さもなかった。 る。なぜ、こんなことになるかというと、一九六〇年代末の とを論ずる必然性もないのに、たらたら言葉だけが上滑りす たしには言葉の遊びとしかおもえなかった。けっしてそのこ という、ただそれだけの理由で彼の言説をあげつらった。わ もできるであろう 。 ︿最もよき私自身も帰っては来なか つて疼くような思いで読んだ。あるいは、こういうこと と霧﹀の冒頭へフランクルがさし挿んだこの言葉を、か ︿すなわち最もよき人びとは帰っては来なかった﹀ 。 ︿夜 1 石原吉郎的なあり方を容認するとじぶんの存在が脅迫される 情況を疾走する吉本隆明の苛烈なありようが、骨抜きになっ と自由とは、ただシベリアにしか存在しない︵もっと正 った﹀と。今なお私が、異常なまでにシベリアに執着す わたしもふくめてだれもが吉本隆明のなした仕事の大きさ 確には、シベリアの強制収容所にしか存在しない ︶ 。日 て現在へと引き継がれているからだ。保守を弁ずるあぶくた を否定することはできない。彼はいつも生身で現場を論じた。 、か 、に 、不条理である場所で、人間は初め のあけくれががじ る理由は、ただひとつそのことによる。私にとって人間 野にあってまったくの独力で、あっちこっちからつぶてをあ て自由に未来を思いえがくことができるであろう。条件 ちにおいてもなお。 びながら、驚嘆すべき仕事を成し遂げた。総力戦として闘わ 208 た記憶が 、 ︿人間であった﹀という、私にとってかけが あり、そのような場所でじかに自分自身と肩をふれあっ うずくまる場所。それが私にとってのシベリアの意味で のなかで人間として立つのではなく、直接に人間として きる。 ものは、まさにこのような日常であったということがで 中に今も生きている。そして私を唐突に詩へと駆立てた が不断に拡大生産される一種の日常性というべきものの 解﹄所収。巻末にある鮎川信夫の﹁確認のための解注﹂ るんです。 ︵鮎川信夫との対談﹁戦後詩の危機﹂ ﹃詩の読 内面性について、石原さんの内面性をぼくは完璧にわか ☆詩とか文学は内面性なしに可能ではないというときの いわない。やはりその取り調べ官といえども、家に帰れ が問題になるわけですけれども、ぼくだったら、そうは おまえは非人間だという場合の、その非人間ということ ば、おれは人間ではない、自分が人間であるとすれば、 しかたが違うのです。というのは、あなたが人間であれ ☆石原さんのそういう場合でも、ぼくはちょっと解釈の によるとこの対談は一九七八年に行われたことになって ばよきおやじであり、自分の子供がおぼれそうになれば、 えのない出来事の内容である。 いる︶ し私が人間であるなら、あなたは人間ではない 。 ﹂これ ﹁もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。も 2 と思います。その混同は、理念そのものの中にあるかも な、血族的な次元の問題との混同を起こしていることだ メかといえば、政治的な次元の問題と、たとえば家族的 る人だと思うのです。ところがなぜその取り調べ官がダ 自分は泳げなくたって、飛び込んで助けることができ得 は、私の友人が強制収容所で取り調べをうけたさいの、 知れないし、誤れる政治理念をその人が信仰しているか だから、ぼくだったら、おまえは非人間的であるとい 取調官に対する彼の最後の発言である。その後彼は死に、 る。そして私が詩を書くようになってからも、この言葉 うようなことは言わないで 、 ﹁あなたの政治理念は間違 ら、そういうことになるのかも知れない。いずれにして は私のなかで生きつづけ、やがて﹁敵﹂という、不可解 いであると思う﹂というような言い方をすると思う。あ その言葉だけが重苦しく私のなかに残った。この言葉は な発想を私に生んだ。私たちはおそらく、対峙が始まる なたは人間のつくり出す観念の世界、人間の精神の生み も、理念的混同をしているわけです。 や否や、その一方が自動的に人間でなくなるようなそし だす世界について知っていない。誤れる理念に支配され 挑発でも、抗議でもない。ありのままの事実の承認であ てその選別が全くの偶然であるような、そのような関係 内包世界論1−内包論 209 というものが、どのように異なった次元の問題なのかは るもの、それから家族とか、血族的なものにおける人間 ている。だから、政治的な次元にあるものと個人に属す は欠けており、欠けたままである。 である 。 ︿詩に何ができるか﹀を一般に問う場は、私に させること 。 ︿私﹀の詩が私にできることは、それだけ の信じているのは、やっぱり間違った政治理論であると に対する扱いはもっと違ったものになるだろう。あなた か、それに無防備だという気がするんです。そこはもっ 個 人 的 な も の に対 し て共 同 的な も の っ て い い ま し ょ う ☆日本の国家でもなんでもいい。要するにいってみれば っきりわかっていない。これがわかれば、あなたの自分 ぼくは言うと思います。 ︵略︶ ました。けれども、おそらく体験的思想だけではダメな そういうたぐいの問題は、ぼくも考えに考え抜いてき のことを見ただけで、国家とか社会とかいう共同的なも わって、でんぐり返しみたいになっていった。これだけ ヤカヤンヤカあって、学生で体験して、それで戦争が終 と考えていいはずじゃないか、と。もっと極端にいいま んだということですね。それでは何なのかと問い詰めて のは、個人に対して何なんだということについてはもう だから、人間的か、非人間的かと言われると、すべて いきますと、やっぱり単一な体験の思想で人間の観念が 考えに考えぬいたと思います。つまり、それならば石原 すと、それを考えなかったというのは怠惰ではないかと 生みだす全部の領域をおおってはいけないし、政治とか、 さんという人はまったくその渦中に、戦争と戦後をじか のことは、個々の人間の体験から出た考え方に還元され 制 度というものの 次 元で 人 間を 全部 おおってはいけな に体験したわけですから必ずしも告発という形でもなく 思う。つまりぼくらはそんな体験なくても、戦争がヤン い。 とも、共同的なものとは何なのだということは考えられ ちゃうわけです。 ︵略︶ ︵松原新一との対談﹁現代における思想と実践 ﹂ ﹃どこ てもいいんじゃないかと思うのに、ひとつもそれは考え あっても、絶対に共有できない部分があり、その部分を 切り貼りしてくっつけたからだけではないとおもう。肝心な 交互に読むとどこかちぐはぐな感じがする。二人の言葉を んです。 ︵鮎川信夫との対談﹁戦後詩の危機﹂ ︶ られていない。ぼくがいいたいのはそこいら辺のことな に思想の根拠をおくか﹄所収一九六九年︶ 3 確認することだけが、かろうじて︿私が生きた﹀という ところがすれ違っている。かんがえる力に圧倒的な力量の差 人間の体験のなかには、よしんばそれが共同の体験で 実感につながる。そして、その実感を逆に私自身に確認 210 からだとかんがえる。空論だとおもう。じぶんの体験に即し 石原吉郎の﹁対峙が始まるや否や、その一方が自動的に人 ていうと抗争の現場では﹁殺るか、殺られるか﹂しかない。 があって、吉本隆明の完勝である。吉本隆明は石原吉郎をあ どこがすれ違っているのかはっきりさせたいので、架空の 間でなくなるような﹂事態にたいして吉本隆明は﹁なぜその 対談をもっと短く切り詰める。まず、石原吉郎が、シベリア そのときどうするかは面々の計らいだが、わたしはゆずるこ しらっている。それはよくわかる。しかしわたしが感じるず は私が直接に人間としてうずくまる場所であったという。吉 とができなかった。ここをゆずるとおれは人間でなくなる。 取り調べ官がダメかといえば、政治的な次元の問題と、たと 本隆明が答えていう。あなたの内面性は完璧にわかります。 それ以外の言い方は浮かばない。しかけられればうけて立つ れはそういうことではない。この架空の対談で吉本隆明はそ いや、問題は対峙が始まるや否やなのですと、石原。私なら、 しかないし、そのことは﹁殺る﹂か 、 ﹁殺られるか﹂のどち えば家族的な、血族的な次元の問題との混同を起こしている﹂ あなたの政治理念は間違っているといいます、そのことにつ らかしか意味しない。突発する激情のなかで言葉はまったく れほど激しく言いつのっているわけではない。 いては考えに考え抜いてきました。単一の体験思想では世界 無力である。なんの役にも立たない。理念としてなら、内省 るのはひどく困難になる。じぶんと現実がちぐはぐな感じに はおおえないのです、と吉本。しかし、私は欠けたままなの 石原吉郎は吉本隆明が﹁考えに考え﹂抜くことのできたそ なるのだ。ここで済めばよかった。事態ははるかに切迫して としてなら、吉本のいうことはわかるし、妥当だとおもう。 の﹁主体﹂が虚しいのである。だから吉本が﹁考えに考えぬ いた。そして、ついに撃断。感情の消滅。文字はミミズのの です、と石原。それはあまりに無防備じゃないか、もっと制 いた﹂かんがえは石原吉郎にとどかない。彼は一般的にもの たくり。じぶんが石ころになる。復讐と報復。それは狂気そ しかし、いったんそこを踏み越えてしまうと、現実に復員す ごとをかんがえることができないのだ。そこでうずくまって のものなのだが、機械のように綿密な計画が立てられた。な 度について考えなくちゃ、と吉本。 いる。吉本はもどかしくて追い打ちをかける。もっとしっか わたしは実行しなかった。うまくいえないのだが、熱い自 んのためらいもなかった。後悔、そんなものはあとでやれば うしたこうしたということではまるでないのだ。石原吉郎が 然にふれて、地獄の底板を踏み抜いたのだとおもう。わたし りかんがえろよ。わたしには吉本の言うことが石原吉郎にと うずくまっている場所にじかに触れないかぎりとどいたこと にとって、かんがえること、書くことが、はじめてやってき いい。一線を越えるとはそういうことだ。 にはならない。そのことが吉本隆明にはどうしてもわからな た。時代も背景も違うけれど、石原吉郎が 、 ﹁言葉がむなし どいていないことが完璧にわかる。それは文学の内面性がど い。 内包世界論1−内包論 211 い る よ う に み え て く る と き 精 神 は そ う と う や ば い状 態 に あ 言葉から意味が剥落して文字のかたちがミミズがくねって ほころびを繕うものが同一性であるということを目の前に取 脱する。あるいは、主体をつつむ状況の全体を離脱する。 ︵略︶ る。どこにも裂け目のない存在が突如裸のまま露出してくる。 いのではない。言葉の主体がすでにむなしいのである。言葉 このようにして、まず形容詞が私たちの言葉から脱落する。 人間と名づけられた自然が絶対無分別の存在の表面に引っ掻 りだしたいから。 要 す る に ﹃ 見た と お り ﹄だ か ら で あ る 。 ︵略︶つづいて代名 の主体がむなしいとき、言葉の方が耐えきれずに、主体を離 詞が、徐々に私たちの会話から姿を消す﹂ ︵﹃望郷と海﹄ ︶と いた 符牒 が と て も脆 い も の だ と い う こ と を お も い し ら さ れ なかにめりこんでいく。わたしはものになってひとつの風景 ぶんがじぶんであることを統覚するものが崩壊して、ものの しからしさがばらばらと剥がれ落ちていくことだ。そしてじ それはほかのだれでもなくじぶんがじぶんであることのた ねらせる行為がある感受を呼び起こすとき、つまりある感受 たす行為が、戦慄とそれを緩和する行為が、あるいは身をく ら派生したといってよい。空腹であるという感受とそれを満 うものだとおもう。わたしたちの文明と歴史は存在の了解か 精神の形象が、文明とよばれるもので、その軌跡が歴史とい あ る いったことがよくわかった。わかったというのは、じぶんも る。喰い、寝て、念ずる、ヒトという生命形態の自然が、存在 になる。虚しいというのではない。ただあるものになってし と行為のあいだになんらかの相関があり重なるときに、ある あ る そうだったということであって、理解できるということでは の暴威から身をまもろうとちいさく身をかがめて抱えこんだ まうこと。それが石原吉郎がむなしいということだ。もとも ものとそのものをひとしいこととする同一なるものがあらわ あ る ない。 、る 、は、雨が降るや、風が吹く、というように動詞だか と、あ れる。こうして存在の荒々しい暴威にひとつのはじめての刻 あらわれるのか。彼はそのことを自明のこととしているが、 して答えられないこと。なぜ世界は三つの観念の型となって とを書いている。内包の由来を語るために。吉本隆明がけっ をいっているのはわかっているけれど、じぶんに起こったこ したことになる。ということがいかに脆いものであるかとい たし︶である、と。このとき存在は、輝かしい一歩を踏み出 て立ち上がってくる。在るもの︵わたし︶は、このもの︵わ ついてまわるなにかが、群生のなかから弱々しく一人称とし それが群体と同化したものであるにせよ、このどこにでも あ る ら、わたしの︿ある﹀は、そのように作動しはじめた。 ︿あ み目が入れられる。 三つの観念のタイプのそれぞれが、それぞれであることを統 うことをある条件のなかでおもいしらされることがある。そ あ る 、る 、というぐあいに。とても気持ちの悪いこと る﹀からには殺 覚している同一性がそれほど確乎としたものではないという ういうときひとという快感原則の充当を旨とする生命形態の あ る ことを言いたいから。むしろ、わたしがわたしであることの 212 つけることにある。そしてそれへの恐怖。禁止と侵犯はこう 源だとおもっている。権力の本質はただひとつ。引き裂き傷 あるかということに気づかされる。痛いとか恐いが権力の起 自然はそれに反することにいかにやすやすと順応するもので 防衛しているようにおもえてならない。 のなかにある。そうすることで彼は無意識になにかを過剰に 主観性や体験を倫理的な言説と決めつけるなにかが吉本隆明 がする。なにかにふれると吉本隆明は過渡に攻撃的になる。 の否定の激しさはそのことだけでは説明がつかないような気 と彼はかんがえた。わたしは観念の三つの類型を統覚する同 と共同幻想である。この関係の絶対性が人間の情況を決する のタイプがあることを整序して記述した。自己幻想と対幻想 歴史であるといってよい。吉本隆明は生の監禁に三つの観念 まえは左翼で党派でスターリニストであると決めつける。お といっていたように、こういう場合、吉本隆明はかならずお 共産党が気に入らぬ相手をなにかというとすぐトロッキスト なっており、読んでいてとてもいやな気持ちになる。むかし 外れにきつい批判は、彼のなかですでにひとつのパターンに 相手が再起不能になるまでとことん追いつめてやまない度 して堅く生に監禁される。同一性︵権力︶による禁止と侵犯 一性が生を禁止と侵犯に閉じているのではないかと、じぶん まえは理念としてのふつうということがまるでわかっていな を緩和していこうとするすさまじい精神の軌跡が文明であり の胸の悪くなる体験を通じてかんがえた。 い。これは決まり文句である。このとき吉本隆明はあきらか に自己意識の内圧を高めて否定性を貫いている。そのとき吉 として表白されるやいなや、じぶんのかんがえを信奉するも にくれた体験をもっているからだ。理念がどうであれ、理念 側から変わってしまうとそれらがなんの役にも立たず、途方 ふかさやうごきを理解しているとおもっていたのに、世界の つく。じぶんが文学青年であり文学をつうじて人間の精神の る。それが何に由来するか、一通りの意味ではすぐに了解が 験 の 場 所 か ら 語 る こ と に た い し て は げ し い否 定 の 感 情 が あ 吉本隆明には世界の了解を主観の側にもっていくことや体 のなかに、自己意識の展延態にすぎぬ関係の絶対性がひらか う気がしてならない。むしろ当事者性を手放さないありかた の思想の内部に巣くう空洞に蓋をしているのではないかとい け例外とされる謂われはない。そうすることで吉本隆明は彼 のものであるにせよ、激しい攻撃性と否定性が彼においてだ 像と釣り合うと彼がかんがえる︿無効性の観念﹀の場所から から世界視線として述べられたものであるにせよ、大衆の原 せよ、知の大転換という﹁転向﹂を経てランドサットの視点 する唯一の真理に至る道としてそれがいわれたものであるに 3 のに篤く、背教者に狭隘なものへと転化するのは、言説の一 れるきっかけがあるのだとわたしはかんがえている。 本隆明は神の視線でものを言っていないか。知が非知へ接合 面の真理であるが、吉本隆明が主観性や体験を遮断するとき 内包世界論1−内包論 213 間から、ハイ・イメージ論や世界都市論が、肯定的に評 滴を至上のものにしようと志して地方に隱棲している人 心身をじぶんで追いつめてしめ木にかけ、滴り落ちる一 者の魂の一点に生の考察を凝縮しようと心掛けて、その 念し、社会の生成変化についての考察を諦念して、隠遁 も歓迎なんだ。だいいち小山俊一のように政治理念を断 ①その意味では小山の批判も否定も内村のそれへの迎合 からだ。 なり同致させようとする意志によって実現されるものだ の自己凝縮の方向に、じぶんの生存の意味を、大なり小 は、けっきょく全部だめだとおもう。それはぜんぶ観念 方はたくさんある。だがおれの考えでは徹底性というの 小思想家の凄み方にいたるまで、徹底性についての凄み 巡廻の旅をつづけているという一遍のようなラジカルな らゆる執着を放棄して無一物の念仏者として現世浄土の 何十年という凄み方からはじまって、じぶんは現世のあ 価されたらおれのほうは気持が悪い。また小山のほうは れている。でも方法は小山とはまったく正反対で、人間、 方法にしている存在との通路はつけられるように工夫さ おれなりに小山のように隠遁して魂の凝縮法だけを生の ことをふまえて、現在と望める未来を解明したいわけだ。 ては描こうとしているわけだ。そして近未来にそうなる 畑のちがいがかろうじて区別される都市の像を極限とし こないし、生物と無生物の区別などつかない、ビルと田 が正常な反応なんだ。おれの都市論では人間などはでて と断念するほかない 。 ﹁魂の深さ﹂とか﹁自己意識の徹 なるか、最上の方法でも、じぶんとはすべては無関係だ 村が陥っているように、見当外れの認知法を晒すことに たく無効で、べつな認識方法にとびうつるか、小山や内 を極限︵小山のいう魂の徹底性︶とする思考法は、まっ 限大で発散してしまう。これを理解するには、自己凝縮 己意識、自己欺瞞、自己虚偽、内面、魂の深さ等々は無 的な事象分析のところまではかならずゆく。ここでは自 ③思考の展び︵のびやぎ︶は極限のところでは自然科学 ニセ隱者だということになる。せいぜい無関心というの 魂、こころなどが無限大で発散するようにできている。 ことは何も凄むこたあない。またそんなものに接して元 だれがやってもあるきらめきを獲得するものだ。そんな ②じぶんの観念の場所を一点に凝縮してしまう表現は、 踏み外されるということは自明だ。 点から世界をみんな判ろうとすれば、かならず真理から るということさ。冷たい言い方をすれば、自己意識の一 にはたくさん存在するし、その範囲は刻々に拡大してい 底性﹂などが、まったく役に立たない領域が、この地上 気づけられる元気などたいしたものではないから、無い ほうがいいんだ。じぶんは人民のためにたたかって獄中 214 いことは小山が理念として﹁ふつう﹂ということが判っ 判っていたとしても相対的なものだ。だがおれがいいた ろうし、おれなどもほんとは判っていない。かれらより 経験で判っているかいないかどうかは、ひとそれぞれだ つうの俗世﹂とかが、ほんとに判っていないんだ。生活 ん否定してやるさ。ようするに﹁ふつうの人﹂とか﹁ふ げしく否定する。自己否定しないのなら、おれがとこと 俊一でも思い当たるふしがある世界のはずだ。おれはは 価値論の世界、それは最首悟でも大江健三郎でも、小山 り、麗々しく書いたりして意味や価値をつける意味論や えの顔をしてやってきたことだ。こんなことを感動した 人﹂でも、わたしのような俗物の物書きでも、あたりま 判したりしている俗世の風俗にまみれたごく﹁ふつうの 持主︶だとおもう。小山がもしかすると否定したり、批 たしはこういう場面での小山は徹底的に駄目な理念︵の ④何がエルサレムで何が重い︿イデー人﹀なものか。わ 発言﹂ ﹃試行﹄ 想を申しのべて、約束を果たさせてもらおうや﹂ ︵﹁情況への いでにいい機会だから小山の﹃私家版﹄の文章についても感 想を申しのべてみたい、と一度返事したのを覚えている。つ て出したこともある。おくってきた本にたいして、いつか感 だ。小山俊一に﹃試行﹄に広告を出してくれないかといわれ 手紙Ⅰ﹄というのは一部分は、すでに読んだことのあるもの そこで読ましてもらった。この﹃私家版・敬愛する人からの るぞ。おれも同感だからこれを読め﹀といいたいわけだろう。 うのを、内村はおくってきた。内村は︿小山はこう書いてい 家版・敬愛する人からの手紙Ⅰ﹄ ︵︱小山俊一書簡︱︶とい らの触手﹄をおくったのにたいして、黙って小山内俊隆編﹃私 疲れることを知らない﹄と書いていた。おれが著書﹃言葉か 批判したところを引用して﹃小山は生ける文明の死臭を嗅ぎ、 手紙︵半ば公開の意図をもった︶体の文章でおれや谷川雁を 堂発行の小型の雑誌﹃ぶっくれっと﹄にいつか、小山俊一が ﹁きみは知っているかどうかわからないが、内村剛介が三省 ︶ ていないということだ。 ・・・ ︱そこに生ずる軋みとしての自己欺瞞や自己虚偽との格 いずれにせよ、小山の隠遁︱自己意識の一点への凝縮 てはあまり知られていないとおもう。彼は生前二冊の本を出 ここで吉本隆明から批判されている小山俊一は固有名とし 仕方のなかに、人間の普遍的なものがあらわれることを信じ 独有の自己条件と自己状況に立ち向かう︵たたかい屈服する︶ ったものを信じていないが、ひとりひとりの人間がそれぞれ いのでもう本を出すことはない。私は人間の内在的本質とい ﹁これは私の唯一の﹃著書﹄である。私はもの書きではな している。 ﹁あとがき﹂からそれぞれ一部を抜粋する。 NO 69 闘が、生の唯一の意味づけになり、それが小山のいう﹁魂 ︶ の深さ﹂に収斂してゆく価値概念を生みだしてゆく、そ の循環はわかった。 ︵﹁情況への発言﹂ ﹃試行﹄ 吉本隆明が小山俊一を批判する事情を吉本隆明に語っても らう。 内包世界論1−内包論 215 NO 69 てゆくかについて、何の考えも持たずにいた。愚かさも衰弱 自分がその終末に向ってどう歩いてゆき、その向うへどう出 まりにきたという感じがすでに全身をとらえているのに ︶ 、 な終末が目前に迫っているのに︵しかも、いっさいがどんづ いアナロジーがあるのを感ずる。あのときは敗戦という大き 己状況と、いま私がおかれている自己状況とのあいだに、深 ングルのなかで衰弱していた。あのとき私がおかれていた自 ﹁三二年前の夏︵ちょうど今ごろだ︶ 、私はボルネオのジャ T通信﹄ ︶ 片が必ず含まれているだろうと思っている﹂ ︵﹃EX・POS ている。そしてこの本にも、そういう普遍的なあるものの破 感じる。余分な力が入りすぎている。吉本隆明の批判が石原 おれがとことん否定してやるさ﹂というところに強い違和を くに 、 ﹁おれははげしく否定する。自己否定しないのなら、 は、追いつめるための批判で、批判がひらかれていない。と なものであるとしても。吉本隆明の小山俊一にたいする批判 がある。吉本隆明の思想が巨きくて、小山俊一のそれが卑小 小山俊一の言葉に、共感はしないけど、ほっと安堵するもの やっても赦さないぞ、という吉本隆明の思想の響きよりも、 らぱら目を通すと、なにをやってもいいんだよ、でもなにを 込もうと、そのとき以来ほこりまみれの本を取りだして、ぱ ﹁字﹂であることがわかった。こうやってスキャナーで読み き、小山俊一の文章だけはミミズではなかった。かろうじて このわたしの感じ方はそうおかしくないとおもう。当時わ も 極 ま れ り だ っ た 。 い ま私 は 、 ︵あのときとは比較にならぬ きの醜態をくり返したくないと痛切に考える。 ︵﹃その向う﹄ たしの家の近所に住んでいて、いま阿武隈高地の山奥で植木 吉郎にとどいていないように、小山俊一批判は小山俊一のど へどう出るかについて考える必要がないだけ、ことは簡明だ 屋をしている友人の鎌田吉一が、小山俊一が死んだとき一文 決定的な︶世界の終末と自分の終末が目前にあるのを感ずる といえる 。 ︶ この 自 己 状 況 を 徹 底 的 に わ が も の と す る こ と 、 を書いている。盛りを過ぎたとはいえ、そのころもまだ吉本 真ん中を貫いていない。 自分にとってすべてはここに収斂する、そんなふうに考えて 隆明の言説は一箇の権威であったから、吉本隆明が小山俊一 が、そこへ向って自分がどう歩いてゆくかについて、あのと いる﹂ ︵ ﹃プソイド通信﹄ ︶ 田吉一だけが怯むことなく彼を追悼した。わたしはすごく意 を批判すると小山俊一は忌避された。わたしの知るかぎり鎌 たく記憶のない時期があった。いわゆる記憶脱失だったとお 義のあることだと鎌田さんに言った記憶がある。鎌田さんの わたしも 歳のとき﹁衰弱﹂した。短期間だったが、まっ もう。頭のなかがまっ白になって、なにも覚えていない。そ なかの小山俊一は吉本隆明の描く小山俊一と違う。わたしも ﹂ ︵一九九一年十月︶に書いている。 ﹁ 九月十八 のあと、復讐を果たそうと、どうやって殺すかを、かんたん ﹁□通信 近いものを感じる。 冷静にかんがえた。死ぬ元気もなくてただ息だけしていたと には殺さない、それに一気に複数だぞ、とぞっとするくらい 36 13 216 離を持っていた。その作業は徹底的なものだった。そのこと 乗り移り、憑依しながら、その憑依した自分の﹃身体﹄に距 りも、彼の言葉の息遣いが好きだった。小山の言葉は対象に 下から逃れられなかった。書かれたことよりも、その是非よ T通信 ﹄ ﹃プソイド通信﹄の二冊に出会ってから、彼の影響 日、小山俊一が死んだ。七十二歳。五年前に﹃EX・POS ぶんも気晴らしに通信を作ったので送る。とあり﹃ メモ﹄ 八月、小山から封書が届いた。毎号楽しんで読んでいる。じ ら勝手に送り続けていた。全く感想はもらえなかった。今年 □通信は小山の通信の物真似にすぎない。昨年十月の1号か 潔で丁寧な感想と私家版の﹃アイゲン通信﹄を送ってくれた。 長野小諸から出来たばかりの自分の詩集を送った。小山は簡 に吉本隆明の批判が聞こ え る 。 ﹃死ということをラジカルに に入りながら、言葉はその両方を呼吸していた。 ︵略︶すぐ ︿個﹀の領域とがある。小山は︿個﹀のくにを求めて﹃隠遁﹄ 浸透し、また侵食される自分と、それとまったく分断された がどんなにぼくを勇気づけ、自由にしたか解らない。世界に 月十九日 ︶ ﹄これが死の二か月前の病人の言葉かと思う。小 ティズムと︿予定調和﹀が終るところから認識が始まる。 ︵七 に重く軽やかな文体だった。なによりも明晰だった 。 ﹃オプ も極まれりだ 。 ﹄と書きながら、まるでモダンジャズのよう ていることを知った。自分で死亡通知を考えていた 。 ﹃衰弱 が同封されていた。そのなかでスイ臓ガンと肺ガンに冒され っているかはっきり申し述べます﹂と返事を書いた。石原吉 吉本さんの方から小山さんについて触れてきたら、どうおも と返事が来た。それで、 ﹁近々、吉本さんと対談をするので、 たら、吉本隆明の批判に対して﹁何もいう気になりません﹂ がなされているけど、どうおもうか﹂と添え書きを入れてい と書いてあったので、そうした。そのさい、 ﹁﹃試行﹄で批判 ら送り返して欲しい、できたら一部コピーしてくれないか﹂ てきた。そのままにしていたら 、 ﹁一部しかないので読んだ て欲しい﹂という手紙を出したら、手書きのノートが送られ とりをしたことがある 。 ﹁なにか書いたものがあったら送っ わたしは小山俊一に会ったことはないが、二度手紙のやり った﹂ 仕立てあげようとすると、虚偽と自己欺瞞に陥るほかない。 Da 山俊一は死に、ぼくはぼくの数少ない大切な読者をひとり失 NO そして陥りながら、そのことへの自己反発を生きるバネにす るという発想は、ラジカルな小宗教者の発想だ﹄ ︵﹃試行﹄ ︶吉本の﹃人間、魂、こころなどが無限大で拡散するよう にできている ﹄ ︵ 同前 ︶ ハ イ ・ イ メ ー ジ 論 の 俯 瞰 視 線 か ら の 批判に反して、ぼくには小山の﹃自己凝縮﹄の仕方に﹃のび やぐ思想﹄を感じる。凝縮も拡散もミクロもマクロも言葉で はないのか。言葉が言葉を未知として繰り込む律動を失った とき、言葉は言葉をやめる。ぼくは小山の言葉の是非には関 心がない。彼が核戦争の到来を﹃信じた﹄ことや、受難の者 を偏愛してそのこころを反芻したことは、小山の﹃タチ﹄と して自分とは離れて見えるだけだ。小山の言葉にはそういう ﹃距離﹄を許すのびやぐ﹃距離﹄が内在されている。それが 小山の︿個﹀のくにだと思う。一九八七年の晩秋に出向先の 内包世界論1−内包論 217 69 郎と小山俊一のことについて話が及んだので、対談が掲載さ この箇所を取りあげたのは、翌年の秋、東京で美術家桜井 たときのことが印象にのこっているからだ。わたしは挨拶を 孝身さんの個展があったとき、両手にビニール袋いっぱいの しただけで、あとはひと言も口をきかなかった。じぶんでも れた本を速達で送ったが、あとで鎌田さんに聞いた話では、 一九九〇年六月、東京で吉本隆明さんと対談をした。原口 意外だった。対談をきっかけに吉本さんの本を読むことをぷ 缶ビールをぶらさげて吉本さんが祝いにかけつけてきてくれ 孝博さんや桜井孝身さんたちが臨席して一部始終をじっと観 着いた日ぐらいに亡くなったとのことだった。 覧してくれた。テーマは﹁対幻想の現在︱疎外論の根源 ﹂ 。 対談テープを掘り起こして入力した文章や、翌年の講演依 っつりやめたこともある。しかしそれだけではなかったとい したいと思うようになった。吉本さんにとっては迷惑なこと 頼や、講演テープの文章に手を入れてもらったり、何度も用 わたしは吉本さんの著作の無名の読み手だった。本を読むこ だったに違いないが、やむにやまれぬおもいに駆られて対談 件があって会っているのに、何を話したという記憶がない。 う気がする。吉本さんと話すことが何もなかったのだ。 を申し込んだ。一対一の真剣勝負がしたかったのだ。一方的 じぶんのかんがえをつくるのにかまけていたということもあ とだけではわからぬもどかしさを持て余し、直接会って話を で無礼なわたしの申し出を吉本さんは無償で引きうけてくれ るにはある。しかしそれだけではない。それは何も話すこと たしは石原吉郎や小山俊一におおいに不満があり、どう不満 た。わたしの拙い文章についてのノートを吉本さんは持参し ﹁そうすると芹沢さんが書いたときは、石原さんはもう死 であるか対談のなかで話をした。それにもかかわらず、石原 がないからだ。こうやっておもいだしてきて愕然とする。わ んじゃってたのかどうかしらないけど、ぼくがそれを発言し 吉郎の 、 ﹁口なんかきかないわけです﹂や、小山俊一の﹁何 ていた。対談のなかで吉本さんはこういった。 たときは生きているときです。ものすごくあの人は、反感を 対談を始めてすぐに背筋にひやっと冷たいものが走った。 もいう気になりません﹂と、じぶんがおなじことになってい す。そっぽを向いてものすごく反感を持っていたんですね。 対談は終始すれ違った。録音テープを聞くとなんども途中で 持ってたんですよね。詩のおしゃべりに行ったとき一緒にな その反感は、たぶんぼくがそういうふうなことを書いたから 話が途切れて無音の部分がある。わたしは一気に体温が下降 た。 だとおもいます。そのときに、おまえがどうしてわかるもん した。吉本さんは言葉と話をしているのであって、目の前に ったことがあって、ここにいたって口なんかきかないわけで か、この体験がわかるかみたいなことがあるから、そこの問 いるものと関係をつなごうとしているのではなかった。わた しは文字を貼りつけた一箇の記号だった。そのことをありあ 題は、ぼくはあるようにおもうんです﹂ ︵﹃パラダイスへの道 ﹄ ︶ 90 218 度か﹂という気持ちが湧きあがってくるのをどうすることも なかったが、わたしの内部に﹁なんだ吉本隆明にしてこの程 りと体感した。長い対談が終わった直後、けっして言いはし い。 うなことなのだ。そしてなにごともここからしかはじまらな かるものかという威嚇でもない。ただ言葉の膝を抱えこむよ 気がする。言葉にならぬ痛切な体験をことばでつかむことが とだった。わたしはどこかでそのことを予感していたような していないならば、それはわたしが内在的に解くほかないこ った。わたしが感得したかったものを吉本隆明がひつようと 現実に歯が立っておらず、まだまだだなというおもいでもあ ったわけだから、この失望感はまた言葉や思想というものは 吉本隆明はわたしにとって羅針盤であり思考の象徴でもあ そうじゃないのかなというというふうに、受け取った部分が か、たましいのモチーフといいましょうか、そうなんかな、 とうに、根底にある、あなたの、どういったらいいでしょう 論じ方を見ながら、外界の削ぎおとし方ということが、ほん ﹁あなたの内包表現論ていうのはね、石原さんや小山さんの いるところにとても惹かれているんだなと受けとれました﹂ の見方、扱い方をみてると、やっぱりあなたは外界を失って ﹁ぼくは、あなたの内包表現論のなかで出てくる石原さん 吉本さんはわたしの表現のモチーフを要約して言った。 できるならば、さわったその感触はそれなしでは生きること あるんですね﹂ ︵ ﹃パラダイスへの道 ﹄ ︶ できなかった。 ができないとおもうものにかならずつたわるはずである。 そうみなすことで、彼にとって、けっしてはじまらない幽冥 相手を貶めることでじぶんの立つ瀬をつくっている。相手を うときの吉本隆明にはとてもいやなものがある。批判したい などたいしたものではないから、無いほうがいいんだ﹂とい むこたあない。またそんなものに接して元気づけられる元気 ってもあるきらめきを獲得するものだ。そんなことは何も凄 ぶんの観念の場所を一点に凝縮してしまう表現は、だれがや ぬことを過ぎさせずにはつなぐことのできない生もある。 ﹁じ 時代から忘却され残骸のように遺棄されようと、過ぎゆか こない吉本さんの言葉のはじまる場所を感得したかった。 った。わたしは本を読むことからだけではどうしてもみえて 隆明さんとそのことについて話をしてみたいとおもったのだ かじめ手にとるようにわかっていた。だからこそじかに吉本 ーフを読み取っていた。そういうふうに読み込むことはあら いう。吉本さんは石原吉郎や小山俊一に重ねてわたしのモチ いから、わたしにもそのきらいがあることを承知したうえで った。どんな自己言及も自己正当化に傾くことをまぬがれな この﹁たましいのモチーフ﹂の扱い方について終始すれ違 さに身がぶるぶる震えることは、おまえにはわからないだろ の言葉の場所を掘りだすことが回避される 。 ︿存在﹀の異様 わからぬというのがうそがない。じぶんのことにならないか い。わが身におこったことかどうかなのだ。そうでないなら 内面性として理解できるか、できないかということではな あ る うと凄むことでもないし、おれの体験したことがおまえにわ 内包世界論1−内包論 219 90 うところではあんまり接触点はないんです。ぼくは時期がい 知の大転換をした。思考の型を保存したまま倫理的なものの 一九七〇年代の終わりに吉本隆明は世界を読み解くために つて若いころ石原吉郎や小山俊一を読んだことが彼にとって くつか反対になったりしてるとおもいます﹂ ︵同前︶ 。ああ、 さらなる解体へと向かった。そのために社会へ向かう否定性 ぎりわかることはない。そのぎりぎりのところをわたしは聞 違う、違う、とわたしは内心の声をあげつづけた。吉本さん をいったん括弧入れした。このねじれは実感と理念の分裂を すでにひとつの予断となっているのがすぐわかった。その安 のいう﹁たましいのモチーフ﹂のさわりかたが、わたしと吉 彼にもたらした。吉本隆明の内部で知的な好奇心をのぞけば いていた。吉本さんの受け答えはじつにあっさりしたものだ 本さんではちがう。それはいまも決定的なものとしてある。 かんがえることの内発性はすでに失われていた。大衆像の変 易さがたまらなくいやだった。話がなんども途切れたのはそ まだある 。 ﹁接触点﹂がないとかんがえるときの吉本さん 容に即した知をつくることが表現だとしたら、そんなものは った 。 ﹁だから、そういういう意味合でいうと、森崎さんの の意識の息つぎの仕方、その思考の生理や呼吸法をわたしは いらないし、おもしろくない、生を無限猶予するのはやめよ のせいだった。 対談のなかで問題とした。わたしは吉本さんが、外界と内面 う、ということが現在の意味なのだと当時わたしは感じてい 内包表現論の中身も、今言われたことも、ほんとうはそうい を分けてかんがえるその思考の型の全体を自己意識の外延的 思想はいまでは世界を統べるものではないことはいうまで た。 外延性が社会や権力で、内包性が内面や倫理であるというこ もなく世界を説明するものでさえなくなっている。思想は作 な展延体であると主張したのだ。わたしの内包論は、意識の とをぜんぜん意味していない。疎外論を根拠とする表現論は ってもおなじことで、この平凡でありふれたありように到達 品であり、じぶんを生きるのである。まっとうなことであり、 石原吉郎が断念し、小山俊一が世も末だと感じた世界の地 するのにありとあらゆる愚劣があった。思想は作品であり、 起源に空虚を不可避に抱えこむということになる、それがい 平からわたしが歩きはじめたことは瞭然としている。世界に 個人を生きるもので、じぶんたちのそれぞれの生をつなぐこ 本来的なことだとおもう。思想はやっと落ちつくところに落 可能性がないとおもうならばかんがえを言葉で書いたりする とが思想なのだといってもよい。ブルース・スプリングステ よいよはっきりしてきたということが現在ということである ものか。おそらく吉本さんはわたしがなにを言いたいのかわ ィーンの﹁カヴァー・ミー﹂一曲と思想はまったくおなじも ちつこうとしている。じぶんを生きるものが思想であるとい からなかったのだとおもう。わからないから石原吉郎や小山 のなのだ。感応するかしないか。おう、 ﹁イッツ・ロックン と、そのこともはっきり申し述べた。 俊一に言寄せてわたしの言説について批評した。わたしがか 220 に表現の態度変更があり、作品としての思想はこの表現の拡 生が手触りのあるものへと変化していく。ここにはあきらか 自己表現ではなく内包表現されることによって内包という たえた最大の意味は、この世代によってまったく異質の 対立を拡げてゆくみちであるが、敗戦が日本の近代にあ てくる。おそらく、このような見地は、決定的な分裂と なかへも、この問題を解決させようとはおもわなくなっ も、戦争期の体験にたちかえるとき、生き死にを楯にし 張を通して深さというものを獲得していく。ここまでくると 戦争体験をつきつめてゆかざるをえなかった意味を徹底 ・ロール﹂ ︵ストーンズ︶ 。そして、その彼方にかすかに内包 ︿わたしは思想である﹀ということがありうるものにおもえ してえぐりだすよりほかにあきらかにされえないのであ た熱い思いが蘇ってきて、もはやどんな思想的な共感の てくる。わたしは内包表現されることにおいて、わたしであ る。 ︵ ﹃高村光太郎﹄所収﹁敗戦期﹂ ︶ という生が兆してくる。 りながらあなたでもあり、わたしでないわたしが、あなたで は手袋を裏返すように反転し、内包と分有の世界にめくれこ り、戦況は敗北につぐ敗北で、勝利におわるという幻影 敗戦は、突然であった。都市は爆撃で灰燼にちかくな はないあなたとおなじものになり、わたしたちのふるい世界 む。わたしの世界認識である、当事者性に徹し、そのことが はとうに消えていたが、わたしは、一度も敗北感をもた 明にとって敗戦の体験がそうだといってよい。吉本隆明がな 言葉にはかならずはじまる場所というものがある。吉本隆 れは、それ以前のどんな悲しみともそれ以後のどんな悲 その名状できない悲しみを、忘れることができない。そ 然やってきたのである。わたしは、ひどく悲しかった。 あ る 引き寄せるさまざまなひずみを存在の根底でひらくというこ しえた思想の達成も思想の芯に巣くう空洞感もここにある。 しみともちがっていた。責任感なのか、無償の感傷なの なかったから、降伏宣言は、何の精神的準備もなしに突 吉本隆明が敗戦について述べた文章のなかでもっとも見事な かわからなかった。その全部かもしれないし、また、ま とはそういうことである。 箇所を引用する。 もはや他の世代にたいして和解するわけにはいかない重 づけ、それにイデオロギー的よりどころをあたえれば、 らず生命の危険をかけている。だから、この体験を論理 戦争のような情況では、だれもその内的体験に、かな 録もほんとうは信じてはいないのだから。その日のうち 誇張して意味づけるわけにはいかないだろう。告白も記 考は像を結ばなかった。ここで一介の学生の敗戦体験を んに云いきかせたが、均衡をなくしている感情のため思 自分のこころをごまかさずにみつめろ、としきりにじぶ ったく別物かとおもわれた。生涯のたいせつな瞬間だぞ、 大な問題を提出することを意味する。わたし自身にして 内包世界論1−内包論 221 念的に死のほうへ先走って追いつめ、日本の敗北のとき か、よくわからなかったが、どうも、自分のこころを観 という負い目にさいなまれた。何にたいして負い目なの おぼえている。翌日から、じぶんが生き残ってしまった のを、ちらっと垣間見ていやな自己嫌悪をかんじたのを 死についての自覚に、うそっぱちな裂け目があるらしい ラルがすぐにそれを咎めた。このとき、じぶんの戦争や 思いがなかったわけではない。だが、戦争にたいするモ に、ああ、すべては終った、という安堵か虚脱みたいな 前︶ ろうとしている、そのことは許せないとおもった 。 ︵同 かにはなかった。支配者は、無傷のまま降伏して生き残 わたしが傷つき、わたしが共鳴したのもこれらの層のほ ぎ、そして結局ほうり出されたのは下層大衆ではないか。 牲を支払い、同時に、もっとも狂暴性を発揮して行き過 ばならない。もっとも戦争に献身し、もっとも大きな犠 小インテリゲンチャ層を憎悪したことを、いっておかね から逃亡していながら、さっそく平和を謳歌しほじめた 伏を決定した戦争権力と、戦争を傍観し、戦争の苛酷さ ﹁戦争期の体験にたちかえるとき、生き死にを楯にした熱 は、死のときと思いつめた考えが、無惨な醜骸をさらし ているという火照りが、いちばん大きかったらしい。 ︵同 前︶ い思いが蘇ってきて、もはやどんな思想的な共感のなかへも、 されて自嘲にかわっていたが、敗戦、降伏、という現実 った祖国のためにという観念や責任感は、突然ひきはず 風評は、わたしのこころに救いだった。すでに、思い上 光太郎﹄の﹁敗戦期﹂のなかで 、 ﹁わたしは、ひどく悲しか んな言葉の世界があらわれたのだろうかと夢想する 。 ﹃高村 う。もしも﹁悲しみ﹂で彼が関係の絶対性を思想化したらど ﹁悲しみ﹂に吉本隆明のありえた思想の本領があるとおも この問題を解決させようとはおもわなくなってくる﹂吉本隆 にどうしても、ついてゆけなかったので、できるなら生 った。その名状できない悲しみを、忘れることができない。 わたしは、絶望や汚辱や悔恨や憤怒がいりまじった気 きていたくないとおもった。こういう、内部の思いは、 それは、それ以前のどんな悲しみともそれ以後のどんな悲し 明はこの引用文で三つのことを言っている。 ﹁悲しみ﹂と﹁負 虚脱した惰性的な日常生活にかえっていたから、口に出 みともちがっていた﹂と言った箇所がいちばん存在感があっ 持で、孤独感はやりきれないほどであった。降伏を肯ん せばちぐはぐになってしまうものであった。こころは異 た。戦争権力と転向した小インテリゲンチャ層を憎悪し、戦 い目﹂と﹁怒り﹂について。 常なことを異常におもいつめたが、現実には虚脱した笑 争でもっともおおきな犠牲を支払った下層大衆への愛を告白 じない一群の軍人と青年たちが、反乱をたくらんでいる いさえ蘇った日常になっていたのである。わたしは、降 222 ﹁うそっぱちな裂け目﹂があることを垣間見て自己嫌悪し、 争が終わったとどこかほっとし、思い決めていた死の覚悟に、 事者性という思想を彼は必要としなかった。吉本隆明が幻想 かない。体験思想を彼は拒絶するが、わたしの生きている当 政治と文学や、社会と内面という思考の型を消滅せずにはお 、こ 、か 、にじ 、に立つ。 当事者性はこ ﹁悲しみ﹂が深さにおいて、 にあるのだ。 ﹁負い目﹂にさいなまれ、内閉する吉本に魅力はない。戦闘 論の総体を自己意識の線型になった外延表現で済ますことが する吉本は、よく知っている戦闘モードの吉本で、ああ、戦 モードの吉本と﹁負い目﹂の吉本が表と裏になって、過剰さ びわたしは夢想する。おそらく吉本は苛烈さと対になった空 めだ。吉本隆明の思想がもつ苛烈さと、その裏に貼りついた 、ろ 、を﹁名状できない悲しみ﹂で統覚していたら、とふたた う た思想であるにもかかわらず赦さない思想であるのはそのた を封印し忘却することによって得られた吉本の思想が透徹し を 彼 は 同 一 性 に 拠 っ て 客 観 化す る こ と が で き た 。 ﹁悲しみ﹂ だから敗戦という体験がもたらしたこのうえなく健全な挫折 どうにも引っ込みがつかないというあり様でした﹂ ︵ ﹃遺書﹄ ︶ 。 ものと思っていたのですから、そこで生き残ってしまって、 起する感情の動きとしてやってくる。痛ましいという感情は も痛ましいも﹁もごい﹂も、他者のありようがこちら側に喚 い﹂という言葉の語感があるような気がする。 ﹁むぞらしい﹂ を消したときの哀感としても語られる。こういう生にまつわ とき、手に取り撫でて、さすりたい生あるものが、生の気配 なじ目線で語る 。 ﹁ あげん、 むぞらしかったとに⋮ ﹂ という ぞらしい﹂というとき、可愛いを意味し、つねにじぶんとお おしさの感情をあらわすときに使われる。あの子どもは﹁む 熊本弁の﹁むぞらしか﹂という言葉は、生あるものへの愛 4 ものであった。それは過ぎる思想としてある。 できた由縁である。吉本隆明にとって戦争体験はそのような のスタイルをつくってしまった。 彼の身はすこしも汚れていないのに、ありもしない戦争へ の罪を告白し、死に損ねたことのちぐはぐさを拭い去ろうと、 世紀を跨ぎ言葉という石けんでごしごしからだを洗っている 気がしてならない 。 ﹁大学三年のときに、敗戦という形で戦 虚を 同一性 の 彼方 としてひらくほかなかったようにおもえ ﹁自分がそうであったとしたら﹂と、じぶんに置き換えられ 争が終わりました。僕にとっては、二十歳以上の人生はない る。 ﹁それ以前のどんな悲しみともそれ以後のどんな悲しみ たときに湧いてくる感情といわれる。 一性のほころびをあきらかなものとする。それは内面化も社 は過ぎていくけれど、この感情はおのずとおこってくる。こ 日常の何気ない出来事の一齣として泡沫のようにこの感情 る情緒が痛ましさのほうに傾いたところに、辺見庸の﹁もご ともちがっていた﹂その﹁名状できない悲しみ﹂だけが、同 会化もできないということにおいてすでにして同一性の彼方 内包世界論1−内包論 223 わいさを自己の生存の中心原理とするありようからはけっし もはるかに根源的なものがかくれているとおもう。わが身か のおのずからなる感情には、わたしたちがおもっているより がむくりと身を起こし、封印した記憶が甦ってくる。二〇〇 ある場面のことが浮かんできた。言葉に遠い焼きついた記憶 こういうことをかんがえていたら、二人の書き手の記した もとより閉じられた世界で生起した過去の事件としてでは 一年九月一一日のテロをきっかけにふたたびわたしは彼らと 渡辺京二の﹁同情﹂という言葉も、わがことにおけるとお なく、わたしたちが避けがたく当面している、生を合理とい て説明のつかない、人間という自然にやどった、なにか根源 なじ情が他なるものにおいて起こることとして使われている う秤にかけて切り売りするこの日常のただ中の出来事として 相まみえた。奇縁というべきか。記憶の坂道を転げ落ちなが ようにおもう。ふつう﹁同情﹂という言葉は安全な場所から そのことを語らんがために。苦海と空虚はある事態の別様の ら、文字で刻みつけられた凄惨な最期を、わたしの固有の方 のじぶんに害が及ばない範囲での安っぽい感情として語られ あらわれにすぎないのだから。わたしは内包存在に根ざした 的なものがそこにあるという気がしてならない。ありえたか るが、そういうものではないと渡辺京二は言っている。彼の 内包表現によってこの互いに回帰する現象をふたつながら断 もしれない生のかけらをわがこととする、人であることの本 思想の要である、離群の衝動と共同性への希求という相矛盾 ち切ることができるとかんがえている。内包という系譜なき 法によって結びなおしてみたい。 する感情の合一はここに関係している。なにかある出来事に 思考の由縁を語ることで、この道理の可能性を手ずからつか 来性や可能性がこういう感情に秘められている。 接し、じぶんにできることがなにもなくても、それでも居て みだしてみようとおもう。 パレスチナ支援活動家が焼身自殺したことを週刊誌で知っ も立ってもおられない感情に身を焼かれることがあるのは、 同一性の彼方が厳然とあるからなのだ。むしろそれがあるか た。愚劣と、譲れぬものと、勇気について、おもいだした。 あ る らこそヒトが人となったのだ。わたしたちの歴史は、存在の 本来性が同一性で切り抜かれ、自己の陶冶と他者への配慮を 至上なるものとして片づけた近代の批判をはるかに超えて、 わたしの内包論は、神仏を自己意識の無限性や人間精神の の最期の芸のように、ぼうぼうと燃え、くるくると舞っ 火で煩悩の身体を焚くように。あるいは、老いた魔術師 場で、ひとしきり派手な 焔 のダンスを踊った。智慧の ほむら 三月末の土曜の暮れ方、彼は日比谷公園・かもめの広 神仏の彼方をよりプリミティブな形で再現するなかで、人類 たのだ。やがて、真っ黒の襤褸か消し炭のようなって、 分裂させてかたどられてきた。 史を巻き戻してあらたに巻き直そうとする試みだといっても うち倒れた。享年五十四歳。 ︵辺見庸﹁反時代のパンセ﹂ ぼ ろ よい。 224 くは美化しない。大事なのは、火焔の外側ではなく、自 やさしい波がここにもある。この海がハイファにもシドンに し冷たくなってきた。遠い昔、能代の浜で遊んだあの小さな 切な響きがある 。 ﹁まだ子どもが遊んでいる。もう潮風も少 死をなんと言えばいいのか。それでものこされた遺言には哀 な理念や運動体を裁決することができなかった。この甘えた のだ。かつてのおれのように。もうひとつ。彼はついに愚劣 々を幽霊のように生き、現実に復員することができなかった 行状はわかる。おれのことだから。かれは心臓を貫かれ、日 死をどう言えばいいのか。ただ、手にとるように彼の心的な 一度も生きることなく死んだ。触れあうこともなかった人の アビブで岡本公三に先んじてまっとうするはずだった死を、 だのではない。生き損ねた生を死ぬように死んだのだ。テル じぶんのことのようにおもえた。死に損ねた生を生きて死ん と問い、生き損ねたおれのことだ、とすぐわかった。まるで 彼の活動家としての来歴はどうでもいい。この者はだれか に死んだ生をそれと知って生きている。そうおもいなす だ。まっとうなら、とうに死んでいる。ないしは、すで なんのかんばせあって、平気で笑って生きていられるの た。時宜にかなっている、と。わが身に引きつけるなら、 ては、委細は知らぬが、うん、ころあいだな、とは思っ ただろう。怒りを買うのを承知でいえば、ぼく個人とし 分はないわけがないし、むろん、それらだけでもなかっ 虐への怒り、日本のファッショ化への絶望。そうした気 ラエル軍によるパレスチナ民衆虐殺への抗議、米国の暴 ジがあったか、なかったか、つまびらかではない。イス つてなく虚心になった。檜森の自死にいかなるメッセー とても静かになれた。君は信じないかもしれないが、か 澄明で安らかな殺意が身内に満ちるのを感じた。それで、 みの沸点を見失い、すぐに引き替わって、世界に対する いま見たということだ。そのときぼくは炎のなかで憎し だの錯視かもしれないのだけれども︶ぼくらの世界をか ﹃サンデー毎日﹄二〇〇二年五月二六日号︶ もつながっている、そしてピジョン・ロックにも。もうちょ ほかない。 身の肉を焼け焦がす火焔の内側から 、 ︵ぼくの場合はた っとしたら子どもはいなくなるだろう ﹂ 。気持ち、たしかに 伝わった。安心して往生せい。 彼にあっても役割が生きられている。なにかそのようなも との表と裏が逆になっている。ガソリンをかぶって死んだ人 辺見庸は言う。 檜森の自裁を聞いたとき、檜森と同じく、ぼくにも紅蓮 のことを美化しないといいながら、外側から触っている。こ のを表現だとおもいなしているふしがある。生きるというこ の焔の内側から、束の間だけれども、くねり踊る焔を通 れでは赫い劫火となった当のその人は成仏できぬ。事実死ん ぐれん し て 、 赤 く 揺 ら め く 世 界 が 見 えたのだ 。 ︵略︶自死をぼ 内包世界論1−内包論 225 身をおくということだ。生きられる死とはそういう安穏のこ て澄明で安らかな殺意が満ちるというのは、一旦死者の側に わっていないからだ。炎をとおしてかいま見た世界にたいし 辺見庸の言葉では彼に触ることができない。それはおれに触 が行われたからである。 なった。その直後、恭順の意志を示さぬ捕虜の﹁処理﹂ 間もなく、楽しい食事は身の毛のよだつ事件で帳消しに 皆、むさぼるように思わぬ御馳走に群がった。しかし 遭遇 だのだが、ましてこういう書かれ方をされては浮かばれぬ。 とをいうのではない。彼は感じたことを虚心に語っているの が身に引きつけるなら、なんのかんばせあって、平気で笑っ たる面構えをしていた。ゲリラ仲間に加わることを頑と ガニスタン情報部。旧ソ連の KGBの傘下にあって実務 を指揮していた︶のメンバーといわれたが、確かに堂々 ︵アフ KHAD て生きていられるのだ。まっとうなら、とうに死んでいる。 して拒絶した。謝罪して 、 ﹁アッラー・アクバル︵神は 指導者とおぼしきその捕虜は筋金入りの ないしは、すでに死んだ生をそれと知って生きている﹂云々 偉大なり ︶ ﹂と唱えて恭順したことを示せば命が助かる だが、あくまで生の側に居続ける強さをもっていない。ぶざ は、出来事を見る人の言葉だ。表は表、裏は裏というのがま のである。しかし、彼は昂然と胸を張り、きっぱりと言 まな生を肯定する剛胆さの根拠を彼は語るべきなのだ。 ﹁わ っとうなことではないのか。ここにくると辺見庸はいつもひ った。 ﹁俺は仲間を裏切るようなまねはしない。やるなら早 っくり返ってしまう。彼の言い分に欺瞞はないのだが、道化 になっている。出来事の語り手なのだ。ましてこういう文章 くやれ。諸君は反イスラム的だとして私を断罪しようと するなら、神の名において人民の殺傷を行い、神を冒涜 を読まされるものとはいったい何者なのか。 おなじことをもう一人の書き手である中村哲にも感じてし した諸君は、無神論者である我々の罪よりも重い。少な している。しかし、もしアッラーが慈悲の神として実在 まう 。 ﹃医は国境を越えて﹄にある﹁戦争の狂気﹂で書いて くとも我々は神の名において自分を正当化しなかったか 世界に貧困のあるかぎり社会主義は滅びない。我々は いる。一九九一年初冬の夜、診療所開設の下準備のため、戦 府軍兵士と遭遇し戦闘となり、督戦する隊長らしき人物は虜 死ぬ。しかし、我々の精神は生き続けるだろう。社会主 らだ。 囚となることを拒みピストルで自決する。敵陣に山と積まれ 義万歳! アフガニスタン万歳!﹂ 火ををくぐって山越えをする。そのさい二〇名∼三〇名の政 た食料は質素な食事で山中の強行軍に耐えてきた一行にとっ ては格別の贈り物だった。 226 た。噴水のように出血が起き、裂かれた気管から血の泡 の髪の毛をぐいと掴んで頭を持ち上げ、頭部を切りさい た。まるで羊を屠殺するように、後ろ手に縛られた捕虜 ゲリラ仲間の一人がナイフを抜いて彼の首をかきとっ 者を、足早に小高い丘の上に連行し、処刑を急がせた。 た。彼らは、ほんの昨晩まで﹁同志の指導者﹂であった 的に支持したのは村民たちよりも、投降兵たちの方だっ い感情を起こさせたようである。事実 、 ﹁処刑﹂を積極 たちに一種の動揺を与えたように思う。何かの後ろめた をゆさぶるものがあった。彼の毅然たる態度が、投降兵 死ぬ直前の魂の告白である。この明快な主張は何か心 処刑 美しい欺瞞、主観的には善を施し死をもって贖いつつ醜悪な いう二〇世紀に猖獗を極めた人類史の厄災を可能ならしめた いや中村哲のことではない。ファシズムとスターリニズムと て余す者たちが、苦界の衆生を焚きつけて善行を教導する。 者が殺され、虐待された者が報復する愚劣を、やるせなく持 見せつけられ読む者はいったい何者でありえるのか。殺した 来事を見る人だ。わたしは血が逆流する。ましてこの場面を この身の毛のよだつ凄惨な場面を語ることができる彼は出 とり勝者による戦いの掟が行使された場面だといってよい。 のあいだで行われた戦闘後に、アフガニスタンの伝統にのっ さつについて委細は知りようもないが、相対立する政治勢力 ちの耳目に触れることとなった。引用の箇所の切迫したいき だ。わたしたちは今もまだこの囚われの内にある。縁あった 悪へと至るあの政治のことだ。自己の陶冶と他者への配慮の すべてが狂っていた。私は感慨を込め、心の中で合掌 アフガンの人びとに遣わされた者として医療を施す中村哲の が吹き出した。ものの一分とかからぬうちに捕虜は弓ぞ した。もう敵も味方もなかった。狂気が人間を支配して ゆるぎなさとゆるぎなさが孕む鈍感さが引用の箇所に入り交 ねじれはうまく 解け た試しがないということが 言いたいの いるのだ。殺したものが殺され、虐待されたものが虐待 じって吐露されている。 りにのけぞって絶命した。 する。何だかやるせない気持ちを持て余していた。そし 大事なところだからもう一度引用する。 ソ連の崩壊後冷戦構造は終焉し、傀儡の共産政権は旧イス をぐいと掴んで頭を持ち上げ、頭部を切りさいた。噴水のよ まるで羊を屠殺するように、後ろ手に縛られた捕虜の髪の毛 て心から戦争を憎んだ。 ラム党に権力の座を明け渡す。中村哲によれば、一九九六年 うに出血が起き、裂かれた気管から血の泡が吹き出した。も ﹁ゲリラ仲間の一人がナイフを抜いて彼の首をかきとった。 旧イスラム党はさらに過激な原理主義勢力タリバンに権力を のの一分とかからぬうちに捕虜は弓ぞりにのけぞって絶命し た﹂ 奪われる。この後のことは ・ テロへの報復として成され 11 た米国主導の極悪非道な空爆によってうわべだけはわたした 内包世界論1−内包論 227 9 彼はどこにいるのか。無惨な最期を書かれる者は何者で、そ 明する。神の名において人民を殺戮するおまえたちは、無神 処刑に直面し革命の殉教者は昂然と胸を張り恭順を拒み宣 いうものだとおもっている。 れを書く者は何者でありえるのか。そしてそれを読む者とは 論者であるわれわれより重い罪を犯している。少なくともわ なぜ中村哲はこの場面を書くことができるのか。このとき 何者なのか。なぜこの場面は書かれるのか。この現場を生き れわれは神の名においてじぶんを正当化しなかった。世界に この相剋するふたつの力学の圏域の内部を生きるとき出来 貧困があるかぎり社会主義は滅びぬ。われわれは死ぬだろう。 いない。血の気がひき頭の中が真っ白になる、拭おうとして 事を俯瞰する第三者の場所はない。神の視線のみがそれを可 たならばこの場面を彼はけっして書かないし書けない。彼は 拭えない出来事の生々しさを彼は生きたことがない。悪はよ 能とする。そしてそれは権力の流線であり、権力の行使なの 現場にいてそこにいない。彼は書くことでないことを書き、 り兇悪で根深く、闇はとぐろを巻き底なしに深い。彼は一度 だ。語れぬことを語る者は力学の緩衝地帯にいる。くり返す しかし、われわれの精神は生き続けるだろう。 も、喉元を凍りつかせ、心臓を貫かれたことがない。いつも が、力学のこの緩衝の圏域こそが愚劣の絶えざる精神的な大 書かれるほかない出来事の苛烈さについてなにひとつ書いて 出来事を見る側にいて、身を震わせ、嘆息する。読者はその 地なのだ。 もがき、のたうち、はいずり、天を仰ぎ、天を恨み、世界 ふるまいの一挙一動に感動する。余裕ではないか。そういう ものがこの世のいったい何を変えるというのか。 わたしは気が触れそうになる。なぜこの場面に遭遇して﹁感 世界の底が抜けるその理不尽なまでの熱さ。絶望する気息が、 も言葉も一切合切が背骨を喪い、善悪の彼岸にただ在るよう 慨を込め﹂ることができるのか。なぜ﹁狂気が人間を支配し 、に 、 非望の極みでたわみにたわんでふいに天啓のよう訪れるな 、としてしか、言葉ではないそ 、れ 、に触ることはできない。そ か ﹁すべてが狂っていた。私は感慨を込め、心の中で合掌し ているのだ﹂という美辞で凄惨な出来事を語ることができる れは一粒の芥子だねとして無限小の出来事であり、伝わらな に在る、その空っぽの︿在る﹀が背後から一閃される。名づ のか。なにより﹁狂気﹂を語る彼はどこにいるのか。 ﹁狂気﹂ 、た 、ち 、でしか伝わることがない。語り部としてでは いというか た。もう敵も味方もなかった。狂気が人間を支配しているの がその前にひれ伏し、怯み、怖気をふるって退散する、その なく、じぶんを生きることからしかはじまらないなにかだ。 けようもなく名づけるほかない彼方からの不意打ちと襲来。 ようなわたしたち一人ひとりの生存の在り方を、ことばの力 だ﹂ で現成することが表現の本然ではないのか。出来事を生きる 、 中村哲じしんのからだを貫いてにょっきり生えてくるこのな 、か 、が彼の身に起こったこととして語られたことはない。む に 苛烈は必ずそこまでゆきつく。わたしは表現の器量とはそう 228 、れ 、を識っている。わが ろん中村哲は﹁神聖な空白﹂としてそ を処置するようにした。 ︵ ﹁命の値ぶみ﹂同前所収︶ で下手の町に行くように伝えた。私は片足負傷の者だけ ﹁こいつにも、うんと砂糖を入れたやつを飲ませてや す。 ﹂ ﹁ドクター、疲れたでしょう。お茶が用意してありま *助命すると決めた者への処置を終えた中村哲の心境 身に起こることと、それを識ることとのあいだの、天地のひ らき、その深淵。 一九九四年三月のあるとき、アフガン奥地のヌーリス *中村哲による﹁命の値ぶみ﹂ クンのワマ診療所開設のため、私は下流のダラエ・ピー れてきた。地雷を踏んで負傷したらしい。上流のヌーリ のアフガニスタンの山中で、日本の誰も味わえぬ平和な そうそうと流れる渓谷のせせらぎが闇に聞こえる。こ れ。 ﹂ スクンの村民で、空き家のはずのきこり小屋に入ったと 一時をかみしめる。これも役得だろう。見上げると、い チ渓谷に滞在していた。夕刻、二名の重症患者が搬送さ ころ、入口に仕掛けられていた地雷が突然爆発、両名の て東を定め、遠い日本に思いを馳せる。そして、意図的 つもながら降るような満天の星屑である。北極星を探し 一人は両下肢をふくらはぎの所からふきとばされ、止 に処置をしなかったもう一人の負傷者の不安な表情が、 足を直撃したという。 血はしてあったものの、右足は大腿にもひどい傷があっ 十年前なら、私も医療事情の悪さと、先進国との余り 悲しく流れ星のように心をよぎった。 れ、脛骨の関節面が崩れた肉塊から突き出していた。た の格差に悲憤したことだろう。しかし、何故か重苦しく た。もう一人の方は、右下肢のみ足関節からふきとばさ どり着くまで既に九時間以上経っており、傷は泥まみれ は考えることができなかった。ここでは、生も死も、悠 私たちとは余りに遠い、賢しい議論としか思えなかった。 であった。とりあえずは救急処置を施してペシャワール しかし、両下肢に負傷した患者の方は、初めから助命 確かなのは、文明国日本では人間の生死の定義について 久の大自然の中に渾然と溶け合っている。 ﹁臓器移植﹂ 、 を考えなかった。車椅子生活など山の民には不可能だか ﹁マニュアル﹂が要り、元来割り切れぬ人間的自然に対 ヘ送り、きちんとした切断手術を病院で行って、義足で らである。両名とも血圧八〇以下、脈拍一二〇、大量出 し フ ィ ク シ ョ ンが 必 要に な っ て き た と い う こ と で あ ろ ﹁脳死﹂ 、どうでもよい小さなことだった。それもまた、 血によるショック寸前であった。そこで、助命を考えな う。その善し悪しをとやかく言いたくはない。だが、少 歩行させるのが筋である。 い方は儀式的に点滴を与え、中途で死亡することを承知 内包世界論1−内包論 229 への執着や﹁不安の運動﹂から、私たちが自由であるこ なくともここ極貧の﹁文明の辺境﹂では、分を越えた生 はなかろう。おまえの傲慢さと鈍感さはどこからくるのか、 まえが墓場までもっていくことであって、人前でいうことで 数のものが見聞するメディアで話すことではない。それはお するのをできるだけひかえることにする。おそらくアフガン ろを引用した。わたしも歳を重ねたから﹁悲憤﹂した物言い への処置が終わったときの中村哲の心境が語られているとこ るが、わからぬものには金輪際わからない。もちろん中村哲 る。わたしが言いたいことは、わかるものにはただちにわか ならない一線を越えることによって人間の尊厳を傷つけてい ﹁意図的に処置をしなかった﹂と言い放つ彼は、超えては たことで。 本にすでに書いてあったことなのか、というのはあとで知っ ましておまえは何様だ、と深夜、一人で怒り狂った。なんだ、 とに感謝した。 ︵同前︶ 地雷で足をふきとばされた患者が二名彼のところに搬送さ 現地の習俗にしたがった物言いをしているのだということは がこのことをわかる道理もない。またそれがわからないから れ、 ﹁命の値ぶみ﹂をしたいきさつと、助命すると決めた者 わかっても、かれの頭領然とした﹁こいつにも、うんと砂糖 こそボランティアを続けることができる。彼の現地報告を読 辺見庸にしても中村哲にしても苦海にあえぐものを前にす を入れたやつを飲ませてやれ。 ﹂は、いつもながら厭な気に わたしは偶然、中村哲がこの箇所についてテレビで喋って ると、知らぬふりをして通り過ぎることができないタチとい み知 っ て感 動す る も の た ち の卑 し さ と浅ま し さ と薄っ ぺ ら いるのを見たことがある。汚れた画面を布巾できれいに拭き、 うことはすぐわかる。じぶんにできることがあるとかないと なる。中村哲の疲れたからだとこころは 、 ﹁北極星を探して テレビの前に正座して、息を殺して真剣に見た。血が逆流し かそういうことではない。できるできないにかかわらず、見 さ。そこに身をおくことがないものたちの鈍感さと思いあが た。それは 、 ﹁助命しようとすればできたのですが、現地の 知らぬ他者の身のうえにふりかかる悲痛がどうしても気にな 東を定め、遠い日本に思いを馳せ﹂ 、 ﹁そして、意図的に処置 事情を考えて、助命しないことにしました﹂というような話 ってしまうそういう性分のことをいう。どちらも文章のうま り。そういう安っぽい感情による解釈を一切合切拒むことが のときだった。緊急を要する医療の現場で猶予せずに判断せ さで人を惹きつけるのだが、辺見庸は苦海を前にしたときの をしなかったもう一人の負傷者の不安な表情が、悲しく流れ ざるをえないことはあるに違いない。しかし、助けることが ゆるぎなさがないぶんまだどこか救われる感じがする。おそ 生きるということなのだ。そこにしか生の固有性はない。 できたにもかかわらず、事情により助命しなかったというこ らく、もしあったとしても、辺見庸は﹁意図的に処置をしな 星のように心をよぎった﹂ことで花を供えられる。 とは、中村哲の胸に秘めておくべきことであって、不特定多 230 に帰化し現地人となって、らい撲滅のためにゴム草履職人に しい議論﹂が厭なら、極貧の﹁文明の辺境﹂であるアフガン 金まみれの文明国日本での﹁不安の運動﹂にかられた﹁賢 かった﹂ことを書かないだろうし、書けないだろうとおもう。 しい政治的トリックや取引き︱全てが不自然で遠いもの ヒステリックなナショナリズムの煽動、宗教村立、小賢 争が、何だか蜃気楼のように実体のないものに思われた。 この過去十五年のペシャワールとアフガニスタンでの闘 合い、かばい合いながら、人間の分に応じて生きている。 幻影だ。文明とは、欲望の再生産機構であり、人間の物 に感ぜられる。我々は余りに無用なものに振り回されて 使い分けの見事さが中村哲には欺瞞として意識されていな 欲と支配欲の組織化、その洗練された形態である。便利 なればいい。それに尽きるではないか。なぜそうしない。そ い。どんな艱難辛苦も中村哲を退散させることはできないと さと引き換えに、我々は多くのものを失った。便利で快 して地を這いずりのたうちそこからアフガン人として金満日 おもう。それほどかれの虚偽の意識は、虚偽が虚偽として意 適な生活を守るために、自他を痛めつけ、かつこの文明 きた。我々﹁文明人﹂の煩悩は、大抵が自ら作り上げた 識されないという意味において確乎としている。それがなに と称する苦悩の形態を輸出・拡大する。私は一人の医療 本を砲撃せよ。それならまだすこしはわかる。 に起因するものか手に取るようにわかる。それがどういうこ 人 と し て、 人 間が 超 え る こ と が で き な い絶 対 の自 然、 それは実は自然の隠蔽であって、虫のよい自己逃避の となのか 、 ﹁少なくともここ極貧の﹃文明の辺境﹄では、分 つぎのところで見ることにする 。 ﹁不安の運動﹂に駆られる 形にすぎない。十五年の現地活動は、企らずも私たち自 ﹁死﹂さえ制御できるという思い上がった錯覚を見てき ことへの嫌悪を、彼の触ったインマヌエルを手がかりに﹁伝 身に、そのことを教えた。実際、私たちにできたのは、 を越えた生への執着や﹃不安の運動﹄から、私たちが自由で 統﹂へとつなぐことで打ち消そうとする彼のモチーフが浮き 限られた場所、限られた時間で、迫害や病に疲れた人々 た。 あがってくる。ここには文明の先進と辺境をめぐる超えがた にささやかな慰めを与えてきたことだけである。 あることに感謝した﹂と中村哲が言うことを導きの糸として、 い難所があり、べつの道を通ってフーコーも落ちた罠がしか いや厳密に言えば、その慰めの根源も、決して私たち 持たざる自由さ うに溢れて来るのである。人の言葉は貧しい。この﹁空 空白﹂ともいうべき、人間に内在する自然から、泉のよ けられている。よほど強い見識がないと躓くところだ。 ﹁世は全て事もなし﹂である。そう、これで良いので 白﹂の断定的な定義が、実体と影を混同させ、面妖な新 に由来するのではない。侵してはならぬ共通の﹁神聖な ある。極貧であっても、人々は自然に服従し、身を寄せ 内包世界論1−内包論 231 る。人間が共通に﹁良し﹂とする合意が含まれ 、 ﹁生き も、およそ伝統と呼ばれるものの核は、この空白に接す 興宗教や狂信を生んできた。どんな地域、どんな文化で こではじめて苦海に生きるものと﹁慰めを与える使者﹂が、 豊かで楽天的になった﹂ことを﹁恵み﹂であるとみなす。こ たからである﹂と彼は言い 、 ﹁与えて失う分だけ、私たちは えたのは ﹂ ﹁﹃使者﹄としての分を 弁 える自省を失わなかっ わきま る平衡﹂とでもいうべきものを提供する。事実、進歩発 じかに触れ合い、対等な関係を切り結んでいる。 らの自由である。人には﹁持たざる自由さ﹂というもの に過ぎない。使者の特権があるとすれば、それは所有か なく、自分たちにも内在する自然を映し出して見ている 人々は私たちの行為を称賛したが、私たちが偉いのでは 失わなかったからである。使者は主人以上の者ではない。 てふるまえたのは、 ﹁使者﹂としての分を 弁 える自省を 私たちが人々と苦楽を分かち、慰めを与える使者とし のそれぞれがじぶんを生きることにおいてじかにつながらな おもう。文明国であろうと辺境の国であろうと、わたしたち ていえば、中村哲のここでの引用の発言は﹁有害無益﹂だと で中村哲が発言した﹁有害無益﹂であるとの断言になぞらえ 争へ日本国の自衛隊を海外派兵するか否かをめぐって、国会 権力である。テロ殲滅をめざしてアフガンにしかけられた戦 れないかぎり、この視線は衆生を睥睨する知者の驕りであり 違うとおもう 。 ﹁世は全て事もなし﹂が彼の身を通していわ というようなことをわたしは言わない。わたしは根本から 展の名の下に、この事が忘れられて伝統社会が崩れると、 が与えられている。逆説的だが、無い分だけ、与えて失 いかぎり、なにごともはじまらないのだ。これ以上分明なこ 人々は平衡を失って暴走した。 う分だけ、私たちは豊かで楽天的になった。これは恵み とはない。 であっても、人々は自然に服従し、身を寄せ合い、かばい合 あ る 。 そ う 、 こ れ で 良 いのである ﹂ のかもしれない 。 ﹁極貧 もう見事なものだというほかない。 ﹁﹃世は全て事もなし﹄で かしらな言説と中村哲の言説はまったくべつものだ。それは 哲の文章はめちゃくちゃいい。おびただしく垂れ流されるさ 巷にあふれるいかさまの知的と称する言説にくらべ、中村 とした彼の活動の強さの源がある。だから、彼が﹁分に応じ って、この現世での役割を演じているのではない。ここに凛 うことを意味しない。彼は神とじかに結びついているのであ とになるのだ。彼の﹁使者﹂という言葉は知識人の役割とい し﹂と映ろうと、現世では知をふるまう者が睥睨しているこ えることで済まされることではない。彼に﹁世は全て事もな に内在する鈍感さ。それは彼の﹁使者﹂としての役割や分を 弁 わきま である。 いながら、人間の分に応じて生きている﹂からである。 ﹁私 て﹂というときそれは現世の秩序の階梯を意味していない。 わきま 中村哲のふるまいのゆるぎなさと、謙虚な首領であること たちが人々と苦楽を分かち、慰めを与える使者としてふるま 232 体であり現実はその影だと彼はみなしている。 内在する自然﹂からみれば同一のことなのだ。この関係が実 どういう分であろうと﹁神聖な空白﹂ともいうべき﹁人間に のことだ。こういった境位にフーコーも曝された。 業廃棄物に成り果てるのが待ち受けているとしたらなおさら 先進はなにかせわしいのだ。追い立てられるように働いて産 中村哲は医療の実務家であるにもかかわらず、その﹁分を 由﹂という一文には面目躍如たるものがあり、我が道を行く てふるまっている。汲めども尽きぬ泉のような﹁持たざる自 弁 える﹂ことを逸脱して、ここでは一人の文明批評家とし い一、二世紀続いた現象でしかありません。だが、今日、 はきわめて浅薄なものとなってきます。それは、せいぜ したけちな西欧化という現象は、極東の長い歴史の上で いうまでもなく、千年単位でものを考えた場合、こう わきま 彼の独壇場である。彼の理念の長所も短所もこのなかにある。 第三世界、いや、非・西欧的な世界が前世紀より蒙って 何か新たなものが生まれようとしているのか。絶対的に 彼が﹁不安の運動﹂からまぬがれているのは、インマヌエル ここから彼は一気に退行する。極貧にあえぐ文明の辺境国 超・西欧的な文明が発見されることになるのか。わたし いた西欧による怖るべき経済的搾取を乗りこえようとす の衆生は文明国の損得勘定とはべつの生き方を、より自然人 はそれが可能だと思う。大いにありうることだとさえ思 を識っているからだ。文明の先進地域はマネーゲームにまみ として生きている。人間にとっていちばん大事なものは、 ﹁人 う。そして、それが可能でなければならぬ。 ・・・︵略︶ る方法と手段とは、なお西欧に起源をもつものであるよ 間に内在する自然﹂に拠って生きることである。それは神聖 ・・・西欧は、西欧文明は、西欧の﹁知﹂は、資本主義 れてすべては欲得ずくめであり、あげくの果てに﹁不安とい な空白として伝統というものと接している 。 ﹁どんな地域、 の鉄の腕によって屈伏させられてしまいます。われわれ うに思われます。では、これから何が起ころうとするの どんな文化でも、およそ伝統と呼ばれるものの核は、この空 は、非・資本主義的な文明を創出するには、疲弊しつく う運動﹂につきまとわれ、そんなものはうんざりだという中 白に接する。人間が共通に﹃良し﹄とする合意が含まれ、 ﹃生 しています 。 ︵蓮実重彦によるインタビュー﹃批評ある か。この西欧的な手段による解放の動きを契機として、 きる平衡﹄とでもいうべきものを提供する﹂と中村哲がいう いは仮死の祭典﹄所収︶ 村哲の境位がある。ここまではいい。異論はない。 ことはこういうことだ。欲望のための欲望が際限なく増殖し 疲れ果てたときに悠久の大自然と融合した生がなにか郷愁を 規模のシステムにたいする最初の大反乱であり、最も現代的 あの思考の塊のようなフーコーをして﹁これは多分、世界 ていく資本のシステムのニヒリズムという﹁不安の運動﹂に 誘う蠱惑的なものとして人びとをからめとっていく。文明の 内包世界論1−内包論 233 いない。意志論を抜きとることで可能となった彼の知の系譜 思想には戦略も戦術も存在するが、大気の重さが計量されて もやったはずだ。巨大な思考とささやかな慰め。フーコーの ールを送った。たしか彼はボート・ピープル支援の社会運動 て彼はホメイニの迷妄そのものが体現されたイラン革命にエ た、資本のシステムがつくりだすさけがたい疲労感。斯くし ボ ン ﹃ミ シ ェ ル ・ フ ー コ ー 伝 ﹄ 田 村 訳 ︶ ﹂ であると 言 わ し め な 反 抗 形 態 で あ る 。そ し て 最 も奔 放 な反 抗 形 態 ﹂ ︵M・エリ っていても、私たちが想像する個人というものがないのだ﹂ 人は存在しない。伝統的共同体の一部を担う人格が影響をも ことになる。 ﹁でも、当地では、 ﹃責任を取る本人﹄という個 説明してどうするかを決めるのは患者個人の責任だ﹂という と彼はかんがえる。はてどうしよう。日本ならば﹁ちゃんと 画のためには長老会の意志表示を無視するわけにはいかない しかし診断が正論であっても、今後のフィールドワークの計 の足を切断するのは、もっての外だ﹂というのが決定だった。 着用を薦めたが拒絶される。村の長老会では﹁尊敬する長老 因習や文化を異にする閉鎖社会の共同の迷妄を無視しない 学が﹁神聖な空白﹂を語ることはけっしてないが、当事者性 いことにおいて奇妙に中村哲と似ている。中村哲は﹁伝統と で最善の治療はどう可能なのかと中村哲が思い悩んで孤独な と彼は言う。 呼ばれるものの核﹂には人間が共通に﹁良し﹂とする含意と 決断をするに至る経過とその顛末が掲載記事の趣旨だ。だが を手放さないことでかろうじて可能となる固有の生を語らな ﹁生きる平衡﹂があるというが、それはまた迷妄それ自体で キスタン辺境の閉鎖的な共同体のなかでは﹁人格が影響をも そこでの中村哲の孤独な決断に気をひかれたのではない。パ 自己同一性に拠る表現をなすかぎり、たとえ自己の陶冶か っても私たちが想像する個人というものはないのだ﹂と中村 もある。フーコーにおいてもまた。 らはじめようと、他者への配慮を優先させようと、まただれ という考え方は最近の発明物なのだ。たしかに共同体の伝統 哲が書き記したところに気をひかれた。人権論議が喧しいわ 毎日新聞︵一九九七年五月二日︶に中村哲の﹁ある治療記 のなかに融解して個人というものが存在しない、そんな時代 が、どこで、どういうふうに世界を語ろうと思考の慣性とし 録から﹂と題する記事が載っていて、読みながらあるところ があった。しかしそんな暮らしのなかからその後の歴史は個 が国ではウソみたいな話だが、よくよくかんがえると、つい でふと眼が止まった。中村哲のところに一人の患者が訪れる。 人を産みだしたのだ。そのことはわが国をふりかえるまでも てそこに同型なものがうみだされるだけだ。なによりこの世 六十歳を過ぎた村の長老で、ハンセン病を患っており足底潰 なくすでに歴史の事実だといってよい。わたしはこの過程は ふ た 昔 ば か り 前 は こ の 日 本 でもありきたりの話 だ 。 ﹁個人﹂ 瘍がガン化し敗血症を起こす恐れがあったので、救命を兼ね 人類の文明史として不可避なことで不可逆だとおもう。中村 はなにひとつ変わらない。 て足を切断するほかないと中村哲は診断する。切断と義足の 234 哲はフーコーと違い現地をよく知っているから、フーコーほ くこともない、ましてまた生きてみようとすることもない、 存在をひらくこと。彼がけっして感じることも、おもいえが あ る ど無頓着な言い方はしない。ただ彼にしても含みのある言い この決定的な一点だけが彼とわたしを分かつ超えがたい場所 という驚きが訪れることはついにない。 である。中村哲にヴェイユを襲った﹁なぜ私を傷つけるのか﹂ 方をしている。 ﹁見せしめの刑によって治安を保っているという面もたし かにあるが、タリバン政権になってから、アフガニスタンは おそらく世界一治安のよい国となった。そういうことが日本 中村哲が賢いのは伝統のなかにある核を神聖な空白と重ね 解消がテロ根絶への近道 ﹂ ﹃潮﹄二〇〇一年一二月号所収︶ がわたしにとって聖なるものなのではない。かれの腕は ても、あらゆる関係のもと、あらゆる点において、かれ かりに、かれがわたしにとって聖なるものであるとし もし、わたしにその許可があたえられ、またわたし自 る愚を犯さないことだ。共同の迷妄をそれとしてよく理解し 長い、またかれの眼は青い、あるいはまたかれの思考は ではまったく知られていないのだ。 ︵略︶ちなみに﹃ブルカ﹄ ながら、そこに身を寄せることなく、 ﹁人間に内在する自然﹂ おそらく平凡なものであろうというかぎりでは、かれは 身がそれに興味をもつとしても、あの男の眼をくりぬい にまで手繰りよせている。そうかんがえてくるとわたしの中 わたしにとって聖なるものではないのである。たとえか ︵女性が頭からかぶる服︶はアフガニスタンだけではなく、 村哲への違和はただひとつのことに帰せられてくるような気 れが公爵であろうと、かれが公爵であるというかぎりで てはならぬ、とわたしを引き止めるものは、正確にはな がしてきた。神聖な空白と言うも、人間に内在する自然と言 は、聖なるものではない。たとえまたかれが屑屋であろ ペシャワールの女性も着用している。タリバンの布告する法 うも、彼がインマヌエルとして識るものが、存在の初期不良 うと、屑屋であるというかぎりでは聖なるものではない。 にであろうか。 として制約されて表現されたものであること、そこまで彼が わたしの手をひきとめるものは、それらのものでは全然 はほとんどが地方の伝統的慣習法なのである﹂ ︵﹁飢餓状態の かんがえていることはない。むしろいまそのことは脇に置い ないのである。 される。慰めを与えることは知による権力の行使であり、分 可能とする当事者性を欠いた﹁使者﹂というかんがえは批判 れるということを考えることによって、かれの魂がひき の眼をくり抜くと仮定して、かれが、自分に害が加えら わたしの手をひきとめるもの、それは、だれかがかれ あ る ておいてもいい。彼がいつもそこにいてそこにいないことを をわきまえることもまた権力である。出来事の当事者である 裂かれるであろう、ということを知ることなのである。 あ る というかすかなすきまを通って、存在の初期不良へと至り、 内包世界論1−内包論 235 ︵シモーヌ・ヴェイユ﹃ロンドン論集とさいごの手紙﹄ り返そうというわたしの意図がここにある。 わたしはじぶんの世界との関わりにおいてこれまで二度大 の神を狂おしく身悶えして語ろうとしたヴェイユが夭折する て存在の根底でひらかれるほかないものだからである。不在 にゆだねることではなく、当事者性がひきよせるひずみとし すこともない。それは生殺与奪の権能を人間に内在する自然 慰めを与える使者の特権とする目をおおうばかりの愚をおか しなかった﹂という信じがたい傲慢も、持たざる自由さを、 もし中村哲が当事者性を生きるならば 、 ﹁意図的に処置を 劣な所業によって生を撃断される。頭のなかが真っ白になり、 の暗闘でわたしの生が崩壊することはなかった。二度目、愚 るともわからぬ日々をよく一人でもちこたえたとおもう。こ こころがしんしんと冷えていった。白刃と渡り合ういつ果て たり下痢したりしてなかなかたいしたものだった。からだや ちこちにおおきな穴がぽっかり空いてしまって、風邪をひい きうけた。なにしろ激しく転んだので、からだやこころのあ 事態をわたしはじぶんの連合赤軍事件として生存を賭けてひ 田辺・杉山訳︶ ことなく長じていれば、おそらく﹁神聖な空白﹂を押しひろ 言葉から背骨を引っこ抜かれる。三六歳だった。迂闊だった きく躓いた。一度目は一九七三年四月の出来事だった。この げ、自己同一性権力をめくり返していたにちがいないとわた というほかないが、こたえた。そのことについては書かぬ。 あ る しはおもう。感じることを感じ、かんがえることをかんがえ 二度目ひっくりこけたときはあんまり激しくて頭が地面にめ 球のシドニーにいた。みんな朝ご飯を食べながら、英語で書 り込んで、気がついたら地図でしか見たことのなかった南半 れば、生という固有なものはかならずそこまでゆきつく。 5 かれた宮沢賢治の﹃注文の多い料理店﹄の序を読んでいた。 ものとして演算される。これだと閃くものがあった。もとよ 時間が相関することにより距離という第三の量があらわれる 量として演算されるのに比して、内包量は、たとえば速さと 着想を得た。外延量は同質のもののあいだの関係をあらわす るな、語るならじぶんを語れということ。ふたつの自戒はい を否定するという態度を貫くこと。もうひとつは、他者を語 ひとつは、若い頃からみずからに課した鉄則である、役割論 た。倒壊した生を立て直そうとしておもい決めたことがある。 そうしてわたしは内包の言葉をひとつひとつつくりはじめ わたしにはなんのことかわからなかった。 り数学の概念としてではなく思想の言葉として自己同一性を まも守っている。かんたんに、当事者性に徹せよと一言で言 内包という概念は遠山啓の内包量や外延量という言葉から ひらく鍵をそこに直感的に読み込んだというわけだ。禁止と うことができる。わたしの生のすべてを賭けてもここを譲る わ が こ と 侵犯に閉じられた同一性による生の監禁を内包によってめく 236 してあつかうことができるとかんがえた。それが人間にとっ 自己の陶冶はなぜそのままに他者への配慮を現成しないの わけにはいかない。じぶんが体験した愚劣とむごたらしさを か。そこに矛盾や対立や背反があるから、家族という特殊な て不可避なことであったとしても、同一性による生の監禁を うなことだとおもうのなら、まず隗より始めよだ。腹を据え 共同幻想を節目に宗教は国家へと流れくだり、共同存在から くぐり抜けてしかわたしは伸びやかな世界に行くことができ てかかられよ。わたしがやれたところまではだれでもくるこ わたしたちは歴史とみなしてきたのではないか。 とができる。そしてわたしの経験はなければそれに越したこ 弾き飛ばされるようにして自己が内面化される。自己幻想と なかった。わたしの思想の流儀が羮に懲りてなますを吹くよ とはない骨折りで無益なのだ。だから禁止と侵犯の存在しな 共同幻想のなかで男と女が紡ぐ幻想をとくに対幻想と吉本は 共同幻想が逆立するさいに対幻想がその節目を為している。 そうやって一角獣みたいな生活をしていて見えてきたこと 名づけている。吉本隆明もまた知らずに同一性の罠に嵌って い世界をつくりたくてわたしは内包論をかんがえている。 がある。役割を演じ他人事を語ることが二〇世紀の人類史の いる。 ひ と ご と 厄災を招いたのだといってよい。いかなる義であれ、善意の を生きること。わたしは内包存在を分有する在り方のなかに、 ということでもなく、自己よりも疾くふたりである根源の性 費やした。単独ということでもなく、余儀なさとして群れる ている。この知の範型を超えようとしてわたしは生の大半を ある。だから人間にとって共同幻想は個体の幻想と逆立 る存在である。共同幻想もまたこの種の負担のひとつで にうながされてさまざまな負担をつくりだすことができ されることをしりながら、どうすることもできない必然 人間はしばしばじぶんの存在を圧殺するために、圧殺 道は地獄へと至るのだ。われとわが身にそのことは焼きつい 孤独であることも共同化することもできない固有の生がある する構造をもっている。そして共同幻想のうち男性また はこれらの 観 念のあらわれの 違いを 位相 という 言葉 を使っ や家族、一人称に属するものを内面と呼んできた。吉本隆明 幻想であれ、それは存在を圧殺するものであり、負担となる とでも呼ぶほかないだろう。吉本の定義によればどんな共同 対幻想は共同幻想なのか。同一律の支配する世界ではそう 幻想とよぶことにした。 ︵ ﹃共同幻想論﹄の序から︶ は女性としての人間がうみだす幻想をここではとくに対 とおもう。 同一性というものさしで︿存在﹀に穿った窪みのことを、 わたしたちは重畳する歴史の過渡として、三人称に属するも て、観念の位相的な構造理念をつくった。わたしは内包論で ものである。そうすると﹁しばしばじぶんの存在を圧殺する のを国家や共同体、あるいは貨幣、二人称に属するものを対 吉本の思想を、同一性を保存した意識の展延された外延量と 内包世界論1−内包論 237 のか。関係がうまくいかないということはよくある。いやう 然にうながされてさまざまな負担をつくりだす﹂ことになる 好きになるのか。そしてそれは﹁どうすることもできない必 ために、圧殺されることをしりながら﹂人はだれかある人を びすると彼は言っているのだ。 おかれている。簡単にいうとひとりのときがいちばんのびの うとき、生きたいように生きることに第一義的な生の価値が た。彼が﹁存在を圧殺する﹂とか﹁負担をつくりだす﹂とい の集団的な共同性の最小の単位は、三人から成るものとかん れることができないという 認識がまずはじめにある 。 ﹁人間 吉本隆明には共同性のなかでは人間は部分的にしかあらわ たし﹀だ。こうなるとわたしはわたしであってわたしでなく たされていっぱいになりあふれてこぼれでたもの、それが︿わ 、己 、性 、はけっしてあらわれない。謂うならば、充 あることの自 だ。この︿性﹀によぎられることなくしてわたしがわたしで ていき、理不尽に﹁わたし﹂を簒奪するもの、それが︿性﹀ 実感としてもかんがえを究尽することにおいても、それは がえることができる 。 ︵略︶そしてこの集団的な共同性のな ︵非わたし ︶ 、あなたはあなたであってあなたでなく︵非あ まくいかないことのほうが多い。しかしそれは体験知に属す かでは、個々の成員はかならず全人間的に登場することはで なた ︶ 、生存の形式としてはわたしはわたしであり続けるの 違う 。 ﹁わたし﹂になんの挨拶もなくいきなり﹁わたし﹂の きない。共同性であるという特質は、そのなかの個々の成員 る。普遍の真理ではないはずだ。吉本思想という比類のない にとっては、人間的な︿行動﹀をいつも部分化されてしまう に、表現としては︿非わたし﹀となって、なにより驚くべき ど真ん中を真っすぐに貫通し、 ﹁わたし﹂のなかのなにか硬 ものとしてあらわれる 。 ︵略︶ところで、二人からなる集団 ことに、ここにおいて 、 ︿非わたし﹀が︿非あなた﹀となる 全円的な幻想論にとって性がつじつま合わせのために犠牲と をかんがえても、この集団のなかで、個々の成員は部分的に 絶対矛盾的自己同一があらわれいずることになる。これより いものを破壊して 、 ﹁わたし﹂という存在を根こそぎさらっ しか登場することができない﹂ ︵﹃情況﹄所収﹁機能的論理の 不思議な超越はありえない。わたしの内包論では︿性﹀はこ されている気がしてならない。 位相﹂ ︶ 個々にとって相手は部分的にしか登場できないことになる。 吉本隆明の定義によればふたりの関係も共同性であるから、 れている。つまり、あるものを往相廻向とすれば、あるもの ものとみなしてきた在り方にはじつはこういう驚異が内包さ あるものがそのものにひとしいというわたしたちが自明の ういうものとしてある。 そしてこの部分性を彼は︿性﹀と呼んでいる。もちろんこの わたしはこの認識の型のことを同一性原理とよんでいる。 共同性は互いの心身の状態に還元しうるということにおいて 、相 、 は、神仏ではなく恋愛の彼方の根源の性にやどられて、還 、向 、としてそのものに重なるのだ。そしてこの奇天烈な不思 廻 三人以上の共同性と違った特質をもち、対幻想と名づけられ 238 同体へと拡大され、起源の国家が誕生することになる。理屈 延は、氏族共同体が内婚制から外婚制を経ることで、部族共 吉本隆明が恣意的に生きることを価値の源泉とするとき、 は理解できるのだが、導きたい論理の筋目から対幻想の役割 議は根源の性によってのみ可能となる出来事である。 じぶんという存在が自己によって領有されることを前提とし が演繹されている気がして仕方ない。そのためには対幻想は 吉本隆明に濃厚にある、おれは気ままに生きたいし、干渉 ている。この確信抜きに吉本の思想の明晰はありえない。わ されたくないという念力には年季と気合いが入っている。共 共同幻想でないと矛盾する。それは、わたしが一番で、あな ねてみている。しかし彼のたましいはどうしてもそこに安息 感する。ここは肝心要のところだとおもうのでもう少し引用 たしは吉本の明晰が古典的であるとかんがえた。はたして存 をみいだすことができない。そのぶれが一方でヴェイユにこ する。思想の基準をめぐってインタビュアーがおおよそ、 ﹁観 たのことは二番目よ、ということだ。いやそういうわけでは だわる由縁だとわたしはおもう。わたしは根源の性が分有さ 念が生理過程の矛盾としてあるのなら、動物のままのほうが 在は自己が領有するものか。ここに思想の根源的な価値をお れることにおいてはじめて自己が自己として現象するとかん いいという考えにつながっていないか。そこにはなにか人間 ないといっても、名高い﹃共同幻想論﹄の序に書いてある。 がえた。吉本の文理︵同一性︶に即していうなら、吉本のか の本質は不幸なものであるという認識があるように思えるの くことはかんがえられているよりはるかにおそろしいことで んがえとは逆に、人間は性的でないときは全人間的にはあら だれが読んでもそう読める。 われることができないのだ。わたしは内包論で、吉本思想の だが﹂と発する問いに答えて吉本隆明が言う。 ある。親鸞をこよなく愛好する吉本は自然法爾にじぶんを重 古典性を拡張することが近代がはらむ逆理を解くことに等し いとかんがえた。そしてそこにしか自己の陶冶が他者への配 大してもそのままでは国家に至ることはないことに頬被りし 的なものであり、それらはいずれも血縁共同体をどれだけ拡 まれない。わたしの知見の範囲では吉本の国家論の他は機能 ごうとすれば、節目に対や家族を挿入しないかぎり国家は生 吉本隆明のかんがえに沿っていえば、自己と群を観念で繋 す。つまり︿人間﹀を制度的にも社会的にも、さらりと を、不可避的に蓄積していくよりほかないということで ︵それが︿良きもの﹀であれ 、 ︿悪しき﹀ものであれ︶ 入った人類は、人間のつくる観念と現実のすべての成果 されましょう。ひとつは、いったん︿人間﹀的な過程に と思います。この︿不幸﹀の内容は、つぎのように要約 もしそう思うならば、人間の本質は︿不幸﹀なものだ ている。吉本隆明のかんがえでは、性という特殊な共同性を やめて 、 ︿動物生﹀に還るわけには行かないということ 慮を現成する根拠はありえないとおもっている。 節目として、そこに近親婚の禁止が挿入されれば、家族の外 内包世界論1−内包論 239 いという点です。 ︵略︶これらが、人間の本質が︿不幸﹀ だの︿対立﹀ 、 ︿矛盾﹀ 、 ︿逆立﹀として表出せざるを得な したため、人間の本質的な不幸は、個人と共同性のあい 力 ﹀、 ︿法﹀など、つまり 共同幻想を不可避的に生みだ いうところまでしりぞけることができる﹂とみなした、当の 的範疇を 、 ﹁ある構造を介して幻想の問題に関係してくると ルクスの経済論にたいして幻想論を対置した吉本隆明が経済 言葉の威力にかぶれて発熱した青少年が大勢いたはずだ。マ ただこの祝詞の呪力は尋常ではなかった。ほかにも吉本の 同幻想は消滅すべきなんだと、そのフレーズに痺れた。若い なものであるということの内容だと思います。ただ、こ ﹁ある構造を介して﹂が何であるかという謎とともに 、 ﹁逆 です 。 ︵略︶第二に、人間は、他の動物のように、個人 の︿不幸﹀は 、 ︿不幸﹀なことが識知された︿不幸﹀で 立する﹂という祝詞にながく呪縛された。騒動の渦中で行動 というのはそういうことだ。 あるために、究極的には解除可能な︿不幸﹀ではないで が急進化するときその境位は手に取るようにリアルだった。 として恣意的に生きたいにもかかわらず 、 ︿制度 ﹀、 ︿権 しょうか。 ︵ ﹃どこに思想の根拠をおくか﹄ ︶ あるいはイデオロギー的な仮象をもってあらわれようと、共 が原始宗教的な仮象であらわれようと、現在のように制度的 年︵当時のわたしのこと︶にとって吉本隆明の、 ﹁ 共同幻想 とにあると述べている。だから、年端もいかぬ反抗的な青少 ここでも人間の本質的な不幸は個人と共同性が逆立するこ んとべらぼうな物言いだ。地軸も傾く苛烈な思想だ。 ってよい 。 ﹁ 共同幻想自体が 消 滅 しなければならぬ﹂ とはな が一斉に離反して市民主義者となった淵源もここにあるとい かけに、かつて吉本隆明の思想の圏域に棲息していた者たち 隆明が麻原彰晃の宗教者としての力量を評価したことをきっ 滅すべきというイメージはつくりにくい。オウム事件で吉本 体験的にはよくわかっていたのだが、あらゆる共同幻想が死 同幻想の︿彼岸﹀に描かれる共同幻想がすべて消滅しなけれ ヤの壁にレコードのジャケットを掛けて、ね、キースのこの 茶カッコよくて、女の子にただもてたいために三畳間のベニ わけではない。ストーンズの﹃ベガーズ・バンケット﹄が無 界論 ﹂ ︶という宣明は強烈だった。もちろん理屈がわかった とってラジカルな本質的課題である﹂ ︵ ﹃共同幻想論﹄所収﹁他 ぬという課題とともに、現在でも依然として、人間の存在に っては共同幻想は︿欠如﹀として了解されたりする。ま ︿同調﹀するもののようにみえる。またべつの個体にと い。むしろある個体にとっては、共同幻想は自己幻想に わ な眼 に み え る形 で あ ら わ れ て く る と は か ぎ っ て い な ずである。しかし、この︿逆立﹀の形式はけっしてあら 生活している社会の共同幻想にたいして︿逆立﹀するは 原理的にいえば、ある個体の自己幻想は、その個体が ばならぬという課題は、共同幻想自体が消滅しなければなら ギターのリフ格好いいね、というノリで、そうかあらゆる共 240 と、小さなサークルの共同性と解しようとまったく自由 家﹀と解しようと、反体制的な組織の共同体と解しよう に社会主義的な︿国家﹀と解しようと資本主義的な︿国 んでいない。だから︿共同幻想﹀をひとびとが、現代的 、れ 、ん 、味も含 ここで 、 ︿ 共同幻想﹀ というときどんなけ 論の可能性を逆説的に暗喩しているようにおもえる。思想だ 公共性をめぐる論争のあれやこれやは、むしろわたしの内包 む絶対の矛盾と、そこをはるかな淵源として派生する自己と 態から発しているとかんがえている。吉本隆明の言説のはら は、禁止と侵犯に閉じられた同一性による生の監禁という事 知的な遊戯には吐き気がする。わたしはこのどうどうめぐり う、じつにくだらぬことがまじめに論争される。何かそうい であり、自己幻想にたいして共同幻想が︿逆立﹀すると けがゼノンの矛盾を体現するということはなかろう。共同幻 た、べつの個体にとっては共同幻想は︿虚偽﹀として感 いう原理はかわらないし、この︿逆立﹀がさまざまなか 想が死滅すべきか否かに思想の命運はなく、共同幻想のない うことを論じれば現実に触れていると錯覚できるものたちの たちであらわれることもかわらないのである。 ︵﹃共同幻 世界をいかにつくりうるかなのだ。飛んでいる矢が的を射抜 ぜられる。 想論﹄所収﹁祭儀論﹂ ︶ くなら、生だけが無限に猶予される謂われはない。そのつど わゆる、よい共同幻想︱悪い共同幻想論だ。こうなると吉本 会原理を唱える者たちがこの間隙にするりと滑り込んだ。い 入する。国家を開く条件となってそれはあらわれた。市民社 そこで吉本はのちに﹁段階﹂という媒介的な概念をそこに挿 だが、定義により実現が絶対不可能な事態が宣布されたのだ。 題が裏切られてしまう絶対の矛盾がそこにあり、おなじこと よって、あらゆる共同幻想が消滅しなければならぬという命 を抛った。このとき彼は一瞬目を瞑った。自己を実有の定点 坤一擲。起源の闇にある明暗不明を歴史の終焉に向けて投網 は廃人であるさうだ ﹂ ︵﹁廃人の歌 ﹂ ︶とかんがえている。乾 ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によって、ぼく う。だから彼はじぶんのことを﹁ぼくが真実を口にすると、 られていないあいまいさから 流れ下 ってきたものだとおも のひとつの極北をなしていた。それは吉本の思想のつきつめ ともかく﹁逆立﹂と﹁ある構造を介して﹂はわかりにくさ 現成しない生はいつまでたっても往生しない。 隆明の思想と市民社会原理を教宣することとの現実的な差異 とするかぎり、聖書の﹁汝姦淫するなかれ﹂とおなじで実現 人間の共同性の最小単位を三人と定義するかぎり、定義に はなし崩しに消滅する。過渡的にはどちらに与しようとさし する一歩手前で折り返した、けっして語られることのない幽 不可能の絶対矛盾することが言われたのだ。思想の闇を突破 斯くして、自己本位は肯定さるべきことなのか、それとも 冥の場所を吉本隆明はもっている。この一点においてのみ彼 たる違いはなくなってしまうからだ。 従軍慰安婦 を 前にして無 限に 恥じいるべきなのかなどとい 内包世界論1−内包論 241 の思想は不明だとおもう。 くり返せば、ほっておいてくれ、おれは好き勝手に生きた すぎない﹂ ︵﹃言葉からの触手﹄ ︶ なんでこうなるのか。まだある。吉本のこの感受は一転し なことにかかわらずできるだけ怠けて楽して暮らしたい。こ の自然状態を吉本が偏愛していることにほかならない。余計 自己欺瞞、自己虚偽、内面、魂の深さ等々は無限大で発散し な事象分析のところまではかならずゆく。ここでは自己意識、 ﹁思考の展び︵のびやぎ︶は極限のところでは自然科学的 て攻撃的になる。 の気分はわたしのなかにもある。ところが吉本の恣意性の愛 てしまう﹂ ︵﹃試行﹄NO ﹁情況への発言﹂ ︶ いんだという情緒が吉本の思想の核心にある。これはある種 好はなぜかそのなかに不全感をのこしている。それは、〝カ 書くほかに生きようがなかったのだろうか。内面を内面とし が何に由来するのかわたしにはわからない。ほんとうに彼は なにかが彼に足らないのはそこからきている。この複合感情 するまで徹底的に追い詰め、攻撃する。生き生きと躍動する 者からそこに触れられると彼は激烈に反発する。相手が崩壊 のだ。それがあいまいだとわたしは言っている。そして、他 おもう。不全感を残すだけの余裕が彼にあったということな ラスの勝手でしょ〟ということで済ますわけにはいかないと 測できる。 怪な唯脳論者で溢れることになる。それらのことは容易に予 が脳の構造と機能で説明できると人々が信じればこの世は奇 物に近接していることも解明されるだろう。人間の心的現象 は人間に固有の心的ふるまいと信じられてきたことがより動 の進展によって人間の挙動も大きく変化するだろう。あるい の思考が自然科学の影響を被ることは間違いない。自然科学 びやかさと自然科学の事象分析とは無関係である。ただ人間 なぜここまで吉本は大見得を切ってしまうのか。思考の伸 られた知的な資料と先だつ思考のなかに融けてしまって、す とおもえる 。 ︵略︶この現状では︿わたし﹀はただ積み重ね のなにかの転倒は、すでに現在というおおきな事件の象徴だ な現在の哲学と批評の現在は、この事態を物語っている。こ ﹁ 精 緻 に ︿ 読 む ﹀ ことがそれだけでなにごとかであるよう 性の産物ならば、数学の︹1︺も物理学の︹質点︺も︹自己 ることは原理的に言ってありえない。人間という現象が同一 くない。しかしそのことによって内面や魂が無限大で発散す として巨大な市場を形成するであろうことは想像するにかた そして身体の改変が人間のかぎりない欲望の対象となり商品 後に残された天然自然を大幅に改造してしまうに違いない。 それよりなにより遺伝子工学の長足の進展は人間という最 でに存在しないものにすぎない。そして︿考えること﹀にお しかし同一性を事後的な一つの結び目とする内包存在は、 意識︺も同型なものとみなして演算することは可能だ。 この世界の映像に融けてしまって、すでに存在しないものに いてすでに存在しないものである以上︿感ずること﹀でも、 落としている。だから彼は言う。 て語ることに不毛感と深い疲労感が吉本のなかに色濃く影を 69 242 ことは途方もない錯誤だ。自己を実有とみなす吉本隆明の﹁他 学でもって人間という豊饒な渾沌を解明できるとかんがえる ありうるのだ。第一、精神現象の枝葉のひとつである自然科 いはそうであるがゆえに人間という存在が変わらずなにかで えない。そしてそこにこそ人であることの根拠があり、ある という要素に分解せずそれ自体として扱う方法を科学はもち できないからだ。つまり関与的な存在である内包存在を︹1︺ はなりえない。逆なら可能だが、同一性で内包を刻むことは 原理的にそれ自体は、要素還元主義を旨とする科学の対象に 間という観念は拡張されて概念の幹を太くする。 本の読みに反して人間が将来ゼロになることはない。ただ人 する吉本は衆の一人であるじしんをあまり好きではない。吉 んがえつめることの手綱をゆるめたのだ。だから大衆を愛好 した勢いを彼はじぶんにかえさなかった。どこかで吉本はか うことにほかならない。快刀乱麻、並み居る敵を一刀両断に 存在の制約を被った同一性が、その根底において空虚だとい にその責任は吉本自身にあるのだが、吉本隆明を虜囚とする 空虚な観念なのか。それは吉本隆明が空虚だからだ。ひとえ そう簡単に廃棄処分しないといけないのか。どうして人間が 言いつのる吉本は、攻撃したい対象を排撃したいあまり、ど ら解明できるかも知れない。内面や、魂の深さが蒸散すると のだ。いや、できれば動物のように生きたいという心だった い心が急激な自然科学的知見の拡大に脅迫されているだけな つのか。いったい何にたいして怒っているのか。途方にくれ 在しないと言っておきながら、なぜ吉本はここまでいきり立 と﹀は存在せず、そうである以上︿感じること﹀もすでに存 り哀しくなる。 ︿わたし﹀は史料の探索者であり、 ︿考えるこ もうこれぐらいでやめたくなった。書いていて情けなくな あ る の動物のように、個人として恣意的に生きたい﹂という寂し こかひずんでいるとわたしにはおもえてならない。 末な、空虚な観念です。人間の内面性も同じことです。ゆく ﹁ランドサットの視点から見れば、 ﹃人間﹄なんて実にお粗 とおなじことを言い始める。 んなものが思想と言えるのか。自同律の不快を病んでいるだ こういうものは嫌だ。生きていく勇気が出てこなくてなぜそ 対化病に罹患した彼の内なるがらんどうを渺々と風が吹く。 ない。何か不幸の臭いがする。生を無限に猶予する理念の相 る。極度のはにかみと極端な攻撃性。吉本の思想は幸福では ゆくは廃棄処分になるというのが、これからの人類の未来じ けではないか。 フーコーから甚大な影響を受けた吉本はおっつけフーコー ゃないですか。 ・・・﹃人間﹄はいずれにしても、将来、ゼロ ランドサットの視点とは自己表出の拡張概念である世界視 たら 、 ﹁不幸論﹂としても読めるはずだとあとがきに書いて 書いてあったので、なんだこれは不幸論じゃないかとおもっ 近作の﹃幸福論﹄を読んだら生きてていいこと何もないと 線のことを指している。吉本隆明の意見に反対である。まだ あった 。 ﹁あるとき、ふと夜中に目が覚めたら、もう死ぬこ に近づいてゆくのですから﹂ ︵ ﹃わが﹁転向﹂ ﹄ ︶ 一度もまともに生きられたことのない人間という概念をなぜ 内包世界論1−内包論 243 としか残ってない。いいことなんか何もないじゃないか、そ だ。 かつて吉本隆明の掌の上で踊った離反者たちもつきつめる んな気分になる﹂には、かぎりなく非知に近づこうという意 思があり、愚鈍なもの、ふつうなるものへの愛着がとてもよ ことを猶予した、半端な不可侵の圏域に属する物書きだとい 吉本の思想の生理とおなじ息づかいをしている。それは文理 く感じられて好感をもつけど、それでも彼の生は寂しい。彼 対象に嵌入して融合するか、破滅するか、どうでもいいこ を超えた、同一性原理が分泌する、思考の型であり生理とい ってよい。風見鶏よろしく吉本を批判するにはするのだが、 とだが、彼が同一者である由縁をよく示している箇所を引い うほかない。 もまた同一性の罠に嵌った虜囚だ。 てみる。 てどうしようもないんじゃないか。 ︵﹃オルガン4﹄所収 持続ということについては、もはや壊れる段階にきてい 考えをしています 。 ︵略︶エロスの問題でも、対幻想の いまはもう壊れていく段階に入ってしまったんだという なってしまったと言われれば、原型が先にあったんだが、 えていて、それがどうにもモデルが存在する余地がなく ぼくは無意識のうちに、まずはじめに原型があると考 可欠である。そしてよい共同幻想もあれば、悪い共同幻想も ないが、それはやはり人間が生きていくことにとって必要不 種の﹃必要悪﹄的なものであると考える。積極的に肯定もし 自身は、対幻想に対して共同幻想を、どちらかと言えば、一 を形成させる力であるととらえられる。そうだとすれば、私 作る観念と考えるなら、共同幻想とは、社会的な共同性一般 を吉本自身が規定しているように、性的ではない共同性を形 り固まった感覚には賛成できない。もし共同幻想という言葉 ﹁しかし何度も言うように、共同幻想=悪という吉本の凝 ﹁エロス・死・権力﹂吉本隆明 竹田︶ 内部に消そうとして消せない意識の特異点を不可避につくっ 源の性の分有者の表現は、人間を自然の一部とみなし、その ないのか。表現するものが表現されるものでもあるような根 る対象が分析する主体でもあるような関係がなぜ可能となら い。わたしはずっしり軽い満月の思想を語りたい。分析され 解 剖 学 者 のように対 象を 腑分けするこの 距離感 が嘘 くさ の挫折の補償として﹃社会的共同性﹄を組まざるをえないの て組み込まれている 。 ︵略︶したがって人間は、このエロス 質のうちに、多かれ少なかれ﹃挫折﹄への道行きが予定とし ︵個別の相手との一体化を目指す志向性︶は、それ自身の本 のように出来上がっていないからである。人間のエロス感情 れで完結すればいうことはないのだが、しかし人間の生はそ 人間にとってはエロス的な関係が第一次的なものであり、そ ありうる。ここで必要悪とわざわざ言うのは、私の考えでは、 てしまう、同一性論理の展延された自己表現とは異なるもの vs 244 である﹂ ︵小浜逸郎﹃吉本隆明﹄ ︶ ﹁恋愛の情熱は、じつは恋する人間の﹃自己幻想﹄に支えら 化して、違う、違う、違う、と言ってしまう。男と女の関係 ああ、なんでおなじことを言う。わたしもやにわに吉本と れています。人が恋人の﹃美しさ﹄の中に直観しているもの 請されるのだと小浜は言う。では、とわたしは切り返す。男 がうまくいって、好きよとっても好き、が長続きしたら、対 共同幻想をつくった吉本隆明の思想の深度と小浜の時流に と女の関係がうまくいくなら、どうする。理の当然。共同幻 幻想が共同幻想に逆立すると竹田青嗣は言う。吉本隆明はう の本質は、自分自身の﹃ロマン的幻想﹄なのです。だから恋 想は不要になるではないか。うまくいかないのはお互いの心 まくいくとかいかないを逆立の条件にはしていないけど、吉 乗っただけの機能的な理解の違いは決定的で触れるだけの価 がけが悪いのではない。心身一体となった存在を自己が領有 本のかんがえをここでは一応追認している。じゃ、失敗する 愛が進み、そこで男女の生身の人間関係が取り交わされると、 するとみなす存在の制約が男と女を生木を裂くように断ち割 とどうなるか。俗にかんがえれば、対幻想への共同幻想の侵 値はない。言葉の上っ面ではなんとでも言えるのだ。男と女 るのだ。同一性原理のもとでの人間のありようからはそう言 入、あるいは対幻想の共同幻想へのすり寄りが起こるとでも 必ず徐々に相手に投影されていた﹃ロマン的幻想﹄が剥がれ うことができる。だからままならぬ現実があるのだ。ただそ いいたいのだろうか。なんだ、この解釈も現実の追認ではな の関係はあらかじめ挫折することが予定として組み込まれて れではこの世がこうでしかないことを追認しているだけでは ていきます﹂ ︵ ﹃はじめての現象学﹄ ︶ ないのか。なぜ人を殺してはいけないのかとか、人はなぜ働 いか。小浜もどこかで恋愛が終わったところから生活がはじ いるから、挫折を代償する必要悪としての社会的共同性が要 かなくてはいけないのかとか、勝手に笛でも吹いて社会の学 まるといっていた。竹田青嗣がいっていることもおなじよう 条件ですね。ところがぼくの感じでは、これはみんな失敗す いくというロマン性なりエロス性がずっと生きのびるという す。つまり、それは﹃この男﹄あるいは﹃この女﹄と生きて 逆立するという場面には、ある条件が必要なような気がしま ﹁ですから、ぼくは具体的に言えば対の幻想が共同幻想に 似たことを竹田青嗣も言う。 けと竹田青嗣は言う。どんな恋愛だって自己愛なんだと言っ の彼方からよぎられる体験なのだ。好いた惚れたもはじめだ 腑抜けになるというのは、断じて自己愛ではない。それは存在 ごすことのできないことがある。好きになって、魂を奪われ、 い。なんか卑猥。それらはどうでもいいこととしても、見過 人間関係が取り交わされる﹂という言い方はとてもいやらし なことだ。ささいなことだけど、竹田青嗣の﹁男女の生身の あ る 級委員をしてろ。 るということが普遍的ではないだろうかと思うんです﹂︵ ﹃オ ているわけだが心根が醜悪だとおもう。たしかにぼくは忙し 内包世界論1−内包論 245 あ る ルガン4﹄所収﹁エロス・死・権力﹂吉本隆明 竹田青嗣︶ vs い、でもあなたのことをとても大切だとおもう、そのことと 表現はまたべつだからね、とでもおそらく宣うのだろう。 わたしたちが普遍的に経験する超越の体験。性による惑乱 が身近なこととしてある。なんのまえぶれもなく唐突にそれ AとBが関係し、AでもなくBでもない第三のXが生成さ もともとわたしの吉本思想への違和は、実感と理念が背離 れるとき、わたしたちの超越の経験がはじまる。このときA はやってくる。制御できない感情の暴発。世界がでんぐり返 るのが落ちだ。誠実そうでかんがえが不潔。ルソーというネ やBによってXを言いあらわすことはできない。Aがわたし しても表現が成立することへの苛立ちや、男女の関係や性に タがあって、勝手に吉本の共同幻想を読み違え、体験知を交 でBがあなたであろうと、あるいはAが権力でBが反権力で る。灼熱のサハラ砂漠でカラオケするような奇天烈であり、 えて現象学理解を支えにくだらぬ市民社会原理などというも あろうと、AとBが相関し相克する事象であれば、対象は任 エイズウイルスに道徳を説くみたいなわけのわからない感情 のをでっちあげているだけだ。こいつらは根っからの優等生 意であってかまわない。いずれにせよXはAでもBでもない ついての理念のズレに端を発したものだった。ここで取り上 だ。竹田青嗣が売りに出した﹁在日﹂という記号に、加藤典 出来事としてある。無窮のXはふるくは神仏として、近代に が猛威をふるう。じぶんの存在の根拠を根こそぎにするよう 洋や小浜が寄り添いすり寄っただけのことだ。この嫌らしい げた小浜や竹田という市民主義者もまったくおなじ表現の息 人間関係は唾棄すべき頽廃だ。いずれにしても吉本の思想は あっては自己意識の無限性として、先頃のわが国のポストモ な体験。まごうかたない超越としてそれはある。 彼らの学級会の教宣活動とは比較にならぬゆるぎなさをもっ ダン騒ぎのときは﹁外部﹂として、さまざまに言表されてき づかいをしている。わたしが女性だったらこんな男なんかは ている。一度読めばたちどころにわかってしまう彼らのマニ た。しかしただの一度もそれが正確に言い当てられたことは 天地神明に誓って好きになったりしない。表現のネタにされ ュアル本とは根本から違う。わたしは今、吉本隆明と違うか を跋渉し、ただ一人で黙々と自前の思想を築いた凄さはよく 夜が 朝 になり、 朝 が夜になる長い歳月を経て、同一性と あした ない。 自覚している。心臓を貫かれる言葉や関係に一度も真正面か 、い 、 いう意識の線形性によってXにやどる大洋感情のことを言 、ら 、わ 、す 、ことはできないとかんがえるようになった。いや超 あ あした んがえをつくっている最中だが、彼がだれとも群れずに情況 らであったことのないこの者たちにこのうえ何を言うことが 、か 、ら 、、この 越Xでさえ同一性の写像として語られてきた。だ 克するものとしてあらわれる。たしかにあるがままの現実と、 世がこうでしかありえず、それぞれの自己の陶冶が互いに相 あろうか。 6 246 に公理として前提としている。わたしは、論理の明晰を根底 どういう弁証であろうと、ひとしなみに同一性を暗黙のうち が編みだされた。そのいちいちを取りあげることはしないが、 ありうるはずの現実との溝を埋めるために、たくさんの便法 く。このおもいに侵蝕されぬものはいない。 視化されるにしたがって生という豊饒な渾沌はやせ細ってい てくる。生の奇妙さが計量可能な科学や合理に還元され、可 らずくり返し、問い尋ねても答えの見つからない疑念が湧い の仕方がすでに近代が孕む逆理の手中にあるのだが、一度な 国境を越え広域化する資本の展開と自然科学の技術化が合 で支える公理ともいうべきこの同一性に、ひらくのがもっと も困難な︿在る﹀の謎がひそんでいるとおもいはじめた。 ︿在 で世界を語るとするならつるんとした平べったい生しかそこ て、万能として君臨する市場経済とその理念である市民主義 活力がマルクス主義を駆逐したというのが歴史の事実だとし かんがえるようになったということでもある。資本制社会の うでしかありえないこの世のあり方から跳躍できるはずだと もしも︿在る﹀の謎を解き明かすことができるならば、こ う。なんのことはない、強いもの勝ちといっているだけだ。 いい 社 会をつくることができるかみんなでかんがえましょ ずこの現実から出発しようではないか。そして、どうしたら 書きを垂れる。革命などどいう超越はろくでもないから、ま れる。そして理念を統べるものがこの世を睥睨し気色悪い能 こでは、人間は、分に応じて、らしく生きることが原則とさ めの社会を理念化した美しい欺瞞を市民社会原理という。こ 理を秤にしていやましにわたしたちの生を切り売りする。そ には見えてこない。すべては予定調和の世界になってしまい、 唾棄すべき理念が今ではこの世の唯一の理念に成り下がって る﹀の謎を解かないかぎり近代を超えることはできないのだ 生きることの味わい深さが漂白されていくような気がしてな いる。かと思うと一方で、ルールとモラルの学級会活動の世 れは圧倒的な現実として覆いかぶさっている。この損得ずく らない。このようなものでしかありえないひとの営みを超え 界への教宣に嫌悪を感じるものが、理想の社会のイメージを と。 ようとかんがえているうちに、しだいにわたしは意識の尋常 善の方向にだけ暢気に考えてきたのが間違いだったと頓珍漢 なことを言い始める。おおまかには理念として語られるもの ならざる領域へと踏みこんだ。 なまなましくきわどいことが言いたい。だれもが胸奥で反 はこの振幅の範囲にある。生を無限猶予してどうするという 駄目な理念をあげつらうことはたやすい。ほんとうにかん 芻したことのある問いだ。現実にたいしてかくあれぞかしと してあらわれるのか。もともと人間は意志をもって歴史をつ がえられてしかるべきことがこういった批判の安易さにある のだ。 くるのに適さない存在なのか。人間という現象は事物のふる わけではない。たとえば近い将来、わたしたちにのこされた 人間がおもい描く理念はなぜことごとく理念を裏切るものと まいの一系列にすぎないのではないか。こういう世界の感受 内包世界論1−内包論 247 識の運動はここにとどまらない。むしろそれは意識にとって AとBの相互の組み込み合いが第三のXを生むとして、意 んがえることなんかない。ただそのようなものとして生きれ をたやすく商品化するからだ。その勢いはとどまることを知 端緒を意味している。じつは第三のXから非Aと非Bがさら 最後の天然自然である身体がバイオ産業として巨大な市場を らないようにみえる。それとともに身体に貼りついた心もニ ばいい。さてどうするか。じぶんというあり方を拡張するの ヒリズムをさらに亢進させる。同一性原理は外延されるほか に生成されるのだ。非A=非Bとなる往還のダイナミズムの 形成するのは火を見るより明らかなことにおもえる。生体工 ないからその行方は必定である。市場経済の社会理念である しくみを明らかにすれば、わたしたちを縛ってやまない自己 だ。 市民主義も、それを否定する心情も、欲望を喚起するシステ 同一性の世界は近代の宿痾を脱して、これまでの世界とは違 学が身体を制御可能な事物とかんがえ技術によってその成果 ムの自動運動を阻止することはできない。身体に心が貼りつ たけれどもなかった世界を現にあらしめることができるとか う新しい生の様式をつくりだすようにおもえた。つまりわた 近 代はなぜこういう 奇形的 な精 神を生 み出 したのだろう んがえた。繋けるわたしの日が抜きさしならぬものとして系 いて渾然一体となった存在をじぶんとかんがえるかぎり欲望 か。こう問うときここには大きな盲点がある。今はどういう 譜なき思索へと至らせた。その輪郭がはっきりしてくるにし しは存在論と認識論を不一不二のものとすることで、ありえ 時代 か を問 う と き役 割 論 を 抜き 去る と見え て く る こ と が あ たがって、これまでの人類史とはべつの人類史を構想できる から逃れるみちはない。 る。いやきっぱり役割論を切断しないと錯視の本態は見えて とかんがえるようになった。 人であるからだ。なにをどうかんがえようとたどりつくとこ 喚起するとして、なによりそれを受け入れ選び取るのは個々 である。くまなくシステム化した社会が欲望のための欲望を 時代を問うとき、欲望の動向を云々するあらゆる方法は無効 こを領するのはまったく別の種類の関係であり、この関 ねに非対称的な関係にある他者を導入するとしたら、そ を注視する者に対して対等でありながら、その者とはつ 関係ではなくなり、還元しえないものとしての他者、彼 しかし、人間と人間との関係が自同者の自同者に対する りぎりのところまでかんがえているようにみえる。 わたしの理解ではブランショは同一性の知のたどりうるぎ こないといっていい。この社会がなぜこのようでしかないの かを問うとき俯瞰する視点を捨ててしまうのだ。そんなもの は消費者のニーズの動向を鵜の目鷹の目で探しまくるマーケ ろは一定なのだ。斯くしてあるがままの現実が哄笑する。こ 係はまた、ほとんど共同体とは名付けようのないある別 ティングにまかせておけばいい。今わたしたちが生きている の現実を超えるものを言葉として提示できないなら、もうか 248 い。 ︵ブランショ﹃明かしえぬ共同体﹄西谷修訳︶ の社会形態をあえて共同体と呼ぶことがあるかもしれな はしないのではないかと自問しながら、このまったく別 、在 、を結論づけ ったにせよ、必ずしも最終的に共同体の不 問し、またそうした思考はそれが存在したにせよしなか る共同体をめぐる思考の中で何が問われているのかを自 の社会形態を必然化することになる。あるいは人は、あ 自と他はいかなる媒介も経ることなしにじかに︹一︺をなし 繋がりは絶対に﹁私﹂ということでは言い表しえないことで、 た。 ︿有﹀の分かつもののない隔たりと、つなぐもののない 最 終 的に は 自 己 と 他 者 は 同 一 性 の く び き か ら逃 れ え な か っ ついて明かすことができなかった。レヴィナスにおいてさえ かつもののない隔たりと、絶対につなぐもののない繋がりに に続いたフーコーやドゥルーズにしても 、 ︿有﹀の絶対に分 ブランショの﹁名付けようのないある別の社会形態﹂から 同一性は同一なものとして 現象しないのだ 。 ︿有﹀や同一性 ことができる。内包存在が分有されることなくしてもともと ている。存在は内包存在を分有することではじめて存在する 受ける感触は、ヴェイユが﹃ロンドン論集とさいごの手紙﹄ わたしの内包と分有では、存在者Aと存在者Bのあいだに はつねにそのようなものとしてあり、またそれ以外ではあり われわれのアジアとはちがう世界への手触りが、マルクス主 関係があるとき、仮にある自同者をAとすれば、Aにとって のなかで言う、デモクラシーとは﹁別の形態を創造しなけれ 義という専制やナチによるホロコーストを経てもなお世界へ ﹁非対称的な関係にある他者﹂は非Bを指しており、また﹁還 えない。 の 関 わ り 合 い を 放 棄 し な い と い う意 志 と し て 述 べ ら れ て い 元しえないものとしての他者﹂は自同者が写しこまれた︵あ ばならない﹂に似ている。あらゆるものを自然へと融即する る。 ﹃明かしえぬ共同体﹄はわたしたちの未知の関係につい の主体と出口の主体が反転する思考を見出しえていない。非 るいは外延された︶分身ということではなく、おなじく非B 引用の箇所は興味深い 。 ﹁その者とはつねに非対称的な関 A=非Bとなる驚異の出来事が出現しないならば、他者Bは て明確な理念を示すものではないが、この箇所にゆきあたっ 係にある他者﹂をどう理解するかがαにしてωである。彼ら 自同者Aと離折することにおいてしか関係することができな を意味していて、非A=非Bとなるということである。ブラ はこの難所を表現として貫通することができなかった。語の い。この論理は地上性をもつことができず、名づけようのな たのは僥倖だった。わたしには内包と分有を裏側から触って 本来の意味において他者をふくみもたない自己というものは い共同体を見果てぬ夢として語ることになる。AとBが切断 ンショも、この点においてはドゥルーズらとおなじで入り口 ありえない。どんな我執であれそこにはかならず他者がふく されることなく、非A=非Bとなるからこそ、AがAとして、 いることがすぐわかった。 みもたれている。ブランショにしてもバタイユにしても、後 内包世界論1−内包論 249 たはずなのだ。自同者を実有の定点とするところから表現を してある種の痛ましさをもってしまう。もう少し彼らは進め でありうるのである。西欧の緻密で渾身の知的な営為を目に BがBとしてそれぞれ固有なものでありながら、根源の︹一︺ に出るものは世界に一人としていないとおもっている。 暗くて重い作品である。殺人を哲学的に物語らせたら彼の右 に連合赤軍事件が与えた衝撃が通奏低音として流れている。 症候群﹄ではフーコーが登場する。どの小説にも彼の青春期 イデガー、レヴィナス、ヴェイユが、そして﹃オイディプス 批評家としての彼の本領はけっして大衆を語らないという 立ち上げるから、非対称である他者を超越的に想定するしか なくなるのだ。 ことにある。即ち、自己のなかには何もないという発見を見 据え、そのうろの中心に向けてだけ彼は言葉を紡いでいる。 ったことを知ったのは﹃テロルの現象学﹄を読んでからだっ であった。彼がかつてある過激派の一党を率いた指導者であ わたしにとって笠井潔とはSF作家であり、ミステリー作家 外なく挫折するというのだが、着眼点には親近感をおぼえる。 かれることを彼はよく知っている。彼もまた男女の恋愛は例 、己 、 即ち自同者の生を、同一性の彼方の他なるものによって自 うろ 、一 、的 、に言葉を物語る。自己が虚ならば性はかならず引き裂 同 は、自己同一的な差異と反復を永劫回帰して生きる存在者、 あるいはここで笠井潔を想起すべきかも知れない。笠井潔 いう印象と重なる。吉本隆明が創案した、一対の男女の自然 をしたときわたしが抱いた 、 ﹁唯物的、科学的、現実的﹂と とおもう。三〇年ほど前にはじめて吉本隆明さんに会って話 の吉本疎外論なのである﹂と概観している。うまい言い方だ 底とした唯物論的ヘーゲル主義とでも呼ぶ以外にない、固有 独自なものたらしめている﹂と言い、それは﹁自然概念を基 主義︵客観的観念論︶の同在こそが、吉本疎外論をあくまで エロティシズム﹂の章で、吉本隆明の思想の方法について、 だといってよい。笠井潔は﹃外部の思考﹄にある﹁対幻想と 7 た。 ﹃巨人伝説﹄ ﹃ヴァンパイヤー戦争﹄の伝奇SF群と、ポ 的な性関係を基盤にした観念的な疎外を対幻想であるという 政治の愚劣とおぞましさを身をもって知っている稀な表現者 ル・ポトのクメールルージュによる大虐殺を題材にした胸の 規定にたいして笠井潔は異議を唱える。 続く﹃哲学者の密室 ﹄ 、これらは全部面白い。どんな哲学の 為としての性﹂から、性的なるものの考察を出発させる。 吉本はエンゲルスとともに 、 ﹁成熟した男女の自然行 ﹁徹底した自然哲学︵自然の唯物論︶と、徹底したヘーゲル 悪くなる﹃サイキック戦争 ﹄ 、哲学ミステリー﹃バイバイ、 解説書や入門書を読むより的確な読みが彼によって語られて エンゲルスが、男女の分業による人間の再生産という生 エンジェル﹄ ﹃サマー・アポカリプス﹄ ﹃薔薇の女﹄とそれに いる。哲学ミステリー三部作に彼の関心ある哲学者であるハ 250 されていくにしても。 直接の性行為をともなわない対幻想﹂にまで考察が拡張 り、そこから親子や兄弟姉妹間における﹁かならずしも 動 論 理 を獲 得 す る に い た る 対 幻 想 領 域 こ そ が 問題で あ この自然過程から疎外され、自立化し、独自の構成と運 殖行為にそれを還元するのに対して、吉本の場合には、 残念なことに、ここから﹁男女﹂という先験的な範疇を 所に注目したことはきわめて重要である。だが吉本は、 葉にはまだ不徹底なところがあるにせよ、吉本がこの箇 という範疇を導入している点で、フロイトによるこの言 られている。無前提に﹁同性﹂という、つまり﹁女と女﹂ 男性にたいしてすべて相対的なものにすぎない﹂と述べ 解体する思考を導くのではなく 、 ﹁最初の︿性﹀的な拘 吉本は、対幻想を﹁一対の男女の自然関係としての性﹂ こ こ で 吉 本 は 、 エ ン ゲ ル ス とともに 、 ﹁男女﹂という によって処理しうると考えた。だが、ほんとうにそうな の観念的疎外として把握したために、その観念的疎外と 束が同性であった心性﹂はこの拘束から逃れるために異 のだろうか。エンゲルスの論理の欠陥は、自然を形態化 いう観点のないエンゲルスを批判しようと努めながら、 範疇を先験的なものとみなしている。だが、男女︵ある する社会︵生産=労働︶に、観念を還元してしまったと ﹁男女﹂という範疇を先験化する点においてエンゲルス 性︵男性︶か、異性でもなく同性でもない観念的対象︵共 ころにあるのだろうか。そうではなく、それを自然=社 に無限に接近せざるを得ないのである。だが 、 ﹁男女の いは﹁成熟した男女 ﹂ ︶の性的自然を、性という経験に 会の範疇で扱おうと、それを基礎としそれに﹁構造を介 自然関係としての性﹂は、性的な経験にとってほんとう 同幻想︶にむかう以外ないという議論に横滑りしてしま して関係する﹂べき幻想領域を独自のものとして取り出 に先験的なのだろうか。同様の問題が、対幻想をより原 とって基礎的とみなす発想にこそ問題があるのではない そうと、根本において共通する﹁男女﹂という先験的な 理的に規定しようとした吉本の作業のなかにも、無視し うのだ。 範疇こそが、あらためて検討されるべきではないだろう えない影を落としている。 か。吉本はそれを、性における自然と観念の範疇的区別 か。 ︵略︶ というのは、乳幼児期における最初の︿性﹀的な拘束が を簡潔な言葉で規定してみせた。かれによれば︿女性﹀ 熟した時期の講話︵ ﹃続精神分析入門﹄ ︶のなかで︿女性﹀ ・・性としての人間というものが他者と関係する最 関係の仕方だというふうにかんがえております 。 ・ 場合には、必ず性として関係することを、根源的な われわれは個体が他の個体、つまり他者と関係する たとえば﹃共同幻想論﹄では 、 ﹁フロイトは晩年の成 ︿同性﹀であったものをさしている。そのほかの特質は 内包世界論1−内包論 251 が他者と関係する関係の仕方の根源を支配するもの 幻想性の領域ということです。それが、人間の個体 す。対幻想の領域というのは、一対のペアになった 初の仕方を、われわれは対幻想の領域と呼んでいま す第三項的視点のみが、外部のあらあらしい襲来をあら なものだ。私と世界、内部と外部を対称的なものとみな 的認識が導かれる。いうまでもなく、この認識は対称的 身的に隠蔽するものとして 、 ﹁内部︱外部﹂の二項対立 だ。外部との直面という残酷で戦慄的な体験を、自己保 かじめ阻止するための保身的な観念的防壁を、この私に です。 ︵ ﹁個体・家族・共同性としての人間﹂ ︶ 然関係としての性﹂といった男女範疇の先験化において あ る 。 し か し 、 こ こ ま で き て 吉本 は 、 ﹁一対の男女の自 かならずしも対称的な関係を保証されてはいないはずで 男と女という自然性において規定される性的なものは、 次的概念としてしか説明しえないことになる。 ︵略︶ 想あるいは対幻想という第一次的概念から派生する第二 を原理的に規定しようとするならば、共同幻想は自己幻 理的に解明し、個体と個体との関係づけにおいて対幻想 しようとするこの個体︵=私︶の自己欺瞞的虚構でしか 世界との暴力的な直面という不可避性を、保身的に隠蔽 め存在するわけはないのだ。そのような第三項的視点は、 体とを同時に鳥瞰しうる超個体的な視点など、あらかじ り、否応なく露呈されざるをえない。ある個体と別の個 を 個体 と個 体 の関 係 の世 界 と規 定しなおす 抽象化 によ より、依然としてエンゲルス的なのだ。それは、対幻想 称的なものとみなしうる第三項的視点を選択することに だから吉本は、男と女を﹁性の自然性﹂において、対 保証しうる。 さえ、非対称的にずらしえたはずの問題を、個体と個体 ないのである。吉本のいう共同幻想とは、この自己欺瞞 ︵略 ︶ ・・・個体の自己関係づけにおいて自己幻想を原 の関係というふうに、ふたたび男と女の対称性に還元し 的虚構の体系的累積として理解されるべきなのだが、こ よって破砕される。この一瞬の体験のなかにだけ、超越 い。私という自己同一性は、その外部に直面することに 、の 、﹁わたし﹂に性が付 い。つまり男であるとおもっているこ あっても性別は﹁わたし﹂を統覚するひとつの属性でしかな ﹁わたし﹂が﹁わたし﹂を覗き込むとき、 ﹁わたし﹂が男で 考﹄ ︶ の点についてはこれ以上触れる余地がない。 ︵ ﹃外部の思 てしまうのである。 あるもの︵第一項︶とべつのもの︵第二項︶を﹁対称 的﹂なものとみなす思考は、本質的に第三項的である。 性の感受が現に生きられる。だから、私︵内部︶と世界 、の 、﹁わたし﹂という意識のあり 着しているわけではない。こ 二元論はつねに、隠蔽された三元論なのだといってもよ ︵外部︶とは、決して対称的な関係では存在しえないの 252 てないとおもうんですよ。男性のばあいは︿死﹀というとこ あ る ようが性別よりも存在に近しいということになる。この理路 ろには性的ニヒリズムがいかなくて、なにか逃げるところで ほんとうかね、それは吉本さんが見ている世界や取り持つ を認めるならば、他の一人の他者とおりなす性の世界が﹁わ 環境の悪さによるのではないかとしきりに感じたことをおぼ すね﹂ ︵ ﹃対幻想﹄ ︶ たし﹂の度合いは﹁わたし﹂より対の世界が、対の世界より えている。まだある。頭で理解して身がついていかない性に たし﹂の世界よりも部分的なものになるのは当然である。 ﹁わ 、す 、く 、なっていく。このそれぞれの世 共同性の世界のほうがう ﹁男と女の世界は対幻想の世界ですから、均質層の下にあ 界は観念的には位相的に接しており、線型的な世界ではない を投げかける。男や女という観念はほんとうに先験的な範疇 る男の世界でもなければ女の世界でもなく、男と女が存在し ついての理解は俯瞰視線という権力の流線を産みだしてしま なのか。あるいは男とはなにか、女とはなにかを定義するに なければ出来上がらない世界の本質にちがいありません。で というのが吉本隆明の創見であり、幻想論である。笠井潔は さいして、乳幼児期における最初の性的な拘束が同性である すから、男は男、女は女というふうに男女の差異が露出して う。 ものを女性と呼ぶとすれば、定義の文言﹁最初の性的な拘束 しまう世界は、性のままで男と女が孤立した人間ということ こういう思考の慣性は外部を隠蔽しているという。彼は問い が同性﹂であるという定義文が定義されるものによって反照 男の視点として、男と女の関係を監視してしまうために、い になります。それは、いってみれば無限渇望の孤立性である 吉本隆明の理路はもつれてわかりにくい。だから﹁あらゆ わば生木を裂かれるように、男女を性としての男と女のまま されるという同義反復をおこしてしまう。年来わたしもおな る排除をほどこしたあとで︿性﹀的対象を自己幻想にえらぶ で、分離してしまうのだとかんがえられます﹂ ︵﹃白熱化した とおもいます。それは男の自意識の過剰分が、もうひとりの か、共同幻想にえらぶものをさして︿女性﹀の本質とよぶ﹂ 言葉﹄所収﹁小林秀雄を読む﹂ ︶ 。これらはすべて長年、吉本 じことをかんがえてきた。 ︵﹃共同幻想論﹄ ︶というわけのわからないりくつがあらわれ 隆明の読者であったわたしにとってわかりづらく承服しがた いことだった。ここから吉本隆明とのひそかな訣れがはじま る。吉本隆明のこの認識はいやなものを呼び込む。 ﹁現在、知的な女性の象徴みたいな人たちが、あらゆる意 めていくと、最後に残るのは︿泥のようなニヒリズム﹀にも ない笠井の主張は案外かんたんなものである。小難しく言う 笠井潔はここを痛撃する。けっしてわかりやすいとは言え った。 とずく男性への嫌悪とか憎悪とかそれしかないんじゃないか か ど う か は べ つ と し て だ れ で も体験 と し て知っ て い る こ と 味で男性にハンディをもたないという前提で考え方をつきつ という感じがするんです。それはもう 、 ︿死﹀としか接触し 内包世界論1−内包論 253 男女の違いがなまの形で露出して同一性がほつれてくる。そ いからだ。 ﹁しかし、ここまできて吉本は、 ﹃一対の男女の自 分自身を滅することになるだろう。人は性を通して外部と遭 れにもかかわらず 、 ﹁男の自意識の過剰分が、もうひとりの だ。男女の好いた惚れたの世界は経験において人と人とがな 遇する。男と女が性愛において経験するものは、同一性の彼 男の視点として、男と女の関係を監視してしまうために、い 然関係としての性﹄といった男女範疇の先験化においてさえ、 方 に 襲 来 さ れ る と い う出 来 事で あ り 、 そ こ で は 一 人 称 的な わば生木を裂かれるように、男女を性としての男と女のまま 、か 、に関係する激烈なものであって、戦慄す んの媒介もなくじ ﹁私﹂は存在の根拠を存在もろとも簒奪されてしまう。それ で、分離してしまう ﹂ 。なぜこうなるのか。それは同一性が 非対称的にずらしえたはずの問題を、個体と個体の関係とい は予定調和的な﹁私﹂と﹁あなた﹂の対称的な世界とはまる すでに破れているにもかかわらず、第三項的な視点を保持し べき謎と直面することであり、この脅威に耐えることができ で異質の超越的な感受にほかならない。だから、 ﹁外部との ようとするからだ 。 ﹁男と女の関係を監視してしまう﹂とい うふうに、ふたたび男と女の対称性に還元してしまうのであ 直面という残酷で戦慄的な体験を、自己保身的に隠蔽するも うことがそれを指している。監視し、事態を俯瞰するかぎり ずに自己を保存する戒律として自己同一性という意識のあり のとして 、 ﹃内部︱外部﹄の二項対立的認識が導かれる﹂と 男と女の対の世界はつねに傾く。そしてこの傾斜した関係は 吉本隆明がいうように、自同者の織りなす性の世界では、 彼は言う 。 ﹁二元論はつねに、隠蔽された三元論なのだ﹂と 権力の関係なのだ。まるでわたしが笠井潔のかんがえを写し る﹂ 。もちろん吉本がこの男女のひずみを知らぬはずがない。 笠井がいうのはそういうことを指している。そして﹁私と世 とっているような気がしてくる。あるところまではほんとう かたを選んだのだ、と彼は言う。人はこの苛烈さを直視し続 界、内部と外部を対称的なものとみなす第三項的視点のみが、 によく似ているからだ。 けることはできないし、この灼熱に身をまかせるならば、自 外部のあらあらしい襲来をあらかじめ阻止するための保身的 ずである。自己が自己と重ならず対称的なものでないとする ば、男女における対関係においてもそのことはあらわれるは のとみなすことができる。それが自己の自己性だとするなら 超越としてあらわれるとしたら、自己と超越は非対称的なも 自己意識の無限性、つまり自己にとってそれが語りえない んがえてよい。 吉本隆明の共同幻想、対幻想、自己幻想に対応しているとか 意味で︿わたしみ﹀と彼は名づけている。これらはそれぞれ 向き合うという意味で︿むきあい﹀の関係、私を見るという プがあるという。並び見るという意味で︿ならびみ﹀の関係、 笠井は人間に可能な関係性には原理的に異なる三つのタイ な観念的防壁を、この私に保証しうる ﹂ことになる。 なら、男と女の関係にかぎって対称的になることはありえな 254 ろうか。わたしは笠井の主張を深読みしているだけはないの 挫折をはらんでいるというのだが、それはほんとうにそうだ 笠井はくり返し﹁むきあい﹂の経験はそれ自体に必然的な 規定されて、この世界の構成員は最大でも、常に二名で ル化しうる。この場合、直接的には人間の視覚の構造に を見つめあう二人の人間の共同性として、たとえばモデ 吉本による﹁対﹂概念は、多くの点で、 ﹁ ならびみ ﹂ ある以外にない。 とは範疇的に区別されざるをえない﹁むきあい﹂の関係 か 。 べ つ の 箇所 で 彼は い う 。 ﹁異性の官能的な肉体という外 部に直面するのではなく、その背後に仮構される超越的な﹃恋 ﹁ペアになった幻想性﹂と理解しておいても、とくに問 愛﹄という理念にのみ視線を集中していく恋愛者は、既に﹃む な肉体﹂が外部なのか。 題はない︶が、本質的に非対称的な構造をなすという点 に照応するものである。吉本が強調しているように、対 ﹁むきあい﹂の関係にある男と女が非対称的なのではない。 にある。もしも﹁むきあい﹂の関係を、個体︵第一項︶ きあい﹄の関係を生きてはいない。彼は彼女に、彼女は彼に また、対称性の破れとしてある個々の男と女が、関係を欺瞞 と個体︵第二項︶の対称関係であると見なすならば、そ 幻想とは﹁一対のペアになった幻想性﹂に他ならない。 的に維持しようとして、男と女の二項対立を宙で吊る超越的 れ は こ の両 項 のメ タ ・レ ヴ ェ ル と し て の第 三 項 的 視 点 むきあっているのではなく、二人の頭上に君臨する超越的理 第三項を疎外するのでもない。ましてそこに観念の共同性を が、暗黙のうちに前提にされているといわざるをえない。 しかし重要なのは 、 ﹁むきあい﹂の関係︵さしあたり 擬制的に累積する淵源があるわけでもない。ここに偉大な近 ﹁むきあい﹂という関係世界の固有性は、このような第 念 を ﹃ な ら び み ﹄ ているに 過 ぎ な い ﹂ 。なぜ﹁異性の官能的 代の解きがたく超えがたい袋小路の背理がある。 原理的に無限大であり得るという点だろう 。 ︵略︶これ 大の特徴をなすのは、そこで関係しうる構成員の数が、 係において相互に関係している。このタイプの関係で最 日 ﹂ を ﹁ 並 ん で 見 て ﹂ い る 。 つまり 、 ﹁ならびみ﹂の関 えばそれを想定することができる。彼らはこの場合、 ﹁夕 夕日を浜辺で眺めている複数の人間の関係として、たと ﹁ならびみ﹂の共同性をモデル化すれば、水平線に沈む れる対称性に他ならない。第三項の君臨のもとに組み入 権的第三項とは 、 ﹁ならびみ﹂の関係において並び見ら 的関係としての﹁むきあい﹂を対称的関係に転化する特 の﹁権力﹂の発生構造を暴露するものでもある。非対称 を暴露している。それはまた、同時に、原理的な意味で こそが、逆に観念の共同性︵共同幻想︶の発生的な構造 に導入される、第三項的に特権化されたこのような視点 ﹁むきあい﹂という固有の関係世界=観念空間に作為的 三の項を原理的に排除するところに求められる。 に対して﹁むきあい﹂の関係は、むきあって互いに表情 内包世界論1−内包論 255 の共同性に移行しているのだ。 ︵﹃外部の思考﹄ ︶ 世界から既に離脱して、同じ対象を﹁ならびみ﹂る観念 れられた個体と個体は、互いに﹁むきあう﹂という関係 根拠こそが疑われてよい。 み﹂という自同律の不快が、苦海と空虚として円還するその が 問 われるべきなのだ 。 ﹁ならびみ﹂という権力と﹁わたし 法によって社会を導こうとして自縄自縛され、きりきりまい がて︿家族﹀に転化するのだ、と。笠井は吉本とは異なる方 ︿性﹀で 、 ﹁ならびみ﹂は﹁むきあい﹂を母胎としながらや ﹁ な ら び み ﹂ にずらしたということになる 。 ﹁ むきあい ﹂ は いことにそっていうなら、吉本は 、 ﹁む き あ い ﹂ を ひ そ か に て笠井潔は理路のよく通った解釈をしている。笠井の言いた ︵﹃共同幻想論 ﹄︶ 、その対幻想という特異な共同幻想につい がうみだす幻想をここではとくに対幻想とよぶことにした﹂ 吉本隆明が﹁共同幻想のうち男性または女性としての人間 のなかでは︿じぶん﹀が全体的で 、 ︿性﹀が部分的であると 観念を塁層化する結節が性であったのだ、と。おそらく吉本 らかじめ布石されている。自己幻想が共同幻想へと逆立的に き、人間は性的な世界で部分性としてしか登場しえないとあ ︵﹁マチウ書試論﹂ ︶として観念の全円性を構築せんとすると 、係 、の絶対性だけである﹂ た。 ﹁人間の情況を決定するのは関 は社会総体のヴィジョンをつくること以外にはありえなかっ かもしれない。吉本にとって敗戦による心的打撃からの回復 んだと。このずれは生が当面した時代性のちがいからくるの ぶん﹀がいちばんで、笠井潔にとって︿むきあい﹀がいちば あるいはこうもかんがえられる。吉本隆明にとってまず︿じ する。自己意識の外延化ではそれは非対称的なものとしてし いうことはそこを生きた彼にとっての現実であって矛盾する 小浜逸郎の次の指摘は妥当だとおもう 。 ﹁吉本さんの思想 かとらえられないという、そのことははたしかだとしても、 があるのだ。笠井が方法として拠るバタイユがヘーゲルの思 のぼくなりに考えた一番の力点というのは、 ﹃対幻想﹄と﹃共 ものではなかったのだとおもう。しかし吉本より若い世代に 考法を超えようとして、結局はヘーゲルの弁証をつかってし 同幻想﹄の区分だと思っているわけですけれど、ぼくはこの 内包という超越を自己意識の用語法でさわろうとするから、 かヘーゲルの思考法を批判できなかったように、バタイユは 中で﹃個人幻想﹄という概念が一番弱いんじゃないかって感 属するわたしたちにとって吉本の感性はふるい倫理的なもの 裏ヘーゲルであったし、笠井はヘーゲルを払拭しきれていな じがするんですね。ぼくはどうしても人間というのは関係的 性が﹁むきあい﹂と﹁ならびみ﹂という両義的なものとして い。 ︿性﹀という﹁むきあい﹂が﹁ならびみ﹂という共同的 な在り方しか出来ないと思っているものですから、自分が自 として感じられた。 な規範へ転化し、その斥力で﹁わたしみ﹂が生じるのだとし 分に対する関係、例えば自己の身体に対する意識とかですね、 あらわれるのであって、笠井の性を問うその問いかたに無理 たら、むしろこの事態を統覚する同一性による生の監禁こそ 256 か れ た孤 独 的 な 在 り 方 と い う と こ ろ で 、 ﹃個人幻想﹄は初め す。言い換えれば﹃対幻想﹄と﹃共同幻想﹄の両方からはじ 与えられているといいますか、そんな感じをもっているんで に浸透されているといいますか、それによって初めて根拠を そうしたものもほんとは深く﹃対幻想﹄または﹃共同幻想﹄ た。沈黙の八年間を経て﹃性の歴史1﹄ ︵知への意志︶を刊 は権力の関係ではないのかと問うてみる必要がある﹂と語っ 己についての自己の意識︺という形で自己と保つ関係は、実 古くからの議論についても、そもそも、個人が︿主観性﹀ ︹自 間の精神的変革が国家の変革の条件なのか結果なのかという なしたとき、フーコーは来日公演﹁政治の分析哲学﹂で﹁人 くて、その人が自分自身に対して持つ関係のあり方を、その て消極的なかたちで成立するというか、そういう感じをもっ わたしには若いころから吉本隆明が思想としてくり返し説 人の倫理的活動の核にあるような創造的活動に結びつけてみ 行し、インタビューで﹁つまり、誰かの創造的活動をその人 いた、人間は世界と対座するとき自己意識として世界に向き るべきかもしれないんです﹂ ︵ ﹃ひとつのモラルとしての性﹄ ︶ ているわけです﹂ ︵﹃飢餓陣営5﹄所収﹁家族という主題﹂ ︶ 。 合っているのではなく、自己観念、対の観念、共同の観念と と主題を転調して語っている。鳥肌が立つようなおもいがし が自分自身に対して持つ関係のあり方のせいにするのではな いう混同してならない次元を異にする観念の層を節目として たのをおぼえている。その直後にフーコーは病に斃れた。吉 不思議と小浜逸郎のいうことがよくわかる。 互いに関係しているとする幻想論にたいして疑問があった。 世界史的な同時性ということについていえば、 ﹃言葉と物﹄ 本隆明はこの間に﹃マス・イメージ論﹄と﹃ハイ・イメージ 念を俯瞰する意識抜きに幻想論は可能とならない。敗戦の体 が﹃共同幻想論﹄に、 ﹃哲学の舞台﹄が﹃空虚としての主題﹄ そうすると位相の違う三層になった観念があるということを 験から立ち上がるのに渾身の力をふりしぼっていた吉本隆明 に、 ﹃性の歴史﹄が﹃マス・イメージ論﹄と﹃ハイ・イメー 論﹄を出版した。 はそれがどういうことであるかかんがえる余裕がなかった。 ジ論﹄に対応しているとみなしてよい。わたしの読みでは、 統覚する観念はどの観念に属するのだろうか。それぞれの観 吉本隆明がかんがえずにすんだこの難所こそがバタイユやブ の核にあるような創造的活動﹂という概念として結び直した。 ﹃言葉と物﹄でフーコーは意志論を抜き去ることで人間の終 すでに世界史は地域的・文化的な偏差をふくみながら同時 吉本隆明は逆のことをやった 。 ﹃共同幻想論﹄は赫奕とした ランショやレヴィナスを捉えたものであり、フーコーやドゥ 性としてもあらわれていた。一九六六年、フーコーの﹃言葉 意志論の書であり 、 ﹃マス・イメージ論﹄や﹃ハイ・イメー 焉を語り、その心残りを、関与的な存在である﹁倫理的活動 と物﹄が発表され、吉本隆明の﹃共同幻想論﹄が雑誌﹃文芸﹄ ジ論﹄で時代を作者とすることで意志論を括弧に入れた。吉 ルーズがひきうけた問いだった。 に掲載された。一九七〇年代末に吉本隆明が思想の大転換を 内包世界論1−内包論 257 ったく幻想的な共同體だったばかりでなく、また一つのあた 拠り、共同幻想をマルクスの﹁支配される階級にとってはま 本領である文学を自己幻想と見立て、対幻想をフロイトに 隠蔽するために編みあげた、それ自体が隠蔽装置である き込まれてしまった意識が、自身の疎外・挫折・頽落を とは、媒介的・対自的な権力関係のトライアングルに巻 態︵あるいは﹁幼児﹂に象徴されるような自然的意識︶ は、精神にいたる諸階梯をよじのぼる主体たりえない。 らしい桎梏であった ﹂ ︵﹃ドイツ・イデオロギー﹄ ︶から着想 からに他ならないユートピア的始源という擬制ではない 本隆明がフーコーの思想の甚大な影響を被ったのはあきらか を得て構築された幻想論を幻想論として成り立たせしめてい のか。つまり、累積された、外部隠蔽の観念的装置に過 だが、ほんとうにそうなのだろうか。ヘーゲル的な即自 るその全円性の根拠をこそ知の大転換として彼は問うべきだ ぎないのではないのか。 ︵ ﹃外部の思考﹄ ︶ だといってよいが、読み違えたとわたしはおもう。 った。それが思想が問うべき現在的な課題であるとわたしに と﹁ならびみ﹂のねじれとして言いたいこともそういうこと 無意識に語っているのだといってよい。笠井潔が﹁むきあい﹂ いるわけです﹂ということは、自己同一性の弊害と窮屈さを 消極的なかたちで成立するというか、そういう感じをもって れた孤独的な在り方というところで 、 ﹃個人幻想﹄は初めて ﹁言い換えれば﹃対幻想﹄と﹃共同幻想﹄の両方からはじか 理から必然的に流れくだってきたものだからだ。小浜逸郎の、 ムによる世界大戦も、近代を近代として成立させた同一性原 疑念は、手に取ってさわれるほどにリアルなものとしてわた 笠井が抱く 、 ﹁だが、ほんとうにそうなのだろうか﹂という ことなしに主体たりえないというヘーゲルの命題にたいして さまざまな問題を含んでいる。即自態は媒介的に止揚される 過程を、いいかえれば歴史としてもっている。引用の箇所は ちではじめからあるものではない。それ自身の生成と形成の 主体は不動の定点ではなくわたしたちの知る主観というかた もが挑み、あまりの困難さに音をあげて敗退する存在の謎。 根源的な点としての主体に孔をあけること。いちどはだれ はおもわれた。マルクス主義という人類史の厄災もファシズ だ。そして吉本隆明の思想のすきまを衝く笠井潔の批判は彼 しのなかにもある。主体は媒介的に止揚された即自の抽象態 あ る 自身へと跳ね返っていくことになる。 ヘーゲル風に規定すれば 、 ﹁むきあい﹂とは即自態で とだ。わたしは笠井のヘーゲルの思想に対する不満を﹁有論﹂ を隠蔽する観念装置ではないのか、それが笠井が言いたいこ のことを指していうのだろうか。ヘーゲルの世界精神は外部 ある。即自態である以上、そこには無媒介的な融合の未 に重ねることができると思う。 、粋 、な 、有 、︹あるということ︺ ヘーゲルは﹁有論﹂でいう。 ﹁純 開な︵非理性的な︶混沌と、混沌としての始源的全体性 が認められる。それは、媒介的に止揚されることなしに 258 でもありえないからである ﹂ ﹁は じ め に お い て わ れ わ れ が 持 というものは媒介されたものでも、それ以上規定されたもの に、無規定で単純な直接態であるからであり、第一のはじめ がはじめをなす。なぜなら、それは純粋な思想であるととも という。 いる。笠井は自己撞着している。それをさして自同律の不快 定する意識には見えないかたちで自己同一性がうめこまれて に欠いた非対称的な世界だと笠井がいうとき、そのことを述 ﹁むきあい﹂は、自己確認や相互確認のシステムを前提的 れを感覚することも、直観することも、表象することもでき の無規定である。これをわれわれは有と呼ぶ。われわれはそ 規定、あらゆる規定に先立つ無規定、最も最初のものとして 者﹂であり、すでにそこをいかなる欺瞞も観念の虚構もなく きるはずがない。そういうことなら犬と猫はじつに相互に﹁他 ないということだ。まして外部を根拠に自足することなどで るかを指摘することはできても、世界を革めることにはなら いいかえれば、笠井の世界という経験は、どこに問題があ っている無規定なものは、直接的なものであって、それは媒 ない。それは純粋な思想であり、かかるものとしてそれはは 己同一性に拠り述べながら、あたかもそれをないことにし、 介をへた無規定、あらゆる規定の揚棄ではなく、直接的な無 、粋 、な 、 じめをなすのである ﹂ ︵﹃小論理学﹄松村訳︶なぜ、 ﹁純 、﹂がはじまりをなすのか。明晰なヘーゲルの不明がここに 有 そのため生じた空白を裏側から触るときに、笠井の外部の体 生きている。表現が意味という病から逃れられないことを自 ある。 的疎外を批判することは、事態の追認にしかならないという が非対称的に﹁むきあい ﹂ 、そこで体験される超越の第三項 ま え そ の も の を ほ ど く こ と に あ る 。 つまり 、 ﹁自﹂と﹁他﹂ ら、 ﹁自﹂と﹁他﹂の非対称性を説くのではなく、 ﹁自﹂のか ﹃外部の思考﹄のなかで繰り返しいうことは、だが、ほんと するものは現実的にはなにひとつ存在しえない﹂と、笠井が 何も無いという発見﹂があり 、 ﹁この欠損、この空虚を充填 つくった表現にまつわる根深い病理がある 。 ﹁自分の中には 、味 、は 、な 、い 、 意味を解体してもむだである。どんなことにも意 、い 、う 、意 、味 、が瞬時にその空隙を充たすだけだ。ここに近代が と 験がやってくる。 ことだ。それぐらいのことはだれでも︱あの柄谷でさえ︱思 うにそうなのだろうか。あるいは、自分は空っぽであるとい 笠井は吉本が男女という範疇を先験化していると批判する いつく。 ︵﹁ぼくが他者ということで言いたいのは、けっして う存在の欠損や空虚を充たそうとして観念が意味を呼び寄せ が、吉本やヘーゲルに対する根底的な批判をなそうとするな 内面化しえない関係のことです。吉本隆明がむかし﹁関係の るのだろうか。 観念の起源ではない。この笠井の洞察はゆるぎないものとし たしかに、貧困や不遇や社会的失敗というルサンチマンが 絶対性﹂と言ったけど、彼はそれを関係の客観性と言いかえ てしまいました﹂︶ ︵柄谷行人﹃シンポジウム﹄所収﹁︿近代 の超克﹀と西田哲学﹂ ︶ 内包世界論1−内包論 259 なのだ。 生が根柢でかかえる不全感をまぬがれぬということが重大事 型を根拠とするかぎり、自同律への同致であれ、反発であれ、 ない。存在と存在者、あるいは無意識と自我という意識の範 分の中には何も無いという発見﹂に観念の起源があるのでも てある。しかしどうじにこれらのいずれにも還元不能な﹁自 はありえない。あるものは、つねに、そのものをはみだし、 とのふるまいにとって、あるものがそのものに相等しいこと 自己相等の原理は、つねに対称性の破れを内包している。ひ ぶちあたっているのだ。あるものがそのものに等しいという かならない。ほんとうは私たちはここでとんでもないことに 、識 、体 、の 、同 、一 、性 、が 、、自 、に 、対 、し 、て 、非 、対 、称 、的 、であるからにほ なす意 り、いずれにしても意識の呼吸法が自同律の不快に閉じられ がいに非対称的なものであるかのようにあらわれる。それは 笠井潔がいうように﹁むきあい﹂にある男女はたしかにた そのものはあるものを覆うように関係する。 ている。吉本はエンゲルス主義を脱していないという笠井の 実感にかなっている。そして﹁むきあい﹂にある超越の経験 笠井 や 柄谷 の外 部は 影踏み 遊びのもどかしさの表 明で あ 吉本批判に模していえば、笠井は堅固なヘーゲルの自己同一 なのだが、そこに欺瞞を感じとる笠井は非対称的なものであ はいつのまにか﹁ならびみ﹂という共同的なものへと転化し ヘーゲルも吉本も、彼らを批判する笠井も、笠井が賛意を る﹁むきあい﹂が対称的な﹁ならびみ﹂へと変質していく過 性を崩しえていない。男女の先験化を批判するなら、性差に 表明するバタイユも柄谷も、約めると﹁自﹂を実有の根拠と 程に権力の起源があるとくり返し説く。吉本隆明にあっては 、幻 、想 、領 、域 、という観念は、同一性原理を ていく。吉本隆明の全 みなす思考の型においてかわるところはない。そうではなく 近親婚の忌避があれば、兄弟姉妹間の性的な幻想によって、 還元できない︿わたしである﹀という存在の自己同一性が根 て、性という超越を分有する出来事として、男や女が︵生理 氏族共同体は部族共同体へと飛躍することが可能だとされ、 暗黙のうちに前提しているからこそ成り立つ観念のありよう の性も含め︶事後的に分節されるのである。どんな指示性に ﹃共同幻想論﹄は間然するところのない共同性についての原 底から拡張されるべきだ。 、の 、︿わたし﹀は、いかな よっても語りえない、ほかならぬこ 理の書とされる。吉本隆明は認識の基盤としての同一性原理 つづ る機縁によってあらわれいでたのか、このことだけが真に考 をうけいれ、笠井は疑いの眼差しを向ける。笠井潔はどこに 8 行こうとするのだろうか。 えるにあたいする。 こだま 底のない井戸に向かって叫んでみても 谺 は還ってこない。 笠井のいう男女の非対称性はそういうものだが、男にとって 女が、女にとって男が非対称的なものとしてあらわれるのは 、の 、︿わたし﹀を男や女とみ 性差の故ではなく、ほかならぬこ 260 続殺人事件の渦中で突然﹃外部の思考﹄のノリで会話する。 公矢吹駆と彼を好きなナディア・モガールは巻き込まれた連 哲学ミステリー﹃オイディプス症候群﹄で謎の日本人主人 私を見ている二人称的な他者の発見は、同時に一人称的 の関係においてのみ一人称の私でありうるのだけれど、 まう 。 ︿むきあい﹀の世界では、私は二人称的な他者と ﹁でも、見られることを見る私と同じように、相手もま な私の存立を根底から脅かしてしまうんですね﹂ た私に見られていることを見ている。としたら二人の関 ︿見る﹀経験なんです。理解しえない謎めいたものに一 たしみ﹀が同時に、しかも茎から双葉の芽が分かれるよ カ ケ ル の 言 葉 を 自 分 な り に 整理 し て み た 。 ﹁だれかと 方的に︿見られる﹀という経験。それを人と人の関係と ﹁ ︿むきあい﹀において見る経験から︿ならびみ﹀と︿わ 向きあっている時、私は相手を見る、それは相手に自分 見なすような立場は、第三項的な場所から︿むきあい﹀ 係は対称的だわ﹂ が見られていることを見るという結果になる。こういう の当時者を第一項と第二項に配分し、両者の関係を対称 うにして派生する。話を戻しますが、だから見ることの ことかしら﹂ 的であると判断しているにすぎません 。 ︿ むきあい ﹀ と ﹁違います 。 ︿むきあう﹀二人を第三の立場から鳥瞰し ﹁林檎やテーブルという事物を見たり、死の観念や共産 は、そうした第三の立場を根本から失効させる特異な経 本源性は︿むきあい﹀の経験において生きられる。 ︿む 主義の観念を見たりしている時、人間は自己同一性の円 験なんです。 ︿むきあい﹀において不可解で異様なもの、 てはならない 。 ︿むきあい﹀は人と人の関係ではない。 環に閉じられ永遠の自己循環のなかで安息する。鏡のな 一人称的な私を根底から脅かす二人称的な他者の深淵に きあい﹀において見るとは、見られることを見る経験に かの私を見る私において、あるいは私の声を聴く私にお 直面した私は、そのような外部、そのような他者を理解 なんらかの関係でさえない。それは私が謎めいたものを いて、私の自己同一性は理念的に完成される。しかし、 可能なものに置き換えてしまわなければならない。自己 他ならないんです﹂ 見ることにおいて見られている私を必然的に発見せざる 崩壊を避けるため、自己保身的に外部を隠蔽するために。 それ自体に必然的な挫折をはらんでいます。従って見る、 をえない経験は、私という自己同一性の球体を破壊しま 私を見ている者は果たして何者なのか。見ることにお 見られるという経験に、見返すという第三の構えが導入 だから人間において本源的な経験である︿むきあい﹀は、 いて私は解きえない謎に直面する。見る経験は、見ると されざるをえない。見られることを見るという経験の非 す。 いうこと自体において見る私を必然的に宙吊りにしてし 内包世界論1−内包論 261 対称性は、さらに自分を見ている他者を見返すことにお 可能なものに、すでに変容している。 うに。 ︿ならびみ﹀は︿むきあい﹀の挫折から生じる。 ︿む を︿ならびみ﹀る私と彼が、市民として同型的であるよ もの、相互的なもの、対称的なものです。共和国の理念 おいて、共通の対象を並び見ている私と彼は、同型的な て欺瞞的に産出されるわけです 。 ︿ならびみ﹀の関係に を人と人の関係であると理解する発想は、このようにし 互的で対称的なものと了解されるにいたる。 ︿ならびみ﹀ 果的に︿私が他者を見る﹀と︿他者が私を見る﹀は、相 私に見返された他者は理解可能な客体でしかない。結 み﹀はどうなのだろう。おもむろにカケルが答えはじめ 関係をなしている︿ならびみ﹀が生じる。では︿わたし ︿むきあい﹀の経験が挫折する必然性から、やはり三項 しているのだ。 いう裸の直面性は、この時、隠蔽された三項関係に頽落 登場人物が絶対に二人しか存在しえない︿むきあい﹀と を鳥瞰する第三の視点が暗黙のうちに要請されるから。 ルは主張するのだ。私と他者を並置するためには、両者 の時、すでに︿むきあい﹀の関係は頽落しているとカケ 私と他者を同型的で相互的なものとして並置しうる。そ 見返すことにおいて私は他者との非対称性を克服し、 きあい﹀において直面した残酷な他者を私と同型的なも た。 ﹁同じことですよ。 ︿ならびみ﹀において他者なる謎 いて、他者を私の視線の客体に転化しようと企てる。 の に 自 己 保 身 的 に 変 容 さ せ る 過程 が 、 ︿ならびみ﹀の関 に直面し戦慄している私は、もはや自己循環的で自己同 る。なんらかの仕方で他者の存在を了解するとは、私と は現存在の他者了解にまで一般化して考えることができ ことはない。視覚的な比喩では︿見る﹀になるが、それ カケルがいうことは少し難しいけれど、理解できない ら︿わたしみ﹀もまた根拠づけられる﹂ 見られることのない私、この自己循環性、自己同一性か た底からは怖るべき深淵が覗いている。もはや他者から 主体ならざる無底性としての実存だろうか。実存の破れ 一的な私ではありえない。譬えていえば底の抜けた実存、 たと 係性を基礎づけている﹂ 他者を相互的で交換可能なものと捉えることではない。 してしまう。見返す私は、すでに相手を謎としては捉え 間は一方的に見られることに耐えられない。だから見返 るの非対称性とは、このことを意味している。しかし人 おいて第一次的な範疇をなしていません。ようするに男も女 の男と女の規定は見事なものだ 。 ﹁男も女も、性的な経験に 大衆においてではなく自己においてのみ世界を語る笠井潔 それは不可解な謎に直面することなのだ。見ると見られ ていない。相手は、私に見返され客体化されている。あ 、の 、子 、で 、あ 、り 、子 、の 、母 、で 、あ 、り 、 も存在しない ﹂ ﹁女の本質とは、母 、る 、の 、も 、の 、。男 、本 、質 、と 、は 、、 、母 、の 、子 、で 、あ 、り 、子 、の 、母 、で 、あ 、り 、え 、ぬ 、も 、 う るいは対象化されている。私にたいして危険でない理解 262 がまぎれもなく自己同一性の危機において世界を語っている から事後的に産出される第二次的範疇にすぎません ﹂ 。笠井 、。男と女や夫と妻という対称性は、実は母と子の非対称性 の 、く 、み 、を暴くことの意義とそこか へと封じ込められる観念のし ︿むきあい﹀という超越経験が同一性によって︿ならびみ﹀ 層化するさまがありありと浮かんでくる。わたしは笠井潔が 明の思想の暗闇をここまで抉りだしたものがだれかほかにい ら抜けでることのできないもどかしさもよくわかる。吉本隆 るだろうか。だからくどくなるのを承知で笠井潔の所論をて ことは正当に評価されてよいとおもう。 ここからはわたしの笠井潔への不満だ。笠井はこの世界の 笠井潔の主張の核心部分は次のことに尽きるとおもう。 成り立っているしくみを鋭く批判することはできるが、共同 題があるかを指摘する笠井は真摯であり欺瞞はない。ここま ①﹁︿むきあい﹀において見る経験から︿ならびみ﹀と︿わ いねいに追ってきた。 で意識のはらむ逆理を抉りだしているのに、なぜ笠井潔は同 たしみ﹀が同時に、しかも茎から双葉の芽が分かれるように 幻想という権力のない世界像をつくりえていない。どこに問 一性の彼方へ行こうとしないのだろうか。 がすべてにおいて圧倒的優位に立っている。苦海の民の怨嗟 るわけでもない。経済と軍事を独占するアメリカと一部の国 は苦海からの使者であるが、どんな世界像をもちあわせてい の様式は擬制である。対立の構図としていえば、テロリスト ことが義とされる。いうまでもなく世界を二分するこの支配 壊者からわたしたちの世界を防衛するために彼らを殲滅する くなった現在、世界に敵対するものはテロリズムであり、破 この世界が共同幻想としてどこにも敵を見出すことができな 私は、もはや自己循環的で自己同一的な私ではありえない。譬 ③﹁︿ならびみ﹀において他者なる謎に直面し戦慄している らんでいます﹂ な経験である︿むきあい﹀は、それ自体に必然的な挫折をは 保身的に外部を隠蔽するために。だから人間において本源的 えてしまわなければならない。自己崩壊を避けるため、自己 そのような外部、そのような他者を理解可能なものに置き換 私を根底から脅かす二人称的な他者の深淵に直面した私は、 ②﹁︿むきあい﹀において不可解で異様なもの、一人称的な して派生する﹂ を背中に彼らは強大な国を無差別に攻撃する。しかしすでに えていえば底の抜けた実存、主体ならざる無底性としての実 引用した箇所の笠井の主張は現代的な意味をもっている。 この戦いは世界像をめぐる闘いではない。自己と貨幣はニヒ 存だろうか﹂ 方でくるんでしまうことができるとかんがえている。自己同 いうことを、わたしは神仏ではなく恋愛の彼方へという言い ︿むきあい﹀がそれ自体に必然的な挫折をはらんでいると たと リズムを本態とするからほんとうは対象を喪失した自己の自 己にたいする闘いが外界に表象されたものである。それがい ま起こっていることの根因だといってよいとおもう。 ︿むきあい﹀が︿ならびみ﹀へと頽落していき、権力が塁 内包世界論1−内包論 263 した風景を経てきたことか。問題のありかをはっきり指し示 一性の秘儀や権力の始源を剔抉するのに彼がどれだけ荒涼と したちのこの人類史をめくりかえす長い歴史の時間がひつよ は、自己意識が線型的に表現され幾重にも折り重なったわた がある。内包史をこの世の現実的なありかたとして生きるに ﹁そのとき、イエスは弟子たちに言われた、 ﹃今夜、あなた すことができているのに、彼もまた同一性の罠から最終的に ヒトという生命形態は性に内在する自然によって人となる がたは皆わたしにつまずくであろう 。 ︿わたしは羊飼いを打 うとされるとしても、根源の性の分有という事態は、自己表 のであって、自己が他者と関係して性になるのではない。こ つ。そして、羊の群れは散らされるであろう﹀と、書いてあ は逃れえていない囚われ人だとおもう。超越という出来事に の内包原理が存しないならば母子の︿むきあい﹀が生まれる るからである。しかしわたしは、よみがえってから、あなた 現ではなく内包表現されることによって、禁止と侵犯に閉じ こともまたない。それがあることによって人が人となった性 がたより先にガリラヤへ行くであろう﹄ 。するとペテロはイ られた同一性による生の監禁をひらくことになる。歴史は重 という根源が共軛的にくびれて自己の自己性が生じたのであ エスに答えて言った 、 ﹃ たとい、 みんなの者 があなたにつま 遭遇して、入り口の主体と出口の主体がまるで違うことに気 る。このとき自己の自己性は渾然一体となって他者をふくみ ず い て も 、 わ た し は 決 してつまずきません ﹄ 。イエスは言わ がついていない。彼だけがそうだというのではない。わたし もっていることになる。自己と他者はもともと同一であり、 れた 、 ﹃よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あ 畳する外延史からしだいに内包史へと転換していくにちがい 同一であるからこそ自己の自己性がそこからあらわれるのだ なたは三度わたしを知らないと言うだろう ﹄ 。ペテロは言っ には彼が言いたいことはよくわかるから、引用文に即してこ といっていい。自己の陶冶と他者への配慮はべつものではな た、 ﹃たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あ ない。ひとつの場面をおもいだす。イエスはペテロに言う。 く同一のものなのだ。根源の性を分有するとはそういうこと なたを知らないなどとは、決して申しません﹄ 。弟子たちも まかいことをいうひつようはすでにない。 なのだ。自己同一性を基点として他者を語るとき自己と他者 みな同じように言った﹂ ︵ ﹁マタイによる福音書﹂ ︶ イエスが語るこの人倫もまた禁止と侵犯に監禁された生の は離折する。自己と離折した第三者の共同性は互いに矛盾し 対立し背反するものとして相克するほかない。これがわたし わたしたちのこの人類史では自己表現することによって世 していくだろう。わたしたちはかならずそこまで行くことが ある根源の性の内包表現はゆるりとこういう人倫の型を溶融 内部で生起する内面の劇を象徴するものだが、神仏の祖型で 界が成り立っている。自己表現にはじまり、性や家族の営み できる。 たちの人類史なのだ。 があり、それらと逆立するものとして共同幻想の制度の世界 264 内包という生 ならない。そこには、世界ハ何モ変ワラナイ、諦メヨ、とだ け書いてある。ことばの背中に虹が立つから、はじめてある ものがそのものに重なるのであり、その逆ではない。自己は 、れ 、た 、る 、。ここにわ 、し 、 表現するものではなく、ただ内包表現さ 然とした相違が、おそらく天と地ほどの開きがある。たとえ 仮にΩとしておこう。Ω以前の内包と、Ω以降の内包には劃 更がこの間にあった。わたしのかんがえを転回した出来事を いがある。内包をめぐる知や言葉にたいする根底的な態度変 数年間とそのあとの時期では概念の使い方にはっきりした違 表現と呼んでいるのだが、内包についてかんがえたはじめの ︿存在﹀に先立つ内包存在に根ざした表現をわたしは内包 りもともとできもしないことをわたしたちは懲りずにくり返 そこに陰伏されている公理が窮屈だからではないのか。つま 提を疑うことはない。この世がこうでしかありえないのは、 り、世界を疑うことはあっても、疑っている言葉の暗黙の前 触るとき、すでに暗黙の前提として信じられていることがあ ことを言葉によって追認しているだけである。言葉で世界に くした。もし変わるとすれば、放っておいても変わるような はなにひとつない。自己意識の展延についてはもう語られつ 簡単に言う。自己意識の外延化によって世界が変わること という現象の本然がある。 ば赤いものを赤いとし、白いものを白とする表現を、わたし しているだけではないのか。わたしは内包というかんがえで、 1 は、自己意識の外延表現と呼び、真っ赤な白を可能とする表 同一性という思考の慣性を、否定するのではなく拡張するこ あ る 現を内包表現と呼んでいる。 は世界の現在についてさまざまな解釈が飽くことなく試みら 一部しか知らないが、今がどういう時代かをめぐり、あるい た自己意識の外延表現に閉じられている。わたしはそのごく はいまもなお一九八〇年代初頭にわたしが試みて行き詰まっ のである。この違いは決定的なもので、世界についての解釈 は内包表現へと拡張することができるとわたしは言っている したちのめざすところはひとつである 。 ﹁存在するとは別の って欲望の権化となるか。そのどちらでもないとすればわた ある。目を瞑って市民主義者の群に身を投じるか。先陣を切 はそのことを知っている。とりうる態度の選択肢はいくつか して無力である。理屈としてではなく実感としてわたしたち リアルな欲望の実現に向けて驀進する市場という妖怪を前に 自己意識を拠り所として為されるいかなる表現もハイパー とができるとかんがえた。 れている。ふとそれらを手に取り眺めることがあるけれど、 仕方で﹂を可能とする、神仏でなく性の彼方へ! 外延表現の否定が内包表現だと言うのではない。外延表現 どれを読んでもみなおなじ顔つきをしているような気がして 内包世界論1−内包論 265 内包というかんがえをつくりながら感じてきた。彼らの思想 の思想も︿存在﹀の手前の出来事を詳述したもののように、 コーや吉本隆明や滝沢克己であったりするのだが、彼らのど ルクスであったり、ヴェイユやレヴィナスであったり、フー 触れて読み込んできた関心ある思想家、それはヘーゲルやマ これまでわたしがじぶんの経験と照らしあわせながら折に しかだったといってよい。 時期が戦後という時代の大きな転換点であったことだけはた 不可被侵はわたしの譲れぬものである。いずれにしてもこの なぜならそれよりほかに生きようがないのだから。不可侵・ 夢を手放さず、この世を一人の生身の大衆として生きること。 か。人と人がじかに関係しうるというあのとき一瞬見た深い もし世界が彼より疾く変わるとしたら、どこへゆけばいいの のことをいうのか、そのことに触れることがじぶんに固有の んがえがわたしに到来したのか、そしてそれはどういう機微 かじぶんでもわからなくなることがある。なぜ内包というか らがわたしの固有のかんがえで、どこからが彼らのものなの 内 包 化 と い う こ と を か ん が え た が、 す ぐ に 行 き 詰 ま っ た。 ことができるのではないかとかんがえた。この時期に言葉の の実現としてあるのっぺりとした社会のイメージを改変する いう概念が可能なら、内面化によるいっそうの貧血や、空虚 わたしは、言語や音や映像を総体として表出する︿像﹀と あ る のある部分はすでにわたしの一部になっているので、どこか モチーフと、内包の由来を明かすのにもっともふさわしいと ︿像﹀は結局のところ同一性の反復にすぎないものだったし、 抱え込んでいた修羅から生活へ復員するということはそんな おもう。 世界への否定の意思が空転することを一九七〇年代の終わ モダンのあぶくたちだった。こいつらは正真正銘のアホだっ 代の浮力に身をまかせ、音頭をとって空騒ぎしたのがポスト をこぞって明るくて軽くなることが脅迫された。こういう時 た。こだわることやきまじめであることはネクラとされ、世 世のあり方に回収できない否定性はどこにも行き場がなかっ 変わらないといけない最後の一点を保存したままどういう意 うな危機感を時代にたいして感じたのだと思う。それこそが ︿世界視線﹀という概念を提出していた。おそらくおなじよ たのだ。ちょうどその頃、吉本隆明も︿像としての文学﹀や と今なら言える。モチーフそのものが同一性に拘束されてい この試みは同一性を超えたいという欲求のあらわれだった にたやすくはなかった。わたしの試みはもろくも破れた。 たが、彼らがどうであろうと、言葉を意味としてたどるかぎ 識の外延化を試みようと、対価として支払われるのは生の無 りに強く感じた。あたりが白い闇ですっぽりと覆われ、この り、言葉がやせ細っていくのは避けられないという圧倒的な 限猶予と真理への空虚な渇望だけなのだ。吉本隆明の一九八 じぶんが消しゴムで消されていくような感覚は、ふり返れ 〇年以降の仕事は見事にそのことを体現した。 実感があったことは事実だ。 世 界へ の 我が 身を賭 けた 反抗がたどるひとつの 宿命 があ る。もうこの世のどこにも身をおくことができなくなるのだ。 266 てもこの狂騒は強い違和感としてあったに違いない。その危 が、当時わたしがその思想の影響下にあった吉本隆明におい ばバブル 経 済の 浮力 にちょうど 見合 う現象 であったわけだ ゆくことができていないような気がする。 内的な作業はつづいていて、充分に表現にまでもって もなお像︵イメージ︶を組み立てたり、捏したりする ここで吉本隆明のいう﹁像︵イメージ︶ ﹂は﹃共同幻想論﹄ 機感は﹃空虚としての主題﹄や﹃マス・イメージ論﹄や﹃ハ の﹁序﹂にある﹁ある構造を介して﹂の拡張を指している。 る構造を介して﹂マルクスの経済論に関係するとした幻想論 イ・イメージ論﹄としてあらわされた。吉本隆明がとった方 内面を内面として表現することが対象的に不毛な事として は吉本隆明にとって根本的な不満があった 。 ﹃空虚としての 法は現在という時代を無意識の作者とするものだった。吉本 時代の表出感覚はあらわれた。そのことは間違いない。この 主題﹄以降、じしんの構築してきた知の大転換を図ったとき、 ﹁マチウ書試論﹂の最後で宣布した〝関係の絶対性〟は﹁あ 空白感が旧来の表現のあり方ではもはや立ちゆかぬ事態だと おそらく彼は言語論と共同幻想論と心的現象論を包括的に論 自身による知の大転換は大きな踏み絵としてあらわれた。 いうことだけはなによりリアルなものとしてあった。わたし じたいとかんがえた。幻想論のさらなる全一性を追求する意 ところで 、 ﹁ある構造を介して﹂にはながい因縁がある。 は、音と映像と言語を連関づけ、表現論を拡大できないかと いるのだなと、吉本隆明の知の大転換の試みが手にとるよう たしか翌日が﹁狭山﹂控訴審の山場だった一九七三年九月一 図がそこにあったに違いない。 によくわかった。彼は意志論を手放さずに内面の劇を組み替 日、はじめて吉本隆明宅を訪れた。暗い顔をしていたと思う。 かんがえていたので、ああ、同じあたりのことをかんがえて えようとしたのだった。わたしもそうだった。 ﹃イメージ論﹄のあとがきで吉本隆明は次のように言ってい ﹃共同幻想論﹄から二十数年後の一九八八年に出版された その年の春にむかえた部落解放運動の破局にゆきくれて押し この人の前では嘘はつけないという直感は始めからあった。 な吉本の前で緊張した。 ﹁工作者﹂を騙った谷川雁と違って、 集会、デモ、ケンカにあけくれ無法には狎れていても、偉大 る。 ちの試みのいちばんの困難は、理念論の領域と経済論 ージ論の巻で普遍的像︵学︶論を目指した。わたした わたしたちはおおげさにいえば、この全集撰のイメ ないし⋮。???と、とまどっていると 、 ﹁この桃、うまい ュを一箱差し出した。食えということだろうけど⋮。剥いて ってくれた 。 ﹁どうぞ﹂と言って、桃といっしょにティッシ 者をもてなして、吉本隆明はお茶と、桃を丸ごと一個振る舞 売りみたいにやってきた、年端もゆかぬわけのわからぬ訪問 の領域だとおもわれるが、その部分については、いま 内包世界論1−内包論 267 ですよ﹂といきなり皮ごと食い始めた。果汁が畳にポタポタ ながいあいだ﹁ある構造を介して﹂がどういうことかわか わざとみたいにもう一度やりなおすのですよ﹂というような り だ し、 適 当 に 拭 い て い た 。 ﹁僕が掃除をするとつれ合いが のように答えた。 明に訊いている。当日のわたしの記録によると吉本隆明は次 たときも﹁ある構造を介して﹂とはどういうことかと吉本隆 一九七九年一月十二日、友人に誘われて吉本隆明宅を訪れ らなかった。 ことが何かの本に書いてあったけど、奥さんの気持ちがよく 落ちると、なに食わぬ顔で、ちり紙をティッシュの箱から取 わかるような気がした。かく庶民思想家吉本隆明は、わたし のなかの 年前の遠い記憶とともにある。帰りしなに吉本隆 ヘーゲルの方法 なんらかの関係がある場合 Aが徹底的に、確実に、それ自体としてAであるならば、 非Aを想定できる 。 ︵ヘーゲルの有論のことを指してい が あ る 。 そ う い う 幻 想 領 域 を扱 う と き に は 、 幻 想 領 域 いかという批判があると思います。しかし僕には前提 う考えていたと思います。それだけです。徹底的にそれ 現実の自己表出が観念形態である。マルクスは確実にそ マルクスの方法 る︱森崎注︶ を幻想領域の内部構造として扱う場合には、下部構造、 だけです。 造 を 介 し て 幻 想 の 問 題 に 関 係し て く る と い う と こ ろ ま と、ある一つの反映とか模写とかじゃなくて、ある構 ある程度までしりぞけることができる。しりぞけます るということは、無視するということではないんです。 ん。 それで充分かというと、ちがう。まだそこはわかりませ 観念形態の自己表出をもつ、私はそう考えます。しかし 現実形態の自己表出が観念形態であるが、観念形態は、 じぶん︵吉本︶の場合 ︵ ﹃共同幻想論﹄の序から︶ 彼はヘーゲル、マルクスの表現の骨格について述べたあと、 で し り ぞ け る こ と が で き る と い う 前 提 があるんです 。 が で き る ん だ 、 そ う い う 前 提が あ る ん で す 。 し り ぞ け 経済的な諸範疇というものはだいたいしりぞけること そ う す る と 、 お 前 の 考 え は 非常 に ヘ ー ゲ ル 的 で は な 式について吉本隆明は次のようにかんがえた。 下部構造が上部構造を決定するというマルクスの有名な定 えている。 明が﹁あなたの世界をつくりなさい﹂といったことをまだ覚 30 268 体験だった。 が吉本の言葉にあった。それは一期にまたとない一個の超越 じるにたる言葉が実在することに戦慄した。それほどの気迫 そのときわたしは思想というものの存在を信じた。いや、信 れ落ち、満天の中空にじぶんが浮かんでいるような気がした。 と、最後に、大声で結んだ。一瞬、書斎の壁も床も天井も崩 らないです。人間の意志というものはどうなるのでしょうか﹂ んのいうようになるかもしれないですね。それだったらたま うに 、 ﹁ 表現 は 垂 直 に 運 動 し ま す 。 も し か す る と フ ー コ ー さ まるですぐ目の前にヘーゲルやマルクスが座っているかのよ への 阿 諛 追 従そ の も の に ほ か な ら な い と 思 え て な ら な か っ った。わたしには彼らの架空の高みからなされる言説は現実 行人らの傲り高ぶったいい気な物言いが無性にいらだたしか は制度にすぎない﹂とまるで鬼の首を取ったかのような柄谷 ﹁人間や歴史には意味も価値も中心もない。わたしというの いくような気がして絶えずちぐはぐな感じがつきまとった。 のだが、ほかならぬじぶんの固有な体験がゴシゴシ消されて 時代というほかないその気分はたしかにいい気持ちだった い闇とどうつなげばいいのかわからずに引き裂かれていた。 いたといってよい。わたしはじぶんの固有体験を時代の明る 表現があると思い描くことはできなかった。たしかそのとき なもめ事をかかえていた。とうてい自己に垂直に立つ以外の 体が壊れ余命のことが脳裏で明滅し、どうじに身に余る物騒 帰還することができず、心身ともに追いつめられていた。身 な情報・消費社会が新社会文芸とでも揶揄したい思潮を産み ど生産中心社会がプロレタリア文芸を随伴したように、高度 半世紀近くが過ぎ、今、わたしは時代のこの旋回は、ちょう った。いいあてられないそのことのもどかしさ。それから四 時代のおおきな旋回を告げる白い闇にはなにかが足りなか た。 だった。世界や人々が憑かれたように白い闇の世界へと水平 落としたのだとかんがえている。だれもそんなことは言わな 当時わたしは戦地から復員した兵士のように現実にうまく 移動し始めたのは 。 ﹃マス・イメージ論﹄に先立つ﹃空虚と から逃れようとして表現にもっとおおきな呪いをかけたとい かった。ひとびとも時代も世界もマルクス主義や左翼の呪い 一九八〇年。張りつめた大気が世界に充ち、乾いた風が不 うべきか。ここをほんとうに拓ききらないかぎり、わたした しての主題﹄で、吉本は新しい時代の扉を開けた。 思議といい気持ちだった。わたしは奇妙な分裂感に見まわれ ちが新しい生の様式を手にすることはない。そのことは信じ おおまかに時代のこの転換は一九七〇年代の後半に起こっ た。何かが変わった。じつにいい気分だ。しかしこのなしく を堪能しながら息を潜めて時代との間合いをとろうとした。 たといってよい。一九八〇年から十年間この時代の勢いは興 てもいいと思う。 クラフト・ワークやアート・オブ・ノイズの音、そして村上 隆を極め、ソ連の消滅によって失速する。一卵性双生児のよ ずし感は一体何なのだ。津波のように押しよせてくる白い闇 春樹の﹃風の歌を聴け﹄がそのころの時代の気分を象徴して 内包世界論1−内包論 269 か。天空を行き交うあの濃密な電子のノイズと結合した経済 ボスニアやルワンダの虐殺と悲劇を招いた真犯人はだれなの 事件が起こった。ソ連を崩壊させ、湾岸戦争を引き起こし、 ブルの終焉を象徴するかのように神戸少年による底冷えする うなバブル経済とバブル文芸。その狭間でオウムが踊り、バ わたしは吉本隆明の思想と訣れた。わたしはこの体験を通 は内在的に解くほかない。それがわたしにとってのΩだった。 ひとを軽くしてくれるのはいつも半分だけだ。のこりの半分 てわたしは熱い自然にさわった。移りゆく現実という与件が たしにはかんがえるほかに手立てがなかった。生を撃断され あ る じてひとつの発見をした。内包存在を同一性原理で切りぬく て孤立した悪戦をしのいできた。裂帛の気合いぬきにそれは き、彼の部落は共同幻想であるというかんがえをよすがとし 同盟 と 同 伴 勢 力 の理 念を ま っ こ う か ら全 面 的に 批判 したと の思想に震撼させられて日を繋いだ。三〇年近く前部落解放 蓋をしたくないからである。わたしはある時期まで吉本さん のから写し取ったのは彼からうけた思想の影響のおおきさに えてきた。吉本隆明さんの記憶に残る印象をむかし書いたも びやかなものにひらきたくて内包と分有ということをかんが 禁止と侵犯に閉じられた同一性による生の監禁をもっと伸 対称性をなして倫理主義としてねじれているにすぎない。こ つの分裂した態様であり、理念としては同型であって、ただ ずれも同一性原理から派生した自己をめぐる倫理主義のふた けだった。私性の優先であれ、口先の利他の優先であれ、い らな水かけ論があった。深刻めかした対立はかんたんなしか 慮について、ふるくは﹁共同体﹂派と、 ﹁外部﹂派のなまく てきたということだ。私性の擁護と当事者性なき他者への配 一〇年をめぐって争われた不毛な論争の数々のしくみが見え た。一九七〇年代末を節目とした社会の転換があり、空白の 配慮 は矛 盾 としてあらわれるということにわたしは気 づい の合理が追求してやまない市場という妖怪だ。 可能ではなかった。わたしなりに思想のおそろしさはわかっ の道行きは閉じられている。いまもなおこの不毛なたいくつ と、存在は、利己と利他へと分裂し、自己の陶冶と他者への ている。ちょっとだけ影響されたということではない。まる な遊びは続いている。 一九七三年九月に吉本さん宅を訪れ、くらい話を聞いても ごと鷲づかみにされたのだ 。 ﹃マス・イメージ論﹄や﹃ハイ ・イメージ論﹄の主題のもつ意味もわかっていたし、わたし らった帰り際に吉本さんがかけてくれた﹁あなたの世界をつ ためにする批判をわたしは吉本隆明の思想にたいしてやって は吉本隆明がなした知の大転換に振りきられずに彼の思想を 唐突にそれはやってきた。この項の冒頭でそれをΩと呼ん いないと断言できる。そうするほかにわたしが生きることが くりなさい﹂というはげましに、わたしなりの答礼は返した。 だ。わたしは完膚無きまでに崩壊した。わたしが内包という できなかった、そのことを、内包と分有として世界をつくっ 追尋しているつもりだった。 ことをかんがえはじめたのはこの出来事を介してだった。わ 270 た。どうすることもできない実感としてそれはあった。だか さ れ た吉 本 隆 明 さ ん の全 幻 想 領 域 論 の試み に た い し て 感じ しわたしはそうはおもわない、と、マルクスの経済論に対置 腰だめにひくくからだを起こし、そうかもしれない、しか 悲惨はいつも語られるが、ハイジャックされたユナイテッド 確信はゆらがない。無辜の市民にたいする殺傷としてテロの ことどもを打ち据え、平伏させることになるというひそかな 無力だが、この論稿を書きぬくことが世界で生起する愚劣な っていることとそのことは密接に結びついている。わたしは 、ご 、き 、方に激しい違和がある。わたしの身の回りで起こ 界のう ら吉本さんとの一九九〇年の対談のとき、思想は領域である 航空 便航空機の乗客が死を避けえぬことだと思い決め、激 ている。 から、自分の体を一点に凝縮し、内圧を高めて否定性を貫く いでしょうか﹂と身ぶり手ぶりを交えてはっきり申し述べた。 いして 、 ﹁ 奥行 き を も っ た 点 と い う も の が あ り う る の で は な ありかたは党派であり左翼であるという吉本さんの持論にた となる 。 ﹁レッツ・ロール!︵さあ、みんなやろうぜ ︶﹂ 。彼 ストに決然と立ち向かったということは、わたしたちの勇気 突炎上による地上のさらなる惨劇を防ごうと蹶起し、テロリ ﹁逆立﹂について納得いくまでかんがえてみたい。吉本隆 らは機を奪還すべくコクピットに突入した。ことばはここか は言ったのだ。批判はもちろん部分的なものではありえない。 明の自己幻想と共同幻想の逆立について瀬尾育生は﹁われわ 対談は終始すれ違い接点をもつことはなかったが、わたしの いまもなお生成の過渡にある吉本隆明の思想は、同一性原理 れの存在が本質的に二重﹂であるとかんがえるところから接 ら立ち上がるのだ。わたしたちの生の可能性としてある思考 からながれくだった自己意識の展延された自然表現にすぎぬ 近していく。この二重性は亀裂としてあらわれると彼は言う。 ようにかんがえれば吉本さんもっと楽になりますよ、譬えて ものとして、ことごとく拡張される。それはわたしたちの人 そしてその裂け目の境界に立って 、 ﹁私は寄る辺なく世界の の余白についてすこしずつ書いていく。 類史を終わりの始まりとする、内包史を内包表現として物語 なかにいます﹂と彼の言葉の場所を示す。瀬尾育生の発言は 、わ 、り 、う 、る 、のですよとわたし いえば 、 ﹃ 幸福論﹄ の 不 幸 感 は 変 ることにひとしいことだとおもっている。 自己幻想と共同幻想の﹁逆立﹂問題の行方にじかに関わって ここまで書いてきて同時テロ一周年を迎えた。二〇〇二年 にいかなる不全感もなくなっても、人間の超越への欲望 社会や現実がどんなに理想的なものに近づいても、そこ くる。 九月一一日。対イラク世界同時国家テロ前夜。わたしは苦海 を消し去ることは出来ないし、同様に、悪しき超越の形 2 と空虚の相互テロの当事者ではないけれど、この一年間の世 内包世界論1−内包論 271 93 があるからでもなくて、社会が社会であり、現実が現実 が生じる根拠は、別に社会が悪いからでも、現実に欠陥 れるのです。なぜなら社会や現実にたいして超越の欲望 も消し去ることは出来ないと、どうしてもぼくには思わ 品にすぎないとして人間の終焉を唱えたフーコーみたいに、 ら、人間という概念はたかだか二、三百年の起源をもつ発明 からこんなことはわかっていたというとみもふたもないか し、親鸞にとってもこんなことはわかりきっていた。むかし チェはヨーロッパではめずらしくこのことをよく知っていた 内面性が、社会や現実との関係で出来ているものではな ム人間を小馬鹿にする村上龍のネタ小説や 、 ﹁我々は天候を 援助交際の少女やサイコパスを聖化して大衆社会とシステ 人間の内面性が社会や現実とは別の独立した根拠をもってい いからです。少なくとも数百年単位の時間のなかでわれ 選ぶことができない。選ぶことができるのは傘とレインコー いいかえれば人間の内面性は、社会や現実がどんなに であるあり方そのものだと思うからです。 われが現在おかれている世界の構成のなかでは、人間の トの柄だけだ ﹂ ︵﹃映画をめぐる冒険 ﹄ ︶とうそぶいて、洗練 るとかんがえてもいい。いや、このかんがえはフーコーより 内面性は社会や現実とはまったく別の、独立した根拠を されたアジアを物語っていたはずなのに一転し、 ﹁自分が社 多様性を許容し、寛容になり、柔構造になっても、その もっています。そして人間の超越性への欲望は、社会や 会のなかで﹃与えられた責務﹄を果たすべき年代にさしかか 瀬尾育生が先に言ったことだったか。 現実に還元不可能なこの内面性の存在に根拠をもってい っている ﹂ ︵﹃アンダーグラウンド ﹄ ︶と発言する村上春樹の なかに配置してしまうことが出来ません。それは人間の るのだと思います。 ︵略︶ 老獪さに比べると、瀬尾育生ははるかにまともなことを言っ わたしははじめからオウム事件の核心は此岸︵現世︶での 自分と社会との対立ならば、内面と現実との異和ならば、 とも二十世紀的な内面性は、社会と自分、現実と自分と 超越のつくりがたさへのあらがいにあるとかんがえていた。 ている。 いった対位の中には場所をもっていません。ただ自分と この核心の場所を否定すれば市民主義を個人の内面に敷衍す 超越は必要ないのです 。 ・・・人間の内面性、すくなく 自分との衝突の中にだけ場所をもっています。 ︵﹃樹が陣 るしかない。それは明白なことだ。廊下を走ってはいけませ いのことを皆が一斉に喚きはじめた。そういうオウムを否定 所収﹁オウム問題についての感想﹂ ︶ この世での社会的な存在や現実のありように人間の内面が する圧倒的な世論の唱和への激しいいらだちが吉本隆明を異 営﹄ 覆い尽くされることはありえない。人間の内面はいつも社会 様なオウム論へ駆り立てた 。 ﹁しかし、現実否定という面で んとか教室で大声をだすのはやめましょうとか、そんなたぐ や現実より少し、あるいは、はるかにひろくてふかい。ニー NO 15 '96 9 272 発言︶ 。なぜこんな下司な発言を吉本がしたのかわからない。 小川対談﹁宗教論争﹂ ︵﹃文学界﹄一九九六年二月号での吉本 軍 事 件や 全 共 闘 、 と 言 う 気 持 ち も 僕 は あ り ま す が ﹂ ︵吉本・ は、オウムがレベルを飛躍させてしまった。ざまみろ連合赤 方は反権力というものを何か必然的なものとして正当化 上それは再度の反転を根拠付けており、つまりこの言い ことで、どのように証明されるのか 、 ﹁逆立﹂という以 ものでしょう 。 ﹁逆立﹂するというが、それはどういう たしかに今となってはこの言い方は誤解を招きやすい だがここで語られていることはそんなことではない。 することになっているではないか、などと現在ならだれ も二十世紀的な内面性は、社会と自分、現実と自分といった 共同性と個とは原理的に必ず逆立する、とは共同性と個 オウム事件の芯になにがあるか探りあてようとし、つんのめ 対位の中には場所をもって﹂いないという瀬尾育生は﹁寄る ってたたらをふんだ吉本のなかで空虚な風がびょうびょうと 辺なく世界の中に﹂いる。オウム事件は理念が世界にかかわ とが相互に 還 「 元不能﹂であるといっているだけです。 共同性として構成される世界とは、相互に還元不能であ でもが思うでしょう。 るさいのかっこうのリトマス試験紙だった。正義を楯にとっ って、どこまで追い詰めても二重性にしかならない。個 音を立てて吹いている。そして﹁人間の内面性、すくなくと た市民主義者への彼らの批判もまた古い知を保守するひとつ の内面世界は決して共同性の世界を完全に内面化するこ 化しても、どんなに寛容になっても、この内面世界をそ とはできない。同じように共同性の世界はどんなに多様 の型にすぎぬことがよくわかった。 瀬尾育生は﹁オウム問題についての感想﹂で個と共同性に ついてさらに次のように言う。 とでいって﹁共同性と個との逆立﹂と言われてきたとこ ると思う。何が忘れられつつあるのかといえば、ひとこ っという間に忘れられ、捨象され、打ち捨てられつつあ 思想の領域で見いだし、確認してきたはずのことが、あ に感じられます。これまで半世紀のあいだにわれわれが いっぺんに、ほぼ半世紀ぐらい逆戻りしてしまったよう う対立として構想されるような十九世紀的な、ロマン主 によって定義されるような、現実と内面、社会と個とい 超越としてふるまうような内面性、総じて現実との対位 な内面性、現実に存在する諸対立にたいして、それらに に構想して現実をそれへの過程にしようとしているよう し、奪回しようとしている内面性、架空の共同体を未来 現実の救いようのない後進性を前にして、それを反転 の内部に布置させることはできない。 ろのもの、個的な幻想世界は共同幻想と必ず逆立する、 義の水準で、彼らは内面性を理解し、それに対して自分 ぼくには、オウム事件のあとのわれわれの言説空間が という言い方で語られてきたところのことです。 内包世界論1−内包論 273 たちは勝利していると考えている。 当事者性と存在論だ。今それがわたしの目の前にある。もう 消去しようと思ったら、現実というものの定義、内面と で あ る と い う だ け の 権利 で 、 物 「 ﹂のように、石ころや 木や風や地震のように存在している。しかしこの存在を ただ社会的なもの、共同的なものに対して﹁還元不能﹂ であって、それは自分が自分と衝突するという場所に、 戦争のあとに死後の死後のようにして残っている内面性 が目の前にしているのは数百年単位の時間を経て、世界 ウムに対処できるわけがないとぼくは思う。われれわれ ういう言葉を返しました 。 ﹃ではお前たちの庭にサリンをま 的公共性﹄はただちにさまざまな言論人たちの口を借りてこ ﹁オウムに少しでも擁護的なことを述べた人たちに、 ﹃大衆 した、反対物ですらあり得る鏡像﹂だと瀬尾育生は言う。 そのものではない。いやそれどころか多くの場合それと矛盾 というのは大衆の、あるいは群衆の感情的な、存在的な反応 です。これはしばしば混同されることですが、大衆的公共性 とき、その反動として市民社会が示す一義性が大衆的公共性 ﹁市民社会の原理を根底から揺るがすような力が現われた すこし瀬尾育生の言い分を聞いてみる。 いうものの 定 義を 根 こ そ ぎ 変え る以 外 にはないわけで かれてもいいのだな ﹄ ﹃お前の家族がサリンの犠牲になった だがそんな十九世紀的な内面性についての理解で、オ す。 する至近距離に迫っている。この特異点を解く鍵はふたつあ 意識のブラックホールとでもいうものがつくる特異点を解消 己意識の外延表現をたどるかぎりかならずおちいる、いわば 、ろ 、までもう一歩だ。自 おもう。吉本隆明の思想の芯にあるう 意見に五分頷き、あとの五分は言ってることがぐうたらだと に不可避に生じる空虚の問題があげられている。瀬尾育生の 用は﹁相互に還元不能﹂な二重性をごまかさずに生きるとき 前半は吉本隆明のかんがえをなぞったものであり、後半の引 のようにかんがえ、内包論をとつおいつやっている。引用の うものの定義を根こそぎ﹂変えようではないか。わたしはそ まさにそうだ。だから﹁現実というものの定義、内面とい の信者に近づく通路が開かれるのだ、ということを意味して にしてのみ、われわれはサリンの犠牲者に、あるいはオウム けしか切実なものとして考えられないこと、このことを通路 えば、自分自身の死のこと、自分の身近な人間の死のことだ 脅迫の機能として使っているのです。だがこのことは逆に言 たっていながら、そのことを隠蔽して、犠牲者たちを単なる ごと﹄としか考えられないことを根拠としてその発言がなり なものであることは、自分自身が犠牲者たちのことを﹃ひと が告白されています。だからこれらの言論が虫酸が走るよう の死のことだけしか切実なものとして感じられていないこと がたりに、人は今、自分自身の死のこと、自分の身近な人間 うな﹄反応はどういう構造をしているのか。ここには問わず らと考えたことがあるのか﹄云々。こういう﹃虫酸が走るよ る。同時に二本の鍵を差し込まないと扉は開かない。それは 274 います﹂ わたしは瀬尾育生が言論人の言説に虫酸が走るような嫌悪 いうようにたしかに個の内面の世界と共同性の世界は相互に 還元不能である。またこの事態のことを吉本隆明は自己幻想 とみなすわたしのかんがえからいうと、個の内面と共同性は 吉本隆明の位相的な観念の三層構造を自己意識の外延表現 と共同幻想の﹁逆立﹂と言った。 た ﹁ 大 衆 的 公 共 性 ﹂そ の も の で は な い か 。 ﹁大衆的公共性﹂ 相互に還元不能であるとともに相補性をなしている。人間の を感じたという鈍な言説に虫酸が走った。この言説の型もま をはげしく否定する言説がすでにどこかで別の言説の公共性 彼は存在の二重性にぱっくり空いた裂け目の境界に自覚的 を当て込んでいて、その欺瞞ぶりは目を覆うばかりに酷い。 瀬尾育生が人間は存在の二重性を共同性と個との分裂とし 、会 、人間なのだ。彼の内面はけっして良いものではな に立つ社 内面が共同性で覆い尽くせないということも、共同幻想と逆 てしか生きることができないということの、あるいはそのこ い。いや彼のありかたが﹁石ころや木や風や地震のように存 NHKの青年の主張みたいな言論人の﹁ひとごと﹂性などど とに人間の本質的な不幸を嗅ぎつける吉本隆明のなにがおか 、のように存在する空虚が 在﹂する空虚をひきよせている。物 立するということも、ほんとうはなにもいってない。ひるが しいのだろうか。社会や現実との対立に居場所を定めること 好きで好きでたまらないのならば、それもよかろう。しかし うでもいいではないか。なんでそういうことにめくじらを立 が で き な い 二 十 世 紀 的 な人 間 の内 面 は 、 ﹁自分が自分と衝突 それは人の気持ちを暗くするし、断じて思想の問題ではない。 えっていうなら、瀬尾育生の内面という概念はなにを意味し するという場所に、ただ社会的なもの、共同的なものに対し わたしの知る文筆家はいつもここでなまくらとしてあらわれ てるのか 。 ﹁二十世紀的な内面性﹂の課題は﹁自分と自分の て﹃還元不能﹄であるというだけの権利で、 ﹃物﹄のように、 る。大衆的公共性を担いで正義をふりかざす市民主義者を彼 ているのかすこしも自明ではない。 石ころや木や風や地震のように存在している﹂ 、と瀬尾はは らは目の敵にする。わたしはそんな彼らのことが退屈でたま 衝突の中にだけ﹂あると言ったのはいったいだれだ。 っきりいっている。このような内面はほんとうに不可避なも 説もまた、大衆的公共性を否定する公共性を暗黙のうちに当 らなかった。大衆的公共性を楯にした市民主義を指弾する言 背後に外延的に表現された自己意識を陰伏して、そのうえ て込んでいて、その役割を演じているにすぎないことがすぐ のなのか。なぜこんな変なことになるのか。 であらためて個と共同性を立ちあげるから、事後的な個の内 見えてしまうからだ。そういうものばかり目にしてきた。 ﹁真理のためには︵正しいことのためには︶何人殺し 面が共同性と矛盾や対立を起こしてしまう。それはむしろ自 然なことなのだ。裏返していえば、共同性と背反するような 個の内面を自己意識の外延表現が要請している。瀬尾育生が 内包世界論1−内包論 275 てもよい﹂と考えていた人々が﹁どんなことがあっても めに﹁何人殺してもよい﹂と考える根拠を得るのではな は﹁一人の命は地球よりも重たい﹂という﹁真理﹂のた なたの命が地球よりも重たいとしたらどうか? あなた のか? 世界のなかであなたが死に瀕しており、そのあ 尋ねたいのだが、その一人があなたの命だったらどうな は地球よりも重たい ﹂ 。その通りだ。では私はあなたに 理念によってのみ根拠づけられる。すなわち﹁一人の命 は絶対的な真理の形をしている。その真理は次のような か? ﹁どんなことがあっても人を殺してはいけない﹂ 二つ の 命題 は 同じことを 語 っているのではないだろう のは 欺 瞞と 体験 コンプレックス とそれを裏 返し た脅迫 だけ は﹁語り口﹂からすぐにわかる。こういう言論文化人にある るような出来事や関係に、いちども出会ったことのないこと を心の底から軽蔑する。瀬尾育生が生を根こそぎゆさぶられ 根底に届かない口先だけのゆがんだ心性で言葉狩りをする者 理の痩せ細りと稚拙さに独特のにおいがある。わたしは生の にか特段幼稚なことをして生業を営んでいるに違いない。論 を借りうけて踏襲しただけですこしも身についていない。な 郷と海﹄の解説﹁告発について﹂も吉本隆明が批判した道筋 前のその汚い手をどけろ。これでおしまい。石原吉郎の﹃望 語るに落ちるとはこのことだ。わたしなら即座に言う。お 人の殺戮を命じたとしたらどうなのか? ︵同前︶ いだろうか?︵﹃新しい手の種族﹄所収﹁数についての だ。落ちるところまで落ち、潰れるだけ潰れたら、けっして 人を殺してはいけない﹂と語りはじめている。だがこの 疑問﹂ ︶ いた。するとあなたの肉体と精神に奇跡的な激変が起こ ある。そこに一人の男があらわれ、あなたの額に手を置 、較 、を 、絶 、し 、て 、い 、る 、ので て大きくも小さくもない。それは比 た。あなたの﹁一人の死 ﹂ 、それは数百万人の死に比べ 精神的にか、世界によって追い詰められて死に瀕してい りだったのではないだろうか? あなたは肉体的にか、 そして事実、かつてあなたに起こったことも、その通 だ。それが彼が理解した自己幻想と共同幻想が逆立するしく く と そ こ に あ る の は所在 な さ げ な 言 葉た ち の 空 疎な 顔つき てそれを表現だと錯覚している。深淵めかした理念を一皮む うことは一度もない。喉ごしのよい上っ面の言葉を書き連ね 文化人が出来事をわがこととして生き、かんがえ、語るとい い歳をした幼児に何をいう必要があろうか。この国の物書き 性から出来している。この﹁語り口﹂がすべてを物語る。い らへの﹁虫酸の走るような﹂嫌悪は、瀬尾育生の生の生煮え こんなことは言わない 。 ﹁大衆的公共性﹂を声高に弁ずる者 った。あなたはここで示された﹁真理﹂以外に、あなた みの中味だといっていい。 ガ キ をあなたの﹁一人の死﹂から救いだすものはないと信じ た。ところでその﹁真理﹂が口を開き、あなたに数百万 276 辺・杉山訳︶で個と集団について鋭い指摘をしている。ヴェ シモーヌ・ヴェイユは﹃ロンドン論集と最後の手紙﹄ ︵田 つねづねながいあいだかんがえていたことだった。ヴェイユ はっとした。ここでヴェイユが言っていることは、わたしも 彼方をめざしていた。引用に見られるヴェイユの気づきには、 不在の神を狂おしく語ったヴェイユはあきらかに同一性の ることである。 ︵ ﹁人格と聖なるもの﹂ ︶ イユの言葉を導きの糸として言葉と生の原像という普遍理念 3 に迫っていく。 な集団的なものもいかなる影響力を及ぼすこともできな ましいの一部分があって、それにたいしては、どのよう 逃れる。このとき、人間の内部にはなにかが、つまりた を超越することによってのみ、人間は集団的なものから 無人格的なものの中にわけ入るために、人格的なもの だれかという人間的存在ではないとヴェイユがいうものは吉 イユはもっていた。集団は虚構であり、抽象的なものであり、 く言葉では言いえないそのことについて鋭敏な感受性をヴェ ながい西欧形而上学の歴史のなかで気づかれてはいてもうま ては集団はいかなる影響力も及ぼすことができないという。 は人格を超えたたましいがあって、この聖なるものにたいし の洞察は大きな示唆を含んでいる。ヴェイユは人間の内部に いのである。 ︵略︶ 構によるのでなければ 、 ﹁ だ れ か ﹂ というような 人 間 的 に説明するのはむだなことである。まず、集団とは、虚 がおかしてはならないなにかがある、ということを集団 事実に帰せられます﹂ ︵﹃どこに思想の根拠をおくか﹄ ︶ 。ここ つ﹀人々に、権威と権力を収斂させることだ、という平坦な 化を遠望する 。 ﹁歴史の究極のすがたは、平坦な生涯を︿持 吉本隆明は自己幻想を定点として、共同幻想の漸次の縮小 本隆明の共同幻想のことを指しているといってよい。 存在ではない。集団は、抽象的なものでないとしたら、 に彼の思想の根源と意志論がある。大衆を思想の原理におく 集団を構成する諸単位のひとつひとつの中には、集団 存在しない。集団に向かって語りかけるというようなこ 吉本隆明はけっしてヴェイユのような発想をとらない。 ヴ ェ イ ユ も お な じ よ う な こ と を 言っ て い る よ う に見 える とは作りごとである。さらに、もし集団が﹁だれか﹂と いうようなものであるなら、集団は、自分以外のものは その上、最大の危険は、集団的なものに人格を抑圧し にある、とヴェイユは言う 。 ﹁最大の危険は、集団的なもの 圧するのは事実だ、しかしそれを招きよせるものが人格の側 が、彼女はベクトルを逆向きにかんがえる。集団が人格を抑 ようとする傾向があることではなく、人格の側に集団的 に人格を抑圧しようとする傾向があることではなく、人格の 尊敬しようとしない﹁だれか﹂になるだろう。 なものの中に突進し、そこに埋没しようとする傾向があ 内包世界論1−内包論 277 側に集団的なものの中に突進し、そこに埋没しようとする傾 共同性や社会とよべるものかどうかはわからないが、かりに るやかな性的な諸関係の総和としてあらわれてくる。それが この諸関係を内包共同性や内包社会と名づければ、国家はも 向があることである﹂と。 生の奇妙さに戦慄し、引き裂かれ、痛々しいほどに人間と い物には巻かれよ﹂といい、そのすがたのことを﹁面従腹背﹂ るのだと思う。ヴェイユの気づきのことを日本の諺では、 ﹁長 語っているのだろうか。そうではあるまい、真理を語ってい 活力を失うことなく活性化されることになる。内包社会は停 家族のようなものとして現象することになって、内包社会は 存在の分有者の関係としてあらわれるから、外延論理は宛然 内包論理の世界では自然と人間の関係は、内包自然と内包 はや存在する余地がなくなるといってよい。 という。なぜなら﹁背に腹はかえられぬ﹂からだ。つまりだ 、ま 、だ 、す 、ことがそれぞれにとっての豊饒さと 滞せず、互いにが 内面についてかんがえたヴェイユは、なにか倫理的なことを れだって知っていることをいっているのだ。ここをすくいと して撥ね還ってくる。貨幣は交換価値であることを超えて、 消費をふくみつつ、贈与することが自己にとっての豊潤さと れないものを思想とは言わない。 からだにこころが貼りついて、その渾然一体となった存在 し、自己の陶冶はそのまま他者への配慮にひとしいものとし 存在に先立つ根源の性において利己と利他は完全な調和をな なことなのだ。おそらくまだ理解されることはあるまいが、 一点から吊られているものであるかぎり、逆立するのは自然 幻想といい、共同幻想というも、それが同一性という究極の なかに突進しようとするのはけだし当然のことである。自己 利他と利己が極端に分裂してあらわれた理念の双生児だ。 ︿内 生き神を天に戴く天皇制も、その斥力としてのニヒリズムも、 場所だといえる。狂熱に駆られて集団発狂する革命の大義も、 それを解き明かそうと挑み、敗退していったもっとも困難な 部に不可避に空洞を抱えこんでしまうことになる。だれもが 根源的な同一が制約されて表現されたものだから、論理の内 元来、自己同一性という外延論理は、存在の本然としての あ る て現象する。このとき禁止と侵犯は消滅し、生は同一性の監 包=世界﹀には、政治と文学なんてものも、知識人と大衆な なってあらわれるに違いない。 禁から放たれる。ここにはどんな意味でも倫理は見あたらな んてものも、もうないのだ。わたしたちは現実的に可能なる のありようを自己とみなすかぎり、自己が利己として集団の い。禁止と侵犯という思考の型がありえないからだ。内包と ものとしてそこを生きることができる。 ば、わたしは一人称にして二人称であるから、外延論理の三 内包によって生きられるこの世界で、同一性の世界から見れ ば、事態を俯瞰できる包括的な観念がメタレベルとして要請 を指示するには、謂わば変化しないものさしが、いいかえれ 出来事が生成変化するとき、なにが変化してどこが違うか あ る 、か 、に性であるから、言い換えれば、 分有の世界でわたしはじ 人称がかたどる社会のありようは、あたかも家族のようにゆ 278 幻想領域論が、それぞれに次元の異なる観念が節目をなして 験としてしか指し示すことができない。つまり吉本隆明の全 である。この超観念を同一性原理は超越の経験とか外部の体 る、変化しない普遍的な定規と、同一性原理は本来べつもの は同一性原理とよんでいるのだが、変化を変化として認識す される。本然としての存在の制約された観念のことをわたし 応じて思想の荒野を血煙をあげながら驀進した。だから自己 はじまる場所を吉本隆明はひきうけることなく時代の要請に たのではないかとおもう。自己が自己として立つ、ことばの 荷するひずみ。おそらくそのようなものを吉本はもたなかっ い幽冥の場所がある。逃れようもなく当事者であることが負 がやってきているのだとおもう。けっして語られることのな かたのつきつめのたらなさから吉本隆明の思想のあいまいさ あ る 折り重なったものだとすれば、同一性原理という変化や違い の空洞を大衆の原像を繰り込むという緻密な他者の代理によ この意識の範型はそのかぎりで最終的にマルクス主義をふ をはかるものさしが暗黙のうちに想定されるほかない。この されることになるとかんがえられる。そして同一性原理が本 りきれていない。そびえたつ思想の構築物が巨大であるにも って充填することができた。 然としての存在の制限されたものにすぎぬし、さらにこの論 かかわらず、硬直してひからびたもののようにいまわたした 伏在するものさしがあってこそ次元の違いがそれとして認識 、ろ 、があるとしたら⋮、そこまで吉本隆明がかん 理の内部にう ちが感じるのは、そのためではないかとおもえてならない。 題であったから、位相的に次元の異なった三つの観念の層が ヴィジョンをつくりあげることが吉本隆明にとって焦眉の課 ら離れない。敗戦期の打撃から立ち直るために、社会総体の に向かわなかったのはなぜなのかという疑問がわたしの頭か する吉本隆明の幻想論がこれらを統覚する同一性がはらむ謎 とって世界は観念の結節によってあざなわれているものだと 一般というものはのっぺりとして平板なものであり、人間に 的な同一﹀を超越としてしか語ることができない。自己意識 しかし存在を分別するものさしである同一性原理は︿根源 、の 、こ 、と 、を 相対化 してやまな を分 析 する 外 部の 目によってそ れ以外ではない。 、こ 、れ 、れ 、にいて、そ 、を 、生 、き 、る 、ことがどうしてもできず、そ 、 そ ぐ勇気が湧いてくる元気の素こそが思想なのだ。思想とはそ 、れ 、があることによって日を繋 想にあたいしない。なによりそ 界と歴史を語ったからだ。時代によって超えられるものは思 代的な役割はなかば終わった。かれが︿衆﹀の名において世 それは空前絶後のものだった。そして彼の思想が果たした時 で、吉本隆明はだれにも恃まずだれより一人でよく闘った。 みずからを知識人と規定することが可能だった時代性のなか あ る がえることはなかった。 なにによって統覚されるのかということはかれのかんがえる い、無限に猶予された生が吉本隆明が思想として表現するも のだといってよい。敗戦期の挫滅した体験を潜りぬけるなか ところではなかったということもできる。 ほんとうにそうだろうか。わたしは、敗戦期のくぐりぬけ 内包世界論1−内包論 279 わたしは吉本隆明とは異なる思想によって生に架けられる 葉の原像は不即不離のものとしてある。生の原像を語ること で中途半端な倫理の解除をめざして構想された彼の思想の明 は言葉の原像を語ることにひとしく、言葉の原像を生きるこ 夢を原像として語りたい。そしてそれは言葉の原像となって かつて鮎川信夫は水俣病を論じた吉本隆明の思想を称して とは生の原像を生きることにほかならないというぐあいにふ 晰は、ひとを迷妄から救いはするがけっして生を熱くしない。 言った 。 ﹁狭い入口から入って、狭い通路をくぐりぬけ、や あらわれることになるはずだ。わたしのなかで生の原像と言 っと出口にたどりついたと思ったら、そこが入口だったとい たつの概念は円還する。内包という生の固有さについて語ろ ここになにが隠されているか。 うのでは、ちょっと救いがない。論理が貫徹しているだけに、 吉本隆明は近頃は﹁理念としてのふつう﹂という言い方を うとすると吉本の大衆の原像を避けるわけにはいかなくなっ は、たいへん吉本的なのだが、論理の幅が狭く、錐揉状に進 よくするけど﹁大衆の原像﹂なら諳んじている。生まれ、育 その救いのなさは空恐ろしくさえある。 ︵略︶ 倫理的としか むにしたがって、折合いの世界である日常性の感覚を剥ぎと ち、婚姻し、子を生み、子に背かれ、老いて、死ぬ。大衆の てくる。大衆という生命体のうねりにまぎれて生きたいとい ってゆくのである。その結果、結語に達したときには、もち 原像は生の恒常性のことにほかならず、人間という生命形態 いいようがない、その︿思い込み﹀によって、論理の幅がい ろ ん 彼 は 論 理 の 許 す 範 囲 で 歩 を停 め た わ け だ が 、 ︿折合い﹀ の自然な過程の謂いであるとわたしはおもう。ひとは空気を う吉本のあこがれ。非知を渇望するがゆえの逆倒した知への の感覚が全くなくなり、世界は動きをとめて凍りついたよう 呼吸して生きているとわざわざいうだろうか。ひとであるこ ち じ る し く 狭 くなっている ﹂ ﹁吉本は、不具・障害・病気に になってしまう。 ︵略︶ほぼ三十年前から、 ﹃植物のやうな とに内在する自然をあらためて繰り込むとはどういうことだ 渇望。そういうものが吉本にある。吉本隆明の﹁大衆の原像﹂ 廃疾﹄ ︵﹁ぼくが罪を忘れないうちに﹂のこと︱森崎注︶が彼 ろうか。吉本隆明の﹁大衆の原像を繰り込む﹂という理念は 出遇ったときに感ずる︿痛ましさ﹀を手がかりとして、論理 の心の隅のどこかにわだかまりつづけてきたとしても不思議 、い 、とわたしはおもう。言葉にすきまが 思想の言葉としては弱 とヴェイユの﹁匿名の領域﹂をつきあわせ、そこにどういう ではなく、そうだとすれば、そのときから﹃結語﹄のこの論 あって、それじたいで現実に直立する︿ことば﹀とはなりえ の 歩 を 進 め て い る わ け だ が 、 なぜ 、 ︿痛 ま し さ ﹀ で な け れ ば 理は約束されていたと言えるのである ﹂ ﹁ そうなると マザー ていない。大衆の原像を思想の自立する拠点として語ること 問題があるかとりだしてみたい。 ・テレサにはどうしたって敵わないのである﹂ ︵﹁確認のため で、彼は人間の思考にとって終わりの始まりをなすそれこそ ならなかったのだろう?︵略︶ いずれにしても、この選択 の解註﹂ ﹃詩の読解﹄所収︶ 。鮎川信夫の言い分に納得。合掌。 280 リのくせに、肉体労働のまねごとをしたって始まらない あ る ④僕の場合は、戦後 、 ﹃一般大衆﹄が、世界の主人公で が変わらなければならない存在の謎を回避する。この理念は あるってことを示す理念をつくろうと思って 、 ﹃試行﹄ し、そんなことでは民衆をわかったなんて言ったらウソ ①︿生涯のうちに、じぶんの職場と家をつなぐ生活圏を そのかぎりで擬装されたニヒリズムの一形式であるとわたし 離れることもできないし、離れようともしないで、どん に原理論的なものを発表しましたが、これは全体的視野 になっちゃう。 な支配にたいしても無関心に無自覚にゆれるように生活 をもつ試みです。 はおもう。 し、死ぬ﹀大衆のほうが︿どのような政治人よりも重た く存在しているものとして思想化に価する。ここに﹁自 ⑤︵なぜ、そこまで大衆にこだわるのですか、という問 信頼できる。大衆のいい部分も悪い部分も含めて、その 立﹂主義の基礎がある﹀ ︵ ﹁日本のナショナリズム﹂から︶ ②⋮、歴史っていうのは、だれの考えや行動で動いてい 凝縮されたものが、どうにか少しずつよくなっていくと いに答えて︶ひとつには大衆の英知というのは基本的に るかといったら、それはやはり大衆です。大衆を基本に いうことが基本にないならば、歴史ってものはいらない ①∼⑤は吉本が膨大な著作の中で飽くことなく繰り返して すえない理念ではダメなんです。それでぼくは、ごくふ ③︵大衆を知るために 、 ﹃民衆の中に入る﹄という考え きた自立思想の根幹にかかわるところだといってよい。吉本 じゃないか、と思うからです。 ︵いずれも﹁大衆の原像﹂ はなかったのですか︱という問いに答えて︶そういう考 の思想が、いま、時代にどこまで耐えうるかと自問すると、 つうの大衆が、その時々の情況で何を考えているのか、 えはダメです。べつに会社員は会社員、作家は作家のま その多くはすでに過ぎたのではないかという気がする。かつ を求めて︱吉本隆明氏に聞く﹃夕刊読売﹄一九九九年一 までいい。無理して関心を持つことはないんであって、 て時代と熾烈に相克する思想として屹立し、いまもなお優れ その理想的なイメージを想像し、じぶんの課題の中に繰 それぞれの持ち場で、じぶんの言葉を展開すればいいん た思想だとしても、どこかふるい感じがする。マルクスの思 〇月一三日号の記事からの抜粋︶ で す 。 た だ 、 そ れ だ け で は 視 野 が狭 く な る か ら 、 ﹃大衆 想の拡張が吉本の意図するところだとして︱彼は自立思想と り込んでいくことが大切だと考えてきました。 の原像﹄を繰り込むと言ってきたんです。自分はインテ 内包世界論1−内包論 281 供与しているとおもっていい。吉本隆明は﹁大衆の原像﹂を 自立はありえない。現在という与件はそのことだけは無償で う の が、 わ た し の 実 感 だ 。 ︿衆﹀を媒介とするかぎり思想の よんでいたのだが︱マルクス主義の対抗思想でしかないとい 言う。言葉を意味としてたどると矛盾したことが言われてい て単純に、それは、かれ、その人なのである﹂とヴェイユは でも、人間的固有性でもないという。聖なるものは﹁きわめ もかならず聖なるものがある。しかし、それはその人の人格 思想としてものすごいことが言われている。どんな人間に の人間的固有性でもない。きわめて単純に、それは、か し、それはその人の人格ではない。それはまた、その人 人間はだれでも、なんらかの聖なるものがある。しか と還相廻向の視線が、一息にふっとさりげなく言われている。 換されている。謂わば、二重にからまった、往相廻向の視線 っている。わずか数行の文章のなかでめまぐるしく視線が転 るようにもみえる。 ヴェイユは言葉の彼方にあるものを語 るようでもあり、なにかわけのわからないことが言われてい ヴェイユの﹁匿名性﹂に重ねる。 れ、その人なのである。 きのびる、というある領域を構成している。しかし、こ び、それによっていくつかの名前が数千年にわたって生 芸術、文学、哲学は、華やかな、輝かしい結果が実を結 人格の表出のさまざまの形式であるにすぎない科学、 って言われているといってもよい。ここでヴェイユが言って について言表されているからだ。言葉のない世界が言葉によ のが困難なのは、この出来事が認識の対象になりえない対象 とヴェイユが言うとき、なにが言われているのかを理解する に、それらとは深淵でもって距てられたひとつの領域がある 人類の知的遺産ともいうべきさまざまな偉大な表現の彼方 の領域を越えて、はるかかなたに、この領域とはひとつ いることは、わたしたちが頭のなかで無限をかんがえるとか、 また心の最も内奥の一点において聖なるものや永遠なるも の深淵でもって距てられた、もうひとつの領域があり、 その領域にわけ入った人びとの名前が記録されている のに触れるというのでもない。立ち、歩き、触れ、呼吸する なにか聖なるものをイメージするとか、そういう自己意識の か、それとも消失しているかは偶然による。たとえ、そ わたしたち一人ひとりが、一切の媒介なしにじかに直面して そこには第一級のものがおかれている。それらのものは の名前が記録されているとしても、それらの人びとは匿 いることであるとヴェイユは言うのである。いいかえれば、 ありようとは全然無関係なことである。 名へ入りこんでしまったのである。 ︵﹃ロンドン論集と最 あるものが他なるものであるからこそ、どんな人間にもかれ 本質的に名をもたない。 後の手紙﹄ ﹁人格と聖なるもの﹂杉山毅訳︶ その人が聖なるものとしてあらわれるのだ。生きることや表 282 視ているのだ。それはまるでちがうことなのだ。 理解している。しかしなぜか彼はそこにいない。そのことを 現についてのこの畏るべき態度の変更をおそらく吉本隆明は ユです。ヴェーユは﹁歴史上、偉大な人たちはたくさん それは、ユダヤ系フランス人の思想家シモーヌ・ヴェー ええ、そうです。そういうことを深く考えた人がいます。 いる。そういう人たちのことは、ちゃんと記録にも残っ かなた ていて、誰でも知ることができるけど、真に偉大なもの べつの領域を暗示しているのは、はじめての、とてもこ 最高の所産だとみなされてきたものの彼方に、ひとつの い。ヴェイユが科学、芸術、文学、哲学といった人間の もしかするとじぶんの写像とみなしたかったかもしれな じぶんの願い、羨ましさを複合した表現にあたっている。 これは﹁人間﹂にたいするヴェイユの究極の理解と、 だよって。僕にとっては、ヴエーユがいっていることは、 い。 ﹁価値の源泉とは何か?﹂といえば、やっぱりそこ さらに価値ある生き方をした人たちがいたのかもしれな しかすると、歴史上、名を残した偉大な人たちよりも、 は残っていませんから、誰も知りようがないけれど、も ものがある ﹂ 、と。そこは〝無名の領域〟です。記録に 大﹂といわれているものよりも 、 ﹁さらに彼方に偉大な は、さらにその彼方にある﹂といったんです。通常、 ﹁偉 ころよい感じだ。そして人間がそこへ到達できるのは、 自分を支えるつっかい棒になっていますね。 ヴェイユの聖なるものや匿名性について吉本隆明は批評す る。 人格でもなく、人間的固有性でもなく﹁かれ・その人﹂ どりつく、匿名の世界は、なにも人倫にかかわる意味を もある存在にほかならない。この直接的な自己同等がた の人間﹀はヴェイユのいう﹁神﹂と人間との融合同等で の人間﹀だといっていることに驚かされる。そして︿そ とは違って、ヴェイユの聖なるものや匿名の領域と吉本の大 繰り込むことと同義のものとみなしている。吉本隆明の理解 おり、この自己同等がたどりつく匿名の世界を大衆の原像を 同等の存在としての人間﹂を吉本は大衆の原像に重ねてみて ﹁﹃神﹄と人間との融合同等でもある存在﹂や﹁直接な自己 であるような存在、直接の自己同等そのものである︿そ もっていない。直接な自己同等の存在としての人間とい のだ。 の大衆像について語ってもらう。すっきりしたとてもいいも としたいのかもっとはっきりさせたいので、鮎川信夫に吉本 衆の原像はまるでべつものだとわたしはおもう。なにを問題 世紀論 ﹂ ﹄でインタビュアーに﹁本当に うほかの意味をもたない。 ︵ ﹃甦るヴェイユ﹄ ︶ あるいは﹃超﹁ 価値ある生き方とは何か﹂と問われて答える。 ﹁大衆の︿原像﹀について、いくら吉本に説明されてもま 内包世界論1−内包論 283 20 はずである。 ︵ 略︶ か れ の ︿ 瞋 り ﹀ が う ま れ た の も 、 そ こ か いう概念の内実がどういうものであるか、立所に了解できる るものに﹀︱森崎注︶を読めば、彼の抱いている﹁大衆﹂と るでわからないという 人でも、この詩︵︿わたしの傍らにあ 生活しているばあいの最小条件といいますか、その中か うに思います。つまり、ある人間が死んでなくて生きて という概念よりも 、 ︿生存﹀という概念のほうがいいよ の想定のなかに何があるのかといえば、ほんとうは生活 そこで典型的に原点になる生活者を想定しますと、そ 食べて明日食べて、そして今日欲望し明日煩悩し、とい らいろんなものを全部排除してしまって、ともかく︿生 ﹁人類平等ということが、最初から直覚的に認識されてお う次元で理解するよりも、むしろ︿生存﹀の最小条件を らであるし、 ︿瞋り﹀を鎮める場所もそこにしかない。そこ り、どんなイデオロギーとも無縁に、比較的無垢のまま保存 保持しているもの、というところでかんがえられると思 では、どんなに異和が存在しても、憎悪の対象とはならない されてきたといえば、当たり前すぎて、犯人は大地だという います。だからそれは、まさに生活しないことと対応す 存﹀だけはしていて、それはまさに︿生存﹀しないこと チェスタートンの推理小説と同じように、なーんだというこ るよりも 、 ︿生存﹀しないことと対応していると云った し 、 愛 を 失 う 理 由 ともならないのである 。 ︵略︶それは、自 とになりかねないが、彼の思想の基層にあるものは、今のと ほうがいいでしょう。厳密にそれをじぶんで定義づけた と対応しているとかんがえられるものです。そういう原 ころそうとしか言えないような気がするのである。大多数の のではありませんが、最小限度 、 ︿生存﹀しているばあ 己の全身全霊を大衆にあずけて悔いないあわれみというべき 人々にとっては 、 ﹁人類の平等﹂は、総論とか概論とかで時 いに、それはだれにでも普遍的にある状態ということに 点の生活者を想定しているばあい、極端にいえば、今日 たま見かける空疎な観念語にすぎないであろう。ところが、 なります 。 ︿生存﹀しているかぎりはだれにでもある状 である﹂ ︵﹁ ﹃日時計篇﹄からの展望﹂ ﹃吉本隆明論﹄所収︶ 彼にあっては、それがほとんど体験的な熱い真実になってい いう考え方が、ぼくにはあると思います。それは、自力 態という意味合いまでいけば、その重さはすごく重いと 吉本隆明にとって﹁大衆の原像﹂や﹁理念としてのふつう 以外に世界はないんだ、というようにつきつめて行く概 るのである﹂ ︵ ﹁確認のための解註﹂ ﹃詩の読解﹄所収︶ は﹂が﹁体験的な熱い真実﹂であり、彼の思想のゆるぎなさ 念の崩壊点で、再び自力へ引き戻しうる重さの根拠みた それは生と死という概念とはちがいます。あるいは、 いな原点になると思います。 の根源にあることがよくわかって気持ちいい。 ところで、吉本隆明は﹁大衆の原像﹂についてべつの言い 方をすることもある。その箇所を引用する。 全き生命をうるということにおいては万人平等であると 284 出してきて、そこに生命という概念を与えるという考え いして 、 ︿生存﹀そのものを再び概念に、反省的に取り れ自体であるというところでかんがえていて、それにた 人間は、ひじょうに即物的、具体的、活動的、自然物そ うような気がします。ぼくは 、 ︿生存﹀という概念を、 ひきよせるのだろうか。むろんそこに、生の鋳型から流れで に憑かれて愚劣な行為に及ぶことがなぜこういう理念の型を か。それほど吉本の敗戦の痛手は深かったのだろうか。大義 の価値の根源をおくのだろうか。なぜそれが価値なのだろう な感受だとおもう。観念ゼロの生活者。どうしてここに思想 徹底したニヒリズムだなと感心する。生存についての特異 だ。自然それ自体には慈悲も生も死も万人平等もなにもない。 方は、ぼくにはないように思います。まったく物質的に た彼の資質と、羮に懲りてなますを吹く吉本の過敏な心情が い う 、 わ り あ い 宗 教 的 な 考 え 方に た い し て も 、 ︿生存﹀ なくなっちゃうというところが行き止まりのような気が あることは容易にわかる。日本的な無為、あるいは東洋的無 詩を書く吉本がそのことを知らぬはずがない。 します 。 ︵吉本隆明﹁﹃歎異鈔﹄の現代的意味 ﹂ ﹃ 増補最 ということともこの箇所を読んでうける感触とは違う。ここ ということと︿生存﹀しないという概念は、すこしちが 後の親鸞﹄別冊附録所収︶ るものとしてかんがえていると言う。むしろそれは︿生存﹀ るという次元で理解するより、 ︿生存﹀の最少条件を保持す 吉本は、典型的に原点になる生活者を、喰い、寝て、念ず こかかんがえがねじくれていてなにか痛ましい気がする。 ︿生存﹀しないことと対応する概念まで追いつめていく。ど た吉本隆明は精神の廃疾を打ち消そうとして、生きることを とわたしはおもう。起源の闇にある観念の始まりを踏み損ね には生を肯定するどんな徴候もない。ただ特異な生活思想だ しないことと対応することで、生と死という概念とは違うと、 物の一系列の生存は生存という言葉と矛盾を起こすのだ。生 、存 、といった瞬間に、事 発想があろうとなかろうと、生存を生 列とみなすことで成り立っているからだ。反省的に取りだす の代謝活動だとするのはいい。自然科学は人間を事物の一系 はあきらかに矛盾をふくんでいる。詭弁である。生存が自然 が行き止まりで、死ねば死にきり、だと言う。このかんがえ それ自体であるとかんがえるから、物質的になくなればそこ ているからこそ、不具・障害・病気にたいして︿痛まし 分の生存を大なり小なり︿痛ましさ﹀の感じで受けとめ 省察であるという本質をもっている。わたしたちは、自 の生存することにまつわる︿痛ましさ﹀についての自己 んでいる。わたしたちが感ずる︿痛ましさ﹀は、じぶん きかえようとする。しかし、この短絡は思いちがえを含 ︿痛ましさ﹀を、しばしばすぐに心情・倫理・同情にお わたしたちは、不具・障害・病気に出遇うとき感ずる はっきり言っている 。 ︿生存﹀という概念を即物的、自然物 存それ自体と、言葉で生存ということとはまるでべつのこと 内包世界論1−内包論 285 さ﹀の感じを喚起されるのである。 ︵略︶ 空転している。不具・障害・病気のもつ生存についての意味 を倫理ではなく論理で語りたいからだ。吉本隆明がものそれ たとえば、ヴェイユの﹁匿名の領域﹂について、その徹底 この︿痛ましさ﹀の識知は、被害者の﹁植物的生存﹂ いうことが、この︿痛ましさ﹀の本来的な意味である。 性は常軌を逸しており病気の領域に入ると吉本隆明は言う。 自体への還元の一歩手前で生存の概念を語るときのイメージ 同情・倫理・公害・政治の問題という連鎖は、問題の一 ﹁僕などは口先で﹃大衆の原像をいつも繰り込んでいないと への病変退化が、非人間的生存である段階から非動物的 部にすぎず、人間の存在にとっての最終の問題がここに 思想は成り立たない﹄と言っていますが、実際は不徹底きわ があらわれている。この引用の箇所だけで︿痛ましさ﹀が八 微弱な匂いで象徴されているとみることができる。 ︵略︶ まりないことしかやっていないし、そういう言い方をすれば、 段階をへて無機的存在︵死︶へつらなる連鎖の最終段階 たぶん、身体はその生理的な死にいたる過程のどこか 親鸞だってそうです 。 ﹃自分は外面的には真実そうに振る舞 回使われていて、まことに痛ましい。倫理的な態度を抑制し で、この生存の最小与件の状態を体験するのだというこ っているけれど、心の中は嘘で満ちている。名声とか利益が て論理で語ろうとするその姿勢が倫理的であることを逆説的 とができよう。しかしこの状態は、普遍性をもっている 好きだから、人の師みたいな顔をして何か言っているだけだ﹄ にまで生存が追いこまれてゆくことの識知に基づいてい にもかかわらず自己体験の状態としてはありえない。 ︿痛 と言って、和讃の中で自分の存在を打ち消そうとしています。 る。意識しているかどうかにかかわらず、生存の最小与 ましさ﹀の感じはつねに他者に属している。そして、こ しかし、ヴエイユはもっと徹底的です﹂ ︵﹃吉本隆明が語る戦 によく示している。 のばあいも身体が体験する心的な世界は、うかがうこと 後 年⑦﹄ ︶ 件にまで、生存そのものが追いこまれてしまっていると のできない︿植物的な生存﹀の世界である。この世界は ・病気が蒙る心的世界の自体構造を記述することの必要 しれない。しかしこのばあいでもその身体の不具・障害 自己体験できないからは、記述することもできないかも んの精神の廃疾を彼なりのやり方で復元するしかない。 る生存の最少与件を大衆の存在の基底に据えて、吉本はじし に病んでいるとおもえてならない。生存しないことと対応す しかし、吉本の生存の概念もどこか不自然な気がして相当 論﹂Ⅵ︶ 論理だけがむなしく一人歩きし言葉がふくらみをもたずに ︿無効性の観念﹀のところにあるんじゃないか 。 ︿無効 逸脱というものの本質は、どこにあるんだといえば、 性は控除されるものではない。 ︵﹃試行﹄三十五号﹁身体 55 286 なる観念が、逸脱として、いちばん本質的なのかといえ のいちばん最後の段階にやってくる問題です。なぜ無効 関連はあるんじゃないか。それはたぶん逸脱ということ 真なるものだというふうにはいえないでしょうが、ただ わりがあります 。 ︿無効性の観念﹀ということ自体を、 といえましょう。ほんとうのことはなんなのかと、かか 性の観念﹀というのはなんなのか?それは、党派でない んど神の視線ではないのか。そういうことを﹃ハイ・エディ 明ただ一人だと宣命されているような気がする。それはほと 論法でいえば 、 ︿ 無 効 性 の 観 念 ﹀ をわかるのは 世 界 で 吉 本 隆 身についた理解をしているものは世界に何人いるだろうかの うことになる。アインシュタインの一般相対性理論について 着地する﹂ことを可能とする観念が︿無効性の観念﹀だとい 、の 、ま 、ま 、寂かに︿非知﹀に向かって 印象がかつてあった 。 ﹁そ どんな種類の︿知﹀にとっても最後の課題である﹂ 。強烈な いずれにしても、 ﹁大衆の原像﹂や﹁理念としてのふつう﹂ 、 ば、逸脱でないものと、ハーモニーがあるといいましょ おもいます。ごく自然に知の輪郭と、生活の輪郭とが一 あるいは﹁生存の最小条件﹂という大衆の存在の基底を繰り プス論﹄を読んだとき感じたことを覚えている。 致した逸脱のなさと 、 ︿無効性の観念﹀とは、そこでな 込むことが最も価値のある生き方であると吉本隆明は想定し うか。ある共鳴性、一致性があるからなんだろうなとは ら共鳴を生じるでしょう。 ︵ ﹃ハイ・エディプス論﹄ ︶ 脱でないもの﹂は生存の最小条件のことである。吉本のかん 隆明がどうであれ、言葉が上滑りして力をもっていない。 ﹁逸 ういうものが思想であるとするなら、いらぬとおもう。吉本 どうも好かぬ。自然であろうとすることに無理がある。こ を不可避に生みだしたこととなって表白される。吉本隆明が、 こに思想の根拠をおくか﹄ ︶ 、法や制度や国家という共同幻想 ように、個人として恣意的に生きたいにもかかわらず﹂ ︵﹃ど とにまつわる︿痛ましさ﹀の感受は 、 ﹁人間は、他の動物の 見事な思想だというほかない。だから吉本隆明の生存するこ ている。知の非知への還流が滑らかに全円性を描いている。 がえによれば 、 ︿ 無 効 性 の 観 念 ﹀ と 生存 の 最 小 条 件 は こ こ で 人類がめざしているのは﹁個人の全的自由の実現︵﹃超﹁ 世紀論﹂﹄︶ ﹂だというとき、彼にとっての﹁自由﹂は恣意的 なら共鳴を生じるということになる。こうして知の頂きを極 めたものが非知へと着地する。むかし﹃最後の親鸞﹄の次の に生きるということを意味している。このように解されるこ ﹁歴史の究極のすがたは、平坦な生涯を︿持つ﹀人々に、 言葉に出会ったときぎくりとして鳥肌が立った。 ﹁︿知識﹀に 蒙をひらくことではない。頂を極め、その頂きから世界をみ 権威と権力を収斂させることだ、という平坦な事実に帰せら とは吉本隆明の意にかなうとおもう。 、の 、ま 、ま 、寂かに︿非知﹀ おろすことでもない。頂きを極め、そ れます ﹂ ︵﹃どこに思想の根拠をおくか﹄ ︶はわたしのとても 内包世界論1−内包論 287 とって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って に向かって着地することができればというのが、おおよそ、 20 ぼすべての国民が中流となり、とりあえず自由に振る舞い、 は事態を重くみていない ︶ 、原則の好きな吉本に即して、ほ るのだが︵吉本は産業構造の転換による中流の分解について もち、吉本の認識の内部ではその比率は刻々と高まりつつあ な乱れを招来することになる。国民の九割以上が中流意識を という歴史についての現状認識は、知の非知への還流に奇妙 う歴史なんていらないのだと思います﹂ ︵ ﹃僕なら言うぞ!﹄ ︶ のを手に入れ、ぜいたくもできるというようになったら、も 好 き な言 葉 だ が 、 ﹁普通の民衆が自由に振る舞い、欲しいも 部世界から、逆に外部世界へと相わたるとき、はじめて、 /だが、この過程には、逆過程がある。論理化された内 民の生活意識から背離し、孤立化してゆく過程である。 ゆく過程によってである。この過程は、一見すると、庶 自己の内部の世界を現実とぶつけ、検討し、論理化して めて人民でありうるか。/わたしたちのかんがえでは、 ばならない。/わたしたちは、いつ庶民であることをや 民たることをやめて、人民たる過程のなかに追求されね ならない。したがって、変革の課題は、あくまでも、庶 会的な現実を変革する欲求として、逆に社会秩序にむか 外部世界を論理化する欲求が、生じなければならぬ。い かつて景気がよくてダイエーが繁盛していたとき、売り場 って投げかえす過程である。正当な意味での変革︵革命︶ 欲しいものをそこそこ手に入れ、ぜいたくできる段階で、ど に行くとなんでもあるが、欲しいものがないということをよ の課題は、こういう過程のほかからは生まれないのだ。 いかえれば、自分の庶民の生活意識からの背離感を、社 く感じた。この最高もなければ最低もない気分。バブルはこ ︵﹁前世代の詩人たち﹂ ﹃抒情の論理﹄所収︶ ういうことが生じるだろうか。 の気分に象徴された。吉本の思想の文脈に沿っていえば、こ ことになる。それは確実なことですでに実現されていること の大衆の生活意識からの背離感は無限にゼロに近づいていく としても、思想としてかんがえられた知識人の役割や知識人 ての専門家はますますその有用性の度合いを増すことになる の型が破綻し無効になるのだ。知識集約型社会での実利とし 絶対性にしても、幻想論の全一性にしても、左翼批判として とんどエイリアンのような気分でながめるしかない。関係の 理解はできるけれど、実感がつくれない。文字の連なりをほ だったから、こういう理念の型にであうとめまいをおこす。 りうちだされている。この文章が書かれたときわたしは六つ のちに﹁大衆の原像﹂として結晶する言葉の原型がはっき のとき吉本隆明の思想は全的な機能不全に陥るはずだ。思考 だ。若いころ吉本隆明は言っている。 わたしの考えでは、庶民的抵抗の要素は、そのままで らみつく倫理性の解除は、彼が思想として意志したこととは 左翼の基盤も倫理も過ぎた今、彼が過剰にこだわった義にか は有効であった。もちろんわたしも充分にその恩恵に与った。 は、どんなにはなばなしくても、現実を変革する力とは 288 の思想によって変わることはなにもない。ハイパーリアルな かない。現実はいつもそれじたいだから、自同者である吉本 るかぎり自己の陶冶と他者への配慮は引き裂かれつづけるほ して彼の思想はむなしく空を切る。自同者を認識の基点にす 時代を写す思想は時代の推移とともに打ち捨てられる。斯く 関係なく、現実によってなかば実現されてしまったといえる。 ときのものすごい教訓なんですよ。内面的実感にかなえ うものをもっていないと間違えるねっていうのが、その と緊張させなければならないときには、自分に論理とい いいですが、そういうもので規定されると、自分をうん 戦争体験からの教訓ですね。外から論理性、客観性でも 加藤さんと僕が違うところがあるとすると、それは僕の いうのはだめだということなんです。これは、いくら自 ばいいんだということで、戦争を通ってみたら、いやそ 今、吉本隆明の思想の欠陥がよくみえる。はじめに、世の 分たちが内面性を拡大していこうとどうしようと、外側 現実はかまうことなく貪欲に社会を浸食する。そしてわたし 中とうまく折り合いのつかない若い吉本がいた。なにか過剰 からくる強制力、規制力といいましょうか、批判力に絶 うじゃねえなということがわかったといいますか。 ︵略︶ なものが彼のなかで渦巻き、どうにも世界と調和がとれない 対やられてしまう。それに生きてるかぎり従わざるをえ たちは思想や理念というフィルターをなくしてしまって裸眼 の だ 。 青 少 年 期 の 普 遍 性と し て そ れ は あ る 。 ﹁ぼくが真実を ない、そういう生活を強いられるなっていうことがわか ところが、戦後、僕らが反省したことは、文学的発想と 口にすると、ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想に ったんです。 でこの世界を見ている。 よって、ぼくは廃人であるさうだ﹂ ︵﹁廃人の歌﹂ ︶ 。だれもが 文学的なのだ。たとえ吉本隆明の精神の廃疾がどんなに深く 感﹂ ﹁全面的な解放感﹂ ﹁猛烈な解放感﹂ ﹁ものすごい解放感﹂ 太平洋戦争の開戦時の﹁パーッと天地が開けたほどの解放 詩を書くわけではないが、その時分にはだれもがいくぶんか てもかまわない。比較することなんかできないからだ。その ︵﹃吉本隆明が語る戦後 年﹄⑤︶から、一気に絶望のどん 彼が二〇歳のとき敗戦を迎える。それはいきなり世界が向こ 憲法﹂ ︵﹃思想の科学﹄一九九五年七月号︶のなかで吉本隆明 彼は敗戦期の体験を飽くことなく述懐する。 ﹁半世紀後の がしないという感じが三年間くらい続いたと思います﹂ ︵﹃遺 ない。しかし、自分でもうまく転換できなくて、生きた心地 けることができるとなると、いろいろ考え直さなければいけ 底に突き落とされる 。 ﹁戦争が終わって、これからも生き続 は市民主義理念を二度批判しているが、その批判には彼の戦 書﹄ ︶ 。こういう度外れに正直な吉本隆明はとても好きだ。 う側から変わることだった。 争体験の教訓がこめられている。 戦争がみえてなかったと彼は言う 。 ﹁論理をもっていない 内包世界論1−内包論 289 55 文学を通じて知った人間の心理や精神の動きの洞察は世界の も外側からの強制力に抗することはできないとかんがえた。 彼は、 ﹁文学的発想﹂は駄目で、 ﹁いくら内面性を拡大して﹂ と 間 違え る ﹂ 。それが戦争が彼に与えた教訓だった。そこで こだわってきた当事者性は内面の倫理でも、世界との関係の 立たせている根拠をくみかえる方に向かった。わたしが長年 ぎぬものは、主観的な契機と客観的な契機のそれぞれを成り きらかにすることでひらきうるとかんがえたが、わたしの過 とである。吉本は彼の体験を世界の客観的契機のしくみをあ わたしの思想の方法から敗戦期の吉本のありようを忖度す 客観性によってもひらくことができなかったからだ。 えのことが言われているとおもう。彼はこの反省に立ち、文 るならば、太平洋戦争について彼は無罪である。無罪である 方か ら一 方 的に 変わ る こ と に た い し て無力 だ っ た と 彼 は言 学の外部の目をもつことで﹃マチウ書試論﹄を書くことにな にもかかわらず彼は有責であるかのようにふるまった。彼の う。なにも特別のことではなく、とてもまっとうであたりま る。 ﹁人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである﹂ 、ぎ 、て 、ゆくものにみえる。なぜかれ ていえば、彼の挫滅感は過 並はずれた知力と胆力と激しい倫理性が一瞬の自己欺瞞を覆 敗戦の経験を経て戦後をいかに生きるか、吉本隆明は彼の が﹁じぶんの発想の底をえぐり出して﹂までこだわり、いっ と﹁じぶんの発想の底をえぐり出して﹂吉本隆明はかんがえ 思想をそこでつくった。わたしは全共闘∼部落解放運動の胸 たいなにをかんがえたのか、わたしにはつたわってこない。 ってしまったようにわたしにはみえる。わたしの体験に即し の悪 く な る む ご い体 験を経 て じ ぶ ん の言葉 を つ く り は じ め これは決定的なことだとわたしはおもう。 た。 た。わたしはこの体験のことを当事者性に拠る表現として普 遍化をめざしている。そこで吉本隆明の思考の型を、当事者 にする。わたしと吉本隆明はここでおおきくすれ違うことに 根底でひらくという、わたしの世界認識の方法からみること 性に徹し、そのことがひきよせるさまざまなひずみを存在の 起することが可能であるとおもいます。 ︵略︶ 対して鋭く分岐する客観的な契機を人間理解について提 機というふうに呼んでみましょう。この主観的な契機に キルケゴールの人間理解の仕方を、かりに主観的な契 あ る なる。 ひきうけることを、わたしは当事者性とよんでいる。当事者 てあったようにみえる。時代が推移しても過ぎゆかぬものを しの体験は過ぎぬものとして、吉本のそれは過ぎるものとし ると思っていることはたしかです。そういう場合に、な る思想をもっているものも、じぶんたちは真理を保有す る方も真理を保有していると、ぼく以外に社会に反逆す ぼくが社会の秩序に反逆すると、それなりに反逆され まず体験のもつ意味がわたしと吉本隆明では違った。わた 性は体験することによってのがれえぬ出来事をひきうけるこ 290 るところになっているわけです。 ︵ ﹁自己とはなにか﹂ ﹃敗 が使っている﹁関係の絶対性﹂ということばとがわかれ ルケゴールがいう︿関係性﹀ということと、ぼくなんか 機の方にもっていったとおもいます。そのところが、キ 的な倫理の中にもっていかずに、かえって、客観的な契 規準というものを、主観的な契機の中に、あるいは内面 っていかなかったのです。つまり、人間存在の普遍性の ぼくは人間理解をキルケゴール的な、主観的な契機にも か。大きな問題になってきたわけです。そこのところで、 にが真理を保有するものだと決める規準になるでしょう うか。頭はすっきりするけどすこしも生き生きしてこない。 、れ 、があることによって日を繋ぐ力が出てこないものが思 そ のことに倫理的になることがなぜそんなに問題となるのだろ 識の方法をもっていれば間違わないと吉本はいうのだが、そ いれることで彼の生は慰撫されたというわけである。世界認 観的な内面の倫理を客観的契機のほうに引っぱり、刻み目を 己の陶冶と他者への配慮はきりなく引き裂かれつづける。主 かぎり、自己幻想と共同幻想はいつまでたっても逆立し、自 ている認識の入れ物こそが問われるべきなのだ。そうでない り立たせている、主観的契機や客観的契機という思考を容れ 観的契機をそれとして、あるいは客観的契機をそれとして成 もつ全観念領域の幻想論としてわたしたちの知るところとな をもち、それぞれの観念の節目を通して三つの異なる領域を という 。 ﹁客観的な契機﹂は、それぞれに固有な観念の領域 観的な契機﹂の方に人間存在の普遍的な規準をもっていった キルケゴールの﹁主観的な契機﹂にたいして吉本隆明は﹁客 とで無力になる内面のありかたにもともと欠陥があるからで で文学の指南力がうしなわれるのだとしたら、むしろそのこ の欲しいものではないのか。世界の方がいきなり変わること 世界がどうであれ、変わることのない元気の素がわたしたち 狂おしくなって妖しくなるもの、それが思想ではないのか。 が湧いてくるシンプルなもので思想はいいのだ。熱くなって 北の構造﹄所収︶ る。吉本隆明の思想のどこに欠陥があり、どこが時代から超 はないのか。わたしたちはもうだれもが実利や実務をべつと 想といえるのだろうか。なにかこれひとつあれば生きる勇気 えられていくものとしてあるのだろうか。 らない。主観的契機であれ、客観的な契機であれ、いずれも に閉じられた同一性による生の監禁という事態はなにも変わ 契機に人間存在の普遍的な規準をもうけようと、禁止と侵犯 ものは架空性で幽霊なのだ。吉本隆明が敢行した知の大転換 界のどこにも知識人の役割などというものはない。そういう うがあるのか。思想はシンプルなものでよい。すでにこの世 なぜ、なんのために大衆の原像なるものを繰り込むひつよ してふつうの庶民ではないのか。 同一性という円還に閉じられている。謂わばコップのなかの を、彼の子の世代にあたるものたちはそのことをあたりまえ 主観的契機に内面の倫理の普遍性をみいだそうと、客観的 争いなのだ。吉本隆明はここを逸らして思想をつくった。主 内包世界論1−内包論 291 のこととしてすでに生きていた。いくらか年増の子であるわ たしはツェランの言葉にたどりつく。ツェランがだれかわた 根底から覆すために言葉の原像が語られるべきだ。そしてわ とじぶんを語るべきなのだ。なにより、この世のありようを 理念としてのふつうや衆の歴史を語るのではなく、生の原像 念の分離を代償として思想を騙るのではなく、大衆の原像や に谷川雁の﹁工作者﹂をもちこむことに似ていた。実感と理 にはさまれた領域の思想というアイデアはいわば思想の内部 は理念であるよりは実感としてあった。最高綱領と最低綱領 と好きな箇所だ。田中一村の絵画を見るのとおなじ感動がこ にとって美とはなにか﹄の吉本狩猟人の自己表出説よりずっ く。生きているという信じがたい驚異への驚きがない﹃言語 言 葉 が ま さ に生 ま れ よ う と す る 瞬 間 に つ い て川 満 信 一 が 書 情景がある。言語の表現理論として書かれたものではない。 り合う。もうひとつわたしが好きな、なにかこころがおどる あらざるなり ﹂ ︵﹁末燈鈔 ﹂ ︶という親鸞上人の言葉がよく釣 ころえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきに あ あ 、 こ れ が 言 葉 の 原 像 なのだとおもう 。 ﹁この道理をこ 受賞の際の挨拶﹂ ︶ しはほとんどなにも知らないが、ツェランのことばはわたし こにある。こういう素敵な情景を書いてくれて川満さんあり たしにはそれがなにか奇妙なこととおもえた。こういうこと に強く響いてくる。 のです。抜けて行き、ふたたび、明るいところに出るこ した︱しかし言葉はこれらの出来事の中を抜けていった こったことに対しては一言も発することができませんで んでした。言葉はこれらをくぐり抜けて来、しかも、起 死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりませ みずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、 して残りました。そうです。しかしその言葉にしても、 残りました。それ、言葉だけが、失われていないものと 手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして かめながら、言葉の原形をゆらめかせる。飢えにせかさ がて、おそるおそる木の実をもぎとり、その感触をたし をもった対話が木の実とのあいだで交わされている。や く形容詞のない、母音変化だけの語彙で、最高の緊張度 い赤々と熟れた木の実を見つめているのである。おそら 人の人間が佇んでいる。そのヒトは、いまだ名づけ得な 移りゆく彩色のなかに、もう何時間もまえから、ただ一 茜の薄絹をまとい、清澄なかなしみがあたりを充たす。 夕陽が沈んでいくと、紺碧の空と海は、放射状に輝やく 私の好みの情景だが、陽炎たつ熱帯の大洋に、巨大な がとう。 とができました︱すべての出来事に﹁ゆたかにされて﹂ れて幾度か口元へもっていき、その香の感触から新たな もろもろの喪失のただなかで、ただ﹁言葉﹂だけが、 ︵パウル・ツェラン﹁ハンザ自由都市ブレーメン文学賞 292 くちびるにあて、存在を賭けての決断を下す。そのとき、 しからしさとはまったく次元の違う出来事であり、各自的に 彼方の出来事だ。三角形の内角和が一八〇度であることのた 言葉という超越の経験は表現論を欠落した現象学の理念の でもひとりでに起きあがっていくその軌跡の総体を、わたし かわききった舌に、口腔にみぶるいするような甘味が、 しか訪れない。それは一切共同化されることなく言葉ではな ことばの胎児を育む。そして、もろもろの物象に宿る神 芳香とともに染み全身をつっ走る。その驚きとよろこび は同一性原理が描く至高の言葉の原像とよびたい。 から噴きあげる感嘆の声音。それが幾人も幾世代ものヒ い固有なものとしてじかに経験されるなにかだ。同一性原理 々へ、単純な母音の祈りを奉げながら、ついに木の実を トの体験と反省意識を経て、一個の果実に奉げる指示名 ではここが思考がゆきつく究極の場所なのだが、ここを終わ りとしてまたあらたにひとつの思考が胎動を開始する。ヴェ 称として誕生するのである。 毒あるものについても、また同様の体験の累積から、 おそるおそる木の実をもぎとり、ためらいながら、飢えに イユやレヴィナスの見果てぬ夢の続きをわたしは内包と分有 んなつまらない指示名称さえもヒトの全存在を賭けた感 、し 、て 、、ついに木の実をく せかされて、口元にもっていき、そ 怖れと忌の名称が名づけられていったことだろう。この 動と怖れ、愛と忌の過程から迸り、神々に奉げるものと ちびるにあて、全存在を賭けてくだすその﹁決断﹂を、他な として夢見ている。 して胎動してきた、と考えねばならない。 ︵﹃沖縄・根か るものに捧げるとき噴きあげる感嘆の声音が発生のことばな ように想像するとき、ことばは、その発生において、ど らの問い﹄ ﹁ミクロ言語帯からの発想﹂ ︶ 現実のなかで無力そのものを経験する。それにもかかわらず、 川満信一が夢見る、言葉が誕生する瞬間の情景は、しかし、 方の出来事に属しているということはこのことを意味してい そのものとして立ち上がるのだ。ことばが本来、同一性の彼 ただこの驚異を分けもつことにおいてはじめて、あるものが のだ。ここでは、あるものは他なるものにそのまま重なり、 ﹁なぜ神を放棄してはならないのか。絶滅収容所で神が不在 マルクスが﹃経済学・哲学草稿﹄で直観した性という関与 る。 だ﹂ ︵レヴィナス﹃われわれのあいだで﹄合田・谷口訳︶と 的な存在は、彼が思いえがいたものよりもはるかに深い根源 であった以上、そこには悪魔が紛れもなく現存していたから いう世界の地平を通過して、言葉は起上り小法師のようにじ 的な関係は、根源の性にたいする分有者の関係としてあらわ をもつ。まさしく、人間の人間にたいする最も直接的で本源 生きていることの信じがたい驚異への感動から言葉が生ま れるのだ。この自然的なおのずからなる関係のなかでは、根 しんに内在された言葉の本来性を回復する。 れ、言葉がじしんの運命に導かれ、炙られ突き崩され、それ 内包世界論1−内包論 293 るのだ。あらゆる悲惨とあらゆる苦海が、あらゆる空虚とあ 止と侵犯に閉じられた生が同一性による監禁から解き放たれ する関係となってあらわれる。このときなにが起こるか。禁 内包者の内包者にたいする関係は、内包者の内包自然にたい を分有する内包者の内包者にたいする関係であり、同様に、 源の性にたいする分有者の関係は、根源の性という内包存在 なるだろう。 人類史を終わりの始まりとする内包史として語られることに たく異なるわたしたちのちいさな試みは、やがてこれまでの 世直しとうつるに違いない。これまでの革命の概念とはまっ 同一性の世界からは、自力の計らいというより、他力による るほかないのだ。わたしたちのささやかな道行きは、むしろ わたしたちがじかに性であるからこの世がどうであれ革ま 二〇〇二年九月二五日 らゆる孤独が、あり続けようと意気込んでもおのずから一切 の地上性を剥奪されてしまうのだ。わたしは想像力によって こ こ に架 け ら れ た夢 の す べ て を 生の 原像と よ び た い と お も う。いま、それを語るのがどんなに荒唐無稽なことにおもえ ようと、ことばという起上り小法師に導かれて生の原像を実 現していく過程が内包としての歴史であり、ことばという虹 に立つ夢が、主観や客観の彼方にある内包という生なのだ。 ︿ 存 在 ﹀ 概 念 の 根底 か ら の 転換 に よ っ て お の ず か ら な る こ じねん の世の革めが可能となる。それはわたしたち一人ひとりのあ り方が変わることによって自然にもたらされるものであり、 目の前に、内包と分有の思想による広大な思考の余白として ひろがっている。わたしはじぶんの体験を内面化することや 社会化することを拒み、つまりどんな一般化もせずに、当事 者であることがひきよせるさまざまなひずみを存在の根底か ら組み替えることで、この世の革命が思想として表現可能だ とかんがえるようになった。わたしたち人間がまだかんがえ たこともそこを生きたこともない同一性の彼方からの革命を めざしていこうとおもう。これが可能性でなくてこの地上の どこに希望があるだろうか。 294 附 295 附 七七年目の革命︱アウトテイク﹁原口諸論文﹂考 原口思想の核心 この数年間に原口孝博さんが書き著した部落についての論 文がもつ衝撃力は、水平運動 年余の歴史を根底から革命す っているものなのに、皆気づいていない。それが人間として の本当の︿誇り﹀であり、アイデンティティ 主 (体のあり方︶ なのだ ︵ 。彼のゆきつくところ 」第 回部落問題全国交流会︶ 層に遡る。マリノフスキーの文献を猟渉した吉本は生命の永 的価値がある ︵ 」第 論文 と )いうリアルを彼が生きているか らだ。このリアルを手に彼は賎視観の由来を尋ねて歴史の古 はもう明らかだと思う。 外 「 皮や衣の内側 内 ( 在性 に ) こそ、 時代を通じて変わらぬ︿熱と光を持った﹀人間としての本源 のかだとしたら、ここに水平運動を担っただれもがやり果せ れが彼の日本文化の源流とみなしたい︿喩﹀としての部落だ。 った島嶼の国の数千年の歴史を縦横に駆けめぐってみた。そ り、それは我に非ずを含み持つ我という主体をどう創りうる 解決の途は国家を造らない人間の関係の可能性のなかにあ 発生する ︵ ︶と考えるが、思うに吉本の思想と彼 」﹃情況へ ﹄ のリアルは激突する。 らに痕跡として残された古代心性を手がかりに、弓なりにな 主調音はフーガに似て、地を這うような重心の低い言葉が繰 かにかかっている。彼は 人 「 間が共同体や社会・国家を自分 あら り返される。そのたびに彼の主題は薄皮をはぐように鮮明に 共同体的な絆が希薄になり、帰属の根拠が浮遊化している 射程に入れないと新たな部落解放運動の道筋は見えてこない にいえば︿存在﹀概念の転換、そういうところにたどり着き、 ないという意味ですが ﹂ ﹁個と個の関係のところで、哲学的 6 現状について彼は 年の夏、考えた。 ﹁﹃部落民﹄にとってア ことを肯んじなければ、彼がそこに向かうのは必然だ。 に彼はゆこうとしている。賎視観念の由来を起源の闇に葬る 以外の規範対象 幻想 としてなぜ生みだし、維持してきたの ( ) か﹂ ︵第 論文︶と自問し、 ﹁新たな概念をつくらないといけ 4 なっていく。部落=共同幻想を共通の認識として、その彼方 てあらわれる諸現象を消滅にみちびく強靱な原理を、みずか おお なかった、部落を根底的に拓く、はじめての、そしておそら 生的な観念が 親 「 族体系とその予想を超えた展開である氏族 制度と結びついたところで、いうところの﹃身分の差別﹄が る出来事だと考えている。もしも人間が事実とは違うなにも 15 く最後の可能性が語られていると確信する。賎視や禁忌とし 70 対象化したうえで、もう一度 、 ﹃部 落 民 ﹄ に と っ て の ア イ デ イ デ ン テ ィ テ ィ は 不要 な の か 。 ﹃部落﹄のもつ共同幻想性を くれば主体や部落を名乗る自分とは何かが根底的に問われる と思います﹂ ︵﹃ ﹁部落民﹂とは何か﹄ ︶と自答する。ここまで ︿弥生﹀よりも古層の︿縄文﹀なる祖型もすでにしてある思 類史を初源から巻き戻そうと意欲する。しかし彼の直感は、 のは不可避だ。彼は近代がつくった現代の彼方をめざして人 3 微妙に彼はぶれている。 年の秋、彼は書く。 自 「 らを規定 すべきものは人間のもっと内側にある。それは誰もが本来持 98 ンティティを追求し直すべきではないだろうか﹂ ︵第 論文︶ 。 96 296 三つの格子のそれぞれの色合いを通して彼がそこに見る光 が浮かんでくる。 べ き 問い に ゆ き つ く 。 ︿思考﹀は激しい緊張にさらされるこ 景は、あるがままの現実とはずいぶん違うはずだ。それは言 考︵自己同一性︶のかたどられたものかもしれぬという畏る とになる。私がふたたび彼と本格的にまみえるのはそこにお 葉という本然の力からくる。たとえば柄谷行人の表現論を欠 の水平運動 年の行路の果てに、囚われるよりもっといいも 彼が表現に固有なこの方法を手放すことは決してない。苦難 今では意志論を内在した世界論にであうのは稀なことだが、 いる。卑小を生きるほかにどんな普遍もあるわけがないのだ。 いた﹃探求Ⅰ﹄ ﹃探求Ⅱ﹄と比べるとその違いは歴然として いてだ。 原口論文の骨格 諸論文は私の理解するところでは以下のような基本的骨格 を持っている。 部落の本質論 のが俺たちのなかにできつつある、勝利だ!と呟く一人の革 表現論 ﹄︶ 命者が誕生する。 世界論 書誌的論文概観 原口さんの﹁部落﹂についての論文をじっくり読んでふる いにかけると、彼の表現の論理は三つの格子から造形されて 第 論文﹁部落に関するノート﹂ ︵﹃パラダイスへの道 いることがわかる。ひとつは、 ﹁部落﹂を共同幻想とみなす 部 「 落差別と共同体意識の関連について﹂ ﹁ ( こぺ る﹂ 第 論文 二つ目は、意志論の領域に属する言説であり、彼の表現論の 第 論文﹁思想課題としての部落﹂ ︵﹁夕刊読売﹂ 年 月︶ で巻き取って展開した世界論である。これは彼に固有の独特 ︶ 第 論文﹁ ︿部落・部落民﹀ =共同幻想の理解について①﹂︵ ﹁ ﹃同 第 論文﹁部落差別と共同性をどう考えるか﹂ ︵ ﹁こぺる﹂ NO 7 54 和はこわい考﹄通信﹂ ) 第 論文 ﹁︿部落・部落民﹀=共同幻想の理解について②∼ とが手に取るようにわかるに違いない。本質論と表現論と世 ﹃藤田敬一さんを囲む座談会﹄ ︵福岡水平塾双書①︶ また座談会、討議としてつぎの二書がある。 ③﹂ ︵ ﹁ ﹃同和はこわい考﹄通信﹂近日掲載︶ NO 127 なものとしてある。おおよそ、この三つの論理によって彼の 言説はあざなわれているとみてよい。論文のどの箇所を読ん でもこの三つの音色が響いており、どのひとつを欠落させて も彼の固有な表現は成り立たないようにできている。読者は NO 38 ﹃ ﹁部落民﹂とは何か﹄ ︵ ﹁阿吽社﹂ ︶ 原口さんの論文を三色にぬり絵したらいい。彼の言いたいこ 96 ︶ '90 要をなしている。そして三つ目が、本質論を意志論︵表現論︶ 考えであり、これが﹁部落﹂の本質論として主張されている。 1 2 3 4 5 6 界論を、重ねたりずらしたりしながら考え込んでいる彼の姿 附 297 77 2 1 3 ます。 クソミソ でした 。ふるい 文章ですが 、一箇所 だけは くらい 前の も の で す 。 ひ ど く評 判が悪 か っ た の を 覚 えてい 原口さんの主要論文と討論の書を手で目びさしをつくるよ い ま も 読 ま れ て い な い な と 思 っ て い ま す。 藤 田 敬 一さ ん い ま うに追っていくと、第 論文までと第 論文以降に息づかい 稀な光景だといってよい。彼は言葉による本然の革命をめざ まをじかに経験することになる。それはほとんどありえない 一連の論考を通じ、一人の表現者が革命者に変貌していくさ 確に理解するうえでのαでありωであると思う。読者は彼の れるかどうかは、原口さんが身を削って考えつめた論考を正 かくなっていることに気がつく。このかすかな気配を感じと の転調がみられ、文章の字句からうける硬さがほぐれて柔ら ら れ る側に 属し て い た か ら で す 。ぼ く が 抱え込ん で い た き ぼ く が直 面 し て い た 凄 惨 さ の な か で は﹁ S 君 ﹂ は む し ろ 殺 した 。この 者た ち に は す ご す ご と帰 っ て い た だ き ま し た 。 れを 書いた 融 和 主 義 者か、 と い う や り と り が あ っ た り し ま ちは血 判 状 を書 いて狭 山 闘 争に 命を賭 けている、 お前がこ 侵入してきてぶっそうなものをちらつかせながら 、おれた う と こ ろ の ﹁S 君﹂の よ う な人 たちが 、ど か ど か と家庭に さ ん た ち ︵ 山口 の藤 田 晃 三さ ん も ふ く め て︶は、 超えるべ き 地 平 の は る か 手 前 で う ろ う ろ し、 考 え る と い う こ と の ほ んとうのおそろしさをまんまと 回避 しています。 もちろん このような事態は松井さんたち世代の与り知らぬことです 。 一 九 六〇年 代 末 から 、七 〇年 初 頭に か け て の 時 代 性に規定 ば、 ﹃乾坤﹄8号∼﹃内包表現論序説﹄∼吉本さんとの対談 い ま す 。 遅 く な っ て し ま い ま し た。 お 読 み い た だ く と す れ お約 束し ま し た 本と 、い く つ か のノ ー ト を 送ら せ て も ら 心の 義の挫 折← 現実 の図 式の な か で ぼ く は生き て は き ま せ く ひ き う け ま し た。 竹 田 青 嗣 の 言 う 、 社 会 的 な 義 の 挫 折 ← 自業自得というほかありません 。ぼくはこのツケ を欺瞞な げく 我が身 に回 りまわってきた 不良債権 のようなもので、 さ れ た出 来 事だ か ら で す 。乱 暴 狼 藉 の か ぎ り を つ く し た あ ︵﹁未知論﹂までを吉本さんは読んでいます︶∼﹁原口第二 んでした。 回収 できない 否定性 はどこで 回収できるか、必 ま せ ん。こ こ を 生き て な お向こ う︵ 足元 ︶に あ る の が 内包 人 間 で は な く︿ お れ ﹀ で あ る ﹂ は 、 一 般 化も 共 同 化も で き 第 三 論 文を 読 ん で ﹂ ∼ ﹁内 包 存 在 論 ﹂ ∼ ﹁ そ の 他 ﹂ の 順 で 年 死で考えてきました。いまも真剣に考えています。 ﹁ おれは うと 思 い ま す 。 ﹃乾坤﹄8号の文章︵﹁部落﹂に言及した部分︶は、 25 目を通 してもらえると 、ぼくが 考えてきた 考えの流れ に沿 私信1 松井安彦様 二つの私信から ︵﹃水平塾ノート0号﹄一九九九年一月一七日︶ ごまでやり遂げたいと考えている。 つ さ は そ ん な な ま ぬ る い も の で は あ り ま せ ん で し た。 藤 田 4 す。あつくたかぶるものがある。私もまた、共にそれをさい 3 298 ュータ のテクノロジー と結 合し て地球 の表 面を蹂 躙するの 科学の 興隆 が も う一方 の極 に あ り ま す 。こ の二つ がコンピ 世 界 を 席 巻 す る ヴ ァ ー チ ャ ルな 資 本 が 一 方 に あ り 、 生 命 拠っ て西欧形而上学 の伝統 を転 倒しようと 存在論 の謎に挑 に幻惑 さ れ たヘ ー ゲ ル は明 証に お ぼ れ 、意 識を存 在に重ね クスの 思想 の淵 源はヘ ー ゲ ルに あ り 、 興隆 する近 代の気運 ぎ り 、 思 想 は 詩 の よ う に つ く る こ と し か で き ま せ ん。 マ ル つかは 時代 に追 いつかれる ﹂というヴィトゲンシュタイン 、学 、で あ り、生命 は明白 です 。面 白いことにいずれも金 融 工 、学 、です。 欲望 も生 命も、 合理 と い う神の 権能を 授与され 工 んだ ハイデガー は気 宇 壮 大な気 分に 酔っぱらいナ チにつま という 思想 です 。市 民 主 義 と い う社 会 思 想 に与する 者らは 万 能 な も の と し て地 上 に 君 臨 し ま す 。 そ れ が 迎 え る 二 一 世 づ い た あ げ く自 己 と い う 昏 い 穴 に 落 ち 込 み 、 そ れ を受 け た の言葉 が好 き で す。生 き て い る こ と が 驚異 で超越で あ る か 紀の あ ら わ な姿 です 。市 民 主 義 と い う社 会 思 想 は ﹁分に応 ポ ス ト・モ ダ ン の思 想の 諸家が 中 途 半 端 に放り投 げた未解 あの時代の困難を隠蔽しました。 じて 、ら し く生 きる ﹂こ と を 健 全な 社会 とする以 上、世界 決の主体の解体という問題群があります。 たヘーゲル のずれをフッサール が発見 し、 現象学 の方法に の こ の変 容 を 受 け 入 れ る ほ か あ り ま せ ん 。 市 民 主 義は す で のときとてもきついことがあって、 内包ということを こ の た め で す。 廊 下 を 走 る な 、 大 声 出す な で は 生 き た 心 地 とモ ラ ル の 確立 と い う詭 弁の顔 つ き が ど こ か 似て い る の は 絶 対 化を排 す る と い う物 言いと 、竹 田 青 嗣の唱え るルール と し て機 能 し て い ま す。 藤 田 敬 一さ ん の ﹁ 資 格 ・ 立 場 ﹂ の サイバー資 本 主 義の 消費 の欲望 と、 自己 の空虚は 表裏の関 ら わ れ る こ と と 相 補 的な 関係に あ り ま す 。い い か え れ ば、 商品 が貨幣 としてあらわれることは 、自 己が自我 としてあ 、る 、い 、と思います 。 ています。ヴェイユもレヴィナスもまだゆ 考え は じ め 、い ま、 そ こ を存 在 論と し て 言葉に し よ う と し に世 界の こ の凄 ま じ い変 容を支 える 支 配 的なイ デ オ ロ ギ ー がしません 。彼 らの 正体 はあの オンブズマンの人 たちと同 は 考 え ま す 。 だ れ の た め に書 く の で も な い の で す が、 じ ぶ 係にあると、ぼくはみています。つまり、 ﹁ノン・モラルを この 一年 ず っ と、原 口 論 と内 包 存 在 論の 続きを書い て い ん が 狂 気 に 陥 ら ぬ た め に 、 狂 気 の 沙 汰 を 書 く と い うジ レ ン じ で す。彼 らは 生を 采配 する治 者で あ り 、ぼくは 内包存在 ます 。 ま と ま っ た ら 、 ﹁GUAN一号﹂として出します。い マが あ り ま す。 ぼ く が必 要と す る も の が 、一人で も多くの 根拠に悪から始める﹂ ︵加藤典洋︶という私性に拠る表現の ま 、 ぼ く に は、 吉 本 の ﹃ ハ イ ・ イ メ ー ジ 論 ﹄ も 柄 谷 行 人 の 人に 伝わ れ ば い い な と い う思い は強 く あ り ま す 。 しかし、 を分 有するじぶんを 生き る。こ の違 いは 決定的で す。ぼく ﹃探 究﹄も 、閉 じられた 否定性 のうちにあって、 退屈なも そ れ を欲し い と 感じ る人 は、ぼ く の 考え な ど に 関 係なくそ 附 回路 が共 同 性を 超え る こ と は 、 原 理 的に あ り え な い と ぼ く のとして映 ります 。 ﹁時代に先行しているだけの人間は、い 299 にとって﹁部落﹂が社会問題ではない由縁です。 36 勝 手 な こ と を書 き ま し た。 で も 、 読 ん で も ら え た ら と て も こを生きていて 、すでにつながっているという気もします 。 グ ア ウ トは 幻 想 を 実 体 化さ せ 、 認 め て し ま い、 な い は ず の 化 し て い く 方 法 が も っ と採 ら れ て い い と思 い ま す 。 カ ミ ン も 少 し 感 想 を 書 き た く な り ま し た。 ぼ く も当 事 者 性か ら し ん の 考 え を つ く る な か に 織 り 込 ん で い こ う と思 い ま す 。 で 安 部 さ ん が 書 い て い る こ と へ の ち ゃ ん と し た感 想 は じ ぶ 好きな箇所です。 ることを押さえることは重要だと思います﹂ 。 ここはとくに 境界線 を内 側か ら創っ て い く、 強化し て い く面を 持ってい 一九九九年八月八日 うれしいです 。 私信2 安部文範様 お 送 り い た だ い た﹁ セ ク シ ュ ア リ テ ィ︱ 幻 想 と し て の性 の境 界 線 ﹂ 、すぐに読みました。 とが 、きわどいぎりぎりのところで 、必 要にして 十分に述 に と ど ま ら な く て、 他 の 領 域 の こ と に も お き か え 可 能 な こ 、る 、を 名づけることの 恐ろしさがありません か し そ こ に は在 物 学 的 性 差 も観 念の 恣 意 的な分 節に す ぎ ぬ と 思い ま す 。し 性の 境 界 線に つ い て は、 安部 さんが 言わ れ る よ う に 、生 か強 い表現 は は じ ま ら な い と 思 っ て い ま す。じ ぶ ん の 経験 べ ら れ て い る と 思 い ま す。 と て も ス リ リ ン グ で す 。 ﹁先ず当 か。 ひとびとは 存在 して 在ることどものなかから 性をさす ぼ く は安 部さ ん の 存 在を 賭け た一箇 の主 張に感銘を 受け 事者 が、外 から 名づけられたり 、説 明されたりすることを も の と し て 、男 と女 と い う観念 を選 び取 って分節 し、歴史 からですが、当事者性に徹することはひどく軋みます 。 ﹁無 拒否 し、自 分の 言葉 を手 に入れ て、 初め て自分の 言葉で語 や世 界を織 り な し た か ら で す 。 し か し、 ひとびとがどちら ま し た。 探 し て い た C D が や っ と見 つ か っ た と き う れ し く る と い う こ と か ら し か、 全 て は 始 ま ら な い の は は っ き り し かの 性を生 き、 じぶんがある性 だとして 、そのことをそう 記名 ﹂で、 互い が当事者 として ﹁差 別や 抑圧﹂を ﹁無化﹂ ています ﹂ ﹁当事者性というのは現に直接差別を受けている だと 名づ け る当 の そ の﹁ 私﹂と は い っ た い な に を 指してい な る あ の 感 じ で す︵ 最近 、ア ン ダ ー ワ ー ル ド とケ ミ カ ル ・ とか 、社 会 的マ イ ノ リ テ ィで あ る と い う こ と で は な い と 思 る の か は 自 明で は あ り ま せ ん 。 この 不 思 議さ︵奇 妙さ︶は す る に は ど う し た ら い い の か 。 そ の こ と を内 包 存 在 論 とし い ま す ﹂﹁﹃両方﹄ の当事者が 無 記 名で、つ ま り ど ち ら で も 、の 、 性 の 問 題 を 超 え て あ る と い う 気 が し ま す 。 も ち ろ ん、 こ ブラザーズのデジタルロックにはまっています︶ 。セクシュ な く た だ ﹃ 当 事 者﹄ と し て差別 や抑 圧へ の否定や 反論をす ﹁私 ﹂は、 ジ ェ ン ダ ーに も、生 物 学 にも 還元で き ま せ ん 。 て考えています。 す め る こ と で、 ス ケ ー プ ゴ ー ト に な り や す い 特 定 の 個 人 や では全体なにか。 アリティに つ い て書 か れ て い る の に 、それがけっしてそこ 集団を浮き上がらせずに︵そもそも実体はないのだし︶ 、無 300 迷な思い込みが埋め込まれていると思います 。 ﹁私がほかな ク リ ッ ド の 平 行 線 公 理よ り根深 い、 人間 という生 き物の頑 奮し ま し た 。 ﹁私は私である﹂ということのなかには、ユー で転 回する ! まったく 新しい 思想 が可 能ではないか。興 、と 、の 、る 、す 、れ 、ば 、、そ 、も 、の 、は 、還 、相 、と 、し 、て 、、あ 、も 、の 、に 、重 、な 、る 、と 、 相 、う 、こ 、と 、に 、気 、が 、つ 、き 、ま 、し 、た 、。ギ リ シ ャ発 祥の存 在 論はここ い 、く 、る 、は 、、あ 、も 、の 、を 、往 、 から 派生し た の だ﹂ は示 唆 的 で す。 ぼ づ け ま し た 。レ ヴ ィ ナ ス の﹁私 た ち の文 明 全 体 が 存在了解 、る 、に ま つ わ る謎を片 へと 棚上げ し、 そう 解す る こ と で、 在 た ち は、こ の も ど か し さ を神︵ や仏 ︶を 自己意識 の至上物 か ら 説 明 で き た の で し ょ う が 、 西 欧 近 代 の ブ ラ ン ド思 想 家 ます 。こ の あ た り の こ と は昔な ら ば 、神 や仏と の つ な が り 、る 、のさわりかたにもおなじものがあり す︶ の﹃嘔 吐﹄ の在 穴に リアル に さ わ っ た ん だ と 思 い ま す。 サルトル ︵嫌いで ーなんか、この底のみえない暗い︵か明るいかは別にして︶ いう 言い方 が あ り ま す。だ れ で も い い の で す が 、 ハイデガ 事化してしかつかめません。幸い、日本語には事と言葉 と が あ る こ と を 現 象 学 は発 見 し ま し た ヘ ( ーゲルの思想には時 代の 制 約 が あ っ て 考 え た こ と が と て も 牧 歌 的 で す ︶ 。存在は の も の に等 し い と い う と き 、 主 語 と 述 語 の あ い だ に は ズ レ きから 流れ く だ っ て い る と ぼ く は思い ま す 。あ る も の が そ 全て を起源 の闇 に放 り込むこの 大き な謎は 在るのざわめ です 。サ ル ト ル のフ ロ ー ベ ル 論 と ま っ た く逆の こ と が い え フ ー コ ー の 権力 に つ い て の考え は と て も つ か み に く い も の ろ う か? 哲学﹄渡辺訳︶ 。ギョッとするわけです。何をいうとるんだ 関係 ではないのかと 問うてみる 必要がある ﹂︵﹃政治の分析 の自 己の意 識︺ と い う形 で自己 と保 つ関 係は、実 は権力の が国 家の変 革の 条件 な の か結果 な の か と い う 古く か ら の 議 的なものではなかろうかと考えました 。 ﹁人間の精神的変革 抑圧 ・排除 と捉 え ま す が 、フ ー コ ー は権 力は生 産 的で能動 若い 頃影響 を受 けました 。通常 、ぼくたちは権力 を禁止・ コー は生を 舞ったと 思います。 その 気分 、わかるなあと、 切断 したのだと 思います 。世界 が反 転したその瞬 間、フー 会 思 想に嫌 気が さ し て、 絶望の 果て に、 人間と い う概念を ル ∼ マ ル ク ス︵ ∼ 吉 本 隆 明︶ に 象 徴 さ れ る自 己 保 存 系 の 社 セ ク シ ュ ア リ テ ィに ふ か く拘 泥 し た フ ー コ ー は 、 ヘ ー ゲ れどもなかったものというおもいがふいにやってきます。 安 部 さ ん も 考 え て い る の で は な い で し ょ う か。 あ り え た け く分か っ て い ま す。で も、 果た し て そ う な の だ ろ う か と 、 れ て し ま い ま し た。 リ ク ツ と し て は 、 こ の 世 界 が 、 ぼ く の ているこの 世界 は、なぜか 、そのようなものとしてつくら す べ て が、 埋 め 込 ま れ て い る と 思 い ま す。 ぼ く た ち が生 き 何年 も の あ い だ頭が ひ ん 曲が る気持ち で し た 。 論についても、そもそも、個人が︿主観性﹀ ︹自己について 好悪に 関係 なく 、積み 上げられてきたものであることはよ らぬ 私﹂で あ る か ら 、こ の公理 の上 に、 私は部 落 民である ないかと考えていると、死の直前 、フーコーは語りました。 ことのは とか 、 な い と か が 事 後 的 に 分 節 化 さ れ ま す 。 ﹁私は﹂と﹁私 ﹁サルトルがやったボードレールとかフローベルの分析で、 附 こと である ﹂とのあいだには、思考が思いつく、あらゆるもの 、 301 のか ? ﹂ 。彼が生存の美学と名づけるものです︵安部さんの この 家が一 個の 美 術 品で あ っ て 、私 の人 生がそうではない に す る こ と が で き な い ん だ ろ う か? なぜこのランプとか 驚い た 。 ﹁なぜ各人めいめいが自己の人生を一個の芸術作品 た の で は な い で し ょ う か 。 気 づ い た こ と にフ ー コ ー自 身 が だからこそ 禁止 ・抑 圧・ 排除という 権力 の概念を 転倒でき 己を切断し、組み換えつつあったのではないかと思います。 表現 は湧き で る と考 えたとき、 フーコー は、近代由来の自 のモ ラ ル と し て の性 ﹂で 、倫 理 的 活 動の 核に あ る も の か ら 四年 の こ と で す か ら 、 も う だ い ぶ ん 前 の こ と で す 。 ﹁ ひとつ 浜名訳 ︶ 。 た い へ ん な こ と が い わ れ て い ま す 。 それは 一 九 八 べきかもしれないんです ﹂︵﹁ひとつのモラルとしての 性﹂ 倫理的活動 の核 にあるような創造的活動 に結びつけてみる その 人が自 分 自 身に 対して 持つ 関係 のあり 方を、 その人の 身に対 して 持つ 関係のあり 方のせいにするのではなくて、 い る ん で す 。つ ま り 、 誰か の創 造 的 活 動を そ の 人 が自分自 は こ れ と ま さ に 反 対 の こ と は言 え な い の か ど う か と考 え て が真 正 性の 形で あ れ 、 非 真 正 性 の形で あ れ 、と も か く 。私 のせいにしているのをみるのはおもしろい 、自己と の関係 サ ル ト ルが 創 作 の 仕 事 を 自 己 ︱ 作 者 自 身と の あ る 種 の 関 係 こ と が あ り ま せ ん。 し か し、 言 葉 は 人 間 の 営 み の 前 史 を く い ま す。そ の あ た り の こ と を 言 葉と し て 人間は ま だ言った 、実 、的 、に 、無 、化 、することができると思 落を 思考の 力に よ っ て現 の と き ぼ く た ち は は じ め て窮 屈 な 性 や 共 同 幻 想 と し て の 部 そ れ は自利 が利 他と な る 心躍る 新し い社 会の創設 です。そ ら な い人間 の関 係の 可 能 性が見 え て く る よ う に 思 えます。 こ の 試 み の な か に非 マ ル ク ス 的 な 、 国 家 ︵ 共 同 幻 想︶ を 創 社会 という 人間 が つ く っ た制度 は超 え ら れ る と 思 います。 の自然哲学 と価値形態論 の拡張 が貫 通すれば、国 家と市民 かたちを内 包 社 会と ぼ く は呼び ま す 。進 めている マルクス して 、内包存在 を分 有す る自己 と内 包 自 然の連結 が縁取る 望できます 。こ の世 の自 利と他 利が 相克 する外延社会に対 よ っ て根源 か ら あ ら た め ら れ 熱 で は ぜ る 人間の く ら し が 遠 代 償 態で す か ら 、社 会と い う 延 長さ れ た 自然は内 包 自 然 に こ と で未知 の生 の様 式が姿 を現 し て き ま す 。社会 は自然の へと拡 張し 、ひ る が え っ て 、自 己 同 一 性と い う 公 理を撃つ 念に よ る対 象の 分節化 の歴 史を 、根源 の性 を分有 する自己 、相 、の 、他 、 はレ ヴ ィ ナ スの ﹁存在 す る と は 別の仕 方で ﹂は、 還 、の こ と だ と ぼ く は 思 うのです 。人間 が積 み上げてきた観 者 ーコー の い う倫 理 的 活 動の 核に あ る 創 造 的 な活動、 あるい フ ー コ ーの 断 念 は ひ ら か れ る に 違 い な い と 思 い ま し た。 フ 欲し い と い う、 た だ そ れ だ け の 理由 で き っ と 手に す る と 思 美術論と 通 じます ︶ 。しかしその大胆な試みは突然の死で潰 ぼ く はフ ー コ ーが や ろ う と し た こ と は、 フ ー コ ー と は 違 い ま す。ぼ く は そ れ は意 外に簡 単な こ と で は な い か と 思っ ぐり抜け、それを終わらせ、もっとシンプルで深いものを 、 った 方法で 可能 ではないかと考 えました 。つまり 、人間や ています。 えました。 権力の概念を切断するのではなく、拡張するという方法で 、 302 くの 深い信 念で す。 安部さんの メッセージ をたしかにおれ な く 、 そ こ を生 き る た め に あ る と思 う か ら で す 。 こ れ は ぼ か い が と て も好 き で す 。 じ ぶ ん も言 葉 も 俯 瞰 す る も の で は じ て い ま す 。ぼ く は 安 部さ ん の 言葉に 対す る感 受 性や息づ てそれなしではやっていけないことを 書いていきたいと念 ました 。すごく 励まされました 。これからもじぶんにとっ 二〇〇一︱二〇〇x年⋮ハイパーリアルな現実の浸透と間接 潟女子監禁事件。リストラ攻勢。 二〇〇〇年⋮西鉄バスジャック事件、てるくはのる事件、新 一九九九年⋮アンダー・ワールド、ケミカルのデジタルロック。 一九九八年⋮電脳化による社会の産業革命の本格的開始。 一九九七年⋮神戸の少年の事件。 一九九六年⋮オアシスの﹃モーニング・グローリィ﹄ 。 一九九五年⋮オウム。 は受 け取っ た と い う こ と を伝え た く て、 舌足ら ず のメモを 病の蔓延。点と外延の思考の末路。 安部 さんの 論考 を読 みながらさまざまなおもいが去 来し 書き は じ め た と こ ろ で、 時間切 れ と な り ま し た 。 明日、北 一九九九年十月八日 こずえさんに潜んでいる得体の知れないものは、この数年の 岡崎京子の﹃リバーズ・エッジ﹄に登場する山田君や吉川 口さ ん宅で のモ ツ鍋 会で お会い で き る の が楽し み で す 。 ︵﹃水平塾ノート8号﹄一九九九年一〇月一〇日︶ 電脳革命でさらに剥き出しになった気がします。 ﹃ リバーズ ・エッジ﹄で描かれた尖端の表現意識が社会全体に敷衍され じて、らしく生きる﹂ことを旨とする健全な市民社会は、深 たということでしょうか。そんな気がしています。 ﹁分に応 く深く、はるかに大規模なオウムを陰伏しているとぼくは感 ケミカルと比べながら﹃リバーズ・エッジ﹄を読む 二〇〇〇年三月一四日火曜日午前0時発信のメールを夜に じます。 生成変化する社会の座の中心に電脳をおく産業革命のあお 受信 し 、 家 捜 し す る も 、 ﹃リバーズ・エッジ﹄見つからず。 りをうけて、辺見庸は﹃私たちはどのような時代に生きてい 一五日昼休みに紀伊国屋で買って、5年ぶりに再読しました。 絵付きの物語の感想はなんといってよいのやら。 るのか﹄で状況とそれを傍観する表現者のむなしい共犯関係 彼らの短い永遠。彼らが生きた小さなニーチェ。 に激しい嫌悪感を示し、柄谷行人は﹃倫理 ﹄で﹁世界市民 一九九一年⋮湾岸戦争、ソ連の消滅。 経済とバブル文芸が世間を席巻する。 合のアソシエーション﹂に求め、教科書が大好きな西尾幹二 江健三郎化し、コミュニズムの可能性を﹁消費−生産協同組 的に考えることこそが﹃パブリック﹄である﹂とやにわに大 附 一九八〇︱一九九〇年⋮ここはどこ、わたしはだれ。バブル 一九九四年⋮﹃リバーズ・エッジ﹄ 。 303 21 れることへのいらだちはよくわかるのですが、そんな世界の グローバルな資本のどん欲な移動に為すすべもなく翻弄さ さえぎられ思考が停止するこの感覚は、電脳による産業革命 しぎし音を立てて骨が軋みます。立ちこめる白い闇に視界が のではないでしょうか。時代が負荷する途方もない圧力にぎ したことと相関しているのだと思います。資本の自己運動を 変身に意志の楔をうちこめず、あせってつんのめり、たたら がもたらしているには違いないのですが、あまりに変化が激 は左翼を嫌悪するあまり﹃国民の歴史﹄でナチのホロコース を踏んでいる姿はよく似ています。あまりにめまぐるしい世 しすぎ、渦に巻き込まれていったい何が起こっているのか定 電脳が刺激し、ハイパーリアルな現実︵強いもの勝ち︶が日 の中の移り変わりの速さに幻惑され、吉川こずえが﹁ザマア 点観測ができません。わたしゃ例外というひとはいないでし トより毛沢東のほうがもっと悪かったとヘンに国威を発揚し ミロ﹂といい、若草ハルナが﹁もしかしてもうあたしは/す ょう。ぼくなんかじりじりしながら久しくオタク化してます。 増しに色濃くなっています。だれもかれもが面食らっている でに死んでて/でもそれを知らずに/生きてんのかなぁと思 だんだんと話は大袈裟になるのですが、この混乱の元凶は ます。あらま。 った﹂そのがらんどうの底板を踏み抜くことができず、こら どこにあると思いますか。途中をすっ飛ばしていうと、わた しはわたしによって領有されているという抜きがたい思考の え性をなくしてバンザイしているとぼくには映ります。 年少の若者に特有の生と性の不全感を引き算しても、 ﹃リ 果たしてわたしはじぶんの所有するものなのか。ぼくはそ 慣性にその原因があるとぼくは考えています。これ、近代の 情の変化について触れてみます。ぼくはかつてのオウムはい うではないと考えました。主観的な意識の襞に先立つ内包存 発明ですね。この観念は賞味期限をすぎてそうとう傷んでい ま市民主義というオウムに取って代わられたと、実感として 在が分有されてはじめてわたしが存在するのであって、内包 バーズ・エッジ﹄がもつ強烈なインパクトはいまもなお時代 感じています。吉田秋生の﹃河のように長くゆるやかに﹄ ︵題 存在と分有者の一意的な結びつきを括弧に入れて、自己をみ 性として色あせていません。むしろますます時代そのものに 名は不確か︶に較べると﹃リバーズ・エッジ﹄のほうが追い ている自己から世界や他者を語るとき、わたしという意識に ます。 つめられていませんか 。 ︵貴志祐介の﹃青の炎﹄は、山川健 ニヒリズムや孤独や空虚が降りつむのだとぼくは思います。 なってきたという気がするぐらいです。すこしだけ時代の表 一のデビュー作﹃瓶の中のメッセージ﹄に似た緊張感があっ 意識の範型の対極に政治︵制度︶があるわけです。 ︵ ちなみ ぼくたちはその産物を内面の文芸とみなしてきました。この この余裕のなさはおそらく一九九五年から二〇〇〇年の5 に柄谷の他者はリクツが要請するたんなる記号です ︶ 。ふる て、最後の数頁がわりとよかったですね。 ︶ 年のあいだによりいっそう科学が工学化され、社会が実務化 304 い。おそい。千変万化する地勢の観測を尺貫法でやってるよ 存在するといえるのです。ぼくの考えではこの限界がそのま 、こ 、に生きることの原理が からこそ意識の明証がたどりえぬこ まに思考の未知なのです。自己同一性が軛にかけた思考の限 うなものです。 だからあなたがパティオで言われたように、いつまでも言 界は、そこに限界あるというまさにそのことによって拡張し ﹃リバーズ・エッジ﹄に登場するあの顔この顔をした生の 語の表現が否定性にとどまりたのしくならないのです。これ の文芸もひとしく点と外延の思考に閉じられています。歴史 希薄さを愛好する間接病に傾いた者たちは、そしてオウムの た思考が存在する可能性を示唆します。 の近代が発見した自己意識の無限性というニヒリズムの彼方 バカ者どもも、ドラゴンボールの元気玉が欲しくてたまらな はものすごい錯覚です。国家−市民社会という制度も、内面 まで往くことにぼくたちの主戦場があります。でもひりひり かったのだと思います。生の奇妙さという豊饒な渾沌にどう 感応するかはまったく恣意的なことですが、ぼくの内包の感 しながら生きている若草ハルナはいい子だなあ。 自己同一性は、内包存在の表現点にすぎないものを、世界 覚ではそうなります。どうやったら手にいるのか。問題はそ ﹁もうダメ/死んじゃうよこんなの/あん/あ/イッちゃ の始源と考え実有の根拠とします。しかしこの世界の感じ方 う﹂の援交のルミがいて、彼女をカッターナイフで切りつけ こです。 ちょうど幻想のうち皆の合意が成立する部分を現実ってこと る過食症のお姉ちゃんがいて、 ﹁この死体をみると勇気が出 は思考の慣性や歴史の制約としてそうであるにすぎません。 にして、そのなかでぼくらが生活しているのとおなじように。 /ステキぶって/楽しぶってるけど/ざけんじゃねよって﹂ そういう意味では自己同一性はきわめて過渡的な概念ではな オ ウ ム が 為 し た こ と が ど れ ほ ど お ぞ ま し く愚 劣 で あ っ て いうモデルのこずえがいて、したいばっかのアホな観音崎君 るんだ﹂という山田君がいて 、 ﹁でも、やっぱ実感がわかな も、彼らが此岸から彼岸を欲望したということが否定され、 がいて 、 ﹁あなたなんか死んでしまえばいい﹂と嫉妬にキレ いでしょうか。自己同一性に意識の明証の根拠をおくかぎり、 そこに伏在する超越への志向が権力によって抹殺される謂わ て焼け死んだ田島カンナがいて 、 ﹁ぼくは生きてる若草さん い﹂というハルナが、ミートボールのようになったこねこの れはありません。端的に言って、だれにとってであれ、生の のことが好きだよ﹂という山田君がいて、それを聞いて﹁た 科学という擬装されたニヒリズムもまた延命します 。 ﹁臓器 奇妙さは自身に対して超越します。どんな例外もありません。 だ胸が苦しい﹂ハルナがいて、 ・・・・﹁へんだよ/へんだな 死体をみて吐くように泣いて 、 ﹁世の中みんなキレイぶって 人間の意識がどれほど明晰になり、その記述の仕方がどれほ あ/何やってるんだろう?﹂ってみんなが感じてて、それら 附 提供は命のリレー﹂だなんて、ざけんじゃねえよ。 ど精緻を極めても、ここが人間の思考の限界であり、それだ 305 何か嫌なものが体の中を電流のように駆け抜け、しだいに頭 のか。私たちが暗黙に人間というものに抱いているイメージ はどれもこれもありえたかもしれないぼくの生のカケラで、 が根こそぎに損なわれてしまうことへの戦慄と戸惑い。それ が底冷えしてくる。この事件のわかりにくさはどこからくる バッハの音楽を熱愛するルーマニアの狼︵老︶狂の思想家 が繰り返し湧きあがってくる、わからない?何故?の由来だ ・・・・。うん。 シ オ ラ ン が 言い ま す 。 ﹁もし音楽でさえ私たちの救済に無力 と思う。 ほんとうは、どんな考えを持ってこようとこの事件には歯 であるとするなら、私たちの眼の中には、一本の短剣がぎら が立たないし、またこの種の犯罪が起こりうること、そして ぎらと輝くことになるだろう。もはや、犯罪の魅力以外には、 私たちを支えるものは一切なくなるにちがいない﹂ ︵﹃歴史と この無力感が事件の衝撃と動揺の芯にある。もしかするとこ それを阻止しえないことを、私たちはすでに直感している。 の事件に世界の壊れを予感しているのかも知れない。喉元が ユートピア﹄出口裕口訳︶ 。もはや、犯罪の魅力以外には、 ・ でも、ぼくが戦慄するのは、犯罪の魅力や空虚ではなく、 凍りつくこの事件の昏い衝撃を眼を背けずに直視し、狂気の ・・、か。ぼくにはなじみの風景です。 狩るごとにふかくなる性があるということで、断ち切っても、 核心に迫ることができないなら、考えることや表現の一切が 私はこの暗澹とした事件を根底から超える思想はありうる はなれても、つながってしまう根源の性に対してです。この ねることは自己を滅することにほかならないから 、 ﹁存在す と思う 。 ﹁禁止と侵犯﹂がきりなく円環するのが私たちの歴 パアだ。 ることの彼方﹂であるこの信じがたい驚異︵脅威︶から自己 史や現実の実相だが、ここには思いもよらぬ盲点がある。 ﹁汝 出来事を、ぼくは﹁存在するとは別の仕方﹂である内包存在 を保存する戒律として、自己同一性という意識のあり方が歴 殺すなかれ﹂ではなく、人を殺すということを思いもつかな と呼んでいます。根源の性の可能なすべてにそのまま身を委 史のあるときにえらばれたのではないでしょうか。﹃ リバー 生まれつきの異常は脳の回路の異常や多重人格説に結びつけ 常から排除することで、事件を始末しようとするやり方だ。 て、私たちの日常とは関係のないことだと考えて、狂気を正 一つはこれは生まれつきのサイコパスによる猟奇事件であっ おそらくこの事件の解釈は大きく二つに分かれると思う。 ない夢には違いないが、私はそれが可能だと思う。 いような存在のあり方を観念の力で創ればいいのだ。途方も 二〇〇〇年三月一七日 ズ・エッジ﹄論を楽しみにしています。 底冷えする事件のただ中で⋮ れてからひと月が過ぎた。 ﹁ボクは殺しが愉快でたまらない﹂ 。 神戸の小学生殺人事件の容疑者として 歳の少年が逮捕さ 14 306 た若者に特有の社会病理と見なす考え方がそれだ。現代社会 もう一つある。モノの豊かな社会で生のリアルさを喪失し の戦慄と戸惑いはそこで起こる。そのとき彼はすでにこの世 世界がグニャリと歪みこの世からはみだしてしまう。私たち 世とずれ始めた。しかしあるところまでは追体験可能な彼の あるとき何かをきっかけとして少年の世界が少しずつこの うべきか。 の抱える空虚さや生の希薄さの原因を、教育の荒廃や、家族 にはいない。彼が引き起こした事件が常軌を逸しているだけ られて説明されるに違いない。 の崩壊や、現実と仮想現実の相克のうちに求め、狂気の病巣 も、善悪の彼岸に超え出た彼には届かない。なぜなら彼はそ 殺すなかれという原初の掟も、脳や社会の病理への還元論 ことではない。彼は狂人ですらない何者かなのだ。 ではない。彼が尋常ではないのだ。それは彼が狂人だという を抉ろうとする方法だ。 果たしてこの事件は現代の社会の歪みが生みだしたのだろ うか。あるいは人類創生の起源の闇が先祖帰りして再現され たものなのだろうか。サイコな少年の呪的な儀式と呪文はそ のために必要だったのだろうか。 を問い、揺るがす深度を持っている。 年の突きつけたものは人間や社会の成り立ちそのものの根本 の急激な社会の変貌とのからみのみで解けるはずがない。少 彼は刑執行の直前に告白する 。 ﹁うまく説明できればいいん ピーウィーという。百名余を惨殺した性的猟奇事件の犯人だ。 ここにもう一人、白日の深い闇に堕ちた男がいる。死刑囚 こをすでに生きたのだから。彼は人間の埒外にあるが、しか ﹁酒鬼薔薇聖斗﹂を名乗る少年は書いている。 ﹁殺しをして 、れ 、の 、や 、っ 、て 、き 、た 、こ 、と 、を 、 だが、言葉じゃなにも伝わらない。お 、地 、に 、や 、っ 、て 、み 、な 、い 、か 、ぎ 、り 、、理解することなんかできっこな 実 どの切り口にも幾ばくかの真実があり、しかしこれらの誘 いる時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事がで いのだ。たとえばおれがこう言って、あんたらにその意味が し、まぎれもなく人間である。この事態をどう考えたらいい きる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるの 、れ 、も 、お 、れ 、に 、は 、さ 、わ 、れ 、な 、い 、﹂ 分かるだろうか?⋮、だ 。 そして 因をどれだけ集めても決して狂気の核心に迫ることができな である ﹂ 。私たちの神経を最も逆なでしたのがこの箇所だ。 最 後 の 瞬 間 、 改 悛 のかけらもなく 言 う 。 ﹁おれの名前は永遠 のか。私たちはどうしようもないジレンマに陥る。 彼の言葉からはまるで内面というものが感じ取れない。とう に生き続けるだろう。連中が善と悪について語りつづけるか いという気がしてならない。この事件はたかだかここ数十年 とうここまで来たのか。社会へ復讐を告げる言葉がその社会 身震いするような言葉だ。同じとは言わないが、誰もサイ ぎり﹂ 。 言葉はドストエフスキーの﹃罪と罰﹄よりはるかにリアルな コな少年にさわれない。神戸の少年殺しは一切の事後的解釈 附 と同じ顔つきをしている。つるんとした仮面のような呪詛の 衝迫力がある。冷たい狂気がモノのように転がっているとい 307 を拒んでいる。この事件は 、 ﹁殺すなかれ﹂という規範の絶 ものより深い豊穣な生の源泉がある。 われが自己であり他者なのだ。そこにこの世界のどんな深い もしも私たちが他者を内包する存在を風のように生きるこ 対の根拠を、個人も社会もそれ自体の内部に持っていないと いうことを裏側からめくってみせた、そういう生々しい出来 とする存在論の欠陥に事件の発端があるのではないかと私は 私たちの歴史が培ってきた、自分という存在を自明のこと があると私は思う。足下にある彼方へ!。 私たちは底冷え て生を肯定する、空の鳥や野の花が色めき匂い立つ元気の素 だ。そしてそこにほんとうの意味で現代の病理や空虚を超え とができるなら、そこがこの痛ましい事件から最も遠い場所 思っている。彼は自分という存在に強い執着があった。それ する事件のただ中でこう夢を語ることもできる。これが希望 事なのだ。 は声明文のなかに﹁自分﹂という意味で﹁存在﹂という語を ︵﹃夕刊読売﹄一九九七年七月二八日︶ でなくてなんだろうか。 ﹃GO﹄を読む 六回使っていることからわかる。しかし﹁透明な存在﹂を生 、在 、を彼が疑うことはついになかった。彼は きる﹁ボク﹂の存 存在を自己が所有できると考えた。 そうではない。存在するという信じがたい驚異は自分が所 金城一紀の﹃GO﹄は読んで元気のでる小説だ。健全で、 有するとか社会や現実に還元できるようなこととは全く違う 出来事なのだ。彼の自分という存在へのこだわりには徹底し まっとうで、パワフル。この作品に多くの若い人たちが共感 ソダス﹄のどこにも希望はなく、村上春樹の﹃神の子どもた て他者が不在である。他者のまなざしが欠落した﹁ボク﹂に このような存在論の錯誤は、私たちが人類史の起源から抱 ちはみな踊る﹄は誰も踊らないが 、 ﹃GO﹄の言葉はうなり し、支持していることが希望だ。村上龍の﹃希望の国のエク え込んできたものであり、この錯誤を極限化した場所に、少 をあげてロックンロールしている。時代を生き抜く勇気がこ 人は﹁野菜﹂としてあらわれた。 年の狂気が芽を吹いたのではないか。その意味では、少年の こにある。 と、一目見たときから彼に恋をしてしまった女子高生桜井椿 ﹃GO﹄はコリアン・ジャパニーズの高校生である﹁僕﹂ 心の風景は、私たちの社会の現実と地続きなのであり、この 事件がひとごとではないのは、この一点でしかない。 人であることのはるかな深みで熱く息づくものがある。 ︿わ ﹁僕﹂は﹁鉄筋コンクリート﹂のあだ名を持つ元プロボク が織りなす痛快でピュアな恋愛小説だ。 のことではないのか。存在の分かちがたさを分かち合うこと サーの﹁オヤジ﹂をはじめ、まるで劇画から抜け出してきた たし﹀とは自分に先立って他者へと結びつけられている存在 に人間であることの根源的な由来があり、その心映えのあら 308 持ったことはありません﹂と加勢をした親友の正一は、ふと と罵倒され制裁を受けた﹁僕﹂に﹁僕たちは国なんてものを している。日本の高校を受験すると宣言して教師から売国奴 キャラクターのような、じつに魅力的な人々に囲まれて暮ら 自分の固有名なのだ。 らぬ自分であることでさえ窮屈なのに。 ﹁僕﹂が欲しいのは 名付けられることのいったいどこに﹁俺﹂があるのだ、他な した立ち姿のなかに世界の可能性が秘められている。名乗り することで、世界の最も深い場所に一人で立つ。この昂然と その葬式でのこと。悪友元秀に復讐の狩りをやろうと誘わ は軽さを時代から受け取り、代わりに自己をめぐる底なしの 不遇感から、誰もが抱く生の不全感へと移動している。 ﹁僕﹂ すでに生きがたさの重心は、その出自によって強いられる した 悲劇 で 日 本 人の 高校生 にナ イ フ で刺さ れ て 死ん で し ま れ、きっぱり断る。おまえ日本人に魂を売ってしまったのか 問いを引きうけることになるのだ。誰もこの時代性から逃れ う。 と か ら ま れ て 啖 呵 を 切 る そ の 台詞 が は じ け る 。 ﹁俺が朝鮮人 ることはできない。 ウオンス の魂なんてものを持ってたとしたら、そんなもんいくらでも 同時にここにはルサンチマンを抱え込み苦闘してきた者が 時代から超えられていく凄まじい断層がある。不遇を強いら 売ってやる。おまえら、買うか?﹂ その﹁僕﹂が帝国ホテルの一室で桜井に韓国籍であること ﹁北﹂に戻った弟の死をきっかけに十八年ぶりに酒を飲む れた生の軌跡は過ぎゆく時代の中にうち捨てられるだけなの 鼓動が早くなり、頭の中が白くなる。君は間違っていると ﹁オヤジ﹂となりゆきで決闘するはめになり、したたかに打 をうち明ける。椿はなぜだかわからないが怯えてしまう。怖 ﹁僕﹂は告げて去る。しかしここで物語は終わらない。クリ ちのめされた﹁僕﹂は、あんたたちの貧乏くせえ時代は終わ か。時代はこの問いの残酷さと背中合わせに人びとを広い場 スマスイブに再会した﹁僕﹂は﹁俺は何者だ?﹂と問い、 ﹁在 りなんだよ、と毒づく。そうかもしれない、この国もだんだ ろしいほどの沈黙⋮。日本人は縄文人と渡来人の混血だし、 日韓国人﹂と言うのを聞いて吼えるように言葉を叩きつける。 ん変わり始めている、と呟く﹁オヤジ﹂に 、 ﹁僕﹂は﹁ほん 所へと連れ出すのだ。 ﹁おまえらが俺のことを︽在日︾って呼びたきゃそう呼べ とに変わるかな?﹂と逆に問い返す。自信満々の笑みをうか 君と僕のどこに違いがあるの? よ/でも、俺は認めねえぞ/言っとくけどな、俺は︽在日︾ べ、はっきり頷く﹁オヤジ﹂を見て、 ﹁僕﹂は考える。 そんなもの必要ない。思うことが大事なのだ。 こだわり、のたうち、天を仰いでつかみ取った生きること きっと﹂ ﹁根拠? でも、韓国人でも、朝鮮人でも、モンゴロイドでもねえんだ。 俺を狭いところに押し込めるのはやめてくれ。俺は俺なんだ。 いや、俺は俺であることも嫌なんだ﹂ 主人公はきっぱりと名乗ることも名付けられることも拒否 附 309 の真髄が若い﹁僕﹂に手渡されるこの一幕に言葉はいらない。 総連にも民団にも背を向け、殆ど全ての友人を失くし孤立無 援で闘いとった生が、偽りの名を断固として拒む﹁僕﹂の中 、い 、ものとなってじかに流れ込む。時代が動く に、ずっしり軽 ここからまたあらたに﹁僕﹂の困難な道行きが始まるだろ とはこういうことなのだ。 う。 ﹁俺が俺であることも嫌﹂だという﹁僕﹂は単独で立つ 世界の深みからもう一歩踏み出し、自分の在り方を根本から 組み替えるほかない。もしそのことが可能なら世界は一切の 計らいを超えておのずと革まることになる。そこが世界の最 も深いものより深い、豊饒な生の息づく場所に違いない。 ﹁僕﹂のほんとうの名は、自分が自分であるということの 中にあるのではなく、ふたりの眼差しのあいだにあるものに よってもたらされるのだ。誰もがいつもすでにその上に立っ ているこのつながり。それが存在することは信じがたい驚異 であり、尽きることのない生の源泉である。 自己に先立つこの根源的な出来事を分有するひと雫が﹁僕﹂ の固有名にほかならない。そこを生きるとき世界は不意に色 めき匂い立つ。空虚や孤独やニヒリズムが棲まう余地はどこ あとがき 年 以 上が過 ぎた 。だ れ に よ っ て も書か れ た こ と の ︶ は わ た し が書 い た も の だ が 、 このプリミティブで深い世界を手にするまで﹁僕﹂はいく 生 存 競 争よ り も は る か に強い エ ネ ル ギ ーを放 出する。明 ら リアリズム が存 在す る。 弱者に 固有 の自己嫌悪は 、通常の 害 悪 し か 見 な い ニ ー チ ェや D ・ H ・ ロ ー レ ン ス の よ う な 人 適 応を 見出させる 。弱 者の影響力 に腐 敗や退 廃をもたらす つもの深い淵を渡ることになるだろう。だから、一瞬も止ま ︵ ﹁夕刊読売﹂二〇〇〇年一〇月二七日︶ かに 、弱者 の中 に生 じる 激し さ は、 彼ら に、い わ ば特別の を選ば れ た り﹄ という 聖パ ウ ロ の尊大 な言 葉には、さ め た ﹁﹃神は、力あるものを辱めるために、この世の弱きもの 被侵に貫かれた当事者性の思考に触激された。 フ ァ ーは 書き 遺した 。湿 気や 自 己 憐 憫 の か け ら も な い 不 可 地 平 で そ こ を生 き 抜 い た も の だ け が 感 知 し う る 世 界 を ホ ッ 鋭 い洞 察。制 度 化 さ れ た知と い う 権力 と は い っ さ い 無縁 の 見を す る 。 た と え ば 弱者 と強者 に つ い て の俗耳と は異なる で 思 索 し た 異 端 の 哲 学 者は 生 に つ い て い く つ か大 い な る発 象で の こ っ た 。 生涯 を季 節 労 働 者や 港 湾 労 働 者 として路上 きのように 読ん だ﹃エ リ ッ ク・ ホッファー 自伝﹄が強 い印 ひ し ひ し と日 を傾 け﹁ 内 包 世 界 論 1﹂ を書く最 中に息抜 てくるものとおもう 。 ﹃ G u a n ﹄を 持 続 す る な か で い ま よ り 明 瞭 な 輪 郭 を も っ 自 己 表 現 集 で は な い。 内 包 表 現と い う 伝 わ り に く い 機 微 は 編まれた 。﹃Guan ﹄︵ な い 人 間 の 思 考 に と っ て の 未 知 を め ざ し て ﹃ G u a n ﹄は 考え て やっと﹃Guan ﹄ ︵ ︶ができた。個人誌をつくろうと 02 02 るな、自分の彼方をめざして﹃GO﹄と作者は言うのだ。 にもなく、生はここで肯定される。 20 310 の 発生 として 見な け れ ば な ら な い の だ ﹂︵﹃エ リ ッ ク・ホッ を 超 え て い く出 発 点 、 つ ま り 退 廃 で は な く、 創 造 の 新 秩 序 の 逸脱 と し て で は な く 、む し ろ人 間が 自然か ら離れ、 それ い る と い う事 実を、 自 然 的 本 能や 生命に 不可欠 な衝動から 人間の 運命 を形 作る う え で 弱者 が支 配 的な 役割を果た し て 役割こそが、人類に独自性を与えているのだ 。われわれは、 たちは 、重 要な 点を見 過ごしている。 弱者 が演じる 特異な い。 的 な土 壌のなかで 彼の 発見がまともに 検討されることはな 出会 うのは 稀な こ と だ。 そ し て お そ ら く わ た し た ち の 文化 か ん が え る こ と が 釣り 合った 、こ う い う虚飾 のない言 葉に 的な 善意 や口 先の絶 望で 眺め る の で は な く、生 きることと の言葉 の は じ ま る場所 をリ ア ル に描い て い る。世界を 主観 の見 解も ホッファー の生 存 感 覚を 貫いており、 彼にとって では、日常生活は貧しく困難なものになるだろう﹂ 。 いずれ 次号 から内包存在論 を軸にした 、スミスや マルクスの 労 ファー自伝﹄中本善彦訳︶ 。当為や願望として語られた弱者 の 役 割 で は な く不 可 被 侵 の 側 か ら つ か み だ さ れ た確 乎 た る 生の理念に出会うことはまずない。 働 価 値 説 に基 づく資 本 論 とは 異な る貨 幣 論を少 しずつ書き 少 部 数 発 行の 私家版 ﹃ G u a n ﹄ が 多く の人の目に 触れ も う ひ と つ。 ある 晩き つ い 仕 事を 終え て鏡に映 ったじぶ る こ と は な い が、 わ た し の 独 行は ふ た つ の 解 説で充分に 報 継 い で い こ う と お も っ て い る。 同 一 性 に 監 禁 さ れ た 貨 幣 論 あ ま り、人 生は 御 伽 噺の よ う に 思え た。 貨幣の発 明の重大 わ れ た。こ の気 持ち は言 葉で言 え る も の で は な い 。ほんと で は な く 内 包 存 在を 分 有 す る 内 包 者 の 身 体 論 の 立 場 か ら 資 さ を 悟 っ た の だ。 そ れ は人 間 性の 進 歩 、 つ ま り自 由 と 平 等 う に あ り が た い と お も っ て い る。 こ れ か ら の 生 涯 で わ た し ん の や つ れ た顔 を 見 て 彼 は た め ら う こ と な く仕 事 を 辞 め る の出 現に と っ て 欠か せ な い一歩 で あ る。 貨幣の な い社会で の論考 についてこれ以 上の 批評 が書かれることはないとお ことにし 、賃金 を貰 いバ スに飛 び乗 ろうとする 。一握りの は、 権力 だ け が統治 の道 具と し て も の を 言う の で選択の 自 本 論 もまた 拡 張 さ れ る こ と に な る 。 由 が 存 在 し な い し、 粗 暴 な 力 は 分 配 不 能な の で 平 等 も 存 在 もう。この解説を読みたいがために﹃Guan﹄ ︵ ︶ があ 札束を振るとバスが止まった。 ﹁ 金が な く な る ま で の 二 週 間 し な い。 し か し他方 で、 貨幣 のカ は強 制 力な し で も コント は弱者が発明したもののように思われる。 ︵略︶金と利潤の れ て い た商人階級 が果 たした 役割 を考 えると 、どうも貨 幣 行 取 引が発 達す る な か で 、い ま だ封 建 君 主の支 配 下に置か ロール できるのである 。弱 い少数派である ユダヤ人や 、銀 を 諦 めることはない 。 でやれたことはいい 気分 だ。これからもわたしたちが表現 ン してくれた 娘の 舞に も感謝 する 。すべてを 素人の手 作 業 のいっさいをしきってくれた安 部さんと 、表紙絵 をデザイ ったといってもいい。 そしてそれは果 たされた。本の 体裁 二〇〇 二年一 〇月二七日 追 求は 、取る に足 り な い卑し い こ と の よ う に 思わ れ が ち だ が 、 高 邁 な 理 想 に よ っ て の み人 び と が 行 動 し 奮 闘 す る 場 所 附 311 02 ﹁内包﹂という名の贈り物 萩原幸枝 「内包」という名の贈り物 313 国組織である全国セツルメント連合の思想的背景であった日 ました。どのように手をつければよいのか正直なところ途方 おつきあいだということから、この一文を寄せることになり 歳のときにはじめてお会いして以来三十三年におよぶながい 以上が経過しています。はじめの頃からの読者であり、十九 森崎茂さんが﹁内包存在論﹂を書き始めてからすでに十年 対策特別措置法が成立し町の住宅改良が始まったばかりの頃 げられました。戦前からの活動は幕を下ろしたのです。同和 ツルメントは実質的に解体し、さらにその後診療所も引き上 ていました。その一∼二年後に九州大学を中心とした福岡セ 拠点とする全共闘運動へむかう激しい嵐のような時期を迎え へと広がっていた活動がもう一度先鋭化するかたちで大学を 1 に暮れるような心境でした。こころもとないことといったら のことです。 本共産党との対立から全国組織を脱退し、また大学から地域 ないのですが、森崎茂さんがどのようなことを考え、どのよ えつつある思想の意味をあらためてここで辿ってみたいと思 って書き継がれている﹁内包存在論﹂という論考の中に芽生 身にあたえた影響とその意味を探りながら、この十年にわた 況の中で森崎さんは身体を悪くしながらも、その後もしばら たり、大学を辞めていく友人も多くいました。そのような状 の友人が自死し、また、誰にも行方を知らせずにいなくなっ このころ、森崎さんと同じ時期にこの町で出会ったふたり うな軌跡を歩んでこられたのか、そしてその存在がわたし自 います。 和室があり、そのちいさな部屋が学生達の活動の拠点となっ 開いていた小さな診療所でした。その二階に四畳半ふた間の た古い建物がありました。九州大学医学部のセツルメントが 十三年も前のことです。博多区の一角に終戦直後に建てられ 森崎茂さんとはじめて出会ったのは一九六九年秋、もう三 かれはこのように述べています。 のころのことを回想して、のちに﹁内包表現論序説﹂の中で 想像を絶するいろいろなことがあったことはたしかです。こ 間についてはかれはあまり多くを語りたがらないのですが、 籍したのち農学部に戻って卒業するまでのその後の四∼五年 しい全共闘運動の渦中に身を置いたのです。一時医学部に転 くその町に住み、そこから大学に通い、ふたたび後退期の激 ていました。わたしは大学の先輩に誘われてそこに足を踏み だと思うのですが、森崎さんもわたしもその歴史のほとんど 学生がこの町に出入りするようになって数十年たっていたの う無惨だったのか、そんなことが言いたいのではない。 痛切な戦いが﹃三面記事﹄のように戦われた。何が、ど やむなくおれは物を研ぎ、言葉を探した。ちいさな、 入れたのです。すでに福岡市内のいくつかの大学から多くの 最後の時期の学生でした。すぐに福岡セツルメントはその全 314 であったということ、このことは測りしれない。 おれの無援の戦争を可能にしたのが吉本隆明の思想だけ に超える年齢になってやっとわかることや再認識させられる しているうちに、そして年齢を重ね彼女の生きた年月を遙か かで、かれがその後思想や理念というもののほうへと重心を たったひとつの思想を手がかりに戦われた孤独な戦いのな 見えました。そのようにしか読むことができなかったのです。 き方はとても激しい自己否定であり、息苦しいもののように 二十歳のわたしがいた場所からは、ヴェイユの考え方や生 ことがいまもあります。 おくことになっていった最初の契機が述べられています。 当時の学生運動の中でさかんに言われた︿自己否定の論理﹀ 明などの著作でした。今からおもうと、そのほとんどが森崎 読んだ本といえば、シモーヌ・ヴェイユ、滝沢克己、吉本隆 はなしが少し回り道になりますが、わたしが学生当時よく るあの部分﹀があるのだということをヴェイユは身をもって る場所、つまり人にはなにものも侵すことのできない︿聖な ちていますが、その中にあってもなお翻弄されないでいられ わたしたちが生きている社会や時代はいくつもの矛盾に満 というようなものをはるかに超える激しさで自分を無にする さんを通じて知ったものだったようにおもいます。といって 示しています。彼女の生き方や遺されたことばの中にあるつ このころ、わたしにとってもいろいろな出来事があり、今 も直接ではなく、森崎さんが友人の誰かに話しているのを何 よさというようなものの根底には、時代の変遷によって変わ ことを考え、実践した彼女の生き方につよく惹きつけられな となく耳にして興味をもったという経過だったと思います。 ることのない不変の物差しとでも呼ぶべきものがあるのだと から思えば大きな人生の転機でした。若くて未熟だったけれ 当時、ヴェイユの新刊が翻訳・発刊されたのですが、東京と おもいます。状況に流されたり、共同性の中に安住するので がらも、底知れぬ怖れのようなものを感じていたということ 福岡ではその発売日に二週間ほどの時差があって、それを待 はなく、自分自身で考え、生きていくための不変の物差しが ど、そのころに考えたこと、学んだことがなかったら、おそ ちきれなくて、夜行列車に飛び乗って東京まで本を買いに行 あるのだということをわたしはここから学んだような気がし かもしれません。 ったという話も聞いたことがあります。思い立ったらすぐに ます。 らく今のわたしはいなかったとおもいます。 行動に移し、最後まで徹底的にやり遂げるというかれの性格 しの知る限りにおいてユダヤ人問題について告発めいた言葉 ユダヤ系フランス人であった彼女はその著作の中ではわた 以来、三十年以上にわたってわたしのヴェイユに対する関 を遺していません。それがなぜなのかということがずっとわ は今も若い頃とほとんど変わらないように見えます。 心は薄れることがありませんでした。折に触れ何度も読み返 「内包」という名の贈り物 315 ユ﹂ ︵ シ モ ー ヌ ・ ペ ト ル マ ン著 ・ 杉 山 毅 訳 ︶ の な か に こ の よ の5月に新装版として出版された﹁詳伝 シモーヌ・ヴェイ たしにとって関心のある問題のひとつだったのですが、今年 要な障害となったぐらいに、激越であったが、どこまで だに連続性を認めていることがカトリックへの入信の主 の反ユダヤ思想は、教会が旧約聖書と新約聖書とのあい 義の争いにすぎぬとしたのである。しかしながら、彼女 おいて是認できなかった点は、どうかすると宗教心と狂 とを、認めるにいたった。要するに、彼女がユダヤ教に して、他の人々と自分たちを区別している連中であるこ の好まぬユダヤ人とは、ことさらにわが身をユダヤ人視 彼 女 の 親 友 の う ち の何 人 か は 、 ユ ダ ヤ 人 だ っ た ︶ 、彼女 は、自分がユダヤ人排斥論者ではないこと︵事実として、 ルシェと彼女とは議論になった。そして彼女は、実際に ヤ人排斥論者よ﹂といったことがあった。そのあと、ベ う に 、 ベ ル シ ェに 対 し て 、 ﹁ 個人的には、わたしはユダ 一九三四年頃、ある日、彼女はふと思いついたかのよ ことを、彼女は倦まずにくりかえして語ったものだ。 の神をよみがえらせようとする仕業にほかならなかった 種族神を名前を変えて自分のために利用しようとし、そ ユダヤ人迫害はただ、現世的で残忍で排他的なかれらの ユダヤ人と同じ立場に立ってユダヤ人排撃をしたこと、 ことを何度わたしに語ったことであろうか。ヒトラーは である。彼女は、反ユダヤ人思想がユダヤ人に根をもつ 世俗的なメシアの信仰もどちらも同じように嫌悪したの たとえば、ヒトラーのユダヤ人排撃思想も、ユダヤ人の 共通点もないことを、強調しておく必要がある。彼女は 今日︿反ユダヤ人思想﹀と呼ばれているものとはなんの も純粋に霊的な面にとどまるものであって、したがって、 うな一節を発見しました。 信とにこり固まる一面がその中に含まれているからだっ また、一九四二年彼女がアメリカへ亡命する際に膨大なノ 安易に共同性の中に安住せず、自分の考えを貫いた彼女の生 る、彼女のユダヤ人問題に関する考えかたの基本的な姿勢は、 た。 ートを託したギュスターヴ・ティボンによる編集で出版され き方として表れることとなったのです。彼女のなかにあるの このような彼女のごく近くにいた人物たちによって語られ た﹁重力と恩寵﹂の解題にかれはこのように書いています。 しようもないふたつの人生観のあいたたかうさまを見た イスラエルとローマとの衝突の中にニイチェは、どう と正義、強者と弱者という二項対立で語られてしまいがちで 嫌悪でした。ナチズムとユダヤ人はいつもセットにされ、悪 してもっている全体主義の萌芽のようなものに対する激しい は両者︵ユダヤ教の選民思想とヒトラーのナチズム︶が共通 が、シモーヌ・ヴェイユは、同じ種類のふたつの全体主 316 孤独な闘いを闘っていたのだということになります。 すが、あの戦時中にヴェイユはすでに、全体主義そのものと たものが置かれているという︿匿名の領域﹀だったのです。 空虚な 世界 な ど で は な く 、 ︿真理﹀や ︿善﹀や ︿美﹀といっ ような人間的な環境の中にでも融け込み、そこを通り、その とを私は望みません﹂と言い、そしてさらに、これは﹁どの 人間的環境であれ、その中で自分の家にいるように感じるこ 受ける こ )とを拒否して﹁﹃わたしたち﹄と呼び合うある環境 の中に住み、この﹃わたしたち﹄の一部分となり、いかなる して生き、またマルクス主義、社会主義を批判しながらも、 教会を批判しながらも、誰よりも純粋に﹁キリスト教徒﹂と きることそのものであるという考えだとおもいます。激しく 在としての自分を自覚し限りなく無に近づくということが生 りません。それは︿善への渇望﹀そのものであり、有限な存 それを痛ましいとか、近づくのは怖いとしか感じられなかっ 中に消えてゆきたいという私の欲求﹂と矛盾しないというの 誰よりも根底的に世界の変革を目指し、さらに哲学教授の資 集団と個、共同体と個人のあいだに横たわる矛盾について です。つまり﹁その中に消えてゆくということは、その一部 格を取得しながら、結局はそのような道を選ばず、パートタ た未熟なわたしはとてもたいせつなものを読み落としている 分となることではなく、すべてのものと融合することができ イ マ ー の 工 場 労 働 者 と し て 生 きた 彼 女 の 立 場 は い つ も 危 う ことに気がつかないでいたのです。ヴェイユの思想の根底に るためには、いかなるものの一部分ともならない、というこ く、誤解にさらされていたのではないかとおもいます。複雑 考えつづけた彼女の原理となるような考えは次のようなこと とを暗に意味している﹂︵﹁神をまちのぞむ﹂ ︶か ら だ と い う に屈折しているといえばそうかもしれませんが、彼女は社会 流れているのは真理への学問的探究というようなものではあ の で す 。そ し て 、 ﹁ 社会主義 は負 けた者の 側に正しさがある 的な安定とそれによって生み出されてくるたぐいの力にはつ の な か に も 表 れ て い ま す。 彼 女 は 教 会 の 一 員 と な る 洗 ( 礼を とし、民族主義は、勝ったものの側に正しさがあるとする思 いにどのような価値も見出すことはなかったのです。そのよ 今、シモーヌ・ヴェイユの思想からわたしたちが学ぶもの 想である。だが、社会主義の中でも革命的な一派は、たとえ から、民族主義と同じ倫理観におちいってしまうのだ﹂ ︵﹁重 があるとしたら、それは社会的な属性や立場というようなも うなものと、ヴェイユが渇望した︿善﹀とのあいだにはどの 力と恩 寵 ﹂ ︶ と い う ヴ ェ イ ユ は 、 晩 年 、 社 会 主 義や 民 族 主 義 のとはまったく異なった次元に、人間にとってほんとうにた 生まれたときは低い身分であっても、性質上、また使命とし の不毛な抗争から遠く離れて、彼女自身が望んだように生き いせつなことはあるということではないでしょうか。もっと ようなつながりもなかったからです。 たのだとおもいます。彼女が自身を限りなく無に近づけるこ はっきり言えば、ほんとうにたいせつなことは社会的な属性 ても勝つことをねがう人たちを集めている。こういうわけだ とによって手にしたものは、一見逆説的にみえるのですが、 「内包」という名の贈り物 317 います。 ということをヴェイユはその言葉によって今も示しつづけて であり、人間はそのために、そのようにつくられているのだ あることを証明する契機となりうる存在でもあるということ 人の例外もないということ︶は制約ではなく、むしろ自由で 時を選ぶことはできないし、死についても同じ。そして誰一 わたしたちが有限な存在だということ︵生まれてくる場所や の地平を生きうるという可能性が与えられています。つまり、 いといいうる次元が確実に存在し、そしてわたしたちにはそ いうことだとおもいます。そのようなことはなんの関係もな や立場というようなものとは異なる次元にしか存在しないと ︵ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶︶ とができました︱すべての出来事に﹁ゆたかにされて﹂ のです。抜けて行き、ふたたび、明るいところに出るこ した︱しかし言葉はこれらの出来事の中を抜けていった こったことに対しては一言も発することができませんで んでした。言葉はこれらをくぐり抜けて来、しかも、起 死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりませ みずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、 して残りました。そうです。しかしその言葉にしても、 残りました。それ、言葉だけが、失われていないものと 手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして 想させられました。その考え方において共通点があるからと 姿勢をみるにつけ、なぜかわたしはシモーヌ・ヴェイユを連 ありません。ことば自身がその沈黙の意味を語るものとなる め、ことばがことば自身を生き始めているとしかいいようが ここでは伝えるための手段という意味でのことばは影を潜 森崎さんのなにごとも徹底的に、根源的に考えようとする いうことではなく、この両者を見ているとあるひとつの共通 だけが本質的にゆたかなものといえるのではないでしょう とき、はじめてその奥深くにある人間の真正のありようが姿 倫理や正義を掲げているのではなく、また啓蒙や悟りとい か。そのような種類のゆたかさはわたしたちを日常の息苦し の 問い が わ た し の 中に生 まれるからです 。 ﹁なぜ、そのよう ったものでもなく、もちろん個人的な欲望というようなもの さから救いだし、そしてその体験はわたしたちのなかに深く を現すのかもしれません。このようにして生まれてくる表現 でもありません。そのどれにもあてはまらないことばや考え 根を下ろすものとなります。ことばの力とはこのようにシン にあることができるのだろう﹂という素朴な問いです。 方が生まれるということはどういうことを意味しているので プルで深い真実のなかに息づいているものだとおもいます。 して東京の鍼灸学校に入学した頃に、雑誌﹁乾坤﹂に発表し 森崎さんが大学卒業後しばらく勤めていた高校での職を辞 しょうか。それはおそらくかれがよく引用する詩人、パウル ・ツェランのことばのなかにヒントがあるとおもわれます。 もろもろの喪失のただなかで、ただ﹁言葉﹂だけが、 318 近なところにいるという感覚でした。森崎さん自身も再スタ て話をすることはほとんどなくなっていましたが、とても身 なってくれるものでした。東京に住んでいた森崎さんと会っ びに何度も読み返しました。それはわたしの力となり支えと 動に関わっていたわたしは、いろいろな問題に突き当たるた 総括として書かれていたもの︶を、大学卒業後地域の保育運 もいくつかのいざこざが続いていた一九七四年に森崎さんの 福岡セツルメントが内外に深い傷跡を残して撤退し、その後 た﹁﹃部落﹄の背景・﹃感性﹄の現在﹂という論文︵実際には とはない。 いうのでもなく。理念は理念によってしか止揚されるこ で葬らねばならない。倫理でも﹁生活﹂に降りていくと もない、ぼくたちがつくり実現した理念はぼくたちの手 ︿死﹀を孕んでいたことのほうが重要である。他の誰で ない 。ほんとうはぼくたちの理念 がその理念のうちに か。いや現実に殺・死があったかどうかが問題なのでは でていないのはただめぐりあわせにすぎないのではない 底していた。ぼくたちの関係から殺・死が現在のところ た数々の出来事がいったい何であったのか、その意味をきち が、かれは単に﹁生活﹂に降りていくというのではなく、そ 全共闘としての闘いは具体としては終わりを遂げたのです ートを切るに当たり、それまでにぶつかり、くぐり抜けてき んとした形で言葉にしなければ先へ進めないというせっぱ詰 こで起こった出来事が意味すること、その本質を取り出して 言 葉 を あ た え る こ と を ま ず こ の よ う な 前 提 か ら始 め た の で まった気持ちだったのではないかと思います。 かれは一九七四年に書かれ七年後の一九八一年五月に発表 す。時代的な制約と未熟さのためにわたしたちはその理念を 内部粛正をぼくらは経験しなかったか。地方都市におけ 人を演じなかったか。内ゲバー党派間抗争・連合赤軍の ではなかったか。その過程でぼくたちは何度も心的に殺 実現に他の誰でもないぼくらひとりひとりが直面したの か。秩序に対するひとつの否定の意志︵理念︶の極限的 なくという具合にぼくたちの七三年四月前後がありえた 生きているのでもなく、かといって死んでいるのでも に起こっていることや現実に生きている人間を横に置いて、 思想・評論集よりも優れているとわたしはおもいます。現実 あるものです。今までに読んだ﹁部落﹂に関するどの歴史書、 についての考え方は二十七年たったいまも十分に読み応えの この論文の大きな柱のひとつとして提示されている﹁部落﹂ ったのです。六九年からすでに一〇年近くがたっていました。 しかないのだというあたりまえのことがやっとここから始ま が、ほんとうに望むことは他の誰でもなく自分でつくりだす されたこの論文の中で次のように述べています。 る局所的戦いとしてではなく、七〇年代初頭の後退戦が それらにできるだけ触れないように刺激しないようにという 否 定 の 意志 と し て し か 表現 す る こ と が で き な か っ た の で す きりもむように刻印した悲劇にぼくたちの闘いもまた通 「内包」という名の贈り物 319 んなものが思想であるはずがない。おぞましい﹂と批判した に 対し て 、 ﹁ 無限に恥 じ入 る﹂と 発言し た高橋の言 葉を﹁こ 開された、加藤典洋と高橋哲哉の論争のなかで、激しい告発 も出てきました。たとえば、従軍慰安婦の問題をめぐって展 由化﹂され、その状況に乗じて批判的な考え方を発表する人 いとまがありません。さらに昨今では解放運動への批判が﹁自 弱者と規定して、それに寄り添う形で書かれたものも枚挙に 論じたものは数え切れないほどあります。また被差別の側を 配 慮 の 上 で 社 会 や 歴 史 と い う分 野 の ﹁ 学 問 ﹂ ﹁研究﹂として たしを救い出すものだったといえます。 した気持ちにさせてくれます。まさに日常の息苦しさからわ 了後に背筋がまっすぐに伸びるような気がして、晴れ晴れと て﹁部落﹂が論じられたはじめてのものだとおもいます。読 る思想として、その道筋を示しています。思想的な課題とし 喩 としての﹁ 部落 ﹂ 、 共同の観 念としての﹁部 落﹂を無化す 身を含めて、きちんと解放運動の過誤について批判・総括し、 も前に森崎さんは内部の当事者の現実に届く言葉で、自分自 しかし、批判することはほとんどタブーであった二十七年 すが、加藤という人がこの両者を同質のものとしてともにだ 同伴知識人というような構図は今までもよく目にしたことで ときのむなしさをおもいだします。つまり、差別告発運動と 包権力論ノート﹂ ﹁内包表現論序説﹂ ﹁内包存在論﹂などがあ んは精 力 的 に書 きつづけています 。主なものとしては 、 ﹁内 十数年間、仕事のかたわらとはいえないほどに次々と森崎さ 鍼灸学校 を卒 業し福 岡に戻って 鍼灸院を開 業して以 来 二 加藤という人のやりとりを雑誌などで読んだのですが、その めだというとき、どのような問題が起こっているかというこ ります。折に触れて、オウム問題や今回﹁Guan ﹂とし とについてだれも考えようとしないということなのです。た ることはしっています。差別とは何かという本質的な問題を もののなかに政治主義的なものや利権がらみなど、問題があ しかに集団で組織的におこなわれる差別告発運動といわれる ている﹁内包存在論﹂にいたるまでに、かれがどのように思 かなり焦点が絞られてきたこの十年間にわたって書き継がれ 主要なテーマはそのときによって多岐にわたっていますが、 てまとめられているいくつかの論考なども発表しています。 そのためには、それまでの社会的・政治的諸問題への取り 抜きに良心的な知識人といわれるような人々がそれに同伴し 現実に生起する差別という事態をめぐってなんの痛みもない 組みというような形をとって表れていたかれの活動の核とな 想的な歩みを続けてきたかについて、その足どりを辿ってみ 無関係の人たちがそのような思想とはいえない愚かな言説を っていたもの、もしくはそのような活動にかれを赴かせたも てしまうという愚かしさもよくわかるつもりです。そんなも だめだといったりいいといったりするこの事態は何なのだろ のは何だったのかということを考えてみることからはじめな ようとおもいます。 うという疑念が払拭できないのです。 のが思想とはいえないという意味もよくわかります。ただ、 02 320 当かどうかわかりません。 ︿信﹀の内部にあって︿信の構造﹀ の 、背 骨の よ う な も の と し て あ る ﹁倫理観 ﹂ ︵この言葉 が適 れる社会主義思想や政治的思想というよりはむしろかれ独特 覆っていたように見えるマルクス主義といったものに代表さ らです。つまり、かれを突き動かしていたものは当時世界を ますが、その人間の核となるものは変わらないとおもえるか ることはできるとおもいます。活動の表れ方は変わっていき が、わたしがその時々にかいま見たかれの姿から推測してみ ければなりません。もちろんすべてを知ることは不可能です り︶ 会いはすごく新鮮なものだった。 ︵﹁内包表現論序説﹂よ バカにしていた生意気ざかりということもあってこの出 ることが、理屈ではなくつたわってきた。心底知識人を んの眼をみていると、言葉を発するその場所で生きてい もっていた。あー、この人は嘘はついていない。滝沢さ 柄から言葉があふれてくるたしかな存在感を滝沢さんは に走る晴れ間のようにして滝沢克己さんに出会った。人 赤軍事件を予感しはじめたちょうどそんなとき、梅雨空 を解体する力と言い換えてもよいとおもいます︶によるので かれの背骨のような﹁倫理観﹂ ︵︿信﹀の内部にあって︿信 向き合い真剣に対話をつづけられた滝沢先生と出会い、手紙 盾した感情を抱えていたかれが、全共闘の学生達ときちんと スト教へのおそらくは無意識の親和と激しい異和という相矛 九州大学の哲学科教授だった滝沢克己氏と出会います。キリ かれは一九六八年、大学入学後まもなく神学者である当時 うな言葉はキリスト教というひとつの宗教の枠を超え、生き からかれを救ったのだという気がします。滝沢先生の次のよ ならない不毛な政治闘争へとなだれこんでいった当時の状況 のもそうでないものも含めて︶がすんでのところでぬきさし で、滝沢先生との出会いのなかで得たもの︵自覚的であるも な ら ず 避 け て 通 れ な い も の と し て 立 ち ふ さ が っ て く る 隘路 はないかという気がするのです。 のやりとりなどを重ねていきます。このころ、かれは同時に るということの基本として人に伝わるものがあります。事実、 の構造﹀を解体する力︶が現実との安易な妥協を拒むときか シモーヌ・ヴェイユの著作を読み、社家町教会の佐藤俊男牧 これは日本物理学会に招かれて講演されたときの記録なので ある一人の現実の人が、どんなに強く、その人の生ま 師、筑豊におられた犬養牧師とも会っています。滝沢先生と 一九六八年。学生になりたての若い頃、滝沢克己さん れ育った家庭環境やその時代の歴史的社会的状況の重い す。 の熱心な読者だった。︵中略︶全共闘という学生の直感 病に規定せられて、やがては滅びてしまうだろうと思わ の出会いについてはかれは後年次のように述懐しています。 運動の高揚が曲がり角にきて一瞬どこかでチラッと連合 「内包」という名の贈り物 321 する人間の無数の可能性のなかから、人間の真実の主に することはできません。前の現実はそれ自体、事実存在 れるかは、だれもこれを﹁規定﹂したり﹁予定﹂したり といってよいでしょう。 ︵﹁純粋神人学序説﹂より︶ か、この点の﹁物の道理﹂を、はっきりと示してくれた い発展にもかかわらず、いかに惨憺たる不幸を結果する ︽ Privatmensch ︾と し て立 とう 伸 びようとするその 背 叛︱が、当の私人のあらゆる努力とその社会のめざまし れても、次の瞬間にどのような現実のかれ︵の姿︶が現 対する応答として現れた一つの形である以上、そのなか とかいうものこそまったくの空想だと言わなくてはなり 語るとすれば、その人の語る﹁現実﹂とか﹁必然的法則﹂ 歴史的﹁必然的な法則﹂にしたがっての成り行きとかを な事 実 性 と自由 を抜 か し て 、 ﹁現実の﹂社会的制約とか す。だれかが、人間存在にとって最も根本的なこの単純 自身 に委ねられた無限の可能性が 含まれているからで の要求と、それに対してどう応答するか、まったくかれ を抜 かして 、 ﹃現実 の﹄社 会 的 制 約 と か歴史的﹃必 然 的 な法 が、人間存在にとって最も根本的なこの単純な事実性と自由 に し み と お る よ う に理 解 で き る よ う な 気 が し ま す 。 ﹁ だれか う考え方は、いくつかの過誤や回り道を経て、今わたしの中 ちで人間の自由、無限の可能性をすでに含みもっているとい にとっての厳然とした制約は同時にそれへの応答というかた 在する物としてのみ人は人として存在する﹂という人間存在 この中にある﹁人間のものではない真実の要求﹂ 、 ﹁事実存 にはかならず 、 ︵かれのもの ︶人間 のものではない真実 ません。 人間社会の形成もこのことのほかではありません。 ︵略︶ をとおして、人間として成長発展することができます。 いう厳しい制約があるからこそ、人間は長く苦しい経験 事実存在する物としてのみ人は人として存在する、と ことばから受けたある種の解放感というようなものとぴった の劇まで﹂のなかにある﹁部落は共同の幻想である﹂という ばはわたしのなかでは七〇年に書かれた吉本隆明の﹁三番目 の空想だと言わなくてはなりません﹂という滝沢先生のこと 語る﹃現実﹄とか﹃必然的法則﹄とかいうものこそまったく 則﹄にしたがっての成り行きとかを語るとすれば、その人の マ ル ク スが 、 ﹁ 労働 の 疎 外 ﹂ と か 、 こ れ と 不 可 分 の ﹁ 資 りと重なります。よく考えてみればすでにわかっていたこと 滝沢先生の﹁インマニエル﹂はすでにかれにとってはなじ 本主義社会の経済法則﹂とか言いえたのも、人間労働︵物 を超えて直属する根源的制約︵﹁経済原則﹂ ︶を踏まえて み深い感じ方であったはずです。だからこそかれの中に根づ だったのです。 のことです。これに対する人間の応答の仕方の狂い︱そ いたとおもうのですが、しかし、森崎さんはここにとどまっ 質的生産的に労働する人間存在︶に、人間の意志︵意識︶ の根源的制約を無視して﹁自主独立﹂な﹁私人﹂ 322 根本問題とその人間がつくりだす社会や歴史といったものと からです。そしてなによりもかれが現実のなかで人間存在の 考え方の中には︿応答﹀を絶えず促す何かがすでに存在する ているわけではありませんでした。なぜなら滝沢先生のこの す。 もに︿信の解体﹀について考え、対峙しているようにみえま とを分かつ﹁信の構造﹂を超えようとする立場から、両者と でも堅固な︿非信﹀の立場から、森崎さんは︿信﹀と︿非信﹀ の考え方のなかに表れているといえます。吉本さんはあくま 吉本さんは、人間の内面は一方的な外界の変化に対抗でき が引き裂かれたように現れるという矛盾に突き当たりながら も、そこで諦めて引き返すことをしなかったということでも ないとし、外界を削ぎ落として魂のモチーフを唯一のよりど が違うという直感のようなものをたよりにそこから抜け出よ にも見える長い期間があります。深く捉えられながらも何か 時にその枠組みの中から抜け出ようとしてもがいているよう の中にいったん入りこみ、大きな影響を受けるのですが、同 ないというほどです。かれは吉本隆明の大きな思想の枠組み れの論考の中で吉本隆明の名前が出てこないものはほとんど 面でかれを支えた吉本隆明の思想との出会いがあります。か このあと長い間その熱心な読者となり、またいろいろな局 意識が変わるような考え方が必要なのではないかと発言して の信のかたちでしかないとし、そのような制約された人間の べているのではなく、信も非信もそれぞれがどちらもひとつ ます。それに対して森崎さんは単に内面や魂のモチーフを述 して捉え外部の視点をもたなければ思想とは言えないといい ています。つまり︿信﹀の内部、︿信﹀の外部という構造と ならないということを、小山俊一や石原吉郎に触れて発言し もそのような状態に自分がなっているという自覚がなければ 入らなくなるほどに苦しい目にあったとしても、すくなくと あります。 うとする試みが内包表現論、内包存在論という作品として生 います。両者の発言は最後まで平行線を辿っているようにみ ころとするようなかんがえは認められない、もし外界が目に まれたということもできるのではないかとおもいます。 所収 ︶ 。 こ こ で は何 か が 違 う と い う 彼 の 直 感 が す こ し ず つ 明 で吉本さんと対談をしています︵雑誌パラダイスへの道90 全体主義のただなかでは有効かもしれないけれど、平時にお 義という狂信に反対するための非信という立場はそのような 社会主義や民族主義や軍国主義のなかにあらわれる全体主 えます。 確なかたちをとるようになった最初の時期にあたるとおもわ いては根深いニヒリズムを呼び込んでしまうのではないかと 九〇年には﹁対幻想の現在∼疎外論の根源﹂というテーマ れます。そのころから両者の間の考え方のずれがはっきりし おもいます。吉本さんが敗戦後の日本の社会の大転換のなか でかんがえたことは二度とこのようなつまずきをしないため てきます。 なかでもいちばん大きな問題点は︿信の構造﹀をめぐって 「内包」という名の贈り物 323 法というのは非信の立場に貫かれた時代や宗教をも超える普 法をつくりだすということだったのだとおもいます。その方 に何がほんとうで何がうそかを見分けるためにその実験の方 いう制約された人間の意識が変わるということが︿信の構造﹀ の信のかたちでしかなく、そのように現わされるしかないと とわたしはおもいます。つまり信も非信もそれぞれがひとつ な人間にもあてはまるかんがえをつくるということでしょう の中にはその違いの根本が何であったのかが明らかになる箇 そして九八年にまとめられた﹁内包存在論Ⅰ﹂という論考 もいます。 の解体であり、つまり不変の物差しをもつということだとお しかし、普遍的であるというのはどういうことなのでしょ 遍思想をつくるということだったのです。 か。わたしは一人の人間が生きて在るということのなかによ 所があります。 うか。すべてを網羅し、実証し、どんな時代や社会にもどん り深い真実を見いだすときに生まれるその人だけのことば、 歴史の近代が発見すると同時に隠蔽した罠にはまって もしくはことば以前のことばのなかにそれはあるようなきが します。︿匿名の領域﹀とヴェイユによって名づけられたそ あり、そこに観念の倒錯があると直感したマルクスは思 いるという点で、ヘーゲルもマルクスも吉本隆明も同じ 吉本さんはそのような︿普遍の場所﹀の外側から﹁これが 想の根柢に︹関係︺をおいて、個と類を接合し、個と類 の場所にひっそりと存在し、ある時偶然に見いだされるとい 普遍の場所です﹂と普遍的な言葉で説明するのです。そうで との交通をせき止める疎外の打ち消しに現実の歴史の推 轍を践 ん で い る と い え る 。 ︵中略︶共同 の意志の発 現の はなく、ヴェイユや宮沢賢治はその中にいるのです。そして、 力をみようとした。また吉本隆明には未曾有の集団発狂 うようなものとして普遍性というものはあるのだとおもいま その中にいてそれを語るということはすでに信と非信という をもたらした太平洋戦争の暗い記憶があり、共同の意志 なかに自由を見るヘーゲルの意志論が極限の自力思想で ことの是非を超え、そのように信と非信を分かつ信の構造そ の体現と個の恣意性のあいだの分裂や矛盾をどうしたら す。 のものを解体してしまっているのです。このような道をとお 解消することができるかということに思想の命運を賭け 条理をつくした彼らの思想のどこに落とし穴があるの ってしか︿信の構造﹀の本質的な解体というのは成し遂げら どんな時代や状況にあっても変わらない物差しがなければ だろうか 。 ︵中略︶いうまでもなく、自己を一義とする てきた。 何が変わって何が変わらないのかを測ることはできません。 存在論の制約が、共同の意思と個人の意思の対立や離反 れないのだと思います。 非信という立場は不変の物差しにはなり得ないのではないか 324 ようとする表現の衝動を、自己意識の外延表現と私は呼 意識︺という︹存在︺のがらんどう。がらんどうをうめ っ て い る我 欲 と 空 虚 を う め る こ と は で き な い 。 ︹自己= んらい自己=意識という一枚のコインが表裏をなしても んなに外延しても︱社会化しようと内面化しようと︱ほ という近代が孕んだ逆理をもたらすのである。存在をど に、森崎さんの人生にそのような機会が生じたというほかあ ある、そのような機会が人生には生じるのだ﹂と述べたよう ことを知る問題が、熟視や思索をつづけるためには不可欠で つもの見方とは異なる仕方で知覚することができるか、その いつもの思索とは異なる仕方で思索することができるか、い を可能にしてくれる好奇心なのだ。 ︵中略︶はたして自分は、 うと努めているていの好奇心ではなく、自分自身からの離脱 繰 り返 し語ら れ る ﹁同 一 性 に監禁 された生 ﹂ ﹁ 同一性原理 2 りません。 んできた。問題は共同の迷妄以前にこそあるのだ。 ︵中略︶ 私は自己というものを彼らとは違って考えた。人間の 意志が人間と人間との関係が強いる絶対性のまえで相対 的なものにすぎないようにあらわれるのは、自己を質点 とする思想がその分裂を呼び込んでいるからなのだ。 人であることの根源をなすつながりのあらわれが自己 今までに目にしたことはありませんでしたから、驚きをもっ ものでした。はっきりとそのような言葉で表現されたものを の拡張﹂ということばや考えかたはわたしにとっては未知の であり、自己にはつながりがあらかじめうめこまれてい て読んだのです。わたしたちは思春期といわれる頃からずっ ︵中略︶ て、他者をすでにふくみもつものとして存在している。 の活用﹄の中で﹁私を駆りたてた動機は、ごく単純であった。 的な流れなのかもしれません。ミシェル・フーコーが﹃快楽 えますが、かれのこれまでの思考の筋道をかんがえれば必然 ことのない、無謀といえばまったく無謀な試みのようにも見 がすでに産声をあげているといえます。まだ、だれも考えた て、同一性原理の拡張を可能にするあたらしい未知の考え方 ここではその思想的な違いを明確にするということを超え ている人間の在り方をもう一度根源からかんがえてみる必要 考え方は、いままでのわたし自身を含めて一般的に信じられ として人は存在し、その事態を︿内包存在﹀と呼ぶ﹂という した。しかし、森崎さんの﹁︿根源の性﹀を分有する分有者 る道のりなのだというふうに一般的にはかんがえられてきま いわゆる自己同一性︵アイデンティティ︶を確立しようとす に向かって試行錯誤を重ねてきたようにおもいます。それが のような自分でありたいとねがう自己の像を思い描き、それ とわたしとは何者であるのかを知りたくて尋ね求め、またこ ︵中略︶つまり、知るのが望ましい事柄を自分のものにしよ 「内包」という名の贈り物 325 伴うような気がしますが、きちんと読んでいくとはっきりと 際に人間の在り方をそのように知覚することはとても困難を 性を促します。感じ方や思考方法としてはなじみがなくて実 ことばで表現しています。 の申し立ての基盤となる考え方、感じ方をかれは次のような にある﹁性﹂の概念にたいする異和が申し立てられます。そ こへといたるながいあいだのかれの活動と思索のうえにある みようとおもいます。もちろんこれまで書いてきたようにそ うにして発見したのか、それをかれのことばのなかに探って 原理を拡張する内包存在という人間の在り方をかれはどのよ な考え方への無理解なのかもしれません。とにかく、同一性 ような反応は大昔からいつの時代においてもみられた先駆的 とか、荒唐無稽だといってしりぞけるのは簡単ですが、その し で な く︵ 非 わ た し ︶ 、 あなたはあなたであってあなた ない 。 ︵中略︶こうなるとわたしはわたしであってわた 、己 、性 、はけっしてあらわれ わたしがわたしであることの自 それが︿性﹀だ。この︿性﹀によぎられることなくして ぎさらっていき、理不尽に﹁わたし﹂を簒奪するもの、 か硬 いものを 破壊 して 、 ﹁ わ た し﹂ と い う 存 在 を 根 こ そ ど真ん中をまっすぐに貫通し、﹁わたし﹂のなかのなに ﹁わ た し ﹂ になんの挨 拶もなくいきなり﹁わ た し ﹂の した論理が組み立てられていることに気がつきます。無謀だ ということが前提となります。 が挿入されれば、家族の外延は、氏族共同体が内婚制か という特殊な共同性を節目として、そこに近親婚の禁止 家 は生 ま れ な い 。 ︵ 中略︶吉本隆明のかんがえでは、性 で繋ごうとすれば、節目に対や家族を挿入しない限り国 吉本隆明のかんがえに沿っていえば、自己と群を観念 る。 ︵﹁内包世界論1﹂ ︶ い。わたしの内包論では︿性﹀はこういうものとしてあ れいずることになる。これより不思議な超越はありえな し﹀が︿非あなた﹀となる絶対矛盾的自己同一があらわ て、 なにより 驚く べ き こ と に 、ここにおいて 、 ︿非わた しであり続けるのに、表現としては︿非わたし﹀となっ でなく︵非あなた︶、生存の形式としてはわたしはわた ら外婚制を経ることで部族共同体へと拡大され、起源の きたい論理の筋目から対幻想の役割が演繹されている気 書かれた﹁テロと空爆のない世界﹂では論理的なことばで表 また、ここで知覚されているものが、内包存在論Ⅱとして 国家が誕生することになる。理屈は理解できるのだが導 がして仕方ない。そのためには対幻想は共同幻想でない 現さ れ て い き ま す 。 ﹁ 同 一 性の 論 理 で は 他 者 は 語 り え な い の ことができないのとおなじだ﹂と言い、そのことについて次 だ。分有︵分け持つこと︶を自己意識の外延論理で取りだす と矛盾する。 ︵﹁内包世界論1﹂ ︶ まずこのようにして吉本さんの対幻想という考え方のなか 326 する関係であり、同様に、内包者の内包者にたいする関 あるものがそのものにひとしいというとき、あるもの 世界論1﹂ ︶ た生が同一性による監禁から解き放たれるのだ。 ︵﹁内包 れる。このときなにが起こるか。禁止と侵犯に閉じられ のようにことばをつないでいます。 と、そのもののあいだに根源の一人称をおくとどうなる 係は、内包者の内包自然にたいする関係となってあらわ か。あるものとそのものは内包の関係にあるから、厳密 盾的同一をなす。これはただならぬことなのだ。同一性 る。ここにおいて還相のわたしと還相のあなたは絶対矛 だ。同一性の論理からはこのことは神秘としてあらわれ 相のわたしとなり、あなたもまた還相のあなたになるの うもなく名をもたぬこの根源的な出来事によぎられて還 とをつきぬけてしまうのだ。往相のわたしは、名づけよ とかんがえられます。その知覚はかれ自身の体験に根ざすも と同時に、かれ独特の人間存在への知覚として言われている を拡張するものとなります。これは論理として言われている 間に孤立して存在することを余儀なくさせている同一性原理 な認識、またそれが指し示している事態そのものが個々の人 内包存在として存在しているという考えによれば、そのよう このように人間は︿根源の性﹀から流れ下る分有者という には同一とは言えない。わたしがあなたであるというこ はかろうじて形式を保存するだけで内容としてはすでに のであることはいうまでもありませんが、ある意味ではひと としてあらわれるのだ。この自然的なおのずからなる関 的で本源的な関係は、根源の性にたいする分有者の関係 る人間の﹁真実﹂とでもいうべきものをそこに読みとるから 物に立ち返ろうとするのは、何百年という時間を一瞬で超え わたしたちがあくことなく繰り返し古典といわれている書 だとおもいます。 異なったしかたで認識するということがかれに要請されたの するためにはそもそも人間の在り方そのものをいままでとは がそのまま他者への配慮と結びつく、そのような地平を実現 す。自己と他者が引き裂かれて在るのではなく、自己の陶冶 つの意志論として読むこともできるのではないかとおもいま 包越されているのだ。即ち同一性の彼方! そしてかれはつぎのような確信へとたどりつくことになる のです。 マルクスが﹃経済学・哲学草稿﹄で直感した性という 関与的な存在は、彼が思い描いたものよりもはるかに深 係のなかでは、根源の性にたいする分有者の関係は、根 です。その驚きとよろこびの体験がわたしたちを古典へと誘 い根源をもつ。まさしく、人間の人間に対する最も直接 源の性という内包存在を分有する内包者の内包者にたい 「内包」という名の贈り物 327 うのです。わたしたちは直感的にではあれ、そこに人間とい う存在の普遍性を見いだしているといえるとおもいます。ほ 博士にこう語らせています。 みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神様だといふ ﹁ あゝわたくしもそれをもとめてゐる 。おまへはおまへの 森崎さんの言説にたいしてたとえば﹁実証的でない﹂とか だらう、けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたこ かの誰でもなく、自分自身で発見するという体験、それはつ ﹁汎用性がない﹂という批判をしてすますことができないの とでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいゝと 切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁ は、そもそも実証的であるということや汎用性があるという かわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。 いけない。おまへは化学をならったらう。水は酸素と水素か ことがわたしたちの現実にその基礎をおいているからです。 けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほ まり古典をとおして自分自身を発見するということでもあり それは一面大切なことではありますが、現実に対して正しく んたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さ ます。普遍性とはそれが書かれている書物の中にあると同時 合致するということはその現実にしばられるということでも へきまればもう信仰も化学とおなじやうになる。けれども、 らできてゐるといふことを知ってゐる。いまはたれだってそ あるのです。わたしたちのかんがえることはどうしようもな ね、ちょっとこの本をごらん、いゝかい、これは地理と歴史 に誰かによって驚きやよろこびとともに受け取られるときに くいつもすこしずつ現実からはみ出してしまいます。でもだ の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理 れを疑てやしない。実験して見るとほんたうにさうなんだか から先に進めるのだとおもうのです。わたしたちが現実だと と歴史が書いてある。よくごらん紀元前二千二百年のことで はじめて完結するようなものとしてあるのだとおもいます。 かんがえていることはすこし視点を変えれば単なる幻想にす ないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理 ら。けれども昔はそれを水銀と塩でできてゐると云ったり、 ぎないということに気づくこともよくあります。そのように と歴史といふものが書いてある。だからこの頁一つが一冊の そのたびごとにいつもあたらしく生まれてくるようなものと 視点を変えることができるということ、世界を異なったしか 地歴の本にあたるんだ。いゝかい、そしてこの中に書いてあ 水銀と硫黄でできてゐると云ったりいろいろ議論したのだ。 たで認識することができるということは自分自身が変わると ることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本当だ。さがす して。 いうことでもありますが、そのためにこそ昔から人間は書物 と証拠もぞくぞく出てゐる。けれどもそれが少しどうかなと 斯う考へだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。紀元前一 のなかにことばを書き記してきたのではないでしょうか。 宮 沢 賢 治は ﹁ 銀 河 鉄 道 の 夜 ﹂ ︵ 異稿 ︶ の な か で ブ ル カ ニ ロ 328 っしょにすこしこゝろもちをしづかにしてごらん。いゝか。 ﹂ てたゞさう感じてゐるのなんだから、そらごらん、ぼくとい ちのからだだって考だって天の川だって汽車だって歴史だっ は斯うなのだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくた 千年、だいぶ、地理も歴史も変っているだらう。このときに づけているというふうに。 と一生懸命になるというような気持ちではなく、ただ問いつ て、わたしの中に入りこんでくるのです。答えを見つけよう に溶けていくような感じがするときにふと静かにやってき ぼんやり眺めているとき、自分の輪郭がまわりの空気のなか ているということ、そのことじたいがかれ個人を超えてなに 容はもちろんですが、かれがそれこそ﹁一しんに﹂書き続け の年月をかけて﹁内包存在論﹂を書き続けています。その内 ぶんに気づかなくなっていたり。でも、森崎さんは十年以上 みつけようとしすぎたり、そのために余裕をなくしているじ った頭や心を思い知らされるのです。性急に﹁ほんとう﹂を がいわれていて、これを読むたびにわたしはじぶんの固くな 長い引用になりましたが、平易なことばでたいせつなこと なのです。そして、彼女はそうしました。一方、森崎さんは 差し出すのです。それが﹁普遍的なものにすること﹂の意味 その場 所で ヴェイユは 神を 待ち望 み 、 ︿神﹀にむけて自分を おそらく同じ場所に立っているようにわたしにはみえます。 拡張する﹂と言います。この両者は、時代や国を超えて、今、 にすること﹂と言い、森崎さんは﹁同一性に監禁された生を うにおもいました。ヴェイユは﹁︿わたし﹀を普遍的なもの いくうちに、このヴェイユのことばの意味がふっと解けたよ 性原理の拡張﹂というかんがえに接して、それをかんがえて 最近になって森崎さんの﹁同一性に監禁された生﹂ 、 ﹁同一 かたいせつなものを支えているようなきがします。 その同じ場所で﹁内包存在﹂である人間という、すでに﹁他 の意味をずっとかんがえていました。かんがえていたといっ こと︱。これにながいあいだわたしはひっかかっていて、そ なくそうとしてなくせないもの。それを普遍的なものにする の 、 な く そ う と し て な く せ な い根 底 で あ る ︿ わ た し ﹀ 、この と離れてぽつんとある祈りのようなことば︱わたしの苦しみ 法で解除することができるのではないか、そうであればどん ことがわたしに感じさせる﹁痛ましさ﹂を森崎さんの思考方 れが現実のなかにすみかをもつことはついになかった、その 間の最良の一点、たしかに存在するにもかかわらずしかしそ イユたらしめたともいえるちいさな芥子種の一粒のような人 ヴェイユの思想に普遍性をあたえ、それがヴェイユをヴェ 者﹂を含みもつ﹁われ﹂を知覚したのです。 てもいつも頭を抱えてというのではなく、黙々と夕飯の支度 なにいいだろうとおもいます。 シ モ ー ヌ・ ヴ ェ イ ユ の 遺 さ れ た ノ ー ト の な か に 他 の 文 章 をしたり、小さなベランダのプランターに種を蒔いたり、水 をやったり、一日の仕事を終えてバスの窓から夕暮れの街を 「内包」という名の贈り物 329 解説というにはあまりに個人的な文章もそろそろ終わりに 近づきました。森崎さんの全体像がつかめたとはいえません。 実際の彼はもっといろいろな面をもった人で、わたしはその 一面を紹介することしかできなかったようにもおもいます。 そ れ は ひ と え に わ た し の 視 野 の狭 さ と 力不足 に よ る も の で す。わたしが描いた森崎さんの像は森崎さんにとってすこし 窮屈で堅苦しさを感じさせるものかもしれませんが、 ﹁内包﹂ という贈り物をくれた森崎さんへの、今のわたしとしてはこ れが精一杯のお返しです。 それから、わたしにとってこの解説文を書くことは、これ までわたしたちがくぐり抜けてきたいろいろな出来事のひと つひとつ、いまはまだことばにならないこともふくめて、そ のすべてがたいせつな糧であったということに気づいてゆく 過程でもありました。書きながらなんども途方に暮れました が、やっとここまでたどり着くことができました。 ﹁内包存在論﹂はこれからも書き続けられ、本誌﹁Gua n﹂の発行も継続されるときいています。森崎さんのご健康 と今後のご発展をこころよりお祈りいたします。 ︵二〇〇二年九月三〇日︶ 330 つながり 内包の 性 ︱悲しみの彼方に在る光明 原口孝博 内包の性−悲しみの彼方に在る光明 331 1 夏の盛りのある日、著者である森崎茂さんから依頼があっ た。本書に収められた論考の全体像を好きなように読み解い づけられてきたのも事実である。世界を向こうに廻し、単騎、 先陣突破を敢行する!ともいうべき彼の奮闘に少しでも応え るべく、日頃記せない私事を含め、まずは著者の人となりか める凄まじい内容が書かれている。また、日頃身近で接して ではみたが、改めて読み直すと、ここには世界を根本から革 くという難題が舞い込んだ。長年の不義理を果たそうと力ん は不親切この上ない拙い読者である私に、今回﹁解説﹂を書 一編ずつのコピーを貰い、断片的な感想を述べる程度で彼に 考が持続され、書き継がれた労作である。時折会ってはその 紡ぐように、いや、ほとんど壮絶かつ我が身を削るように思 それ以降引き続く数年間の続編であり、彼によって日々繭を 出版された﹃内包表現論序説﹄という著作があるが、本書は 文章でしか対面していない人には理解し難いだろうが、日常 はすぐに過ぎる。彼が書く長い長い、超ウルトラ級の難解な 煙草が吸えれば言うことなしで、身体には悪いが四∼五時間 酒・食物は要らずコーヒーのお代りができ、気の向くままに 静かな余韻が残る。二ヶ月に一度位の割で、場所は喫茶店。 い。不思議にも会う度に新鮮な感覚と軽い緊張があり、後に や落ち着き払った﹁古狸﹂同士という色褪せたイメージはな にいう昔懐かし﹁竹馬の友﹂や、若い頃血気盛んに燃え、今 交流を考えるに、ほとんど稀なことだと思えるのだが、一般 彼との付き合いは十代の頃から三十余年になる。この長い ら触れてみたい。 きた彼の驚嘆すべき研鑽と思考力には到底及ぶべくもない。 のくだけた時にみせる素顔の彼は、堅い話に増して艶っぽい てほしい、注文は一切なしという。彼には既に一九九五年に ハリケーンの中の木の葉のようで吹き飛ばされるのは目に見 色恋話 を好 む 。 ﹁肥後の 議倒れ ﹂というように 熊本人特有の 倒れるどころか、むずかしい話題の難関極まれる所を、見事 えているが、ここは開き直って少ない手持ちのカードを切る 課せられたテーマは荷が重いが、彼のことば︱﹁思想はい に色恋話へと連結・反転︵内包化?︶させる天賦の才さえ持 議論好きではあるが、決して理屈に溺れて倒れたりはしない。 までは世界を統べるものではないし、世界を説明するもので 固な一面、そんな時にはヒゲ面にあどけない笑顔さえ見せる、 しかない。 さえない。 ・・ 思想は作品であり、個人を生きるもので、自分 たちのそれぞれの生をつなぐことが思想なのだといってもよ 男前のいなせなオッサンである。 曲と思想は全く同じものなのだ。感応するかしないか。おう、 コードの重低音︵重厚で精緻な論理︶が持ち味であり主調で 彼の持つ独特の雰囲気はこう言い換えてもよい。マイナー ち合わせているかのようである 。﹁もっこす﹂の徹底して頑 い。ブルース・スプリングスティーンの﹁カバー・ミー﹂一 ﹃イッツ・ロックン・ロール﹄ ﹂ ︵ ﹁内包の由来﹂ ︶︱に、勇気 332 のぼる七色の虹や雲間の青空のようにカラフルな色彩︵熱い あるにもかかわらず、不思議にもその音には、夕立後に立ち なずける気がする。 ﹁情動の性=根源の一人称﹂を置くのも、彼のかつての行状 底してこだわり、本書で展開する内包存在論のキーワードに に完全黙秘を通す。ところが、拘留明け出所で真っ先に駆け との乱闘の末同志と共に某警察署へ連行され、数日間戦闘的 に激突、ヘルに大穴開けて爆笑の渦。またある日は、機動隊 方へよそ見でもしたか丁度右翼隊列から飛んできた大石が頭 ん頑張って!﹂と応援する女学生の黄色い声がかかり、その 右翼隊列と九大キャンパスで対峙に及ぶ。どこかで﹁森崎さ の騒動・議論、ゲバに明け暮れる日々のある日、強そうな新 イクを乗り回し、長髪に赤ヘル覆面姿がよく似合う。全共闘 た侍 風か と思 っていたら 、逆 から 読む ︶ 。 さ っ そ う と大 型 バ は﹁ 与 田 好 女 ﹂ ︵山本周五郎 に出 てくる﹁永井采女﹂と い っ 感受するところを丁寧に言葉に置きかえようとの強い意志が 巷間の読者をあてこむ小説や教養本とは全く異なり、自身の や息遣いを﹁聴く﹂ことを第一義とするのが相応しいだろう。 む﹂というよりはむしろ、行間に埋め込まれた情感のうねり 忘れている。彼が求めているのはそういう理解ではない。 ﹁読 落としかねないし、一旦理解はしても二∼三日過ぎればもう 理だけを辿ろうとすると窮屈で主張の大事なポイントさえ見 むしろ行間が分厚く、十分呼吸しているといつも感じる。論 しどこから開いてもわかることだが、彼の文章は生きており、 で綴られており、最後まで読むのはとても忍耐がいる。しか は、文章でみれば思想・哲学をベースに確かに難解なことば 余談はさておき、彼がテーマとする﹁内包存在・表現論﹂ を知る者としては﹁ウンなるほど。さも有りなん﹂と十分う 情動︶がいつも同時に、並ぶように溢れていると ・・・・ 。 少し紹介すると、学生時代は大学在籍八年に及ぶ名うての つけた先は何と駅前ミュージック。一人でニヤツキと思いき 伝わるから、時間を置いてゆっくり、何度も読みかえすと違 ﹁戦闘的 活 動 家 ﹂ ︵兼女好き!︶ 、難解アジビラのペンネーム や、拘留仲間の某君とここでバッタリ再対面!で赤面するこ 情感と論理の起伏や流れを直体験できる対話の時であり、む は聞かないので結構純粋一途?かもしれないが、こんな色恋 かけ回しでおそらくは取り逃がしも数知れず。だが刃傷沙汰 には拒まれてなおプロポーズは都合X回に及ぶ! ・・・・ 。 彼は十人並の男前で相当にモテたはずだが、よそ見と追っ 返され、気がつくと、熟知しているはずのいつもの自分なら 合いが訪れることがある。的確な語りで思考が何度もめくり いのだが、時折り何か﹁ハッ﹂とするような、我を忘れる間 彼との対話は取りとめない話題や心掛けの良くない話も多 った味が出てくる。でも、一番よいのは自然体で向き合い、 と甚だし ・・・・ 。日頃の口説き術は武骨直線的で、気に入り女 学生の周囲にいる男連中を問答無用でなぎ倒し、しかも当人 にまつわる逸話には事欠かない。彼が長年にわたる思考を通 考えつくはずもないような理解や言葉さえ交わしている。断 しろ彼の﹁語り﹂をこそ聞くべきだろう。 じて、男女の恋愛や人間的な愛情、対幻想の在り様などに徹 内包の性−悲しみの彼方に在る光明 333 いるある種の情動がこちらに伝わって反響し、互いに重なり 言するが、これは理屈の世界ではない。彼の内部で起こって う表情や雰囲気を見、感じるのがとても好きだ﹂と語る。 時にコーヒーを振る舞いながら接する患者さん達の﹁そうい か り に わ た し た ち の生 も 悲惨 で あ る と し て 、わ た し た た し か に 世 界 に は い ま も な お 目 を 覆う 悲 惨 が あ る 。 複合化しているとでも言えようか。普段は意識下に眠ってい る手つかずの﹁何か﹂︱深い情念のようなものが、ある話を と し た 生 を 手 中 に し て 、 そ の 手の ひ ら の 外 に 苦 海に あ 契機に互いの自我を越えて迫り出し、引き合うような感覚で 彼が営む鍼灸院を訪れる男女には、老若を問わず、治療の えぐ 衆生の 生があるということではない。 わ た し た ち ちが生きるのは 、いずれにせよその一つだ。ぬくぬく 合間の心地よい会話で、﹁ウーン、実は昔、胸がキュンとな 中 心 が あ る 。 そ れ 以 外 で は あ り え な い 。︵﹁苦海 と 空 虚 ある。この体験はおそらく私に限らない。 るこれこれの出来事があり、 ・・・・ ﹂とつい告白してしまう人 が多いという。これには訳があり、何せ治療室のBGMがい は な ぜ回 帰 す る か ﹂ ︶ は だ れ も 固 有 の 生 を 生 き て お り 、 そ の 固 有 さに 世 界 の い。R・ストーンズ﹁ミスユー﹂ ︵大好きだ︶ 、B・フェリー ﹁スレイ ブ ト ゥ ラ ブ ﹂ ︵恋の奴隷︶、 ﹁カバーミー﹂ ︵抱いてく 時空は一気に遡ってそこで停止し、しばし往時の姿・形を現 ることである。齢を重ね、はるか彼方の出来事であっても、 いる時の表情や顔つきが瞬時に輝きを増し、心が躍動してい 大事だと思えるのは、ほとんどの人に共通してそれを語って だが、ここで言いたいことはやや異なる。とても印象的で でもそうなるだろう。知る人ぞ知る森崎マジック ? ( と )でも 言える互いの思考・情動の交換とめくり返しである。 七三年以降の壊滅的状況での体験と三六歳時に襲った出来事 中で鋭く感受し、体得したに違いない。そしておそらくは、 からではなく、坦々とくり返す日々の人間的交歓︵恋情︶の 在なのだということを、彼は高尚なアカデミズムや知識理論 身を賭けても大事だと思える家族や親、恋人や友人⋮らの存 きの表情や心踊る﹁元気の素﹂は、金・モノではなく、我が を鞭打つようにして生きている。それでも、不意に見せる輝 本書の中で語られる彼が歩んだ﹁苛烈な生﹂と同様、市井 わす。その多くは具体の関係としては既に離別や挫折を経て ﹁Ω﹂を通じて、自身が固有に抱え込んだ軋轢やひずみを解 に生きる人々もまた日常は様々な苦や煩いに囲まれ、我が身 おり、おそらくはひっそりと胸の奥に折り畳むようにして口 れ︶ ・・・・ などで包まれれば余程の謹厳居士でもない限り、誰 に出すことはなかったはずだ。その上での今であるにも関わ さずに持つことで最も魅力的な存在となるのであり、思わず きほぐす手掛かりも ・・・・・・・・ 。 人間は誰しも心から愛し、大事に思える者︵他者︶を手放 らず彼らは、モノトーンの中で一瞬輝くキラキラ星のように、 思わず言葉を発する ・・・・ 。彼は日々の仕事を通じて出会い、 334 という行動を取らない人はいないだろう。これは、大切この 期せぬ危機に瀕した時であり、思わず﹁我が身を捨てても﹂ 瞭にわかるのは、心から愛し、慕う家族・肉親、恋人らが予 となどとうに吹き飛び、いつの間にか一体化する。もっと明 我を忘れ、その身を預けて心を開くことができる。自分のこ う。 脳天を割られるに等しい目を瞠るべき出来事なのだと言えよ り、一見簡単でありきたりのように見えるが、これは本当は ・洋の東西を問わず、世界の誰もが既に経験済みの事態であ 深く愛し、恋する者同士の間では、いにしえの昔から古今 主義や体験思想をすこしも意味しない。また、自己によ わたしが当事者性に徹するというとき、即物的な体験 内包存在と当事者性の関係について、彼は次のように述べる。 の意味でこの両者間では権力も、差別・対立も生まれない。 はありえない 。 ﹁ やるかやらないか﹂ のいずれかであり、そ に据わっている限り、俯瞰する視線や冷静に客観視する態度 かりやすい原型である。このような心情が我が身のど真ん中 当然だが、これが著者がいう﹁当事者性﹂の最も簡単でわ 愛する他者自身が生きる意味にそのままつながっているのだ であれば、私自身が生きる意味は、何の媒介もなく無条件に、 きり﹂ではなくて存在する︵﹁一人のままで二人が可能﹂ ︶の かもしれないと ・・・・ 。そしてもう一 つの問いは反 対に 、 ﹁わ たし﹂という人間が、はじめから無条件に、孤独で﹁一つっ てられて孤独に 、﹁一つっきり﹂として在るものではないの 本当は始めから自分が思っているように単独で、他者とは隔 内包の情動﹂として語るように、﹁わたし﹂という人間は、 に思える存在なのなら、著者が﹁存在の彼方からよぎられる 私自身を失うことと同じであり、生きる意味がなくなるよう なぜなら、この事態は、次のような﹁抱いてもさしつかえ って所有されるものを当事者性とおもっているわけでも 上な い彼ら を理 不 尽 に奪 われることは 、 ﹁わたし﹂という 存 ない。当事者性は同一性のほつれを知らずに知っている と ・・・・ 。更にまた第三の問い ・・・・ 何の媒介もなく無条件に愛 する他者との﹁併存﹂が可能ならば、それは生者・死者との な い 疑 問 ︵ 問 い ︶ と 、 理 解 が か な う答 え ﹂ ︵森崎︶を 自然に ということにおいて、意識せずに同一性の彼方を志向し 間でさえ、本当は分け隔てを超えて在ることができるのでは 在そのものが意味を失うのと全く同義なのだということを、 ているのだとかんがえている。痛切な体験を内面化する ないのかと ・・・・ 。 導いてくれるからだ。即ち、人間が、大切な者を失うことは ことも社会化することも拒むことによって可能となる生 無条件に熟知し了解しているからに他ならない。 の固有さのことを当事者性と呼んでいる。 ︵﹁内包世界論 そして最後︵究極︶の問い ・・・・ は、 ﹁わたし﹂が 未だ見知 らぬ他者とは、国家・民族・社会など︵三人称としての共同 1︱内包論︱内包の由来﹂ ︶ 性︶を媒介にする以外に私たちは関係を持つ手段を持たない 内包の性−悲しみの彼方に在る光明 335 おいた︶何らかの形・方法で無条件・無媒介に﹁併存﹂でき が、もしも見知らぬ他者を 、︵人を愛し恋する心情を基礎に し﹂の心の中にはその者が、その者と関わり累積された多く がなくとも ︵そ し て 、深 い悲し み の 底 に沈も う と も ︶ ﹁わた 可能にするのは、身体的には離別し、二度と相まみえること この事実こそ、人間がヒトではなく人間たる由縁、人間だ る位置︱私が愛する者の位置︵二人称︶︱にまで持ってくる 包む︵即ち、戦争や対立、差別が生まれない︶ことができる しみを抱いたまま孤独に余生を送るのではなく、本当は︵複 の時間と幾多の軌跡が、はっきりと姿・形を持って生きて在 のではないかと 。 ・・・・ 大 仰で 、荒唐無稽 に聞 こえるかもしれないが 、 ﹁同一性論 数の︶愛する他者と併存し共有する︵悲しみを反転させた︶ ることによる。 理の思考の慣性﹂が私たちの意識を﹁制限している﹂事実に ﹁豊かさ﹂を膨らませ、身に纏って生の場に還っているのだ。 在り方が可能になれば、先の﹁当事者性﹂の持つ力によって、 思い到り、著者の主張を丹念に辿ってみれば、このように世 悲しみを真に深い悲しみとして感受するが故に、また心から 見知らぬ他者の生もまた当然に﹁我がこと﹂として含み持ち、 界や人間の在り方を根本から革める可能性を十分に持ってい 愛し慕う他者をもつ﹁わたし﹂がいる限り、生死や離別とい と語る彼の熱い息遣いを、わたしはこのように感じるのであ ﹁人間というよきものは、まだ本懐を遂げたことはない﹂ 源の性﹂として語るのは、このようなことを指しているのだ 常に﹁在る﹂のだといえよう。彼が﹁恋愛の彼方=内包=根 う具体を超えて、愛する者たちは﹁わたし﹂と共にいつも、 け が 持 つ 可 能 性な の で あ り、 だ か ら 、 ﹁わたし﹂は 失意・悲 る。 る。 その生の意味も同時に失われる。まちがいなく一度は同時に 本当は、愛し、慕う他者の喪失と共に﹁わたし﹂そのものも、 かなく、心︵自在な観念︶を持つ人間存在の第一義としては、 しかし、それは目に見える物的制約による二・三次的意味し 喪失の悲しみが孤独や空虚の要因であるかのようにみえる。 ︶ だけが変わらず目の前に在り、続くようにみえる。 ︵そして、 の死が自・他を分かつために、残された者︵﹁わたし﹂ ︶の生 少し戻れば、確かに現実には、愛する者との離別や身体上 なびく度し難い本性﹂ ︵森崎︶が、 ﹁一つっきりのわたし﹂と 間の持つ﹁眼にみえないものの存在より、かたちあるものに 代理され、形を変えているかもしれない。しかしそれは、人 や 天 地 ・ 自 然 界 ︵ 渡 辺 京 二 の い う﹁ 大 い な る 森 羅 万 象 ﹂ ︶に 生み、造り、ある場合には、それは神・仏などの宗教的対象 なぐ方法としての第三者︵外部の別物としての共同幻想︶を こととし社会を維持してきたために、他者との離・死別をつ い及ぶことなく、生物自然の理による自・他の隔てを自明の これまでの私たちの歴史ではこのような存在のあり方に思 と私には思える。 ﹁別れ、死ぬ﹂のだ。かろうじてその生を持ちこたえる事を 336 した生を歩み、創造し、日々を過ごすことを可能にしてきた 介に併せ持つことによって、再び、喜怒哀楽にまみれた充実 いう見えざる存在︵つまり、わたしの分身︶を無条件・無媒 るいは﹁仮の姿﹂だと考えてよいと思われる。私たちはそう つながり︵性︶としてある﹁自己の化身・投影﹂であり、あ 約に過ぎず、おそらくは、それらもまた豊穣な、他者を含む ・仏、天地自然という﹁部外者﹂に委ねてきた長い歴史的制 ﹁わたしでない君﹂を区分し、両者の接続︵つながり︶を神 の充実﹂に変える思考のダイナミズムがここにある。 やは ばよい 。 ︵ 他者の︶ 苦痛 や悲 嘆を 内包化 させ 、 ︵己れの ︶ ﹁生 その死を悼みつつ失われた彼の分を併せ持ち、力強く生きれ のような行為に及んだのだともいえる。残された私たちは、 はわたしの分身﹂であることの証であり、だからこそ彼はそ い。未見の彼の存在がわたしの心に残るという事実こそ、 ﹁彼 たしにはそんな勇気ある行動はできない﹂と恥じる必要はな れたために、 ﹁共に生きる﹂ことを可能にするからである。 ﹁わ その肉体は消えても、多くの見知らぬ者の心に彼自身が刻ま のである。 り、 ﹁よきもの﹂としての人間は、 ﹁まだ本懐を遂げていない﹂ のではないか。 数年前、東京のどこかの駅で、電車ホームから線路に落ち た酒酔い男性をとっさに助け出そうと飛び込み、結果、命を な き状 況での 彼の 行為︵ 当事者性 ︶は 、 ﹁見知らぬ 他者﹂を 民族や国家が胸をよぎったはずはない。眺め、俯瞰する余裕 よう﹂と決断させたものは一体何であろうか。その一瞬に、 はそれが投影された大義やルサンチマン、寄り添い︶へと導 れる失意や喪失、深い悲しみをそのまま孤独や空虚︵あるい ﹁内包存在︱情動の性﹂という思想は、個人一人ひとりに訪 広がりと深さを持っている。 人間だけが持つ観念の力は、私たちの想像を遙かに超えた 無意識に﹁我がこと﹂として併せ持ったのではないか。別の くのではなく、存在を分け持つことによって反転させ、悲し 落とした若い韓国人の留学生がいた。彼をして瞬時に﹁助け 言い方 をすれば 、 ﹁彼﹂ を助け な い 自 己は本当の ﹁わたし﹂ みを悲しみのままに、それが深ければ深いほど﹁生の意味づ 彼 が 問 題 意 識の 出 発 点 に お い た ﹁ 人 間 の 存 在 と 意 識 は ど う 能となる。 の生﹂を、そのままで﹁世界の中心﹂に据えることもまた可 とするがゆえに、一人ひとりの誰にも例外なく訪れる﹁固有 そして、いま・ここにある﹁わたし=自己の改変﹂を起点 け﹂や生きる﹁推力﹂へと誘うことを可能にする。 ではなく、わたしが﹁失われる﹂と直感したのではないか。 ﹁当事者性は、同一性のほつれを知らずに知っていること において、意識せずに同一性の彼方︵内包の性︶を志向して いる﹂との著者の言葉は、この青年にぴったりと重なる。 彼の行為と勇気に対し、人々は賛辞を送りこそすれ非難す る者はいないだろう。その事実は﹁まだ人間は滅びない﹂と いう意味で大きな救いである。なぜなら、彼の行為によって 内包の性−悲しみの彼方に在る光明 337 という根源的な問いを解くカギも、このように考えることが 己の陶冶がなぜ他者への配慮と矛盾してしか現れないのか﹂ 相関しているか﹂ 、 ﹁利己の追求と利他のはらむ矛盾は?﹂ 、 ﹁自 質点と す る思想がその分裂を呼び込んでいるからなの 相対的なものにすぎないようにあらわれるのは、自己を 人間の意志が人間と人間との関係が強いる絶対性の前で ともまったく異なった思想として領域化されうる! だ。点の思考は内包存在論によってヘーゲルやフロイト 長い引用になるが、彼は、このあたりの機微を次のような できれば、少しずつ見えてくるような気がする。 内包存在を主体とする内包というつながりが、身を節 組んだ観念の編み目によって成り立っている。パンがこ 権力の気配を嗅ぎ取ったからだ。現実はさまざまに入り くれないかと考えはじめた。それは点の思考に窮屈さと ある時期から私は﹁奥行きのある点﹂という概念をつ あり、しかし歴史の制約であるということにおいて、不 れを人間の本性と思いなしている。それは頑迷な憶見で 的な自己からはじめる限り妥当なものである。人々はそ 人間の持つ我欲や我執を本能や生得的とみなすのは離散 包存在を主体とし、二つの自己が分有されることになる。 ことばで語っている。 こに一個あるとする。堅固な条理は、人はそれを奪い合 変ではなく可変である。点的な思考をとるかぎり、自己 目にくびれて分有されたものを自己と考えればよい。内 うものであると考える。マルクスの経済論や吉本隆明の は善悪に分裂し、自己の中に善悪をふくみもつことにな 内包存在は自己=意識を一 跨ぎにしてじかに存在す 幻想論は、身体に心が貼りつき、それをひとつきりの身 った。なぜならそこに人間の生命のかたちの自然をみる る。人であることの根源をなすつながりのあらわれが自 るほかない。そしてそこに空虚や我執が棲まうことにな からだ。近代の偉大と背理がそこにある。吉本の点的な 己であり、自己にはつながりがあらかじめ埋め込まれて、 体と心からなるそのものが所有することを、暗黙に表現 思考は、それをいわば秤の原器にして、そこから世界へ 他 者をすでに 含み も つ も の と し て 存 在している 。 ﹁我﹂ る。 の触手を伸ばしていくという方法だ。この思想は不可避 が﹁我にあらず﹂をすでに含みもつから、一個のパンが の公理としている。このことを疑うことは彼らにはなか に空虚を抱え込む。この存在には穴があいているからだ。 の自然も、私の内包論では観念の問題として扱うことが 吉本がそこにくつがえし得ない条理があるという人間 ある﹁社会﹂を拡張する内包自然とがあやなす世界には、 い。内包存在の分有者と、自然の祖視化された代償態で 主 体 は い か な る 意 味 で も自 己 に 属 し て い る の で は な 自然に分けもたれることになるのだ。 できる。私は自己というものを彼らとは違って考えた。 338 ︵共同幻想 と自己幻想 が ︶ ﹁ 逆 立 ﹂ す る と い う 思 考 法が めての現象学﹄ ︶ ﹁ロマン的幻想﹂が剥がれていきます︵竹田青嗣﹃はじ 民派論者︶には、おそらく﹁内包の性﹂の深みのある機微は 一読してわかるように、このような議論をする手合い︵市 存在しない。私は﹁関係の絶対性﹂を起動する点と外延 の思考の彼方に途方もない夢を見る。不倫の吉本思想、 倫の内包思想。内包には孤独と空虚がなく、かなしみが 先にふれた﹁恋愛の彼方=根源の性﹂を対幻想の還相︵戻 する理由などでは毛頭ないからだ。いつも﹁可愛いのは自分 が自・他を分かつ分岐点となったり、社会的共同性を必要と ある。 ︵﹁内包存在論Ⅰ﹂ ︶ り道︶とみなし、内包存在の軸にすえる彼の考え方に対して、 だけ﹂とばかりに自己を後生大事に抱え、自己ロマンが剥が 伝わりようがない。現実的な恋愛の成就・成否といったこと 市民派を自認する者たちは、そのはるか後方で次のような見 れれば関係は終わり、そこでの刃傷沙汰が怖いだけの理由で ︵対幻想︶は所詮自己エゴで、持ち堪えられないから共同幻 ﹁社会的共同性﹂を持ち出し逃避しようとする。男女の恋愛 解を示している。 人間にとってはエロス的な関係が第一次的なものであ へ の 道 行 き が 予 定 と し て組 み 込 ま れ て い る 。 ︵略︶した は、それ自身の本質のうちに、多かれ少なかれ﹁挫折﹂ 間のエロス感情︵個別の相手との一体化を目指す志向性︶ 間の生はそのように出来上がっていないからである。人 幻想︵ 個人意志 ︶に 対して 逆立 する ﹂ ﹁人間は、他の動物 の ける。これでは、吉本隆明が﹁共同幻想︵集団意志︶は自己 後追いした上で、やはり﹁共同性が要る﹂と無理やり結びつ くわかっていない。だから挫折・離別という具体現象のみを 彼ら に は 恋愛が ﹁挫 折 ﹂ ︵ と し て見 え る ︶ 本 当 の 理 由 が 全 想が要るというわけだ。小ずるさ丸見えである。 がって人間は、エロスの挫折の補償として﹁社会的共同 よ う に、 個 人 と し て 恣 意 的に 生 き た い に も か か わ ら ず 、 ︿制 り、それで完結すればいうことはないのだが、しかし人 性﹂を組まざるをえないのである︵小浜逸郎﹁吉本隆明﹂ ︶ ているものの本質は、自分自身の﹁ロマン的幻想﹂なの 支えられています。人が恋人の﹁美しさ﹂の中に直観し 恋愛の 情熱 は、じ つ は 恋す る人間の﹁自己幻想﹂に 言うほかない。彼らに対して、著者はこう批判する。 点です﹂と断固として主張する本意さえ理解できていないと ︿対立﹀ ・︿矛盾﹀ ・︿逆立﹀として表出せざるを得ないという だしたため、人間の本質的不幸は、個人と共同性のあいだの 度﹀、 ︿権力﹀、 ︿法﹀など、つまり共同幻想を不可避的に生み です。だから恋愛が進み、そこで男女の生身の人間関係 が取り交わされると、必ず徐々に相手に投影されていた 内包の性−悲しみの彼方に在る光明 339 割るのだ。同一性原理のもとでの人間のありようからは るとみなす存在の制約が男と女を生木を裂くように断ち 悪いのではない。心身一体となった存在を自己が領有す ︵男女の愛が︶うまくいかないのはお互いの心がけが 蹂躙される。このような市民理念の持つ隘路について、著者 別や戦争・殺戮を押し止める手段なく個はバラバラにされ、 義︵孤独な自己投影・鏡としての共同幻想︶が忍び込み、差 ある。堂々めぐりがくり返され、結局はその隙間に欲望や大 回帰し、差別や対立、強者・弱者の序列は保存されたままで る そう言うことができる。だからままならぬ現実があるの はこう述べる。 あ だ。ただ、それではこの世がこうでしかないということ 断じて自己愛ではない。それは存在の彼方からよぎられ 好きになって、魂を奪われ、腑抜けになるというのは、 会的な義﹄から生き方における﹃心の義﹄へ閉じてゆき、 をおよそ次のように言います。義を求めるこころは、﹁ ﹃社 竹田青嗣は﹁現代批評の遠近法﹂のなかで精神の変遷 を追認しているだけではないのか。 ︵略︶ る体験なのだ。 ちは自己という同一性としてではなく、性としてあらわ 自己に先立つ存在の彼方によぎられるとき、わたした ことになり 、 ﹁ い ろ ん な体 験 の か た ち が あ っ た ろ う が 、 間相互の関係の世界に戻ってくるという道程﹂をたどる そしてやがてそのあまりの独我論的世界に気づいて、人 る れる。わたしは自己よりも疾くふたりである。この存在 こ の 道 す じ の 順 序 は か な り一 般 的﹂ な も の で 、 ﹁ほんと あ のありようを分有者という。 ︵ ﹁内包世界論1︱内包論﹂ ︶ う﹂をなんとかしてつかみたいという﹁欲望﹂は、﹁い 自己︵ジコチュウこそ大事︶←社会︵他者との共同性とし な気になります。彼の言うことは霊感商法よりももっと きているのはおまえではないかと、めまいをおこしそう うなれば人間の観念のレトルトの 世界では生き続ける てのルールを守る︶←自己︵損得づくめの中で分に応じ賢く 悪質だと思います 。︵略︶社会への反意が挫折をへて内 ついでながら、このような市民派論者の見解にある国家︱ 生きる。その上で余裕があれば他者に寄り添う︶という風に、 面化され﹁心の義﹂へと閉じてゆき、現実の空気に触れ が、現実の空気に触れるとたちまち死滅してしまうよう 自・他を分離し、そのつながりの根拠を解明せぬまま社会的 るとたちまち死滅してしまうような性格を持っていたと 市民社会原理を支える自己︵市民︶を自明のものとする限り、 共同性を求めるため、 ﹁自分のため﹂が一番、 ﹁他人への愛﹂ いうのが竹田青嗣の固有の体験であったとしても、そこ な性格をもっていた﹂と語ります。レトルトの世界で生 がその次という自・他の構図は何ら変わらない。個人は外部 からどんな一般化も導くことはできません。体験の固有 私たちを取り巻く様相は、以下のようになる。 規範︵ルールやモラル︶を遵守する﹁可愛い自己﹂へと再び 340 だからわたし達はわたし達にリアルに感じられる足場、 の愛﹄にたどり着くみちすじを途絶えさせているからだ。 由はそれがいまやわたし達にそこからはじめて﹃自分へ ということがなぜモラルの始点にならないのか。その理 ・・・ 加藤典洋は言います。﹁﹃他人のため﹄に考える は過激に平凡です。 ︵略︶ ん。生きることはもっと激しい出来事です。なにより生 釈を拒絶 しないようなものが生であるはずがありませ 方をしようと、生は固有であり、互いに離折します。解 性とはそういうものとはまるで違います。どういう生き どうするというのだ 。 ︵﹁内包世界論1︱内包論﹂ ︶ られるものはこの振幅の範囲にある。生を無限猶予して 頓珍漢なことを言い始める。おおまかには理念として語 を善の方向にだけ暢気に考えてきたのが間違いだったと への教宣に嫌悪を感じるものが、理想の社会のイメージ かと思うと一方で、ルールとモラルの学級会活動の世界 理念が今ではこの世の唯一の理念に成り下がっている。 はない、強いもの勝ちといっているだけだ。唾棄すべき ことができるかみんなでかんがえましょう。なんのこと ようではないか。そして、どうしたらいい社会をつくる ものを社会が大切にしないのか。そのような視点を提示 いるような若い人を見るにつけ、なぜジコチューという うとし、そうすることが苦しく、かえって自分を責めて を開かなくてはならないのである。/人のために考えよ 生死さえも超えて、人間だけが持つ観念が産みだすものであ おそらく、目に見える具体の関係の成否・是非はもちろん、 有な﹁いま・ここ﹂を奔らせる﹁自・他のつながり﹂とは、 間の﹁善﹂や﹁愛﹂を内包の性によって復元させ、誰にも固 生を﹁無限猶予﹂させず、未完のまま途方に暮れている人 ﹃自分のため﹄からはじめ、 ﹃﹁他人への愛﹄にいたる道 する人間が少ないことを、不健全なことだと思うのであ り、豊穣で、もっと深い場所にある。 本書の主要な柱である︿人間存在の原基と可能性を、情動 る﹂ ︵﹁この時代の生き方﹂ ︶ 。ぼくはこういうおぞましい 言葉にであうと鳥肌がたちます 。︵﹁﹃第二ステージ﹄論 の 性 = 一 者 に し て二 者 と い う 地 点 に 置 き 、 ﹁一つっきりのわ 対立・矛盾は融解され、世界はもっと色めき匂い立つはずだ﹀ 箚記Ⅰ﹂ ︶ この損得ずくめの社会を理念化した美しい欺瞞を市民 という著者の優れた卓見は、おそらくこのようなことが起点 たし﹂という一人称を根本から改変できるならば、自・他の 社会原理という。ここでは、人間は、分に応じて、らし となっている。 2 く生きることが原則とされる。そして理念を統べるもの がこの世を睥睨し気色悪い能書きを垂れる。革命などと いう超越はろくでもないから、まずこの現実から出発し 内包の性−悲しみの彼方に在る光明 341 彼の﹁語り﹂と相対していて、いま一つ感じる情景がある。 そしてその意味するところは何かというのが、私にとっては 大きな疑問でもあった。本書での彼の主要論点とも関連する が、ガス室行きという自らの運命を前に﹁それでも人生にイ エスと言おう﹂と合唱していた姿を語った時には、彼は眼鏡 の奥に静かに涙を湛え、しばし無言で遠くを眺めていた。 本書で論じる中村哲が描くアフガンの女性らい患者﹁ハリ 物の中で、アメリカ原住民・チェロキーインディアン部族の ﹁リ ト ル ・ト リ ー ﹂ ︵フォレスト ・カーター 著︶という 書 彼は全く変わらず、同じような態度と表情を見せた。彼女ら 海 と 空 虚 は な ぜ回 帰 す る か ﹂ ︶らについて語っ た時もまた、 に思わず合掌するウガンダの枯れ枝少女﹁ファルヒア ﹂ ︵﹁苦 マ﹂ ︵﹁熱くて深い夢︱中村哲論 ﹂ ︶や、辺見庸が そ の 悲惨さ 民が故郷を追われ、遠い居留地へ向かうくだりがある。後世 の無言の叫びや怒り、メッセージが己れ自身にそのまま乗り ため、そのことについて触れたい。 ﹁涙の旅路﹂として語り継がれ、N・チョムスキーが著書﹃9 移り、あるいは全く直接に我が身の姿であるかのように。 これは何を意味しているか。この印象を言い当てることは ﹄ で ﹁ 歴 史 上 最 も 大 掛 か り な集 団 虐 殺 の 一 つ ﹂ ﹁インデ ィアンは殺され、人口が二〇分の一に減らされ、追い散らさ 難しいが、見知らぬ他者へのありきたりの同情・共感、怒り ・ れた︵十六世紀以降一五〇年間だけで推定七六〇〇万人 の共有という次元ではない。これは、相互の対立、否定や寄 で四人に一人の命が失われたという。来る日も来る日もただ には、一つの際だった特徴が見られる。 ﹁人の足元を見る︵差 思うに 、彼 の思 想に固 有の 、 ﹁内包の性﹂と い う イメージ り添いとは無縁の、境涯や立場を超えて人間の最深部から滲 歩む。だが、彼らは泣きも怒りもしない。何人かが次々に倒 別し傷つける︶のを拒む﹂という否定︵不可侵︶よりは、 ﹁足 一八三八年の冬、彼ら一万五千名は騎兵隊に追い立てられ れ息絶えるが、それを無言で背負い、倒れればまた誰かがそ 元を見られる︵差別され傷つけられる︶ことを拒む﹂という、 み出てくる匿名の応答であり、自・他の彼方で屹立するよう れを背負い、ただごう然と顔を上げ、前を向いたまま何日も 人間の断固とした肯定︵不可被侵︶の方に大きく重点が置か 東部アパラチア山脈の麓からミシシッピ川を渡り、移住地オ 歩き続ける。彼はこの場面に触れた時、じっと涙をこらえた れていることである。彼の主張にみられる人間の強靱な立ち な不思議な情景だった。 まま一 言 、 ﹁ 人 間 の ア イ デ ン テ ィ テ ィや 誇 り と は 、 こ う い う 姿、毅然とした誇りはどこから生まれるか。 また、﹁夜と霧﹂で著名なフランクルの実体験で、第二次 大戦中 ユ ダ ヤ 人 迫 害 に よ り強 制 収 容 所 に 収監 さ れ た 人 びと 彼は、中村哲と辺見庸の思想を俎上に乗せる形で、いかな 毅然とした姿・振る舞いのことをいうのだ﹂と語った。 クラホマへ向う一六〇〇キロの旅に出る。凍てつく寒さの中 減!︶ ﹂と語る白人の侵略・襲撃によるものである。 11 342 力性について、雪崩をうつように声を荒げ、何度も繰り返し る﹂態度︱第三の位置︵共同性︶︱力学の緩衝圏域の持つ権 がもたらす関係の傾き・自他を結べぬ欺瞞性や、出来事を﹁視 ることの﹁断固たる肯定﹂と、当事者性を欠く他者への配慮 る者にも固有に訪れる﹁生﹂が無条件・無媒介に︵共に︶在 の源泉がリアルに存在する。 と。ここにはまだしかとは知られることのない豊穣な生 逆に﹁われにあらず﹂を手がかりに﹁われ﹂をひらくこ ﹁われにあらず﹂を﹁われ﹂に封じ込めるのではなく、 割論という途方もない倒錯をうんだのだ。 ︵略︶ んなことになるのか。この取り違えと錯覚が知識人の役 人はだれも比較を絶したひとつの生を生きており、何 述べていく。これは、個々の生を根底でつなぐ﹁内包の性﹂ の、ごう然と屹立する﹁アイデンティティや誇り﹂から生ま よりまず自分においてそれは始まる。生きるということ と書き記す辺見庸をわたしは微塵の疑いもなくまっすぐ ﹁この娘こそが世界の密やかな中心でなければならない﹂ どうしてファルヒアやナサカの苦海がわがことのように だ。もしわたしの生の固有さに世界の中心がなかったら、 やナサカの生はありえたわたしの生のかけらでもあるの れる言葉であり、咆吼である。 信じることができる。彼の物言いのなかに欺瞞はかけら あらわれるだろうか。 ︵ ﹁苦海と空虚はなぜ回帰するか﹂ ︶ は一 切の解 釈を 拒否す る こ と な の だ 。 ︵略︶ファルヒア もない。たとえ彼がファルヒアのような苦海になく、 ﹁人 の苦しみをただ傍観し、記述するだけの人でなし﹂であ 、わ 、ず 、﹁われにあ なぜならこの事件の現場で辺見庸は思 定する剛胆さの根拠を彼は語るべきなのだ 。 ︵﹁内包世界 生の側に居続ける強さを持っていない。ぶざまな生を肯 彼は感じたことを虚心に語っているのだが、あくまで らず﹂を含みもつ﹁われ﹂としてファルヒアに﹁合掌﹂ 論1︱内包論﹂ ︶ るとしても。 しているからだ。そういう機微がときに人を不意打ちす いる 。﹁合掌﹂には遙かな太古の、わたしたちに連なる づくものを、彼の言葉と身振りを通して言いあらわして ものでもない、人であることのはるかな深みであつく息 き出した。ものの一分とかからぬうちに捕虜は弓ぞりに 噴水のように出血が起き、裂かれた気管から血の泡が吹 た。まるで羊を屠殺するように︵略︶頭部を切りさいた。 ﹁ゲリラ仲間の一人がナイフを抜いて彼の首をかきとっ ることがある。彼は出来事に遭遇し、彼ならぬ、だれの 者らの祈りや見果てぬ夢がつながりとして埋め込まれて のけぞって絶命した﹂ なぜ中村哲はこの場面を書くことができるのか。この いる。それなのにせっかく訪れたこの機微を辺見庸は繰 り言を言うことで﹁われ﹂に閉じこめてしまう。なぜこ 内包の性−悲しみの彼方に在る光明 343 れるほかない出来事の苛烈さについてなにひとつ書いて てそこにいない。彼は書くことでないことを書き、書か 場面を彼はけっして書かないし書けない。彼は現場にい を読む者とは何者なのか。この現場を生きたならばこの 者で、それを書く者は何者でありえるのか。そしてそれ とき彼はどこにいるのか。無惨な最期を書かれる者は何 る﹂ と述べ て 、 ﹁我々文 明 人 ﹂が 、不安にかられつつ﹁煩 悩 的トリックや取引き︱全てが不自然で遠いものに感ぜられ テリックなナショナリズムの煽動、宗教対立、小賢しい政治 だか蜃気楼のように実体のないもののように思われた。ヒス 過去十五年のペシャワールとアフガニスタンでの闘争が、何 私に は著者 の憤りがよくわかる 。例えば中 村 哲 は 、 ﹁この 上がり﹂こそ、神聖な空白に接し、人間が共通に良しとする ︵物欲と支配欲︶﹂を世界に広げ、押しつけることの﹁思い 悪はより兇悪で根深く、闇はとぐろを巻き底なしに深 合意が含まれ﹃生きる平衡﹄を提供する伝統社会を崩してい いない。 ︵略︶ い。彼は一度も、喉元を凍りつかせ、心臓を貫かれたこ った要因であることの非を、強調する。 その後ろ盾には﹁極貧にあえぐ辺境国の衆生は、損得勘定 とがない。いつも出来事を見る側にいて、身を震わせ、 嘆息する。読者はそのふるまいの一挙一動に感動する。 とは別の生き方を自然人として生きており、大事なものは﹃人 がある。渡辺京二の﹁共同性﹂イメージとも重なる﹁何か郷 余裕ではないか。そういうものがこの世のいったい何を なぜ﹁狂気が人間を支配している﹂という美辞で凄惨 愁を誘う、悠久の大自然との融合した生﹂だが、著者は、 ﹁そ 間に内在する自然﹄に拠って生きることである﹂という思想 な出来事を語ることができるのか。何より﹁狂気﹂を語 れによって﹃生きる平衡﹄はまた迷妄それ自体でもある﹂と 変えるというのか。 ︵略︶ る 彼は ど こ に い る の か 。 ﹁ 狂 気 ﹂ が そ の前 に ひ れ 伏 し 、 ﹁被差別部落﹂と呼ばれる地に生を受け、生きてきた私に いう。 一人ひとりの生存の在り方を、ことばの力で現成するこ は、このような﹁伝統社会﹂という実体的土壌の﹁生きる平 怯み、怖気をふるって退散する、そのようなわたしたち とが表現の本然ではないのか。出来事を生きる苛烈は必 衡 ︵共 同 性 ︶ ﹂の内部に、やさしく抱き合う親和・相互扶助 ることを知っているし、それは我が事として身に滲みている。 ずそこまでゆきつく。わたしは表現の器量とはそういう 語れぬことを語る者は力学の緩衝地帯にいる。くり返 著者の言葉でいえば、 ﹁︵石牟礼道子が描く︶苦海にある衆生 性とは表裏をなして、醜く凶暴な排他・独善性が両義的に在 すが、力学のこの緩衝の圏域こそが愚劣の絶えざる精神 の た ま し い の 色や 音との ﹃と も鳴 り ﹄ ︵前近代の民 のコスモ ものだとおもっている。 ︵略︶ 的な大地なのだ。 ︵同前︶ スが輝 いている世 界︱ 渡辺京二言 ︶は 、 ﹃とも喰い﹄の世界 344 かつて六〇年代に、著者自身が﹁施す者﹂のメンバーとし し、そこから呻くように﹁言葉﹂を紡いでいくべきであろう。 そういう両義の伝統を自ら身につけ、そこで地を這うよう て在籍し、私もまたその﹁施しを受ける者﹂として体験した でもあったこと﹂でもある。 に生きてきたアフガン人が文明国の非を撃ち、語るならまだ セツルメント運動︱貧者救済︱の思想的残滓が、総括されな ﹁わたしたちのそれぞれが自分を生きることにおいてじか いままに時・場所を変えて未だ残されているといえば言い過 金満日本 を砲 撃せよ 。そ れ な ら ま だ わ か る ﹂ ︵森崎︶と私 も に つ な が ら な い か ぎ り 、なにごともはじまらないのだ ﹂ ︵森 よ い。 あ る い は 、 ﹁ 極 貧 の 文 明 の 辺 境 で あ るア フ ガ ン に 帰 化 思う。しかし、中村哲は先進文明国で生きる日本人医師とし 崎︶︱という﹁当事者性﹂の思想的懸崖が、局所的には成果 し現地人となって、らい撲滅のためにゴム草履職人になれば て そ れ を語 り 、 自 身 を ﹁ 慰 め を 与 え る 使 者 ﹂ と し 、 ﹁使者の を見せている﹁らい撲滅運動﹂においても、未解決のまま在 ぎだろうか。 特権 があるとすれば 、 ﹃ 持 た ざ る 自 由 さ ﹄ で あ り、 無 い 分 だ るといえよう。 よい。それに尽きるではないか。そこからアフガン人として け、与えて失う分だけ、私たちは豊かで楽天的になった。こ れは恵みである﹂と﹁分をわきまえ自省を失わなかった﹂者 一体誰のための﹁恵み﹂であろうか。この言葉が止めどな 的相違点と、重要な隘路について持論を展開する。もはや説 ﹁内包思想﹂との微妙な差異に見えながら極めて大きな思想 著者は、中村哲と辺見庸という優れた思想家を題材として、 い殺戮と復讐に明けくれ、愛する家族の喉を裂かれて自省を 明を要しないほど彼の言葉は説得的であり、読む者の心を魅 として振る舞うのである。 失い、それでも﹁安息の地平﹂を求めて生きる﹁ハリマ﹂や そして同様のモチーフであるが、自身の思想的先達ともい きつけて止まない。 ろうか。彼が言う﹁人間が共通に良しとする合意が含まれる うべき巨人︱﹁吉本隆明﹂の思想への異和と、その唯一の弱 ﹁ファルヒア﹂ら現地の民の心に、そのど真ん中に届くであ ﹃生 きる 平衡 ﹄ ﹂ の た だ中 で は 、 行 き 場 を 失 っ た 正 邪 の ﹁ 迷 点︱名状できない、当事者性とわずかにズレた悲しみがもた まず、著者が﹁当事者性﹂を思想の軸に据えた動機の在り 妄﹂が今なお息づき、逆巻いているのだ。中村哲︵や辺見庸 な迷妄の呪縛︵共同幻想︶を立場を超えて断固敗走させる人 処と、吉本隆明の﹁世界の客観的契機の仕組み﹂へと向かう らす空虚︱の解明へと向かう。 間の在り方を、言い換えれば﹁施しを与える﹁使者﹂として 動機との相違、その限界を次のように述べる。 に象徴される思想︶は、関わりの契機が何であれ、このよう の 自身︵ 描く 者 ︶ ﹂と﹁施しを受ける者︵出来事を描かれる 者︶ ﹂とを同 時に併 せ持 つ地 点︵ 思想︶を身体 を賭けて模 索 内包の性−悲しみの彼方に在る光明 345 きなのだ。そうでないかぎり、自己幻想と共同幻想はい 世界認識の方法をもっていれば間違わないと吉本はい まず体験のもつ意味がわたしと吉本隆明では違った。 うのだが、そのことに倫理的になることがなんでそんな つまでたっても逆立し、自己の陶冶と他者への配慮はき 胸の悪くなるむごい体験を経てじぶんの言葉をつくりは 敗戦の経験を経て戦後をいかに生きるか、吉本は彼の思 じめた。わたしの体験は過ぎぬものとして、吉本のそれ に問題となるのだろうか。頭はすっきりするけどすこし りなく引き裂かれつづける。 ︵略︶ は過ぎるものとしてあったようにみえる。時代が推移し も生き生きしてこない。 ︵同前︶ 想をそこでつくった。わたしは全共闘∼部落解放運動の ても過ぎゆかぬものをひきうけることを、わたしは当事 験を世界の客観的契機のしくみをあきらかにすることで がれえぬ出来事を引き受けることである。吉本は彼の体 対象化できなかった理由をこう述べる。 の持つ制約の中にあり、従って 、﹁自己同一性﹂を身を以て 続けて、吉本隆明の思想が、彼が置かれた条件︵戦中派︶ 者性とよんでいる。当事者性は体験することによっての ひらきうると考えたが、わたしの過ぎぬものは、主観的 きた当事者性は内面の倫理でも、世界との関係の客観性 拠をくみかえる方に向かった。わたしが長年こだわって にか過剰なものが彼のなかで渦巻き、どうにも世界と調 世の中とうまく折り合いのつかない若い吉本がいた。な 今、吉本隆明の思想の欠陥がよくみえる。はじめに、 な契機と客観的な契機のそれぞれを成り立たせている根 によってもひらくことができなかったからだ。 ︵ ﹁内包世 和がとれないのだ。 青少年期の普遍性としてそれはある。 謂わばコップのなかの争いなのだ。吉本隆明はここを逸 であれ、いずれも同一性という円還に閉じられている。 はなにも変わらない。主観的契機であれ、客観的な契機 止と侵犯に閉じられた同一性による生の監禁という事態 ずみ。おそらくそのようなものを吉本はもたなかったの がある。逃れようもなく当事者であることが負荷するひ のだとおもう。けっして語られることのない幽冥の場所 なさから吉本隆明の思想のあいまいさがやってきている わたしは、敗戦期のくぐりぬけかたのつきつめのたら なり世界が向こう側から変わることだった。 ︵略︶ ︵略︶その彼が二〇歳のとき敗戦を迎える。それはいき 界論1︱内包論︱内包という生﹂ ︶ 主観的契機に内面の倫理の普遍性をみいだそうと、客 らして思想をつくった。 ︵略︶主観的契機や客観的契機 ではないかとおもう。自己が自己として立つ、ことばの 観的契機に人間存在の普遍的な規準をもうけようと、禁 という思考を容れている認識の入れ物こそが問われるべ 346 から自己の空洞を大衆の原像を繰り込むという緻密な他 請に応じて思想の荒野を血煙をあげながら驀進した。だ はじまる場所を吉本隆明はひきうけることなく時代の要 く。 悲しみがもたらす空洞の在り処とその思想的限界に触れてい こうして著者は、吉本思想の、当事者性とわずかにズレた と共同幻想は逆立する﹂というテーゼとなってあらわれる。 それでも韜晦な表現を透かしみて、まちがいなく理解 者 の 代 理 に よ っ て 充 填 することができた。 ︵略︶そびえ たつ思想の構築物が巨大であるにもかかわらず、硬直し て ひ か ら び た も の の よ う に い ま わ た し た ち が感じ る の できることがある。それは吉本隆明が人間に固有の観念 かかわらず彼は有責であるかのようにふるまった。彼の 太平洋戦争について彼は無罪である。無罪であるにも きをもっている。この質感はいわゆる文化人の口舌には 総じて観念の果てる場所を愛好するぬきがたい精神の傾 といい、観念の上昇路が自然過程にすぎぬことといい、 は、そのためではないかとおもえてならない。 ︵略︶ 並はずれた知力と胆力と激しい倫理性が一瞬の自己欺瞞 絶対にないものだ。 吉本思想の最大の魅力はここにある。 化の力能を好いていないということである。大衆の原像 を覆ってしまったようにわたしにはみえる。 ︵同前︶ 底 に 突 き 落 と さ れ た彼 が 見 た 光 景 は 、 ﹁さっそく 平和を謳歌 て体験したが、二〇歳で敗戦を迎え、乗り遅れたまま絶望の 開戦時に﹁パーッと天地が開けた解放感﹂を軍国青年とし 包存在論Ⅰ﹃マチウ書試論﹄考﹂ ︶ 幸の気配や不全感を生みだす幽冥がひそんでいる。 ︵﹁内 そらくけっして語られることのない生にからみついた不 どはずれのはにかみが吉本隆明の思想にあり、そこにお ︵略︶非知を偏愛しながらなかなかそこへ到達できない し は じ め た 小 イ ン テ リ ゲ ン チ ャ 層 ﹂ で あ っ た。 そ し て 、 ﹁自 するのは、 ︵人間の意志ではなく︶関係の絶対性だけである。 は、 ﹁名状できない 悲し み﹂ をかかえて﹁人間 の情況を決 定 き残りの負い目を持つ自身︵大衆︶の姿だった。ここから彼 らしいのを、ちらっと垣間見ていやな自己嫌悪を感じた﹂生 できないことになる。そしてこの部分性を彼は︿性﹀と よんでいる。吉本隆明の定義によればふたりの関係も共 る。 ︵略︶わたしはこの認識の型のことを同一性原理と ら わ れ る こ と が で き な い と い う 認識 がまずはじめにあ 吉本隆明には共同性のなかでは人間は部分的にしかあ 分の戦争や死についての自覚に、うそっぱちな裂け目がある 孤独が自問する。革命とは何か。もし人間の生存におけ ・・・・ る矛盾を断ち切れないならばだ﹂という名句で終わる﹃マチ よんでいる 。 ︵略︶彼が﹁存在を圧殺する﹂とか﹁負担 同性であるから、個々にとって相手は部分的にしか登場 ウ書試論﹄を著すことになる。そしてそれは後に﹁自己幻想 内包の性−悲しみの彼方に在る光明 347 をつくりだす﹂というとき、生きたいように生きること に第一義的な生の価値がおかれている。簡単にいうとひ とりのときがいちばんのびのびすると彼は言っているの けっして生を熱くしない。 背後に外延的に表現された自己意識を陰伏して、その うえであらためて個と共同性を立ちあげるから、事後的 そのためには対幻想は共同幻想でないと矛盾する。それ と背反するような個の内面を自己意識の外延表現が要請 れはむしろ自然なことなのだ。裏返していえば、共同性 な個の内面が共同性と矛盾や対立を起こしてしまう。そ は、わたしが一番で、あなたのことは二番目よ、という している 。 ︵略︶吉本隆明の位相的な観念の三層構造を だ。 ことだ。 な こ と に か か わ ら ず で き る だ け怠 け て 楽 し て 暮 ら し た 然状態を吉本が偏愛していることにほかならない。余計 いう情緒が吉本の思想の核心にある。これはある種の自 ほっておいてくれ、おれは好き勝手に生きたいんだと 論︱内包という生﹂ ︶ ほんとうはなにもいっていない。 ︵﹁内包世界論1︱内包 ないということも、共同幻想と逆立するということも、 相補性をなしている。人間の内面が共同性で覆い尽くせ と、個の内面と共同性は相互に還元不能であるとともに 自己意識の外延表現とみなすわたしのかんがえからいう い。この気分はわたしのなかにもある。ところが吉本の 恣意性の愛好 はなぜかそのなかに不全感をのこしてい で三つのことを言っている。 ﹁悲しみ﹂と﹁負い目﹂と 吉本隆明はこの引用文︵ ﹃高村光太郎﹄所収﹁敗戦期﹂ ︶ 不全感を残すだけの余裕が彼 にあったということなの ﹁ 怒 り ﹂ について 。 ﹁悲しみ﹂に吉本隆明のありえた思 る。 ︵略︶ だ。 ︵ ﹁内包世界論1︱内包論︱内包の由来﹂ ︶ 潜りぬけるなかで中途半端な倫理の解除をめざして構想 表現するものだといってよい。敗戦期の挫滅した体験を やまない、無限に猶予された生が吉本隆明が思想として 、こ 、れ 、にいて、そ 、を 、生 、き 、る 、ことがどうしてもできず、 そ 、れ 、の 、を分析する外部の目によってそ 、こ 、と 、を相対化して そ に、敗戦という形で戦争が終わりました。そこで生き残 ら だ を 洗 っ て い る 気 がしてならない 。 ﹁大学三年のとき 去ろうと、世紀を跨いで言葉という石けんでごしごしか 争への罪を告白し、死に損ねたことのちぐはぐさを拭い 彼の身はすこしも汚れていないのに、ありもしない戦 想の本領があるとおもう。 された彼の思想の明晰は、ひとを迷妄から救いはするが 348 きない悲しみ﹂で統覚していたら、とわたしは夢想する。 、ろ 、を﹁名状で 想がもつ苛烈さと、その裏に貼りついたう らず赦さない思想であるのはそのためだ。吉本隆明の思 て得られた吉本の思想が透徹した思想であるにもかかわ ことができた 。 ﹁悲しみ﹂を封印し忘却することによっ たこのうえなく健全な挫折を同一性に拠って客観化する 様でした﹂ ︵﹃遺書﹄ ︶ 。だから敗戦という体験がもたらし ってしまって、どうにも引っ込みがつかないというあり く。 ・他が共に生きられる﹁内包﹂︱情動の性へと降り立ってい だ。熱くなって狂おしくなって妖しくなるもの﹂に迫り、自 ば生きる勇気が湧いてくるシンプルなもので 思想はいいの 引 き寄 せるひずみとの 暗闘を 経て 、 ﹁ なにかこれひとつあれ 別れを告げる。そして吉本思想の限界を踏まえ、当事者性が 隆明の思想に対し、その甚大な影響と恩恵に感謝を捧げつつ 著者は、自 身の苛烈な生 の精神的支柱としてあった吉本 きらかなものとする。それは内面化も社会化もできない ていた﹂その﹁悲しみ﹂だけが、同一性のほころびをあ のどんな悲しみともそれ以後のどんな悲しみともちがっ としてひらくほかなかったようにおもえる 。 ﹁それ以前 疾くわたしのなかを一気に流れ昇る、始まりがあって終 とって未知の自然の匂いがした。わたしは、わたしより かれ、驚嘆した。孤独と空虚のないこの世界はわたしに なりわたしのど真ん中に熱い風が吹いていた。度肝をぬ 地獄の底板を踏み抜くようにして這いあがると、いき おそらく吉本は苛烈さと対になった空虚を同一性の彼方 と い う こ と に お い て す で に し て同 一 性 の彼方 に あ る の わりのない渦のことを根源の性と名づけ、存在に先立つ た。吉本隆明が幻想論の総体を自己意識の線型になった の生きている当事者性という思想を彼は必要としなかっ せずにはおかない。体験思想を彼は拒絶するが、わたし いて、政治と文学や、社会と内面という思考の型を消滅 、こ 、か 、にじ 、に立つ。 当事者性はこ ﹁悲しみ﹂が深さにお しは人間にとっての思考の未知をこじあけた。 ︵﹁内包世 わたしがわたしと成る、その根源の性によぎられてわた ではない 。 ︵略︶それに貫かれることによってはじめて 根源の性がたわんで︿有﹀が生じるのであって、その逆 風花を匂い立たせる大地のことを内包自然と名づけた。 根源の性のことを内包存在と呼び、根源の性に誘われて あ る だ。 外延表現で済ますことができた由縁である。吉本隆明に 界論1︱内包論︱内包の由来﹂ ︶ 吉本隆明が恣意的に生きることを価値の源泉とすると とって戦争体験はそのようなものであった。それは過ぎ る思想としてある。 ︵﹁内包世界論1︱内包論︱内包の由 来﹂ ︶ き、じぶんという存在が自己によって領有されることを 内包の性−悲しみの彼方に在る光明 349 ることはできないのだと。 もしも︿在る﹀の謎を解き明かすことができるならば、 前提としている。この確信抜きに吉本の思想の明晰はあ りえない。わたしは吉本の明晰が古典的であるとかんが A とB の相 互 の組 み込 み 合い が 第三の Xを生 むとし こうでしかありえないこの世のあり方から跳躍できるは 性︶に即していうなら、吉本のかんがえとは逆に、人間 て、意識の運動はここにとどまらない。むしろそれは意 え た 。 は た し て 存 在 は自 己 が 領有 す る も の か 。 ︵略︶わ は性的でないときは全人間的にはあらわれることができ 識にとって端緒を意味している。じつは第三のXから非 ずだとかんがえるようになったということでもある。 ないのだ。わたしは内包論で、吉本思想の古典性を拡張 Aと非Bがさらに生成されるのだ。非A=非Bとなる往 ︵略︶ することが近代がはらむ逆理を解くことに等しいとかん 還のダイナミズムのしくみを明らかにすれば、わたした たしは根源の性が分有されることにおいてはじめて自己 がえた。そしてそこにしか自己の陶冶が他者への配慮を ちを縛ってやまない自己同一性の世界は近代の宿痾を脱 が自己として現象するとかんがえた。吉本の文理︵同一 現成する根拠はありえないとおもっている。 ︵同前︶ 夜 が 朝 に な り 、 朝 が 夜 になる 長 い 歳 月 を 経 て 、 同 一不二のものとすることで、ありえたけれどもなかった だすように思えた。つまりわたしは存在論と認識論を不 して、これまでの世界とは違う新しい生の様式をつくり 一性という意識の線形性によってXにやどる大洋感情の 世界を現にあらしめることができるとかんがえた 。 ︵同 あした 、い 、あ 、ら 、わ 、す 、ことはできないとかんがえるように ことを言 前︶ あした なった。いや超越Xでさえ同一性の写像として語られて のがもっとも困難な︿在る﹀の謎がひそんでいるとおも を根底で支える公理ともいうべきこの同一性に、ひらく ちに公理として前提としている。わたしは、論理の明晰 ういう弁証であろうと、ひとしなみに同一性を暗黙のう 溝を埋めるために、たくさんの便法が編みだされた。ど たしかにあるがままの現実と、ありうるはずの現実との の自己の陶冶が互いに相克するものとしてあらわれる。 は同一性のくびきから逃れえなかった 。 ︿有﹀の分かつ かった。レヴィナスにおいてさえ最終的には自己と他者 につなぐもののない繋がりについて明かすことができな ても 、 ︿有﹀の絶対に分かつもののない隔たりと、絶対 タイユにしても、後に続いたフーコーやドゥルーズにし らず他者がふくみもたれている。ブランショにしてもバ いうものはありえない。どんな我執であれそこにはかな 語の本来の意味において他者をふくみもたない自己と 、か 、ら 、、この世がこうでしかありえず、それぞれ きた。だ いはじめた 。 ︿在る﹀の謎を解かないかぎり近代を超え 350 いかなる媒介も経ることなしにじかに︹一︺をなしてい ﹁私﹂ということでは言い表しえないことで、自と他は もののない隔たりと、つなぐもののない繋がりは絶対に 社会とよべるものかどうかはわからないが、かりにこの な諸関係の総和としてあらわれてくる。それが共同性や 会のありようは、あたかも家族のようにゆるやかな性的 して二人称であるから、外延論理の三人称がかたどる社 の世界で、同一性の世界から見れば、わたしは一人称に 長い引用をしてきたが、お許し願いたい。著者の長年にわ る。存在は内包存在を分有することではじめて存在する AとBが切断されることなく、非A=非Bとなるから たる膨大な思考の軌跡を、短い引用でたどることは不可能に ことができる。内包存在が分有されることなくしてもと こそ、AがAとして、BがBとしてそれぞれ固有なもの 近いし、私にその力量はない。そして、彼が紡いできた﹁言 諸関係を内包共同性や内包社会と名づければ、国家はも でありながら、根源の︹一︺でありうるのである。西欧 葉﹂の多くは、もはや他の者の解説や説明を要しないほど、 もと同一性は同一なものとして現象しないのだ 。 ︿有﹀ の緻密で渾身の知的な営為を目にしてある種の痛ましさ 緻密かつ丁寧に構成されている。引用した以外にも、目を見 はや存在する余地がなくなるといってよい。 ︵﹁内包世界 をもってしまう。もう少し彼らは進めたはずなのだ。自 張るべき思考の成果が随所に見られるが、とりわけヘーゲル、 や同一性はつねにそのようなものとしてあり、またそれ 同者を実有の定点とするところから表現を立ち上げるか マルクス、レヴィナスらへの言及・分析には驚かされる。一 論1︱内包論︱内包という生﹂ ︶ ら、非対称である他者を超越的に想定するしかなくなる 例をあげれば、ヘーゲルの﹁有論﹂についてである。 以外ではありえない。 ︵同前︶ のだ。 ︵同前︶ も倫理は見あたらない。禁止と侵犯という思考の型があ 生は同一性の監禁から放たれる。ここにはどんな意味で いものとして現象する。このとき禁止と侵犯は消滅し、 和をなし、自己の陶冶はそのまま他者への配慮にひとし 存在に先立つ根源の性において利己と利他は完全な調 の関係は、 ︵近代意識の形式においては︶同一であるのに、 ﹃わ まりをなすのか ?﹂ と問 う。 更に 、 ﹁あるものとそのものと =﹁無﹂=﹁観念性としての有、自己同一性﹂が﹁なぜはじ されていない。 有はまったく無規定のものに過ぎず、無 ・・・・ も同じである﹂ ︵ヘーゲル︶ 。著者は、このような﹁純粋な有﹂ い。言いかえれば、両者の区別は即時的にすぎず、まだ定立 ﹁有 と無 の区別 は、 区別があるはずだという区別にすぎな 、か 、に性 りえないからだ。内包と分有の世界でわたしはじ たし﹄があたかも一個の他者であるかのように﹃わたし﹄と あ る であるから、言い換えれば、内包によって生きられるこ 内包の性−悲しみの彼方に在る光明 351 ない﹂ 。 だ か ら﹁ 人 間 精 神 が お の ず と 内 蔵 す る 観 念 の 見 え な まいや世界は、数学︵つまりA=A︶のように、在るのでは つ我れ﹂ ﹁恋愛の彼方﹂ 、という言葉で、内包の知覚こそ、太 的 本 質 を鋭く 見抜 いてゆく。 そ し て 、 ﹁我れに非ずを含み持 自己と回帰していくのみという、﹁自己同一性﹂の持つ円環 著者は、どこにも他者を有せず、自己←共同性︵社会︶← てみたい。 い動きに、ヘーゲルは︵自己同一性という︶論理の筋目を入 自己関係する﹂のはなぜか? ﹁いかなる意味でも人のふる れた﹂に過ぎないととらえる。見事と言うほかない。 をも恐れる︶ことの奇妙さ︱﹁生誕﹂の謎。そして、ハイテ ものとして消え、我はたった一人という孤独や絶望もまた無 即ち、群れ︵三人称としての共同性︶という観念は不要な 古の時代にヒトが人となった由縁であり、はじめから他者を ク最先端にあるはずの現代宇宙論もまた﹁時空なしにあると 縁となる。言いかえれば、本来の個とは﹁一者にして二者﹂ あるいは 、﹁自らの意志によって生まれてきたわけではな はどういうことなのか?﹂ ﹁︵有限な︶宇宙の始まりには果て で、最初から在り、内包存在とは両者の間にある﹁名を持た 含み持つわたしという在り方を﹁人倫の根源﹂として私たち が な い ︵無限 ︶ ﹂ と い う 有 と 無 の 矛 盾 = ﹁ は じ ま り の不 明 ﹂ としてある。これが、著者が己れの﹁生の固有性﹂を手放さ い﹂ ︵ 一 方 的 に 受 動 的な 生 で 始 ま る ︶ の に 、 自 己 が あ り 、 わ を持つ謎、等々 ・・・・ 。 近・現代をリードしてきた世界思想や科学が、あまねく﹁は ず、既成の理念・倫理や共同性にもよらず、幾度も地獄をく が理念化し、継承すべきものではないかと提起する。 じまりの不明﹂を持つことは驚きであり、人間の持つ思考の ぐる果てに﹁彼方から襲来されることによって手にした普遍 たしの生が存在すると考え、生きる意味を問う︵よって、死 未知・可能性を意味するという優れた着眼は、先に引用した 性﹂の在り処である。 自と他はいかなる媒介も経ることなしにじかに︹一︺をなし がりは絶対に﹃私﹄ということでは言い表しえないことで、 われても、自己・他者・対・共同性という﹁自己同一性﹂原 者にして二者﹂が可能︵即ち、1+1=︹1︺となる︶と言 重要なこの論点は、確かに難解である。内包存在とは、 ﹁一 ない像、情動、じかにして性﹂ 、つまり﹁根源の性︵一人称︶ ﹂ ﹁︿有﹀の分かつもののない隔たりと、つなぐもののない繋 ている﹂︵﹁内包の由来﹂ ︶ という 確信へと到 り、揺るぎない 理による私たちが慣れ親しんだ﹁区分﹂は、我が身は一つ︵従 しかし、先に見てきたように、これは長い人類史の﹁第一 し、疑いようがないように見えるからだ。 目に見える身体的条件を起点にしており、これが当然の理だ って我が心も一つ。他者も同じだから、1+1=2︶という 思想にまで昇華させていくのである。 3 長い解説になったが、最 後におさらい 的に私見 をまとめ 352 によって、国家・民族・宗教等の共同幻想を無化させ、人間 は、既に自・他のつながりを可能とする﹁根源の性︵一人称︶ ﹂ ステージ﹂とも言うべき制約︵囚われ︶なのであり、私たち 両者の﹁わたし﹂にとって各々自国の﹁見ず知らずの人﹂ 復・戦争を叫ぶ愛国心にあふれた﹁見ず知らずの民﹂がいる。 大切な妻子ら=﹁あなた﹂を多く持ち、祖国ではテロへの報 であるが、ミサイル戦闘機兵=﹁わたし﹂がおり、彼もまた との関係は、国家の法・制度、市民倫理・道徳、宗教等によ が︿いま・ここで共に生きる﹀ことを実現させる地点、即ち ﹁第二ステージ﹂の入り口まで到達していることを、 これが、 ﹁ ︿じぶん﹀という出来事を﹁わたし﹂が所有する﹂ って結ばれており、それを侵犯しない限りは問題はない。 世界はいまだ戦争の渦中にあり、止むことなき殺戮と復讐 同一性原理によって見えてくる一般的な風景である。内包存 自覚すべきであろう。 は日々巷に満ちている。しかしながら、自己は根源の性︵一 イスラム戦士=﹁わたしA﹂と、愛する妻子、大切な友人 在のイメージによってこれを置きかえると、どのように変わ 寄せる三人称の世界を歴史の彼方へと消滅させることは十分 =﹁あなたB﹂は、出会いと関係の深まりによって実は重な 人のままで二人︶の事後的な現れ︵新たなる一人称︶である 可能である。著者は、本書で詳細に語ってくれているが、最 っており︵非Aと非Bに転化し、非A=非B=Xとなってい るか? 後に彼 の言 葉を ヒント にしつつ 、 ﹁ テロ と 空 爆 の な い 世 界 ﹂ る︶ 、そこに生まれる像や情動が、 ﹁根源の性﹂である︵二者 という内包の思想によって自・他を結び、群れや空虚を呼び を構想してみよう。 が重なることで一者、つまり一人称X︶ 。だから1+1=︵重 よる一人称が﹁わたし﹂ 、二人称が﹁あなた﹂ ︵例えば、わた 別々のまま関係を深めて互いの外側にルール・規範を有し、 肝心な の は 、 ﹁わたし ﹂と﹁ あなた ﹂がまず 別々に在り、 なりの︶ ︹1︺となるのである。 しにとって 大切 な、 愛する 人⋮ 家族や 友人、恋人等 ︶ 、三人 性 意 識や 対 幻 想 を 持 つ の で は な く 、 ﹁わたし﹂と ﹁あなた﹂ わかりやすいように、日常馴染んでいる﹁自己同一性﹂に 称が ﹁見 ず知ら ず の 人々 ﹂ ︵ わたしが会ったことがなく 、特 に 、 戦 士 は ﹁ わ た しA ︵ あ な た B ︶ ﹂と意識できるし、妻子 が既に重なっている︵Xになっている︶ことによって、互い ここに、アラーを信じ、強国アメリカを憎み、貧しい民を ・友人は﹁あなたB︵わたしA ︶﹂と意識できる流れになっ に密接な関係がない人たち︶だとする。 救うべくテロル覚悟のイスラム戦士=﹁わたし﹂がいる。彼 ﹁根源の性X﹂がメイン︵先︶にあるからこそ、はじめて ているということだ。その逆ではない。 イスラムの﹁見ず知らずの民﹂がいる。一方、地球の反対側 ﹁ わ た しA ︵ あ な たB ︶ ﹂という サブ︵後︶の 意識化が可 能 には、愛する妻子、大切な友人=﹁あなた﹂がおり、貧しい にも、戦士にとっては三人称=﹁見ず知らずのアメリカ人﹂ 内包の性−悲しみの彼方に在る光明 353 を内包の場へと還流させさえすれば、そこではもはやAもB になっている。だから、観念の力で﹁わたしA︵あなたB︶ ﹂ たということになるのではないか。 させる﹂という存在の組み替えは、十分手が届く場所に至っ 者の言う﹁自己の陶冶が他者への配慮にひとしい世界を現象 的には解決可能︵消滅する︶だろうし、X1︵X2︶という 別や対立や争いは、全て﹁一人称﹂の中の出来事として基本 つ者﹂として十分生きられるのである。故に、ここでは、差 者は﹁一人称﹂に吸収され、﹁根源の性﹂=﹁それを分け持 体的条件のままに堅持されていくが、内包存在によれば、両 一 性で は 、 ﹁ 一人称﹂ と﹁ 二人称 ﹂の関 係は、目に 見える身 た﹂との関係においても実は起こっている。つまり、自己同 同様のことは、アメリカ人戦闘機兵の﹁わたし﹂と﹁あな の関係を﹁あたかも家族のようにゆるやかな性的な諸関係﹂ ・制度、市民倫理・道徳、宗教等を持ち込むことなく、互い いて三人称を統括し、戦争や対立・差別の源をなす国家や法 位置へと十分に吸引することができる。即ち、現実の場にお なた﹂B=二人称=﹁わたしにとって大切な、愛する人﹂の 自在な 思考 の力 で殺意 や怨 念を退 け 、 ﹁根源の性X﹂と﹁あ る。しかし、内包存在によれば、このねじれた関係でさえ、 機兵と遠くアフガンの地に住む﹁貧しき民﹂とのそれ︶であ らずの民﹂との対角線的な関係︵あるいは、アメリカ人戦闘 関は、イスラム戦士と祖国で報復を叫ぶアメリカの﹁見ず知 ﹁わたし﹂と三人称=﹁見ず知らずの人々﹂との間の最難 も 存在せ ず 、 ﹁ 根源 の 性 X ﹂ の 分 有 者 と し て の X 1 と X 2 へ と転化し、生まれ変わっていることを意識化できる地点を獲 新た な﹁わ た し ︵あ な た ︶ ﹂=﹁ じかに性﹂と し て 再出発 す ︵﹁内包という生﹂ ︶として考え、創り出せるということだ。 得したということになる。 ることになる。 源 の 性 X ﹂ で 一 人 称 化す る こ と が で き た の だ か ら 、 ﹁見ず知 び重ね合わせることで、更に深化したもう一つの﹁根源の性 もちろん、更なる思考の力によって、この両者の関係を再 共同幻想は、ここに来て初めて、その存在基盤を失うことの らずの人々﹂との関係を今度は﹁根源の性X﹂と﹁あなた﹂ =一人称Y﹂まで到達できるかもしれない。これは即ち、イ では、﹁わたし﹂と三人称=﹁見ず知らずの人々﹂との関 B=二人称の位置へと引き上げてくることができるのではな スラム戦士とアメリカの民が、アメリカ人戦闘機兵と貧しき 契機︵第三者性としての権力消滅の可能性︶を持ったといえ ﹁じかに性﹂としてあるX1︵X2︶にとってのB イスラム戦士もアメリ いか? イスラムの民が、そして、星条旗を掲げるアメリカの民とア 係は、内包の知覚ではどうなるか? は、内包の知覚という観念の力によって﹁わたしにとって大 ラーを信じるイスラムの民の双方が、互いを縛る共同規範を る。 切な、愛する人﹂の位置へと吸引され、実は手をつなぐ事を 投げ捨 て 、 ﹁根源の 性﹂で つ な が っ た 者同士、互い に分離で カ 人 戦 闘 機 兵も 、 既 に ﹁ あ な た ﹂ = 二 人 称 と の 関 係 を 、 ﹁根 可能とする関係的存在に成り得るということだ。ここから著 354 しみ﹂とも繋がっており、その悲しみの深さと匿名の聖なる こと﹂として体験した人々の思想を、氷山の如く水面下の揺 声が、 ﹁性の発見が人間の起源であり、 ︿性﹀を分有してはじ きない情動=性を分けもつ者として自覚的に生きることを意 そ ん な た わ ご と を と 人は笑 うかもしれない 。 ﹁人間とは悪 めて個が誕生した﹂という新たな光明へと導くことを可能に るがぬ礎として持っている。それは彼自身の、身を貫く﹁悲 を為すもの﹂という暗い呟きも聞こえる。しかし、人間や世 味する。 界 を 一 挙 に 変 え る こ と は不 可 能 に せ よ 、 ﹁ ど ん な我 執 で あ れ これが﹁内包の性﹂︱悲しみの彼方に在る光明︱と読み解 したのではないか。 謎や、シモーヌ・ヴェイユが死を前に﹁そこには人格とは深 く由縁である。何人であれ、如何なる境涯にあれ、断固たる そこにはかならず他者がふくみもたれている﹂という在るの 淵でもって隔てられた、第一級のものが置かれている﹂と示 ﹁生の肯定﹂こそ﹁満月の思想﹂である。 ︵二〇〇二年十月十五日払暁⋮了︶ した﹁ 匿名 の領 域﹂に 思い を め ぐ ら せ 、 ﹁ わ た し﹂ や ﹁ 我 ﹂ をひらく意志を手放さないならば、現実世界や社会はまちが いなく彩りあふれるものへと塗り替えられる。 ﹁ わ た し︵ あ な た ︶ ﹂ がそのままで﹁じ か に 性﹂ という出 来事を、私たちが至極当然の事態として普遍的に感受するこ とができるなら、自己も他者もない︵自己が他者に等しい︶ 人間の生存の在り方を基礎とする新たな人類史を、本当に刻 むことができるだろう。私には、著者の主張の核心は、唯一 ここにあるという気がしてならない。 彼の思想は、彼自身が﹁未見の一箇の世界認識﹂と語るよ うに、精緻で壮大な規模を有しており、人類史を根本から改 変する内容を持つものである。世界を向こうにまわし、その 先頭を切るという著者の気概が、読者にも伝わることを私は 信じて疑わない。 彼の編みだした思想は、期せずしてシモーヌ・ヴェイユ、 レヴィナス、マルクスといった、人間の悲しみを真に﹁我が 内包の性−悲しみの彼方に在る光明 355 356 Guan02 内包存在論草稿 2002 年 11 月 11 日 著 者 森崎 茂 装画・装丁 森崎 舞 発 行 Guan Publishers 福岡市早良区飯倉 7-27-6 電話:092-863-1774 web: http://www.guan.jp/ mail: [email protected] 郵便振替口座番号:01760-6-102948 口座名称:Guan 社 印 刷 ㈱ゼンリンプリンテックス 頒 価 2,500 円(送料別) c MORISAKI,Shigeru 著者紹介 1949 年熊本生まれ、現在福岡市在住。 著書『内包表現論序説』('95 年)