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(更新停止中)朱姫の冒険者

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(更新停止中)朱姫の冒険者
(更新停止中)朱姫の冒険者
毘沙丸
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
︵更新停止中︶朱姫の冒険者
︻Nコード︼
N3436CB
︻作者名︼
毘沙丸
︻あらすじ︼
自分に関する記憶が何一つない主人公は、行き倒れていたところ
を﹃朱姫﹄と呼ばれる少女に保護される。命を助けた見返りに少女
が求めたのは、自由に出歩けない自分のかわりにダンジョンで成り
立つ街で生活すること。特別な能力なんてほとんどない主人公が現
実を見ながら生活の基盤を整えていく、生活系冒険譚!
1
更新履歴など︵本編とは無関係、12/24更新︶
変更点を告知したり、今後の展開をどうするかなどを
作者が適当に垂れ流す、まったく読む必要のない項目になります。
ネタバレには配慮していますが、現行最新話を未読の場合、
未登場の人物名や単語が出てくる場合があります。
12/24 かねてから宣言していた通り、現投稿分で本作の更新
を停止致します。
多くの方々に読んで頂いたにも関わらず、少年漫画誌で言うところ
の打ち切りのような形で終了すること、お詫び申し上げます。
中盤から終盤にかけて、伏線の未回収やぐだぐだ展開などが頻発し、
読者の皆様にはご迷惑をおかけしました。プロットが煮詰まってい
ない状態で書き始めた作者の筆力不足が原因なのは間違いなく、汗
顔の至りです。
しかし、身勝手ながら、本作を投稿してよかったとも考えておりま
す。
終わり方は褒められたものではないと自覚していますが、しかし習
作という観点から見ると、物を書く経験という意味では大成功だっ
たと思っています。
最後に︱︱多くの方々に本作を読んで頂いたこと、重ねてお礼申し
上げます。
感想欄などで頂いた応援やご指摘の数々、とても励みになりました。
蛇足ではありますが、次回作、投稿始めています。
2
http://ncode.syosetu.com/n1433
ch/
こちらが次作のアドレスになります。ご一読頂ければ幸いです。
今までお付き合い頂き、ありがとうございました。
11/17 多忙につき投稿遅れています。申し訳ありません。
もう一つお詫びがあります。本作の展望についてですが、
巻き展開にして近々終わらせるつもりです。
次回作に専念したいという理由もありますが、
何より朱姫は将来的な展望をほとんど考えずに書き出したため、
伏線も仕込めておらず話の起伏を作るのが無理矢理になってしまっ
ています。
書いていて満足のいく質に仕上がっていないのが自分で苦しく、
このままだらだらと続けるよりは一度すっぱりと終わらせるべきだ
との
結論に至りました。あと三話ほどで打ち切る予定です。
多くの方に読んで頂き、応援して頂いたにも関わらず、
半ばエターに近い終わらせ方になること、お詫び申し上げます。
11/4 リアル事情につき今週の投稿は休ませて頂きます。
次回作は年末を目処に投稿開始する予定です。
10/7 第四十六話を投稿しました。
誤字指摘、いつも有難うございます。
次作の投稿開始、なろうコンに間に合わせたかったのですが
作品の質に納得が行っていないので先延ばしになりそうです。
3
8/17 第四十一話を正午に投稿予定です。
もう少し段階を経てから書く予定の回でした。
勝手にキャラが動き出すと筆の進みが楽ですね。
最近は投稿速度が遅いですが、次作の執筆と両立しているので
ご容赦頂きたいと思います。次作の進行具合は現状二割ぐらいです。
7/28 第三十九話を投稿しました。
苦手な方向性の話題で書くのに苦労しました。
無理やり軌道修正かけてる綻びが出てきてて悩む最近です。
遠い将来に今作を全部書き直す機会があれば、加護の内容は
不死身とは違うものにした方がいいかもしれませんね。
成長系というか冒険系と不死身、物語にするには相性が悪いです。
7/18 週末の土日あたりには次話を投稿できる予定です。
昨今は次作の構想と叩き台の作成に時間を使っています。
その分、朱姫の投稿速度が落ちるかもしれません。
最低でも十日に一度、できれば週一更新は維持したいと思っていま
す。
7/8 第三十六話を投稿しました。
感想での誤字の指摘はとても助かっています。ありがとうございま
す。
7/3追記 迷宮素材の名前修正
感想欄での指摘に基づき、伯爵芋の名前を侯爵芋に修正しました。
ご指摘、ありがとうございます。
7/3 感想返しのお断りのお詫び
感想を下さる方が増えており、有難く思っております。
4
豆腐メンタルが受けるダメージはさておき、
否定的な感想の方が読者の生の感想として参考になりますので
どんどん言って来て頂きたいと思っております。
仮に感想欄で﹁ここはこうではないか?﹂との質問を頂いた際に、
感想欄で作者の私が﹁いや、ここはこうだから﹂と説明するのは
何か違うと考えています。
本来は本編内で文章で説得しきっていなければいけない、
要は筆力不足で説明しきれてないんだな、と反省しきりです。
それはそれとして、感想を頂いたすべての皆様に返信をしていると
結構な時間を食ってしまう上に、簡単な返事だけで済ますのも
淡白に扱っているようで申し訳ない気分になってきますので、
恐縮ですが感想欄への返信は基本的にないものとご了承頂ければと
思います。
時間を使って感想を書いて頂いている中、私の勝手な事情を押し付
けること、
お詫び申し上げます。
7/2追記 街の広さの表現に曖昧な修正をかけました。
修正前:端から端まで歩いて三十分
修正後:端から端まで歩いて一時間
ついでに、MF大賞の一次予選に落選しましたのでタグを消しまし
た。
7/2 今後の方針とかのご説明とお詫び。
先程見たら日刊9位でした。昨日の総アクセス数は10万超えです。
さすがに過大評価されすぎている気がしており、
水銀燈とポルナレフを足したような驚き顔にならざるを得ません。
5
ちょっと怖くなってきたぐらいです。
言い訳の類になりますが、朱姫の冒険者は習作であり見切り発車で
す。
エタらせるつもりも投げ出すつもりもありませんが、その場の乗りで
書き進めているので、細かい設定は辻褄合わせで誤魔化しています。
なぜこんな繰言をしているかというと、現在、次作の構想を練って
います。
私の中では、次作のための練習台ぐらいのつもりで今作を書いてい
ます。
朱姫の完結前に次作の投稿を始めるかもしれないこと、どうかご容
赦願います。
6/30 第三十四話を投稿しました。
日刊ランキングに入って嬉しかったもので間隔短めの投稿です。
ランキングに入る前の、最新話を投稿した丸一日分のアクセス数と
ランキングに載った後の、毎時間のアクセス数がほぼ等しく、
こんなにも増えるものかと驚いています。
06/25
408
287
↑最新話を投稿してから時間が経った平常
06/26
212
388
具体的にはこんな感じ。
06/24
06/27
2,841 ↑最新話を投稿してギリランクイン。い
営業
06/28
つもこれぐらい。
6
06/30
06/29
46,106
14,547
投稿した今日
↑ランクインが嬉しくて続きを一話
人様から金を取れるクオリティには全く達していない自覚はあるので
宣伝等はしない方針でやって参りましたが、そんな拙作に
初期から足を運んで頂いた皆様のおかげです。ありがとうございま
す。
6/20 次回更新日は6/21の予定です。
多くの方に見て頂こうとすると自然と週末投稿になってくるもので
すね。
最近は訪れてくれる方も少しずつ増えてきて、嬉しい限りです。
作者プロフィールにも書いていますが、私はコミュ障⋮⋮
いやいや照れ屋ですので、感想に返信をしない場合があります。
もちろん、頂いた感想などはすべてに眼を通しておりますし、
忠言耳に逆らうで、推敲ミスや誤字脱字などの指摘は大歓迎ですが。
返信漏れがありましてもご容赦頂けますと幸いです。
6/1 血の紋章関連の修正
過去話を見返すと、表現のまずさに煩悶すること多々。
習作だと割り切って書き始めたつもりでしたが、
キャラが動いてくれるようになると愛着が湧くものですね。
過去に遡ってすべてを書き直す労力は割けないのですが、
血の紋章関連だけ、表記を見やすく修正しました。
一部、表示スキル名等も書き換えましたが、本編に影響はありませ
ん。
7
AM2:00現在に作業を進めているので、表記修正後の回と
そうでない回が短期間だけ混ざっている可能性があります。
5/28 更新速度低下のお詫び
リアル休日があまり取れない上に筆の進みがスランプ気味で、
その上に別の小説ネタに気を取られて筆が進んでいません。
エタらせるつもりはないのですが、更新速度が少々落ちます。
5/17 第二十五話を投稿しました。
最近仕事を変わったもので、忙しくしています。
もっと休みが欲しいですねえ。
5/12 第二十四話を投稿しました。
話数を間違えて投稿していたので急遽修正をかけたりしました。
前日の前編に続いての投稿となります。
女性陣の容姿をどう描写するかは、悩みますね。
次作を書く機会があれば、もう少し上手に描写できる気がしている
のですが。
二十三・二十四話は設定説明会でもあります。
設定説明は日常に紛れ込ませたいのですが、筆力のせいで上手く行
きませんね。
5/3 第二十一話を投稿しました。
最新話を投稿するたびに、少しずつお気に入りに登録して下さる方
が増えており、
その都度ニヤニヤしております。読んで下さる方が増えるのは嬉し
8
いものです。
4/26 第十九話を投稿しました。
既存投稿話の編集は、随時行っています。
時間が経つと出てくる、修正したい描写の数々。
キャラが固まりきってないうちに書き出したツケがそろそろ響いて
います。
全部書き直したいって他の作者さん達は思ったりしないんでしょう
かね。
4/21 第十七話を投稿しました。
今回で奴隷編が解決すると言ったな、あれは嘘だ。
長くなったので二分割しました。明日にでも次話を投稿します。
4/18追記 第十六話を投稿しました。
次の第十七話で、奴隷編はひと区切りです。
過去話の見直しと、次の展開を考えつつになるため、しばらくは
更新速度が低下する予定です。週に一度は更新したいですね。
4/18 魔石価格の見直し、魔物名の訂正
インフレ対策として、魔石1レベル分の相場を5倍の5000ゴル
ドに引き上げ。
第四話のディノとの会話に数値の修正をかけています。
また、魔血蜂の読み名をポイズンビーからブラッドビーに変えてい
ます。
タグに﹁飯テロ﹂追加
大きく展開に影響しない本文の編集・修正は随時行っています。
4/16
奴隷編︵仮称︶は一応書き終えてあります。
9
書き溜めがないため、﹁後で修正かけたい設定とか出てきたら困る﹂
という理由で一旦寝かせています。語感を良くするなら推敲待ちで
す。
急に書けなくなって更新が滞ると困るから
ちょっとストック作っておこうという下心もあったりします。
4/15 各話にサブタイトルを設定
ろくに考えずに付けたので、そのうちサブタイトルは変更する可能
性があります。
4/13 タグの大幅更新
身の程を弁えずにMF&AR大賞MFタグを設定しました。
4/12 投稿開始
公の場に投稿するのは初の上に完成してない段階で連載するという
見切り発車のため、後々になって思い返すと序盤の展開が
物語的に弱すぎる気がします。
序盤のつかみが弱い点を修正したいとは思っていますが、現状は最
新話の
更新を優先します。
もう少し書き慣れてきてキャラが固まってきたら、
主人公の性格を含めて大きく修正をかけるかもしれません。
10
第一話 始まりの森
まず最初に感じたのは、濡れた草の匂いだった。
次いで、むわっとした、土の匂い。
匂いという情報を受け取った脳が動き始める。
眠りから目覚めていく実感があった。
瞼を開けると、真っ暗だった。
枯れ草が夜露にぬれて、うっすらと光っているのがわかった。
︵︱︱地面?︶
俺は、どうやら地面に突っ伏して寝ていたらしい。
急速に覚醒し、俺はがばっと起き上がった。
上を見ると、ぶ厚く重なりあった葉と葉の間から、わずかに月の
光が漏れ出ていた。
周囲を見れば鬱蒼と生い茂る樹木、足元を見れば根と根が絡みあ
っている中に枯れ葉や草が積もり、目の届く範囲では、少なくとも
道らしい道は見当たらない。
そして、自分を見ると、半袖の肌着と、膝までしかない股引きの
11
ようなもの、何かの革っぽい足首までの靴。それ以外に、何一つ持
ってはいなかった。
︵いくら何でも軽装すぎるだろう、これ︶
ずいぶんと奥深い森のようだし、腕も脛も丸見えのこの格好が、
夜の森という、それなりに危険な場所に相応しくないということぐ
らいすぐわかった。
︵︱︱目的?︶
なぜ俺はここにいるのだろう。森の中に来る用事なんてあっただ
ろうか?
いや、そもそも︱︱
﹁俺は、誰だ?﹂
口に出してしまったその言葉は、夜の森に溶けるように消えてい
った。
12
夜の森は、静かだ。ときおり吹くわずかな風が、頭上を覆う葉と
葉をゆらし、ざわめく。
意識を取り戻した俺が最初にしたのは、自分の状況を整理するこ
とだった。
自分の名前は、覚えていない。なぜこの森にいたのかもわからな
い。自分の職業は何だったのだろう?森で何かを採取するような仕
事だったのだろうか。それにしては、この身軽な服装は森をなめす
ぎていると思うから、素人には違いないと思う。
闇で見えづらいのを我慢して、自分の指や腕、足を順番にチェッ
クしていく。
例えば何かしらの武道を修めていたら、どこかにタコがあったり、
腕が太かったりするはずだ。そういう特徴から自分が何者かのヒン
トが得られれば、連動するように記憶を取り戻すのではないか、そ
う思ったのだが︱︱
︵何の変哲もないな︶
細くもなく、太くもなく、筋肉質でもなく、痩せぎすでもない。
手のひらや指先もきれいなもので、少なくとも肉体労働とは無縁
だったようだ。
どこかに鏡でもあれば、自分の姿を見ることもできるだろうから、
その時に何かわかるかもしれない。
森の中では鏡はないだろうけど、泉ぐらいならあるかもしれない
13
し、民家が見つかれば事情を話して宿を貸してもらおう。
そこまで考えて、はたと気づく。
︵もしかして、今の俺、けっこう、危険な状態なのでは?︶
ここがどれくらい深い森なのかはわからないが、食料も水もない
状態なのだ。それも、視界の確保できない夜の森だ。野犬や熊に襲
われたらひとたまりもない。蛇や蜂なんかの、毒を持った生物に出
くわしてもだめだ。
なんせ、自分の服装は、肩から先および膝から下が露出していて、
外敵からの防御を一切期待できないのだ。
︵露出が多い方がいいのは女の子だけだ︶
とっさにそう考えて、俺は立ち尽くした。たった今の自分の思考
をなぞるように思い返して、自分のことが少しだけわかったような
気がする。
︵女好きだ、俺︶
間違いない。こんな薄暗い、危険な夜の森を歩いていて、真面目
な思考の最中にエロいことを考える。これは間違いなく女好きであ
14
る。
鏡がないから自分の顔がわからないが、下手をするとおっさんで
ある可能性もあった。
自分が熟年男性である可能性について、不快感は特にない。おっ
さんだったら、それはそれで楽しみもあるだろう。
妙に嬉しくなって、ふふ、と声を出して笑う。自分を再発見する
というのは、面白いものだ。
少し元気が出てきたような気もする。
︵とりあえず、歩こう︶
第一目標は人を探すことだ。民家があれば嬉しいし、街の明かり
でも見つかればなおいい。そうでなくても、道らしいものが見つか
れば、それに沿って歩いていけば人に出くわすだろう。
どの道、食料もないのだ。夜の森で歩き回る危険については何と
なくわかるが、いつまでもこうしていてもしょうがない。
ひんやりとした樹木に手を付けながら、木の根が入り組んだ地面
に足を取られないよう、足元を見ながら歩く。ときおり、人の生活
している灯りが見つからないかあたりを見回す。
今のところ、危険な生物が近くにいるような物音はない。そのか
わり、人の気配や、生活の灯りもまた見つからない。
慣れない山道で息があがるのが早くて、自分の息遣いや鼓動がや
けに大きな音に聞こえる。
15
まず、黙々と歩くことだ。
﹁異常﹂だとは、一時間以上前から気づいていた。
しかし、異常を看過できなくなったのは、二時間ほども歩いたと
きだった。
眩暈がする。頭がガンガンと痛む。
最初は、慣れない山道で息があがっているだけだと思っていた。
ちょっと眩暈がしても、この森がかなり標高があって、空気が薄い
のか?ぐらいに思っていた。そのうち慣れるだろうと楽観して歩き
続けたのがまずかった。
治まるどころか、時間が経つにつれてどんどん症状は悪化してい
った。
︵︱︱何かの病気持ちか? 俺︶
事前にチェックした時に、そんな感じはしなかった。発汗にも異
常はなかったし、熱もない。
16
いくら運動をあまりしていなさそうな身体だといっても、こんな
症状が出るのは予想外だ。
今や、頭痛は耐え難いほどになっている。
歩いている途中で、獣道と呼ぶにはやや幅が広い、両手をぎりぎ
り伸ばせないぐらいの細道を見つけたので、それからはずっとその
道を歩いていた。眩暈がひどくて、まっすぐ歩いていられないほど
だったので、道の左右に生えている樹木に最初は手を付きながら、
途中から寄りかかるようにして、歩き続けていた。
呼吸が荒い。
早鐘を打つような心臓の鼓動の一回一回で、頭の芯が殴られたよ
うに痛む。
何も考えていられないほどだった。
︵夜道を歩いたのは、失敗だったか?︶
陽の光が出てくるまで待てば、視界が確保できて歩きやすかった
かもしれない。遠くまで見渡せて、人や民家も見つけやすかったか
もしれない。
今考えても、後の祭りだった。
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︵︱︱どれくらい、歩いただろうか︶
もはや朦朧とした意識の中で、寄りかかっていた樹から、汗でず
り落ちてしまった感覚があった。
目を開くと、地面があった。
︵さっき目を覚ました時と、一緒だな︶
意識を手放してしまえば、楽になれる。自分の身体が間断なく訴
えてくるその欲求に、必死で抗う。どんな生き物がいるかわからな
いこんなところで、倒れてしまうわけにはいかない。
暗いから気づいていないだけで、きっと服とか手はいま、土でド
ロドロだろう。二回も地面で寝ているのだ。
寝ていれば、症状が良くなるかもしれない、とは考えなかった。
倒れこんでからも、頭痛はひどくなる一方だ。耳元で楽器を全力で
鳴らされ続けたらこんな風になるのかな、なんてどうでもいいこと
を思ったりした。
動かなければいけない、とずっと考えていたけれど、実際に一歩
でも進めたかといえば、否である。
もう、指一本動かす元気もなかった。試しに動かそうとしてみた
ら、全身に電気を流されたみたいに痛みが走った。
意図せずに、目蓋が落ちてくる。
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閉じていく瞳の、まつげ越しのかすれた視界の隅に、何かが映っ
た気がした。
︵人影︱︱?︶
俺が意識を手放さないでいられたのは、そこまでだった。
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第一話 始まりの森︵後書き︶
推敲が甘いため、今後も予告なく本文の編集を行う可能性がありま
す。
登場人物名の変更など、大きな修正をかけた場合は告知します。
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第二話 朱姫
俺の目を覚まさせてくれたのは、紅茶の香りだった。
今回は意識を取り戻すまで早かった。目を開けてがばっとはね起
きると、豪奢、と表現できそうな部屋の調度品が目に入ってきた。
とっさに状況を整理しようと思いついたのは、夜の森で起きたあの
時の経験から来るものだろうか?
俺が寝ているのは、全身を伸ばせるほどに大きなソファで、すぐ
目の前に机があった。机の下だけは細かな刺繍が施されたタペスト
リーが絨毯とは別に敷かれていて、机そのものは俺の全長よりもさ
らに大きく、横腹はコウモリの緻密な彫刻で飾られている。
そして、俺の寝ていたソファとは机を挟んだ反対側に、背もたれ
がついた一人用の椅子に座って、一人の女性︱︱少女が、カップの
紅茶を啜っていた。
血のような赤い髪に、陶器を思わせる白い肌。
着ている服は、灰色のタンクトップと裾の広がった白いズボンだ
けで、小柄な身体を包むように、漆黒のマントを羽織っている。
﹁ん。起きたかな?﹂
カップを持つ手は少女のそれであり、可憐な細い腕は深窓の令嬢
を思わせるが、その印象とは裏腹に、片足を椅子の手もたれに引っ
かけてぶらぶらさせているのは決して行儀のいい仕草ではなかった。
何より、服装がお嬢様のそれではない。
21
﹁飲むかい?﹂ 少女は紅茶を啜るのをやめ、がちゃりと音を立ててカップを机に
置くと、返事も聞かずにティーポットを手元に引き寄せた。
返事がないことを訝ったのか、彼女が俺の顔を覗き込んでくる。
最初は、オールバックにした長髪を頭の後ろで束ねた赤毛に目を
奪われたが、彼女と目が会った瞬間に、釘付けになった。
琥珀色に彩られた、漆黒の瞳。吸い込まれるような錯覚さえ覚え
た。
﹁︱︱頂きます﹂
わずかに反応が遅れたとはいえ、しっかりと返答ができた自分を
褒めてやりたい。聞きたいことは山ほどあったが、取り乱してもい
いことはない。ここがどこで、目前の彼女がどこの誰なのかもわか
らないのだ。
落ち着いてみれば、彼女は挙措はともかく、美しい少女ではあっ
た。人間離れした、血色のあたたかみのない、白い肌である。
上半身には肌が透けるほどに薄いタンクトップしか着ていないこ
とからして、男としては邪な思いを少しは抱くべきなのかもしれな
かったが、それよりも彼女の瞳が頭に焼きついて離れなかった。
恋愛感情とはまったく別種の、本当に、純粋に吸い込まれるよう
な気分だった。彼女の容姿の問題ではなかったと思う。あの大きい
琥珀色の瞳と目があった瞬間、底知れぬ何かを覗きこんだような︱
︱。
22
ぼんやりとそんなことを考えていた俺の思考は、新たな驚愕に塗
りつぶされた。
彼女が何もない虚空を、そう、塩をつまむようにきゅっとひねる
と、その親指と中指の間から、水が出てきてティーポットに注がれ
ていくのだった。よく見るとティーポットから湯気が出ており、熱
湯なのだとわかる。
紅茶を蒸らすためなのだろうか、ティーポットに蓋をして、ハン
カチのようなもので包もうとしていた彼女は、驚きのために見開か
れていた俺の瞳と表情を見て、訝しげな視線をよこす。
﹁複合魔法が珍しかったのかな? 火と水のマナを混ぜただけだよ﹂
﹁ま、魔法? マナ?﹂
聞き慣れない単語が出てきて、思わず鸚鵡返しに聞き返してしま
う。
魔法っていうと、杖を振って炎とか雷を出すあの魔法なんだろう
か。
﹁魔法を知らないの?﹂
頷いた俺を見て、白磁のようになめらかな彼女の眉間に、皺が寄
る。
うち
﹁この屋敷に用があって来たんじゃないの? 人間では簡単に来れ
ないようなとこにあるんだよ、ここ?﹂
﹁ええと、記憶がないんだ。自分の名前も思い出せない。目が覚め
23
たら森の中にいたんだ︱︱﹂
事がことだけに、理路整然と説明はできなかったけれど、だいた
いの事は伝えられたと思う。
目が覚めたら森の中にいたこと。自分の名前も職業もわからなか
ったこと。民家を探して森の中を歩いていたら、眩暈と頭痛がひど
くなって倒れこんでしまったこと。起きたら、ここにいたこと。
話し終わった後、彼女は細い眉をいじりながら、何事かをぶつぶ
つ呟きながら考えはじめた。
その独り言の内容に興味がないわけでもなかったが、それよりも
今いるこの場所への興味が、俺の中では勝った。
︵女の子の部屋を堂々と眺めることができるなら、誰だって見るだ
ろう︶
この少女の身元や身分がわかるかもしれないからね、うん。
彼女が友好的に接してくれたので、この頃には、俺の緊張も解け
ていた。
改めて、部屋の中を見回す。広さは二十歩四方ぐらいだろうか、
少女が一人で使っているとしたら、かなり広い部屋だ。
部屋の四隅には、鮮やかな色の花を模したランプが、木棚の上に
置かれている。机、椅子、棚、俺の寝ているソファの枠もそうだ、
多くの家具が、つややかな黒飴色の、高価そうな木材で作られてい
る。
床にはふかふかなクリーム色の絨毯が敷かれ、部屋の一角には、
24
何かの淡く輝く白い石で造られた暖炉が、堂々と自らを主張してい
た。
俺から見て右側の壁には、手を伸ばしても上まで届かないような
緋色のカーテンが余裕を持って吊るされており、窓の隙間から淡い
光が差し込んできている。どうやら夜は明けているらしい。
贅沢に縁がなかったせいで、どの調度品がどれくらいすごいもの
なのかは上手く言葉にできないが、それでも部屋全体から圧倒され
るような雰囲気を感じるのだから、どれも良いものなのだろう。こ
の少女は、どこかのお嬢様なのだろうか?
全体的に見ると厳かな部屋なのだが、押しつけがましい派手さの
ようなものはなく、ソファの淡い桃色や絨毯のクリーム色から、わ
ずかに女性らしさが感じられた。目の前の、この少女の趣味だろう
か。
この少女も、謎といえば謎である。この世界には、魔法があると
彼女は言った。目の前で実演もしてもらった。
どうやらこの世界には、魔法というものが存在するらしい。
︵この世界、には?︶
何気ない自分の思考をあやうく見逃しそうになったが、意識せず
に思ったことだからこそ、それは重要であるようにも思えた。
何一つ覚えていない自分自身のことや、人間には来れない場所の
近くに着の身着のままで倒れていたということ、それに、彼女の話
しぶりからすると、魔法というものはごくありふれたものらしいか
ら︱︱。
25
︵杖から火や雷を出すという魔法のイメージは、俺が適当に考えた
ことだ。でも俺は、そんなものはありえない、空想上のものだとい
う意味で、そう考えたのではなかったか? 彼女がすんなり魔法の
実在を肯定したからその驚きで塗り替えられてしまっただけで︱︱︶
俺は、魔法が存在しない世界から、この世界に来たのではないか?
突拍子もない考えだとは思うが、そう考えると、一連の出来事に、
一応のつじつまがあうのだ。
この世界には、魔法が実在するという。それなら、違う世界から
人を呼ぶような魔法もあるのではないか?
俺は魔法なんて存在しない世界から、この世界の何者かによって、
召還じみた行為で呼び出されたのではないか?
一度そう考えてしまうと、その疑惑はどんどんと心の中でふくら
んでいった。
︵目の前の少女に聞いてみよう︶
ほとんど直感だが、俺はそう結論を出した。先ほど彼女は、﹁こ
こは人間では来れない場所﹂と言った。
︵︱︱まるで、自分が人間ではないような言い方だった︶
彼女の正体に恐怖心をまったく抱かないわけではないし、彼女は
魔法を使えるようだから、その気になれば俺を殺すこともできるの
かもしれない。多分、できるだろう。熱湯を出す魔法を簡単に使え
るような口振りだった。
26
それでも、やるつもりなら俺が寝ている間にいくらでもできただ
ろう。
軽装で深い森の中、体調不良でぶっ倒れていた俺を助ける義理な
んて、彼女には何一つなかったのだから。
俺が異なる世界から来たのではないか、という仮説について話そ
うと、口を開こうとして︱︱
﹁うん、決めた。まずは前提条件を固めよう﹂
彼女の宣言に出鼻をくじかれた格好の俺は、まじまじと彼女を見
つける。
彼女はちょっと晴れやかな顔をして、俺の瞳を覗きこんだ。
チャーム
﹁魅了﹂
彼女が呟いた瞬間、何かが俺の中に入り込んできたような感覚が
あった。
その﹁何か﹂は、まず瞳から、流れるように心臓のあたりまで降
りてきて、ざわざわと絡みつくように体内を侵していく。
彼女の全身がうっすらと輪郭を帯びたように輝き、彼女以外の世
界の全てがぼんやりと霞んで見えた。
27
世界でたった一人、彼女だけが輝いている。頭が、妙にぼうっと
する。
ひと
なんと美しい女なのだろう。やや小ぶりな顔は可愛らしいが、琥
珀色の瞳はぱっちりと見開かれて意志の強さを感じさせる。眉はす
っきりと細く、小さめの鼻はすっと通るように整っている。わずか
に青の混ざった色をした唇は愛らしく、つややかな赤黒い長髪をオ
ールバックにして首の後ろで結んでいる様は力強ささえ感じさせる。
全身の肌はなめらかな白磁のようで落ち着いた美しさがあり、活発
に見える赤黒い髪との対比が映える。彼女の小さな背とは裏腹に、
椅子の足元に布垂れを作れるほどの巨大な漆黒のマントを羽織って
いて、その吸い込まれるような黒はまるで闇そのものの高貴さであ
る。身につけている上着はねずみ色のタンクトップだけで、胸元の
控えめな膨らみの先端が僅かに尖っている様は筆舌に尽くしがたい
淫靡さがある。足首まである、裾の広がった純白のフレアパンツと
飴色の光沢を放つ木靴、そして彼女の細い胴を締める一本の無骨な
革と金具だけのベルトは、彼女の活発な性格をよく表していた。彼
女の美しい全体像を拝む光栄に私は謁しているのだ︱︱。
ああ、この人に命令をされたい。例えどのような事であっても、
私は従うだろう。この人の為すことに、この身がわずかにでも役に
立ったならば、どれほどの幸福を覚えることだろうか。用が済んだ
後に、塵芥のように捨て去られても構わない。願わくば、より主君
にとって有益な駒でありたい。この身は主君のためにある。ああ、
美しく可憐な、気高い我が主君。ああ、ああ︱︱
﹃効いてるね。一つ目の質問、君の名前は?﹄
28
なんと美しい声!もったいなくも私に声をかけてくださったのだ!
﹁この身に名前などありません。正確には、あの暗き森の中で目覚
めたときには、自分の名前がわかりませんでした。しかし例えこの
卑小な身に名前などなくとも、主君への忠誠心は微動だにしないと
いうことは断言できます。ああ、我が主君よ!﹂
﹃ごめんごめん、必要最小限の返答でいいよ。次の質問、さっきま
での私とのやり取りに何か嘘をついた?﹄
﹁いいえ、嘘は一つもついておりません﹂
主君に嘘をつくなどということがどうしてできようか!恐れ多く
も先ほどまでの私は主君の素晴らしさに気づいておらず︱︱
トランキライト
﹃もういいよ、鎮静﹄
頭から冷水を浴びたように感じた。即座に気分は元通りである。
チャーム
というか、先ほどまでの自分の狂態は一体何だったのだろうか。
最初にこの少女は魅了と言った。相手を魅惑する魔法か何かだった
のだろうか。
ともかく、人は本当に恥じ入った時、両手で顔を覆うものなのだ
29
ということを、俺はいま知った。一部始終の記憶は、しっかり残っ
てしまっている。
﹁ひどくない?﹂
うめくように言った俺の言葉に悪びれる様子もなく、少女はにこ
にこしている。
﹁ごめんごめん、君の状況を考えるのには、君が嘘をついていない
っていう前提が必要だったからね。でも色々わかったよ、ありがと
う﹂
慣れた手つきで彼女はティーポットの包みと蓋を取ると、カップ
に緋色の液体を注いで俺の方へ置いてくれた。でも今は紅茶を楽し
むどころの気分じゃない。
ヘリオスティー
﹁冷める前に飲むといいよ。炎帝茶は心を落ち着かせるから﹂
半ば言われるままに、のろのろとカップに手を伸ばした俺は、ろ
くに香りも嗅がずにぐびりと一口飲んだ。
まず、舌に乗せた瞬間に、液体から花開くような素晴らしい香気
が広がり、喉を通って鼻から抜けていった。香気の通り道は禊ぎを
されたように余韻が残り、ついで胃に落ちた茶から、馥郁たる呼気
が放たれて吐き出される。息をするだけで良い香りを楽しめるほど
に。
﹁すごいな﹂
30
美味い、と表現するのは何だか違うような気がした。美味い、で
はなく、おいしい、というのともちょっと違う。もう一口飲んでみ
て、舌全体と鼻を使ってゆっくりと幸せを味わう。うん、この紅茶
はすごい。
﹁気に入ったようで何より。私もこれ好きなの﹂
﹁紅茶の味なんてわからないと思ってたんだけどな。それでもこれ
が規格外においしいっていうのはわかる﹂
このお茶の力なのか、現金なもので、すっかり気分は元通りだっ
ヘリオスティー
た。心を落ち着かせるというのも、気休めではなくて本当にそうい
う力があるのかもしれない。彼女は炎帝茶と言っていたが、こんな
お茶は飲んだこともないし、聞いたこともない。
今や、頭はすっきりと冴え渡るようだ。そして私は、先ほどまで
この少女に聞きたいことがあったのだ。
﹁色々と聞きたい、って顔をしてるね。でもまずは、先に自己紹介
をしておこう。お互いの立ち位置の確認って重要だからね。ようこ
そ我が館へ。客人として歓迎しよう﹂
そう言うと、彼女は姿勢を正した。座ったまま、飾り気のないズ
ボンの膝の上に手を置く。
あけひめ
﹁私の名はチェルージュ、家名はパウエル。一族の者からは﹃朱姫﹄
と通称で呼ばれている﹂
31
︵ふむ、姫ということはやはりお偉いさんの娘か何かか?︶
ヴァンパイア
などと考えていた俺の思考は、次のチェルージュの台詞で一気に
吹っ飛んだ。
﹁我が一族、吸血鬼が住まう土地へ良くお越しになった、旅人よ。
客人として歓迎しよう﹂
32
第三話 名付け
目の前の少女︱︱チェルージュの発言を、ゆっくりと頭の中で吟
ヴァンパイア
味する。
吸血鬼、という単語に大きな衝撃を受けていたが、正式な挨拶を
された俺が彼女に言うべきことは、それについてではない。
姿勢を正している彼女に倣い、膝を直して彼女に向き合う。
﹁先ほども言った通り、自分の名前は忘れていてわからない。行き
倒れていたのを助けてくれたのは、君が?﹂
モンスター
頷きながら、魔物に襲われないなんてあなたは運がいい、と彼女
は笑った。
﹁おかげで助かった。ありがとう、チェルージュ﹂
深々と頭を下げた。あのまま倒れていたら、ほぼ確実に俺は死ん
でいただろう。土地勘なし、重度体調不良、危険生物がいるらしい
森の中で身を守る武器も持たずに行き倒れて意識を失う。どう考え
ても詰んでいた。
この少女は命の恩人になる。礼は尽くさねばならない。
﹁気にしなくていいよ、君の運が良かっただけだから。︱︱うん、
君はほんとうに運がいい。もちろん、私もね﹂
吸血鬼を自称する少女は、そう言って笑った。背筋がぞくりとす
る。
33
彼女の笑みがただのそれではなく、意味深長なものに思われたの
は、気のせいだろうか?
︵血を吸って吸血鬼は仲間を増やすみたいな話を聞いたことがある
し、ひょっとして獲物にされちゃう、俺?︶
そうなったらそうなったで、仕方ないな、と考えている自分に気
づいて、少し驚いた。
助けられた命をどう使われてもしょうがない、とまでは恬淡と割
り切れはしないものの、この少女には大きな借りがある。
チェルージュを見たところ、肌が少し青白い以外は人間との違い
は見当たらないし、吸血鬼として生きていけと言われたら、多少の
葛藤はあっても受け入れるだろう。
︱︱何より、この少女は可愛い。可愛い娘に血を吸われて一族に
なる。
︵うん、悪くない︶
我ながらエロスな思考であるとは思うが、記憶がないので当面の
目的もない人生である。そういう方向に進むのも一興であった。
なかま
俺を見ながら興味深げに微笑むチェルージュを見ていると、俺を
吸血鬼にしたいのは間違いないように思われる。
﹁痛くないように頼む﹂
上着の襟元をめくり、首筋をあらわにする。
34
﹁へ?﹂
口をぽかんと開けて呆けるチェルージュ。しばらくしてから、盛
大に笑い始める。
あれ?なんだこの反応は。
﹁勘違いだね、仲間にしたいわけじゃないよ。それとも食べられた
いの?﹂
可愛い少女に食べられる。なんて魅惑的な響き︱︱って。
﹁え、違うの?﹂
真顔の俺を見て、またくすくすと彼女は笑う。君は面白いなあ、
なんて言われてちょっと恥ずかしい。
﹁頼みがあるっていうのは間違ってないけど。もう少し話をしたら、
ダンジョン
君を人間の住む街まで送っていってあげるよ。君はそこで好きに生
きたらいい。迷宮を中心に成り立ってる街だっていう話だから、退
屈はしないと思うよ?﹂
ダンジョン
何事もなく人里に送ってもらえる、という話に、俺は拍子抜けを
した。
モンスター
というか、今、迷宮って言った?
ダンジョン
﹁そう、迷宮。中には魔物が住み着いていて、人間は彼らを討伐し
て、武器や防具の素材や、マナの結晶体である魔石を手に入れてる
んだ。そういう冒険者を相手取った宿屋や、鍛冶屋、道具屋なんか
の商売があって、どんどん街は発展していってるみたいだね。どう、
興味はないかい︱︱って聞くまでもなさそうだね﹂
35
ドラゴン
チェルージュは苦笑するが、さもありなん。今の俺は、尻尾を振
る子犬ばりに目を輝かせてしまっていることだろう。
だって剣と魔法の世界で魔物と戦うんですよ。倒した竜の素材を
使って強力な剣や防具を作るとかロマンだろう。
﹁頼みっていうのはそこなんだ。私たち吸血鬼はかなり強い種族な
んだ。でも、その分、身体を維持するのに多くのマナが必要。私た
ちが住んでるこの土地は、マナの濃度がとても高いんだ。私たちは
ここを離れるとどんどん弱ってしまうから、この土地を離れられな
いんだ﹂
君がここに来る前に行き倒れてたのは、多分マナ酔いのせいだろ
うね。君の身体には、この森のマナは濃すぎたんだ、と言われて、
俺は深く納得した。彼女は紅茶を飲みながら続ける。
め
﹁ずっとこの館で暮らすというのは、とても退屈でね。君には私の
瞳になってほしいんだ。具体的には、君との間にマナの回路を繋げ
て、君を通じて人間の街の様子や、ひいては君の人生を眺めたい﹂
﹁なんだ、そんなことか。構わないぞ?﹂
今度はチェルージュが拍子抜けしたような顔をする。
﹁ずいぶん安請け合いするね。君の任意で、見られたくない時は情
報を遮断することはできるけど、その瞳を維持する代償として、君
はマナを常に消費することになる。具体的には、君のマナの10%
を常に瞳にもらう。君はもっとも調子のいい時でも、 最大マナの
90%までしか発揮できないことになるね。君はまだ体験したこと
はないだろうけど、マナが減ると気分が悪くなってくるんだ。マナ
36
が空っぽに近くなると、さっきのマナ酔いみたいな症状が出るよ?﹂
チェルージュの言葉に、マナ酔いの症状を思い出す。すさまじい
頭痛と、眩暈だった。確かにあれは二度と起こしたくない。
﹁構わないぞ、それぐらいで恩が返せるなら﹂
それでも、さっくりと承諾する。そもそもチェルージュがいなけ
れば死んでいただろう俺である。返せないほどの義理がこの娘には
あるのだ。それぐらいでいいなら安いものである。
﹁そう言ってくれると嬉しいよ。実のところ、私はこの生活に飽き
飽きしていてね。暇で仕方なかったんだ。人間の街に興味があった
んだけれど、私はこの土地から離れられないからね﹂
同じ家でずっと過ごす。確かにそれは、退屈だろう。その手助け
ができるならばしてやりたいと思う。任意で見せたくない時は隠せ
るらしいから、トイレや風呂の時なんかは目を瞑っていればいい。
﹁じゃあ、血を吸うから首出して﹂
﹁なんでやねん﹂
思わず突っ込んでしまった。いい反応速度だったと、一仕事終え
た後のような達成感を覚える。俺がいた元の世界で覚えた動きなの
だろうか、平手の裏で相手を叩くポーズがすんなりと出てきた。
﹁マナの回路をつなげるのに必要なの。心配しないでも吸血鬼にな
ったりしないから﹂
37
言うや否や、机を挟んだ向こう側の椅子に座っていたはずのチェ
ルージュの姿がかき消えた。顔のすぐ近くに人のあたたかみと気配
を感じたのは一瞬のことで、すぐに右の首筋に尖ったものがあてら
れたことに気づく。
まず感じたのはチェルージュの匂いである。オールバックに結ん
だ髪からは、いい匂いがした。
次に、おそらく牙を突き立てられているのだろう首筋から、何か
が身体の中に入ってきたような感じがした。
魅了の魔法をかけられた時に感じたものと似ている。それは首筋
の噛み痕からせりあがってきて、両瞳をひとしきり撫でまわして、
消えた。いつの間に離れたのか、もうチェルージュは向かいの椅子
に座っている。
﹁もう終わったよ、大丈夫﹂
少し身体がだるかったが、それ以外に特に変化は感じられなかっ
た。両瞳にも、何の違和感もない。
﹁ずいぶんあっさりとしたもんだな。改造手術みたいなものがある
と思ってたのに﹂
﹁手術って言葉がわからないけれど、怪我を治す行為のことだった
ポーション
ら、傷を癒す魔法もあるよ? 傷を負ってから時間が経ってなけれ
ば、四肢欠損ぐらいだったら治せるような奴。人間は、回復薬を作
って冒険の時は持ち歩くらしいし﹂
﹁うへえ﹂
すごいな、魔法って万能だな。常識に囚われてると、できること
38
とできないことの区別を誤りそうだ。空を飛ぶぐらいならできそう
だし。
﹁もう君を送っていってもいいんだけど、それだけじゃ味気ないか
らね。しばらく話でもしない? 君も聞きたいことあったんでしょ
?﹂
﹁そうだな。この世界の常識とか、聞いておきたいことはいっぱい
ある。でもまずは、さっき思いついた仮説なんだが、聞いてくれる
か?﹂
俺は、チェルージュに自分が考えていたことを洗いざらい話した。
俺は、違う世界からこの世界に来たのではないか、ということ。
なぜなら、記憶がないはずの俺が、すでに﹁常識﹂を持っていて、
それがこの世界のそれと噛みあわないこと。魔法という概念自体は
知っていたのに、それはおとぎ話の中にだけ存在するもののように
思っていた、など。
﹁俺の中で吸血鬼のイメージっていうと、人の血を吸って生きる魔
物で、吸われた人間は性行為の経験がない奴は新たに吸血鬼になっ
て、そうじゃない奴は知性のないゾンビみたいな奴になるって感じ
かな。他にも太陽の光を浴びると灰になるとか、流れる川を渡れな
いとか、他人の家には招かれない限り入れないとか、十字架やにん
にくが嫌いって話もあったな。あとはこうもりに変化できるらしい。
力は強いけど弱点も多いって感じかな﹂
39
俺の吸血鬼像を聞いて、チェルージュはけたけたと笑った。よく
笑う娘である。いいことだ。
つられてこちらまで明るい気分になる。
﹁なにそれ変なの。ちょっとだけかすってるのがあるのが面白いね﹂
﹁かすってる?﹂
ヘリオス
﹁流れる川を渡れないとかの弱点は、さっき説明したマナの濃い土
地でないと生きられないっていうので説明がつくね。太陽って炎帝
のことだよね? 確かに闇属性の魔物は、光や炎の属性が苦手だし、
十字みたいな複雑な形の武器は強度の高い鉱石で作られてることが
多いから、どんな強い武器なのかと警戒はするだろうね。にんにく
が嫌いなのはよくわからないけど、人間もすごい嫌な臭いがする場
所とかに近づきたくないでしょ? きつい香水が嫌いっていうのと
同じレベルのものだと思うけど﹂
あと、エッチしたことあっても仲間にはなれるよ、と彼女は付け
足した。恥じる様子がなかったのが残念でならない。
恥らう女の子に猥談をしかけて反応を楽しむのは男子の嗜みだと
いうのに。
﹁でも、こうもりになれるっていう言い伝えは見過ごせないかな。
血を吸う動物なんていっぱいいるのに、何でこうもりが吸血鬼の変
化した姿っていう言い伝えを君が知ってるんだろう﹂
チェルージュは真顔で首をひねる。
﹁そういえば何でだろうな、吸血鬼とこうもりに共通点ってあんま
りないよな﹂
40
﹁一番の問題は、私たちの一族の家紋がこうもりなんだよね。かな
り昔のご先祖様が、隠れ住む吸血動物っていう点に着目して家紋に
取り入れたんだ。これは私たちの一族固有のもののはずなんだよ。
それなのに君が知ってるの言い伝えと符号しているのは、偶然の一
致で片付けるにはちょっと引っかかるかなあ﹂
﹁俺だって、﹃そういうものなんだ﹄ってなぜかわかるだけで、何
でこんな常識を持ってるかなんて、こっちが聞きたいぐらいだよ﹂
﹁そもそもこうもりなんて、血を吸わない種の方が多いんだけどね。
だいたいのこうもりは葉っぱの汁とか蜜を食べて生きるのに﹂
﹁まあ、あんまり気にしないでくれ。自分のことはわからない男の
言うことだし。ああ、そういえば﹂
﹁そうする。どうかした?﹂
﹁鏡ってこの家にある? おっさんかもしれなくてさ、俺﹂
目的の一つである、自分の顔の確認を今までさっぱり忘れていた。
﹁おっさんが突然出てきた理由がよくわからないけど、鏡ならある
よ?﹂
チェルージュが卓上の、青銅の鈴を凛と鳴らすと、左手にある重
厚な扉が音もなく左右に開き、二羽のこうもりが羽ばたいてきた。
俺の頭ぐらいほどの大きさしかないこうもりが、俺の身長ほどの
巨大な鏡を爪でつかんで飛んでくる様はシュールである。どれだけ
力が強いんだあのこうもり。
41
鏡は、折り紙でいうところの銀紙みたいな色をしていた。馴染み
のない青年の顔が映っている。
︵︱︱青年?︶
﹁誰これ?﹂
﹁誰って、君でしょ?﹂
試しに自分の顔をぺたぺたと触ると、鏡の中の若者も同じように
顔を触った。
好青年めいた顔つきをした、爽やかな若者である。秀麗な面差し
ではないが、さっぱりとした黒い短髪が快活そうだ。
﹁嘘だあ!?﹂
思わず後ずさると、鏡の中の青年も間抜けな面で後ずさった。認
めねばなるまい。どうやらこいつは俺のようだ。
﹁エロそうな顔をしてない!?﹂
驚愕さめやらぬ俺を見て、チェルージュはちょっと引いた表情で
ある。
﹁自分の顔を見たことがなくて驚くのはいいとして、エロそうな顔
って何?﹂
42
﹁いや、記憶をなくして夜の森をさ迷ってた頃に、自分が女好きな
ことに気づいてな。きっとエロそうな顔か、さもなきゃ好色そうな
おっさんなんだろうなってずっと思ってたんだ。それがこんな青年
とはねえ﹂
﹁自分のことを青年っていう人は初めて見たよ。なるほど確かにお
っさん臭くはあるね﹂
けたけたとチェルージュは笑う。
﹁私には、君がどういうヤツなのか何となくわかってきたよ。君に
変な常識があって、記憶がない理由も説明がつく。まずね、君は異
世界から魔法なりで召還されてきたわけではないね﹂
さらりと、彼女は告げた。あまりに突然、重大なことを言われた
せいで、すぐに返事ができない。
﹁︱︱そう思った理由を聞かせてもらっていいか?﹂
﹁そんな魔法はないもの。既存の魔法ではないし、これから編み出
トランキライト
そうとしてもおそらく無理だね。記憶を一時的になくす魔法ぐらい
レジスト
なら頑張れば作れると思うけど、それなら鎮静で治ってないとおか
しい。私のマナ総量で、かけた鎮静が抵抗される精神系の魔法なん
て、この世界の誰にもかけれないよ。言ったでしょ? 吸血鬼はか
なり強い種族だって。私、その中でも強い方だし﹂
語りながら、チェルージュは飛んできたこうもりから紙と万年筆
のようなものを受け取り、何かを書き始めた。
﹁もう一つは、異世界がもし仮にあって、その場所︱︱この世界か
43
らの距離とか︱︱が特定できていたとして、君一人を召還するだけ
でこの世界のマナをごっそり使うよ。人間たちが挑んでいるダンジ
ョンの核って、実は大地の中心部に根を張った巨大なマナの結晶な
んだけど、そこからマナが抜かれた様子もないしね。あ、ダンジョ
ンの核のことは人間には内緒ね?﹂
そう言いながら、彼女は先ほどから何かを書き込んでいた紙を俺
に見せた。
﹁炎帝茶﹂と﹁ヘリオスティー﹂の二つの単語が書かれている。
﹁私の仮説が正しければ、君、多分この文字読めるでしょ? 特定
の文字の組み合わせで、本来とは違う読み方をするんだけれど、炎
帝茶って書いてヘリオスティーって読むことは知らなくても、それ
ぞれの文字は読めない?﹂
俺はまじまじと紙を眺める。確かに、炎帝茶、とヘリオスティー、
の二つとも、文字として読める。
どこで習ったかもわからないが、この世界の文字を、俺は読むこ
とができるようだ。
﹁確かにな。炎帝茶って、ヘリオスティーって読むのか。どっちも
読めるよ﹂
﹁それが、君が異世界から来たわけじゃない証拠だね。言葉が通じ
ない生物と会話する魔法はあるけど、文字を読める魔法はないから﹂
﹁︱︱そうか﹂
俺は力が抜けて、ソファにぐったりと背をもたれかけた。
44
﹁結局、俺の素性はわからずじまいか﹂
﹁いや、私はもうわかってるよ? 教えてあげないけど﹂
勢いよく跳ね上がった俺は、勢いあまって机に両手をついてチェ
ルージュの方へと乗り出す。
﹁マジで?﹂
﹁うん。マジマジ。教えてあげない理由だけど、それは君がこの世
界で生きていくのに不要だから。これを教えてしまうと、君の人生
が色々と台無しになりそうな気がするからね。教えてあげない。も
し君が人間の世界で大きく名を上げて、この世界で一番強い魔物た
ちと対等に話せるようになったら教えてあげる。具体的には私と同
じぐらい強くなったらいいよ。まず無理だと思うけど﹂
そこをなんとか教えてくれ、と言いかけて、俺は言葉を引っ込め
た。
目前の吸血鬼の少女がにこやかに微笑む中に、どうしようもない
拒絶の意志が見え隠れしたからだ。どのように問い詰めても、この
少女は口を割ったりしないだろう。そして本人の言を信じるならば
︱︱そして俺は彼女を信じているのだが︱︱それを聞いてしまうと、
俺にとって、良くないことが起きるのだろう。
俺のためを思って言っていることぐらいは、何となくわかる。
﹁そっか。じゃあ、早いとこ強くならないとな。チェルージュをし
ばき倒せるようになるまで﹂
﹁あはは、気長に待ってるよ。私は吸血鬼と人間のハーフ、いわゆ
45
るダンピールってやつだけど、人間よりはだいぶ寿命が長いからさ﹂
なにそれ初耳、とおどけた調子で俺が言うと、チェルージュも苦
笑した。
﹁吸血じゃなくて、父さんと母さんは人間と同じように結ばれて私
を産んだからね。ある日、一族の長だった父さんが人間の女性をさ
らってきて、目を覚ますなりプロポーズした時は一族みんなひっく
り返ったらしいけど。母さんも母さんで、初対面の男から誘拐され
ておきながら、友達からお願いしますって返したらしいからね。ち
ょっと前に母さんは死んだけど、父さんはそれから引き篭もっちゃ
うし、いい夫婦だったんじゃないかなあ﹂
﹁そりゃすまんことを言わせた。悪かったな﹂
﹁まったく気にしてないから大丈夫。だって母さんの死因、老衰だ
し﹂
﹁へ?﹂
何のことかわからず、呆けた表情になってしまう俺に、チェルー
ジュは苦笑した。
﹁私、寿命が長いって言ったでしょ。そろそろ五十歳よ?﹂
﹁おばちゃんだー!﹂
女性の年齢を揶揄するのは、最も身近にある地雷を踏むことと同
義である。殴られることを覚悟でボケたのだが、彼女はけたけたと
笑っている。人間ができているなあ。この場合吸血鬼ができている
46
っていうのか。
﹁他に聞きたいことがなければ、そろそろ人間の街まで送ってあげ
るよ。もう少し引き留めたいけど、この館には人間用の食べものが
ないんだ。私の主食は血でね、お茶は嗜好品だから置いてあるけど﹂
そう聞くと、とたんに腹が減ったような気がする。気のせいでは
なく、腹の虫が鳴いた。昨日の夜から何も食ってないのだから当然
といえば当然である。
﹁人間が使う金貨とかはないから、お土産に魔石をあげるよ。人間
の街で換金できるはずだから﹂ ﹁おう。何から何までありがとうな﹂
こうもりがごつごつした突起のわかる小袋を持ってきたので、受
け取って立ち上がる。
﹁最後に、君にもう一つ贈り物をしたいんだけど﹂
﹁もらえるものならもらうが、何だ?﹂
後先考えていないのもあるけど、君は朗らかで楽しいね、と彼女
は笑った。
﹁名前がないと不便だろう。ジル、っていうのはどうだい? 吸血
鬼の始祖の名前なんだけど﹂
﹁ジルか。悪くないな。自分でそのうち名付けようと思ってたから、
ありがたく頂くわ﹂
47
﹁気に入ってくれたなら嬉しいよ。私の家名とあわせて、ジル・パ
ウエルと名乗るといい﹂
ジル・パウエル。口の中で呟くと、妙にしっくりきた。
俺は今日から、ジルだ。
﹁うん。気に入った。これからはこの名前を名乗ることにするよ﹂
﹁それは良かった。いつかまた力をつけたら、今度は自分でこの館
に来てみるといいかもね。歓迎するよ﹂
﹁そりゃそうだ。チェルージュに勝てるようになって俺の素性を教
えてもらわないといけないしな﹂
あははは、と心底愉快そうに彼女は笑った。
﹁今日はいい出会いだった。君の冒険がうまくいくことを祈ってい
るよ﹂
別れを告げて、館を出る。空は青く、雲ひとつない。誰が送って
くれるんだろうと首をひねっていると、二匹のこうもりがぱたぱた
と飛んできて、俺の両肩を爪でがっしりつかんだ。気を使ってくれ
ているのか、意外と痛くない。
︵いわゆる使い魔って奴なんだろうか?︶
こうもりが二匹とも羽ばたくと、俺の身体は地面から離れて、吸
48
い込まれるように大空を飛んだ。
重力もあまり感じないし、風の抵抗も心地良いぐらいだ。これも
何かの魔法なんだろうか?
果てしない空を飛ぶのは、素晴らしい開放感だった。いつか俺も、
自分で空を飛びたいなあ、なんて思う。
眼下に広がる森は、とても広く、ところどころに覗いた山の峰が
なければ地平線の彼方まで続いているように錯覚しただろう。
ふと後ろを見ると、もうチェルージュの館は豆粒ほどに小さくな
っていた。
未だ見ぬ冒険に思いを巡らせて、心が躍る。
風を切るように大空を飛ぶ中で、俺はもう一度、チェルージュに
心の中で礼を言った。
49
第四話 血の紋章
一時間ほども飛行を楽しんだ頃、街へは着いた。
街のど真ん中で降ろされて、こうもりに連れてこられた男として
目立つのは嫌だなあと思っていたが、ちゃんとこうもりは空気を読
んで、街から少し離れた草原に降ろしてくれた。
﹁ありがとうな。チェルージュにもよろしく﹂
言葉がわかっているのか、こうもりは小さな首をかしげて、飛び
去っていった。
街までは数分も歩けば着くだろうが、こうして一人っきりになっ
てみると、少し寂しくもある。これから、身寄りもない街で暮らし
ていくのだ。弱気になっていてはいけないと思い、軽く自分の頬を
張って気合を入れる。
歩き始めてすぐに、十メートルはありそうな巨大な壁が見えてき
た。
空を飛んでいる時も、街は小さいのに壁は立派だなあと思ったが、
こうして間近で見るとその大きさはやはり圧巻だった。
はるかな上空からこの街を見おろしたあの光景を、俺は忘れるこ
とはないだろう。中心部にドーム状の建物があり、そこから渦を巻
くように商店が広がっていく。広場があって、噴水があって、蟻み
たいに小さく見える人の行き交う様があって、露店が見える。
50
中心から左奥、職人街らしき町並みからは煙突からいくつもの煙
が立ち昇っており、左端にはひときわ巨大な城のようなもの、手前
と右側には住宅街が並ぶ。右側の住宅街の方が、家も大きくて綺麗
なものが多い。
それら街の周りを、巨大な壁がぐるりと取り囲んでおり、壁の外、
つまり街から出ると街道や畑が広がっているのがわかる。それ以外
のほとんどの大地が、森や草原だった。
チェルージュのところから飛んできたせいか、当初はこの街がと
てもちっぽけに見えた。圧倒的なまでに広い森に比べて、この街は
爪の先よりも小さい。
それでも、歩きで街の端から端まで歩けば一時間はかかるだろう。
人口は百万人もいないぐらいだろうか?人口密度はかなり高そうだ
った。高層建築物は少ないのに、広場は人の行き交う様で、床が見
えないほどだったから。
︵さて、どうやって街に入ったものか︱︱︶
自慢ではないが、客観的に俺の姿を見ると、怪しいことこの上な
いだろう。何せ、手ぶらの上に着の身着のまま、肝心の服は泥で汚
れていて小袋一つ持っているだけと来た。
現金もないから、入場料を出せと言われたら事情を説明せざるを
得ないが、身分証明もできない。
いざとなれば、記憶喪失で何もわからないと開き直るしかないと
思っている。
そんなことを考えながら歩いていると、すぐに街の入り口が見え
てきた。
ぐるりと街を囲むようにそびえたつ城壁の上にはところどころ弓
51
を構えた鎧姿の衛兵が立っており、街道は城門へと続いている。す
べての城門には見張りの衛兵がいるようなので、街に入るには彼ら
と接触しなければならないのは確定のようだ。
出入りの少ない城門なのか、俺の他に街の人間は見当たらない。
ありがたかった。人にジロジロ見られながら兵士とやり取りをする
のは気が重かったのだ。
﹁止まれ﹂
城門に近づくと、案の定兵士が槍を向けてきた。
さて、どうやって説明したものかと俺が考えていると︱︱
﹁板に手をかざして犯罪歴と唱えろ﹂
見れば、兵士は小脇に抱えていた、銀色の板を差し出してくる。
兵士の言われるがまま、その板に手を押し付けて、﹁犯罪歴﹂と
喋ってみると、うっすらと板が光り輝いて、何やら文字のようなも
のが浮かび上がってきた。
兵士はそれを俺から取り上げてちらりと眺めると、
﹁犯罪歴なしか。行っていいぞ﹂
と道を開けてくれたではないか。厚さ1メートルほどの城門の奥
には、街並みが広がっているのが見える。
︵え、それだけ?︶
52
﹁ど、どうも﹂
会釈をして、街の中に足を踏み入れる。ここはまだ郊外にあたる
のか、民家もまばらで、のどかに畑が広がっている。
ぽつぽつと、幾人かの農夫が畑にクワを振り下ろしていた。農家
といえば老人がやっているものと思い込んでいたが、どの農夫も若
者から中年で、中には細身の身体で豪快にクワを地面に突き立てて
いる女性もいた。痩せているように見えるのにやたらパワフルであ
る。
中心部へと続く道を歩きながら、街に入れたんだな、という実感
がいまさらこみ上げてきた。もっと苦労すると思っていただけに、
楽でありがたかった。
︵ていうか、警備ザルじゃなかったか? いいのかな、あれで︶
城門の兵士がやったことといえば、魔法の板らしきもので俺の犯
罪歴を調べただけである。もっと詳細な調査をされるものだと思っ
ていたが、出入りする人間を全員調査してたら時間が足りないのだ
ろうか。
﹁まあ、ともかく﹂
まずは、市街の中心部に行こう。遠目にも、中心部に建物が集中
しているのが見え、街道もそこへ続いているようだ。
︵やるべきことは、魔石の換金と宿屋の確保、それと冒険者にな
る方法の調査︶
それと、飯だ。
53
﹁腹減ったなあ﹂
先ほどから間断なく、腹の虫が空腹を訴え続けている。
︵早いところ、腰を落ち着けたいよ︶
歩き続けながら、そんなことを考える俺である。肉体的な疲労は
ほとんどない。しかし空腹は別である。思春期の若者にダイレクト
なダメージなのだ。
だからこそ、客の呼び込み競争激しい中央街へと足を踏み入れた
時、すさまじい喧騒の出迎えに俺は喜びを隠せなかった。
﹁いらっしゃいな、宿屋﹃鯨の胃袋亭﹄は残り三部屋だよ、名前通
オーディーン
ポーション
りの大飯が売りさ、食い倒れていきな!﹂
﹁﹃百薬草の菜園﹄は中級までの回復薬なら街下随一の格安です!
ウォリアー
ぜひおまとめ買いをどうぞ!﹂
﹁戦士ギルドはありとあらゆる近接武器を君に教えよう! 君も明
日からいっぱしの前衛だ!﹂
マナバイソン
アルティメリック
﹁食堂﹃庶民の見栄亭﹄は迷宮素材をふんだんに使った美食が自慢
だよ! 今日のお勧めは魔角牛の極鬱金ステーキさ!﹂
熱気、熱気、熱気。人ごみと喧騒。
ぼうっと突っ立っていると、道を行き交う人々と何度もぶつかる。
人が多くて満足に歩けないほどだ。
﹁そこの綺麗なお姉さん、悪いんだが魔石を換金できる場所を教え
てくれ! 後でたらふく食いに来るから!﹂
﹁あいよぉ、道案内一丁! この路地をまっすぐ行って︱︱﹂
54
お世辞にもお姉ちゃんとは言い難い、恰幅のいい呼び込みの女性
を捕まえて声をかける。人の良さそうなおばちゃんだ、と感じた俺
の目は間違っていなかったようで、丁寧に冒険者ギルド本部への道
を教えてくれた。魔石の換金は、冒険者ギルドで行っているらしい。
人の流れに沿って歩きながら、道中の看板を掲げている店名を眺
ドワーフ
める。
エリクシール
プレート
﹁山鍛冶の酒場﹂﹁高級魔法薬﹃不死鳥の翼﹄亭﹂﹁万金買命﹃
神杯の一滴﹄﹂など、様々な屋号を見ているだけで飽きない。
ダンジョン
メイル
レンジャー
迷宮で成り立つ街だと聞いていた通り、街中にもちらほらと板金
鎧を着込んだ戦士や、弓を手に矢筒を背負った狩人らしい姿が見え
る。ただし、雑踏の中で装備をしているのはマナーのいい光景では
ないらしく、全身を板金鎧で固めた戦士は、行き交う人々から嫌そ
うな視線や舌打ちを浴びせられていた。
わたわたと謝るその戦士が、兜の面頬を上げると、そこから覗い
た素顔は驚いたことに細面の女性のものだった。この世界ではごく
普通に、女性も冒険者として戦うらしい。
︵すごく重そうに見えるんだけどな、あの鎧︶
足取りも重々しい、板金鎧を全身に身にまとって平気そうにして
いる。
筋骨隆々とした農婦といい、この世界の女性はみんなああなんだ
ろうか?
商店街らしき先ほどの路地を抜けると、石で舗装された道路は横
幅が広くなり、人も先ほどよりは減って進みやすくなった。それで
も少なくない人が道を行き来しているが、普段着よりも武器防具を
55
装備している人の割合が増えた気がする。迷宮が近くなったせいだ
ろうか?
何にせよ、この一帯は広く、整然と建てられた、家というよりは
役所のような建物が多い。政庁のような場所なのだろうか。
冒険者ギルドは、空から見た中でも一際目立っていた、見張塔の
ついた大きな建物がそうだった。装飾の多い城などとは趣を異にし
ていて、必要以上に華美ではなかったが、すべての壁や歩道が石造
りで舗装されており、質実剛健といった体で、威圧感を覚えるには
じゅうぶんな大きさがあった。
人の列を飲み込んでは吐き出している、アーチ状に組まれた柱が
入り口らしい。
︵たかっ︶
建物の中に入った俺は、さらに驚くことになった。天井が見上げ
るほど高く、おそらくジルの身長の十倍は超えているだろう。
明かりとりの窓から差し込む光と、何十個ものランプが集まった
ようなぶら下げ式の燭台は、施設の隅々までを照らしている。
施設案内が書かれた看板があちこちに据えつけられているので、
目的である魔石買取のカウンターはすぐに見つかった。
﹁買取を頼む﹂
チェルージュからもらった小袋をカウンターに置く。一瞬だけ、
俺の身なりを見て訝しげに眉をひそめた受付の女性は、それでも袋
を受け取って中を改める。銀色のトレイに袋の中身を出した彼女は、
転がり出てきた魔石を見て息を飲んだ。
56
エンブレム
﹁︱︱失礼ながら、換金額が大きいので血の紋章を確認させて頂き
ます﹂
そう言いながら、彼女が目配せしたことにより、すっと俺の近く
に別の職員が近づいてきた。
︵これは、盗品か何かだと警戒されてるか?︶
近づいてきた職員は、場慣れた雰囲気のする、若い男性だった。
ヘリオス
受付の女性も、この男性職員も、純白のローブのような共通の制服
を着ていて、胸元に炎帝を象った金色のネックレスが輝いている。
冒険者ギルドのシンボルなのだろうか。
﹁こちらへ﹂
優男そうな見かけによらず、俺の背中に添えられた手は思いの他、
力強かった。失礼がない程度に力を入れている、といった感じか。
不安に思わなくもなかったが、まあ、こんな身なりの奴がいたら
誰だって怪しく思うに決まっているので、特に抗わない。実はさき
ほどから、好奇と嫌悪の視線があちこちから刺さってちょっと痛い
のだ。
広間の隅にある椅子に座り、若い男性職員と向かい合わせになっ
た。彼は懐から何枚かの紙を取り出す。
カウンセラー
﹁冒険者ギルド、案内人部署のディノ・クロッソです。早速ですが、
血の紋章を提示頂けますか?﹂
﹁協力は惜しまないつもりだ。だが、非常に胡散臭い話になるが、
57
いいか? 俺は大真面目なんだが﹂
首をかしげながらも、先を続けるように促してくるディノ青年で
ある。公的機関という側面があるせいなのか、ここの職員はみな対
応が丁寧である。
エンブレム
﹁まず、俺は記憶喪失だ。昨日から前のことは一切思い出せない。
文字は読めるんだが、常識とかがすっぽ抜けてる。血の紋章ってい
うのが何なのかもわからないし、身分を証明できるようなものは持
っていない。街の入り口でやった、犯罪歴を調べるようなものはや
ってくれても構わんのだが、俺はどうしたらいいかね?﹂
﹁なるほど、確かに信じがたい話ですね。血の紋章というのは、血
液を付着させて、本人の情報を調べる身分証です。お持ちでなけれ
ば、50,000ゴルドで作って頂いても構いませんか? 各ギル
ドに所属する際には必要なのと、迷宮の入場証も兼ねているので、
冒険者として活躍されている方は必ず所持されています﹂
﹁受付のお姉さんに渡した魔石以外は無一文でな。ついでに言うと、
ゴルドっていうのが通貨の単位なのか? 50,000ゴルドって
いうのがどれくらいの高さなのかがわからん。教えてもらってもい
いか?﹂
﹁簡素な宿屋に一日二食付で一ヶ月泊まれるぐらいの金額ですね。
雑穀パンが一斤で100ゴルドです。持ち込まれたのがかなり質の
良い魔石のようでしたので、お渡しする代金から引く形で血の紋章
を作成してもよろしいでしょうか? 恐らく換金額の一割にも満た
ないはずですので﹂
ということは、500,000ゴルド以上もの価値がある魔石だ
58
ったのか。
一年以上暮らせるものをチェルージュはくれたことになる。
﹁貰い物なんだが、そんなにいい魔石だったのか。血の紋章って奴
は、いずれ必要になるらしいし作ってくれ。当面の生活費が残るな
ら問題ない﹂
﹁ご理解頂けてありがとうございます。作って頂けなければ、ちょ
っとそのままお返しできないところでした﹂
﹁さらりと脅すんじゃない。まあ、気持ちはわかるよ。どこからど
う見ても怪しいもんな﹂
意外と話がわかる方で助かります、などとディノ青年が言い、は
はは、と笑い合う。
彼が受付の方に指のジェスチャーで何事かを伝えると、先ほどの
受付の女性が十センチ四方ほどの、乳白色の平べったい板を持って
きた。
ポーション
﹁この短剣で指の先を刺して、この板のどこでもいいので血を押し
付けてください。終わった後は、机に備え付けてある回復薬に浸し
た布を触って頂ければ傷はふさがりますので﹂
言われた通りに親指を刺し、乳白色の板のど真ん中に押し付ける
と、うっすらと板に文字が浮かび上がってきた。
もう結構ですよ、というディノ青年の言葉に指を離すと、押し付
けた血糊は吸い込まれるように消えていき、くっきりと文字が現れ
る。
59
︻名前︼ジル・パウエル
︻年齢︼16
︻所属ギルド︼なし
︻犯罪歴︼なし
︻未済犯罪︼なし
︻レベル︼180
︻最大MP︼5
︻腕力︼7
︻敏捷︼5
︻精神︼6
﹃朱姫の加護﹄
手渡された血の紋章を見ながら、ディノは驚きを隠せない表情で
ある。
﹁加護持ちというのも驚きですが︱︱記憶喪失というのは、本当だ
ったのですね﹂
﹁そりゃそうだが、わかるのか?﹂
﹁日常でささいな嘘を吐くぐらいならともかく、公の場で冒険者ギ
ルドの職員に取引に関する嘘を吐けば偽証罪が付きますから。血の
紋章は偽造できない仕組みになっているので、これでジルさんの身
分は証明されたことになりますね﹂
60
﹁正直に言っておいて良かったぜ。記憶喪失なんて信じてくれると
は思ってなかったから、適当に理由をでっちあげることも考えてた﹂
﹁それは賢明でしたね。ミリアム︱︱ああ、さっきの受付です︱︱
が魔石の査定が終わるまでお暇でしょう。私で良ければ話し相手に
なりますが﹂
﹁ここの人らは親切だな。助かるわ。聞きたいことは山ほどある。
まずは︱︱﹂
複数の魔石が入っているせいか、ミリアムの査定はかなり時間が
かかった。腹の虫を鳴かせていると、ディノ青年は笑いながらお茶
請けの甘い菓子を持ってこさせてくれたので早速パクつく。何から
何までいい奴である。いずれ恩は返そう。
﹁これが通貨のゴルドですね。大別して銅貨、銀貨、金貨に分かれ
ていて、さらに同じ銅貨でも四種類の大きさがあります。ちょっと
中金貨以上は持ち合わせていませんが﹂
そう前置きして、ディノ青年は自分の財布から小銭を取り出して
机に並べてくれた。
1、5、10、50ゴルドまでが銅貨。100、500、1,0
00、5,000ゴルドまでは銀貨。同じように、金貨も10,0
00ゴルドの小金貨から500,000ゴルドの大金貨まであると
いう。それぞれのコインには額面と、何やら人の顔のようなものが
彫られていた。
﹁ディノって、説明上手いな。若く見えるけど、ひょっとしてお偉
いさんだったりする?﹂
61
﹁お偉いさんではないですが、冒険者ギルド自体が他のギルドを束
ねていますので﹂
一瞬苦笑して、それからすぐに真顔に戻ってディノ青年は続ける。
﹁そうか、記憶がないのでご存知ないのですね。この街はいわゆる、
王様はいません。戦士ギルドや魔法ギルド、商業ギルドなど、それ
ぞれのギルドマスターが集まる議会で冒険者ギルドのマスターが選
出されます。迷宮の運営や、法令の布告、戸籍の管理などは全て冒
険者ギルドで取り扱っています。いわば、冒険者ギルドはこの街の
運営者です。自慢に受け取られると恐縮ですが、冒険者ギルドに配
属されることはとても名誉なことで、一握りの人間だけがここで仕
事をしていますね﹂
すげー、などと言いながら拍手をする真似をすると、ディノ青年
はまたも苦笑する。さすが選良階級である。お世辞もスルーし慣れ
ている。
﹁それじゃあ、言葉遣いもちゃんとしないとまずいのかね。あまり
丁寧な言葉って得意じゃないんだが。お役人様に無礼を働くと首刎
ねられちゃう?﹂
﹁良いのではないですか? 冒険者の方は荒っぽい方が多いので、
大抵の職員は慣れていますから﹂
﹁そりゃ助かる。どうもこの話し方が気に入っててな。変える気に
ならんのだ﹂
﹁釘を刺しておくと、ギルドマスターとか、本物のお偉いさん相手
62
エルフ
だと話は別ですよ。仮にですが、森人などの他の種族と、種族長同
士の面談を要請された場合、人間の代表は冒険者ギルドのマスター
になりますからね。人間の代表が小馬鹿にされていたら示しが付き
ませんから﹂
たしなめるところはたしなめる。メリハリのしっかりした、いい
青年であった。
しかし、冒険者ギルドのマスターがいわゆる国家元首みたいなも
のなのか。すると、冒険者ギルドが政府ってところか。
︵︱︱あれ? そのギルドマスターが人間の代表になるってこと
は︶
﹁お偉いさんの件はわかったんだが、ひょっとして、この街以外に
人間の住んでいる国ってないのか?﹂
﹁ありませんよ? この街の付近一帯が人間住む唯一の地域です。
開拓で序々に居住域を増やしてはいますが﹂
びっくりした。予想よりはるかに、人間の住んでいる地域は狭か
った。このあたり一帯だけが人間の縄張りらしい。
﹁この街の人口ってわかるか?﹂
﹁およそでいいなら、五十万人ほどですね。毎年1%ほどずつ増加
していますが﹂
﹁ずいぶん少ないように感じるな。やっぱり、迷宮で命を落とす奴
が多いのか?﹂
63
﹁私は少ないとは思いませんが、何も知らないと、そういう反応に
なるのでしょうか。神話の時代に遡ってしまいますが、数百年前に、
暗黒龍シンによって人間の国はほとんど滅ぼされてしまったようで
す。それ以前には、今よりもはるかに大きな王国があり、人口もも
っと多かったらしいですよ。迷宮から得られる物資を核に、逃げ散
った人々がこの場所に集落を作って何とか生き永らえてきたのが人
間の歴史です。本からの受け売りで申し訳ありませんが﹂
﹁そうだったのか。人口増加率が低い理由はわかるか?﹂
﹁先ほど、私のことを頭が良いと褒めてくれましたが、ジルさんこ
そ、記憶を失う前は、水準の高い教育を受けていたのではないです
か? すぐに人口増加率なんて単語が出てくるなんて。仰る通り、
迷宮で若者が命を落とすということもありますが、迷宮外、すなわ
ち街に魔物が襲ってきて死者が出ることもありますから。撃退でき
なかったことはありませんが、多産を奨励してもこの人口での推移
なのですよ。減ったり増えたり、結果的には微増、といったところ
ですね﹂
﹁人間、苦労してるんだな。よくわかった、ありがとうな﹂
﹁いえいえ︱︱ジルさんは、身の回りが落ち着いたら冒険者に?﹂
﹁ああ、その予定だ。迷宮に潜って、命がけで魔獣を倒したりお宝
を手に入れたりする。男なら憧れるだろう。どうも、身寄りもなさ
そうだしな。血の紋章って、偽名じゃなくて本名が表示されるんだ
ろう?﹂
﹁ええ、そうですが? 念じながら撫でれば、名前と犯罪歴以外は
隠しておけますが、必ず本名が表示されますね。覚えていない名前
64
だろうと、身体に帯びているマナから情報を取り出していますから。
戸籍からご家族を探しますか?﹂
﹁いや、いいや。多分だが、俺に親戚はいなさそうだ﹂
ジル・パウエルという名前は、今朝チェルージュから貰ったばか
りだ。その名前が本名として血の紋章に表示される。
つまり、この世界に、俺の家族はいない。少し寂しくもあった。
﹁それなら良いのですが。私からも一つ、質問をいいでしょうか?﹂
﹁ああ、いいぞ。何でも聞いてくれ﹂
﹁血の紋章の備考欄にある、朱姫の加護という一文ですが。この加
モンスター
護は、どこで手に入れたかわかりますか? 人間に加護を与える以
上、強力な魔物なのだとは思いますが、迷宮に入ったこともないよ
うですし﹂
﹁先に質問を返して悪いんだが、加護っていうのはよくあることな
のか? この加護をくれた奴には恩がある。話すことで、先方に不
利益が出るなら黙っていたい﹂
﹁よくあるどころか、極めて稀です。迷宮の深部にいる、強大な力
を持つ魔物などが、自分たちと敵対しないかわりに冒険者に加護を
授けることがあるとは聞いていましたが。今までに確認できている
ものは、精霊の加護、龍の加護、不死鳥の加護、悪魔の恩寵の四つ
だけですね。どの加護を持っている冒険者も、それぞれ多大な名声
を得ています。どの加護も非常に強力なものだったようですね﹂
残念ながら、俺の加護はむしろマイナスにしかならないものであ
65
るが。
﹁すまんが、誰に貰ったかは隠させてくれ。ディノにも色々教わっ
た恩があるが、先方には命を救われててな。立場上、上に報告しな
きゃいけないとかあるか?﹂
﹁いえ、私が言わなければいいだけなので大丈夫ですよ。見なかっ
たことにしておきます。血の紋章も、次からは他人に見られないよ
うに加護の情報を消しておけば問題ないでしょう。念じながら指で
なぞれば消せますから﹂
﹁そうか、助かる﹂
﹁迷宮で持ち帰ったものは、すべて冒険者のもの。自分の身は自分
で守る。その鉄則がこの街では浸透しているので、嫌がる情報を無
理に聞き出したりはしないのでご安心下さい。血の紋章で、任意で
隠せる能力があるのもその一環です。犯罪者になるとはいえ、他人
を襲って金品を強奪する輩もいますし、犯罪にならないように頭を
使って人を殺める輩もいます。信頼できる人以外には、むやみに能
力を見せない方がいいでしょうね。対策を練られて襲われないとも
限りません﹂
﹁そのあたりはシビアなんだな。よくわかった。名を上げたいとは
思ってるが、期待させても悪いから加護の内容は教えるよ。最大M
Pの一割を常に献上するだけの加護でな、戦闘にはまったく役に立
たん﹂
なんとまあ、と呆れ顔のディノである。
﹁命を救われた、といっていましたね。その代償にしては、もしか
66
したら安いのかもしれませんね。命は一つだけです。迷宮に潜るな
ら、慎重すぎるほど慎重に行くといいと思いますよ。一番の死因は
油断です﹂
﹁そうするわ。しかし今は何より飯が食いたいな。昨日から何も食
ってないから餓死しかねん﹂
﹁そろそろ査定も終わる頃でしょうから、お腹いっぱい食べてきて
ください﹂
談笑していると、ミリアムがトレイに魔石を乗せて近づいてきた。
見ると、魔石の一つ一つに金額が書いた紙が貼られている。
﹁総額で2,450,000ゴルドになります。任意で売らない魔
石をお選び頂くこともできますが﹂
二百四十五万、という数字に、俺もディノも、ぴしりと固まる。
予想をはるかに上回る数字だった。
細々と暮らせば、四年は生きていける計算になる。
﹁そんなに?﹂
ディノがミリアムに聞いている。話し方がフランクなので、仲が
良い同僚なのだろう。
﹁マナの圧縮率が一番高い魔石が、かなり良い物で。というより、
魔石の見本市みたいよ。粗悪な魔石から極めて良質の魔石まで、見
事に段階を踏んで一種類ずつ入っているんだもの﹂
﹁面白いな。ジルさんの命を助けてくれた人ですよね、これをくれ
67
たの。半分でも摂取すれば、かなり強くなれますよ﹂
︵え、摂取?︶
﹁︱︱魔石って、食えるのか?﹂
これには二人とも苦笑いである。彼は本当に記憶喪失なんだ、と
ディノが説明している。
﹁魔法の使い方は覚えておられますか? 感覚としては似ているの
ですが、魔石を覆うように掌にマナを集めて、魔石が身体の一部分
になったように感じられたら、それを血管に吸収させるイメージな
のですが﹂
試しに、250,000ゴルドという値札のついた魔石を手にと
って、言われた通りに握ってみる。
マナを集めるというのがどういうことなのかわからなかったが、
血液を掌に集めるようにイメージすると︱︱
︵お。これがマナか︶
身体の中を流れる血液のようなものが、全身から少しずつ掌に流
れこみ、魔石と同化しようとしているのがわかった。血液の流れと
まったく同じような、身体を巡るマナの流れがあるのだ。思い返せ
ば、チェルージュに魅了の魔法をかけられた時や、首筋に牙を突き
立てられた時も、身体を流れる何かを感じたものだ。あれが、マナ
だったのだろう。
マナの流れは、意識して操ることができた。そのまま続けている
と、握った魔石に違和感がなくなってきたので、マナで覆ったまま
68
身体に戻そうとする。
︵うおっ︶
マナを通わせるだけでは何ともなかった魔石が、身体の中に取り
込もうとした瞬間、すごい勢いで吸い込まれた。魔石を握っていた
掌の中には、もう何もない。
今まで細々としか感じなかったマナは、魔石の分が加わったこと
で膨大な量となり、濁流のように身体中を駆け巡っている。
﹁マナの使い方は覚えていらっしゃるようですね。レベルが上がっ
ているはずなので、血の紋章を確認されてみてはどうですか?﹂
言われた通り、小刀を借りて血の紋章を確認する。
︻名前︼ジル・パウエル
︻年齢︼16
︻所属ギルド︼なし
︻犯罪歴︼なし
︻未済犯罪︼なし
︻レベル︼230
︻最大MP︼7
︻腕力︼9
︻敏捷︼6
69
︻精神︼8
﹃朱姫の加護﹄
﹁レベルが50、上がってるな。MPとかも少し増えてる﹂
﹁レベルと呼んでいますが、要はその人の身体に取り込まれたマナ
の濃度のことです。5,000ゴルド分の魔石で、レベルが1上が
るのが相場です。レベルが上がると、使い込んだ技能に応じて、腕
力や敏捷なども上昇しますね。ちょっと力が強くなった気がしませ
んか?﹂
二の腕で力こぶを作ってみる。見た目は変わっていないが、力が
みなぎる感覚があった。
﹁確かにな。魔石って売るだけじゃなく、買えたりもするのか? それだと、金で力が買えることになるが﹂
﹁割増になっていますが、ご購入頂けます。レベルを上げるだけな
ら魔石を買えば何とかなるというのは、その通りですね。実際、富
裕なご家庭で育った方が迷宮に挑戦するにあたり、レベルを底上げ
するという話はよく耳にします。あまりいい結末は聞きませんが﹂
﹁どういうことだ? 身体は強くなるんだろう?﹂
スリープファンガス
﹁身体の強さだけで踏破できるほど迷宮は甘くはないということで
すよ。例えば睡眠茸という魔物がいますが、自分の縄張りに眠くな
る胞子を撒いて獲物を待ち構えています。気づかずに縄張りに踏み
込んだら、たちまち眠くなって、そのまま起きることもなく捕食さ
70
れてしまうでしょうね。状態異常への抵抗率は経験によって高まる
のですが、限度というものがありますし﹂
﹁そうか。迷宮を探索する技術が育たないまま先に進んで命を落と
すのか﹂
﹁その通りです。魔石の事前摂取は、入り口に近い上層で死ににく
くするための予防には有効ですが、頼りすぎると身を滅ぼします。
本当に重要なのは、生き抜くために身についた技術ですから。それ
に、悪人から見るといい獲物でしょうね。それとなく罠の方向に誘
導してやれば勝手に死んでくれますから、後は死体から身包み剥げ
ばいいのです。これだと直接傷つけているわけではないので犯罪に
はなりませんから、よく行われている手口です﹂
﹁えげつないなあ。警戒しなきゃならんのは魔物だけじゃないって
ことか﹂
﹁とはいえ、ろくに装備も整えられないまま迷宮にもぐって命を落
とす冒険者が後を絶たないのも事実です。血の紋章を50,000
ゴルド払って作ってしまえば、迷宮には入れますから。簡単に一攫
千金が成る場所ではないのは、行ってみればすぐにわかることなの
ですがね。そういう意味では、ジルさんは恵まれていますね﹂
﹁そうだな。これをくれた奴にも感謝しないと﹂
そういえば、瞳を通してチェルージュに送る情報って意図的に遮
断できるんだっけ。今は情報が送られてるはずだから、感謝の言葉
も伝わってるだろ、多分。
﹁ちなみにだが、俺のレベル︱︱230っていうのはどれくらいの
71
ものなんだ? 子供並とか、大人並とか﹂
﹁魔物を倒すことで、魔石を摂取しなくとも少しずつマナは吸収で
きるので、一概には言えませんが︱︱迷宮にもぐらない成人男性の
平均より少し低いぐらいですね。もちろんベテランの冒険者なので
あれば、子供にも負けるでしょう。見た目で他人を判断しないこと
です﹂
﹁よくわかった。魔石だが、1,000,000ゴルド分ほど残し
て換金してもらってもいいか?﹂
﹁かしこまりました。圧縮率の高い魔石から順に残しておきますね。
現金はすべてお持ちになりますか? バンクを作って預けることも
できますが。手数料は月に1,000ゴルドで、口座から自動で引
かれます。かさばらない貴重品なら預けられますので、武器や魔石
もお預かりできますよ﹂
﹁色々と便利なんだな。200,000ゴルドだけ現金で、後はバ
ンクに預けてくれ﹂
使いやすいように小銭も混ぜてあげて、などディノが横から口を
出している。本当によく気が付く奴だ。
﹁では、初回手数料と血の紋章代を引いて899,000ゴルドと
魔石をお預かり致します。引き出す際には、バンク担当の受付に血
の紋章をご提示ください﹂
﹁では、もう他にはありませんか?﹂
﹁おう。二人とも色々と教えてくれて助かった。恩に着る﹂
72
﹁いえいえ。勘ですが、ジルさんは良い冒険者になりそうでしたか
ら。今のうちに親切にしておけば、ベテラン冒険者になった時にギ
ルドの事を粗略にはしないでしょう? 先行投資ですよ﹂
﹁ちゃっかりしてるんだな。まあ気長に待っといてくれ﹂
ずしりと重い硬貨の入った袋を懐に入れて、冒険者ギルドを後に
する。
ヘリオス
ずっと屋内にいたので、広がる青空に、吹き抜ける風が爽やかだ
った。
太陽︱︱炎帝が中天に差しかかっているのを見て、目を細める。
ちょうど、飯時だろう。軽く食うものを恵んでもらったとはいえ、
空きっ腹は限界だ。
飯を食う場所は、もう決めてあった。道案内の恩義があった上に、
店の名前が気に入ったからだ。早いところ、飯にありつこうと、俺
は足を速める。
73
第五話 メシ
不足している物資が手に入ったときの喜びは、十分に備蓄がある
物資を手に入れたときの喜びよりも大きい。
ハラペコ
さきほどまで、思春期の男子特有の飢餓状態だったわけで︱︱。
︵うひょおおおお!︶
ゴドン、と机が揺れるほどの音を立てて置かれた大皿に、ごろご
ろと大きめに切られた肉塊が山と入ったシチュー。これでもかと湯
気を上げるそれには、何かの芋や、緑鮮やかな、さやに入った豆、
ニンジンらしきものが色良く入っていて目が楽しい。
付けあわせのように、パンとバターらしきものが乗った皿が出さ
れたが、大皿とのサイズ比でやけに小さく見えた。
﹁いただきます!﹂
勢い良く手を合わせ、もはやおたまにしか見えない木彫りの巨大
なスプーンを使い、猛然と俺はシチューを食い始めた。デミグラス
色の、ほどよく煮込まれてとろりとした汁を、ごろっとした肉と一
緒に大口を開けて放り込む。
まず感じたのは、すさまじい瑞々しさ。シチューのスープは、水
っぽくないのに瑞々しく、それでいて果実の味が濃厚だ。
そのスープを舌で味わった後に、肉の塊に歯を立てると、驚くほ
74
ど柔らかく噛み切れ、肉汁があふれだしてくる。シチューと肉汁の
ハーモニーに加えて、野生味あふれながらも柔らかい肉。
﹁うっめえ!﹂
物も言わず料理にがっつく俺を見て、﹁鯨の胃袋亭﹂のおかみさ
んは豪快に笑った。
バーストマト
﹁今日は弾果肉のいいのが入ったからね、そいつが今日の目玉料理
さ。あんた、酒は飲めるかい?﹂
﹁飲んだことはないが多分好きだ。どうしてだ?﹂
エール
﹁あんたぁ、小樽の麦酒冷やしてくんな!﹂
おかみさんがカウンター奥の調理場に声をかけると、旦那さんと
思しきひょろっとした中年の男性が、二十センチ程の小さな樽を取
り出してきて、両手で樽を包んで何やら呟く。うっすらと樽が光っ
たのを見届けてからおかみさんは樽を受け取ると、デコピンで小樽
の蓋を豪快に吹っ飛ばしてから俺の机に置いてくれた。
﹁道を教えただけなのにあんたは律儀に食いに来たからね。食いっ
ぷりもいいし、奢りだ、飲んどくれ﹂
ゴチになります! と叫んでから、取っ手を持って小樽の麦酒を
喉に流し込む。
炭酸はそれほど強くない。キンと冷えた液体が喉を通ると、フル
ーティーな香り、苦味、コクが風味となって鼻腔を満たす。
﹁ぶはーっ!﹂
75
喉も渇いていたので樽の半分ほどを一気に飲む。口元の泡を手の
甲で拭うと、回りの席から喝采が起こった。
﹁いい飲みっぷりだな兄ちゃんは﹂
ドワーフ
﹁山鍛冶の里に行ったらお前さんはもてるぜ、何せどれだけ酒を美
味そうに飲むかが奴らの偉さの基準だからな﹂
﹁ただし、女にも髭が生えてるがな!﹂
どっと、笑いが起こる。どうも注目されていたらしい。そりゃそ
うか。
真昼間だというのに、周囲の席の男たちはみな、ほろ酔い顔で好
き放題に喋っている。間違っても女性などいない。酒場に特有の、
どこまでも男臭い、ちょっと下品で陽気なノリである。記憶を失く
す前の影響かはわからないが、俺はこういう空気は大好きであった。
しかし今は彼らに混ざるよりもメシである。熱々のうちにとろり
としたスープを啜り、肉塊とほくほくした芋をほおばり、口直しと
ばかりにパンにシチューを付けてかじる。堅焼きパンはちぎる時に
苦労するが、シチューに浸すと予想外にやわらかくなった。そして、
合間に小樽の麦酒を喉に流し込む。何も言うことがない。幸せなひ
と時だ。
︵︱︱美味いな︶
エール
料理に一片の文句もないが、それ以上に俺は麦酒が気に入った。
酒精は一割もないぐらいだろうか、ほどよく効く。小樽を一つ飲
み干して、少し気分がいいぐらいなので、俺はそこそこ酒には強い
76
らしい。この街の成人年齢、ひいては飲酒可能になる年齢が気にな
らぬでもなかったが、十六歳だったらきっと成人だろう。うん。
二十分もかからぬうちに、俺は大皿のシチューとパンを平らげて
いた。腹はもうパンパンである。女性が見たら常軌を逸していると
驚くに違いない量であったが、食い切れるか不安に思うことはまっ
たくなかった。
食欲が次から次へとわいてきて、大皿のシチューはみるみる減っ
ていった。どうも俺は大食漢らしい。ただの食い盛りという可能性
もあるが。
﹁やあ、よく食べたねあんた。満足したかい?﹂
﹁ああ、おかげさんで、ごちそうさま。堪能しました﹂
おかみさんが皿を下げてくれる。硬貨の額を確認しながら、俺は
代金を机に並べた。
﹁宿を探してるんだ。まだ空いてるかい?﹂
﹁おやまあ。確かに二階は空いてるけどね、わざわざこんな騒がし
いところに泊まろうってのかい?﹂
﹁店は深夜もやってるのか? 朝から夜までは出かける予定だから
騒がしくても問題ないんだが﹂
﹁そういうことなら、大丈夫さね。晩飯時の客が帰る頃には下は閉
めるから。一泊二食つきで、前払いの2,000ゴルドだよ﹂
77
﹁じゃあ、とりあえず一週間ほど世話になるかな。冒険者になろう
と思ってるんだが、構わないか?﹂
﹁抜き身をぶら下げてて大丈夫かってんなら、平気だよ。宿泊する
部屋の入り口は表にある別の階段だから。ここに入ってくるときに
は装備を外しといてくれればいいさね。あんた、ちょいと外すよ。
上のお客さんだ﹂
おかみさんに連れられて、一度店の外に出る。勝手口から上がる
階段は、全身鎧の戦士に配慮しているのか、一段一段が横に広く、
縦に長くて、店の周囲四分の三をぐるりと回ってようやく二階に着
いた。
二階には、宿泊用と思われる部屋が四つあった。それとは別に、
おかみさん夫婦の部屋が一つある。呼び込みのときに残り三部屋と
叫んでいた気がしたが、要は一部屋しか埋まっていなかったらしい。
﹁下が騒がしいからね、好き好んで泊まる客は少ないのさ。その分
値段は良心的さ、そこそこ広いしね﹂
とある一室を開けてから、合鍵を俺に渡してくる。中に入ると、
ランプ
殺風景だが快適そうな部屋だった。
ベッドもある、猫目灯もある、小振りながら机と椅子もある。ベ
ッドのシーツは真っ白で染み一つなかった。
シーフ
﹁盗賊ギルドに入っていれば簡単に開けれるほどちゃちな鍵だから
ね、信用せずに貴重品はバンクに預けるんだよ。湯と布はサービス
で一日一回まで無料だ、下の酒場に来て言っておくれ﹂
78
﹁ああ、いい部屋だ。俺はジルっていうんだ。よろしく頼む﹂
﹁若いのに妙に親父臭い喋り方をするねえ、あんた。しかもそれが
板に付いてて自然だっていうから不思議だよ。あたしはここ﹃鯨の
胃袋亭﹄の看板娘、ドミニカさね。婿取りしてから二十年の女の子
だ、悪さすんじゃないよ﹂
﹁そりゃあいい﹂
げらげら笑っているとドミニカが指を鳴らし始めたので速やかに
撤収を開始する。樽の蓋を吹き飛ばす威力のデコピンを思い出して
冷や汗をかいた。
女連れ込むときは先に言いな、とのドミニカの言に、相手ができ
たらそうするわ、と笑って返す。
今日からここが俺の拠点だ。
腹も膨れた、寝るところも確保した、となれば次は衣食住の衣で
ある。
いい加減、薄汚れた服で人々から白い視線で浴びるのは困るのだ。
そう考えると、よく鯨の胃袋亭の人々は普通に接してくれたもので
ある。
買出しをすべく宿を出て、街を歩く。まだ空は明るいが、まもな
く夕方になるだろう。いつまで店がやっているかわからないので、
早めに必要なものは買い揃えておきたい。
79
商店街の混雑は、わずかに緩和されていて、人にぶつかることな
く歩くことができた。市場も兼ねているので、最も賑わうのは昼頃
までなのかもしれない。
エンブレム
血の紋章で犯罪歴が確認できるおかげなのか、街の治安は良好に
見える。衛兵らしきものも、区画の角に立っていた。しかし、ドミ
ニカの話によると盗賊ギルドなるものもあるらしいので、スリには
注意するべきだろう。
大金とは呼びがたいが、俺のような庶民にとっては小金ではない
額を懐に入れて持ち歩いているのだから。
何本もの路地を商店が埋めているぐらいだから、どこかに服を売
っている店もあるだろうと楽観していたが、食料や道具を売る店は
あるものの、肝心の服屋が見当たらない。ふと気づいたのだが、剣
や防具を売っている店もなさそうだ。
はたと気づいて、煙突からもうもうと蒸気を上げている一角に足
を向ける。商店街とは違う区画だ。おそらくは鍛冶屋の出す煙なの
だろう。
職人街に足を踏み入れると、店頭に、きらりと輝く全身鎧を展示
している店や、長さや先端の形状の違う様々な武器を露店のように
並べている店、素材の異なる樹木で作られた何種類もの弓と、色と
りどりの鏃がある店に並んで︱︱様々な服が中に飾られている店が
目に飛び込んできた。
俺の想像は正しかったらしい。仕立屋というのは立派な職人扱い
で、職人街に店を構えているようだ。店によっては、服と並んで皮
の鎧が売られている。鋲を打った皮鎧もあるから、身軽な装備を求
める冒険者はこういう物を装備するのだろう。
80
みすぼらしい服装が場違いに思えるほどの高級店もあって、そう
いうところは店構えも立派だった。ちらりと中を覗くと、洗練され
た立ち居振る舞いの店員や、けばけばしくないドレス、竜皮の全身
皮鎧などが飾られている。
もちろんそんな高級店には縁がないので、何軒かの店先を見て回
り、地味な普段着を上下で三着ずつと、新しい靴を購入した。
落ち着いて過ごしやすい気候のせいなのか、この街では半袖に膝
下までの半ズボンといった服装が普通らしい。購入したのは男物の
衣服が多い仕立屋であったが、隅に着替えるための仕切りもあった
のでさっそく袖を通す。
汚れていない、真新しい布の肌触りはとても気持ちが良かった。
メイジ
次は、迷宮に入るための装備を買おうと思い立ち、ふと俺は立ち
止まってしまった。
︵職業、どうしよう︶
ウォリアー
この場合の職業というのは、戦士や魔法使いといった、戦い方の
ことである。
例えば戦士になるなら剣や盾に金属の鎧だろうし、魔法使いなら
ば身軽な装備をしているイメージがある。
漠然と冒険者になろうとは思っていたが、どんな冒険者になるか
をまず決めなければならないようだ。
ディノ青年の説明によると、レベルが上がったときに、使い込ん
だ技能に対応する身体能力が上がるらしいから、例えば戦士として
戦っていれば腕力、魔法使いとして戦っていれば精神が成長するの
だろう。
81
俺のステータスはまだ平均的なものなのだから、なりたい職業に
就いても構わないはずだ。すぐに結論が出るものでもなさそうなの
で、すぐさま装備を整えるのをやめ、一晩考えてみることにする。
どのみち、もう一度冒険者ギルドに行って話しを聞いた方がよさ
そうである。
ディノ青年に話しを聞くのが一番良さそうだが、彼にだって都合
はあるだろう。
右も左もわからないうちに迷宮に突撃されても冒険者ギルドも困
るだろうから、初心者へのアドバイスぐらいは聞けるはずだ。そも
そも、一人で挑むのか、多人数でパーティを組むのかも決めていな
い。
見知らぬ人間同士でパーティを組む手助けをする部署なんかはあ
るのだろうか?
もし俺でもパーティが組める可能性があるなら、バランスを考えて
職を選ぶ必要もあるのかもしれない。
例えば回復魔法が使える魔法使いが足りていなくて、前衛の戦士
ダンジョン
は余っている、なんて事態になっては、パーティを組むのも一苦労
になる。
逆に、一人で迷宮に挑むなら、ある程度何でもこなせる職業を選
ぶ必要がありそうだ。
そうなると、一晩考えても結論は出なさそうになかったが、もう
日も暮れてきている。明日、冒険者ギルドに向かうことにして、今
日はおとなしく寝ることにしよう。いつになったら冒険に出れるの
かと焦らなくもないが、事は俺の一生に関わる重大な選択である。
後悔のないように選びたい。
82
第六話 職種
人のざわめきで目が覚めた。朝になり、商店街に人が増え始めて
いるのだろう。
湯と布で身体を拭いてさっぱりとした後、俺はすぐに寝入ってし
まった。なんだかんだで疲れも溜まっていたのか、どんな職業にな
ろうかなどと考え込めたのは束の間で、居心地のいいベッドが俺の
意識を刈り取るのは一瞬だった。
熟睡して頭はすっきりしている。階下に降りていくと、食堂は開
店前の準備中だった。宿泊客の朝食は、今の時間に出すことになる
らしい。独占状態で広く見える中、カウンター席に着く。
朝飯は、卵に浸してやわらかく焼き目をつけた雑穀パンの料理と、
カリカリに焼いたベーコンとソーセージ、柑橘類のジュースに、玉
ねぎと鳥肉の欠片が入ったスープである。
昨晩のシチューほどではないが、朝から食べるには少なくない量
が盛られているそれらを見て、俺は歓喜した。太るかもしれない、
という懸念はあったものの、身体が活力を求めているので問題ない
だろう。若い身体というものは、想像以上に食に対して貪欲である
し、何よりこの世界の飯はとても美味いのだ。
がつがつとボリュームのある朝食を平らげながら、朝の仕込みで
忙しく動き回るドミニカに話を聞く。今日の目標は、職業の選択と、
装備品や道具の調達。それに、風呂屋を見つけることだった。
ドミニカによると、冒険者ギルドの近くに、ちゃんと風呂に入れ
83
ダンジョン
る施設があるらしい。迷宮帰りの冒険者や、自宅に風呂がない中堅
ぐらいの富裕層が良く利用している、とのことだ。
︵にぎわってるなあ︶
冒険者ギルドの本部に入ると、朝も早いというのに、すでに結構
な数の人がいた。人だかりができているのは、依頼書のようなもの
が所狭しと貼られた木製のボードの前である。
施設の案内板でも読んで、目的の部署を見つけるつもりでいたの
だが、その案内板を見つけるべくきょろきょろとあたりを見回して
いると、冒険者の一団を相手に何やら話しこんでいるミリアムの奥
で、書類を手に持っていたディノ青年と目があった。そのまま彼は
こちらへ近づいてくる。
﹁やあ、ジルさん。今日はどうされました?﹂
﹁冒険を始めるにあたって、職選びとかをどうするかの相談に来た
んだ。初心者への講習みたいなものはないかと思ってな﹂
ニュービー
﹁週に一度、ギルドの職員が新人の方向けに講習会を開いています
が、あいにくと五日後ですね。私で良ければ、わかることは説明い
たしますが﹂
﹁ありがたいが、いいのか? 昨日もそうだったが、長いことディ
ノを付き合わせたし、仕事に影響が出ると悪いからな﹂
84
カウンセラー
﹁構いませんよ、もともと私の所属している案内人部署はギルドの
総合案内が主な業務ですから。いわば、ジルさんの相談に乗るのも
私の仕事です﹂
﹁そうか、じゃあお言葉に甘えさせてもらうわ﹂
昨日、ディノと話をした席に二人で腰をかける。近くを通りがか
るお姉さんに声をかけて、ディノは茶を持ってこさせてくれた。俺
は駆け出しの冒険者で、まだギルドにいかなる利益も与えていない
というのに、ここまで丁寧に応対されると申し訳なく思えてくるほ
どの厚遇である。
﹁こざっぱりしましたね。食事には無事、ありつけましたか?﹂
爽やかに笑いかけてくるディノ青年は、昨日より心もちフレンド
リーである。
﹁ああ、おかげさんで。﹃鯨の胃袋亭﹄ってところに宿を取ってる。
このあたりの飯って美味いんだな、驚いたわ﹂
﹁それはいいところに泊まりましたね。女将と大盛りの食事が名物
ですが、あそこの食堂は評判がいいですよ。ちょっと食べきれない
量を平然と出してくるので女性はあまり寄り付かないんですが﹂
﹁違いない。最初は驚いたが、どうも俺は大食らいらしくてな。あ
の店はすごく気に入ったよ﹂
﹁それは良かったですね。迷宮素材を使った食事はもう体験されま
したか?﹂
85
バーストマト
﹁迷宮素材っていうのが何のことかわからないが、昨日出されたの
は弾果肉っていうのを使ったシチューだったな﹂
﹁あれはおいしいですよね。弾果肉もそうなのですが、迷宮で産出
する食材は格段に味や香りが良かったり、元気が出たり美容に良か
ったりと特別な効果があります。特殊な読み方をする食材はほぼ迷
宮素材なので、機会があれば食べてみるといいですよ。ちょっとお
値段は張りますが﹂
︵︱︱なるほど︶
ヘリオスティー
チェルージュのところで飲んだ炎帝茶も、そうだったのかもしれ
ない。鎮静作用があったみたいだし。
﹁美味いものが多そうだな。冒険者稼業の楽しみにしておくよ﹂
ウルティメリック
﹁極鬱金で焼いたステーキが個人的にお勧めです。僕の好物なんで
すよ。今日は、職選びに迷われたとか?﹂
ディノ青年が本題に水を向けてくれたので、今の悩みを率直に伝
える。
そもそもどんな職業があるのか知らないことや、一人で迷宮に潜
るか複数で潜るか迷っていること、パーティを組むなら不足しがち
な、あるいは供給過多な職業がないかどうか。一人で迷宮に潜るな
ら、お勧めの職業はあるか。
話を聞いて、笑い出すかと思いきや、ディノ青年は感心した面持
ちである。
﹁パーティにおける需要まで考えて職を選ぼうとする人は珍しいで
86
リアー
ウォ
すね。大抵の方は、竜を討伐して名誉を手に入れたいから花形の戦
メイジ
士になるとか、女性であれば、近接戦闘が少なく、薄手の装備で過
ごせる魔術師になりたいとかがあるんですが﹂
なりたい職業がないと暗にけなされているようで心にダメージを
負う。もちろん被害妄想ではあるが。
モンスター
﹁そりゃあ、伝説の剣みたいなものを装備してばったばったと魔物
を斬り倒すのに憧れなくもないが。まずは安定して生活できるぐら
いの収入は確保しないとな。なんせ、こちとら貯金を食いつぶす無
職なんだ﹂
﹁ギルドとしては、現実的で大変結構なことだと思います。理想と
現実のすり合わせに苦労する方は少なくない数、いらっしゃいます
から﹂
﹁どういうことだ?﹂
﹁先ほどジルさんがおっしゃった、強い武器を装備して魔物を倒す
レンジャー
大活躍をされたい欲求をお持ちの方ですね。富裕なご家庭のご子息
が前衛職になられて、狩人や魔術師を自分の添え物のように見下し
てトラブルになったことが何回かありまして。そうでなくても、技
量の吊り合わないパーティだと色々とあるんですよ﹂
﹁なんとなくわかるわ。自分が一番じゃないと嫌だ! ってタイプ
な﹂
﹁他にも、中々強くなれないで苛立つ方も少なくありません。魔物
を倒すと少しずつレベルは上がっていきますが、しかしそれも遅々
としたものです。強大な魔物と戦うのを夢見て冒険者になったのに、
87
実際は生活のために自分よりも弱い魔物を狩り続ける血生臭い日々
︱︱ある日嫌気が差して引退、なんて場合もありますね﹂
﹁そんなに楽な場所じゃないんだろうな、迷宮って﹂
﹁そういう意味では、生活のためと割り切れずに苦しむ人は大勢い
ます。ジルさんはやはり有望株ですね﹂
カウ
﹁現実が見えているって褒められるのも妙な気分だな。職の種類と
かを教えてくれるか?﹂
ディノ青年が苦笑して、咳払いをする。
ンセラー
﹁すいません、脱線が過ぎましたね。そういうトラブルの解決も案
内人の仕事だったりするので﹂
﹁ああ、苦労してるのか。何となく察するよ﹂
﹁まず、パーティの立ち上げ方についてお話ししましょう。元から
の友人同士が集まってパーティを組む場合もありますが、同じレベ
ル帯の方が集まって即席のパーティを組むための集会所がここ、冒
険者ギルド内にあります。目的は地下二十階付近の魔物狩り、レベ
ル600以上の戦士と魔術師求む、などといった募集をかける形で
すね。何度か冒険を共にし、気があった仲間が見つかった方は、固
定パーティを組んだり、ギルドを立ち上げたりなさってますね﹂
﹁ギルドを立ち上げる?﹂
﹁裁縫ギルドや魔法ギルドなど、公的な活動を街が認可したものと
は違いますが。同じ目的を持った集団、という意味合いですね。信
88
頼しあえる仲間たちと、自分たちが作ったギルド名を共に名乗るの
です。冒険者だけのギルドもあれば、鍛冶師や錬金術師など、冒険
を支える物資を作れる生産職の方が所属している場合もありますね。
ポーション
いわば家族のような所帯です。近郊にギルドハウスとなる家を買っ
て、共用で使っていい回復薬などの物資を備蓄したり、寝起きの場
所に使うギルドもあります﹂ ﹁なるほど。冒険で討伐した儲けの何割かをギルドに寄付して、生
活を保障してもらってるってところか﹂
﹁有益な情報を共有したり、駆け出しであれば戦い方を教えてもら
えたりもするかもしれません。便利な反面、身元が保証されていな
い方を身内として招き入れるのですから、易々と入れるギルドは少
ないですね﹂
﹁ギルドに入るのは気が進まんなあ。パーティを組むぐらいならと
もかく、大人数となると気を使いそうだ﹂
﹁おや、意外でしたね。人付き合いは苦手ですか?﹂
﹁好きでも嫌いでもないかな。一人が気楽だと思う部分もあるし、
賑やかだと楽しいって側面もあるだろうさ﹂
メイジ
﹁頑なに一人で迷宮に潜る冒険者の方も少なくありません。好きに
なさっていいと思いますよ﹂
﹁まあ、追々考えるさ﹂
ウォリアー レンジャー
﹁パーティの話に戻しましょうか。戦士、狩人、魔術師を最低一人
ずつ入れる構成が最も一般的だといわれています。敵の攻撃を受け
89
止める前衛、敵の接近と罠を感知する中衛、回復と攻撃魔法で支援
する後衛、この三つの役割を割り振るわけですね。もう少し大人数
のパーティになると、同じ魔術師でも支援担当と攻撃担当で二人い
たり、壁役の戦士と攻撃役の戦士がいたりと様々です﹂
﹁なるほど。魔術師だと金属の鎧を装備できないとかがあるわけか﹂
﹁ありませんよ? 魔術師でも狩人でも、全身金属の鎧を装備する
ことは、一応可能です﹂
は? と間の抜けた声を出してしまう。
﹁筋力さえ足りていれば、どのような職の方が全身鎧を装備しよう
と自由です。金属鎧はマナ残量の回復を妨げますが、魔術師であれ
ば精神やマナ回復スキルが高い分、それでも戦士よりもマナの回復
は早いでしょう﹂
いいですかジルさん、とディノ青年は乗り出してきた。
﹁戦士や狩人、魔術師といった職も、便宜上そう呼んでいるだけで、
本当はそんな境目なんてないんです。戦士だって魔法を唱えること
ができますし、魔術師だって近接武器を持って戦うことができます。
不意打ちによる死亡の危険を避けるために魔術師が全身鎧を着込ん
でも、それは本人が選択した立派な戦術なんです。先ほどジルさん
が仰った、魔術師や狩人は皮鎧しか着ない、戦士は金属鎧を装備し
なければならない、というのは確かに試行錯誤の末にできあがった
一つの模範解答ですが、それが必ず正しいわけではないのです﹂
柔軟に考えて頂きたい、とディノ青年は続けた。こっそり周囲の
様子を伺うと、ミリアムと目があった。ご愁傷様、とでも言いたそ
90
うに肩をすくめているので、恐らくディノ青年の熱弁はいつものこ
となのだろう。妙なところで熱い奴である。
﹁レベルが十分にあり、脅威となる魔物がいないような階層で戦士
が狩りをするなら、全身鎧はむしろ邪魔でしょう。皮鎧、ないしは
普段着の方が動きやすくて効率が上がります。狩人は隠密や斥候技
能のために、移動するときに金属音がしない鋲皮鎧を愛用しますが、
別に魔物に見つかってもいいなら全身鎧でいいのです。変り種で、
全員が弓矢と金属鎧を装備した狩人の固定パーティがいましたが彼
らは素晴らしい安定性を持っていました。近づかれる前に矢の一斉
射撃で魔物を仕留め、接近されたら短剣を抜いて応戦するのです。
重要なのは武器や防具、それぞれの利点を知悉し、自分のスタイル
や挑む魔物の状態と相談しながら︱︱﹂
﹁わかったわかった、落ち着け﹂
しまいには机に両手をついて乗り出してきたので、押しとどめる
手振りでディノ青年をなだめる。はっと気づいた調子のディノ青年
は頬を赤らめた。
﹁すみません、ちょっと熱くなってしまいまして﹂
﹁いいさ。実際、ためになる話ではあった﹂
﹁長々と喋ってしまったのに心苦しいのですが、もう一つだけ助言
させてください。それは、器用貧乏になるなということです。例え
ば、魔法戦士ですね﹂
﹁ふむ? 名前の響きからすると格好いいが﹂
91
﹁言葉通り、遠距離は魔法で魔物を攻撃し、近距離は手に持った武
器で戦うというスタイルですね﹂
﹁いいとこ取りに聞こえるが、なぜダメなんだ?﹂
﹁それを説明するには、スキルについて理解して頂く必要がありま
す。私の紋章を見せますので、しばしお待ちを﹂
馴れた手つきで指先を刺し、ディノ青年は自分の血の紋章を起動
させる。
情報のいくつかを操作してから、彼はそれを見せてくれた。
︻名前︼ディノ・クロッソ
︻年齢︼25
︻所属ギルド︼冒険者ギルド
︻犯罪歴︼0件
︻未済犯罪︼0件
︻レベル︼2200
︻最大MP︼35
︻腕力︼78
︻敏捷︼108
︻精神︼35
﹃戦闘術﹄
戦術︵66.2︶
斬術︵58.2︶
92
刺突術︵54.3︶
打撃術︵12.0︶
格闘術︵35.5︶
弓術︵8.2︶
﹃魔術﹄
魔法︵32.4︶
魔法貫通︵8.0︶
魔法抵抗︵35.1︶
マナ回復︵22.3︶
﹁つよっ﹂
思わず俺が言ってしまったのも無理はないだろう。俺のレベルが
230なのに対して、ディノ青年は2200である。単純に数字だ
けで見るならば、彼は俺の十倍は強いことになる。
﹁三年ほど、迷宮にもぐっていましたから。冒険者ギルドに入るの
が目標でしたので、引退もすぐでしたがね。このレベルで、中堅冒
険者になりたてぐらいの強さです﹂
﹁そうだったのか。ベテランになるとどれくらいのレベルなんだろ
うな﹂
フロンティア
﹁﹃開拓者﹄の異名を持つ、最上位の冒険者のレベルは1,000,
000を超えていますね。詳しい数値は教えられませんが﹂
﹁百万レベル︱︱? なんか現実味が沸かんな、そこまでいくと﹂
93
ドラゴン
﹁パンチ一回で、大岩を軽く砕きますよ、彼は。有名人なのでその
うち見かける機会もあるでしょう。彼でも、竜を相手取ると力負け
すると言っていましたね﹂
﹁迷宮は恐ろしいところだな。百万レベルより強い奴がいるのか﹂
ウィルムエンシェントウィルム
﹁彼の話によると、竜よりもさらに力の強い、龍や古龍といった魔
物も存在するそうです。竜ごときに負けているのは精進が足りんと
反省していましたね。何かと話題に事欠かない人物ですよ。ところ
で、私の紋章の、戦闘術、という項目を見て頂けますか?﹂
﹁ああ、これか﹂
﹃戦闘術﹄
戦術︵66.2︶
斬術︵58.2︶
刺突術︵54.3︶
打撃術︵12.0︶
格闘術︵35.5︶
弓術︵8.2︶
﹁戦術は、どれくらい戦い慣れているかを表します。基礎ステータ
スの腕力が高くて、この戦術スキルの値が高いほど、剣や弓を使っ
て敵を攻撃したときに大きい威力が出せます。仮に、戦術スキルが
高くても、腕力の低い魔術師が敵を攻撃したところで中途半端な威
力しか出ないでしょうね。そんな人物はいないでしょうが﹂
﹁なるほど。魔術師は精神が上がりやすくて腕力が低くなりがちだ
から、スキルを上昇させたところで近接攻撃には向かないのか﹂
94
﹁そういうことです。斬術や刺突術などとあるのは、武器の習熟度
ですね。私は短剣を愛用していたので、斬術と刺突術のどちらも上
がっています。棍棒のような打撃武器を扱うと、振り回し方がよく
わからなくて命中しにくいでしょう。当たりさえすれば戦術スキル
は高いですから、それなりの威力が出るでしょうが﹂
﹁使い込んでない武器だとうまく攻撃が当てられないってことか﹂
﹁その通りです。基礎ステータスの敏捷が高ければ命中率に補正が
付きますから、一概には判断できませんが。同じように、魔法を主
な攻撃手段にするのであれば、魔法貫通やマナ回復のスキルが必要
になってきます。魔法抵抗は、状態異常や攻撃魔法をかけられたと
きの威力を低減させる効果がありますが、魔力貫通スキルが高いと
相手の抵抗力を減らすことができます。魔法も、やはり基礎ステ
ータスの精神が強いと効果が高いですね﹂
﹁仮にディノが魔法を使っても、基礎ステータスの精神も魔法貫通
スキルも低いから大した威力にならないのか﹂
﹁その通りです。先ほど、器用貧乏に注意しろといったのは、その
ためです。スキルの最大値は100ですが、私は三年間、ずっと短
剣だけを使い続けてきました。それでも、スキルをマスターするど
ころか、六割程度しか習熟できていません。魔法を片手間に使って
いたら、もっとお粗末な数値になっていたでしょうね﹂
﹁なるほどなあ﹂
チェルージュにマナを一割持っていかれているなら、俺は魔術師
以外が良いかもしれんな、とふと思った。
95
﹁血の紋章は客観的に技量を判断できるようにしたものですから、
状況次第でいくらでも変わりますけどね。スキル一覧に載らなくて
も、迷宮探索の経験はとても大きなものですから、数値にこだわる
のはお勧めしないとだけ言っておきます﹂
﹁わかった。﹂
﹁パーティの需要についてですが、偏りはほとんどありません。戦
士職が増えすぎたら、狩人や魔法使いの良さを広める講習を冒険者
ギルドが開いたりしていますので、ほぼ均等に需要があるはずです。
強いていえば、一人で迷宮にもぐるのであれば危機察知能力が高い
狩人がお勧めですね。戦士は武器や防具の維持にかなりお金を使い
ますし。ただ、戦士は腕力と武器防具を活かしてのごり押しという
か、多少の無理ができますね﹂
﹁なるほど。参考までに、ディノの戦い方を聞いていいか? 多分、
狩人なんだろ?﹂
そこまで深い気持ちで聞いたわけではないのだが、一瞬、ディノ
が固まった。
何かまずいことでも聞いたのだろうか?
﹁︱︱正解です。参考までに、どうしてそう思ったのかお伺いして
も?﹂
﹁単純に、短剣を使ってたって言ってたからな。それに基礎ステー
タスも敏捷が高いし、狩人ってそういう技能が多いのかなと思った
だけさ。戦士ならきっと腕力が上がりそうだし﹂
96
ハイド
﹁観察眼があるのですね。その通り、私は狩人で、一人で迷宮にも
ぐっていました。戦い方は単純です。隠身スキルを使って、不意打
ちで魔物の急所を刺すのです。素早さを活かして敵の攻撃をよけな
がら戦ったりもしますが、正面からの殴り合いは苦手でしたね。弓
も扱えますが、私は好みませんでした。鏃に迷宮産の金属を用いれ
ば高い威力を誇るのですが、矢を拾うのが面倒なのですよ。短剣で
の戦い方でしたら、少しは教えられますが、必要ですか?﹂
﹁あれ、いいのか? あまり聞かれたくなさそうだったから深く突
っ込まないつもりでいたんだが﹂
俺の台詞に、ディノ青年は苦笑する。
﹁ジルさんは、粗雑なんだか鋭いんだかよくわからない人ですね︱
︱私はスラム育ちでして。人の気配には敏感だったので、それを職
にしただけです。先ほど見せた血の紋章は、狩人関連の技能は隠し
てありました﹂
﹁スラムっていうと、あの治安が悪くてゴロツキがたむろしてるっ
てイメージの、あのスラムか?﹂
﹁そのスラムですね。この街にもそういう区画があります。私はあ
の場所が好きではありませんでしたから、抜け出すために色々努力
もしました。冒険者ギルドに入れた時は嬉しかったですね、まとも
な人間になった気がして。冒険者ギルドに入る条件に犯罪歴の有無
がありますので、私は意識して犯罪を避けていましたが、あの区画
には犯罪を厭わない人々も多くいます。表舞台に出てこなければ犯
罪歴を調べられることもありませんから﹂
﹁そうか。気にしてるっぽいこと言わせて悪かったな﹂
97
﹁いえ、こちらから言ったことですし。親しい人にしか出身は言っ
ていないので、他言しないで頂けると助かりますよ﹂
﹁約束しよう﹂
﹁お茶が冷めてしまいましたね。もう一杯、頼みましょうか﹂
お茶が来るまでの間、どっちの道を選ぶかを俺は考えていた。戦
士と狩人。
どちらにも良さがあり、短所があるのだろう。いつまでも悩んで
フルプレート
アサシン
いてもしょうがないのはわかっている。だが、正直、ピンと来ない
のだ。全身鎧の戦士も、暗殺者じみた狩人も、どっちもしっくりと
こない。
﹁うん、わかった。今は決められないっていうことがわかった﹂
﹁ほう?﹂
﹁俺さ、どうも隠れたり斥候になったり、繊細な作業は向いてない
ように思うんだ。でも、がっちがちの鎧に身を固めて、後先考えず
に暴れまわるっていうのもなんだか違うなあ、って思う。どっちか
でいったら戦士になりたいけど、人から貰ったお金を浪費するって
わかってて、全身鎧に身を包んで後先考えずに突撃して魔物を蹴散
らしたとして、自分の力で勝ったぞって胸を張れるかな、って考え
たらさ。いまいち、乗り気になれないんだ﹂
﹁そう思うならそれが一番でしょう。最短距離を進むのも一つの選
択ですが、土台となる経験をしっかり固めて自分の納得できる答え
98
が見つかるまで探すのも自由です。魔法使いにはならないのですよ
ね?﹂
﹁魔術師も、それはそれで魅力なんだけどな。チェル︱︱ああっと、
朱姫様にマナの一割をお納めする義務があってな。極めようとする
なら向かないんじゃないかって思う。こうやって考えてみると、俺
って意外と優柔不断なんだな﹂
﹁加護の主である、ジルさんの命の恩人ですね。なるほど、確かに
マナの一割は決して軽視していい数値ではありません。こうしてみ
てはいかがでしょう? 方向性が決まるまでは、色々試してみると
いうことで、とにかく迷宮で冒険をしてみるというのは﹂
﹁意外だな。そんな無謀で無駄なことはよせって言うかと思った﹂
﹁そうでもありませんよ。自分の命を賭けるのですから、自分が満
足するまで試行錯誤するのは良いことだと思います。無駄に見える
ようなことでも、何がしかの経験にはなっているものです。それに、
正直なところ、ジルさんのレベルでも、迷宮の地下二階までは命の
危険はほとんどないでしょう。油断と慢心を産むので、本来はこう
いう助言はしないのですが﹂
﹁そうか。重い鎧を着てみる、暗殺の真似事をしてみる、慣れない
魔法を使ってみる。色々試してみるつもりだよ﹂
﹁ジルさんのことですから、準備が整ったらすぐに迷宮に行ってし
まいそうですね。先輩面して申し訳ありませんが、先達からの助言
です。九割九分勝てる戦闘でも、逃げるべきです。百回に一度、命
を落とすのですから。逃げ道の確保だけは、忘れてはいけませんよ。
命は一つしかありません。一度失敗したら、次はないのですから﹂
99
﹁肝に銘じるよ﹂
﹁ええ、いい冒険になることを祈っています﹂
100
第七話 筋肉
甲高い金属音は、槌を振り下ろす音だろう。ディノ青年の教えて
マスター
くれた鍛冶屋の店先には、﹁鍛冶屋﹃炎と鉄﹄ ヴァンダイン一門
達人級 ダグラス﹂と黒文字で掘り込まれた錆び色の鉄鉱石が看板
がわりに存在感を放つ。
職人街の喧騒とは裏腹に、店の入り口をくぐると、ひんやりとし
た空気が肌を引き締めた。
﹁いらっしゃいませィ﹂
言葉遣いこそ丁寧だが、言い慣れていない無骨な職人の挨拶が、
俺を出迎えた。見ると、筋骨隆々とした肉体派の大男が、カウンタ
ーからたくましい上半身だけを覗かせて俺を見つめている。
揉み手をしつつ、笑顔を作ろうとしているのか口元は歪んでいる
が、目付きは全く笑っていなくて威圧感が凄く、歯をむき出してい
る髭面はインパクト大だ。
﹁ひどっ﹂
思わず声に出してしまった俺を誰が責められるというのだろう。
ぴしっ、と、空気にヒビが入った音がした。
﹁お、お客様、ウチの店にどんなご用件ですかい?﹂
揉み手こそ力を入れすぎて血管が浮き出ており、たくましい筋肉
101
は威圧感を与え、目だけは笑っておらずこちらを凝視する。もはや
取り繕いようもなく、言葉遣いは荒々しい職人のそれが垣間見えた。
あえて俺を威圧しているのかと思えばそうではなく、脂汗をにじ
ませた、心底では焦った様子からすると、どうも接客という概念に
慣れ親しんでいないのではないかと思わせる。
﹁すまん、多分、というか憶測で言ってるんだが、ひょっとしてこ
この店主︱︱ダグラスさんだったか?﹂
﹁な、なんでわかった!? あ、いえ、なぜおわかりになったんだ
?﹂
丁寧な言葉と荒い言葉が混ざった、すさまじくちぐはぐな台詞を
放つこの筋肉男は、どうも俺の想像通り、この店の主で間違いなか
ったらしい。この店をわざわざ指定したディノの思惑を想像して、
俺は深いため息をつくのだった。
流行らない店のテコ入れがしたかったのか?
﹁気にすんな、俺は新人の冒険者だからさ、丁寧な言葉遣いなんぞ
やめてくれ﹂
そんな俺の挨拶から始まった交流は、何がどうなったのか酒盛り
に発展している。いや、昼酒とかそういうレベルの話ではなく、早
朝に冒険者ギルドに行ったのだから、今は時間が過ぎたとはいえ朝
だ。店主のダグラスは、よほど鬱憤がたまっていたのか、朝っぱら
102
エール
ウィスキー
から麦酒どころか火酒をガブ飲みして︱︱
﹁いやさ、腕前はさ、俺ぁいいのよ。なんてったって、ヴァンダイ
ン一門で修行して達人級にまでなったのよ? うぬぼれてるわけじ
ゃねえのさ、実際問題、俺ってぁいい腕してんのさ。ヴァンダイン
の師匠に皆伝はもらえてないが、そりゃあ師匠の腕前に誰も追いつ
けてねえだけで、弟子の中じゃあ、俺が一番いい腕してんのさ。で
もよ、それで店が流行るかっていったら、そうじゃねえんだよなあ。
せちがらい、っていうのか? お前だけじゃ心配だからって、師匠
が宿屋ギルドの腕っこきを連れてきてくれたのさ。そしたらどうだ、
内装がどうとか、色合いがどうとか、接客はどうとか、職人の俺に
わかるわけがないじゃねえの。挙句の果てにゃ、店の導線がどうの
こうの言いやがる。家を爆破する気か! って怒鳴ったらみんな帰
っちまってな。俺だって建てたばっかりの店を流行らせようと色々
考えたんだ。男衆の好きなもんといったら女だろう? ちょいと細
腰の、綺麗どころのお姉ちゃんを雇ったら、みんなすぐに辞めちま
いやがるのさ。近頃の女は根性が足りてねえんだ、すぐに店主には
付いていけません、辞めさせて頂きます、ときたもんだ。店主じゃ
ねえ、親方と呼べと何度言ってもわかりゃしねえ、職人ってのぁ飾
りじゃねえんだ。心意気と仕事で物を言うのが本当の男ってものさ。
そいつを若い衆はわかっちゃいねえ、職人ってのぁな。寝る間も、
酒飲む暇も、女口説く余裕も、なんもかんも全部投げ捨てて、ひた
すら炉を眺めて鉄を打つもんなのさ。雑念が入っちゃ煮えたぎる炉
の中の鉱石は微笑んじゃあくれねえ。一心不乱に槌を振るうんだ。
それだからこそ、炎はいよいよ調子に乗って、打ちあがる武器はい
よいよ輝きだすってなもんだ。そんなこともわからねえで俺の店に
ああするこうするってグガンっ﹂
人体が発してはいけない、鈍く重い金属の衝突音は、小柄な女性
が握り締めた鈍器がダグラスの頭を強打した音のようだ。
103
倒れ伏した店主。凶器を手に、荒い息を吐く女性。剣と槍がとこ
ろ狭しと並べられた、静まり返った店内。すさまじく事件性のある
光景である。色々な常識が音を立てて崩れていくかのようだ。あ、
軽い眩暈までしてきた。
﹁あんたァ! 何度言えばわかるの!? 金儲けと職人の仕事は別
だって言ったろう! あたしはあんたの仕事に惚れこんであんなに
嫁いだんだけどね、あんたほどの腕があってなんでこんなに店が流
行らないんだい! それはね、あんたのせいさ! 内装を頼んだ職
人は追い返す、店員に雇った女の子は脅えて逃げる、自分の才能を
どんだけ自分で潰してると思ってんだい! せっかく作った武器だ
って、使ってもらえてなんぼだろう!?﹂
﹁でもよお、やっぱ俺にゃあ店をやっていくなんて、向かないんじ
ゃねえかなあ﹂
﹁あたしはあんたの才能を誰より買ってるんだ。お父みたいな異常
な才能は人を不幸にする。それを間近で見てきたあたしだから、あ
んたに嫁いだんだ。こんな台詞、何回言わせるんだい。真っ当な人
間が、こつこつ頑張って何かを創る。誰よりあんたは仕事に対して
真摯だった、だからあんたの仕事が、こうやって正しく評価されず
に寂れてるのがあたしゃ我慢ならないんだよ﹂
﹁お前︱︱すまない、お前︱︱﹂
会話の合間に、店主が小柄の女性の鈍器によって複数回殴打され
ていることを除けば、まったくもって美談である。
手加減をして殴っているかと思えばそうではなく、俺が食らうと
一発で頭蓋を砕かれそうな重い音が俺の鼓膜に残って離れない。
104
気がつけば店の隅まで後ずさって逃走経路を計っている俺を余所
目に、彼ら夫婦の会話は弾んでいく。
﹁何度目かわからないけどね、わかってくれりゃいいのさ。あんた
の腕は誰よりあたしがわかってるさ。あんたが精魂傾けて作った武
器だって、ちゃんと使ってくれる持ち主のところに行かなきゃ寂し
いだろう? あんたがちゃんとすれば、あんたの武器は今よりうう
んと評価されるんだ。朝っぱらから飲んだくれてる場合じゃないよ、
もそっと気合入れて頑張んな!﹂
﹁お前︱︱お前︱︱! すまねえ、俺が間違ってた、今度こそちゃ
あいつら
んとする。ちゃんと武器を売ってみせる。確かにそうだ、作った俺
の武器たちに悪いもんな、ちゃんと使い手を捜してやらねえと︱︱﹂
﹁わかってくれりゃいいんだよ、あんた。どれだけあんたが失敗し
ようが、あたしだけは付いてってあげるからね。また一緒にやり直
せばいいんだ。さ、顔を拭いておくれ﹂
顔を拭かなければいけない理由が、妻の打撃による多量の外出血
でなければ、美談で済まされたのかもしれない。
すっかり二人の世界を作ってしまっている彼らと関わりあいにな
っては、命がいくつあっても足りない。そそくさと俺は忍び足で店
を出ていこうとして︱︱
﹁見苦しいとこを見せたね、お客さん。さ、ゆっくり選んでってお
くれ﹂
爽やかな笑顔で近づいてくる小柄な死神の姿を見て、どうやら、
逃げ遅れたらしいことを悟らざるを得なかった。
105
﹁ああ、ディノの坊やの紹介か。冒険者ギルドに入ったって言って
たな。くだらねえ気を回しやがって。わざわざ客を回さねえでもち
ゃんと店は潰さねえでやってみせらあ﹂
﹁何言ってんだい。店が繁盛する手助けをしてくれてるんじゃない
か。足向けて寝るんじゃないよ。何か文句があるのかい?﹂
﹁いえ、ありません。で、ジルって言ったな。特に職を決めてなく
て、ひとまず迷宮に潜るための装備を整えたいと﹂
ディノからの簡単な紹介状を読んだ店主は、木箱に立てかけてあ
る何本かの剣を手に取った。殺風景な店内である。槍などの長物は
壁にもたれかけさせてあるだけで、剣を置く机の代わりが木箱らし
い。
金属鎧も何種類か置いてあるようだが、どれも布袋に収納されて
いて中が見えない。なるほど、商売が下手というのはその通りのよ
うである。商品の見栄えを全く考えていない。
﹁こいつらがいいな。ただの鉄を打った軽い剣だ。両刃と片刃のこ
だわりはあるか?﹂
﹁いや。恥ずかしい話だが、剣を握ったこともない﹂
﹁恥ずかしがるこたあねえ、誰にだって初めての時はあるもんさ。
うちの母ちゃんだって﹂
106
﹁あの、両刃と片刃の違いを﹂
これ以上犬も食わぬ夫婦の愛情表現の形を見せ付けられるのはご
めんである。
再び鈍器を手に険しい顔をしている妻の姿に気づいて、ダグラス
は青い顔で俺に向き直った。
﹁助かった、一個貸しにしといてくれ︱︱で、だ。ざっくり言うと、
両刃の剣は叩きつけるように使う。左右に振り回しても刃の部分で
敵を殴れるからな。その分頑丈に、重く作るんだ。片刃の剣は、敵
を斬るときに滑らせるように振らなきゃいけねえ。断ち割るんじゃ
なくて、引き斬るんだ。慣れるまでうまく扱えねえが、軽くて鋭い
って長所はある。他にも先端で刺せる剣と、そうでない剣があるん
だが︱︱お前さん、剣は素人だって言ってたな?﹂
﹁ああ。剣術を習ったこともない﹂
﹁じゃあ、両刃にしとけ。技術がいらないってわけじゃないが、た
だ敵にぶちあてるだけでそこそこ斬れる。滑らせるように斬れば両
刃だって切れ味が増すからな、慣れてきたらより少ない力で綺麗に
斬れるように頑張ってみろ。多少雑に扱っても曲がったりしない、
頑丈な奴がいいから︱︱これだな。ちょっと持って抜いてみろ﹂
店主が手渡してきた、白木の鞘に入った剣を抜いてみる。刀身の
幅は指三本分ぐらいだろうか。曇り空のような色をした両刃は、吸
い込まれるような鉄の静かさと、荒々しい刃先のぎらつきを兼ね備
えていた。
ロングソード
﹁一般的に、長剣って呼ばれる剣だ。材質は鉄。今はちょっと重く
107
感じるかもしれねえが、少し魔物を斬ってりゃ力がついてすぐに気
にならなくなる。先端は突き刺せるようにもできてるからな。繊細
な剣を使う奴には護身用の短剣もあったほうがいいんだが、まあ長
剣を使うならなくてもいい。隠す気がないなら腕力の数値も教えて
おけ。防具も見繕ってやる﹂
腕力値は9だ、というと、馬鹿にするでもなく、ダグラスはふむ
と頷いた。
プレートアーマー
レザーアーマー
スタデッドレザーアーマー
﹁金属鎧はまだ早えな、重くてろくに動けなくなる。魔法を使うな
ら皮鎧か、気にしないなら鋲皮鎧にしておけ。そこそこ迷宮に潜っ
たら金属鎧を装備しても大丈夫なほど力は付く。向かいの店は良心
的な商売をしてる、後で声かけてやるから適当なのを一式買って装
備しとけ。盾はまだいらんな、片手でも剣をしっかり振れないと話
にならん﹂
あれよあれよと言う間にダグラスが話を進め、長剣と皮鎧一式に
身を包んだ俺が出来上がっていた。
﹁鋲なしだからな、防御力は過信するな。攻撃を食らうと痛いが、
まあそれで覚えることもあるだろうよ。試しに迷宮に潜るならこれ
でいい、慣れてきて色々と変えたくなったらまた顔を出しな。修理
ならうちに持ってこい、直せる限りは鉄製だろうと手を抜かずに直
してやる﹂
勢いで押し切られた感がなくもなかったが、職人というだけあっ
て仕事に対しては真摯なようで、物は確かなようだ。道を歩きなが
ら他の店も覗いてみたが、同じような鉄の剣であってもダグラスが
打ったものほど緊張感を備えた武器は少ない。
108
その後、商業ギルドと魔法ギルドに寄り、冒険に必要なものを一
ダンジョン
式揃えていった。初心者だからと馬鹿にすることもなく、どの店も
親身に必要なものを教えてくれた。迷宮を核として成り立っている
街であるため、初心者の面倒は見てやるという常識が彼らの中には
リターン
根付いているようなのだ。ありがたい話である。
ナイトサイト
すぐに迷宮の入り口まで戻ってこれる、帰還の魔法がかかった指
輪と、暗視の効果がかかった指輪を予備も含めて二つ、火がなくて
も食える保存食を数日分︱︱どの冒険者も、ごく初歩の火の魔法ぐ
バックパック
レッサーポーション
キュア
らいは覚えて、あたためて食べる保存食を買うらしいが︱︱と、戦
ピュリフィケト
ーラ
シン
ョキ
ンライト
利品を入れる背嚢、傷口にかける初級回復薬の小瓶を十本、毒消し
の小瓶を三本、値段は張ったが治癒と鎮静の小瓶も一本ずつ買った。
治癒の魔法は、毒や麻痺など、肉体系の状態異常をすべて治す、
毒消しの上位魔法である。
魔法も覚えた。扱う武器の種類ごとに熟練度がある戦術スキルと
同様、魔法も属性ごとに熟練度が存在するらしい。最初は、生活用
にも使える火と水を覚える冒険者が多いとの助言に従い、火と水を
生みだす魔法を買う。
覚えたい魔法の力が込められた魔石を体内に吸収するだけで、そ
の魔法が使えるようになるらしい。どんな仕組みになっているかは
わからなかったが、﹁対象の魔法が発動するためのマナの操作を魔
石に刻まれた術式が先導してくれる。詳しく説明すると長くなるか
らベテランになったら教えてやるよ﹂とのことらしい。
クリエイトフク
ァリ
イエ
アイトアクア
紋章で習得魔法を確認できるとのことだったので早速調べると、
確かに血の紋章に習得魔法という欄が出来ており、作火、作水とい
う文字が載っていた。
109
大項目魔法スキル、小項目の火属性スキル、水属性スキル、すべ
てが0.0だったので、使い込めば上がっていくのだろう。ちなみ
に、魔法スキルの熟練度が0.0だと最も簡単な火と水の魔法です
ら五割ほど詠唱を失敗するらしい。
俺は頭の中で、買い漏れがないかを念入りに確認し、迷宮探索の
準備を整えた。
110
第八話 初陣︵前書き︶
虫表現があります。
111
第八話 初陣
ダンジョン
すべての準備が整ったので、迷宮がある、街の中心部へと向かう。
迷宮へと近づくにつれ、俺と同じような、全身に武器防具を身に
付け、少なくない荷物を背負う人の姿も増えてくる。
迷宮への入り口付近に、数十人は映せるであろう大きな鏡が置か
れていて、人々はそこで自分の姿を映し、装備の痛みや付け忘れ、
道具の持ち込み漏れなどをチェックしているらしい。
俺も、その巨大な鏡に自分の姿を映してみる。これから迷宮に向
かう自分はどういう姿をしているのだろう?
レザーアーマー
まず、全身に皮鎧を装備している。肩口まである胴鎧と、ひざ下
から靴までが一体となった足鎧、腰周りからひざ上までの脚鎧、こ
の三つが大きなパーツだ。ひじと膝、肩回りの三ヶ所は鎧を外付け
で固定しているので、関節部を窮屈に感じることはない。
牛の皮で作ってあるという皮鎧は、全体的に茶一色で統一されて
おり、余分な装飾はない。販売値段を抑えるため、なめしの手順を
簡略化した大量生産品だと仕立屋サフランの女店主は言っていたが、
雑な作りに思えるところはどこもなかった。
試しに自分で鎧の胴にあたる部分をぼこぼこ殴ってみたが、ほと
んど衝撃が身体に伝わってこない。獣の牙ぐらいなら、これでじゅ
うぶん身を守れそうだ。
兜だけは鉄製である。本職の戦士なら、もっと穴の少ない兜を選
ぶらしいが、俺が買ったのは卵型で、目と鼻にあたる部分は空洞だ。
簡単な面頬を降ろすことで、口元と喉の回りは守ることができる。
112
﹁兜だけなら、マナ回復の速度が一割ほど低下するだけで済む。頭
だけは頑丈に守っとけ﹂とは鍛冶屋ダグラスの弁である。
ポーション
皮鎧を選んでもらった仕立屋で、ベルトも買い、右利きの俺は左
バックパック
腰あたりに、鞘に入った長剣を差し込んである。回復薬や食料を含
む消耗品は、すべて背負い式の背嚢に入っている。
背嚢も皮製なので、剣と兜を除く俺の全身は茶色で統一されてい
た。
ベテランともなると、自分たちの手柄を主張するために、派手な
装飾を好む人もいるらしいが、今の俺がやったところで笑われるだ
けである。簡素で頑丈に、堅実にいくべきだろう。
﹁完璧だな﹂
誰にも聞こえないようにそう呟くと、迷宮の入り口へと向かう。
今の俺にできる準備は、すべてした。痛い思いをしたり、死ぬかも
しれないことへの覚悟は、昨日のうちから決めてある。
俺が死んで泣く家族はいない。俺が困ったときに、助けてくれる
家族も、またいない。今の俺は、無職だ。日雇いのような仕事をし
て、何とか食っていくだけなら、できたかもしれない。冒険者ギル
ドは、そういう雑務も扱っているのだ。
だが、馴染みの薄いこの世界で、真っ当にこつこつやっていこう
という気にはならなかった。十六歳らしい俺は、今まで生きてきた
中で培った、この世界とのつながりを何一つ持っていない。
熟練の冒険者になり、羽振りよく生活し、できれば可愛い女の子
の二人や三人は侍らせたい。趣味丸出しの欲望まみれだが、それは
それで、戦う原動力になるならいいやと思っている。
113
迷宮で戦って生きていく。その闘志を再び燃やしながら、俺は歩
いていく。
途中、迷宮とこの街の歴史について語っている看板があったので、
立ち止まって流し読みしておく。まとめると、看板にはこう書いて
あった。
迷宮と呼ばれるものの入り口は、当初、人が広げた両手ほどの、
小さな穴だったこと。迷宮は蟻の巣のような迷路になっており、地
上へ至る出口も、人間が気づかないだけで無数にあったこと。この
地に生活拠点を求めた先人達が、入り口の穴が多い一帯を取り囲む
ように家や店を建てていったこと。現在では、迷宮に入れる穴とい
う穴はすべて冒険者ギルドが管理していて、混雑の解消のためにど
の穴から迷宮に潜るかを現場の職員が振り分けていること。
存在が確認されているのは、地下五十階程度までの深さであり、
現在も未踏地域の調査が進められていること。階層が一つ違うだけ
で、魔物の強さも段違いなので注意が必要なこと。深部に至るにつ
れマナが濃くなっていくため、より良い土地を求めて魔物たち同士
の間で縄張り争いが稀にあること。
そのため、同じマナの濃度では、出没する魔物は何種類かいるも
のの、基本的には同じような強さの魔物しかいないこと。迷宮の内
部は非常に広く、人間の街の下ばかりか、それよりも広がっている
階層もありふれていること。
地下一階と、二階まではおおよその構造と、出没する魔物の種類
がわかっており、公表もされていること。
これらの知識を看板から得た俺は、迷宮の入場待ちの列に並ぶ。
114
︵役所みたいだな︶
コロシアム
闘技場のように、迷宮の中心部をぐるりと石造りの壁が囲んでい
る。今までに一度もないが、魔物が迷宮からあふれ出した時の隔離
壁にもなるらしく、中心部には衛兵の訓練所兼、詰め所もあるとか。
この建物全体を示す名前は迷宮城だそうだ。
入場待ちの列は、その迷宮城をぐるりと取り囲むように並ぶのが
通例らしい。
エンブレム
﹁紋章をすぐに職員に見せられるように準備をお願いしまあす﹂
冒険者ギルド職員と書かれた腕章を付けた男性が、迷宮城の周囲
にぽつぽつと配置されていて、声を張り上げている。入場証にもな
るといっていた、血の紋章のことだろう。俺もすぐ取り出せるよう、
バックパックから取りだして懐にしまった。
かなり長く思えた列も、滞りなく進み、数分で最前列へと進むこ
とができた。
一つしかない迷宮城の入り口を進むと、数人の衛兵と冒険者ギルド
職員が、血の紋章を確認しつつ人の流れをさばいている。
闘技場のような迷宮城の中は開けた空間になっていて、迷宮の入
り口と思しき場所には、頭に番号を付けた小屋のような石造りの建
物が並んでいた。
﹁ジル・パウエルさん。二十五番の出入り口です﹂
115
番号が刻まれた木片を受け取り、二十五番の建物へと向かう。
小屋の一つ一つに衛兵が立ちふさがっており、番号札を見せると
中に入ることができるようだ。
ニュービー
リタ
﹁新人か。後がつかえている。入り口付近での狩りは避けるように。
ーン
帰るときは、どの出口から出てきてもいい。ベテランになったら帰
還の指輪を使い、混雑の緩和に協力すること。では行っていいぞ、
命だけは持って帰れ﹂
衛兵に背を押されるように、小屋の中に入ると、下へと続く曲が
りくねった坂道が目に入ってきた。小屋は、単に出口を覆っていた
だけらしい。ここが、迷宮の入り口なのだ。
緊張を覚えながら、一歩一歩大地を踏みしめて進む。
ふと振り返ると、出入り口はもう見えない。もう、自分は迷宮に
いるのだ、という実感が、ようやく沸いてくる。今こうしている間
にも、魔物に襲われる可能性がないとは言えない。
ロングソード
俺は長剣を抜いた。何度か素振りはしたが、魔物に襲われたとき、
とっさに抜けるか自信がなかったので、抜き身のまま歩く。先行し
ていた冒険者もいることだし、しばらくは魔物はいないだろうが。
帰るときは、上り坂になっている道を選べば帰れるはずであるか
ら、今日は現在地の確認などはしない予定だ。いざという時には帰
還の指輪を使えばいい。
ともかくも、まずは下へと降りていくことだ。今日の目標は、魔
物と戦ってみること。
ナイトサイト
日の光は差し込まない迷宮の中であっても、暗視の指輪のおかげ
で視界は良好である。迷宮の中にも稀に苔のような植物が生えてい
116
る場所があり、そういうところは、付近に水脈でもあるのか、じめ
じめしていた。
道はいくつにも枝分かれしており、ジルは深く考えずに下り坂を
選んで進んでいる。体感だともう十メートル以上は地下に降りたは
ずである。地下だからか、空気はひんやりとしていて、湿っていた。
濃い気配ではないが、それでも時たま、何かがかさかさと這うよ
うな音や、人以外の生命がとっとっ、と地面を走るような音がどこ
かから聞こえる。その度に長剣を構えなおしていたが、しばらく待
って何も現れないので、いちいち身構えるのをやめて、長剣をぶら
ぶらさせながら歩くことにした。
道にも広さがあった。複数人が横に並んでもらくらく通れるよう
な広さの道から、ようやく一人が通れるほどの狭い道。見上げるほ
ど天井の高い、広くごつごつした岩場のような場所もあったし、小
さな湖というか、天井から垂れてきた水が地面に大きい水たまりを
作っている場所もあった。何種類かの植物も生えている。
不思議に思ったのは、冒険者と出くわさないことだった。剣戟の
ような、戦闘音もまるで聞こえない。
︵あれだけの数、冒険者が迷宮に入っているのなら、どこかで出く
わしそうなもんだが︱︱?︶
ディノ青年の口調からすると、地下一、二階までは初心者の階層
のようだから、人が少ないのだろうか。戦闘音や血痕などもないこ
とから、突然変異めいた強力な魔物にみなやられてしまった、など
ということもないだろう。
そんなことを考えながら、道を歩いていると︱︱
117
曲がり角を進んだ瞬間、壁に張り付いていた、全長三メートルほ
どの巨大なムカデと目が合った。
﹁うおおおおおお!?﹂
とっさに数歩後ずさり、長剣を構える。態勢を立て直そうとした
のだが、巨大なムカデは俺から見て左方向の壁から地面に這い降り、
俺の方へと向かってきた。開かれたムカデの口は十五センチほどで、
唾液に濡れたギザギザの歯が光り、アゴの回りには黒光りする針の
ような爪が一対、わしゃわしゃと動いていた。人のそれよりも幾分
か小さな眼には俺の姿が映っており、まっすぐに俺へ向かってくる。
︵ムカデって目は発達してないんじゃなかったのか!? いやそれ
どころじゃない。あの巨大なアゴに噛まれたら︱︱︶
ぞっとする。
サイズ的に、人間の腕や脚ぐらいなら噛み千切れるかもしれない。
針のようなあのアゴも、刺されたら毒があるかもしれない。地を走
って追いかけてくる巨大なムカデの、見た目のグロテスクさに、俺
は距離を取ろうという本能で後ずさって︱︱
﹁しまっ︱︱﹂
118
いつの間にか、壁に背を打ちつけていた。ムカデはもう二、三メ
ートルの目前まで迫ってきていて、全長を縮めるようにうねらせた
あと、鎌首をもたげて︱︱俺へと飛び掛ってきた。
﹁ぐあああああ!!﹂
右足の付け根あたりに白熱した痛みを感じて、俺は叫んだ。見る
と、大ムカデが俺の太ももにがっちりと噛み付いている。
﹁あああああ!!﹂
とっさに、俺は右手に持った長剣の切っ先で、大ムカデの背中を
突いた。が、堅い甲殻の表面をすべるだけで、傷を付けるには至ら
なかった。
大ムカデの口撃は続く。身体の中にめりこんだ大ムカデの牙によ
って、太ももの筋繊維が噛み千切られるぶちぶちという感触と、激
しい痛みが脳を突き抜ける。
﹁クソがあっ!!﹂
俺は逆さにした長剣の柄を両手で持ち、大ムカデの甲殻と甲殻の
間を狙って、力任せに突き刺した。狙い違わず、やわらかな肉の部
分に剣が突き立ち、大ムカデは牙を打ち鳴らしながらのたうった。
太ももから大ムカデが口を離したので、俺も剣を引き抜いて距離を
取る。
何とか立てているが、右足には力が入らない。見ると、皮鎧の一
部が食いちぎられ、隙間から赤黒い血が溢れ出ている。 大ムカデはと言うと、ひとしきり身体をくねらせた後、怒りに駆
られたのか、先程よりも鋭い動きで襲い掛かってきた。
119
﹁逃げねえのか、ちくしょう!﹂
迫り来る大ムカデを迎え撃つように、長剣を振りかぶって叩き付
けた。狙い過たず大ムカデの上半身に刃の部分で斬りつけることが
できたが、手ごたえこそあったものの頑丈な甲殻を切り裂くには至
らず、大ムカデは俺の右すねのあたりに噛み付く。再び、俺の叫び
声。骨が、みしみしと砕かれていく音が聞こえた。
先ほどを上回る激痛に脳が悲鳴を上げる。
﹁死︱︱ねええええ!!﹂
先ほどのように、逆手に持った長剣で大ムカデの背を刺した。今
度は大ムカデも口を離さず、執拗に俺に噛み付いたままだ。知った
ことか。構うことではない。とどめを刺しておかなければ、やられ
るのは俺の方だ。
脳が命の危険に最大音量で警鐘を鳴らしている中、俺は意志の力
でそれらを押し殺し、大ムカデの背に突き刺したままの長剣を、甲
殻の隙間に沿うように全力で引き斬った。大ムカデの胴体を、刺し
口から六割ほど切断するのに成功したようだ。
大ムカデが再度、口を離してのたうつのに対して、俺は手を休め
なかった。
白い腹を見せながらもだえている大ムカデに、身体ごと長剣でぶ
つかっていく。背中の甲殻を突き通すには至らなかったが、大ムカ
デの太い腹に剣が刺さる。そのまま、腹を割くように剣を縦に振っ
た。しっかりと斬った手ごたえ。やはり、甲殻のない腹は弱い。
だいぶ弱っているだろうが、まだ激しく痙攣するだけの力を残し
ている大ムカデの、白い腹を狙って剣を振り下ろす。急所であろう
頭部は、激しくのたうちまわっているせいで狙えない。だから、俺
120
の力でも切り裂ける、白い腹を狙って剣を振り下ろす。
たまに外して地面を斬っても関係ない。背中の甲殻にあたって剣
が弾かれても問題ない。こいつは生命力が強い、すぐに死ぬとは思
っていない。
柔らかい腹を、何度も、何度も、長剣を力任せに振り下ろして切
り裂く。何度も、いつまでもだ。大ムカデが動きを止めるまで、何
度も。
何十回剣を振り下ろしたか覚えていない。動きが鈍くなってきた
ところで、大ムカデの口先から剣を入れ、脳があるあたりを突き通
す。ひとしきりぐりぐりとかき回し、完全なるとどめを刺した。大
ムカデは、動かなくなった。
戦っている最中は気がつかなかったが、俺は全身で呼吸をしてい
た。鼓動も早鐘のようである。俺はよろよろと後退し、尻もちをつ
いた。地面に腰を降ろしてしまうと、疲労と痛みがどっと襲ってき
た。
傷口は︱︱見たくもない。噛み千切られるには至らなかったが、
右足の付け根あたりで、十センチ四方の肉がべろりと剥がれている。
右すねの骨も、恐らくは砕かれているだろう。
レッサーポーション
忘れていたと言わんばかりに激しい痛みが襲ってきたので、震え
る手で背中のバックパックを床に置き、中から低級回復薬の小瓶を
取り出した。割れていないのが心底ありがたい。
コルク栓を抜き、二箇所の傷口に振りかけた。
︵∼∼∼∼!︶
傷口が沁みる。痛みに耐えながら、もう一本、小瓶を取り出して、
121
それは飲み干した。たちまち、傷口に何かが集まっていって、埋め
ていくようなぞわぞわした感触があった。
恐らく、回復薬の成分、マナが、傷を治すために身体を巡ってい
るのだろう。
傷だけではなく、痛みも少しずつやわらいできた。痛み以外の気
分の悪さはないので、あの大ムカデは毒は持っていなかったのだろ
う。
何とか勝てた、という事実に、少なからぬ安堵を覚え、はあ、と
深くため息をついた瞬間︱︱
じゃり、と背後で音がした。
何かを考えるよりも早く、剣に飛びついて立ち上がる。
新たな敵が現れる可能性を忘れていた、一瞬前までの自分に舌打
ちをしつつ︱︱俺の背後に迫った生物が、人間であったことを認め
て、俺は心底からほっとした。
﹁すまない、驚かせた? 無事か︱︱って、大ムカデか。このあた
りで出るのは珍しいね﹂
﹁そうなのか? 今日初めて迷宮に潜って、最初に出会ったのがこ
いつだったよ﹂
傍らでずたずたにされた、大ムカデの亡骸を顎で指し示す。
﹁小さい個体だからかな。成体はもう少し大きいから、生存域を追
われて逃げてきたんだろう。それでも迷宮初挑戦で戦うには厳しい
相手だと思う。よく生き残ったよ﹂
122
﹁こいつでまだ小さいのか﹂
三メートルはあった全長を思い出して、俺はげんなりして肩を落
とす。
スタデッドレザーアーマー
目の前の男は兜の面頬を外すと、背負っている袋を指し示した。
鋲皮鎧を装備した彼は、まだ若い。十代の半ばほど、俺と同年代
ぐらいだろうか?
オーディーン
﹁俺はキリヒトっていうんだ。百薬草の採取に来たんだけど、叫び
声が聞こえてね。聞こえない振りをして新人に死なれても後味悪い
から、様子を見にきたんだ﹂
﹁そいつはすまなかった。俺はジルだ。見ての通り、何とか無事だ﹂
﹁杞憂で良かったよ。見たところ防具も傷ついてるし、今日はもう
帰った方がいいよ︱︱剥ぎ取り方はわかる?﹂
モンスター
﹁ああ、疲れたし今日はもう帰ろうには同意だ︱︱いや、知らんな。
魔物から魔石が出るとは聞いていたが﹂
﹁そうか、じゃあお手本ね。大ムカデは甲殻から鎧の部品が作れる
から︱︱﹂
ひょいと短剣を抜いたキリヒトは、大ムカデの触覚をつかむと、
甲殻の下に短剣を差し込むように入れ、器用に甲殻だけを肉体から
切り離し始めた。節の一つ分ほどを剥がしたところで短剣を置き、
大ムカデの死体を踏みつけてから、両手でべりべりと甲殻だけを剥
ぎ取る。
123
細身に見えるのに、凄まじい力だった。俺よりもかなりレベルが
高いのだろう。
﹁はい、おしまい。もう少し待てば死体が迷宮に吸収されて魔石だ
けが残るから、それを拾うといい。大ムカデは剥ぎ取るときに体液
がついて人気がないから、甲殻は出回りにくいからね、売れるはず
だよ﹂
﹁そうか、ありがとうな。手を汚して実演までしてもらった﹂
﹁まあ、大したことではないし、新人を導くのも先達の役目って言
うしね。ベテランになったらその時に君も新人を助けてあげてくれ
ればいいよ。お金になる部位を持ってる魔物もいるから、剥ぎ取り
方も次から覚えていくといいかもね。低階層なら需要のある魔物の
種類と剥ぎ取り方は無償で公開されてるから﹂
話しているうちに、甲殻を失った大ムカデの残骸、というか肉塊
は、序々にその輪郭がぼやけていき、しまいには半透明になってい
って、溶けるように消えてしまった。
死体があった場所には、小さく輝く魔石が一粒、残されている。
俺はそれを拾って、背嚢のサイドポケットに押し込んだ。
﹁じゃあ、俺は行くよ。もうそんなのは出ないと思うけど、帰り道
は気をつけなよ? 最短で深部に進む道から離れてるから、このあ
たりには人が少ないんだ。誰も助けに来ないからね﹂
﹁それで人がいなかったのか。納得したよ。今日は助かった、また
な﹂
手を振ると、さっさとキリヒトはその場から離れていった。俺も
124
地面に置いてあったバックパックを背負い、街に帰るべくゆるやか
な坂道を、今度は登っていくように歩き始める。大ムカデの甲殻が
加わったせいで、少し荷物が重い。
道すがら、何か新たな魔物に襲われないかと気を張っていたが、
何事もなく、
何組かの冒険者とすれ違っただけで、出口へと辿りついた。
衛兵に会釈して迷宮から出ると、鮮やかな青空、頬を撫でる風が
心地よかった。
初日の冒険が、終わったのだ。
125
第九話 図鑑
レザーアーマー
クロースアーマー
迷宮城の広場で、他の冒険者たちに混ざりながら、皮鎧の止め具
を外して脱いでいく。皮鎧の下は、キルティング加工された布鎧を
上下に着ているだけという、何ともしまらない見た目ではあるが、
この布の鎧がなければ太ももの肉を食いちぎられていたかもしれな
いと思うと、有難味さえ感じる。
あの大ムカデは俺の太ももとすね、どちらも右足を執拗に狙って
きたので、皮鎧も布の鎧も、右足の部分だけべっとりと血に塗れて
いた。
クリエイトアクア
魔法の詠唱に失敗すると、昇華しきれなかったマナが漏れ出して、
ぷすーっと間抜けな音がする。多くの冒険者の中で、初歩の作水の
魔法を失敗するのは恥ずかしいものがあったが、三度目で成功し、
指先からだばだばと出てくる水で、右足と鎧の血糊を洗い流す。
他の冒険者も、この広場を同じような目的で使っているようで、
盛大に水流を出して鎧を洗ったり、頭からかぶって血を流している
姿があちこちで見受けられる。 広場の床はわずかに傾斜を付けて
作られているようで、あちこちに設けられた、蓋のついた床穴に、
流した水が吸い込まれていく造りになっていた。
冒険から無事に帰ってこれた喜びからか、一仕事終えた、と言わ
んばかりの笑顔を見せている冒険者が多い。そういった人たちは仲
間と談笑しているが、一方では、沈痛な表情で黙々と鎧を洗ってい
るパーティもある。
戦果が上がらなかったのか、最悪の場合、仲間を失ったのかもし
126
れない。人間模様も様々だ。
迷宮帰りの足で、すぐに皮鎧の修復に行こうと思いもしたが、や
はり宿に帰ることにした。疲れていて新しい用事を増やすのが億劫
だったという理由もあるが、考える時間が欲しかったのである。
体液のついたナマモノを持ち歩くのは嫌だったので、大ムカデの
甲殻を売りに、商業ギルドには寄ることにした。
商業ギルドは、冒険者ギルドの本部の隣にある。何十個もの大き
な天幕が張られていて、その一つ一つが買い取り場のようだ。広場
の入り口には、素材の種類ごとに、当日の買取価格を表示した看板
がずらりと並ぶ。
大ムカデの甲殻の買取値段は︱︱500ゴルドである。
安い宿に、一泊もできやしない、軽めに一食すれば消えてしまう
額だ。
買取値段の看板によると、大ネズミの牙など、低階層で出没する
魔物の素材は一つ10ゴルドにしかならないようなものもあるよう
だ。背中のバックパックに丸めて入れてある大ムカデの甲殻が、ず
しりと重みを増したような気がした。恐らく、かさばる甲殻の運搬
代も含まれているのだろう。
まだ日が高いせいで、広場の客はまばらで、査定待ちと思われる
人の列も短かった。それでも結構な盛況である。甲殻類を扱ってい
る天幕に並び、受付のおっさんに今日の獲物を見せる。
﹁大ムカデの甲殻か、小振りだな。傷は少ないし剥ぎ取り方もきれ
127
いなもんだが、査定は下がって400ゴルドだ。馴染みの防具屋が
あるなら持ち込むって選択肢もあるがどうする?﹂
﹁いや、とっとと手放したい。買い取ってくれ﹂
﹁新人に見えるが、聞き分けがいいな、話がわかる奴は好きだぜ。
相場よりも値段が下がると文句を言い出す奴もいるんだが。まあこ
っちも仕事だ、好きで新人の獲物を値引いてるわけじゃねえんだ、
ほら、400ゴルドだ﹂
四枚の小銀貨を受け取る。これが、命を賭けて迷宮に潜った、初
日の成果だった。
﹁新人っぽい奴が来たら、必ず伝えることにしてる。おまえ、訓示
を聞くのは初めてか?﹂
﹁ああ﹂
﹁そうか。ムカデの殻がきれいに剥ぎ取られてたから、誰かにもう
教わってるかもしれんが、一応な。表に出てる買取の査定額は、完
品、いわば欠点のない状態での値段だ。慣れてない剥ぎ取り方で傷
がつくと、査定額も減るし、値段が付かなくなる場合もある。交渉
程度なら聞いてやらんこともないが、基本的には査定額について商
業ギルドの職員に文句を言うのはご法度だ。いちいち聞いてたら広
場が回らんからな。素材によっては、しっかりした知識で剥ぎ取ら
ないとダメになりやすいものもある。皮類が特に顕著だな。剥ぎ取
り方のコツみたいなものが、広場の奥にある商業ギルドの本部に貼
りだしてある。魔物の種類を知るにも役立つからな、まだ行ってな
ければ一度は行っておくといい﹂
128
﹁わかった。近々見にいくさ﹂
小銀貨四枚を握りしめ、商業ギルドの広場を後にする。
軽くなったバックパックと、一まとめにした皮鎧を抱えて、﹁鯨
の胃袋亭﹂まで戻ってきた。酒場は今日も盛況で、昼間だというの
に笑い声が絶えなかった。
酒場には入らず、階段を上がって自分の部屋に辿りつくと、布鎧
を脱ぎ、右足の血糊をていねいに拭ってから、俺はベッドに倒れこ
んだ。重力から解き放たれた俺は、天井を見ながら、大きく息をつ
いた。
﹁しんどかったな︱︱!﹂
ようやく初日の冒険が終わったのだ。手足をのびのびとくつろが
せ、解放感に浸る。死ぬような目に遭って、ようやく稼いだ400
ゴルド、小銀貨四枚。初めて自分で稼いだ金は、ずしりと重い。
割に合わない、とは思わなかった。初めて迷宮に潜ったのだ、ベ
テラン冒険者のように稼げないのは当たり前だった。
﹁最初から日銭を稼げるわけないしな。下積みの時代はそんなもん
だ﹂
迷宮の入り口付近であっさり食っていけるなら、誰だって冒険者
になるに違いない。冒険に慣れ、今よりも深い階層で、危なげなく
魔物を倒せるようになって、初めてそれなりの報酬が手に入るのだ
ろう。
129
︵当面の目標は、冒険で得た利益だけで食っていけるようになるこ
とだな︶
そうなると、別の問題が浮かび上がってくる。チェルージュから
もらった魔石代を食いつぶす前に、俺が一人前の冒険者になれるか、
という点だ。
ロングソード
長剣やら皮鎧やらを買ったせいで、俺がバンクに預けている金は
残り600,000ゴルドを切っている。手持ちの200,000
ゴルドだけでは足りず、一度バンクに現金を下ろしに行ったのだ。
︵魔石、使っちまうか︱︱?︶
現金以外に、1,000,000ゴルド分、預けてある魔石であ
る。あれを使えば、大幅にレベルが上がる。5,000ゴルドで1
レベル上がるのが相場ということは、もし仮に預けてある魔石をす
べて吸収すれば、俺は一気に200レベル上げることができる。低
階層なら、危なげなく狩りができるようになるだろう。
メリットは、すぐに日銭が稼げる階層に行けるかもしれない、と
いう点。
デメリットは、命綱でもある貯金が減ること、金に頼った成長で
あるため、経験を積めないこと。
しばらく考えて、俺は、魔石には手を出さないことにした。
効率を考えると、すぐに強くなって、もう少し深い階層で経験を
積む方がいいかもしれない。しかし、それは俺のためにはならない
だろうし、何より武器防具の問題がある。
鉄の剣を含む、皮鎧のような、駆け出しの冒険者の装備でも、合
130
計で200,000ゴルドを超える。今よりも良い装備を揃えるな
ら、その値段の跳ね上がり具合によっては手が出ない。
そして、武器防具が壊れてしまえば、新たに買いなおす必要があ
る。予備の金は必要だった。
︵なるほど、他人の身包み剥ごうって奴が出てくるわけだ︶
新人冒険者の最大の壁は、一人前になるまで食いつなぐことなの
かもしれない。
俺のように、スタート地点が恵まれている奴ばかりではない。他
の仕事をしながら、余裕ができ次第こつこつ迷宮に潜っている奴も
いるだろう。
その中で、何十万もする装備を抱いたまま迷宮内で死んでいる他
人がいる。装備を剥いで売った金で魔石を吸収すれば強くなれるし、
普通に自分で使ってもいい。
しかも、死者から装備を頂いてしまうのは、犯罪ではない。
消極的とはいえ、他人が死ぬように手を回して、楽をして稼ごう
エンブレム
という奴が現れるのも納得である。人間は聖人君子ではないのだ。
︵よっ、と︶
ダガー
寝転がったまま、短剣で指先を傷つけ、血の紋章を起動させる。
今回の冒険で、俺のステータスはどう更新されたかを調べるためだ。
念じながら指先で紋章を撫で、すべてのスキルを表示させる。
︻名前︼ジル・パウエル
︻年齢︼16
131
︻所属ギルド︼なし
︻犯罪歴︼0件
︻未済犯罪︼0件
︻レベル︼230
︻最大MP︼7
︻腕力︼9
︻敏捷︼6
︻精神︼8
﹃戦闘術﹄
戦術︵1.2︶
斬術︵0.6︶
刺突術︵0.8︶
﹃探索術﹄
追跡︵0.2︶ 気配探知︵0.3︶
﹃魔術﹄
魔法︵0.2︶
マナ回復︵7.6︶
魔法抵抗︵1.2︶ ﹃耐性﹄
痛覚耐性︵2.8︶
魅了耐性︵100.0︶
132
﹃朱姫の加護﹄
﹁んお?﹂
思わず飛び起きて紋章をまじまじと確認してしまった。
レベルが上がっていないのはいい。迷宮の入り口にいる魔物を一
匹倒したぐらいで上がるほど甘い世界じゃないのは覚悟してる。戦
術や斬術など、戦いでスキルが向上したのもいい。微々たるもので
はあるが、確かな進歩だ。
︵問題は︱︱これ、だよな︶
﹃耐性﹄
100.0
痛覚耐性 2.8
魅了耐性
この二つの項目である。痛覚耐性というのは、そのまま痛みに対
する強さを表しているのだろう。痛覚耐性が上がった原因は、大ム
カデの咬みつきだろうか?冒険を繰り返していけば、痛みに強くな
れるのかもしれない。正直なところ、あの痛みは思わず弱音を吐き
たくなるぐらいにはきつかったので、これは朗報だ。
もう一つの、魅了耐性が100.0というのは何なのだろう。
ディノ青年いわく、スキルの上限値は100.0らしい。つまり
俺は、魅了系の呪文に対して、最大値の耐性があるということにな
る。恐らくはこのスキルも、魅了系の魔法や攻撃を食らっていない
と上がらない類のものであるからして、心当たりは一つしかない。
チェルージュの加護である。
133
俺の瞳は、自分の物であるのと同時に、チェルージュの瞳でもあ
る。推測するに、吸血鬼であるチェルージュには魅了の魔法が効か
ず、彼女と魔力回路が繋がっている俺は魅了を無効化できる、とい
うことなのではないだろうか。
チェルージュに使われた一回の魅了だけで、最大値まで耐性が付
くわけがないから、やはりこの魅了耐性というスキルは、彼女の加
護によってもたらされたものだと考えるべきだろう。
魅了耐性100.0というスキルで、どれほど魅了に耐えること
ができるかは不明だが、かなりの抵抗力があるに違いなかった。
︵ラッキー︶
マナの最大値が一割減るだけの加護かと思っていたら、予想外の
副産物である。
他には、マナ回復というスキルが高めなのが気になった。
これも、初期値は0.0だったのだろう。痛い思いをすれば痛覚
耐性が上がるなど、他のスキルが、名前通りの行動をすることで上
がるようになっているのだとすれば、魔法を数えるほどしか使って
いない俺がこれだけスキルが上がっているのは不可解である。マナ
が減っていなければ回復するも何もない。
つまり原因は、消去法でチェルージュの加護のせいだ。
チェルージュの瞳の維持に、俺のマナが使われている。
俺のマナ残量が90%を超えた分が、瞳に送られているのだとす
れば、このマナ回復スキルの値も納得がいく。残りの10%を回復
させようとマナ回復スキルが働き、しかし永久に瞳に吸われ続けて
いくので、いつまでもマナを回復し続ける、という扱いになってス
キルが成長しているのではないだろうか。
134
クリエイトファイア
マナポイント
試しに、火を三回ほど発動してみる。二回成功した。MPは、7
から4に減っている。一回の詠唱で1使う計算だ。
その後、じっと待っていたが、三十分ほど経つと、MPが1回復
した。MPを3回復し終わった時点で、マナ回復スキルが0.1上
がり、7.7になったことも付け加えておく。
︵割合回復なのか?︶
俺のMPが低すぎるので、1ずつしかMPが回復していかないが、
魔術師の冒険者だと、これだけしかマナが回復しないのは遅すぎる。
強大な魔法を使ったはいいが、次に使うまでに一時間もかけていた
ら冒険にならない。
ディノ青年の話では、かなり多くの魔術師が冒険者としてやって
いけているようなので︱︱
頭の中でいろいろと計算して、導き出された結論は、こうだ。
マナ回復スキルが100の人物が、0まで失ったMPを全回復さ
せるのに必要な時間が、1000秒である。
マナ回復スキルが25の人物だったら、恐らくは4000秒。
マナ回復スキルが10の人物だったら、10000秒が、MPを
全回復させるのに必要な時間なのだ。
この計算式に当てはめるなら、俺はマナ回復スキルが7.7であ
るので、0からMPを全回復させるのに必要な時間が、およそ13
000秒ということになる。
チェルージュに一割持っていかれているが、ステータスの精神が
最大MPを表すのであれば、俺の最大MPは8である。13000
÷8は、1625。つまり、俺は27分5秒ごとに、MPが1回復
する。
135
これならば、俺のMPが三十分ほどに1ずつ回復していく理由に
説明が付く。
かなり長いこと考えこんでしまったが、一応の結論は導き出せた
ようで、俺はすっきりした気分になった。後半の、マナ回復スキル
の考察は無駄だったような気がしなくもないが、知らないよりは知
っておいた方がいいだろう。
晴れやかな気分でベッドに横たわっていると、まだ夕暮れ時でし
かないというのに、睡魔が襲ってきた。
少し早いが、今日はもう寝てしまおう。夜になる前から寝るなど
自堕落だと一瞬思ったが、布団の心地よさには勝てなかった。
早寝をしたせいか、翌日は中途半端な時間に目が覚めてしまった。
早朝と呼ぶにはまだ早い深夜である。冒険者ギルドや商業ギルドが
一日中開いているかがわからなかったので、せめて夜が明けるまで
は時間を潰すことにする。
ほ
まずは洗濯をしよう。別の部屋に住んでいる人や、奥の部屋で寝
ているドミニカ夫妻を起こさないように足音を殺す。
せんき
ここ鯨の胃袋亭の二階、宿屋となっているスペースの一室に、補
洗機と呼ばれる木の箱が据えつけてある。
補洗機に汚れた衣類と布の鎧を入れ、魔法を使って水を満たす。
水に溶かすと泡の出る粉が常備されているので、それを少量掬って
入れる。蓋を閉め、補洗機の腹に付いている取っ手のようなものを、
足で踏む。そうすると、補洗機の中に通された棒によって中の水が
136
攪拌され、衣類が洗濯できるというわけだ。
サボナサボテン
泡油樹と呼ばれる迷宮の植物から取れる油で作るらしいが、この
泡の出る粉は万能だ。少々のしみや汚れぐらいならあっという間に
落とすし、歯みがきにも使えるらしい。もちろん身体を洗うのにも
使える。そういえば昨日は、風呂屋を探そうと思って忘れていた。
ドミニカから勧められて買った、細く削った木に、先端に固い馬
の毛を取り付けた歯ブラシで歯を磨く。魔法スキルの向上にもなる
ので、なるべく魔法で作った水で、うがいなど身の周りのことはす
ませるようにしている。
今はマナを結構使ってしまったので回復待ちになるが、余ってき
たら、歩きながらでもできる火の魔法の練習をする予定だ。
レザーアーマー
部屋に戻り、×字に組まれた木製のハンガーに洗濯物を干したら、
今度は武器と鎧のお手入れである。皮鎧が水洗いできるかはわから
なかったので、表面の血糊をふたたび丁寧に拭う。沁みこんでしま
ったものはどうしようもないが、皮だけあってかなり水分を弾くの
で、破れてしまったところ以外は概ね元の見た目を取り戻したとい
えよう。
ロングソード
長剣も鞘から抜き、大ムカデの身体を斬った脂の曇りを布で拭っ
ていく。輝きは取り戻したが、小さな刃こぼれがあるのは否めなか
った。指でなぞってみたが、切れ味がだいぶ落ちている。
そうこうしているうちに夜が明けたので、猫目灯の明かりを消し、
宿を出る。今日は迷宮に潜る予定はないので、普段着である。バッ
クバックに皮鎧を入れ、長剣は腰にぶら下げているが。
職人街の店はまだ開いているところは少なかった。ダグラスの鍛
137
冶屋も、向かいの仕立屋も閉まっていたので、先に商業ギルドに向
かう。広場は早朝特有の、準備時間のような喧騒の中にあったが、
ギルド自体はもう開いているらしい。
広場をスルーし、奥の商業ギルド本部に入っていく。冒険者ギル
ドほどに広くはないが、じゅうぶん大きな役所だった。
受付のお姉さんに、剥ぎ取り方を学びたい旨を伝えると、低階層
までの魔物が載っている図鑑を勧められた。20,000ゴルドす
るらしい。
﹁剥ぎ取り方だけなら貼り出してあるけれど、図鑑には魔物の生態
とかも書いてあるから、是非買うのをお勧めするわ﹂
多少迷ったが、それだけの価値はあるとお姉さんに太鼓判を押さ
れたので、20000ゴルドを即金で支払う。隅の机に案内され、
二十枚ほどにまとめられた紙の束を渡された。
紙の束といっても、薄い上等なものではなく、手触りも多少ざら
ざらしていて、くすんだ色をしていた。版画のように、文字を彫っ
た木版にインクをつけ、紙に押し付けて作った冊子のようである。
受付のお姉さんに話を聞くと、執筆者を一躍有名人へと押し上げ
た、魔物シリーズ図鑑という高級本の、序盤だけを印刷したものら
しい。彼女いわく、冒険者を志すちびっ子達垂涎の、迷宮の魔物の
生態を記した図鑑であり、魔物のイラストや、戦うときの注意点を
コミカルな文体で記したそれは、引退した上級冒険者が監督をして
作ったらしく、万人受けする作りとは裏腹に、迷宮の挑戦に最も役
立つ書物との名も高い、そうだ。
受付のお姉さんに礼を言い、魔物シリーズ図鑑を印刷した冊子を
早速読んでみる。出没する階層ごとに分けられ、魔物の名前や特徴
が書かれており、素材の剥ぎ取り方や戦うときの注意点もそこに記
138
載されていた。
紙の一枚ごとに一体の魔物が、全身像のイラスト付きで載ってい
る。
タイトルなのだろうか、一枚の紙ごとに見出しがついていて、そ
の独特な文体は執筆者の性格を色濃く漂わせている。
ランク1︵低階層︶
ブラッドバット
﹁吸血蝙蝠﹂:吸血鬼の変化した姿とされるが、ぶっちゃけまった
く関係なくて当の吸血鬼たちはお怒りである。
﹁大ムカデ﹂:単なる巨大なムカデだが、侮るなかれ。同一サイズ
で自然界の覇者だった生命力と大アゴの殺傷力は非常に高い。毒は
退化した模様。
﹁大ネズミ﹂:初心者の最初の標的。動きが素早く、発達した前歯
は鋲皮鎧ぐらいならば貫く鋭さを持つ。
﹁甲殻蟲﹂:非戦闘的で雑食、他のモンスターの食べカスなどを漁
って生きる。甲殻が廉価で性能のいい防具になるが、ゴキブリ装備
などと言われ評価は悪い。
ゴブリン
﹁矮人﹂:はぐれや雑用などの下っ端はこのランクに位置する。最
上位種はランク3のカテゴリーになることも。
オーク
﹁豚人﹂:はぐれや雑用などの下っ端はこのランクに位置するが、
群れを形成する危険もあって同一ランクではかなり上位。
139
スライム
﹁酸水母﹂:人からも魔物からも嫌われる不定形生物。金属武器で
殴るのはやめよう。天井に張り付くのが好きなので案外死傷率が高
い。
ダイアウルフ
﹁恐狼﹂:ランク1の最上位に位置する、獰猛な狼。魔力を取り込
アンデッド
んで強化されたその身体能力は高い。
グール
﹁屍肉﹂:最も弱い不死族。動きは遅いが、力は強いので油断して
いると食われるよ。
ランク2︵中階層︶
マナバイソン
﹁魔角牛﹂:魔力の篭った野菜を好んで食う。強靭な肉体から生み
出される突進力と生命力は半端ない。肉が物凄い美味。
ワーム
﹁肉蟲﹂:ぶっちゃけでっかいミミズ。雑食なので脅威。皮膚でマ
ナを感知して獲物を襲う。こいつの排泄した土は栄養価豊富だった
りする。
ポイズンフライ
リップパウダー
﹁痺毒蛾﹂:周囲に燐粉をまき、結界を縮めていくように獲物を追
い詰める。永眠粉という強烈な麻痺毒の素材となる。
ポイズントード
﹁大毒蛙﹂:成体は1メートルにもなる巨大なカエル。ヘビのよう
な原色の斑模様で、見た目がとても毒々しい。猛毒の舌と唾液が武
器。
フェアリー
﹁妖精族﹂:彼らは草食で好奇心が強く、知性もあるため話し合い
次第では敵ではなくなる。縄張り意識が強いので接近時は注意。
140
ハーピー
﹁羽人﹂:肉食で、群れを形成して狩りをする知能がある。群れの
規模次第ではかなりの難敵に。羽が良い素材になる。
リザードマン
アサシンバニー
﹁蜥蜴人﹂:武具を装備する知性を持ち、群れで行動する。上位固
体はランク3以上になることも。
ヴォーパルバニー
アンデッド
﹁首狩兎﹂:知名度が非常に高い洞窟の狩人。上位種の暗殺兎はラ
スペクター
ンク3に入る。
スケルトン
﹁骸骨剣士、死霊﹂:場所次第で大量発生する不死族。後者は物理
攻撃の効きが悪い。多くの前衛冒険者が、彼らのせいでパーティを
組む決意をする。
シナティック
﹁邪教徒﹂:迷宮に自然発生する人間の魔物。身体能力は低いが、
高い魔力を持つ。知性は低い。見た目に戸惑って先制攻撃を許すと
被害甚大。
ポイズンスパイダー
﹁毒大蜘蛛﹂:毒性のある縦糸を使い、攻撃したり罠を張ったりす
る狡猾なモンスター。毒のない横糸は素材になる。
ブラッドビー
﹁魔血蜂﹂:高い統率力と素早さ、麻痺性の毒を使い獲物を仕留め
る迷宮の軍団。彼らを統率する女王はランク3。
インプ
﹁矮魔﹂:ランク2帯にしては魔法を主に使う。身体能力は低いが
知性はそこそこあり、駆け出し冒険者の難敵である。
エラーファンガス
﹁異常茸﹂:個体によって違うが、睡眠や麻痺など遅効性の毒を吐
き、身動きできなくなった獲物に這い寄り捕食する。擬態が可能。
141
﹁これは圧巻だな﹂
確かにこれは、序盤を印刷しただけとはいえ、20,000ゴル
ド分の価値がある。
それぞれの魔物が得意とする攻撃や、戦うときの注意点、素材の
剥ぎ取り方のコツまで、びっしりと紙の一枚一枚に書き込まれてい
る。記述にはところどころユーモアが混ざっており、執筆者の陽気
な性格が窺われた。
魔物の情報、注意点、剥ぎ取り方のコツ。俺にとって必要なもの
がこの冊子に詰まっているように思われた。
今すぐにも読み始めたいところだが、すさまじく時間を取ること
は明らかだったので、バックパックに大事にしまう。宿に戻ってか
らゆっくり読むとしよう。
次の目的地は、装備の修復である。商業ギルドを後にしてダグラ
スの店に向かうと、もう店を開けていた。
﹁おいーっす﹂
﹁おう、昨日の小僧か。どうした?﹂
店の入り口をくぐると、木箱に積まれた刀剣類とにらめっこをし
ていたダグラスが出迎えてくれた。
﹁昨日の長剣の研ぎを頼みたい。結構刃こぼれしちまってな﹂
142
﹁なにい? 昨日の今日で刃こぼれするとか、どんな使い方したん
だ。見せてみろ﹂
﹁ちょっと必死でな、夢中で振り回したもんで痛みが早かったんだ
と思う﹂
俺は鞘から抜いて、長剣をダグラスに手渡した。色々な角度から、
目を細めるようにして長剣を調べはじめる。
﹁お粗末な腕前で痛みが早かったんだろうが、粗略に扱ったって感
じじゃあねえな。かなり堅いものを斬ろうとした跡がある。刃こぼ
れはその時に出来たんだろう、まあこれなら仕方あるめえ。雑に扱
って壊れたならはり倒してたところだが﹂
﹁人生最初に遭遇した魔物が、大ムカデの小さい奴でな。細かいこ
と考えながら剣振ってる余裕はなかったんだ﹂
肩をすくめていうと、ダグラスも驚いた表情である。
﹁よく生きてたな。腕力値9でこの長剣だと、ろくに攻撃が通りゃ
しなかったろ﹂
﹁小さい個体だって通りがかった冒険者が言ってたから、生命力が
弱かったんじゃないかな? 甲殻と甲殻の間に長剣を刺して、ムカ
デがひっくり返ったら滅多切りにしたんだ。だいぶ痛い目にはあっ
たが﹂
﹁そりゃあまだ運が良かったな。成体の大ムカデなら、ちょっと刻
んだぐらいじゃ怯みはしねえ。剣刺されようが襲ってくるからな、
あいつら。まあいい、そこで待ってろ。すぐに研いでやる﹂
143
﹁その長剣に文句があるわけじゃないんだが、もっといい剣だった
らあの甲殻も斬れたりするのか?﹂ ﹁ああ。迷宮産の、マナを帯びた鉱石素材からなら、もっと切れ味
のいい剣が打てる。インゴットの加工が大変で、剣として打つのに
より大きな炉と燃料が必要だから、値段はかなり張るが。鉱石素材
が手に入ったなら、ここに持ってくればインゴットに加工してやる
ぞ。手間賃は取るがな。何も持ち込まずに作るよりは安く作れる﹂
ダマスカス
ミスリル
アダマンタイト オリハルコン
﹁どんな鉱石があるんだ? あと、それで一本剣作ったら、どれく
らいの値段になる?﹂
ウーツ
﹁加工が簡単な順に、鈍魔鋼、魔鋼、緑魔鋼、黄魔鋼、赤魔鋼の順
だな。うちの炉で加工できるのは緑魔鋼までだ。師匠のとこなら赤
魔鋼までできるだろうが。値段はそうだな、持ち込みなしで、鈍魔
鋼で長剣作ったら一本500,000ゴルドってとこだな。素材が
ハルバード
一つ上になるたびに、五倍ぐらい値段が上がると思っておけ。一度
だけ師匠に炉を借りて、黄魔鋼の斧槍を特注で作ったことがあるが、
そん時は一億もらった﹂
﹁武器一本に一億出せる冒険者がいるのか、すげえもんだ﹂
﹁この鉄の長剣だって、初心者が使うにゃ過ぎた武器だ。黄魔鋼の
剣になると、ただ机に置いただけで切れ込みが入ったりする。下手
に振り回すだけで危ないんだ、お前にゃまだ早い。ほら、出来たぞ﹂
研がれて、輝きを取り戻した長剣を受け取る。
﹁いい武器に頼って俺強いって増長するほどゲスじゃねえよ。んじ
144
ゃありがとよおっちゃん、代金いくらだ?﹂
﹁タダだ。お前がまともな使い方をしてる限りは何度だろうと直し
てやる。うちの店の売りだ﹂
﹁ありがたいな。んじゃまた来るわ﹂
ダグラスの店を後にし、今度は向かいの仕立屋に入る。店主に食
いちぎられた皮鎧を見せると、やはりここでも驚かれた。
余り皮を上から当てて縫うだけで済むので、ここでも修理代金は
いらないらしい。ものの数分で、つぎはぎの応急処置を施された皮
鎧が仕上がった。礼を言い、店を出る。
レッサーポーション
昼過ぎになって、俺は再び迷宮に潜る決意をした。
低級回復薬など、消耗品の補充もしてあり、商業ギルドで買った
冊子を穴が開くまで熟読もした。低階層なら、どんな魔物が出てき
ても名前、戦い方、気をつける点、剥ぎ取り方がわかるまでに暗記
した。
連日、迷宮にもぐる冒険者というのは珍しいらしい。心身の回復
に時間を空けることが普通だとか。
別に焦っているわけではないが、のんびり構えている余裕がない
こともまた事実である。未だ俺は、一人で食っていけるだけの力量
を備えているわけではないのだ。一日一日、貯蓄は減っていく。
ベテラン冒険者なら、一度迷宮に潜ったら、数日休むこともよく
あるらしいが、今の俺にそんな余裕はない。しばらくは戦うことだ。
ひたすら戦って、技量を上げる。のんびりするのはそれからだ。
145
迷宮に足を踏み入れると、やはりひんやりとした空気が俺を出迎
える。
今日の目標は戦闘に慣れることだ。そしてそれ以上に、生きて帰
ることだった。
あの冊子︱︱魔物シリーズ図鑑︱︱を熟読してわかったことは、
低階層でも普通に死ねる、ということだ。地下一階から十階ぐらい
までが低階層の扱いで紹介されていたが、群れを成す魔物も多いた
め、不意に出くわしたら逃げられずに死にかねない。
不用意に姿を出さないこと、曲がり角では、道の先に魔物がいな
いか、顔だけ出して様子を見ることを今日は徹底している。
どうも、魔物に出くわさないからといって調子に乗って進んでい
たせいで、前回の俺は地下三∼四階まで行ってしまっていたような
のだ。明確に境目の表示がない、坂道で構成されたダンジョンの陥
穽と言える。命の危険がないとディノ青年に忠告された、地下二階
という限度を超えて進んでしまっていたのだ。
地下に進みすぎないように、一定時間降り続けたら、今度は少し
坂道を登る。そうやって調整をすることを心がける。
ゴブリン
二時間ほどで、大ネズミを三匹と、矮人を一匹狩った。大ムカデ
と対峙したときの恐怖に比べれば、どうということはなかった。大
きな傷も受けず、普通に斬りあっているだけで倒せた。
階層が浅いせいか、どの魔物も、今のところ一匹ずつでしか出没
ゴブリン
しない。
矮人と戦うときは、少々ひやりとする場面もあった。
身長こそ俺の胸元までしかなく、手にした武器も木の幹を削った
146
ような棍棒だったが、俺にとっては動きが早く、わずかな知性もあ
るのか、何度も棍棒を振り上げて奇声を上げ、フェイントをかけつ
つ一気に飛び掛ってくるといった戦法を使ってきたのだ。何とか避
けることには成功したのだが、反撃に振った俺の長剣もよけられて
しまい、お互いに決め手がないまま武器を振り回しあうことになっ
てしまった。
決め手は、棍棒で殴りかかってきたのを避け、前蹴りを叩き込ん
で体勢を崩したことだ。よろめく矮人の足を斬って動きを止め、倒
れこんだところを、長剣で腹を刺し貫く。苦し紛れに振り回した棍
棒が俺の兜にあたり、意識を飛ばしかけたが、何とか剣をえぐって
とどめを刺す。
結果だけ見れば大きな傷もなく倒すことができたが、もし棍棒の
一撃で気絶してしまっていたらと思うと背筋が寒くなった。﹁頭だ
けは頑丈に守っとけ﹂というダグラスの助言に、内心で感謝する。
体感で三十分に一度、水を出して布で剣を拭う。どうしても生物
の脂で切れ味が落ちるからだ。定期的に魔法を使うのは、魔法スキ
ルの練習も兼ねている。
小腹が空いたので、見通しのいい通路に座り込んで保存食も食っ
た。
紙包みを開けると、干し肉と乾パン、葡萄色のジャムが入ってい
た。干し肉もパンも、凶悪に固い。ジャムを付けてかじるというよ
り、歯で削るように食べなければならないほど堅いパンだ。干し肉
もパンも、端っこを少し歯でちぎりとっては、長時間咀嚼してやわ
らかくして食べる。
なるほど、あたためて食う保存食をみな買い求めるのもわかると
147
いうものだ。
保存食を食い終わってから、迷宮の探索を続行する。
甲殻蟲は素早く動き回って逃げるので、俺では攻撃することがで
きない。弓矢か、魔法の遠距離攻撃が必要だろう。
ゴブリン
できるだけ、足音を殺しながら進む。その成果があったか、曲が
り角から次の通路をこっそりと覗いた俺は、二匹の矮人が角を曲が
った先にいることに先んじて気づけたのだ。矮人がこちらに気づい
た様子はない。
ひとしきり考えて︱︱考えるまでもない。逃げよう。
一体で苦戦する矮人が二匹。これはかなりの苦戦が予想される。
仮に勇気を振り絞って彼らを二匹とも殺せたところで、大した意味
はないのだ。渡る必要のない危ない橋なら、渡らずに引き返すべき
だ。
ゴブリン
矮人程度の雑魚なら、倒せないと恥ずかしい。そういう浅はかな
考えが、一番まずい。
︵百回に一度しか負けない戦闘でも、逃げるべきです。百回に一度、
命を落とすのですから︶
脳裏にディノ青年の助言が蘇る。俺は足音を殺したまま、そろり
そろりとその場を立ち去った。気づかれなかったようだ。近くで戦
闘の音を出してしまうと、先ほどの二匹の矮人に気づかれてしまう
かもしれないと思い、極力戦闘は避けるよう、曲がり角などでは念
入りにあたりを見回した。
矮人の縄張りは、概ね地下三階からである。どうやら俺は気づか
148
ないうちに、地下二階よりも深く潜ってしまったらしい。明確に階
段などで階層が区切られているわけではないから、このように気づ
かず深部に潜ってしまうことになるのだ。
︵慣れないうちは、出口を確認しながら狩りをしよう︶
階層の目安となるのは、俺にとって、出現する魔物の種類と、出
口の二つしかない。凶悪な魔物に出会ってからでは遅いのだ。出口
周辺で狩りをするという選択肢は、合理的といえた。
だからこそ、衛兵がわざわざ、他の冒険者の迷惑になるから出入
り口に溜まるなと警告をしてきているのだろう。
出口からある程度近く、それでも少し深部に踏み入った地域。そ
のあたりを根城に、俺はしばらくの間、狩りを続けた。
大ネズミ相手には、苦戦することはなくなった。いくら素早くと
も、急に横に動いたりはしない。まっすぐ走ってきて、飛び掛って
くるだけだ。こちらは上段に剣を構えて、接近にあわせて振り下ろ
してやればいい。
最初は何度か斬りつける必要があったが、今は頭部に斬撃を与え、
一撃でしとめることもできるようになった。
グール
屍肉とも戦った。表面が腐っているのかどろどろと溶けた、人の
形をした気持ちの悪い生物である。主な攻撃手段はその肉体らしく、
うめき声をあげながら腕を突き出して接近してくる。
大ムカデなどに比べると動きがとてものろのろとしていたので、
剣の間合いに入ったとき、伸ばしてきた腕を斬った。かなり力を込
めた、鋭い斬撃だったと自分では思っていたが、屍肉の腕を斬りと
ばすには至らず、半ば斬ったにすぎない。
腐った肉体にマナを溜め込んでいて、防御力が高いのだろうか。
149
いきなり飛びつかれると押し倒されるかもしれないので、慎重に
間合いを計りながら、伸ばしてきた手を斬る。何回か斬り、両腕を
切り飛ばして掴まれる危険性をなくしてから、すれ違いざまに足を
切って転倒させた。
噛み付こうと倒れこんできたが避けるのはたやすく、腕がないた
めに起き上がれずにもがいている屍肉の後頭部に長剣を突き刺す。
人型の魔物を殺した罪悪感のようなものは全くない。所詮魔物な
のだから。それに、他人を殺して荷物を奪おうとする冒険者もいる
らしいから、相手が人だからといって躊躇っているわけにはいかな
いのだ。
やらなければやられる、この短期間で覚えた迷宮の数少ない真理
の一つだ。
仮に向こうが襲ってきたのなら、相手が人であっても俺は剣を振
るうことができるだろう。
迷宮の外に出ると、あたりはすっかり暗かった。昼過ぎに迷宮に
潜ったことを考えると、数時間は経っているだろう。
今日の戦果は、大ネズミ11、矮人1、屍人2である。
どれも金になる素材を落とさない魔物だったので、戦利品は魔石
だけだ。大ネズミの牙は一つ10ゴルドにはなるとのことだったが、
剥ぎ取るのはやめておいた。時間の無駄に思えたからだ。
贅沢なように聞こえるかもしれないが、俺の主目的は自分の強化
である。小銭を拾って討伐数が減るのは本末転倒だ。
皮鎧の方は目立った傷はないので、明日はまた、長剣をダグラス
に見てもらおう。
150
宿に戻り、普段着に着替えると、俺は再び冒険者ギルドの方へと
歩いていった。
ディノ青年と話したいこともあったが、今日の目的は風呂である。
いくら身体を湯と布で拭いているとはいえ、連日の迷宮探索で汗ま
みれになった身体は、そろそろ風呂を求めていた。頭もそろそろか
ゆくなってきているのだ。
風呂屋はすぐに見つかった。血臭を漂わせた男たちが山ほどいる
のはちょっと閉口したが、中に入って湯気の漂う匂いを嗅ぐと、わ
くわくと心が躍りだす。
服を着たまま、並んだ個室の空き部屋に入るシステムのようであ
る。
サボナサボテン
個室は鍵をかけられ、中には脱いだ衣類を入れるらしい、蓋つき
のカゴと、泡油樹の粉入れだけが置かれている。
︵なるほど、風呂というより、シャワーのような︶
天井付近には鉄の管のようなものが通されていて、垂れている紐
を引っ張ると、管の蓋が外れて温水が落ちてくる仕組みだ。ちなみ
に浴槽はない。
だばだばと落ちてくる水流を頭から浴び、心地よいあたたかさに
満足する。
全身を濡らしたところで、泡油樹の粉を頭にふりかけ、泡立つ頭
をわしゃわしゃと洗う。三日分の汚れをかき出しているようで、大
変気持ちがいい。
ぬかりなくもってきた布にも粉をふりかけ、全身をくまなく洗う。
仕上げに、再度、紐を引っ張って、温水を頭から浴びる。全身の汚
れが洗い流された気持ちよさに感動した。風呂というのはいいもの
151
だ。
風呂上がりでほっこりした後は宿に戻り、鯨の胃袋亭の一階、酒
場に顔を出す。
﹁おや、いらっしゃい。冒険者稼業はどうだい?﹂
﹁きついけど楽しいよ。たまに死にそうになるけど。今日のお勧め
は?﹂
マルクスポテト
﹁侯爵芋の揚げたのが今日の目玉さ。もう少しで品切れになるとこ
だったんだ﹂
エール
﹁そいつは運がいいや。それと、腸詰め︵ソーセージ︶の盛り合わ
せ。あと、麦酒を一本﹂
﹁あっはっは、頼むものがすっかり酒飲みさね。あんた、一丁頼む
よ﹂
冷えた麦酒の樽を、やはりデコピンで吹っ飛ばして蓋を開けるド
ミニカ。この豪快さも俺は好きだった。
運ばれてきた侯爵芋は、表面がカリッと揚げられていて、中は湯
気が出るほどアツアツのほくほくだ。それだけではなく、まろやか
な芋のうまみがぎゅっと詰まっていて、口の中の幸せが止まらない。
侯爵芋のフライを頬張り、表面をパリッパリに焼いた腸詰めを噛
み締め、キンキンに冷えた麦酒を一気に喉に流し込む。
﹁くあーっ!﹂
152
口元を拭きながら、半分ほど残った麦酒の樽を机にどすんと置く。
﹁相変わらずいい顔して飲むなあ兄ちゃん﹂
﹁いやあ、正直たまらんっすわ﹂
前回もいた酔っ払いのおっさん達と談笑しながら、今日の夜は更
けていく。
冒険者稼業は課題こそ残るものの、今のところ順調、飯もうまい、
風呂にはいけるし寝るところだってちゃんとある。言うことのない
日々である。
153
第十話 成長
俺が森の中で目を覚ましたとき。
言い換えれば、俺がこの世界で暮らし始めてから、一ヶ月が経っ
た。
ロングソード
初めて買った長剣は使い潰したので、ダグラスの勧めで新しい長
剣を一本買った。毎日迷宮に潜り、毎日修理のために持ち込んだ長
剣を、嫌な顔一つせずに修理し続けてくれたダグラスには、いくら
感謝しても足りないほどである。
﹁気にするこっちゃねえよ。それだけ使い切ってくれりゃ作った方
も満足だ﹂
人当たりの悪さで損をしているだけで、ダグラスは職人魂のかた
まりのような男である。買った装備に対して真摯に接していれば心
を開く、気持ちのいい男だった。
最初の長剣は、研ぎすぎて磨り減ってしまい、武器として用を為
さなくなったので、ダグラスが引き取った。打ち直して包丁にでも
するという。
ウーツ
新たな長剣は、ただの鉄製ではない。芯となるのは今まで通りの
鉄だが、その芯鉄を覆うように鈍魔鋼で外刃を付けるのだ。
﹁師匠が得意としてる二層構造だ。芯にやわらかい鉄を使い、外っ
かわに硬い迷宮産の魔鋼を使うことで、衝撃への強さと切れ味を両
154
立してる。芯にも魔鋼を使えばより重く鋭く作れるんだが、かなり
高くついちまうからな。この二層構造はかかる費用を抑えて頑丈に
エンチャント
作る、中々にいいやり方なんだ。本当は師匠みたく、打ち出した武
器に魔力付与ができればいいんだが、あれは師匠にしかできねえか
らなあ﹂
﹁魔力付与?﹂
マジックアイテム
﹁魔法武器って奴だ。例えば、俺と同じ手順で同じ武器を作っても、
師匠が作ると魔力を帯びるんだ。切れ味が増したり、壊れにくかっ
たりする。暗黒龍時代の剣神クラッサスが、どんなに敵を倒しても
切れ味が落ちない魔法の武器を使ってたっていう伝説があるが、恐
らく師匠の剣みたいなものを、当時の英雄は使ってたんだろうな。
どれだけ剣を打っても、そんな武器は一度たりとも俺は打てたこと
がない。というか、師匠以外の誰も打てないのさ。だから師匠は、
鍛冶師の誰しもが尊敬する男なんだ﹂
﹁街で唯一、魔力武器を作れる職人か。奥さんの親父なんだっけ?﹂
﹁そうだな。苗字はない。ヴァンダイン、それが俺の師匠の名前だ。
俺に言われちゃ終いだと思うが、中々に偏屈な人でな。気に入った
フロ
冒険者にしか武器を打たないんだ。技術を教える分には気前良く何
でも教えてくれるんだがな﹂
﹁意外だな。偏屈だって自覚あったんだな、ダグラス﹂
ンティア
﹁うるせえ。職人ならこだわりの十や二十あって当たり前だ︱︱開
拓者って知ってるか?﹂
﹁あのおっさんなら、何度か遠目で見たことがあるよ。一番強い冒
155
険者なんだろ? 半裸で迷宮に潜ってく姿を見て、なんだこいつは
って驚いたもんだ﹂
﹁あいつぐらいにレベルが高くて強靭な肉体になると、戦う相手も
規格外だからな。防具もすぐ壊れて役に立たないんだ。あいつが今
よりは名前が売れてない頃に武器を打ったのがうちの師匠だ。すげ
え武器だったぜ。ただの一本の剣に恐怖を覚えたのなんざ後にも先
にもあれっきりだ。高すぎる壁だがな、あれを超えてえって思って、
俺はずっと鍛冶を続けてるんだ﹂
﹁ほう。人に歴史あり、ってやつだな﹂
﹁茶化すんじゃねえよバカヤロウ﹂
この一ヶ月で、俺はじゅうぶんな手ごたえを感じていた。
ダイアウルフ
迷宮の低階層の中でも、中階層との境目付近にあたる地下八階付
近を主な狩場にしている。それ以降は恐狼の出現域になるので、俺
オーク
では荷が重い。
マナバイソン
大ムカデや豚人などが相手になることが多いが、一度だけ、ラン
ク2に分類される魔角牛を狩ったこともある。例によって、弱小な
個体が上の階層まで追われてきたものだ。
ランク2、中階層に分類される魔物からは、素材の値段がぐんと
リターン
上がる。苦労して倒した魔角牛は、角はもちろん、肉から内臓まで
高級食材とあってほとんど全身が売れるので、帰還の指輪を使って
丸ごと持ち帰った。
帰還の指輪を改めて買う金額を抜いても、実に10,000ゴル
ドの利益だった。
156
といっても、ランク2からは危険性も跳ね上がる。知性を持つ魔
物や、縄張りに罠を張る魔物も増える。魔角牛のような肉体派は、
与しやすいかわりに能力が非常に高い。俺が倒せたのは、弱ってい
た個体だからだ。
それでも、一端の冒険者を名乗るなら、ランク2の魔物は避けて
通れない道なのだ。そして、危険に釣り合うだけの見返りはじゅう
ぶんにある。今の目標は、ランク2の魔物を安定して狩れるように
なることだった。
とはいえ、格上に好んで挑んでいるわけではない。安全を最優先
にする潜り方は今でも変わっていない。
そんな、命の危険が少ない相手を選んで狩りをしている俺でも、
最近は一日の冒険で、何とかその日を食いつなぐ収入が手に入るよ
うになってきたところだ。
ダグラスの勧めで長剣を買ったことで、現金での預貯金がほぼ底
をついた。
魔物から取れるこまごました魔石はすべて吸収したが、チェルー
ジュからもらった1,000,000ゴルド分の魔石だけは換金せ
ずに取ってある。できればこのまま使わずに置いておきたい。
新たな武器を握って迷宮に潜ったときには、使い慣れない武器を
握るということで、いつもより安全重視で進んだ。いざ使ってみる
と剣の性能に何一つ不満はなかった。素晴らしく、斬れる。
食うや否やのカツカツではあるが、冒険一筋で日銭を稼いでいる
という意味では、ようやく俺は、堂々と冒険者を名乗れるようにな
エンブレム
ったのだと思っている。もちろん、少なからず嬉しかった。
血の紋章で確認すると、スキルも先月までとは比べ物にならない
ほど成長している。
157
︻名前︼ジル・パウエル
︻年齢︼16
︻所属ギルド︼なし
︻犯罪歴︼0件
︻未済犯罪︼0件
︻レベル︼292
︻最大MP︼9
︻腕力︼11
︻敏捷︼8
︻精神︼10
﹃戦闘術﹄
戦術︵19.6︶
斬術︵14.6︶
刺突術︵14.8︶
格闘術︵3.2︶
﹃探索術﹄
追跡︵6.5︶ 気配探知︵7.2︶
﹃魔術﹄
魔法︵12.3︶
魔法貫通︵4.2︶
マナ回復︵24.5︶
158
魔法抵抗︵1.2︶ ﹃耐性﹄
痛覚耐性︵7.1︶
魅了耐性︵100.0︶
﹃朱姫の加護﹄
一番の大きな進歩は、元が230だったレベルが292に増えた
ことだろう。
この世界のレベルとは、溜め込んだマナの総量を表す数値そのも
ののことであるから、別にレベルが高くなったから次のレベルに到
達するまでがより大変になることなどない。常に同じ量のマナを吸
収すればレベルが上がるのだから、少しずつ倒す敵が強くなってい
くにつれ、加速度的に自分のレベルが上がるのも早くなるのが道理
である。
初期は、一日に1レベル上がればいい方だったのだが、討伐する
魔物が少しずつ強くなっていった結果、レベルの上がりも早くなっ
てきて、今では一日に3レベル上がることも珍しくない。
どうやら10レベル上昇ごとに、腕力や精神などの基礎ステータ
スのどれかが1上がるらしく、冒険を始めた当初に比べると、かな
り力が付き、俊敏に動けるようになったと思う。
ゴブリン
戦術スキルや、武器の習熟度も上がってきたことも軽視できない。
攻撃を避けては当てようとしてかわされた、一ヶ月前の矮人との
闘いと比べると雲泥の差だ。今では苦もなく矮人の攻撃を避けられ
るし、回避に専念した矮人の急所に長剣を叩き込むこともできる。
159
ファイアアロー
魔法スキルも地味に役立っている。
ヒール
ほぼ失敗せずに火矢を撃てるようになったため、遠距離から先制
ポーション
の一撃を加えることができる上に、成功率は高くないものの小回復
の魔法を使えるようになったため、回復薬の消費が減った。
マナは放っておけば回復するので、元手がかかる回復薬を使うよ
りマナを使って回復魔法を詠唱する方が安上がりなのである。
オーク
これらの、実力の上昇と、危険を極力回避して、安全に狩りがで
きる相手を模索していった結果、矮人や豚人と、大ムカデといった、
ランク1の後半に差し掛かったばかりの敵、迷宮の階層に換算する
と地下7∼8階あたりの魔物が今の俺の相手にちょうど良く、俺は
主にその階層を巡回して狩りをしていた。
︵うむっ︶
俺は自信を持ち始めていた。事実、手ごたえはじゅうぶんにある
のである。
そして︱︱自信が油断につながるということを、俺は知っていた。
ランク2に分類される魔角牛も、弱小個体とはいえ、一対一で討
ち取ったことがある。万全の体制で戦ったのであれば、通常の個体
ですら倒せるかもしれない。
中階層に出没する魔物の情報や、その得意な戦い方や危険性も熟
知している。
︵そこが落とし穴なんだろうな、きっと︶
一見、簡単に倒せるように見える、はぐれの魔物といえど、近く
160
に敵の魔物がいれば、戦闘の音で接近してきて、一気に状況がひっ
くり返ることなどよくあることだ。
そんな最悪の状況なんて、滅多にあることではない。魔物が二体
以上、近くに固まっているなんてことは、そうないのだ。魔物は自
分の縄張りを大事にする習性を持っているから、他の生物の縄張り
には滅多に近づかない。
だから、魔物と戦闘になったときに、他の魔物が乱入してくるこ
となんて、そうはない。
だが、確率を無視して考えたら、どうだろう?
とある魔物と戦闘になる。たまたま付近にいた魔物が合流してき
て、俺に襲いかかる。不利だと見て、逃げようとした俺の退路をふ
さぐように別の魔物が現れる。
これで俺は死ぬ。
これは、決してありえないことではない。極めて薄い確率ではあ
るが、ありえることなのだ。
︵99%勝てる戦いでも、逃げるべきです。百回に一度、死ぬので
すから︱︱︶
何度も何度も思い返した、ディノ青年の忠告が、俺の頭には刻み
込まれている。
これから俺は、何度、迷宮に潜って、魔物と戦うのだろう?今ま
でだって、何百匹という魔物を倒してきた。これからその討伐数は、
もっと増えるだろう。冒険者をやめる気など、俺にはないのだから。
ならば、何千匹、あるいは何万匹という魔物を、これから討伐す
161
ることになる。 百回に一度負けるようでは、挑んではいけない。まさに金言であ
る。目指すべきは、ノーリスクだ。ありとあらゆる危険性を排除し
ていかなければ、いつか突発的な事故に遭う。だから俺は油断しな
い。自信は持っても、慢心はしない。
何があっても、命だけは失わずに対処できるように、安全域を多
めに取って狩りをする。それが、俺が会得したスタイルであり、俺
の冒険者としての型だった。
162
第十一話 奴隷 その1
﹁いやあ、ジルさんも、立派な冒険者になりましたねえ。見違える
ようですよ﹂
﹁そうだね。大ムカデと死闘を演じてへたばってた頃とは大違いか
な﹂
﹁へいへい、先輩方にはまだ適いませんよ﹂
ここは、スラム街にほど近い、酒場﹁裏路地の脇道﹂亭である。
冒険者ギルドの職員であるディノ青年と、居合わせていたキリヒ
トに連れられて、男三人だけの飲み会と洒落込んでいるのだ。たま
たま冒険者ギルドで二人が話し込んでいるところを見つけたので声
をかけ、談笑だけの予定が﹁ちょっと飲み行く?﹂になり、﹁二人
にゃ世話になったから一杯奢るぜ﹂からの﹁いえいえ、先輩らしい
ところを見せておかないと﹂経由で﹁いつもの店にジルさん連れて
きましょうよ、ディノ先輩﹂との援護射撃の末、現在に至るという
わけだ。
スラムは街の中央から見て、歓楽街を通り抜けた奥にある。ディ
ノとキリヒト、二人の行き着けの店というのは間違いないらしく、
禿げネズミのような、ひょろりとした風体の冴えないマスターは、
刃のように細い目で二人をちらと見ると、物も言わず開店準備中の
札を閉店のそれへと付け替えた。
装飾のほとんどない木造の簡素な外装と、使い込まれてくたびれ
た机や椅子に夕陽が差し込む様は渋くさえあり、淡々と皿を拭くマ
163
スターの印象とあわせて、妙に落ち着く店である。
まあ細かいことは置いといて、人間誰だって、乾杯すれば友達で
エール
ある。
麦酒の樽をゴツゴツと力強く打ち合わせてからの一気飲み、三人
とも負けん気が発動しているのか、口を離すことなく三つの樽は綺
麗に飲み干されて机に叩き付けられた。
俺たちの方を横目でちらと見て、マスターは新しい樽をノックす
るように一回ずつこんこんと叩き、カウンターを滑らせるように俺
たちの前へ二杯目の麦酒を投げてよこした。あれだけの動作で、酒
はしっかりと冷えていた。
狙い済ましたかのように、一人ひとりの目の前に到着した樽を手
に取ると、今度はつまみと思わしきチーズが乗った皿がカウンター
をすべってきて俺たちの前にぴったり止まる。
俺たちは注文を出したりはしていないので、なるほど、ここはマ
スターが俺たちの様子を見て酒やつまみを出す、そういう店なのだ
ろう。
﹁二人は知り合いだったんだな﹂
﹁同じ、スラム出身の仲間なんですよ。私こそ、キリヒトがジルさ
んと知り合いだったことに驚きました﹂
﹁大ムカデとの戦闘音を聞いて、キリヒトが様子を見に来てくれて
な。ムカデの剥ぎ取りとかを教えてもらった﹂
﹁初心者に恩を売っておく、これも僕の商売の秘訣ですよ、ディノ
先輩。彼には大した恩は売れませんでしたが﹂
164
オーディーン
﹁ああ、百薬草を採取に来てたって言ってたな。中級までの回復薬
の原料だったか﹂
普段は好青年めいた笑顔を絶やさぬディノが、突然真顔になって
キリヒトに向き合った。
﹁釘を刺しておく。お前の商売の客にはするな﹂
﹁元からあまりそのつもりはありませんでしたが。了解しました、
先輩﹂
普段のディノ青年しか知らない俺にとっては、豹変したかのよう
な口調にやや面食らう。対するキリヒトは慣れているのか、苦笑し
ながら頷く。
﹁そっちが素か? 仲いいんだな、二人とも﹂
俺の言葉に、今度はディノ青年が苦笑する番である。
﹁ディノ先輩は、スラムの希望の星なんだ。元から、面倒見のいい
人だったから慕われてたんだけどね。スラムから冒険者ギルドの職
員が出るなんて前代未聞だから、あのへんで育ったちびっ子の憧れ
の的だよ。この店のマスターだって、気を使ってディノ先輩が来る
と貸切にしてくれる﹂
﹁スラム出身だと、結びつきが強くなるんですよ。暮らし向きが厳
しい家庭が多いので、仕事を斡旋したりね。キリヒトは人様に言え
ない商売もしてるんで、騙されないように気をつけて下さい﹂
﹁一緒に酒を飲んだらもうダチだ。騙されたら俺の人徳が足りなか
165
ったってことで問題ないさ。ディノも、堅っ苦しい言葉遣いやめた
らどうだ?﹂
﹁ギルドに入ってからずっとこれで通していたせいで、この口調も
地なんですよ。やめる方が気を使います。スラムにいた頃から普通
に喋っていた奴らとは、今でも普通に喋るんですがね。むしろ、そ
んな喋り方なのに違和感のないジルさんの方が驚きですよ。いやに
貫禄があるんですよね。本当に16歳ですか?﹂
﹁それは確かに驚きだね、ジルって年下なの?﹂
﹁俺は記憶がないからあまり自分の年齢を意識したことはないんだ
が。紋章によるとピッチピチの16歳らしいぞ﹂
﹁記憶がないって、何それ初耳﹂
﹁冒険者ギルドにジルさんが初めて来た時を思い出しますね。あの
時は︱︱﹂
ウィスキー
話の合間に景気よく飲んでいるせいで、麦酒の空樽はどんどん店
の隅に積み上げられていく。ディノ青年は途中から火酒に変えた。
飲み方が様になっているので、真似して俺も一杯もらったのだが、
あまりの強さにちょっとむせた。
﹁僕もまだ、火酒はちょっと苦手なんだよね。ディノ先輩みたく火
酒が似合う大人になりたいんだけど﹂
﹁好きな酒を飲むのが一番だぞ、キリヒト。無理して飲んでも美味
くない﹂
166
﹁いや、飲んでて格好いいっていうのは大事ですよ。ジルもそう思
うよね?﹂
﹁わかるわ。ディノが飲むと、なんというか、様になってるんだよ
な﹂
﹁ディノ先輩、スラムだと物凄くもてるんだ。見た目もいいし、冒
険者としても実力者で通ってて、ギルドに勤めはじめてから金回り
もいいからね﹂
﹁お、そういえばギルドで受付やってたミリアムって彼女か?﹂
﹁ちょっとジルさん!?﹂
死角からの奇襲に戸惑うかのような表情で、ディノ青年は俺を非
難した。どうもこれは、攻撃が急所に当たってしまったようである。
﹁ディノ先輩、いつから後輩に隠し事をするような人になってしま
ったんですか。僕は悲しいです﹂
﹁忘れてた、観察眼鋭いんだった、この人﹂
瞼を抑えて、やられたといった表情のディノ青年である。
﹁内緒だったのか。だが数少ない友人の色恋沙汰を暴露したことは
反省しない﹂
カウンターを逆に滑らせるように、ディノ青年が金貨をマスター
に投げて立ち上がる。これは自分が不利になると逃走する大人の汚
い技術その一ではなかろうか。
167
﹁さ、帰るか﹂
﹁汚い、都合が悪くなると逃げる大人きたない﹂
﹁人のことで騒いでないで、二人で女でも買ってこい﹂
指で弾いて、キリヒトに金貨を放り投げるディノ青年である。照
れ隠しに少し赤面しているのも、イケメンがやると様になるものだ。
﹁口止め料をもらったよ、ジル。詳しい話はいい娘のいる店で聞こ
うか﹂
﹁そうするか、ディノ、ごちそうさんな﹂
﹁あまり言いふらさないでくださいよ。キリヒト、後は頼んだ﹂
ヘリオス
セレニアス
ディノ青年と別れ、俺とキリヒトは街の中心部へと歩いていく。
炎帝はすでに姿を隠しており、中天には月︱︱氷姫が煌々と輝いて
いる。
真っ暗闇の中、店先に松明や猫目灯を設置して客を呼びこむ歓楽
街は、不夜城と呼ぶに相応しい、淫靡な喧騒に満ちていた。
﹁帰って彼女さんといちゃつくのかな、先輩﹂
﹁かもしれんな。羨ましいことだ。綺麗な姉ちゃんだったぞ﹂
﹁記憶をなくして、目が覚めてから、まだ一ヶ月だったっけ。じゃ
あジルは、女はまだ?﹂
168
キリヒトが言うこの場合の女とは、男女間の行為をしたことがあ
るかという意味であろう。
﹁まだだな。若い身体のせいか、やりたくなってもてあますことは
多いよ。迷宮で余った力を発散させようとは思ってるが﹂
﹁じゃあ、ちょうどいいね。馴染みの嬢の一人でもできれば、頑張
って稼ごうと思って、迷宮に潜るのにも気合が入るよ﹂
﹁キリヒトは、女はいないのか?﹂
﹁商売抜きで付き合ってる女がいるかって意味なら、いないね。冒
険者なんて、いつ死んでもおかしくない生活だし、死んだ後に金の
稼ぎ方も知らない嫁と子供を残すのかい? 子供食わすために身体
を売らせる羽目になる。まあ、これから行く家も、今言った事情そ
のままの女がいる店なんだけどね﹂
立ち止まってから、顎に手を当てて何かを考えるような仕草をし
てから、キリヒトは俺の方に金貨を差し出してきた。先ほど、ディ
ノ青年から貰ったものだろうか?
﹁まあ、ジルさんなら話してもいいか。僕ね、今言った、旦那を亡
くしたばかりの女の人にほだされちゃってね。娘を奴隷商人に売り
飛ばすのが嫌だから身体を売るって言い出したから、それ以来ずっ
と、僕だけを客にさせてるんだ。連れていくって言ったのに悪いん
だけれど、僕だけで行かせてくれないかな? このお金は好きに使
ってくれて構わないから﹂
猥談の類を、男は大好きだが、逆に自分の所帯について話すこと
を嫌う傾向がある。特に隠しておきたい事情があるのなら、なおさ
169
らだった。男は、見栄を張りたくなる生き物なのだ。
素直に自分の事情を打ち明けてくれたことが、キリヒトとの友情
の証であると俺は受け取った。
﹁何だよ、水臭いな。金はいいさ、娘さんに土産でも買ってってや
るといい﹂
﹁そうもいかないよ。先輩に遊ばせてやれってジルのことを頼まれ
たんだから、本当はちゃんとお店に連れていって帰るまで面倒見て
ないと僕が怒られるんだ﹂
﹁俺がいいって言ってるんだからいいんだよ。それにな、実はいつ
言い出すべきか迷ってたんだが、金で女を買うのはどうもな、気が
進まない﹂
﹁へえ、商売女は嫌いかい? 意外だったね﹂
﹁いや、気になるのはそこじゃない。別に、金で身体を売る女を汚
く感じるとか、そういう考え方じゃなくてな。多分、そういう女は
何かしら、事情があることがほとんどだろう? 金に困ってとか、
売り払われてとか。その事情が気になってダメなんだ。同じベッド
に入っても、何でこんなことをしてるんだって身の上聞いてしまい
そうだ﹂
﹁ううん、そう言われてもなあ﹂
﹁前に魔物の剥ぎ取り方を教えてもらったろう? 金で貸し借りな
しに持ち込むのはあまり好きじゃないが、ダチに借りがあるってい
うのも気分がよくない。これでチャラにできると俺は気分晴れやか
に帰ることができる﹂
170
﹁まあ、貸しにしたつもりはないからいいんだけど。わかった、そ
こまで言うなら甘えるよ﹂
﹁おう、んじゃここでな。また飲みに誘うわ。余裕で奢れるぐらい
稼いどく﹂
キリヒトと別れ、歓楽街を一人、宿への家路を帰る。気分はさわ
やかである。鯨の胃袋亭の宿泊は、居心地が良かったので延長し続
けていた。
キリヒトに言った、金で女を買うのが嫌いな理由は、半分が嘘だ。
世の中には、やり切れないことや、悲しい事情があふれている。
そういうものを見るのが、俺は嫌いだった。つられて悲しい気分に
なるのだ。
もし娼婦宿に行ったとして、そこで働く女性が金で身体を売る理
由が気になって、ろくに楽しめないと思う。不幸な身の上があれば、
同情して俺も沈み込んでしまうだろうし、男に貢いでいるのであれ
ば哀れんでしまう。
遊ぶ金ほしさや、好き好んで身体を売る女を抱きたいとも思わな
いので、俺がこの手の店に行かないのは正解といえた。
ついでに言うと、キリヒトの手前、女を知らない男だと馬鹿にさ
れたくなかったので、この半分の理由を答えたのだが、もう半分は、
俺の貞操観念の問題である。
俺は、見ず知らずの女といきなりやることをやるのが嫌いだった。
不潔に思って、というわけではない。単純に、気心知れていない
171
女と共にいるのが苦痛なのだ。どんな人間なのかもわからないのに、
裸を見ただけで大興奮して一戦挑もうという奴の気が知れない。
確かに、見目麗しい女性がいたら、本能としては一戦お願いした
いと思う。しかし、実際に了承を得られて手招きされたら、理性を
働かせてお断りするだろう。
人となりもわからないまま行為をしたところで、楽しいとは思え
ないのだ。
しかし、それとは別で俺は女好きだった。女が欲しくないかと問
われれば超欲しいと答えるだろう。年頃の男性がもてあます性欲の
強さは伊達ではない。
この世界で目覚めてから一ヶ月。俺は自分の性癖を分析し終えて
いた。
俺は、﹁造形の美醜を気にしない面食い﹂である。意味がわから
ないと思うが、俺も自分の好みを正確に把握したばかりなのだ。
まず、顔の可愛い、可愛くないはある程度どうでもいい。親から
貰った顔なのだから、異性が騒ぐ顔で生まれた奴は運がいいね、と
思うぐらいである。綺麗な顔が嫌いなわけではないので、美しい女
性はそれはそれで好きだが。
しかし、顔というものは、本人の性格が出る部位でもある。
造形の美しさを鼻にかけて自慢げに振舞う女は性格の醜さが顔に
出てくるし、不細工な生まれでも明るく生きている女は眺めていて
笑顔になる。性格ブスより明るいブス、というやつだ。
そういう意味では、俺は顔を重視しているともいえる。つまり、
﹁造形の美醜を気にしない面食い﹂なわけだ。
172
そんなことを考えながら歩いていたら︱︱俺は詰んだ。
これ以上なく、手詰まりだった。
歓楽街は、客引きであふれている。
貴金属で飾った若いお兄ちゃんから、好色そうなやり手のおっさ
んの呼び込み、はては露出の高めな衣装をまとったお姉ちゃんまで、
ひっきりなしに通行人に声をかけては袖を引く。
俺はというと︱︱見た目は若い、恐らくは冒険者、一人で歩いて
いると、彼らの絶好の目標だったのだろう。あっという間に囲まれ
て身動きが取れなくなった。
ディノ青年達と歩いているときに誰一人として声をかけてこなか
ったのは、恐らくディノ青年の顔が売れていて遠慮していたのだろ
う。
﹁お兄さんちょっとスッキリしてこう! 若い娘から達人級まで選
び放題!﹂
﹁お兄さんなら一回3000ゴルドでいいよ? 私お兄さんみたい
な人、イイなあ﹂
﹁もう一杯引っ掛けましょう、ね。酒場﹃蝶々の舞踏会﹄ではバイ
ンバインの娘たちがお酌してくれます、ささ﹂
﹁奴隷はいかがでしょうか? 鍛えれば心強い仲間に、夜のお供だ
ってできちゃう優れもの。多数入荷しておりますとも!﹂
﹁一泊おとまり5000ゴルドぽっきり。朝まで娘がしっかりご奉
仕いたします﹂
173
初めは笑顔と会釈をフル活用しながらかわしていたのだが、とう
とう進路をふさがれ、両腕を女性に取られ、身動きもままならなく
なった。なるほど、ディノ青年がしっかりエスコートしろとキリヒ
トに言うだけはある治外法権っぷりである。
︵どこかの店を選ばない限り、彼らは散っていかないかも︶
ちょっと焦った俺は、唯一、迷宮探索の参考になるかもしれない
客引きに声をかける。
﹁持ち合わせはないが、冷やかしでもいいなら奴隷、見せてもらえ
るか?﹂
その相手とは、執拗にまとわりついてきたうちの一人、奴隷商人
である。鍛えれば迷宮探索に連れていける、その一言に心が動いた
のだ。奴隷を買うつもりはないが、例えば戦闘用の奴隷みたいなも
のが売られているなら、値段を知っておいても悪くない。
﹁もちろんでございますとも! ささ、どうぞこちらへ﹂
ゴブリン
まとわりついていた客引きが悪態をつきつつ三々五々離れていき、
かわりに矮人を想像させる背の低いひょろりとした奴隷商人が俺の
腕と自分の腕をがっちりと組み合わせて俺を連れていく。
正直な話、気持ちの良い話ではない。
というか、奴隷制度自体があまり気分のいい話ではない。
犯罪奴隷と貧困奴隷に二分されるこの制度は、この世界では必要
悪として市民権を得ていた。犯罪奴隷についてはジルに思うところ
はなかったが、通常の奴隷に関しては不快感しか覚えない。
174
生活に困った親が子を売る、あるいは自らを奴隷として売り、前
渡金で借金を返す、よくある話だそうだ。辺境の開拓や鉱石の採取
など過酷な作業に従事させたり、娼婦として客を取らせたりする。
肉体の欠損以上の傷害を与えることは法で禁止されているが、そ
れ以外のすべては雇用主の思いのままだ。一定の金額を冒険者ギル
ドに納めれば再び平民として生きる権利はあるが、無論そんな慈善
事業をする雇用主はおらず、犯罪奴隷と違って貧困奴隷は期限もな
いため、一度身を落としてしまえば基本は死ぬまで奴隷である。
奴隷を嬉々として買ってしまえば、そんな奴らの仲間入りである。
人の尊厳を踏みにじる行為に他ならない。奴隷を買うつもりはま
ったくなかった。冷やかしだと事前に断ったのは嘘ではない。
だから、歓楽街とはいえ、堂々と表通りに構えられた店を見たと
きも、嫌悪しか感じなかった。
175
第十二話 奴隷 その2
﹁さ、立派な店でしょう。ささ、中に﹂
どうぞどうぞと口では言いながら、店主は絡めた腕にこめる力を
抜くつもりはないようだった。
入り口の扉を後ろ手で閉めると、店主は俺を店の奥の椅子に座ら
せ、従業員に何かしら声をかけてから、手ずから麦酒の樽を魔法で
冷やして俺に差し出す。
治安のよくない場所ということで、最悪の場合、一暴れして逃げ
なければと考えていた俺は、警戒を強める。魔法を使うのに手馴れ
ているということは、駆け出しの俺よりは魔法スキルが高いという
ことだろうから。
﹁さて、お探しの奴隷はおりますでしょうか? お見受けしたとこ
ろ、冒険者の方でいらっしゃる。やはり、迷宮で使える奴隷をお探
しでしょうかねえ? 鍵空けや罠探知、レンジャーの技能を覚えた
奴隷、ちょうど運良く仕入れてございます。すぐに売り切れてしま
うのですよ、いやあお客様は運が良い﹂
よく口の回る店主である。そうでなくてはやっていけないのかと
も思うが、やはり好きになれそうもなかった。どんな奴隷であって
も、長所を並べ立て、﹁運良く﹂売れていないと毎回言っているの
だろう。
﹁すまんが、持ち合わせは本当にないんだ。参考までに値段を聞い
ていいか?﹂
176
﹁レベル200前後で、鍵開け、罠探知、気配探知、隠身スキルを
それぞれ最低20.0まで上げてございます。こちらの奴隷ですと、
およそ2,500,000ゴルドが相場のところ、特別に2,20
0,000ゴルドで販売してございます。おあつらえ向きに、初潮
が来たばかりの娘ですからね、あっちの方も仕込めば良い具合まち
がいなし、でございますよ﹂
反吐が出そうである。こういった店に来ると、人の本性は悪であ
るという説に同意したくなる。
﹁他にも、何名か若い娘、取り揃えておりますとも。いえいえ、み
なまで言わずともよろしゅうございます。この時間にあの通りを歩
いているお客様の求めているもの、わたくしちゃあんとわかってお
りますとも。先ほどのレンジャーとして仕込んである娘以外にも連
れてまいります。きっとお気に召しますとも﹂
誤解であると言うことすら億劫だったので、俺は黙っていた。
店主の話が終わるのを待っていたのか、従業員が店の奥から三人
の少女を連れて出てきた。さっさと奴隷を一見して、やはり持ち合
わせがとか何とか理由を付けて帰ろう。
三人とも、俺がよく見えるようにとの配慮なのか、俺と向かい合
わせに、店主の横に並ぶ。喉元に、首輪がはめられているのが見え
た。店主に見えないよう、拳を握り締める。
着ているものは普段着なのか、色あせた肌着と、丈の短いスカー
トだけだった。
身長に差こそあれど、連れてこられた三人は、まだ少女だった。
幼いままの顔立ちで、ろくに食べていないのか、頬がこけていた。
177
﹁真ん中のエリーゼが、先ほど話したレンジャーの娘でございます。
他の二人も、一通りの家事はできますし、右におりますエミリアは
算術や計算にも長けております。性技の方も軽く仕込んでございま
すので、お買い上げ頂いたその晩からご利用になれますとも。もち
ろん、ご心配頂かなくとも、どれも生娘でもございます。 さ、お
前たちを買ってくださるかもしれない方だ。エマから自己紹介をな
さい﹂
﹁エマともうします﹂
﹁エリーゼと申します﹂
﹁︱︱エミリア﹂
俺が愕然としている中、エミリアと名乗った少女の無愛想さに、
店主のこめかみがぴくりと反応した。笑顔で押し殺しているが、怒
りの感情が伝わってくる。
﹁ほほ、照れているようですな。躾がなってなくて申し訳ございま
せん。後で﹃教育﹄をしなおしておきましょう﹂
どうも、俺がエミリアの態度に腹を立てたと勘違いしたらしいが
︱︱俺を愕然とさせたのは、少女たちの目だ。
エリーゼは、何かを諦めきっている目。
エミリアは、敵意を隠そうともしない、睨むような目。
そして、たどたどしくエマと名乗った少女の目は︱︱無機質な目
だった。
エマという少女は、顔をこちらに向けているだけで、焦点は俺に
合っていない。ただ、俺の方を見ているだけだ。口元を笑顔の形に
歪めてはいる。目尻だって、意識して細めてはいる。けれど、彼女
178
は何も見ていない。
俺がこの世界で初めて目を覚ました、あの森のように、暗くて、
先の見渡せない、気味の悪い目だ。
どんな生い立ちをすれば、あんな目になるのだろう? 残り二人
のように、怒りや諦観が露になっているわけではない。何らかの病
気で、濁ってしまっているわけでもない。それなのに︱︱
︵何て目で、人を見やがる︱︱︶
真っ先に俺が感じたのは、この場から離れたい、ということだっ
た。
三人の目が、じっと俺を見つめている。視線を浴びているだけで、
不安な気持ちになる。少女たちは、全身で、自分たちが不幸である
と主張していた。
﹁エマがお気に入りですかな? エマ、お客様に身体をお見せしな
さい﹂
左の少女の、無機質な目を見つめていたせいで、気に入られたと
勘違いした奴隷商人が声をかける。
エマという少女は、細い両手で上着を喉元までたくしあげた。細
い腰、へこんだ腹、浮き出たあばら、そして膨らんでもいない両胸
の突起があらわになる。
ろくに食事もさせていないに違いなかった。胃の中の酒精がこみ
上げてくる。何とか、吐かずに飲み込んだ。
喉に引っかかるような酸味と生臭さ、そして繰り返し襲ってくる
吐き気に耐えながら、この、大して広くもない奴隷商の店に、この
街の罪悪のすべてがここに詰まっているのではないか?という錯覚
179
すら覚える。
﹁お値段の方は、勉強させて頂きますとも。真ん中のエリーゼは、
先ほど申しました通り2,200,000ゴルドで結構でございま
す。左のエマは、1,500,000ゴルド。右のエミリアは、1,
700,000ゴルドでお譲り致します﹂
逃げるなら、ここしかない。こんな場所にこれ以上いたら、こち
らまでおかしくなってしまう。これ以上、あの目にずっと見つめら
れたら、俺まで引きずり込まれてしまう。
﹁あ、ああ。残念だが、全財産合わせても一人も買えないようだ。
冷やかして悪かったな﹂
言うや否や、立ち上がって出口へと向かおうとする。
しかし、奴隷商人も素早く立ち上がり、再び俺の腕をとらえた。
引き剥がそうとして︱︱
﹁いえいえ、手持ちのことを何度も仰らせてしまい、このわたくし、
申し訳なさで胸がはちきれそうでございます。お客様にお勧め致し
ますのは、分割払いでございますよ。手付け金としていくらか頂戴
できれば、何回かに分けてお支払い頂ければ結構でございます﹂
﹁分割︱︱?﹂
﹁左様でございます。例えば、三人ともお買い上げであれば、最初
に二割ほど、切りよく1,000,000ゴルドもお支払い頂けれ
ば、三人とも仮契約として、本日連れ帰って頂いて結構でございま
す。その後、毎月同じ額だけを頂戴できれば、四ヶ月後にはお支払
いも終わり、晴れてお客様の物になるといった次第でございまして﹂
180
脳裏に、チェルージュの顔が思い浮かぶ。
彼女がくれた魔石は、1,000,000ゴルド分きっかり、バ
ンクに預けたままだ。初回に必要になる手付け金と、ぴったり額も
同じである。
ただの偶然の符合だと思う。運命、と呼ぶには陳腐にすぎると思
う。
初回だけ払って連れ帰っても、二回目以降の支払いはできないの
だ。
﹁二回目以降の支払いが滞ったらどうなるんだ?﹂
﹁こちらの契約書をご覧下さい。紋章と同じく、こちらは偽造でき
ない作りになってございます。万一、二回目以降のお支払いが都合
が悪くなってしまった場合、娘たちは再びこちらに引き取らせて頂
きます。それまでにお支払い頂いた金額はお返しできませんが、お
客様の手元にいる間はどう愛でて頂いても結構でございますよ﹂
奴隷商人がうやうやしく差し出してきた紙に、ざっと目を通す。
二回目以降の支払いが滞った場合、奴隷たちはすべて奴隷商人の
元へ引き取られること。仮契約期間で、奴隷の価値が低下するほど
の肉体的な欠損が発生した場合、その奴隷の代金満額を俺が払わね
ばならないこと。支払いは毎月初にこの館に来て行うこと。途中か
らの一括払いも可能であることが書いてある。
﹁本来であれば、即金払いに比べ、分割でのお支払いですと一割ほ
ど多く代金を頂戴しますのですが。三人ともお買い上げ頂く豪気さ
に私、惚れこんでしまいました。総代金は5,000,000ゴル
181
ドに勉強させて頂きます。さ、よろしければ、ちょっとご面倒です
がね、紋章のように紙に血判を押して、お名前を書いて頂ければ契
約完了でございます﹂
そっと、ペンを握らせてくる奴隷商人である。
ここで、はいそうですかとサインをしてしまうような冒険者が果
たしているかどうか疑問だった。奴隷商人の目論見は、明白である。
俺が、満期まで支払いきれるとは思っていまい。払えるだけ払わせ
て、支払いが滞ったら少女たちを差し押さえる気なのだ。
満額支払うまでにいくら払っていようが、一度でも滞れば少女た
ちは奴隷商人のところに戻っていく。そういうことだろう。
もう、逃げるのは容易かった。
契約が気に入らないから帰る、といって出ていけばいいのだ。実
際、何度そうしようと思ったか知れない。
だが︱︱。
︵まだ、俺を見ている︶
少女たちの、三組の瞳。それぞれの不幸を宿した目が、俺をじっ
と見つめ続けている。
嫌なものに目を背けるのは簡単だ。見なかったことにすればいい。
彼女たちを救う義理なぞまったくないし、損得で考えたら損しか
ない。
もし仮に俺が一ヶ月だけ引き取ったところで、来月には連れ戻さ
れて、俺以外の誰か、世慣れていない冒険者を捕まえて奴隷商人は
同じやり取りを繰り返すだろうし、あるいは少女たちは、どこかの
富豪に買われていくのかもしれない。
182
そして︱︱残りの、恐らくはそう長くない人生を搾取され続けて
終わるのだろう。
︵だからといって︶
少女たちを見捨てて逃げ帰る俺と、少女たちを食い物にする奴隷
商人の間に、一体どれほどの違いがあるというのだろう?見なかっ
たことにして、明日から、すっきり忘れて気持ちよく迷宮に潜れる
だろうか?少女たちの目を、事あるごとに思い出して、罪悪感に苛
まれるのではないだろうか?
︵︱︱無理だ︶
さらさらと、自分の名前を契約書に記入した。ジル・パウエル。
血判も押した。
気が変わらないうちに、などと考えているのだろう。控えの紙を
俺に渡し、奴隷商人はそそくさと契約書を奥へと持ち帰った。
﹁待ってろ﹂
少女たちか、奴隷商人たちのどちらに言い残したのかは、俺にも
わからなかった。店を出て、冒険者ギルドに行き、バンクから魔石
を引き出して換金した。ディノ青年も、ミリアムもいなかった。当
然だ、夜も遅いのだから。
183
俺が今、どんな顔をしているのかはわからない。けれど、歓楽街
の客引きは、今度は誰も俺に声をかけてこなかった。
店に戻り、1,000,000ゴルド分の中金貨十枚を渡すと、
奴隷商人は喜色満面の笑顔でそれを受け取った。
﹁毎度ありがとうございます。奴隷たちが今着けておりますのは、
仮契約用の隷属の首輪でございます。お支払いが完了した暁には、
正式にお客様所有の証となる首輪に付け替えさせて頂きますとも。
それでは、どうぞ今後ともご贔屓にお願いいたします。さ、お前た
ち、新しいご主人様にご挨拶をしなさい﹂
﹁いいから、ついてきて﹂
半ば、聞いていなかった。少女たちに後をついてこさせ、店を出
る。一刻も早く、この場を立ち去りたかった。
着の身着のままの少女たちは、俺の後をとぼとぼと歩いて追う。
道行く人々から、たまに好奇の視線を向けられるが、知ったこと
ではなかった。
﹁ドミニカ、あとで詳しく話しに来る!﹂
鯨の胃袋亭の入り口から、酒場の中に顔を出して一声怒鳴ってか
ら、少女たちを連れて二階の自室へと入る。下で戸惑った風のドミ
ニカの叫び声が聞こえた気がした。
﹁さて、何から話していいものか︱︱﹂
184
俺が寝起きしている自室の入り口付近に、三人の少女が所在なげ
に立っている。
問題は山積みだった。この部屋は一人用で借り切っているので、
三人増えたら家賃はどうなるのかな、とか。そもそも狭いから他の
部屋に引っ越さざるを得ないかな、とか。一ヶ月後の支払いはどう
しようかな、とか。
﹁飯食ってから考えようか﹂
すでに綺麗さっぱり酔いは消えている。ディノ青年とキリヒトの
三人で酒を飲んだ数時間前が、色々な意味で嘘のようだ。特に腹は
減っていないが、少女たちはそうでもなかろう。
もう夜も遅い。急がねば、鯨と胃袋亭の食事は、売り切れてしま
うだろう。
﹁お前ら、腹減ってるか?﹂
顔を見合わせてから、こくりと頷く少女。確か、エマと言ったは
ずだ。待ってろ、と言い残して、俺は階下に降りて行った。
ドミニカに軽く事情を説明し、三人分の飯を作ってもらう。
ついでに、一時的に三人を同じ部屋に住まわせる許可をもらった。
頭は下げっぱなしである。
﹁あんたも悪い商売に引っかかったねえ。二、三日なら構わないよ。
それ以上は、他の客の手前もある。大部屋に移ってもらうからね。
日に5000ゴルドになっちまうよ﹂
持ち運びやすいようにとの配慮から、トレイに置かれた三人分の
185
食事を、両手を広げたよりも小さい丸机に置く。そういえば立ちっ
ぱなしにさせていた、と思い至り、三人の少女にベッドに腰をかけ
るように命じた。
﹁色々話すことはあるが、とりあえず飯を食ってからだ。ベッドに
三人で座りながらじゃ、ちょっと食いにくいと思うが、まあ我慢し
てくれ﹂
そう声をかけたものの、三人は顔を見合わせるばかりで、湯気を
上げるステーキを前に、一向に食べ始める気配がない。
どうしたのか、と俺が怪訝そうな顔をしていると、彼女たちを代
表してか、一番背の高い、エリーゼがおずおずと口を開いた。
﹁その、服が汚れています。ベッドを汚してしまいます。それに、
この三枚の皿のうち、どの部分を私たちに頂けるのでしょう。これ
から三皿をご主人様がお食べになり、残った分を頂けるということ
でしょうか?﹂
食べ残しを食わせるとか、どこのクズだ俺は。あと、三皿もステ
ーキ食えねえ。
鯨の胃袋亭基準のステーキ三皿は、どう見積もっても肉だけで1k
gは下らない。
﹁盛大な勘違いがあるようだ。俺はもう晩飯は食ったから飯はいら
ん。トレイ一枚に載っている料理すべて、一人で食っていい。ベッ
ドの汚れについちゃ気にするな。洗えば落ちる﹂
﹁はあ︱︱﹂
三人の少女は、まじまじと料理が載ったトレイを見つめる。どれ
186
だけ貧相な食生活をしていたのだろうか。
迷宮産ではないものの、牛肉のステーキにはタルタルソースがた
っぷりとかけられ、ほこほこと湯気を立てている。付けあわせには
マッシュポテト、汁物は人参と生クリームのポタージュである。少
女たちがごくりと唾を飲み込むものの、まだ躊躇している様子だっ
たので︱︱
ぱんぱん。
拍手するように、軽く掌を打ち合わせる。少女たちがびくりと身
体を震わせる。
﹁飯は冷める前に食うものだ。さ、食え食え。行儀なんざ気にしな
くていいから﹂
おずおずと、各人がステーキを口に運ぶ。驚いたような表情をし
てから、ゆっくりと肉を噛み始める。時間をかけて咀嚼して、飲み
込む。少女たちの口には、鯨の胃袋亭の、豪快な切り分けられ方の
ステーキは大きいようだ。
﹁ナイフとフォークは使えるか?﹂
エマと呼ばれた少女以外の二人は、頷く。自分だけが出来ないと
知っても、エマは焦ったりはしていないようだ。ただ、感情の消え
た目で、ぺこりと頭を下げて、もうしわけありません、と呟いた。
﹁気にすんな。教えられてないことが出来ないのは当たり前だ。貸
しな﹂
187
ナイフを受け取り、他の二人は食ってな、と言ってから、一口大
のサイズにステーキを切り分けてやる。フォークを返してやると、
怪訝そうに、無機質な目で俺を覗き込んできた。
﹁たべてもいいのですか?﹂
﹁ん、ああ? 食いにくかったらまた言ってくれれば細かく切るよ﹂
﹁エマはわるいこでした。食事をとりあげられたりはしないのです
か?﹂
はあ、と俺はため息をついた。
ここまで卑屈に育てるために、どんな仕打ちをこの少女は受けて
きたのだろう。
﹁奴隷商人みたいなクズと一緒にするな。お前が何をやっても許し
てやる。一皿すべて、お前のものだ。冷めるぞ﹂
俺が声をかけても、無感動に聞いているだけだったが、やがてエ
マがもう一切れ、ステーキを口に運ぶ。その様子を見ながら、俺は
金策をどうすべきか、頭を悩ませていた。
長い時間をかけて少女たちが食事を終えたので、俺は空いた皿を
持って階下に行く。ドミニカは接客中だったので、旦那である店主
に空き皿を返した。
﹁明日の朝飯、量はいつもより少なめで四人分頼みたいんですが、
いくらになります?﹂
188
ドミニカに隠れていつも影の薄い店主は、小首を傾げる。すべて
をドミニカに任せているように見えるが、実はこの亭主の発言は絶
対だ。尻に敷かれていると思われがちだし、滅多に発言などもしな
いが、一度だけ、新規客に迷惑をかけた常連を
ドミニカに有無を言わせずその場で出禁にしたことがある。
一ヶ月も過ごしていると、そういうところも見えてくるものだ。
﹁君たちがどんな風に生活するのか、ドミニカが見定めるまでは、
今まで通りでいいさ。余計なお代はいらないよ﹂
深く一礼し、部屋へと戻る。身体を拭く湯を頼もうか一瞬考えて
から、彼女たちを洗うには量も足りないし、俺が部屋の外に出てい
なければ彼女たちも身体を拭きづらかろうと思い、やめた。
﹁すまんが今日は風呂の類はなしだ。気になると思うが、明日何と
かするから今日は我慢してくれ。もう夜も遅いから今日は寝よう。
疲れたろう﹂
寝よう、という単語のあたりで、びくりと三人が身体を震わせた。
何か脅えさせるようなことを言っただろうか?
﹁考え事があって俺は起きてるから、ちょっと狭いだろうがベッド
は三人で使ってくれ。まだ身長が低いから、三人で横になれば何と
か寝れるだろうから。トイレは部屋出て左の突き当たりな。許可と
かいらんので行きたかったら行ってくれ﹂
言い残し、椅子に腰かけて、これからの金策を考えようとしてい
ると︱︱
ごそごそとベッドの方から何やら物音がする。
189
ふと目をやると、上着を脱いで半裸になったエリーゼ︱︱背の一
番高い少女︱︱が、丈の短い下履きを脱ぎ捨てようとしているとこ
ろだった。
とっさのことだったので、制止が間に合わなかった。
一糸纏わぬ全裸になったエリーゼは、わずかに膨らんだ二つの胸
や、毛も生え揃っていない下半身を隠すこともなく、ベッドの前で
立ち尽くしていた。それを見たエマとエミリアも、自分の上着に手
をかける。
﹁その、私は激しくなさっても構いませんので、他の二人は優しめ
に抱いて頂けませんでしょうか?﹂
﹁いやまて落ち着け。止まれ。服脱ぐのはちょっとまて。着てくれ﹂
落ち着くべきなのは俺だった。彼女たちから目を背けて、一度深
呼吸をする。
怪訝そうな顔で、それでも命令に従ったのか、一旦服を着たエリ
ーゼを含む三人の方に、向き合う。
﹁詳しいことは明日話そうと思うが、俺は、貧しい人を食い物にす
る奴隷っていう制度が嫌いだ。お前たち三人を買ったのも、ろくに
飯も食ってなさそうなお前たちを見捨てることに良心が痛んだから
だ。といっても、正直に言うと、手付け金を払うだけで精一杯で、
次回の支払いはできない可能性が高い。だから、申し訳ないが、奴
隷商人の店に連れ戻されるかもしれない覚悟はしておいて欲しいん
だ。ともかく、そういった理由で、俺は奴隷を奴隷扱いするのが大
嫌いだ。お前たちを抱いたりすることもない。ここにいる間は何か
失敗をしても怒りゃしないし、自分の家だと思って過ごしてくれれ
ばいい﹂
190
俺が一気に言い切った後、しばしの静寂が部屋に訪れた。
それぞれ、言われたことを考えているようである。口火を切った
のは、エリーゼである。
﹁一つ質問を、よろしいですか?﹂
﹁はいどうぞエリーゼ君﹂
俺のテンションが若干おかしいことになっている気がする。
気恥ずかしさもあった。反論できない部下のような存在に自論を
とうとうと述べるなんて愚劣の極みであるし、先ほどのエリーゼの
裸体が網膜に焼き付いてしまっているせいもあった。失礼ながらエ
マと違って、まだ女性として見れる体つきだったのである。
﹁次回の支払いができないだろうことは、奴隷店の主人も知ってい
て分割払いを提案したのだと思います。その事はお気づきですか?﹂
﹁うん、何となく気づいてる。次回の支払いが滞ったら、君らを連
れ戻しに来るんだろうなって﹂
﹁二ヶ月目の支払いをあえてしない前提で、分割払いで奴隷を買う
風潮があるのはご存知ですか? 要は、店に奴隷を返すまでの一ヶ
月間、好きなように奴隷で遊ぶための期間貸しのようなものですが。
その、初物にしか価値がないので、二回目からは普通に分割なしで
売られるのが通例でして﹂
﹁いや初耳﹂
﹁まとめると、私たちを抱くためではなく、何の目的もなしに︱︱
191
申し訳ございません︱︱1,000,000ゴルドもの大金をお支
払いになったということですか? 失礼ながら、そこまで裕福な暮
らしをされているとは思えませんが﹂
﹁まったくもってその通りだね﹂
再び、しばしの沈黙である。
ねえ、と次に口火を切ったのは、エミリアであった。最初から敵
意を隠そうともしなかった子だ。算術が得意って言われてたっけ。
﹁︱︱馬鹿じゃないの?﹂
血相を変えて、エリーゼがたしなめにかかったので、いいよいい
よ、と手振りで抑える。
﹁世の中、お金でしょ? 資金繰りに詰まった父さんの、たかだか
200,000ゴルドの借金のせいで、私は売られた。お金があれ
ば私が売られることもなかった。そこのエマなんて、もっとひどい
わ。口減らしに売られたんだから。エリーゼはレンジャーとしての
スキルを元々持っていたから、高い値がついた。私は反抗的な態度
をやめなかったから、性格に難ありってことで本来の値段より安く
なった。何も取り得のないエマなんて、家畜以下の扱いを受けてた
わ。体のいいおもちゃだったんでしょうね。私たちは毎日決まった
時間に食事を貰えたけど、エマには何もなかったわ。屑箱から野菜
の切れ端や、店の主人が捨てたオレンジの皮を拾って食い繋いでた。
水さえエマにはくれなかった。性技の練習だって言って、私たちは
店の従業員のあれを口でやらされたけど、エマには尿を浴びせたの
よ。げらげら笑いながら、ほら水だぞって﹂
自分にされた仕打ちが語られているのに、エマは変わらず無表情
192
のままだった。対するエミリアは、興奮してちょっと涙目になりな
がら、肩で息をしている。
﹁それもこれも、全部貧しいからよ。お金がないからこういう目に
遭わなきゃいけないの。あんたも取り繕った偽善なんかやめて、私
たちを好きなようにすればいいじゃない。ここで天国みたいな暮ら
しができたからって、一ヶ月すればあの店に逆戻りよ。中途半端に
いい思いさえしなければ、まだ諦めもついたのに。私たちにできる
のはね、せいぜい気前のいい人に買われるよう祈ることぐらいなの
よ。施しをしたつもりか知らないけど、私たちが売られた原因のお
金をちゃらちゃら使ってさぞかしいい気分なんでしょうね﹂
言いたいことを言い切って、感情の堰が壊れたのか、腕で目尻を
こすっている。その腕も汚れているのか、涙がついた痕が、溶けて
黒ずんでいる。
俺が近づくと、殴られると思ったのか、エミリアはびくりと身体
を震わせる。
ハンカチのような気の利いたものは持っていないし、俺は半袖だ
ったので拭いてやることもできない。布団がわりに使っている、薄
手のタオルケットの端を持って、エミリアの涙を拭いてやった。
﹁ごめんな﹂
彼女たちを自由にしたくとも、俺には金がなかった。
偽善と言われてしまえば、それまでだ。
﹁︱︱っ﹂
怒られなかった安堵からか、エミリアはぽろぽろと泣き出した。
193
エリーゼがそんな彼女の首を抱くように慰める。狭い部屋に、エミ
リアのしゃくり上げる声だけが響いている。
194
第十三話 奴隷 その3
エマとエミリアが疲れて寝てしまい、結局なし崩しに昨晩は寝る
運びとなった。
俺はというと、椅子に座って考え事をしたまま、ずっと過ごして
いた。エリーゼは、主人より先に寝るなど云々と言っていたがもち
ろん寝かせた。
早朝に二時間ほどうたた寝してしまったので節々が少々痛むが、
もはやあの小さな椅子は俺が考え事をするときの定位置になってい
たので、慣れたものである。 これからどうすべきか、どう行動すべきかを俺は一晩中考えた。
その過程で、俺は腹をくくったのである。
エミリアの言う通り、中途半端に手を差し伸べても根本的な解決
にはならない。
何とかして、彼女たちが奴隷商の元に戻らずに済むよう、奔走しよ
うと思うのだ。 昨晩こっそりと確認しておいた俺の残金は、銀行に預けてある半
端なものも含めて、全部で75,620ゴルドである。チェルージ
ュから貰った魔石は使ってしまったので、これが俺の全財産だ。
眠気で目を擦る少女たちを起こし、顔を洗わせてから階下に降り、
宿の亭主が用意してくれた四人分の朝食を採る。一口が大きい俺は、
少女たちより幾分か先に食べ終え、ぼんやりと彼女たちの食べる様
195
を見つめていた。
現状で、すでにドミニカは、ずいぶん甘えさせてくれている。
彼女は商売人だ。とある客だけを特別扱いしては、他の客が不公
平に思うだろう。それなのに、俺が宿に三人もの少女を連れこんで
いることの追加料金を取ることもなく、二、三日様子を見てくれる
という。旦那から話は行っているだろうに、朝飯を四人分用意する
ことにも文句を言うでもない。
それはあくまで、ドミニカ本人の好意から来るものであって、そ
こに甘えるべきではなかった。いつまでも、現状を維持することを
許したわけではないのだ。
︵まあ、今あれこれ考えても仕方がないんだけどな︶
﹁よし、食ったか。んじゃ、ちょいと全員で出かけよう﹂
まずは、やるべきことをすべてやってしまおう。
最初に向かったのは、ダグラスの鍛冶屋の向かい、仕立屋サフラ
ンである。
﹁この子たち全員に、そこそこ丈夫で、動きやすく、目立ちすぎな
い、金欠気味の俺の懐にも優しい、普段着から下着を替えも含めて
二着、靴も一足ずつ、あしらえてくれ﹂
何せ昨日の夜から考えていた台詞である。要点だけを伝えた俺の
注文に、よしきたとばかり店の女将は採寸にかかる。少女がみな首
196
輪をつけているから、彼女たちが俺が所有する奴隷なのはわかって
いるはずだ。しかし何も言うことなく、女将は仕事に取り掛かった。
大人の配慮という奴である。
時間がかかるようならどこかで時間を潰そうかと思ったが、揃い
の衣装でも構わなかったという事情もあり、既存の品に手を入れる
だけですぐに着られるようになるものばかりで、三十分もしないう
ちに三人の衣類は調った。
店では着させず、紙に包んでもらっただけで、各人にそれぞれの
服を持たせて次の場所へと向かう。
二つ目の目的地は、風呂屋であった。
ここは入場時に代金の200ゴルドを払うやり方の店なので、入
り口の受付で三人で風呂を使うことが可能か確認を取る。
大丈夫のようなので、自然と三人のまとめ役といった形になって
いるエリーゼに、全員に身体の洗い方を教え、清潔になったら今ま
での服を捨て、今日買った服を着て出てくるように申し伝える。
面食らった様子ではあったが、ともかくも了解してくれたエリー
ゼに少女たちの引率を任せ、待ち時間を利用して俺はひとっ走り冒
険者ギルドへと向かう。少女たちが風呂屋から出てきた時に待たせ
てはいけないのでここは急ぎであった。
冒険者ギルドに駆け込むと、目当ての人物を探し︱︱いた。
何やらカウンターの中で書類作業をしていたディノ青年を捕まえ、
今晩の予定はないか聞く。
﹁何か相談事がある? それでしたら今でも。私事なので仕事が終
わってからの方が都合がいい? 私で良ければお付き合いしますが。
ええ、夕方六時には上がりますよ﹂
197
恩に着る、夕方六時頃また来る!と言い捨てて俺はまた風呂屋に
とんぼ帰り。まだ少女たちは出てきていなかったので、呼吸を落ち
着かせながら彼女たちを待つ。
青空を眺めながら、つい先日まで平和に迷宮に潜る生活をしてい
たことなどを、遠い昔のように思い出しながら︱︱
﹁あの。ご主人様。お待たせしました﹂
声がした方に振り向くと、若い娘が三人、湯上りの艶姿で俺の方
に近寄ってくる。三人とも、汚れでくすんでいた髪や肌が健康な血
色を取り戻しており、見栄えのしない簡素な服とはいえ、上下とも
新しい装いに着替えた少女たちは、年齢相応の華やぎを見せていた。
隷属の首輪がついていたり、手入れのされていない湿った髪が無
造作に伸びているために今一つ垢抜けてはいないが、風呂に入る前
と比べると見違えるようである。生活が落ち着いたら床屋にも連れ
ていきたい。
﹁ん、見違えたぞ﹂
﹁身体を洗うなんて、久しぶりで、とても良い気持ちでした。あり
がとうございます﹂
深々と頭を下げるエリーゼ。すっかり三人のまとめ役というか、
代表者といった感じになっている。無軌道な少女たちの意識をまと
めるのは確かに苦労しそうなので、俺にとって有難い存在であると
いえた。
ただ、エリーゼも背が高く、落ち着いており、他の少女より世慣
れているからそうなっているだけであって、彼女もまた、非力な少
198
女であることを忘れてはなるまい。無理をさせるべきではなかった
し、事あるごとにエリーゼに頼っていては彼女の負担が増えるだろ
う。
﹁俺のところにいるうちは、何かされたからって有難く思う必要な
んぞないぞ。一々礼なんぞ言わなくていい﹂
﹁そういうわけにも︱︱お言葉ですが、ここまで奴隷を優遇するご
主人様なんて、いませんから﹂
﹁別に優遇なんてしてないぞ。むしろ着せる服とかが貧相で申し訳
ないぐらいだ﹂
﹁とんでもありません。清潔な服を用意して頂けるばかりか、入浴
までさせて頂ける奴隷なんて︱︱﹂
﹁俺は非力だからな。俺が思った通りの、満足な生活を送ってもら
うことは、しばらくできないだろう。いいか、お前たちぐらいの年
齢の女の子は、もっと自由であるべきだ。家事の手伝いぐらいなら
してもいいだろうが、過酷な労働に従事させるなんてのは間違いで、
大人の力不足だし、怠慢だ。大人は子供を守ってやらにゃならん。
したくもない仕事なんざせず、勉強したり、友達と遊んだり、三食
におやつもちゃんと食べて、夜になったら寝るもんだ。犯罪奴隷に
ついては特に否定しないし、貧困奴隷も、大人が自己責任の借金の
ツケを払う分には、仕方ない面もあると思うが︱︱子供を搾取する
なんざどんな理由であれ言語道断だ。俺の待遇が良いっていうんな
ら、それはこの街全体が間違ってるんだ。この件に関しては、たと
えこの街で同じことをやるのが俺しかいなかろうが俺が正しい。間
違っているのは他の大人全員だ﹂
199
風呂屋の前で熱弁をする図というのは、ちょっと滑稽なものであ
る。こうしているうちにも、血まみれのむくつけき男たちが風呂屋
へとどんどん入っていっているのだ。
少女たちも黙り込んでしまったので、気恥ずかしくなった。帰る
か、と呟いて歩き出した。
﹁あの、失礼ながら。ご主人様は、年齢はおいくつになるのでしょ
うか? それと、その。お名前を私たちに教えて頂けると﹂
︵︱︱あ︶
﹁名前、教えてなかったか、すまんすまん。俺は今16だ。名前は
ジル・パウエル。帰ったら自己紹介でもしようか﹂
帰り道の途中、いくつかの店に寄り、茶と軽食、四人分のコップ
などの食器、それに少々の甘いものを買ってから帰宅する。鯨の胃
袋亭では出されない昼飯のかわりであった。これだけあれば足りる
だろう。
宿の二階、自室に帰ると、小さな丸机に買ってきたものを広げて
いく。
この街でもごく一般的に飲まれている紅茶は、人数分を容器にま
とめ売りしてくれる物で、容器を持参するとその代金の分は安くな
る。人数分に分けるコップは自前で用意しなければならないので、
帰り道に買ってきたばかりだ。
木を削りだして持ち手を付けた四人のコップに紅茶注ぐと、紅茶
の香りが狭い部屋に広がった。
食事は、パフォーマンスとして店頭で丸焼きにしている羊のうち、
焦げかけた表面の肉の部分をナイフでそぎ落として、平焼きと呼ば
200
ヨーグルト
れる薄く焼いたパンにはさみ、香辛料や乳精を混ぜたソースと、刻
んだ少量の葉野菜をかけたものだ。
サンドメイズ
いわゆる﹁挟み物﹂としてのパン料理では、この街ではポピュラ
ーなもので、迷宮焼きという商品名で親しまれているものである。
おやつがわりの甘味は、果物にしようかとも思ったが、少女たち
が菓子を食べたことがあまりないのではと気づき、焼き菓子を買う
ことにした。小麦と卵、砂糖などで焼いたシンプルな焼き菓子で、
製作者の名前と、魔法の焼き菓子という意味をこめて、マギレーヌ
と呼ばれているものだ。
﹁飯はあたたかいうちに食うべし﹂
地属性を代表して崇められている地母ドロレスに長い祈りを捧げ
る家庭もあると聞くが、俺は気にしない派なので、さっそく迷宮焼
きに食らいつく。焼いた小麦の香ばしさ、削った羊肉の脂、肉のう
まみ、香辛料と乳精の奥深い味。
﹁うむ、うまし﹂
どうも俺が食い始めないと少女たちは食が進まないようなので、
最初の一口は早いところ始めるようにしている。少女たちが美味し
そうに食べ始めるのを見計らってから、机の下で指を刺して血の紋
章を起動させる。
エンブレム
﹁食いながら見てくれて構わんよ。これは血の紋章って言って、本
人の情報を表示させるものだ。迷宮の入場証がわりにもなるんだが。
俺の名前とか年齢は見ての通りだ、よろしく﹂
慌てて迷宮焼きから口を離し、よろしくお願いします、などとエ
201
リーゼが頭を下げ始めたので、食事を続けるよう促す。エマはエリ
ーゼの仕草を見て、真似してぺこりと頭を下げる。ほとんど聞き取
れない声で、同じくよろしくおねがいします、などと呟いている。
エミリアは不承不承と言った体で、頭を下げる。まだ心を開いては
もらえていないらしい。
﹁その、ずいぶん大人びていらっしゃるのですね、ご主人様は﹂
﹁良く言われるよ、お前本当に16歳かって。ああ、そのうち話そ
うと思っていたが、俺は記憶喪失でな。一ヶ月より前の記憶がない
んだ﹂
マナポイント
いつものように、森の中で目覚めたことや、その森の管理者︱︱
チェルージュのことはぼかした︱︱に助けられてMPの一割を吸わ
れる加護を取り付けられたこと、目覚めたときからざっくばらんな
言動をしていたので自分にとってこれが自然なこと、魔石をもらっ
てこの街で冒険者として活動していること、最近ようやく自分の食
い扶持を稼げるようになったことなどを話した。
﹁そんなわけでな、1,000,000ゴルドって言っても、自分
で稼いで溜めた金じゃないんだ。ご主人様だなんだと敬われるよう
なことは、俺は何もしてないんだよ﹂
﹁それは違います、ご主人様。ご自分のお金を私たちに使って頂い
たことには、何の違いもございません。エミリアも、そのう、昨日
失礼を申しましたが、どうかお許しを頂けますと︱︱﹂
﹁髪の毛一筋ほども気にしていないと思えば嘘になるが、エミリア
の言ったことは正論だと思うし、耳が痛かっただけで、エミリアを
悪く思ったりはしていないからそこは安心してくれ﹂
202
﹁そう仰って頂けますと︱︱﹂
﹁そんなことより、実は気になってたんだが、エリーゼは何歳なん
だ? 俺が言えた義理じゃないが、とても大人びているように思え
る。他の二人も、言いたくないことは言わないで構わないから、こ
れから短い間かもしれんが︱︱いや貧乏人で、すまんな︱︱みんな
で暮らすんだ、俺もお前たちのことを知りたい﹂
﹁ええと、私は12になります。エマとエミリアは、11です。奴
隷としてそれぞれ買い上げられた時に、それまでの名前は捨てられ
ましたので、みな、名前は奴隷商人が名付けたものです。同じ年に
買った奴隷には、同じ頭文字から始まる名前を付けるのがあの店の
主人の決め事だったようで﹂
﹁奴隷になると名前まで奪われるのか。胸糞悪い話だ。以前の名前
を名乗りたければ名乗っていいぞ?﹂
﹁いえ、冒険者ギルドに登録されている戸籍も、もうこの名前で更
新、登録されてしまっていますので、私たちのことはこれまで通り
お呼び頂ければ﹂
食事の手が止まってしまっているので、まあ食いながら話せ、と
再度促す。
マギレーヌを食べ始めると、甘いお菓子は本当に久々です、とエ
リーゼは相好を崩した。仏頂面を装っているが、彼女以上にエミリ
アがとても嬉しそうである。
シーフ
﹁私は父親が盗賊ギルドに所属しており、人からも盗みを働く犯罪
者でしたので、父が捕まったときに奴隷になりました。借金などは
203
なかったのですが、父から盗賊としての技術をある程度教わってい
たので、共犯としてみなされたのだと思います﹂
﹁みなされた? エリーゼって犯罪歴あるか?﹂
﹁いえ、ありません。確認して頂いても結構です。冒険者として迷
宮に赴く際に必要な技術も盗賊ギルドでは教えていますので、ギル
ドに所属したり、盗みの技術を学ぶだけであれば犯罪歴は付きませ
んから﹂
﹁それで、父親のとばっちりで娘まで売られるのか? ずさんな法
制度だな﹂
﹁略式裁判で有罪と判決されれば、犯罪歴になくとも罪にはなりま
すので︱︱﹂
﹁裁判制度もあるのか﹂
といっても、話を聞く限りではお粗末なものなのだろう。裁判員
の心証次第でどうとでもなってしまう程度の格しかなさそうだ。
﹁自分で話す?﹂
エリーゼが、傍の二人に話しかけている。
エマは首を横に振り、エミリアは自分でやる、と呟いた。
﹁私はエミリア。歳は11。生まれは商家。前も言ったけど、店が
潰れて借金のかたに売られた。これでいい?﹂
エリーゼがお説教をしそうな気配を出していたので、機先を制し
204
て俺が返事をする。
﹁構わんが、そんなにつんけんしてると疲れないか? 一ヶ月だけ
かもしれんが、それまで一緒にいるんだ。仲良くしようぜ?﹂
しかし、説得の効果もむなしく、エミリアの眉間に寄った皺は一
向に消える気配がなかった。
﹁言っとくけどね、私は冒険者っていう野蛮な人種が嫌いなの。酔
って暴れるわ大声で騒ぐわ、品性の欠片も感じられない。何かある
度に力で解決しようとするもの。あんたも同類よ﹂
﹁命賭けて迷宮潜ってるとな、息抜きとして盛大に騒ぎたくなる気
持ちもわからんでもないからなあ。羽目を外しすぎない限り大目に
見てもらいたいもんだが﹂
﹁人に迷惑をかけてまで息抜きしないといけないなら冒険者なんて
やめちゃえばいいのよ﹂
﹁双方の歩み寄りの問題かねえ。冒険者は騒ぐのをちょっと控える、
街の人らは経済の基盤になってる冒険者が騒ぐのをある程度目こぼ
ししてやる、それでお互い譲歩しながらやっていくしかないと思う
が﹂
﹁その、のらりくらりとした態度も私、嫌いだわ﹂
﹁うむ、俺のやることなすことすべて肯定されてヨイショされても
気持ち悪いからな。言いたいことは何でも言ってくれ﹂
﹁ご主人様、エミリアが失礼を︱︱﹂
205
口を挟んできたので、ちょうどいい機会である。エリーゼにも言
いたいことは言っておこう。
﹁エリーゼ、俺以外の誰かに買われることがあったら、今のエリー
ゼのやり方で正しい。機嫌を伺って保身に回らないと、何かとやり
にくいこともあるだろうから。だが、俺といる時は、思ったことを
言ってくれ。諫言耳に痛し、って言い回しがあるだろ。自分にとっ
て気持ちのいい言葉しか言われないと、人は過ちに気づけないし、
成長もしない。前に言ったろ? 俺は奴隷制度、そのものが嫌いな
んだ。俺のやることなすことにお世辞を言う、俺がいい気分になる、
そんなのは正しいとも思わないし、仲が良い間柄だとも思えない。
俺が間違ってたら遠慮なく言ってくれ﹂
エリーゼはしばし絶句した後、深々と頭を下げた。
﹁かしこまりました︱︱エマですが、開拓村の出身です。村が貧し
くなって、売られました﹂
エマの髪を撫でながら、エリーゼは続ける。
﹁開拓村?﹂
﹁はい。街は、壁で覆うように守られていますが、人の住める地域
を増やすために、壁の外に出て、森を切り開いたりして作るのが開
拓村です。魔物の襲撃なども頻繁にあり、危険な仕事ですので、犯
罪奴隷や、冒険者、それにスラム暮らしなどの、貧しい人々が依頼
の一環として受けることが多いです﹂
﹁依頼か。ほとんど受けたことないなあ﹂
206
冒険者ギルドが発行する依頼は、街のゴミ拾いなどの雑用から、
不足しがちな迷宮素材の調達まで様々であった。魔物を討伐する仕
事は案外少なく、レベルが上がらないので俺は利用していない。
﹁エマの父親は冒険者で、腕は立ったようなのですが、その、後先
をあまり考えない人だったようで。怪我をして迷宮に潜れなくなっ
た時点で貯蓄がまったくなく、開拓村で働いていたと聞きました。
母親はその、男性と寝るお仕事で、稼ぎの悪くなったエマの父と、
エマを捨ててどこかに逃げてしまったそうです。エマも、父親との
記憶があまりないと言っていましたから、放っておかれたのではな
いでしょうか︱︱私とエミリアには、エマもたまに、話をしてくれ
るのです︱︱エマの父親は、食べるのに困って、子供が売れる年齢
の9歳に達したら、すぐにエマを売ってしまったそうです﹂
﹁ろくな話を聞かんな。俺たちがまともな家族になれるかは今後の
俺次第、か﹂
自分のことを話されているときも、エマは少しうつむき気味に、
机の木目あたりをじっと見ていた。
﹁にしても、ずいぶんとエリーゼは大人びてるな。言葉遣いもしっ
かりしたもんだし﹂
﹁法で、買い取った奴隷の教育期間が最低一年間、設けられている
のです。奴隷としての心構えとか︱︱要は、主人に逆らってはいけ
ないということを徹底させたり、隷属の首輪に逆らう痛みを教えた
りですね︱︱礼儀作法を一通り教えるのも奴隷商人の義務ですので、
私は真面目に覚えようとしました。その方が、高く売れて、良いご
主人様にめぐり合えるかもしれないと思っていましたから﹂
207
その言い方だと、エマとエミリアは真面目に覚えようとしなかっ
たということなのだろう。
﹁その首輪って、何か逆らったりすると痛むの?﹂
﹁犯罪にあたる行為をしようとしたり、主人の命令に逆らうと、装
着者のマナを使って痛みが走るようになっています。最初は鈍い痛
みですが、命令に逆らい続けると激痛になっていきます﹂
﹁マジか。んじゃ気をつけて俺も喋るようにするわ﹂
﹁︱︱エマは、それで遊び半分に、無理な命令を出されて、こんな
風に。最初はもう少し、喋る子でした﹂
はあ、と俺はため息をついた。とことん奴隷商人の性根は腐って
いるらしい。
﹁血の紋章とかもそうだったが、どんな仕組みで出来てるんだろう
な、その首輪。犯罪とかもそうだったけど、命令に従うかどうかな
んて、結構あやふやなものだと思うんだが﹂
﹁申し訳ありません、私も詳しくは存じません。魔法ギルドで作っ
ているのは確からしいですが。体感だと、法で定められている罪を
犯すと発動するものと、自分が命令に反した、と意識した瞬間に痛
みが走るものの二種類が設定されているような気がします。ですの
で、最初からご主人様に言葉で逆らってもいいなどと明言されてい
れば、ある程度命令に逆らっても痛くはなりません﹂
﹁お、そっか。んじゃ君ら三人、全員俺に好きなように逆らってよ
208
し﹂
これで万事解決だと思ったのだが、エリーゼは苦笑顔だ。
﹁お言葉は嬉しいのですが、今の私たちに嵌められているのは仮契
約の首輪ですので︱︱おそらく、奴隷商の同意なくては細かいとこ
ろまでは変えられないのではないかと﹂
﹁ふむ、そうか。仮契約で思い出した、ちょっとこの後出かけてく
るので、部屋で留守番しててくれ。出歩いてもいいが、迷子になる
と困るので三人でまったり過ごしててくれると助かる。そう長くは
出ないから﹂
﹁あ、はい。かしこまりました﹂
ディノ青年に、多少危険でもいいので大金が手にはいる方法がな
いか、聞きに行く予定なのである。そんな都合のいい話がほいほい
あるわけはないだろうので、もし他に方法がなければ迷宮に潜り続
けることになるだろうが。
209
第十四話 遠征 その1
満足に舗装されていない道を、馬に曳かれた車輪が、がたごとと
レザーアーマークロースアーマー
打ち鳴らす。商人の座る席には敷物があるものの、俺たち冒険者は
木の床に腰を据えるしかないため、皮鎧と布鎧で緩和しきれない振
動が尻に響く。
ダンジョン
いま俺は、近場の開拓村へ向かう馬車の中にいる。剣も鎧も装備
した、迷宮に潜るときと変わらぬ装備である。なぜ俺が馬車の中で
揺られているかというと、発端は昨日、ディノ青年に金策を相談に
行った時まで遡る。
﹁今月末までに、最低で4,000,000ゴルド、作りたい。命
の危険は問わない。今後の生活が送れなくなるならから犯罪は困る。
知恵を貸してくれ﹂
深々と頭を下げる俺に、ディノ青年は面くらいながらも、いつも
の机に誘ってくれた。
﹁借金ですか?﹂
﹁そうだな。正確には、毎月1,000,000ゴルドの借金で、
四ヶ月後まで払い続ける必要がある。延滞はできない。払えないと、
死にはしないが、同じぐらいの目に遭うと思ってくれ﹂
﹁︱︱昨日、そんな素振りはありませんでした。酒場で別れた後か
210
ら、今日までに作られたのですね。率直に聞きます。キリヒトのせ
いで作った借金ですか?﹂
﹁キリヒトのせいでは、まったくない。キリヒトと別れた後に、俺
が自分の責任で作った借金だ﹂
重い溜息をつきながら、ディノ青年は疲れを誤魔化すかのように
目元を指で揉んだ。ディノが困ったときや、考え事をするときの癖
である。
﹁女と奴隷、どっちですか?﹂
﹁なんのことか、わからんのう﹂
いわゆる、モロバレである。本気で隠し通せるとも思わなかった
ので、思いっきり白々しく口笛を吹いてやった。
﹁個人的には後者だと思ってますけどね。今日の昼間には冒険者ギ
ルドに駆け込んでこれたということは、借金を作ったのは昨日の夜
か。こういう事があの界隈じゃあり得るから案内しろって言ったの
に、キリヒトの野郎、ナメやがって︱︱﹂
周囲に人がいないということもあるが、冒険者ギルドでは素を出
さないディノが、珍しくマジギレしていた。このままではディノと
キリヒトの仲に傷が付く。
﹁知恵を借りに来た分際で言うこっちゃないが、キリヒトもそのへ
んは気にしてたな。最後まで案内しないとディノに怒られるって。
案内はいらない、一人で帰れるって無理を言って、別行動を言い出
したのは俺だ。キリヒトは義理を欠かしてないどころか、良くして
211
くれた。責めるのはやめてくれ﹂
もしディノの怒りの矛先が俺に向いたとしても、そこは譲っては
いけないところだ。
実際のところ、キリヒトに罪はない。一人でうろついた俺が馬鹿
だっただけだし、その結果、エマ達を買うことになったとしても後
悔はしていないのだ。
しばらく、ディノ青年は真顔だった。あからさまに怒鳴ったりす
るよりも、押し殺した深い怒りが伝わってくる。
﹁案内しろという言葉には、帰路も無事に送り届けろという意味ま
で含まれています。そこを果たせなかったことは無視できません。
スラム出身者の連帯は、上下関係が物を言う世界ですから、そこを
許せば私の面子が立ちません。ですが︱︱わかりました。ジルさん
がそこまで言うなら、釘を刺すに止めましょう﹂
﹁ディノ、気持ちはわからんでもない。キリヒトとの間柄とか、そ
ういうのは俺にはよくわからんが、言った通りの事が果たされてな
いってことを重く見てるのはよくわかるんだ。けどな、実のところ、
借金をしたことに後悔はしていないんだ。ディノの推察通り、見捨
てられなくて奴隷を分割払いで買ったんだけどな。俺は逃げること
もできたのに、自分で買うって決めたんだ。ディノからシバきが入
って俺とキリヒトの友情にヒビが入るのも困る。返しきれないほど
溜まってるが、借りにしてくれても構わん。不問にしてくれないか
?﹂
俺の台詞を聞いて、ディノ青年は苦笑する。色々なところで、本
当にお人よしですね、などと呟いている。
212
﹁わかりました。水に流してなかったことにします。分割払いを指
定してるあたり、あまり良い商売はしていなさそうなので、奴隷商
の店の名前と場所は後でください。要注意で周知しておきますので﹂
﹁それは構わんぞ。犯罪にならなきゃ迷わず斬り殺すほどのクズだ﹂
﹁悪い商売だって気づかずに騙されるほど馬鹿じゃないでしょうに、
情にほだされて買ってしまうあたり、何ともジルさんらしい気がし
ますよ。四回分割払いで、借金総額は4,000,000ゴルドで
すね? 紋章を見せて頂けますか?﹂
俺は頷き、スキル一覧等のすべてを表示させた紋章をディノ青年
に見せる。
難しい顔で、ディノ青年はそれをしばらく見つめてから、目を閉
じてなにやら計算をし始めた。
﹁んん、残り二十九日で、条件は犯罪不可、危険は厭わないとして
もこのレベルだと、迷宮の適正はランク1の深層から、成長予測分
を加味して月の後半はランク2の初期層、一日十体︱︱は無理か、
体力が尽きるまで狩れても六、七体。素材を持ち帰るのに、満杯ま
で荷物を持って、徒歩より指輪の方がもう効率はいいか、回復薬と
保存食と指輪だけで済ますとして︱︱日当30,000ゴルドも、
出ないかなあ﹂
俺にも聞こえるように呟いてくれているので、俺はディノが何を
考えてくれているかがよくわかった。最高効率で迷宮を探索した時
に、どれだけ稼げるかを脳内で計算してくれているのだ。
そして、その結果があまり芳しくないということも。
﹁迷宮のランク2帯からは、一人で狩れる魔物がぐっと減ります。
213
マナバイソン
魔角牛など、一人でも戦える相手はいるのですが、あれは素材が非
常に重いので一体仕留めたら帰還しないとお金になりませんし、生
命力が高いので討伐に時間がかかります。状態異常を使ったり、群
れを作る魔物が増えることから、ランク2帯から、パーティの必要
性がぐっと上がるのですよ。一人で狩るなら、相当の熟練者でない
と厳しいところです﹂
﹁魔角牛か。弱ったはぐれを一体だけ倒したことがある。確かに、
物凄い時間がかかったな。行動は猪突猛進するだけだから、しっか
り見極めれば相手にはできるんだが﹂
﹁結論から言うと、迷宮での探索で月に1,000,000ゴルド
は無理です。せめて半年後であれば、毎日迷宮に潜り、極めて運が
良いことに死ななければギリギリ達成できるかもしれないラインで
すが、今のジルさんでは無理です。冒険者には業者ですら金を貸し
たがらないので、借金で当座を誤魔化していく方法も無理でしょう
ね﹂
﹁選択肢の一つに入ってたが、やっぱ借金は無理か﹂
﹁いつ死ぬかわからない冒険者が金を借りるには、偉大な名声か担
保のどちらかが必要ですから﹂
﹁八方塞がりか﹂
俺は肩を落とした。死ぬか死なないかギリギリの戦闘を繰り広げ
ても実現できないのなら、迷宮で必死に稼ぐ意味は、今はない。
﹁別方向からの借金を促すようで恐縮ですが、ジルさんの恩人に泣
きつくことはできないのですか?﹂
214
チェルージュの顔が思い浮かぶ。確かに金には困っていなさそう
ではあった。そもそも吸血鬼が生きていくのに金が必要なのかが疑
わしい。
﹁無理だな。そもそも遠い場所にいて、俺はそこに辿りつけない。
街を出た郊外の、森をいくつも越えた先だ﹂
﹁じゃあ、賞金首を狙うぐらいしか方法がないですね。まず勝てな
いので私でしたら避けますが﹂
﹁賞金首?﹂
一瞬、口をすべらせたとでも言うように、ディノ青年の顔が曇る。
幾ばくかの逡巡の後、彼は話を続けた。
﹁捕まっていない重犯罪者、いわゆる盗賊のような存在に、冒険者
ギルドで懸賞金をかけているのです。高い首だと、1,000,0
00ゴルドを超える者もいます。もっとも、討伐しようにも、恐ら
く街の外に拠点を築いていて場所がわからないので、確実性がない
上に、失敗したらまず死にますので、私でしたら賞金首を狙おうと
は思いません。盗賊の巣の場所を見つけて報告するだけでも報奨金
は出ますが﹂
﹁見つけたら率先して狙ってみようと思う。どのあたりに出没する
とかの情報はあるか?﹂
﹁あまり、情報を教えるのも気が進みません。賞金をかけられても
逃げ延びているだけあって、どの首も手錬れですから﹂
215
こうしているうちにも、残り一ヶ月の時が、どんどんと失われて
いっているという焦りがあった。エマ達の顔を思い浮かべる。あの
少女たちを、再び奴隷商人のところに戻さなければならない事態は
避けなければならない。
﹁無理だと思ったら避けるぐらいの知恵はあるさ。多少危険でも、
今は情報が欲しい。頼む﹂
まあ、賞金首一覧は冒険者ギルドに張ってあるので見ようと思え
ば見れますし、とぼやきながら、渋々と言った体でディノ青年は続
きを話す。
﹁最近、名を売っているのは、開拓村へと続く道の途中に出没す
る、﹃槍の﹄フィンクスという男ですね。少人数ながら護衛を連れ
た荷車が一台、襲われて全滅しているので、それなりに配下を連れ
ていると考えられています。開拓事情に少なからぬ悪影響を及ぼし
ている上に、冒険者時代は腕利きで鳴らした男なので賞金は高めに
ついていますが﹂
﹁拠点もわかってないのか?﹂
﹁はい。襲撃された人間で、生き残りがいませんので、規模もわか
っていません。スラムでも情報が回っていないので、恐らくは身内、
仲の良い人間同士で組まれた小規模の賊だとは思うのですが。討伐
隊が組まれることが予定されています。というか、ちょうど今日で
すね﹂
﹁討伐隊の詳細を頼む﹂
﹁そう来ると思っていました︱︱はあ、やっぱり賞金首の情報を教
216
えたのは失敗だったかな。止めてもジルさんが行ってしまいそうな
気がしてならないですよ。盗賊と言っても、恐らく元は冒険者です。
それなりにレベルもあるでしょう。力量差はかなりあると見ていい
です。やめませんか?﹂
﹁いや、可能性があるなら危険でも俺は行きたい。死んだところで
恨みはしない。教えてくれ﹂
﹁ジルさんは貴重な加護持ちです。大成しそうな素質もありますし、
無理をして欲しくはなかったのですが︱︱少数の護衛しか連れてい
ないと見せかけて、馬車の中に冒険者が複数待機している馬車が今
日の正午に、出発します。賞金の分配方法は、五割が頭割り。五割
は賞金首に最も多くの被害を与えた人間が持っていきます。
これとは別に、一人頭30,000ゴルドの参加報酬が、盗賊の出
没有無に関わらず全員に配られます。賞金首を捕獲した場合は本人
を、死体の場合は首から上を切り取って冒険者ギルドに持ち帰って
ください︱︱﹂
これが、事の顛末であり、俺がこうして馬車の中、窓や入り口か
ら見えない死角に身を潜めている理由でもある。
街を出たばかりであるが、同乗の冒険者たちは、すでにピリピリ
していて、気を張っている。開拓村まで、馬車で一時間もかからな
いとのことなので、いつ襲われてもいいように身構えているのだろ
う。
馬車は三台である。そのうち真ん中の一台は、本物の商人が物資
を積んでいる。前後二台の馬車には、討伐隊に参加した冒険者が計
十五名、乗り込んでいた。
217
討伐隊として集まった冒険者たちが初めて顔合わせをしたとき、
俺への視線に好意的なものは少なかった。ある者は憐れみ、ある者
は敵意をこめて俺を睨んできた。
面と向かって﹁場違いだ﹂と言われなかったのは、冒険者は自分
の身を自分で守るという鉄則が染み付いているからだろう。貧弱な
装備から、俺のことは新人だとみなわかっていても、親切に声をか
けてやることなどしないのだ。盗賊に襲われて死ぬも、参加報酬の
30,000ゴルドに目が眩んで参加するも、本人の自由である。
﹁場違いだ﹂﹁死ぬぞ﹂﹁頭割りの報酬が減る﹂﹁帰れ﹂
彼らの冷たい視線は、俺の立場をこれ以上ないほどにわからせる
ものだった。そもそも、ベテラン冒険者でもないのに盗賊団の討伐
に参加すること自体が身の程知らずと言われても仕方がない。
だが、俺とて退けない理由はある。盗賊団ならともかく、今は味
方であるはずの彼らに気おされていてはやっていけない。俺は胸を
張り、敵意をこめた視線を受け止めて堂々としていた。それで、彼
らも何も言わなかった。
がたごとと、馬車が揺れる。舗装されていない道は、少なからず
尻に応えるものであったが、そんなことを言い出せる雰囲気ではな
いので俺は黙って座っていた。
バックパック
︵これなら、背嚢を持ってきて、尻に敷いておけば良かったか?︶
レッサーポーション
討伐素材を入れるわけでもなかったため、身軽さを重視して、背
嚢は置いてきたのである。低級回復薬の小瓶だけ、ベルトにくくり
218
つけた革のポーチに三本、入れてあった。
いつ襲撃が来てもいいように、俺は左腰に吊った剣の柄を撫でな
ウォリアー
レンジャー
メイジ
がら、今日集まった討伐隊のメンバーに思いを馳せる。俺を含めて
戦士が八名、狩人が五名、魔術師は二名である。
覆いのついた屋根に守られた御者が三人いるが、彼らは非戦闘員
だ。三台の馬車は、二頭引きである。
チェインメイル
プレートメイル
戦士であれば、みな俺より拵えの立派な剣を持っていて、身につ
ウーツ
けているものも鎖鎧か、板金鎧である。それも金属の色からして、
ダマスカス
鉄製ではなく、鈍魔鋼の鎧だ。一人は見たことのない、黒光りする
色の金属鎧をまとっていて、あれがダグラスの言っていた、魔鋼で
できた鎧なのだろうか?
魔鋼の鎧は使い込まれて彼の放つ空気にしっくりと馴染んでいて、
羽織ったマントの、細かな糸ほつれと布のくたびれ具合は歴戦の戦
士じみて何とも頼もしい。肌を刺してくるような威圧感はなく、た
だ佇んでいるだけなのに、彼の周りだけ、空気が落ち着いているよ
うな気がした。一際、風格が違っている。
もし盗賊団との乱戦になれば、彼に付いていこう、と俺は目星を
付ける。恐らくは、戦士だけで見ても、そして恐らくは他の狩人や
魔術師たちを含めても、一番の実力者は彼だ。場数の差なのか、最
も落ち着いているのも彼だ。
彼はフルフェイス型の兜の面頬を上げていて、白いものの混じっ
た立派な髭と、精悍と呼ぶにはやや頬のこけた、初老にさしかかっ
た男の横顔が覗いている。
﹁俺に何か用か? 若いの﹂
219
じろじろと見ていたのに気づかれていたのか、彼が口を開いた。
低くて渋い声だった。話しかけられるとは思っていなかったので、
少し面食らう。
﹁すまん、気に障ったか。あんたに付いていけば死ぬことはなさそ
うだな、と﹂
﹁誰と一緒にいようが死ぬ時は死ぬ。わざわざ守ったりはせんぞ﹂
﹁勝手についていくさ。ケツをちょろちょろするのを許してくれれ
ばそれでいい﹂
ふん、と彼は鼻を一つ鳴らし、そのまま黙り込んだ。馬車には、
再び静寂が訪れる。
馬車は、平坦な道を越え、小高い山と丘がいくつも連なった森林
を進んでいく。
二台並んでしまえば馬車が通れないほどの広さしかない道の左右は、
植物の根があちこちに飛び出ている、人の背丈ほどの小さな崖だ。
崖の上は、もう森である。
開拓のために、木々を伐採してここに道を作ったのだろうか。森
の緑と比べると、道は黒ずんだ土と砂、そして小岩だけだ。
切り開いてからそこそこの年月が経っているのか、崖から飛び出
た根の回りには新たな雑草が力強く葉を広げている。
︵俺も雑草みたいに、強くならにゃいかんな︶
220
まだ幼い、わがままさが残ったエミリアの顔を思い出す。世の中
金よ、と彼女は言った。その通りだ。金を作る力がないと、三人の
子供は、守れない。
221
第十五話 遠征 その2
頭の中で地図を広げた。開拓村までの道のりは、頭の中に叩き込
んである。
ここはちょうど、街と開拓村の中間あたりだ。
街の近くから開拓していけばいいのではと思っていたが、平坦な
土地や水場の確保などの兼ね合いから、そうもいかないらしい。
集落を作るのにちょうどいい立地でもっとも近いのが、今俺たち
が向かっている、開拓村を作っている土地であり、そこまでは馬車
を走らせても、街から一時間はかかってしまうのだ。
この、騒ぎを起こしてもすぐに街に伝わらず、衛兵も駆けつけら
れないという距離が、山賊が生きていける土壌となっている。恐ら
くは、付近の森のどこかに拠点を作って、街から開拓村への道行く
人々を襲っているのだろう。
俺は再び、気を引き締めた。俺の予想では、盗賊がもし来るなら
ば、このあたりだと思っている。
原生林を切り開いたとはいえ、道を通しただけだ。周囲にはいく
らでも人が隠れる林があり、それでいて一本道は俺たち側の増援が
あるかどうかを調べやすい。馬車が通っている道はというと、左右
を人の背丈ほどの崖に挟まれていて、そこを登らない限り、とっさ
に身を隠せる障害物がない。待ち伏せにはもってこいの立地である。
もし俺が盗賊なら、高地から後続の馬車、言い換えれば増援があ
るかどうかを偵察した上で、このあたりで襲う。
222
ピィヒョロロ、と鳥が鳴く声がした。未だ、山賊が襲ってくる気
配はないが、先ほどの老剣士が、ピクリと反応した。
他の冒険者たちも、険しい表情に変わっている。
ピィヒョロロ。今度は別の方角から、先ほどと同じ鳥の鳴き声が
した。
﹁出たぞ﹂
誰かが呟いた。みな、剣の柄や弓に手をかけ、臨戦態勢になって
いる。喚声の類はなかったと思うが、出たというのは、山賊だろう
か?
俺も念のため、かた膝をたて、いつでも走り出せるようにしてお
く。
﹁あの鳴き声は、盗賊の合図だろう。俺たちが討伐隊だと気づいて
いなければ、襲ってくるはずだ。馬車三台は大きい獲物だからな。
偽装だと気づかれていたら来ないだろうが﹂
老剣士が、親切に教えてくれた。
しばらく、まんじりともせずに、張り詰めたまま、時を待つ。
ややあってから︱︱前方から、轟音がした。一拍遅れて、めきめ
きという音がしたかと思うと、馬車ごと地面が揺れた。
﹁道がふさがれた。出るぞ!﹂
誰かの声を皮切りに、いっせいに、馬車から外へ飛び出していく
冒険者たち。
遅れじと俺も外へ出ると、進行方向の道が、切り倒された二本の
223
巨木によってふさがれている。先ほどの轟音はこれが倒された音だ
ろう。
ひゅん、ひゅんという風切り音がする。多数の矢が、馬車から出
たばかりの俺たちを目がけて飛来していた。
メイジ
前の馬車の方角から、絶叫があがった。見ると、矢を避け損ねた
のか、魔術師が一人、腹に二本の矢を受けて、倒れた。起き上がろ
うとする彼に矢が集中し、針鼠のようになった。魔術師はもう動か
ない。
﹁多いぞ!﹂
﹁森に入れ!﹂
誰かが叫んでいるが、それどころではなかった。
高速で飛来する矢という武器が、これほど恐ろしいものだとは思
わなかった。
自分にはどうか当たらないでくれ、と念じながら、姿勢を低くし
つつ森へ向かって走る。耳元でぶん、と矢が通り過ぎる音がするた
びに鳥肌が立つ。
ほんの数秒も走れば辿りつくであろうわずかな距離が、とても長
く感じた。
崖に取り付いてよじ登ってから、森に駆け込み、矢が飛んできた
森の奥から隠れるように木を背にして、やっと一息つく。
しかし、すぐに剣戟の音があちこちから聞こえ始めた。いつ抜い
たかも覚えていないが、俺は抜き身の剣を握っている。
木々で視界が遮られる中、俺は老剣士の姿を探した。
224
ちらりと、遠くに黒光りする鎧が見えた。必死に、その方向へ向
かって走った。森に入って射線が途切れたせいか、矢は飛んでこな
い。
﹁ぬん!﹂
根に足をとられそうになりながらも、俺が彼の元へ駆けつけた時
︱︱老剣士は、組み伏せた賊の胸を足で押さえつけ、長剣を喉に突
き入れているところだった。
ちらと俺を見、敵でないことを確認すると、血に濡れた切っ先を
一振りして、雫を飛ばす。
﹁こやつら、寄せ集めではない。しっかりした指揮の元、攻めてき
ておる﹂
俺は、何と言葉を出していいかわからなかった。そうか、とだけ
答えただけである。
迷宮の魔物なら、駆け出しとはいえそれなりに数を狩った。格上
と戦った経験もある。それでも、人同士が殺しあう戦闘は初めてだ
った。魔物相手とは、まったく別の緊張がある。
﹁ぼさっとするな。死ぬぞ﹂
走り出した老剣士に遅れないよう、俺も後ろを付いていく。
喚声や絶叫、剣と剣が打ち合う金属音がどこかから響くたびに、
木々の隙間から賊が襲ってきやしないかと恐ろしかった。
老剣士についてきた自分の判断は正解だったと思う。自分ひとり
だと、恐怖に怯えて縮こまるか、考えるのをやめて闇雲に攻め上が
225
ってしまいそうだ。
﹁敵の方が多いな、三十はいるだろう。こちらは三名がやられてい
る。早めに﹃槍の﹄フィンクスを倒さねばまずいな﹂
ブロードソード
ハンドアックス
スタデッドレザーアーマー
老剣士の行く手をふさぐように、二人の賊が現れた。得物は、長
剣よりはやや短い帯広剣と、片手用の斧で、鎧は鋲皮鎧だ。
ロングソード
ブロ
老剣士は迷わず、手斧を持った方の賊に襲いかかる。より破壊力
のある武器持ちを優先して倒すのだろうか?
﹁もう一人を足止めしておけい!﹂
﹁おお!﹂
ードソード
俺も走りよると、老剣士の横っ腹に切りつけようとしていた、帯
広剣持ちの賊に、長剣の切っ先を突き出した。賊は背後に跳んでそ
れを避けると、舌打ちしながら俺へと斬り付けてくる。早い。
双方の、武器の特徴が出ていた。俺の長剣は射程が長いが、その
分重い。
賊が使っている武器は帯広剣という名前だが、細剣よりは刀身が
広い剣という意味なので、むしろ長剣などと比べると細身の軽い剣
に分類される。
上段から振り下ろされた剣を、俺は長剣で受ける。衝撃は軽かっ
たが、その後の鍔迫り合いで、俺は押され始める。
︵︱︱腕力と剣術は不利、使っている剣は俺が有利︶
226
とっさに俺は、そう見てとった。賊が使っている帯広剣は、ただ
の鉄製だ。武器だけならば、俺の方がいい。力押しで負けている俺
は、剣を握る両拳に力を込めて、突き放すように後ろへ跳んだ。
レザーアーマー
その瞬間、帯広剣が俺の小手を狙い、空を斬った。すさまじい早
さの斬撃だ。皮鎧の小手の表面を、少し切り裂かれた。とっさに腕
を引かなければ、片手を斬り落とされていただろう。全身に汗が吹
き出てくる。
俺は前に出た。剣の技術では適わない。俺の強みは、武器だけだ。
肩に長剣を担ぐようにして、走りこむと同時に、武器ごと叩き斬
るつもりで、渾身の力で振り下ろした。
剣で受けてくれれば、鉄の帯広剣ごと斬り下げるつもりだった。
しかし、賊は冷静に、後ろに下がって避けた。長剣を空ぶらせて前
のめりになる俺の隙を見逃さず、賊は上段に帯広剣を振りかぶった、
狙いは無防備な肩か?
俺は振り下ろした長剣の重みに逆らわず、地面に突っ伏せるよう
にして上段の斬撃を避ける。半身だけ転がり、何とか剣を構えるも、
立ち上がる余裕は与えてくれなさそうだった。
俺は仰向けに寝て長剣を持っているだけ、相手は俺を見下ろすよ
うに帯広剣を構えている。 帯広剣の鋭利な切っ先が、今まさに、
俺に突き入れられようとしている時︱︱賊の顔面付近に何かが飛ん
できて、爆発した。賊がくぐもったような苦痛の声をあげてよろめ
く。今しかチャンスはない。
俺は上半身だけをとっさに起こすと、今度は前に倒れこむように、
長剣を賊の足首あたりを狙って横殴りに叩き付けた。足首を斬り放
すまでには至らなかったが、しっかりした手ごたえがあった。賊は
後ろに下がろうとして、よろめいて地面に倒れこんだ。
227
俺はその隙に立ち上がって、近づき︱︱
﹁おおおおお!!﹂
振りかぶった長剣を、倒れている賊に向かって全力で振り下ろし
た。
とっさに胸の前で帯広剣を構える賊の、剣と、腕を物ともせず、
長剣が胸元に深々とめりこんだ。
うめきながら血を吐き出す賊の腹を踏みつけながら、俺は長剣を
兜の面頬のさらに下、喉元に突き入れた。ひとしきり痙攣し、賊は
動かなくなった。
﹁ふうっ!﹂
大きく息をつく。
手助けがあったとはいえ、賊を一人、倒すことが出来た。無我夢
中だった。我に返ると、額にびっしりと汗をかいていた。人を殺し
た罪悪感など、感じている暇がそもそもなく、斬りあう前に感じて
いた怯えも、どこにも残っていなかった。
ただ、死なないために、必死に戦っていただけだ。
﹁うむ、童貞を捨てたか?﹂
ふと横を見ると、手斧を持った賊をすでに片付けた老剣士が、腕
を組んで俺を見つめていた。
﹁初めて人を殺したかって意味なら、そうだな。先ほどの爆発は、
あんたが?﹂
228
ヘリオストーン
﹁炎帝石という素材で作った爆薬だ。錬金術ギルドで売ってるぞ。
安くはないんでな、貸し一つな﹂
﹁ああ、命一個、借りだな﹂
あの爆薬がなければ、俺は賊に勝てなかっただろうから。
﹁俺が駆けつけたら、まあ一、二回刺されるぐらいで済んだであろ
う。命の貸しというほど、大げさではないな。行くぞ、味方の数が
減っている。早く頭目を倒さねば囲まれる﹂
﹁わかった﹂
確かに、周囲から聞こえていた怒号や戦闘音が、先ほどよりは数
が減って聞こえるような気がした。老剣士の言を信じるならば、味
方が劣勢だということになる。
﹁商人を襲うための布陣ではないな。奴ら、冒険者が潜んでいても
倒しきれるように念を入れて襲ってきておる﹂
﹁その通り﹂
老剣士の声でも、俺の声でもなかった。
︵第三者︱︱? ︶
意識を警戒へと切り替えるよりも早く、老剣士に、黒くて大きな
何かが殺到してきた。残像が見えるほどの速度で、何か長いものが
229
突き出されているのを、老剣士は剣で払う。
軽やかに後ろへ跳び、体勢を整えなおした男の姿を見て、ようや
ダマスカス
く俺は、そいつの姿をしっかりと捉えることができた。
ロングスピア
プレートヘルムで
長槍の穂先は黒光りする魔鋼製で、全身に纏う皮鎧も、通常のも
のと違って銀色に鈍く輝いている。頭部も魔鋼でできた板金兜、面
頬を降ろしていて表情が見えないにも関わらず、動作から軽薄な人
柄が伝わってくる。
しかし、真に注目するべきはその強さだった。俺では、見て取る
こともできないほどの素早い動き。老剣士を静とするなら、彼は動。
その佇まいは老剣士に勝るとも劣らない、実力者の趣きがある。
真紅に染めたマント、黒の兜と槍、銀色の皮鎧。色の対比で、や
けに目立つ男だ。
﹁﹃槍の﹄フィンクスか。探しにいく手間が省けた﹂
﹁そういうあんたは、ギルド﹃アウェイクム﹄のシグルドだとお見
受けするが、合ってるかい?﹂
﹁うむ。ならず者に死を。我がギルドの悲願故な﹂
﹁赤ネーム専門の対人ギルドか。俺たちの天敵だな。マーサは今日
は来てるのか?﹂
﹁さあ、どうであろうな﹂
やれやれ、とフィンクスは肩をすくめた。
230
五件以上の未遂犯罪を持つと、血の紋章を起動させたときに、赤
く光る。赤ネームとは、紋章の起動時に赤く光る重犯罪者のことを
指す。
テリング
﹁この場にはいなさそうだが、どうせもう遠話の指輪で報告をして
るんだろう? なら、早いとこお前を仕留めてとんずらしないとな。
奴が来ちまう﹂
﹁できるものなら︱︱﹂
何かを言いかけた老剣士︱︱シグルドと呼ばれていた︱︱が喋ろ
うとしたその瞬間、フィンクスの手が翻った。ぴきり、と空気が凍
る音とともに、シグルドがそれまでいた場所に、1メートル四方ほ
どの氷の花が咲く。炎帝石の、氷バージョンみたいなものだろうか?
わずかな動きでそれを避けていたシグルドに、目にも留まらぬ槍
の刺突が襲いかかる。
剣で払う、下がって避ける、上体を揺らして避ける、盾でいなす、
ありとあらゆる回避方法で、電光の刺突を避ける。俺の目には、細
かな線が二人の間を行き交っているようにしか見えない。
だが、じりじりとシグルドが後ろに下がり、フィンクスが前に出
プレートメイル
てきているのを見ると、劣勢なのは間違いなさそうだ。魔鋼で出来
ているはずの黒い板金鎧に、亀裂が少しずつ増えていく。
﹁シグルド! 加勢する!﹂
﹁あほう、いらんわ。お前なんぞ、こいつの一突きで即死じゃい。
他のところに加勢に行け﹂
231
わかった、と言い捨てて俺は走り出す。確かに、レベルが違いす
ぎる。俺が変に割り込んでも逆効果なだけだ。
背後で、シグルドの声と、嬉しそうなフィンクスの声が聞こえた。
﹁大丈夫か、﹃槍の﹄? このままだとお仲間さんはすべて倒され
てしまうぞ?﹂
﹁知ったことか。こんな良い相手を、他の奴にくれてやれるかよ﹂
﹁戦闘狂か。惜しいな、お前ほどの男が赤ネームになった理由がそ
れか﹂
シグルドたちの剣戟の音が、背後へと遠ざかっていく。かわりに、
賊と斬り結ぶ冒険者の姿と、弓弦を引き絞ってそれを狙うもう一人
の賊の姿が目に入る。
できるだけ足音を殺しながら、後衛の弓使いの賊に向けて走る。
ダガー
それでも、賊は俺に気づいた。一瞬だけ、俺を狙おうとして、間に
合わないと悟ったのか弓を投げ捨て、賊は短剣を引き抜いた。
見たところ、ただの鉄製の短剣だ。これならば、勝機がある。
上段から、大振りに長剣で切りかかる。と見せかけて、力を込め
てはいない。賊が横に跳んで上段の攻撃を避けようとしたところに、
本命の斬撃を、横殴りに叩き込んだ。
切っ先のあたりで、賊の鋲皮鎧と、硬い骨を断った手ごたえがあ
った。見ると、鎖骨のあたりを切り裂いている。形勢が不利と見た
賊は、傷口を手で抑えながら逃げようとする。俺も追いかけようと
したが、傷の深さからか賊はすぐによろめき、木の根に足を取られ
て転んだ。
232
俺は勢いそのままに突進し、長剣で背中を突き通した。まだ動く
賊の尻を踏みつけ、首と背骨の間あたりを貫く。強固な骨を砕きな
がら、賊を地面に縫い付ける感触とともに、賊は動かなくなった。
この賊が狙っていた冒険者も、斬り合っていた賊をいま、倒すと
ころだった。二対一で苦戦していただけで、平均的な個々の技量な
らば、冒険者の方が高いというのは間違ってはいなさそうだ。
ニュービー
﹁新人だと思ってたがな。目利き違いを詫びよう。助かった﹂
この冒険者の戦士も、面頬に隠れて顔がわからなかったが、かな
り若い声だった。
タイマン
﹁そんなことより、シグルド︱︱魔鋼の板金鎧を着たおっちゃんが、
フィンクスと一対一やってる。レベルが高すぎてついていけねえ。
他の賊を掃討してくれって頼まれた﹂
﹁確かにあの御仁は群を抜いて強そうだったが、﹃槍の﹄も同レベ
ルか。わかった、雑魚を倒そう﹂
ナイトサイト
走り出した冒険者の後を、俺も付いていく。鬱蒼と茂った森の中
であるが、暗視の指輪の効果で、視界は明るい。木の根に足を取ら
れないよう、そしてレベルと身体能力が俺より高い冒険者に遅れな
いよう、必死で走る。
233
第十六話 遠征 その3
走り出したものの、近くに、戦闘音はない。
まさか、俺たち以外は全員やられてしまったのだろうか?
チェインメイル
冷や汗をかいたのも一瞬のことで、道を挟んだ逆側の森で叫び声
があがる。前を走る鎖鎧の冒険者は、それを聞いて、森を駆け下り
始めた。俺もそれに倣う。
三台の馬車がある道まで一旦降り、逆側の崖に取り付いて登り始
める。
前を行く彼は、人の背丈に近いほどの崖に、鎖鎧を着たまま飛び
かかると、巧みに足を翻らせて、軽やかに登りきる。
︵うへぇ︶
熟練者の身体能力はすごいもんだ、などと感心している暇はない。
もう彼は、戦闘音のする方へ走っていってしまった。俺も苦労して
崖を登りきると、彼の後を追う。
いくばくか走ると、味方の一団が、坂上の高所に陣取った敵に囲
まれているところだった。半包囲の陣形で、打ち降ろすように矢を
射られている。
味方側にも、敵側にも、いくつかの亡骸が転がっていた。
味方の生存者は︱︱鎖鎧の彼と、俺を加えて、七人。
敵は、樹木の陰から顔を出しているやつだけでも、十人近くはい
るだろう。
234
﹁加勢か、助かる! 他の仲間はどうした!?﹂
レンジャー
木を背にした狩人の冒険者が、弓を引き絞って狙い打つ。
敵も木に隠れていて、幹に刺さっただけで当たってはいない。お
互い、木に隠れながらの膠着になっていたようだ。
俺も、木の背に隠れながら、状況を叫ぶ。
ウォ
﹁一人、フィンクスとやりあってる! 逆側の森にはもう冒険者の
生き残りはいない!﹂
リアー
﹁くっそ、じゃあ生き残りは俺たちだけかよ! 今まで狩人四、戦
士一で持ちこたえてた。お前らがきて七人だ!﹂
メイジ
﹁味方の魔術師はどうした!?﹂
俺の横の木に隠れながら、鎖鎧の彼が怒鳴る。
﹁お互い戦士の数が少なかったからな、射撃戦になっちまった! そのへんでいい気分で寝てるのがそうさ!﹂
見ると、俺たちの隠れている木からさらに後方に、幾本かの矢が
突き立っている、ローブ姿の死骸があった。元が何色かわからない
ほど、ローブは血で染まってしまっている。
今回の討伐に参加した魔術師は二人。もう一人は、馬車から出て
くるときに絶命したはずなので、味方の魔術師はこれで全滅である。
﹁くそ、矢戦じゃあ魔術師は格好の的だっただろうな。味方の戦士
はどこにいった!﹂
235
﹁正面から行こうとして二人食われた! 二人は側面から斬り込ん
だが、帰ってこねえ!﹂ 鎖鎧の冒険者は舌打ちをした。
﹁賊め、対人用に特化させてるのか。戦闘を想定していた俺らより
ダンジョン
弓が多いとは﹂
迷宮では誤射の危険があって使いにくい弓も、開けた場所でなら
その威力を発揮する。魔法と違って即時発射できる弓は、中距離で
の戦闘には強い。
先ほどから矢の脅威に晒され続けて、そのことが骨身に沁みてわ
かっている。
﹁俺が遊撃をやる! 援護ミスるんじゃねえぞ!﹂
﹁俺も出る!﹂
鎖鎧の彼に負けじと、気がつけば俺も叫んでいた。彼が俺をじっ
と見てくる。
遠距離攻撃の手段を持っていない俺は、ここにいても役立たずだ。
﹁即席のパートナーというわけだな。俺はエヴィだ、お前は何が得
意だ?﹂
ファイアアロー
﹁ジルだ。魔法は火矢が何とか、剣術も15,0あるかどうかって
ところだ。シグルドと組んでたときは足止めに専念してた﹂
﹁腕前は残念だが自覚があるのは及第点だ。足止め役を頼む﹂
236
﹁了解!﹂
呼吸を合わせて、木の陰から走り出す。たちまち矢が俺たちに殺
到した。風切り音が、恐怖を煽る。
どっ、という音と、腰のあたりで軽い衝撃。遅れて、焼けつくよ
うな痛み。
︵ぐおっ︶
レザーアーマー
たまらず、次の木に滑り込むように隠れる。皮鎧を貫通して、矢
が横っ腹に突き立っていた。ここでもたついている暇はない。俺は
矢の柄を掴み、引き抜こうとした。
骨や内臓には刺さっていないようだが、深めに突き立ったようで、
鏃はなかなか抜けない。無理に抜こうとすると、肉を切り裂く鋭い
痛みが走る。
﹁おおおああ!!﹂
咆哮とともに、渾身の力を込めて矢を引っ張る。どろりと傷口か
ら何かがこぼれてくるような感触と共に、矢は抜けた。
矢を投げ捨て、ポーチから回復薬を取り出し、飲み干した。
すでにエヴィは、賊の布陣の端に斬り込んだようだった。上の方
で、賊の戦士と剣を交えている彼の姿が見える。俺も合流すべく、
斜面を駆け上がった。矢は飛んでこない。味方の狩人達が牽制で弓
を射こんでくれている。
ある程度斜面を駆け上がったおかげで、敵の陣形が見てとれた。
狩人が六名、これは木に隠れながら冒険者たちと射ち合っている。
戦士が二名、これは狩人に接近する戦士を迎撃する役目のようだ。
237
合計すると、賊が八名、冒険者が七名での対峙である。
︵これなら、勝てる︶
個々の質で上回る冒険者たちに、じゅうぶんな勝ち目があった。
同士討ちを警戒してか、敵の狩人も、二人の賊と切り結ぶエヴィ
に矢を射込めないでいる。
なら︱︱俺の仕事は、いつも通りだ。一人引き受けて、時間を稼
いでいれば味方が敵を倒してくれる。
﹁うお︱︱らあ!﹂
ロングソード
ブロード
エヴィにまとわりついている賊の片割れに、肩で武器を担ぐよう
ソード
に長剣を振り下ろす。賊は背後に跳んで避けるが、構えていた帯広
剣を叩き斬ることができた。
そのまま追撃に移ろうとするが︱︱武器を失った賊は、俺に飛び
ついてきた。
﹁うおっ!?﹂
武器を持つ手を捕まれるなり、賊は俺の懐にもぐりこむと、体全
体で俺をかち上げるように突き飛ばしてきた。上半身が泳ぐ。体勢
を整えるべく下がろうとするが、木の根に足を取られて俺は尻餅を
付いた。
︵しまった!︶
その隙を見逃さず、賊は俺に覆いかぶさってくる。倒れた拍子に、
238
ダガー
俺の長剣は手放してしまっていた。賊は、馬乗りの体勢で俺を抑え
込むと、間髪入れずに短剣を抜き、俺の胸へと振りかぶった。
短剣を握る手を抑えようとしたが、腕力の差は歴然である。力任
せに押し切られ、切っ先が俺の胸に突き立てられようとした時︱︱
賊の胸に、剣の切っ先が生えた。すぐさま、引き抜かれる。
エヴィが、相手をしていた賊を一瞬だけ振り切って、手助けして
くれたようだ。
﹁助かる!﹂
血を吐き出す賊を引っぺがし、取り落とした短剣を使って、賊の
喉に突き立てる。短剣はそのままに、取り落とした長剣を拾って、
いざ加勢に入ろうとして︱︱
弓を構えて俺に狙いをつけている、二人の狩人の賊が目に入った。
﹁やばっ︱︱﹂
とっさに木の陰に転がり込む。一瞬前まで俺がいた場所に、矢が
突き立った。
﹁弓だ!﹂
今まさにもう一人の賊の戦士を組み伏せ、とどめを刺そうとして
いたエヴィは、俺の叫びに即座に反応し、横っ飛びに跳んで矢を避
けた。
﹁くそっ、味方の弓は何をしてやがる!﹂
239
忌々しいとばかりに吐き捨てた彼の台詞が、皮切りとなったのか
︱︱
ぎゃあっ︱︱
聞こえてきたのは、味方がいるはずの、下の方からの、絶叫であ
った。
エヴィが、息を飲む。
ハルバード
味方がいるはずの方向を見おろすと︱︱ちょうど、戦斧が一閃さ
れ、最後に残った狩人の首が飛ばされているところだった。
首なしで転がっている、五人の死体。先ほどまで生きていた、冒
険者側の生き残りの五人で間違いなかった。
ダマスカス
プレートヘルム
彼らを手にかけたと思われる男は、﹃槍の﹄フィンクスと同じ、
魔鋼の板金兜と銀色の皮鎧を装備していた。
だが、フィンクスと違ってマントを羽織っていないし、それに︱
︱手にしているのは、血に濡れて禍々しく光る、黒い戦斧だ。
黒い刃、それはすなわち、魔鋼製の武器であるということだ。フ
ィンクス以外の、魔鋼製の武器を扱う戦士︱︱その事実を認識した
瞬間、俺の全身から血の気が引いた。
﹁新手、か?﹂
放心したかのように、エヴィが呟く。
そう、新手だ。しかも、恐らくは﹃槍の﹄フィンクス並の手錬れ
240
だ。
﹁一体どこから現れやが︱︱﹂
エヴィが呟き終わるよりも早く、戦斧持ちの賊の輪郭がぼやけた
かと思うと、かき消えた。
ハイド
﹁隠身スキル持ち︱︱﹂
呆然と、俺たちはその光景を見守っていたが、近くの木の幹に矢
が突き立ったことで、我に返った。エヴィがとどめを刺し損ねた敵
の戦士は逃げてしまっていて、遠慮なしに敵の狩人は俺たち目がけ
て矢を放ってくる。
﹁どうする! 撤退か!?﹂
俺が怒鳴ったことで、ようやくエヴィも我に返ったようだ。
﹁そ、そうだな。撤退だ。どこに逃げる?﹂
ひとまず馬車へ︱︱そう叫ぼうとして、俺は汗が吹き出てくるの
を感じた。
馬車や、シグルドのいる反対側の斜面に行くには、あの戦斧持ち
のいるであろう坂下へ向かわねばならない。
もし隠身スキルを使用したあの男がその場にとどまっているのな
ら、完全に逃げ道をふさがれた格好だ。
ハイド
﹁隠身スキルを暴く方法はないのか!?﹂
241
﹁集中していないと隠身は維持できない。攻撃を当てるか、奴が攻
撃動作に移ればスキルの効果は消える。足元の葉の動きからして、
左の方角に逃げていったような気はするが︱︱﹂
左の方角には、馬車がある。俺たち冒険者は全員、外に出て戦っ
ているが、三人の御者と商人がいた。
そして︱︱今思い返せば、賊は、馬を狙わなかった。戦利品とし
て生け捕りにするつもりなのだろうか。
﹁奴ら、馬車を制圧するつもりかもしれん!﹂
考えてみれば、賊にとって重要なのは俺たちの首ではなく、馬車
が積んだ物資だった。冒険者たちが乗っていたことから、恐らくは
もぬけの空だろうと当たりをつけていても、一応は中を調べてみる
はずだ。そして、真ん中の馬車には物資を満載していることに気づ
いて小躍りするだろう。
馬車に乗り込んでいた三人の御者と、商人を助けられるかを、俺
は一瞬考えた。
無理だ。
恐らくあの戦斧持ちは、シグルドでないと歯が立たない。いま俺
たちが駆けつけても、返り討ちになる可能性が高い。
﹁シグルドと合流するぞ!﹂
戦力にならない御者や商人を即座に殺すかは戦斧の男次第だった。
馬車を見捨てることになるが、勝てない相手に挑むのは冒険者の戦
い方ではない。
242
胸のうちに芽生えた罪悪感を押し殺し、俺は坂下へと向かって走
り出した。もしまだ戦斧の男がその場に残っていれば一巻の終わり
だ。
だが︱︱恐らくは、戦斧の男は慎重な性格のはずだ。盗賊団の切
り札なのだろうが、最大戦力の﹃槍の﹄フィンクスに比肩する実力
ならば、最初から姿を見せて襲ってくればいいはずだ。
それをせず、戦力を見極めてから出てきたということは、もし俺
たちが手に負えないほどの大戦力を率いていた場合、部下を見捨て
て逃げ出すことも考えていたのではないか?
︵つまり、俺と同じタイプの人種だ︶
必ず逃げ道を一つは残しておき、必要以上に危険を避けるスタイ
ル。
そして︱︱﹃槍の﹄フィンクスがシグルドと戦っている間も、賊
は機能的に半包囲の陣形を作っていた。シグルドたちが戦っている
坂とは反対の、こちら側にいる賊が、だ。
︵あいつだ︶
俺は、あの戦斧の男が、賊の指揮を取っていると直感した。そし
て恐らく、﹃槍の﹄ではなく、あの戦斧の男が、賊の頭目だ。
坂を一気に駆け下り、じりじりと賊に近づかれている馬車を横目
に見ながら、シグルドのいる方向の崖に取り付いた。戦斧の男が隠
身を解いて襲ってくれば、エヴィと二人で戦わなければならないと
ころだったが、奴は現れなかった。
243
予想通りだった。あいつの立場になって考えてみればわかる。シ
グルドの所属している﹁アウェイクム﹂というギルドはならず者の
討伐を率先して行うと、フィンクスが言っていた。ならば、いつ後
続が来てもおかしくないと思うだろう。
俺ならば、逃げる二人の冒険者を深追いせず、足早に物資を奪っ
て逃げるため、部下に馬車を調べるよう命じる。
﹁シグルドっ!﹂
俺たちが駆けつけたとき、未だにシグルドは、フィンクスと斬り
結んでいた。俺たち二人の増援を見た﹃槍の﹄は、一気に飛びずさ
って距離を取る。
﹁どうした、向こうは片付いたのか?﹂
ハルバード
﹁それどころじゃない。賊の頭目は恐らく、フィンクスじゃない。
向こうで同レベルの戦斧持ちに襲われた。フィンクスと同じ装備を
していた。あいつが頭目だ。現に向こうの賊は統率だって襲ってく
る。俺たち以外は全滅だ﹂
﹁何だと?﹂
険しい顔になるシグルドとは裏腹に、フィンクスはにやりと笑っ
た。俺たちの話を聞いて、自分の優位を確信したのだろう。
﹁賊は、十人近くはまだ残ってる。フィンクスと、あの戦斧の奴に
合流されたら手が出ない。撤退しよう!﹂
﹁無理だ。軽装なのもあるが、フィンクスは敏捷型の槍使いだ。逃
244
げ切れん﹂
﹁なら、こいつを今すぐ倒して逃げよう!﹂
剣を構える、俺とエヴィ、それにシグルド。
一対三の状況にも関わらず、まだフィンクスは笑みを浮かべてい
た。
﹁いや、残念だが時間切れだ。決着をつけられなかったのが残念だ
よ、シグルド﹂
ひゅん、と風を切るような音。
ごぱんっ、という、重量感のある炸裂音。
チェインメイル
背後から聞こえたそれらの音に振り返ると︱︱黒光りする戦斧が、
脇下から心臓のあたりまで、エヴィの鎖鎧にめり込んでいた。
湿気のまじった咳をするように血を吐きながら、彼は前のめりに
倒れこみ、動かなくなった。
エヴィの背後に隠れていたのは︱︱血に染まった戦斧を手にした、
銀色の皮鎧の男。賊の頭目が音もなく立っていた。
︵馬車を部下に任せて、シグルドの加勢に来たのか︱︱!︶
俺の読みが甘かった。シグルドはフィンクスに任せて、安全圏に
潜んでいると思っていたが、物資よりもフィンクスの安全を選んだ
のか。
︵親しい身内同士で構成された山賊の可能性があります︱︱︶
245
ディノ青年の言葉が、いまさらながらに頭をよぎるが、後悔する
時間は、俺には与えられないようだった。
エヴィの血を吸ったばかりの戦斧は、今度は上段に振りかぶられ
て︱︱
肩口から腰元まで、俺は、深々と斬り割られた。
246
第十七話 遠征 その4
ハルバード
来ることがわかっていても、避けることはおろか、反応すらでき
レザーアーマー
ない速度だった。賊の頭目は、上段に構えた戦斧を、あっさりと振
り下ろした。
ダマスカス
魔鋼の戦斧の一撃は、やすやすと皮鎧を裂き、俺の左肩から右腰
に至るまでを、内臓ごとぶった斬った。致命傷である。
ぽっかりと空いた身体の空洞が空気と触れる寒々とした感触と、
取り返しの付かない身体の内側が失われた脱力感と、開かれた裂け
目から熱いものが飛び出していく喪失感と、傷口から産まれた灼熱
が、急速に冷えていこうとするのを感じる。 前蹴りで突き放されると、俺は糸を失った人形のように、後ろに
倒れこんだ。
口から何かがあふれ出てきているのは、血だろうか?
﹁若いの!﹂
薄れいく視界の中で、俺に駆け寄ろうとするシグルドが見えたが
︱︱﹃槍の﹄フィンクスの刺突を受けて、吹き飛ばされた。
横っ腹に、槍をもらったらしい。なおも起き上がろうとするシグ
プレートメイル
ルドだが、腹に戦斧の追撃をもらい、仰向けに倒れこんだ。黒鋼製
の板金鎧が、したたかに切り裂かれている。
247
﹁おいおいウキョウ、鎧を傷つけたら戦利品が減るだろ?﹂
﹁馬車に物資が積んであった。一台は本物だ。今あいつらを張り付
かせてる﹂
﹁お、そりゃ美味いな。第二陣が来る前にとっとと剣とか鎧剥ごう
ぜ﹂
ウキョウ、と呼ばれたのが、戦斧持ちの賊の名前らしい。
話し方からして、彼らの間に身分の上下はなさそうだ。同格だか
らこそ、ウキョウも高みの見物を決め込まずに助けに来たのだろう
か。
口惜しかった。何が悔しいといえば、ウキョウの思考を読みきれ
なかったことだ。いや、読みきろうとしたことだ。
自分を何よりも大事にする男だと、決めてかかっていた。常に退
路を確保し、部下の命よりも自分が助かることを優先する、俺と似
たような思考の持ち主。
じゃあ、俺が危険なこの戦場に赴いたわけは何だ?
命を危険に晒してでも、助けたい少女たちがいたからだ。
俺にとってのエマたちが、ウキョウにとってのフィンクスだった
のだろう。
ウキョウが、自分の命を何より大事にする男だと決めてかかった
のが、敗因だ。あいつにだって、そういうものの一つや二つは、あ
ったのだ。俺にあったように。 俺の脳裏に、エマ、エリーゼ、エミリア、三人の顔が次々に浮か
んでは消える。
248
次いで、ディノ青年、キリヒト、鍛冶屋のダグラス、宿屋のドミニ
カ、受付嬢のミリアムまで。これが、死の間際に見えるという走馬
灯なのだろうか?
俺はどうやらここで死ぬらしい。
結局、少女たちを奴隷という枷から解放することはできなかった。
﹁じゃあな、シグルド。楽しかったぜ﹂
フィンクスは、槍の穂先でシグルドの面頬を押し上げ、あらわに
なった喉元に切っ先を突きつける。抵抗する体力も尽きているのか、
シグルドは激しく呼吸するのみで、取り落とした剣を拾う素振りも
見せなかった。
ここに来て、俺はおかしい、と感じた。
︵なぜ俺は死んでいない?︶
どう見ても、戦斧の一撃は即死するほどの傷だったはずだ。
俺はシグルドから、自分の傷口へと視線を移して︱︱驚愕した。
切り裂かれた身体から、まったく血が出ていない。確かに内臓に
まで達した、両断されかねないほどの深手だったはずだ。
それだけではなく、世界のすべてが、ゆっくり見える。
フィンクスが引いた槍を、今まさにシグルドに突き入れようとし
249
ている動作も、その様子を見守ることなく、馬車の方へと向かうウ
キョウの歩みも、木の葉が風にゆられて舞い踊る様も、何もかもが
ゆっくりに見える。
俺の傷口からは、ぼこぼこと泡が出てきていた。世界のすべてが
緩慢な動作をする中で、俺の傷口だけが、等速以上の勢いで治って
いる。
そして、自分に一体何が起こっているかもわからず混乱する俺の
瞳から、濁流のような何かがあふれ出してきていた。目、眼だ。俺
の瞳から、半固形のような、どろりと濃厚なマナが、あふれ出して
いる。
目に見えない、無色透明なマナの奔流は、しかし確かに目から流
れ出続け、俺の皮鎧や、地面、あるいは空気中に満ちていく。それ
らは大地に沁みこむこともなく、やがて黒く変色していき、一つ所
へ集まったかと思うと、漆黒の影のようなものへと変わっていった。
︵ああ、俺はこの漆黒をどこかで見たことがある︱︱︶
ヘリオスティー
人の寄り付かない、森をいくつも越えた先の館。
豪奢な調度品、炎帝茶の香り︱︱。
足を止めたウキョウや、フィンクス、シグルドまでもが驚愕の目
を見開いて眺めている中、漆黒の影は人の形へと変わっていく。革
靴に白のフレアパンツ、無骨な革のベルトにねずみ色のタンクトッ
プ、そして漆黒のマント、白く透き通るような肌、そして葡萄酒色
の赤い髪。
250
﹁じゃーん﹂
間の抜けた台詞と共に、両手でピースの形をしてみせるのは︱︱
吸血鬼の館の主、MPの一割を吸われ続けるという加護を俺に与え
た張本人、チェルージュ・パウエルだった。
チェルージュの胴体を、戦斧が素通りする。気配を殺して斬りか
かったはずのウキョウが、明らかに戸惑うのが見て取れた。
﹁ウキョウに、フィンクスだっけ。君たちの動きは、見ていて面白
かったよ。本当は眷属の端に加えてあげたいけど︱︱﹂
ぱしぱしと、俺がかぶっている、卵型の兜を叩きながら、にこや
かに微笑む。
﹁この子には、君たちの首がいるんだ。ばいばい﹂
二人は、後ろに跳んで武器を構えなおすが︱︱細い、一筋のつむ
じ風のようなものが、ウキョウとフィンクス、二人の首をあっさり
と刈り飛ばした。
風属性の魔法をどう操ったのかはわからないが、ウキョウとフィ
ンクスの首は、ころころと地面を転がって俺の前で止まった。
首を失った二人の死体は、斬り口から血を激しく吹き出させなが
ら、前のめりに倒れこんだ。
﹁んん。いいよね、これ﹂
血しぶきを全身に浴びたいとばかりに、両手を広げて、くるくる
251
と回る。
﹁その感性はないわ﹂
俺は、寝転がったまま感想を呟く。起き上がろうとしたが、かろ
うじて死なない程度の傷しか治っていないらしく、どこかを動かす
たびに身体の内側にヒビが入るような感覚がある。
﹁さて、本当は長々と話し込んでいたいんだけれど、残念なことに
あまり時間がないんだ。私は、ジルの瞳に溜まったマナを使って作
られた、いわば分身のようなものでね﹂
﹁俺の瞳︱︱?﹂
俺は、チェルージュが現れる直前のことを思い出す。俺の瞳から、
どろどろとした濃いマナが溢れ出ていって、それはやがてチェルー
ジュの姿を成したのだ。
﹁俺は、助かったのか?﹂
﹁そう、私が助けたの﹂
再度、両手でピースを作るチェルージュである。
﹁そんなわけで、もう少しで私は消えてしまう。ジルが強くなれば、
瞳に溜まるマナも増えるから、量次第では私の本体がこっちに来れ
るようになるかもね﹂
そよ風が、俺の頬を撫でる。俺は、生き残ったのか?
252
﹁未だに、実感がないよ。ウキョウも、フィンクスにも俺は手も足
も出なかった﹂
﹁直前までジルの瞳を通して見ていたよ。彼らはいい人間だった。
強くなるために努力し、知恵を働かせて同族すべてを敵に回して戦
っていた。眷属にしたかったっていうのは嘘じゃないよ。彼らは優
れていた﹂
﹁あの館にいる時のお前、どれだけ強いんだ、チェルージュ﹂
ウキョウも、フィンクスも、ベテラン冒険者と呼べるほどの実力
者だったはずである。それが、身動き一つせずに、首を飛ばされた。
﹁だから言ったでしょ、私は強いって﹂
えへん、と慎ましい胸を張るチェルージュである。
﹁そんなことより、あっさり死にすぎだよジル。無茶しなくても、
言ってくれれば魔石ぐらい届けたのに﹂
マイペースに喋るチェルージュを前にすると、色んな不条理を問
い正す気力も、
様々な疑問を聞く余力も、たちまち消えていってしまう。
﹁来てくれるかどうかわからなかったんだ﹂
﹁人間のそういうところが、吸血鬼の私にはよくわからない。より
強大な力にすがれるなら、とっとと助けを求めればいいのに。私が
見ていることはわかってたんでしょう?﹂
253
﹁見てるかもしれないとは思ってたけど、見てないかもしれないと
も思ってた﹂
﹁よくわからないよ。でも、エマちゃんだっけ? 彼女たちを買う
って決めた、不合理としか思えないジルの決断を見ていたら、私に
も半分流れている人間としての母さんの血が、人間とはそういう不
完全な存在で、だからこそ愛おしいって訴えかけてくるんだ。そこ
が見ていて飽きないんだよね﹂
何を納得したのかはわからないが、うんうんとチェルージュは頷
いている。
﹁馬車のあたりにいる盗賊はやっといてあげるよ、またね﹂
﹁ああ、またな︱︱って、ひょっとして俺が死ぬような傷を負った
ら、チェルージュがまた来るのか?﹂
﹁瞳にマナが溜まってさえいれば、そうだね。どうだい? 死なな
い身体になった気分は。そう、まるで吸血鬼みたいに!﹂
天空に向けて、両手を広げるチェルージュである。
全身から躍動感が溢れ出ていて、傍から見ている分にはとても嬉
しそうだ。
﹁悪くはないが、良くもないな。一回死ねば終わりっていう、生物
の宿命を無視してる。なんだかズルしてるみたいだ﹂
一度、俺は死んでいたはずだ。もちろん、助けられたことは素直
に嬉しいが、何となく釈然としない気持ちも残っている。
254
﹁人間の言葉を借りると、自分の力だけで生きていける奴なんてい
ない、でしょ? 私みたいなすごいのに気に入られて運がいいって
考えなきゃ﹂
﹁本人から言われると複雑な気分だが。まあ、なんだ。助かった。
ありがとうな﹂
﹁うん、それでいいんだよ。じゃあまたね、私に会いたくなったか
らってわざと死なないようにね?﹂
そこだけは妖艶に、片目をつむったチェルージュの全身がうっす
らとぼやけ始める。やがて空気に溶けるように、彼女の姿は影も形
も消えてなくなっていった。
姿が完全に見えなくなる寸前に、チェルージュはぱちん、と指を
鳴らした。
馬車の方で絶叫があがったかと思うと、ややあってから空を何か
が飛んできた。
﹁おい、まさか﹂
まさかであった。残り七人の賊、そのすべての首だけが飛んでき
て、ジルが座っている地面の目の前に、まるで薪を積むようにどす
どすと転がった。どうやったのか、首は散らばることなく、きれい
にひとまとまりになっている。
どっと疲れが襲ってきた。
255
はあ、と溜息をつくと、面頬をあげたシグルドと目が合った。何
とも言えない表情をしている。
﹁加護持ちだったのか、若いの﹂
﹁こんな加護だったなんて知らなかったんだ。騒がれるのも好きじ
ゃないんで、できれば内密にしといてもらえると﹂
﹁それは、命の恩人の言うことだ、約束しよう﹂
立ち上がろうとするも、内臓が軋んだ。何かが破れたような感触
とともに、喉元に血がこみ上げてきて、少し吐いた。
﹁あだだだだ﹂
レッサーポーション
ここで死んだら喜劇である。ベルトのポーチから低級回復薬の小
瓶を取り出して、急いで飲み干す。血の味がした。
﹁というか、この首、全部運ばないといけないのか﹂
目の前に積み上げられた、九人分の生首を見ながら嘆息する。何
が起きたかわからないまま死んだのか、嬉しそうに舌を出したまま
の奴もいて、何だか申し訳ない気分になる。
﹁シグルド、分配はどうする? 多分、生き残ってるの俺ら二人だ
けだろう。金が入用な事情があるんで、賞金は折半にしてくれると
助かるんだが﹂
﹁駆け出しの狩った獲物をくすねるほど腐っとらん。参加報酬も、
256
二人しか残ってなければいい額であろう。俺はそれでいい、残りは
全部持っていけ﹂
﹁マジか、シグルドは太っ腹だな。フィンクスの首だけでも記念に
ダマスカス
プレートメイル
持ってくか? 長いこと戦ってただろ。鎧の修繕費用もかかるんじ
ゃないか?﹂
ハルバード
ポーション
戦斧の一撃で、ばっさりと横に斬り割られた魔鋼の板金鎧を見な
がら俺が提案すると、ぐびりと回復薬を飲みながらシグルドは首を
横に振った。
﹁いらんよ、金が目当てで参加したわけでもなし、金に困ってるわ
けでもなし。雑魚の端金なんぞ貰ってもしょうがない、賞金首の頭
割り報酬もいらん、全部持ってけ。駆け出しのくせに遠慮なんざ二
十年早い﹂
﹁そっか。有難く貰うよ。借金返すのに必死でな﹂
すべての首の兜を脱がし、髪を掴んで持ち上げる。思いの他、重
かった。
馬車まで首を運ぶと、三人の御者は一まとめにして殺されていた。
賊の下っ端がやったのだろうか。真ん中の馬車を覗くと、商人は生
きていて、首のない賊の死体を目の前にして、震えていた。
テリング
﹁馬は生きておるが、御者が死んだか。もう少し待てば、念話の指
輪で連絡した俺の仲間が来る。そいつらが来てから、ひとまずは帰
るということでいいな?﹂
俺に異存はない。商人も、怯えるようにこくこくと頷いた。
257
青空を見ながら、一仕事終えた解放感に浸ることしばし。
﹁シグルド!﹂
二台の馬車が到着し、戦闘態勢の冒険者が、続々と飛び出してき
た。
メイジ
フィンクス達が使っていたのと同じ銀色の皮鎧を装備した、マン
トととんがり帽子の魔術師らしき女性が、座り込んでいた俺たちに
駆け寄ってくる。
﹁おう、マーサ。早かったな。見ての通り、全部終わっておるよ﹂
﹁一人で行くなんて無茶をして。みんな心配したのよ!?﹂
﹁その話は後にしよう。御者が全滅してな、帰ろうにも帰れなかっ
たところだ。それと、この若者に命を助けられた。汚れ仕事ですま
シルバーサーペント
んが、賊の装備を剥いでこいつにくれてやってくれ。ウキョウもフ
ィンクスも、こいつが首を取った。やつら、銀蛇の皮鎧を着ていた
からな、防具も金になるであろう﹂
﹁嘘でしょ!?﹂
レザーアーマー
鼻尻や目元に、年齢を感じさせるわずかな皺を寄せた魔法使いの
女性は、俺の装備を見て驚愕する。それもそのはずで、ただの皮鎧
を着た俺は、駆け出しの冒険者にしか見えないだろう。
命の恩人だと言ったであろう、失礼だぞ、などとシグルドが苦い
顔で言う。
258
﹁ごめんなさい、取り乱したわ。私はマーサ・フェルッカ。ギルド
﹃アウェイクム﹄のマスターよ﹂
﹁ジル・パウエルだ。シグルドのおっちゃんには、ずいぶん助けて
もらった﹂
﹁ジルというのか、お前さん。ジルと約束したんでな、詳しくは言
えんがこいつは加護持ちだ。ウキョウとフィンクス、それと半数以
上の賊はこいつが仕留めた。目立ちたくないらしいので、ギルド内
で口留めしてくれ﹂
﹁まさか︱︱でもあなたが言うなら本当なんでしょうね。どれほど
強大な加護なのか興味は尽きないけれど、聞くのは野暮かしら。ど
んな魔物から貰ったのかは聞いてもいい?﹂
返事がわりに、俺は肩口の血痕を触って、血の紋章を起動させた。
これを見れば、朱姫の加護という一文が見えるだろう︱︱
あれ?
︻名前︼ジル・パウエル
︻年齢︼16
︻所属ギルド︼なし
︻犯罪歴︼0件
︻未済犯罪︼0件
エルダーヴァンパイア
﹃始祖吸血鬼の加護﹄
259
俺も、覗き込んでいる二人も、目が点になった。
260
第十八話 奴隷 その4
エルダーヴァンパイア
︵始祖吸血鬼、ねえ︶ 加護の名前が変わったことは確かに重要だったが、さしあたって
俺には別の大きな用が控えているので、考えるのをやめた。どのみ
ちギルド﹁アウェイクム﹂の面々には口止めをしてあるから騒ぎに
はならないだろうし、せいぜいチェルージュって吸血鬼のお偉いさ
んなんだな、と深くもない感慨にふけるぐらいである。
名前が変わったのは、加護を一度でも発動させたことが原因なの
だろう。
シグルドに半分持って貰ったが、それでも血まみれの首を両手に
ぶら下げながら、テントの立ち並ぶ商業ギルドの取引所に入場した
俺には、奇異と忌避の視線が集中した。
一時は、過半数の取引が停止して取引所に少なからぬ混乱が起こ
ったが、街への入場時に紋章を確認して犯罪歴がついていないこと
を確認した衛兵が一人付いてきてくれたので、何とか賞金首の持参
であることが伝わり事なきを得た。
﹁買取っていうのも変だが、賞金首を討伐した。持ちこみはここで
いいのか?﹂
普段は訪れる人間とていない、奥の方の小さなテントには、前触
れがあったのか、熟達の貫禄があるおっさん︱︱商業ギルドの職員
が待ち構えている。
汚れ一つない銀色のトレイに生首を置くという行為は、なんだか
261
躊躇われるものがあった。
﹁名前と額を確認する。ちょっと待ってな﹂
商業ギルドの職員は慣れた手つきで、生首の切断面から血粉を採
取し、水と混ぜ合わせてから血の紋章とよく似た乳白色の板に押し
付ける。すると、銀板はすぐさま赤く染まり、黒い文字が浮かび上
がってきた。
﹁こいつは﹃槍の﹄フィンクスか。未済犯罪は182件、随分罪を
犯したもんだ。賞金額は2,500,000ゴルド。﹃鬼才﹄ウキ
ョウのもあるな。こっちは未済犯罪が113件、賞金額は200,
000ゴルドだ。こいつら組んでやがったのか。まったく別のヤマ
で賞金がかかったはずなんだが。同じギルドに所属してるな﹂
フィンクスの賞金額を聞いて、内心飛び上がって喜びたい気持ち
を抑える。
シグルドに譲ってもらったようなものだし、そもそも実際に倒し
たのは俺ではなくチェルージュだ。
﹁多分だが、ウキョウの方が頭目だったぞ。フィンクスが目立って
たが、賊の指揮とかはウキョウが執ってた。話し方も、同格っぽい
感じだったな。それより、賊なのにギルドって作れるのか?﹂
﹁いや、未済犯罪があると作れない。登録時にメンバー全員の犯罪
歴を確認するからな。綺麗な身の上のときにギルドを作って、街の
外に出ていったんだろう。フィンクスたちのギルド︱︱﹃赤﹄って
名前だな。今じゃ盗賊団だから、﹃赤の盗賊団﹄って呼ぶか。ギル
ドに所属しているのは数人だけだな。他は全員、無所属だ﹂
262
﹁仲がいいパーティでギルドを立ち上げて、街の外に出て拠点を構
築。その後、人数を増やしていった、ってところか﹂
﹁そんなところだな。ギルドストーンは冒険者ギルドで管理してる
から、街に入れないとギルドには新たに参加できないからな。それ
にしても、﹃鬼才﹄ウキョウが頭目か。犯罪数の割に賞金額が低い
のは、よほどうまく立ち回ったんだろうな﹂
﹁賞金ってどうやって設定してるんだ?﹂
﹁そいつの仕業だと犯罪が露見したときに、冒険者ギルドがヤマの
大小とか残虐性、討伐難易度とかを考慮して設定してる。ウキョウ
の場合は、奴が手を下したと判明してない犯罪が多かったから、賞
金は低めだな。まあ、気を落とすな﹂
﹁いいさ。フィンクスがいい金になった。シグルドもありがとな﹂
﹁お前の手柄だ、胸を張って受け取るがいい﹂
﹁他の盗賊団のメンバーには、ほとんど賞金が付いていないな。﹃
赤﹄のギルドネーム持ちで、三名だけ小額の賞金がついてたが。そ
れ以外はただの犯罪者の首になっちまうから、一律10,000ゴ
ルドだな。待ってろ、今フィンクスとかのも合わせた全部の賞金額
を出してやる︱︱3,150,000ゴルドだ﹂
﹁おお、そんなになるのか!﹂
ロングソード
残り目標額の4,000,000ゴルドまで、あとわずかである。
ウーツ
鍛冶屋のダグラスは、鈍鋼の長剣一本を作るのに500,000
263
ダマスカス ロングスピア
ゴルドかかると言っていた。盗賊から剥いだ中古の装備のため売値
ハルバード
はいくらか下がるだろうが、フィンクス達が使っていた魔鋼の長槍
や戦斧などを売れば、エマたちの身請け代金を捻出できそうである。
﹁それにしても、ギルド﹃アウェイクム﹄の面々が揃い踏みだって
いうのも剣呑としてるが、本当にその若いのが﹃赤の盗賊団﹄のフ
ィンクスとウキョウを倒したのか?﹂
レザーアーマー
悪意はなかったが、訝しげに俺を見てくる買取のおっちゃんであ
る。
無理もない。駆け出し然とした、ただの皮鎧を身につけた俺のよ
うな奴が熟練の賞金首を倒したと言っても、俄かには信じられまい。
﹁ギルドの名前と、全ての属性神に誓って事実である。ウキョウと
フィンクスを含め、賊の半分ほどはジルが討伐した。この数字に一
切の嵩増しなんぞしておらん﹂
﹁そこまで言うなら本当なんだろうな。驚いたもんだ﹂
腕を組みながらしきりとうんうん頷く商業ギルドのおっちゃんで
ある。
﹁ジルさん! 無事でしたか!?﹂
大声に振り向くと、ディノ青年が息せき切って走りこんできてい
た。
﹁お、ディノ、おいっす﹂
﹁冒険者の生存者がたった二名だと聞きました。最悪の結果を予想
264
していたんですが、よくぞご無事で︱︱!﹂
﹁紆余曲折あったが、最高の結果で終われたぞ。借金は返せそうだ、
明日にでも盛大に奢らせてくれ﹂
賞金首の買取カウンターに並んだ首や、﹁アウェイクム﹂の面々
を見回して、ディノ青年は深く安堵のため息をついた。シグルドが
今回の討伐成果を教えてやると、絶句して目を白黒させていた。
﹁朱姫様に助けられて、な﹂
その一言で、ディノ青年はようやく納得したようだった。
﹁それより、﹃赤の盗賊団﹄から剥いだ装備を売りたいんだが︱︱﹂
﹁鯨の胃袋亭﹂の階段を上がり、自室へと続く扉をノックする。
たった半日離れただけなのに、多くのことが起こりすぎて、やけ
に懐かしく感じられる我が部屋である。
﹁帰ったぞー﹂
お帰りなさいませ、と出迎えてくれたエリーゼの言葉は、尻すぼ
みに消えた。
﹁お怪我を!?﹂
少女たち三人の表情が、驚きで固まっている。無理もなかった、
265
ウキョウの戦斧で右肩から左腰まで斜めに切り割られた皮鎧はぱっ
くりと割けており、断裂面の周囲はおびただしい血痕でどす黒い。
﹁大丈夫だ、治ってるから。といっても、このなりじゃ出歩けんな。
すまんがエリーゼ、ちょっと下まで行って、湯と布をもらってきて
くれるか?﹂
かしこまりました、と叫びながら階下に走っていくエリーゼの後
ろ姿を眺めつつ、俺は装備を外す。皮鎧の大きなパーツは普通の衣
服のように着脱できるが、紐や止め具で固定する外付けの部分は脱
ぐのがちょっと手間だ。
﹁持ってきました!﹂
普段より大きめの木桶と、何枚もの布を抱えたエリーゼが戻って
くる。何やら血相が変わっていた。
﹁下着一丁の姿を見られるのは恥ずかしいので、そっちを向いてて
くれると﹂
﹁何を言ってるんですか! 早く脱いでください!﹂
﹁あ、はい﹂
それどころじゃない、とばかりのエリーゼの剣幕にたじたじとな
クロースアーマー
り、少女達の前での脱衣を強要されてしまう。皮鎧をすべて脱ぎ、
真っ赤に染まった上半身の布鎧も脱ぎ捨てると、血糊でべったべた
になった半裸男の完成だ。
肩から腰にかけて刻まれた、深い傷に息を飲む少女達。
266
なんだろうこの羞恥プレイは、などと心で泣きながら、湯をしみ
こませた布で上半身を拭う。
﹁エリーゼ、いいよ。自分でできるから﹂
﹁早く下もお脱ぎになって下さい!﹂
﹁あ、はい﹂
エリーゼの剣幕に押され、腰まわりはやはり血に染まった下半身
の布鎧もしぶしぶ脱ぐ。いわゆる短パン一丁の男というものは、何
とも切ない。
﹁すいません、ちょっと最後の一枚は勘弁して頂けると﹂
おずおずと申し上げた陳情を聞き届けた様子はなく、みんなも!
というエリーゼの号令の下、はっとなったエミリアばかりか、なぜ
かエマまでが布を手に取り、たどたどしい手つきで俺の身体を拭き
始めた。
三人の少女達に全身を拭かれる。ここで堂々としていれば、まだ
しも女性に世話をさせている男性然として格好が付くのかもしれな
いが、現実はただ恥ずかしいだけであった。
﹁ねえ、この傷は、今日?﹂
胸元の傷まわりを拭きながら、エミリアが怖るおそるといった体
で聞いてくる。
﹁ああ。傷付いてからしばらく回復薬が飲めなくてな。まあ男の勲
267
章みたいなもんだ﹂
レッサーポーション
あの後、残っていた手持ちの低級回復薬を飲んだが、効果が足り
ず、完治には至らなかった。シグルドもフィンクスとの死闘で回復
薬を使い果たしてしまっていて、譲り受けることができなかったの
だ。
ヒール
瞳に溜まった分以外に、俺のマナまでチェルージュは根こそぎ持
っていったらしく、治癒を詠唱したくともマナが足りなかった。遅
れて駆けつけた﹁アウェイクム﹂のマーサに治癒をかけてもらって
傷を完全に治した時点では、身体に定着して傷痕は消えなくなって
しまっていたのである。
この傷痕は、歴戦の冒険者じみていて、正直格好いいと自分では
思っている。
﹁本当に、無茶はなさらないでくださいね﹂
﹁一回だけはまあ、見逃してくれ。そうでもしないと目標が達成で
きなかったし。ああ、もういいぞ﹂
下着姿に耐え切れなくなったので、強引に切り上げいそいそ普段
着に着替える。
忘れないように金貨のつまった袋を懐に入れ、俺の身体を拭いて
汚れた三人の手を木桶に残った湯で洗わせる。
﹁前もこの時間だったし、多分まだやってるだろ。ちょっとみんな
で出かけよう﹂
268
﹁この時間からどこかにお出かけですか? かしこまりました﹂
ぞろぞろと、四人で連れ立って外に出る。時刻はちょうど、夜の
飯時である。
途中、階下の酒場に顔を出し、四人分の食事の確保と、明日から
正規の値段で大部屋を借りたい旨を﹁鯨の胃袋亭﹂のドミニカに伝
えた。
身体を清めて、普段着に身を通した肌に、夜風が気持ちいい。
酔客や、迷宮帰りの冒険者もちらほら見受けられる中、俺たちは
黙々と歩く。
﹁その、どこへ行かれるのですか?﹂
﹁まあ、いいからいいから﹂
しばし歩いた後、歓楽街へと到着した。目的地である奴隷商人の
店は、すぐそこである。
﹁よし、ついたっと︱︱うおっ!?﹂
喜色満面、後ろを振り向いた俺は、エリーゼとエミリアの、ぱっ
と見でもわかるほどの暗鬱な表情に驚いた。
﹁やはり、私たちは返品されるのですね。ご主人様と過ごした日々、
厚遇して頂いたことは忘れませぶしっ﹂
語尾が面白かったのは、俺のデコピンが軽やかな音を立ててエリ
ーゼの額を弾いたからだ。額を抑えながら涙目のエリーゼである。
優等生な彼女の面白語尾は、かなり俺のツボに入ったのは内緒だ。
269
﹁これはこれは︱︱! ジル様、ようこそお越しに。ささ、どうぞ
こちらへ﹂
店に入るなり、慇懃な奴隷商人が揉み手をしながら出迎えた。耳
通りのいい声だからこそ、不快感がいや増す。
エール
前回と同じ、ふかふかのソファにどかりと腰をかけると、奴隷商
人はせわしなく麦酒を出してきたり、つまみを従業員に申し付けた
りしていた。
﹁さ、本日はどういったご用件でしょうか﹂
こ
﹁この娘たち三人の、分割払いにしてた代金だけどな﹂
﹁これはこれは。娘たちが何か粗相でも致しましたでしょうか﹂
﹁いや、粗相とかではなく︱︱﹂
そこまでは、俺は平静を装っていた。だが、奴隷商人が三人をじ
ろりと見た瞬間、エマたちはびくりとし、その様を見ていた俺も、
怒りで眉間に皺が寄るのを自覚した。
﹁エミリアか、エマか? お前達、大事なお客様に何をしたのか言
ってみろ。え?ジル様がお怒りだろう。申し訳ありませんね、ジル
様。私どもの躾が足りませんでしたでしょうか。もしかしますと、
代金の値引きをお求めだったり? もしご不満がおありでしたら、
ええと、何でしたら一度奴隷達を引き取りまして、再度、躾を施さ
せて頂きますとも。その間は日割りの代金などもお勉強させて頂き
ますし︱︱﹂
270
﹁黙れ﹂
俺と奴隷商人を挟んでいる机を、膝で蹴りつける。木の机が立て
た大音に、奴隷商人は口を開けたまま固まった。
俺は懐から小袋を取り出すと、中から500,000ゴルドの大
金貨を八枚取り出して、机に並べた。
﹁分割で払うことになっていた残りの代金、4,000,000ゴ
ルドだ。今すぐ、三人の本契約を俺に移せ。それと、今日この店を
出た瞬間から、この三人は俺の家族だ。今まで通りの態度を取った
ら許さんぞ? うちの三人とお前は、出会ったこともない赤の他人
ということにしてもらおうか﹂
事態の把握に脳が追いついていないのか、奴隷商人は口をぱくぱ
くさせている。
﹁よーし、料理は並んだか﹂
エマたち三人の本契約を完了させた俺たちは、まっすぐ宿に戻っ
てきた。
エマ達の首に嵌っていた仮契約の首輪は、俺に命令権のある本契
約の首輪へと付け替えられている。本音を言うと取り外してしまい
たかったのだが、奴隷はその身分を表すためにも、隷属の首輪の着
用が義務付けられているので、こればかりは仕方がなかった。
271
﹁忘れないうちにやっておこうか。﹃命令﹄﹃条件﹄﹃処罰﹄﹂
俺が言葉を発すると、三人の首輪がうっすらと青く光る。これが
所持している奴隷に命令や条件付けをさせる、隷属の首輪、本来の
機能らしい。何でも、俺の言葉そのものを正式な契約として首輪に
認識させるのだとか。
﹁﹃命令﹄、特になし。自由に動いて良い。﹃条件﹄、犯罪に抵触
しない限り、一切の禁止事項をなくす。﹃処罰﹄、隷属の首輪に組
み込まれた、一切の処罰、懲罰用の機能は働かないものとする。﹃
更新﹄﹂
説明書としてもらった一枚の紙を見ながら、首輪の機能をいじっ
ていく。 俺が更新、と言った瞬間から、首輪から発せられていた青い光は
収まり、消えた。これで、俺が再び首輪の前で条件を変更しない限
り、少女たちは首輪の影響を受けずに過ごすことができる。
俺以外の誰にも、もはや彼女たちを縛ることはできないのだ。
ジュース
﹁葡萄の絞り汁も並んだか?﹂
今まで俺たちが過ごしていた部屋から移ってきて、ここは大部屋
である。今日から正式にここで暮らすことになるのだ。
本当はここをエマ達三人の専用部屋にし、俺は今まで通りの小部
屋で寝起きする予定だったのだが、二部屋も借りる宿泊代金がもっ
たいない上に恐れ多いというエリーゼの強硬な態度に俺が折れた。
今日からここで、俺は少女達と生活を共にすることになる。ちゃ
272
んと寝れるだろうか、俺。
というのも、家に帰ってきてからというもの、エマがずっと俺の
袖を掴んで離さないのである。一体どうして懐かれたのか、今も料
理が所狭しと並べられた横長の大机の前に、俺と椅子をぴたりくっ
つけて座っている。
﹁エマ、飯が食いにくいのだが﹂
﹁ん﹂
ようやく袖を離してくれたと思ったら、今度はさらに椅子を寄せ、
エマの右半身と俺の左半身をぴたりとくっつけてくる。
飯の食いにくさという点では大差ない気がしているが、エリーゼ
がそれはもう満面の笑顔で、エミリアも珍しくご機嫌ににこにこ笑
いながらエマを見守っているので、無理に引き剥がすのはやめるこ
とにした。
﹁飲み物よし、食事も食いきれないほどある、と﹂
パーティ
大部屋一ヶ月分の金を前払いした上で、迷惑をかけたことを詫び、
いいことあったから宴会用の食事作ってくれ、と頼んだところ、ド
ミニカは事のほか上機嫌で料理を作ってくれた。
その料理がいま、ベッドほどに大きい横長の机に、色とりどりに
並び、湯気を上げて食べられるのを待っている。
﹁じゃあ、食う前に簡単に乾杯だけ、な﹂
この世界にも、酒を飲み始める前の乾杯の風習はある。
俺が、麦酒の樽を持つと、エリーゼとエミリアも葡萄ジュースの
273
入った樽を持つ。すぐ横のエマには、みんなで乾杯をするんだよと
俺が教えてある。
﹁今まで色々あったかもしれないけど、今日から俺たちは家族だ。
仲良くやろう。今日はそのお祝いだ。ひたすら飲んで食って騒ごう。
乾杯!﹂
﹁﹁乾杯!﹂﹂
喉によく冷えた麦酒を流し込むと、炭酸が心地よく喉を焼く。宴
会は夜通し続き、いつまでも笑顔が絶えなかった。
274
第十九話 四人
三人の少女を家族にしてから、俺の生活は劇的に変わった。
まず、ほとんどの日において、エリーゼの﹁おはようございます、
ご主人様﹂から一日は始まる。寝たいときに寝て、起きたいときに
起きるという自堕落な生活は、エマたちと共に暮らすなら改めるべ
きであったので、彼女たちと相談の上、家族を起こすのはエリーゼ
の担当になった。
能力の高い人間が仕事を押し付けられるのは、世の常であるが、
エリーゼばかりに負担をかけてはいられないという俺の意志もあっ
て、当初は持ち回りの当番制にした。
ところが、エミリアが時間になっても起きてこなかったり、時間
になっても寝ている俺のベッドにエマが潜り込んでくる事件が多発
したため、なし崩し的にエリーゼが専任することになったのである。
値段が高かったので手を出していなかったが、細工ギルドで作ら
れている、目覚まし機能つきの水時計を買うことをそろそろ真面目
に検討した方がいいかもしれない。
赤の盗賊団の一件があってから、エマはすっかり俺に懐いた。
相変わらず表情の変化は乏しく、言葉も少なめであったが、最近
では何となく喜怒哀楽も読めるようになってきた。もっとも、エリ
ーゼとエミリアの二人は、エマの表情を見ただけで彼女が何を言い
たいかわかるらしく、エマがちょっと視線を動かしただけで、彼女
の求める物を差し出してやったり、﹁そうね、そろそろお昼ね﹂な
275
どと言っていたりする。 ︵しかしなあ、あれは困る︶
エマとの距離の近さに、正直なところ、かなり戸惑っているのだ。
初めてベッドの中に潜りこんでこられた時は、少なくない混乱が
あった。みんなが寝静まった深夜に、なにやらもぞもぞと布団の中
で動く感触があったかと思うと、人の重みを感じたのである。一瞬
で覚醒した。
暗闇で顔がわからなかったが、ここのところ距離が近かったので、
すぐに匂いでエマだ、と気づく。定期的に風呂に行かせているので、
清潔なエマからは、淡いながらも脳をくすぐる異性の匂いがした。
じいっ。
どう声をかけていいのか、何をしにエマが布団に来たのかもわか
らぬまま、暗闇の中で見つめあうことしばし。
俺の胸元に顔をうずめながら、エマは寝息を立て始めた。
︵ちょっと︱︱!?︶
まだ朝までは時間がある。つまり、しばらくはこの状態でいなけ
ればならない。
すうすうと寝息を立てるエマを追い出すかどうか真剣に悩んだが、
一回ぐらいならば、とそのまま寝かせることにした。
結果から言って、これは失敗だったといえよう。
同じ部屋で三人の少女と寝起きするという環境上、俺は禁欲生活
を強いられていた。早い話が溜まっているのである。
276
まだ幼い少女とはいえ、第二次性徴とともに成人と見なすこの街
の法においては、エマはもう成人であった。食事環境が改善された
今、痩せぎすだったエマの身体には少しずつ肉がついてきており、
ちゃんと女の香りがするのである。
その上で、俺の胸に顔をうずめているということは、それなりに
身体も密着しているということで、思わず反応してしまった俺の下
半身を誰が責められるというのだろうか。
端的に言って生殺しである。
下半身の状態をエマに悟られぬよう、腰だけを後ろに引き、まん
じりともせず一夜を過ごした。寝返りもできない不自由な態勢で朝
まで過ごすという行為が、多大な心的疲労を俺に強いたことは説明
するまでもあるまい。
翌朝、いつものように、誰よりも早くエリーゼは起きてきた。
ベッドにエマがいないことを見つけ、ついで俺の状態に気がつく
と、﹁あらあらまあまあ﹂と満面の笑顔を浮かべる。こっちはそれ
どころではないので、アイコンタクトで何とかしてくれと訴えるも、
﹁甘えさせてあげて頂けませんか?﹂と予想外な台詞が返ってきた。
んぅ、などと寝声を立てるエマの頭を撫でながら、﹁親の愛情を
受けたことがなかったでしょうので﹂とエリーゼに言われてしまっ
ては、もはや手詰まりである。 それからも度々、エマの侵入を受
けている俺のベッドであった。
顔を洗って朝の食事が終わると、各人の行動は分かれる。
277
エマとエリーゼは、商家出身のエミリアに読み書きを教わってい
る。これは俺の発案であった。何も言わなければ、エリーゼは家計
の足しになるべく鯨の胃袋亭の皿洗いを手伝いに行ったり、冒険者
ギルドに赴いて日雇いでできる作業を探してきかねないので、こう
して文字を覚えさせている。 出版技術の低いこの街では、本というものはそれなりの高級品な
ので、教材は俺が商業ギルドで買った魔物シリーズ図鑑の序章を流
用している。毎日勉強の時間を取るという発案はエミリアに好評だ
ったし、エマ・エリーゼの両名も、知識が増えるということで積極
的に覚えようとしているようだ。
朝の勉強は三時間ほど続き、その後、彼女たちは昼飯の時間であ
る。俺が迷宮にもぐっている間も、彼女たちは昼飯やら何やらで金
が必要なので、会計係もエミリアにやってもらうことにした。昼食
費とお小遣いも込みで、一日1,000ゴルドずつ、彼女たちに渡
している。
﹁ジル、余ったお金はどうすればいいのよ。これだと1,000ゴ
ルドぎりぎりの良い物を食べた方が私たちが得じゃない。あんたの
ところに返すために節約するなんて嫌よ﹂
最近は、このエミリアの独特の言い回しにも慣れてきた。
要約すると、﹁ジルの出費がかさむし、高い物を食べると気後れ
するからそっちで指定してよ﹂という彼女なりの気遣いなのである。
﹁好きな物食ってくれて構わんぞ。そもそも余った金はお前たちの
小遣いだ。飯を減らして金を溜めるも良し、奮発してちょっといい
物を食おうが、おやつを買うのに使おうが自由だ。返さなくていい﹂
278
エミリアは信じられない、とでも言いたげである。
﹁奴隷の私たちに給料を出すってこと?﹂
最近では、エミリアの驚愕ポイントもわかってきた。エリーゼは、
風呂に入らせたり、ちゃんとした食事を与えるなど、普通の奴隷と
違って待遇が良いことに驚くことが多いが、エミリアは自由を与え
ると驚く。
自由時間を与えたり、小額とはいえ好きに使える金が手に入ると
いったことが、商家出身の彼女にとっては抜群の待遇に値するもの
であるらしい。
﹁給料ってほど大した額でもないがな。俺の洗濯物とか部屋の掃除
もみんながやってくれてるし、その報酬みたいなもんだ。エミリア
は、最低限の食事をみんなが取ってるかと、金銭の管理を頼む。飯
代を浮かせるのはいいが、完全に抜くのはダメだ。ちゃんと一日三
食しっかり食わせて欲しいのと、もし余った金を溜めたいとか、持
ち歩かずに預けておきたいってなったら、エミリアが責任持って管
理してくれ﹂
﹁本当に、返さなくていいのね?﹂
﹁いいぞ。エミリアの管理に口は出さないから、金の保管場所とか
も俺に一切話さなくていい。ただし、額の間違えとかがないように、
しっかり頼む﹂
﹁わかったわ。みんなのためだもの、任せなさい﹂
つんけんしている態度は変わっていないが、少し顔が紅潮してい
279
る時は喜んでいるときのサインである。今は、かなり喜んでいると
きの顔だ。
そんなエミリアであるが、一度だけ、エリーゼの大きな雷を落と
された。
﹁エミリア、もういい加減、子供でいるのはやめなさい。ご主人様
の誠意は伝わっているのでしょう? ご主人様が許しても、あんた
呼ばわりは許しません﹂
例によって、エミリアの態度を見過ごせずにエリーゼがお説教を
している図だ。
﹁本人がいいって言ってるんだからいいじゃない﹂
﹁私にそれが通じると思ってるわけではないでしょう? 甘えたい
なら、ちゃんと甘えたいと言いなさい。ご主人様が奴隷ではなく家
族だと仰ってくれているのは、本来はありえないことです。もしそ
の厚意を受け取ったのだとしても、家族の長であるのはご主人様で
す。普通の家庭だって、あんた呼ばわりされている家長なんていま
せん。あなたはもう少し甘え方を覚えなさい﹂ 甘えというか、エミリアのつんけんした態度は、﹁ここまでした
のに怒らないのかな?﹂﹁どこまで許してくれるのかな?﹂という
探りのような物だと思っているので、慣れてしまえば可愛いもので
ある。悪戯をして、怒られないかこっちの反応を見る仔犬のような
ものだ。
280
﹁わかったわよ、あんた呼ばわりをやめればいいんでしょ。ジル。
今日からはジルって呼ぶわ﹂
ぶすーっとしているエミリアとは裏腹に、エリーゼの怒りは加速
しそうであったので、さすがに止めに入った。
﹁納得がいきませんが、ご主人様がそう仰るなら﹂
と、エリーゼが矛を収めるところまでいつもの流れである。
まあ、それ以来、俺はエミリアから名前で呼ばれることになった。
たまにあんた呼ばわりが復活するのはご愛敬である。
さて、そんなエマたちは昼飯を食い終わったら自由時間だが、俺
は朝飯を食ったらすぐに迷宮に潜ることにしている。
晩飯は一緒に食いたいと思っているので、俺は夕方までには狩り
を切り上げることにしているので、朝飯の後から、夕方までが俺の
狩りに当てられる時間になる。
赤の盗賊団の頭目、ウキョウの一撃によって皮鎧が修復不可能な
ほどに斬り割られたので、今は下っ端の盗賊たちが使っていた鋲皮
鎧を着用している。体臭や血痕が染み付いていたのには閉口したが、
泡油樹を溶かした水に数分漬け込んでから丁寧に布で拭ったところ、
ある程度の改善があったのだ。
俺の身体にちょうど合うものを選んで着こんでいるが、仕立屋サ
フランの女将に確認したところ、サイズが違う鋲皮鎧でも、少し時
間をもらえれば俺に合わせて手直しができるということで、予備の
鎧もしばらくは必要なさそうだ。
281
戦利品で手に入れた武器防具のうち、武器はすべて売った。中古
ダマスカス
ロングスピアハルバード
とはいえ、主に対人で使われていたせいか痛みが少なく、ウキョウ
ブロードソード
とフィンクスが使っていた魔鋼製の長槍と戦斧の二本だけで、2,
000,000ゴルドもの大金になった。
他にも、下っ端の盗賊たちが使っていた弓矢や、帯広剣なども売
ったので、エマたちを買う代金の足しにしたり、鯨の胃袋亭の逗留
費を一月分前払いした分を差し引いても、およそ1,000,00
0ゴルドほど、生活費の余裕ができた形になる。
現在の目標は、この1,000,000ゴルドを使いきる前に、
三人を養っていける収入を手にすることだ。
余談が二つある。
ウキョウたちを討伐した後、赤の盗賊団の拠点を探して潰すのは、
対赤ネーム専用ギルド﹁アウェイクム﹂のマーサたちに一任した。
血の紋章を起動させたときに、乳白色の板が赤く染まる重犯罪者の
討伐を目的として結成されたギルド、いわば専門の人間に後は任せ
た方がいいという判断である。俺とシグルドは街に戻り、彼女たち
は現場に残って盗賊団を探すという風に分かれたのだ。
後の話になるが、マーサたちが見つけた赤の盗賊団の拠点には、
そこそこの金銭と、膨大な量の回復薬や食料などの物資が備蓄され
ていたらしいが、シグルドに処理を打診されたので、二つ返事でギ
ルド﹁アウェイクム﹂ですべて使ってもらうことにした。
彼女たちには迎えに来てもらった上に盗賊の装備を剥いでもらっ
た恩があるので、これぐらいは手間賃としてすべて差し上げるべき
だろうと思ったのだ。
282
どうやら、赤の盗賊団には、普通に街に住んでいる協力者が物資
などを手配していた形跡があるらしく、母体ギルドである﹁赤﹂の
メンバーを尋問するなど、冒険者ギルドではその協力者の割り出し
に躍起になっているようだ。
シグルドによると、﹁これで街の外にいる盗賊は、中核をなくし
てしばらくは収まるだろう﹂らしい。
もう一つの余談は、討伐団の中でも、戦死した冒険者たちの遺品
についてだ。
彼らの装備は、遺族や、所属しているギルド、パーティがわかっ
ている場合は、引き取ってもらった。
マーサたちの、後発組の馬車に死体を積んで帰ってきてもらった
ので、彼らに遺品の処理も委ねようとしたのだが、それは断られた。
俺に渡せるものは渡すよう、シグルドの強い推薦があったというの
である。
所有権が俺にあったところで、冒険者たちの死体まで剥ぎ取って
装備を売るのは気が進まなかったので、冒険者ギルドに頼んで、身
寄りのない死体の装備は、家族を失った家庭の足しになるように手
配してもらった。葬儀の代金など、何かと当面をしのぐだけの金が
必要であっただろうから。
なお、打算が入るようだが、これは自衛という面でも必要な措置
だと自分では思っている。
討伐隊に参加した中で、生存者はシグルドと俺の二人だけ。そし
て、俺は新人である。﹁アウェイクム﹂は信用のあるギルドだった
が、それでも戦利品をすべて俺が手にしたとなると、人によっては、
283
俺とシグルドが共謀して良からぬ企みをしたのではないか、と邪推
する者も現れるかもしれない。
ただでさえ、人は大きな成功を手にした者を妬むものなのだから、
反感を買わないように気をつける必要があった。
それ故に、冒険者の装備は、遺族の役に立つようすべて返したの
である。綺麗事ではないのだ。
俺だけならば、飛躍のために装備をすべて頂いてしまったかもし
れないが、今はエマたちもいる。自分の悪評は、彼女たちにも降り
かかってくる悪評なのだ。彼女たちが肩身を狭い思いをしないよう、
行動には気をつけるべきだった。
もちろん、装備を遺族に返したというのは、現在の貯金で、何と
かやりくりできる目算があってのことだった。現在の貯金は、およ
そ1,000,000ゴルドである。
俺たち四人が一日に使う金額を、頭の中で計算してみると、こう
なる。
鯨の胃袋亭の宿泊費が5,000ゴルド。入浴費が800ゴルド。
昼食費件、三人のお小遣いが3000ゴルド。備品を買ったりもす
るので、おおよそ10,000ゴルドずつ、毎日使っている計算に
なる。
もちろん、回復薬や、帰還の指輪も使うときは使うので実際はも
う少し費用がかさむが、俺が平均5,000ゴルドほどの日当を持
ち帰ることもあって、厳しく見込んでも半年は余裕で生活できるだ
ろう。
ただ、俺の目標は、ここで終わりではなかった。
284
身近な目標としては中層、ランク2の敵を狩れるようになること
であるが、将来的にはエマたち三人の市民権を買ってやりたい。一
人頭、2,000,000ゴルドという大金を冒険者ギルドの戸籍
課に納める必要があるが、客観的にはエマたちは俺の奴隷であり、
もし俺が不慮の事故で死んでしまえば、彼女たちは国有奴隷になっ
てしまう。犯罪奴隷ほどではないが、今よりも生活環境は悪化する
のは間違いない。
万が一を考え、俺が死んだときには、鯨の胃袋亭の二人に奴隷を
相続する手続きを取っておいた方がいいかもしれなかった。
285
第二十話 狩
俺は、迷宮の中を、一歩一歩、下へと降りていく。
一ヶ月もの間、毎日潜っていることもあって、何となく土地勘も
できている。
モンスター
どの入り口から迷宮に入ることになっても、地下十階程度までな
らば、自分がどのあたりにいるかを、出没する魔物から類推できる
ようになっていた。
﹁グルしゅ、うぶしゅ、ウゴルオゥ︱︱﹂
聞き覚えのある唸り声が、俺の耳に入ってきた。元から足音は抑
えながら歩いているが、より慎重に動く。
ゴブリン
オーク
曲がり角からそっと顔を出すと、鼻息も荒く、口元から涎と泡を
垂らしながら、矮人の死体を貪っている豚人がいた。
矮人と豚人は、仲が悪い。前者が捕食される側なのである。
生息する階層が違うので両者が出会うことは少ないが、身体能力
の差があるため、よほどのことがない限り豚人が勝つ。
稀にこういう、他種族同士が争う現場に遭遇することがあった。
まあ、俺にとって重要なのは、獲物が武器から手を離し、無防備
に食事をしているということだけだ。
﹁︱︱!﹂
286
ウーツ
ロングソード
無言で走り寄り、鈍魔鋼で外刃を付けた長剣を下段に振るう。
﹁ギョアアアアア!!﹂
豚らしからぬ激しい叫び声を上げ、豚人は片膝から下を斬り飛ば
されて転倒した。
足を最初に狙うのは、俺の得意戦術である。迷宮で数多くの魔物
を討伐してきた結果、動きを止めるために足を狙うことが有効であ
ることが多かったのだ。特に、人型の、二足歩行の魔物にはとても
よく効いた。
相手が、腕力も素早さも俺より格下ならば、上段から力任せに剣
を叩きつければいい。しかし、俺のレベルが上がったとはいえ、ほ
とんどの魔物は俺より力が強かった。正面から斬り結んでも、急所
は中々狙えない。相手だって動いているし、どんな魔物だって得意
な攻撃方法の一つや二つは持っているのだ。
豚人の場合、その得意な攻撃というのは、腕力に物を言わせた、
武器によるゴリ押しである。
正面から律儀に斬り合ってやる必要はない。足狙いなど、泥臭い
戦い方だと我ながら思うが、これが効果てきめんなのである。
倒れこんだ豚人に、体勢を整える時間は与えない。
そう高くない身長と比較して、全身の筋肉が異常なまでに発達し
た豚人の心臓は、狙うだけ無駄である。心臓まで刃を届かせるため
には、分厚い胸板に長剣の半分は刺しこむ必要はあるだろう。
残っている片足で膝立ちになり、苦し紛れに振り回してきた棍棒
の一撃を冷静に避け、無防備な片手に長剣を振り下ろす。豚人の右
287
手を斬り落とした後は、返す一撃で豚人の残った左手も斬り付ける
と、豚人が棍棒を取り落とした。
右手、左足を失い、残った左手にも傷を負って武器を取り落とし
ている。
ここまで下ごしらえをして、ようやく急所を狙えるようになるの
だった。
叩きつけるように上段から長剣を振り下ろし、逃げようともがく
豚人の頭蓋をかち割って、とどめを刺した。
豚人が動かなくなったことを確認すると、俺は急いでその場から
離れる。増援が来ることを恐れたのだ。豚人の死骸はそのままで、
まだ迷宮に吸収されて魔石にもなっていない。
通路を二回も曲がると、そこそこの距離を死体から取ることがで
きる。匂いで察知されることもあるため、長剣の血糊や返り血は布
で拭き、俺がいる場所とは別の方向に投げ捨ててある。
︵︱︱いないか︶
新たな生物が接近してくる足音、息遣い、喋り声や鳴き声、その
どれもなく、迷宮は静まりかえっている。
バックパック
死体が魔石になる頃合を見計らって現場に戻り、残された魔石を
背嚢に押しこんで足早に立ち去る。
オーク
豚人そのものの武器は強靭な肉体だが、二つ目の特徴は社会性で
ある。
288
ランク1に分類される低階層で群れを形成することは少ないが、
二、三匹までの組で迷宮を闊歩することは珍しくない。知性は低く、
逃げ道を塞いだりする頭は持っていないし、雑兵扱いの下っ端は鎧
を着ていることもないので一対一ならそう危険のない相手だが、そ
れでも複数の豚人に行き止まりにでも追い詰められれば話は別だ。
スタデッドレザーアーレ
マザ
ーーアーマー
俺の着ている鋲皮鎧は、皮鎧と違って、金属の鋲で補強してある
ためにマナ回復スキルに悪影響がある。全身に着込んでいると、普
段着や皮鎧のときと比べて、半分以下の速度でしかマナは回復しな
チェインメイル
プレートメイル
い。
鎖鎧や板金鎧と違って、防御力も心もとないが、その分、鎧がこ
すれ合って物音を立てることがないので、先ほどの俺のように、新
たな敵の出現に気をつけながらの狩りができるというわけだ。
ハイド
恐らくは、この俺のやり方に、隠身スキルを組み合わせ、死角か
ら急所を狙うのがディノ青年のスタイルだったのだろう。なるほど、
狩人は一人での迷宮探索に向くと推薦してくるだけはあった。リス
ク管理がしやすいのだ。
しばらく、新たな獲物を求めて迷宮をさ迷う。狙っているのは、
豚人、それから大ムカデである。
ちなみに、もっと金を稼ごうと思ったら、こいつらは効率が悪い。
魔石の効率だけでいえば、質はやや下がるものの、俺でも数を殺せ
る矮人の方がいい。俺がそれをしないのは、スキルが育たないから
である。
どうも、同格ないしは格上とやらなければ、戦術や斬術といった、
武器の習熟度は上がらないようなのだ。無造作に斬り込めば勝てる
矮人たちをいくら討伐しようが、スキルの伸びは非常にゆるやかな
ものなのである。
289
反面、格上と戦えばスキルの伸びは早いのだが、俺自身が危険で
ある。安全域を確保しつつスキルを伸ばすなら、今の俺にちょうど
いい獲物は豚人や大ムカデになるというわけだ。
しばし進むと、迷宮の低層では数少ない水場に近づいてきた。空
気が湿り気を帯びてくる。ここに水場があることは知っていたので、
俺は慎重に、壁の上下を調べながら進む。
ちなみに、今まで他の冒険者に滅多に遭遇しないのは理由がある。
地下七階付近ともなると、同じ深度であっても、迷宮はどこまで
続いているかわからないほど横に広い。更なる地下へ進むための最
短ルート付近には人がごった返しており、狩りにならないので離れ
る必要があった。
蜘蛛の巣を想像してもらえばわかりやすい。最短ルートを進む中
央から、網を広げるように安全域が広がっている。その付近では、
せいぜいはぐれの魔物が迷い込むぐらいで大した狩りにはならない
ため、わざわざ安全な中央を離れ、蜘蛛の巣の外で土地勘を養い、
自分の狩場を作っているというわけだ。
人の少ないもう一つの理由が、実入りの少なさである。矮人、大
ムカデ、豚人。どれも、金になりにくい魔物なのである。
俺は、彼らを数多く討伐し、得た魔石を換金することで日当を得
ている。だが、もう少し地下に潜れば、ランク1でも毛皮が素材に
なる恐狼や、ランク2帯、中層と呼ばれる地域の魔物を狩ることが
できるため、金が目当ての冒険者はパーティを組み、下層をスルー
して中層へと進出することがほとんどだった。
金に目が眩むことも多々ある。
290
ちょっと危険だが、中層の魔物は討伐したときも見返りも大きい。
頻繁に俺に囁きかけてくる誘惑を、ぶんぶんと首を振って断ち切
る。
今の俺は下積みである。黙々と魔物を狩り、スキルとレベルを鍛
えるのだ。
スライム
やや思考が逸れたが、俺は水場を注意深く観察し、一匹の魔物が
陣取っていることを看破していた。酸水母である。
水場では、特に彼らに注意しなければならない。今も、よく観察
しなければ見分けられなかったであろう、半透明の身体を1メート
ル強に伸ばし、天井に張り付かせて、獲物が通り過ぎるのを待って
いた。
ファイアアロー
俺は長剣を鞘に収め、火矢の魔法を唱える。
習得用の魔石を一度取り込んだ魔法は、呪文名を口に出すだけで、
自動で体内のマナを魔法の形に整えてくれるようになる。今も、俺
の火矢の詠唱と共に、両手にマナが集まっていき、弓と矢の形にマ
ナが整えられた。
酸水母の中心に狙いを付けるように、弓を引き絞り、火矢を放つ。
魔法による火矢は、必ずイメージ通りの場所に飛んでいくので、
弓を撃ったことがない俺でも外すことはない。
ジュッ!と水分が蒸発する音とともに、酸水母の広がった身体を
貫通し、天井の岩場にぶつかると、火矢は小さな炎を上げて消えた。
身体のどこかにあるという核を射抜けていれば一発だったのだが、
今回は外れたようで、三分の一ほどを蒸発させて体積を減らした酸
291
水母は、地面にぼとりと落ちて水場へと這い出していく。
水場に入られては追えないため、もう一度俺は火矢を詠唱する。
身体の中心を射抜かれた酸水母は、今度こそ核を失ったようで、
その場に溶けて水のように広がり、煙を出しながら消えた。魔石は
すでにその場に転がっているのだが、刺激臭のする酸の蒸気が消え
るまで、少し離れたところで時を待つ。
剣で斬りかかっても、半透明の身体のどこに核があるかがわから
ないため、基本的に酸水母は魔法でしか倒せない。強酸で武器が溶
けるだけだ。棍棒のような鈍器で殴りつければ、運よく核に攻撃が
当たれば倒せるだろうが、何とも分の悪い賭けになる。飛び散った
酸水母のしずくも強酸性なのだ。
一度、豚人の死体から腕を切り離して、試しに酸水母の待ち構え
ているあたりに放り投げてみたことがある。
音もなく1メートル強の酸水母が落ちてきて、豚人の腕を取り込
んで丸まったかと思うと、二十秒もしないうちに骨まで溶かしつく
されて何も残らなかった。肉の部分だけなら、溶かすのに十秒もか
かっていないだろう。すさまじい強酸だった。
低階層での冒険者の事故死としてはかなり多いケースだと魔物シ
リーズ図鑑に書いてあった通り、一度取り付かれたら逃げられない
と見るべきだった。対処法としては、核を一撃で倒せる範囲系の魔
法で被害者もろとも攻撃するしかないとまで書かれており、実際、
酸水母に全身をくるまれた冒険者が生還としたという話は聞かない。
注意深く、他の酸水母がいないことを確認した俺は、水場から少
し離れた通路で、昼飯を食うことにした。
292
クリエイトファイア
インゴットという二つ名があるぐらいの堅パンを歯で削るように
食っていたあの頃とは違い、今の俺は作火の魔法が使える。あたた
めて食うタイプの保存食は、美味くはないとはいえ、そもそも食う
のに困るほどではなかった。
細かく刻まれた干し肉と、同じく乾燥させた麦粉の丸薬を布袋か
ら出し、手のひら大ほどの小振りの鍋にあける。干し肉には強めに
塩が振ってあり、これに水を加え、木屑を固めた燃料に着火してあ
たためれば完成だ。
小さな布袋一つで、およそ十食分になって、お値段は1,500
ゴルドである。
ちゃんと塩味のついたスープで、干し肉も食える固さまで湯で戻
したとはいえ、美味いものではない。麦を練って作った団子も、食
感は微妙だった。一日一回程度ならまだ我慢できるが、これも毎日
続くとげんなりしてくる。
なお、実は、俺のように日帰りで狩りをするなら、保存食はいら
ない。地上で迷宮焼きでも買って持ち込んだ方がはるかに精神衛生
上よろしいだろう。ならばなぜ保存食を調理してまで食っているか
というと、物を知らない頃に二組、二十食分買い込んでしまったか
らである。
︵マズいなあ︶
腐らせるよりはましだと我慢して食っているが、正直なところ苦
痛であった。
293
クリエイトアクア
作水の魔法で鍋を洗い流し、背嚢にしまった俺は、再び迷宮で狩
りをするべく足を進める。
ゴブリン
火矢を二発と、作火・作水を計三回使ったので、MPが底を尽き
かけており、軽いマナ酔いの症状が出ているため、矮人などが主に
出没する、危険が少ない階層まで登って獲物を探す。
︵そんな時に限ってこいつか︶
悪いことは重なるもののようで、俺と向き合い、威嚇するように
牙をがちがちと打ち鳴らしているのは、成体の大ムカデだ。初陣の
ときの苦痛が思い出されるので、あまり戦いたくはない相手である。
こいつに関しては、今の俺では必勝法がない。﹁無傷で﹂という
条件なら、だ。
不意をついて、感覚器官の集まっている頭部に火矢を当てればか
なり有利に戦えるのだが、今の俺はマナ切れである。その上、今回
は大ムカデも俺に気づいているので、正面からの殴り合いになって
しまうことが確定であった。
大ムカデも成体ともなれば、怒涛の勢いで地面を這う。力強く身
体をくねらせ、素早く飛びかかってくるのだ。
﹁せいッ!﹂
大ムカデの胴体に、長剣がめり込む、確かな手ごたえ。
半分が鈍魔鋼で出来ている長剣と、成長した俺の腕力を持ってす
れば、しっかりと一撃を当てると、甲殻にめり込ませるほどの威力
は出せる。だが、それは先制でそこそこの傷を与えたに過ぎず、成
体の大ムカデともなれば、以前と違って少々の傷は怯まずに食らい
付いてくるので︱︱
294
︵やっぱ痛えええええ!︶
皮鎧しか着ていなかった以前と違い、今は鋲皮鎧であるので、大
ムカデの牙といえど易々とは通さない︱︱
そんな夢のような話はない。以前と違い、全長四メートルを超え
ようかという、堂々とした成体の大ムカデだ。食いちぎられるかど
うかは別として、大アゴから伸びた牙は鋲皮鎧を貫通し、俺の左足
の太ももにがっちりと食い込んでいる。
痛覚耐性のスキルも以前よりは上昇しているため、無様に泣き声
を上げるほどではなかったが、あくまで歯を食いしばっていればギ
リギリ叫ばずに済むだけであって、牙を肉に突き立てられるのが激
痛なのは当然のことである。
大ムカデの習性として、獲物を確実に仕留めるために、一度食い
ついた後、身体を巻きつかせてくることが多い。対象にぐるぐる巻
きにした後、噛み付いた傷口を牙で広げながら、口腔で肉を貪るの
だ。毒を失ったかわりに、蛇のような戦い方を身につけたのだろう
か?
なお、この状態に持ち込まれた時の解決策は、簡単だ。
壁や床などに身体を打ち付けたり、あるいは固めた拳などで、大
ムカデの頭部に強い衝撃を与えてやればいい。
︵すると、このようになる︶ 大ムカデの脳がどのようになっているかはわからないが、巻きつ
きを解いて苦しみ始めるので、のたうっているところを、滅多切り
295
にしてやればいい。
頭に攻撃を食らうと、大ムカデはまっすぐ獲物目がけて噛み付き
にいけなくなるようで、見当違いの場所を噛み付こうとしているう
ちは無防備なのだ。
とはいえ、面倒臭いことには変わりはない。
動きが鈍くなるまで刻むか、うまいこと頭を抑えつけられれば急
所への一撃ですぐに終わるのだが、未だに俺の腕力と剣術では、動
き回る大ムカデを両断できない上に、動きが鈍るまでは頭を狙って
斬れないため、泥臭く何度も斬り付ける必要があった。弱い個体を
倒した初陣の日から、この倒し方は変わっていない。
︵割に合わんなあ︶
マナポイント
大ムカデの落とした魔石を回収しながら、俺は肩を落とす。
MPさえ残っていれば火矢を使うだけで済むのだが、今回のよう
に真っ向からやりあうと、どうしても一撃はくらう。あくまで俺に
噛み付いているから頭部に打撃を加えられるだけで、先手を取って
頭に攻撃を当てられることは少ない。
レッサーポーション
防具も傷むし、傷をふさぐのに低級回復薬を一本使わなければな
らず、魔石を売った金はそれで相殺されてしまう。どうにかこいつ
から日当を出そうと思うと、体液まみれになりながら甲殻を剥がざ
るを得ず、そうすると荷物が増えるため、多くても二、三匹倒した
ら街まで戻らなければならない。それでいて、完品でも一匹あたり
500ゴルドにしかならないのだ。
︵このあたりで狩りをする冒険者がいないわけだよ︶
296
かかる手間の割に、実入りが少なすぎるのだった。
297
第二十一話 蜜月
日当を出せていないので迷宮探索を続行するか迷ったが、今日の
スタデッドレザーアーマー
マナポイント
狩りは先ほどの大ムカデで終わることにした。大ムカデの口撃で、
鋲皮鎧に傷が付いたということもあるが、もう一つは、MPが切れ
そうになったからである。
クリエイトアクア
迷宮入り口の広場で、作水の魔法で装備や身体を洗い流しながら、
鋲皮鎧の利点と欠点を考えざるを得なかった。
防御力は、皮鎧と比べてはるかにいい。今日戦った大ムカデも、
皮鎧であれば、肉の一塊ぐらいは食いちぎられていたかもしれない。
ファイアアロー
しかし、マナの回復速度が遅いという欠点もまたあるのだ。現に、
火矢を二回と、生活魔法を少し使っただけでマナ切れになっている。
火矢一回の消費MPは四だ。生活魔法を三回使うより、一発の消費
は激しい。
仮に、生活魔法を使わずに済むよう、そのまま食べられるものを
持ち込んだとしても、火矢の分のマナは確保できないのだ。
スライム
酸水母や大ムカデなど、火矢が使えたら損耗なしで倒せる魔物で
あっても、マナがないがために被害が出たり、あるいは討伐できな
いために交戦を避ける必要が出てくる。
レザーアーマー
︵皮鎧に戻すべきか?︶
血糊のこびりついた鋲皮鎧に水流をかけながら、なおも俺は悩む。
皮鎧であれば、一撃もらってしまった時の被害は甚大だが、火矢
298
による先制攻撃を行える回数が増える。マナ回復を阻害しない鎧だ
ヒール
から、攻撃魔法の回転率を上げられるのだ。もしダメージを受けて
も、小回復の魔法で傷を癒すことができ、薬の消費を抑えることで、
経費削減にもつながる。
ダイアウルフ
だが、それはあくまで、魔法での攻撃が有効な魔物と対峙してい
るとき限定の話だ。恐狼など、ランク1の最上位とみなされている
強敵などを相手にするなら、持久戦になるため防御力は必須である。
チェインメイル
プレートメイル
密着して戦っているときに、火矢を使っている余裕などないのだ。
鎖鎧や板金鎧など、強靭な防御力を誇る金属鎧であっても、いざ
装備してみたらそれはそれで欠点はあるのだろう。物音で魔物が集
ゴブリン
オーク
まってくる上に、今の俺がたびたび成功させている奇襲ができなく
なる可能性が高い。
例えば今日の狩りでいうと、矮人の死体を貪っていた豚人に、飛
び出し様の一撃を加え、足を斬り飛ばしてそのまま押し切った戦闘
があった。金属鎧を装備していたら、事前に音で気づかれ、豚人と
正面からの戦闘になっていただろう。
︵痛し痒し、だな︶
中々、思うようにはいかないものである。
﹁あ、お帰りなさいませ、ご主人様!﹂ 洗い終わった鋲皮鎧を肩に担ぎながら﹁鯨の胃袋亭﹂に帰還する
と、エリーゼが喜色もあらわに出迎えてくれた。
299
﹁お帰り﹂
エマに勉強を教えていたエミリアも、無愛想ながら出迎えてくれ
る。笑顔でこそないものの、以前と違って、表情に険がないので、
嫌われてはいなさそうだ。
エマはというと、こちらも無表情だが俺が部屋に入るなり、する
りと近づいてきて腰に抱きつく。
家族とは、いいものだ。
仕事帰りに、笑顔で迎えてくれる人がいる。それは、俺が今まで
知らなかった、ほっこりとあたたかい気持ちにさせてくれるのだっ
た。
身寄りがなかった俺は、ひょっとしたら心のどこかでこういう繋
がりを求めていたのかもしれなかった。家に帰り、一人きりで過ご
していたあの頃は、気づいていなかったけど寂しい生活だったなあ、
としみじみ思う。
﹁まだ勉強してたのか。感心感心﹂
朝から昼までの勉強時間は、もうとっくに過ぎているはずなのに、
エマとエミリアは教材の魔物シリーズ図鑑を広げている。
﹁エマが教えてくれって言ってきたのよ。意外と飲み込みがよくて、
簡単な文章なら時間がかかるけど読めるようになったわ﹂
﹁おお、すげえな。やり過ぎて勉強が嫌いになっても本末転倒だか
ら、根は詰めすぎないようにな﹂
わしわしとエマの頭を撫でてやると、大層嬉しそうに、ふんす、
と鼻息を一つついて、俺の腰に顔をうずめる。
300
何度もベッドに侵入されているうちに、頭を撫でられるのがエマ
は大好きであることが判明した。安心するのか、少し撫でてやると
すぐに眠りに落ちるのである。
エマが俺に密着してくることが多々ある上に、共同の空間である
大部屋に狩りの血臭を持ち込むのは気が引けたため、最近は毎日、
風呂屋に行って身体を洗ってから帰るようにしている。
一年を通して、過ごしやすい適度な気温と湿度にあるこの街では、
おおむね発汗量が少なくなるため、俺のように汚れる仕事をする人
間以外は毎日風呂に入る必要はない。富裕層でもないなら、三日に
一度も風呂に入れば、じゅうぶん綺麗好きと呼ばれるほどであった。
が、俺だけ風呂に入り、さっぱりするというのは公平という観点
から心苦しかったので、彼女たちも風呂に入れるよう、毎日200
ゴルドの入浴料は渡している。
二日に一度の入浴は義務づけているが、風呂に行きたくなければ
使わずに小遣いにしていいと言い渡してあるので、ほとんどの場合、
ハン
入浴は二日に一度で済ませて浮いた金は溜めているらしい。
﹁よし、飯にするか﹂
バーグ
大机には、人数分の晩飯が並んでいる。今日の献立は、屑肉のミ
ンチ料理だ。内臓や肉の切れ端など、見栄えがしないため肉屋で安
く買える部位であっても、高い料理スキルを持つドミニカの旦那の
手にかかればこの通り、熱せられた鉄板の上でじゅうじゅうと油を
弾けさせる庶民のグルメに早変わりだ。
なお、料理の量は、安心と信頼の、鯨の胃袋亭基準である。
︵︱︱靴?︶
鉄板の上に、ずしりと鎮座する、巨大なハンバーグの塊は、靴に
301
見紛うばかりの、圧倒的な存在感を放っていた。もちろん、俺は大
歓喜である。我が食欲、未だ衰えを知らず、といったところだ。
ナイフで切るためにフォークで肉を押さえつけると、たっぷりの
肉汁がハンバーグの表面にぷつぷつと浮かんでくる。黄色い脂の光
沢をまとった肉汁は、熱々の鉄板に流れ落ちると、じゅう、と音を
立てた。
一口でぎりぎり食えるかどうかという、大きめの塊にハンバーグ
エール
を切り、一気に頬張る。口の中で爆発する旨味を味わいながら噛み
締めた後に、きんきんに冷えた麦酒を喉に流し込む。油たっぷりの
肉汁を、果実の香りがする芳醇な麦酒が、炭酸の泡を弾けさせなが
ら押し流していき、胃の腑へと堕ちていくのだ。
﹁うほああああ!﹂
あまりの美味さに、思わず奇声を上げてしまった俺を誰が責めら
れるというのだろう。エマたちはというと、そんな俺の奇行には慣
れっこなので今更驚かず、おいしいねなどと和気藹々にハンバーグ
を食べていた。
エマたちがまだおらず、一人部屋で寝起きしていたとき、麦酒は
小樽一つで100ゴルドであった。食事とは別料金だったのだが、
今はタダである。
大部屋に四人で暮らすようになってから、この店の食事を、エマ
たちの分だけ減らしてくれるように、以前頼みに行った。成人男性
ですら食べきれないほどの量はお腹に入りませんという、少女たち
を代表したエリーゼの意見を採用した形だった。
﹁女衆が食べきれないから量を減らして欲しい? わかった、じゃ
あかわりに毎日、麦酒一樽ただにしてあげようかね。何? 自分だ
302
ジュース
け贔屓されるのは嫌だから、彼女たちに甘い物か果物の絞り汁でも
付けて欲しい? 奴隷と同等に扱われたいとか、あんた変わった主
人だねえ。まあ嫌いじゃないよ、甘い物だね、わかったよ。麦酒も
一樽付けてやる﹂
とのことで、毎日一樽の麦酒をおまけしてくれるばかりか、エマ
たちに甘い物まで用意してくれるようになったのである。長期滞在
している分のサービスと受け取ることもできるが、こういう細かい
交渉ができるため、この宿は居心地のいい宿であった。
少女たちが若干食べ過ぎているので、太りすぎないか気になると
ころではあったが、今までが痩せぎすであったのでちょうどいいか
もしれない。まあ、彼女たち本人に任せておけばいいことではあっ
た。
﹁わあ︱︱﹂
よほど食後のデザートが気になっていたのか、ハンバーグを怒涛
の勢いで食べ終えたエミリアは、フォークを片手に目を輝かせた。
ヘビーナッツ
女性は誰しも甘い物が好きだが、うちの三人の中ではエミリアが別
して甘味好きである。
今日のデザートは、乙女の敵のタルトである。
病人食に使われるほど栄養素豊富、ずしりと重いそのナッツの実
は、素晴らしい美味と反比例して、とても太りやすい。
香ばしく焼き上げられたタルトを口に入れると、感極まったよう
に満面の笑顔で打ち震えるエミリアであった。
﹁食べながら聞いてくれて構わない。明日は前もって伝えていた通
り、休みにするが、一ヶ所だけ行っておきたい場所があるんだ。そ
こだけ付き合ってくれ﹂
303
﹁いいけど、本当に週末は休んでいいの?﹂
もっきゅもっきゅと菓子を食べながら、腑に落ちないといった表
情のエミリアである。俺と話しているときのエミリアは、意識して
むっすりした顔を作っていることが多いが、タルトの美味さににや
けそうになるのを我慢しているのが伝わってくる上に、たまに菓子
や料理を手づかみするため、今も指と口回りが砂糖でべっとりして
いて色々と台無しである。
これはエミリアだけではなくエマもそうなので、そのうち礼法や
食事作法も教える必要があるだろう。 ﹁いいぞ。一人で出歩いてもいいし、部屋で休んでてもいい。今後
も、週末︱︱光の日は丸一日休みにするから﹂
休みを貰えたというのに、ちょっと暗い顔をしているのはエリー
ゼである。
﹁お休みを頂きすぎではありませんか?﹂
と、以前の彼女なら言っていたであろう。奴隷といえど家族とし
て扱い、労働で搾取することはない。俺の持論を再三教えたので口
を開かないだけで、エリーゼの目は彼女が自分の考えを捨てていな
いことを雄弁に語っていた。
働かなくて済むならそれでいいじゃない、などと楽観的に俺が考
えていても、彼女の中の奴隷像とは相容れないようである。
自立できるための勉強などを強制させているので、俺としては彼
女たちは教育の義務を果たしていると思っているのだが、エリーゼ
はそうは考えないようだ。勉強はむしろ奴隷に技能を与えるという
304
施しであり、仕事の範疇には含まれない。毎日、やっていることと
いえば洗濯ぐらいで、それ以外の時間に何をすればいいかわからな
いといったところであろう。
﹁ほら、エリーゼ。早いとこタルト食わないと、エミリアに狙われ
るぞ﹂
﹁狙わないわよ!﹂
茶化してみたのだが、エリーゼは苦笑しただけである。話題を逸
らすのに失敗したようだ。
﹁ご主人様、私の言いたいことは伝わっておりますか?﹂
﹁ああ、これ以上ないほどびしびし伝わってくる。でもダメ。子供
は勉強して遊んで食って寝るものだ﹂
﹁その。もう成人です﹂
ちょっと頬を染めるのは、初潮と同時に成人として扱うこの街の
法ゆえである。
自ら成人であると告白するのが恥ずかしい年頃であるのは理解で
きるので、これは俺の誘導がまずかった。
﹁言い方が悪かった、すまん。でもダメ﹂
﹁せめて、自由時間に働きますのでそのお金を受け取って頂けませ
んか?﹂
﹁働く経験を積むのは悪くないと思うので、勉強さえしっかりして
305
れば働いてもいいが、金は受け取らんぞ?﹂
はあ、と溜息をつくエリーゼである。
﹁ご主人様は頑固です﹂
﹁エリーゼといい勝負だと思うが﹂
タルトを食い終わったエマが、無言のまま椅子の後ろに回って、
肩に張り付くように密着してくる。最近の悩みはエマとの距離が近
すぎる上に、おもむろにエマが俺の匂いを嗅ぎだすことだ。甘味に
目を輝かせるエミリアとは別の意味で犬っぽい少女である。
﹁こういう言い方は心苦しいのですが、施しをされているような気
分です。奴隷は主人のために働くものです。優遇されるぐらいなら
ば嬉しいのですが、ここまで自由を頂いても、かえって戸惑ってし
まいます。私たちに何かお返しできることはないのですか?﹂
﹁じゅうぶん返してもらってるさ﹂
家族のあたたかみ、家に帰ってくると出迎えてくれる人がいる嬉
しさ。
これは彼女たちにもらっているものだ。
﹁いまは勉強して、家の外に出ても食っていける教養や技能を身に
つけてくれればそれだけでいいさ。冒険者稼業なんて、いつ死んで
もおかしくないんだ。俺がもしいなくなっても一人立ちできるよう
になってくれ。そうじゃないと心おきなく迷宮に行けない。それに、
働きづめの人生なんて面白くないぞ? 若いうちに遊んでおくんだ﹂
306
もう何回目になるのかわからない、いつもの会話、いつもの結論
だった。
背中にくっついていたエマが、俺の上着の肩口をぎゅっとつかむ。
﹁身体を巡る血を、手のひらに集めるイメージで、魔石をマナで覆
うんだ︱︱そう﹂
翌朝になって、宣言していた通り、みんなの休日にした光の日で
ある。
いま俺たちがきている魔法ギルドを始め、公的な機関は今日も運
営しているが、個人経営の商店などは今日は店を閉めて羽を伸ばす。
冒険者も、やっている店が少ないということもあって、迷宮入りを
休むことが多い。
もちろん、その裏を狙って、前もって冒険の準備をしておき、人
気の高い狩場を
独占しようと目論む冒険者や、商店が閉まっている日こそ稼ぎ時だ
と考えて店を開いている商人もいる。
﹁わっ﹂
火、水、氷、三種の作成魔法を最初に覚えたのは、エミリアだっ
た。
魔石を取り込む感覚は、初めてなら驚くのも無理はない。俺もそ
うだった。
﹁不思議な感じね、これ。身体に吸い込まれたみたい﹂
307
クリエイトファイア
﹁最初は半分も成功しないと思うが、使っていけば魔法スキルが上
がって成功しやすくなるからな。火事になっても困るから、作火の
魔法は燃えるものがないところでやるんだぞ﹂ ﹁わかってるわよ﹂
今日は、エマたちに初級魔法を覚えさせているのである。ドミニ
カの亭主やスラム街の酒場の主人などがやっているように、飲み物
を冷やす魔法を使えれば仕事を見つけやすいかもしれないし、火や
水の魔法があれば日常生活が便利だった。
﹁洗濯がはかどりますね﹂
クリエイトアクア
嬉しそうなのはエリーゼである。今までは、俺が作水の魔法で作
り置きしていた水を使っていたが、それを自分たちでできるように
なるのだ。街のあちこちに共用の井戸が掘られているが、魔法で作
った水に比べるとやや塩辛く、不純物も混ざってしまうから、下水
などにしか使われない。
鯨の胃袋亭では毎朝、ドミニカの亭主が大樽に水を満たして、補
洗機などが置いてある水場に置いてくれるのだが、それこそ限度が
あり、他の宿泊客も使うので無尽蔵には使えないのである。
﹁普段から使わないと成長しないからな、定期的に唱えるといい。
使いすぎると気分が悪くなるから注意するんだぞ﹂
クリエイト
俺も、何か魔法を買おうかとしばし悩む。
アロー
魔法石は、もっとも格の低い作級なら一つ30,000ゴルドで
カラー
ヒール
ある。だが、その次の、矢級になると50,000ゴルドになり、
魔法の属性ごとの特徴が強く現れてくる色級︱︱水属性の小回復は
このクラスだ︱︱になると100,000ゴルドと、どんどん値段
308
キュア
が跳ね上がっていくのだ。解毒など、魔法スキルを上げる練習にも
メイジ
なるので欲しくはあったが、値段を見てやめた。
ウォリアー レンジャー
それに、俺もそろそろ、戦士・狩人・魔術師のどれかに、職を絞
った方がいい時期だろう。
今のままでは、ランク2の中層で狩りをするためには、多大な時
間がかかってしまう。自分の得意分野を明確にして、パーティを結
成するなり、どこかに入れてもらうなりして、中層で実入りのいい
狩りをするべきかもしれない。
貯蓄を食い潰しながら生活をしているという点では、初めて迷宮
に赴いた先月と何も変わっていないのだ。
﹁ちょっと失礼、用件は終わったかな?﹂
﹁あ、これは気がつきませんで﹂
魔法石を扱っているカウンターの前に陣取ってエマたちに魔法を
覚えさせていたので、後続の人を待たせていたようである。ギルド
職員を表すローブを着込んだ、壮年の男性であった。胸に魔石を象
ったネックレスを提げていることから、彼は魔法ギルドの所属だと
わかる。
彼はカウンターで用を済ますのかと思いきや、俺たちの方へと向
き直る。
﹁ふむ。奴隷に魔法を教えているのか。実に結構なことだ、魔法は
もっと多くの人々に周知されるべきだと思わんかね?﹂
﹁は、はあ? そうだと思いますが﹂
309
正面から見ると、彫りの深い顔立ちに皺を入り組ませ、頑固そう
に口を結んだおっさんである。美形ではなく、味のある頑固親父と
評すべき人物に見えた。
﹁そして君は冒険者か。これも結構なことだ。もし迷宮の深層部で、
未知の魔法を魔物が使ってきたら、ぜひ魔法ギルドに詳細を報告し
てくれたまえ。内容如何では報酬ははずむぞ﹂
﹁はあ。覚えておきます﹂
言いたいことを言ってしまうと、彼は魔法ギルドの職員に何事か
を話し始めたので、俺はその場を離れる。ずいぶんな変人に思えた
が、魔法ギルドの職員はかちこちにかしこまって彼と応対していた。
﹁あれが、魔法ギルドのマスター、カヌンシル氏です﹂
帰り際に、別の職員が耳打ちしてくれた。なるほど、お偉いさん
だったのか。
頑固そうに見えた顔も、そう言われると研究に没頭する魔術師の
それに見えてくるから不思議である。
深層の魔物が使う未知の魔法を教えてくれと言われても、そんな
場所に赴く機会はしばらくは来ないので、俺があのおっさんと再び
話す機会は、恐らくはないだろうと思えた。
310
エンブレム
第二十二話 逆風
﹁ふむ﹂
クリエイト
自室に戻り、血の紋章を起動させてスキルをまじまじと眺める。
作級魔法の習得が終わった後、エマたちは、三人で行きたい場所が
あるとのことで、魔法ギルドで別れた。いまは宿に俺一人きりであ
る。
︻名前︼ジル・パウエル
︻年齢︼16
︻所属ギルド︼なし
︻犯罪歴︼0件
︻未済犯罪︼0件
︻レベル︼318
︻最大MP︼9
︻腕力︼12
︻敏捷︼9
︻精神︼10
﹃戦闘術﹄
戦術︵23.9︶
斬術︵18.2︶
311
刺突術︵17.8︶
格闘術︵5.2︶
﹃探索術﹄
追跡︵10.8︶ 気配探知︵11.5︶
﹃魔術﹄
魔法︵16.1︶
魔法貫通︵9.2︶
マナ回復︵31.5︶
魔法抵抗︵1.2︶ ﹃耐性﹄
痛覚耐性︵14.6︶
魅了耐性︵100.0︶
﹃始祖吸血鬼の加護﹄
﹁ふむむ﹂
全体的に、成長してはいるのだが、器用貧乏な感が否めない。
これが俺の得意分野だ、と胸を張って言える項目がないのである。
未だパーティに所属して狩りをした経験のない俺だが、パーティ
の基礎というものはわかっている。前衛、斥候、後衛という三つの
役割分担がパーティの核だとは、何度もディノ青年に聞かされたも
のだ。
312
︵この三つの役割の中で、俺ができる仕事はあるだろうか?︶
チェインメイル
まず、敵の接近を食い止め、後衛に敵が行かないようにする壁役
プレートメイル
の前衛。これは装備がないのでパスだ。最低でも鎖鎧か、ランク2
の中層でやっていくならば板金鎧を着込みたいのだが、それは新た
な出費になってしまう。
レンジャー
では、盗賊たちから剥いだ鋲皮鎧があるから斥候役の狩人ならい
ハイド
けるかといえば、そう話は簡単でもない。狩人に求められるのは、
隠身スキルによる偵察と、痕跡探知・マナ探知スキルを活用しての
奇襲阻止、それに加えて罠探知と罠解除スキルによる、進路の安全
確保が仕事になってくる。
迷宮も中層となると、知性を持つ魔物が増える。中には罠を仕掛
けたり、魔法で遠距離から攻撃してくるなど、狡猾に立ち回ってく
る魔物がいるから、斥候の重要性はぐんと上がる。
だが、これらのスキルを習得するためには、それなりの金と時間
レザーアーマー
を使って盗賊ギルドで学ばねばならない。今の俺に、そんな余裕は
ない。
メイジ
では、魔術師ならどうだろうか?皮鎧は金属鎧と比べて廉価で手
に入る上に、魔法は一度覚えてしまえば無限に使える。
だが、それだけだ。
ファイアアロー
マナ回復スキルや魔法スキルは、長い時間をかけて育てなければ
実戦では使えない。限界ギリギリまで使って火矢の二、三回で使い
物にならなくなる魔術師など論外である。それこそ戦力外だった。
313
ファイアボール
迷宮でしっかりと戦えている魔術師は、最低でも火矢の一つ上の
ランク、火球を数発撃てるだけの最大MPと、継続的に魔法を唱え
られるだけのマナ回復スキルを備えているのが普通だった。
ウォリアー
これらの理由から、消去法で、もっとも俺がやっていけそうなの
は戦士である。装備は買えばいいし、武器だけは立派な長剣を持っ
ている。
中途半端な武器スキルの数値であるため、パーティの生命線であ
る前衛を担うのは荷が重いが、それも、もう少し迷宮に潜って成長
すれば、何とかなるのではないかと思っている。
とはいえ、一人で迷宮に入ると、武器スキルだけを特化して鍛え
るのは難しい。なんだかんだ火矢を使ったりするので、剣だけを使
わない戦闘も多いからだ。
パーティというか、自分の職業を特化させる利点の一つに、自分
の得意分野だけに集中できることが挙げられる。例えば戦士であれ
ば、敵と斬り合うことだけを求められるから、スキルの伸びが一点
集中で早いのだ。まんべんなくやっている俺は、色々なスキルを活
用して敵を倒しているから、どうしても特定分野だけ伸ばすのが難
しい。
なんとも、もどかしい日々である。中層で活躍するパーティに参
加したくとも、なかなかその下地が作れないのだった。下層で戦う、
まだ弱小のパーティに参加しようと思ったこともあるが、ディノ青
年にはいい顔をされなかった。
﹁お勧めしません。下層のパーティは装備が整っていない冒険者も
ダイアウルフ
多く、判断能力も完成されていません。群集心理で強気になって判
断を誤ったり、何かと予期せぬトラブルが起こります。恐狼狙いの
パーティならいいかもしれませんが、所詮はランク1の魔物という
314
ことで素材は高く売れませんし、スキルを磨くためならわざわざ恐
狼を狙う必要がありませんから﹂ オーク
確かに、その通りであった。大ムカデや豚人と戦っているだけで
も、武器スキルは上がっているのである。つまり、どうあがいても
今は下積みの時期なのだった。もどかしくても、進歩が実感できな
くてやきもきしても、ランク2で通用するだけの能力を手にするま
で、毎日迷宮に潜って少しずつ強くなるしかないのである。
﹁鉱石採集の護衛依頼? おお、やるやる﹂
そんなこんなで煮詰まった日々だったので、鍛冶屋ダグラスの申
し出は渡りに船と言えた。
﹁いいのか、簡単に受けて。そりゃあ大した危険はないと思ってる
けどよ﹂
相変わらず、暑苦しい筋肉をした男だった。鍛冶仕事のせいか、
腕の毛はちりちりに焼けてしまっているが、大胸筋のまわりは前掛
けで隠しきれない胸毛が色濃く生えている。
閉口した嫁が手を尽くしたがどうにもならなかったという逸話の
ある胸毛だ。
﹁気分転換が欲しいと思ってたとこだ。護衛任務っていうが、街の
外にはどんな魔物が出るんだ?﹂
﹁街から近いからな、このあたりの森では魔物はあまり出ねえ。人
手の入ってない、もっと奥の森にいけば野生の魔物がいるが。どっ
315
ちかっていうと、盗賊からの護衛だな。ちょっと前までは槍のフィ
ンクスって奴が幅を利かせてたんだが、討伐されて街道の治安が良
くなってな。護衛が少なく済みそうなんで、大量に使う普通の鉄を
今のうちに溜めておこうってわけよ﹂
﹁なんだ、街の外にゃ結構魔物がいるかと思ってたのに、そうでも
ないのか﹂
﹁どうやって増えてるかもわからねえ迷宮の魔物と違って、外の魔
ゴブリン
オーク
物は普通に生殖で増えるんだ。長生きしてるから、同じ種族の魔物
でも知恵が回って手ごわいって話だな。矮人や豚人なんかは群れを
作って昔はたびたび街を襲ってきたらしいが、衛兵隊が撃退してか
らは、奴ら、人間の縄張りには近寄らないようになった。多分、魔
物はいねえんじゃなくて、人間から隠れてるだけだな﹂
﹁ほう。魔物の生態にも興味はあるが、街角とかに立ってる衛兵っ
て強いのか?﹂
﹁強いぞ。冒険者ギルドが役人としての出世街道なのと一緒で、衛
兵になるってのは冒険者にとっての花形だからな。衛兵の中でも古
参の腕利きなんかには、冒険者ギルドが魔石を吸わせて街の防衛力
を強化してるって話だ。その分、制約の腕輪っていう、まあ奴隷に
付けてるみたいな拘束具で行動は厳しく制限されるが﹂
﹁あんなに魔石買い取って何に使ってるのかと思ってたが、指輪と
か猫目灯に使ってるんじゃなかったんだな﹂
﹁そりゃそうだ。日常生活の道具から冒険用の指輪とかまで、魔石
はいくらあっても足りないだろうさ。青天井の値段になっても困る
から相場が決まってるが、お偉いさんの本音としちゃもっと魔石を
316
売って欲しいだろうな﹂
こうして、数少ない知り合いから得られる知識は、俺にとっては
貴重なものだった。まだこの街で二ヶ月も暮らしていないので、欠
けている常識はこうやって埋めていくしかないのだ。
﹁一つ思ったんだけどな。迷宮の鉱石じゃなくて普通の鉄なら、商
業ギルドとか鍛冶ギルドやらで売ってもらえないのか?﹂
これだから素人は、とダグラスは嘆息する。
﹁鉄鉱石にも質があってな、剣を打つのに向いた鉄があるんだ。そ
れに、インゴットみたいな売り買いしやすい大きい塊にすると、そ
れはそれで剣を打つにはうまくねえ。鉄鉱石からちょうどいい鉄塊
を作るのも立派な職人の技がいるんだぜ? それを作るんだったら、
師匠のところに自分で選別した鉄鉱石を持ち込むのが一番いい。あ
そこは街の外にでかい炉を持ってるからな。うちにある炉じゃ、剣
は打てても鉱石を溶かすのには向いてねえんだ。何よりギルドを通
して買う奴は、向こうの連中が手間賃取ってる分、高くつくからな﹂
﹁剣一本打つのも大変なんだな﹂
﹁バカヤロウ、職人の仕事なめんじゃねえ。素材選びからすでに始
まってんだ﹂
﹁ということはだ、ひょっとしてダグラスも現場まで掘りに行くの
か?﹂
﹁当たり前だ。肝心要の素材を他人任せにする奴がどこにある﹂
317
﹁俺が盗賊なら、いかつい見た目のおっさんなんざ襲わねえけどな。
案外、賊より強いんじゃないか?﹂
冗談で言ったつもりだったが、ダグラスは真顔で思案を始める。
店のあちこちで木箱に立てかけられた剣のうち、一本を無造作に鞘
ウーツ
ロングソード
から抜くと、片手だけで正中線にぴたりと構えて見せた。俺が両手
で持っても重く感じる、鈍魔鋼の長剣だ。
﹁自分で使ってみないと、剣や防具の良し悪しなんかわからねえっ
てのが師匠の持論だったからな。自作の、今思えば欠点だらけの武
器防具を装備して、俺も迷宮に潜ってた時期がある。重い迷宮産の
金属を鍛えるにも、力がいるしな。食い詰めた賊なら、まあ片手で
捻れるだろうが、さすがにベテランにゃ勝てんな﹂
﹁ダグラス、俺より強いのかよ。護衛なんざ要らなくないか?﹂
﹁俺だけならな。魔物か賊か、まあ何が襲ってきたにしろ鉱夫は逃
がしてやらにゃならねえ。要するに万が一のときは、鉱夫が逃げる
時間稼ぎをしてくれりゃいい﹂
﹁ああ、壁になれってことか。了解了解﹂
﹁まあ、多分襲われることはねえと思ってるがな。平和だったら鉱
石運びの雑用でもしてもらうか﹂
気軽に頷いたあのときの俺を、叱ってやりたい。
318
︵雑用か、これ?︶
岩と鉄の混合物であるからして、結構な重さがある、赤茶けた鉄
鉱石を、両手で必死に抱えて持ち運ぶ。迷宮で魔物を討伐している
賜物で、成人男性の平均よりは何割か増しで俺の力は強いはずだが、
それでもひと塊を持ち上げるのがやっとだった。俺の持っている鉱
石よりも大きな塊を、ダグラスが軽々と運んでいて軽く自信を失う。
作業着がわりにと借りたローブは、錆びだか土だか判別もできな
いもので前がどろどろに汚れていた。
﹁ダグラス、これ、どれだけ、集めるんだ?﹂
恐らくは顔を真っ赤にしながら運んでいるであろう俺と比べて、
ダグラスは運搬をしつつも涼しい顔である。時おり、鉱山の中に入
っていっては何事かを鉱夫に指示しているようだ。
﹁人数分の台車がいっぱいになったらだな。帰りは一人一台、曳い
て帰る予定だ﹂
﹁本気で言ってんのか﹂
中に鉱夫は三人いるので、ダグラスと俺で計五人である。五台分
の台車に鉄鉱石を積み込む作業を思い、俺は気が遠くなった。
﹁がはは。気軽に受けるからこうなる﹂ ﹁これの、どこが、雑用だってんだ。どう見ても重労働じゃねえか﹂
台車の中に鉄鉱石を放り込む。割れると都合が悪いらしいので、
319
降ろすときも気を使う。
﹁よそのギルドから暇してる奴が一人、助っ人で来る予定だ。冒険
者ギルドで公募したときに、自分ところのギルドの若い者を使って
くれって頼まれてな﹂
﹁ということは、合計で六台か。まあ二人でやれるならまだマシか﹂
首を回して凝りを取る。明かりを灯した鉱山の中には、運搬待ち
の鉄鉱石が山と積まれているのが見えてげんなりする。明日は筋肉
痛だろうので、冒険はお休みになりそうだ。
﹁お、きたぞ﹂
街から鉱山へと続く道のまわりは、元は森であったらしく、伐採
後の切り株があちこちに剥き出している。人が通るであろうところ
だけは、石などで舗装されていない坂道でこそあるものの、根まで
切り株は掘り返されて、踏み固められた土のように、歩きやすくな
っていた。
チェインメイル
その坂道を、一人の少年が歩を進めてくる。鎖鎧を着込み、濃い
青に染めたマントを羽織っている。身長は俺よりやや低いぐらいで、
俺と同じような、一般的に普及している卵型の鉄兜から覗く素顔に
は、幼さが色濃く残っていた。
﹁待たせたか?﹂
ドラゴンズブレス
﹁おう、気にすんな。お前さんが竜の息吹から来た手伝いか?﹂
﹁エディアルドだ。護衛任務を引き受けてきた﹂
320
なめられないようにという魂胆なのか、ぶっきらぼうに話してい
る彼は、俺よりも二つか三つは下だろう。ダグラスはそんな冒険者
も見慣れているのか、あしらい方はも手慣れていたものだ。
﹁んじゃ、ご自慢の鎖鎧を汚したくはなかろう。このローブを羽織
って、そこに積まれた鉄鉱石を台車に運んでくれ﹂
くいっとダグラスが指さす先に、山のような鉄鉱石が鎮座してい
るのを見て、エディアルドと名乗った少年は狼狽する。
﹁話が違う。俺が受けたのは護衛任務だ。そんな誰でもできる仕事
はしない﹂
﹁依頼を全文読んだか? 護衛及び雑用ってあるだろ。どうせ敵襲
なんざないだろうから、実質は鉱石運びの仕事だ。教えてくれる奴
はいなかったのか?﹂
﹁運搬の仕事なら、そう書いておけばいいだろう。汚いやり方しや
がって﹂
悪態をつく少年に、ダグラスはどこ吹く風である。
﹁新人のひよっ子に、まともな護衛なんざ期待してねえよ。お前ん
とこの上の奴らもそれをわかってて、お前みたいな食い詰めてる奴
に声をかけて俺のところに寄越してるんだ。時間が短い割にはそこ
そこの報酬を出すからな。自分をでかく見せようと悪ぶるのは勝手
だが、依頼主は俺でお前は雇われた側だ。嫌なら帰んな﹂
ぺっと唾を吐いてから、渋々ローブを着るエディアルドである。
321
その姿を見ていて、彼の着ている鎖鎧に、ちょっとした違和感を
覚えた。どこかで見たことがあるような︱︱?
その鎖鎧の大きな特徴は、わき腹から心臓のあたりにかけて、本
来の編みこみ式の小さな鎖ではなく、大きな鎖で乱雑に縫いとめら
れていた。まるで、亀裂を修復したかのように。
﹁何だよ。じろじろ見てるんじゃねえよ。喧嘩売ってんのか?﹂
ダマスカス
ハルバード
あの鎖鎧はどこかで見たことがある。それもつい最近だ。
ふいに、ウキョウが使っていた、魔鋼製の戦斧が思い出された。
チェインメイル
﹁エヴィの鎖鎧か、それ?﹂
﹁何だよ、兄貴の知りあいか﹂ ﹁鎖鎧の傷に見覚えがあったからな。そうか、エヴィ、家族いたん
だな﹂
俺がそう言うと、エヴィの鎖鎧だということを指摘されたときよ
りも大きく彼は驚いた。
﹁この傷は、兄貴が死んだときに付いたものだぞ? それを知って
るのは︱︱あんたが、討伐隊の生き残りか?﹂
﹁まあ、そうだな﹂
言ってから、しまったと思った。俺は﹁赤の盗賊団﹂討伐隊の生
き残りだということを、おおっぴらに言っていない。フィンクスを
倒した男として有名になっても、身に余る期待をかけられるだけだ
322
からだ。
﹁もう一人の﹃アウェイクム﹄のおっさんじゃなさそうだから︱︱
あんたが報酬を全部持ってった男か。アウェイクムの奴らは、あん
たがほとんど全員、賊を倒したって言ってたが﹂
﹁そうなるのかな。たまたまだよ、シグルドにもエヴィにも助けら
れた﹂
﹁たまたまで兄貴が殺されるような奴に勝てるもんか。兄貴はベテ
ランだったからな、性格はクソみたいな冷たい奴だが、腕前は確か
だったんだ。あんた、すげえ強いんだろ?﹂
賊に押し倒されて殺されそうになったところを、エヴィには助け
てもらった借りがあった。返せないまま彼は死んでしまったが︱︱
そのエヴィに思うところがあるのか、エディアルドは悪し様に罵る。
家族同士の問題に口を出すつもりはなかったが、いい気分はしな
かった。
それに、予想通りというか、俺を強者だと勘違いしているらしい。
こうなるのが嫌だったから、俺が討伐隊の生き残りだということを
知られるのは嫌だったのだ。
﹁期待させて悪いが、俺はエヴィの足元にも及ばないよ。今もそう
だが、まだ迷宮に潜りはじめて一ヶ月の新人だ﹂
﹁おい、嘘を吐くのはよせよ。あんた強いんだろ? 人助けと思っ
て俺のパーティに入ってくれよ。ランク2の魔物は俺たちには強い
んだ、あんたが入ってくれれば一気に狩りの効率が上がる﹂
﹁中層に行けるパーティは確かに探していたが、俺じゃ実力不足だ
323
よ。見るか?﹂
口で言っても信じてもらえそうになかったので、戦闘系の技能︱
︱戦術と武器術、魔法スキルを表示させた血の紋章を見せてやる。
それを覗き込んだエディアルドは、明らかに落胆した表情になった。
ブレイバー
﹁んだよ、勇者様じゃねえか﹂
﹁なんだそりゃ?﹂
﹁武器も魔法も中途半端にしか使えない、どっちつかずのお前みた
いな奴を指す蔑称だよ﹂
イライラした表情で、エディアルドは地面に唾を吐く。
﹁強い奴ならパーティに入れりゃ楽できると思ったのに勇者様かよ。
どうせ盗賊団の奴らだって、﹃アウェイクム﹄の奴らに取り入って
金だけもらったんだろ。上手くやりやがって﹂
ここまで悪意が明確だと、俺もいい気分はしなかった。自分を大
きく見せたい跳ね返りや、言葉遣いが雑ぐらいなら個性として認め
られると俺は思っているが、これは行き過ぎていて不愉快だ。
﹁んじゃあお前、金持ってんだろ。賊の討伐賞金は全部お前が持っ
ていったって話だからな。兄貴に世話になったって言ってたし、兄
貴の分、金よこしな。参加報酬も二人で山分けしたって話だろ、そ
れでいいぜ﹂
俺はため息を吐いた。内心で、俺は完全にこの少年を切り離して
いた。
324
﹁借金を返すのに使ったからな、大した額は残っちゃいない。まあ
余るほどあっても、お前にやる分はないが。エヴィを連れてこれる
なら好きなだけ払ってやるさ﹂
﹁意味がわかんねえよ、死体を持ってこいってことか?﹂
﹁お前にやる金はないって言っただろ。俺が世話になったのはエヴ
ィであってお前じゃない﹂
﹁ちっ、ケチくせえ﹂ もう一度、エディアルドが地面に唾を吐いたところで、やり取り
を眺めていた第三者が底冷えのした声を発する。
﹁おい﹂
﹁ああ? 何だよ︱︱﹂
言い終わる前に、首元を捕まれたエディアルドは、片手一本で軽
々と吊り上げられた。エディアルドの足が宙をばたつく。筋骨太ま
しいその片腕の主は、もちろんダグラスだった。
﹁受けた任務もこなさねえで、俺が雇った奴に金をたかるとはいい
度胸だ﹂
﹁離、せ、よ、このクソ野郎﹂
﹁そうかい﹂
325
ダグラスが軽く腕を振ると、掴まれていたエディアルドは地面を
二、三回も転がって倒れ伏した。
﹁お前はクビだ。冒険者ギルドから正式に発行された任務ってこと
を、お前わかってねえな。悪評が付いた冒険者に仕事を回したがる
依頼人なんざいねえんだぞ?﹂
﹁けほっ、ああそうかい。こんな依頼がなくなって清々すらあ﹂
ドラゴンズブレス
﹁それと、ギルド﹃竜の息吹﹄は全メンバー俺の店には出入り禁止
だ。マスターにも伝えとけ﹂
﹁誰がお前の店なんざ使うか。くたばれクソ野郎﹂
唾と共に呪詛を吐き散らすと、エディアルドは早足で坂道を降り
ていった。
その後ろ姿を見ながら、ダグラスは、はあ、とため息を一つ吐く。
﹁﹃竜の息吹﹄、最大手のギルドだからと信用してたんだがなあ。
下っ端には指導が行き届いてねえか﹂
﹁そうなのか、知らなかった﹂
﹁お前さん、そういや記憶喪失だったな。有名どころのギルドは、
冒険者ならみな知ってるもんだが﹂
一ヶ月少々ではあるが、俺にとっては長い付き合いでもあり、気
心も知れてきたので、俺の事情はある程度ダグラスに話してあった。
﹁あのギルドは、所属メンバーだけなら一番多いところでな、三百
326
人は所属してるんじゃねえかな。ベテランが集まったわけじゃなく、
助け合い所帯みたいなところでな。腕がいいわけじゃないかわり、
それなりにまとまってるのは規律がしっかりしてるんだろうと思っ
てたが、単なる野放しみてえだな﹂
﹁三百人もいるのか。そりゃあ目の届かないところも出てくるわな﹂
﹁ギルドマスターと話したこともあるがな、まあ人の良い奴ではあ
ったよ。何となく慕われる奴だった。人当たりがいいし、そこそこ
面倒も見てくれるってんであいつのギルドは人数が増えてったんだ
がな。大きくなっちまうとやっぱり駄目だな﹂
﹁組織の運営の能力と人当たりの良さは別物ってな。それよりいい
のか、人手が減っちまったぞ? 鉱夫のおっちゃんたちもある程度
掘り終えたみたいだし、仕事が増えたぜ?﹂
﹁ああ、しょうがねえなあもう。おういお前ら、悪いが助っ人は追
い返した。運搬も手伝ってくれえ!﹂
腐るでもなく、鉱夫のおっちゃんたちは﹁うぇーい﹂みたいな声
を返して鉱石を運びにかかる。
俺も手伝うべく歩を進めると、﹁親方、また人追い返したんです
か?﹂﹁またですか親方﹂﹁うるせえ﹂﹁また嫁さんに怒られるぜ、
親方﹂などと笑いあっている。イジられるほど、鉱夫との仲は良い
ようだ。
﹁んしょ、っと﹂
鉄鉱石を両手に抱え、俺も運搬に加わる。掘削された鉄鉱石が、
山のように鉱山内に積まれていて、少なからずげんなりする。
327
﹁そういやジル、﹃槍の﹄奴らをお前が討伐したってのは本当か?﹂
台車の前で二人きりになったタイミングを見計らって、ダグラス
が声をかけてくる。
﹁ああ。こんなことが良くあるから隠してるんだがな﹂
﹁そりゃあそうか。誰もお前が倒したなんて思わねえだろうしな﹂
﹁俺は加護持ちなんだよ。記憶喪失で森に倒れてたって前に言った
ろ? ﹃赤の盗賊団﹄と戦ったときも、本当は俺は死んでたんだ。
行き倒れてた俺を助けてくれたのが魔物でな。フィンクスたちも、
俺に加護をくれた奴に倒してもらっただけさ﹂
﹁ほう! そいつぁお前さん、珍しいな。加護持ちとは豪気だ。ま
あ何だっていい、おかげでこうして鉄が掘れる。鍛冶連中はみんな
お前さんに感謝してるだろうよ、代表して俺から礼を言わせてもら
うぜ﹂
﹁俺がやったわけじゃないから礼を言われてもくすぐったいし、ま
あ気にしないでくれ。そんなことより、助っ人が帰った分、仕事が
増えてるだろ。鉱夫のおっちゃんたちも疲れるだろうし、一杯奢っ
てくれてもいいんだぜ?﹂
﹁がはは、そんなんでいいなら安いもんだ。職人連中、ご用達の店
に連れてってやるよ。飯も酒もうめえところだ﹂
﹁話がわかるな。それじゃあ、とっとと終わらせちまうか﹂
328
俺は鉱石の運搬に戻る。酒が出る、と聞いた鉱夫たちも、歓声を
上げて鉱石運びに取り組んでいた。
ふと、追い返されたエディアルドのことを考える。
︵もったいないことをしたなあ、あいつ︶
もったいないというのは、ダグラスとの繋がりを切ったことだ。
まともに仕事を終わらせていれば、ダグラスと面識が出来て、彼
の店に足を運ぶ機会もできたかもしれない。 開店したばかりで固定客がいないことと、新規が入りにくい店構
え、そして見た目のいかつさと商売の下手さ、これらの要素で大幅
に損をしているだけで、ダグラスはまず一流の職人である。
ダグラスが手がけた武器や防具は、他の店では手に入らないほど
に質がよく、なおかつ値段も突出して高いわけではない。素材を吟
味しているから数打ちの品よりは高いが、ダグラスの技術を考える
と、手間賃をもっと加算されていて当然の品だ。彼の打った剣をひ
と目でも見れば、それは一目瞭然である。
装備に己の命をかける冒険者のことであるから、どれだけダグラ
スが商売下手だろうが、品物の良さが知れ渡って、いずれこの店が
大繁盛するのは火を見るより明らかである。流行っていない時期に
ダグラスと面識を持てたというのは、幸運以外の何物でもない。
当初は流行らない店のてこ入れなのかと思っていたが、ディノ青
年がこの店を俺に教えたのは、ダグラスの腕を知っていたがゆえの、
純粋な好意から来るものだったと今はわかる。
俺は縁をつなぎ、エディアルドは縁を捨てたのだ。
329
第二十三話 性別固有魔法 前編
︵おうッ、あいたたたた︶
職人や鉱夫連中が集まるだだっ広い酒場で、狂騒かと目を疑うほ
どの大宴会をした翌日、俺は二日酔いに苦しんでいた。
なんとも荒々しい性格の男たちが集まって飲み明かすとあって、
エ
一気飲みはする、歌いだす、腕相撲をはじめて机を壊す、他の机で
ール
ワイン
飲んでいる職人に絡みだしたりとやりたい放題である。もちろん麦
酒や葡萄酒の空き樽が飛び交うなんていうのはしょっちゅうで、実
に賑やかな酒宴であった。
よくあの店を切り盛りしていられると、店主に畏敬の念を抱くほ
どである。
﹁ご主人様、お水を飲まれますか?﹂
﹁ああ、くれ﹂
ずきずきと響く頭を抱えながら、俺はベッドに突っ伏していた。
エリーゼの優しさが沁みる。
﹁だらしないわね。何で苦しむとわかってて飲みすぎるのかわから
ないけど﹂ ﹁つ、付き合い。そう、付き合いなんだ﹂
﹁みんな男はそう言うのよ。女にとっちゃいい迷惑だわ﹂
330
﹁返す言葉もございません﹂
エミリアの言葉も、別の意味で心の傷に沁みる。
﹁覚悟はしてたんだが、この体調じゃ今日の迷宮はお休みだな。お、
ありがと﹂
エリーゼから木のコップを受け取り、一気に飲み干す。気休め程
度ではあるが、かすかに痛みが和らいだ気がした。
﹁それにしても、一日中寝てるっていうのも、不健康だなあ。ちょ
うどいい、ダグラス︱︱ああ、行き着けの鍛冶屋の店主な︱︱に、
昨日の任務報酬をちょっと色付けてもらったし、みんなの髪、切り
にいこうか。午後には二日酔いも治ってるだろうし。みんな、午後
は暇か?﹂
﹁ええと、実は最近、三人ともお仕事を見つけまして。晩御飯に近
い時間は空けさせて頂きたいのですが、それでもよろしいでしょう
か?﹂
﹁なにそれ初耳﹂
自由時間であれば働いて自分の小遣いにしていいと確かに言った
が、まだ数日しか経っていない。エリーゼだけならともかく、エマ
とエミリアもこんなに早く仕事を見つけるとは、正直なところ予想
していなかった。
﹁水臭いな、教えてくれよ。それじゃあ今日はお祝いも兼ねて豪勢
にやろう﹂
331
﹁いえ、お気持ちは嬉しいのですが、それはどうか遠慮させて頂け
フルプレート
ますと。そこまでして頂いても、心苦しいばかりです﹂
ダマスカス
エリーゼの防御はいつも、魔鋼製の全身鎧さながら鉄壁である。
﹁エリーゼはいつもお固いなあ。でも、他の二人はいいもの食いた
いだろ?﹂
エリーゼを出汁にするようでちょっと後ろめたいが、こう言えば
残りの二人は乗ってくるだろうと、俺は思っていた。 ﹁いりません﹂
﹁いらないわ。エリーゼの肩を持つわけじゃないけど、確かにジル
はやりすぎ。厚遇と甘やかしは別物よ﹂
エミリアに贅沢を拒絶されたのも驚きであるが、それ以上にエマ
が明確な拒絶の意思を示したことが青天の霹靂であった。いりませ
ん、という短い言葉ながら、エマが俺の意思に反したのは初めての
ことである。
確かに、ここ最近というもの、エマの懐き具合が度を越していた
ので、いわゆる依存状態にならないか心配をしていたが、それは杞
憂だったようである。少女たちは、俺の予想よりはるかに早く成長
していた。
﹁エミリアはいいとして、エマもちゃんと自分の意見を言えるよう
になったのか。なんか感慨深いなあ。何かやりたいことがあったら
応援するから言ってくれ﹂
332
﹁はい﹂
無表情ながら、妙に嬉しそうに、縦に何回も首を振るエマである。
ふとエリーゼの方を見ると、さっと視線を逸らされた。まるで、
目を合わせるのを避けるように。不思議に思ってエミリアの方を向
いてみると、何がまずいのか、脂汗を流しながら、やはり視線の先
が左右に泳いでいる。
何か、変なことを言っただろうか?
﹁まあいいや、じゃあご馳走はなしだ。でも、みんながちゃんと、
一人前の人間として、自立の意思を示してくれたことは俺にとって
はやっぱり嬉しいことなんだ。床屋はやっぱり奢らせてくれ。みん
なのさっぱりした姿も見たい﹂ ﹁ありがとうございます﹂
エリーゼが何か言うより先駆けて、エマがぺこりと頭を下げたの
で、床屋に行くことは決定事項になった。ふとエリーゼと見ると、
エミリアと視線を見合わせて、何やら困ったような顔をしている。
本当に、一体どうしてしまったのだろう?
昼飯として、床屋に行く道すがら、揚げ鳥のチシャ葉巻きという
サンドメイズ
料理を食べる。
迷宮焼きのような、いわゆる﹁持ち歩きもの﹂としてこの街に定
着している料理で、瑞々しい葉野菜に、揚げた鳥肉をくるみ、乳精
を使ったまろやかなソースをかけてかじるのだ。
皿を使わないで食べられるようにと、大きめの葉野菜にくるまれ
たそれは、大口を開けてかぶりつくと、瑞々しいチシャ葉の中から
333
旨味たっぷりの揚げ鳥の肉汁があふれ出してきて、乳精のソースと
まろやかに絡む。行儀は悪いものの、かじりついたチシャ葉の隙間
からソースが溢れてきてちょっと慌てるところまで定番となってい
る、街の人々に親しまれた食べ歩き料理だ。
﹁じゃあ、俺は外で待ってるから。綺麗な子にしてあげてください﹂
にこやかに愛想笑いをする床屋の主人に三人分の3,000ゴル
ドを前渡しして、俺は床屋を後にする。
女性の身だしなみというのは軽んじていいものではないと俺は思
っているので、椅子一つを商売道具に露店を出しているような理髪
師ではなく、しっかりと店を持っている床屋にまで赴いたのだ。弟
子に調髪を任せることはあるが、仕上げはしっかり自分でやるとい
ひげ
うこだわり派の店主がやっている店である。
なお、髭の形など、首から上の体毛にこだわる人は多く、この街
では人によっては毎朝、床屋に赴く。
俺が払った一人1,000ゴルドというのは床屋の相場としては
高い方なので、いい仕事をしてくれるだろう。前もってドミニカに
評判のいい床屋を教えてもらったので、外れはないはずだった。い
つの時代も、女衆の情報網というのは深く広いものである。
﹁さて、何をして時間を潰そうかな﹂ この街で一ヶ月と少ししか暮らしていない俺のことである。友達
と呼べる人間は少なかった。
キリヒトは捕まらないだろうし、ディノ青年のところに行くにし
ろ、特に用はない。一時間だけでは酒も飲めないし、二日酔いの後
で酒を飲みたいとは思わなかったし、何より真昼間から押しかけて
334
は単なる仕事の邪魔だ。
︵ん?︶
ちょっと後戻りして、露店の立ち並ぶ区画でも冷やかして歩こう
かと思っていた矢先、何やらぱたぱたという羽音がする。
警戒心の強い野鳥が、街中を飛ぶことは珍しいので、だんだんと
近づいてくる羽音の方に視線を向けると︱︱
こうもりが、じっと俺を見ながら目の前三十センチほどを滞空し
ていた。
︵!?︶
有り得べからざる光景に、俺は脳の処理が追いつくまで固まって
しまった。
ねずみに似ている特徴的な顔つき。豆粒のように小さい、漆黒の
瞳。枯れ枝のような腕から広がる、血管の透けた翼。
間違いなく、こうもりだった。それも、足の鉤爪が発達している
ことから、これはチェルージュの元にいたこうもりである。
︵いやいやいや︶
何が一番おかしいかといえば、その発達した鉤爪で、一通の手紙
をつかんでいることだった。しっかりとたたまれた手紙には、こう
もりが象られた赤い封蝋まで施されている。
恐る恐る手紙を受け取ると、満足したのか、こうもりはどこかへ
と飛び去っていった。鉤爪で掴まれていたにしては、皺一つない、
まっさらな手紙である。
335
こうもりが手紙を運んできたという事実はやはり驚愕するもので
あったらしく、周囲の人々が遠巻きに俺を見てはひそひそ声で何や
ら喋っているので、俺は赤面しながらその場を後にした。
ココナカカオ
少し離れた喫茶店兼、軽食屋のような店に入り、一杯の甘糖珈を
注文する。まろやかで濃く、甘いながらもビターな味わいの飲み物
で、迷宮で産出する甘糖珈の種子から作るものだ。
本来はもう少し苦い飲み物なので、砂糖と牛乳を少し足している
のだろう。
喉を潤してから、恐らくはチェルージュがこうもりに持ってこさ
せたであろう手紙を開くと、ふんわりと、花のような香りがした。
香水か何かを付けてあるのだろうか、芸が細かい吸血鬼である。
テリング
﹃念話の指輪を一組買って、こうもりに渡してあげて。ジルと私の
連絡用だから、片方はそっちで持っててね。すぐマナがなくなる安
物じゃなくて、一番いい奴で﹄
﹁お、おう﹂
手紙を読み終えて、まっさきにこみ上げてきたのは、言葉にでき
ない、もやっとした気持ちである。一体何の用かと思ったら、まさ
かただのお使いなのだろうか。
逸りをすかされたというか、妙にがっくりした気分になるが、他
ならぬチェルージュの依頼である。森で行き倒れていた俺を助けて
くれた恩もあるし、この街で生活するだけの資金となる魔石をくれ
336
たのも、フィンクスたちとの戦いで命を助けてくれたのもチェルー
ジュである。
それこそ、返せないほどに借りがあるし、お使い程度ならば安い
ものだ。
なるべく早めに希望を叶えてやろうと思い、急いで残りの甘糖珈
を飲み干すと、喫茶店を後にした。
魔法ギルドへは、魔法を唱えるための魔石を何回か買いに行って
いるので、道にも慣れたものである。街の中心地、中央広場から円
周上に広がる、冒険者ギルドの本部などと並んだ、石造りの大きな
ナイトサイト リターン
建物がそれだ。もう俺が歩く路地の先には、魔石を象った紋章の、
テリング
魔法ギルドの看板が見えている。
︵たっか︶
魔法ギルドに入り、念話を始めとして、暗視や帰還などの魔法の
ゼロ
指輪が並べられた一角で、値札を見比べていた結果、それらに並ん
だ0の数に俺は少なからず引いた。
念話の指輪の中でも、最高級の魔石を使ったという注釈付きの上
等品は、一組で200,000ゴルドもした。一日一回使うだけな
ら、千年は内臓のマナがなくならないとのお墨付きである。丸一日
喋っていても、数年は保つそうだ。
念話の指輪だけに200,000ゴルドとは、庶民にはおいそれ
と手の出ない価格であるが、それはあくまで実用品の中での話で、
金に精緻な彫刻が施されたものや、様々な色の石を嵌めこんだ指輪
337
などもあって、そっちはもっと値段が張った。文字通り、桁が違う。
﹁この指輪、ください﹂
俺が指し示したのは、地味ながらも最高級の魔石を使ったと言わ
れる、先ほどの200,000ゴルドの指輪である。手近な男性の
ギルド職員に声をかけたのだが、俺が指し示した指輪の値段を見て、
彼はやり手そうな女性職員を手招きした。
︵なぜわざわざ、別の職員を呼ぶ?︶
この流れは、何か嫌な予感がする。具体的には、買う予定のない
ものを、話術巧みに買わせようとする、店側の策略の臭いがする。
﹁あらあらまあまあ、念話の指輪のお買い上げで。女性の方への贈
り物ですか?﹂
︵女性と言われれば、まあそうだな。人間ではないが︶
頷いた俺を見て、喜色を浮かべた中年の女性職員は、品の良い笑
顔を浮かべながら指輪をあれこれと取り出し始める。
﹁お客様のような凛々しい方から指輪を贈られるなんて、幸せな女
性でございますね。普段使うだけならこちらの装飾のない指輪でも
結構なのですが、ちょっとした彫刻であったり、磨いた宝石を散り
ばめてありますと、女心としては嬉しいものでございます。贈り先
の方が、左の薬指に指輪を通されるかもしれないことも考えますと、
こちらの指輪などはいかがでしょう﹂
店員の女性が手袋をした手で丁寧に差し出してきたのは、金の指
338
輪に何やら彫刻が施されたものである。 ︵やっぱりそうか︶
上客と見て、売り上手な店員を呼んだというところだろう。買い
物に来ている以上、無下に追い払うのも気が進まないので、結局は
話に付き合わざるを得ない。
﹁えっと、実用品を贈る予定なんだが、左の薬指に指輪を嵌めると
何かあるの?﹂
﹁あら、ご存知ありませんでしたか。左の薬指に対となる指輪を嵌
めた独身の男性から、女性に指輪を贈りますと、一般的には求愛の
しるしになります。女性の方も、左の薬指に受け取った指輪を嵌め
ますと、男性からの愛を受け入れたことになるのですわ﹂
﹁そうなのか。まあ色恋沙汰で指輪を贈るわけじゃないからなあ﹂
興味本位で、指輪に付けられた色々な額の値札を流し見している
と、ふと、一つの指輪が目に止まった。
﹁それでも、ほんの少しの可愛さで、嬉しくなるのが女性というも
のですから﹂
﹁なあ、こういう装飾がついた指輪って、念話の魔力ってどうなる
んだ? 実用品と比べて、すぐ魔力がなくなるとか﹂
﹁いいえ、指輪に嵌める魔石は、お客様のお好きなものと交換頂け
ます。念話機能を使わないお客様には、圧縮量の少ない魔石を用い
ればお値段も軽くなりますし、どの指輪に最高級の魔石を嵌めるこ
339
とも可能でございます。先ほどお客様が手に取られていたのは、2
00,000ゴルドの最高級の魔石を、実用のみ考えられた無料の
指輪に嵌めたときの額でございますから、女性に贈られるなら、い
ささか︱︱﹂
﹁なるほど。さっきの指輪は、タダの指輪に一番いい魔石を使った
値段か﹂
本来の俺であれば、指輪に金をかけるなんて言語道断である。そ
んなものに興味はないし、贈り先のチェルージュにも、求愛のつも
りで贈るわけではないのだ。
︵とはいえ︱︱︶
俺の視線は、先ほどから、一つの指輪に注がれている。
ハート
金の肌に、心臓の形の小振りな琥珀が嵌められているものだ。ど
ことなく、チェルージュの瞳の色に似ている。
考えてみれば、今の俺があるのはチェルージュのおかげである。
感謝の気持ちを、ちょっとばかり物で表してみるのもいいかもしれ
ない。チェルージュのなめらかな白い指に、琥珀と金の指輪。何と
なく、似合っている気がした。
﹁こちらの指輪がお気に召しましたか?﹂
﹁ああ。贈り先の、瞳の色に似てたんだ。これに、最高級の魔石を
嵌めてくれ﹂
﹁お目が高うございます。腕の良い細工職人が作った指輪でして、
彫刻も見事でございますが、指輪の底に魔石を嵌める窪みを設けて
340
ありますので、生活をしていて邪魔になりにくい機能美もございま
す﹂
店員はうきうきと魔法ギルドの奥に引っ込むと、赤い絹布の上に
二つの指輪を載せて持ってきた。そういえば、一対ってことは、俺
の分もあるんだったな。
﹁男性側から特に求愛をしないときは、どの指に嵌めればいいんだ
?﹂
﹁男性、女性ともに、右手の薬指に嵌められる方が多いようです。
コントラクト
冒険者の方は、宝石を傷つけないために石を手のひらの側に向ける
ことが多いですわ。指輪を嵌められましたら、﹃契約﹄と仰って頂
ければ念話の機能が使えるようになりますので、失礼ながらお先に
御代を頂けますと﹂
﹁わかった﹂
財布がわりに使っている懐の小袋から、金貨を銀のトレイに並べ
ていく。
一対の念話の指輪、魔石の代金込みで460,000ゴルド。金
細工に職人の手間賃があるだろうから、貴金属の装飾品ということ
を考えれば妥当な値段なのだろうか。
コントラクト
﹁さて、契約﹂
右の薬指に嵌めてから宣言すると、ぶかぶかだった大き目の指輪
が淡く光り、俺の指の太さにぴったりと合うように縮まった。なる
ほど、気にもしていなかったが、装着者の指のサイズに合わせてく
れるらしい。
341
﹁これで、お客様の側では手続きは完了です。後は、贈り先の女性
が指に嵌めまして、同じく契約の宣言をして頂ければ念話が使えま
す。ご利用方法ですが、指輪にマナを流して頂ければ、指輪が反応
して起動状態になりますので﹂
﹁わかった。じゃあ早速、届けるとするか。ご丁寧にどうも﹂
半ば商魂というか、営業トークではあったのだろうが、指輪を選
ぶ一助であったことは間違いないので、軽く礼を言って魔法ギルド
を後にする。
少女たちの調髪もそろそろ終わっているかもしれないので、急ぎ
足で床屋まで歩き出す︱︱。
ぱたぱた、という羽音に空を見ると、チェルージュのこうもりが
またしても飛んできていた。
﹁ずっと待機してたのか、お前?﹂
小首を傾げたこうもりは、俺が右手に持っていた、指輪を納めて
おくための小箱を、翼の先でぺしぺしと叩く。
﹁開けろってか﹂
俺が小箱を開けると、こうもりは発達した鉤爪で無造作に指輪を
つかむと、足にぶらさげたまま、彼方へ飛び去っていった。
342
第二十四話 性別固有魔法 後編
﹁ああ、ご主人の方ですか。もう間もなく仕上げが終わりますので、
おかけになってお待ち下さい﹂
エマたちを預けた床屋に戻ると、店主が椅子を勧めてくれた。
弟子らしき人が紅茶を淹れてくれたので、ちびちびと啜りながら
三人を待つ。
サボナサボテン
落ちている髪の毛がわかりやすいようにという配慮なのか、白っ
ぽい木材で作られた店内は、泡油樹の清潔な香りに満ちていた。洗
い場の周辺だけ、水避けのために分厚めの布が敷かれていて、四人
の弟子が接客や床掃除で忙しそうに立ち回っている。
クリエイトアクア
布で顔を隠されたまま、台に仰向けになって頭を流されているの
は、髪の色から察するとエリーゼである。弟子が、作水の魔法で黒
髪についた泡を洗い流していた。頭をもたれかけさせる突起のつい
た洗面台には、直接下水へとつながる穴が開いているようだ。
﹁三人とも、頭を流せば出来上がりですので、もうしばらくお待ち
を﹂
必ず店主が手がけると噂の仕上げ調髪は終わっているのか、弟子
に残りを引き継ぎ、細面の店主は俺のそばに腰かけた。
若いころは女性に騒がれたであろう、顔の皺が渋い中年の男性で
ある。
﹁定期的に頭を洗っているのか、三人とも髪の痛みは少なかったの
343
で、かなり化けたと思いますよ、楽しみにして頂いて結構です﹂
﹁化けた?﹂
﹁ええ。見違えたと思います。どういう髪型にしたいのか、他人か
らどう見られたいのか、この店では調髪の前に一人一人と面談する
ことにしています。あの子たち︱︱失礼、手がけた客をどうもあの
子呼ばわりする癖がありまして︱︱みな、表現の差はありましたが、
女性として意識されたいという希望は共通していましたので、気合
を入れてやりましたとも﹂ ﹁そうか。そりゃ気づかなかったな﹂
考えてみれば、三人ともこの街の法では成人であった。女性とし
て意識されたいということは、要するにいつまでも少女扱いをする
なということであろうか。なるほど、言われてみればその通りであ
る。
﹁少しずれている気がしますが、まあそこまで口を出すのは野暮で
すかね﹂
弟子の淹れた紅茶を啜りながら、店主は苦笑いであるが、その理
由が俺にはわからなかった。
﹁お、終わったようですね﹂
近づいてきた足音に顔を上げると、くすんだ金髪を、首のあたり
で短く揃えた少女が立っていた。
﹁エマ、か?﹂
344
﹁おわりました、ごしゅじんさま﹂ 本当に、見違えるようだった。今までのエマたちは、みな伸びる
に任せて背中までぼさっと髪を垂らしていたのが、エマの場合、軽
やかに切り揃えられているだけではなく、くすんだ金髪が艶を取り
戻していた。
血色のいい頬がほんのりと桃に染まっていて、丸みを帯びた髪型
と相まって、直視するのが眩しいほどである。 ﹁では、この子から、施した調髪を説明していきますね。まず、ご
覧の通り、全体的に短く切りました。可愛くなりたいという要望だ
ったので、髪の美しさよりも雰囲気を重視して仕上げてあります﹂
変わりすぎである。昨日までの、俺にちょろちょろと近づいてく
る小動物然としたエマの姿から、いきなり一人の女の子に成長した
ようだ。店主が、化けると言っていた意味がよくわかる。
フロンティア
﹁唐突ですが、﹃開拓者﹄のボーヴォ氏はご存知で?﹂
﹁面識はないが、凄腕冒険者の彼ならもちろん知ってるが﹂
﹁卵型の兜から飛び出た髪を、彼は邪魔だからという理由で、しば
しば冒険のたびにすべて切り落としていました。そんなボーヴォ氏
のあだ名から取って、ボブカットと呼ばれている調髪ですね。それ
が今回の彼女の髪型になります。通常はもう少し、首の方まで裾広
がりに切るのですが、今回は首の後ろで絞るように短く切ってあり
ます﹂
﹁なるほど﹂
345
正直なところ、エマの変わりっぷりに驚くばかりで、内心ちょっ
と慌てていた。
なので、すぐ近くに寄られるまで、もう一人の接近に気づかなか
った。
﹁ご主人様、お待たせしました﹂
﹁お、おお。すまん。エリーゼも終わってたか︱︱﹂
声からしてエリーゼだと判断して、くるりと首を回した俺の前に
立っていたのは、やはり化けた少女である。
眉毛が隠れるか隠れないかぐらい、横一直線に前髪は揃えられて
おり、くるりと身をひるがえすと、艶やかな黒髪が軽やかに背中で
踊る。 ﹁この子は目が細いのを気にしていたようなので、長所をうんと伸
ばす形で長髪のままとしました。方向性としては、美しい女性とい
ったところですね。もともと綺麗な髪をしていましたので、暑苦し
くないように全体の髪の量を削り、香油で艶を引き立たせています﹂
同じ長髪でも、しっかりと手入れをするとここまで違うのかと、
俺は驚きを禁じえなかった。伸びるに任せっぱなしでぼさぼさして
いた背中の髪はすっきりして、櫛を丁寧に入れたのか、髪は流れる
かのようだ。
﹁ご主人の方、もしお持ちでなければ、髪に付ける香油と櫛だけで
も買っていかれませんか? 洗髪の後に櫛をかけて、香油を伸ばし
塗ってやるだけでこの髪の艶は出ます。どうも、櫛をかけたことも
ないようでしたので﹂
346
﹁俺が櫛なんか使ったことがなかったからなあ。男だと、そのあた
りの女性の機微がわからなくて困るんだよな。女性しか使わないよ
うなものとか、みんな遠慮して欲しいって言わなかったりするから。
すまんが店主、一通り、あった方がいいものを見繕ってくれるか?
櫛とか化粧道具とか﹂
﹁かしこまりました。個人的な意見ですが、髪の長い子は、化粧が
似合うはずです。自分の目が細いことを気にしていましたが、上手
なお化粧をすると、今よりもっと化けますよ﹂
確かに、エリーゼは背が高くて目が細いので、ちょっとキツネっ
ぽい印象はあるが、気にしてたのか。今度、少女たちに化粧を教え
てくれるよう、宿のドミニカに頼んでおこう。
﹁身近な人間がいきなり別人になったみたいで心臓に悪い。これ以
上化けさせるのは今度にしておくよ﹂
﹁ははは。おっと、最後の一人も終わったようですね﹂
残りはエミリアである。よしもう驚くまいと、覚悟を決めたのは
一瞬のことで、椅子から立ち上がってこちらを向いたエミリアを見
た瞬間、やはり俺はその化けっぷりに驚愕するのであった。
﹁何よ。やっぱり変?﹂
手間のかけ方で言えば、エミリアが最も時間を使っているだろう。
エリーゼよりもやや短くした、胸元ぐらいまでの栗毛は、どうセ
ットしたのか、毛先が波立っている。俺が買ってやった、お揃いの
粗末な服装にさえ目を瞑れば、どこかのお嬢様としか思えないほど
347
に品があった。
﹁ほら、何か言ってあげないと﹂
わき腹を肘で小突かれ、俺は我に帰った。
﹁あ、ああ。よく似合ってるよ﹂
﹁もう、変なら変って言えばいいのよ。マスターのお世辞に乗って
こんな風にしたけど、馬鹿みたいだわ﹂
これはやばい。拗ねた顔つきではなく、真顔でぼやくときのエミ
リアは本当に機嫌が悪い。
﹁いや、すごく変わったから驚いたんだ。大丈夫、可愛くなってる
よ﹂
﹁そう? ならいいけど﹂
褒められてまんざらでもなさそうなエミリアである。
﹁まあ、どうせ髪を洗うときにセットなんて崩れちゃうんだけどね。
毎回この髪型にするために1,000ゴルド払う気にはならないわ﹂
﹁大丈夫、最小限な道具と鏡さえあれば家でもセットできるから。
ご主人の方が買ってくださるそうだよ?﹂
﹁櫛に鏡、化粧品、全部ひっくるめて今日のうちに買っておこう。
あって困るものでもないし﹂
348
それこそ自分たちの使う物なんだから自分たちで買うべきでは、
なんて言い出しかけてるエリーゼを手で制す。
﹁じゃあ、最後にご主人の方に、全員に施した調髪をまとめて説明
しますね。髪型にはそれぞれの持ち味が出た方が良いですので、個
性を引き立たせる方針で切りました。そっちの小さい子、エマちゃ
んは金髪を短めのボブカットに、背の高い子、エリーゼちゃんは黒
髪を長くストレートに、エミリアちゃんの茶髪は背伸びしてお洒落
したい女の子風にカールをかけて。お気に召して頂けましたか?﹂
﹁いやあ、さすが専門の職人ですよ。感服です。ここまでみんなが
化けるなんて﹂
﹁私が言うのも何ですが、あんまり女の子の前で化けるなんて言っ
ちゃだめですよ? 細かいことを気にする年頃なんですから﹂
﹁店主には適わないな。気をつけるよ﹂ 俺も店主も、苦笑いである。
﹁後は、基本的な道具だけ見て頂きましょうか。櫛に香油、鏡、あ
とは髪の毛をセットするカーラーと、髪留め針ぐらいですかね。カ
クリエイトウィンド
チューシャみたいな、飾り気のある装飾具は女性に贈ると喜ばれま
すので、後日に気が向いたらまたいらしてください。作風の魔法が
髪の毛を乾かすには便利なんですが、うちでは扱っていませんので、
それも必要でしたら魔法ギルドまで行って頂いて﹂
﹁何となくわかってたが、女性陣の身の回りの品は本当に数が多い
なあ﹂
349
﹁私が言った分は、道具の中でも、本当に最低限のものだけですよ。
こだわる方は大量の道具が入った化粧棚を持っていますし。その気
がおありなら、腕の良い細工師を紹介しますよ?﹂﹂
﹁はは、それぐらい買ってやれるように出世しないとな﹂
﹁はい。髪の毛も、自分だけでの手入れには限界もありますので、
伸びてきたかなと思ったらまたお越し下さい﹂
にっこりと笑う店主に見送られて、床屋を後にする俺たちであっ
た。
﹃やっほー。ジル元気ー?﹄
四人で家に帰り、各人がベッドや椅子に腰かけ、一息ついたとこ
テリング
ろで、部屋の中に桃色の声が響き渡る。妙に気の抜ける声の発生源
は、俺の右手薬指だ。念話の指輪の魔石がうっすらと輝き、声はそ
こから発せられている。
﹁おう。元気ではあるが﹂
加護もチェルージュのこともエマたちには言っていないので、彼
女たちにとっては見知らぬ女性の声である。現に、何事かとみな、
固まってしまっている。
﹁ずいぶんかけてくるのが早いな。どうした?﹂
350
﹃今日暇でしょ? 買出しというか、調べ物をちょっと頼まれて欲
しいんだけど﹄
﹁欲しいもの、指輪だけじゃなかったのか。構わんが、何をだ?﹂
指輪、といったところでエマたちは三人ともぴくりと反応した。
視線は俺の嵌めた指輪に注がれている。
﹃あ、指輪はありがとうね、すごく気に入ったよ。左の薬指に嵌め
てるよ﹄
﹁おいこら﹂
求愛した覚えはない。
左の薬指、という単語でエマたちの血相が変わったのは気のせい
だと信じたい。
﹃調べ物だけど、ちょっと量が多いんだよね。メモって取れる?﹄
うちに紙なんてあったかな、と目を泳がせると、エリーゼが麻布
の切れ端とペンを差し出してくれた。勉強用の道具なんて俺は渡し
ていないので、自分たちで調達してきたのだろう。手振りで礼を言
う。
﹃えっとね、まずは、隷属の首輪か、衛兵の使ってる誓約の腕輪、
フロンティア
このどちらかが欲しい。できれば前者がいいな。魔法ギルドで手に
入るかどうかと、あとは開拓者のボーヴォさん。彼との面識が欲し
い﹄
﹁おいおい、穏やかじゃないな。首輪が欲しい理由もよくわからん
351
が、彼と喋ってどうするんだ? チェルージュ、一応魔物の枠に入
ってるんだし、先方に迷惑かけるならお断りだぞ?﹂
﹃迷宮内で沸く、原初の魔物なんかと一緒にされたくないなあ。ジ
エルフ
ゴブリン
ルは知らないかもだけど、地上で生活するありとあらゆる魔物は迷
宮で生まれたんだよ? 森人や吸血鬼、人間だってそう。矮人も、
迷宮の中の原種族よりも、街の外で暮らして経験を積んだ個体の方
が強いでしょ?﹄
﹁いま、さらっとすごい重要なことを言われた気がするんだが。そ
れって一般常識なのか?﹂
少女たちの方を見ると、エリーゼとエミリアは全力で首を横に振
っていた。
﹃あれ、そうなの? ちょっと考えればわかると思うんだけど。確
かに迷宮は広いけどさ、生まれる魔物全員が食べていけるだけの食
料はあそこには自生しないんだよね。種として繁栄しようと思った
ら、薄いマナで弱体化するのを覚悟して地上に出てくるしかないし﹄
﹁なんか、知られたら大事になるような情報がぽんぽん出てくるな﹂
﹃そのあたりの迷宮は、人間が出口をすべて封鎖してるから気づか
なかったのかもね。迷宮はそこだけじゃなくて、世界のありとあら
ゆるところにあって、また別の生存競争があるんだけど。まあ本題
から逸れたから、この話はこれでお終いにしようか。できればこの
情報は公にはしないでね﹄
﹁それはわかった。欲しい情報は、首輪が買えるかどうかと、ボー
ヴォ氏との面識だけでいいのか?﹂
352
﹃今はそれだけでいいよ。後はこっちでやるから﹄
﹁重ねて言うけど、悪用するなよ?﹂
﹃悪用の定義によるけど、ジルに迷惑はかけないよ。研究に使うだ
けだし、後者は個人的な興味があるだけだから﹄
まあ、それならいいか、と俺は納得する。有名人の住所を教えた
ところで、まさか闇討ちにはすまい。チェルージュは、金にも力に
も困っていないので、その必要性がない。
﹃後は、みんなに私のこと紹介しておいてね。隠してるわけじゃな
いんだよね?﹄
﹁言って信じてもらえるかは別問題だが、まあ了解だ﹂
エマたちは顔を見合わせる。どことなく不安そうな表情だ。
﹃私はチェルージュ・パウエル。ジルの上司みたいなものだね。言
ってみれば、ご主人様のご主人様だ﹄
﹁こらこら、そこまで首輪付けられた記憶はないぞ﹂
﹃あ、命の恩人にそういうこと言っちゃう? 指輪まで贈ってくれ
たのにな、私悲しくなっちゃうな﹄
﹁誤解されるのがわかってて楽しんでるだろ、お前﹂
﹃そりゃそうだよ。私はジルの瞳を通して、どんな顔で彼女たちが
353
ジルを見てるのかがわかるからね。知らぬは当人ばかりなり、って
ね﹄
﹁まあ、よくわからんがわかった。首輪が手に入るかはわからんが、
そのときはこうもり寄越してくれ﹂
﹃了解、またねー﹄
ぶつん、と何かが消えるような音がして、念話の指輪の輝きは消
えた。部屋には、重苦しい沈黙が残っている。エマたちは三人とも、
﹁話して頂けますよね?﹂ぐらいの顔でこちらを睨んでいる。
︵どう説明したものか︶
俺はじりじりと近づいてくる少女たちを前に、頭を悩ませるので
あった。
﹁︱︱なるほど、要約すると、先ほどの女性は、街の外で暮らして
いる吸血鬼で、ご主人様に加護を与えた方だと。そういうわけです
ね?﹂
あけひめ
﹁そうだな。通称、朱姫様だ﹂
﹁加護の内容は、常にMPの一割を使って、瞳にマナを溜めるとい
うもの。そのマナを使って、朱姫様はご主人様の見ている光景を遠
くにいながらにして把握したり、ご主人様が瀕死になったときは、
354
溜まったマナを使って助けてくれる、これで合ってますね?﹂
﹁そうだな。合ってる﹂
今の俺はというと、椅子に座ってはいるのだが、壁を背にしてい
て、三方を同じく椅子に座った少女たちに囲まれている。逃げ場が
ない上に、至近距離から三人の真剣な瞳に射抜かれていて、すさま
じく居心地が悪い。
﹁先ほど、盗賊団の討伐の時まで、後ろ半分の加護の詳細を知らな
かったと仰っていましたが、つまるところ、ご主人様はそこで死に
かけたのですね?﹂
俺を詰問しているのは、代表者としてエリーゼである。日頃、怒
られているエミリアに助け舟を出している俺だが、矛先がこっちに
向くと、これは中々に威圧感のあるものである。床屋帰りからそこ
まで時間が経っているわけではないので、エリーゼの見た目は綺麗
系の美女のままなわけだが、そんな彼女が真顔で詰め寄ってくるの
である。
﹁死にかけたというか、正確には一度死んだ。あの日帰ってきたと
きに、胸元に大きい傷あったろ? あれは賊の頭目から斬られた傷
で、肩から内臓までばっさりいかれたんだ。チェルージュの助けが
なければ、即死だったと思う﹂
﹁︱︱その傷を受けるまで、朱姫様が助けてくれることは知らなか
ったのですね?﹂
﹁そうだな。正直なところ、斬られた瞬間は、終わったと思ったな
あ。走馬灯とかも見えたぞ、ははは﹂
355
にこやかに笑って場の空気を変えようとした俺の目論見は、まる
で意味を為さなかった。エマは真顔でずっと俺を見ているし、エリ
ーゼは眉間を抑えて考え込んでいるし、エミリアは、わなわなと震
えていた。
﹁ねえジル、つまり、たまたま朱姫様?が助けてくれただけで、本
当は死んでたってこと?﹂
黙りこんでしまったエリーゼに代わって、二番手はエミリアであ
る。
﹁その通りである﹂
﹁私たちの身請け金、そこで稼いだのよね? 盗賊団の討伐隊に参
加して﹂
﹁そうだな。俺を含めて生き残りは二名だけだ。最後にチェルージ
ュが来てくれなければ全滅してたな。もう一人が、命が助かったこ
とを俺に感謝してて、賞金をほとんど全部くれたんだ﹂
﹁危険だってことはわかってて、討伐隊に参加したのね?﹂
﹁元々、俺が参加していいような集まりじゃなかったからなあ。討
伐隊は、みんなベテラン冒険者ばっかりだった。本当は、賞金首の
一人でも倒せたらいいなって思ったんだが、賊の方が上手だったか
ら、返り討ちになったわけだ﹂
﹁︱︱私たちがいなかったら、討伐隊には参加しなかった?﹂
356
素直に言うかどうかちょっと迷ったが、事ここに至っては隠し通
しておける気がしなかった。
﹁そうだな。俺は、安全圏を多めに取って狩りをしてたからな。実
力に合わない依頼なのはわかってたから、参加はしなかったと思う﹂
はあ、と深いため息をついて、エミリアはぐったりしてしまった。
﹁何で、言ってくれなかったのよ。いい格好したかったわけ?﹂
﹁結果的にはそうなるのかなあ。前からさ、みんなを奴隷商人のと
ころから引き取ったり、飯を食わせたりしてるのを、気にしなくて
いいって言ってたろ? あれはそのままの意味で、実際に元出の金
をくれたり、稼がせてくれたりしたのはチェルージュだからな。俺
の手柄じゃないんだ﹂
ばつが悪くなって、頭をぽりぽりと掻く。
﹁言わなかったのは︱ー何でだろうな。金の出所を心配させたくな
かったって言えば通りがいいけど、確かに指摘されてみれば、チェ
ルージュのやったことを横取りしてるようなもんだからなあ﹂
﹁そっちじゃないわ﹂
目を抑えていたエミリアの頬を、しずくが一滴、伝い落ちる。
︵え、泣かせた?︶
がっしり俺の胸倉を両手でつかむエミリアの瞳は赤かった。やば
い、泣かせた。
357
﹁私たちは、家族だったんじゃないの!? 困ってたことがあるな
ら言いなさいよ! それも、私たちのことで! 口では大丈夫って
言いながら、あんた一人で危険な狩りに行って︱︱﹂
がくんがくんと俺の首から上を揺らしながら、エミリアは吠える。
﹁いまさら、誰に手助けしてもらったからってあんたに恩を感じて
ない子なんていないわよ! そうじゃなくて、隠し事をするなって
言ってるの! 私たちのせいで無理したんでしょ!? それで死に
かけてたら意味ないじゃない!﹂
﹁はい、ごめんなさい﹂
確かに無理をしたが、俺が隠していたのはチェルージュに助けら
れたことであって、エマたちの身請け金を捻出するために討伐隊に
参加した時点では、俺たちは家族である宣言はまだしてなかったわ
けで、あの段階で相談するのは無理だったんじゃないかなあ。当時
のエミリア、かなりつんつんしてたし。
もちろん、そんなことを思っていても口には出さない。なんだか
お互いの論点がずれている気がするが、こういう状態の女性陣に口
答えするのは禁忌である。間違いなく痛烈な反応が返ってきてしま
うだろう。
﹁ご主人様﹂
泣き伏してしまったエミリアと交代で、今度はエリーゼである。
﹁安全重視で狩りをしていると仰いましたが。賊の討伐に参加され
358
た後は、危険な冒険はしていませんね?﹂
﹁まあ、迷宮に潜ること自体が危険といえば危険だが、かなり自重
してるって。今後の人生、ずっと冒険やるなら、百回に一回死ぬぐ
らいだったら挑戦すべきじゃないしな。何万回行っても事故らずに
帰ってこれる、そういう狩りをしてる﹂
﹁わかりました。それでも、何かしらの事情ができてしまったら、
また無理をしてしまいそうですね。どうしたものでしょう﹂
ふう、とため息をつくエリーゼ。
﹁おいおい、そんなに俺は信用ないか?﹂
﹁仮に、何らかの理由で、私たちのせいではないのに、私たちに莫
大な借金ができてしまったら、また払おうとして無理をしないと言
い切れませんか? 自惚れではなく、ご主人様ならそうしそうと思
っただけですが﹂
﹁多分するわ﹂
少し考えてから、俺は言った。博打のカタで借金ができたとか、
贅沢しすぎて生活費がなくなったとかなら悩むだろうが、彼女たち
のせいではなく借金を背負ったなら払おうと俺は考えるだろう。
先だって、エリーゼは俺のことを家長と言ってくれたが、それが
家長の義務だと思うのだ。
﹁だいじょうぶ﹂
俺の返答を聞いて、悩みだしたエリーゼを横目に、エマが俺の腰
359
に密着しつつ告げた。身体のどこかしらにエマが張り付いているこ
とに違和感を覚えなくなってきた今日この頃である。
﹁ごしゅじんさまがしんだら、わたしもしぬから﹂
﹁はあ!?﹂
エマからそんな物騒な発言が出てくるとはまったく思っていなか
ったので、無表情で俺に張り付くエマをとっさにガン見してしまっ
た。
﹁エマは一体何を言い出してるんだ﹂
﹁あとおい?﹂
﹁どこでそんな言葉覚えた!?﹂
﹁べんきょう﹂
一体何を教えているのか、と文句を言おうとして、エミリアはま
だぐずっていたのに気づき、言葉を飲み込む。
﹁ごしゅじんさまなら、たぶんこういうのがいちばんきく﹂
﹁ああ、ああ、わかった。わかったよ、無理しないから。エマも冗
談でもそういう物騒なことは言うんじゃない。驚いたわ﹂
小首を傾げてから、俺の背中に顔をうずめて、すんすんと呼吸す
るエマである。俺は匂いを嗅がれてるのだろうか。
360
何とはなしに、この話は終わったかのような、弛緩した空気が部
屋に流れていて、俺はほっとした。俺が糾弾されている話題なんて、
長く続けたくはない。
ちょっと気を抜いた隙に、ぼそりと、俺にだけ聞こえるように呟
いたエマの囁きに、俺は少し背筋が凍った。
﹁ほんきだよ?﹂
361
第二十五話 壁
無理をするな、とエマたちに念を押された翌朝、俺は迷宮城の広
場にいた。
クロースアース
マタ
ーデッドレザーアーマー
日課にしている狩りを始める時間よりも、少し早い。明けようと
している空はまだ薄暗く、布鎧と鋲皮鎧を着込んだ身体に冷たい風
ヘリオス
が心地良い。職人街も、商店街も、まだ店を開いていない払暁であ
る。
ナイトサイト
︵さて、お目当ての人物は︱︱︶
暗視の指輪のおかげで、顔を出し始めたばかりの炎帝の弱い光で
も、人の顔は楽に見分けられる。
︵お、いた︶
探していた人物を見つけ、早歩きに近づく。上半身裸の浅黒い肌、
引き締まった筋肉。髭は剃っているが、髪型は少し無精でぼさっと
している、エマと同じようなショートボブの、意外と細身な男性。
第一印象は、身体つきだけは引き締まった、冴えない中年男性だ
った。目尻や、鼻筋に寄った皺が、くたびれたような印象を与える。
彼の身体能力に耐えうる装備がなくなり、兜をかぶらなくなって
からも、あの髪型は続けているらしい。ことさらに実力を誇示して
いるわけでもないのに、マイペースでぼちぼちと歩いているだけで、
妙に人目を引いている。
それは、彼の知名度を表していた。外見に、人を惹きつけるもの
は何もない。
362
迷宮に赴くにあたっての彼の装備は、紐で背中にくくりつけた、
鞘に入った長刀だけである。
﹁すみません、少しお時間よろしいですか?﹂
﹁ん?﹂
フロンティア
俺の方へと振り向く、老いの線が顔に増え始めた中年の男性。﹃
開拓者﹄、ボーヴォ氏である。
﹁ええと、知人がボーヴォ氏の住んでいる場所を教えて欲しいと言
っているのです。教えても構いませんか?﹂
﹁俺が人付き合いが嫌いなことは知っているだろう?﹂
にべもない返答である。確かに、この人は徒党も組まず、ただ一
人で黙々と迷宮に潜る。その実力からか、様々な商談や誘い、吟遊
詩人の取材などが申し込まれているが、そのほぼすべてを拒絶して
いるという話だ。
﹁存じています。それでも、知人はあなたに話を聞いてもらいたい
そうで﹂
﹁ならば自分で来いと言っておけ。それが最低限の礼儀であろう。
もっとも、来たところで俺が取り合うとは思えんが﹂
ここまでは予想通りである。彼の持つ、強大な力の恩恵に預かろ
うとして群がる人間には辟易しているはずだ。
363
﹁それが、直接お会いできない理由がありまして。こいつなんです
が﹂
エンブレム
手早く、俺は血の紋章を起動させて、ボーヴォ氏に見せ付けた。
これで興味を惹かなければ、後はお手上げである。
エルダーヴァンパイア
﹁始祖吸血鬼︱︱? お前、加護持ちか﹂
﹁はい。申し訳ないですが、私自身は平穏に冒険者をやりたいので、
こいつ
加護については声を抑えて頂けると助かります。街の外、森をいく
つも越えたところに、始祖吸血鬼は住んでいます。正直、あなたに
どんな用があるのかわかりませんが、あなたと話がしたいらしく﹂
俺の目論見は成功したらしく、血の紋章に表示された文字を眺め
つつ、彼はふむ、と頷いた。
﹁わかった。闇と光の日、週末の二日間だけ俺は冒険を休んでいる。
その日に連絡をくれれば会うなり喋るなりしよう。場所は知ってい
るか? 高級住宅街の隅にあるのだが﹂
﹁存じています﹂
知らない人はこの街ではいないだろう。富裕層の住居として開拓
された、小高い丘に瀟洒な建物が並ぶ高級住宅街。施設の整備に莫
大な先行投資をかけて作られたその区画は、住む土地を買うために、
桁を疑うほどの金銭が必要だ。
ボーヴォ氏は、その区画の中でも、隅の方に広大な土地を所有し、
専用の炉や工房までを自前で所持している大富豪でもある。
﹁ならばいい。連絡はどうやって取るつもりだ? その吸血鬼は、
364
街には入れぬのだろう?﹂
﹁聞いていませんでした。使い魔は自由にこの街に来れるようなの
で、それを使うのか、それとも私が念話の指輪を持って伺うことに
なるのか。ともかく、そいつに話はしておきます﹂
﹁わかった。話は以上か?﹂
﹁ええ。時間を割いて頂きまして、ありがとうございます﹂
のそのそと迷宮に向かっていく﹃開拓者﹄ボーヴォ氏の後姿を見
送って、俺は安堵のため息をついた。堅苦しい話し方というのは、
どうも肩が凝っていけない。
ともかくこれで、ボーヴォ氏に無断でチェルージュが住まいに突
撃するという不義理はせずに済む。俺の瞳を通して情報を得ている
以上、チェルージュも彼の住まいは元から知っているはずなので、
そのあたりはチェルージュが彼に気を使っているという証左でもあ
った。
要は、自分のことを彼に売り込んでおけ、という依頼なのである。
まあ、俺の仕事はこれで終了であった。チェルージュからのもう
一つの要望、隷属の首輪に関しては、もう話が済んでいた。冒険者
ギルドと魔法ギルドの連名で発行される取り扱い許可証を持ってい
ない人間には、隷属の首輪も衛兵の腕輪も売れないとのことだった
が、ギルドで見本を見せてもらいつつ、職員に話を聞くことはでき
たので、どういう原理で魔術印を刻んでいるのかを説明してもらい、
チェルージュは満足したようだ。
一仕事終わって晴ればれとした気分になったところで、俺も迷宮
に潜ろう。
365
バックパック
背嚢を背負いなおし、歩き始めようとしたところで、背中から声
をかけられた。
フロンティア
﹁はっ。﹃アウェイクム﹄の次は﹃開拓者﹄に取り入るのか?﹂
刺々しい言葉である。声のする方を見ると、先日、ダグラスの護
衛依頼で面識を得た、エディアルド少年が、二人の男を連れて立っ
ていた。
﹁エヴィの弟か。何か用か?﹂
﹁とぼけてんじゃねえよ。また有名どころに媚び売って甘い汁吸お
うとしてるんだろう? 汚ねえ奴だ。﹃開拓者﹄に尻尾振って何を
企んでるんだ、言ってみろよ、え?﹂
反論するのは容易だったが、それ以上に、エディアルド少年の脇
にいる二人の男に意識を奪われた。大ムカデを狩った初陣の日、俺
に甲殻の剥ぎ取り方を教えてくれた、今では飲み友達である︱︱キ
リヒトなのだ。
ウィンク
何か俺に伝えたいことがあるらしく、連れの男たちに見えない方
の目で盛んに目配せを繰り返している。
﹁初めて見る顔だな、こいつは何をしたんだ?﹂
﹁それがよ、テン。俺の兄貴がこの前死んだ話はしただろ? その
ときの、討伐団の数少ない生き残りなんだ、こいつ。﹃アウェイク
ム﹄の連中と結託して、俺の兄貴や他の連中を殺して、賊の賞金を
独り占めにしやがったんだ﹂
366
テン、と呼ばれたのは、キリヒトである。そして、俺のことを初
対面であるかのように言ったのも、キリヒトだ。
︵そういうことにしておけばいいのか?︶
目線でそう伝えると、他の二人にはバレないように小刻みに頷く
キリヒトである。
﹁思い込むのは頭の中だけにしとけよ、少年。賊を討伐したのは俺
の功績だと、﹃アウェイクム﹄も認めてるんだぜ? ダグラスの護
衛任務のときも感じたが、お前は敵を作りすぎだ﹂ ドラゴンズブレス
﹁ガキ扱いすんじゃねえよ、乞食野郎! ﹃アウェイクム﹄がなん
だってんだ、﹃竜の息吹﹄の十分の一もギルドメンバーがいない弱
小の癖しやがって。赤ネーム専門対人ギルドなんて謳っちゃいるが、
兄貴を殺した詐欺集団じゃねえか。そんなところの後ろ盾を得たぐ
らいでいい気になってんじゃねえぞ?﹂
﹁﹃アウェイクム﹄の連中に後ろ盾になってもらった覚えはないが、
お前こそ増長してないか? エヴィには世話になった恩もあるし、
弟のお前に、一度だけ心から忠告してやる。だれかれ構わず噛み付
くのをやめろ。お前の所属ギルドの評判が落ちる上に、純粋に損だ。
普通に接してればお前の利益になったであろう人の繋がりを、お前
は自分で潰しすぎている。敵を作りすぎだ﹂
﹁はっ、今度は上から目線でお説教か? 頭の目出度い奴だ。お前
こそ、﹃竜の息吹﹄を敵に回してこの街でやっていけると思うなよ
? 俺ら三人だけじゃない、総勢三百人はいるんだ﹂
なるほど、テンと呼ばれたキリヒトも、ギルド﹁竜の息吹﹂に所
367
属しているというわけだ。エディアルド少年でもキリヒトでもない、
連れのもう一人の男は、ふんぞり返りつつも、どこか気弱そうな小
太りの男である。
﹁だけどよ、エディ。ちょっと、やばくないか? ﹃アウェイクム﹄
って言ったら、誰でも知ってる武闘派だぜ?﹂
﹁だから何だよ、お前ビビってんのか? まあ見てろよ、この乞食
野郎を徹底的にこの街から締め出してやる。俺たちの息のかかった
冒険者は多いんだ、今後、普通にパーティなんか組めると思うなよ
?﹂
広場の石畳にぺっと唾を吐き捨て、エディアルド少年たち三人は
意気揚々と帰っていった。人もまばらな早朝とはいえ、広場にはそ
れなりの数の冒険者がいて、俺たちのやり取りは注目の的になって
いた。
後ろめたいことは何もないが、突き刺さる視線は気持ちのいいも
のではない。
俺は、改めて背嚢を担ぎなおし、迷宮へと足を進めるべく、広場
を後にした。
︵しばらくは、一人での狩り生活が続くかもなあ︶
正直なところ、エディアルド少年のような問題児の言うことを、
彼の所属ギルドがどこまで受け入れるかは不明だが、そこまで規律
のいい集団だとは思えなかった。よってパーティ募集の集会場に俺
が行った際、彼らから何らかの妨害を受ける可能性がある。一人で
狩りを続けることになるかもしれない覚悟はしておいた方がいいか
もしれない。
368
もう一つの懸念、なぜキリヒトが偽名を使ってまで彼と同じギル
ドに所属しているのか?
﹃ジルさんも、気をつけてください。キリヒトは、色々後ろ暗い商
売もやっていますから﹄
ディノ青年が、酒の席で俺に教えてくれたことである。とはいえ、
俺に必死に目配せしていたキリヒトの様子を見るに、俺に害意があ
るとは感じられなかったので、これについては、何も考えないこと
にした。
十日ほど経った、ある朝のことである。大部屋の片隅、俺のベッ
シルバーサーレ
ペザ
ンー
トアーマー
ドの脇に寄せてある装備品の山から、俺は一着の装備を引っ張りだ
していた。鱗にも似た、鈍い銀色の光沢を持つ、銀蛇の皮鎧である。
銀蛇は、ランク2の中層を通り越して、ランク3、深層と呼ばれ
ている場所に出没する、凶悪な魔物である。
素早い移動速度と、強靭な皮膚による防御力、蛇特有の生命力の
強さ、そして何よりも、致死性の極めて高い、猛毒。安物の解毒薬
では、治癒はおろか、効果を軽減することすらできないその毒は、
ものの一分で人間を絶命させるほどである。
その、ベテラン冒険者でも忌避するほどの、上位の魔物、銀蛇の
皮革で作られた皮鎧が、手元にある。﹁赤の盗賊団﹂のウキョウと
フィンクスが着用していたものだ。彼らの装備で、売ったのは武器
だけである。
369
柔軟かつ弾力に富み、それでいて並の刃物などでは傷を付けるこ
とすら難しい銀蛇で作った皮鎧は、得られる防御力を考えると驚く
メイジ
ほど軽く、金属を使用していないためマナ回復を妨害しないことい
うこともあり、魔術師にとっての垂涎の品となっている。もちろん、
俺にとっては、超がつくほどの高級品だ。
俺は、それに袖を通す。 今までは、着用は控えていた。分不相応な装備は、身を滅ぼす。
しかし、今日狩る獲物には、万全を期したかった。
クロースアーマー
大部屋の隅に積んだ装備類の中で埋もれていた、銀蛇の皮鎧は、
布鎧の上から袖を通したにも関わらず、伸縮性が高くて、ぴっちり
と肌に張り付くような感触だった。
試しに、握りこぶしで胸元をどんどんと叩いてみる。かなり力を
入れたにも関わらず、ほとんど感覚がなかった。衝撃がすべて、弾
力のある皮革に吸収されてしまっているのだ。これで、刃物にも強
いのだという。
銀蛇の皮鎧ともなると、修繕費用もただではない。仮にどこかが
破れてしまったとして、余り布を当てて縫い直すだけでも、同じ銀
蛇の素材と、その皮革に穴を通せるだけの特殊な針、そして高い技
量が必要だ。仕立屋サフランの女将に相談したところ、一箇所、小
さな穴を修復するだけで10,000ゴルド取るという。
つまりは、ちょっとでも傷付けてしまえば、俺の二日分の稼ぎが
ふいになってしまう高級防具なのだ。
ダイアウルフ
それでも俺が、身の丈に合わないこの装備を身につけた理由は一
つ。恐狼と戦うためだ。
370
オーク
ランク1の中で最上位に分類される恐狼は、他の同階層の魔物と
違い、弱点らしい弱点がない。筋力自慢の豚人よりはわずかに力で
劣るが、鋭い爪と牙、高い嗅覚による危機察知能力と、そして何よ
りも、すさまじい俊敏さを誇る。ランク2でも特定の弱点があり、
与しやすい魔物がいる中で、ランク1での恐狼の性能は、苦手な分
野がないという点で破格だった。
俺が恐狼の討伐を決意した理由は単純で、豚人ですら武器スキル
の上がりが遅くなってきたからだ。今では、不意を突かずとも、真
正面からの斬り合いで攻撃を食らわずに倒せることも珍しくない。
つまりは、俺はまた一段階、強くなったのだ。レベルを上げるだ
けなら豚人を続けて狩っていればいいが、武器スキルを磨くために、
恐狼に挑戦することにしたのである。
ランク1の最深部は、蟻の巣のようになっていた迷宮の入り口と
スライム
は、少々景観が異なる。マナが濃くなってきているために、植物が
生えている土地が増えるのだ。
入り口付近の土地は荒れ肌であり、酸水母が出没し始める地下六、
七階あたりにはわずかな苔類が生えているだけだが、恐狼の出没域、
地下九階を越えると、あちこちに小さな花をつけた雑草や、場所に
よっては膝あたりまで埋まる
草原らしきものもあるのだ。
暗視の指輪があるために忘れがちだが、ここは光一つ差し込まな
い地底である。
これらの植物は、炎帝の光のかわりに、迷宮内のマナを栄養として
オーディーン
ガッツオニオン
いるのだろう。このあたりの植物はまだ食用にはならないが、もう
少し深部になると、百薬草や漢玉葱など、街にも流通している、い
わゆる迷宮産の食材が採取できるようになるらしい。
371
﹁グルアァァ!﹂ オーク
ロングソード
豚人が振り下ろした棍棒を、後ろに少し跳んで避ける。地面に棍
棒を打ち付けて、一瞬無防備になった頭を狙い、長剣を横薙ぎに振
るう。首の中ほどまで長剣がめり込んだため、引き斬るように剣を
抜く。
しばし出血する首を抑えながら悶えていたが、間もなく豚人は倒
れこみ、息絶えた。マナで肉体能力の進化した魔物とはいえ、基本
的な急所は人間と変わらない。首から上と、心臓だ。股間は効果的
な魔物とそうでない魔物に分かれるため、俺は積極的には狙わない。
倒した豚人の死体が迷宮に吸収され、魔石を残して消えるよりも
早く、豚人の新手が現れる。一体だけだ。知能の低い種族であると
はいえ、個体によってどんな動きをするかは変わってくる。臆病な
豚人もいれば、がむしゃらに突っ込んでくる奴もいる。
この豚人は、慎重な個体だ。手に持った棍棒を無闇に振り回した
りはせず、俺と一定の距離を取って、警戒している。
俺は、すり足で刃圏に踏み込むと、そのまま一気に距離を詰める。
長剣どころか、棍棒ですら一歩踏み込んで振り回せば当たる距離だ。
それでも、豚人にしてみれば、目の前に迫ってくる長剣の切っ先が
威圧になって、無防備に棍棒を振り回そうという気になれないだろ
う。反射的に下がろうとした豚人の後退を許さず、一気に飛び込ん
で、構えた長剣の切っ先を、真っすぐに突き出す。喉元をえぐる、
しっかりした肉の手ごたえ。
棍棒を手放し、喉を押さえながら転げまわる豚人に近づき、頭蓋
に剣を振り下ろしてとどめを刺してやる。
372
先端だけ血に染まった長剣を布で拭い、その場にしばらく留まる。
死体が魔石を残して消えるのを待っているのだ。
この場所で恐狼に襲われる危険は、今のところ低いと見積もって
いる。
例によって、恐狼は豚人を襲って捕食するので、両者の縄張りは
重複しない。食料を探しに恐狼が現れる可能性はあるが、もしそう
なっても即座に戦えるよう、警戒を怠ってはいない。
数分ほど経ち、死体が消えた後に残された小粒の魔石を拾い、背
嚢のサイドポケットに押し込む。これで、今日は豚人から得た魔石
は五個目だ。まだ、恐狼とは遭遇していない。
同じ階層なのに豚人ばかりと遭遇するのには理由があって、ここ
は恐狼の出没域でもかなり浅い階層なのである。もう少し深く潜れ
ば、恐狼ばかりが出没する中で、稀に中層の魔物が紛れ込んでくる
危険地帯になる。
しばし歩く。より地下へと歩き続けるのは危険なので、頃合を見
て登り道を進んだりと、深度の調節をする。もう、体感で自分がど
のあたりの階層にいるのか把握することにも慣れた。今は、地下九
階を過ぎたあたりである。
先ほどまで、ものの十分も歩けば豚人と出くわしていたのだが、
今はさっぱり魔物の影がなかった。魔物の痕跡を調べようにも、道
の上下左右は岩であるため、足跡も残らない。魔物の糞や死体、あ
るいは人間の死体、装備品なども、一定時間が経過すると迷宮が吸
収してしまうので、恐狼を見つけることは難しい。
︵これは︱︱当たり、か?︶
373
恐狼の縄張りは広く、数キロ四方にも及ぶ。その攻撃性は非常に
高く、縄張り内に踏み込んだ者は、人間であれ豚人であれ、優れた
追跡能力で追いかけられ、仕留められるそうだ。
俺は、息を吸い込んだ。
﹁おおおおおお︱︱︱︱︱︱ッ!!﹂
岩や壁が俺の叫び声を反射し、大地がかすかに揺れる。しばし、
あちこちで残響が鳴っていたが、やがて静まった。外敵がここにい
るぞ、というアピールである。
俺は、見通しの良い、左右を見渡せる通路に陣取り、恐狼を待ち
構える。存分に長剣を振り回せる、広い道のさ中だ。
やがて、何かの大きな気配が、近づいてくることに気づいた。体
重の大きさの割に、上手に音を消す足さばき。かすかな息遣い。そ
れらの音は、急速に近づいてきて︱︱通路に、恐狼が飛び出してき
た。
﹁グガアアッ!!﹂
もとは犬科の生物であったなどとは信じがたい、野太く、耳障り
な吠え声。全身を覆う、夜のような、群青色の毛。そして︱︱鉄で
すら噛み砕けるほどの、発達した、歯。犬歯だけではない、ギザギ
ザの虎ばさみを思わせる恐狼の歯は、横一列に綺麗に並ぶ、鋭い先
端を持った、唯一にして無二の武器だ。
恐狼の体格は大きい。成人男性の平均よりも総じて重く、大きい
374
個体の体重は百キロを越す。その重さを支えるために、四肢は太く、
筋肉が付いているために、迷宮の外で生きている犬と比べると、ず
んぐりむっくりとした印象を受ける。
あくまで、印象だけだ。
恐狼が走りだした。左手に剣を逆手に持ち、あらかじめ詠唱して
あった火矢を、恐狼に撃ち込む。きゅんっ、と空を裂く音とともに、
恐狼の顔面、鼻のあたりに火矢は突き立り、火の粉の華を散らして
消えた。
顔面が抉れ、焦げついた肌からはわずかに煙が出ている。親指と
人差し指で、丸が作れる程度の大きさの穴が、恐狼の顔面に空いて
いる。
︵影響なし、か︶
怯みもせず、あっという間に恐狼は距離を詰めてくる。一見する
と鈍重そうな体躯で、軽やかに大地を蹴る。
銀蛇ほどの高級品ではないにしろ、恐狼の皮革は、鎧の素材にな
る。俺ぐらいの魔法スキルでは、火矢の一撃では大したダメージは
与えられそうもなかった。
俺の目を見据え、恐狼は真っすぐ俺への最短距離を疾走してきた。
俺は上段に振りかぶって待ち構える。
﹁ガアッ!﹂
今にも俺に飛びかかろうとした恐狼が吠えた瞬間、俺は長剣を振
375
り下ろした。
大ネズミで散々練習した、飛びかかってくる相手にカウンターで
脳天に加える一撃は、しかし空を斬った。
︵フェイント︱︱!︶
吠え声で飛びかかると見せかけて、恐狼は身を伏せて俺の足元を
通り抜け、俺の背後から喉を目がけて跳んだ。前のめりになってい
た俺は慌てて剣を引き戻すが、体勢は不十分で、剣の柄の部分で喉
を守るのが精一杯だった。
﹁ぐっ!﹂
喉に噛みつかれこそしなかったものの、俺は後ろに倒れこんでし
まい、そのままのしかかられる。 俺よりも重い肉体が、四足歩行
で飛びかかってきたのだ、到底立っていられない。跳ね飛ばされた
ようにすら感じる。
恐狼はギザギザの牙を大きく開け、剣の柄で守っていない、横首
のあたりに噛み付いてきた。鉄兜の、下ろした面頬で守っている部
分だ。がちりと、硬質なもの同士がぶつかる音がした。鉄兜の板金
に、恐狼の牙が食い込む。
この押し倒されている体勢を何とかしないと、と思ったのは一瞬
で、恐狼は横首の鉄に牙をめり込ませながら、左右に首を振りはじ
めた。食いちぎる気だ。
兜が左右に振られているということは、俺の頭を揺らされている
ということだ。急速度の揺れが、脳震盪を引き起こす。不自然な体
勢から、何とか恐狼に長剣の一撃を加えようとするも、押し倒され
ている上に手元に長剣を抱えこんでいて、さらには頭を揺らされて
376
いるために体重の乗った斬撃が振るえない。
そうこうしている間にも、横首の面頬はめきめきと音を立てて砕
かれつつある。
﹁調子に︱︱﹂
スタデッドレザーアーマー
俺は長剣を握っていた手を離した。鋲皮鎧の小手で守られた手の
ひらを、目一杯に開く。
﹁乗んな!﹂
俺の右首に噛み付いている恐狼の顔面を、両手で包む。親指に最
大限の力をこめて、恐狼の眼球を狙い、突き出す。
﹁ギャァオ!﹂
恐狼の眼球を貫いた感触は、なかった。とっさに目を瞑ったのか
もしれない。
ともかく、俺の首に噛み付いていた牙を、恐狼は放した。体勢を
立て直すなら、今︱︱
﹁ぐっ!?﹂
首から口を放した恐狼は、執拗だった。首が防具に守られている
と悟ったのか、立ち上がろうとした俺の、今度は足首に噛み付き、
振り回そうとする。すさまじい膂力だった。口だけで銜えられてい
るのに、抗えない。
右の足首にがっちりと噛み付いたまま、恐狼はまたしても食いち
ぎろうと首を振り回し、俺は立ち上がれずに再度倒れこむ。
377
﹁しつっ︱︱こい!﹂
仰向けに寝転がされたまま、俺は傍らに転がっていた長剣を拾い、
足元に噛み付く恐狼に向かって振りぬく。剣の一撃が当たる寸前に、
恐狼は噛み付きを止め、飛び退がって避ける。
また飛び掛られてはたまらないので、切っ先を恐狼に向けたまま、
急ぎ俺は起き上がり、再び恐狼と対峙する。
状況は、何一つ好転してはいない。銀蛇の皮鎧のおかげで、足首
へのダメージはない。しかし、兜の首元は、一部分が食いちぎられ
てなくなってしまっている。わずかに空いた隙間から、無防備な首
へ空気が入りこみ、ひやりとする。
もう一度ぐらいなら、首に噛み付きを食らっても、耐えられるか
もしれない。しかし、三度目はないだろう。兜は、銀蛇の皮鎧と違
って、所詮はただの鉄だ。恐狼の一撃には、そう何度もは耐えられ
ない。
俺は、胸元で剣の柄を持ち、切っ先を真っすぐ恐狼に向けた。突
きの体勢だ。
さきほど、無様に尻餅をついていた、無防備極まりない俺に、恐
狼は飛び掛ってこなかった。向けた切っ先を恐れたのだ。
﹁おおおおお!!﹂
俺は叫びながら、身体を沈めつつ、真っすぐに恐狼に向かって走
りこんだ。無論、切っ先は、恐狼に向けたままだ。
︵どのように避けようとも、身体ごとぶつかっていって、貫いてや
る︱︱!︶
378
しかし、俺の思惑に反して、恐狼は棒立ちで俺の攻撃を待ってい
てはくれず、俺の足元をすり抜けては、最初のように、背後から噛
み付きを狙ってくる。急ぎ身体を捻り、切っ先を恐狼に向けると、
やはり恐れたのか、飛び退がって距離を取られてしまう。
﹁逃げ続けていられないようにしてやる、犬っころ﹂
俺の攻撃を避け、自分だけ攻撃しようという魂胆なら、こちらも
考えがある。
俺は剣の柄を逆手に持ち替え、火矢の詠唱をする。残りのマナは、
恐らくは十ポイント。火矢二発を撃っても、戦闘に耐えるだけのマ
ナは残していられる。経験上、二ポイント残っていれば、気分は悪
くとも戦闘に支障はない。
﹁食らえッ!﹂
柄を握った左手でマナの弓を持ち、空いた右手で火矢を引き絞る
イメージ。
本日二発目となる火矢は、狙い過たず、恐狼の顔面に突き立つ。
﹁ギャアッ!!﹂
明らかに、痛覚を伴った悲鳴。火矢は、確かに効いているのだ。
三発目の火矢を詠唱しようとして︱︱またも、恐狼が距離を詰め
て、飛びかかってこようとする。俺は、今度こそ突きを入れようと、
剣を構えなおし、切っ先を恐狼に向ける。すると︱︱それを恐れた
のか、恐狼は飛び退がって距離を取る。
あくまで、俺が剣を構えていないときに飛び掛りたいらしい。
379
ならば、俺は三発目の火矢をぶちこむだけだ。
再度、左手で剣を逆手に持ち、火矢を詠唱するべく、両手にマナ
を集めだすと︱︱
﹁は?﹂
くるりと背を向け、恐狼は、一目散に逃げていった。
しばし待ってみたものの、足音は遠ざかったきり、再び聞こえて
は来ない。
﹁何だよ、それ﹂
どうやら、骨折り損のようだ。恐狼は、見事な生存本能で、俺か
ら逃げ切ってしまった。後に残されたのは、MPを半分以上失い、
兜の一部を食いちぎられて、なおも戦意だけは旺盛な俺である。
見事に、逃げられた。
﹁帰るか﹂
俺は、独り言を呟く。妙に空しい気分である。鉄兜は大きく破損
し、恐狼は討伐できていない。狩りを続行しようにも、鉄兜の一部
が食いちぎられている現状では不安が残る。それに、MPも減って
いるので、次に恐狼に出会ったら火矢による対処ができない。
﹁はあ﹂
380
ついつい肩が落ちてしまうが、気を取り直して帰路を進む。物は
考えようだった。 念には念を入れ、銀蛇の皮鎧を着てきて良かっ
たと言うべきである。首への一撃はともかく、足首への噛み付きは、
鋲皮鎧では致命傷を負ってしまっていただろう。 今の俺のレベルと剣術では、まだ勝てないということがわかった
だけでも、収穫だ。生きて帰れるのだから。
381
第二十六話 鋼
﹁こいつはまあ、見事にやられたなあ﹂ ダグラスの鍛冶屋に、鉄兜を持ち込むと、いかめしい筋肉の店主
ダイアウルフ
は、しげしげと破損箇所を眺めてから、楽しそうに笑った。
恐狼の牙に食いちぎられた断面は、ぎざぎざとしていて、再度の
使用に耐えられるとは思えない。
﹁多分だが、直せないだろ?﹂
﹁これだけ破損しちまうと無理だな。面頬だけなら取り替えりゃ済
ニュービー
むが、兜本体の方も少しカジられちまってる。どのみちこの兜は、
初心者用に造ってるから、鉄板が少し薄いんだ。買い替え時だと思
うぜ﹂
ダグラスの店は、今日は客がいないので、こうして喋っている余
裕があるが、最近は少しずつ固定客が増えてきていた。商品の陳列
をもう少し考えれば、新規の客を呼び込みやすいと思うので、彼の
職人魂を傷付けない程度にちょくちょく、俺が助言をしていたりす
る。
﹁んじゃ、新しいの買うか。でも、最近、懐具合が厳しいんだよな
あ。フィンクスの使ってた兜、使っちまうかな﹂
ダマスカス
プレートヘルム
盗賊団の討伐時、迷宮素材で作られた防具を着ていたのは、ウキ
シルバーサーレ
ペザ
ンー
トアーマー
ョウとフィンクスの二人だけである。二人とも、魔鋼の板金兜と、
銀蛇の皮鎧一式を着込んでいた。
382
どちらも、俺にはとても手の出ない高級品である。
﹁なんだ、別の兜持ってたのか?﹂
﹁フィンクスの使ってた魔鋼の兜があるんだよ。俺には過ぎた装備
だと思って、まだ装備してなかったんだが﹂
ウーツ
﹁鈍魔鋼をすっ飛ばして魔鋼か。確かに、あれなら末永く使えると
思うが、かなり重いぞ? 今筋力いくつだ﹂
︻名前︼ジル・パウエル
︻年齢︼16
︻所属ギルド︼なし
︻犯罪歴︼0件
︻未済犯罪︼0件
︻レベル︼434
︻最大MP︼13
︻腕力︼16
︻敏捷︼13
︻精神︼14
﹃戦闘術﹄
戦術︵29.2︶
斬術︵24.6︶
刺突術︵23.9︶
383
格闘術︵11.2︶
﹃探索術﹄
追跡︵14.1︶ 気配探知︵16.2︶
﹃魔術﹄
魔法︵21.4︶
魔法貫通︵13.3︶
マナ回復︵35.3︶
魔法抵抗︵1.2︶ ﹃耐性﹄
痛覚耐性︵17.1︶
魅了耐性︵100.0︶
﹃始祖吸血鬼の加護﹄
血の紋章をダグラスに見せてやると、ほう、と感嘆の声を上げて
驚かれた。
﹁ジル、お前さんずいぶんと成長が早えな。順調じゃねえか。先月、
オーク
俺のところに最初に来たときは腕力値9だっただろ?﹂
ゴブリン
﹁矮人やら豚人やらを狩りまくってたからレベルはいいペースで上
がってたんだがな、武器スキルが最近伸び悩んでる。だから、恐狼
を狙ってみたんだが、結果はご覧のザマだ﹂
﹁一人で迷宮に潜ってるのが効を奏してるな。中層で活躍する冒険
384
者だって、こんなにレベルの上がりは良くねえよ﹂
﹁そうなのか?﹂
中層ほどの強力な魔物を倒してるなら、そっちの方が成長が早い
と思っていたのだが。
﹁そりゃお前、いくら中層の魔物ったって、パーティ組んで袋叩き
にしてりゃ上達は遅いだろうよ。魔物を倒したときに吸収できるマ
ナだって、何人もで頭割りにするわけだろ? お前さんみたいに、
自分が余裕を持って狩れる相手を、一人で延々と狩るのが一番成長
が早いぜ﹂
﹁そっか。一人でやるのも利点があるのか﹂
﹁実入りは中層でやる方が美味いし、パーティ組めば格上ともやれ
るから武器スキルの上達が伸び悩むこたあないかもしれんが。恐狼
に勝てるようになったら、しばらくはあいつで稼げるから、無理に
パーティなんざ組まなくてもいいと思うぞ﹂
﹁なんだ、気にしてくれてんのか?﹂
迷宮の入り口でエディアルドに絡まれて以降、冒険者ギルドのパ
レンジャー
ーティ募集の看板には、こんな文章が見かけられるようになった。
メイジ
﹃中層入り口での狩り、レベル300以上の魔術師と狩人募集、た
チェインメイル
だしジルという人物を除く﹄
﹃中層での狩り、鎖鎧一式以上の防具持ちの前衛募集、ただしジル・
パウエル氏以外で﹄
385
もちろんすべての募集ではなく、この文章が載っているのは全体
の一割にも満たなかったが、それなりに広いパーティ募集会場にて、
俺が名指しで否定されているというのは中々に恥ずかしいものがあ
った。どう考えても、エディアルド少年の仕業であろう。
ドラゴンズブレス
その一文が載っている募集が一つだけではないことから、ギルド
﹃竜の息吹﹄も関わっているのは明白であった。
正直なところ、怒るよりも、呆れた。エディアルド少年の言うこ
とを鵜呑みにするギルドメンバーがいることもそうだったが、やる
ことが子供じみている。
何も知らない冒険者がこれらの募集を知っていたら、何はともあ
れ、俺をパーティに加えるのは避けようとするだろう。素行、評判
の悪い人物をパーティに加えたがる人間はいないし、最大手の﹃竜
の息吹﹄に睨まれるのも嫌だろうから。
周辺への悪評を広められるという点では、俺にとっては痛いやり
方ではある。
︵しかし、これだと全面的に俺を敵に回すよなあ︶
客観的に見ても俺が悪者ならば話は通るかもしれないが、俺は少
なくとも身の回りの人間からは信用を勝ち得ているので、そのうち
彼は自分の首を自分で絞める結果になるだろうと俺には思えた。
なお、この話をしたところ、最も激怒したのがダグラスである。
次に怒ったのが、その場に居合わせて話を聞いていた、ダグラスの
嫁である。
﹁お前、店番たのまあ﹂
386
﹁何言ってんだいあんた、私も行くさ﹂
﹁そうか。んじゃあジル、ちょっと俺ら夫婦は出かけるから、店、
見といてくれ﹂
﹁いやいやいやいや。意味がわからん。俺の店じゃねえからここ﹂ ﹁気にすんな。どうせ客なんか来ねえよ。もし来たら、すぐ帰るか
らって言って待たせとけ﹂
などと言い捨て、夫婦連れ立って出かけた彼らは、小一時間して
戻ってきた。予想通り、客は来なかったので、暇を持て余した俺は、
商品の提示をどうしたら見栄えが良くなるかなどを、彼らのかわり
に考えたりしていた。
﹁よし、話通してきたぞ﹂
髭だらけの強面を、にこやかな笑顔で彩ったダグラスは、控えめ
にいってすさまじく暑苦しい。
﹁お父に言い付けといたから。あのクソギルドはヴァンダイン一門
の鍛冶屋、全店で出入禁止にしたよ﹂
﹁はあ!?﹂
まさか、出かけた先は、ダグラス嫁の実父であるという、ヴァン
ダイン氏のところか。あと、奥様、言葉遣いが悪いです。
﹁俺の得意客に手ぇ出すとはいい度胸だ、あの小僧。自分が何やっ
たか、ちゃんとわからせてやらんとな﹂
387
おおごと
﹁気持ちは嬉しいんだが、大事になってないか?﹂
﹁あいつと出会っちまったのは、俺が出した採取依頼の最中だった
だろう。俺にも責任の一端があらあな。それに、職人ナメられてる
ようで気分が悪い。戦うときは戦わねえとな。もうとっくに、お前
さんだけの問題じゃねえのさ﹂
それが、つい先日の話である。エディアルドと揉めた一件を気に
してくれてるのか?と俺がダグラスに言った背景には、こうしたや
り取りがあった。
﹁この街の腕のいい鍛冶師は、だいたい師匠の一門だ。そのうち向
ダマスカス
こうが根を上げるだろうよ。それよりも、ジルの腕力値は16か。
魔鋼の兜は、さすがにちっと早えな。まだ重くて着れたもんじゃな
いだろう﹂
確かに、試しに持ち上げようとしてみたところ、すさまじく重か
った。薄い板金に加工された兜であるというのに、ダグラスの依頼
で持ち運んだ、鉱石の塊ぐらいの重さはあったように思う。あれだ
けの重量を、頭にくくりつけて冒険するというのは、今の俺にとっ
ては枷にしかならないだろう。
﹁最低25、できれば腕力値30だな。そこまでレベルが成長すれ
ば、魔鋼製の兜だろうと、防具に着られるなんて事態にゃならねえ。
しっくり装備できて、信頼できる防具になるだろうさ﹂
﹁んじゃ、換算するとあと300レベルぐらいか﹂ 腕力、敏捷、知性の基礎能力値は、10レベル上昇するごとに、
388
どれかが1ポイント上がる。近接攻撃を主体として戦う俺は腕力が
上がりやすくはあるが、それだけが成長するわけではない以上、魔
鋼製の兜を心おきなく装備するまでには、あと300レベルほどを
見込んでおいた方がいいだろう。
戦利品の魔石を売って生活費に当てている現状だと、豚人や矮人
などの、格下の魔物を狩り続けて一日5レベル上がるかどうかであ
る。最短で二ヶ月はかかるというわけだ。
﹁まあそう言うな。一日、命のやり取りをしたら、数日休む冒険者
なんてザラだ。毎日、効率よく狩れる魔物をひたすら一人で狩り続
けてる奴なんてそうはいねえよ。お前は他の奴より成長が早い、そ
れは確かだ﹂
﹁地道にやるしかないってのはわかってるんだが、どうにも進展が
少なくて、焦るんだよなあ﹂
﹁肉体の最盛期なんざ、どんな人間だって十年間ぐらいだ。その十
年費やして、ベテラン冒険者ってやっと呼ばれる。そいつらのペー
スを考えたら、お前は早すぎる方だ。命は大事に、そのまま育て﹂
﹁おとんかお前は﹂
げらげらと笑いあう俺たちである。
﹁︱︱ってなことがあってな﹂
エール
晩酌の麦酒を飲みながら、今日あった出来事をエマたちに語って
いる俺である。
389
冒険から帰ったら、彼女たちと談笑するという日課が、自然とで
きつつあった。他愛もない話がほとんどだが、命のやり取りをした
後で心の糸が張り詰めていても、彼女たちと話していると、いつの
間にか緊張が解けていたりする。
気がつかないうちに、俺は彼女たちで癒されている。
﹁その、ご主人様はそれで大丈夫なのでしょうか? しばらくは他
の方とパーティを組めないということですよね?﹂ ﹁しばらくは一人で迷宮に潜るつもりだったから、大丈夫だ。パー
ティが組める実力が付く頃には、解決してるだろ﹂
エディアルド少年の素行を考えると、他にもあちこちで揉めてい
そうである。パーティが組めない風評被害の類も、時間が経てば、
自然と解決すると俺は思っていた。
俺自身は、正直なところ、ほとんど気にしていないのだが、それ
でもエマたちの表情は晴れない。予想以上に心配させてしまったよ
うだ。
﹁大丈夫だ、みんなが気にするようなことは何もないよ﹂
安心させようと声をかけるのだが、彼女たちは顔を見合わせるば
かりである。一体どうしたというのだろう?
﹁エリーゼから言いにくいなら、私が言うわよ?﹂
﹁そう︱︱お願いできる?﹂
何やら、俺に言いたいことがあるらしい。それも、エリーゼが口
390
に出すのを躊躇い、かわりにエミリアが言わざるを得ないようなこ
とが。それほどに重大な話なのかと、俺は姿勢を正して身構える。
﹁ジル、あんた、私たちはやりたいことを自由にやっていいって言
葉、あれに二言はないわね?﹂
﹁基本的にはないぞ? 人の道に踏み外したことをしようとしてた
ら止めるが﹂
彼女たちの親代わりのようなものだと最近では思っている俺であ
る。例えば、明日から体を売って稼ぎたいなど、どんな親が聞いて
も否定するようなことを言ってきたら強権を発動してでも止めねば
なるまい。
﹁毎日、昼までの勉強が終わったら、夕方は私たちの自由時間なの
ね? それと週末も、休日にしてくれるのよね?﹂
﹁そうだ。今までもそうしてきただろう?﹂
﹁わかったわ。それじゃあ︱︱﹂
言う言うとエリーゼには啖呵を切ったものの、何やらエミリアも
言いにくそうにもじもじしている。
﹁わたしがいう﹂
そんなエミリアに代わって、今度はエマである。なお、彼女は今、
例によって俺の背中に張り付いているので、俺は背中越しに喋られ
るという稀有な体験をしていることになる。
エマはとてとてと俺の前に回ってくると、揃いの安物の服から、
391
懐をごそごそと探って何かを取り出した。
それは、乳白色の、手のひらに収まるぐらいの、小さな板。
﹁おま、それ︱︱﹂
﹁エマたち、ぼうけんしゃになる﹂
エンブレム
ふんす、と鼻息も荒く、手に持った血の紋章を、堂々と俺に見せ
つけてくる、エマである。
︵エマ、たち?︶
見ると、エリーゼもエミリアも、懐から血の紋章を取り出して、
俺に見えるように、胸元にかざしてみせた。
﹁ダメダメダメダメダメ。ダメだろ。ダメだ﹂
かなり長いこと、言葉の意味を受けいれるまで固まってしまった
が、我に返った俺は、即座に前言を翻した。男の矜持も、場合によ
りけりである。男に二言はあるのだ。
﹁人の道は踏み外してないわよ?﹂
﹁危険すぎるだろ! 迷宮の危険性を理解して言ってるのか? と
にかくダメだ﹂
392
﹁何よ。私たちを自立した人間として、奴隷扱いしないって言った
のジルじゃない。あれは嘘だったわけ?﹂
﹁いや、嘘じゃないが︱︱﹂
﹁じゃあ、認めなさいよ。他ならぬ私たちが、自分から、やりたい
ことを言い出してるんじゃない﹂
﹁家長として認めません。そんな危険なことをする必要はありませ
ん。大体なんで迷宮に入ろうなんて思ったんだ。いいか? 危険汚
い臭いの三拍子揃ってる上に、身体に傷が付くし、冗談抜きで死ぬ
ぞ?﹂
﹁それは、ジルだってやってることじゃない。自分はいいのに私た
ちはダメなわけ?﹂
﹁そうだ。魔石やマナを取り込んで身体能力が上がれば、男も女も、
そりゃ力は等しくなる。それでも冒険者の大半は男だ。それはなぜ
かというと、迷宮の中が過酷な環境だからだ。全身の肌に傷は付く、
排泄だってパーティを組むなら仲間の近くでしなきゃならん、言っ
たら何だが、例え生理中だろうと魔物は手加減してくれんのだ、体
調管理は重要になる。挙げたのは一例だけだ、迷宮で稼ぐっていう
のは綺麗事じゃないんだぞ?﹂
﹁そんなの、わかってるわよ。個人的な意見を言うと、私は反対だ
ったわ﹂
﹁へ? じゃあなぜ言ってきた﹂
エリーゼとエミリアが口を開くより先に、エマが俺の前に立ち、
393
俺の目を見つめた。どこを見ていたのかも定かではなかった、あの
頃の瞳ではない。しっかりと、俺を見据えた、輝く目だ。
﹁わたしがいったの﹂
﹁お、おう?﹂
﹁ごしゅじんさまのやくにたちたい。だから、わたしはめいきゅう
にはいる﹂
そうかあ、などと適当に相槌を打ちながら、予想だにしなかった
展開に俺は頭脳を酷使して打開策を考える。エリーゼも、エミリア
もいい。理屈で話せばわかってくれる。しかし、エマの意志なのだ。
果たして説得してわかってくれるだろうか。
﹁ああ、その、エマ、そのな? 迷宮は、すごい危険なところでな
?﹂
﹁ごしゅじんさまのためなら、しんでもいいよ。わたしはめいきゅ
うにはいる﹂
ヤバい、予想外に重いぞこの子。
俺の役に立ちたいという気持ちは、素直に感動するほど嬉しいも
のの、言っている単語が物騒である。俺はエリーゼたちに、必死で
何とかしてくれ的な視線を送るが、彼女たちの落ち着いた反応を見
るに、説得に回ってくれる可能性は薄そうである。
﹁エマほどではありませんが、私も一部分には同意します。受けた
恩が大きすぎて、このままでは返せそうもありませんし。もともと、
私は狩人のスキルを持った奴隷として売られていたのです。父の教
394
えてくれたスキルで、ご主人様の冒険の供となれるなら、本望です﹂
予想だにしていなかった。まさかの、ストッパー役であるエリー
ゼが敵である。
﹁私は正直なところ反対よ。危険だもの﹂
﹁そうか、そうだよな。さ、他の二人を説得してくれ﹂
﹁聞く耳を持たなかったからこうなってるんじゃない。エマたちだ
け迷宮に行かせて、私一人、この部屋で待ってるなんて嫌よ。だか
ら、私もこうして血の紋章を作って、渋々同意してるんじゃない﹂
﹁ちょっと待て、ちょっと待てよ。色々考えるから﹂
俺には二つの道がある。まず、何が何でも、つまりは隷属の首輪
の契約状況を彼女たちの意思を無視して変更してでも迷宮への立ち
入りを禁じること。利点としては、彼女たちを諦めさせることがで
きる。
だが、これはやってはいけない。せっかく、自分たちでやりたい
ことを見つけてきたのである。ここで権力を振りかざして押さえつ
けてしまっては、彼女たちの正常な成長に悪影響が出てしまう。
それは俺の主義にも反するし、せっかく勝ち得た彼女たちの信頼
も、失ってしまうかもしれない。つまり、俺にはもう、彼女たちを
止められる手段がない。
﹁ふとした疑問なんだが、対外的にはみんなって奴隷身分だよな。
迷宮って入れるのか?﹂
﹁前回の休日に、冒険者ギルドに行って確認済みよ。主人の許可が
395
あれば、単独で迷宮に入るのも問題ないってさ。よくジルの話の中
に出てくる、ディノって人を探して聞いたら丁寧に教えてくれたわ﹂
俺は頭を抱えた。なんという手回しの良さだろう。彼女たちの行
動力を侮っていたと言わざるを得ない。
﹁それにしても、よく血の紋章作る金があったな。50,000ゴ
ルドだろ、それ?﹂
﹁毎日、食事と入浴代で1,200ゴルドもくれてるの、ジルじゃ
ない。節約しながら午後は働いて、しかもそのお金は全部もらって
いいとなったら、これぐらい二週間で溜まったわ﹂
﹁迷宮に入る武器とか防具はどうするんだ? あれだって結構高い
ぞ?﹂ ﹁それはわかってるから、ジルが協力的かどうか、反応を見てから
考えようって話になったわ。もし私たちの迷宮入りに賛成してくれ
るなら、使ってない防具ぐらい貰えるかもしれないし。でもまあ、
貰えなかったとしても、エマは止まらないわよ。私だって説得した
もの﹂
そう言って肩を落とすエミリアである。きっと彼女のことだ、何
とか思いとどまらせようとはしてくれたのだろう。
﹁苦労させたな。俺も、説得できる材料がもう見当たらん﹂
﹁そうでしょ?﹂
二人してため息をつく俺とエミリアであった。
396
くいくいと、袖を引っ張られる感触に目を向けると、エマが満天
の星空のような無垢な瞳を俺に向けていた。
﹁ごしゅじんさまは、エマがまもるの。ごしゅじんさま、エマとパ
ーティ、くんでください﹂
﹁よしよし﹂
エマの頭をわしわしと撫でてやる。出した結論はともかく、俺の
役に立ちたいと思ってくれたのは、素直に嬉しかった。エマの自立
の端緒になるかもしれず、そこは喜ぶべきことであろう。
さて、状況を考えるに、エマたち三人が迷宮に入ることは、ほぼ
確定してしまっている。ならば、先ほども考えた、二つ目の選択肢
を取るしか、俺に残された道はない。
つまり、彼女たちが絶対死なないように、全力で環境を整えてや
ることである。
397
第二十七話 親心
翌朝になって、俺が最初にしたことは、財布の中身を確認するこ
とだった。
ここのところ、大きな収入と出費が入り混じっていたせいで、金
銭感覚が麻痺していたことは否めない。しばらくは金の心配はしな
くていいな、などと楽観的に構えていたのである。俺は、自分の財
布の中に、いくら入っているかすら、確認していなかった。
しかしここにきて、急な出費が発生したわけである。エマたちが
迷宮に潜るための準備が必要だった。
もちろん、エマたちはいま、何の装備も持っていない。着のみ着
のままである。
どれほど下準備をしようとも、命の危険が往々にしてあるのが迷
宮だ。彼女たちには、できる限りのことをしてやりたい。具体的に
は、少しの間、生活に困窮しないだけの現金を残して、すべてエマ
たちの強化に費やすつもりでいる。
考えてもみろ、例えば、防御力の不足や物資の欠乏から、誰か一
人でも消えない傷痕を負ったら?
エマが、エリーゼが、エミリアが、大事な年頃の少女だというの
に、顔に傷でも付いたらどうするのだ?
それどころか、運の良し悪しだけで、簡単に人が死ぬのが迷宮だ。
俺は、家族から人死にを出したくない。当たり前の話だ。
迷宮に潜っているうちに、過酷さに気づいて、冒険をやめてくれ
ればいいと思っている。しかしそのきっかけが、取り返しの付かな
398
い傷や、死者であって欲しくはないのだ。
手持ちの残金、486,220ゴルド。バンクには1ゴルドたり
とも預けていないので、これが俺の全財産だ。 エマたちに小銭を数えている姿を見られないよう、鯨の胃袋亭の
階段で、財布がわりの小袋の中身を調べた結果が、これだ。向こう
二週間、宿屋の大部屋に滞在する費用は前払いしてあるが、念を入
れて向こう一ヶ月分の代金は差し引いておきたい。
大部屋の宿泊費用が、月払いで150,000ゴルドである。こ
れに、エマたちに渡す食費や入浴代が、3,600ゴルド毎日かか
る。三十日間で計算すると、108,000ゴルド。これに加えて
俺の食費や、冒険に使う各種指輪の代金もかかるから、来月末まで
の生活費は、最低でも300,000ゴルドを見込まねばならない。
つまりは、180,000ゴルドほどが、生活に困窮せず、安全
圏を確保しつつ使える計算になる。
︵よし、安全圏を確保するの、やめたっと︶
長々と計算したが、それだけでは、俺が思い描くだけの、最低限
の準備を、エマたちに用意してやることができない。足りない分は、
俺がひたすら豚人やら矮人を狩れば捻出できる。無理をしてでも、
ここは金を使わねばならない。
もし何かしらの事故があって、エマたちが五体満足に帰ってこれ
なかったら、悲しむのは俺なのだから。
399
﹁ダグラァァァス! いるかッ!﹂
﹁おいやめろ、二日酔いで頭が痛ぇんだ。どうしたこんな朝っぱら
から、別嬪さん三人も連れて﹂
店を開く時間を三分も過ぎているのに、この糞親父は一体何を言
っているのだろうか。この重要なときに二日酔いとは、友達甲斐の
ない奴である。
﹁その、ご主人様。秒単位で時間を計りながら、開店時間と同時に
全力でお店の門を連打するのは、控えめに申し上げて迷惑な行為だ
と思うのですが﹂
エリーゼの困惑顔もそれはそれで珍しいが、こっちはそれどころ
ではないのだ。
﹁職務怠慢だぞダグラス。こちとらせっぱつまって九時前から店前
で待機してたんだ。相談があるんだ、さあ乗れ﹂
﹁乗らなくもねえけどよ、一体どうしたってんだお前は。昨晩は酒
入れて帰ったら母ちゃんが不機嫌でよ。詫びに、二次会ってわけじ
ゃねえが、ずっと嫁の相手してたんだ。勘弁して欲しいんだがよ﹂
カウンターの中で、頭を抑えながら呻くダグラスである。
﹁前から思ってたんだ、夫婦喧嘩は客の見てないところでやれ︱︱
そうじゃなかった、相談に乗ってくれ。非力な、迷宮に潜ったこと
のない女の子でも着れる、防御力の高い防具が欲しい﹂
400
シルバーサーレ
ペザ
ンー
トアーマー
﹁てめえ鍛冶屋なめてんのか。二百万持って向かいの仕立屋に行き
な、銀蛇の皮鎧を取り寄せてくれるだろうよ﹂
﹁そんな余裕がねえからこうしてダグラスんところに来てるんだろ
うが。何かあるだろ、初心者にお勧めのいい防具﹂
﹁そこの姉ちゃんの方が話が通じそうだ。こいつ、一体どうしちま
ったんだ?﹂
エリーゼに話を向けるダグラスである。
﹁そんなこと言ってる場合か。こっちは真面目に頼ん︱︱﹂
﹁すみません、ご主人様。私から話させて頂けますか?﹂
そんな悠長なことを言ってる場合か、と口に出そうとした俺は、
エミリアに首根っこをつかまれてずるずると店の外へと引っ張られ
てしまう。相手が相手だけに、腕力で抵抗するのも躊躇われた。
﹁あんた、うろたえすぎ。邪魔だからちょっとここで待ってなさい﹂
などと言われてしまっては、俺も立つ瀬がない。ダグラスも、エ
マたち三人もそれに同意していて、俺が店の中に足を踏み入れよう
とするたびにエミリアの鋭い視線に晒されるので、俺は店の外から、
入り口の戸にしがみつき、中で間違ったやり取りが交わされないか
と気を揉むのであった。
﹁なるほどねえ。そこの︵頭がおかしい旨の侮蔑用語︶の役に立ち
てえから、奴隷のお嬢さん方も迷宮に入ることにしたと。見上げた
話じゃねえか、いいぜ、相談に乗ってやる﹂
401
俺の心痛はどこ吹く風で、ダグラスは妙に嬉しそうな顔である。
口を挟もうとすると、エミリアが睨みつけてくるので、物も言えな
い。
﹁お前さんら、三人でまずは迷宮に入るんだよな。前衛はどいつだ
?﹂
はい、とエマが迷いなく手を挙げる。
エマが前衛だということが、何よりも驚きであった。最も小柄で、
身体も丈夫ではないだろうエマが前衛だと!?
エンブレム
﹁よしよし、お前、腕力値はいくつだ? というか、血の紋章は作
ったのか?﹂
ぷすりと、懐に持っていたらしい針で指を刺すエマである。ああ、
血が出てるじゃないかもう、早く止血しないと。 ﹁腕力値は5か。まあ迷宮に潜ったこともない、年端の行かねえ女
子供ならこんなもんか。ちょっとここで待ってろ。おうい、サフラ
ン、ゴキ鎧あるかあ?﹂
店の外で隠れるように待機していた俺には目もくれず、どすどす
と店を出たダグラスは、向かいの仕立屋に入っていく。数分も経た
ないうちに、何やら小柄の鎧を手にして戻ってきた。一見すると皮
鎧の上下に見えるが、何やら黒光りする、鱗のようなものを貼り付
けた鎧だ。
ブロードソード
﹁これ着てみろ。鎧の大きさは後で向かいで手直ししてもらえ。そ
れと、重すぎる剣は振れないだろうから︱︱これだな。鉄の帯広剣
402
だ。あとは兜を被ってみて、普通に動けるかどうか、ちょっと飛ん
だり跳ねたりしてみろ﹂
言われるがまま、エマは鱗鎧らしき上下を身に付け、ぶかぶかの
兜を頭に乗せ、鞘に入った剣を持ったまま店内を歩いたりちょっと
跳んだりしている。
﹁ちょっとおもいけど、へいき﹂
﹁じゃあ、それでいいな。一応説明しとくか。外のアホも一応聞い
ておけ﹂
誰がアホだ。
﹁兜は卵形の、簡単な奴だ。薄い鉄で作ってあるから、これが通用
ダイアウルフ
するのは迷宮の下層、それも最初の頃までだ。ちょっと前にそこの
オーク
アホが、これより分厚い板金で作った兜を恐狼に食いちぎられてる
ゴブリン
から、豚人以上を相手にするようになったらまたここに来い。面頬
が降ろせるからな、矮人の持ってる鈍器ぐらいまでなら耐えれるだ
ろうよ﹂
﹁はい﹂
エマは、素直にこくりと頷く。
ラメラーアーマー
クロースアーマー
﹁鎧は、鱗状鎧って奴だ。甲殻蟲っていう魔物の素材で作ってある。
甲殻に穴を開けて、紐で通したものを布鎧の上から貼り付けて作っ
たもんだ。軽い割には丈夫だが、マナ回復は阻害するから気を付け
ろよ。武器は鉄製の帯広剣だ。刺突もできるようにはなってるが、
長剣なんかと比べると華奢な作りだからな、無理な扱い方や、硬い
403
ものを殴ろうとすると折れるぞ。その分、そこそこの切れ味はある
から、叩きつけるようにじゃなくて、斬りたいものに走らせるよう
に使いな﹂
﹁わかりました﹂
メイジ
帯広剣を手に、軽く振ったり、握り具合を確かめたりするエマで
ある。
﹁次は、残りの二人だな。役割分担は決まってるのか?﹂
レンジャー
スタデッドレザーアーマー
﹁はい。私が狩人をやるので、エミリア︱︱そっちの子は魔術師を
担当することになりました。私は、ご主人様が持っている鋲皮鎧を
頂けることになっています﹂
﹁よくできた娘だ。俺もガキが授かるなら、お前みたいな奴がいい
レザーアーマー
な。そっちのお前、エミリアって言ったか、駆け出し魔術師の装備
なんざ皮鎧と相場が決まってる。帰りに、向かいの仕立屋で子供用
の皮鎧を見繕ってもらいな﹂
﹁私は子供じゃないわよ﹂
﹁大人の男からしたら同じようなもんだ。大体の店は、平均的な成
人男性に合うように鎧を作ってるからな、手直ししなきゃ使えない
ハイド
ダガー
はずだ。狩人のお前さん、エリーゼって言ったか? 武器は何を使
うつもりだ? 隠身からの暗殺なら短剣、遠距離で先制したいなら
弓、普通に前衛二枚で魔物と戦うなら帯広剣がお勧めだが﹂
﹁狩人が使う、最低限のスキルを覚えていますので、短剣でお願い
します﹂
404
﹁よしよし。取り回しがいいっていうのは重要だからな。体術で魔
物を組み伏せたりできるなら、すぐに取り出せる短剣は良い選択肢
だ。んじゃこれだな、ごくありふれた、鉄製の短剣だ。両刃だから
斬りつけることもできなくはないが、刺突用に使った方が本来の威
力が出る造りになってる﹂
革の鞘に入った短剣を受け取って、嬉しそうなエリーゼである。
﹁最後に、魔術師担当のお前さん、エミリアって言ったか。お前さ
んは、武器は持たなくていい。お前さんのところに敵を寄せ付けな
いようにするのが前衛中衛の役目だからな。もし奇襲とかされて、
近接戦闘に持ち込まれたときでも、何とか魔法だけを使って撃退で
きるようになっておけ。護身で使うにしろ、付け焼刃の剣術なんか
じゃ身は守れんからな。心配だったら、体術ぐらいは覚えといても
いいかもしれんが﹂
﹁エミリアには、フィンクスたちの来てた銀蛇の皮鎧を着てもらお
うかと︱︱﹂
店内を覗き込むように口を挟んだ俺の意見は、一瞬で却下された。
﹁二百万の装備を新人に着せようってのか、お前は? 危機管理が
疎かになってろくでもねえ死に方をするのが落ちだ。そもそも、そ
んな装備をして低階層に潜ってる新人なんざただのカモだ。装備狙
いの人殺しが寄ってくるぞ?﹂
﹁私の値段よりも高い鎧、ですって﹂
わなわなと震えるエミリアである。確かに、相場を考えると、銀
405
蛇の皮鎧一式があれば奴隷を一人買える。
﹁その、ご主人様。クォンバイト家の聖女様のお話なら、私も聞い
たことがありますし。私たちを心配して下さるのは有難いのですが、
何事も行き過ぎると、その、迷惑ですので﹂
迷惑、という言葉の岩が、俺の肩にずしりとのしかかる。思わず
地面に倒れ伏して重みに耐える俺であった。
﹁そこのアホ、お前さんもディノあたりに聞いたことがないか? クォンバイト家っていう、裕福な家庭が何十年か昔まではあってな。
そこの姉弟が冒険に行って箔を付けたいって言うんで、親が金に飽
かせて最高級の装備に加えて大量の魔石を用意してレベルを上げて
な。家庭教師に剣の手ほどきまでされたそいつらは、性能だけなら
当時の最先端だったんだが、意気揚々と迷宮に向かった先で、一月
と経たず罠に嵌って弟の方が死んだらしい。誰かに嵌められたんだ
ろうって話だが﹂
確かに、ディノ青年にも、似たような話を一度、されたことがあ
った。金の力で魔石を買えば、迷宮を楽に探索できるんじゃないか
?と聞いたときだ。
﹁で、そのクォンバイト家だが、弟が死んで以来、姉の方も冒険者
は引退しちまってな。しばらくは細々と暮らしつつ、資産を使って
孤児院やらを経営して聖女様って呼ばれてたんだがな。ある日を境
にその姉ちゃんの方も誘拐されたかで姿を消して、哀れ一家は断絶
ってわけだ。分不相応な力は身を滅ぼすっていう教訓として今でも
語られてるぐらいだが、お前さんがやってるのはまんまそれだぞ?﹂
﹁でもよ、無事に帰って来なかったらどうするんだよ﹂
406
﹁迷宮は死ぬも生きるも自己責任だ。お前さんがやることは、死ん
でも後悔しないかこの子らに念を押して脅かすところまでだろう。
見たところ覚悟も決まってるようだし、後は放っとけばいい﹂
﹁うるせえ馬鹿野郎。みんな俺の家族なんだ。迷宮なんざ行かせた
くないし、行くなら無事に帰ってきてほしいんだ﹂
﹁処置なしだなこりゃ。良かったなお前さんら、ずいぶん愛されて
るぞ? 言っちゃ何だが、ジルの言うことも正論だ。なんでまた、
迷宮に入ろうなんて思った?﹂
﹁私に関しては、お金を稼げたら家計の足しになる程度の考えで、
エミリアもそう大差ない動機ですが。この子︱︱エマが乗り気でし
て。一人で行かせるのも危険ですから、私たちも付いていこうと﹂
﹁ほう? そこのちっこいの、エマって言ったか。お前さん、何で
迷宮に行きたいんだ?﹂
鞘に入れたままの帯広剣を、軽く振ったり、柄に手をかけたりし
ながら、エマは笑顔を浮かべた。
﹁わたしはね、ごしゅじんさまがすきだから、たいとうになりたい
の。わたしがごしゅじんさまをまもるんだ﹂
返答を聞くなり、がははとダグラスは笑い出す。
﹁そいつはいい。いい覚悟してるなお前さん、気に入ったぞ。武器
が壊れたり、砥ぎが必要になったら俺のところに持ってこい。何だ
ったら出世払いのツケで装備を見繕ってやる﹂
407
﹁ダグラス、お前そんな安請け合いして︱︱甘やかされても困る﹂
しぶしぶながら、懐の小袋から金貨を数枚取り出して、ダグラス
に渡す。帯広剣と、短剣の代金だ。
﹁どの口で甘やかすなとか言いやがる。ああ、それと、髪の毛くる
くるした茶色のお前さん、エミリアって言ったか?﹂
﹁誰が茶色よ﹂
﹁あと、エリーゼって言ったか、背の高いお前さんも、少しだけな、
忠告だ﹂
忠告と聞いて、二人は顔を見合わせる。
﹁お前さんら、今はこのちっこい子のお守り気分だろうが、中途半
端な覚悟だとそのうち足引っ張るようになるぜ? 熱意の差は実力
に表れるからな。パーティ組むんだったら、そこらへんのすり合わ
せはしとけ。このちっこい子はやり過ぎるだろうし、エミリア、お
前さんは手を抜きすぎて、気がついたら置いていかれそうだ。背の
高いエリーゼ、お前さんはその調整役かな。一緒のパーティを組む
っていうのは、案外と大変なんだぜ? 生き方の違いが出てくるか
らな﹂
思い当たる節があるのか、エミリアはちょっとばつが悪そうな表
情である。
﹁肝に銘じます﹂
408
対外的に、殊勝な態度を取っているエミリアというのも、珍しい。
﹁まあ、無事に生き残ったらの話だがな。ジルの言う通り、迂闊な
奴、下準備の足りてない奴、迷宮をなめてる奴、そういうのからど
んどん死んでいくのが迷宮だ。生きて帰って来いよ﹂
話は終わりだとばかりに、手をひらひらさせるダグラスである。
何やら通じる物があったらしく、エマたちは三人してありがとう
ございました、などとダグラスに頭を下げている。
ずっと蚊帳の外で、少なからぬ疎外感を味わっていた俺であるが、
ここで心を折ってはいられない。まだまだ、彼女たちに必要なもの
は多いのだ。
﹁よし、次は魔法ギルドだ。みんな、行くぞ!﹂
スライム
意気揚々と鍛冶屋を後にする俺に、ダグラスの気の抜けた声が追
いかけてくる。
﹁ほんと、何とかに付ける薬はねえなあ﹂
ほっとけ。
ファイアアロー
全員に、火矢の魔石を吸収させる。前衛であれ、酸水母への対策
ヒール
として火矢は覚えておくべきであるからだ。
本当は小回復の魔法もエミリアに覚えさせたかったのだが、あれ
は値段がさらに高くつくので、断腸の思いで諦めた。早いところ、
409
リターン
テリング
豚人たちを虐殺して資金を溜めなければならぬ。 もちろん、帰還の指輪と念話の指輪も買って持たせている。等級
が低い念話の指輪は、数回使うと魔力が切れるが、とっさの状況で
キュアポーショントランキライトポーション
使うには十分だろう。複数人で行動するなら、迷宮ではぐれたりす
レッサーポーション
る危険もあるのだ。
バックパック
他にも、低級回復薬を五本ずつと、解毒薬、鎮静薬も一本ずつと、
背嚢も全員分買って、身につけさせる。
﹁よし、もういいか。何か、何か忘れていることはないか﹂
めまぐるしく頭を回転させるものの、最低限の装備に関しては、
取り揃えることができた、と思う。
﹁もう大丈夫ですから、ご主人様﹂
苦笑し続けたエリーゼは、表情筋を使うのも疲れてきたようで、
だんだんと表情の起伏が減ってきている。
﹁よし。じゃあ、今日のところは、一度、家に帰ろう。な?﹂
﹁エマ、めいきゅうにいくね﹂
彼女たちを迷宮に入れたくないという、俺のささやかな願いと努
力を踏みにじって、エマは満面の笑顔で宣言した。
クロースアーマー
﹁だめよ、エマ。まだ布鎧を装備していないし、ローブやベルトだ
って買ってないでしょう?﹂
﹁うん。わかった﹂
410
思わぬエリーゼの援護に、俺は顔を綻ばせる。
﹁だから、今日迷宮に行くのはいいとしても、一度、サフランさん
の仕立屋に寄ってからよ?﹂
そして、再びどん底に叩き落される。
﹁なあ。せめて、せめてエマに、戦士ギルドで講習を受けさせてか
らじゃ、ダメか?﹂
初めてこの街に足を踏み入れたとき、商店街の雑多な呼び声や客
引きの中で、戦士ギルドで近接武器の扱いを教えているという触れ
込みがあったことを、俺は覚えていた。まるで剣を振ったことがな
いエマでも、あそこで習いさえすれば、最低限の扱いだけは教えて
くれるのではなかろうか。
﹁戦士ギルド、ですか。それはいいかもしれませんね。ご主人様の
言う通り、確かに焦りすぎてはいけませんから﹂
﹁だろう? よしよし、一度行ってみよう﹂
三人の背を押すように、戦士ギルドへと向かわせる。 戦士ギルドは、冒険者ギルドや商業ギルドなど、大型の建築物が
並ぶ街の中心地にある。お偉いさんは役人だが、所属する職員は、
冒険者ギルドからの出向という形で、衛兵が担っている。それなり
の金がかかる衛兵隊の維持費用を、ここで働かせることで少しでも
浮かせようという試みがうまくいき、続いているらしい。
元々、冒険者出身などで、剣の扱いには習熟した衛兵が多い上に、
411
息抜きの仕事として、衛兵からも好評なんだとか。
ちなみにすべて、ディノ青年の受け売りである。
戦士ギルドの本部は、本庁でもある冒険者ギルドの石造りの建物
ほど華美ではなく、安物の木材で作られていたが、宿舎にも使って
いるというだけあって大きな建物で、天井が高く、横に広く作られ
ていた。
衛兵の宿舎になっているのはそのうち三分の一ほどで、残りは運
動場として使われているらしい。
スタデッドレザーアーマー
受付で用件を告げると、鋲皮鎧を着込んだ壮年の男性が、朗らか
な笑みを浮かべつつ、俺たちを案内してくれた。
身体は細身だが、彼はかなり腕が立つようだ。普通に行動してい
るだけなのに、隙が見当たらない。
﹁三人の基礎技術の講習だな、了解だ。兄さんはどうする? 見た
ところ、そこそこ剣は使い慣れてるようだが?﹂
﹁俺はいいや。迷宮に潜って、実戦で剣の使い方は覚えたから﹂
そう俺が言うと、形良く揃えられたあご髭がシブい彼は、シブい
顔をした。
﹁剣の型や足運びなんかは、最初のうちにしっかり覚えておいた方
が、変な癖が付かなくていいんだぜ。なまじ使い込んで慣れると、
矯正も大変だからな。どうせだから、兄さんも見ていきな。触りだ
412
けやって、やっぱり必要ないと思ったら帰ればいい。その場合は金
は取らないから﹂
﹁わかった、じゃあそうするよ﹂
誰が講習をしてくれるのかと思っていたが、目の前の彼が担当者
になるらしい。
受付の鈴を鳴らすと、詰め所らしき奥の扉が空き、別の衛兵が出て
きたかと思うと、後任として受付に座った。
衛兵の宿舎と、戦士ギルドの受付を兼ねた入り口付近を素通りし、
奥の方へと案内される。修練館という、木片の看板が掲げられてい
る扉をくぐると、そこは屋根つきの広大な建物だった。
ざっと三十人ぐらいだろうか、少なくない人数がそこにはいて、
あちこちで、鎧を着たまま剣を打ち交し合っている金属音や、軽装
のまま、新人の冒険者に身体の動かし方を教えている姿なども見え
る。
これだけの人数がいてなお、この運動館は広さに余裕があり、周
囲の人間と、じゅうぶんな距離を取って場所をとれる。
﹁いい運動場だろう? 屋根つきで、壁と床は分厚い木材で頑丈に
作られてて、だだっ広い。暇な衛兵が自己鍛錬をするときにも使う
んだ﹂
﹁すげえな、こりゃ﹂
端まで全力で走っても、十秒そこらでは到達できそうもない。端
の方では、弓矢の遠当てを練習している空間もあった。
天井を見上げると、ここだけは冒険者ギルド本部の広壮な建物に
413
もひけを取らないほどに高い。 メイジ
﹁さてと。兄さんとそこの子が剣術で、背の高い子が短剣、魔術師
の子が格闘術か。剣術からやろうかな。残りの二人は、少し退屈だ
が待っていてくれ﹂
エリーゼとエミリアは、素直に頷いて待っている。
﹁じゃあ、基本の構えからだ。兄さんも、基本の型だからって馬鹿
にせずにやってみるといい﹂
ロングソード
言うや否や、ダンディな彼は、刃引きをした鉄の長剣を、鞘から
抜く。
﹁まずは、剣の持ち方からだ。柄を握るときは、左手を下に、右手
を上になるように握る。次に足さばきだ。左足を前に出して、つま
先は相手に向ける。右足は、肩幅ぐらいあけて、右方向に斜めにつ
ま先を開く。剣先は、相手の喉元に向けて、真っすぐ突き出す。肘
も膝も、かちこちに伸ばさず、余裕を持たせておくんだ。これが、
正面から相手に剣を向ける基本の型、屋根の構えっていうものだ﹂
エマがしっかりと構えているかを横目で見つつ、俺も型を作る。
わかりやすく実演形式で教えてくれているが、いざやってみると、
ぎこちない構えになってしまい、中々上手くいかない。
﹁先に言うのを忘れていた。今教えているのは、いわば、対魔物用
の剣術だ。相手にするのが人か魔物か、盾を持つかどうか、武器が
両手持ちか片手持ちかなどで、基本の型っていうのはずいぶん違う。
長剣両手持ちでの講習になってるが、そこらへんは大丈夫か?﹂
414
ブロードソード
俺もエマも頷く。俺の使っている長剣よりも軽い帯広剣をエマは
使っているが、片手で振り回す筋力はまだない。
﹁よし、いいぞ。魔物の種類によっても戦い方なんていうのはもち
ろん変わってくるが、重要なのは二点。いかに体重の乗った、威力
のある攻撃を出せるかと、攻撃した後の隙の少なさだな﹂
頷きながら、この講師は当たりかもしれないと俺は思い始めてい
た。教え方が、わかりやすいのだ。
﹁先ほどの屋根の構えからだと、てっぺんから真っすぐ斬り下ろす、
右斜めに肩のあたりを斬り下ろす、横に薙ぐ、の三通りの斬り方が
できる。左方向からも斬れなくはないが、左足を前に出してる関係
で、右方向からの攻撃の方が威力が出るな﹂
彼はそう言いながら、上段、右斜め、右からの横薙ぎの三種類の
斬撃を実演してくれた。
﹁左足を前に出して、相手に近づきながら、斬る。右足は、斬った
後に、肩幅の広さに戻すように、同じだけ前に歩く。この、斬った
後に戻すっていうのが大事だな。移動し終わってから斬るんじゃな
く、左足、斬る、右足の順番だ﹂
彼がやっていたように真似をするが、意識しながら動こうとする
と、どうしてもぎこちないものになってしまう。上手く力を乗せよ
うとすると、重心が崩れたり、逆に腕だけで振って、上手く体重が
乗っていない一撃になるのだ。
﹁攻撃が命中する瞬間に、布を絞るように、柄を持った左手を絞る
と、より威力が出る。剣に重さを乗せるコツは、やりながら覚えて
415
もらうしかないが、上段と右斜め上からの斬り下ろしは、剣を基点
にして、相手に体重をかけるようなイメージだな。横薙ぎは、腰を
回しながら斬る感じだ﹂
エマは、真剣に練習をしている。買ったばかりの抜き身の帯広剣
を、身体を動かしながら、何度も振っていた。
﹁見たところ、兄ちゃんは、我流でやってたせいか、剣に体重を乗
せるのは問題なくできてるな。でもな、型をしっかり身につけてお
けば、最小限の力で、目一杯力を篭めるのと大差ない振り方ができ
る。もちろん、身体ごとぶつかっていって斬る、みたいなやり方よ
り、剣を振り終わった後も、すぐに元の体勢に戻れる﹂
﹁やってみると、その通りだと実感するよ。今まで、大きな一撃を
加えることばかり考えてて、振り終わった後のことは、あまり考え
ていなかった気がする﹂
﹁それなりに場数を踏まないと、そうやって実感できないもんだか
ら、今までの経験は無駄になってないさ。正しい型を身につけると、
今度はその経験が生きてくる。どうだい、講習、兄ちゃんも続ける
かい?﹂
﹁もちろんだ。やる前は俺にはいらないなんて思ってたが、知って
ると知らないとじゃ大違いだ﹂
心底からそう思っていた。今は物にできていないが、型と、剣の
振り方をしっかり覚えれば、より無駄のない動きができるようにな
るだろう。
﹁それは良かった。次の構えを教える前に、短剣と格闘術も教えて
416
くるから、そこで剣を振って待っててくれ。型が崩れ始めたりした
ら、しっかり指摘するから﹂
﹁わかった﹂
俺が頷く横で、エマは一心不乱に剣を振っている。
﹁短剣は、基本的に、普通の剣よりも弱いことを、まず頭に叩き込
んでくれ。射程が短いから、相手の懐にもぐりこまないと致命傷を
与えられないし、敵の攻撃をさばいたりも、しにくい。それでも短
剣を好んで使う狩人が多いのは、かさばらないから移動が楽だから
だ。つまり、普通の斬りあいではなく、相手に気づかれていない状
態から始めることを前提としている。もし、相手に気が付かれてい
て、正面からの戦闘になってしまったら、相手の攻撃を受けようと
は思うな。すべて避けて、相手の隙をついて、急所を狙うんだ。目
でも首でも心臓でも、足の腱や手首なんかでもいい。いわば、回避
の力量こそ、短剣使いの真骨頂と言い換えてもいい︱︱﹂
ダンディな彼の講習は、続く。
戦士ギルドの建物を出たころには、おやつ時を過ぎていた。
ダグラスの店の門を叩いたのが朝の九時であったことを考えると、
かなりの時間が経ってしまっている。
﹁やあ、来て良かった。みんなを迷宮に行かせたくない一心で来た
けど、正解だったな。俺も一つ、強くなれる気がする﹂
﹁私たちも、そう思います。最初をしっかり教わるのは、重要です
ね。身体が動きに慣れるまで、迷宮に潜るのが怖くなってしまいま
417
した﹂
﹁私もそう思うわ。魔物の攻撃が自分に向いたとき、とっさに避け
る足さばきや身体の使い方、すごく参考になったもの。きっと、知
らないまま迷宮に行って、いざ魔物に襲われたら、足が動かなくて
あたふたしてたと思う﹂
一通り、基礎技術を教え終わって衛兵の彼が帰ってからも、俺た
ちは運動場に残り、そのまま身体を動かしていた。みな、黙々と身
体を動かし、一時間そこらが過ぎたときには、もう汗みずくだった。
エマだけがまだ残りたそうにしていたが、やり過ぎも良くないと
の三者一様の意見により、風呂屋に寄り道してから帰ってきたとこ
ろである。
﹁なあ、やっぱり明日、迷宮に行くのか?﹂
﹁いく﹂
エマが即答する。他の二人も、遅れて頷いた。
﹁自分たちで決めたことですから。自分たちで決める︱︱私たち奴
隷が、そうできることが、望外の配慮なのはわかっていますが、認
めて頂けませんか?﹂
﹁そうしないといけないとは、思ってたよ。それでも、心配なもの
は心配だからなあ。みんな、しばらくは魔物から出た魔石、売ろう
としないで使ってさ、レベル上げてくれよ? レベルがあれば、何
か想定外の危機に陥っても、打開できたりもするから。無事に帰っ
てきてくれるのが、何より嬉しいんだからさ﹂
418
﹁お言葉に甘えて、そうさせて頂きます﹂
ヘリオス
四人で連れ立って、炎帝が沈みかけている、夕焼け空の下を帰る。
この日常を失いたくないと、心底から思った。
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第二十八話 火矢
クロースアーマー
ラメラーアーマー ブロードソード
翌日の昼になり、昼食をとると、三人は迷宮へと出かける準備を
整えた。
スタデッドレザーアー
ダマ
ガー
ー
全員が布鎧を下に着込んで、エマは甲殻蟲の鱗状鎧と帯広剣、エ
メイジ
リーゼは身体に合う大きさに手直しした鋲皮鎧と短剣、エミリアは
布鎧だけを着て、手ぶらという装いだ。魔術師に武器はいらないの
だ。
みな、装備の上から、膝ぐらいまでの、ねずみ色のローブを纏っ
ている。
このローブは、余った布を腰のベルトまでたくし上げてあって、
縛りを解けば、足元まで布を垂らせるようになっている。
迷宮内でもよおしてしまっても、トイレなどという親切なものは
あるわけもなく、その場でするしかないので、外聞を気にするので
あれば、ローブは冒険の必需品と言えた。普段は足回りの邪魔にな
らないようたくし上げておいて、用を足すときは足首までを覆うよ
うに隠すためだ。
突然魔物に襲われたときに防具を付けていないというのは死活問
題であるので、排泄とは馬鹿にできる話題ではない。現に、ほとん
どの鎧は、腰部分だけは着脱が容易なように作られている。
﹁では、ご主人様、行ってきます﹂
俺の目から見ても、各自に忘れ物や装備品の漏れはない。
420
シルバーサーペント
手を振りつつ、彼女たちが行ってしまうと、俺も鋲皮鎧を着込ん
ダイアウルフ
だ。もちろん、俺も迷宮へと赴くためだ。
今日は恐狼を討伐に行くわけではないので、銀蛇の皮鎧はバンク
に預けてあった。貴重な装備であるし、ドミニカ曰く盗みに入りや
オーク
すいという家には置いておけないからだ。
﹁うし、行くか﹂
ゴブリン
今日の目標は、矮人及び、豚人の虐殺である。狩れるだけ、狩る
つもりだった。
いざというとき、つまりは金に困ったら、銀蛇の皮鎧は売ろうか
とも考えていたが、やはりあの防御力は捨てがたい。いつか、エマ
たち三人の誰かに装備させるかもしれないことを考えると、やはり
手元に置いておきたかったし、そうすると、なるべく多くの金を稼
いで生活費に当てなければならなかった。
ファイアアロー
俺の残金は、30,000ゴルドを切っている。昨日、なんだか
んだで、出費がかさんだからだ。火矢の魔石三つに、鱗状鎧、布鎧
を一式ずつと、短剣、帯広剣、そして戦士ギルドでの四人の講習代
金。
ダグラスがある程度まけてくれなかったら、払いきれなかっただ
ろう。
ロングソード
ツケにされるのは心苦しいとは言ってみたものの、今使っている
俺の長剣の代金と比べたら、安いもんだと笑い飛ばされた。また剣
が必要になったら俺のところに買え、それでいい等と言っていたが、
言われなくてもそのつもりである。あの店ほど安くて質のいい装備
を扱っている鍛冶屋など、他にはないだろう。
421
結局のところは、ダグラスの言葉に甘えた形になった。 迷宮のひんやりとした空気に身を浸すと、頭が冴えていくのを感
じる。
ここは遊びの場ではない。楽に稼げる場でもない。気合を入れる
のはいいことだが、焦って行動が雑になることを許される場ではな
い。
いつも通りに進めば、一時間に三匹の魔物と出くわせば運がいい
方だった。マナ濃度が高い地下へと進むほど、魔物の生活密度は上
がる。入り口からそう遠くない、地下六階前後では、こんなもので
ある。
スライム
だが、焦って走り回って魔物を探すなどは、言語道断である。
体力を失った状態で戦闘に入れば、思わぬミスを犯す。酸水母の
存在に気づかず、食われる可能性だってある。迷宮の死因は、大半
が油断と慢心によるものだ。
︵慎重に動け、俺︶
足音を殺しながら歩いていると、遠くで何かの話し声のようなも
のが、かすかに聞こえた気がする。
﹁グギルグィ?﹂
﹁グィギ、ギギルグィ﹂
接近するにつれ、話し声はどんどんと大きくなってくる。忘れも
422
ゴブリン
しない、矮人の鳴き声だ。そっと顔を出すと、二匹の矮人が声高に
何かを喋りあっていた。
俺は頭の中で彼我の強さをざっと計算した。
︵今の俺なら、行ける︶
慢心でも、思いあがりでもない。今の俺なら、二体の矮人は、楽
に相手取れる。
真っすぐ彼らに向かって走りこんだ。火矢は使わない。酸水母や
大ムカデに出会ったときのために、温存しているのだ。
﹁ギィ!?﹂
矮人の一体が俺に気づき、次いで二体目も、俺の方へと向き直り、
手に持った棍棒を構える。その頃には、俺は彼らの近くまで、走り
こんでいた。
︵恐狼に比べると、遅すぎるな、こいつら︶
未だ完全に身に付いたとは言いがたいが、それでも、型を意識し
ながら剣を振ることはできたと思う。
﹁せいッ!﹂
屋根の構えから繰り出した、右斜め上から振り下ろす一撃は、矮
人の肩から腰までを、わずかな肉を残して両断した。
俺は型に固執してその場で武器を構えなおす愚を犯さず、斬りつ
けた方の矮人を盾にするように、回り込んだ。
423
俺を迎撃するために棍棒を振りかざした矮人は、相棒の矮人の身
体が邪魔で、俺に殴りかかれない。敵の身体を、盾にした形だ。
斬りつけた方の矮人が、倒れ伏す暇も与えなかった。邪魔なその
身体を蹴飛ばし、残った矮人に肉薄して、上段からの一刀で斬り伏
せた。
例え二体がかりであろうと、矮人相手ならばこんなものである。
しばらく待ってから魔石を回収し、再び俺は歩を進める。
天井に酸水母が張り付いていないか、魔物の発する音がしないか
どうか、足音を殺しながら、進む。
俺が宿へと戻ったのは、すっかり日も暮れてからだった。
エマたちが無事に帰ってきているか、帰路は気が気でなかった。
もっと早く帰っていれば良かったと後悔するが、稼がなければ、と
いう思考に縛られていて、魔物を狩るべく長居をしてしまったのだ。
自分では冷静でいたつもりでも、どこか頭が回っていなかったの
だろう。
気が急く中、足早に宿へと帰り、二階へと続く階段を登っている
途中で、大部屋の方向から、エミリアのものらしき笑い声がした。
俺は安堵した。笑えているということは、無事に帰ってこれたの
だろう。
424
﹁ただいま、帰ったよ。みんなは無事か?﹂
返事のかわりに、にっこりと笑みを浮かべたエマが、飛びついて
くる。
﹁四時間ほど、迷宮の中にいました。獲物は、大ネズミが四匹と甲
殻蟲が一匹だけですが﹂
﹁慣らしって意味では、いい滑り出しだったと思うわ。やっぱり聞
くのと実際にやるのじゃ大違いね。緊張したわ﹂
﹁最初の一時間は、誰がどこに立つかで悩んで、動きもぎこちなか
ったよね﹂ エミリアとエリーゼも、弾んだ表情で今日の狩りを語り合う。ど
うやら、手ごたえはしっかりあったようだ。
﹁何はともあれ、初陣の成功と、無事に帰ってこれたことを祝おう。
みんな、お疲れ様﹂
﹁ご主人様も、今日の狩り、お疲れ様でした﹂ 頭を下げるエリーゼを横目に、俺は自分の鋲皮鎧と長剣をベッド
の脇に置く。
ふと、ふわりと血臭が香った。洗い流したとはいえ、俺の鋲皮鎧
が臭いの発生源でもおかしくはないのだが、今日の俺は手傷を受け
ていないので、真新しい血の臭いがするのはおかしい。長剣の血糊
は、毎回、丁寧に拭っているのだ。
無意識にすんすんと鼻をうごめかすと、臭いの発生源らしきもの
425
がわかった。エマの両手である。
﹁お、エマも魔物を斬ったのか﹂
﹁うん。どうしてわかったの?﹂
﹁手から血の臭いがしたからな﹂
俺が何気なく言うと、エマは衝撃を受けた様子で、よろよろと二、
三歩後ずさった。擬音で現すなら、がびーん、といった表情である。
﹁あらってくる﹂
とぼとぼと部屋を出ていこうとしたエマを呼び止める。思わず苦
笑が漏れた。
﹁こらこら。戦士なら仕方ないことだし、魔物を倒して付く血の臭
いは勲章みたいなもんだぞ?﹂
やり取りを見ていたエミリアが、ため息をつく。
デリカシー
﹁前から思ってたんだけど、ジルって繊細な心配りないわね﹂
﹁俺!?﹂
﹁年頃の女の子が、手から血が臭うなんて言われたらショックよ。
ちょっと考えればわかるでしょう?﹂
﹁む、むしろ冒険者として褒めたつもりだったんだが﹂
426
﹁エマの様子を見てそう思えるなら大したものだわ﹂
横目でちらりとエマを見ると、ベッドに突っ伏してどんよりした
空気を漂わせている。
﹁理不尽な。俺だって、冒険帰りは血臭させてるだろうに﹂
﹁ジルはいいのよ、男だから。これだから女心がわからない男は嫌
なのよ﹂
クリムゾンペッパー
フ
馬鹿に付ける薬はないわね、と手をひらひらさせるエミリアであ
った。
解せぬ。
リカッセ
﹁そういや、今日の料理はちょいと辛いんだ。緋胡椒を使った鶏肉
のごった煮なんだけどね。娘っ子たちで、辛いのがダメな子はいる
かい?﹂
気持ちを切り替えて、晩飯を受け取りに階下へと赴くと、店の前
で呼び込みをしていたドミニカから声をかけられた。常識的な範囲
内の辛さであれば俺は平気だが、エマたちとなるとどうだろう。
﹁ちょっと聞いてくる﹂
部屋にとんぼ帰りして、エマたちに晩飯について説明する。
﹁辛いものですか? 私は好きですが﹂
427
﹁エマは、からいもの、たべたことない﹂
﹁私は苦手だったけど、まだ商家にいるときで、五、六歳頃の話だ
ったし、今なら平気だと思うわ﹂
三者三様の反応である。
﹁食べられないようだったら、別の料理頼むことにしようか。じゃ
あ、辛いやつで貰ってくる﹂
ドミニカに、試してみるらしい、と伝えると、磊落に笑って、木
のトレイに乗った器を差し出してきた。
﹁おうっふ﹂
器から立ち上る湯気が、すでに目に痛い。器の中身は、クリーム
色のシチュー状のものなのに、やわらかな外見とは裏腹の、この目
の痛さは何としたことだろう。
﹁食べ終わったら、舌に優しいデザート出してやるから、また下に
来な。いま渡すと溶けちまうからね﹂
頷いて、四人分のトレイを持って、二階の自室、大部屋へと運ぶ。
冒険で筋力が上がっているので、これぐらいは容易いものである。
食卓として使っている大机にトレイを置いたときの反応も、三者
三様であった。
﹁匂いが部屋に篭らないか心配ですね﹂
428
などと言いつつ、目を輝かせるエリーゼ。
﹁だだ大丈夫よ、辛いものぐらい食べられるわ﹂
余裕そうに嘯くエミリアの目尻には、湯気が沁みたのかすでに涙
が浮かんでいる。
﹁むう﹂
エマに至っては、姿勢を正し、鋭い目で料理を睨んでいる。まる
で、これから強敵と戦うかのような佇まいだ。
エマたちは、三人同時に、料理を匙ですくって口に運ぶ。その反
応もまた、様々であった。
﹁あっ﹂という、ちょっと嬉しそうな声を出したのはエリーゼであ
る。エミリアは声に鳴らない悲鳴を上げて悶絶し、エマは黙々と二
口目を口に運んだ。
俺も、匙を口に運んでみる。まず、スープを舌に乗せると、クリ
ームのまろやかな風味と、鶏肉の旨味、そして一緒に煮込まれた野
菜の滋味が良い具合に溶け合っていて︱︱わずかに遅れて、刺激的
な香辛料の風味と、鋭い辛さが脳天を貫いた。
﹁おう、っく﹂
思わず声を出してしまう。言葉にするのならば、これは辛さによ
る奇襲である。
意外と辛くない、まろやかな味と思わせておいて、隠れた短剣のよ
429
うな鋭い辛みが襲ってくるのだ。まるで火矢のように、熱く鋭い辛
さ。
﹁んふふふ﹂
普段は見せないような、恍惚とした笑顔で、ぱくぱくと料理を口
に運んでいるのは、エリーゼである。よほど気に入ったのか、普段
よりも食事のペースが早く、口に匙を運んでは、その都度襲ってく
る辛さに、身悶えしながら喜んでいる。
﹁いいな、これ﹂
俺は紐をゆるめて、胸元を少しはだける。すでに汗が噴出してい
た。
気合を入れて、もう一口を食べると、強い香りが鼻から抜け、舌
の根元と喉にきりりとした刺激が広がる。
クリムゾンペッパー
﹁これが緋胡椒の味か﹂
ただ辛いだけではない。すっきりとした、雑味のない辛さが、食
欲をいや増す。まろやかな乳精とよく合っていて、独特の香りが後
を引く。
﹁んひいぃぃ﹂
年頃の少女が出してはいけない謎の奇声を上げ、今もベッドに逃
げ込んで悶えているのはエミリアであった。
﹁エミリア、無理ならエリーゼに食ってもらえ。別の料理貰ってき
てやるから﹂
430
﹁そうしましょう。私、これ好きだわ﹂
返事を待たず、エリーゼはエミリアの残した皿をすすっと手元に
引き寄せる。
純白のカバーを巻いた枕に腕を回し、絞め殺さんばかりの勢いで
抱きついているエミリアは、真っ赤な顔で涙を浮かべつつ、こくこ
くと頷いた。
﹁エマもどうする? 何かもらってくるか?﹂
一応聞いてはみたが、エマはまんざらでもなさそうで、紅潮した
顔のまま、ふるふると首を横に振った。
﹁わるくない﹂
俺はそこそこ辛いものは平気だし、好きでもあったが、今日の料
理はかなり強い辛さであったと思う。エマもエリーゼも、人並み以
上に辛いものは好きなようだ。
階下に降りると、ドミニカが俺の姿を認めて笑った。
﹁やっぱりダメだったかい?﹂
﹁一人だけな。別の料理、頼む。あの様子だと、量は少な目でいい
と思うから﹂ ﹁わかったよ、何にしようかね﹂
431
ドミニカが考えている間に、亭主の方がカウンターの中から、木
の椀に盛られた料理をすっと差し出してきた。
﹁ああ、あんた、ありがとうね。ローストビーフのサラダか、これ
なら確かに食べやすいし、野菜も採れるね﹂ 受け取った椀を覗き込むと、チシャ葉を底に敷き、潰した芋と赤
みの残った肉、最後にふりかけられた香草の彩りが目に優しい。
﹁あと五分ぐらいしたら、私がデザート作りに上に行くからね、待
っておきな﹂
﹁その場で作るのか? まあ了解だが﹂
部屋に戻ってエミリアに差し出すと、心底ほっとした様子で、ド
レッシングのかかったチシャ葉を口に運ぶ。未だに辛いようで、時
おり水を飲んでは、深く息を吐いた。
﹁はいよ、お待ちどうさん。邪魔するよ﹂
エミリアがサラダを半分以上食べ終えたあたりで、ノックととも
にドミニカが部屋に入ってくる。手には、金属製のボウルと泡立て
器、そしていくつかの椀を持っていた。
﹁なんだこりゃ。乳精か?﹂
ボウルの中には、牛乳状のとろりとした液体が張られている。
ドルチェヴィータ
﹁氷菓ってんだ。辛いものを食べた後は、これに限る﹂
432
ボウルを倒さないように、右手で器用に泡だて器を使いながら、
ドミニカはうっすらと輝く左手をボウルの中に翳す。氷属性の魔法
を使ったようで、ひやりとした空気が近くで見ている俺の方にも流
れてきた。
﹁魔法で冷やしてるのか﹂
﹁そうさ。まあ、見ておきな﹂
そのまましゃかしゃかと泡だて器を回すこと二、三分で、ボウル
の中身は、液体からどろどろしたものに変わっていた。泡だて器を
引き抜き、氷菓の垂れ落ち方で固さを調べたあと、ドミニカは納得
した表情で、椀の中に一杯ずつそれを盛っていく。
横から匙を突き立てられた、椀一杯に満たないぐらいの氷菓が、
俺たち一人一人の前に並べられた。
﹁じゃあね。食べ終わった食器は、いつも通り、補洗機やらがある
流し場の方に置いといてくれ﹂
ドミニカが去るやいなや、みな興味津々と言った表情で、器の中
身を覗き込む。
﹁みんな、食べたことなかったんです、氷菓。街の露店で、たまに
売っているところを見かけはしたのですが﹂
﹁俺もないなあ。どんな味がするのやら。甘そうではあるが﹂
﹁そんなことより、早く食べましょ。きっと、溶ける前に食べるも
のよ﹂
433
辛さの記憶はどこへやら、エミリアはご機嫌で椀に手をかける。
みな、匙ですくった氷菓を口に運ぶと、やや驚いた表情の後で、
至福といった体で目元が緩む。俺も試しに口に入れると、氷を食べ
ているような冷たさと、まろやかな甘みが広がり、それが辛さで荒
れた舌には、これ以上ないほどに優しい。
﹁うまいなこれ!﹂
﹁辛いものの後でしたから、余計に美味しいですね﹂
エマとエミリアは、ひょいぱくと無言で氷菓を食い続けている。
嬉しそうな表情であった。よほど気に入ったようだ。 ﹁明日も、迷宮には潜るのか?﹂
そろそろ、寝る時間である。俺が水場に歯みがきに行っている間
に、みな、寝巻きに着替えていた。
﹁はい。お昼を食べたらすぐに行こうかと﹂
﹁もう止めないけど、勉強も大事だから、しっかりな﹂
﹁もちろんです。冒険の予習にもなりますから、あの教材はいいも
のです﹂
そういえば、そうだった。魔物シリーズ図鑑で文字を学んでいる
なら、魔物の生態にも詳しくなろうというものだ。
434
﹁ん?﹂
くいくいと、俺の袖を引っ張るエマである。
﹁手、あらった。入っていってもいい?﹂
俺のベッドに潜りこんできてもいいか、と聞いているのである。
手を洗ってきたということは、晩飯前に俺に言われた、血臭がする
という言葉を、未だに気にしていたのだろうか。
﹁元からあまりいいとは思っていなかったが、臭いは気にしてない
から大丈夫だ。
ん、いい匂いだぞ﹂
髪の毛の匂いを嗅いでやり、頭を撫でる。嬉しそうに、にへっ、
と笑って、エマは俺のベッドにもぐりこんだ。布団を少しめくりあ
げて、空いたスペースをぺしぺしと叩いている。早く来いと催促し
ているのだ。
﹁なんか、色々と逆のような気がしないでもないが。みんな、おや
すみ﹂
おやすみなさい、という言葉とともに、エリーゼが猫目灯の明か
りを消すと、室内には暗闇が訪れる。エマは俺の胸元に抱きつくと、
すぐに軽やかな寝息を立て始めた。
﹁やっぱり、この部屋ちょっと辛い匂いするわ﹂
渋い声で呟くエミリアに、俺とエリーゼの押し殺した笑いが重な
435
る。間もなく、俺も瞼が重くなってきた。
436
第二十九話 襲来
オーク
しとしとと、床を踏むわずかな足音。しんと冷えた空気。物音一
つしない、どこまでも続く岩肌。
ダイアウルフ
俺は、今、迷宮の地下十階にいる。主に出没する魔物は、豚人と、
恐狼。
ここ二十分ほど歩き回っているが、豚人には遭遇していない。
つまり、ここは、恐狼の縄張りなのだ。
前回、この階層で恐狼と戦ったときは、苦渋を舐めた。兜を食い
ちぎられ、手傷を負わせたものの、逃げられたのだ。あのときの記
憶が、つい昨日のことのように思い出される。
あれから、十日余りの時が過ぎていた。
再戦を決意するに至った動機は、簡単だ。昨日の冒険で、俺のレ
ベルが、ちょうど十の倍数に到達したからだ。
以前に恐狼と戦ったときと比べると、腕力値が2、敏捷値が2、
知性値が1、それぞれ上昇した。50レベル分ほど、成長したこと
になる。
主に狩った獲物は豚人だけであったが、戦士ギルドで型を習って
から、その型を崩さないように意識して剣を振っていた結果、伸び
悩んでいた武器スキルが、一時的に以前のように成長するようにな
った。
今では、型通りに剣を振ることも、剣を振った後の構えなおしも、
437
ごく自然にできるほど、身についている。
装備は、変わっていない。
プレートヘルム
シルバーサーペント
恐狼に食いちぎられた兜だけは新調し、以前のものよりはやや造
レザーアーマー
りのごつい板金兜になっている。頭以外の防具は、もちろん銀蛇の
ロングソード
皮鎧一式であった。手を抜けるような相手ではない。
ウーツ
鈍魔鋼で外刃を付けた長剣は、わずかに研ぎのせいですり減って
きたが、一ヶ月で使い潰した鉄製のそれに比べると、磨耗は緩やか
だった。少し研ぎなおすだけで、すぐに切れ味が戻るのである。武
器に不安はない。
恐狼の縄張りであろう場所を、延々と歩く。
何個目かの角を曲がろうとした瞬間、違和感を覚えた。
それは、生物の気配、と言い換えてもいい。息遣いや足跡、物音
など、何かを感じたわけではない。それでも、刻一刻と、違和感は
どんどん強くなってくる。何か、強大なものが迫ってくるような、
息苦しさを覚える。
ファイアアロー
俺は長剣の柄を持ったままの左手で弓の握りを持ち、右手で矢を
引き絞る構えを取る。火矢の詠唱だ。
もう、柔らかな足裏が大地を蹴る、とつとつという足音がそこま
で聞こえてきている。間もなく、奴は姿を現すだろう。
ダイアウルフ
俺が見据えている先、曲がり角から一匹の恐狼が姿を現した瞬間
︱︱俺は火矢を放った。
438
ひゅん、という静かな風切り音と、目標に命中する、鈍い手ごた
え。
俺の魔法スキルと魔力貫通スキルも少しばかり上昇したとはいえ、
やはり恐狼は火矢に大した怯みも見せずに走りこんできた。
俺は焦らず、長剣を屋根の構えに取る。剣先を相手に向かる、基
本の型。
鎧まで含めた俺の全体重よりも重いであろう、巨大な体躯が、人
が走るよりもはるかに速く、俺へと真っすぐに向かってくる。その
重圧、プレッシャーはすさまじいものがある。
しかし、俺は逃げない。避けようとも、思わなかった。小回りの
速度では、恐狼には勝てない。それは、構えからの斬撃と、構えな
おしを習得した俺の動きをもってしても、だ。それよりも、こいつ
は速い。
あの巨体でぶち当たられたときの被害を想像すると、怯懦に囚わ
れそうになる。間違いなく俺は吹っ飛ばされて、転げまわるだろう
し、すぐに立ち上がれないほどの衝撃を受けるかもしれない。
だが、それでもいい。奴の牙と、俺の剣では、俺の剣の方が威力
が高い。奴の牙は、俺の防具を一瞬で貫けはしない。俺の鈍魔鋼の
長剣は、しっかりと当てさえすれば、恐狼の毛皮といえども斬り割
く威力はあるはずだ。
有利な状況でも、格上相手にぶつからないのは、始める前から気
持ちで負けているようなものだ。
だから、俺は逃げない。今まさに、俺の目の前まで走りこんでき
た恐狼が、俺に食らいつこうと、その巨体を伏せるように沈めた後、
439
飛びかかってくる︱︱。
﹁せいッ!﹂
それに合わせるように、俺は上段の剣を、真っすぐ振り下ろした。
大振りでなくとも、体重が乗っている、鋭い一撃だ。
瞬間、巨大な何かに撥ね飛ばされたような衝撃を受けた。
天と地が逆回転し、身体のあちこちをぶつけている感覚がある。
その間は、身体のどこにも力を入れられなかった。ただ、身体に加
えられた力に逆らうことなく、ごろごろと転がり続けただけである。
数秒ほど転がった後、俺の身体は勢いを止めた。立ち上がろうと
したが、世界が回っているようで、立てなかった。揺れる視界の中、
片膝立ちのままで、何とか俺は剣を構える。
姿勢を崩しているうちに、すぐにでも再び飛びかかられることを
覚悟していたが、恐狼は唸り続けているだけで、近寄ってこようと
しない。ようやく眩暈が治まってくると、恐狼も傷を負ったのが見
て取れた。
俺から見て、恐狼の右の肩に、深い切れ目ができており、その傷
付近の毛皮は、赤く血で染まっている。
相打ち気味に繰り出した俺の一撃は、しっかりと恐狼に命中した
のだ。
切っ先を向けた俺の長剣を警戒しているのか、恐狼はじりじりと
距離を詰めつつ、唸り続けている。
440
︵どこか、腱でも切ったか?︶
傷口からもっとも近い、恐狼の左足は、しっかり踏ん張れていな
いようだった。
どうやら、運命の天秤は、俺の方へと傾いたらしい。
﹁グルルルル︱︱﹂
恐狼は、未だに戦意を失っていなかったので、俺も緊張の糸は切
らない。
唸り声で威嚇しつつ、怪我のない残りの三本足で、今にも地面を
蹴って跳ぼうとするかのように、頭を下げた前傾姿勢を保っている。
左前足だけが、だらりと地面に垂れていた。
﹁長引かないようにしてやりたいけど、そうは行かないよな﹂
俺は、再び火矢を詠唱する。両手の先に、マナで弓矢が形作られ
る。
無事な方の前足、右の足首を狙って、俺は火矢を放った。空気を
焦がす擦過音とともに、恐狼の右前足に、火矢は命中する。
肉の焦げる臭いとともに、恐狼は両前足の支えを失って、首を地
面に垂れた。
俺は、長剣を屋根の構えに取り、ゆっくりと近づいていく。
恐狼と目が合った。戦意は残っているが、少し、悲しそうな目を
441
していた。
﹁ガアッ!﹂
無事な二本の後ろ足だけで、恐狼は跳んだ。最初ほどの高度はな
い、地面を縫うような、低い跳躍だ。四本ある足の半分は使えない
というのに、低層に出没する他のすべての魔物よりも、俊敏な動き
だ。
ただし、さすがに四本足の飛びつきよりも、動きは鈍い。俺の一
撃で、捉えられる速度だ。
﹁ふんっ!﹂
俺は気合を篭めて、真っすぐに長剣を振り下ろす。
手の先に伝わる、鈍くしっかりした、破砕の手ごたえ。すぐさま
手首を返し、跳び下がって、第二撃を放つ構えに戻る。
恐狼は、頭蓋を砕かれて、もう動かなかった。とどめと血抜きを
兼ねて、頚動脈をさっと切り裂く。溢れ出た液体は、岩の地面をた
ちまちに赤黒く染めていった。
﹁ふう︱︱﹂
リベンジ
雪辱戦、成功である。
戦闘中は気が付かなかったが、鉄兜の中は汗まみれだった。俺は
作風の魔法を使い、面頬を上げた兜前面の隙間から、兜の中に風を
送る。涼やかな風で、汗が飛ばされる感覚が快い。エミリアが風呂
上りに作風の魔法を使って涼んでいるのを見て、俺も欲しくなって
442
覚えたのだ。
兜を着用する前に、俺は頭に布を巻いている。汗を吸わせるため
だ。迷宮の中では、ちょっと汗をかいたからといって、兜を脱いで
拭くわけにもいかない。兜がないときに奇襲でもされたら一大事だ
からだ。
しかし、それはそれとして、汗が目に入るのも良くはない。塩水
のようなものだからして、目に沁みるのだ。斬り合いの最中で、一
瞬とはいえ視界がふさがれるのは、それなりの痛手である。
だからこその、頭に巻いた布であり、作風の魔法であった。うん、
これは決して無駄遣いではない。ないぞ。
﹁さて、持ち帰るか﹂
俺の全体重よりも重い、巨大な体躯は、俺一人では素材である毛
皮を剥ぐことができない。それに、知識としては剥ぎ取り方を知っ
ているものの、実際にやったことはない。
そもそも、死体から毛皮を剥ぎ取って革になめすという作業は、
どれも職人の技がいる。素人が安易に手を出して、素材をダメにし
てしまった話をよく聞くほどに、難しい作業なのだ。
﹁よっ、と﹂
恐狼の死体を立たせて、前足を肩に担ぐ。その後、股の間に手を
差し入れ、後ろ足を抱えるように持ち上げる。これだけ身体が大き
いと、運び方も人間のそれと変わらない。
血液を抜いたことで、気休め程度に軽くなっているとはいえ、そ
れでも恐狼の重量はかなりのものである。レベルが上がって腕力値
443
が強化されている俺でも、一体を抱えて運ぶのが精一杯だ。
﹁えっほ、えっほ﹂
ずしりと肩にのしかかる重みに耐えながら、俺は小走りに迷宮の
中を、地上へと向けて進む。恐らく、二十分もしないうちに辿り着
スライム
けるだろうが、途中で魔物に遭遇したら、恐狼の死体は投げ捨てて
戦わなければならない。そして何よりも恐るべきは、酸水母である。
魔物に遭わないよう、急いで帰る途中で、頭上に潜む酸水母に気
づかなかったら、一巻の終わりである。周囲を警戒しつつ、小走り
で進む。その上に、肉塊と化した巨大な重量を担いでおり、今もわ
ずかに斬り口から血が滴ってもいて、それが銀蛇の皮鎧を汚してい
た。
︵きっついなあ︶
うん、我がことながら、中々に過酷である。
しかし、これは必要な作業なのだ。恐狼の死体は、傷が少なけれ
ば5,000ゴルドで売れる。それに魔石の相場が2,000ゴル
ドほどであるから、こいつ一匹で一日の稼ぎになるのだ。
体感だと地上二階ほど、もう少しで出口だというところで、大ネ
ズミと遭遇した。危機感というか、生物としての本能がないのか、
明らかに格上である恐狼の死体を担いだ俺から、逃げるでもなく襲
いかかってきた。
担いだ死体を投げ捨てるまでもない。飛びかかろうとしてきた大
ネズミの腹を前蹴りで吹っ飛ばした。ごろごろと地を転がる大ネズ
444
ミに駆け寄り、顔面を蹴り上げる。
何かが折れるような鈍い音がしたものの、とどめには至っていな
いだろう。弱っている大ネズミの頭を踏みつけて、終わらせた。
普段の俺であれば、たとえ100ゴルドにしかならない魔石であ
っても、数分待って回収しただろうが、今はそんな余裕がない。恐
狼の死体は、地面に降ろしたままにしておくと迷宮が吸収してしま
うから、ずっと肩に担いだまま、大ネズミの死体が消えるまでの数
分を待たなくてはならないのだ。
はっきりいって、体力の無駄である。100ゴルドでは、労力に
見合わない。
今頃は、エマたちが必死に大ネズミを狩り、得られた魔石に快哉
を叫んでいるころだろう。その、彼女たちの戦果を、路傍の石のよ
うに捨てる行為に心が痛まぬでもないが、冷静にかかる労力と得ら
れる報酬を計算するのも冒険者の能力の一つであった。
俺は大ネズミの死骸をその場に残し、再び地上へと続く道を登り
始める。
﹁おう、こりゃ大物だな。剥ぎ取りもこっちでやる形でいいかね?
手間賃は引くことになるが﹂
布を張った、テントのような天幕が立ち並ぶ、商業ギルドの買取
市場。
445
そこの、皮革部門に、俺は恐狼の死骸を持ち込んだ。机の上に置
いては汚れてしまうので、床に張った布の上に死骸を横たえる。
解体など、一連の血なまぐさい作業を行うため、毛皮部門の天幕
は、買取市場の中でも隅の方にあった。確かに、天幕の中に立ち入
った瞬間、何ともいえぬ悪臭が篭っていたものだ。
﹁うん。鮮度もいいな。死後硬直が始まっちゃいるが、新鮮なもん
だ。胴体に傷がないっていうのもいい。頭と首、足に傷があるから、
取れる毛皮は足から胴体までだな。じゅうぶんだ﹂
﹁皮は剥ぎ取ったことがなくてな。そっちでお願いしたい﹂
﹁了解した。解体の手間賃は、魔石を除いて取れる全素材の売却金
額、その二割だ。1,000ゴルドを切る場合は、1,000ゴル
ド貰ってるがな。この毛皮なら、6,000ゴルドってとこだから、
二割引いて1,200ゴルド、中抜きするぞ?﹂
﹁剥ぎ取りは覚えたいんだが、毛皮を剥いだことがなくてな。ダメ
にするのが怖くて、そのまま持って帰ったんだ﹂
商業ギルドの職員は、そこそこ年齢の行ったおっさんだったが、
恐狼の死骸を調べ終わると、傍らに控えた、作業用と思しき前掛け
をした二人の男に声をかける。
﹁これだけ大きいと、一人じゃちょいと剥ぐのは難しいな。毛皮を
剥ぐだけなら、誰かに後ろ脚を持っててもらえばできなくもないが、
仮に全身に切り込みを入れて解剖して、毛皮を上手いこと剥げたと
しても、その後、すぐに木の板に釘で打ちつけて皮を伸ばし、乾か
さにゃならん。さらにそこから、皮に残った脂肪分を削ぎ落として、
446
なめしの手順に入るんだ。お前さん、できそうかい?﹂
うへえ、といった気分だった。手順が多すぎて、とてもではない
が迷宮の中で行える作業ではなさそうだ。
﹁いや、無理そうだな。剥いだ毛皮を持ったまま冒険を続けられる
んなら習得も視野に入るが、すぐに処理しないと値段が下がるんだ
ろう?﹂
﹁そうだな。時間が経つと皮の硬直や腐敗が進んじまって、使い物
にならなくなる。後ろで作業してる若い二人は、裁縫ギルドに所属
してる下積みの新人だから、手間賃がこの値段で済んでるんだ。処
理にかかる時間や手間なんかを考えたら、作業料としては安いもん
だと俺は思ってるぜ﹂ ﹁それもそうか。わかった、毛皮の採れる魔物を倒したら、また丸
ごとここに持ってくるよ﹂
リターン
﹁そうしてくれ。恐狼じゃあちょいと採算が取れないだろうが、も
う少し高級な毛皮の取れる魔物なら、帰還の指輪を使えば持ち運び
も楽だろうから、そっちも視野に入れてくれ︱︱魔石なんだが、払
う報酬に上乗せって形にしたい。どうしても魔石は手元に引き取り
たいとかあるか?﹂
﹁いや、ないが。どうしてだ?﹂
﹁原理は未だにわかってないんだがな、例えばそこの恐狼の死骸で
言うと、毛皮と肉に解体することになるだろう? そうするとな、
多少時間はかかるが、迷宮の中と同じように、一定時間放っておく
と、どっちも消えちまうんだ。で、先に消えた方、まあ俺たちが毛
447
皮は触っているから肉なんだが︱︱この肉があるとき消えていって、
魔石が残る。魔石さえ手に入れちまえば、残った方の毛皮はどれだ
け放っておいても消えないんだ。不思議なもんだが﹂
商業ギルドの職員は、金庫らしきものを手元に引き寄せ、トレイ
に三枚の銀貨を載せて差し出してくる。
5,000ゴルドの大銀貨一枚と、1,000ゴルドの中銀貨が
二枚。合計額は7,000ゴルドだ。予想していた相場通りの値段
である。
﹁逆の場合もあり得てな。こいつの肉は硬い上に臭くて食い物には
ならないんだが、皮を干したまま放っておいて、肉をどこかに捨て
に行ってたら、干した皮が消えて魔石だけ残ってたなんて笑い話も
ある。そんなわけで、魔石が出るまでは職員が様子を見てるんだが
な、そんな中、魔石をどうしても受け取りたいっていう冒険者が目
の前で待っててみろ。率直に言うと邪魔なんだ。だから、取れる魔
石の推定価格を払うから、それで満足して帰ってくれってことだな﹂
﹁ああ、そういうことか。全く問題ない。この7,000ゴルドに、
魔石代が含まれてるってことだろ?﹂
﹁そうだな。相場は2,000ゴルドで、毛皮と合わせて買取額は
6,800ゴルドだが、状態のいい毛皮だったんで端数はオマケだ。
また持ってきてくんな﹂
商業ギルドの天幕を出て、買取市場を後にすると、一仕事終えた
気分になったが、まだ空は青かった。
当たり前である。恐狼を探すために二時間近く使ったが、出会っ
てから今までは、一時間に満たない。死闘を繰り広げたからか、や
448
けに濃密に感じたが、合計で三時間も経っていないのだ。
﹁さて。第二陣、行くかな﹂
何となくいい仕事をした気分にはなっていたが、日当が出たから
といってこれで終わっていいわけではない。狩りが不作の日もあれ
ば、調子のいい日だってある。普段、狩りを切り上げている時間ま
では、残り四、五時間もあった。
一度、迷宮の外に出てしまったのに、再び迷宮に赴くのは気後れ
サンド
するものがあるが、ここで手を弛めていては、きっと大成できない
だろう。
時間までは黙々と、自分にできる狩りをするのだ。
ココナカカオ
バックパック
︵ま、甘糖珈を一杯飲むぐらいはいいよな︶
メイズ
夜まで迷宮の中にいることを見越して、背嚢の中には昼食の迷宮
焼きが入っている。飲み物は革袋に入れた水で済ます予定だったの
で、自分へのちょっとしたご褒美である。
飲み終えたら緊張もほぐれるだろうので、それから、再び迷宮へ
と潜ろう。
人間は、そんなに長時間、張り詰められるようにはできていない。
適度な息抜きは、大事だった。
甘糖珈の持ち帰りをやっている店の場所は、覚えている。移動す
る前に、俺は迷宮城の広場へと移動した。汚れた銀蛇の皮鎧を洗浄
するためだ。
449
﹁だーれだ?﹂
両の瞼に、手のひらと思わしき、やわらかな感触。同時に視界は
塞がれ、予期せぬ暗闇が俺を襲う。
クリエイトアクア
俺は、迷宮城の広場で作水の魔法を使い、肩に担いでいた恐狼の
死骸から流れた血痕を洗い流し、腰から上の皮鎧と兜を脱いで解放
感に浸りながら、行きつけの喫茶店に赴き、空いているのをいいこ
とに、オープンテラスの二人用の椅子を占拠して装備を傍らに置き
つつ、渋みがかったウェイターの老人に甘糖珈を注文しつつ、うら
らかな午後の陽射しを楽しんでいたところだった。
今の俺の気持ちを、何という言葉で表現すればいいだろう。
なぜお前が。せっかくの休憩が。とっさにいくつかの反応が俺の
心からは湧き出てきたが、もやっとしたような、脳裏に去来する何
とも言いがたい感情を一言で表すならば、こうだろう。
﹁なんでやねん﹂
妙に力が抜け、ぐったりするが、両目を抑えているやわらかな手
のひらは意外と力強く、思わず前に倒れこもうとする俺の頭をがっ
しりと抱えて離さない。
そういえば、前回、こいつに物を頼まれたのも、この喫茶店だっ
た気がする。
450
のんびりできる雰囲気と、空き具合が気に入っていてしばしば訪
れているが、実は相性の悪い場所なのだろうか。
いや、こいつが嫌いというわけではないが、いつも唐突に現れる
ので、妙に気疲れするのである。
﹁その態度、ひどくない?﹂
後頭部が、少し堅めの布地に押し付けられるさわさわとした感触。
エマたちのそれとはまた別の、ふわりとした、女の香り。微妙なや
わらかさがあるということは、俺はひょっとせずとも、彼女の胸元
に頭を抱きかかえられているのではなかろうか。
﹁で、何の用だ、チェルージュ?﹂
俺が、抱きかかえられたままの首を後ろに倒し、声の主であると
ころの吸血鬼の顔を見ようと仰向けの態勢になったところ。
﹁はむっ﹂
擬音ではない。わざわざ声に出しながら、チェルージュは俺の唇
に、自分の唇を押し当てた。
現状を理解できないときに、人は思考を停止させるという。俺は、
身をもってそれが真実であると知った。
俺が固まっている間、たっぷり十秒ほど、唇を好きなように唇で
弄ばれながら、覆いかぶさってきているために、逆光で見えないチ
451
ェルージュの輪郭からはみ出た空は青いなあ、なんて思いながら︱︱
﹁で、どういった風の吹き回しだ﹂
ようやく唇を離された俺は、冷静に現状を問うた。
もちろんのこと、内心はあわあわ慌てててててぐらいには混乱し
ているが、男子たるもの、色恋沙汰で取り乱すのは格好が悪い。い
わば、見栄である。
﹁うん、実はね︱︱﹂
一部始終を目にしていないはずがなかろうに、表情を微動さにさ
せぬ老齢のマスターは、カップに入った甘糖珈を机に置くと、軽い
一礼の後に去っていった。カウンターの中に戻った彼は、パイプを
咥えて火を点ける。
﹁私、発情期なんだ!﹂
堂々と胸を張りながら宣言するチェルージュに、俺は冷静を装っ
て口を付けた甘糖珈を吹いた。表情こそ変えていないが、喫茶店の
マスターが咥えたパイプから、噴き出すかのように炎が上がったの
を俺は見た。
盛大にむせた俺の口からだばだばと褐色の液体が銀色の皮鎧にか
かり、また作水の魔法で洗い流さないと、などと俺が現実逃避をし
ている横で、チェルージュはにこやかな笑顔のまま、手振りでマス
ターに雑巾を要求していた。
﹁あと、私にも同じの頂戴。お代は先渡しだよね?﹂
452
俺が手に持ったままのカップを、指先でぴんと弾きつつ、チェル
ージュはバッグから財布らしきものを取り出し、小銀貨をテーブル
に置いた。
﹁あれ? チェルージュ、お金持ってたのか? というか、以前遭
ったときと服装が違うが﹂
人間の街で使う現金がないからこそ、行き倒れていた俺に魔石を
持たせてくれたのだから、この吸血鬼が小銭を持っているというの
は変である。それに、服装も、いや、髪形すらも以前とは違う。
以前は、ねずみ色のタンクトップと白のフレアパンツに、漆黒の
マントを羽織っていただけだったが、今は白に近い薄桃色の、ひら
ひらしたフリルがあしらわれたドレス状のワンピースを着て、バッ
グと日傘なんて手首に提げている。
オールバックに結んでいた葡萄酒色の長髪はほどかれて、豊かな
波が背中の腰ほどまで垂らされていた。
本当に育ちがいい家の娘は、もう少し控えめな服装をしそうなも
のだが、それはともかく、良家の子女といった体である。
﹁よくぞ聞いてくれました。実はね、いま私、この街に住んでるん
だ﹂
453
454
第二十九話 襲来︵後書き︶
剥ぎ取りの表現について、卯堂
成隆様の﹁革細工師はかく語りき
︵n3920bz︶﹂を参考に致しました。この場を借りてお礼申
し上げます。
455
第三十話 寄り道
ヴァイパイア
︵吸血鬼であるチェルージュが、この街に住んでいる︱︱?︶
﹁はあ!?﹂
道行く人々の耳目を集めるほどの大声で驚いた俺に、非はあるま
い。
当然だが、魔物は街の中には入れない。魔物の枠に入る吸血鬼も
同様である。街に入るときには、必ず衛兵が例の板めいた魔法具で
犯罪歴を調べるので、吸血鬼であると判明して騒ぎになってしまう
はずだった。
﹁あ、もしかして、分身体なのか? 以前俺が死にかけたときに、
瞳に溜まったマナから出てきたチェルージュみたいな﹂
﹁いや、本体だよ? 私の館で君と初めて会ったとき、紅茶を飲ん
でた、あそこにいた私そのもの﹂
﹁どうやって入ってきたんだ? この街に住んでるって言ったが、
どこに?﹂
矢継ぎ早に質問をされたというのに、チェルージュは涼しい顔で
ある。
インヴィジビリティ
﹁入り口の門番っていうか、衛兵のことだったら、不可視の魔法で
姿を消してから、空を飛んで城壁を乗り越えたんだ。いわば街への
456
不法侵入だね。戸籍はないから、公的な登録とかはできないかな。
住居は、ボーヴォの家で部屋を借りて寝泊りしてる﹂
俺は、再び脱力する。衛兵さん、ここに犯罪者がいます。
フロンティア
﹁﹃開拓者﹄のところで、ねえ。 ひょっとしてそのために、あの
人に声をかけさせたのか?﹂
﹁そういうこと。彼ぐらい人間をやめてれば私を怖がらないだろう
し、何かとコネとか融通も効きそうだしね。彼もそれなりに孤独だ
ったみたいで、今では私のいい話し相手だよ﹂
ボーヴォの、他人と話すことを億劫がるかのような視線を思い出
した。あの人の生き方だったら、確かに孤独かもしれないなと、ふ
と思った。実力が突出しすぎていて、誰一人、彼と肩を並べて戦う
ことができない。
チェルージュとは、意外と相性がいいかもしれなかった。
﹁ついでに、館に溜めた魔石をかなりの量、持ってきたから、それ
をボーヴォに換金してもらって、今では私はちょっとしたお金持ち
なのだ﹂
そこで俺は、とあることに気づいた。瞳にマナを溜める加護を、
こいつが俺に授けた理由でもある。
﹁そもそも、チェルージュ、あの館を離れられないんじゃなかった
のか? こっちの街はマナが薄いとかの理由で﹂
﹁それは、君にやってもらった、もう一つのお使いで解決済み。ほ
ら﹂
457
フリルのついた長袖をチェルージュがめくると、そこには革製の
腕輪があった。衛兵がしている、誓約の腕輪に形状が似ていて、何
らかの魔術刻印がついていた。
﹁現物は見たからね、後はそれをアレンジして、私の身体能力を一
時的に抑える腕輪を作ったんだ。それがこれ。この腕輪をしている
最中は、私の強さはフィンクスとかと大差ないまでに落ちるかわり、
身体の維持に使うマナも減るから、私はこうして生身で人間の街に
いられるってわけさ﹂
弱くなって﹁槍の﹂フィンクスとかと同レベルか。
﹁何ともまあ、大掛かりなことだ。なんでそこまでして、この街に
来ようとしたんだ? 何か用があるなら、以前みたいに俺にやらせ
ればいいだろう﹂
﹁うん、それじゃダメなんだよ。あのね、私はジルが羨ましくなっ
たんだ﹂
﹁羨ましい? 俺がか?﹂
ココナカカオ
自分用に運ばれてきた甘糖珈を、チェルージュは一口啜る。
﹁そう。最初はね、暇つぶしにいいと思って、君に加護を与えたん
だけれど。君の生活を見ているうちに、私だけがあの館から動けな
いのに嫌気がさしてね。例えば、この飲み物﹂
カップを、指で弾いて硬質な音を鳴らす。
458
﹁甘糖珈がどうした?﹂
﹁私は人間と吸血鬼のハーフだから、血液も人間の食事も、どちら
からでも栄養を摂取することができる。といっても、あの館では、
母さんが死んでからは料理を作る人がいなくなったんだけど。私に
は人間の味覚もあるからね。ジルは実に美味しそうに食事をするし、
羨ましくなったってわけさ﹂
﹁わからんでもないが﹂
俺は想像する。あの、この街からいくつもの森を越えた先にある、
館。あそこで、俺の瞳から届く情報だけを楽しみに、日々を過ごし
ている少女。
﹁本当は、鯨の胃袋亭だっけ? 君たちの住んでいるところに潜り
こんで面倒を見てもらおうかと思ったんだけどね。あそこは、ジル
が自分で築いた家庭だから、割り込んで入っていくのがどうも気が
引けてね﹂
﹁いまさら俺に気を使ってどうするんだ? 訪ねてくればよかった
のに﹂
﹁そうはいかないよ。上手く説明できないけどね、エマちゃんたち
と暮らすあの部屋は、君の家庭なんだ。そこに、恩着せがましく私
が登場して、面倒を見ろとか、家族に加えろとかっていうのは、何
ていうのかな、獲物の横取りっていうか、手柄だけ貰うっていうか。
ジルが羨ましいからこそ、私はそこに入っていっちゃいけない。自
分で築かないと、家族じゃあないんだ、やっぱりね﹂
﹁よくわからんが、わかるような気もする。フィンクスたちを倒し
459
たのを、自分の力だって俺が思ってないようなもんか﹂
﹁何か違うけど、そんなようなものだね。それで、話が逸れるんだ
けど、家族といえば、だ。少し前に、鍛冶屋のダグラスって人とジ
ルが、私の母さんについて話してたのを思い出したよ﹂
﹁チェルージュの母親? そんな話をしてたか?﹂
人間だということは知ってたが、もちろん俺に面識はない。
﹁初心者に、最高級の装備を与えて、魔石をふんだんに吸わせて、
姉弟で迷宮に潜ったっていう、クォンバイト家。話に出たでしょ?﹂
﹁ああ、ああ。もちろん知ってる。罠に嵌まって、姉の方しか迷宮
から帰ってこなかったって聞いた。装備に頼って迷宮に潜ると命を
落とすっていう、反面教師みたいな印象で語り継がれてるが﹂
﹁そうそう、その、帰ってきた姉の方が、私の母さんなんだ。教訓
話の終わりに、姉は失踪していなくなったって言われてたでしょ?
あれは、私の父さんが攫ったからだね﹂
﹁ほおお? マジか。数十年の時を経て明かされる真実だな﹂
チェルージュの生い立ちというか、経緯がこんなところで明かさ
れるとは全く思っていなかった。興味深い話である。
﹁ちなみに、実の弟であるフィリップ君を罠に嵌めたのも、姉であ
る母さんだね。母さんは実弟を殺したのさ﹂
﹁︱︱は?﹂
460
聞き間違えかと思った。俺の知っている話では、フィリップ・ク
ォンバイトという名の冒険者は、装備を狙う冒険者に罠へと誘い込
まれ、命を落としたはずだ。
リードマインド
﹁母さんの記憶を、読心で見たから間違いないよ。それと、フィリ
ップ︱︱私の叔父さんだね。彼は、経験こそ足りないものの、優れ
た冒険者だったよ。武器術だって、専任の家庭教師が付いてたから
かなりの手慣れだったし、罠への心得とか、階層ごとの注意事項だ
って、ちゃんと予習して迷宮に潜ってたんだから。無能の代名詞み
たいに語られてちょっと可哀相だね﹂
﹁その彼が、何で命を落としたんだ? それに、チェルージュの母
さんに殺されたって﹂
﹁単純な話さ。母さんは、お金が欲しかったんだ﹂
﹁ちょっと待て。話を整理するから﹂
数十年前に実在したらしい、金持ちのボンボン冒険者の代表みた
いに語られてる、フィリップ・クォンバイト君が実は優秀な冒険者
で?その姉がチェルージュの母親で?その彼女が、実弟であるフィ
リップを殺した?
裕福な家庭に生まれ育ったという話だったが、金が欲しい理由で
もあったのか?
コンプレックス
﹁母さんはね、本当に慈悲深い人だった。語ると長くなるから縮め
るけど、自分が裕福な家庭に生まれたことに母さんは劣等感を感じ
ていてね。貧民街では多くの人々が、食うや食わずで餓死している
461
のに、自分たちは最高級の武器防具を装備して迷宮に潜る、ってい
うのが受け入れられなかったのさ。今の街よりも、治安が悪くて、
住民の命がもっと軽かった時代だったんだけれど﹂
俺は黙って聞いていた。チェルージュは、少し冷めてしまった甘
糖珈で喉を湿らせて、続ける。
﹁あるとき、母さんは気づいてしまったのさ。自分が手を汚せば、
パラライズファンガス
多くの人を救える、ってね。短くない期間、悩んでたけど、とうと
う母さんは実の弟を麻痺茸の群生地におびき寄せてね、動けない弟
の喉に、最高級の短剣を突き立てたのさ。母さんは狩人だったから
ね、罠に誘い込むのはお手の物だったと思うよ﹂
﹁それで、チェルージュの母親は一人で帰ったのか?﹂
﹁そうだね。装備を剥いだ弟の死体が、迷宮に吸収されるまで、じ
っと母さんはそれを見つめていたよ。あとは、姉弟の装備を全部売
ったお金で孤児院を建て、そこを経営してね。両親は存命だったか
ら、彼らが死んだ後に、遺産を全部孤児院につぎ込んで自分も死の
うって考えてたみたいだけど、そこで父さんが颯爽と登場して母さ
んを攫って、莫大な魔石と引き換えに、結婚を了承させたんだ﹂
﹁はああ。クォンバイト家の逸話に、そんな裏話があったとはなあ﹂
﹁これがまあ、父さんと母さんの馴れ初めかな。罪の意識は一生消
えなかったらしく、母さんは毎日、あの館に自分で作ったお墓みた
いなものに手を合わせていたよ。そんなに毎日、一体何を祈ってる
のかと、幼心に興味を惹かれた私は、母さんに読心の魔法を使った
んだけど﹂
462
﹁話の腰を折って悪いが、読心なんて魔法、あるんだな。こっちの
魔法ギルドでは売ってなかったような?﹂
﹁人間の魔法ギルドは、高難易度の魔法の品揃えはあまり良くない
からね。とはいえ、読心の魔法はそこまで難しいものでもないから、
恐らく危険視して一般に流通させてないだけじゃない?﹂﹂
﹁それもそうか。他人の心を覗ける魔法なんて、危険だしな﹂
﹁うん。本当に危険だよ。私は母さんに読心の魔法をかけて以来、
誰にも使ったことはない。父さんに物凄く怒られたっていうのもあ
るけど、盗み見た母さんの心がまた、凄かったからね。控えめに言
って、気が狂うかと思った。凄まじい慙愧の念、何度も何度も繰り
返し現れる、弟にとどめを刺した瞬間の手ごたえ、血に染まった手、
自分を非難する、弟の見開いた眼。あんなものを心に抱えて、よく
母さんは狂わなかったものだと思う﹂
まるで自分が見たことのように語るチェルージュに、俺は何も言
えなかった。
人に歴史あり、である。以前、ダグラスに冗談まじりに言った言
葉が、思い出された。
﹁で、最初に話が戻るんだけど。私は発情期なのだ﹂
俺はまたしても脱力した。しんみりした気分になっていた、一瞬
前までの俺の感傷を返して欲しい。
﹁それとこれとがどう繋がるんだよ︱︱﹂
﹁いやね。ジルとエマちゃんたちがべたべたしているのを見ていて、
463
私は母さんのことを思い出したのだ。生前、私の両親は仲が良かっ
たからね。私にもああいうパートナーが欲しいな、と﹂ ﹁俺とエマたちの何がそこまでお前を盛り上げたのか知らんが、俺
はあいつらの親代わりだぞ? 異性として意識したことはない﹂
言ってから、こいつに通用する嘘ではないと思い当たり、後悔し
た。
﹁あのね。私はジルの瞳を通して情報を得てるんだよ? ジルの目
線がどこに向かってるかわかりきったことだよ﹂
﹁おい待て﹂
﹁例えば昨日、朝起きたときに、エマちゃんはまだ寝ていたけど、
寝巻きの前がはだけていて︱︱﹂
﹁待てって﹂
﹁他には、未だに寝るときに、腰引いちゃってるんでしょ? よく
あの体勢で寝られるよね﹂
﹁わかった悪かった俺が悪かったよ。もうやめてくれ﹂
とんだ辱めである。すべて事実だからたちが悪い。
﹁そんなわけで、私はパートナーを募集中なのだ。でも、私が見込
むほどの男性は少なくてね。ボーヴォは悪くないと思ったけど、も
う枯れちゃってるし﹂
464
とっさに俺はボーヴォ氏の顔を思い浮かべる。騒ぐチェルージュ
に、やれやれといった表情のボーヴォ。案外と相性がいいかもしれ
ず、似合いの二人かもしれない。極微量の嫉妬を感じたのは、俺の
狭量さ故だろう。
﹁要するに、知り合いが少なくて寂しいだけだろ、お前。暇なとき
にゃ遊びに来てくれていいから、発情期云々はやめておけ。そんな
適当に誘われても、嬉しくも何ともない﹂
﹁寂しいだけって言われると身も蓋もないけど、その通りではある
ね。あの館の寂しさに、久しぶりに気づいたよ。母さんがいなくな
ったときにも感じたんだけれど、時が経つと慣れてしまうものだね﹂
﹁あとな、そっちの種族がどうかは知らんが、人間はもっと生涯の
伴侶を吟味して選ぶもんだ。もっと熱意をこめて結婚してくれって
言われるならともかく、おざなりに誘われてもなあ﹂
﹁そうかな? 私は人間の母さんを見ていたから、吸血だけで眷属
を増やす吸血鬼と違って、結婚に対する考え方は人間に近いと思う
けど﹂
﹁ボーヴォと俺、どっちでも良さそうなんて態度がダメなんだよ。
男はもっとこう、あなただけがいいとか、そういう態度にぐっと来
るもんなの﹂
あはは、とチェルージュは快活に笑った。少し馬鹿にされている
気がする。
﹁なるほど、よくわかったよ。ジルは勘違いをしているけど、種族
差じゃなくて、それは性別差だよ。女性はね、力の強い者に憧れる
465
のさ。自分を守ってくれる男性がいいんだ﹂
﹁人間は、腕力の強弱で結婚相手を選んだりしないぞ?﹂
﹁そんなことないと思うよ? 腕力を財力って言い換えたら、合っ
てるでしょ? 人間は社会性の生物で、そのコミュニティ内での価
値観は財力だよ。お金を持ってる人が、人間の社会では強者なんだ。
女性はその財力が強い人が好みってわけ﹂
﹁ぐっ﹂
そう言われると、理解できなくもない。確かに、裕福な男はモテ
る。家庭を守る力を持っていると、女性には見えるのだろう。
﹁性格とかの相性もあるだろうけどね。お金があった方が女性に好
かれるのは事実だよ。それを考えると、将来性が面白そうだからっ
て理由だけでジルに肩入れしてる私は、まだ健全だと思わない?﹂
﹁はあ。見た目は年下だから油断するけど、チェルージュ、五十歳
だったもんな。言い合いじゃ勝てんなあ﹂
デリカシー
﹁ジルこそ、もう少し繊細な心配りを覚えなよ。エミリアちゃんに
も言われたでしょ? 仮にも口説きに来た相手に向かって、おばち
ゃん扱いはひどくない?﹂
﹁へいへい、私が悪うござんしたよ﹂
チャーム
﹁む、反省してないね。エマちゃんたちが家にいるときに押しかけ
て、魅了かけるよ? 私の加護があるから魅了耐性が最大なだけで、
私の魅了はジルにちゃんと通るからね?﹂
466
﹁申し訳ございませんでした﹂
机に両手をつき、深々と頭を垂れる俺である。あの狂態はトラウ
マである。
﹁それじゃあ、ちょっとデートに付き合ってもらおう。父さんも、
よく気晴らしに、母さんを館の外に連れ出してたっけ。懐かしいな
あ﹂
﹁はい?﹂
俺の耳はいつから正確な聴覚を失ったのだろう。
﹁デートだよ、デート。母さん風に言うと、まずはお友達からお願
いします、って奴だね。人間の街は目新しいものばかりで、私はど
こにいっても楽しめると思う。デートコースは任せるよ?﹂
言うや否や、ぐいと俺に腕を絡めてくるチェルージュであった。
距離が近い。
﹁別に構やせんけど、見ての通り、俺は迷宮に潜る装備を着ている
ダイアウルフ
わけだが。
恐狼の血糊べったりだぞ?﹂
﹁それもそうか。吸血鬼的にはいい匂いなんだけど、人間的にはム
ードがないね。
それじゃあ、一度宿に戻って、着替えてきたまえ﹂
﹁きたまえって。午後は、迷宮に潜る予定だったんだが﹂
467
﹁キャンセルで﹂
一言でばっさりと切り捨てられる、俺の行動予定である。話の流
れでは俺が悪いみたいになっているし、拒否がしづらい。
﹁はあ、しょうがないな。でもよ、着替えるっていっても、いつも
の気楽な服しかないぞ、俺? 最近は節約生活してるしな﹂
﹁そういえばそうだね。この前買ってもらった指輪の代金渡すよ。
460,000ゴルドだったっけ? それで新しい服を買えばいい﹂
﹁よく覚えてるな﹂
確か、その値段だったはずである。しかし、代金をやると言われ
ても、素直に首肯しかねた。
﹁いや、それはいいや。世話になってる分の、まあ、礼みたいなも
んだしな、あれ。金額だけ返されても、その、なんだ。男の沽券に
関わるというか、受け取りたくない﹂
その台詞を聞いて、意外そうな表情のチェルージュである。やや
あって、にんまりと笑った。
﹁いいねえ、男の子だねえ。ジルの生活を見てると、どれだけお金
を大事に思ってるかがわかるからね。それなのに代金の受取は拒否
すると。一応、女の子扱いしてくれるんだ?﹂
そう言うと、一層、腕を絡めてきた。
468
﹁それじゃあ、お返しがわりに服は私が買ってあげよう。ボーヴォ
が食事の美味しい店を教えてくれたんだ。あの味をね、ジルにも食
べて欲しいのさ。大丈夫、奢りだから﹂
﹁結局のところ、払ってもらってることに変わりはないわけだが﹂
﹁人間の言葉で表現すると、ヒモだっけ?﹂
忘れかけていた、ぐったり感が蘇ってくる。
﹁エマといい、チェルージュといい、どこでそんな言い回し覚えて
くるんだよ﹂
﹁それじゃ、さっさと君の宿に戻ろうか。エマちゃんたちと鉢合わ
せすると、面倒くさいでしょ? 私としては、恋敵を煽るのも面白
いんだけど﹂
﹁やめてくれよ、エマとかが本気にしそうだ﹂
肩を落としつつ、腕を絡められながら歩き出す俺であった。
俺としては、そこらで適当に服を買いつつ、奢ってくれるという
飯屋に行ってお開きの予定だった。
甘かった。完全に、見通しが甘かったと思う。
﹁ああ、よく似合ってるよ、チェルージュ﹂
469
ご機嫌な様子で際限なく試着を繰り返す吸血鬼にバレないよう、
本日何回目かも覚えていない台詞と共に、重いため息を俺は吐き出
した。
購入決定と非購入に分かれ、二つの山を築いている衣類は、どれ
もチェルージュが試着したものである。
すでに、俺は心を鉄で鎧っていた。ついでに顔も、笑顔を崩さな
いよう、細心の注意を払っている。
なぜかというと、あまりの試着の多さに辟易していた俺は、次第
におざなりな返事になっていったわけだが、たちまち看破されてチ
ェルージュが眉間に皺を寄せたからである。
﹁ちゃんと見てる?﹂
明るく笑うチェルージュしか知らなかった俺にとっては、初めて
見る彼女の怒りであった。
その怒り方は、静かに不機嫌になっていく、ヤバいパターンの怒
り方だったので、俺はとっさに保身を考え、それ以降は積極的に意
見を申し上げつつ、褒めたり相槌を打ったりしているのである。
我ながら腰が弱いとは思うが、似たような怒り方をする身内が一
人いるので、その手の付けられなさが身に沁みていた俺は、あっさ
りと腰巾着に徹することに決めたのだった。
チェルージュに似た怒り方をする身内とは、もちろんエミリアの
ことだ。あいつも怒ると相当ヤバい。
ちなみに、これでチェルージュの喜怒哀楽のうち、見たことがな
470
いのは哀しみだけだ。能天気に生きていそうな彼女が、悲哀を表に
出すことが果たしてあるのだろうかと一瞬でも考えた俺は、軽い自
己嫌悪に陥った。
良く笑うことを彼女の美徳だと俺は考えていたのに、能天気と軽
んじるとは何事かと、自分で自分を叱る。
母を亡くしたことを語ったときの彼女は、少しばかり寂しそうだ
った。奥深い森の中の館で孤独に暮らしているというのに、俺に対
して天真爛漫な笑顔で接し続けてくれていること自体、彼女の善性
を物語っていると言うものであろう。
﹁ああ、綺麗だよ、チェルージュ﹂
そんな、わずか一分にも満たない内心の葛藤を経て、俺はこのよ
うにへらへらしているのである。
﹁いやあ、色々買ったねえ。満足満足﹂
久遠とも思しき時間の末、彼女の買い物は終わりを告げた。
ダグラスの鍛冶屋からほど近い高級仕立屋を出ると、すでに外は
暗くなっていた。店に入る前は、夕方どころか空が青かったことを
考えると、俺の忍耐力は褒められて然るべきであろう。
なお、男性物の服も扱っている店だったので、俺も余所行きの服
を一着買ってもらい、早速身に纏っている。
チェルージュが服を選ぶ時間の十分の一もかからぬ時間で俺の服
が買えたことを考えてはなるまい。
﹁お、着いた着いた﹂
471
朗らかな声で目的地への到着を告げる彼女の声に、俺は両手に提
げた紙袋がどっと重みを増すのを感じた。
いっぱい買ったし、いったん部屋に荷物を置いてから食事に行こ
う、との彼女の提案めいた決定により、仕立屋でチェルージュが購
入した洋服の数々を両手から提げながら、手ぶらで身軽に歩く彼女
の後をついていった俺である。
魔法具で弱体化しているとはいえ、俺よりも身体能力はチェルー
ジュの方が高いので、自分で買った荷物ぐらい彼女が持つべきだと
も思ったが、チェルージュ曰く、こういうときは男性が荷物を持っ
てくれるもの、らしい。
男女の腕力差がさほどないこの街においても、女性優遇のこうい
った考え方は浸透しているようだった。
﹁帰ったよー﹂
返事を待たず、俺の背丈よりも高い、柵状の門扉をチェルージュ
は押し開けて敷地内へと進む。
思い出したかのように、人差し指で虚空を撫でると、二メートル
は離れているであろう、門扉の横に備え付けてある呼び鈴が、誰も
触っていないはずなのに、りんりんと甲高い音を鳴らした。
家主の登場を待たずに、敷き詰められた芝生と渡り石の上を、ず
んずんとチェルージュは歩いていく。遅れないよう、おっかなびっ
くり、俺も後をついていく。
︵でけえ︶
若干俺が気後れを感じているのも、無理はないと思う。目の前に
472
広がる屋敷の大きさは、冒険者ギルドの本部といい勝負だ。入り口
である、この庭だけでも、血なまぐさい冒険者たちがひしめく迷宮
広場の一帯と変わらぬほどに広い。
確か、屋敷の主であるボーヴォは、妻帯もせず、特定のパーティ
やギルドに所属してもいないはずだった。これほどに広大な屋敷に
一人で住む意味はあるのかとふと思ったので、その旨をチェルージ
ュに問いただしてみたところ、お抱えの鍛冶師や錬金術などの職人
も住み込んでいるとのことである。
腕のいい仕立屋職人もいるとのことだったので、買出しなどせず
に彼らに服を作ってもらったらどうかと提案してみたところ、
﹁そこはほら、気を使わせたら悪いからさ? ジルなら気楽に付き
合わせられるし﹂
とのことである。その気配りをなぜ俺にも少し向けられないのか
と憤慨してみせたところ、
﹁いやいや、今日は付き合ってくれて嬉しかったよ。ありがとうね﹂
などと言いつつ、俺の両手が塞がっているのをいいことに、唇に
再び、軽いキスをされてしまっては、何も言い返せない。
まあ、役得だったしいいか、などと考えてしまうあたり、俺も安
い男である。
﹁姫か。お帰り﹂
ぎぃ、という鈍い音とともに、俺の身長を二倍して届くかどうか
という高い扉を押し開け、ボーヴォが姿を見せた。
473
方々に配置された、煌々と輝く猫目灯であたりは明るく、ボーヴ
ォの顔に刻まれた深い皺が見て取れるほどである。
﹁ただいまー﹂
彼は、手を振るチェルージュをまず見、そして、両手に紙袋を抱
えた俺へと視線を移す。その視線に、理不尽に虐げられている弱者
への、慈愛と憐れみの成分が混じっていたのは俺の気のせいではあ
るまい。チェルージュと同居しているのであれば、何かと彼も、気
苦労が絶えないのではなかろうか。
﹁ジル、早く早く。こっちこっち﹂
我が物顔でボーヴォの屋敷に踏み込んでいくチェルージュである。
あいつはまず、人間の美徳である、遠慮という概念を覚えるべきだ
と思う。
ボーヴォは扉を片手で支えつつ、親指でくいくいと屋敷の中へ誘
ってくれた。一礼して玄関へと向かう。
﹁お疲れ﹂
すれ違いざまに、感情の篭った一言を投げて寄越すボーヴォであ
った。
表情の起伏に乏しい彼であったが、同情されているらしいことは
伝わってくる。
﹁ここでも、いつもああですか?﹂
﹁ああ。腕白な娘を持った心境だ。手に負えないものだな﹂
474
彼の言葉に、嘆息以外の成分が混じっているのを感じて、俺は驚
いた。
﹁あれ、案外気に入ってます?﹂
﹁ん? 顔に出てたか。俺のパーティは、とっくの昔に迷宮で全滅
したからな。女も、それ以来近づけていない。家族がいたら、こん
な賑やかさなのかと思うとな。振り回されるのも、苦痛に感じてい
ない俺がいるよ﹂
俺は、何も言えなかった。表面上の人となりしか知らない俺が、
気軽に触れていい話題でもなかろう。
﹁あれの話題に、よくお前が出てくる。ジルといったな﹂
﹁はい?﹂ ﹁そんなわけで、どうも最近、親になったような気分だ。娘が欲し
ければ、腕ずくで奪ってみろ﹂
﹁ははは。十年やそこらで越えられそうにないですね﹂
冗談だと受け止め、俺は笑って返す。
﹁まあ、うちにも娘みたいなのが三人いるんで、気持ちはわかりま
すよ。他の男を連れてきたらと思うと、俺も穏やかな気持ちじゃい
られない気がします﹂
あくまで世間話として話したつもりであったが、ボーヴォは苦笑
475
いであった。
﹁ずいぶんと身の回りに華が多いようだ。刺されないように気をつ
けろよ? あれは怒らせると存外怖い﹂
﹁からかわれてるだけですよ。立場が弱いもんで、逆らえないんで
す﹂
ふむ?と言いつつ、彼は顎を撫でた。剃っているのか、皺の多い
顔に髭は生えていない。
﹁まあ、お互い子供のようなものか。そう考えると、微笑ましくも
あるな﹂
待たせていいのか?とボーヴォが促してくれたので、俺は足早に
家の扉をくぐる。家に入ってすぐの空間は、中央に大きな階段を配
して、なお左右と奥に倍以上の余裕のある、広い部屋だった。
︵最高級の宿屋の受付って言われても信じるなあ、この広さ︶
外見の大きさから、チェルージュの館にあったような豪壮な調度
品を想像していたが、意外にも無駄な飾りは少ないように思えた。
もちろん、巨大な絨毯が部屋中に敷き詰められていたり、階段も黒
檀か何かの、飴色をした高そうな木材が使われてはいるが、必要以
上に灯具やら宝飾品やらでキラキラしているわけではなく、余分な
置物のようなものも少ない。
﹁おそーい﹂
正面の階段を上がった二階の手すりから、チェルージュが身を乗
476
り出していた。
どうやら、そこに彼女の部屋があるらしい。
﹁へいへい﹂ 紙袋を抱えたまま階段を昇り、ドアを開けて待ち構えていたチェ
ルージュに続いて部屋に入ると、俺の網膜に桃色が広がった。
﹁なんだこれ﹂
白、クリーム色、黄色、桃色。
ほとんど暖色のみで構成された、家具や寝具の数々である。この
中で寝ろと言われたら、俺は一晩で睡眠不足に陥る自信があった。
﹁女の子の部屋に入って嬉しいのはわかるけど、あんまりじろじろ
見るもんじゃないよ? 荷物はそこのソファの上に置いといてね。
じゃあ、ご飯食べにいこう﹂
﹁人様の家に、こんな魔改造を施して︱︱﹂
がくりとうな垂れる俺であった。この一室も、ボーヴォの屋敷の
一部であって、チェルージュの持ち家ではあるまい。
﹁好きに使ってくれって言われたからそうしてるの。細かいことは
気にしない気にしない﹂
細かいことではないと言いたかったが、背を押されて俺は外へと
押し出されたので、言葉は飲み込むことにした。急に娘ができたよ
うな気分だとボーヴォは言っていたが、自分の屋敷の中にこんな空
間ができていることを、果たして彼はどう思っているのだろうか。
477
﹁料理人なら家にもいるが、出かけるのか?﹂
﹁うん。家で食べたらデートにならないからね。いってきます﹂
﹁遅くなるんじゃないぞ。お前の話を楽しみにしてる若い衆が大勢
いる﹂
﹁わかってるって﹂
ひらひらと手を振りながら、チェルージュは我が物顔で屋敷を歩
く。
先ほどから、屋敷内の各部屋の扉を薄く開けて、ちらちらとこち
らを伺う視線を感じる。どうも、チェルージュは、この屋敷内で確
固たる地位を築いているようだった。
多くの視線の主は、チェルージュが連れてきた男がどんな奴が見
定めよう、とでも思っているのだろうか。
﹁ずいぶん、溶け込んでるな?﹂
躾の行き届いた高級宿屋の店員よろしく、俺の目の届く範囲に、
誰一人として出てくる無礼を犯していないのは、家主の薫陶なのだ
ろうか?
﹁若い子が珍しいらしくてね。最初は吸血鬼と聞いて遠巻きにされ
てたんだけど、馴染んできたら、一躍みんなのアイドルになったっ
てわけさ﹂
若い子ねえ、と言おうとして、俺は口を噤んだ。災いの元である。
今日のところ、ずっとしてやられっぱなしで悔しかったとしても、
478
言ってはいけない言葉はあろう。
﹁ジルの前には出てこなかったけど、職人の最高峰が揃ってるよ、
この家。例えば鍛冶屋だと、ダグラスの師匠だっていうヴァンダイ
ン氏が頻繁に入り浸ってたりするし。裁縫も、細工も、料理も、錬
金術も、すごい人がいっぱいだよ﹂
﹁ほう?﹂
﹁ボーヴォはあの通りのレベルだから、ちょっと迷宮に入るだけで
莫大なお金が手に入るらしくてね。でも、本人は贅沢にも興味ない
し、趣味らしき趣味もないっていうんで、使い道に困っててね。自
前で各種工房を作ったら、いつの間にか偏屈な変人が集まってきた
らしいよ。そういう人って、社交性はなくても腕前は確かだったり
するらしくて、今じゃどの分野でも最先端を誇るサロンになったん
だってさ﹂
﹁何とも、景気のいい話だなあ﹂
﹁ジルも気に入られたら、ヴァンダインさんに武器、作ってもらえ
るんじゃない? 友達だよ、私の﹂
﹁気に入られたらだろ? 見込んだ奴にしか武器を打たないって聞
いてるし、俺にそんな腕前はねえよ﹂
﹁ジルなら気に入ると思うけどなあ。面白い人だよ、あのお爺ちゃ
ん。今度、話通しといてあげるね﹂
雲の上の会話がぽんぽんと出てきて、嘆息するしかない。
479
﹁まあ、俺にゃ遠い話だ。そんなことより、今日行くっていう料理
屋、味は確かなんだな?﹂
﹁うん、間違いないよ。ボーヴォの屋敷に住み着いてる料理人は、
その世界を引退したお婆ちゃんでさ。賄いとか、漬物とか、地味な
料理を作らせるとすごくおいしいんだ。いい素材を仕入れるのは、
それなりに大きな料理店じゃないと難しいから、しっかりしたお店
の味を楽しみたければそこに行けって、お婆ちゃんが推薦してきた
お店なんだ﹂
﹁ふむ。そんじゃ、どんな飯を食わしてくれるか、楽しみにしよう
か﹂
いつの間にか再び腕を絡められながら、屋敷の門扉を押し開ける
俺であった。
480
第三十一話 成長 その2
溶けた。
極めて分厚いステーキは、1センチほどもナイフで切り分ければ
じゅうぶんに口一杯頬張れるほどの大きさであったが、噛み始める
なり、肉の繊維がほろほろと崩れてきて、旨味が口中に広がった。
﹁マジか﹂ 美味い、とすら言えず、俺の口から出てきた言葉がそれである。
一切れを咀嚼して飲み込んだきり、俺はしばらく放心してしまっ
た。
﹁ね? 美味しいでしょ?﹂
同じステーキ肉をレアに焼いたものを、小さく切り分けて、チェ
ルージュは口に運んだ。ナプキンで口を拭ってから、葡萄酒の入っ
たガラスの杯を口に運ぶ動作も、堂に入っている。
﹁あむ﹂
もう一切れ、肉を口に運ぶ。舌に乗せるなり、肉の断面から肉汁
が広がる。肉を噛み締めるたびに、潰れた繊維から新たな肉汁が溢
れ出てくる。ミディアムレアに焼いてもらった肉の断面は、わずか
に血が滴っているが、その血と肉汁が混ざった何ともいえない、野
趣溢れる味だった。
481
﹁すげえ﹂
それだけではない。味付けも特別な岩塩か何かなのか、風味の良
エスニック
いもので、そこに香辛料として、何か特別な香りが加わっていた。
民族的というか、独特の香りが、ともすれば強くなりがちな肉汁と
脂の風味を抑えつつも、まろやかに調和させつつ、さらに、肉本来
の、芯の味だけを強調させている。
﹁あむ﹂
さらに俺は一切れ、肉を口に運んだ。次なる肉を口に入れようと
して、ナイフとフォークを握った手と、口の咀嚼が止まらない。何
よりも特筆すべきは、この旨味だ。舌に乗せた途端、味を感じる細
胞の一つ一つを花開かせていくように、肉汁の旨味が口の中でどん
マナバイソン
どんと広がっていくかのようだ。
アルティメリック
﹁極鬱金を使った、魔角牛のヒレステーキです。お気に召しました
か?﹂
さりげなく、俺たち二人が向かい合わせに座った机の脇に控えて
いるのは、本日の料理長である。メインディッシュを持ってくるに
あたり、この店で最も偉いという、オーナー兼メインシェフの彼が、
自ら皿を持ってきて挨拶にやってきたのだった。
﹁うん、今日もおいしいよ。お婆ちゃんの作るご飯よりも美味しい
かも﹂
﹁グランマの腕にはまだまだ及びませんが、過分のお褒めを頂き、
恐縮の極みでございます﹂
482
そう言うと、総料理長はきっかり九十度かというぐらい、深々と
お辞儀をした。
すさまじく長い料理帽は手元に抱えているが、もし頭に着けていた
ら、落下間違いなしである。
﹁グランマって、ボーヴォの屋敷で賄い作ってるっていうお婆ちゃ
んのことか?﹂
﹁うん。料理の世界では、名前の知れた人なんだってさ。あの人に
紹介されてこのお店に来たんだけど、前回も丁寧におもてなしして
くれたんだ﹂
﹁グランマは、この業界で並び立つ者なき重鎮でございます。直々
に手ほどきして頂いたこともございますが、何よりも私がこの業界
に入ったのは、あの方の料理に魅せられたからでございますから﹂
アルティメリック マナバイソン
﹁ディノ青年も言ってたなあ、極鬱金の魔角牛ステーキがお勧めだ
って。あいつ、いいもん食ってたんだな﹂
﹁おや。お客様の仰ってるのは、冒険者ギルドのディノ・クロッソ
様で?﹂
﹁あれ、知ってるのか? 世間は狭いな﹂
﹁上顧客というか、お得意様でございます。女性をお連れになると
きは、決まって私どもの店をご利用になって頂いています﹂
ウィンクをしつつ、一本指を口にあてて内緒ですよ、のポーズを
取る料理長である。茶目っ気もあるお兄ちゃんだ。
483
﹁いや、それにしても美味いわ。前菜とかも見事なもんだったが﹂
この店は、一品ずつ料理を提供するらしく、一皿の料理を食べ終
わると、間もなく次の料理が運ばれてくるのだ。最初に運ばれてき
たのは、堅焼きのビスケットのような生地に、小さなつぶつぶした
魚卵が乗せられたものだった。
近くに海がないこの街において、魚介類は迷宮からでのみ産出さ
れるため、俺も食うのは初めてである。ぷちぷちした食感と、魚卵
の風味、旨味、それにドレッシングの軽い酸味と、生地のさくさく
感が、とても美味かった。
他にも、緑色をした、クリーム状の冷製スープや、雑穀の混じっ
ていない、真っ白でふわっふわなパンなど、どれもこれも、今まで
食ったことのない味で、それでいて素晴らしく美味い。
﹁ゲスなのを承知で聞くが、この料理ってお一人様、おいくらほど
?﹂
料理長が去った後に、小声でチェルージュに聞く俺であった。
﹁コースだったら、お一人様20,000ゴルドから。今日のメニ
ューだと、30,000ゴルドぐらいじゃないかな﹂
﹁うし、わかった。いつか、エマたちにも食わしたる﹂
この美味を、ぜひともあいつらにも食わせてやりたい。そろそろ
エマたちも、食器の扱いに慣れてきたし、俺にそれだけの金銭的余
裕ができるころには、よもや連れてきても恥をかくようなこともあ
るまい。
484
﹁いいと思うよ。飛び入りの客は断るのがこの店のポリシーらしい
けど、一度でも来たことがあれば顔パスで次回からも手厚くもてな
してくれるから。私もジルを連れてくる前に、さっきの料理長に聞
いたんだ﹂
﹁お高く留まってると言いたいとこだが、確かにこの味なら頷ける
わ。店の雰囲気もいいしな﹂
他のテーブルから視線を遮るようにうまく仕切りを配置していた
り、食器や家具、照明器具の一つ一つまで、それなりのお値段がす
るんだろうなあと思うような綺麗なものばかりである。
もちろん、騒いだりするような不心得な客はいない。この落ち着
いた雰囲気も、店の売りなのだろう。
ココナカカオ
デザートは、ムース状の生地に、甘糖珈の粉を振りかけたものが、
運ばれてきた。例によって、皿を運んできたのは、料理長である。
﹁お、ティラミスか﹂
俺がそのケーキの名称を言うと、料理長ばかりか、チェルージュ
まで驚きの表情を作った。
パティシエ
﹁おや、良くご存知で。最近、当店の菓子職人が考案したものなの
ですが、もうお耳に入っているとは。どなたか、ご友人の方からお
聞き及びになられたのですかな?﹂
俺は言葉に詰まった。見たことも聞いたこともないケーキではあ
ったが、出されたものが﹁そういう名前﹂であると、何となくわか
ってしまったのだ。
485
﹁ああ、そんなようなもんだ﹂
ヘリオスティー
﹁濃厚な味に合うよう、炎帝茶は濃い目に淹れてまいりました。で
は、ごゆっくり﹂
疑問に思わなくもなかったろうが、特に追求はせず、料理長は一
礼して去っていった。
後に残された俺とチェルージュの間に、微妙な沈黙が落ちるが、
その空気を振り払うように、チェルージュはデザート用の小振りな
スプーンを手に取る。
﹁うん、おいしいね、このティラミスっていうの。ほんのりした苦
味と甘さ、それに香りがいいね﹂
俺も、スプーンを手にとって、口に運んだ。初めて食うケーキで
はあるし、もちろん質は最上で美味いのだが、斬新な驚きを感じる
ほどではない。やはり、俺はこのケーキのことを知っていたような
気がする。
﹁何で、俺はこのケーキのこと知ってたんだろうな。記憶をなくす
前に、食ったことがあったのか?﹂
言ってから、それは考えにくい、と自分でも思った。つい最近、
ここの菓子職人が開発したばかりだと料理長が言っていたではない
か。
チェルージュは、黙り込んでティラミスを口に運んでいる。
486
﹁その様子だと、俺が何者かってところに関係してるんだろうな﹂
﹁まあ、そうだね。このデザートを、君が知っている理由も、想像
が付くよ﹂
﹁でも言いたくない、だろ? わかったよ、問い質したりはしない
から、味を楽しもうぜ﹂
﹁いいの? ジル自身の正体に関することなのに﹂
困惑顔のチェルージュというのも、珍しいものである。
﹁無理強いしても言わないだろうし、それにまあ、なんだ。一応、
デートだっただろ? 相手を困らせるのもな﹂
デート、という言葉に反応して、チェルージュは笑顔になる。糖
分を摂取して血糖値が上がったのか、白磁のような頬にほんのり朱
がさしていて、口に出した俺も、少しどきりとした。
﹁んふふ。ジルは下げておいてから持ち上げるのが上手いねえ。こ
の女たらし﹂
﹁はい?﹂
心外な言われようであった。
﹁︱︱お帰りなさいませ﹂
487
帰宅し、鯨の胃袋亭の大部屋である自室の扉を開けると、我が愛
すべき家族であるところの三人の少女たちが、冷やかな視線を俺に
向けてきた。
﹁た、ただいま﹂
冷やかな視線と言うと、語弊があるかもしれない。エリーゼを筆
頭に、彼女たちは、俺がどれだけ言葉を尽くして自由に振舞うよう
諭そうとも、俺との上下関係を崩さないという一点においては頑固
であり、そんな彼女たちが俺に面と向かって軽蔑の視線を投げて寄
越すわけもない。
つまり︱︱いわゆる、ジト目である。例えば、仕事帰りに一杯引
っかけ、千鳥足で帰宅した亭主を見つめるような、女衆のやれやれ
という視線であった。
よく考えたら、例えになっていない。今の俺の状況そのものであ
る。
﹁チェルージュさんと食べたご飯は、おいしかった?﹂
前言を訂正しよう。エミリアは、全力で俺の弱味をエグりに来て
いる。冷やかな目であった。
﹁今まで食ったことがないってほど、美味でございました﹂
思わず丁寧語になりつつ、椅子に座って俺が神妙な態度を取って
しまったのも、むべなるかなである。
﹁富裕層の連中が住む高級住宅街に店があるだけあって、一見さん
488
はお断りなんだけどな。俺はチェルージュに紹介されたから、今度
はみんなを連れていっても問題ない。余裕ができたら、みんなを連
れてくから、すまんがそれまで待っててくれ﹂
深々と頭を下げる俺である。結婚したことのない俺だが、きっと
妻を持つ世の中の男性諸氏も、こんな気分なのだろう。
﹁まあ、帰りの遅いご主人様を、少しからかってみようって皆で示
し合わせていただけで、そこまで私たちも気にしているわけではあ
りませんから﹂
﹁あ、もう教えちゃう? この様子だと、もう少し引っ張って遊べ
たのに﹂
エリーゼの温情と、エミリアの鬼畜っぷりの対比がひどい。
﹁まあ、連絡はしたんだし、許してくれ。みんなと食べるメシの時
間は大事だってわかってるからさ﹂
チェルージュと食事に行く前に、装備を置くためにこの部屋に戻
ってきたときには誰もいなかったので、書き置きは残していた俺で
ある。
︵︱︱ん?︶
ふと脇を見ると、いつもならすぐに俺に密着してくるエマが、何
やら眉間に皺を寄せて、盛んに鼻をうごめかせていた。 ﹁どうした、エマ?﹂
489
エマは、答えない。何やら不審なものを見つけた犬のように、俺
の右半身に顔を近づけて、すんすんと匂いを嗅いでいる。
﹁おんなのひとの、においがする﹂
﹁︱︱あ﹂
思い当たる節があった。右半身は、チェルージュと腕を組んでい
た側である。
﹁そんなに匂うか? 腕を組んでいたとはいえ、あいつ、香水とか
は多分付けてなか︱︱﹂
俺は自らの失言を悟った。腕を組んでいた、のあたりから、みる
みるエマの顔が曇っていったのである。
ブロードソード
エマの視線が泳ぎ、最近になって共に迷宮の探索へと赴いている、
愛刀であるところの帯広剣で固定されたあたりで、エリーゼとエミ
リアの顔に縦線が刻まれ、﹁ヤバい﹂とでも言いたげな表情になっ
てきた。
﹁いや待てエマ、落ち着こう、な? 特に変なことはしてな︱︱﹂
テリング
俺の右手に嵌めた念話の指輪が、魔力を感知してうっすらと輝い
たのは、俺がエマをなだめにかかり、何とか鎮火の素振りを見せ始
めたときのことであった。
﹃あ、ジル、聞こえてるー? あのね、ジルとのチュー、結構気持
ち良かったよ。今度はジルからしてねー﹄ 490
空気が凍った。
エマが弾かれたように帯広剣に手を伸ばすのと同時に、ベッド二
つ分を飛び越えて、エミリアとエリーゼが羽交い絞めにするかのよ
うにエマに抱きついた。
﹁ごしゅじんさま、そのゆびわをください。こわすので﹂
帯広剣の柄に手をかけつつ、小柄の身体のどこにそんな力がある
というのか、腰にしがみついたエミリアとエリーゼを引きずりなが
ら、エマは俺の方へとにじり寄ってくる。
もちろん怖い。
﹁いや待て、落ち着け﹂ ﹁わたしはおちついてます﹂
鬼気迫る顔であったならばまだ怯えるだけで済んだだろうが、ほ
とんど無表情の上に目が据わっていて、なまじ真顔であるだけに背
筋が凍るような恐怖がある。それでいて、鼻息だけは荒く、目は血
走っていた。
﹁ほら、女の子の顔じゃなくなってるぞ、エマ。怖いから落ち着い
てくれ﹂
宥めすかしているうちに、どうにかこうにか落ち着いたのか、二、
三回も深呼吸を繰り返した後に、エマは剣を鞘ごとベッドに放り投
げた。
491
﹁チェルージュ﹂
エマは、俺の瞳を見ながら口を開いた。俺の瞳を通してこの光景
を見ているであろう、チェルージュに話しかけたのだ。
﹃はいはい、聞こえてるよ。どうしたのー?﹄
そして、返事は、俺の右手薬指に嵌められた念話の指輪から発せ
られた。
エマは答えず、とてとてと俺の方へ歩いてきた。先ほどの一件が
あるので恐ろしかったが、何とか逃げずに踏みとどまった。
がしり、と俺の右腕に、両腕で抱きつく。
﹁ここは、わたしのなわばり﹂
エマは、俺の瞳をびしっと指差しながら、宣言した。
﹃あはは。宣戦布告、受け取ったよー。﹄
俺の右半身は、いつしか縄張り争いの発生する、領土めいた扱い
となってしまっていた。
解せぬ。
その日の夜のことであった。
492
﹁そういえばご主人様。私たちのレベルがどれくらいまで上がれば、
狩りに連れていってくださいますか?﹂
﹁ん?﹂ 丁寧な言葉遣いの主は、もちろんエリーゼである。
みな、寝巻きに着替え、これから就寝しようというタイミングで
あった。
﹁パーティを組んで迷宮に行きたいっていう話、やっぱり本気なの
か?﹂
﹁はい。色々な方に話を伺ったのですが、しっかりと稼げるように
なるのは、やはり中層からの狩りらしいですし。パーティを組まな
いと、中層での狩りは厳しいとも、皆さん仰っていました﹂
﹁俺も、中層で狩りをしたくはあるんだ。でもさ、言っちゃ悪いん
オーク
だけど、みんなが死ぬ可能性があるなら、やっぱり一緒には連れて
いけないかな。最低でも、豚人を一対一で安定して狩れるぐらいに
はならないと﹂
それに、俺はいわゆる盾役となれる、重装の戦士ではない。パー
ティを組むなら、後衛に攻撃を届かせないために、敵と真っ向から
打ち合う前衛のエマには、それなりのレベルを求めたかった。
﹁ご主人様とレベルの開きがあるのは理解していますが、ご主人様
が先行している以上、いつまで経ってもその差は縮まらないですか
ら。豚人を、一対一で倒せればいいのですね?﹂
493
﹁安定して楽に倒せる、っていうところが大事だな。無理して背伸
びしても意味ないぞ? それに、一番攻撃を食らうであろうエマに
は、多少なりともレベルの余裕を見ておきたいかな﹂
﹁がんばる﹂
ふんす、と鼻息を一つ、やる気を見せているエマである。
﹁中層の推奨レベルが、確かパーティの平均レベル300だったは
ずだ。みんな、まだ足りてないだろう?﹂
チェルージュに拾われた始まりの森で俺が目覚めたとき、俺のレ
ベルは180ぐらいだったはずだ。それで、成人男性の平均よりや
や低い能力だというのだから、彼女たちはもっと低いはずである。
数日やそこらの狩りで一気にレベルが上がるほど、迷宮は甘い場
所ではない。
エンブレム
﹁そういえば、みんなの血の紋章、見たことがなかったな。見せて
くれるか?﹂
三人とも頷き、血の紋章を起動させる。まずは、俺のすぐそばに
いた、エマから見ていくことにした。
︻名前︼エマ
︻年齢︼12
︻所属ギルド︼なし
︻犯罪歴︼0件
494
︻未済犯罪︼0件
︻レベル︼164
︻最大MP︼4
︻腕力︼7
︻敏捷︼5
︻精神︼4
﹃戦闘術﹄
戦術︵16.2︶
斬術︵14.9︶
刺突術︵12.6︶
格闘術︵4.2︶
﹃探索術﹄
気配探知︵5.3︶
﹃魔術﹄
魔法︵6.4︶
魔法貫通︵0.6︶
マナ回復︵9.2︶
﹃耐性﹄
痛覚耐性︵41.3︶
毒耐性︵22.8︶
495
﹁あれ、エマって11歳だったよな? いつの間に誕生日が来たん
だ﹂
記憶を遡るまでもなく、エマとエミリアは11歳、エリーゼは1
2歳のはずである。床屋で髪型を変えてからというもの、急に大人
びてきたとはいえ、彼女たちがまだ少女であることを忘れてはなる
まい。
﹁せんしゅう﹂
﹁言ってくれれば祝ったのに﹂
﹁7歳と15歳の誕生日ならともかく、毎年祝うなんて大袈裟です
よ、ご主人様﹂
エリーゼが、苦笑顔である。事あるごとに祝いをしたがる主人と
でも思われていそうだ。
ブロードソード
﹁そんなもんか。ダグラスの鍛冶屋で帯広剣を買ったときは、確か
腕力値は6だったよな? 順調にレベル上がってるみたいだな﹂
わしわしと頭を撫でると、ふんす、と嬉しそうに鼻息を漏らすエ
マである。
口には出さなかったが、耐性が高いのは、奴隷商人の元で過ごし
た過酷な日々がもたらしたものだろう。
﹁では、次は私のですね﹂
496
︻名前︼エリーゼ
︻年齢︼12
︻所属ギルド︼なし
︻犯罪歴︼0件
︻未済犯罪︼0件
︻レベル︼191
︻最大MP︼5
︻腕力︼6
︻敏捷︼8
︻精神︼5
﹃戦闘術﹄
戦術︵18.5︶
斬術︵5.9︶
刺突術︵16.3︶
弓術︵5.3︶
格闘術︵7.8︶
﹃探索術﹄
隠身︵22.8︶
開錠︵21.5︶ 罠探知︵20.2︶
罠解除︵20.1︶
窃盗︵23.2︶
追跡︵21.2︶
気配探知︵17.6︶
497
﹃魔術﹄
魔法︵6.1︶
魔法貫通︵0.5︶
マナ回復︵8.8︶
﹃耐性﹄
痛覚耐性︵15.2︶
毒耐性︵11.3︶
﹁おお、圧巻だな。さすがエリーゼだ﹂
レンジャー
狩人として、斥候として、どこに出しても恥ずかしくないスキル
の数々である。
﹁元々、狩人もこなせる奴隷というのが売りでしたから。処刑され
た父から受け継いだ技術の振るいどころがあって、私は迷宮に赴く
のは楽しいです。犯罪者でしたが、父のことは好きですので﹂
シーフ
︵ベテランの盗賊だったって言ってたな、エリーゼの親父︶
一朝一夕に取得できる技能数でもないし、娘にしっかりと技術を
教え込んでいたのだろう。
﹁じゃ、次は私ね。笑わないでよね?﹂
エミリアが顔を背けながら差し出してきた血の紋章を受け取る。
498
︻名前︼エミリア
︻年齢︼11
︻所属ギルド︼なし
︻犯罪歴︼0件
︻未済犯罪︼0件
︻レベル︼173
︻最大MP︼8
︻腕力︼4
︻敏捷︼5
︻精神︼8
﹃戦闘術﹄
戦術︵4.1︶
格闘術︵4.2︶
﹃探索術﹄
気配探知︵3.8︶
﹃魔術﹄
魔法︵13.3︶
魔法貫通︵4.5︶
マナ回復︵14.2︶
﹃耐性﹄
痛覚耐性︵18.9︶
毒耐性︵13.7︶
499
ジ
メイ
﹁おお? 他の二人と比べて、魔法系の上昇が早いな。さすが魔術
師﹂
レザーアーマー
﹁別に、私だけ皮鎧でマナ回復が早いんだから、魔法を唱える回数
が多いんだし、早く成長して当たり前じゃない﹂
つん、と横を向く。
﹁ふふ、ご主人様。口ではこう言っていますが、マナに余裕ができ
たら小まめに魔法を唱えたりと、エミリアは陰で頑張ってたんです
よ﹂
何で言っちゃうのよ、と顔を赤らめるエミリアであった。 ﹁努力を見られたくないのか? エミリアらしいといえば、らしい
な﹂
照れ隠しなのか、エミリアは血の紋章を俺の手からひったくると、
踵を返してベッドに潜りこんでしまった。
﹁俺のも見せようか。確か、全部表示させた奴は、見せたことがな
かったろ?﹂
︻名前︼ジル・パウエル
︻年齢︼16
500
︻所属ギルド︼なし
︻犯罪歴︼0件
︻未済犯罪︼0件
︻レベル︼493
︻最大MP︼14
︻腕力︼18
︻敏捷︼15
︻精神︼16
﹃戦闘術﹄
戦術︵34.3︶
斬術︵28.4︶
刺突術︵27.0︶
格闘術︵13.3︶
﹃探索術﹄
追跡︵14.1︶ 気配探知︵16.2︶
﹃魔術﹄
魔法︵24.1︶
魔法貫通︵17.1︶
マナ回復︵39.6︶
魔法抵抗︵1.2︶ ﹃耐性﹄
痛覚耐性︵18.3︶
501
魅了耐性︵100.0︶
﹃始祖吸血鬼の加護﹄
﹁すごい﹂﹁すごいですね、ご主人様﹂などと、エマとエリーゼ
が二人して褒めてくれるので、ちょっと面映く思いつつも、えへん、
と胸を張る俺であった。
ディノ青年のステータスを見せてもらったときの俺も、今のエマ
たちのような驚き顔だったのだろうか。
ベッドに引き篭もっていたエミリアも、俺の能力を見たいという
誘惑に負けたのか、ベッドから這い出してきて血の紋章を覗き込み、
感嘆の表情を作る。
﹁何で私よりも魔法関係のスキルが高いのよ﹂
ぶすっとした表情で俺を非難するエミリアであった。
ファイアアロー
﹁俺は器用貧乏だからな。火矢を使ったり、剣で戦ったりしてるか
ら、魔法スキルもそこそこ成長するんだ。それに、俺はみんなより
も二ヶ月近く前から迷宮に潜ってるんだから、この差は仕方ないさ﹂
﹁それにしても、何なのよ、この魅了耐性って。100.0って、
おかしいでしょ﹂
﹁その文句は、加護を授けてくれたご本人様であるところの、チェ
ルージュに言ってくれ。ダイレクトに本人に伝わるから。あと、お
前は出てこなくていい﹂
502
何かを言おうとしたのか、念話の指輪が一瞬光って、消えた。
スタデットレザーアーマー
﹁あとは、瞳にマナを吸われ続けてるせいか、マナ回復スキルも成
長が早くてな。意外と便利だぞ、これ。マナ回復を阻害する鋲皮鎧
を身に付けてても、今じゃ二時間もかからずにマナが全回復するか
ら、三十分に一回、火矢を使っても大丈夫な計算だ﹂
﹁やっぱり、魔法は回転率よね、商売と一緒だわ。攻撃魔法を一回
撃ったら、しばらくはマナ回復に努めないといけないから、重要な
のは最大MPに影響する基礎能力値の精神と、マナ回復スキルよね。
一度の大きな取引より、薄利多売でコツコツやるべきなんだわ﹂
何やらぶつぶつと呟いているエミリアは、商家出身ということも
あって、集中しているときに商売に関連する用語を無意識に使って
しまうらしい。
忘れがちだが、テーブルマナーや文字を、エマとエリーゼに毎日
教えているのはエミリアである。三人の中で、唯一しっかりした教
育を受けていた彼女には、助けられていることが多い。
そんな風に、感慨に耽っていたせいだろうか、エミリアの次の言
葉は、奇襲めいていて俺に驚きを与えた。
﹁あと、ジル。多分だけど一ヶ月もしないうちに、私たちレベル3
00になるわ﹂
﹁は?﹂
聞き間違いだろうか。誰一人としてレベル200になっていない
503
現状から、一ヶ月足らずで?
﹁私の計算だと、このペースで順調に行けばそうなるわ。一週間の
狩りで、みんな二割近くレベルが上がってるもの。一ヶ月あれば、
倍ぐらいになるはずよ﹂ ﹁そんな馬鹿な。俺がレベルを倍に上げるのに、二ヶ月ぐらいかか
ったし、そんな俺でもかなり成長が早い方だって鍛冶屋のダグラス
に言われたんだぞ?﹂
﹁こんなに早く成長できるのは、今だけよ。ジルが気づいてないみ
たいだから言うけど、まず、私たちは装備代や宿代を稼ぐ必要がな
かったわ。魔物から取れる魔石を全部、私たちのレベル上げに使え
るし、下層の狩りのコツは、図鑑やジルから教えてもらってるから
不安要素がないわよね。そのうち、迷宮産の魔鋼武器じゃないと力
不足になるんでしょうけど、豚人ぐらいなら鉄の剣とかで十分なの
よ。環境を整えてもらって、全力でレベルを上げてられる今なら、
一ヶ月で倍のレベルになれるわ﹂
断言するエミリアに、絶句する。
レベル200未満といえば、俺が最初に迷宮に入ったときのレベ
ルよりも、さらに低い。
﹁もう、豚人を狩ってるのか?﹂ ﹁正面からは、まだきついんだけれど。忘れた? エリーゼがいる
のよ?﹂ ハイド
﹁隠身から、急所の喉に短剣を一刺し。それで倒せますよ。失敗し
たことはないです﹂
504
さも当然のことであると言わんばかりの、エリーゼである。
﹁暗殺に失敗しても、三人で火矢を詠唱して当てたら、リカバリー
が効くって私が判断したから、もう豚人を狩ってるわ。エマの装備
だと、豚人の棍棒を受けるにはまだ防御力に不安が残るけど、もう
少しレベルが上がって金属鎧と盾を装備できるようになれば、一対
一でも余裕で勝てるようになるはずよ﹂
ここのところ、俺は自信を持ち始めてきたところであったので、
自分を上回る彼女たちの成長速度には驚きを禁じえなかった。三人
パーティを組んでいるとはいえ、迷宮に入り始めて一週間で、豚人
を狩るようになるとは。
﹁意味がないから試してないけれど、私とエリーゼなら、多分今で
も一対一で豚人を倒せるわ。エリーゼは暗殺で一撃、私はマナが空
っぽになるけど、火矢の二連射を両目に当てればいいだけだもの。
筋力馬鹿の豚人なら、動きが鈍いからまず外すとは思わないし﹂
淡々と語るエミリアが、自分の力量を誇示したがっているように
は感じなかった。本当に、やろうと思えば豚人を倒せるのだろう。
﹁そうかあ。じゃあ、来月あたりから、パーティ、組むか?﹂
完敗である。ここまで見事に言ったことをこなせるのなら、拒絶
する意味もなかった。俺だって、中層の魔物は、狩りたいのだ。色
々と、金銭面に余裕ができるだろうから。
俺の台詞に、笑顔になる三人である。
505
﹁思ったよりも早く、ご一緒できそうですね。その日が来るのが、
楽しみです﹂
﹁みんなとパーティ組むにしろ、実現するのはもっと遠い未来だと
思ってたんだがなあ﹂
﹁環境を整える重要さがよくわかるわよね。商売と一緒で、軌道に
乗せるまでが一番苦労するはずなのに﹂
﹁それはあるな。俺も、冒険の始めはチェルージュにもらった魔石
で準備を整えられたから、かなり楽をしたし。何も持ってない状況
から冒険者になろうと思ったら、こつこつ金を溜めて装備を買うと
ころからだからなあ﹂
﹁ご主人様が、冒険が終わった後に、その日にあったことを色々お
話になるでしょう? あれも、大きいと思うんですよ。狩りの心構
えを教えてもらってるようなものですから﹂
﹁よせよ、そんな大したもんじゃないさ﹂
ラメラーアーマー
それよりも、俺は金策を考えねばなるまい。中層の魔物ともなる
と、ただの鋲皮鎧では心もとない。エマだって、甲殻蟲の鱗状鎧で
前衛を張らせるのは無謀というものだ。
シルバーサーペント
﹁銀蛇の皮鎧、やっぱり売るかな﹂
新しい鎧を買うには、まとまった金が必要である。
四人が生活するにあたり、一日に必要な金は約10,000ゴル
ドであって、それ以上に稼いでこなければ、新たな装備品を買うだ
けの金は溜まらない。一ヶ月の期限で、それだけの貯蓄は、恐らく
506
できないだろう。
﹁新しい鎧でしたら、自分たちで稼いで買いますよ、ご主人様?﹂
﹁いや、早いところ中層での狩りがしたいっていうのは、俺の本音
なんだ。稼げる額が、やっぱり違うからな。いくら豚人を狩れるか
らって、新しい装備や魔法を買う金を溜めるのには、結構な時間が
かかるからなあ﹂ ﹁そう言われれば、そうかもしれませんね。私は装備品にあまりお
金をかけなくても済みますが、エマやエミリアは、そうも行かない
でしょうし﹂
防御力が売りの前衛と、魔法の多彩さが求められる魔術師。どち
らも、初期投資のかさむ職である。
﹁商売人の目線で指摘をすると、そもそも支出と収入の管理が雑よ、
ジルは。パーティを組めるようになったら、冒険で得た稼ぎはどう
配分する気? 私たちは全額ジルに渡してもいいんだけど、どうせ
いつものごとくいくらか私たちにくれようとするんでしょ?﹂
﹁ええい、悪いか﹂
﹁悪いわよ。ジルの口癖じゃないけれど、これからずっと、迷宮に
潜って生計を立てるんでしょ? そのあたりの勘定が雑だと、後々、
困るのよ﹂
﹁ぬう﹂
ぐうの音も出ない。確かに、金の使い方が少し荒いなとは、自分
507
でも思っているのだ。 ﹁宿賃とか、生活費とか、回復薬なんかの消耗品を補充するお金を、
まず稼ぎから抜くじゃない? その後で、突然の怪我とか病気をし
たときに備えて、緊急時に使うための貯金を抜くでしょ? さらに、
残った全額をお小遣いにできるわけじゃなくて、新しい装備とかを
買うための貯蓄も考えないと﹂
﹁よし、エミリア君﹂
﹁君、って﹂
突如として口調を変えた俺に、エミリアは困惑顔である。
﹁キミを、当家の財政官に任命しよう。収入をどのように使うかを
任せようではないか。重大な役目だ、頑張ってくれたまえ﹂ ﹁どこに、奴隷に家計を一任する家庭があるのよ﹂
ここにいる、と言わんばかりに、俺は片目を瞑りつつ親指で自分
を示す。爽やかな笑顔付きだ。 ﹁と言っても、まあ、なんだ。財布の紐をがちがちに縛られすぎて
も窮屈だし、ある程度、口は出すけどな。金の関係は、エミリアに
任せておくのが一番いいと思ったのは事実だし、やってくれないか
? 金の扱いが雑だとは、自分でも思ってるんだ﹂
﹁まあ、そこまで言うなら、いいけど﹂
むっすりしつつ、頼られたのが嬉しいのか、まんざらでもなさそ
508
うなエミリアである。
509
第三十二話 投資
﹁それでだ。ダグラスよ、来月から中層に潜るんだが、装備の相談
に乗ってくれ﹂
﹁そりゃ仕事だから構わねえけどよ、何で嬢ちゃんたちまで付いて
きてんだ?﹂
週に一度の休みの日、俺たちはダグラスの鍛冶屋で集まっていた。
もちろん、主目的は、来月からの中層探索に向けて、装備の調達で
ある。
﹁パーティメンバーだからな。エマたちと一緒に、中層に潜るんだ﹂
﹁はあ? お前が他のパーティに参加して中層に行くんじゃねえの
か? 嬢ちゃんらがここに装備買いに来たの、十日ぐらい前だろう
? 何を焦ってるのか知らんが、そりゃいくらなんでも無謀だろう
よ﹂
﹁誰が聞いても、そういう反応になるだろうなあ。まあでも、聞け
よ﹂
俺は、先日のエミリアの計算をそのままダグラスに伝えた。
聞き終わるなり、納得がいった体で、感嘆のため息を漏らすダグ
ラスである。 ﹁なるほどねえ。そりゃあ成長も早いはずだわ。ありえねえ話で疑
っちまったが、
510
装備を全部買ってもらって、生活費はタダ、取れた魔石は全部使う。
そこまで恵まれた環境で冒険者をやり始められる奴なんていねえか
らなあ﹂
﹁そんなわけで、装備を中層向けに一新すべくここに来たってわけ
シルバーサーレ
ペザ
ンー
トアーマー
だ﹂
銀蛇の皮鎧は、俺が使っていない方を一着、商業ギルドで売って
きた。中古ということもあり、買値は1,200,000ゴルドと
相場より少し安く、それはすべて懐に入れて持ってきている。
﹁ふむ。話はわかったが、買い換えるのは小っこい嬢ちゃんの装備
だけでいいと思うぞ﹂
﹁エマだけでいいのか?﹂
﹁まず、お前さんの思い違いから直してやらあ。中層ってのはな、
マナバイソン
ハーピー
リザードマン
迷宮に対する慣れを問われるんだよ。低層と違って、物理攻撃主体
スケルトン
で攻めてくる魔物の方が少ないぐらいだ。魔角牛、羽人、蜥蜴人、
骸骨ぐらいか。魔角牛の突進だけは規格外に強いが、あれは正面か
チェインメイル
プレートメイル
ら食らったら何着てても死ぬと思え、例外だ。それ以外の奴らなら、
鉄製の鎖鎧で十分だ。俺なら毒針や毒液を通さない板金鎧を勧める
が﹂
﹁そういやそうか。中層から、特殊攻撃を使う敵が増えるんだっけ﹂
﹁それもあるし、魔法を使ってくる魔物だって出る。毒や麻痺攻撃
レンジャー
持ちの敵だって、かなり多い。一発でパーティが崩壊するようなヤ
メイジ
ベぇ攻撃持ちがいるってことだから、狩人の重要性がぐんと上がる。
もちろん、状態異常を治す役割で、魔術師の仕事も増えらあな。本
511
トランキライト ピュリフィケーション
来は俺が言うこっちゃねえんだが、防具に金を使うよりも、魔術師
のくるくる嬢ちゃんに鎮静とか治癒とか覚えさせといた方がいいと
思うぞ?﹂
﹁誰がくるくる嬢ちゃんよ。頭悪そうに聞こえるからやめてくれる
?﹂
心外といった風に怒ってみせるのは、エミリアである。一般市民
であるダグラスに奴隷が気安い口を聞く、本来であれば有り得ない
光景であったが、ダグラスはそのあたりの理解があるようで、特に
気分を害した風でもない。
何度かエマたちだけでこの店に訪れているようだったから、その
時にでも打ち解けたのだろう。
﹁まあ、いい武器がありゃ狩りがはかどるってのは事実だからな。
金があるなら、武器を買い換えるのもいいだろうよ︱︱武器を買い
換えるといえば、ちっこい嬢ちゃんと、ジルもそうだな。両手武器
にするか、盾を持ったりはしねえのか? お前さんらに売ったのは、
対魔物用に作った剣だから、普通の品よりは分厚く頑丈に作ってあ
ハルバード
グレ
るけどよ。筋力に余裕があるなら、いつまでも剣を使う必要はねえ
んだぞ?﹂
﹁あ、そうか。他の武器にするって選択もありなのか﹂
イブ
﹁ちと癖があるから使いこなすまでに時間がかかるが、戦斧とか薙
刃もいいぜ。要するに両手で振り回せる、長柄の斧みてえなもんだ。
破壊力はピカイチだぞ﹂
壁に立てかけてある鉄製の戦斧を、ダグラスは親指で指した。
512
先端に槍のついた、俺の身長よりも長い柄のついた斧である。
﹁斧かあ。使ったことねえな。それに、あんな狭い迷宮の中で、長
ダイアウルフ
物を振り回す気にはならねえなあ﹂
戦斧を持っていると想定して、恐狼と戦ったらどうなるかを想像
してみる。 天井に先端が引っかかって思う様に振り回せず、恐狼
の突進を食らう図しか見えてこない。
﹁低層だけでの狩りならそうだろうが、中層からは迷宮自体がかな
り広くなるんだよ。長柄の武器を振り回せる場所も少なくねえ。ま
あ、狭い通路や小部屋もあるっちゃあるんだが、そこらへんは柄を
短く持ったり、先端で突いたりと、工夫次第で何とかなるからな﹂
﹁ほう? 初耳だな、迷宮も奥に行くと構造が変わるのか﹂
﹁おうとも。俺が冒険者をやってた時代にな、見たことがある。中
層までしか行かなかったが、それでもまるで別世界だぞ。鍾乳洞み
たいな階層もあれば、マナが表面を覆って、地面や壁が魔石みてえ
にキラキラ輝く階層だってある。さらに深層まで行けば、迷宮の中
なのに昼みてえに明るいところもあるって話だぜ﹂
﹁なんだそりゃ。地下なのに光があるのか?﹂
﹁なにが光ってるのか、詳しく説明はできねえがな。俺なんかに原
理がわかるわきゃねえだろうよ︱︱話が逸れちまったが、そもそも
ジル、お前さん、パーティ内での役割はなんだ?﹂
﹁え?﹂
513
パーティ内の役割と言われても、特に決めていない。
﹁レベルが俺の方が高いからな、みんなを引率する役目だと思って
たんだが、役割って言われてもなあ﹂
﹁馬鹿野郎、100や200のレベル差なんざ誤差だ。大事なのは
連携って言っただろう。ちっこい嬢ちゃんが前衛、背の高いキツネ
目の姉ちゃんが狩人、くるくる嬢ちゃんが魔術師。みんな立派に役
割があるじゃねえか。お前はなにをやるつもりだ?﹂
俺は、うっと言葉に詰まる。
﹁そう言われると、決めてねえな﹂
﹁そんなんで迷宮に行っても、自分が何をやればいいのかわからな
くて戸惑うのが落ちだぞ? 索敵と奇襲が狩人、身体を張るのは前
衛、戦闘補助の魔術師。基本通りの鉄板構成だ。そこにお前さんが
加わって、何ができるのか考えてもいねえのか?﹂
﹁その、ご主人様、よろしいですか?﹂
ダグラスに言い負かされてしょんぼりしている俺に、エリーゼが
助け舟を出してくれた。
﹁ご主人様には、遊撃と言いますか、魔物に攻撃をする役目をお願
いしたいと考えていたのですが﹂
﹁んん? 詳しく言ってみてくれ﹂
﹁はい。まず、私は奇襲を担当していますが、うまく一撃で魔物を
514
倒せたとして、二匹目からは対処ができません。ですので、もし二
匹以上の魔物がいた場合、エマがもう一匹と対峙して、攻撃を引き
受けます。その間に、私とエミリアが横から攻撃して倒す、という
具合でやってきたのですが﹂
﹁ほうほう﹂
しっかりと連携が確立されているようだ。いいことである。
﹁今後、三匹以上の魔物が出現した場合や、二匹の魔物が相手だと
しても、私が一匹を即死させられなかった場合、エマが相手をして
いない魔物が、私やエミリア、いわば後衛に向かってきてしまいま
す。その場合に、ご主人様が二人目の前衛として、敵と対峙すると
いう役目をお願いしたいのです﹂
﹁お前さんより、よっぽど嬢ちゃんらの方がしっかりしてんじゃね
えか。情けねえ奴だ﹂
﹁うるせえ、自慢の家族だ。文句あっか﹂
咳払いをしつつ、エリーゼは続ける。
﹁エマだけで敵を引きつけられるなら、そのまま火力を担当して敵
ポーション
を倒す役割。敵が多ければ、エマに次ぐ前衛。そして、奇襲などで
エミリアが戦闘不能になったら、魔法や回復薬で状態を立て直す、
いわゆる何でも屋︱︱というと聞こえが悪いですが、指揮官のよう
な役割を、と考えていたのですが﹂
﹁お、じゃあそれでいこう﹂
515
よくできた案なので、あっさり可決する俺である。
﹁なんつうか、締まらねえなあ、お前さん。奴隷に全部やってもら
ってるじゃねえか﹂
﹁うるせえ、適材適所だ。頭脳労働はできる奴に任せりゃいいんだ﹂
エリーゼは、再びの咳払いである。
﹁みんなと話し合って、こういう形がいいんじゃないかという話に
なりました。ご主人様がお嫌でなければ、そのようにしてみてはい
かがでしょうか?﹂
﹁うん、そうする。ところでダグラス、今エリーゼが言ったみたい
な遊撃だと、武器はどうするのがお勧めだ? 破壊力があるってい
うから両手武器は魅力なんだが、いざってときに前衛張るなら盾と
か持つ方がいいんだろうし﹂
﹁俺に丸投げして聞いてきたら張り倒そうかと思ってたが、一応、
最低限は自分で考えてんだな。両手武器と盾、どっちがいいか、ぶ
っちゃけて言うと、好みだ。両手武器を持ってても敵を引き付ける
のはできるが、どうしても盾持ちに比べると攻め込まれると体勢を
崩しやすいな。ただ、射程が長い分、先制攻撃をしやすいから、ひ
と当てして相手に手傷を負わせておくと戦闘が楽になる。対して盾
持ちの利点は、何といっても安定性だな。前衛が突破されにくいか
ら、不慮の事故が起こりにくい。その分、攻撃の威力は片手のそれ
だからいまいちだな﹂
﹁悩むなあ、好みの問題か﹂
516
﹁盾を持つと持たないとじゃ、戦い方がまるで違うからな。慣れっ
て意味でも、使うならずっと使い続けた方がいい。武器スキルがあ
るように、ちゃんと盾術スキルってのがあるんだぜ﹂
﹁なるほどなあ。エマは両手武器と盾、どっちを装備するか、もう
決めてるのか?﹂
俺の右半身に語りかける俺であった。そこがエマの定位置である。
﹁きめてないです﹂
﹁ふむ、じゃあどうするかな。盾ってどんなのがあるんだ? お勧
めの盾みたいなものがあれば教えてくれ﹂
バックラー
﹁大きく分けて三つある。掌盾みたいな小さな盾か、四角型の、身
体を全て覆い隠すデカい盾、その二つの中間、逆水滴型の盾だな﹂
奥に一度引っ込んだかと思うと、ダグラスは一枚の円盤を投げて
寄越した。
広げた掌と、大きさがそれほど変わらない、小さな盾だった。
﹁なんだこりゃ。こんな小さい盾で身を守れるのか?﹂
﹁それが掌盾だ。敵の攻撃に、盾をぶつけて弾くように使う。熟練
者が使うと、そんなのでもかなり守りが堅くなるんだぜ。デカい盾
だと、自分が攻撃を振り回す邪魔にもなるからな、掌盾は愛用者が
多いんだ﹂
ダグラスは、もう一枚の盾を、取り出してきた。今度は、上下に
長い、水滴を逆にしたような形の盾である。
517
カイトシールド
﹁これが逆水滴盾だ。盾、って言われて真っ先に思い浮かぶのは、
多分こんな形じゃねえか?﹂
﹁そうそう、こういうのを想像してたんだ﹂
盾を左手に持ちながら、俺の顔面に押し付けたり、ささっと構え
てみせてくれるダグラスである。
︵目の前にかざされるだけで、視界を塞がれるのか︶
﹁この盾の利点としては、噛み付き系の攻撃をしてくる野獣なんか
の突進を、正面から受けることができる。そのまま盾ごと相手を押
し込んで、身動きを制限したりな。もちろん、レベルが低くて筋力
が弱けりゃ押し負けちまうが。見ての通り、左右に長いわけじゃね
えから、正面以外からも攻撃されるような状況だと、下手に盾を押
し付けたら攻撃を食らっちまうな﹂
ダグラスが最後に取り出してきたのは、湾曲した巨大な鉄板かと
思われるほどの、デカい盾だった。エマの前に盾を立たせると、首
から上を除いてすっぽりと全身が隠れてしまうほどだ。
スクトゥム
﹁面盾だ。使い方は、一目瞭然だろ? デカさに物を言わせて、相
手をひたすら押し込む盾だ。デカすぎて自分も攻撃しにくいんだが、
その分防御範囲は広い。掌盾とかじゃ防ぎにくい魔法とか矢の攻撃
も、こいつなら防ぎやすい﹂
﹁わかりやすくていいな﹂
﹁もし小っこい嬢ちゃんが使うなら、掌盾以外だな﹂
518
﹁なんでだ?﹂
﹁身軽さを重視した盾だからだ。板金鎧を着込むなら、掌盾は合わ
ねえ。どっちかっていうと、合うのはジル、お前さんの方だな。軽
い鎧と掌盾は相性がいい﹂
﹁ふむ。それじゃあ、俺は掌盾を持つか、両手武器にするかってと
ころか︱︱ん?﹂
くいくいと、俺の袖を引っ張るエマである。
﹁わたし、あれがいいです﹂
エマの小さな指が示した先には、壁に立てかけられている、一本
の斧があった。
まさかり
柄の先端から、同じ大きさの刃が左右に広がっていて、木こりが使
うような鉞に似ている。
バトルアックス
﹁ほお? 通好みの選択だな。両刃の闘斧か﹂
ダグラスが壁まで歩いていき、柄から刃まですべて茶色い金属で
できた闘斧を持つと、ただでさえ重い足音が、さらにずしずしと床
を軋ませるものに変わる。
﹁ほれ、持ってみな﹂
手渡された戦斧を受け取ると、予想外に重かったらしく、エマは
闘斧を支えきれずによろめいた。何とか体勢を立て直し、闘斧を床
に立てながら、しがみつくようにして持っている。
519
ウーツ
﹁がはは、そりゃそうだ。芯から両刃の部分まで、一本まるごと全
部、鈍魔鋼でできてる。 普通の斧なら重いので4キロぐらいしか
ないところ、こいつは倍を超える9キロだ。筋肉自慢の大人でも、
そうおいそれと扱えない代物だからな。こいつを自由に振り回すな
ら、腕力値は最低15、できれば20は欲しいところだな﹂
エマの身長は130センチほどだが、背筋を伸ばした彼女の身長
と、闘斧の全長は同じぐらいだった。顔の輪郭よりも両刃の部分の
方が大きいので、エマ本人よりも斧の存在感の方が勝るほどである。
﹁エマ、腕力値7だろ? レベルが上がったとしても、それを振り
回すのは辛いんじゃないか?﹂
﹁これがいいです﹂
俺の右半身にそうするかのように、ひしと抱きつくエマであった。
一体何が彼女の琴線に触れたのかはわからないが、やけにお気に入
りである。
俺は内心で、どうしたものかと考え込む。
今はエマの腕力値が足りないといっても、この斧を使うのは一ヶ
月後の話だ。レベルが300を越したころには自由に扱えるように
なっているかもしれない。ここまで本人が気に入っているのである、
使わせてみるのも一興だろう。
﹁じゃあ、エマはそれと板金鎧だな。俺はどうするかな﹂
﹁掌盾なら小さい分値段も安いから、お前さん、試しに使ってみる
520
のはどうだ?﹂
﹁でもなあ。左手で盾を持つんだろ? すると右手だけで剣を振る
ことになるだろ。両手で剣を構える今の型が気に入っててなあ。な
んというか、急に変えるのに抵抗があるというか﹂
﹁それならそれでいいんじゃねえか? 剣の両手持ちだって、威力
が上がるから悪いことばかりじゃねえしな。ってえことはなんだ、
あれだけ説明させといて結局盾は買わねえのか﹂
﹁すまんな。まあでかい買い物したってことで︱︱﹂
﹁あの、ちょっとよろしいですか?﹂
談笑していた俺とダグラスが振り向くと、いつの間にか、俺に投
げ渡された掌盾を、エリーゼが左手に嵌めていた。
﹁これ、私が使ってみてもよろしいでしょうか?﹂
﹁狩人の盾持ちか? いねえわけじゃねえが、そいつも珍しいな。
体術の邪魔になるから、普通は両手を空けたがるもんだが﹂
﹁この大きさの盾なら、暗殺をしかけた後に、身を守るのにちょう
どいいと思いまして。そもそも短剣は右手にしか持ちませんので、
左手にこれを着ければ短時間の自衛ができるな、と﹂
プレートメイル
バトルアックスバックラー
﹁よし、じゃあそれも使ってみるといい。ええと、これで買い物が、
エマの板金鎧一式に闘斧、掌盾か。ダグラス、合計でいくらだ?﹂
﹁ああ、もう聞いちまうのか。もうちょい会話を楽しませてやろう
521
って思ってたんだが﹂
俺は首を傾げる。一体どういうことだ?
﹁正直な、途中から思ってたんだ。多分、払えねえだろうってな。
百五十万だ﹂
﹁は?﹂
ロングソード
﹁だから、1,500,000ゴルドだって言ってんだよ﹂
スタデッドレザーアーマー
﹁マジで? 鋲皮鎧とか兜とか、長剣をここで買ったときもせいぜ
い数十万で済んだのにか?﹂
﹁皮製品と、金属鎧の値段を一緒にすんな。ぼったくっちゃいねえ
よ、正規の値段だ﹂
﹁あの、ご主人様、やはり私、掌盾はいらないような気がしてきま
した﹂
すっと、左手に嵌めた盾を外して差し出してくるエリーゼである。
﹁キツネ目の嬢ちゃんの盾は、もともと金を取っちゃいねえよ。板
オーダーメイド
金鎧は、装備する嬢ちゃんが小っこいから、部品の流用がしにくく
て一から打つ必要がある。特注品の手数料はマケてやっても、60
0,000ゴルドだ。残りの900,000ゴルドは、もちろんそ
の斧だ。ジルの持ってる長剣みたいな外刃だけじゃなくて、柄から
刃まで全て鈍魔鋼で作ってある。しかも斧はデカい分使う金属量も
多いから、高くつく。それに比べりゃ、掌盾の代金なんざ端金だ﹂
522
しょんぼりしつつ、斧を抱きかかえながら壁に戻しにいくエマで
あった。
その様子を横目に見ながら、装備を買う必要がないということで、
今まで黙っていたエミリアが一歩進み出た。
﹁ジル、あんた持ち金、1,200,000ゴルドよね? どれく
らい私たちに使ってくれる気だったの?﹂
﹁いや、そりゃ全部だが﹂ 銀蛇の皮鎧の売却したところにもエマたちは着いてきたので、懐
具合は周知であった。
﹁信じるわよ? 本当に、全部使っていいのね?﹂
﹁お、何か案があるのか? いいぞ、好きにしてくれ﹂
1,200,000ゴルドという所持金を聞いて、ダグラスは頬
杖を外して驚いた。
﹁ジル、お前さん、ずいぶん持ってきたんだなあ。せいぜい、二、
三十万ぐらいしか持ってねえだろうと思ってたんだが﹂
﹁それなのに最後まで会話に付き合ってたのか? 意外と律儀だな、
ダグラス﹂
﹁はいはい、話が逸れるから割り込むわよ。ねえ髭モジャ、分割払
いって可能かしら?﹂
髭モジャ呼ばわりに、俺は吹いた。暑苦しい筋肉と、わさわさと
523
伸びた髭面に、その呼称はとてもよく似合う。身分差がある人間か
らそんな呼び方をされても、気にした風がまるでないダグラスも、
大物であった。
﹁手付け金としていくらか貰えりゃ、鎧を打ち始める分には問題ね
えぞ。まさか払えるとは思ってなかったから言ってないが、板金鎧
は一から全部作るなら二ヶ月はかかる。流用できる部品は全部そう
するとしても、兜や踵、胴周りなんかの代用できないところは採寸
ファイアボールキュアポイズンキュアパラライズリアクティ
して鉄板から打たなきゃならんから、早くて二十日間は見てもらい
てえ﹂
ブアーマー
﹁ジル、私ね、魔法を四つ、覚えたいの。火弾、解毒、解麻痺、魔
鎧。どれも色級だから、一つ100,000ゴルド。合計400,
000ゴルドなんだけど、買っていい?﹂
﹁財政官に任命したって言ったろ。ビビってないで、好きに使え﹂
﹁ありがと。じゃあ髭モジャ、代金の半額、750,000ゴルド
だけ先渡しするわ。
残りの750,000ゴルドだけど、毎月50,000ゴルドずつ
の十五ヶ月分割払いっていうのはどう? それで、最初に半額渡し
た時点で、板金鎧も斧も、使い始めたいんだけれど﹂
﹁ふむ。厳しいことを言うようだが、支払い途中でお前さんらが死
ぬか、持ち逃げしない保証は?﹂
ダグラスの言う通りである。危険の大きい稼業だけに、冒険者を
相手の後払いを好む商売人はいない。
﹁私たちは奴隷よ。仮に迷宮で死人が出ても、私たちの誰か一人で
524
も生き残ってるなら、売れば残金を払えるわ。それに、ジルは加護
持ちよ、聞いてるんでしょう?彼に限っては死ぬ危険性はないわ﹂
金に困ったら、自分たちを売ればいいというエミリアの発言に俺
は慌てたが、対照的にダグラスはにんまりと笑った。
﹁いい感じに覚悟決まってるじゃねえか、俺の好きな答えだぜ。前
に、ツケで装備を売るって言ってやっただろ? 回答次第じゃ、手
付け金なしで装備を作ってやろうかと思ってたぐらいだ。いいぜ、
それで﹂
﹁はい、交渉終了よ﹂
俺の方を見て、ひらひらと手を振るエミリアであった。
﹁なんか、あっさりとまとまったな。金が足りてないのに装備を先
に使い始めていいなんて、うますぎる話だと思うが﹂
﹁そうか? 俺からしても、悪い取引じゃねえぜ。いざとなりゃあ
﹃槍の﹄フィンクスを倒せる加護に、奴隷三人の保証つきだ。まず
取りっぱぐれる心配はねえし、気心が知れてるから人柄も問題ねえ。
もう少し厳しい要求でも呑んでやろうかって程度には信用もしてる。
肝心の代金を値切ったわけじゃねえから俺が損することもねえ。八
方丸く収まってるってわけだ﹂
﹁ひゃくごじゅうまん︱︱ひゃくごじゅうまん︱︱﹂
先ほどから、自分たちに使われた金額の大きさにエリーゼが壊れ
かかっているが、見ないことにしよう。
525
﹁んじゃあ、早速明日から打ち始めるからな。今日中に、採寸は終
わらせちまおう。おうい、お前﹂
仕事場を兼ねているらしい奥に声をかけると、ヴァンダイン氏の
愛娘であるところの、ダグラス嫁が姿を現した。
﹁嬢ちゃんたちの採寸かい?﹂
﹁おう。そこの小っこい嬢ちゃんだけでいい。物は板金鎧一式だ﹂
あいよ、と景気のいい声を出しつつ、ダグラス嫁が巻尺でエマの
採寸を始める。
﹁斧の代金を払い終えたら、次はエリーゼの短剣を新しくしなきゃ
ね﹂
すでに次なる出費の構想がエミリアの中には出来ているらしい。
エリーゼが我に返り、慌て始める。頼もしい財政官であった。金の
使い道は、エミリアに任せておけば大丈夫だろう。
526
第三十三話 中層 その1
金属の鎧がこすれ合う音。話し声。多くの人々が放つ、体温と足
音。四方に焚かれた篝火の、薪がぱちりと爆ぜる音。
元は冷えていたであろう空気も、冒険者が集まる中にあって、ぬ
るまっていた。
迷宮の広場は、広大な空間の端に、更なる地下へと人々を飲み込
むためのいくつもの口を開けていた。
ここは、地下十五階。上層と中層の境界線のうち、中層側へと足
を一歩踏み入れた深さにある、広い洞窟。
第二の街と呼ばれる、迷宮内におけるベースキャンプである。
﹁はい、押さないで押さないで。同一パーティは横一列に並んでく
ださいね﹂
ドーム状の洞窟の壁や天井は、表面が結晶化した魔石で、薄紫色
ヘリオス
の淡い光を放っていた。広場の端、更なる下層へと続く穴めいた道
の前には荒縄で区切りがされていて、胸に炎帝の紋章を象ったペン
ダントの冒険者ギルドの職員が、一パーティずつ別々の穴へと送り
込んでいる。
迷宮城の入り口と同じく、冒険者ギルドの職員がいることからも
わかるように、ここは街が管理している広場だ。各種商店に加え、
商業ギルドが派遣した、簡易な迷宮素材の買取所まである。
ベースキャンプには荒縄で区切られたスペースがあり、その中で
527
は、何もない空間から冒険者が次から次へと現れていた。迷宮の入
口で1,000ゴルドを払うと、一番から二十番までの特殊な小屋
に案内され、その中に設置された魔石から、ここベースキャンプま
で一瞬で移動できるという仕組みになっている。
なお、物は試しと言うことで、今回は俺たちも1,000ゴルド
を払って上層から転移してきた。本当に、魔石に触れてからものの
十秒そこらで中層に到着した。
余談だが、利用料は一回1,000ゴルドなので、節約のために
徒歩で上層から中層まで歩いてくる冒険者も多い。
﹁便利なものですね、ご主人様。中層まで一瞬で来れるなんて﹂
バトルアックス
﹁そうだな。いよいよ俺たちも、中層冒険者か﹂
﹁エマ、頑張る﹂
ウーツ
プレートメイル
ふんす、と気合を入れて鈍魔鋼の闘斧を背負いなおすエマであっ
た。
ダグラスの店で、エマの板金鎧と闘斧を注文してから、まる一ヶ
月が経っていた。
エマたちが休日も返上して迷宮に潜った結果、彼女たちは宣言通
りにレベル300に到達した。
というか、三週間を過ぎたぐらいであっさりと達成してしまった
528
ものの、エマが闘斧を装備するための筋力が欲しいとかで、レベル
300を越えた後も余分に迷宮に潜っていたらしい。今では、全員
がレベル350を越え、最も高いエリーゼに至ってはレベル400
に達している。
その間も俺は迷宮に潜り、日銭を稼ぎつつ、恐狼を相手にレベル
とスキルの向上に努めていた。いわば、特に変わり映えのない、い
つもの日常を送っていたわけである。結果、俺のレベルは600を
越えた。
︵俺が追いつかれたら、本物のヒモになっちまうからな︶
エマたちの成長が早かったので、この一ヶ月は追いつかれないよ
うに必死だった。先輩冒険者の沽券にも関わる。
﹁早く、ご主人様と冒険したい﹂
冒険者の長蛇の列を見ながら、うずうずした様子のエマである。
この一ヶ月間で、以前と比べると流暢に喋るようになってきたエマ
だったが、やや物騒というか、脳が筋肉で出来ているというか、好
戦的な性格が表面に出てくるようになった。
﹁そんなに冒険、気に入ったのか?﹂
﹁うん。自分が強くなっていくのが楽しい﹂
心おきなく地の性格を出せる環境で暮らさせてやれているという
一点においては良いことであったが、稀に頭を抱えるほどの脳筋発
言をすることもあり、新たな頭痛の種となっている。
529
﹁焦らないの。そもそも今日は、中層の慣らしも兼ねて、素材を集
めるって決めたでしょ?﹂
﹁でも、魔物も出てくる﹂
たしなめるエミリアに、逸るエマである。
エミリアの言う通り、今日は素材集めの日と決めていた。上層に
はほとんど自生していない迷宮産の食材や薬草が、中層からは採取
できるのである。
﹁番号札、三十番の方、前へどうぞ﹂
三十番は、俺たちのことである。幾多の冒険者に使いまわされて、
彫り込んだ文字が薄れてきた木片をギルド職員に渡し、更なる深部
へと向けて、俺たちは穴めいた道へと、足を踏み入れた。
﹁階段なのね。誰が作ったのかしら、これ﹂
四人が並んで歩けないほどに穴の中は狭かったので、エマとエリ
ーゼを先行させ、俺とエミリアは後から続く。壁も、天井も、そし
て床も、結晶化したマナで薄紫色に光る中、足元には下へと降りる
階段が続いていた。一段あたりがしっかり広い、金属鎧でも無理な
く通れる、ゆったりとした段差である。
﹁わあ﹂
先行していたエマが、感嘆の声を上げる。
迷宮上層の、蟻の巣めいた迷路を想像していた俺たちにとって、
それは予想外の光景だった。
530
あちこちに、木が生えていた。床からも、膝丈ほどの草が生えて
いた。
小さな林のようにすら見えるそれらは︱︱葉が、すべて真っ黒だ
った。
そこら中に生えている潅木の幹は、普通に茶色や白っぽい色であ
るのに、地面から生える雑草や、木々の枝から広がる葉は、すべて
黒一色なのである。光を吸い込むような、漆黒の葉だった。
﹁光もないのに、どうやって成長してるんだ、この葉?﹂ ナイトサイト
試しに、暗視の指輪の機能を一旦切ると、途端にあたりは真っ暗
になった。野放図に植物が生えているように見えて、実はそこかし
こに迷宮の壁があるらしく、木々や葉の隙間から、魔石が結晶化し
た薄紫色のわずかなきらめきが見て取れた。
﹁植物が生きていけるほどの光、ないよなあ﹂
暗視の指輪を再び発動させて、視界を元に戻す。やはり、薄紫色
の壁、木々の幹である白や茶、そして黒い葉っぱと、彩りに乏しい
草原であった。
﹁迷宮産の食材は、マナを吸収して育つって聞いたことがあるわ。
光がいらないから、あんな色の葉っぱなんじゃない?﹂
リアクティブアーマー
魔鎧の詠唱により、全身に淡い光を纏ったエミリアが考えを述べ
る。
﹁黒い葉は、視野が確保しにくいですね。茂みや、木の上に魔物が
531
潜んでいるかもしれませんし﹂
狩人としての視点から、エリーゼが難しい顔をした。気配探知ス
キルが成長しているために、索敵だけで考えれば、敵から奇襲され
る可能性は低いのだが、それ以上の隠身スキルを持つ相手には、気
配探知スキルは無効化されてしまうのだ。
ヴォーパルバニー
ハイド
いまや全員の愛読書となっている魔物シリーズ図鑑によると、中
層の死因、その最も大きな一つである魔物の首狩兎は、高い隠身ス
キルからの奇襲を得意とするらしい。
ニュービー
﹁ん、新人か?﹂
あたりの景色を眺めているうちに時間が経ってしまったらしく、
後ろの階段を歩くどやどやという音が聞こえて間もなく、次のパー
ティが姿を現してしまった。上層と違って、中層には冒険者が多い
のだ。
﹁や、すいません。初めてだったもんで、景色が変わって驚いてま
した﹂
俺は頭を下げつつ、脇に避けて進路を譲る。俺たちがどかずとも、
彼らが余裕を持って通れるほどに道は横に広いが、無闇な諍いは避
けるべきであろう。
ウォリアー レンジャー
﹁懐かしいなあ、俺も初めて来たときは驚いたもんな﹂
メイジ
新手の冒険者は、三人パーティだった。みな男で、戦士、狩人、
魔術師と基本を抑えた構成である。
532
﹁中層が初めてなら、罠と首狩兎に気をつけろよ。ウサギはもう少
し下に降りないと出てこないが、知能のある魔物が罠を仕掛けてた
りするからな﹂
﹁はい、助言ありがとうございます﹂
俺が頭を下げると、今まで話しかけてきていた戦士の男は鉄兜の
面頬を降ろし、彼らは奥へと進んでいった。
﹁こうしていてもしょうがないし、俺たちも奥に進むか。エリーゼ、
ゆっくり、慎重に進もう﹂
﹁了解です﹂
戦闘態勢に入ったので、エリーゼの返答は短い。 パーティの連携を慣らす意味もこめて、何度か四人で上層を冒険
したことがあるので、動き方はある程度、定まっていた。
エリーゼが先行して歩き出す。身をかがめつつ、足音を殺しなが
ハイド
ら、遮蔽物に隠れつつ、先々の様子を窺う。身振り手振りがわから
なくなるので、魔物に奇襲するとき以外は隠身状態にはならずに進
んでいく。
︵キツネ目ってダグラスが言ってたが、動きは猫科だよなあ︶
身軽さを重視した装備で、抜き足差し足、時には四つん這いにな
って先行するエリーゼである。
彼女は、冒険の邪魔になるという理由で、頭装備は茶色の手ぬぐ
いしか付けていない。頭全体をすっぽりと布で覆い、流れるような
533
ポーション
スタデッドレザーアーマー
黒髪は紐でしばってまとめてある。身体には鋲皮鎧を着込み、ベル
バックパック
トから提げた小さなポーチに回復薬の小瓶だけを入れ、俺たちと違
って背嚢も持っていない。
ローブですら身にまとうのを嫌がった。あちこちに引っかけてし
まうのが気になるのだという。冒険前夜に、思わず訊ねてしまった
ものだ。
﹁下世話な話ですまんが、排泄とかどうするつもりだ?﹂
ローブで隠せないのは、年頃の少女にとっては厳しいものがある
のではと俺が聞いたところ、軽く頬を染めながらこう返してきたエ
リーゼであった。
﹁そこはほら、隠身スキルがありますから﹂
︵鋲皮の兜ぐらい身に着ければいいと思うんだが︶
視界が少しでも狭くなったり、聴覚が下がったりするのも嫌だと
言い、エミリアが装備しているような顔を出せる皮兜をかぶっても
いないのだ。徹底した身軽さである。
先行したエリーゼが索敵と罠の有無を調べ終え、安全地帯を確保
できたら、手招きをされるので、俺たちはその地点まで進む。俺た
ちをその場に残して、エリーゼはさらに先行する。この繰り返しだ。
エマが歩くたびに、斧を地面に引きずるかりかりした音と、板金
鎧の硬質な足音が響く。足元にもまばらに黒い草は生えているが、
物音を殺すほどではないのだ。
534
﹁ご主人様﹂
困惑顔のエリーゼが、俺たち三人のところに戻ってきたのは、二
十分ほども進んだ頃である。
﹁どうした?﹂
ロングソード
俺も手短に返答する。もちろん長剣は抜き放っていて、今も臨戦
態勢を解いていない。
﹁迷宮の構造なのですが。先に進む︱︱つまり、より深く潜るたび
に、森が広がっているような気がします﹂
﹁どういうことだ?﹂
﹁ジル、これ見て﹂
マッパー
地図係を兼ねたエミリアが、手に持った紙を差し出してきた。 粗悪な原料を使った、質のあまり良くない、表面のざらついた紙
だが、そこにエミリアが図形や文字を書き込んでいる。
﹁これは、扇形か?﹂
その地図は、俺に驚きをもたらした。
出発した第二の街、ベースキャンプを中心点として、俺たちが進
んできた道は、狭めの扇形を成していた。少しずつだが、末広がり
になっているのである。
535
﹁最初は広くもない通路でしたが、だんだん森が横に広がってきて
いますよね。
このまま進むと、恐らくは広大な森のような部屋になってくるので
はと﹂
どういう仕組みなのかはわからないが、ある程度の広さごとに、
迷宮の壁は狭まっていて、その通路を抜けると、新たな森というか、
エリアが広がっているのだ。
俺たちは、その狭い通路と狭い通路の間、開けた空間のことを、
部屋と呼んでいた。部屋の中に、森が広がっていることになる。 ﹁まるで、この迷宮を、誰かが作ったみたいだな。部屋があって、
通路があって、宿屋か何かか?﹂
﹁人工物みたいに部屋割りが整ってて、あながち笑い話にもできな
いのよね。信憑性がありすぎて﹂
難しい顔をしているのはエミリアである。地図係をしているので、
なおさら何者かの手が迷宮に加えられていることを感じているのか
もしれない。
﹁部屋を一枚の鱗に例えるなら、迷宮の構造は、鱗の生えた扇形ね。
それも、より深く迷宮に潜ると、一枚一枚の鱗が大きくなっていく
みたいな﹂
﹁エリーゼが言いたいのもそういうことか?﹂
﹁はい。このままだと、一部屋あたりの森の大きさが、とんでもな
いことになってきそうで。索敵や罠の有無を調べるのも、少し部屋
536
が広くなるだけで段違いの時間がかかりますし﹂
ふうむ、と地図を覗き込みながら俺は考えこむ。
﹁でもさ、今まで一本道だったよな?﹂
俺の言葉に、エリーゼとエミリアが、はっとなった。 部屋には、元来た道である入り口と、より深部へと進む出口の二
箇所しかなかったのだ。
﹁他の冒険者と出くわしていないから、狩場は更に先にあると考え
るべきだろう。
もう少し進んでみよう。エリーゼも、異常があればすぐに言ってく
れ﹂
﹁了解です﹂
エリーゼが俺たちから離れていこうとするも、エミリアがそれを
止めた。
クリエイトアクア
﹁ちょっと待って、試したいことがあるから。火事になりそうだっ
たら、作水の魔法で消してね﹂
ファイアアロー
言うや否や、手近な木に向かって、エミリアは火矢を詠唱し、打
ち込んだ。風切り音とともに木の幹に着弾した火矢は、火の粉を散
らして燃え尽きる。
﹁燃えないの?﹂
火矢が命中した部分は、木肌にわずかな焦げがついているだけだ
537
った。
﹁どうしたんだ、エミリア?﹂
﹁これだけ森が多いんだったら、うかつに火属性の魔法を使ったら、
火事になるかもって思ったの。でも見て﹂
俺たちの見ている前で、焦げていた木肌がうっすらと輝き、それ
が収まるころには、傷一つない木の幹に戻っていた。
﹁治ってる﹂
エリーゼが絶句する。
ヒール
﹁小回復の光に似てたわ。この木や、森自体も、普通じゃないんだ
と思う﹂
﹁植物にもマナが通ってるのか? 燃えなかったり、傷を治したり
︱︱﹂
ダガー
俺が喋りかけたとき、エリーゼが弾かれたように短剣に手を伸ば
した。視線は森の中へと注がれている。数瞬遅れて、俺たち以外の
何者かの気配を俺も感じた。
﹁戦闘準備、基本形!﹂
俺の指示に素早く反応して、エリーゼを隠すように板金鎧のエマ
が前へと歩み出る。引きずった斧の柄を両手で握り、いつでも駆け
出せるように身構えている。
538
基本形と俺たちで名付けたこの陣形は、敵を正面から迎え撃つと
きの並び順だ。
エマを前に出し、その次に遊撃の俺。後衛はエミリアで、背後から
の奇襲警戒とエミリアの護衛がエリーゼだ。
﹁来ます﹂
相手も俺たちに気づいているのか、森の中から真っすぐ俺たちに
向かって進んできているようだ。植物をかきわけるがさがさという
足音や、たまに交ざる硬質な金属音。
ブロードソード
やがて、最後の茂みを揺らしながら俺たちの前に現れたのは、全
身に鋲皮鎧を身に付け、抜き身の錆びた帯広剣を手にした人物だっ
た。
これも同じく鋲皮製の、安価なかぶり物である革兜を身につけた
彼は︱︱兜の中身が、白骨だった。
スケルトンウォリアー
﹁骸骨剣士だ!﹂
俺の叫び声に、パーティの面々は武器を構える。相手にとっても
それは契機になったらしく、落ち窪んだ眼窩の奥に一点の赤い光を
点らせた骸骨剣士は、歯を打ち鳴らせながら︱︱錆びた帯広剣を振
りかざし、走り寄ってきた。
俺たちのパーティからは、エマが走り出した。俺は、エマを見送
って戦列を動かない。もし、エマが回避されて後衛にまで敵が迫っ
てきた場合、第二の前衛として食い止めるのは俺の役目だからだ。 プレートメイル
斧を引きずりながら、鈍重に走る板金鎧のエマとは対象的に、と
539
スタデッドレザーアーマー
ころどころ剥げた鋲皮鎧を身につけた骸骨剣士の身のこなしは軽い。
たちまち両者の距離は縮まり、骸骨剣士は振り上げた帯広剣を、
エマに振り下ろした。エマは避ける素振りも見せず、身体をしずめ
たかと思うと、頭から飛び込むように、骸骨剣士のどてっ腹に体当
たりをくらわせた。
相手も走りこんできていた勢いがあったせいか、カウンターめい
た腹への頭突きのせいで骸骨剣士の足が浮き、尻から地面へと倒れ
こんだ。
間髪いれず、エマは生身の人間であれば股間のあたりであろう骨
盤を踏んで動きを止めると、左手は柄に添えたまま、斧の刃に近い
首部分を右手で持ち上げ︱︱
﹁うお︱︱りゃああああッ!!﹂
裂帛の気合とともに、倒れこんでいる骸骨剣士の顔面目がけて鈍
魔鋼の斧を振り下ろした。命中の瞬間、予想していたほどの大きな
音は出なかった、と思う。
紙を裂くように頭蓋骨を粉砕し、斧は深々と地面に突き立ったの
だ。地面に刺さったことで、音が減ったのだろう。
﹁ふんッ!﹂
エマは、油断をしなかった。骸骨剣士の頭から股間までの正中線
に沿うように、地面に刺さった斧を抜きつつ引き斬る。
鎖骨、胸骨、腰椎をぶった斬って、エマが手元に斧を引き寄せて、
引きずるように構えなおしたとき、もう骸骨剣士は動かぬ骨の欠片
540
と成り果てていた。
これが今のエマである。戦士として、前衛として、頼もしいのは
間違いないのだが、奴隷商人の元から連れ出してきたばかりの、か
弱く折れそうなエマをつい思い出すにつれ、あの頃のエマは可愛か
ったなどと回想に浸る俺は間違っているのだろうか。
﹁終わりました﹂
﹁お疲れさん。怪我はないか?﹂
錆びていたとはいえ、正面から長剣の一撃を頭から肩にかけても
らっていたのは間違いないのだ。
﹁鎧のおかげで、大丈夫です。むしろ手ごたえがなくて物足りない
です﹂
どこをどうして、あのエマがこんな戦闘民族に進化してしまった
のか、俺は心の中で泣いてもいいのではないだろうか。
﹁先ほど、森の中を探索した時点では、この骸骨剣士はいませんで
した。新たに湧いたのでしょうか?﹂
迷宮の中では、魔物は突然、出現する。上層で、一度だけその現
オーク
場を見たことがあった。かなり遠くではあったが、何もない空間が
淡い光で包まれたかと思うと、光が収まった後には豚人がいたのだ。
魔物が出現することを、冒険者たちは魔物湧き、などと表現して
いる。
﹁そうだろうな。こういうこともあるから、背後の警戒は厳重にし
541
ていこう﹂
安全地帯として確保していた後方に、魔物が湧く可能性もあるの
だ。
﹁かしこまりました。進みます﹂
エリーゼが、再び先行して歩き出す。すでに骸骨剣士の遺骨は迷
宮に吸収され、残された魔石はエミリアが背嚢にしまいこんでいる。
一日の冒険が終わった後に、公平に分配するのだ。
542
第三十四話 中層 その2
﹁はあ、なるほど。この一つの部屋を一つのパーティで使うのが暗
黙の決まりごとになっていると﹂
﹁そうだ。もう少し進むと、更に森は広くなり、一つの部屋から行
手が二つ以上に分かれてくる。奥地のよほど広い部屋でない限り、
すでに人がいる部屋は通り過ぎるのがマナーだな。狩り場で湧いた
魔物の取り分について揉めたくはあるまい?﹂
俺が話しているのは、後方からやってきて、俺たちを追い抜いて
先に行こうとした二人組である。中層に入ってきたばかりのときに
出会った三人組のパーティとはまた別の、男女のペアであった。
この部屋は使用中だったか、通らせてもらうぞなどと言い捨てて
先に進もうとした彼らを呼びとめ、二、三の質問に答えてもらった
のだ。
﹁危険な魔物が出没し始める階層か? もちろん冒険者の技量にも
マナバイソン
エラーファンガス
よるから一概には言えんな。無理をしてレベルが低いのに中層に来
ているなら魔角牛や異常茸でも死ぬ奴は死ぬからな。が、個人的な
インプ
ファナティック
見解だと、地下三十階付近からは高い知性を持つ魔物が出てくる。
矮魔や狂信者といった、魔法を使う魔物だな。奴らは強いぞ、なん
せ人間と変わらんほどに知恵が回る。最初なら、地下二十階付近で
狩りをして慣れる方がいい﹂
丁寧に説明してくれたので丁寧に礼を言い、去っていく彼らを見
送った後、俺はみんなを呼び集めて作戦会議をした。
543
﹁もう一部屋か二部屋進んだら、そこを拠点にしばらく狩りをして
みようと思う﹂
﹁良いと思います。ここで狩りをしないのは、狭すぎるからでしょ
うか?﹂
スケルトンウォリアー
﹁そうだな。さっきの骸骨剣士みたいのしか湧かないようなら、戦
力過剰だ。安全に狩りをしたいから、そこまで奥に進もうとは思わ
ないが﹂
﹁エマは、もう少し手ごたえのある敵がいい﹂
﹁魔角牛の出現階層でもあるし、骸骨以外の奴もそのうち出るはず
だ。今はとにかく様子見で、安全に行こう。慣れない場所で無理を
するべきじゃないからな﹂
さらに部屋を二つ分ほど奥に進み、体感で地下二十階あたりの深
さまで潜ってきたころ、俺たちは三組目のパーティと遭遇した。今
までに出会った二組ともまた別の、五人組のパーティである。
レザーアーマー
﹁隣の部屋、空いてますよ﹂
メイジ
魔術師らしい、皮鎧を装備した二十代の女性であった。熟れた柑
橘を思わせる橙色の髪に、そばかすと明るい笑顔が印象的なお姉さ
んである。
彼女が指差した先に進んでいくと、横の部屋に移動する通路があ
った。
今までは、奥に進むか引き返すかの二つの出口しかなかったとこ
544
ろに、横移動のための道が現れたことになる。
エリーゼに索敵体制を取らせながら新たな部屋へ踏み込むと、確
かに先ほどの彼女が言っていた通り、広大な森であるところのこの
部屋は誰も使っていないようで、しんと静まり返っていた。
﹁ここで、しばらく狩りをしてみよう。エリーゼ、索敵と、この部
屋の地形を調べてもらえるか?﹂
﹁了解です﹂
一口に森といっても、足場がないほど木々が密集しているわけで
はない。
木々が茂らせた葉で天井は覆われているものの、木の幹と幹の間
や、足元あたりは雑草が茂みになっていたりして、俺たちが楽に通
り抜けられる隙間がある。もちろん、すべての葉は真っ黒だ。
森というよりは、雑木林といった方が適切かもしれなかった。潅
木や高木だけが生息しているわけではなく、ある程度見通しのいい
草原などの平地もあった。
﹁平地から先に行きます﹂
エリーゼはまず、視界が確保しやすい草原地帯から進んでいくこ
とを選んだ。
ある程度進み、周囲に敵がいないことを察知し、手振りで俺たち
を招き寄せ、さらに自分は先行して進む。何度かそれを繰り返した
後に、俺たちは魔物と出会わないまま、次の部屋へと進む通路に辿
りついてしまった。
545
﹁この部屋をもう少し探索しよう﹂
俺の指示の元、次の部屋へと続く通路には入らず、エリーゼが再
び草原を進み始める。しかし、そう時間が経っていないのに、他の
部屋へと続く、また別の通路が見つかり、俺たちは顔を見合わせた。
﹁一辺に二つの通路? 今までこんなことなかったよな﹂
﹁奥地に来たからかもね。ちょっと待って、大まかな地形書き込む
から﹂ 紙にさらさらとペンを走らせるエミリアである。
書き終わるのを待って地図を覗き込むと、この部屋の全体図がお
ぼろげながらにわかってきた。
﹁俺たちは、端っこを歩いてただけか﹂
部屋を大きな四角だとすると、俺たちは左辺中央の通路からこの
部屋に入ってきて、そのまま外周を北上し、部屋の最北にある二手
の分かれ道を見つけたところである。 草原のようになっているのは外周だけで、部屋の中央付近は雑木
林になっており、それが部屋の大部分を占めていた。一部屋の大き
さは、五十メートル四方といったところだろう。
︵直線距離だけで考えたら、さほど広くもない部屋なんだろうが︱
︱︶
俺は、目の前に広がる雑木林を見ながら考える。
546
﹁それが林だとなあ、話は別だよなあ﹂
﹁何か仰いましたか? ご主人様﹂
﹁いや、同じ広さでも、平地と林じゃ探索のしやすさも変わるだろ
うなって﹂ ﹁視界が確保できませんから、ある程度は魔物の接近を許してしま
いそうですね。慎重に、索敵します﹂
先行するエリーゼの後に続き、俺たちも林の中へと足を踏み入れ
る。
元は真っ黒だった葉は、枯れ落ちると赤みがかってくるようで、
地面は赤や黒の葉で埋まり、絨毯のようにも見えた。
中層のうち、浅い階層とは異なり、このあたりの地面には土がな
い。元は岩肌が露出していたであろう地面は、葉っぱ越しに踏みつ
けても硬く感じる。
雑木林の中心に向けて、十メートルも歩いたころだろうか。エリ
ーゼが、手振りで止まれと伝えてきた。俺たちは、武器を構えつつ、
その場で待機する。
敵発見。十四番。数は五以上。
エラーファンガス
︵異常茸か︶ 手振りでエリーゼが伝えてきた情報は、この先に魔物がいるとい
う内容だった。十四番というのは、魔物シリーズ図鑑の番号であり、
今回の場合は異常茸である。
547
﹁茸の種類まではわかりませんでしたが、気づかれてはいません。
魔法で先制しますか?﹂
エリーゼといったん合流し、手短に作戦を話し合う。
﹁そうしよう。異常茸は、確かマナを感知して胞子をばらまくはず
だ。視覚も聴覚もないはずだから、全員で遠距離からやろう﹂ ﹁火属性が弱点よね。腕が鳴るわ﹂
ファイアボール
魔法のみを使い続けて戦ってきたエミリアは、もう俺よりも魔法
の威力が高い。パーティで唯一、火弾を習得している彼女は今回の
戦闘にうってつけだった。
﹁こちらです﹂
スライム
エリーゼの先導に従い、茂みをかき分けながら林の中を進んでい
くと、木々がやや開けていた。そして、キノコなんだか酸水母なん
だかよくわからない生物が、見上げるほどの木の幹や、木の股など
に、粘液質の菌糸をべったりと張り付かせていた。
﹁うええ。傘がてっぺんに付いてなけりゃ、茸だとは思わんな、あ
れ﹂
﹁気持ち悪い見た目ね﹂
保護色を狙っているのか、異常茸の傘は真っ黒で、内側のひだや
菌糸は、糸を引いて粘るような白である。
548
オーバーキル
﹁じゃあみんな、詠唱開始。最初はエミリアの狙ったやつに集中攻
撃しよう。火力過剰だと思ったら、各自で適当に目標を分散させて
くれ﹂
﹁了解﹂
ヘリオス
エミリアが天に向かって両手を上げると、頭上に火の玉が現れて、
膨れ上がっていった。ただの炎ではなく、まるで炎帝のように、火
球の中心は溶岩のように赤黒いどろどろが流動している。
エミリアの顔よりも大きく火球が膨れ上がったところで、玉を投
げるかのようにエミリアは両手を前に突き出した。
ファイアボール
﹁火弾!﹂
火球は真っすぐに一本の木へと向かっていく。狙いは、木の股に
張り付いた異常茸である。
ファイアアロー
︵火矢よりも、弾速は少し遅いな︶
冷静に俺が、初めて見る火弾を観察している中︱︱
炸裂した。 ︵ッ!︶
予想より遥かに大きな轟音に、一瞬だが怯む。 粘液質の菌糸に着弾した火弾は、腹に響くような重低音とともに、
破裂して爆発を起こした。
549
目標となった異常茸はというと、組織の一部分を木の幹に張り付
かせてはいるが、大部分が消し飛び、元は胴体あたりであった菌糸
が焦げ付いて煙を放っている。
﹁目標変更、他の敵を狙え。あの状態で茸が生きられるか知りたい﹂
﹁はい﹂
﹁了解です﹂
﹁了解よ﹂
三者の返事を待って、俺も火矢の詠唱を始める。近くで魔法を使
われたことを感じ取った異常茸は、傘の下から胞子を撒き散らし始
めていた。薄い黄色がかった、霧のようなものである。
︵胞子の有効射程は、三メートルってところか︶
俺は火矢を放った。木々の隙間を抜けて、二匹目の異常茸に突き
刺さる。
どれほどの範囲に状態異常を引き起こす胞子を散布するかが不明
だったため、俺たちは十メートルほど離れた場所から異常茸を狙い
打っている。いざとなればすぐに逃げ出せるように。
︵案外、頑丈だな︶
俺の火矢が着弾した異常茸は、胴体に十センチ四方ほどの穴がえ
ぐれているが、胞子を吐き続けていた。エマとエリーゼの火矢も命
中するが、それはより小さな穴しか開けられていない。魔法を使い
550
慣れておらず、威力が低いのだ。エミリアの火弾の火力が伺い知れ
るというものである。
ファイアボール
とはいえ火弾の消費MPは8と火矢の倍で、エミリアもあと一発
しか撃てまい。
︵エミリアの火弾でもう一匹、俺たちのMP全部使って二匹やれた
としても、合計四匹か。一匹残るな︶
﹁エミリア、無傷な敵に火弾。他は火矢の集中攻撃続行。MPがな
くなったら残敵は放置で後退﹂
第二陣の火矢が三発、同じ異常茸に命中する。傘と胴体の四割ほ
どに風穴が開いているが、それでも異常茸は胞子を撒き続けている。
俺の三発目の火矢が傘と菌糸の境目あたりに刺さり、傘がほとんど
もげかけたところで、ようやく胞子の放出は止まった。死んだよう
だ。
新たな轟音に振り向くと、エミリアが新たな火弾を炸裂させ、異
常茸を消し炭に変えたところだった。計三匹の異常茸を倒し、二匹
が残っている計算になる。
最初にエミリアが火弾を直撃させた異常茸は、すでに死体が迷宮
に吸収されて跡形もなくなっている。
﹁よし、休憩しよう﹂
バックパック
部屋の入り口付近、平地に戻ってきた俺は、そう宣言した。
クーラー
背嚢から水袋を取り出し、ぬるまった水を口に含む。このぬるさ
にも慣れてしまったが、生活に余裕が出来てきたら冷却の魔法を買
551
プレートメイル
いたいものだ。氷属性作級の魔法で、酒場で樽を冷やすときに使う
あれである。
クリエイトウィンド
エマも、換気とマナ回復の向上を兼ねて、胴体部分の板金鎧を少
クロースアーマー
しだけ外し、隙間から作風の魔法を送り込んでいる。キルティング
加工済の布鎧に汗が染みているのが見て取れた。
﹁重戦士は大変だな。移動するだけで疲れるんだろうし﹂
クロースアーマー
レベルの恩恵で腕力が上昇しているとはいえ、全身を鉄板で覆っ
て、その下には金属から皮膚を守るために厚手の布鎧を着込むので
ある。その上、重い斧を持っての行動となれば、歩いているだけで
重労働であろう。
﹁レベルが上がれば、楽になる。つらいの、今だけ﹂
プレートヘルム
板金兜の面頬を上げ、革袋から水をごくごくと飲むエマの頬には、
くすんだ金髪が濡れて張り付き、汗の玉が幾筋も滴っていた。
パラライズファンガス
スリープファンガス
﹁さっきのキノコ、胞子の色が黄色でしたね。麻痺茸でしょうか?﹂
ハルシュルーム
﹁恐らく、そうだろう。図鑑によると、睡眠茸の胞子は白っぽくて、
混乱茸は傘の色が紫色のはずだ﹂
ファイアボール
﹁ジル、そろそろ火弾一発分、マナが回復するわ﹂
﹁もうか? 早いな﹂
﹁私の最大MPは18で、だいたい三分に1ポイント、マナが回復
するわ。移動時間も含めば、そんなものよ﹂
552
﹁了解だ。倒し終わった後、新たな魔物が湧いたときに対処できる
余裕は残しておきたいから、もう少し休んでおこう﹂
火矢の一斉射を二セットと、おまけに俺の火矢。それに、エミリ
アの火弾で、残っていた二匹の麻痺茸は全滅した。わずかに吐き出
キュアパラライズ
した胞子が薄れるのを待って、エリーゼが現場へと踏み込んでいく。
エミリアがいつでも解麻痺を詠唱できるように身構えていたが、
特に状態異常になることもなく、エリーゼは計五個の魔石を回収し
てきた。
﹁よし、先へ進もうか。マナ酔いは出てるか、エリーゼ?﹂
﹁いえ、大丈夫です﹂
エミリア以外の三人は、マナをかなり消費した状態であるが、少
し身体がだるいだけで戦闘には影響なさそうだった。歩いているう
ちに、症状はやわらぐだろう。
﹁何度も言ってるが、万全の状態じゃなくなったらすぐに言うんだ
ぞ。我慢して戦闘へ影響が出たら、他の仲間に迷惑がかかるからな﹂
パーティを組むにあたって、俺たちはいくつかの決め事をした。
主に報告と連絡、相談であるが、しつこいまでに言い、徹底させて
いる。彼女たちも重要なのはわかっているようで、異を唱えたりは
しない。 553
﹁お?﹂
先行して更なる林の奥を偵察していたエリーゼが、満面の笑顔で
振り返った。
敵気配なし。発見。素材。
﹁マジか!﹂
エリーゼが手振りで伝えてきた情報は、採取できる迷宮素材を見
つけたというものだった。思わず、俺も顔が綻んでしまう。
小走りでエリーゼの元に駆け寄ると、木々の隙間から、ネギのよ
うな尖った葉の植物の群生地が見えた。迷宮の植物だけあって葉は
黒かったが、血管のように葉のところどころに筋が浮き出ている。
ガッツオニオン
﹁漢玉葱だな。これは幸先がいい﹂
力強く栄養素を吸収し、運搬するためなのか、あのネギのような
植物は太い管を体中に張り巡らせている。それは食用となる地中の
球根も同じで、血管を浮き上がらせているように見えて妙に暑苦し
い印象を与えることから、漢玉葱と名付けられた迷宮産の食用素材
であった。
﹁エリーゼ、ここを起点に採取するから、周囲の警戒を頼む。集中
して手振りを見落とすかもしれんから、反応がないようなら声をか
けてくれ﹂
﹁了解しました﹂ 554
敵からの奇襲対策をエリーゼに任せ、彼女を除いた俺たち三人は、
うきうきしながら漢玉葱の採取に取りかかる。素材の群生地に足を
踏み入れ、さあ収穫だと意気込んでみたはいいものの︱︱
﹁どうやって抜くんだ、これ?﹂
中層入り口付近とは違い、このあたりの森は、地面は土ではなく
岩である。
漢玉葱は、がっしりと岩盤質の地面に食い込んでいて、軽く引っ
張ったぐらいではびくともしなかった。
﹁失敗したなあ。金になる魔物の情報は頭に叩き込んであるけど、
普通に採取できない素材があるなんて考えてもいなかった﹂
エマも、エミリアも、漢玉葱の収穫方法は知らないと、悲しげに
首を横に振った。念のためエリーゼにも聞いてみるが、やはりわか
らないと言う。
﹁ここまで来て採取できないってのも悲しいし、変な抜き方したら
素材が傷つくかもしれないけど。まあ練習台だと思って、色々試し
てみようか﹂ ロングソード
頷く二人とともに、漢玉葱を採取すべく、俺たちは様々な方法を
試し始めた。
﹁よっ、と﹂
ウーツ
漢玉葱が生えている地面に長剣を刺し、実の部分だけ取り出せな
いか試してみる。鈍魔鋼の外刃をつけた長剣だけあって、浅く地面
に突き立ちはするものの、土のようには掘り起こせない。てこの原
555
理で、刺しこんだ刀身の先で地面を掘ろうとしても、岩盤はまるで
ゆるむ様子がない。
これ以上力を篭めると、長剣を傷めてしまいそうだったので、力
技で掘り起こすのは断念する。
﹁葉と地面の境い目なら、もろくなってるかと思ったんだけど﹂ エミリアが、漢玉葱の根元部分の岩をぺりぺりと剥き始める。確
かに、地面から葉が飛び出ている根元だけは少し岩がゆるんでいて、
少し力を入れれば岩を剥がすことができた。
しかし、それも行き詰まる。葉の根元から二センチ四方ぐらいの
岩は剥がせたものの、それ以上は頑丈でとても指では剥がせない。
長剣の先でさらに亀裂を広げられないか試してみたものの、手先が
狂うと葉や球根まで傷付けそうだった。
﹁これなら、いけるかも﹂
根元の岩を剥いた漢玉葱の葉をつかみ、エマが力一杯引っ張り始
めた。
﹁お?﹂
ぴきり、とごくわずかな亀裂が地面に入ったのが見て取れる。
﹁俺も手伝う﹂
エマと俺の二人で、漢玉葱の葉をつかみ、踏ん張りながら引っ張
り続けると、地面の亀裂はぴきぴきと広がっていき︱︱あるとき、
ずぼりと地中の球根ごと、根こそぎ引っこ抜くことができた。反動
556
で、後ろに倒れこむ俺とエマである。
﹁抜けた﹂ ﹁よしよし、良くやったぞ﹂ 微笑むエマを、いつもの癖で撫でようとして︱︱板金鎧で全身を
覆っていることを失念していたので、声をかけるに留める。
﹁この状態で、売り物になるのかな? 苦労して掘って持ち帰って、
買い取れないって言われたら悲しいなあ﹂
抜いたばかりの漢玉葱は、ネギのように太い葉も、丸々とした実
も、ヒゲのような根も全てついている。
﹁さっきのベースキャンプで、この形のまま買い取ってる商業ギル
ドの天幕があったわ。多分だけど、このままで大丈夫なはずよ﹂
﹁お、よく見てたな。さすがエミリア﹂
﹁当然よ﹂
つんと顔を背ける彼女であるが、実は彼女も褒められるのが好き
である。その証拠に、わずかに口元が緩んでいた。
﹁じゃあ、どんどん掘っていくとしよう。エマと俺で抜いていくか
ら、エミリアは背嚢に詰めてってくれ﹂
魔法メインで戦い続けたエミリアは、基礎ステータスの精神が育
ち、最大MPが増加したかわりに、腕力は俺やエマの半分ほどしか
557
なく、力仕事は向いていない。適材適所である。
五分ほど経ち、新たに二本の漢玉葱を収穫したときのことであっ
た。
﹁敵発見!﹂
声量は控えめながらも、鋭いエリーゼの声によって、俺たちは作
業を止める。
開けていた板金鎧の胴部分をエマが装備し直すまで、俺は彼女の
前に立ちふさがって時間を作る。
﹁敵は?﹂
エリーゼが戻ってきたので、俺は尋ねた。敵の種類と数、場所は
どこだ?という意味であったが、それだけで俺たちの間では意味が
通じた。
マナバイソン
﹁魔角牛、一匹です。林から出た、外周の平地を歩いているのを見
かけました。声を上げたときに気づかれましたが、林には入ってこ
ないようです﹂
﹁了解。湧くのが早いな﹂
パラライズファンガス
麻痺茸を倒して、この部屋に魔物がいないことを確認してから、
十五分も経っていまい。上層と違い、マナの濃い中層は魔物も多い
のだ。
﹁どうしますか? 林の中に踏み込むのを嫌がっているようでした
558
ので、放置して採取もできますが﹂
少し悩んでから、俺は決断を下した。
﹁いや、倒そう。さらに別の魔物が湧いて戦闘になったとき、逃げ
道が魔角牛で塞がれてるのはまずい。林の中から火矢で脚を狙おう。
エマは回避重視、接近戦に持ち込めそうなら脚を狙ってくれ﹂
三人が返事をした後に、俺たちは移動を開始した。雑木林の中か
ら、魔角牛を狙い打てる場所を探すためだ。
﹁いたぞ。散開﹂
全員がそれぞれ分かれ、林の木を盾にして布陣する。魔角牛も、
俺たちに気づいていた。後ろ脚で地面を掻きつつ、いつでも突進で
きるような体勢で、俺たちを睨み付けている。
﹁目標、左前脚。俺たちから見て右だ。詠唱開始﹂
四人とも、火矢を引き絞る。
﹁発射!﹂
俺の合図とともに、四本の火矢が空気を切り裂きながら飛び、魔
角牛の左前脚に次々と突き立った。
﹁モォォォオオ!﹂
痛覚と怒気の混じった叫びではあったが、普通の牛と変わらない
鳴き声は、どこか間が抜けていた。しかし、現状は決して楽観でき
559
るものではなかった。魔角牛は、大地を蹴って、俺たちのいる雑木
林の方へと、突進してきたのである。
﹁くっそ、あの細い足すら火矢の斉射で折れないのか︱︱回避!﹂
狙われたのは、エミリアである。全身に金属鎧をまとった重戦士
リアクティブアーマー
ですら即死させるほどの突進であった。魔法スキルの熟練度に応じ
て、一定量の攻撃を受け流す魔鎧で防御力を底上げしているとはい
え、正面から食らったら一巻の終わりである。
﹁えいッ!﹂
ぶつかる直前に、横っ飛びに跳んで、エミリアは突進を避けた。
急な方向転換は難しいようで、魔角牛はそのまま木に頭をぶつけ、
倒れ︱︱ない。
﹁マジか!?﹂
そこそこ太い木だった。エミリアの火矢でも僅かに焦げるだけだ
った、頑丈な迷宮の木である。その木がめきりと甲高い音を立て、
幹に大きな亀裂が入った。
内心の動揺を押し殺し、俺は二射目の火矢を放とうとしたが、角
度が悪かった。脚を狙ったつもりだったが、その場で方向転換をし
た魔角牛の胴体に火矢は突き立つ。無論のこと、表面を焦がしただ
けでほとんどダメージはなく、木に頭をぶつけたことで怯んでいる
様子もない。
更なる突進をすべく、魔角牛は後ろ脚で地面を掻いた。火矢を放
ったせいで、魔角牛の注意が俺に向いたたらしく、矛先をエミリア
560
から俺たちへと切り替え、突っ込んでくる。
﹁しまっ︱︱﹂
一度目の突進を避けた後に、散開するのを怠っていた。
俺も、エマも、エリーゼも、三人とも集まってしまっている。
三人とも横っ飛びで回避しようとするが、重装備のエマだけ、身
体が素早い動きに追いつけていない。どんっ、という軽い衝突音と
ともに、エマは魔角牛に撥ねられて地面を転がっていった。
﹁エリーゼ、エマを!﹂ 俺は魔角牛に向かって走る。激しく転がっていたエマは、木に身
体をぶつけて動きを止めた。起き上がってこない。エリーゼがエマ
を起き上がらせようとしているが、鎧の重量のせいで動かせないよ
うだ。
更なる突進を魔角牛がエマに向けて行ったら、避けれないだろう。
﹁おおおおおッ!﹂
向きを変えて、次の突進をすべく地面を掻いている魔角牛に、今
度は俺が突進する。あの突撃を行える魔角牛の前に躍り出るという
行為は恐ろしかったが、そんな悠長なことを言っている場合ではな
い。後ろには身動きできぬエマがいるのだ。
︵相打ちでもいい、何とか脚の一本を︱︱︶
今にも駆け出そうとしている魔角牛の顔面に、火矢が突き立った。
561
悲鳴とともに、魔角牛は怯む。振り向かなくてもわかる、この威力
はエミリアの火矢だ。
﹁助かる!﹂
叫びながら、俺は右斜め上から長剣を振り下ろした。魔角牛の左
前脚、ちょうど膝のあたりに刃が食い込む。骨髄かなにか、硬質な
ものを断ち割った感触があった。
接近戦では有効な攻撃手段を持っていないのか、魔角牛は俺から
距離を取るべく駆け出そうとした︱︱もちろん、俺が見逃すはずも
ないのだが。
﹁せいッ!﹂
尻を向けて逃げ出そうとする魔角牛の後ろ右脚、その腱のあたり
を、横薙ぎに斬りつける。渾身の一撃を、細く締まった足首の部分
に当てたにも関わらず、刃は半分ほどめりこんだだけで、斬り飛ば
すには至らなかった。
魔角牛が膝を折ったので、念を入れて左の後ろ脚にも斬り付ける。
右前脚以外の三本すべてに深い傷を負い、悲鳴を上げながら立とう
として、魔角牛は横倒しになった。そのままもがき始める。
︵借りるぞ、エマ︶
バトルアックス
俺は、近くに落ちていた、エマの闘斧を手に取る。長剣で何度も
斬り付ければ倒せるだろうが、先ほど斬り付けた感触だと、かなり
の手間になってしまうはずだ。
ずしりと、両手に響くほどの重量を、俺は振りかぶる。
562
柄の先端を握っていては重くて持ち上げられなかったので、エマ
を見習って刃のついた首元あたりを右手で握り︱︱横倒しになって
もがいている魔角牛の首元に叩き込んだ。
どぱんっ、という刃物とは思えない音を立て、斧の刃部分がほと
んど魔角牛にめり込む。長剣では脚一本すら斬り飛ばせなかったの
に、肉やら喉の回りの骨やら、一切合切を闘斧は一撃で断ち割った。
末期の痙攣を見せている魔角牛を放っておいて、俺はエマの元へ
と駆けつける。
﹁怪我は!?﹂
﹁へいきです、ご主人様﹂ エリーゼに肩を借りて、エマは立っていた。
最悪の事態はどうやら免れたようだった。肩の力がどっと抜ける。
﹁もうだいじょうぶ﹂
エリーゼの介抱を断り、一人でエマは歩き出す。最初だけ少しふ
らついていたが、魔角牛の死体まで辿りつき、喉元に刺さりっぱな
しの闘斧を引き抜いた。
﹁脳震盪を起こしていただけみたいです。エマ、他に外傷はない?﹂
両腕や首をこきこきと回して、異常がないことを示すエマであっ
た。跳びはねようとするも、板金鎧の重量に負けて、かかとが一瞬
浮くだけに留まった。
リターン
﹁ふう。無事なようで何よりだ。帰還の指輪で一度、外に帰って休
563
憩しよう﹂
﹁休まなくても、エマなら、まだ行けます﹂
あんな目に遭っても、エマは冒険を続けたそうにしているが、俺
は首を横に振った。
﹁いや、一度外に出よう。魔角牛の死体は放っておいたら消えてし
まうし、反省会も兼ねて、休憩が必要だ﹂
ガッツオニオン
﹁了解しました。漢玉葱はどうしますか? 三本しか収穫できてい
ませんが﹂
群生地のほとんどが、手付かずで残っている状態である。あれら
を全部引っこ抜けば、恐らくは数にして三十玉は収穫できるだろう。
﹁もったいないが、諦めよう。魔角牛の死体を維持したまま収穫を
続けても、次の魔物が出たら結局は手放して戦わなきゃならないか
ら、死体が消えてしまう。漢玉葱がいくらで売れるかわからないが、
魔角牛より高く売れるとは思えないし﹂
みんなが頷いて同意を示してくれたので、俺たちは魔角牛の死体
の周りに集まる。帰還の指輪に魔力を通すと、指輪を中心に三メー
トル四方ぐらいが、淡い光で包まれ始めた。
二十秒ほども経つと、その光は目を覆うほどに強くなっていき︱︱
光が収まると、俺たちの頭上には、青空が広がっていた。
564
周囲には、俺たちと同じように鎧姿の冒険者が歩いていて、突如
何もないところが光ったかと思うと、光が収まった後に別のパーテ
ィが現れたりしている。
俺たちは、地上に帰ってきたのだ。
﹁魔角牛だね、じゃあ番号札は五十二番だ、買取市場の方に回って
待っててくれ﹂
商業ギルドの職員と思しきローブ姿の男性が、焦った様子で駆け
寄ってくるなり、番号札を俺に押し付けて去っていった。同時に、
台車を押しながら二人の男が現れ、俺たちが持ち帰った魔角牛を積
み込み始める。とても手際がいい。
﹁俺らも邪魔になったら悪いな、行こう﹂
彼らが焦っているのには理由があって、この広場は迷宮城のすぐ
前にあるのだが、ここが満杯だと帰還の指輪で新たな冒険者が帰っ
てこれなくなるのである。よほどの事情がない限り、すぐにその場
を立ち去るのがマナーであった。
指輪広場と呼ばれているこの場所は、すぐ隣に迷宮広場がある。
クリエイトアクア
俺たちもよく利用する、身体を洗うために冒険者が集まる例の広場
だ。今も多くの冒険者が作水の魔法で身体や装備を流している。
﹁返り血が付いてるのは俺だけか。ちょっと待っててくれ﹂
﹁私たちも泥とか付いちゃってるから、軽く流すわ。エマも、いっ
たん鎧は脱ぎなさいな﹂
565
﹁うい﹂
プレートメイル
レザーアーマースタデッドレザーアーマー
各関節の継ぎ目など、エマが留め具を外し始めたのを見て、みな
鎧を脱ぎ始める。板金鎧と比べると、皮鎧や鋲皮鎧は、着脱も簡単
なもので、エマがすべて脱ぎ終わったころには、俺たちは鎧を流し
終えていた。
﹁んじゃ、先に素材の買取だけ、終わらせちまおう。エマ、半分持
つよ﹂
身体に装着して歩くならともかく、持ち歩くには、板金鎧はかな
り重い。
胴と腰、大きな二つの部品を両手に持って、俺は歩き出す。小手
と腕はエミリアが持ち、膝から上の脚と、膝から下の足部分は、エ
リーゼが持つ。本人であるエマは、闘斧を肩に担ぐのだ。
﹁街中で地面削りながら歩いたら、怒られるからな﹂
迷宮産の鈍魔鋼で出来た斧を引きずって歩くと、石の道が削れる
ので、刃の部分は持ち上げていなくてはならないのだ。
﹁エマ、あんたよくこんなの装備して歩けるわね﹂
腕力値の低いエミリアにとっては、小手と腕部分だけでも重いら
しく、額に汗を浮かべていた。
﹁なれればへいき。あと、気合﹂
脳筋じみた発言をしているエマであるが、金髪は汗に濡れて顔に
張り付き、輝いていた。板金鎧の下に着込んでいた布鎧も、かなり
566
汗を吸って色が変わっている。
﹁てい﹂
クリエイトウィンド
エマの顔面に人差し指を向けて、作風の魔法をぶち当ててみる。
顔の汗やらを吹き飛ばして、髪の毛が少しぼさっとなった。エマを
含めて、三人娘がきゃあきゃあと笑う。
567
第三十五話 解決
ガッツオニオン
マナバイソン
漢玉葱は一玉につき200ゴルド、魔角牛の全身は20,000
ゴルドで売れた。帰還の指輪は5,000ゴルドで、念話の指輪と
違って一回で買いなおさねばならないので、それらを差し引いて利
益は15,600ゴルドである。上々であった。
﹁やっぱ、以前に俺が倒したことあるやつ、仔牛だったんだな﹂
﹁そういえば仰ってましたね、上層に湧いた魔角牛を倒したことが
あると﹂
ダイアウルフ
﹁ああ。恐狼の生息圏に近い、かなり上層の中でも深い階層だった
けどな。今日のやつと比べると、身体が二回りぐらい小さかったな。
素材の買取価格も、5,000ゴルドほど安かったし﹂ あの仔牛も、それから俺が初めて迷宮に入ったときに出会った大
ムカデの幼体も、本来の出現階層よりも浅い地域にいた。今までず
っと、弱さゆえに生息域を追われてきたのだと思い込んでいたが、
もしかしたら最初から浅い場所に湧いているのかもしれなかった。
魔物が出現する迷宮の仕組みは、いまいち謎が多い。
ココナカカオ
﹁まあ、細かいこと考えてもしょうがないか。喫茶店行って甘糖珈
飲もうぜ﹂
﹁ご主人様、それよりも武器を研いでもらった方がよくはありませ
んか? 魔角牛に何度も斬りつけていましたし﹂
568
﹁まだダグラスに研いでもらうまでもないと思うんだがなあ。実質、
一匹しか斬ってないし。でもまあ、念のためやってもらうか。先に
喫茶店に寄って、甘糖珈飲んでから行ってもいいと思うぞ?﹂
﹁それはそうですが﹂
ダグラスの店は職人街にあるので、ここ商業ギルドの買取広場か
らだと、喫茶店のある商店街のほうが近い。
﹁先に武器を研いでもらって、帰りに喫茶店に寄るのでもいいが。
みんなはどっちがいい?﹂
エマたちに聞くが、三人とも首を傾げる。
﹁どっちでもいいわよ?﹂
じゃあ、エマも喉が渇いてるだろうし、先に喫茶店へ︱︱そう、
俺が言いかけたときのことだ。
﹁ごめんね、君たち、ちょっといいかい?﹂
明らかに俺たちへと向けられた声だったので、振り向いて声の主
を見た。
額に汗をびっしりと浮かした、青年と呼ぶには少し歳を食った細
面の男性が、俺たちの後ろで息を切らしていた。
﹁さっき、ダグラスって名前が聞こえたような気がしたんだけど。
569
鍛冶屋のダグラスさんのことかい?﹂
﹁ええ、そうですが﹂
パーティを代表して俺が返答をすると、彼は感極まった体で、良
かったあ、と天を仰ぎながら諸手を上げた。
﹁すまないが、彼の店の場所を知っていたら、教えてくれないかい
? 急用があるんだが、場所を知らなくてね﹂
﹁別に構わないですが、急用があるのに店の場所を知らないんです
か?﹂
俺がそう指摘すると、彼は困ったような、苦い顔をした。
﹁ぐ、そこを言われると弱いんだけどね。ちょっとダグラスさんに
用があって、慌てて駆けつけようとしたものの、ギルドメンバーか
ら店の場所を聞くのを忘れていてね。職人街を総当りで探すしかな
いと思ってたところなんだ。君たちに会えて、いやあ、僕は運がい
い﹂
そう言って、彼はハンカチの袖で額の汗を拭った。よほど急いで
いたのか、仕立ての良さそうな絹のチュニックは汗で濡れている。
ちょっと気の弱そうな笑顔が、人当たりのいい印象を受ける兄ちゃ
んであった。特に悪人にも見えない。
﹁ちょうど僕らもあの店に用事があったところです。良ければ一緒
にどうです?﹂
﹁いいのかい? 助かるよ﹂
570
安堵した表情で、俺たちを拝むような仕草をする彼であった。
道すがら、彼が話しかけてきたので、俺は世間話に興じていた。
﹁へえ、まだ迷宮に潜りはじめて間もないのか。最近はあまり行っ
てないけど、僕も冒険者でね。駆け出しのころは、ダグラスさんの
打った剣を持って迷宮に行ったものさ﹂
﹁あ、冒険者の方だったんですか?﹂
とてもではないが、気の弱そうな笑顔や、お世辞にも肉付きのい
いとは言えない身体からは、冒険者という職業を想像することは難
しかった。
﹁やっぱり弱そうに見える? こう見えて結構ベテランなんだけど
なあ、いつまで経っても強そうには見えないみたいなんだよね﹂
コンプレックス
肩を落としてうなだれる彼であった。どうも、ひょろっとした外
見に劣等感を持っているらしい。
﹁そういえば、ダグラスが店を持ったのってつい最近だけど、あな
たはどこで彼と知り合いに?﹂
我ながら露骨な話題逸らしだと思ったが、彼はすぐに表情を切り
替えて話題に乗ってきた。扱いが楽というか、善性の人物であるこ
とは間違いない。
571
﹁ダグラスさんの修行時代に、剣を打ってもらったことがあるんだ
よ。ヴァンダイン氏の弟子の中では一番ダグラスさんが腕が良かっ
たからね。あの武器は使い心地のいい剣だったな﹂
﹁そうでしたか。今も、いい腕をしていますよ。あの店で武器を買
うと、他の店のものじゃちょっと満足できないです。今度、買い物
をしてみてはどうですか?﹂
俺が水を向けると、彼はちょっと表情を翳らせた。
﹁うん、まあ、そうだね﹂
彼が気落ちする理由がわからなかったが、もうダグラスの店の前
に着いてしまったので、話はそこで打ち切られた。
﹁ここがダグラスの店です﹂
鉄鉱石に店名を書き込んだ看板代わりの置物を見て、彼は俺たち
に深々と頭を下げた。
﹁ありがとう。助かったよ﹂
﹁そこまでのことではありませんよ。私たちも用事がありましたし﹂
﹁や、そういえばそうだったか。ううん、それはちょっとまずいな
あ﹂
一体何が彼をそうさせているのか皆目わからないのだが、彼は頭
を抱えて悩み始めた。しばしの煩悶の末、何かを決意したような顔
で、俺たちを再び拝む。 572
﹁ちょっと恥ずかしいところを見せるかもしれないけど、ごめんね
?﹂
﹁よくわからないですが、わかりました。気にしないことにします﹂
﹁そう言ってくれると助かるね。じゃあ、入ろうか﹂
よし、などと気合を入れて、彼は先行して店の中に入っていった。
俺たちも、遅れて店の中に入る。中ではダグラスが店番をしていて、
俺たちと彼を交互に見比べて目を白黒させていた。
﹁どういう組み合わせだ、こりゃ?﹂
﹁ダグラスの店の場所を知りたがってたから教えたんだが、まずか
ったか?﹂
﹁ギルドメンバーに道を聞くのを忘れたままホームを飛び出してき
まして。途方に暮れていたところに、彼らがダグラスさんの話題を
していたのを聞きつけて、道を教えてもらったんですよ﹂
﹁ってえことは、お互いが誰だか知らねえのか?﹂
俺と彼は、顔を見合わせて首をかしげた。間違いなく、お互いに
面識はない。ダグラスはため息をついたまま、俺が連れてきた細面
の兄ちゃんの方をあごでしゃくった。
ドラゴンズブレス
﹁そいつが﹃竜の息吹﹄のギルドマスター、リカルドだ。で、こい
つが、お前んとこのバカが迷惑かけてるジルだ﹂
573
お互いに心当たりのある名前だったため、俺たちは顔を見合わせ
て、えええええ、とのけぞった。
﹁自己紹介はダグラスさんがやってくれたので、早速ですが本題に
入りましょう。
実は、ギルドメンバーから事の経緯を聞いたのが昨日なのですが、
彼らは﹃竜の息吹﹄がヴァンダイン氏の系列鍛冶屋から締め出され
たと言うのみで要領を得ないのです。原因がダグラスさんらしい、
ということでここに駆けつけたのですが、何があったのです?﹂
﹁お前なあ﹂
気まずそうに頬を掻くリカルドとは対照的に、呆れ顔のダグラス
である。
﹁なんでギルドマスターのお前のところに情報が上がってねえんだ
よ? 事が起こってから、もう一ヶ月は余裕で経ってんだぜ?﹂
﹁迷宮に潜ったりとか、その、最近新居を買いまして、悠々自適な
半隠居生活をしていたというか。あまりギルドの運営に関わってい
ない日々が続いていまして﹂
﹁てめえが適当なギルド運営してっから、下の締め付けが甘くなっ
てバカが方々に迷惑かけてんだよ。半端な運営するぐれえならとっ
とと頭を降りやがれ。誰か、ギルドの運営に深く関わってたやつに
譲ってよ﹂ ﹁それが、そのう。和気藹々というか、仲の良い人間同士で集まっ
574
てギルドを組んでいたもので。経営を任せられるというか、ギルド
マスターみたいな気疲れする仕事をやってくれる人物に心当たりが
なくてですね。私としても隠居したいんですが、後を任せられる人
物がいないというか﹂
﹁互助会としての役割としてはお前のギルドは成功してるかもしれ
んが、ゆるい規律しか作らねえからこういうことになるんだ。しか
も後任者を育てられてねえってのは、お前の怠慢だろうが。それで
半隠居生活しつつギルドのことはすっぽかしだあ?﹂
﹁はい、はい。仰ることは、まったくごもっともです。で、お怒り
の件は後でまたお叱りを頂戴するとして、いまは事件の経緯などを
ですね、恥ずかしながら教えて頂けると︱︱﹂
熱くなっていくダグラスに対して、どんどんと縮こまっているリ
カルドであった。もともと善性の人物だと思っていただけに、こう
なると哀れでもある。
﹁バカバカしくて話す気にもならん。ジル、お前さんがかわりに説
明しとけ﹂
ダグラスは奥に引っ込み、付き合ってられないとばかりに葡萄酒
の樽を取り出して飲み始めたので、俺とリカルドは顔を見合わせる。
お願い、と言わんばかりに両手を合わされたので、俺は事件の経緯
を簡単に説明してやった。
うち
﹁赤の盗賊団﹂の討伐経緯を話したくだりでは、﹁ああ、君があ
の討伐をやりとげた人なのか。﹃竜の息吹﹄も郊外の開拓にはギル
ドメンバーが参加していたからね、助かったよ﹂などと能天気な声
を出して、ダグラスに睨まれたりしている。
575
逆に、エディアルド少年がダグラスの依頼に現れて、俺に絡みだ
したことを話したあたりでは、顔面蒼白になって脂汗をかき始めた。
﹁要するに、エディアルドはジル君に借りがある立場なのにも関わ
らず、逆恨みしていると。しかも冒険者ギルドのパーティ募集の場
において、ジル君を名指しで排斥しようとした、と﹂
﹁単純に言うと、そういうことですね﹂
深いため息をつくと、リカルドは天を仰いで嘆息した。
﹁客観的で、とてもわかりやすい説明だったよ。ジル君の言うこと
が本当なんだろうって簡単に信じられるぐらいに。なるほどなあ、
だからダグラスさんがブチ切れて締め出し食らってるのか。この件
に関与してないギルドメンバーから、どうにかしてくれと泣きが入
ってね。何件か報告が握りつぶされてたらしく、初めて知ったのが
今日なんだ﹂
﹁冒険者ギルドの募集広場に頼らずともパーティを作る目処は立っ
てるというか、
ちょうどパーティを組んで今日、一戦行ってきたところなんで、実
のところ、あまり気にしてはいないんですがね﹂
俺は、物も言わずに控えている後ろの三人娘をちらと見る。
﹁そう言ってくれると嬉しいよ。でもギルドとしては、けじめ付け
ないとなあ。はあ、兄貴を亡くしたからどうにか生計を立てたいっ
てうちに来たあの子には、熱意が感じられたんだけどなあ﹂
576
俺は、記憶の中にあるエディアルド少年の攻撃的な性格を思い出
す。なるほど、好意的な見方をすれば、向上心があるとか、熱意が
あると言えるだろう。
短い付き合いではあるが、何となく俺は、リカルドの性格をつか
めてきた。お人よしすぎて、他人を疑ったりしないのだろう。その
大らかな性格が人を集め、﹁竜の息吹﹂のような大所帯のギルドを
作るきっかけになり、その反面、今回のような事件が起きているの
だ。
正直なところ、被害者と加害者の立場を抜きにして考えれば、俺
としては好感の持てる人物である。
﹁で、処分はどうすんだ? ぬるい対応されてもこっちは収める気
はねえぞ?﹂
二つ目の樽を呷りながら言葉を挟むダグラスであった。
﹁ジル君の排斥に関わったギルドメンバーの追放、それとジル君の
名誉回復のために、一連の経緯と、うちが悪かったってお詫び文を
各所に設置するぐらいでどうでしょう?﹂
﹁バカの処分はそれでいいが、ジルにとっての旨味がまるでねえだ
ろう。ギルドが迷惑をかけました、一ヶ月以上も経ってうちが悪か
ったです、おしまい、ってか?それは通らねえよ﹂
﹁い、いくら包めばいいですか?﹂
不安そうに、ちらちらと俺とダグラスを交互に見るリカルドであ
る。うん、善性の人物だ。
577
﹁俺としちゃ、事が丸く収まればそれでいいし、金まで貰おうとは
思わないけどな。リカルドさんはどうも憎めないし﹂
俺の言葉に、ぱあっと笑顔になるリカルドである。うん、善性の
人物だ。
﹁こいつにさん付けなんか必要ねえぞ。呼び捨て、いや、リカちゃ
んでいい﹂
﹁リカちゃん︱︱その、一応、僕、深層冒険者なんで、勘弁しても
らえると﹂
心底へこんだのか、うなだれるリカちゃんである。うん、面白い
人物だ。
この人を中心に、人が集まっていった理由が、なんとなくわかる。
﹁じゃあ、貸し一つにしとけ。ジル、なんか困ったら、こいつを一
回アゴで使っていいぞ﹂
﹁それぐらいでいいなら﹂
爽やかな笑顔で、使いっ走りを承諾するリカルドである。大手ギ
ルドのマスターともなれば、見栄があったり、威厳を損なうことを
気にするものだと思っていたが、彼はそんなことを全く気にした様
子がない。やっぱり、善性の人物であった。
578
﹁さて、思わぬ寄り道があったけど、反省会しようか﹂
プレートメイル
ダグラスの店を後にし、場所を移してここは行きつけの喫茶店で
ある。
空いている椅子にエマの板金鎧を積み上げ、俺たちは各自一杯の
甘糖珈を前にして円形の机を囲んでいた。鎧姿に帯剣した俺たちを
迎え入れて、無口なマスターは気にした風でもない。
ファイアアロー
マナバイソン
﹁俺のミスは、火矢で魔角牛の脚を集中攻撃するように指示を出し
た後、ろくに効き目がなかったのにもう一発火矢を撃とうとしたこ
とだな。エマが突進を避けきれない可能性を考慮して、俺が前衛と
して魔角牛に向かっていくべきだった﹂
﹁わたしのミスは、突進をよけられなかったことです﹂
エマが沈んだ顔で告げた。あれだけ派手に跳ね飛ばされたという
のに、外傷は一つもなかった。かわりに板金鎧のわき腹のあたりが
少しへこんだが、それも些細な傷である。正面から食らっていれば、
この程度の被害では済んでいまい。当たり所が良かったのだ。
﹁それは仕方ない。レベルが上がって、板金鎧を着たまま軽々と動
けるようになれば話は別だろうが、今はまだ重みに慣れてないだろ
う﹂
エマは、ふるふると首を横に振った。
﹁きっと、よけようと思えばよけられました。牛が向かってきたと
き、斧で叩くかどうか、迷ってよけるのがおくれました﹂
ダイアウルフ
俺は驚いた。恐狼の突進を俺が長剣で相打ちにしたように、魔角
579
バトルアックス
牛の突進を避けるのではなく、闘斧で迎撃しようとしたというので
ある。
﹁結果論になるが、魔角牛みたいに頑丈で攻撃力の高い敵なら、回
避に専念するべきだったな。もちろん、前衛として敵の攻撃を受け
止めないといけない魔物もいるから、一概には言えないけど。総じ
て、俺たち全員が経験不足なのは間違いない。魔物ごとに戦い方を
変えていかないと﹂
ガッツオニオン
﹁ご主人様、経験不足といえば、迷宮素材の採取方法も知っておい
た方がよくはありませんか? 今回は漢玉葱の掘り方がたまたまわ
かりましたが、他の素材も、採取するときにコツが必要なものがあ
るかもしれませんし﹂
﹁それは俺も考えていた。後で商業ギルドに行って、迷宮素材の一
覧と採取の仕方を調べるつもりだったよ。魔物シリーズ図鑑もそこ
で買ったんだ︱︱話が逸れるが、魔物シリーズ図鑑、完全版買いた
いなあ﹂
﹁手持ちの図鑑に中層までの魔物は全部載ってるけど、深層に行く
なら欲しいわね。前情報なしで迷宮に潜るなんてぞっとしないわ﹂
エミリアは真顔であったが、先ほどから甘糖珈のカップを顔の前
から離していない。よほど気に入ったのか、小まめに啜っては甘さ
を堪能している。
﹁そういえば、俺が魔角牛の足止めに向かっていったとき、火矢で
目潰ししてくれたのは助かったよ。エミリアのおかげで、俺が安全
に脚を斬りにいけた﹂
580
﹁ミスといえば、私にもあるわ。最初に魔角牛の脚に火矢を当てて、
あまり効いていなかった時点で、顔面狙いに切り替えて魔法を撃つ
べきだったわ。ああいう敵を足止めするのが、私の役割なのに﹂
ブラインド
﹁世間一般の魔術師ならそうかもしれんが、今は使える魔法の種類
フリーズ
が少ないからなあ。そう言われてみれば、闇属性の視野阻害とか、
氷属性の氷結とかがあれば、交戦する前に有利な状況を作りだせる
かもしれんな﹂
﹁そうね。ほんと、初期投資がかさむのね、冒険って﹂ やれやれといった体で、甘糖珈を飲み干すエミリアであった。マ
スターに目配せして、おかわりを注文してやる。
﹁甘糖珈のおかわりで思い出したわ、反省会には関わらないんだけ
ど、お金の分配案を決めてきたの。発表してもいい?﹂
俺が頷いたのを見て、懐から地図とは別の紙を取り出すエミリア
である。そこには、生活費などの必要な支出などが事細かに書き込
まれていた。
﹁まず、宿代が毎日5,000ゴルド。場所を選べばもう少し安い
宿もあるんだけれど、治安が悪かったり、食事がついていなかった
りで、鯨の胃袋亭は居心地がいいのよね。これに加えて、保険とい
うか、誰かが大怪我をしたり、病気をしたりして、冒険に行けなく
なった場合のことを考えて、キリよく5,000ゴルドを貯金とし
て積み立てるわ。つまり、毎日の稼ぎから、10,000ゴルドを
抜くってわけ。そして、余ったお金は四人で分配。生活費は各自で
捻出する。これでどう?﹂
581
﹁いいんじゃないか? わかりやすいし﹂
﹁ご主人様と同じ額を頂くのは心苦しいのですが︱︱﹂
﹁いや、そこは平等にしないとかえってまずいだろう。同じパーテ
ィで迷宮に潜ってるんだからさ﹂
﹁問題は、装備の買い替え代金なのよね。できれば、保険で積み立
ててる5,000ゴルドには手を付けたくないわ。各自の分配金か
ら捻出してもらうのが一番いいんだけれど、お金がかかる職、そう
でない職があるし難しいわね﹂
﹁それは、買い替えが必要になったときにみんなで相談かなあ。俺
やエマはもう、ある程度の装備が揃ってるから買い替えはしばらく
ないだろうけど、エリーゼやエミリアはまだ装備が揃ってないだろ
うから﹂
﹁この装備に不満を持ったことはないですよ?﹂
スタデットレザーアーマー
鋲皮鎧の胸に手を当てながら首を傾げるエリーゼである。
﹁いやな、仕立屋サフランの女将さんにこの前聞いたんだがな、魔
ヴォーパルバニー
アサシンバニー
物素材から作る防具で、狩人に向いた装備っていうのがあるんだよ。
首狩兎の上位種に暗殺兎っていうのがいるらしいんだが、その毛皮
で作った靴は、足音が一切しないんだそうだ﹂
﹁それはちょっと︱︱正直、興味がありますね﹂
シルバーサーレ
ペザ
ンー
トアーマー
﹁だろ? 深層の魔物らしいから、お値段はもちろん高いらしいが。
それと、いつかは二人の防具も銀蛇の皮鎧に替えないといけないと
582
リアクティブアーマー
思ってるし。エミリアは魔鎧の魔法でしばらくは凌げるとしても、
エリーゼは前に出ることもあるんだから鋲皮鎧じゃ不安が残るしな﹂
﹁新品で2,000,000ゴルドの鎧ですか。とても手が出ませ
んね﹂
﹁案外、そうでもないと思うけどな。今は中層に入ったばかりだか
ら稼ぎもほどほどだが、もう少し奥に行けるようになれば、毎日手
に入る金も増えてくだろうし﹂
﹁これからは手に入れた魔石も、いったん換金して全員に分配する
わ。自分で吸収してレベルを上げたい人がいたら、自分で買っても
らうことになるわね﹂
﹁そういや、魔石はまだ換金してなかったな。いくらになるんだろ
うか﹂
﹁ねえジル。今日の午後なんだけれど、迷宮に行くのはやめにしな
い?﹂
二杯目の甘糖珈を目尻を細めながら飲みつつの、エミリアの提案
であった。 ﹁構わんが、急にどうした?﹂
﹁迷宮に行くのが嫌で言ってるんじゃないことはわかって欲しいん
だけれど。今日の午後は、中層の素材の採取方法を調べたらどうか
と思うの﹂
﹁それはいいな。そうしよう﹂
583
即決で採用である。確かに、採取の仕方がわからなくて、素材を
目の前に涙を飲むのは御免だった。
﹁じゃあ、今日は商業ギルドの本部にいって、それを調べよう。行
きがけに魔石を換金すればいい﹂
午後の行動予定を決め、しばし談笑する俺たちであった。
584
第三十六話 中層 その3
日は変わって、翌朝。
俺たちは、再び迷宮へとやってきていた。
マナの結晶でうっすらと覆われている中層のベースキャンプの壁
や天井は、かがり火と猫目灯に照らされて、本来の紫ではなく赤々
とした色に輝いている。
迷宮の中へと潜るべく、冒険者ギルドの職員に渡された番号札を
手に、俺たちは順番待ちの最中であった。
﹁それにしても、いいお値段しましたね、素材の図鑑﹂
﹁そうか? 俺なんかは逆に、安いもんだと思ったがな﹂
俺たちが持っている、魔物シリーズ図鑑と同じ作者が執筆した﹁
魔物素材の剥ぎ取り方﹂と、迷宮内の採取可能な素材一覧が載った
﹁迷宮素材百選﹂。合わせて、20,000ゴルドである。
例によって、丁寧に魔物や素材の全体像と、換金できる部位が絵
で描かれており、その後に具体的な刃物の入れ方や、植物の掘り方
などがこれもイラスト付きで載っていてわかりやすいことこの上な
い。
皮革の剥ぎ取りなど、やり方がわかっていても素人では真似でき
ないものも載っていたが、半数以上の素材は俺たちでも採れそうで
ある。
昨晩は、みんなで回し読みしつつ、内容を覚えることに終始した
585
俺たちである。
﹁それにしても、早速、お金の計画が崩れたわね﹂
パラライズファンガス
眉間に皺を寄せているのはエミリアである。昨日は結局、宿代す
マナバイソン
ら手元に残らなかったのだ。
スケルトンウォリアー
骸骨剣士と、魔角牛と、五体の麻痺茸の魔石。それらを換金した
結果、7,000ゴルドになった。内訳は、それぞれ1,500ゴ
ルド、3,000ゴルド、500ゴルドが五つである。
これに、昼に稼いだ魔角牛などの15,600ゴルドを加えて2
2,600ゴルド。そこから図鑑代金の20,000ゴルドを引き、
余った稼ぎは2,600ゴルドであった。宿代と貯蓄、合わせて1
0,000ゴルドという毎日の目標額に達していない。
﹁最初に貯蓄ができるまでは、手持ちの金を切り崩しながらやるの
も仕方ないさ。今日、また稼げばいい﹂
﹁それもそうだけど、全員で迷宮に潜れる日ばかりじゃないってい
うのを忘れてたのよね。ほら、ジル。私たちって女の子でしょ?﹂
﹁ああ、言いたいことはわかるよ﹂
要するに、生理の日は冒険に参加できないと言いたいのである。
﹁身体の構造が違う以上、それは仕方のないことだし、わかってて
パーティを組んでるんだから問題ないさ。誰かが冒険を休まなきゃ
ならなくなったら、その間の生活費とかはみんなでカバーすればい
い﹂
586
﹁極力、自分たちの貯蓄とかで何とかしようって話し合ったんだけ
ど。やりくりが上手くいってなかったら助けてくれると嬉しいわ﹂
俺は鷹揚に頷く。互助精神さえうまく働いていれば、何とかやっ
ていけるだろう。
﹁俺たちが全員で迷宮に入れるのは、毎月のうち、まる二週間って
ところじゃないかなと見積もってる。週末は休みにしてあるしな。
今は色々と苦しいが、稼げる額が増えてきたら生活にも余裕ができ
るさ﹂
﹁ご主人様、欠員が出たときの狩りは、どうされるおつもりですか
?﹂
オーク
﹁戦力的に、誰かが失敗したときのフォローがしにくくなるから、
ダイアウルフ
中層での狩りは禁止かな。各自で分かれて、浅い階層で豚人でも狩
ればいいんじゃないかと思うが。俺は慣れてるから恐狼を狙うけど﹂
冒険者ギルドの職員が、俺たちの番号を呼んだので、話はそこで
一旦打ち切られた。このあたりの話を、もう少し詳しく煮詰めてお
いた方がいいかと一瞬思ったが、俺は頭を振ってそれを打ち消した。
中層での冒険なのである、上の空で油断するべきではないと、俺
は思ったのだ。
ベースキャンプから、前回とは違う入り口に案内され、俺たちは
奥へと進んできたが、迷宮の基本的な構造はどの穴から進んでも変
わらないようだった。扇状に少しずつ迷宮は広がっていき、ある程
度の広さになると、左右の部屋とつながる狭い通路が現れる。
587
多くの冒険者が足を踏み入れているせいか、やはりベースキャン
プ付近の狭い部屋には魔物はおらず、採取できる迷宮素材なども見
当たらなかった。
魔物も冒険者もいない空き部屋をいくつか通り過ぎ、昨日に魔角
牛らを狩ったところと同じぐらいに広い部屋までやってきたものの、
すでに部屋には先約が入っているらしく、六人パーティが狩りをし
ているところだった。
﹁もっと奥に進まないとダメか﹂
未知の領域に足を踏み入れなければならないことを若干の不安に
思うが、部屋が空いていなければ仕方がない。一部屋ぐらいでは、
生息している魔物の種類が大幅に変わるということもないだろう。
スタデットレザーアーマー
中央部分の森の中から、爆発音や剣戟の音が聞こえてくる中で、
レンジャー
部屋の外周の平地には見張りらしき人物が立っていた。鋲皮鎧を装
備しているので、新たな魔物湧きを警戒する狩人なのかもしれない。
︵空いている部屋が近くにあるか聞いた方がいいか?︶ 俺は進み出て、彼に向かって頭を下げたが、狩人の彼は俺たちを
一瞥した後、忌々しそうに舌打ちをした。俺は彼に話しかけるのを
やめて、エマたちを引き連れて外周の通路を歩き、次の部屋へと向
かう。
﹁なにあれ。感じ悪﹂
幸い、森の中に足を踏み入れることなく、平地だけを通って次の
588
部屋へと繋がる通路にたどり着けた。エミリアは、先ほどの狩人の
態度が気に入らないらしく、愚痴をこぼしている。
﹁まあそう言うな。狩りの邪魔になってたかもしれない。気にしな
いで行こう﹂
理由もなく嫌がられることに、若干の腑に落ちない気分を感じつ
つも、俺は場の雰囲気を和ませることに努めた。今のところ、エマ
たちはみな嫌な顔一つせずに付いてきてくれるが、士気の低下は避
けなければなるまい。
一人で迷宮に潜るならともかく、パーティを組んで冒険をする以
上、不協和音はなるべく取り除くように心がけるべきだった。
︵おや、あれは︶
次の部屋へと足を踏み入れるも、そこにもやはり先約というか、
先に狩りをしているパーティがいた。ただし、その三人のパーティ
には、見覚えがあった。昨日、俺たちが初めて迷宮に入ってまごつ
いているときに、後ろから俺たちを追い抜いていった戦士、狩人、
魔術師の三人組である。
﹁昨日の新人じゃないか。誰も死ななかったんだな﹂
彼らも俺たちのことを覚えていたらしく、戦士の男が鉄兜の面頬
を上げて俺たちに笑いかけてきた。
﹁おかげさまで。覚えて頂いてたんですね﹂
﹁そりゃそうだ。若い女の子を三人も連れまわしてるパーティなん
かそうそうないからな。無事に狩りを終わらせられたなら、しっか
589
りと連携が取れてるんだろう。大したもんだ﹂
彼の台詞を聞いて、俺は気づいたことがあった。目から鱗が落ち
るというか、一つ前の部屋で、狩人の男が俺たちに敵意を向けた理
由に思い至ったのである。
﹁ああ、それでか。前の部屋で、空いている狩場がないか聞こうと
したんですが、
挨拶をする前から嫌われた様子だったんで不思議だったんですが﹂
﹁がはは。普通のパーティは、女を入れるのを嫌うからな。それが
三人もいるのは珍しいよ。装備からしてもあんたがリーダーに見え
るし、色男っぷりを妬まれたんだろうよ﹂ ﹁なるほどなあ。パーティに女性を入れるのってそんなに珍しいで
すかね? レベルさえ高ければ能力的には男女差はないはずなのに﹂
﹁そりゃあそうだ。男だけの所帯なら何でもないところでも、排泄
やら生理やらに気を使ってやらなきゃいけない。その上、男とはど
うしても血の気の多さが違うからな、血生臭い生活に女の方が根を
上げることも少なくないし、パーティの中で紅一点となりゃあ、恋
愛沙汰で揉めもする。好き好んで女をパーティに入れたがるやつは
少ないな。差別してるわけじゃなく、女は戦うように身体ができて
ないのさ﹂
ふとエマたちの方を振り返るも、特に気にした様子はなかったの
で、俺は胸をなでおろした。口が悪いように見えて、この戦士の男
は、冒険者という荒くれが集う職業の中では上品な方である。エマ
たちにもそれがわかっているのだろう。
590
﹁部屋なら、右隣が空いてたはずだ。見に行ってみたらどうだ?﹂
頭を下げ、丁寧に礼を述べて、俺は彼が教えてくれた部屋へと歩
を進める。
﹁これはまた、妙な構造ですね。まるで迷路のような﹂
困惑顔のエリーゼである。俺の第一印象も同感だった。
この部屋に生えている木は、細い幹が隣の木の幹とねじれ合うよ
うに生えており、壁のようになって隣の通路への通行を妨げている。
つた
五メートルほどの高さに天井があるのだが、そこには先細りした幹
が、まるで蔦のようにびっしりと葉と蔓を張り付かせている。人が
通れそうな隙間など、どこにもない。
それでいて、通路のような床には一切の植物が生えていないのだ。
整地されているようにすら見える。
﹁これは、エリーゼを先行させるのは危険か? 迷いかねない﹂
綺麗に整った格子状の迷路であったならばまだしも良かったのだ
が、通路は蟻の巣めいて曲がりくねっていて、壁がわりの木々のせ
いで先々を見通すことが困難であった。
﹁地図を、少しずつ埋めていきましょう。頭に地形を叩き込むまで
は、深入りはしない方がいいかも﹂
地図係のエミリアも、この迷路を前にして頭が痛そうである。
591
﹁あまり離れず、ゆっくりと進みます。すでに、魔物の気配はして
いますので。視界が悪くてどこにいるかわかりませんが﹂
エリーゼが慎重に進み始める。左右を木々に塞がれている分、警
戒するべきなのは前後と上下である。地形を調べながらゆっくり、
じっくりと進むエリーゼを俺たちも追従する。
三分ほどもエリーゼの後を追ったころ、行く手に分かれ道が出現
した。
﹁道が左右に分かれています。魔物の気配は左の方向から感じます
ので、先に地図を作るなら右かと﹂
﹁そうしてくれ﹂ エリーゼほど熟練してはいないが、俺の気配探知スキルにも魔物
の気配は引っかかっていた。左の方向から感じるそれは、動き回っ
ている様子はない。俺たちに気づいていないのかもしれなかった。
分かれ道を右に曲がると、その先はさらに左右へ枝分かれしてい
る。
なるべく入り口に近い方から迷路の構造を調べたいので、ときた
まエミリアの描いた地図を覗き込みつつ、俺たちは進む。
さらに数分が経過し、迷路の構造も、だいたいは判明した。恐ら
くはこの部屋、この迷路も扇状で、魔物の気配は左奥にある。最奥
まで踏み入っていないので全体の広さまではわからないが、以前に
足を踏み入れた森の広さを基準に考えると、手前から三割ほどは地
図が埋まったように思う。
592
﹁順調だな。このまま行こう﹂
﹁はい︱︱ッ!?﹂
笑顔で振り返ったエリーゼの顔が、一瞬で強張る。
その表情の急変に、背後から魔物でも忍び寄っていたのかと焦っ
て振り向くが、何もいなかった。 ﹁どうした、エリーゼ?﹂
﹁気のせいかもしれないのですが︱︱糸が張ってあったかもしれま
せん。透明で見えなかったのですが、ほんのわずかに、指先が何か
に触れたような﹂
﹁どれだ?﹂
エリーゼが指差したあたりに近寄って目を凝らしてみるも、何も
見えなかった。
﹁罠の類だったら、もう発動してるはずだよな。気のせいじゃ︱︱﹂
俺の台詞半ばで、エリーゼが弾かれたように短剣を抜いた。一拍
遅れて、俺も長剣を構える。先ほどまで静止していた魔物の気配が、
すごい勢いで動き始めていた。
﹁敵襲!﹂
エマが前に進み出る。その次に俺、エリーゼ、エミリアの順だ。 職に直すと、重戦士、戦士、狩人、魔術師である。特に指示を出
さずとも、戦闘に入ればみな、基本形に並ぶ。 593
すでに、エマとエミリアの未熟な気配感知スキルにも引っかかっ
ているようだ。
魔物はかなり近い。ねじれあった木々の壁一枚隔てた向こう側で、
何かが高速でごそごそと走り回っている。
やがて︱︱俺たちの正面、その天井あたりに、二メートルほどの
巨大な全長と、わさわさと動く茶色い八本の足が現れた。
ポイズンスパイダー
﹁毒大蜘蛛だ!﹂
胴体だけなら1メートルに届かないぐらいだろうが、体毛に覆わ
れた八本足を広げた全長はかなり巨大に見える。タランチュラ種に
似た、蜘蛛にしては太めの足で器用に天井に張り付きながら︱︱毒
大蜘蛛は、逆さになったまま天井を走って俺たちへと迫ってきた。
巨体の割にすばしこく、どんどんと距離は縮まってくる。
ファイアアロー
﹁火矢!﹂
エミリアの放った魔法が毒大蜘蛛の背中に突き刺さる。身体の一
部を抉り、焦がされたことで一瞬だけ怯んだが、毒大蜘蛛は天井か
ら落ちたりはせず、そのまま走り続けた。
天井に張り付いているからして、エマの斧も、俺の長剣も届かな
い距離なのだが︱︱前衛のエマと俺を通り越して、エリーゼの真上
に来たあたりで、毒大蜘蛛は広げていた足を縮めた。
︵飛び降りてくるつもりか!︶
俺はエリーゼとの距離を詰めた。俺の予想は当たっていて、毒大
蜘蛛は空中で器用に半回転し、腹を見せながら落ちてくる。
594
﹁お︱︱らぁッ!﹂
毒大蜘蛛の飛びつきを、エリーゼは跳んで避けている。獲物のい
ない空間に落ちてきた蜘蛛の腹を、俺は長剣の切っ先で迎え撃った。
やわらかな膜と内臓を貫いた感触。狙い過たず、針の上に落ちてき
た蜘蛛さながら、俺の長剣の中ほどまでが、蜘蛛の腹に深々と突き
刺さり、体液が飛び散る。だが︱︱
﹁ぐっ!?﹂
腹を長剣で串刺しにされたまま、毒大蜘蛛はその八本の足で、俺
の全身をくるむように捕まえてきた。目の前には、茶色い毛で覆わ
れた毒大蜘蛛の顔がある。黒真珠のような、六つの個眼と、目が合
った。
八本の足と、二本のトゲめいた触肢のさらに内側、巨大な全長か
らすると驚くほど小さい、人間とそう変わらないサイズの口を開け
て︱︱口内の牙で、毒大蜘蛛は俺の肩に噛み付いた。
﹁ぐあっ!﹂
シルバーサーレ
ペザ
ンー
トアーマー
ここ最近忘れていた、鋭い痛み。銀蛇の皮鎧に覆われた俺の肩は、
しかし毒大蜘蛛の牙によって傷を受けている。一瞬遅れて、焼ける
ような熱さが肩から全身に広がった。
﹁ふッ!﹂
咄嗟にエリーゼが毒大蜘蛛の首あたりに短剣を突き立てるが、切
っ先が僅かにめりこんだだけで貫き通せない。柔らかいのは腹だけ
595
で、背中側は甲殻に守られているようだ。
﹁どいて、エリーゼ!﹂
バトルアックス
エリーゼが跳び下がるや否や、エマが横薙ぎに闘斧を一閃し︱︱
背中側から甲殻ごと、毒大蜘蛛の胴体をぶった切った。腹回りを、
ほとんど両断された毒大蜘蛛は俺から足を離し、最期の苦しみにも
がき始める。
﹁くそッ! よくもッ! ご主人様に! よくも!﹂
エマの勢いは止まらない。振り上げた斧を、倒れ伏した毒大蜘蛛
の頭部や、胴体めがけ、何度も、何度も振り下ろした。
﹁エマ! ジルの回復が先!﹂
エミリアの叱責に、ぴたりとエマの動きは止まった。そのころに
は、痙攣すらできない、もとは毒大蜘蛛であったものの肉片があた
りに飛び散っている。
﹁なん、だ、これ︱︱?﹂
視界が回っていた。膝をついた俺を覗き込む、エマ、エリーゼ、
エミリアの三人の顔が、いやそれだけではなく周囲の景色までが、
酒精で酩酊しているときのようにぐるぐるぐにゃぐにゃとして焦点
が定まらない。
左肩を始点に、焼けつくような痛みが左腕すべてと上半身に広が
っている。熱病に冒されたように顔が熱い。心臓の動悸、それに連
動した頭痛が耐え難いまでにキツい。
596
呼吸も苦しかった。息をいくら吸っても、楽にならない。もっと、
もっと息を吸わなければ︱︱
キュアポイズン
﹁解毒!﹂
エミリアの指先から、何かが俺の中に入ってきた。頭から入って
きたそれは、身体の中に浸透していくにつれ、痛みや苦しみをすう
っと消してくれた。楽になった俺は、大きく深呼吸をして安堵した。
﹁助かったよ、エミリア。そうか、毒だったんだな﹂
毒大蜘蛛という名前の通り、口腔内の牙に毒があったのだろう。
﹁ご主人様、私をかばって毒を︱︱。申し訳、申し訳ございません。
私がご主人様の盾になっているべきでしたのに﹂
蒼ざめた顔色で、エリーゼがわなわなと震えだしたので、俺は苦
笑した。
﹁避けられなかったらかばうつもりだったけど、エリーゼは自分で
避けてただろ。
後衛を前衛が守る、当たり前のことだし、魔物と戦ってたらそりゃ
傷も負うさ。たまたま毒持ちの敵だっただけだ。迷宮の中にまで上
下関係を持ち込むのはやめようぜ。できれば迷宮の外でもそうして
欲しいけどさ﹂
﹁そうよ。私を見習えばいいのよ﹂
ぺしんぺしんと、鉄兜をかぶった俺の頭頂を叩くエミリアである。
597
﹁あああなた、ご主人様になんてことを︱︱﹂
﹁む。ご主人様を馬鹿にするのは、エミリアでもダメ﹂
なぜかエマまで参戦して、エマ・エリーゼ対エミリアの二対一の
構図になっている。
﹁エリーゼはただの下克上恐怖症だからいいとして、失敗というか、
ミンチ
ミスの度合いでいったらエマが一番ひどいわよ? 毒大蜘蛛からは
素材が取れるのに、あんな挽き肉にしてどうするのよ﹂
俺に咬毒を与えた加害者であるところの毒大蜘蛛は、全身をずた
ずたに切り刻まれて、体液まみれの死体を晒していた。腹部からは、
衣類の極上の素材となる糸嚢が取れるはずだったが、あの様子では
まず間違いなくダメになっているだろう。 ﹁うう﹂
痛いところを突かれ、黙り込んでしまうエマに、容赦なくエミリ
アの口撃は続く。
﹁そもそも、自分たちの命が懸かってるっていうのに、そうやって
主人だ奴隷だっていうのを迷宮内に持ち込むから、判断を誤るのよ。
連携の妨げになるから、身分差は忘れようっていう方針を忘れたの
? ジルの気持ちを汲み取ってないのはあんたたちの方よ?﹂
普段、俺への不敬をエリーゼからがみがみ言われているだけに、
絶好の反撃チャンスで口達者に二人を詰るエミリアであった。
﹁まあ、そのへんにしとけ、三人とも。実際に毒を食らってみて、
598
良かったかもしれないと今は思ってるよ。あれは放っておくとヤバ
い。戦闘どころじゃなくなる。状態異常は最優先で治していくこと
にしよう﹂
強引な話題転換であるが、三人とも頷いてくれたので、場の空気
を切り替えることには成功した模様である。毒自体はエミリアの解
毒で抜けたものの、身体から何かをごっそり抜かれたような倦怠感
は消えていない。
ヒール
﹁小回復﹂
ベルトのポーチに入れてある回復薬を使うか迷ったが、魔力量に
余裕があったので、魔法を使うことにした。淡い光が俺を包み、い
くらか楽になる。やはり、毒のせいで体力が大幅に落ちていたらし
い。
﹁︱︱︱︱﹂
﹁どうした? エリーゼ﹂
どんよりと落ち込んでいるというか、俯いて唇を噛み締めている。
あまり見たことのない表情だった。そんなにも、エミリアに言われ
たことが悔しかったのだろうか。
﹁エリーゼ、気にするな。口も態度も悪いが、エミリアだってああ
見えてパーティのことをしっかり考えてるからこそ、キツく当たっ
てしまうんだろう。切り替えて次に行こうぜ﹂
﹁誰の口と態度が悪いって? 帰ったら覚えてなさいよ﹂
599
俺の背中や尻をばしばし叩くも、銀蛇の皮鎧のおかげでダメージ
がないことに苛立つエミリアである。
﹁いえ、そこではありません。結果的には無事でしたが、罠を見破
れなかったのを後悔しています﹂
﹁罠? ああ、透明な糸だかに触ったかもって言ってたな。あれの
ことか?﹂
﹁はい。あの糸に触れた直後に動き出したことを考えると、ほぼ間
違いなく、毒大蜘蛛が張っていた糸です。糸が何かに触れたら、獲
物がいると判断して襲ってくるのでしょう。今回は何とかなりまし
たが、あれが致命的な罠だったらと思うと、狩人失格です﹂
﹁エリーゼが気づかなかったなら、他の誰にもわからないさ。次に
活かそうぜ﹂
﹁わかっています︱︱いえ、失礼しました。了解です﹂
﹁うん、落ち込んだまま探索をしても、いいことは何もないだろう
から。迷路の策敵、続けてもらえるか?﹂
頷き、自らの頬を叩いて気合を入れてから、エリーゼは再び歩き
出した。
後に続きながら、俺はそっと自分の左肩を撫でる。恐狼の牙から
も俺を守り通してくれた銀蛇の皮鎧は、毒大蜘蛛の牙によって一本
指がすっぽり入るほどの穴を開けられていた。
銀蛇の皮鎧ともなると、小さな傷を直すだけでも、10,000
ゴルドは取ると仕立屋サフランの女将は言っていた。装備の値段が
600
上がると、修繕費も上がるのは自然なことではあったし、狩りに慣
れて危なげなく中層の敵を倒せるようになるまでは魔物の攻撃を食
らってしまうのも仕方ないことではあったが、予定外の出費となり
そうで、つい肩を落としてしまう俺であった。
601
第三十七話 油断
﹁いやあ、人間の文化は良いねえ。こういう食事や娯楽の発達は、
数の多い種族ならではだね﹂ ドルチェヴィータ
俺と腕を組みながら、空いた手に氷菓を盛った青竹の器を握って
いるチェルージュである。
すっかり人間の街に溶け込んだ感のある彼女であり、パーティで
の狩りが休みとなる週末の今日は特に予定もなかったので、朝飯を
終えた直後に念話の指輪によって﹁デートしよー﹂と誘われた結果、
少しの逡巡の末に了承したという経緯であった。
余談だが、真顔かつ目を細めてじっと念話の指輪を見つめていた
エマの視線が忘れられない。
本来であればエマたちを誘って息抜きに連れ出したかったのだが、
そもそも俺には趣味がない。食うことは好きだが、鯨の胃袋亭の食
事を断って外に食べにいけるほどに裕福ではないし、さすがに十二
歳の彼女たちに飲酒を付き合わせるわけにも行かず、外に連れ出す
名目がないのだ。
どこかに連れていくにしろ、無目的にぶらぶらするだけというの
も無駄な時間を過ごしている気がするし、ならばエマたちを連れて
いける面白そうな場所を探す下見にもなるだろうから、という判断
でチェルージュとのデートを受けたのだった。
﹁あーん﹂
602
小さな口を開けながら、氷菓の入った竹の器を差し出してくるチ
ェルージュである。
﹁へいへい﹂
俺は右手に持った竹さじで氷菓を掬い、チェルージュの口の中に
入れてやった。はむっ、と口を閉じて氷菓を味わいつつ、目を細め
て頬を染める彼女であった。
なぜこんなことをしているかというと、それはもちろんチェルー
ジュの強い意向である。チェルージュは右腕で、俺と左腕を絡めて
いるのだが、そうすると自由に扱えるのは残った片腕だけである。
﹁食べさせて?﹂
﹁いや、組んだ腕をほどいて自分で食えば︱︱﹂
﹁食べさせて?﹂
﹁はい﹂
力関係というのは抗い難いものなのである。
この街においても、もちろん公然といちゃつく恋人同士はたまに
いる。そういうのを見るたびに、せめて人目に付かないところでや
れよと思っていたものであったが、まさか自分がそうなるとは思わ
なかった。とんだ公開処刑である。
人口五十万人のこの街において、色々な場所を丸一日かけて歩き
回り、知人に目撃されない確率はどれぐらいだろう?それも、スラ
ム街や郊外の農地ではなく、日ごろから生活している鯨の胃袋亭か
603
ら商店街、職人街を闊歩するにあたって、だ。
いや、きっとこのまま何もなく、誰とも会わずに一日を終われる
に違いない。
すでに先ほど、冒険者ギルドのディノ青年と、受付嬢のミリアム
女史によく似た二人組とすれ違っていたが、きっと他人の空似だろ
う。二人揃って、まったく同時に俺にウィンクをしてきたが、きっ
とよく似た誰かだ。息合ってるなお前ら。
﹁さて、どこか行きたいところはある?﹂
空になった竹の器を街角のゴミ箱に投擲し、チェルージュは俺に
行き先のリクエストを聞いてきた。明らかにゴミ箱を通り越す軌道
を描いていた竹の器が、ゴミ箱の真上に来るなり急降下したのは目
の錯覚だろうか。
﹁行きたいところを探したいな。ほら、俺って無趣味じゃん? 休
日にエマたちをどこかに連れていこうにも、ちょうどいい娯楽施設
を知らないから、そのあたりを開拓したいなって﹂
﹁デートの最中に、他の女の子を連れていく場所を探そうとすると
ころに大きく不満があるけれど、まあいいよ。それじゃあ文化街に
行こうか。冒険者ギルドと高級住宅街の間に劇場とかが集まってる
区域があるから﹂
チェルージュに腕を引かれながら歩き出す。
露店立ち並ぶ商店街から数分も歩けば、そこは荘厳な建物の並ぶ
文化街だった。
芸事とはまったく無縁だったので、もちろん文化街に足を踏み入
604
れるのは初めてである。高級住宅街からほど近いという立地のせい
もあるのか、閑静というか、落ち着いた中に華やいだ雰囲気を感じ
る区画であった。
商店街では苛烈であった客の呼び込みもおらず、各施設は入り口
に紙を貼ったコルクボードやインクで書きつけた木の看板を設置し
て演目を開示していた。
﹁高級住宅街とは、また違った趣があるな、このへんの建物は﹂
街を見おろすように高所に作られた高級住宅街と、冒険者ギルド
などが建ち並ぶ平地。その中間に位置する文化街は、土地の土台そ
のものが斜面である。
その斜面に沿うように、劇場らしき大きな建築物が並んでいた。
木造もあれば石造りの劇場もあり、どれも外観を彫刻やら金字で
飾り立てていて、重厚な印象を受けるもの、創意工夫が見られる小
粋な劇場と、様々であった。
﹁どうする? いきなり劇場に入ってもいいし、他の施設を見て回
ってもいいよ。
もう少し先にあるクラッサス劇場がいちばん格の高い劇場だから、
ソロ
行くとしたらそこかな﹂
﹁ずいぶん詳しいな﹂
﹁だって、知り合いが花形役者だもの。ボーヴォの屋敷に入り浸る
変わり者なんだけどね﹂
﹁なんでもありだな、あの屋敷﹂
605
﹁楽しいよ、あの家。何ならジルも住む?﹂
﹁さも自分の家みたいに居住人を増やそうとするんじゃない。ボー
ヴォの家だろう﹂
﹁自分の家と思って自由に過ごせと言われている以上、私の家も同
然なのだ﹂ 自慢げに胸を張るチェルージュであった。
仮にではあるが、あの屋敷にエマも含めた俺たち四人が暮らすと
したらどうなるだろう?
︵あのボーヴォと、同居はちょっと無理かなあ︶ 娘の彼氏を値踏みする父親めいたボーヴォの威圧によって、俺の
胃に穴が開いてしまうのはほぼ間違いない。
好き嫌いは別として、何とも相性が悪い人物が誰しもいるもので、
俺はボーヴォが苦手だった。だって怖いし。
﹁劇場に入らないなら︱︱そうだね、スケートしない?﹂
スケート?と鸚鵡返しに聞き返す俺である。いつ得たかわからな
いが、俺の中にその単語の知識はあった。氷の上を、金属のエッジ
がついた靴で滑る遊びのはずだ。
﹁私もやったことなくて、ちょっと楽しみだったんだよね。こっち
こっち﹂
程よい斜面は、そのほとんどが劇場として使われていたが、そう
606
でない平坦な土地にはそれ以外の娯楽施設が建ち並んでいた。その
一角にあるスケート場に俺を引っ張っていくチェルージュである。
﹁うおお﹂
思わず感嘆の声が漏れた。樫の木でできた両開きの扉を開けると、
ひやりと冷気が頬を撫でる。中は、だだっぴろい円形のリンクに氷
が張られていて、大人も子供も入り混じってスケートを楽しんでい
た。
﹁いらっしゃいませ、スケート場は初めてで?﹂
﹁ああ。滑るための道具は借りれるのか?﹂ ﹁もちろんでございます。お二人様ですね、こちらへどうぞ﹂
戦士ギルドの広大な修練場などと比べるとわずかに規模が小さい
ものの、スケート場はかなり広い。円形というよりは縦に長い楕円
形で、100メートル近くあるのではなかろうか。
しかもそれはあくまでリンクの広さであって、外周には簡易な鍵
付きの荷物置き場やら、受付と貸靴置き場やらがあり、よくもここ
まで広い敷地を確保できたと感心するほどである。
﹁はい、その目盛りに靴を脱いでお上がりください︱︱お客様に合
う靴の大きさは、こちらですね﹂
想像よりは横に太いエッジを紐で縛りつけた、木製の靴をそれぞ
れ手渡される。靴は預かっておいてくれるらしく、番号札と引き換
えに店員に渡し、滑り終えたら出口で受け取る仕組みのようだ。
607
チェルージュに連れていってもらった高級料理店で、聞く前から
俺にティラミスの知識があったように、スケートの知識もおぼろげ
ながらにあったので、もしかしたら最初から上手く滑れるかも︱︱
と淡い期待を抱いていたが、残念ながらそんなことはなく、生まれ
たての小鹿みたいに内股でぷるぷるしながら滑って転んでを繰り返
した。
エルダーヴァンパイア
チェルージュもそれは同じで、始祖吸血鬼ともあろう彼女が、威
厳もへったくれもなく俺ともつれ合って転んだりしてきゃあきゃあ
と嬌声を上げる。お互いの無様な姿がおかしく、自然と笑い声がこ
ぼれる。
童心に返って楽しむことしばし。俺たちはスケート場を後にした。
﹁いやあ、楽しかったねー﹂
ヒール
転んで痣ができても小回復の魔法であっという間に元通りである。
魔法とは便利なものだ。あのスケート場も、きっと氷属性の魔法で
拵えたものなのだろう。
﹁スケートをするのは初めてだったが、面白いもんだな。たまたま
上手く滑れたら気持ちいいし﹂
﹁そうだね。他にも面白い施設がこのあたりにはいっぱいあるらし
いから、どんどん見ていこう﹂
﹁それもいいが、少し喉が渇いたな。このあたりには飲食店はない
のか?﹂
﹁あるはずだよ。文化街の隅には、屋台とかも出てるはずだし︱︱
608
あ﹂
﹁どうした?﹂
不意に真顔になって、チェルージュは虚空の一点を凝視し始める。
何かあるのかと思って俺も彼女の視線の先を追うが、青い空が広が
るばかりで何の変哲もない。
﹁何かあったのか?﹂
﹁ちょっと待って﹂
微動だにしない彼女に問いかけるも、チェルージュは虚空を見つ
めたっきり、俺の方に視線も寄越さない。一体、何事だ?
俺の念話の指輪が、魔力を感知して光を発し始めたのはそのとき
である。チェルージュに渡したものではなく、エマたちの全員に俺
と対になるよう渡したものだ。光っているのは、エマの指輪である。
﹃ご主人様、エミリアが、エミリアが﹄
頭から冷水をぶっかけられたかのように、意識がすっと冷えた。
指輪から発せられるエマの声は、切迫していた。そして、泣き声
だった。
﹁落ち着け。場所はどこだ? 今行く﹂
ダイアウルフ
﹃今、帰還の指輪を使ってます。エミリアが恐狼に﹄
恐狼、という単語を聞いた瞬間、血の気が引いた。上層の魔物と
609
いえど、あれを
今のエマたちで対処できるとは思えない。
︵落ち着け、俺こそ冷静になれ︶
帰還の指輪を使っているということは、迷宮前の広場に戻ってく
るということである。つまり、戦闘自体はいったん終わっているは
ずだ。武器防具はいらない。今日の俺は、装備も回復薬の類ももっ
てきていないが、マナは余っているから小回復の魔法は使える。こ
の身一つで駆けつけるのが先決だ。
﹁すまん、チェルージュ︱︱﹂
﹁行ってらっしゃい。また来週ね﹂
苦笑顔のチェルージュにろくな挨拶も残さず、俺は駆け出した。
すでに平均的な成人男性の二倍近い敏捷となっている俺の走る速度
は、かなり早い。道行く人が、疾走する俺に何事かと驚いているが、
こちとらそれどころではなかった。
幸いにして、文化街から冒険者ギルド、ひいては迷宮広場は近い。
焦りが募るばかりで長い時間に感じたが、念話が終わってからほ
んの二、三分しか経たないうちに、俺は現場へ辿りついた。
﹁あら、ジル。早かったわね﹂
レザーアーマー
クリエイトアクア
息を切らしている俺の瞳に映ったのは、何事もなかったかのよう
な顔で皮鎧を洗っているエミリアである。異変といえば、作水の魔
クロースアーマー
法で水をぶっかけている皮鎧に少なくない血痕が付いていることと、
エミリアが身にまとっている布鎧がおびただしい血液で赤く染まっ
610
ていることである。
﹁お前、それ︱︱﹂
ミドルポーション
﹁恐狼に噛まれたの。右腕の肘あたり、ほとんど持ってかれたわ。
骨どころか筋までダメだったんだけど、中級回復薬ってすごい効く
のね、すっかり元通りよ。ほら、無事だったんだからもう泣かない
の﹂ しゃくりあげるエマをあやしつつ、水に濡れた皮鎧を再び着始め
るエミリアであった。
﹁待て、エリーゼは?﹂
この場に、パーティの要であるところの狩人の姿がないのだ。
まさか命を落としたかと最悪の想像が頭をよぎるが、それだとエ
ミリアがここまで落ち着いてる説明が付かない。
﹁別行動してるわ、豚人を相手するだけなら一人で余裕だもの、あ
の子。服も着替えたいし、いったん宿に戻りましょ、そこでこうな
った理由を説明するから﹂
皮鎧、べたべたで気持ち悪いなあ、などと呟きながら歩き出すエ
ミリアに、俺もエマも付いていく。ならば脱いでいればいいと思う
のだが、商店街の大通りを血まみれの布鎧のまま歩くのが嫌なのだ
そうだ。確かに、人目を引くのは間違いないだろうが。
611
オーク
﹁と言っても、単純な話よ。エリーゼは一人で、私とエマは二人で
豚人を狩ってたの。でも、中層に冒険に行きだして、慢心があった
んでしょうね。恐狼の出没地域に入りこんで、痛い目を見たってだ
け﹂
エミリアが湯と布で身体を拭って私服に着替え、補洗機のペダル
サボナサボテン
を足でがしょんがしょん踏みながらの会話である。補洗機の中身は、
もちろん泡油樹の粉まみれになった布鎧だ。
﹁エマが悪いんです。わたし、豚人なんて余裕だって思ってて。恐
狼も大したことないって言って。エミリアは嫌がってたのに、じゃ
あわたしだけでも行くからって。そうしたら、しょうがないわねっ
てエミリアは付いてきてくれたんですけど、そこに恐狼が現れて︱
︱﹂
せっかく落ち着いてきたというのに、話している途中でまた泣き
出してしまうエマである。いまいち要領を得なかったのでエミリア
に聞いてしまったのだが、つまるところ、エマが独断で恐狼の出没
地域に踏み入り、エミリアを守りきれずに怪我をさせてしまったと
いうことらしい。
俺が一人で恐狼と戦ったときのことを思い出す。
俺の剣撃をかわして背後に回りこめるようなあいつのことだから、
重装備のエマを無視して後衛のエミリアを襲うことなど難しくはな
かったはずだ。
リアクティブアーマー
﹁魔鎧を詠唱してあったから、食いちぎられこそしなかったし、エ
ファイアアロー
マがすぐ恐狼に斬りかかったから、私への噛み付きをやめて、恐狼
の方から距離を取ったの。あとはエマが火矢を連射したら恐狼が逃
げたから、すぐに帰還の指輪を使って現状に至る、ってわけ。ジル
612
に連絡が行ったのは、指輪の発動準備中ね﹂ ﹁ごめんなさい、ごめんなさい︱︱﹂
﹁あなたを説得できなかった私も悪いのよ。私たち、話し合いが足
りてなかったわ﹂ 懐からハンカチを出して、嗚咽を増すエマの涙や鼻水を拭いてや
るエミリアであった。
﹁ジル、ちょっと昼寝をしましょう。エマが前衛をやるのを怖がる
ようになったら良くないわ。ケアしてあげて﹂
俺は首を傾げた。ケアになるかどうかはともかく、落ち着かせる
役目を振られたというのはわかった。
﹁ほら、エマ﹂
エマは背中を押されながら、俺たちの部屋へと入っていく。すぐ
に自分のベッドに突っ伏して、めそめそし始めるエマであった。
﹁ほら、あんたも﹂
俺もエミリアに背中を押されるまま、エマのベッドに横たわる。
しがみつく相手を布団から俺に変え、再びめそめそするエマであっ
た。エミリアはというと、自分のベッドに腰かけて俺たちの様子を
微笑みながら眺めている。
︵なんかこう、勝手が違うな︶
613
俺はというと、泣き汗なのか冒険の汗なのか、少ししっとりした
エマの髪を撫でつつ、ベッドの感触に慣れずにいた。普段は俺のベ
ッドにエマが潜りこんでくるために自分の領土内であるという安心
感があったが、規格から何からまったく同じはずのエマのベッドは
どこか普段と違う。
野生動物は自分の臭いで縄張りを主張するというが、慣れ親しん
でいない布団はこうも腰が落ち着かないものなのか。
体臭について考えこんでいただけに、エマの台詞は心臓が止まる
かと思った。
﹁チェルージュの、匂いがする﹂
ぴしりと空気が凍った気がする。
あれほどにめそめそしていたエマはいつの間にか泣きやんでおり、
俺の体臭をすんすんと嗅ぎ出していた。
﹁なるほど? 私が死にそうになってた間、ジルは女の子と楽しく
遊んでたってわけね?﹂
刺さりそうなほど鋭く、そして冷ややかな視線で俺を見下すエミ
リアである。
だって休みだったし自由に過ごしてもいいだろう、などと反論を
すると傷口を広げそうで恐ろしく、若干の理不尽さを感じつつも、
エミリアの視線に恐れをなしてそっと目を逸らす俺であった。
﹁エミリア、ここ﹂
仰向けになった俺の左半身はエマが占拠しているわけだが、右半
身側のベッドを、ぽすぽすと手で叩くエマである。
614
いやまさかエミリアがそんなことはするまい︱︱
︵え、マジで?︶
何かを覚悟したような目付きになったエミリアは自分のベッドか
ら立ち上がり、
俺たちの方へと近づいてきた。俺が半信半疑で彼女の挙動を見守る
中、﹁えい﹂などと声を発しつつ、エマが指定した地点にごく自然
に滑り込んできた。
エミリア。俺。エマ。
簡潔に言うと、エマのベッドで川の字の俺たちである。まったく
予想外な状況であった。
﹁えっと、エミリア?﹂
﹁昼寝するんだから静かにして﹂
﹁いくら親代わりとはいえ、齢七つにして男女同衾せずとか言うじ
ゃん﹂
﹁初めて聞く言い回しだけど、じゃあエマはどうなのよ。静かにな
さい﹂
はい、と素直に頷いて黙る俺であった。確かにエマの侵入を黙認
している現況では説得力に欠ける台詞である。
﹁だいたい、あんたを親代わりだと思ったことはないわよ﹂
615
エミリアの台詞に、軽くへこむ俺であった。ここのところ、エミ
リアとは良好な関係を築いて来たように思っていたが、どうもまだ
心を許してくれたわけではないらしい。
そのまま、二人が寝息を立て始めるまで微動だにせず天井の染み
でも数えていたのだが︱︱エミリアが僅かに震えていることに気が
ついた。
どうした、と声をかけようとして俺は思いとどまる。
考えてみれば無理もないのだ。エマの手前、気丈に振舞ってはい
たものの、今日、死にかけたばかりなのだから。
少しばかり逡巡したものの、いつもエマにしているようにエミリ
アの頭を撫でた。特に逆らわなかったので、俺は両手で二人の頭を
撫でながら、少女たちが寝付くのを待つ。
余談だが、晩飯前にエリーゼが帰ってきて、一つの布団で寝てい
る俺たちの状況を見て目を丸くした。寝返りも打てずに尻を鬱血さ
せつつ、俺は、苦笑いで返した。
616
第三十八話 返納
﹁さて、それじゃ心機一転、やってこうか﹂
﹁私が前に出る。ご主人様は後ろ﹂
ここは迷宮内の、中層である。ベースキャンプでの順番待ちを終
え、階段を降りているところだった。気合を入れて進みだしたのも
束の間で、エマとエリーゼに両腕を掴まれ、俺はパーティの中ほど
まで引きずり戻された。まだ魔物の出没しない安全圏だというのに。
﹁無理はなさらないでくださいね? もう不死身じゃないんですか
ら﹂
﹁わかってるさ。今までは俺にも緩みがあった。もっと引き締めて
いかないとな﹂
︵︱︱そう、もう不死身じゃないんだよな︶
俺は、昨日の夜の会話を思い出していた。
﹁︱︱すみません、ご主人様。もう一回仰って頂けますか?﹂
﹁うん、だから。加護を返してきた﹂
エミリアが負傷した、翌日の晩。
617
食卓を囲みつつの俺の宣言に、エマたちは揃って固まった。
﹁返してきたって、チェルージュさんの加護を、よね?﹂
﹁うむ﹂
絶句するエマたちの前で、俺は力強く頷く。
エミリアが負傷したことで、俺は中一日の休みを取るとエマたち
に告げた。
彼女たちが心を落ち着かせる時間を取るべきだと思ったこともあ
るが、それとは別に個人的な用もあったのである。
夕方までの時間を使って、俺はチェルージュに会ってきた。
﹁ジルの方から誘ってくるなんて、珍しいね。それも週末でもない
のに。前回の埋め合わせ?﹂
﹁まあ、そんなようなもんだ﹂ サンドメイズ
俺から誘ったところで、金銭的に余裕があるわけでもないので、
昼飯は屋台の迷宮焼きである。薄く焼いたパン生地にかじりつき、
乳精のかかった豚肉の味を堪能しながら、俺たちはぶらぶらと散歩
していた。
本来は丸一日チェルージュに付き合ってから本題を切り出そうと
思っていたのだが、自分でも気が付かないうちに上の空であったよ
618
うで、会話が噛み合わず妙にぎこちない雰囲気になったので、俺は
腹をくくり、とっとと本題に入ることにした。場所はいつもの喫茶
店である。
﹁加護を返したいんだ。今の俺に、チェルージュの加護はもういら
ない﹂
俺の申し出を受け、しばらく真顔で考え込むチェルージュである。
﹁とても予想外な申し出で、ちょっと戸惑ってるんだけど。つまり
私は、振られたのかな?﹂
﹁いや、どうしてそうなる?﹂
二人して﹁へ?﹂といった表情になる俺たちであった。 ﹁私との繋がりを切りたいって意味じゃないの? てっきりそうな
のかと思ったんだけど﹂
﹁加護を返したいだけで、チェルージュと没交渉になる気はないぞ
? 一緒に遊んでて楽しいしな﹂
﹁良くわからないな。自分で言うのも何だけど、脆い人間にとって
は垂涎の加護だと思うよ? ああ、私生活を覗かれてるのが嫌にな
ったとか?﹂
﹁いや、残せるなら別にそっちは残しても構わんぞ? 行き倒れを
助けてもらった見返りだしな。俺が嫌なのは、その便利な部分だ。
死んでもチェルージュに助けてもらえるっていうその点﹂
619
俺の意思を汲み取れないでいるのか、チェルージュは難しい顔で
ココナカカオ
首をかしげた。
手付かずの甘糖珈は、すでに冷めてしまっている。
﹁理解できないというか、筋が通っていないというか。つまり、私
が与えた加護のうち、不死性を保証している部分だけがいらないっ
てこと?﹂
﹁そうだな。瞳に溜まったマナを使ってチェルージュが助けてくれ
るあれだ﹂
﹁よくわからない。マナの一割なんて、そんなに気にするほどのデ
メリットだったかな? 転ばぬ先の杖というか、使う機会が来ない
に越したことはないけれど、今のまま生活することに何か問題があ
るの?﹂
﹁ああ。俺の気が緩む﹂
思いつきで言ったのではない。まる一晩、熟考しての結論である。
今の俺は、いびつなのだ。一人でやっていくなら加護があっても
いい。しかし、パーティを組む上に、司令塔は俺なのだ。
﹁昨日、エミリアが怪我をしたろ? あれだって、考えようによっ
ては俺の責任だ。三人でまとまって行動するように言うとか、俺も
付いていくとか。取り返しのつかない事態が起きないように、念を
入れるべきだった﹂
腑に落ちない、といった表情のチェルージュである。
﹁なんか納得できないなあ。ライバルだから冷たく言っているわけ
620
じゃなく、あれは本人たちのミスだったと思うよ? ジルがどうこ
うできたとは思えないけど﹂
﹁そうかもしれない。でも、死んでも助かるっていう状況は、やっ
ぱりどこか正しくない。心のどこかでそれを頼りにして、危機管理
が甘くなってる気がする。俺は死なないけど、エマたちはそうじゃ
ない。不死身に馴れて彼女たちを付き合わせてたら、いつか事故が
起きる﹂
﹁気の持ちようの問題だと思うけど。加護は今まで通り持っておい
て、ジルがそれに頼らないでおこうって決意すればそれで済む問題
じゃなくて? 何なら、三人にも加護与えようか?﹂
俺は、首を横に振った。
﹁本人たちが望むならそうしてくれても構わないが、俺にはもうい
らない。エマたちと同じ目線で冒険していないと、いつか気がつか
ないうちにお互いの感覚にズレが生じると思う。あいつらの誰かが
死んだりしたら、多分、心折れちまうし﹂
﹁そこまで言うなら、まあいいけど。人間の思考はときどきわから
ないなあ。それともジルだけが変なのかな?﹂
﹁正直なところ、自分でもたまに良くわからない。赤の盗賊団と戦
ったときにさ、俺は一回死んだだろ? それを助けてもらってるの
に、いまさら加護を返したいって言い出してる。虫のいい話だと思
うんだけどな﹂
俺の矛盾には、誰よりも俺自身が一番よく気づいていた。
621
﹁冒険を始めたばかりのころ、かなりの部分で金策をチェルージュ
に頼ってたし、そのおかげでレベルが上がって、みんなの装備が買
えて︱︱ほとんど、自分の力じゃない。いまさら加護を返して冒険
に向かったところで、もう自分の力だけで成し遂げたって胸を張っ
たりはできないさ。それでも、エマたちを失わないように、出来る
限りのことはしたいんだ﹂
﹁ふーん﹂
チェルージュは、そっぽを向いてしまった。しばらく、重苦しい
沈黙が続く。
何か言葉をかけようとしたが、途中から何やら考えこんでいるよ
うで、声をかけづらい。
数分ばかりチェルージュは黙り込んでいたが、やがて、ぽつりと
呟いた。
﹁︱︱母さんは、最後まで自分を許さなかった﹂
どこか遠い目をしながら、彼女は続ける。
﹁私は幼心に、母さんの考え方が理解できなかった。弟を殺し、そ
れ以外の人間を救う。それでいいじゃないか、と。正しいか悪いか
は知ったことではないけれど、母さんの選んだ道だし、自分の選択
に胸を張って、短い生を謳歌すればいいじゃないかと、思ってた﹂
真顔のチェルージュなんて、久しぶりに見る。母のことを話すと
きの彼女は、いつもそうだ。
﹁この街に来てから、そこそこ人間とは触れ合っていると思う。そ
622
れでも、まだ母さんの気持ちは理解できない。ジルの言うことだっ
て、あまりわからない。貰えるものは貰っておけばいいと思うんだ
けど︱︱ジルは、それでは胸を張って生きていけないという。私は、
加護を押し付けることでジルの生きがいを奪っていたかな?﹂
そんなことはないさ、と俺は笑ってみせた。
﹁俺、一回死んでるしな。加護がなければ、そもそも俺は生きてい
ない。なんていうのかな、野生のままでいたいというか。飼い慣ら
されてる俺が、野生のエマたちに餌を持っていく。それじゃあ、い
つしかエマたちだって牙を抜かれると思うんだよ。あるいは、俺が
群れから置いてかれちまう﹂
﹁よくわからない例えだけど、まあ、納得してるならいいよ﹂
少しふてくされた表情のチェルージュの姿が、ふっとかき消えた。
同時に、首筋に硬質なものが押し当てられているのがわかる。一度
だけ体験したことのある感触だった。吸血鬼の館の情景が、思い出
された。
ずぶり、と牙の先端が俺の体内へと入ってくる。
あのときは、牙から体内にマナが流れこんでくる感覚があったが、
今回は逆で、奪われていた。牙を起点に、俺の瞳から首元まで、マ
ナが集められているのがわかる。吸われているのだ。
﹁はい、おしまい﹂
最後に首筋をちろちろと舐められてから、チェルージュは俺から
身を離した。
623
﹁我がまま言って、すまんな﹂
﹁ほんとだよ。加護を返したいって言われた魔物なんて、私で初め
てじゃないかな? もう吸血鬼一族の次期当主としては面子丸つぶ
れだね﹂ ﹁いやすまん。俺に返せるものも大してありはしないが、何か困っ
たら言ってくれ。何でもする﹂ 俺が頭を下げた一瞬で向かいの席へと座りなおしていたチェルー
ジュの琥珀色の瞳が、きらりと光った気がした。
﹁じゃあ週一デートで﹂
聞き間違いかと思って、はぁ?と間の抜けた声を出してしまった
俺は悪くない。
﹁週一デートで。週末空いてるでしょ?﹂
なんだ、そんなことかと頷こうとして、要求を呑んでしまうと、
週末にエマたちを遊びに連れ出すことができなくなることに気づく。
﹁二週間に一度にまからない?﹂
﹁何でもするって言ったじゃん﹂
頬をふくらませて怒るチェルージュであった。
624
以上が昨日の経緯である。エマたちに加護を返してきた旨を伝え
たところ、やはりというか予想通りというか、盛大に驚かれた。
エミリアは率直な表現で﹁馬鹿じゃないの?﹂と呆れ、エリーゼ
は﹁早まってはいけません!﹂などと慌て始める。残念だがすでに
早まってしまった後だ。
エマだけは真顔で﹁ご主人様は私が守る﹂と意気込んでいるが、
彼女の場合は
先走りすぎないように注意せねばなるまい。エミリアのところまで
敵を通したという心の傷はまだ癒えていないかもしれないからだ。
迷宮の中層の序盤、いくつかの無人の部屋を抜け、俺たちはそこ
そこ広い部屋にたどり着いた。ベースキャンプから中層へと進む道
は何十箇所もあり、今回案内された入り口も、前回とは別の侵入口
である。
そのために初見の部屋を通り抜けてきたわけではあるが、中層の
序盤はそもそも魔物がさほど出現しないために、進み具合は快調だ
った。
現に、骸骨剣士と戦った深度の部屋あたりまで十分そこらで到着
できた。
﹁まあ、当然ながら他の冒険者もいるよな﹂
定期的に魔物が出没する中でもっとも浅い部屋はすでに占有され
ていて、他のパーティが魔物の湧き待ちをしているところだった。
625
不要な揉め事は避ける方針であるからして、もちろんこの部屋は素
通りする。
﹁かなり奥に行っても空き部屋がないようなら、帰還することも視
野に入れる﹂
そう、俺は宣言してある。危機回避のため、慎重さの度合いを心
の中で一つ引き上げた形になる。思い返せば、パーティを組んでか
らの狩りは、安全圏をそこまで確保していなかったというか、何か
想定外の事態が起こったときへの対処を用意していなかった気がす
る。
初見の敵と戦うときには、相手の出方や動きがわからない以上、
どうしても事故が起きやすい。予想だにしなかった状況に陥ってな
お、切り抜けられるだけの余裕は持っていなければなるまい。
︵百回戦って九十九回勝てる相手でも、逃げるべきです。百回に一
度、死ぬのですから︶
いつの間にかおろそかになっていたディノ青年の金言を、再び肝
に銘じる俺であった。
魔物の出没区域に入ってから、二つ目の部屋も他のパーティが使
っていた。
三つ目の部屋も他のパーティに使われていたら帰還しようと思っ
ていたが︱︱ここからは直進だけではなく、左右の部屋へと続く通
路が現れる迷宮深度である。
626
足を踏み入れた部屋には他のパーティがいたが、空き部屋を求め
て左右に進んだところ、右方向の部屋が空いていたので、俺たちは
そこへ陣取る。今日の狩場は、ここだ。
﹁そこまで浅い階層を確保できなかったな。各自、安全重視で動い
ていこう﹂
頷くエマたちを横目に、俺は今日の狩場となる森を見渡した。
﹁特殊な構造じゃなさそうだな。迷路じゃない﹂
マナバイソン
﹁そうですね。外周が通路で、中央が森。魔角牛と戦ったあの部屋
と似ています﹂
﹁魔角牛が出現したら、打ち合わせ通りにやろう﹂
ファイアアロー
今まで中層で出会ったことのある魔物に関しては、綿密に対策を
話し合った。例えば魔角牛の場合、火矢で顔面に集中攻撃し、怯ん
だら俺が接近して斬りつける。怯まずに突進してくるようなら、突
進を一回避けたあと、接近戦を俺が挑む。エマの機動力では不安が
残るので、魔角牛の足を止められるまでは回避に専念、といった具
合だ。
︵問題は、どっちかっていうと一度出会ったことのある敵じゃなく
て、初見の敵への対処なんだけどな︶
魔物シリーズ図鑑で予習をしてあるとはいえ、実際に魔物の動き
を見てみないことには、対応した動きをしにくい。一度倒したこと
のある魔物に関しては今のところ危なげなく対処できているが、現
状の課題は初見の敵に対して、とっさに有効な戦術を考えついて指
627
示を出すことで、それは俺の役目だった。
俺が考え事をしている最中にも、エリーゼは猫のような姿勢で索
敵をしつつ森の奥へと進んでいる。茶色いバンダナを見失わないよ
うに、俺たちも一定の距離を保ちながら、先行したエリーゼに付い
ていく。
チェルージュの加護を返したことで、不必要に緊張するというこ
とはなかった。
運が悪ければ死んでしまうとはいえ、迷宮に入り始めたころだっ
てその覚悟は持っていたし、加護のある状態で迷宮に潜っていたと
きも、無警戒で暢気に冒険をしていたわけではない。
ただ、いつもより気持ちが引き締まっているだけだ。悪い傾向で
はないと自分でも感じられる。
ポイズントード
︵敵発見、十二番。二体︱︱大毒蛙か︶ 敵を発見したエリーゼが戻ってきて、魔物のいる場所を俺たちに
指し示す。
﹁この先は、小さな泉になっていました。地図で言うと、恐らく部
屋の北東あたりですね。泉の淵に二匹のカエルを確認しました。他
に魔物はいないはずです﹂
ファイアボールファイアアロー
﹁不意打ちで、一匹に対して火弾と火矢で集中攻撃しよう。倒せな
ければ攻撃を続行。倒せたら次の個体に火矢で攻撃。接近してきた
ら俺とエマで迎撃する。ただしエミリアは解毒用のMPを常に残し
ておいてくれ。なるべく木陰から狙い打ちたいところだが、接近戦
になったら俺が毒を食らいかねん﹂
628
了解という三人の声が重なる。俺たちは足音を殺しながら進み、
それぞれが別々の木の陰に隠れた。
︵すっげえ色してんな︶
部屋の北東の隅︱︱泉の広さは、二十メートルもないぐらいだろ
うか。泉の周囲には、俺の腹ぐらいまでの高さの灰色の植物が群生
していて、泉の奥には、その植物をかき分けるように二体の大毒蛙
が地面に張り付いている。
大毒蛙の表皮は、黄と黒と赤色が斑模様に入り乱れた、非常にわ
かりやすい警告色である。一メートルほどの、蛙としては大きな全
長は、色彩に乏しい迷宮の中にあって毒々しく目立っていた。
ちらとエマたちを見やると、彼女たちはすでに攻撃魔法の発射準
備を終えていた。手振りで狙う方を指定してから、俺も両手の先に
マナを集めて、火矢を引き絞る。
﹁発射!﹂
三本の火矢と一発の火弾が、泉の上を走って右側の大毒蛙に襲い
かかる。
火の粉を散らして火矢が突き立ち、一拍遅れて着弾した火弾が轟
音を上げて爆発する。
大毒蛙は密集していたので、エミリアの火弾の爆発にもう一体も
少しだけ巻き込めたが、集中攻撃をしていないその個体は軽傷だっ
たのか、跳んで草むらの中に逃げた。火矢と火弾の直撃を受けた個
体の方は、もう動いていない。
629
﹁詠唱続行﹂
林の中に逃げ込んで隠れたとはいえ、この距離ならば俺の気配探
知スキルでも大まかな場所がわかる。それに、表皮の蛍光色が草と
草の隙間からちらちらと見え隠れしていて、狙いやすかった。
先行して、俺だけ火矢を放つ。灰色の植物の隙間を縫って、伏せ
ていた大毒蛙の背中に突き立った。一瞬だけもがいてから、大毒蛙
は草むらの中から飛び出てきた。1メートルほどの毒々しい警告色
が、空を跳ぶ。
それなりの巨体であるにも関わらず、俺の身長よりも高く跳べる
ようだ。
空を跳びながら、大毒蛙は唾液を飛ばしてきた。毒液はかなり正
確に、勢いよく真っすぐ俺たちへと向かってきたので、木を背にし
て毒液をやり過ごす。
慣性にしたがって地面に着地した大毒蛙に、第二陣の火矢が殺到
した。
隠れていた大毒蛙のあぶり出しに俺は火矢を使ってしまっていた
ので、残り三人だけでの集中攻撃であったが、威力の高いエミリア
の火矢が大毒蛙の顔面に抉りこむように突き立ち、大毒蛙は能動的
な動きを止めて痙攣し始める。
まずは、圧勝というところだった。
﹁ふう。みんなお疲れ。毒液を食らった者はいないな?﹂
630
﹁みな無事です、ご主人様﹂
三人の笑顔を確認し、俺は満足して頷いた。初見の敵ではあった
が、きっちりと対処できたと思う。
オーディーン
﹁ねえジル、あれ百薬草よね? 蛙のそばに生えてるあれ、全部﹂
﹁多分な。欲で目が眩まないように、意識して考えないようにして
たけど﹂
オーディーン
ポーシ
泉の周囲に生えていた、俺の胸ほどまでの長さの、灰色の植物。
ョン
群生していたのは、百薬草である。低級から通常品質までの回復
薬の原材料になる、迷宮素材だった。
ポイズントード
﹁大毒蛙からは素材が取れないからちょっとがっかりしてたんだけ
ど、あれだけあれば日当が出るわね﹂
瞳にゴルド金貨が張り付いているかのような幻視さえ覚える、弾
んだ声色のエミリアであった。俺は苦笑しながら指示を飛ばす。
﹁エリーゼ、いつも通り、魔物湧きの警戒を頼む。俺たちは手分け
して葉を摘んでいこう﹂
みな頷き、散りぢりになって作業に入る。無傷で魔物を討伐し、
素材まで手に入るとあって浮かれた空気になっていて、エミリアに
至っては鼻歌まじりで作業を行っていた。
俺は苦笑しつつも、心のどこかで安堵してもいた。大きな怪我が
原因で、エミリアが迷宮での探索を怖がるようになるかもしれない
と危惧していたが、どうやら乗り越えてくれたらしい。
631
﹁素材が取れるのはいいんだけど、変な臭いね。手袋に沁みそう﹂ ぼやくエミリアであった。
百薬草で売り物になるのは、細い茎から伸びた卵形の葉っぱだけ
である。
葉の根元を刃物ですっと切り落としてやると、断面から青臭い汁
がにじみ出てくるので、確かに匂いが沁みつかないか心配だ。鼻を
近づけて臭いを嗅いでみると、つんと鼻の奥がしびれるような刺激
を感じる。とてもではないが、食用になるとは思えない臭いだった。
葉をすり潰した汁から回復薬の成分を抽出するらしいが、市販さ
れている回復薬では青臭さはかなり抑えられている。飲みやすい味
にするために先人が苦労したのかもしれない。
﹁採取しやすい素材なのはいいけど、これだけ群生してると一苦労
ね﹂
合間にちょっとした会話を挟みながら、黙々と作業をこなす俺た
ちであった。
切り取った葉の向きを揃え、一まとめにして背嚢にしまいこんで
いく。
刃物で葉を切り取るだけだし、採れた葉は薄っぺらくて持ち運び
も簡単だが、切り取る量が量である。一本の百薬草に生えている葉
はせいぜい数枚で、慣れれば一分もかからずに作業は終わるが、泉
の周囲に群生しているので並の作業量ではない。
﹁敵襲! 数は三! 十八番!﹂
632
アンデッド
スケルトンウォリアースペクター
エリーゼの鋭い声が聞こえるや否や、俺は長剣を抜いて駆け出し
た。図鑑の十八番は不死族である。骸骨剣士か死霊か、どちらにせ
よ急ぎエリーゼの元に駆けつける必要があった。
敵発見、ではなく敵襲である。すでに敵には気づかれている上に、
三体となれば俺とエマだけでは抱えきれない。しかも、エマは採取
のために板金鎧の胸元を開けていたので、装備を着なおす分、反応
が遅れるだろう。 林の中に駆け込むと、エリーゼが俺たちの方へと一目散に逃げて
くるところだった。まだ姿は見えないものの、三体の魔物がこちら
の方へと慌しく向かってくる気配がある。
林の中で迎え撃つか、泉まで退がるか、俺は一瞬迷った。この狭
ファイアアロー
い地形では、エミリアの魔法による援護が期待できない。視界が悪
ファイアボール
く火矢を撃ちにくいだろうし、敵が骸骨剣士なら接近戦になるので、
火弾は俺たちまで巻き込んでしまうから使えない。
﹁エリーゼ、泉まで退がるぞ!﹂
﹁了解です!﹂
しんがり
殿を俺が務め、エリーゼを泉まで後退させる。剣を構えたままの
俺が林から出ると同時に︱︱二匹の骸骨剣士が茂みの中から飛び出
スペクター
してきた。さらにその後ろには、苦悶の表情を浮かべた上半身だけ
の幽霊︱︱死霊が宙に浮いている。
﹁エマは右! 二人は死霊を!﹂
エマの臨戦態勢が整ったのを視界の隅に捉えつつ、俺は長剣を構
633
スタデットレザーア
ブー
ロマ
ーー
ドソード
えなおした。骸骨剣士の装備は二体とも鋲皮鎧と帯広剣で、死霊と
もども真っすぐ俺に向かって走りこんでくる。
︵くそっ、さばけるか、これ!?︶
それぞれに狙う相手は指示したものの、魔物は三体とも俺に殺到
してきていた。
さすがに一対三は荷が重いので、とっさに回避したくなる気持ち
を強引に押し殺す。前衛の役目は壁だ。俺がここで横に避けてしま
っては、後衛のエミリアたちのところに魔物が向かってしまう。
俺の逡巡などお構いなしに、骸骨剣士は躊躇せず突っ込んできた。
片手上段から振り下ろされた帯広剣を、長剣で受け止める。硬質な
音とともに、剣と剣の接触部で火花が散った。
その間に、二体目の骸骨剣士が、一体目の骸骨剣士とぶつかるの
も厭わず、俺に帯広剣を突き出してきた。避けれず、右肩の付け根
あたりに焼けつくような痛みが走る。
︵くそっ、同士討ちを気にしなくていい魔物はこれだから!︶
さらに、死霊が俺に肉薄してきた。大口を開けて叫んでいるかの
ような、苦しみの表情。腰から下がなく、上半身も半透明なそいつ
は︱︱その苦悶に満ちた顔を、俺の顔に押し付けてきた。
白目、顔の皺、絶叫するかのごとく開かれた口。
あまりのおぞましさに、俺の全身が総毛立つ。俺はとっさに長剣
から右手を離して、死霊の顔面を払おうとするも︱︱するりと、腕
は死霊をすり抜けた。
死霊は半透明の体を俺に近づけ︱︱すうっと、俺を通り抜けた。
634
︵ぐっ!?︶
死霊の体が俺を通り抜けた部分から、ごっそりと何かが奪われて
いる。腕に力が入らない。下半身は自由に動くので、膝をついたり
はしなかったが、長剣を取り落としそうだ。
更にまずいことに、二体の骸骨剣士は健在である。死霊の攻撃に
よって力を奪われた俺は、長剣を構えることすらできない。
一体目の骸骨剣士は、再び片手上段に帯広剣を振りかぶって、俺
に斬り付け︱︱
﹁おおおおッ!﹂
プレートメイル
エマの鉄拳が骸骨剣士の顔面に炸裂した。板金鎧の小手を握り締
めた、文字通りの鉄拳である。小柄な彼女の一撃によって、一体目
の骸骨剣士は大きく仰け反る。
バトルアックス
エマは止まらない。殴りつけた勢いそのままに、骸骨剣士の腰に
飛びつき、押し倒した。いつの間にか、愛用の闘斧を手放している。
二体目の骸骨剣士は、矛先をエマへと変え、一体目の骸骨剣士に
馬乗りになっている彼女へと帯広剣を振りかぶるが︱︱軽やかに宙
を跳んだエリーゼの前蹴りで吹っ飛ばされる。
エマが、馬乗りに押し倒した骸骨剣士の顔面を鉄拳で滅多打ちに
する横で、一本の火矢が空を裂いた。俺に対して、再びの接触を試
みようとしていた死霊は胴体を打ち抜かれ、苦悶の表情のままに霧
散した。
自分が馬乗りになって殴りつけている骸骨剣士と、エリーゼが吹
635
っ飛ばした骸骨剣士のどちらを相手取るべきか、一瞬エマが悩んだ
かのような仕草を見せたので︱︱愛用の武器を手放してでも俺を助
けに入ってくれたエマを見習い、長剣を床に放り投げ、エリーゼに
吹っ飛ばされた二体目の骸骨剣士に駆け寄って︱︱全力を篭めて、
その頭部を蹴っ飛ばした。
俺よりも腕力で劣るエリーゼは俺の動作を読んでくれたのか、無
駄な追撃をせずに避けてくれている。
力が入らないのはあくまで上半身である。すかっとするほどの快
音を立てて、骸骨剣士の頭部は破砕した。エマが相手取っている一
体も、首から上の骨をすっかり砕かれて動かない。三体の魔物は、
すべて無力化されたのだ。
﹁ふう。何とかなったな、お疲れさん﹂
ヒール
俺は自分に小回復をかけた。力が入らなかった上半身が楽になっ
ていく。
戦闘を終え、みな笑顔を見せて肩の力を抜くが︱︱すぐに、エリ
ーゼが短剣を抜きなおした。その動作を見て、みな緩んでいた気持
ちを一瞬で切り替えて武器を構える。
一度魔物を倒した後、こんなにもすぐに新たな魔物が湧くのは初
めてのことである。しかし、確かに接近してくる一体の気配を感じ
られた。がさがさと乱暴に茂みをかき分ける音もする。
出てくる魔物次第では火矢の先制攻撃もしなければならないので、
みな真剣な表情で林の中を凝視する中で︱︱そいつは姿を現した。
636
﹁あ、ああっ。君たち、すまない、手を貸してくれ! 先の部屋で
俺のパーティが事故ったんだ﹂
スタデットレザーアーマー
木々をかきわけて姿を見せたのは、鋲皮鎧に身を包んだ狩人らし
き男性だった。
俺は、みんなと顔を見合わせて︱︱狩人の男性を、急きたてるよ
うに走り出した。
﹁案内しろ!﹂
﹁すまねえ、こっちだ!﹂
すぐにエリーゼが俺を追い越し、狩人の彼を追走する陣形になる。
ちらと後ろを見ると、エマとエミリアも遅れずに付いてきていた。
エミリアのみ、現場に残した魔石や素材が気になっているようだ
ったが、首を横に振って諦めろ、と伝える。
彼らを見捨てて得られるのは目先の現金だけ。そして恨みも得る
だろう。俺たちに責任がないとはいえ、俺たちが手を貸していれば
助かったはずの仲間が、助けに入るのが遅れたせいで死にでもした
ら、俺たちを恨むのが人というものだ。
ポイズンフライ
﹁敵の種類と数は?﹂
マナバイソン
メイジ
﹁魔角牛と痺毒蛾だ。牛に気を取られて、戦士が燐粉を吸っちまっ
た。蛾は魔術師が打ち落としたんだが、戦士が突進をくらっちまっ
て動けねえ。いまは、何とか木を盾にして魔術師が時間を稼いでる
はずだ﹂
﹁わかった﹂
637
狩人であるお前が索敵をしっかりしていれば防げた事態だ、など
と難詰はしない。わざわざ恨まれることもあるまい。
俺たちは走る。隣の部屋とはいっても、より深部へと一つ進んだ
部屋のようだった。さほど出没する魔物に違いはないだろうが、未
知の魔物と遭遇する覚悟はしておいた方がいいだろう。
通路を走りぬけ、俺たちが次の部屋へと飛び込むと︱︱魔角牛が、
のそのそと森の中から出てくるところだった。俺たちにすぐに気づ
き、姿勢を低くする。
魔角牛の突進が始まるより早く、俺は走った。一拍遅れて、魔角
牛が大地を蹴る。
避ける方向は、初めから決めていた。左手を軸に剣を握るとき、
最も威力が乗るのは右方向からの斬撃だ。すれ違いざまにぶち当て
るなら、相手の突進の威力も利用できるように、俺は左に避けるべ
きだ。
即死しかねない突進に正面から立ち向かうのは、少なからず勇気
が必要だったが︱︱回避は成功し、俺は駆けつけた勢いそのまま、
接触の寸前で左へと跳び避けながら魔角牛の膝あたりに斬り付けた。
駆けながら剣を振ったので満足な体勢からの一撃ではなかったが、
相手の勢いを利用できたため、長剣を振りぬいた腕にはしっかりと
した手ごたえが残った。
左前脚に深い傷を負い、地響きを立てながら地面に倒れこむ魔角
牛に、次なる攻撃を当てる必要はなかった。俺よりも遅れていたエ
638
バトルアックス
マが、闘斧を振りかぶりながら、走りこんでいたからである。
がずんっ、という、いつ聞いても凄まじい破壊音とともに、魔角
牛は頭部をかち割られて断末魔の悲鳴を上げた。
﹁サンドラ! サンドラ!!﹂
戦闘が終わるや否や、恐らくは連れの名前であろう人名を連呼し
ながら、森の中に分け入っていく狩人の男から、俺はそっと目を逸
らした。
先ほど、森の中から、ゆっくりと歩きつつ魔角牛は出てきた。中
に獲物が残っているのなら、もっと気が立っていても良さそうなも
のなのに。
つまり、もう戦闘は終わっていたのだ。
﹁エリーゼ、ここに残って索敵を頼む。ちょっと手伝ってくるから﹂
俺が歩き出したと同時に、すこし預かって、と闘斧をエリーゼに
渡して、エマも歩き出した。
﹁えっとな、エマ。大丈夫だから、ここで待っててくれるか?﹂
プレートヘルム
板金兜の面頬を上げながら、エマはふるふると首を横に振った。
その瞳にはしっかりした覚悟の色が宿っていて、あの林の中がど
んな状態なのか、ちゃんと予想がついているようだった。
﹁ちがいます。あの人には悪いけど、見ておきたいんです﹂
639
﹁ならいいさ。繊細になってるだろうから、受け答えは俺がするよ﹂
こくりと頷くエマであった。間もなく、林の奥から押し殺したよ
うな嗚咽が聞こえてきた。大の男が泣くほど、仲の良いパーティメ
ンバーであったのだろうか。
彼を責めるなよ、と俺は重ねてエマに囁いた。索敵漏れと敵前逃
亡、彼には二つのミスがある。彼が魔角牛を引きつけ、林の中に逃
げていたもう一人の魔術師が救援要請のために現場を離れていたら、
二人とも助かっていたのかもしれない。
怯惰なのかもしれないし、判断ミスなのかもしれない。しかし、
もう過ぎてしまったことだ。
﹁新たな魔物が湧くかもしれない。さっきの話だと、もう一人いた
んだろう? 探してやらないと﹂ 膝をついて泣き崩れる狩人の背中に、そっと俺は声をかけた。
現場は、ひどい有様だった。突進を食らったわけではないが、転
がったところを何度も踏み潰されたらしい。血で染まり、乱れた長
髪から、かろうじて女性だったとわかるものの、彼女の損傷は激し
かった。
俺の言葉にぴくりと反応して、狩人の彼は顔を強引に拭った。
運ぼうか?と声をかけるも、彼は静かに首を振ってそれを断り、
物言わぬ魔術師の体を抱いて立ち上がった。
もう一人の戦士も、すぐに見つかった。森の外周に沿って通路を
少し歩くと、
640
木に背中をもたれかけさせている重装甲の姿があったのだ。板金鎧
レッサーポーション
の胸の部分が大きくへこみ、鉄兜は脱げ飛んでしまっていた。口元
から血を流し、白目を剥いている彼に低級回復薬をかけたものの、
傷は塞がらなかった。生者にしか、回復薬は反応しない。
﹁迷宮に吸われる前に、地上へ連れて帰れた。ありがとうな﹂ 帰還の指輪の発動待ちをしながら、気丈にも、狩人の彼はそう言
って俺たちに頭を下げた。
﹁いいさ﹂
俺も言葉短かにそう返した。彼にかけるべき気休めの言葉は、俺
の内には見当たらない。数十秒の沈黙の後に、狩人の彼は戦士と魔
術師を連れて、淡い光の中へと消えていった。
﹁エミリアが、ああなってたかもしれないんですよね﹂
ぽつりと、エマが呟いた。
641
第三十九話 内心
﹁おう、暇か? 前に鉱石運搬の仕事やってもらったろ。あれみた
いな依頼が出来たんだが受けてくか?﹂
﹁分割払いの借金もあるし、まあいいけどよ︱︱何の仕事だ?﹂
休日である光の日が目前に控えた、今日は闇の日である。時刻は
夕暮れどきで、狩りを終えてきたところだ。例によって、刃物の砥
ぎを頼もうと思ってダグラスの店に寄ったのである。
﹁うむ、そういう付き合いの良さはいいと思うぜえ。最近の奴らは
義理と貸し借りをやけに軽く見やがる。人間なんざ、どう頑張った
って助け合わにゃ生きていけねえのによ﹂
﹁ご立派な説教だが、それを俺みたいな若者に言ってどうすんだ、
おっさん﹂
﹁おっと、そうだった。ついお前さんと話してるとお前さんの歳を
忘れちまう。俺ァ無口な方なんだが、どうもお前さんと喋ってると
口が軽くなっていけねえ。依頼の内容だが、開拓村へ物資を運ぶ馬
車の護衛だ。明日の朝、物資を積んだ馬車がこの街を出る。行き帰
りの成功報酬で20,000ゴルドだ﹂
﹁いいぞ、特に予定も入ってないし﹂
一瞬チェルージュの顔を思い浮かべたが、明日の予定はまだ入っ
ていない。
642
先週もチェルージュとは会っているし、今週の休日はエマたちを
連れ出す日でいいだろう。開拓村にはまだ行ったことがないし、観
光も兼ねた、いい休日の過ごし方だと思う。
﹁言葉の綾で貸し借りって言ったが、お前さんと交わした分割払い
の契約は真っ当なもんだ。お前さんへの貸しなんざないし、断って
くれてもいいんだぞ?﹂
﹁この店があるおかげでずいぶん助かってるよ︱︱で、集合は何時
だ?﹂
シルバーサーレ
ペザ
ンー
トアーマー
プレートメイル バトルアックス
翌朝の集合時刻に、俺たち四人は東門の前へと集まっていた。
俺は銀蛇の皮鎧、エマは板金鎧に闘斧︱︱迷宮仕様の完全装備で
ある。
エマのみ重量が桁違いなので気の毒だったが、気安く着れる予備
の装備というものが、エマたちにはない。
﹁だいじょうぶです。ここ一週間で、また力、強くなりましたから﹂
ふん、と力を篭めて、片腕で闘斧を持ち上げてみせるエマであっ
た。
レベルが上がることによる筋力値の上昇では実際の筋肉は付かな
いものの、冒険や日常生活での運動は普通に肉が付く。ダグラスの
ような肉体労働職が筋骨隆々としているのもそれが理由だ。
奴隷商人の元から引き取ってきたばかりのころと違い、いまやエ
マの全身は引き締まりつつも、筋肉の厚みが付き始めていた。身体
643
が丈夫になったと喜ぶ反面、このままいくと年頃の少女がマッチョ
になりかねないのは悩ましいことであった。
四頭立ての馬車が列を為して、開拓村へと続く道を進む。
例によって石で舗装されていない、踏み固められただけの土の道
路であるため、
ところどころに埋もれた石や段差の上を馬車が通るたびに、ごとり
と揺れる。
空の背嚢を尻に敷けばいくらかましなのだろうが、元々エリーゼ
は背嚢を持たず、エミリアは何が入っているのかわからないが、中
身が膨れた背嚢を後生大事そうに抱えていた。
がたがたと揺れるたびに顔をしかめる二人である。板金鎧のエマ
だけが涼しい顔をしていた。
ちなみに俺も、すっかりこの段差による振動を忘れていたため、
敷物等は用意してきておらず、度重なる揺れと突き上げによって尻
が痛かった。レベルが上がっているせいか、銀蛇の皮鎧のおかげか、
赤の盗賊団を討伐したあの日よりもましな痛みではあったが。
﹁おう、くるくる嬢ちゃん大丈夫か? 何ならケツ撫でてやろうか
? がはは﹂
﹁帰ったら奥さんにチクってやるから覚えてなさいよ。結構仲いい
んだからね﹂
ご機嫌なダグラスの顔が、みるみる青ざめて縦線が刻まれだすの
は放っておこう。
十台を超える馬車一行の中で、俺たち五人が乗っている馬車は最
644
後尾の一台である。ダグラスを含めた俺たち五人と、武器防具を詰
め込んだ木箱を満載しているので、お世辞にも広々とした快適空間
ではない。
定期的に開拓村へと向かう輸送物資の運搬に、有志の商人が自前
の馬車を駆って参加する、毎週末の風物詩がこの行列なのだそうだ。
じゃあ、護衛代は各自の負担︱︱言い換えれば、ダグラスが俺た
ちに払う護衛代は自腹か?と聞いてみたのだが、新たな土地の開拓
は公共事業なので、そこへ向かうための護衛を雇う分には、冒険者
ギルドから補助金が下りるらしい。
﹁まあ、これだけいれば魔物も襲ってこないだろうが﹂
十台を越える、馬車の大行列である。俺たち以外にも護衛を雇っ
ている馬車はあるだろうし、赤の盗賊団は壊滅したので賊の出現も
おそらくないだろう。
付近の山々や森には野生の魔物が住み着いているというが、少し
でも知恵のある魔物ならばこれだけの大所帯に襲いかかるというこ
ともあるまい。せいぜい、知能の低い昆虫系の魔物が散発的に現れ
るぐらいではなかろうか。
﹁そんな弱い魔物でも、街の外に畑を持ってる農夫なんかには深刻
な脅威なんだぜ。あいつら、人の目をかすめて農作物を食い荒らし
たりするからなあ。たまに人死にも出る﹂
﹁あまり街の外側に出たことはないんだが、なんでまた城壁の内側
で畑を作らないんだ? その方が安全だろ?﹂
﹁そりゃお前さん、金だよ。城壁の内側は土地の数が限られてるか
らな、土地代も高いのさ。食うのに困ってるやつは、畑一つ作るに
645
しろ街の外に出なきゃなんねえ。スラム街を見たことがあるか? あそこらを根城にしてるのは、貧民の中でもまだマシな暮らしをし
てる奴らなんだぜ。もっと貧しい奴らは、犯罪奴隷とかと協力して
街の外に小屋を建てて、畑を作るのさ。もちろん衛兵の守備管轄外
だから、魔物に襲われても自己責任さね。街の周囲を巡回する依頼
とかを駆け出し冒険者のためにギルドが張り出したりするけどな、
四六時中目が届くわけでもなし。一口に五十万人って言っても、壁
の内側に住めてるのはその半分ってとこじゃねえかな。残りは郊外
やら開拓村に住んでるんだ﹂
﹁はあ。生きてくだけで大変なんだろうな﹂
﹁お前さんも他人事じゃないんだぜ? 怪我とかで迷宮に入れなく
なった冒険者が
食うのに困って外で暮らしたり、さらに食い詰めて賊になったりな
んていうのは良くある話なんだ﹂
ふと、思い当たる節があった。エマの父親も、確かそういった経
緯で身を持ち崩したのではなかったか?
﹁生きてさえいれば、ジルは私たちが食べさせてあげるわよ。かな
り投資してもらったし﹂
なぜかエミリアが胸を張る。エマの方をちらと見るが、面頬から
覗く表情は普通で、特に先ほどの話を気にしている風ではない。も
う両親のことは割り切っているのだろう。
しばらく話題が途絶えた。馬車が道を行く、がたごとという音だ
けが響いている。
646
エミリアが、ちょっと悩んだ顔をしていた。
何かを言おうとして、また口を閉じる。切り出すべきか切り出さ
ぬべきか、思いつめている風だ。
何となく用件に心当たりがあったので、見守っていた。やがて、
髭モジャだしいいか、と呟いてエミリアは口を開く。
﹁なんで加護、返したの?﹂
予想通り、加護を返した件についてだった。特に異論を示さなか
ったのはエマだけで、エリーゼもエミリアも納得はしていないので
ある。
﹁言ったろ、油断の原因になるからって﹂
﹁お前さん、どういうことだ、加護を返したってのは?﹂
家族会議の最中なんだから黙ってて、そのヒゲ焼くわよと言われ、
馬車の隅で
地面に字を書いていじけるダグラスであった。
﹁言い出さなかったけど、ジルの加護があれば色々な戦法が取れる
わ。例えば、ジルが行けるだけの深部まで走りこんで、集まってき
た魔物のど真ん中で死ぬのよ。朱姫様が現れて魔物は一網打尽、魔
石と素材はボロ儲け、帰還の指輪で帰ってくるとか。あとは、誰か
の身代わりよね。エマが危険になったら、身体を張ってジルが攻撃
を食らうのよ。もしジルが死んでも生き返れるし、エマは助かる。
いいこと尽くめね﹂
﹁あなた、そんなことを考えてたの? 私たちがご主人様を庇う側
647
でしょう?﹂
エリーゼが、すっと目を細めた。元から細い目だというのに。
これは、本気で怒っているときの特徴だった。しかも今回は、か
なりキている。
加護があるんだから庇わなくても死にゃしないわよ、とエミリア
は続けた。
﹁与えられた状況と手持ちの札で、最高の利益が出せるにはどうし
たらいいかを考えるのが私の仕事よ。加護を有効活用する方法を考
フロンティア
えたら、自然とそういう発想が出てくるの。他にもあるわよ? 朱
姫様が﹃開拓者﹄のボーヴォさんより強ければ、各ギルドの首脳部
を武力で脅せるわ。俺の言うことを聞かないと朱姫様をけしかける
ぞって言えばいいのよ。合議制じゃなく、絶対王政に移行できる。
やったじゃないジル、あなたこの街の王様よ?﹂
﹁マジか、そりゃすげえな。王冠は鉄兜よりも重たい金ピカのでか
いやつにしようぜ﹂
俺の台詞に、エリーゼとエミリアの気勢も少しは削がれたようだ
った。
﹁ほんとに、油断の原因になるからって理由だけ? 加護を返して
きたの﹂
﹁というと?﹂
誤魔化しきれなかったなあ、と俺は半ば諦める。ここまで突っ込
んでくるなら、
648
不自然な点を論破する自信があるのだろう。内心、白旗を振ってい
るところだ。
﹁油断なんて、気の持ちよう次第よ。加護があろうとなかろうと、
人間だからいつか油断はするわ。そのときに、加護がなくて助かり
ませんでした、ってことにもなりかねないのよ?﹂
ダイアウルフ
﹁じゃあ、反論させてもらう。傷を抉るようで悪いんだが、俺が日
常的に恐狼の討伐に行ってなかったら、エマは恐狼に挑もうと思っ
たか? かなり素早く、巨大な獣だってことは言ったろ?﹂
ふるふると、エマは首を横に振った。
﹁ご主人様と同じ魔物を倒して、わたしも一人前だと自慢しようと
思って、むりをしました。今までで一番強い魔物だときいてました
から﹂
﹁ダグラスの剣は︱︱まあ運良く手に入った分類にしたとして、銀
蛇の皮鎧はチェルージュのおかげで手に入った装備だからな。これ
がないと、今でも恐狼と戦うのは怖いよ。普通の鋲皮鎧とかだと恐
狼の牙に負けるから、突進を正面衝突で迎え撃つのに失敗したら死
ぬからな。初めて恐狼と戦ったときだって、心のどこかで加護をあ
てにしてたような気がする。最悪の場合でも、死なないって。エマ
がそんな俺を見て、自分もやれると思って危険な魔物に挑もうとし
たのなら、それはやっぱり俺のせいなんだ﹂
﹁それは違うわよ。エマのせいよ﹂
ばっさり切り捨てるエミリアであった。
649
﹁エマの判断ミスは、エマの責任だからこそ本人が自覚して成長す
るのよ。ジルがその責任を奪う義務も、権利もないわ。あとね、私、
誤魔化されるのが嫌いなの。
父親が事業を傾かせたのは、ひいては私が売られたのは、たちの悪
い詐欺にひっかかったからなの。もう一度聞くわよ、なんで加護を
返したの?﹂
﹁あ、やっぱりバレてる? 誤魔化そうとしてるの﹂
﹁当たり前よ。これだけ一緒に過ごしてたら、あんたの性格とか嘘
吐くときの癖とかわかるようになるわ﹂
デリケート
﹁なんだそれ、怖いな︱︱かなり繊細な話題になるんだが、それで
も聞きたい?﹂
加護を返した理由は、他にあった。個人的には、言いたくなかっ
た理由である。
チェルージュにも、エマたちも言いたくはなかった。
﹁当たり前よ、家族でしょ? 何を隠してるのか知らないけど、言
いなさい。嘘吐いたら本気で怒るわよ?﹂
﹁俺たちの間に気まずい空気が流れること確定なんだが、それでも
聞きたい?﹂
﹁早くしなさいっての!﹂
苛々した様子のエミリアが、馬車の床をばんと叩く。
俺は諦めて、口を開いた。せめてチェルージュには聞こえないよ
う、滅多な理由では解除しない、瞳へのマナの流入を止めておく。
650
あくまで返した加護は、不死身の部分だけなのだ。
﹁女が欲しかったんだ﹂
俺はこれ以上ないというほど真顔で、胸を張りながら言い切った。
ふう、胸のつかえが取れたような、非常に清々しい気分である。
エミリアとエリーゼが、ぽかんと口を開けて俺を見ている。対照
的に、エマの眉間には皺が寄った。
﹁なんで好かれたか知らんが、最近チェルージュがかなり言い寄っ
てきてくれるんだ。でもまあ、加護で守られてるってことはさ、チ
ェルージュに養ってもらってるようなもんだろ? 養ってくれる相
手に好きですって言われて、わかった嬉しいよ付き合うって言える
かっていうと、それはダメだろ。男としての沽券に関わるよ。せめ
て対等な立場じゃないとな﹂
開き直り、というのだろう。もはや賽は投げられた。言ってしま
ったのだ。
﹁そもそも俺は健全な男子であるからして、ここのところ欲求不満
が続いてて辛くてなあ。エマも最近は落ち着いてきたみたいだし、
毎晩一緒に寝るのも、俺の理性が危ないという観点からそろそろお
しまいにしようと思うし﹂
651
﹁︱︱えっと、俄かには信じられないんだけど。本当にそんな理由
だけで、加護を返したの?﹂
うん、と爽やかな笑顔で親指をぐっと立てた。
本当は、それ以外にも理由があったけれど、それは女が欲しいと
いう理由よりもっとひどくて、言えない。
﹁男なら、あるよな。うんうん、わかるぜえ﹂
俺の肩をぽんぽんと叩きながら、何度も深く頷くダグラスは、髭
の先を作火の魔法で焦がされて悲鳴を上げた。知り合い同士でもさ
すがに許されないほどに強い火力だったと思う。
﹁あんたね、そんな理由で︱︱﹂
この後のエミリアの反応も予想がついた。どうせ、バカじゃない
のって俺を怒るに決まってる。
﹁女が欲しかったらあたしたちがいるでしょう!?﹂
あっれ、予想とずいぶん違った怒られ方だぞ。
﹁女が欲しかったらエマがいるでしょう!?﹂
自分が何を口走ったかに思い至ったのか、少し顔を赤らめてエミ
リアは言いなおした。勢いで誤魔化そうとしているのが伝わってき
て微笑ましいが、それにしても躊躇いなくエマを売ったなこいつ。 ﹁いや、そりゃダメだよ。俺だからこそダメだ。みんなを買った理
由が身体目当てになっちゃうだろ? ないと思うけど、仮にみんな
652
から迫られても受け入れられないよ。みんながちゃんと大人になっ
て独り立ちして、誰か好きな人を見つけて結ばれれば、俺にとって
はそれが一番嬉し︱︱﹂
話を最後まで言い終える前に、最も予想外な角度から、最も強力
な拳が俺の頬をぶち抜いた。板金鎧の小手と鉄兜がぶつかる硬質な
衝突音。
俺は真っすぐ後ろに吹っ飛ばされて、すぐ後ろの武具を満載した
木箱に頭をぶつける。木箱が少なからずめり込む、ばきりという音。
スケルトンウォリアー
鉄兜の上から殴られたというのに、目の前に星が飛んだ。鼻の奥
がつんとする。下手したら鼻血が出ている。骸骨剣士もこんな気分
だったのだろうか。面頬を上げていたため、一応は防具のある頬の
部分を殴ってくれたようだが。
﹁あ︱︱﹂
エリーゼも、エミリアも、絶句していた。
ふっ、ふっ、と荒い息を吐きながら、俺の顔面を強打した鉄拳を
握り締めているのは、エマである。
そう、俺をぶん殴ったのは、エマだった。
突如殴られた理由もわからず、俺が痛みと驚きで混乱する中、エ
マは感極まって泣き始めた。
兜の面頬を上げてあるとはいえ、板金鎧の小手を装備しているた
め、手で涙を拭くことはできない。涙をこぼすままにしゃくりあげ
653
るエマの顔を、懐から取り出したハンカチでエミリアが拭った。
つい一週間ほど前にも、似たような光景を見たような気がする。
﹁今のはお前さんが悪いな﹂
肩にぽん、と手を置かれた。見れば、いつの間にか復活していた
ダグラスが生温い眼差しを俺に向けている。
エミリアとエリーゼも、なぜか冷ややかな、見下すような視線を俺
に注いでいた。
﹁え、俺が悪いの? 俺、何かした?﹂
誰も答えてはくれず、開拓村まで続く馬車の旅は、場を沈黙が支
配する大層居心地の悪いものとなった。
︵いやあ、まさかあそこまで本気で泣かれるとは︶
馬車の外で風に吹かれながら、俺はちょっと後悔した。
今、俺は一人だけで馬車の屋根に腰かけていた。四頭引きの馬車
とはいえ、そもそもが輸送用であるからして、重量を軽くするため
に荷台の屋根は板ではなく革布の覆い、幌であった。その上に乗っ
てはさすがに壊れてしまうので、四隅の木材で出来ている部分に腰
をかけて足をぶらぶらさせているというわけだった。
654
﹁ちょっと外の様子を見てくるよ﹂
そう言い残して俺は荷台の中から逃げ出した。気まずさに耐えか
ねたのである。
ダグラスですら閉口してしまったほどに、三人娘の沈黙は重かった。
馬の速度にあわせて、ゆるやかに景色が流れている。荷台を曳い
た馬の歩みは、のんびりとしたものだった。
そろそろ、開拓村と街の中間だった。赤の盗賊団と戦ったのがこ
のあたりだった。森の形に見覚えがある。
ささやかな向かい風が面頬を上げた兜の中に吹き込み、脂汗をか
いた肌に心地良い。
︵失敗したかなあ︶
無論のこと、エマを泣かせてしまったことである。
多方面から鈍い鈍いと言われている俺であるが、エマが憎からず
俺のことを想ってくれていることには、当然ながら気づいている。
ほんの数ヶ月とはいえ、彼女たちと過ごした日々は濃密で、もう短
い付き合いと呼べるようなものではないし、常日頃から好意を寄せ
られていれば悪い気はしないのが男という生き物である。
エマが怒った理由は、わかっている。
最後まで言い切れなかったが、他の男を見つけろと俺が言ったこ
とにショックを受けたのだろう。
しかし、どの道、いつかはそうしてもらわなければならないのだ。
遅かれ早かれ、というやつだろう。女として花開きかけたばかりで
655
ある幼さや年齢を度外視しても、俺は彼女たちに手を出すつもりは
ない。
それは俺が主人であり、彼女たちが奴隷である以上、俺の中で決
めた明確な線引きであり、譲れない自重だった。エマが俺をぶん殴
るのは許しても、俺が彼女たちに手を出すのは許されない。
︵とはいえ︱︱︶
もっと上手い言い方があったのではないかと後悔はしている。こ
の後悔は、二重のものだった。
加護を返した理由を誤魔化したいがために、下手な言い訳をして
エマを泣かせるのは、本意ではなかった。最もインパクトが強くて
納得できそうな理由を選んで言ったつもりだったが、失敗だった。
加護を返した理由︱︱本当のところ、何が一番大きな理由なのか
を、未だもって俺が整理できていない。
︵あの日の夜︱︱︶
恐狼と戦ってエミリアが負傷した日、ベッドの中で俺は再発防止
策を考えていた。十割すべてとは言わないが、俺の責任も多分にあ
る。エマの逸り癖には気づいていたから、釘を刺すぐらいのことは
しておかなければならなかった。
656
しかし、眠りに落ちるか落ちないかという状態で考え事をしてい
たのが良くなかったのか︱︱思考は様々な方面に飛んだ。
︵チェルージュから加護をもらったばかりのころは、彼女ぐらい強
くなって自分が何者なのかを教えてもらおうと思ってたなあ。どれ
だけチェルージュが強いかも知らなかったけど。今じゃ俺の素性と
かどうでもよくなってきてる︶
初めて迷宮に潜ったときは、四苦八苦した。幼体の大ムカデ一匹
を命からがら討伐し、得た報酬の400ゴルドの重みを思い出す。
︵しばらくは、自分の食い扶持を自分で稼ぐことに躍起になってた
っけな︶
赤の盗賊団を討伐したときに出会った、桁違いのベテラン戦士た
ち。味方としてはシグルド、敵としてはフィンクス、ウキョウ。結
局、俺はウキョウに殺されて︱︱あのとき初めて、チェルージュに
助けられた。
︵思えば、あれが最初のズレだったような気がする。あの時点で、
自分一人だけの力で冒険者として生きていくという目標は、打ち砕
かれていたんだから。それを言い出せば、そもそもチェルージュに
最初の資金として魔石をもらった時点で、すでに彼女の力は借りて
いたんだよな︶
エマたちを買ったのは、単純に見捨てておけなかったからだ。奴
隷商人に手付け金を払った時点では、分割払いの代金を完済できる
見込みすらなかった。ただ、たまたま顔を合わせた。手元には、少
しだけ彼女たちを自由にできる金があった。
657
︵縁があった、というだけだ︶
見て見ぬ振りをせず、突発的に彼女たちを買う決断をしたが、間
違っていなかったと今では胸を張れる。すでに、彼女たちは金額以
上のものを、俺に返してくれている。人のぬくもりとは、いいもの
だ。
あの後、他の奴隷を見かけることが何度もあった。首輪をしてい
る人間は、目立つ。胸を痛めはすれど、無理をして彼らを買い取ろ
うとは思わなかった。俺の手元にそんな余裕はない。エマたちのと
きと違い、彼らには俺の手は届かない。
︵そういえば、最近は強くなろうとはあまり思わなくなったなあ︶
いや、もちろん向上心はあるし、レベルが上がれば色々と楽にな
るだろうなとは常々思っているが、闇雲に迷宮で力を付けようと思
っていた昔とは、原動力が少し違っている。
生活が楽に、楽しくなればいいなと思いながら日々迷宮に潜って
いる。もっと金があれば、エマたちに美味い飯やいい服を買ってや
れる。そういえば私服、買ってやらなきゃなあ。
ときどき躓くこともあるけれど、迷宮探索は軌道に乗っていて、
概ねのところ順調だ。衣食住には困っていない、仕事は順調ときて、
あと、俺が満ち足りていないものといえば、女ぐらいのものだろう
か。
︵身の回りに花は多いが、果たして恋人なのかと言うと、話は違っ
てくるしなあ︶
658
恋人候補としては、エマたち三人は除外である。
チェルージュに率直な好意を表明されているが、愛玩動物が可愛
がられているような現状だった。言ってみれば、ヒモのようなもの
だしなあ。
というか、俺がヒモなのであれば、俺の家族であるエマたちもま
た、世間的にはヒモなのではないだろうか。
いくら同格の家族だと思って過ごせとは言っていても、いつぞや
のエリーゼの台詞ではないが、家長は俺である。その俺の養い親は
チェルージュであり、つまり俺の世帯丸ごとがチェルージュに養わ
れているようなものではないだろうか。
そう気づいたとき、少しだけ俺の意識は覚醒した。
︵それは、嫌だな︶
エマたちは俺の家族だ。彼女たちと一つの家庭を築いていること
に、俺はちょっとした誇りを持っている。
しかし、その実︱︱チェルージュに養われている、ヒモの集合体
みたいなものでしかなかったのか?
︵情けないなあ︶
ヒモみたいな立場にエマたちを置いている自分の不甲斐なさにも、
気づいてしまった。
いつか彼女たちが自立する日が来たときに、俺ではなく、チェル
659
ージュに礼を述べる三人を夢想する。俺の財布の出所はチェルージ
ュであるから、彼女たちに金を使った恩人はチェルージュであると
も言えるから、間違ってはいない。
︵それは、嫌だ︶
親代わりだと言っておきながら、その実、ただの中間管理職では
ないか。
そのことに思い至ったとき、俺の内側から湧き出てきたのは︱︱
焦燥と、憤怒。俺の心の内に、ここまで黒い感情が巣食っていたの
かと驚くほどの、強くどろどろとした嫉妬だった。 あれほどの大恩があり、なおかつ俺に好意を表明してくれている
チェルージュに対して、俺は憎しみすら抱いているのだ。
︵ひどいやつだな、俺は︶
冷静にそう判断する俺がいる。その横で、例えチェルージュであ
ろうと、エマたちを渡したくはないと叫ぶ別の俺がいる。
考えれば考えるほどに、独占欲は強くなっていった。
恩人であるチェルージュが相手であっても、俺はエマたちを自分
のものだと主張したいのだ。彼女たちは物ではなく、血の通う人間
だというのに、まるで所有物のように独占したがっているのだ。
渡したくない。奪われたくない。
声を大にして、エマたちは俺の家族だと叫びたい。
660
︵なんで、こんな気分にならなきゃいけないんだ?︶
なぜ、一緒に暮らしている彼女たちを、誰かに奪われるかもと怯
えなければならないのだ?
なぜ、自分で手に入れたものが、逃げていくかもしれないと恐れ
なければならないのだ?
どうすれば、自分は胸を張って、得たものを得たと、エマたちの
家長だと、高らかに誇れるのか?
︱︱加護があるからいけないのか?
そう思いついたとき、俺は自分の身勝手さに戦慄した。
死んでいたものを、助けられているのだ。本来であれば、俺は深
く感謝し、チェルージュの恩に報いるべく東奔西走するのが当たり
前ではないか。
しかし、実際に俺の内には、独占欲が湧いていた。チェルージュ
に養われているうちは、言い換えれば加護のある中で安穏と狩りを
していては、胸を張って生きているといえないのではないか?
独占欲のみならず、独立欲までが俺を蝕む。
欲しいか欲しくないかでいえば、チェルージュは欲しかった。真
っすぐに好意を表明されているのだ、俺としても憎からず思ってい
661
るし、応えたいと感じるのは男の性である。
ただしそれは自分の物にしたいのであって、彼女の物になりたい
のではない。
チェルージュの庇護下に甘んじている状況で、彼女と恋人同士に
なるという選択肢は俺の中にはなかった。思えば、チェルージュか
らデートに誘われたときも、心のどこかで後ろめたさのようなもの
があって、少しぶっきらぼうに振舞っていたような気がする。
吸血鬼の館でチェルージュと初めて会ったときの、琥珀色の瞳を
思い出す。
いつの間にか見慣れてしまったが、とても美しい瞳だと思ったも
のだ。
彼女に加護で守られているうちは、彼女の横に並び立てない。
加護を返してしまえばいいという、思いつきでしかなかった選択
肢が、ほんの僅かな間に大きくふくれあがって俺を急かす。
︵ふう、冷静になれ、俺︶
もし加護を返してしまったら、迷宮での探索で命を落とすかもし
れないのだ。
加護があれば、誰かの身代わりとなって助けることだってできる
かもしれない。どうしようもない状況に陥ったとき、自らの喉を長
剣で刺し貫いて死ねばチェルージュが全滅の危機を助けてくれる。
︵だから、どうした?︶
662
自分が死んでもいいという覚悟があれば、加護なんてなくたって
身代わりにはなれる。
俺は想像する。このままチェルージュの加護を得たまま冒険を続
ける日々を。
大過なく成長し、財産を作り、リカルドのようにどこかに家の一
件でも買って悠々と過ごす︱︱。チェルージュには相も変わらず頭
が上がらないけど、多分恋人っぽいものになって、同じ家に住んだ
りして、たまに独り立ちしたエマたちが遊びに来たりするのだ︱︱。
︵絶対に、嫌だ︶
俺は、自分の手で、抱えていたいのだ。
朝起きたときは、昨夜の思考とテンションを思い出して少し恥ず
かしくなった。
宿の外では、小鳥が囀っている。
色々と湧き出てきた身勝手な欲望は、かなり薄れている。明晰な
思考を取り戻してもいた。
エリーゼはすでに起きていて、ベッドに腰掛けながら髪を梳いて
663
いた。毎日みんなを起こすために、彼女はいつも早起きである。エ
マとエミリアはまだ寝ているので、視線で朝の挨拶を交わす。
︵加護を、返そう︶
やけにあっさり、そう思い切ることができた。
他人には理解されないかもしれないし、エマたちだって賛同して
くれないかもしれない。それでもいいや、と思う。
人は損得だけで生きるのではない。嫌なものは嫌なのだ。
結果としてチェルージュに加護を返し、少しばかりの冒険を挟ん
で、週末の今日︱︱馬車の中でエミリアから説明を求められたとい
うわけだ。危機管理が鈍るという、一見して無難な説明では、彼女
は納得してくれなかったようである。
デリケート
どのように伝えるか説得に迷い、﹁女が欲しかった﹂というわか
りやすい理由で誤魔化そうとしたところ、繊細な部分に踏み込んで
しまって俺が鉄拳制裁をくらったというわけである。
﹁説明しにくいんだからしょうがないじゃん﹂
ダグラスの真似ではないが、少し拗ねてみせる俺である。
664
加護を返すに至った思考をすべて説明しきれば、エマたちは心の
底から納得してくれるかもしれない。しかしそれは、俺が抱いてい
る生々しい欲望とかを彼女たちに曝すことと同義である。それは気
恥ずかしいし、彼女たちに気持ち悪がられないか不安でもある。
何とか誤魔化せないかと苦心した結果、もたらされたのが、馬車
の中の気まずい空気というわけだった。
665
第四十話 湖畔
馬車の群れが開拓村に着くと、待ち構えていたかのように人々が
集まってきた。
週に一度の輸送車は、彼ら開拓村の人々にとっても待望のものら
しい。
﹁ようし、荷降ろしを頼まあ。運び込むのはこの先の衛兵詰め所だ。
門に入ってすぐの高い建物だな﹂
馬車の先頭の方を見ると、木の柵で覆われた集落めいたものと、
見張り台を兼ねた櫓のようなものが見える。衛兵の詰め所とは、あ
れのことだろう。
﹁三人で箱を一つ持ってくれ。俺は一人で持っていくから﹂
了解です、という三人娘の返事を待って、俺は武器を満載した木
箱を持ち上げる。
人目もあり、依頼の途中だったということもあって、ともかくも
気まずい空気はいったん先送りにしてくれたようだ。ほっと胸を撫
で下ろしつつ、俺はずしりと重い木箱の取っ手を握って持ち運ぶ。
ロングソード ブロードソード
いま俺が運んでいる箱には、長剣や帯広剣などがぎっしりと詰ま
っている。重量もかなりのものだったが、平均的な成人男性の二倍
を超える筋力値の俺ならば、何とか一人で持てた。
プレートメイル
エマが一人で持てるかどうか微妙な線だろうので、エリーゼとエ
ミリアにも手伝わせる。もともと板金鎧一式を着込んでハンデがあ
666
るエマと、腕力値の低いエリーゼとエミリアをあわせて、一箱を運
ぶのにちょうどいいぐらいだろう。
楽に、とは言わないものの、俺よりも涼しい顔でダグラスも一箱
運んでいた。鼻歌まじりでご機嫌である。少し迷宮に潜っていたこ
とがあるとは言っていたが、今の俺よりもレベルが高いのか、この
おっさん。
﹁そうだ、そこに置いてくれ︱︱ようし﹂
木組みの櫓ではあったが、一階部分は普通の家のように建てられ
ていて、数人の衛兵が寝泊りする広さがあった。その中の一室が武
器倉庫になっているらしく、俺たちはそこに木箱を運び込んでいく。
﹁あとは、衛兵が東西南北の各詰め所とか販売所に武器を分配して
くれる。俺たちの仕事はここまでだな。あと六箱あっただろ、ちゃ
っちゃと運んじまおう﹂
﹁あれえ? ダグラスさんに、ジル君じゃない。どうしたの、こん
なところで﹂
櫓を兼ねた衛兵の詰め所から出てきたとき、聞き覚えのある声で
話しかけられた。明るい声だというのに、少し気が弱そうな印象を
受ける、独特の声だ。
﹁なんだ、リカちゃんか。ちょうどいいところに来た、お前さんも
手伝え﹂
﹁なんだとはご挨拶だなあ。やあジル君、元気してたかい?﹂ 667
ドラゴンズブレス
にこやかな笑顔を浮かべる声の主は、ギルド﹁竜の息吹﹂のマス
ター、リカルドであった。
いつものダブレット姿に、剣を一本だけ腰に吊っている。
﹁どうも。今日はダグラスの物資運搬の依頼を受けまして。リカル
ドさん︱︱リカちゃんはなんでまたここに?﹂
﹁言い直した!? ねえ今言い直すところだったっけ!?﹂
突っ込み力の高いベテラン冒険者である。
﹁おう、うるせえぞリカちゃん。こちとら仕事で来てんだ、雑談な
ら後にしやがれ﹂
﹁んもう、仕方ないなあダグラスさんは。これでいいの?﹂
ひょいひょいと、片手ずつに木箱を持って、たたたたっと土埃を
上げつつリカルドは衛兵の詰め所に駆け込んだ。すぐさま戻ってき
て、また木箱を二つ両手に抱えて駆けさっていく。
俺たちが見守る中、ものの一分ほどでリカルドは木箱の運搬を終
えてしまった。
﹁実力だけは確かだからタチが悪いんだよなあ、お前さんは﹂
﹁ひどくない!? せっかく手伝ったのにその扱いひどくない!?﹂
がーん、という擬音で表現できそうな表情で文句を言い立てる善
性の人物、リカルドである。
﹁やあ、ジル君も久しぶり。その後、変わりないかい?﹂
668
一転してにこにこした表情のリカルドを見て、あの日のことを思
い出した。
初めてリカルドと出会った日、長剣をさっと研いでもらい、まさ
に店を後にしようという別れ際、リカルドはダグラスに聞こえない
よう、こっそり俺に耳打ちした。
﹁勝手なお願いだとはわかってるんだ。それでも、もしギルドを追
放した後、彼らが心を入れ替えて頭を下げてきたら、彼らを再びギ
ルドに受け入れることを許してもらえないだろうか。もちろん、ジ
ル君にも誠心誠意謝らせるし、今度はギルドで責任持って監視する
から。どうかお願い﹂
地面に膝をつき、拝むように両手を合わせて頭を下げるリカルド
である。
彼らとは、もちろんエディアルド一行のことだ。つい先ほど、ダ
グラスとの話し合いで、ギルドを除名処分するということを話し合
ったばかりだった。
あんな彼らでも、リカルドは再び受け入れる気があるとは、善性
の人物を通り越して聖人だろうかこの人は。
︵まあ、いいか。責任持って監視するとまで言ってるんだし︶
少し悩んだものの、俺は了承することにした。
甘い対応かもしれないが、この人物とのつながりを、切りたくな
669
かったのだ。
俺の立場からすれば、もう少し厳しい対応を取って然るべきなの
かもしれないが、相手の失態を責められるだけ責めたところで、リ
カルドの心証が悪化するだけであろう。個人的な好き嫌いの面でい
えばリカルドへのわだかまりはないし、打算の面で考えても、恩を
売っておいて損はない相手であった。借りにするという言質は取っ
ているのだ。
﹁はあ、アウェイクムにも頭下げに行かないと。マーサさん怒ると
怖いんだよなあ。シグルドさんが絡むと特に﹂
胃痛に襲われているのか、胸を抑えてあいたたた、などと呟くリ
カルドである。
赤の盗賊団を討伐したときに、シグルドと知己を得ていることは
伝えてあった。
﹁お、あの二人そういう関係なのか?﹂
﹁まだくっついてないんだけどね。マーサさんの態度を見てれば丸
分かりさ。ギルドマスターだから部下への好悪を顔には出さないよ
うに心がけてるらしいけど、本人たち意外は全員知っててね。いつ
成就するかをアウェイクムのメンバーは賭けてるよ。ちなみに僕は
半年以内に一万賭けた﹂
﹁きっかけがないとくっつかなさそうだし、俺なら一年以上に賭け
るかなあ﹂
談笑してリカルドと別れたあの日からかなりの日数が経ち、何人
かはリカルドの仲裁で俺の元を訪れ、頭を下げていったものの、エ
670
ディアルド少年は姿を見せていない。竜の息吹のギルドホームを飛
び出した後、行方が知れないようだ。
﹁ええ、変わりないです﹂
﹁そうか。わかったよ﹂
俺たちの会話には、その含みがある。最後にリカルドが謝罪者同
伴で俺のところに来てからは、誰も、俺の元には訪れていない。
﹁それじゃあジル。帰りの馬車は三時間後に出るからよ、そんとき
にここへ集合だ。それまでは自由行動な﹂
あいよ、と俺の返事を聞いた後、ダグラスは別の商談でもあるの
か、のしのしとその場を去ろうとして︱︱ずざざざざ、とすさまじ
い勢いで後ずさってきた。
すでにダグラスから視線を外していた俺は、何事かと彼の方に向
き直る。
﹁なんじゃ、ダグラスか。あんまりにも面白い顔しとるから、誰か
と思うたわい﹂
﹁し︱︱しし、師匠!?﹂
ダグラスから師匠と呼ばれた人物は、背の低い、小柄な老人だっ
た。
銀に似た艶やかな総白髪をオールバックにまとめていて、見事な
アゴ髭が胸元まで垂れていた。
671
その小柄な老人の姿が、ふっとかき消えた。
次の瞬間には、手に持った煙管を、ダグラスの脳天に振り下ろし
ているところだった。
ごどんっ、という人体が発してはいけない鈍く重い音がし、ダグ
ラスの頭部は残像ができるほどの勢いで地面へとめり込んだ。
死んだか、と冷静に俺が状況を把握している中、老人は何事もな
かったかのように懐から新たな葉を取り出して煙管に詰め込んだ。
﹁お義父さんと呼べと言うておるであろうが﹂
ダグラスの師匠で、義理の父と呼ばれるべき人を、俺は一人しか
知らない。
この小柄な老人こそが、ヴァンダイン氏なのだろう。
やはり小柄であった、ダグラスの嫁を思い出す。言われてみれば
目元がどことなく似てるような気がするし、何よりもダグラスへの
鈍器の振り下ろし方に血の繋がりを感じた。
﹁少し風通しのいい顔になっておるが、どうした?﹂
ダグラスの右側の顔、俺たちから見て左側のヒゲは、頬のあたり
がちりちりに焼け焦げている。言わずと知れた、エミリアの作火で
焼かれたものだ。よくリカルドは噴き出さなかったものだと思う。
﹁馬に蹴られまして﹂
﹁進歩のないやつじゃのう、お前も﹂ 672
煙を青空に吐き出しながら、呆れ顔のヴァンダイン氏である。
﹁やっほー、ジルー﹂
﹁げ﹂
聞き覚えのある声に、俺は思わず身構えてしまった。つい先ほど、
彼女の話題で痛い目を見たばかりなのである。
フロンティア
木の柵で囲まれた開拓村の内側、門のところから俺に手を振って
きているのは、チェルージュである。しかもその横には、﹃開拓者﹄
ボーヴォまで付いてきていた。他にも、初めて見る顔を何人も連れ
ている。
﹁なんだこりゃ、ボーヴォハウスの住人勢ぞろいか?﹂ ﹁うん。今日はジルに予定が入ってるのが瞳の情報でわかってたか
らね。暇だーってボーヴォに言ったら、じゃあ開拓村に持ってる別
荘に遊びに行くかって言ってくれたの﹂
﹁なんだか、行く先々にチェルージュがいるような気がするなあ﹂
頭をぽりぽりと掻きながら俺がこぼすと、チェルージュは頬を膨
らませた。
﹁何よ、嫌なら嫌って言いなさいよ。聞こえてたんだからね、さっ
き﹃げっ﹄って言ったの﹂
﹁嫌じゃないんだけどさ。様々な事情があって、今はちょっと間が
673
悪いというか﹂
﹁そういえばさっき瞳を遮断してたね。そのときのことかな? 加
護を返した理由を問い詰められてたけど、何か訳があるなら私も聞
きたいな﹂
﹁チェルージュに養われてるのが嫌だったみたいよ?﹂
いつの間にか、俺の右腕にエミリアが、左腕にエマが絡み付いて
きていた。
むむむ、と眉間に皺を寄せるチェルージュと、俺を挟んで睨みあ
う二人である。
どうしてこんな状況になってしまったのだろう。すごく胃が痛い。
あとエマは板金鎧を着込んでいるから絡められた腕も痛い。
﹁なになに、ジル君モテモテじゃない。それに有名人がいっぱい。
どういう関係なのか詳しく﹂
うきうきわくわくした表情のリカルドの背後に一瞬でボーヴォが
現れ、その肩を両手で揉み始める。
﹁知りたければ教えてやろう。俺の家の住人にとって、あそこで女
の戦いをしてる娘はお姫様でな。何か頼まれたら、みな喜んで言う
ことを聞いてしまうぐらいに溺愛しておる﹂
﹁ご、ご無沙汰しています、ボーヴォさん﹂
脂汗をだらだらと流しはじめるリカルドであった。
ボーヴォとリカルドは、面識がある様子だった。どちらも有名人
674
だし、接点があっても不思議ではない。
﹁あの娘から、今回の騒動については聞いておるよ。良かったな、
ジルが穏便に終わらせてくれて? 今回はヴァンダインのじいが口
を出したが、話の流れ次第では、ここにいる全員が﹃やる気﹄だっ
たぞ?﹂
もみもみもみもみと肩を揉まれながら、顔面蒼白で過呼吸になる
リカルドである。哀れだ。
というか、どれだけ連中に好かれてるんだ、チェルージュは。
﹁とうっ﹂
エマたちと睨みあっていたチェルージュの姿がかき消えたかと思
うと、肩にずしりと重みを感じた。同時に、俺の視界の左右が太も
もで塞がれた。
あまりの展開に、俺の脳が理解を拒んでいる。こいつ︱︱俺の頭
にまたがってきやがった。しかも、俺の後頭部が股間に当たるとい
う密着っぷりである。
﹁さあ、エリーゼちゃん。前が、前が空いてるよ! 今だ!﹂
叫びながら、俺の胸元を、靴を履いたままの足裏でぺしぺしと叩
くチェルージュである。
今日も桃色のドレスめいた服を着ていたチェルージュであるが、
俺の後頭部にまたがっているため、裾がめくれて太ももがむき出し
であった。はしたない吸血鬼である。
﹁いやいやいや﹂
675
目の前で手を振って拒絶の意を表明するエリーゼである。 それもそのはずである。頭部にチェルージュ、左右の腕にエマと
エミリア。そんな状態の俺に飛びつけという指示には無理がある。
﹁エリーゼ、そこは来ないとダメだよ﹂
﹁そうね。ちょっと空気が読めてないわね﹂
まさかのエマとエミリアからの駄目出しである。思わず、俺とエ
リーゼでハモってしまった。
﹃いやいやいやいや﹄
﹁で、これからそっちは何か予定あるの? なければグランマが別
荘で料理作ってくれるらしいから、一緒にどう?﹂
俺は今、頭の上から話しかけられるという稀有な体験をしている。
﹁お生憎様。お弁当は作ってきてるわ、結構よ﹂
バックパック
背嚢を指し示すエミリアであった。やたら膨らんでるので何かと
思ったら、弁当が入ってたのか。
﹁むむ。エマちゃんだけかと思ったら、エミリアちゃんも本格参戦
ってわけ? ご主人様のご主人様に逆らうとは、ジル、キミは娘た
ちの躾がなってないよ!﹂
﹁加護は返されてしまったのよね? もうジルとチェルージュには
何の繋がりもないのよ?﹂
676
﹁もう気を使わなくてすむ。手加減はなし﹂
おいお前ら、さっき馬車の中で加護を返したことを非難してた立
場だろう。
﹁むむむむ﹂
先ほどから、俺の両腕と頭上で会話がきんきんと飛び交っていて
やかましいことこの上ない。なぜ俺を挟むのだろうか。きっと今の
俺は、死んだ魚のような目をしているはずだ。
助けを求めてあたりを見回すが、ボーヴォはリカルドを玩具にし
て戯れているし、ヴァンダイン氏とダグラスはいいぞもっとやれと
言わんばかりに興味津々でこちらを眺めている。
﹁はいはい。そのあたりにしておきなさいな。殿方に嫌われますよ
?﹂
ぱんぱんと手を打ち合わせながら進み出てきた老婆が、救いの神
に見えた。
老婆の冒すべからざる威厳のせいか、はーい、などと素直にチェ
ルージュは俺の頭から飛び降りる。エマとエミリアも両腕から離れ、
俺は自分の身体を自由に動かせる解放感に歓喜した。
﹁いつも言っているでしょう。攻めて良いところと退くべきところ
を覚えなさい。最後の最後では、男性が女性に求めるのは母性と安
らぎです。女として退くべきでない場面もありますが、自分を巡っ
て女性が争うなんて、殿方の最も嫌う行為の一つですよ?﹂
677
﹁はーい、グランマ。気をつけます﹂
なぜかチェルージュだけでなく、エマとエミリアまで横一列に並
んでかしこまっていた。
チェルージュに連れていってもらった、高級住宅街に構えた店の、
やたら長いコック帽をかぶった料理長を思い出す。グランマとは、
彼も尊敬する、料理界の重鎮の名称だったはずだ。
﹁ご挨拶は後ほどにさせて頂きますね。ジル君と言いましたね?﹂
突然、そのグランマが俺の方に向き直ったので、思わず俺は背筋
を伸ばして返事をした。
﹁自分がどうしたいのか、しっかり女には伝えなさい。ちやほやさ
れると嬉しいのは男の性でしょう。それでも、曖昧なままに留めて
おくのは不誠実ですよ。何股もかけるなとは言いませんが、自分も
相手も納得して付き合うのが大人の男と女です。便利な女が欲しい
なら、そう言いなさい。女が納得するならそれで良し、そうでない
なら便利に扱ってはいけませんよ?﹂
﹁これ、グランマ。若者のそういうやきもきを眺めるんが面白いん
じゃろうて。余計な口出しをしちゃあいけんよ﹂
横から口を出してきたのはヴァンダイン氏である。いや、もはや
氏などと尊称を付けるのはやめよう。血は繋がっていなかろうとも、
疑いようもなく、彼はダグラスの系譜である。 ﹁おだまり﹂
678
けっして口調は厳しくない。人を落ち着かせるやわらかな口調と、
大樹の根のような深浅とした声色だというのに、グランマの言葉に
は逆らうべからざる威厳がある。
﹁︱︱冷静になってみれば、一理ありますね。ごめんなさいね、ヴ
ァン。そしてジル君にも、ごめんなさい。年寄りが口を出すことで
はなかったわ﹂ ﹁いえ、耳が痛かったです﹂
ぺこりと、俺は頭を下げた。世の中には逆らえぬ人間がいるとい
うことを、俺は心の底から理解した。こんな口調で身につまされる
説教の一つでもされたら、どんな料理人でも参ってしまうに違いな
い。きっと、高級住宅街のあの料理長も、似たようなことの一つは
体験したのだろう。
﹁エミリアさんと言いましたね? 私やチェルージュ、ここにいる
みんなと一緒に、食事をしましょう。私がこれからお弁当を作りま
すので、それをあなたやジル君にも食べて頂きたいわ。押し付けが
ましいようだけど、きっとあなたには得るものがあるでしょう。お
弁当を持参しているあなたには、思うことがあるでしょうけど︱︱
それでもなお、言っています。どうかしら?﹂
﹁あなたの話を聞いていると、女を試されているような気になりま
す。不思議な気分ですよ︱︱もちろんいいわ、グランマ。勉強させ
てもらうわ﹂
なぜか謙虚半分挑発半分で諾意を表明するエミリアである。対す
るグランマはといえば、人の良さという単語を顔つきで表現するの
679
ならこういう表情だろうという邪気のない笑顔で頷いた。
﹁どうせですから、チェルージュも厨房にいらっしゃい。少し自覚
もあるようだけれど、あなたに足りないのは家庭的な要素ですよ﹂
はい、と素直に頷いたチェルージュとエミリアが歩き出すグラン
マに付いていく。一拍遅れて、なぜかエマも彼女たちの後について
いった。
後に残されたのは、俺とエリーゼ、そして成り行きを見守ってい
た男衆である。
ひと
﹁強い女だな﹂
﹁それァそうよ。一代で女料理人への世間的な評価を改めさせた女
傑だぞい。あやつとくっついた男が出世することでも知られておる。
わしは二人知っておるが、どちらもいい男になりおった﹂ ﹁ほぉ︱︱ああ、一応初対面でしたね、自己紹介が遅れました。ジ
ル・パウエルです﹂
むすこ
﹁出来の悪い義息から聞いとるよ。お前さん、堅苦しいのは嫌いじ
ゃろう? ヴァンダインじゃ、好きに呼べ﹂
煙管の先でダグラスの頭をごんごんと叩くヴァンダインである。
一体何の金属で出来ているのか、軽く叩いているように見えるの
に音が重い。
﹁それと、そこの︱︱名前は何と言ったかな、義息を怒らせたアホ
の親玉は。どうでも良過ぎて名前なんぞ覚えとらんわ﹂
680
リカルド、通称リカちゃんですとダグラスが横からぼそりと呟く。
﹁おう、そうかえ。出禁ちゃん、お前もどうせだから飯食ってけ。
どうせ大層な用事なんざなかろう﹂
﹁で、出禁ちゃん︱︱﹂
さらに悪化した愛称に、がくりとうなだれるリカルドである。
ヴァンダインの口調は、どこかダグラスと似ていた。 言葉の端々から、このヴァンダイン翁がダグラスに与えた影響の
大きさを感じる俺である。
気難しい人物だと聞いていたが、話してみると案外そうでもない
印象を受ける。
職人肌のダグラスは気に入らない人物には冷淡であるから、恐ら
くこのじいさんも人の好き嫌いが激しいのだろう。
﹁うむ、しかしジル君の連れていた女どもは丸みに欠けとるのう。
しっかり飯食わせとるか? ケツも胸も平とうて、鑑賞するにもち
と風情が足りんわい﹂
おやじ
﹁ししょ︱︱義親父。ああいうつぼみが花開いてく過程がいいんじ
ゃねえか﹂ ﹁む、これは一本取られたわい。然り、然り。最初から熟れておっ
てもつまらんのう﹂
げはげはと笑いあうダグラスとヴァンダインである。
681
ヴァンダイン一門というブランドの価値が俺の中で急降下した一
瞬であった。
唯一この場に残っていたエリーゼは、二人から見えない角度でさ
りげなく短剣に手を伸ばしている。
﹁やめとけ。気持ちはわかるが、短剣を脳天に刺した程度でこいつ
らがくたばるとも思えん﹂
俺の台詞を聞いて、やれやれと言った体でため息を吐くエリーゼ
であった。
﹁おお、こりゃすげえな。こんなでっかい泉があったのか﹂
彼方の山脈から、森を縫って細い川となった水が流れこみ、泉と
なっていた。
泉というより、湖と呼ぶべきかもしれなかった。四方を森で囲ま
れている。
﹁二百メートル四方になろうかっていう大きな湖さ。これがあった
から、第二の開拓地に選ばれたんだ。水資源がないと、街を作ろう
にも人々が暮らしていけないからね﹂
得意げな表情で説明をしてくれているのは、リカルドである。
女性陣はまだボーヴォの別荘から出てきておらず、暇を潰しがて
ら、リカルドに
開拓地について話を聞いているというわけだ。
682
﹁一個目の開拓地は知ってるかい? ここよりも少しだけ街に近い
ところにあるんだけど﹂
俺は首を横に振った。開拓地にはほとんど関わってこなかったの
で、知識は無いに等しい。
﹁あっちは水源が小さくてね、発展が頭打ちなんだ。柵とか、魔物
から開拓地を守るための設備は完成してるから安全なんだけどね。
水利権とかの争いが起き始めるぐらいに人が増えて、これ以上広げ
きれないってところまで来て、新たに冒険者ギルドが目星を付けた
のがこの湖周辺。僕が駆け出しのころに工事に着手したから、もう
十五年は昔のことになるのかな。どうだい、発展したろう?﹂
発展したろう、と言われても、初期の姿を知らないため俺にはコ
メントしにくい。
俺たちが座っている岸は整地されて、綺麗な湖畔となっているが、
開けた草むらであるこの湖畔が、元は鬱蒼と生い茂る森林であった
というのだから、そこを切り開くというのは確かに並大抵の労力で
はなかったのだろうが。
﹁途中まで一つ目の開拓地への道を使えたとはいえ、ここに来るま
での道を作るのだって大変だったんだよ。森を伐採して、道をなら
して、それを魔物の襲撃がある中で少しずつやってくんだ。もう討
伐されたけど、ここ最近なんて盗賊団に輸送隊が襲われたりもした
し。だからね、開拓地の人間にとって、ジル君が赤の盗賊団をやっ
てくれたのは本当に嬉しいことなんだ。エディの一件で迷惑をかけ
たけどね、そこはしっかりお礼を言っておくよ﹂
683
﹁投資が無駄にならずに済んだ、の間違いじゃねえか? リカちゃ
んよう、お前さんはここらの土地、ずいぶんいいところを確保して
たそうじゃねえか。それもかなり昔からよ﹂ 鼻の高いリカルドに皮肉を言うダグラスである。
﹁その通り。泉に近くて一番人通りが多いであろう一等地に目星を
付けて、安いうちに土地の権利をいっぱい買っておいたのさ。もし
この開拓地が成功して順調に発展したら、すごいいいところに住み
暮らせるからね。その苦労が実ったのがここ最近さ。見てくれこの
家を﹂
リカルドが指差した先︱︱俺たちの背中には、煉瓦仕上げの屋敷
が堂々と建っている。鯨の胃袋亭のような小さな家など、三軒並べ
ても足りないほどの大きな屋敷だった。しかも背の低い柵で囲われ
た広い庭まであり、なるほど、リカルドが自慢するだけのことはあ
る。
よほど嬉しいのだろう、ダグラスの皮肉ですらリカルドの鼻柱を
折るには至らないようだ。
﹁順調に開拓が進んで、屋敷も建てて、冒険者のころから付いてき
てくれた女の子と正式に籍を入れて︱︱それはまあ、有頂天にもな
るとね、僕は思うんだ。だって僕、ここの開拓にかなり貢献してる
から、周囲にいい顔もできるしね。ここの生活が居心地良すぎて離
れたくないって思うのは自然なことじゃないかな?﹂
﹁だからギルド放置してたのを許せってか。なんだその揉み手は﹂
﹁いやいや。ただね、経緯ぐらいはわかって欲しいなって﹂
684
知るかバカヤロウ、とリカルドの脳天に拳骨を落とすダグラスで
ある。肉体言語の多い一族だ。
﹁そういえばジル君はまだ、宿暮らしかい? 自分の家っていうの
はいいよ、貯金して買ったらどうかな? ここの開拓地はお勧めさ。
今はまだ、ほとんど小屋みたいなものしかない街並みだけど、すぐ
に発展すると思うよ。地価もかなりの勢いで上がると思うし、個人
的には早いうちに買っておくべきだと思う﹂
﹁家かあ。考えたこともなかったなあ﹂
鯨の胃袋亭での暮らしに不満を感じていないというのもあるが、
家とは高いものだという固定観念があり、自分のような駆け出し冒
険者に縁のある代物ではないと思っていたのだ。
﹁不吉なことを言うようだけどね、冒険者って先の見えない仕事だ
ろう? いつ死んでもおかしくない。そうすると、好きな女の子が
いても中々結婚には踏み切れないのさ。でも家があれば、自分が死
んでも家族に住むところだけは残してあげられる﹂
そう言われると、多いに気持ちが惹かれてくる。俺が死んでしま
ったときに、エマたちに家を残してやれるというのは魅力だった。
ただ、エマたちを奴隷身分から解放するのが先ではある。
﹁そういえばさ。ダグラスさんから聞いたけど、ジル君って成長早
いんだって? 今何レベルぐらいなの?﹂
︵︱︱まあ、リカルドならいいか︶
685
血の紋章を起動させ、リカルドに放り投げてやる。
﹁ほうほう︱︱あれ、意外と大したことないというか﹂
︻名前︼ジル・パウエル
︻年齢︼16
︻所属ギルド︼なし
︻犯罪歴︼0件
︻未済犯罪︼0件
︻レベル︼812
︻最大MP︼27
︻腕力︼30
︻敏捷︼25
︻精神︼26
﹃戦闘術﹄
戦術︵40.6︶
斬術︵37.5︶
刺突術︵32.3︶
格闘術︵18.9︶
﹃探索術﹄
追跡︵16.3︶ 気配探知︵20.7︶
﹃魔術﹄
686
魔法︵29.4︶
魔法貫通︵21.2︶
マナ回復︵43.8︶
魔法抵抗︵1.2︶ ﹃耐性﹄
痛覚耐性︵22.6︶
毒耐性︵3.1︶
コマンダー
﹁魔法と剣術、どっちも使う司令官スタイル? ベテランならそこ
そこ見かけるけど、中層冒険者では珍しいね。普通は、どっち付か
ずの戦い方だと攻撃力が足りなくなるんだけど﹂
﹁一人で迷宮に潜ることが多かったからな。ダグラスの剣と、フィ
ンクスの銀蛇の皮鎧があったから、恐狼なんかも相手にできたし、
不便を感じたことはないな﹂
﹁それでもレベル800なんだね。ダグラスさんが見込んでるって
いうから、もう少しあるものかと。いや、気を悪くしないで欲しい
んだけど﹂
ニュービー
﹁リカちゃんよ、そりゃお前さん、こいつの冒険歴を知らんからそ
んな顔ができるんだ。こいつ、三ヶ月の新人だぞ?﹂
またまた冗談言っちゃって、とリカルドは笑う。
﹁僕が中層に行くまでに二年はかかったよ。いくらなんでも三ヶ月
は盛りすぎでしょう﹂
687
﹁それがマジだから見込んでるんだよ。こいつ、一ヶ月で鉄の長剣
使い潰したんだぞ? ほとんど毎日砥ぎに持ってこられてみろ。感
心するのを通り越して、職人として勝負挑まれてる気になったもん
だ﹂
絶句したり、奇声を上げて驚いたりと忙しいリカルドを横目に、
ヴァンダインの爺さんが進み出てくる。
﹁ジルよ、ちょいと使っとる剣を見せてくれんかのう﹂
その台詞が聞こえるや否や、リカルドをいじっていたダグラスが
ぴしりと固まってこちらを見てくる。
差し出された長剣を握り、炎帝の陽光に晒しつつヴァンダインは
目を細めた。
﹁ふむ。奇を衒わず、実直な剣じゃ。金勘定が苦手なお前のことだ、
店を持つと聞いたときは少し心配しておったが、性根は曲がっとら
んようだの﹂
ありがとうございます、と叫ぶように言って頭を下げるダグラス
である。
くっきり直角に見えるほどの急降下の辞儀をするダグラスなど初
めて見た。 ダマスカス
﹁ジルよ、腕力値30なら、長剣ぐらいなら魔鋼製でも振り回せる
じゃろう。一本打ってやろうか? 人物が気に入ったら武器作って
あげてって姫にも言われとるしの﹂
長剣を俺に返しながら、流れるようなアゴ髭を撫でるヴァンダイ
688
ンである。
なぜかダグラスとリカルドがうおおおお、と叫びながら驚いた。
﹁ジ、ジル。すげえぞ、師匠が剣を打つなんざ滅多にねえんだ。ボ
マジックウェポン
ーヴォ以来、ほとんど認めた冒険者なんて出なかったっていうのに﹂
ハッカー
﹁ボーヴォさんの愛剣﹃切り開き﹄に続く魔法武器が産み出される
日が︱︱!﹂
二人の反応とは裏腹に、俺は冷めたものである。
﹁いらないな。魔鋼製の武器なんて作ってもらう金がない﹂
﹁金は取らんよ。末永く使ってもらえりゃそれでいい﹂ 先ほどから、打ってもらえって!とか、お金がなければ僕が貸す
から!などと外野の二人がやかましい。
﹁いらんよ。俺にはダグラスの剣で十分だ。それに、ヒモからの脱
却を目指してる最中でな。ボーヴォハウスの住人には頼らないこと
にしてるんだ﹂
かっかっか、と高らかに笑うヴァンダインである。後ろで盛大に
ずっこけている二人は何がしたいのだろう。
﹁気に入ったぞ、小僧。独り立ちできたと思えたら、わしのところ
に来い。そのときに剣を打ってやる。わしが生きてるうちに来いよ﹂
﹁まあ、覚えておくよ、爺さん﹂
689
うむうむ、と上機嫌のヴァンダイン翁である。
そこで、隣家の扉が開いてチェルージュたち女性陣が出てきた。
世間とは狭いもので、リカルドの屋敷の隣がボーヴォの別荘なので
ある。先にあったのはボーヴォの別荘らしいので、隣の一等地をリ
カルドが買い占めたというのが実情だろう。
﹁もう少し大きゅう作ってもらえば良かったかのう。出禁ちゃんに
負けとるというのは、何とも癪じゃな﹂
ヴァンダイン翁が渋い顔をしているのは、ボーヴォの別荘の大き
さである。
街にある本宅のボーヴォハウスを見慣れていると、確かに小市民
的なサイズに感じてしまう。
それでも普通の家よりは断然大きいのだが、一等地を買い占めて
建てたリカルドの家がさらに大きいのだ。
﹁なにを子供みたいなことを言ってるんですか、ヴァンダイン。食
事が出来ましたよ﹂
木編みの籠を両腕に提げながら、呆れ顔のグランマであった。
690
第四十一話 突撃
木編みの籠を両腕に提げながら、グランマが男衆に指示を出す。
ボーヴォの別荘の物置から、敷物代わりに使う木板を引っ張り出
してきて、泉の脇の草むらに並べていくのだ。俺も参加して、全員
が座れるように木板を敷いていく。女性陣は尻に敷くであろうクッ
ションを持ってきていた。
﹁グランマはすごかったわ、ジル﹂
見れば、いつの間にかエミリアが近づいてきて、何やら沈思に耽
っている。
﹁私たち、何かに目覚めたかも﹂
﹁いや、何にだ﹂
﹁ご主人様。私たち、女として生きていきます﹂
﹁んん?﹂
これもやはり、いつの間にかエマがそばにいて、何かを悟ったよ
うな顔つきになっていた。料理の邪魔だったのだろうか、板金鎧は
脱いでしまっていて、布鎧姿である。
バックパック
そのまま俺の近くで何やら語り始めるかと身構えていたが、それ
ぞれ木編みの籠と背嚢を手にした彼女たちは、板を敷いた食事会場
の方へふらふらと歩いていった。 691
﹁俺が言うのも何だが、どうしたんだ、あいつら?﹂
ダグラスに聞いてみるが、首を傾げるばかりであった。対照的に、
ヴァンダインは何やら得心した顔で頷いている。
﹁たまにいるんじゃよ。グランマに女の生き方を語られて、なんぞ
や目覚めてしまうのが。ここのところ姫以外にはとんと説教なんぞ
しとらんかったが、恐らくは何かに当てられたんじゃろ﹂
﹁なんだそりゃ。宗教かなんかか?﹂
﹁あながち否定しきれんのう。いつも言うことは変わらんのじゃが
な。女としてどう生きるかとか、自分と向き合うのが大事だとか一
般論を述べておいて、自分の体験談を引き合いに出すんじゃ。それ
を語られた女どもが感化されることがしばしばあってのう。悪い方
向にではないんじゃが。心配かの?﹂
﹁まあ、少しな。悪い人ではないんだろうが、エマたちの様子があ
そこまでいつもと違うと不気味だわ﹂
からからとヴァンダインは笑い出した。
﹁帰ったらどんな話をされたか聞いてみるといい。娘どもが突拍子
もないことを言い出しても真面目に聞いてやるがいいぞ﹂
﹁お、おう﹂
狐につままれたような気分だが、ともかく俺も、敷いた板に食事
を並べ始めているエマたちのところに行く。彼女たちに付いていか
692
ず、俺の背後に控えていたエリーゼが、やはりエマたちの変化に目
を丸くしていて、俺の反応が間違っていないことに少し安堵した。
﹁では、みな。適当に始めてくれ﹂ 葡萄酒の樽を掲げたボーヴォの宣言で、食事会は始まった。
じゅうぶんな広さを持って敷かれた板であったが、自然とボーヴ
ォたち、そして俺たちとに分かれ、二つの円陣が出来た。すでにあ
ちらでは、座った男衆がグランマに頭を下げつつ、食事や葡萄酒の
樽に舌鼓を打ちはじめていた。
グランマは大きな籠二つに満載された麦酒や葡萄酒などの樽のそ
ばに座っていて、円座の誰かが飲み物を切らしそうになると、手ず
から魔法で冷やした樽を渡したりしている。
エール
﹁麦酒でいいの?﹂
こちら用にも酒が満載された籠を一つもらってきており、エミリ
アがその中から樽を一つ抱えあげ、上目遣いで聞いてきた。
﹁あ、ああ﹂
指先一つで、というわけにはいかないのか、エミリアは樽の上蓋
にたどたどしい手つきで掌を乗せ、冷却の魔法を使ってから俺の方
に差し出してきた。
俺が受け取ると、エミリアは自作の弁当が詰まった背嚢に手をか
ける。 ﹁グランマに料理するところを見せてもらったら、私が作ってきた
693
のがすごく貧しいものに思えてきて。それでも見せて食べてもらい
なさいってグランマが言ってたから、仕方なく出すのよ。ううん、
グランマにも言われたわね、素直に言葉にしなさいって。食べて欲
しいんだけど、いい?﹂
ううむ、恐るべきグランマ。この短時間に、エミリアの思考や言
動に大幅な矯正がかかっている。いつもの強めな口調に慣れている
せいで、違和感が半端ない。悪い方向の違和感ではなく、こちらと
しても少し調子が狂うというか、やけに素直で女らしいエミリアに
どぎまぎしているのだが。
﹁ああ、もちろんだ。食わせてくれ﹂
グランマが作った料理も、エマたちは貰ってきていた。彩りよい
食事であるそれらは、すでに円陣の中央に主賓さながら広げられて
いて、俺たちに食われるのを待っている。
それを横目で見ながら、エミリアは背嚢から弁当箱のようなもの
を取り出した。四人分ということを想定されていたのか、気合の入
った三段重ねの木箱である。
﹁ほう﹂
﹁ちゃんと、グランマが作ったものと、私が作ったもの、見比べな
がら食べてもらいなさいって﹂
少し恥ずかしいのか、頬を染めてうつむきがちなエミリアである。
﹁ふむ﹂
694
料理界の重鎮であるグランマの作った食事は、無駄のないすっき
りとした美しさがあるのだが、これと見比べながら食ってもらえと
は、案外とグランマも指導は厳しいのだろうか。
グランマの料理は、いわゆる挟みものだ。小さめに焼いた細長い
ピクルス
堅焼きパンに切れ目を入れ、ベーコンやチーズ、それに葉野菜が挟
まれている。それがいくつかと、彩の鮮やかな酢漬けの野菜、そし
て何かのすり身を埋めたひと口サイズの果実めいたものだ。
﹁見たことがないが、最後の果物みたいなのはなんだ?﹂
﹁この湖に泳いでた魚を油漬けにしてすり降ろしたものを、オリー
ブの果実をくりぬいて埋めたものなんだって。かなりお酒が進むら
しいわ﹂
﹁へえ、この泉には魚がいるのか﹂
俺は、すぐ横に堂々と広がる湖に目を移す。今まで魚介類は、迷
宮の中でしか産出しないものだと思っていたが、そうでもないらし
い。
﹁湖にも魔物が出るから、危険だからって漁はしてなかったみたい
だけど。ボーヴォさんたちは魔物に遅れを取ることはないから、た
まにここで魚を取って保存食にするみたい。お酒に合うらしいわ﹂
﹁手間がかかってるんだな﹂
魚は高級品である。それを保存食に加工した上ですり身にしたり、
オリーブの果実をくり抜いたり。
695
﹁グランマいわく、もう少し大きくなったらお酒を飲みなさいって。
理由を聞いたら、ジルがお酒を飲むからだって。お酒を飲む人が、
どんなつまみを欲しがるか、お酒を飲まないとわからないでしょう
って言ってたわ﹂
﹁ん、身体が小さいうちに飲むと身体に悪いって聞くからなあ﹂
忘れがちだが、俺で十六歳、エマたちは十二歳である。俺ならば
ともかく、エマたちの歳では飲酒は勧めがたい。
﹁どの料理一つ取っても、グランマなりの工夫が凝らされてるの。
例えばパンは焼きたてふわふわのを開いて、パンの熱がチーズに移
らないように葉野菜とベーコンで挟んだり、魚の油漬け︱︱アンチ
ョビって言うらしいんだけど、それのすり身に使う塩だって、ちょ
ピクルス
うどお酒が進む濃さなんだって。そればかり食べてると飽きるから、
口の中を切り替えるために酢漬けの野菜を用意して、って。料理を
他人に食べさせるときは、その人がどんなものを食べたいかをまず
考えるのよって言ってた。今日のお客さんは酒飲みが多いから、お
酒が進むように料理を作るのって﹂
﹁はああ。考えてるんだなあ﹂
確かに、どの料理も酒が進みそうなものばかりだった。
﹁どれ﹂
グランマの作った、手に持った挟みものをひとかじりしてみる。
堅焼きパンということで、歯で削れたパン粉が散ってしまうような
ものを想像していたが、弾力に満ちてふわりと柔らかく、麦の風味
が香る。
696
噛み千切ると、パンの両脇にまでしっかり挟まったベーコンとチ
ーズ、そして葉野菜が一口目から味わえ、美味なことこの上ない。
ごく当たり前の素材で、当たり前の味なのだが、なぜかそれがとて
も上品というか、普段食べているような、同じ材料を使った挟みも
のよりも格段に美味しかった。
﹁美味いな﹂
出てきた俺の感想も、ごく当たり前のものだった。他の言葉が見
つからない。
エール
﹁はい、麦酒﹂
﹁お、ありがと﹂
挟みものを食べた後に、キンと冷えた麦酒を喉に流し込む。弱め
の泡と、芳醇な香りが、喉を流れていく。視界には湖、空は快晴。
森の緑が美しい。
﹁っくはあ﹂
思わず樽の半分ほども一気に飲んでしまった。
んまい。景色が良いために、遠足気分が盛り上がることこの上な
い。
今日ここに来た理由は、護衛任務だった気がするが、いいのだろ
うか。
﹁おう、相変わらず気持ちいい飲み方するな、お前さんは﹂
697
向こうの円陣から、中樽を手に持ちながらダグラスが笑いかけて
くる。
﹁って、ちょっと待て。中樽?﹂
普段飲んでいるような、人の顔ほどの大きさである小樽ではない。
見れば、ダグラスとヴァンダイン、それにボーヴォは、エマの腰ま
わりほどもありそうな酒の樽でがぶがぶと飲んでいた。
﹁それでいいのか、依頼主﹂
ピュリフィケーション
﹁仕事なら気にすんな。もし魔物が出たら治癒ポーションをくれて
やるから﹂
まあ、依頼主がいいというならいいのだろう。俺も小樽の麦酒を
ぐびりと飲む。
次に、グランマお手製のアンチョビオリーブを手に持って、ひと
かじりする。
まろやかなしょっぱさと魚の風味、それに渋抜きされたオリーブ
の実の相性が良い。少し油っぽく、塩気が強めで、それが麦酒と良
く合った。
そればかり食べていると飽きるので、酢漬けの野菜をぽりぽりと
かじって口の中をさっぱりさせる。いくらでも酒が飲めそうだ。
﹁のどかだなあ﹂
すぐそばの湖の中や、開拓村の周囲に魔物の脅威があるなどと嘘
のようだった。 698
念のために長剣は手元に引き寄せてあるが、人類にとっての最高
戦力が揃っているのだ、滅多なことがあってもボーヴォが秒殺して
くれるだろう。
もうひと口、麦酒を呷る。
飲酒すると集中力が落ちるので、昼から酒を飲むことなど滅多に
ヘリオス
ない。飲酒しての迷宮探索など論外だ。こうして、ときおり爽やか
な風が吹く野外で、炎帝を天に眺めながらの酒盛りなど、初めての
経験で新鮮だった。馬鹿騒ぎするような夜の酒盛りもいいが、こう
いった遠足気分も悪くない。
﹁じゃあ、こっちが、私が作ったやつね﹂
そう言いながら、エミリアは三段重ねの木箱を取り外して、一箱
ずつ板の上に広げてみせた。
横にグランマの食事を並べているせいか、色あせてしまいがちだ
が、それでも木箱の中身は、笹の葉で惣菜間の区切りが付けられた
まともなものだった。
女性陣がはじめて挑戦する手作り料理ということで、毒物と大差
ない物質を平らげることも覚悟していたので、普通に食えそうなも
のが出てきたのは僥倖である。ただし、見た目はあまりよろしくな
い。
一箱目には、主菜が詰まっている。まず目に付くのは、牛肉と思
しき肉の塊だ。半生状態で、血が滴っている。
ひと口で食えるようにという配慮なのか、薄い削ぎ身にされてい
るが、そのせいで肉汁が身から流れ出てしまい、料理同士の区分け
699
となるはずの笹の葉に血溜まりを作っていた。
その牛肉の薄切りが箱の半分ほどを占めている中で、もう半分は
揚げた鳥肉である。屋台でよく売られている、揚げ鳥のチシャ葉巻
きを参考にしたのだろう、木箱の底にはチシャ葉が敷かれていた。
牛肉の汁でやや景観が損なわれているが、笹の葉とチシャ葉の緑
が目に優しい。
単純に食事を詰め込んでおくだけではなく、彩りを気にして区切
りに野菜を使うのは、女性の感性であろう。
﹁ほむ﹂
手渡されたフォークで、薄切りの牛肉を一枚口に運んでみる。
﹁お、案外いけるな﹂
見た目は残念であるし、肉汁が流れ出て少しパサついてはいるが、
塩胡椒に加えてにんにくの風味がして食が進む。隠し味なのか、た
まねぎと葡萄酒も少し香る。
どうやら、あえて芯まで火を通さない牛肉料理のようだ。
揚げ鳥も同様である。冷めてしまっていささか固いものの、胡椒
だけではない香辛料の複雑な味がした。これをエミリアが作ったと
は、俄かには信じがたいほどの出来である。
﹁よく出来てるよ。初めてでこれを作ったとは思えないぐらいに﹂
俺の言葉に、エミリアは安堵の色を見せて、深くため息を吐いた。
700
﹁正確には、まだ小さいころ︱︱親が破産する前に料理の真似事ぐ
らいはしたことがあったから、数年ぶりだけど﹂ ﹁それで料理ができるのか。この揚げ鳥の香辛料なんて配合難しか
ったろうに。そもそもどこで煮炊きしたんだ?﹂
この街では、炊事用の施設を持っていない人々の方が多い。そう
いう人は、屋台の惣菜などで全ての食事を賄う。
﹁鯨の胃袋亭で頼み込んで、仕込みが終わったあとの暇な時間に厨
房を使わせてもらったの。料理を覚えたいって言ったら快く使わせ
てもらえたし、お店で使う香辛料とかを分けてくれたから、厳密に
は私だけの味じゃないんだけど﹂
﹁いやあ、それでも大したもんだ﹂ 二箱目の弁当箱には、粉チーズと溶かした卵を染み込ませて焼き
上げた薄切りの堅焼きパン、三箱目には茹でた芋を潰して和えたも
のや、スライスした茸とベーコンのサラダ、それに茹でた豆類など、
野菜が詰め込まれている。
さすがにグランマの料理ほど完成度が高いとはいえないものの、
どれも普通に食える味であった。
俺はご機嫌になりながら、麦酒を飲みつつエミリアの弁当をつま
んでいった。エマたちも、これがどうのこの味がああだの、グラン
マの発言や薀蓄を引用して語りつつと賑やかに食を進めている。
﹁エミリア、ありがとな﹂
701
突然の発言に、きょとんとした顔のエミリアである。かなり稀な
表情だ。
﹁この弁当、俺の好物ばかりを選んで作ってくれたんだろ? 良く
出来てるよ、美味いぜ﹂
俺が気分良く料理を食えているのも、エミリアのおかげであった。
彼女が作ってくれた弁当は、どれも俺が好んで食うものばかりが
詰め込まれている。
エミリアにしては珍しく、俺の言葉の把握に時間をかけていたが、
ようやく飲み込めたのか、我に返った。心なしか、顔が少し紅潮し
ている。
﹁ね、言った通りでしょう?﹂
いつの間にか、グランマが俺たちのそばに寄ってきていた。酒が
飲めないエマたちへの配慮なのか、高級品のガラスの器に葡萄ジュ
ースを注いでくれている。ちなみに食器はボーヴォの別荘からの持
ち出しである。
何の話だ?とエミリアに話を向けてみる。
﹁グランマがね、ちゃんとした男なら、女の努力を分かってくれる
だろうって。ジル君ならきっとわかってくれますよって言われてた
の﹂
ほほほ、とにこにこするグランマの笑顔に、喉を流れる麦酒の苦
味が増したような気がした。気が付かないところで何やら試されて
いたらしい。
702
﹁うん、決めたわ。ねえジル、宿に帰ったらちょっと話があるわ。
多分、エマもだけど﹂
どこか晴ればれとした顔で、エミリアはそう宣言した。
何事かわからないが、とりあえずおう、と頷いておく。
﹁うん、いい天気ね﹂
快晴なのはいまさらだとは思うのだが、にこにこしながらエミリ
アも料理を食べ始めた。
﹁ふう。終わってみれば、天国のような仕事だったな﹂
鯨の胃袋亭の二階、洗い場で皮鎧と布鎧を脱ぎ捨てながら呟く。
湯で浸した布で身体を拭きながら、しばし解放感に浸った。
昼間の酒盛りの後、帰りの馬車が出発するころには、俺もダグラ
スもかなり出来上がっており、土産がわりに渡されたクッションを
枕に二人とも馬車の中で爆睡してしまったものだ。
雇い主と主人がそんな有様でも、仕事は仕事だからと道中の索敵
をしてくれたエリーゼには頭が上がらない。 ﹁お、お疲れ。馬車の中じゃありがとな﹂
噂をしていれば何とやら、手早く着替え終わったエリーゼが洗い
703
場にひょっこり顔を出す。
俺は上半身裸であったので、着替え中に乱入したことでエリーゼ
はしまったという顔をしたが、特に気にしてはいないので俺は用件
を言うように催促した。用がなければわざわざここには来るまい。
﹁しばらく席を外しますので、そのご報告に。買い出しが必要なも
のがあれば買ってきますが﹂
﹁ん、何か買いに出るのか? 付き合おうか?﹂
﹁いえ、単にお邪魔虫は退散しておこうというだけです。向こうで
二人が待ってますよ﹂
アンブッシュ
﹁なんだそりゃ、部屋に戻るのが怖くなるな。待ち伏せか?﹂
意味深な笑顔を残してエリーゼが去ってしまったので、俺は服を
着込んでから、自室の扉をがちゃりと開けた。
そして閉めた。
﹁着替えは終わったって言ってたが、エリーゼに騙されたか? す
まんな﹂
平静を装って扉越しに声をかける。
二人は、上着と短パンを身に着けていなかったのだ。
この時刻、一日の討伐が終わった晩飯時になると、エマたちは寝
巻きを兼ねた部屋着に着替えるのが常だ。といっても、上下の下着
に加え、膝丈までの短パンと薄手のシャツを着ただけの質素なもの
であるが。
704
それが今は、肩から紐で吊るした、へそ出しで胸部だけを覆う胸
当てと、股間を隠す下着としてのパンツのみしか履いていない。要
するに下着姿だ。
緑とオレンジ色の糸で、せめてもの彩りとして十字の縫い取りが
された、簡素で安価な下着。網膜に焼きついたそれを、俺は半ばト
ラウマである大ムカデの雄姿を思い浮かべることで必死に打ち消そ
うとした。
﹁あ、ジル。着替えは終わってるから、入ってきていいわよ﹂
特に怒っていなさそうなエミリアの声に安堵し、扉を開けて自室
である大部屋に入った俺は︱︱固まった。
着替え終わったと言っていたが、未だに下着姿のままである。今
まで、いくら同室で寝起きしているとはいえ、最低限もう一枚は着
て生活していたものだが。
﹁よいしょ﹂
俺が中に入ってすぐのところで固まっていた隙をつき、エマが扉
を閉めてがちゃりと鍵をかけた。開けようと思えばすぐに開けられ
るだろうが、エマがすぐに俺の右手を抱え込んで離さない。
﹁さて、話があるの﹂
いつの間にか、エミリアも接近してきて俺の左手を抱え込んだ。
俺は両腕を引きずられるように、ずるずると仰向けにベッドに押
し倒される。
705
﹁ちょっと待て、これは何事だ? そしてなぜ下着姿なんだ?﹂
まさか強姦されるということもあるまいが、俺の動揺は収まらな
い。
大の字にベッドに寝かされた俺の右腕は、エマの両腕でがっちり
と押さえつけられている。左腕は、腕力値に劣るエミリアの機転な
のか、肘をまたぐようにエミリア自身がずしりと乗っかってきてい
た。
﹁話があるので、逃げられないようにという配慮です﹂
﹁すごい嫌な予感がするんだが、俺が逃げるような話なのか?﹂
かなりがっちり俺の両腕は固定されてしまっている。全力で振り
払おうと思えばできなくもないだろうが、左腕がエミリアの股間に
当たっている関係上、力を入れて動かすのも妙に躊躇われた。
﹁どっちから話す?﹂
しばし目線での応酬の後、エミリアがおもむろに口を開いた。
﹁あのね、グランマに言われて、少しだけ自分に素直になることに
したの。照れ隠しにつんけんしてる間に、他の誰かとジルがくっつ
いたら嫌だなって。負けるにしろ、せめて勝負をしてからじゃない
と、悔いが残ると思ったのよ﹂
﹁お、おう?﹂
もしやここで俺が拘束されている理由は、男女関係に関わる話な
706
のだろうか。
棚に上げておいた、いや先延ばしにしていた問題を、力づくで目
の前に持ってこられた気分である。
昼間の馬車の中で話した、奴隷には手を出さないという俺の宣言
が契機となった可能性もあった。
﹁私ね、ジルの恋人になりたいの﹂
深呼吸の後に、エミリアは言い切った。
﹁ぬお﹂
変な声が出てしまった。完全なる奇襲である。
もしそういう話が出てくるのであれば、普段から肉体的な接触の
多かったエマからだと思っていた。
﹁ご主人様、エマはね﹂
どうも話はそれで終わりではないようだった。何となく、更なる
追撃が来るような気がして身体を強張らせる。
﹁ご主人様に抱かれたいです﹂
﹁へあ?﹂
バトルアックス
そこまでは予想していなかったので、やはり間の抜けた声を出し
ブロードソード
てしまう。
帯広剣での一撃を予想していたら、闘斧を叩き付けられたような
被害の差であった。
707
﹁ええと、抱かれたいというのは、今までのような添い寝的なあれ
だよな?﹂
﹁いえ、男女の性的な行為のことです﹂
俺は声を失ってしまった。こいつらは一体何を言ってるんだろう
か。
そもそもエマはいつの間にそんな単語と言い回しを覚えたのだろ
うか。誰だ教育係は。エミリアじゃん。
現実逃避をしていては何も解決しなさそうなので、額にじわりと
汗がにじんでくるのを感じつつ、俺は何とかしてこの場を切り抜け
られないか考え込む。
﹁いや、あのな? そういうのは、まだエマには早いんじゃないか
と思うんだよな。それにな、馬車の中でも言ったが、俺はそういう
ことをしたくて君らを買ったわけでは︱︱﹂
﹁私がしたいんです﹂
ぴしゃりと言い切るエマであった。積極的な子である。
﹁私はまだ、そこまで一気に行くのは怖いけれど︱︱ねえジル、知
ってた? エマって貯金してるのよ?﹂
﹁貯金?﹂
なぜここで金の話が出てくるのだろうか。
708
﹁奴隷身分じゃなくなるためです。本当は、冒険で溜めたお金を使
って、奴隷身分じゃなくなった晩に、ご主人様に抱いてくれって迫
るつもりでした。エリーゼの短剣を借りて、断られたら死ぬって言
えば、ご主人様なら受け入れてくれるんじゃないかと﹂
﹁こらこらこら﹂ 発想がぶっ飛びすぎていて怖い。実に重たいエマの愛である。 ﹁ちなみに、その日は私とエリーゼにどこかで一晩過ごしてくれっ
てすでに頼まれてるわ。まだ貯金を始めたばっかりなのに、エマの
中ではそこまで計画が出来てるみたいよ﹂
エミリアの説明に俺は戦慄する。なんという用意周到さであろう。
﹁でもね、私も貯金を始めることにしたわ。私だって、その︱︱そ
ういうことに興味がないわけでもなし。ジルならいいかって思って
たりもするし。だからね、ジル﹂
エミリアは再びの深呼吸である。
﹁奴隷身分じゃなくなったら、私たち、ジルとそうなりたいわ。私
たちは本気よ。考えておいてくれない?﹂
﹁お、おう﹂
思わず俺は頷いてしまった。言質を与えたことにならないかと一
瞬後悔したが、考えておくだけでこの場を切り抜けられるならとり
あえず流されてしまいたい。
709
﹃こちらエマ。終了した﹄
いつの間にか、取り出した念話の指輪にエマが話しかけていた。
指輪から聞こえる了解、という返事はエリーゼのものだろう。なぜ
君たちは迷宮にいるときばりに緊張感に満ちた簡潔な通信をしてい
るのか。
﹁さて、ところで、ジル﹂
エミリアは俺の腕に乗っかるのをやめたと思いきや、今度は腕を
枕にして俺の横にごろりと寝転がる。そんな彼女を見習ったのか、
エマも俺の腕を枕に顔を寄せてくる。
要するに、寝転がった俺の左右に彼女たちが横たわり、腕を枕に
顔を寄せてきていた。俺の顔に、二人の顔が近い。
﹁チェルージュって、童顔よね。ああいうのが好きなの? 興奮し
たりする?﹂
﹁興奮ってお前な。もう少し別な表現はなかったのか﹂
﹁正直に言うと、ジルに嫌われたらとか、エミリアの癖に何言って
るんだって拒絶されたらって思うと、怖いわ。ジルがどんな女の子
が好みとか、わからないし。可愛くないからって言われて突き放さ
れたらどうしようって今も思ってる﹂
﹁エマは、何でもしますよ。だから、おそばに置いてください﹂
俺は、二人の顔を見た。どちらも真剣な表情である。
まだ少女のあどけなさが残る、化粧もしていない女の子の顔だ。
710
﹁ねえ、私たちじゃ、ダメ? 興奮しない?﹂
今までだって、娘とか、妹のような存在として扱ってきたので、
すぐに女性扱いはできないかもしれない。俺だって思春期の男子で
あるからして、そんな彼女たちであっても密着していれば下半身は
反応してしまうし、それが原因でそろそろエマとの同衾をやめよう
とは思っていたのだが。
﹁ひょっとしてそれで下着姿なのか?﹂
﹁うん。その気にさせられるかなって﹂
両腕を拘束されたまま、俺は天を仰ぐ。どう答えるべきだろうか。
﹁興味はあるし興奮もするだろうが、今までの関係を変えて女とし
て見ろって言われても、いきなりそんな気分にはなれないよ。ああ
いや、エマたちが嫌いとかじゃなくて。今後の成長に期待というか、
お友達からでお願いします?﹂
思わず語尾が疑問系になってしまった。 突然の奇襲であったので、瞳を通じてチェルージュへ送られる情
報を遮断していないので、いまごろは笑い転げているかもしれない。
友達からでお願いしますというのは、彼女の母が彼女の父へ向けて
言った言葉だったはずだ。
﹁今はそれでもいいわ。でも、チェルージュには負けないからね﹂
首を伸ばして、俺の頬にエミリアはキスをした。負けじと、エマ
も逆側の頬へ唇を押し付けてくる。
711
そこへ、がちゃりと扉を開けて、エリーゼが部屋へ入ってきた。
俺たちの状態を眺めつつ、真顔で少し考え込むエリーゼである。
﹁もう少し、出かけてきた方がいいですか?﹂
﹁いや、いいから。そろそろ晩飯にしよう﹂
混乱から脱しきってはいなかったが、ともかくも俺は苦笑顔でそ
う告げた。
712
第四十二話 予兆
こつ、こつ、こつ。
履きなれた鉄板入りの革靴で石畳を歩いている音だけが、やけに
耳に響く。
街には、人影がない。四六時中、視界のどこかに必ずいるはずの
他人の姿が一つたりともない。
静まり返った無人の街を、俺一人だけが、悠々と歩いている。
こつ、こつ、こつ。
自分の足音以外、一切の音が世界から切り離されてしまったかの
ようだ。
身体の自由も利かない。指一本、自分の意思で動かすことができ
ない。足の裏が地面を踏む感覚もない。
それなのに、俺は歩いている。足音だけの世界を、黙々と俺が歩
いている。
こつ、こつ、こつ。
空は漆黒の闇に覆われている。方々に焚かれた松明も、闇空を焦
713
がすには至らない。
迷宮城の広場にも、誰もいない。ここには深夜であろうとも常に
冒険者ギルドの職員が何名か待機していて、迷宮に足を踏み入れる
ための順番待ちの列をさばいているはずだが、いくつもの机が並ん
でいるだけだ。
深夜に冒険に赴く変わり者の冒険者の姿も、冒険者ギルドの職員
の姿も、ここにはない。
やけに広く感じる無人の通路を、俺は進む。
こつ、こつ、こつ。
鈍い銀色に輝く皮鎧と、愛用の長剣を腰に吊ったまま、赤茶けた
洞窟の中を歩いていく。
洞窟の中には、誰もいない。他の冒険者もいない。魔物もいない。
こつ、こつ、こつ。
黙々と、俺は洞窟の中を、より深く、より下層へと、歩いていく。
ただの一人も、ただの一匹にも出会うことなく、俺は中層のベー
スキャンプへと辿りついた。
やはり、ここにも誰もいない。いくつもの天幕や机、かがり火、
人を通さないために張られた荒縄、それらはいつも通りなのに、人
714
の気配だけがなく、しんと静まり返っている。
こつ、こつ、こつ。
無造作に一つの降り口を選んで、俺は下り階段を進んでいく。
淡く光る薄紫色の結晶で覆われた中層の道を、俺は歩いていく。
通路、部屋。
通路、部屋。
通路、部屋。
部屋の中に広がる林には目もくれず、真っすぐに奥へ奥へと進ん
でいく。やはり生物の気配はない。
こつ、こつ、こつ。
いくつの部屋を通り過ぎたのだろう。
とある森の前で、俺は立ち止まった。一体何に傷付けられたのか、
平地から森への入り口には幹が抉れた一本の木が立ち枯れていた。
傷つくそばから自力で治す迷宮の樹木も、枯れることがあるのだろ
うか。
じっと俺はその木を見つめている。
715
﹁︱︱夢?﹂
ベッドから上半身を起こした俺は、そう呟いた。
締め切られた窓の隙間から、うっすらと朝の光が差し込んできて
いた。小鳥の囀りが聞こえる。
こきこきと、首を回してみる。特にどこかが凝っていたりはしな
い。
ベッドの横に目をやる。銀蛇の皮鎧と鈍魔鋼の長剣は、昨日片付
けた位置そのままで、動かした形跡はない。 ただの夢だったのだろう。内容をはっきりと思い出せる、珍しい
夢だった。
﹁あら、今日は早いですね。おはようございます﹂
﹁ん、夢見が微妙でな。なんか目が冴えちまった﹂
エリーゼはすでに起き出していて、黒の長髪を梳いているところ
だった。
俺とエリーゼの間には、エマとエミリアがそれぞれ自分のベッド
で眠っている。
昨日は晩飯を食べ終わった後、俺のベッドに侵入しようとしてく
る二人を説得するのに骨を折った。二人を女性として意識するため
716
にはまず肉体的な接触を減らすことが必要だ、という謎の理論によ
って大人しく自分のベッドに戻させることに成功したわけだが、変
な夢を見た原因はこの二人なのではなかろうか。
襲われまいとする本能が、知らず知らずのうちに夢へと現れた︱
︱そんなわけないか。
そもそも何かから逃げるような夢でもなかったし。
﹁今日はお昼からですか?﹂
﹁どうだろうな。エミリアが弁当作りの練習したいから、これから
は朝から迷宮に行こうって昨日言ってたけどな。エミリア次第にな
りそうだ﹂
今までは、昼飯を食ってから迷宮に潜っていたのだが、それを繰
り上げて朝からにしたいと言う。弁当作りの練習と、早めに金を溜
めて奴隷身分から脱却したいという思惑もあるのだろう。
そういうことであれば、応援するのもやぶさかではない。
俺と恋仲になりたいという目的はともかくとして、奴隷ではなく
なりたいという意志は歓迎すべきだ。俺は一つ伸びをして、今日の
予定を考え始める。
肉の腸詰め、燻製肉の薄切り、乳脂で炒めた卵、牛乳。
朝っぱらから、がつがつと胃に重たいものを食べ続けているのは、
俺ではない。エマとエミリアである。
717
﹁よく食うなあ﹂
俺とエリーゼは呆れ顔である。俺も健啖家であるとは自負してい
るが、彼女たちの剣幕にたじたじであった。ぎりぎり見苦しくない
速度で、鯨の胃袋亭ご自慢の大飯を平らげていく二人である。
昨日までは食いきれない分の量を減らしてもらっていたのだが、
今日から一人前を食べ始めていた。理由を聞いたところ、肉付きを
良くしたいんです、とのことらしい。どう声をかけるべきか迷う理
由であった。
あまり食いすぎると太るぞ、などと声をかけようものなら、刺さ
るほどに冷たい視線で睨まれる気がする。見えている罠は避けて通
るべきだろう。我ながら成長したと思う。
﹁で、今日の予定はどうするんだ? 朝から行くのか?﹂
﹁そうしてみたいわ。もう少しで厨房も手が空くだろうから、食事
が終わったら一時間ほど待ってくれない? お弁当持って迷宮に行
きたいわ﹂
﹁ん、了解だ。ドミニカの迷惑にならないようにな﹂
商売道具でもある炊事設備を貸してもらうのである。そのうち礼
を言っておかねばなるまい。
﹁大丈夫よ、結構気に入られてるから。いつでも来なさいって言っ
てくれてるわ。
長逗留の客だから向こうも邪険にはしないでしょうし、私があそこ
718
の扱いに慣れたら忙しい日の晩に助けてくれって言われてるから、
それでおあいこよ﹂
﹁ふむ。そんなもんか。ドミニカの旦那には礼儀正しくな、影の支
配者だから﹂
﹁え、そうなの? ドミニカさんに尻に敷かれてるようにしか見え
ない、あの影の薄い人が?﹂
﹁うん。多分、あの人は怒らせると物凄い怖いはずだ。丁重にな﹂
﹁信じられないけど、了解だわ。それにしても、今日のお弁当は何
作ろうかな﹂
膨大な量の朝飯をパクつきながら昼飯の献立を考え込むエミリア
は、どこか楽しそうである。
﹁勢いよく朝から迷宮に来たのはいいものの、部屋、空いてないな
あ﹂
﹁空いてないですねえ﹂
肩をすくめる俺とエリーゼである。中層のベースキャンプでは順
番待ちの列は少なかったというのに、狩場には意外なほど人がいて、
どの部屋も使われてしまっていた。
﹁レベル3まではこりゃ埋まってるか。どうすっかな﹂
719
レベル、と呼んだのは、中層の深さを現す目安である。
同じ中層でも出現する魔物の種類は深度によって異なるので、目
安としての呼称が欲しいと俺たちが話し合った結果、暫定的にレベ
ルという表現をすることにしたのだ。
レベル1は、骸骨剣士や異常茸が主に出没する地域。
レベル2は、上記に加えて魔角牛が出没し始める地域。
レベル3は、さらに毒大蜘蛛や、大毒蛙などが出没する地域。
なお、対象の部屋のレベル以下の魔物すべてが湧く可能性がある。
例えばレベル3の部屋であれば、レベル1、2、3のどの階層の魔
物も出没するのだ。
﹁もっと深い階層に行くなら、もう少し俺たちが成長してからがい
いな。安全圏は多めに取っておきたいし﹂
もう加護はないのである。不測の事態が起こりやすい未知の魔物
との戦闘は、俺たち自身のレベルをもう少し上げてからにしたかっ
た。
﹁それじゃあ、横に進んでみますか﹂
﹁そうだな。レベル4には進まずに、横移動で空いてるレベル3の
部屋を探そう﹂
横の部屋への通路が出現するのも、レベル3の階層からだった。
720
他の冒険者たちが魔物と戦ったり、湧き待ちをしている中を、俺
たち四人は通り過ぎる。男一人に女三人という俺たちのパーティは、
やはり奇異に見られることが多く、冷たい視線を浴びがちだ。
稀に好意的な視線に遭遇することもあるが、そういうのは大抵遊
びなれていそうな兄ちゃんがほとんどで、笑顔で親指を立てながら
腰をくいくいと振って励まされたりする。エマたちの教育に悪い環
境であった。
﹁お、やっと空き部屋にありつけたかな﹂
いくつもの部屋を素通りした末にたどり着いたのは、迷路などの
特殊な構造ではない、普通の部屋だった。
部屋の外周は通路を兼ねた平地になっており、それ以外の中央部
分がすべて森という単純な構造だ。
﹁よし、ここで狩りをしよう。エリーゼは索敵を頼む﹂
﹁了解です﹂
猫のようにしなやかな動きで、するするとエリーゼは森の中へ入
っていく。
いくらか遅れて、俺たち三人も森の中へと入っていった。付かず
離れず、基本の陣形である。
﹁それにしても、この森って来たことあったっけ? どうも見覚え
があるんだが﹂
木々の配置や、地面の起伏、部屋の形に妙な既視感を覚える。
721
中層のベースキャンプからの降り口は何十もあるとはいえ、ずっ
と迷宮に潜り続けていればそのうち馴染みのある部屋ができてもお
かしくはないのだが。
﹁いえ、初めてだと思いますよ?﹂
﹁私もそう思うわ。見覚えないもの﹂
エマとエミリアの二人に言われると、俺も自信がなくなってくる。
﹁気のせいか。森の構造なんてどれも似たようなもんだしな﹂ エリーゼからの手振りで魔物を発見したという報告が送られてき
たので、俺は頭を振って違和感を打ち消した。何はともあれ、戦闘
だ。余計なことを考えている暇はない。
エラーファンガス
魔物は、異常茸だった。
木の股や根の突起などにうじゅうじゅと菌糸を巣食わせた、半軟
体の茸である。
魔術師が少なかったり、狩人がいないパーティにとっては気づか
ずに縄張りに踏み込んでしまう厄介な魔物なのだろうが、全員が攻
撃魔法を使える上に、索敵にも不安のない俺たちにとっては楽な相
手だった。
ファイアアロー
﹁火矢!﹂
ファイアボール
﹁火弾!﹂
三本の火矢、それに遅れてエミリアの火弾が命中する。轟音とと
722
もに火弾は爆発し、一匹の異常茸を消し炭に変えた。
以前見たときよりもさらに爆発半径と炸裂音が大きくなっている
気がする。エミリアも成長しているのだろう。
スリープファンガス
﹁睡眠茸か。胞子が紫色だ﹂
マナを感知した睡眠茸は、勢い良く胞子をばら撒きはじめる。 焼かれる順番が後か先かの違いしかないし、知性もなさそうな魔
物であったが、必死に自衛を試みているようだ。
﹁以前やったときと一緒でいいや。エミリアは無傷のやつに火弾、
俺たちは火矢で攻撃続行。予備のMPを残しておきたいから、第二
射が終わったら後退して休憩﹂
全員の了解という声、発射される二射目。エミリアが計二匹、俺
たちが一匹の睡眠茸を撃破し、俺たちはその場から離れる。
そろそろ全員が森から出ようかというころ︱︱索敵係のエリーゼ
が鋭く叫ぶ。
一拍遅れて、俺も魔力感知スキルに敵の気配が引っかかった。
﹁魔物湧き! 森の奥から接近、気づかれてます!﹂
俺たちは緩みかけた緊張の糸を張りなおす。森の奥に敵がいると
仮定して、散開して陣形を取る。
何かが迫ってくる気配は、急速にこちらへと近づいてきていた。
しかし、足音や草むらをかきわけるような音はしない。
そろそろ姿が見えていないとおかしいほど気配は近いというのに、
魔物の姿はどこにもない。
723
﹁︱︱!﹂
ポイズンスパイダー
ちらと上を向いたエリーゼが、弾かれるようにその場から跳び退
がる。
一瞬前までエリーゼがいた場所に、毒大蜘蛛が足を広げてぼとり
と着地した。急な回避行動だったために、エリーゼは地面に倒れこ
む。
エリーゼはすぐに起き上がろうとするが、毒大蜘蛛もすぐさま上
半身をもたげ、
八本の毛むくじゃらの大足を広げてエリーゼへと踊りかかる。
バトルアックス
そこに、エマが闘斧を振りかぶって斬りかかった。生意気にも毒
大蜘蛛は足を下げ、伏せるようにしてエマの斬撃を回避する。狙い
の外れた闘斧は、毒大蜘蛛が落ちてきた木の幹に深々とめりこんで
しまい、抜くのに手間取っている。
俺は突進して毒大蜘蛛に長剣で斬りつける。上段に振りかぶり、
力の限り斬り降ろしたというのに、がぎん、という硬質な音がして、
刃が少し背中にめりこんだのみで両断するには至らない。
﹁くっそ、こいつ腹は柔らかかったのに、背中の骨は硬いのか︱︱﹂
またしても、蜘蛛の黒真珠のような四つの瞳と目が合う。前回戦
ったときもこんな感じじゃなかったか、と既視感を覚えている暇も
なく、やはり毒大蜘蛛は八本の足を広げて俺に抱きついてきた。
せめて急所から遠いところに攻撃を食らうべく、俺は武器を握っ
ていない左手で蜘蛛の噛み付きを防御する。やはり銀蛇の皮鎧とい
724
えど毒大蜘蛛の咬撃には耐え切れないらしく、ちくりとずぶりの中
間のような鋭い痛みが左手に走った。
俺は空いている右手に持った長剣で蜘蛛を攻撃しようとするが、
密着していて距離が近すぎるので思うように力が入らない。切っ先
で突こうにも、身体が固定されてしまっているので、右腕だけの力
では大した威力が乗らないのだ。
﹁ふッ!﹂
エリーゼが身体ごとぶつかっていくように、全体重を乗せた短剣
の切っ先を毒大蜘蛛の横腹に突き込む。
足を広げれば人よりも大きく見えるとはいえ、胴体部分は1メー
トル強しかない蜘蛛のことである、心臓のあたりまで刃は届くかと
思われたが、しかし横幅のせいで急所まで刺し通せなかったようだ。
毒大蜘蛛は俺に絡みつかせた足を離すことなく、噛み付いた左腕
にどんどんと毒液を注ぎ込み続けた。
︵これ、ヤバいかも︶ 毒大蜘蛛と以前戦ったときに食らった毒の症状を思い出す。
ほんのわずかな時間噛まれただけであんなにも激しい苦しみであ
るのなら、こんなにも長時間噛まれ続けた今回の戦闘での苦痛はい
かほどであろう。
今はまだ、傷口から熱いものが広がり始めている程度で済んでい
るが、すぐにも症状は出始めるはずだ。というか、このまま毒液を
注入され続けていては、早々に致死量を超えてしまいかねない。
725
ふと、俺の右手に握った長剣がもぎ取られる感覚があった。
﹁おおおおおッ!﹂
吠えながら、エマが俺の長剣を握り締め、横合いから蜘蛛のどて
っ腹に切っ先もろとも体当たりしていった。
体重に優れ、そして武器にも優れたエマの刺突は、エリーゼのそ
れの威力をはるかに上回り、反対側の胴体まで突き抜けるのではな
いかというほど深く毒大蜘蛛に突き入れられる。
さすがの毒大蜘蛛も、俺を拘束していた手足を離し、胴体に長剣
を突き込まれたまま、暴れ始める。
エマはまだ、長剣の柄から手を離していない。バーベキューの串
焼きよろしく、
長剣の先に毒大蜘蛛を刺し通したまま、円を描くように長剣を振り
回した。
柔らかい腹を斬り破って毒大蜘蛛の体内から長剣が飛び出てき、
毒大蜘蛛はそのまま地面に倒れてもがきはじめる。
﹁繭、素材。傷つけるな、よ﹂
すでに毒が体内に巡り始めていて、呂律も回らなくなってきてい
たが、何とかその言葉だけを振り絞る。
キュアポイズン
﹁解毒!﹂
すぐさまエミリアが魔法をかけてくれるが、光が収まった後もま
だ体内に毒が駆け巡っている実感があった。立っていられなかった
726
ので、とっくに俺は地面に倒れ伏している。
﹁エミ、リア、すまん。もういっ、かい、かけれるか?﹂
﹁大丈夫、後一回分だけマナはあるから︱︱解毒!﹂
二回目の解毒を受け、ようやく体内から毒は消えたようだ。
﹁あんがと。はあ、死ぬかと思った﹂
ヒール
毒が消えた後も、立ち上がる体力が残っていなかったので、俺は
自分に小回復の魔法をかける。
頭がくらくらするが、どうにか上体を起こして座れる程度には回
復した。
﹁ジル!﹂ 泣きそうな顔で、正面からエミリアが抱きついてくる。俺が死に
そうになったのが心配だったのだろうか。体力の残ってなさから言
って、このまま押し倒されてしまうかと思ったが、俺の後頭部にご
つんと硬質なものがぶつかった。
﹁いた、いたたたた。エマ、痛い。俺死んじゃう﹂
背後から全身鎧もお構いなしに俺に抱きついてきているのは、や
はりエマであった。背中から胸へと腕を回してぎゅうと抱きしめら
れているものの、今のエマは鉄の塊であるからして単純に痛い。
普段ならば銀蛇の皮鎧が衝撃を吸収してくれているのであろうが、
今の俺は病人のようなものであり、些細な衝撃で身体が痛む。
727
放っとこうか、と言わんばかりに、エリーゼは毒大蜘蛛の腹部を
短剣で切り開いて素材の回収にかかっていた。
﹁ほら、エマも、闘斧を回収しないと﹂
結局、闘斧をとっさには引き抜けなかったので、俺の長剣を使っ
て戦うという選択をしたらしい。
そのおかげで助かったといえる。もう少し継続的に毒液を咬み口
から注入され続けていたら死んでいたかもしれない。少し毒を食ら
っただけでも致死量であるということは変わらないが、毒が多けれ
ば多いほど体組織の破壊も急速に進むだろうから。
ひと段落したといえ、魔物が出没する戦地であるということを思
い出したのか、エマは素直に俺から離れ、木の幹にめり込んだ闘斧
の方へと歩いていく。
﹁ふんぬッ! ぬッ!﹂
木の幹に足をかけて、エマ思いっきり闘斧を引っ張る。二、三回
もやるうちに、めきめきと幹が砕ける音がして、ずぼりと闘斧は引
っこ抜けた。勢いそのままに、闘斧もろともエマは後ろに倒れこむ。
その姿を笑おうとして︱︱俺の笑いは引っ込んだ。
うろ
闘斧を叩き込まれ、そして強引に引っこ抜かれた木の幹は、洞の
ようにぼろぼろになってしまっていたが︱︱その抉れ方が、今朝の
夢の中で見た立ち枯れた木にそっくりだった。
まじまじと見つめてみるが、やはり記憶違いではない。
あの木は、夢の中に出てきた枯れ木の傷と、細部まで寸分違わず
728
そっくりだったのだ。植物として死んだこの樹木が枯れれば、ちょ
うどあんな風になるだろう。
すっと、背筋に冷たいものが走る。あれは、予知夢だったのだろ
うか?
﹁ジル、もう小回復分のマナ溜まってない? 疲れたんなら、もう
少し離れたところで休みましょうよ﹂
エミリアの声に、我に返る。一体どれほどの時間、俺はあの木を
見つめていたのだろう。
﹁あ︱︱ああ、そうだな﹂
俺は混乱しつつも、自分に小回復をかけ、立ち上がる。
とっくに毒大蜘蛛の糸繭は回収し終わっていたらしく、死体も迷
宮に吸収されて跡形もなかった。
﹁もう少しで次の魔物が湧いちゃうわ。みんなMPも少ないし、そ
ろそろお昼にしましょ﹂ ぼうっとした頭で、言われるがままにエミリアに付いていく。ど
うやら魔物が湧かない通路で弁当を広げるつもりのようだ。
俺は、今一度、振り返って木の幹を眺める。
気のせいなんかじゃないぞ、と言わんばかりに、傷ついて枯れる
のを待つばかりとなった迷宮の樹木は、堂々と立っていた。
729
第四十三話 危地
日常は淡々と過ぎた。はじめて予知夢らしきものを見てから一週
間近く経ったが、あれ以来、夢見はごく普通で何事もなかった。
﹁なあチェルージュ、夢遊病ってわかるか? 本人に記憶はないん
だけど、寝てる間に徘徊してるとか﹂ 決まった目的地もなく、真新しい家々や建築現場が立ち並ぶ開拓
村を歩きながら、俺はチェルージュに尋ねた。
﹁ボケちゃったおばあちゃんがしたりするあれ? 母さんがやった
ことあるから、何となくわかるけど、それがどうしたの?﹂
そういえば、チェルージュの母親の死因は老衰だった。
﹁もし俺が歳取ってボケたとして、夢遊病になったとしてさ、チェ
ルージュには俺が変なところをふらふらしてるとかってわかるもん
なのかな。ほら、瞳を通してそっちに情報が行くじゃん﹂
﹁わかるよ? 本人が意識しててもしてなくても、こっちには情報
が来るから。どうしたのさ急に?﹂
﹁いや、俺が夢遊病になっても、チェルージュが異変に気づいて止
めてくれるかなって﹂
﹁なにそれ。今から老後の心配してるの? しかもひょっとして私
を宛てにしてる?﹂
730
﹁はっはっは﹂
﹁笑って誤魔化さないの。寿命が違うんだから老後の話題なんて軽
く出すものじゃないよ?﹂
誤魔化しているのはその通りなので、すまんすまん、と軽く詫び
ておく。
確かに、世間話の一環として出すには適当でない話題だったかも
しれないが、確かめたいことは確認できた。
あの夢は、実際に起きたことではなさそうだ。もし俺がふらふら
と一人で迷宮に潜っていたら、チェルージュだったら引き留めるな
り警告してくれるなりするだろうから。
だとしたら一体何だというのだろう。既視感で片付けるには、記
憶がはっきりしすぎている。夢の中で見た木と、迷宮に潜っている
ときにエマが傷つけた木は、本当にそっくりなのだ。それこそ、木
の輪郭や根の張り具合、闘斧で抉られた木の洞の細部まで。
︵︱︱ん?︶
近くの小屋の中から、ちらちらと俺たちに視線が注がれているこ
とに気づく。
考え事をしていたから、見過ごしてしまうところだったが、明ら
かに俺たちを注視している気配があった。
﹁ジルってば、また考え事? 最近、私といるときに上の空なこと
が多いよ?﹂
731
チェルージュがむくれたので、俺は慌てて機嫌を取る。怒らせる
と怖いのである。それに、別の用事も出来てしまったようだし。
﹁デートの最中にすまないんだが、ちょっと用事ができそうなんだ。
寄り道してもいいか?﹂
﹁えー?﹂
ぶうぶうと不満を漏らすチェルージュである。
それもそのはずで、先週は大人数でここ開拓村にやってきたので、
今週はデートするにあたり、もう少し細部まで二人でぶらぶらと見
て回ろうという俺の提案でわざわざ馬車の旅をしてきたのである。
いざ開拓村に到着してみれば俺は上の空で、それを指摘すると更
なる用事に付き合えという。不満を漏らしながらも仕方ないなあ、
と承諾をくれるチェルージュはできた女だと思う。
﹁んじゃ、ちょっとあの家に行こう。俺に用があるみたいだから﹂
俺は、先ほどから俺にちらちらと視線を寄越していた人物がいる
であろう、小屋へと近づいていく。
ちなみに、このあたりは一般人の住む住宅街である。
開拓村を四角形に例えると、四隅に見張り櫓と、常駐する衛兵の
宿舎がある。わざわざ四方に分けてあるのは、魔物の襲撃があった
ときに迅速に駆けつけられるように、らしい。
東の端には湖があり、近くにはボーヴォの別荘やリカルドの持ち
732
家がある。
とはいえ湖の付近は、いわゆる開拓村の中での高級住宅街にあた
るらしく、人家もまばらだ。
四角形に例えた開拓村の中央付近を、今俺たちは歩いている。横
一文字に線を引き、中央南側が住宅街、中央北側が商店街や職人街
などの商業地区に分かれていた。
︵建築ラッシュの真っ最中だな︶
一般人の住む住宅街は、景観がちぐはぐである。建築済みの家屋
と、間に合わせで建てた小屋、土地だけを確保してある更地などが
入り混じっているのだ。将来的な都市計画はあるらしく、土地の広
さは均一で、隣家と空き地の境目は地面に打ち付けられた板で区切
られていた。
あちこちに建築材料と思しき土砂の袋や木材が積まれている。
︵先ほど視線を感じたのは︱︱あそこか︶
俺たちの視線の先にあるのは、建築済みの家に挟まれた、目立た
ない小屋である。小屋自体はそう大きくもないので、周囲には土地
が余っていて、中の様子がわからないように、小屋の玄関には簡素
な板仕切りが立てられている。
この小屋の人物は、この板仕切りの隙間から、俺にだけわかるよ
うに手招きをしていたのだ。
﹁何か用か? ディノ﹂
733
カウンセラー
仕切りの裏にいたのは、冒険者ギルドの案内人、ディノ青年であ
る。普段の制服姿ではない、頭まですっぽりと覆う私服のローブ姿
から、緊迫した表情が覗いていた。
口元にしっと指を当てて、彼は板仕切りの隙間から周囲を警戒す
る。
元狩人だっただけあって、動作はすばしこく、目付きは鋭い。
手招きされるまま、板の色も真新しい小屋の中へと足を踏み入れ
る。
薄暗く、小屋というだけあってさほど広くもない家の中には、意
外なことに家具が豊富で、ろくに物の入っていない木棚や食器棚が
並んでいる。
﹁ジルさん、戸を閉めてください。キリヒト、出てきていいぞ﹂
ここのところ顔を見ていない人物の単語が聞こえたかと思いきや、
小屋の隅に積まれていた棚の一つがずずっと横にずれ、無精ひげで
顔を覆った一人の男が現れた。
ひげは伸び、頭髪もぼさぼさで、着ているものもこれまた目立た
ないようにか顔を隠せるローブだったが、その顔は紛れもなくキリ
ヒトそのものであった。
ディノとキリヒト、スラム街育ちの先輩後輩コンビである。
俺がこの街に来て間もないころに世話になった、一時期は飲み仲
間でもあった。
﹁一体どうしたんだ? こんなに人目を避けるように、しかもなん
でこんなところに?﹂
734
﹁その前に、念のために確認させてください。お連れの女性は、信
頼できる人ですね? 恐らくは朱姫様だろうと見当は付けていたの
ですが﹂
狭い小屋の中に、男が三人。普段は涼しげな印象のディノ青年で
あるが、さすがにここにチェルージュが加わると、狭くて暑苦しい。
そんな環境でありながら、何に興味を惹かれたのか、チェルージュ
は目を輝かせている。
﹁そうだよー。直接会うのは初めましてかな、ディノ君。それにキ
リヒト君もね。チェルージュ・パウエルだよ、種族の説明はいらな
いね?﹂ 二人とも、加護の詳細を知っている数少ない知人である。もっと
も、今の俺にはもう加護はないが。
﹁その様子だと、私が冒険者ギルドから失踪したのも知りませんね
?﹂
簡単な自己紹介の応酬が終わった後に、ディノ青年はそう口火を
切った。
まったくの初耳である。そういえば、ミリアム女史の姿も最近見
ていない。
﹁ああ、知らなかった。最近冒険者ギルドに行っても姿が見えない
なあ程度には思っていたが。冒険者ギルド、やめたのか?﹂
﹁ええ。辞表は置いてきましたが、無断で去りましたので、その後
どういう扱いになっているかわからなかったのですが。今はこうし
735
て人目を忍ぶ日々ですよ﹂
それはまたどうして、と聞きかけた俺を、キリヒトが遮った。無
精ひげでわかりにくいが、痩せて少し頬がこけていた。元は好青年
というか、少年の面影が残る童顔だったのに、すっかりむさくるし
くなってしまっている。
﹁ディノ先輩、後は僕が説明しますよ。まずは、ジルに礼を言って
おくね。先月あたりのことだけど、見ない振りをしてくれて助かっ
た、ありがとう﹂
心当たりがなく、俺が首を傾げていると、キリヒトは苦笑した。
ドラゴンズブレス
﹁竜の息吹のパーティに僕が参加してたとき、知らぬ振りをしてく
れたでしょう? ボーヴォ氏に声をかけてるジルさんを見かけて、
エディアルドとかと一緒にジルさんを煽ったときのことですよ﹂
﹁ああ、ああ。思い出した。確かテンとかって名乗ってたんだっけ、
キリヒト。当時はなんか事情があるんだろうぐらいに思ってたけど﹂
確か、街で暮らせる地盤を作りたいとかで、チェルージュからの
依頼でボーヴォに顔つなぎに行ったんだ。あのときにボーヴォと初
めて話したんだっけな。
﹁で、それが今のこそこそしてるのと繋がるのか?﹂
﹁そうだね。途中経過は省くけど、ちょっとした詐欺を働くために
エディのパーティに潜入してたんだ。リカルドさんが予想より早く
事態を収めちゃったから、僕としてはもう少し信用を得るための時
間が欲しかったんだけどね﹂
736
キリヒトは悪い商売をしていますから、というディノ青年の言葉
が、脳裏に蘇ってくる。ジル君をお前の商売の対象にするなと、デ
ィノ青年がキリヒトに釘を刺していたことも、思い出した。
﹁そういや、そんなこと言ってたな。悪い商売してるって﹂
﹁あっははは。普段はもう少し上手く溶け込んで、証拠を残さない
ように仕上げるんだけど。今回は焦って失敗しちゃった。本当は竜
の息吹のギルドハウスに溜め込まれてた物資を頂く予定が、リカル
ドさんが戻ってきて手を出せなくなっちゃってね。まとまったお金
が急ぎで必要だったから、ケツまくるわけにもいかなくて。しょう
がなく路線変更して、強引に事を進めた結果、犯罪歴が付いちゃっ
てさ﹂
言いつつ、キリヒトはローブの懐から血の紋章を取り出し、起動
してみせた。
もとは銀色の板だった紋章は、血がにじんだキリヒトの人差し指
が触れるなり、真っ赤に染まる。
﹁重犯罪者の色︱︱﹂
俺は絶句した。
軽犯罪では、血の紋章はこの色には染まらない。五件以上の未遂
犯罪があるか、あるいは殺人クラスの重犯罪でもしない限り、別の
色になるはずだった。
ポイズンフライ
﹁僕は、エディたちのパーティの、固定メンバーだった。彼らを、
痺毒蛾の群れに誘いこんだんだ。もちろん、連中を魔物に始末して
737
もらって、残った武器や防具を売りさばくために。そのときに、ド
ジ踏んでね。エディアルドは逃がしちゃったし、麻痺したメンバー
は僕自ら手を下さないといけなくなって犯罪歴が付いちゃうし、散
々さ﹂
キリヒトは、肩をすくめてみせた。
﹁ジルのところに、竜の息吹のメンバー、何人か詫びを入れに顔を
見せたんだって? ジルのところに詫びに行ってなくて、なおかつ
消息がわかんないメンバーは、エディ以外は多分全員死んでるよ。
四人、殺ったから﹂
街と、開拓村ぐらいしか、人の生きていける環境はない。山間に
根城を作っていたウキョウたちの赤の盗賊団は、ベテラン二名の力
量及び、街にいる協力者から送られてくる物資を軸に成立した例外
だ。
逃げ出したエディアルドたちは、スラム街にでも潜んでいるのだ
ろうと思っていたのだが︱︱俺の与り知らぬところで、そのほとん
どが死に絶えていたらしい。
﹁そんなわけで、もう街じゃあ暮らしていけなくなっちゃったから、
こうしてディノ先輩に匿ってもらってるってわけさ。立場上僕には
肩入れできないから、見捨ててくれればいいのに、冒険者ギルドを
やめてまで僕を助けてくれてる。頭が上がんないよ。スラム街のみ
んな、怒るだろうなあ。ディノ青年を巻き添えにしたって﹂
﹁ったく、面倒かけやがって﹂
苦い顔をしているのは、ディノ青年である。ごく軽く言っている
が、冒険者ギルドで働くことは、スラム育ちであるディノ青年の憧
738
れだったと以前語っていた。それすらも投げ打って、ディノ青年は
キリヒトを助けているということなのか。
心底から嫌がっているわけではなく、その声色にはしょうがねえ
な、といった照れの感情が混じっていた。
﹁スラム育ちの仲ですしね。自己責任だと突き放すのは簡単ですが、
見殺しにしたら寝覚めが悪い。やれやれ、せっかく上流階級の仲間
入りってところだったのに、こういうところで育ちが出ちゃうんで
すよね﹂ 口調はこんなではあるが、卑下した様子はない。むしろ、立場よ
り後輩の世話を取ったことを、誇らしく思ってさえいるかのようだ。
﹁まあ、確かにな。見殺しにするのも何だ、何か手伝おうか? 犯
罪歴が付かない手伝い、例えば買出しぐらいならできるぞ﹂
﹁おっ、話が早いですね。買出しは僕でも出来ますので、一つ頼ま
れて頂けませんか? たまたまジルさんを見かけたので声をかける
つもりになったのも、実はそれを頼みたかったからなんですよ﹂
﹁おう、いいぞ。何をすればいいんだ?﹂
どんと来いとばかりに、俺は鷹揚に構える。
﹁なにぶん急な話でしたので、ミリアムに話を通さずに出てきたん
です。迂闊に連絡を取ると、僕らの居場所がバレかねませんので、
お揃いで持っていた念話の指輪も壊してしまいましたし。街に戻っ
たら、細かい事情は話さずに、お尋ね者になったんで別れることに
したって伝えてもらえません?﹂
739
﹁じゃあな、俺に手伝えることはないかもしれんが、元気でな﹂
俺はくるりと背を向けた。聞かなかったことにするべく思って小
屋を出ようとするが、元ベテラン狩人はがしりと俺の肩をつかんで
離さない。
﹁やめろ、離せ、離すんだ! 痴話喧嘩に巻き込むんじゃない!﹂
じたばたと暴れるも、ベテラン冒険者の握力によりがっしり両肩
は固定されていた。
﹁あーあ、新人時代に結構面倒見てあげたのになあ。恩着せがまし
い言い方はしたくないけど、ジルさんがそういう人だとは思わなか
ったなあ﹂
耳元で囁くディノ青年である。無精ひげのキリヒトが横で、僕も
ムカデの剥ぎ取り教えてあげたのになあ、などとわざとらしくため
息を吐いている。
﹁くっ、それを言われると弱い。確かに恩は山積みではあったがこ
んな形での返礼を強要されるとは︱︱!﹂ ﹁いやあ、恩に着ますよジルさん。ミリアム、怒ると結構怖いんで
すよねえ。下手したらここに乗り込まれかねないので、僕らの居場
所はミリアムには口外厳禁でお願いしますよ﹂
怒って怖くない女性などいない。それは俺が身をもって体験済み
である。
740
﹁しょうがねえな。まあ、伝言ぐらいならやってやるよ。そんなこ
とより、ディノたちはこれからどうするんだ? いつまでもこの生
活は続けてられないだろ?﹂
﹁問題はそこなんですよね。キリヒトと違って、私はまだ犯罪歴が
エディアルド
付いていないので、帰ろうと思えば街には帰れるのですが、キリヒ
トはしばらくここで生活でしょうね。逃がした獲物からどう情報が
漏れてるかわかりませんし、犯罪歴のチェックがあるので街への入
場ができませんから。キリヒトを強引に太らせるなりして面貌を変
えさせて、この開拓村で一生を過ごさせるしかないかなと思ってい
ます﹂
﹁ふむ。エディのパーティを潰したときに、剣とか鎧とかを手に入
れたんだろう?
無事に売れたのか? 手持ちの金があるなら、家の代理購入ぐらい
ならできるが﹂
﹁キリヒトから連絡を受けて、遺品については私が引き取って売り
さばきました。
恐らくその件からも、辿ろうと思えば私とキリヒト、更には持ち主
だった竜の息吹の冒険者まで辿り着けてしまえるので、私もあちら
に顔を出さない方がいいと判断しています。遺品を売ったお金につ
いては、キリヒトが使ってしまったので、ほとんど手持ちはないで
すね。私の貯金は、この土地をとりあえず確保するのに半分近く使
ってしまいましたし﹂
﹁こんな短期間で使い切ったって、何に使ったんだ、キリヒト?﹂
﹁それ聞くのは野暮じゃない? 博打でスったってことにしといて
よ﹂
741
野暮、という単語から、男女関係を連想した俺は、キリヒトの馴
染みだとかいう未亡人の話を思い出した。まとまった金が必要とも、
先ほど言っていた。
キリヒトの表情には、この一件については無事に終わっていると
いうニュアンスがあったし、そっとしておいても問題なさそうだ。
﹁しかし、隠れながらじゃ金を稼ぐどころじゃなさそうだな。生活
費、大丈夫か?﹂
俺が心配したところ、快活にディノ青年は笑った。
﹁冒険者ギルドでの仕事、そこそこお給料良いんですよ? ミリア
ムとの結婚資金を溜めていたので、数年は何もしなくても食ってい
けます。オラ、そんな顔すんな﹂
ミリアムとの結婚資金と聞いて、キリヒトの顔がくしゃりと歪む。
﹁ごめんよお、先輩。俺のせいでミリアムさんと﹂
﹁気にするな、そんな巡り合わせもあるさ。それともお前、やった
ことを後悔してるのか?﹂
﹁パーティメンバーを刺したことは、後悔してない。でも、先輩に
迷惑をかけたのは、後悔してる﹂ ﹁じゃあ、いいよ。後輩を助けてやるのは先輩の務めだ。うじうじ
すんな﹂
目頭を抑えるキリヒトの肩を、そっと叩いて慰めるディノ青年で
742
ある。 スラム街育ちの彼らには、余人にはわからない結びつきがあるの
だろう。
彼らが考えて、行動した結果なら、友人として俺も受け入れてや
るべきだった。
伝言という用事も出来たので、開拓村での滞在は早々に切り上げ
ることにした。
ミリアムに伝えるのはいつでもいい、とディノ青年からは言われ
ていたが、こういうのは早い方がいいだろうと思い、街に着くや否
や、俺は真っすぐ冒険者ギルドに向かった。
余談であるが、開拓村から帰るのにも、馬車を使った。チェルー
ジュ曰く、空を飛べば一瞬だそうだが、がたごと揺れる馬車の中で
食事をするのも悪くない、とのこと。
ボーヴォハウスの住民が使う馬車は、クッションが豊富に使われ
た四頭引きの大きな馬車で、揺れの影響が少ないのである。
なお、街に戻ってきた俺が冒険者ギルドへと辿り着いたいま現在、
チェルージュはまだ同伴中である。デートの最中であるにも関わら
ず、新たな用事が出来たことを、彼女は怒っていなかった。どうも
この一件に興味を惹かれたらしい。
﹁いやあ、ミリアムがどういう反応をするか気になってねえ。だっ
743
て、理由も告げずにいきなり別れてくれって言われるんでしょ? しかも本人じゃなく、他人からの伝言で﹂
なぜかわくわくしているチェルージュである。知人の恋愛関係に
興味を示す近所のおばちゃんかお前は。
﹁私なら絶対納得しないなー。ディノ君ってあれだよね、女の子の
扱い慣れてそうで実は鈍いよね﹂
きゃははと無邪気に笑うチェルージュである。反面、俺はこれか
らのことを思うと気塞ぎである。下手したら、本人不在の修羅場と
いう謎の展開に巻き込まれるかもしれないのだ。
﹁さて、ミリアムは︱︱発見、と﹂
先延ばしにしても気が滅入るだけだろうから、すぐ彼女が見つか
ったのは有難くはあったが、今からディノ青年からの伝言をしなけ
ればならないのもそれはそれでげんなりする。
恋愛が絡んだときの女性の行動は、測り知れないものだ。ビンタ
の数発は覚悟して、俺はカウンターへと向かう。
カウンセラー
ミリアム女史は、冒険者ギルド一階の正面カウンター、いわゆる
案内人部署の内側で、机に座って何やら事務作業をしていた。薄く
化粧はしているが、目の隈が隠しきれていない。寝不足のようで、
少しやつれてもいた。
ヘリオス
ミリアムがこちらに気づいていなかったので、近くの女性職員に
声をかける。
純白のローブの胸元に、炎帝の紋章。冒険者ギルドのシンボルだ。
744
﹁ちょっといいかな? ミリアムに用があるんだけど、呼んでもら
えないかな?
知人からの伝言を預かってるんだけど﹂
﹁あ、はい。ミリアムさんですね。少々お待ちください﹂
とてとてと駆けていった小柄な女性職員が、うつむきがちに机に
座っていたミリアムに二言三言話しかける。弾かれたように顔を上
げたミリアムは、俺たちの姿を確認すると、とたんにすごい勢いで
動き出した。残像が見えるほどの手つきで手元の書類を整理すると、
椅子から立ち上がって近くの中年職員に向かって何やらまくしたて
始めた。
それなりに距離があるにも関わらず、早退、という単語が聞こえ
てきたので、俺は肩を落とす。どうやら、ミリアム女史はとても気
合が入ってしまったようだ。
﹁さて。お久しぶり、ジルさん。ディノから伝言を預かってるって
聞いたけど、ほんとかしら?﹂
慌しく奥に引っ込んだかと思うと、ミリアム女史は私服に着替え、
俺たちを一階ホールの隅にある歓談スペースへと連れ込んだ。初め
てここ冒険者ギルドに訪れたとき、ミリアムとディノの二人に魔石
を買い取ってもらった例の机である。
俺が小柄な女性職員に話しかけてミリアムを呼んでから、ミリア
ムが着替えた後に俺の腕をがっとつかみ、この歓談スペースに連れ
745
込むまで、三分もかかっていない。身だしなみに時間をかける女性
とは思えない、素早い行動であった。職業柄なのか、微笑みを崩し
ていないのが、とても怖い。
﹁まあ、ディノからの伝言で合ってるけど。よくわかったね、さっ
きの子には知人からの伝言としか伝えなかったのに﹂
﹁共通の知人なんて、ディノくらいのものでしょう。で、ちょっと
気が急いているの。申し訳ないけれど、早速聞かせてもらえる?﹂
ミリアムに詰め寄られて、俺は脂汗を流す。彼女は完全に臨戦態
勢だ。
座っている椅子の位置関係も、出口に近い椅子にミリアム、隣に
俺、チェルージュはその向かいであり、完全に角に押し込められた
格好であった。逃がすつもりはないらしい。
﹁えっと。犯罪者になったので、別れよう﹂
伝言は、以上ですと消え入るような声で告げた俺と対照的に、ミ
リアムは微笑んだままであった。
そう、笑顔のまま、激怒していた。顔面中に青筋が浮き出る幻が
見えるぐらい、怒りの念が伝わってくる。
﹁ジルさんは、事情を知っているのですね? 話して頂けますか?﹂
﹁申し訳ないのですが、口止めされています。言えません﹂
気が付けば敬語になってしまっていた俺である。蛇に睨まれた蛙、
肉食獣に追いつめられた兎、修羅場に巻き込まれた俺。
746
彼女は、自分を落ち着かせるためなのか、机に肘をついて両手を
クールダウン
組み、頭を乗せて何やら考え込んでいる。そうだ、そうしてくれ。
できればそのまま冷却してくれるととても助かる。
﹁いま、ディノはスラム街にいるのですか?﹂
﹁いや︱︱言えません。どこにいるかも、内緒にしてくれとのこと
です﹂
﹁今の反応からすると、本当にスラム街ではありませんね。焦った
様子もないし、一瞬否定しようとしましたし。ディノの性格からす
ると、信用できない知人との同居は避けるはずだし、友人に迷惑を
かけるぐらいなら一人で隠れ潜む方を選択するはずです。それに、
冒険者ギルドに入ってから、スラム街の住人とは疎遠になっている
と言ってたし︱︱ということは、開拓村ですね。開拓村のどのあた
りにディノはいるのですか?﹂
俺は、心臓が跳ねそうになった。脂汗が額から頬を伝って流れ落
ちる。
﹁開拓村にいるかどうかも言えません。探さないでくれとの伝言で
す﹂
俺が頭を絞って考え出した台詞を、ミリアムは一顧だにしなかっ
た。
﹁反応が遅れた上に、一瞬何と答えるか迷いましたね? 開拓村に
いるのは確定、と。よくわかりました、後は虱潰しに探して行けば
見つかるでしょう。伝言は確かに受け取りました、ありがとうござ
いますね、ジルさん﹂
747
俺は目の前が真っ暗になった。普段、ディノ青年のそばでにこに
こ笑っているミリアムしか見たことがなかった俺なのである。ここ
まで鋭いやつだったとは、想定外であった。
﹁ふむ、否定しない、と。開拓村で間違いないようですね。いえい
え、焦らなくても大丈夫ですよ。六割ぐらいの疑惑が十割の確信に
変わっただけで、やることは変わりませんから﹂
鎌をかけられたのかと焦ったのは一瞬で、がたりと音を立てて席
を立ったミリアムに、俺は必死ですがりついた。
﹁いやいやいや、待て待て待ってくれ。探されると本当にマズいん
だ、落ち着いて座ってくれ﹂
手持ち鞄を引っさげて駆け出そうとしたミリアムは、俺の台詞に
反応してちらとこちらを見る。
﹁事情をすべて話して頂ければ、考え直すかもしれません。言い渋
るなら、こちらで探します。どのみち、私たちの事情は、私たちで
解決します﹂
毅然とした態度のミリアムに、俺は顔面蒼白である。そんな俺を
見て、チェルージュはけらけら笑っていた。
﹁ほらね? 私の予想、大当たり。ジルには腹芸なんて無理だよ。
全部言っちゃえば?﹂
無責任に言い放つチェルージュと、敗北感にうなだれる俺であっ
た。
748
﹁ミリアム、ちょっといい? もう一人、ご指名でお客さん来てる
んだけど﹂
焦りで視野が狭くなっていたのか、このテーブルに近づいてきて
いた女性の姿に俺は初めて気づいた。先ほど、俺が声をかけた小柄
な女性職員である。
﹁取り込み中だから、できれば勤務外だって断って欲しいんだけど
︱︱あの人?﹂
頷く女性職員の視線の先には、カウンターの前で所在なげに立っ
ている、慎ましい身なりの妙齢の女性がいた。顔の造形が綺麗なの
で若く見えるが、歳は三十前半といったところか。来慣れていない
場所で落ち着かないのか、不安そうにあたりをきょろきょろしてい
る。
﹁それが、用件がちょっと微妙なの。ディノ先輩という方はいらっ
しゃいますかって。共通の知人が失踪したんだけど、何か知りませ
んかっていうの。だから、正確にはミリアムのお客さんではないん
だけど︱︱お断りする?﹂
俺は、脳裏に閃くものがあった。妙齢の女性、冒険者ギルドなど
公的な機関に慣れていない住人、ディノ﹁先輩﹂との共通の友人で、
失踪したとなると︱︱間違いなく、キリヒトのことだ。
あの女性は、キリヒトが言っていた未亡人その人であろう。
関連人物が一気に集結してくるという予想外の事態に、俺は血の
気が引いていくのを感じた。先ほどから胃と心臓に悪いことばかり
が起きる。貧血で倒れてもおかしくない。
749
﹁いいわ、案内してちょうだい。どうも、彼女も関係者みたいだか
ら﹂
そんな俺の様子をちらりと見て、ミリアムは未亡人をこの卓に呼
ぶように伝えた。
俺にとってその台詞は、まるで死刑宣告のように耳に響いた。
750
第四十四話 桃色
﹁ごめん、バレた﹂
青ざめながら告げた俺を見て、ディノ青年の顔は青ざめた。
何事かと隠れ場所である本棚の裏から顔を出したキリヒトも、や
はり青ざめた。
ここは開拓村の、ディノ青年の隠れ家である。小屋の戸をノック
した俺の背後には、青筋を浮かべたミリアムと、おろおろと落ち着
かなげに周囲を見回している例の未亡人が控えていた。
更にその後ろに、にやにやと事の流れを見守っているチェルージ
ュがいる。
馬車で一日二往復もするなんて面倒くさい、と宣言した彼女は、
人気のない街外れの街道まで俺たちを連れ出すと、どこからともな
く飛んできたお付きのコウモリたちに俺たちを掴ませ、一気に空へ
と飛び上がった。
未亡人の方はうわ、うわわわ、などと声をあげて驚いていたが、
ミリアムの方は人生初となる空の旅も意に介することはなく、物珍
しげに風景を楽しんでいた。
﹁さて、入るわよ。ここが私たちの新居? 話し合ってたのと違っ
て、ずいぶん狭い家なのね。お客様がいらしたときのための応接間
や客室、子供部屋も欲しいから、二階建ての家がいいなって話にな
ってたと思うんだけれど﹂
751
二脚しかない椅子には、膝を揃えて身を縮こまらせている未亡人
と、脚を組んだミリアムが座っている。
そんな二人の女性から見下ろされるように、俺たち男性三人衆は、
床に正座させられていた。
﹁ジルさん、恨みますよ﹂
常になく焦った様子というか、脂汗を額に浮かべながら、鋭い目
付きでディノは俺を詰る。
﹁本当にすまん。頑張って誤魔化そうとしたんだが、ミリアムは鋭
すぎた。カマかけに引っかかった﹂ ﹁なんで、ジェノバまでいるの?﹂
やはり額に汗をかいて焦った様子のキリヒトである。ジェノバと
は未亡人の彼女の名前だろう。
﹁俺が口を割らされてたときに、ちょうど冒険者ギルドに彼女が来
たんだ。キリヒトの消息を探しに、ディノのことを訪ねてきたらし
い﹂
﹁なんて最悪のタイミングで︱︱﹂
脚組みを解いたミリアムの靴が床に当たるこつっ、という音に、
俺たちはびくりと身体を震わせる。
﹁恋人からの問いかけを無視して内緒話とは、ずいぶんな態度じゃ
ない? ディノ﹂
752
はい、すみません、と頭を垂れるディノである。
﹁で、どうなの? お金が溜まったら結婚しようねっていう話はど
こにいったわけ? それともまさか私とは遊びで、実はそっちのキ
リヒト君の方が好きで駆け落ちしたってこと?﹂
もちろん冗談であり、本当に同性愛であると思っているわけでは
なかろうが、何を勘違いしたのかジェノバ未亡人は、はっとなって
口元を押さえた。
難詰されているディノを見兼ねたのか、キリヒトは正座のまま、
がばと頭を下げた。
﹁すいません、ミリアムさん! 僕が悪いんです。ドジ踏んだ僕を
ディノ先輩が助けてくれて、それで街にいられなくなって︱︱﹂
﹁そうそう、ディノは友情に厚い、いい奴なんだ! 今回の件だっ
て︱︱﹂
﹁ちょっと黙っててもらえる? いま、ディノと話してるから﹂
氷属性の魔法でもかかっているかのような冷たい口調で一刀両断
にされた俺とキリヒトは、言葉を失って黙り込む。
はらはらしながら俺とキリヒトが見守る中で、ディノ青年は口を
開いた。
﹁その通りですよ、あなたとは遊びでした、ミリアム。もう僕たち
の関係は終わりですよ﹂
753
何言っちゃってんのこの人、とばかりに俺とキリヒトが慌てふた
めく中、当事者のディノとミリアムだけが涼しい顔である。
ミリアムはくすりと笑った。肉食獣のような、獰猛な目つきに見
えるのは俺の気のせいだろうか。
﹁あなたのそういうところが好きよ、ディノ。本当は私のこと、大
好きで大好きでしょうがない癖に、可愛い後輩のために私を突き放
そうとするところとか﹂
何かを言おうとして口を開きかけたディノの唇に指先を当てて、
発言を封じるミリアムである。
﹁あなたのことならお見通しよ、ディノ。あなたが今考えてること、
当ててあげようか。私をどうやって口封じしようか考えてる、違う
?﹂
一瞬目が泳いだように見えたが、ディノ青年は表情一つ変えずに
涼しい顔である。
﹁ジルやジェノバがいなければ、もし私が一人でこの家に来てたら、
あなたは私を始末しようとしたでしょう? 命まで取るかはわから
ないけれど、ここみたいな人目に付かない小屋に監禁するぐらいは
あなたなら平然とやるに違いないわ。私のことを大好きだっていう
のに、後輩とその彼女の幸せを第一に考えて、ね﹂
伸ばした人差し指で唇を弄ばれながら、ディノ青年は微動だにし
ない。
そして彼ら以外の当事者である俺たちはというと、あまりに重す
ぎる会話の内容に引いていた。
754
﹁あなたのそういうところが好きよ、ディノ。スラム育ちなのに頑
張って冒険者ギルドに入った努力家、そんな表の顔も良いと思うけ
ど、あなたが隠してるダーティな顔が私は一番好き﹂
だって、同類の匂いがするもの、とミリアムは爬虫類じみた笑顔
でにやっと笑った。
﹁頑張ってそういう匂いを消そうとしてたけど、残念ながらお見通
しよ、ディノ。あなたがそういう顔を隠そうとしてきたのと同じよ
うに、私にだって普段見せない顔の一つや二つ、あるもの﹂
参りましたね、とディノ青年は笑った。いつもの爽やかな笑顔に
戻っている。
﹁そんな女だとは知りませんでしたよ。やけに鋭いなあとたびたび
感じることはありましたが。なるほど、これはジルさんでは敵わな
いわけですね﹂
惚れ直した?と微笑むミリアムに対して、ええ、と頷くディノ青
年である。なぜこの話の流れで愛情の再確認になるのか、俺にはさ
っぱりわからない。
﹁次からは、私にちゃんと相談してね。情けなく地面に這い蹲りな
がら、私だったらどんな汚い面でも受け入れてくれるって信じて誠
心誠意お願いしなさい。そしたら、私もあなたを受け入れてあげる﹂
そうします、と言いかけたディノ青年の顔を、程よい丸みを帯び
た自分の胸で塞ぐミリアムである。床に押し倒されたディノ青年に
馬乗りになりながら、胸元を縛っていた紐の結び目を解いていく。
755
﹁人前でする趣味はないの。出てってくれる? ジル君、そっちの
カップルの世話はお願いね﹂
ばたりと、俺たちは締め出されてしまった。
がちゃりと鍵をかけられた小屋の中にはディノ青年とミリアムの
二人、小屋の外には所在なげに立っている俺たち四人である。
一体何が起こったのか、いや中で何が行われつつあるかは自明の
理なのだが、どうしてそんな展開になってしまったのか、脳の回転
が追いつかずに俺の口はだらしなく開きっぱなしである。
キリヒトも似たような状態なので俺は安心した。
ハイド
﹁うん、参考になった。お茶でも飲みに行こう? ボーヴォの別荘
の鍵、もらってるし。キリヒト君は隠身、使えるでしょ? 私たち
の後を付いてきてね﹂ にこにこしながら、先導して歩き出すチェルージュである。
彼女以外の俺を含む三人はやや呆然としていたが、ともかくも指
示に従って歩き出した。これ以上この場に留まっていては、知人の
嬌声が聞こえてしまいそうでもあるし。
﹁あ、ボーヴォ? お願いがあるんだけどさ、別荘に犯罪者匿って
いい? ううん、ジルじゃない。ジルが昔お世話になった知り合い
なんだってさ。うん、うん。わかってる、そこは責任持つよ。助か
るよ、ありがとう。またねー﹂
キリヒトとジェノバ未亡人が付かず離れずの距離を保ちながら黙
756
々と歩いている横で、脳天気なチェルージュの話し声がする。見れ
ば、念話の指輪に何やら話しかけていた。
話の内容から察するに、先日に昼食会を開いた湖のそばにあるボ
ーヴォの別荘、あそこにキリヒトを匿おうというのだろうか。
﹁上手く話がまとまらなくて、ジルが首を突っ込むような状況にな
ったら、こうしようって思ってたよ。ディノ君の方は何とかなった
けど、キリヒト君たちの方は根本的にどうしようもなさそうだから
ね。ほとぼりが冷めるまであそこで暮らせばいいんじゃないかな﹂
そんなにして頂いては申し訳が、などと言い出すジェノバ未亡人
に対して、チェルージュがにこにこしながら話しかける。
﹁大丈夫、お代として、二人の馴れ初めから何まで語ってもらうか
ら。ねえジル、他人の恋バナって何でこんなに面白いんだろうね。
参考にもなるし、純粋に面白いよね?﹂
知らんがな、と肩を落とす俺であった。
﹁うわっ、何ここ。ベッドすっごいふかふかだよ。ええっ、さらに
掛け布団まで付くの? 机も椅子もベッドも、何これ黒檀? 黒光
りしてツヤツヤしてるんだけど。おっ、製作者の銘が入ってる︱︱
って、先代の細工ギルドマスターの銘だよねこれ。本気出して作っ
た家具にしか銘入れないって聞いてるのに、ひょっとして全部これ
757
銘入り!?﹂
ネクタル
﹁知らないけど、ボーヴォの家に住んでるおじいちゃんが全部作っ
ユグドラシル
たんだって。週末大工が得意って言ってたな。ベッドの方は酒桃の
幹で、机とか椅子は世界樹の枝だって言ってた﹂
﹁深層の迷宮素材を椅子に使ってるの、最高級の弓の素材なのに!
? この部屋を見たら、街中の弓使いが血涙流して怒ると思うよ、
無駄遣いするなって﹂
﹁そんなこと言われても、ボーヴォなら多分樹木ごと引っこ抜いて
これるからなあ。街で流通してる素材って、枝とかそんなのでしょ
? 一本丸ごと売ったら、価格崩れちゃって細工ギルドから怒られ
るんじゃないかなあ。ボーヴォを一時間レンタルする代金と考えた
ら、それなりの値段付くのかな?﹂ 一通り、案内された客間の調度品を物珍しげに見て回った後、キ
リヒトは深いため息を吐いた。
﹁世界が違うっていうのはこういうことを言うんだろうなあ︱︱ね
えジル、僕たち本当にここに住んでいいの? めぼしい家具の一つ
や二つかっぱらっただけで、そこそこ遊んで暮らせるよ?﹂
﹁いいんじゃないか? ボーヴォに口を利いたのはチェルージュだ
から、そっちに聞いてくれ﹂
﹁犯罪を重ねないっていうのが唯一の条件だったから、そこを守っ
てくれれば好きにしていいよ。個人的な忠告を言えば、ボーヴォた
ちと敵対するのはお勧めできないよ、とだけ。ボーヴォの言うこと
なら冒険者ギルドは大抵のことは聞いてくれるだろうから、本気出
758
して捜索されたら逃げ切れないと思うよ?﹂
﹁だよね、言ってみただけ。でもさ、正直なところ、こんな高そう
なベッドに寝れないよ。長いこと体洗ってないから汚れちゃう﹂
確かに今のキリヒトは、涼しさの欠片もない容貌である。無精ひ
げの上に、顔は皮脂でてかてかしていた。
﹁お風呂、沸かそうか? 客人用の着替えもあったはずだし﹂
﹁個人宅にお風呂があるの!?﹂
﹁うん。おっきな浴槽があるよ。でも、お湯はみんな魔法で作って
るから、キリヒト君だと魔力が足りなくて沸かせないと思う。ちょ
っと入れてきたげるね﹂
ぱたぱたと軽快な足音を立ててチェルージュが去ってしまうと、
後には俺とキリヒト、そしてジェノバ未亡人の三人が残された。
先ほどから小動物さながら、落ち着かない様子でジェノバ未亡人
はそわそわしている。
﹁まあ、なんだ。根本的な解決にはなってないけど、何とか生活の
目処が立ってよかったな﹂ 再びため息を吐くキリヒトである。 ﹁それは嬉しいんだけど︱︱なんだか住む世界が違いすぎて、やっ
かみたくなるね。ちょっと前まで大ムカデでひいこら言ってたのに、
ジルってばいつの間にこんな富裕層の仲間入りしたのさ﹂
759
﹁言うなよ。俺に加護をくれたあいつがすごい奴だったってだけで、
俺は何一つしてないからな。今はヒモみたいな身分から脱却したく
て色々あがいてるとこなんだ。加護だって返したんだぜ? もう俺
は加護持ちじゃないんだ﹂
﹁えええ、一体どうしちゃったのさ。加護を返したってどういうこ
と?﹂
加護を返したという話は、ディノもキリヒトにも教えていないの
で、この反応は当然である。経緯を詳しく説明してやると、納得し
たようなしていないような、微妙な表情でキリヒトは首を傾げる。
﹁ふうん、いざそういう立場になったら、そんなものなのかな。僕
だったら貰えるものは喜んで貰うけど﹂
﹁俺の場合、エマたちがいるからなあ。貰い物であいつらを食わせ
ていくのは何かしっくり来なくてな。キリヒトだってそうじゃない
か? よくわからんパトロンが現れて、連れの面倒を全部見てやる
から付き合えって言われたらしっくり来なくないか?﹂
﹁ううん、僕の場合は切羽詰まってたから喜んで飛びついたとは思
うけど。でもわかる気もするよ、ジェノバを取られるかもしれない
って警戒はするだろうね﹂
﹁その反応ってことは、やっぱ俺がおかしいのかなあ。家族の面倒
は自分で見たくないか? 家族に食わせるメシが他人から貰ったも
のって、なんか胸を張れないというか﹂
﹁それは持てる者の余裕だよ。手段を選べるほど裕福だったら僕だ
760
ってそう考えるかもしれないけどさ﹂
男同士でわいわいと話し合う横で、ぽつねんと佇むジェノバ未亡
人である。
彼女を置いてけぼりにしていたことに気づき、俺は水を向けた。
﹁俺らだけで話してるのも悪いし。紹介してもらえるか?﹂
儀礼上、キリヒトに話しかけはしたものの、自分から自己紹介を
始めるものと思っていたのだが、意に反してジェノバ未亡人は、ち
らとキリヒトの方を見て、﹁いいの?﹂みたいな表情をした。
媚びのない上目遣いであるが、妙に色気のある綺麗な人である。
肌の色が少し浅黒いのだが、それが民族的な雰囲気として魅力に
なっていた。
﹁ジェノバ・べスパーです﹂
それだけを言い、ぺこりと頭を下げる彼女である。何というか、
独特の空気を持っている人だ。
﹁ねえ、ジェノバ。べスパーってさ、俺の苗字だよね?﹂
キリヒトは呆れ顔である。彼女に対しては一人称が俺なのか。
﹁結婚してくれないの?﹂
﹁籍入れてもいいけどさ、ちゃんと話し合ってからにしようぜ、そ
ういうの?﹂
761
﹁ミリアムさんみたいに強引に行かないと、またキリ君がいなくな
ると思って﹂
ぷふー、と俺の口から笑い声が漏れる。キリ君呼ばわりは笑わざ
るを得ない。ちょっと赤面するキリヒトである。
﹁その話は今度な。他人がいるうちはキリヒトさんって呼べって言
ったろ﹂
﹁だって、仲が良さそうだしお世話になったし、もし奥さんになる
ならキリヒトさんって呼ぶのは何か変だし﹂
﹁ああもう、その話は後でな﹂
ひらひらと手を振り、話を打ち切ろうとするキリヒトである。彼
女の前では男ぶっているようで、そこが微笑ましい。
﹁家じゃオラオラ系?﹂
にやにやしながら問い質す俺に、やはり赤面するキリヒトであっ
た。
﹁お風呂沸いたよー﹂
がちゃりと部屋の扉を開けて、チェルージュが入室してくる。
ボーヴォの本宅ほどとは比べ物にならないものの、この別荘もそ
こそこ広く、客室として使える部屋の数は十を超える。ここはその
うちの一室である。
﹁髭を剃りたいだろうけど、今日は我慢しておいてもらえるかな?
762
ボーヴォの知り合いで、髪を切るのが得意な人がいるから、その
人を今度連れてくるよ。別人に見えるように髪型とかヒゲを整えて
くれるだろうから﹂ ﹁何から何まで、ありがとうございます。返せるお礼もありません
が﹂
ぺこりと頭を下げるキリヒトと、一拍遅れてそれに倣うジェノバ
である。
﹁気にしなくていいよ。そのうちジルが困ってたら、また助けてあ
げてね﹂
それはもちろんと言いかけ、キリヒト青年は何かに気づいたのか、
黙り込んだ。
﹁ねえチェルージュさん。ひょっとしてこんなに親切にしてくれる
のって、大ムカデの剥ぎ取りをジルに教えた一件で?﹂
﹁そうだよ?﹂
あっけらかんと肯定するチェルージュに、胸を撫で下ろすキリヒ
トである。
﹁良かった、ディノ先輩の言うことを聞いておいて﹂
﹁何の話だ?﹂
思い当たる節がないので、俺は首を傾げる。
キリヒトはちょっとバツが悪そうな苦笑顔である。
763
﹁新人に恩を売っておいてね、中堅冒険者ぐらいに育ちきったころ
に罠に嵌めたりとか、詐欺をする潜伏先のギルドに入隊するために
使うとか、よくやる僕の手口なんだ。ジルに声をかけたのも、将来
的にそういう商売の役に立つかもって思ったからなんだよね。ディ
ノ先輩が釘を刺してたでしょ? ジルを僕の商売の対象にするなっ
て﹂
﹁それはディノのお手柄だな。もうあの時点で加護があったから、
俺に危害加えてたらチェルージュが飛んできてたぞ﹂
﹁ジルがもっといい装備してたら、多分その場でどうにかしちゃっ
てたと思うよ。ディノ先輩に釘を刺されてなかったら、銀蛇の皮鎧
を着始めたころにやっちゃってただろうね。美味しそうな獲物なの
になあって思ってたんだけど、手を出さなかったおかげでこうして
今、助かってる。人間、何が良し悪しを決めるかわからないね。運
命って不思議だなあ﹂
﹁調子のいいやつだな﹂
今度は俺が苦笑する番である。やはりというか何というか、俺は
狙い目の獲物に見えていたようだ。
ひょっとして毎月くれてたお金、あれって悪いこと
﹁ねえキリ君、ディノさんのお仕事を手伝ってお給料を貰ってる話、
嘘だったの?
をして溜めたお金?﹂
それまで黙っていたジェノバが口を挟んできたために、俺たちは
黙り込む。
話の内容も重い。キリヒト、ひょっとしてジェノバに何も教えて
764
いなかったのだろうか。
﹁そうだよ。迷宮で稼いだのと、他人を嵌めて稼いだのと、半々ぐ
らいかな。軽蔑したか?﹂
﹁ううん、全部聞いておきたかっただけ。キリ君がいなくなったと
きにくれた大金も、悪いことをして作ったお金なんだよね?﹂
﹁ああ。四人殺した。立派な重犯罪者だぞ、俺。そんなわけだから、
もう俺には付きまとうなよ。家に帰って、娘と二人でのんびり暮ら
せよ﹂
俺とチェルージュは顔を見合わせる。馴れ初めとかを根掘り葉掘
り聞く予定が、
どうしてこんな修羅場になったのかと言わんばかりにチェルージュ
は困惑していた。
﹁びっくりしたけど、私のためにしてくれたんだもんね。人殺しの
奥さんでいいよ、私。キリ君についてく﹂
﹁お前なあ︱︱﹂
何かを言いかけたキリヒトの袖を、ジェノバが引いて部屋から連
れ出そうとする。
﹁お風呂、冷めちゃうよ? 一緒に入ろ?﹂
﹁一緒にって、お前︱︱﹂
家主であるチェルージュに憚ったのか、躊躇う素振りを見せたキ
765
リヒトであったが、当のチェルージュは待望の展開になったと言わ
んばかりに目を輝かせていた。というかお前の家じゃないだろ。
﹁お風呂に入り終わったら、浴槽の底にある詮を抜けばお湯は下水
に流れるから。掃除道具と入浴するための備品なんかは手前の脱衣
所にあるからね。汚したところは自分たちで掃除してくれればいい
から﹂ 言外に、汚しても構わないという含みがある。キリヒトの退路は
すでにない。
﹁あと、娘もキリ君のこと好きだから、多分一緒に暮らしたがると
思うよ?﹂
﹁なにそれ、初耳だよ﹂
がくりと肩を落とすキリヒトである。頑張れ。
﹁私とジルは外でお散歩でもしてくるからね、ごゆっくり。夜にな
ったら戻ってくるよ。そのころにはディノ君たちも終わってると思
うし、今後の予定とか話し合おうね。なんだったらジル、私たちも
どこかにしけこむ?﹂
﹁お前はお前で、どこでそんな言葉覚えたんだよ﹂
ブーメランである。今度は俺ががくりと肩を落とす番であった。
766
第四十五話 予兆 その2
こつ、こつ、こつ。
履きなれた鉄板入りの革靴で石畳を歩いている音だけが、やけに
耳に響く。
街には、人影がない。四六時中、視界のどこかに必ずいるはずの
他人の姿が一つたりともない。
静まり返った無人の街を、俺一人だけが、悠々と歩いている。
こつ、こつ、こつ。
自分の足音以外、一切の音が世界から切り離されてしまったかの
ようだ。
身体の自由も利かない。指一本、自分の意思で動かすことができ
ない。足の裏が地面を踏む感覚もない。
それなのに、俺は歩いている。足音だけの世界を、黙々と俺が歩
いている。
767
︵また、この夢か︱︱︶
以前にも一度、この夢を見た。自分が夢の中だということはわか
っていて、意識もはっきりしているのに、起き上がることも、自ら
の意志で歩いている俺の行き先を変えることもできない。
︵何とかできないかな? 起きろ俺。夢から覚めろ。あるいは動け。
走れ︶
どう念じても、黙々と歩いている俺に一切の行動の変化はない。
身体も、見えている視界も、すべて俺自身のものだというのに、
指一本たりとも俺の自由にならなかった。
こつ、こつ、こつ。
無人の街、無人の迷宮を、俺は歩き続ける。
前回と同じく、中層のベースキャンプに辿り着いたあたりで、俺
は念じるのに疲れてしまった。何とかして俺の身体に影響を与えよ
うと頑張ってみても、何一つとして俺の行動に変化はない。
俺の身体なのに感覚がないというのは、なんだか変な気分である。
まるで劇場の登場人物を客席から見ているような感じだ。
768
こつ、こつ、こつ。
俺は歩き続ける。いくつもの部屋を抜け、いくつもの通路を通り、
より迷宮の深部へと、足を止めずに一定の歩調で歩き続ける。
エマが闘斧で叩き割った、幹の抉れた樹木の部屋すらも、今回は
通り過ぎた。
︵おいおい、もっと奥に行くのかよ︱︱︶
前回は、今の部屋で俺の身体が立ち止まったところで目が覚めた。
今回もあの部屋で立ち止まるかと思ったら、もっと奥の部屋へと行
くつもりらしい。
こつ、こつ、こつ。
俺は歩みを止めない。俺たちのパーティにとって、すでに未踏破
の地域にまで俺の身体は足を踏み入れている。もちろんのこと、景
色だって初めて見るものばかりだ。今までよりも更に広い部屋だし、
森とか湖ぐらいしかなかった今までの部屋と違って、岩場や沼地と
いった新しい構造の部屋もあった。
俺としては物珍しく、ゆっくりと景色を観察していたかったのだ
が、俺の身体は頓着せずに先に進んでいく。
夢から醒めたら、この景色が本当に迷宮の中にあるかどうか、迷
宮に入ったときに調べてみるのもいいだろう。もしこの景色そのま
まの部屋が現実にあったとしたら、それは一切入ったことのない部
769
屋の情報が夢の中で得られているということになる。明らかに異常
な事態だと判断が付けられるだろう。
こつ、こつ、こつ。
俺はさらに進んでいく。まるで人も魔物も、この夢の中の世界に
は存在しないことがわかりきっているかのように、一切の歩調を変
えず、俺は黙々と歩み続ける。
エマが砕いた樹木の部屋から、すでに五つは部屋を通り過ぎてい
る。俺たちのパーティが潜ったことのある中層の深度は五部屋目ま
でぐらいなので、その倍の距離を俺は歩いている計算になる。
こつ、こつ、こつ。
一体どこまで歩き続けるのか見てやろうという気になり、俺は黙
って景色を眺めていた。が、俺がそんな気分になって間もなく、俺
の身体は足を止めた。
俺は、部屋と部屋の間にある通路から、次の部屋の方をじっと眺
めていた。 視線の先を微動だにさせず、じっと。
いくばくかの時間が経ったころ、何やら羽音が聞こえてきた。弱
々しい、びちびちという羽音だ。
770
人も、魔物も存在していないこの夢の中において、初めて俺以外
の生物との邂逅である。
突然、次の部屋から、手のひらサイズぐらいの生物が通路へと飛
び込んできた。勢いよく飛び込んできた割には飛行の軌跡がめちゃ
くちゃで、ぎいっ、という鳴き声とともに、その生物は自らの身体
を地面へと打ち付けた。
地面に落ちてしばしもがいた後に、その生物は俺の存在に気づい
て何とか肢を広げて立ち、弱々しくぎい、ぎいと威嚇の鳴き声を出
し続けている。
ブラッドビー
生物は、蜂だった。手のひらサイズほどの、蜂。初めて見る魔物
だが、おそらく魔血蜂であろう。二対四枚ある羽のうち一枚が半分
ほど折れてなくなっており、六本ある肢のうち二本は欠けている。
満身創痍であった。
俺は、何を思ったのか、弱った魔血蜂に手のひらを向け、淡く光
るマナを浴びせた。みるみる魔血蜂の傷が治っていく。小回復をか
けているのだ。 失われた羽と肢が再び生え、満足に動けるようになってからも、
殺人蜂は動こうとしなかった。俺を襲ってくるでもなく、じっと俺
のことを見つめている。
771
がばとはね起きるも、真っ暗闇だった。
しかし、闇に目が慣れていた俺は、ここが鯨の胃袋亭の二階、い
わゆる自室であることがわかった。布団やエマたちの匂い、慣れ親
しんだ自室の空気だ。
ヘリオス
開け閉めできる木の窓は、就寝時には閉め切っている。わずかな
枠の隙間から光りは漏れ出ていない。まだ炎帝が姿を現していない
のだ。早朝にもなっていない深夜なのであろう。
︵今回の夢は、前回にも増してヘンテコだったなあ︶
三人の少女たちのささやかな寝息が聞こえてくる中、声に出さず
俺は考え込む。
迷宮の中を歩いていたら突然手負いの殺人蜂が現れて、それに回
復をかけるという夢だ。
あまりに突拍子もない夢であったが、前回エマの闘斧による一撃
で、夢そっくりに樹木が抉れたという前例があったので、気のせい
だと笑い飛ばすのも何か引っかかる。
︵考えてもしょうがないか︶
どのみち、今日は休日ではないし、エマたちも特に体調を崩して
もいないので、迷宮に潜る日なのである。あの夢が予知夢だという
のなら、今日にでもその真偽はわかるはずだった。
少し喉が渇いていたので、エマたちを起こさないように起き上が
り、室外へと出る。水場までやってきたところで、俺は人差し指を
自分の口内に入れた。
772
クリエイトアクア
﹁作水﹂
淡い光とともに、俺の人差し指からじょぼじょぼと水が溢れ出し、
喉を潤した。作水の魔法で出てくる水は純水である。洗濯などに使
う以外にもこんな用途がある、便利な魔法であった。
音を立てないように室内へと戻り、自分の布団に再びもぐりこも
うとした俺は、部屋の隅にいるために今まで視界に入ってこなかっ
たエリーゼのベッドを見て噴き出す。
寝ている方向が百八十度回転していた。枕をがに股で抱え込みつ
つ、うつ伏せの大の字になりながら、ベッドの隅をがしりと抱え込
むようにして彼女は寝ていた。普段のおすましエリーゼからは想像
もできない寝相である。
︵ひょっとして、いつも早起きしてるのって、これを見られたくな
いからか?︶
忍び笑いをしながら俺は自らのベッドに寝転がる。笑いのせいで
少し意識が覚醒してしまったので、再び寝付くには時間がかかって
しまいそうだった。 ﹁なんだこりゃ?﹂
773
中層のベースキャンプにやってきた俺の第一声が、それだった。
ざわめきながらも中層への入り口に粛々と冒険者を飲み込んでい
く、いつものベースキャンプではない。賑わっていた。明らかに段
違いの活気があった。
元々、素材の簡易的な買取もやっているベースキャンプは普段か
ら賑わっているものだが、今日は人口密度が跳ね上がっている。迷
宮入りの順番待ちの列も長く、それ以外の通路にも人がごった返し
ている。人々の表情も困惑や歓喜など様々だ。
事情はすぐに判明した。梯子のてっぺんに腰掛けた冒険者ギルド
の職員が、高所から声を張り上げていたからである。
ブラッドビー
﹁四番入り口からおよそ五百メートルほど進んだ先に、魔血蜂の巣
が確認されました。繰り返します、魔血蜂の巣が確認されました。
女王蜂は健在で産卵期に入っており、兵隊蜂の攻撃性と行動範囲が
向上しています。すでに付近のエリアに兵隊蜂が漏れ出していると
いう情報が入っています﹂
︵︱︱ふむ︶
蜂の巣が見つかったせいで、このような騒ぎになっているらしい。
夢の中で魔血蜂らしき魔物に出会ったが、もしかしてこの一件と
何かの関係があるのだろうか?
﹁現在は一番から七番までの入り口を封鎖していますが、巣から遠
くても兵隊蜂が出現する可能性があります、迷宮に入られる冒険者
の方は重々ご注意下さい。また、女王蜂の首に賞金がかかっていま
774
す。繰り返します、女王蜂の首に賞金がかかっています。巣の討伐
を狙う冒険者の方には、巣まで直行できる四番付近の入り口を開放
していますので、こちらの列にお並び下さい﹂
俺と同じく、ベースキャンプに来たばかりのパーティが、俺たち
の後ろで声高に相談を始める。声の主は、興奮を抑えきれないとい
った様子だ。
﹁おい、聞いたか。賞金が出るって話だろ、やろうぜ。魔血蜂ぐら
いなら俺らでもやれるだろ﹂
﹁馬鹿、やらねえよ。女王蜂がいる群れはランクが上がるんだよ。
いつもみたいに二、三匹出てくるのとは訳が違うんだぞ。凶暴化し
た魔血蜂の群れが何十匹と襲ってくるんだ。とてもじゃねえが無理
だ﹂
プレートメイル
﹁ううん、板金鎧を着てる俺でも無理かな?﹂
﹁無理だろうな。全身を蜂に張り付かれてみろ、兜の隙間や首周り
から刺されるかもしれないし、そもそも魔血蜂の針はかなり鋭いか
ら、刺され方が悪いと鎧も貫通するかもしれないぞ? それに兵隊
蜂が何とかなったところで、女王蜂はどうするんだよ。知性がある
から魔法使ってくるらしいぞ?﹂
﹁うえ、マジかよ。そりゃあ無理だ﹂
﹁だろ、諦めとけ。にしても女王蜂になるまで成長する魔血蜂なん
て珍しいな。よっぽど運が良くて、長いこと冒険者に出会わず成長
できたのか﹂
775
彼らの話はまだ続いているが、俺の知りたかった情報が聞けた幸
運に感謝し、内心で頭を下げる。俺たちは女王蜂ところか、魔血蜂
自体にも出会ったことがないので、危険度がわからないのだ。
彼らだけではなくて、パーティで列に並んでいる冒険者のほとん
どが、蜂の話題を口にしていた。彼らの関心の大半は、賞金額と、
どのパーティが女王蜂を巣ごと討伐するかという予想で占められて
いるようだった。流れ出てきた兵隊蜂の対処を練っているパーティ
もいる。
︵うーん︶
俺としては、夢の内容が頭に引っかかって仕方がない。魔血蜂と
出会う夢を見た翌日にこんな騒ぎになっているというのは出来すぎ
である。
魔血蜂の巣が確認されたという四番入り口の岩肌をじっと凝視す
る。
﹁ご主人様、もしかして巣の討伐に向かおうと思われてますか?﹂
エリーゼの声にはっと俺は我に返り、首を横に振った。
﹁個人的に気になることがあっただけだ。俺たちのパーティじゃ力
不足だろう。行く気はないよ﹂
﹁では、今日はいつも通りに?﹂
﹁ああ。普通に狩りをしよう。戦闘中にはぐれの兵隊蜂に乱入され
たときは俺とエリーゼで対処、エマとエミリアで正面の敵を片付け
776
る方向でいいかな。まあ臨機応変に﹂
了解、という少女たちの返事を背に、俺は行列の順番が来るのを
じっと待つ。頭の片隅には夢の内容が引っかかっていたが、生死の
危険を冒してまで巣に突撃することはできない。
もしかしたらあの夢は、魔血蜂の巣へ向かえと俺に示唆していた
のかもしれないが、確証もない以上勝手なことはできない。俺はエ
マたちの命をも預かっているのだ。
何か突発的な事態が起きるかもしれないと身構えていた俺の心配
は杞憂だったようで、何事もなく狩りは進んだ。
俺たちの狩場はベースキャンプの十六番入り口から六つほど部屋
を進んだ森である。俺たちのパーティの中だけで通じる分類として
は、レベル3の部屋だ。これぐらいの深度から、毒大蜘蛛や大毒蛙
が出始める。
一番から七番までの入り口が封鎖されているため、自然と他の狩
場が混雑してしまっていたが、運よく六つ目の部屋に差しかかった
オー
ときに前任のパーティが迷宮から帰り始めていたので、これ幸いと
ディーン
ばかりに譲り受けて陣取ったのだが、この部屋は当たりだった。百
薬草が生えていたのである。
バックパック
﹁よいしょっと︱︱これでようやく背嚢三分の一ぐらいか。先は長
いな﹂
777
スケルトン
スペクター
俺たちが到着するなり、すぐに湧いた骸骨剣士と死霊を危なげな
く倒し、俺たちは百薬草の採取に取りかかっていた。次の魔物が湧
いてしまうと戦闘になるので、湧き待ちをする時間で採取をする。
効率的な行動である。
迷宮の植物であるからして、百薬草は黒ずんだ灰色の植物である。
回復薬の原料となる卵型の葉は、一枚一枚が手のひらほどの大きさ
であり、何枚も束ねるとそれなりにかさばる。
軽いために背嚢いっぱいに積めるのは利点であるが、そこまで高
値で引き取ってもらえないという欠点もある。一本の低級回復薬を
作るために、何枚もの葉を搾らねばならないため、らしい。
中級以上の回復薬を作るためには、百薬草の成分を濃くするため
に何十枚もの葉を使う必要があるのだとか。
それでも、背嚢一つにぎっしりと詰め込めばそれなりの値段には
なる。
迷宮の植物は成長が早く、その上に群生することもままあるので、
前任者が取りきれなかった百薬草はまだ小さな畑ほども残っていた。
俺たち三人が背嚢いっぱいに取ったとしても、まだ取りきれないだ
ろう。
﹁よっ、よっ、ふう﹂
面頬を上げているとはいえ、板金鎧を着込んだままのエマは疲労
が早い。
背嚢からときおり手ぬぐいを取り出して顔の汗を拭っているが、
その表情は溌剌としていた。
エリーゼは見張り役であるので、採取作業は俺とエマ、そしてエ
ミリアの三人で行っている。奴隷身分の返上という目的があるせい
778
か、下着姿で俺に詰め寄ってきた例の晩以降、この二人の士気は高
く、収入を上昇させることに積極的であった。
﹁いい調子ね﹂
エミリアも額を汗で濡らしながら笑顔を浮かべる。
悪い方向の変化ではなく、むしろ意欲の向上に繋がっているので、
俺としても言うことはない。
エラーファンガス
二回目の魔物湧きは、異常茸の群れであった。
もちろん、危なげなく焼いて戦闘はすぐに終わった。
﹁確かに、順調だな﹂
マナバイソン
油断は禁物であるが、百薬草の収穫も着実に進んでいるので文句
の付け所がない。これで魔角牛でも出てしまうと、素材を腐らせな
いために帰還する必要があるので、できればそれまでに背嚢を百薬
草で一杯にしておきたいところだった。 ﹁接近、一人!﹂
次の魔物湧きまでしばらく時間があるなあ、などと考えていたた
めに、鋭く叫んだエリーゼの報告は、俺たちの意表を突いていた。
俺たちが狩りをしている部屋に、他のパーティが入り込んでくる
ことだってもちろんある。大抵は俺たちが占有している状況を見て
他の部屋に移動するが、万が一、賊の類であったときのことを警戒
して一応は作業の手を止めて警戒態勢に入ることにしていた。
俺が驚いたのは、その人数である。パーティで挑戦することが多
779
い迷宮の中層において、一人だけしかいないというのは稀有であっ
た。すぐにその疑問は氷解することとなるが。
﹁魔血蜂の巣は退治されました。繰り返します、魔血蜂の巣は退治
されました。女王蜂は討伐されました、散った兵隊蜂を見かけたら
処理をお願いします。繰り返します、魔血蜂の巣は︱︱﹂
なんと、声高に叫びながら隣の部屋へと続く通路を駆け抜けてい
ったのは、冒険者ギルドの見知らぬ職員である。服装も、いつもの
ローブ姿であった。
﹁あんな姿で中層を走り回って、平気なんでしょうか、あの人﹂
エリーゼも拍子抜けしたような表情である。確かに一見危険そう
に見えるが、同じ冒険者ギルドに所属しているディノ青年のレベル
は2000を超えていたことだし、意外と冒険者ギルドは武闘派な
のかもしれない。
なおディノ青年といえば、昨日は最終的にディノ、ミリアム、キ
リヒト、ジェノバの四人を集めて今後のことを話し合い、例によっ
てチェルージュの鶴の一声でボーヴォの別荘にみな住むことに決ま
った。状況がどう動くか、しばらくは様子見することにしたらしい。
ミリアムとジェノバの女性陣は、毎週末に別荘に通いつつ情報収
集することにしたようだ。キリヒトが街へ戻れる可能性はないが、
キリヒトの罠から逃れたエディアルドの消息がわかればディノが街
に帰れる可能性は出てくるためだ。もしエディが死んでいれば、殺
人犯の肩をディノが持った事実は闇に葬り去ることができる。
顔を見られたならちゃんと始末しないと、などと言いつつ淡々と
780
エディアルドの対処法を画策していたミリアムが一番物騒だった。
彼女は良家の子女だとディノから聞いたことがあったのだが、最近
の良家の子女とやらは実にダーティである。
なお、ディノ青年の辞表は上司が一存で手元に留めてくれていた
そうだが、やはり事情が事情だけに街へはしばらく戻れそうにない
ため、受理されることになりそうとのことだった。
無職になってしまいましたね、などと笑うディノ青年と、なぜか
嬉しそうなミリアムである。私も仕事辞めてこっちに住もうかしら、
などと呟いていたのが思い出される。
﹁魔物湧き、十番! 数は一!﹂
エリーゼの警告に、弾かれたようにエマとエミリアは走り出す。
作業を中断する速度にも無駄がない。ずいぶんとこの狩りにも慣れ
てきているようだ。もちろん俺も即座に作業を中断して森の中へと
駆け込んだ。
マナバイソン
魔物シリーズ図鑑の十番は魔角牛である。森を抜けた先の通路に
現れたらしい。
エマの目配せに、俺が頷いて答える。
目と目で行った会話の内容は、﹁私が先に行く﹂﹁了解﹂である。
面頬を降ろしたエマは、下段に闘斧を構えながら走り続け、森を
抜けた。
その視線の先は、二十メートルほどの先、通路で地面を掻きなが
ら威嚇をしている魔角牛である。
781
﹁ふうッ︱︱!﹂
気合を入れながら、エマは魔角牛に向かって駆ける。以前よりも
さらに筋力が増し、走る速度も上がった。闘斧も、もはや地面に引
きずることなどない。両手でしっかり柄と鎌首を握り締め、エマは
走る。
本来であれば、俺が先行するべきである。エマよりも身軽な俺な
らば、すれ違いざまに足を斬りやすい。動きの鈍った魔角牛に、後
から追いついてきたエマが強烈な一撃、という流れが理想である。
しかし、今回エマは自分から行きたいと言った。俺もそれを認め
た。
よしんば失敗したところで、それをカバーできる地力が今の俺た
ちにはある。
﹁せいッ!﹂
魔角牛の突進と正面衝突する寸前、斜めに避けつつエマは闘斧を
振った。
避けつつ体重の乗った攻撃が出来るほど、まだエマは身体能力が
成長していない。
それでも、双方の勢いが乗った闘斧は、俺たちから見て左︱︱魔
角牛の右脚の付け根部分にめり込む。がくりと一瞬体勢を崩すが、
魔角牛はそれだけでは倒れない。頑丈さと耐久力は折り紙つきだ。
そこに、俺が走りこむ。無事な方の左前脚、その蹄付近の一番細
い部分を狙って、長剣を叩きつける。
782
両前脚を傷つけられ、走る勢いそのままに前方へと倒れこんだ魔
角牛に、エマが上段に斧を振りかぶって走り寄る。
まだ荒々しい生命力を宿し、上体を何とか起こそうとする魔角牛
の首元に、全力の斬撃が叩き付けられた。どぱんっ、という刃物を
打ち付けたとは思えない鈍く重い音とともに、闘斧の一撃は深々と
首筋を断ち割った。
鮮血を溢れさせながらもがく魔角牛であるが、その動きにもはや
生彩はない。戦いは終わったのだ。
﹁うん、慣れてきたな、エマも﹂
魔角牛の胴体を板金鎧の脚で踏んづけながら闘斧を引き抜いたエ
マは、面頬を上げてえへへ、とはにかんだ。褒められるのが好きな
エマは、俺の言葉でやる気を出す、もっと頑張る、さらに俺が褒め
る。好循環である。
﹁それじゃ、いったん上に帰ろうか。百薬草も結構集まったろ?﹂
﹁背嚢に七、八割ほどは溜まってるわ。もう少し粘れば採れるけど、
魔角牛と引き換えにする意味はないわね。いい頃合だったわ﹂
ブラインド
今回は出番のなかったエミリアであったが、覚えたての視野阻害
をいつでも唱えられる準備はしてくれていた。万が一エマが失敗し
て魔角牛の突進に弾き飛ばされても、視界を奪ってその後の追撃を
妨げられるようにはなっていたのである。
フリーズ
﹁本当は氷属性魔法色級の氷結があればもっと確実なんでしょうけ
ど。色級だから高いのよね、手が出ないわ。それに比べて視野阻害
はこの使い勝手でまさかの作級。安くて便利って素晴らしいわね﹂ 783
少ない投資で多くの利便性が生まれていることに、ここ最近のエ
ミリアはご機嫌である。さすが商人の娘であった。
﹁それではご主人様、もう帰還なさいますか?﹂
リターン
﹁そうしよう。帰還の指輪は俺が使うよ。みんな集まってくれ﹂
放っておくと、魔角牛の死体は迷宮に吸収されてなくなってしま
う。
高値で売れる魔角牛は持ち帰るべきだった。
﹁わかりまし︱︱敵襲、一体!﹂
もっとも索敵範囲の広いエリーゼが、何者かの気配を感知したよ
うだ。
一回の戦闘が終わり、若干気が抜けていたことは否めない。まだ
次の魔物が湧くまでには、かなりの時間的余裕があったからだ。慌
てて俺たちは武器を構える。
やや遅れて、俺の気配探知スキルにも他の生物の気配が引っかか
った。
﹁これは︱︱隣の通路から、しかも人じゃない?﹂
気配を感じたのは、魔角牛の死体、つまり俺たちがいる場所のす
ぐそばにある隣の部屋への通路の先だ。要するに、気配は隣の部屋
からである。
784
気配探知スキルには人間も引っかかる。他の冒険者がそのあたり
にいるのかとも思ったが、それにしてはやや上方に気配はある。ま
るで、空を飛んでいるかのように。
つまり、通路を抜けたすぐ先、隣の部屋にいるこの気配は、魔物
のようだ。
とはいえ、魔物は通路を抜けてくることは滅多にない。彼らは湧
いた部屋を自らの縄張りだと認識しているらしく、そこから離れる
ことはあまりない。戦いの最中であっても、通路を抜けて隣の部屋
に逃げ込めば追ってこないことが多々あるらしい。
もちろん、魔物が頭に血を昇らせてしまっていたらその限りでは
ないが。
﹁︱︱ん?﹂
うっすらと、羽音が聞こえてきた。
それも、びちびちという一定していない、弱々しい羽音だ。
俺は、はっとなった。夢の中で見た光景にそっくりだ。よく見れ
ば、通路の形状も似ている気がする。とすれば、ここが夢に出てき
た場所なのだろうか。
そんなはずはない、と俺は頭を振った。
夢の中の俺は、もっと迷宮の奥の方まで進んでいた。具体的には、
十部屋以上も深部に進んでいたはずだ。俺たちがいるこの部屋は、
せいぜい六つ目である。それなのに、夢の中そのままの光景がここ
にある。
785
混乱しかかってきた頭を、左右に勢い良く振って雑念を振り払う。
﹁えっと、みんな。突拍子もない指示を出すけど、出来れば従って
くれ。これからこの通路に、弱りきった魔血蜂が現れた場合、先制
攻撃は禁止。俺が前に出るので、もし刺されたら解毒を頼む﹂
﹁了解だけど、何なの? 弱った魔血蜂なんて、そんな限定的な状
況、そうあるはずが︱︱﹂
エミリアは台詞の途中で絶句した。
突然、次の部屋から、手のひらサイズぐらいの生物が通路へと飛
び込んできたからだ。勢いよく飛び込んできた割には飛行の軌跡が
めちゃくちゃで、ぎいっ、という鳴き声とともに、その生物は自ら
の身体を地面へと打ち付けた。
地面に落ちてしばしもがいた後に、その生物は俺たちの存在に気
づいて何とか肢を広げて立ち、弱々しくぎい、ぎいと威嚇の鳴き声
を出し続けている。
ブラッドビー
﹁魔血蜂︱︱﹂
エミリアは魔物の名前を呟きながら、呆然とした。
夢の中で出会った蜂そのものだった。
二対四枚ある羽のうち一枚が半分ほど折れてなくなっており、六
本ある肢のうち二本は欠けている。満身創痍であった。
エミリアの視線は、蜂から俺へと移される。
786
何か不気味なものを見るかのような視線は、少し刺さって痛い。
﹁さて、ここからはどうなるかわかんないんだよな。繰り返すけど、
先制攻撃は禁止な。俺が刺されたらやっちゃっていいけど﹂
ヒール
小回復、と声に出しながら俺は魔血蜂に魔法を浴びせてやる。
エマたちが息を飲む気配が伝わってくる。そりゃそうだ、魔物に
回復呪文をかけるなんて前代未聞だろう。淡い光が収まった後には、
失われたはずの羽と肢を再生させた、無傷の魔血蜂が佇んでいた。
︵︱︱ふむ︶
無言のまま、じっと俺と魔血蜂は見つめあった。
黒真珠のように艶やかな両の複眼が、じっと俺を見つめている。
しばしの静寂の後に、魔血蜂は飛んだ。それも、俺たち︱︱いや、
俺めがけて真っすぐに。
かちゃりと、エリーゼが短剣を構える音がするが、俺は振り返り
もせずに後ろ手で押し留めた。
﹁嘘﹂
エミリアが再び、呆然となった声を上げた。
魔血蜂は、俺の肩に六本の肢で張り付いたのである。威嚇するで
もなく、尻の毒針を使うでもなく、ここが俺の居場所だとでも主張
するかのように、俺の肩に留まって羽を休めていた。
﹁魔物が人間に懐いたって話、聞いたことある?﹂
787
エミリアが眉をひそめながらエリーゼに訊ねるも、彼女も首を横
に振った。
そりゃそうだろう、魔物は人間を見つけたら問答無用で襲うもの
というのが定説であるし、現にどんな人間も、ただの魔物の一体だ
って飼い慣らすことに成功したという話は聞かない。
﹁どうしよう、これ﹂
﹁どうしようって言われても、私だって困るわよ。追い払えないの
?﹂
﹁ふむ﹂
迷宮の出口にいる門番に気づかれないように家に連れ帰ることは、
できない。
魔物を眠らせるなどして迷宮外に持ち帰ろうとした輩が以前にい
たらしく、必ず荷物検査が行われるからだ。
俺たち冒険者にとっては雑魚の一匹であっても、冒険者以外の街
の人々からすれば、あっさりと自分たちの命を奪える猛獣である。
しかも最初から自分たちに攻撃的であり、融和の余地はない。
それ故に、魔物の持ち出しは重罪である。強力な魔物であれば、
たとえ一匹でも街に放たれようものなら大混乱が起きるからだ。
﹁お前、迷宮の中に帰らないか?﹂
がっしりと肩をつかんで離さない魔血蜂の肢を、一本一本引き剥
がすようにして追い払ってみたが、しばしぶぶぶ、と宙を飛んだ後
788
に、やはり俺の身体のどこかへ着地する。
﹁最悪の場合は、手にかけないといけないんだろうが。ちょっと気
が引けるなあ﹂
俺を飼い主か何かだと思っているのか、完全に気を許している様
子の生き物である。たとえ魔物であろうと、どうも進んで殺す気に
はなれない。
﹁もしかして、持ち帰るつもり? 衛兵に止められるわよ?﹂
﹁話せばわかってくれないかな? 魔物が人間に懐く可能性がある
って、すごい発見だと思わないかな。俺としては魔物の調教が出来
るかどうかなんて興味ないけど、そういうのを研究してる人から見
たら格好の研究材料なんだし、許されないかなって﹂
﹁無理だと思うし、結構な騒ぎになっちゃうと思うけど︱︱ジル、
連れ帰りたいのね?﹂
うん、と俺は素直に頷いた。夢の中で会ったということもあるし、
追い払えない以上、殺すか連れ帰るかの二択である。前者は選びた
くなかった。
﹁きっと、面倒ごとになるわ。そのうち甘いものでも奢ってよね﹂
諦めたような口調で、何やらエミリアは背嚢をがさごそと漁って
いる。やがて引き抜かれたその手には、小指ほどの太さの頑丈な荒
縄が握られていた。
﹁せめて、これでジルの腕に結びつけておきなさい。迷宮の外に出
789
てからその蜂に逃げられたら、言い訳ができないわ﹂
エミリアがおそるおそる触っても、魔血蜂は嫌がる素振りを見せ
なかった。この蜂が懐いたのは俺だけなのかと思っていたら、ひょ
っとしたら人間そのものに懐いたのかもしれない。
魔血蜂は、胴体を二回りするように荒縄を結ばれた。もう一方の
結び目は俺の腕に巻きついている。荒縄の遊びは一メートルぐらい
なので、ほんの僅かな距離︱︱たとえば俺の腕から肩といったよう
な短い距離であれば飛んで移動することもできる。
﹁大人しくしてるんだぞ﹂
言葉が通じているとも思えないが、俺の語りかけに対して、魔血
蜂はじっと真っ黒な瞳で俺を見つめていた。
790
第四十六話 変人
マナバイソン
﹁お帰りなさい! 獲物は魔角牛一体ですね、ただいま査定します
のでこの番号札を︱︱うわああっ!?﹂
帰還の指輪を使い、魔角牛の死体とともに迷宮入り口の広場へと
帰った俺たちは、早速冒険者ギルドの職員に驚かれることとなった。
ここ迷宮広場には帰還の指輪を使用する冒険者が次々とやってく
るため、冒険者ギルドの職員は手際よい冒険者捌きを旨としている。
ブラッドビー
彼らは魔角牛の死体を査定するべく迅速に駆け寄ってきて、俺の
肩で羽を休めている魔血蜂に気づくなり、迅速に後ずさった。
﹁衛兵ッ!﹂
念話の指輪に彼らが一言吹き込むなり、間髪入れずにあちこちか
ら衛兵が駆けてきた。
プレートメイル ハルバード
見張りを主な任務とし、街角などに立っている鋲皮鎧の衛兵だけ
ではなく、迷宮城の中からは板金鎧に戦斧を担いだ完全装備の衛兵
までやってきている。
彼らは俺たちに駆け寄り、俺の肩の魔血蜂に気づくなり、一斉に
武器を構えた。
あっという間に、俺たちは槍の壁に包囲されてしまった。
﹁予想通りよね﹂
791
エミリアが肩を落としている。
俺としては、交渉次第でもう少し穏便に形が付くかと思っていた
が、予想に反して冒険者ギルドの職員及び衛兵の反応は実に早かっ
た。見事と言うしかない。
俺の肩に留まった魔血蜂はといえば、向けられた武器と殺気に反
応して、縄で俺とつながったまま宙に浮き、ぶぶぶぶと羽音を立て
て彼らを威嚇している。
黒真珠のような瞳は、今は真っ赤に染まっていた。
︵人間に懐いたのかと思ったら、俺たちだけに懐いているのか?︶
それとも彼らが敵対的だから威嚇しているのか、今は定かではな
い。
肝心なのは、俺が冒険者ギルドの職員、及び衛兵たちを説得する
ことである。
︵焦ったら付けこまれそうだ。ここは一つ、堂々と振舞わないとな︶
俺は、宙を飛んで威嚇体勢を崩さない魔血蜂の口元を撫でた。
しばし撫でていると、真っ赤に染まっていた魔血蜂の複眼は艶の
ある黒へと戻り、俺の肩へと戻って羽を閉じた。
その様子を見ていた周囲の人々が、ざわめく。
テイム
﹁魔血蜂の調教に成功した可能性がある。魔物の迷宮外への連れ出
し許可を貰いたい﹂
胸を張るとともに、声を張って俺は彼らへと宣言した。どよめき
が起こる。
792
ありえない、だとか、魔物が人間に懐いた例を聞いたことがある
か、いやない、など彼らが口々に相談を始め、一気に迷宮広場は騒
がしくなった。まさに蜂の巣をつついたような騒ぎだ。
︵ふむ、交渉の感触としては悪くない︱︱︶
衛兵たちは俺へと向ける槍の壁を崩していないが、少なくとも、
いきなり突き殺されるようなことはなさそうだ。
冒険者ギルドの職員が、何やら念話の指輪を使って頻繁に連絡を
取り合っている。いわゆる、お偉いさんの意向を伺っているのだろ
うか。
しばしざわめきの中で膠着状態になった後、人々が虚空に視線を
向け始めた。
何事かと俺も視線の先を追うと、ローブ姿の一人の男性が空を飛
んできていた。
レビテーション
︵チェルージュ以外で空を飛ぶ奴、初めて見たな。浮遊、風属性の
上級魔法だっけ︶
彼は俺たちを包囲する槍の壁の外に降り立つと、衛兵の列を割っ
て俺たちの方へと進み出てくる。
﹁冒険者ギルドのマスター、アークノーラだ。迷宮から魔物を連れ
帰ったというのは君たちか?﹂
﹁ジル・パウエルです。その通りです﹂
冒険者ギルドのマスターといえば、この街のトップである。権力
793
者という言葉の響きから、もっと老齢の人物を想像していただけに、
護衛も連れずに現れたアークノーラ氏の面貌は俺の意表を突いてい
た。
歳は四十半ば頃、壮年で精力に満ちた細面の男性である。
若いころはさぞ女性に騒がれたであろう顔だが、年を経てやり手
の政治家といった気配を漂わせていた。
﹁魔物を街に連れ帰ることが犯罪であるということは理解している
な?﹂
﹁この通り、縄でつなぎ、万が一にも他人に被害が出ないようにし
てあります。魔物を調教できるかもしれないという可能性は、街が
新たな発展をする可能性でもあるのではないですか?﹂
お偉いさんだからと言って、威圧に飲まれてはなるまい。
よく俺の口からそんな台詞が出てきたと我ながら驚くほど、すら
すらと言葉が口をついて出た。
ちらとエマたちの様子を見ると、関係性がわかりやすいようにと
の配慮なのか、エミリアが皮鎧の襟元を外し、奴隷の首輪を見せた。
すぐに鎧を外せないエマとエリーゼも首元を指し、自分たちが俺の
奴隷であることを表してみせる。
それを見て、人類の代表であり、この街の最高権力者であるとこ
ろのアークノーラ氏は、一つ頷いて見せた。
﹁しばし、身柄を預からせてもらおう。私の一存で処理することも
出来るが、君をどう扱うか、会議にかけたい﹂
794
構いません、と俺が告げると、アークノーラ氏は踵を返した。
﹁面談室にお連れしろ。四人は分けてな﹂
彼の指示に、周囲の衛兵や冒険者ギルドの職員は直立不動の姿勢
で返事をする。
最初に俺のところへと駆けてきた素材買取のギルド職員が、去り
行くアークノーラ氏におずおずと話しかけた。
﹁手縄はいかが致しますか?﹂
﹁手向かわなければ、なくて構わん。武器は預かって客人対応で良
い。追って連絡あるまでは控え室で待機してもらえ﹂
手短に告げ終わると、アークノーラ氏は再び空を飛んで帰ってい
った。
その場に残された俺たちは、衛兵に先導されて歩き出す。
すでに周囲には野次馬が集まっていたため、大人数の注視する中、
衛兵に連れて行かれるというのはあまり良い気分ではない。捕まっ
た犯罪者を見るような視線が注がれているからだ。
︵エミリアの言う通り、後でみんなに何かしてあげないとな︶
俺の勝手な都合で衆目を浴びてしまっているエマたちは、しかし
胸を張って堂々と歩いていた。そんな彼女たちに、内心で頭を下げ
る。
︵にしても、表情が読めないお偉いさんだったな。吉と出るか凶と
出るか︶ 795
政治家だからなのかはわからないが、アークノーラ氏が俺たちに
好意的なのかそうでないのか、いまいち伝わってこなかった。俺た
ちへの扱いも、手荒でもなければ丁寧でもない。
どう扱われるかの展望が見えないというのは、不安なものだ。
﹁ふむ。体のいい軟禁ってとこか﹂
俺たちが案内されたのは、冒険者ギルドの本部内にある客人面談
室という部屋であった。
部屋の四隅には猫目灯が置かれ、室内は明るいものの窓はない。 床には絨毯が敷かれていて、壁は木材である。ただし、中に鉄板
でも入っているのか、壁をこつこつと叩いてみても音が通る気配は
まったくない。
ついでに言うと、家具もない。机と椅子が一脚、それだけだ。
入り口の扉はこれも鉄板を貼られた頑丈なもので、外から鍵をか
けられ、内側からは開けられないようになっている。目線の高さあ
たりが鉄格子になっていて、衛兵がときおり俺の様子をちらちらと
覗き込んでくる。
﹁俺の予想だと、犯罪者候補を取り調べる部屋なんだよな、ここ﹂
796
音が漏れない環境、逃げ出せない上に中の様子を確認できる入り
口の扉、殺風景な部屋。
まさかこれで客人を応対する部屋だと主張するわけではあるまい。
客人相談室、要は犯罪者候補を連れ込んで尋問する部屋と見るべ
きであった。 ﹁そういや、昼飯食ってないな。少し腹が減った﹂
武器防具の類は預けたので、この部屋にはない。今の俺はローブ
姿である。
これは俺の服ではなく、銀蛇の皮鎧とその下に着込んだ布鎧を預
け、かわりに衛兵から借りたものだ。あくまで客人対応ということ
なので湯と布も借りれたので、冒険の汗はざっと拭ってある。
武器に関しては血糊で錆びないように、渡すときに軽い手入れを
お願いしてある。待機してる間、衛兵も暇なようで、快く応じてく
れた。
﹁なんかメシ、頼むか︱︱そういや、お前って何食うんだ?﹂
ブラッドビー
俺が尋ねたのは、椅子に紐の先をくくりつけてある魔血蜂だ。
一メートルほどという行動範囲は変わらないが、俺から離れてい
るために今の俺は身軽である。
もちろん言葉が通じているわけではないのだろうが、俺が話しか
けるとぶぶぶぶ、と飛び上がって反応を示すので、コミュニケーシ
ョン自体は取れているような気がする。
﹁ん、何か食うか?﹂
797
﹁ええ。適当に俺の分の昼飯をください。他の三人にも聞いてやっ
てもらえます?
全員昼飯はまだ食ってないんで﹂
﹁わかった、聞いておこう﹂
﹁それと、魔血蜂が食いそうなもんも何かお願いします﹂
﹁無茶言うな、何を食うんだよそいつ﹂
苦笑しながら衛兵は去っていった。代わりの衛兵がやってきて、
鉄格子から俺の様子を覗き見る。俺よりも、大人しく椅子につなが
れたままになっている魔血蜂の方に興味を示しているようだ。
このように、俺の部屋の入り口で監視役をしている衛兵は概ね好
意的である。
もちろん威圧的に接されるより精神安定上好ましく、俺はのびの
びと過ごさせてもらっていた。
﹁ほらよ﹂
三十分ほど経ったころ、頼んでおいた食事が届いた。
入り口の扉には差し入れ用の窓が付いているのだが、そこからで
はなく、衛兵は普通に扉を開けて室内に入ってきた。逃亡する恐れ
はないと思われているのだろう。
侵入者が現れたということで椅子に繋いだ魔血蜂がぶぶぶぶと空
を飛んで身構えていたが、瞳は赤くなっていない。あくまで警戒し
798
ているだけのようだ。
﹁マジか、おっちゃん超優しいじゃん﹂
﹁誰がおっちゃんか︱︱いや、もうそんな歳か﹂
なぜか一人で自問自答しつつ落ち込む衛兵が持ってきてくれたの
は、俺の昼飯である。気軽に食えるパンとベーコン、チーズの挟み
ものに加えて、小皿が三つ乗った木のトレイを差し出された。
なんと小皿には、生肉のミンチ状のもの、水、蜂蜜がそれぞれに
入っている。魔血蜂用だろう。
﹁そいつが何食うかわからなかったからな。適当に持ってきたぞ﹂
﹁いや、助かるよ。俺も連れて帰っただけだから、こいつの食事と
かわからないんだよな︱︱お?﹂
椅子に繋がれたままの魔血蜂は机の上に飛び乗り、わさわさと六
本の肢でトレイの前まで歩いていった。しばしトレイの中の小皿を
眺めた後、口から伸びた触角のようなもので、蜂蜜の小皿をちゅー
ちゅーと吸い始める。
﹁すごいな。実際に目にするまでは半信半疑だったが、本当に懐く
んだな﹂
﹁今まで誰も試さなかったんですかね? 魔物の飼育とか﹂
﹁いや? それなりに試行錯誤した結果、魔物は何をやっても飼い
慣らせないって結論に至ってたはずだが。低階層の魔物を飼い慣ら
せるか試したことはあったみたいだが、まるで上手く行かなかった
799
らしい。どれだけ餓えてても与えた餌は食わないし、人間へ攻撃し
ようとするばかりだったらしいな。こいつが特別なんじゃないか?﹂
﹁ふむ。魔血蜂だけが飼い慣らせるってだけなのかな﹂
﹁わからん。魔血蜂の巣の討伐依頼が今日出てただろ? あれで女
王蜂が死んだから、はぐれたそいつが次の主人を探してただけなの
かもしれんしな。魔物の生態は謎が多いよ﹂
軟禁生活というのは暇なものである。話相手になってくれたこの
おっちゃんが良い人であったことに感謝せねばなるまい。
﹁っと、これは︱︱はっ。そうであります。はっ、かしこまりまし
た﹂
俺と話していた衛兵のおっちゃんが、突然扉の外で誰かと話し始
める。
間を置かず、鉄の扉ががちゃりと開き、ローブ姿の壮年の男性が
入ってきた。
﹁魔血蜂を調教したというのは君かね? そしてそれがその魔血蜂
かね?﹂ 前置きもなしに突然話しかけられて、俺は少なからず困惑した。
浅黒くて皺の多い、彫りの深い顔立ちの彼は、興奮しているのか
目をぎょろりと剥き、ずかずかと俺たちのいる机までやってきて興
味深げに俺たちを凝視し始める。
︵あれ、このおっさん、どこかで︱︱︶
800
エンブレム
胸に魔石を象った、魔法ギルドの紋章。
どこかでこの人のことを、俺は見かけたことがある。どこでだっ
ただろうか。
ふいに、エマたちと作級の魔法を買いに行った魔法ギルドの売店
を思い出した。
﹃もし迷宮の深層部で、未知の魔法を魔物が使ってきたら、ぜひ魔
法ギルドに詳細を報告してくれたまえ。内容如何では報酬ははずむ
ぞ︱︱﹄
その後、売店の店員が、彼が魔法ギルドのマスターであったこと
を教えてくれたんだっけ。
﹁ああ、確かあなたは、魔法ギルドのマスターの。カヌンシルさん
でしたっけ?﹂
エマたちに魔法を習わせることを、実に結構なことだと、謹厳な
顔を崩さず評価した人だ。
﹁おや、私のことを知っているのか。どこかで会ったかね?﹂
﹁一度だけ、魔法を買いに行ったときにお目にかかりました。俺の
仲間たちに、魔法を教えに行ったときのことですが﹂
しばし、記憶を探るかのように押し黙っていた彼は、やがて表情
を崩した。
﹁思い出した。所持している奴隷に魔法を習わせていた青年か。君
801
だったとはな﹂
今度は俺が驚く番である。まさか記憶されているとは思わなかっ
た。
﹁よく覚えていますね。もう二ヶ月以上も前のことで、そう長く言
葉を交わしたわけでもないのに﹂
﹁うむ。魔法の偉大さはもっと周知されてしかるべきだ。君たちは
そういう点で、見込みがあったからな。魔法は実に便利なものだよ、
戦う手段というだけに留まらず、生活に欠かせない技術だ。私はね、
魔法の原理、仕組み、神秘、そういったものを追究しているのだ。
より詳しく魔法の仕組みが明らかになるにつれ、我々人類もより発
展していくことができると信じている﹂
魔血蜂の行動射程範囲に入るのも厭わず、机に両手を置きながら
彼は俺たちの方に乗り出してきた。
魔血蜂がぶぶぶぶと空を飛んで威嚇しているのも気にせずに、彼は
熱弁をふるっている。
﹁自己紹介は省こう。君が今回魔血蜂の調教に成功したかもしれな
いと会議で聞いて、いてもいられなくなって飛んできた。さあ、私
に新たな可能性を見せてくれ。
誰がどうやっても調教に成功しなかった魔物との共存、その端緒と
なるかもしれない貴重な個体をだ﹂ ずいずいとにじり寄ってくるカヌンシル氏の剣幕に、俺たちは身
を引いてしまう。魔血蜂にいたっては、瞳が警告色の赤に染まり始
めていた。
802
﹁別に逃げやしませんから、落ち着いて下さい。魔血蜂が興奮して
いますから﹂
﹁む、いかんな、すまん。どうも魔法の探求になると我を忘れてし
まうようでな。家内にもよく諭されるのだが、こればかりは直らな
かった﹂
ふすーっと鼻息を吐き、自分を落ち着かせるかのように目を瞑る
彼である。なんというか、情熱的というか、この人も変わり者であ
った。
﹁君、すまんが椅子を一脚頼む。私はしばらくここにいるのでな、
茶か何かも貰えるか?﹂
カヌンシル氏は、扉の外で待機している衛兵の彼に声をかけてい
た。
同室で過ごすには暑苦しい人ではあるが、暇であるのも事実なの
で、話し相手が出来たと好意的に捉えることにしよう。一応は権力
者らしいから、顔を繋いでおいても損はなさそうだし。
﹁む。それはもしや、魔血蜂の餌か。しかも手をつけた跡があるな。
なんだ、一体何を食うんだ魔血蜂は﹂
舌の根も乾かぬうちからずずいっと顔を近づけてくるカヌンシル
氏であった。
﹁今のところ、蜂蜜しか手を付けてないですね。先ほどの衛兵の彼
が融通を利かせてくれたんですが﹂
﹁君、すまんが同じのをもう一つ用意してくれないか。これは手間
803
賃だ、釣りは取っといてくれ﹂
扉を開けて顔を出した衛兵の彼に、カヌンシル氏は懐から金貨を
一枚取り出して手渡した。俺の見間違えでなければ、10,000
ゴルド金貨である。太っ腹な人だと言えよう。
﹁それと、君︱︱そういえば名前を聞いていなかったな。魔血蜂の
縄を解いてくれないか? 自由に飛ぶところを見たい﹂
﹁ジル・パウエルです。縄を解くのは構いませんが、大丈夫ですか
? こいつが人間全体に懐いたのか、俺だけに懐いてるのか、まだ
わかってませんが﹂
﹁なに、構わんさ。魔血蜂に刺された程度で死ぬほど私は弱くはな
い﹂
胴体に回された荒縄を解いてやると、魔血蜂は待ってましたとば
かりに室内を飛び始めた。しかしそれも束の間で、魔血蜂が飛ぶ姿
を凝視しているカヌンシル氏が
より近くで見ようとじりじりと距離を詰めてくるので、彼から隠れ
るように俺の後頭部に着地した。
﹁あの、顔。近いです﹂
気が付けば、魔血蜂を凝視している彼の顔が、俺の目の前にあっ
た。
鼻息が俺の顔面にかかるほどの至近である。俺の後頭部の魔血蜂
が脅えているような気がした。
﹁はっ。いやすまん、つい見入ってしまった。いつの間にこんな近
804
くにまで﹂
表情からすると、本気でうろたえているのがわかる。とんだ変わ
り者である。
﹁ちょっとジル君、その縄を貸してくれたまえ。うむ、これでよし﹂
何を血迷ったか、彼は自らの両脚を椅子に縛りつけた。
興奮して接近しすぎないようにという配慮らしいが、そんなこと
をしても
どうせ我を忘れて椅子ごと接近してくるような気がしてならない。
﹁お待たせしました︱︱どんな状況ですか、これ﹂
蜂蜜などを盛ったトレイを用意して室内に入ってきた衛兵の彼が、
椅子に縛り付けられている魔法ギルドのマスターを発見して呆れ顔
になったのも、当然である。
805
第四十七話 流転
﹁ご主人様!﹂
一晩を過ごした客人面談室、要は取調室から外に出ると、閉鎖的
な印象を受ける
長い廊下の奥の方にエマたちがいて、俺に手を振ってきた。
プレートメイル
武器防具一式は返してもらったのか、みな鎧姿である。
エマだけは胴と腰まわりの板金鎧のみを身に着け、闘斧を肩に担
いでいた。その他の小手や足の板金鎧は、エミリアとエリーゼが手
分けして抱え運んでいるようだ。
これから迷宮に行くわけでもなく、ただ宿に帰るだけだというの
になぜ鎧を着ているのかというと、単純に持ち運びが面倒だからで
ある。特にエマの板金鎧は、脱いだ状態で一式を持ち運ぶには重過
ぎるのだ。
﹁それじゃ、先に伝えた通り、監視役が付くことになってる。監視
役から逃げ出したり、目の届かないところに行く振りをして撒こう
としたらここに逆戻りだからな。大人しくしておくんだぞ﹂
﹁へいへい。衛兵のおっちゃんも世話になったな﹂
いわゆる、仮釈放というやつである。
どうも衛兵の彼から伝え聞いた情報によると、俺たちをどう扱う
かというお偉いさんの会議がずいぶんと紛糾しているらしく、長引
きそうなので監視をつけた上で俺たちを家に帰そうということにな
806
ったらしい。
﹁気にすんな。こっちも暇だったからな﹂
オーディーン
彼はそう言うが、血糊の付いた長剣や鎧の手入れ、それに摘んだ
百薬草の換金など、かなりの部分で俺たちの要望に応えてくれた。
俺がそのことを指摘して改めて礼を言うと、彼は兜の面頬を上げ
たままにかりと笑った。
﹁カヌンシル様が現場の俺たちに小遣いを奮発してくれてな。よっ
ぽどその蜂が気に入ったらしい。懐が潤ってこっちもほくほくなの
よ﹂
ブラッドビー
魔血蜂はいま、背嚢の中で休んでもらっている。
紐で結んで肩に留まらせておくだけでも良かったのだが、街を歩
くとなると人目を引いてしまうだろうからだ。
﹁やっほ、ジル。ギルドは今、あなたの噂で持ちきりよ。すっかり
有名人ね﹂
冒険者ギルドの玄関ホールまで戻ってくると、ディノ青年の恋人
であるミリアムが俺たちを待っていた。
﹁お、ミリアムじゃん。飼ってる犬は元気か?﹂
﹁ええ。しっかりブラッシングしてあげてるもの。逃げ出さないよ
うにしっかり首輪も付けてあるし﹂
ははは、と俺は乾いた笑いで返す。
807
言うまでもないことだが、飼ってる犬とはディノ青年のことであ
る。
対外的にはディノ青年は逃亡者であり失踪者なので、公の場では
その単語を出さないのは暗黙の了解であった。話題に出したいとき
は、ミリアムの飼っている犬という形で話すことになっている。
犬扱いされているディノ青年が哀れではあるが、状況的にも性癖
としてもぴったり合致していてそれ以外の良い表現を思いつかない。
なお、恋人を犬呼ばわりしてくれと言い出したのはミリアムである。
悪さをしたらお仕置きが必要よね、などと嘯くミリアムと対象的
に、淡々と境遇を受け入れるディノ青年の諦観した表情が思い出さ
れた。首輪を付けている、といった言葉が比喩であることを祈ろう。
﹁話したいことがあるから、後で宿に顔を出すわ。鯨の胃袋亭だっ
たわね﹂
﹁ん、了解だ。会議の結果がはっきり出るまで、遠出や迷宮入りは
控えてくれって言われてるし、予定は特にないからいつでもいいぞ。
ああ、でも俺には監視が付くらしいんだ。犯罪者候補の家に顔を出
すのはまずくないか?﹂
﹁出世に響こうと顔を出すつもりではいたけれど、今回は監視役に
選ばれたのが知人だから問題ないわ。ギルドとしてもそこまで本腰
を入れて警戒してるわけじゃないし、内緒にしてって頼める程度の
知人ではあるの。それじゃ、後でね﹂
ひらひらと手を振ってミリアムが去ってしまったので、俺たちも
家路に就くべく歩き始める。噂になっているのは本当のことのよう
808
で、あちこちから好奇の視線が飛んでくるのを感じた。
犯罪者に対する蔑視とか、嫌悪の念みたいなものはさほど感じな
いので、単純に物珍しいというか、あれが渦中の人物か、といった
程度の好奇心からの注目なのだろう。
﹁よお、有名人。パクられたって聞いてたがよ、その感じじゃ無罪
放免か?﹂
ミリアムの仕事が終わる時間まで間があったので、俺たちは宿に
戻った後に、武器の整備をすべく普段着のままダグラスの鍛冶屋へ
とやってきた。
﹁んにゃ、今は仮釈放らしい。会議の結果が出てから処遇が決まる
んだってよ。それまでは迷宮入りもなし、監視付けるから大人しく
ダガー
しとけって言われた。そんなことより、ダグラスにまで噂が届いて
バトルアックス
るのか。どれだけ広まってるんだよ﹂
ロングソード
俺の長剣、エマの闘斧、エリーゼの短剣。
それらを鞘から抜き、光に当てて刀身の具合を検分しつつ、ダグ
ラスは種明かしをした。
オヤジ
﹁いやあ、噂で聞いたわけじゃねえんだ。義親父がうちに来てるん
だよ﹂
﹁オヤジってえと︱︱﹂
809
﹁ほい、久々じゃの、ジル。変わりないかと言いたいとこじゃが、
またぞろ賑やかなことになっとるらしいの﹂
店の奥から姿を現したのは、ダグラス嫁の実父でありダグラスの
師でもある、ヴァンダイン翁であった。胸元まで垂れた見事なアゴ
髭を撫でながら柔和な笑顔を浮かべている。
﹁ジルは知らんじゃろうが、お前さんが衛兵にとっ捕まった後、姫
をなだめるのに苦労したんじゃぞ? 一時期は制限外して冒険者ギ
ルドを物理的に吹っ飛ばそうとしとったからな﹂
﹁お、おう。ご迷惑おかけしました?﹂ 疑問系なのは、果たしてそれが俺の責任なのか疑わしかったから
である。
チェルージュに返した加護は、俺が死に瀕したときに彼女が助け
てくれる部分だけで、未だに俺の瞳を通じてチェルージュに情報は
送られ続けている。
瞳からの情報で俺が憲兵に捕まったことを知り、弱体化の腕輪を
外して全力の魔法をぶっ放そうとするチェルージュの姿が目に見え
るようだ。
﹁いやあ、慌てるボーヴォなんて久々に見たわい。ええもん見た﹂
からからと笑うヴァンダインと、苦笑いで返す俺である。
﹁そういや、グランマの旦那に会うたらしいの?﹂
810
﹁へ?﹂
突然の話題の切り替えと、その内容に頭の理解が追いつかなかっ
た。
グランマというと、湖で料理を奢ってくれたあのグランマだよな。
﹁そうか、繋がりはお互い知らなんだのか。魔法ギルドのカヌンシ
ルはグランマの旦那じゃよ。昔から頑固な男での、魔法の研究に生
涯を捧げておったんだが、若いころのグランマの色香に迷っての。
一時期は研究を捨てようともしたらしいが、男の仕事の邪魔になり
たくないと言ってグランマが身を引いたんじゃ。籍は入れとらんが、
その後もちょくちょく身の回りの世話をしてやっとったはずじゃな。
いわば通い妻じゃ。それがもう三十年にもなる﹂
﹁へええええ﹂
俺だけではなく、後ろに控えていたエマたちも深く驚いていた。
特にエマとエミリアはグランマの信奉者でもあるので、驚きもひ
としおだったようである。
﹁姫をなだめたグランマがカヌンシルの坊やに口聞きをしにいった
はずじゃから、まあお前さんの身の上も悪いようには転ばなかろ。
あの坊や、本気を出したときはすごいでな﹂
初老に差し掛かった魔法ギルドのマスターを坊や呼ばわりするヴ
ァンダイン翁である。毎度のことながら、ボーヴォハウスの住人は
スケールが大きすぎて感覚が麻痺する。
﹁まあ、果報は寝て待てと言うし、しばらくは嬢ちゃんらと遊んで
暇を潰すことじゃな。迷宮にも行けないし、暇は有り余っとるじゃ
811
ろ? ここらで姫以外の女も構ってやらんと臍を曲げるぞい﹂
そうするよ、と苦笑する俺の横で、武器の検分を終わらせたダグ
ラスが目を輝かせる。
﹁競争は煽った方が面白いしな﹂
﹁そういうことよ。姫はもともと有利な立場なんじゃ、独走されて
も詰まらんからのう。平等に肩入れして焚きつけんとな﹂
だっひゃっひゃと笑い合う義理の親子であった。
外出予定が出来たからかエマは目を輝かせ、エミリアは照れてい
るのか頬を染めている。エリーゼに関しては短剣を取り出そうとし
て、修理のために預けていることを思い出して舌打ちをしていた。
﹁諦めろ。二人揃ってしまうとこいつらは無敵だ﹂
ダグラスはしばしば嫁と義理の父からシバかれているからいいと
しても、ヴァンダイン翁の地位が安定しすぎていて彼に痛い目を見
せられる人物がいない。唯一グランマが釘をさせるようだが、痛い
目には程遠いだろう。
とん
﹁あんた。お父﹂
手の付けられなさに半ば諦めていた俺だったが、救世主は店の奥
から現れた。
ダグラスの嫁、ヴァンダイン翁の実娘である。
彼女の呼びかけに、げらげらと笑っていた二人はぴたりと動きを
止めた。
812
二人してだらだらと脂汗をかきはじめる。
﹁人様の恋路に茶々入れるようなのがあたしの家族だったとは︱︱﹂
﹁いや、違うんだお前﹂
﹁これはの、中々進展しないもどかしい仲の男女にきっかけを与え
ているというかの﹂
バゴォン、といつの間にか手にしていた鈍器でカウンターの机を
殴打するダグラス嫁である。
﹁言い訳無用。あんた、一ヶ月お触り禁止。もちろん夜もだよ。お
父、一ヶ月出入り禁止。晩酌は一人でしなさい﹂
途端に慌てふためく男性陣を尻目に、俺たちはそっと武器を回収
して店を後にした。
店を出るときに、救いの女神に敬礼をすることを俺とエリーゼは
忘れなかった。
用意しておいた紅茶と焼き菓子を中心に、俺たち四人とミリアム
は机を囲んでいた。ありがと、と礼を言い、ミリアムは陶器のカッ
813
プを手に喉を湿らせる。
﹁かなり、ややこしいことになってるのよ。ジル、あなたの一件で﹂
﹁ふむ? 魔血蜂を連れて帰ったことが、そんなに大問題だったの
か?﹂
﹁それもなくはないけど︱︱それをきっかけにして、別の火種が燃
え上がった、というか﹂
俺とエマたちは顔を見合わせる。昼にヴァンダイン翁からカヌン
シル氏のことを聞き、いくらか楽観していたところでもあったので、
ミリアムの情報は俺たちにとっては意外であった。
﹁冒険者ギルドのマスターが、各ギルドの代表から選ばれるって話
は知ってるわね?﹂
俺は頷いた。戦士ギルドや宿屋ギルドなど、各部門の公的なギル
ドのマスターが集まり、最多得票数で推された人物が冒険者ギルド
のマスター、いわば国家元首に就任するのだ。
﹁建前としては、冒険者ギルドのマスターになれたからといって、
出身ギルドだけを優遇してはいけないってことにはなってるんだけ
ど︱︱政治の世界だから、実際はそういうわけにも行かないの。冒
険者ギルドのマスターになるために、仲の良いギルドのマスターに
投票を頼み込んで、その見返りに何かしらの便宜を図ったりとか、
ね。結果として、派閥みたいなものが出来上がるってわけ﹂
﹁ほうほう﹂
814
政治の世界なぞ自分には無縁だと思っていたので、ほとんど初め
て聞く情報ばかりである。
﹁ある程度利害が一致するギルド同士で派閥を組むから、いまは大
まかに分けて三つの派閥があるわ。戦士ギルドや魔法ギルド、宿屋、
酒場ギルドなんかの、迷宮探索に直結する、いわば戦闘系の派閥。
これが主流派よ。現在の冒険者ギルドマスターであるアークノーラ
は戦士ギルド出身だからここに入るわね﹂
エール
俺は相槌を打ちつつ、カップを手にして紅茶を啜る。
晩飯どきではあったので普段は麦酒を呷っている時間だったが、
冒険で疲れているわけでもないので今日は飲酒はお休みであった。
﹁その主流派である戦闘系の派閥と対立しているのが、生産系の派
閥ね。商業ギルドを中心として、鍛冶、木工、細工、仕立屋ギルド
なんかが属してるわ。最後の三つ目が、どちらにも属さない中立の
派閥。吟遊詩人や盗賊ギルドなんかはここね。伝統的にこの派閥だ
けは中立を保っていて、今回の騒動にも関わってないから割愛する
わね﹂
﹁だいたいの背後関係はわかったが、それが俺とどう関係してくる
んだ?﹂
﹁もともとね、戦闘系の派閥と生産系の派閥は仲が悪いのよ。それ
ぞれの派閥から
冒険者ギルドマスターが輩出されたら、自派閥のギルドが有利にな
るよう便宜を図るのが常なんだけど、その利害が一致しないから。
例えば生産系の派閥から冒険者ギルドマスターが出たときは、迷宮
素材の買取価格を下げて、生産職の人たちの生活が楽になるような
決まりが出来たわ。もちろんその分、迷宮に潜る冒険者や、それに
815
関わる兵士たちの収入が減るから、戦闘系の派閥はいい顔をしない。
ここ最近は、長いこと戦闘系の派閥が主流派だったから、生産系の
派閥は割を食ってたんだけど︱︱ジル、あなたの一件が原因で、そ
の主流派である戦闘系の派閥が割れたのよ﹂
﹁俺が原因で?﹂
﹁そう。現冒険者ギルドマスターのアークノーラは、どちらかとい
うとあなたに非好意的でね。不要な混乱を招きかねないから、規則
は規則として、蜂とあなたを処分すべきだって意見だったんだけど、
魔法ギルドマスターのカヌンシルさんが強硬に反対したの。それも、
どんな代替案も飲まないってぐらい、頑なにね﹂ 俺は、カヌンシル氏の彫りの深い顔立ちを思い出す。
一見するとただの変人だが、こと魔法の発展ということに関して
は、一歩も退かぬ頑固者であろうことは、容易に想像できた。
﹁もともと、カヌンシルさんは人望のある人なのよ。頑固だし融通
ヘリオストーン
はきかないし研究キチだけど、街の発展に繋がることでもあるから
セレニアストーン
ね。あの人の発明品がこの街にもたらした恩恵は大きいわ。炎帝石
や氷姫石は使ったことある? あれも彼の発明よ﹂
﹁へえ﹂
自分で使ったことはないが、ギルド﹁アウェイクム﹂のシグルド
が俺を助けるために炎帝石を使ってくれたことを思い出す。投げつ
けた場所で小規模の爆発を起こす便利な石だ。
﹁話を戻すわね。カヌンシルさんが政治に口を出すことは少ないん
だけど、いざ口を開くと発言力はかなり重いのよ。その人望厚いカ
816
ヌンシルさんとは対照的に、アークノーラは清濁合わせ飲む政治家
気質。今回の件は、いつもならアークノーラが折れてジルは無事解
放、となるはずだったんだけど︱︱珍しく、アークノーラが抵抗し
たのよ。何か事情があったのか、あなたを処分したくてしょうがな
いみたい。
ジル、あなたアークノーラと何か因縁でもある?﹂ ﹁俺を?﹂
お偉いさんに睨まれる節が思い当たらないので、俺は本気で首を
傾げる。
﹁ないの? それはちょっと意外だった。あそこまで抵抗するなら、
それなりの理由があると思ってたんだけど﹂
﹁というか、見てきたことのように話すんだな。それにさっきから
カヌンシルと違ってアークノーラが呼び捨てだが、嫌いなのか?﹂
はっきりと眉間に皺を寄せてミリアムは吐き捨てた。
﹁嫌いよ。清濁合わせ飲むってさっき言ったけど、好意的な表現を
してそれだから。立ち回りが上手くて保身に長けてるんだけど、裏
では結構あくどいことをやってるはずよ。あいつにとって邪魔なギ
ルドのマスターが不審死したことがあって、騒動になりかけたこと
もある。しかも実行犯がまだ捕まってないのよ﹂
﹁なんだそりゃ。暗殺ってことか?﹂
﹁あくまで噂だけど、そうなんじゃないかとは言われてるわ。いつ
もの私ならただの噂なんか笑い飛ばすんだけど、実行犯を探す捜査
817
に自分の息のかかった人間をねじ込んできたり、つじつまの合わな
い書類が出てきたりしたから、アークノーラならやりかねないって
みんな思ってる。率直に言って、自分の息がかかった人間に暗殺を
実行させて証拠は握りつぶしたんじゃないかってね。そのあたりの
裏の顔に触れようとしたギルド職員は別の部署へ異動させられたり
してて、実際は恐怖政治に近いのよ。だから私はアークノーラが嫌
い﹂
﹁なんというか、冒険者ギルドの中身がそんなことになってるとは
なあ。お偉いさんと選良が集まるお役所ぐらいにしか思ってなかっ
たが﹂
紅茶を啜りつつ、俺は感想を漏らした。すまじきものは宮仕えと
いうが、成功者の集まりのように見えた冒険者ギルドも一皮剥けば
ドロドロとしているらしい。
呆れたようにミリアムが肩をすくめた。
﹁暢気ねえ。渦中の人物だっていうのに﹂
﹁焦ってもしょうがないからな、果報は寝て待てって人から言われ
たばかりだし﹂
俺が一つ伸びをしたところで、部屋の入り口がコンコンとノック
される。
自室でもある大部屋にエマたち三人とミリアムが揃っているので、
部外者の訪問ということになる。
﹁はいよ?﹂
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返事をしつつ、俺はドアの鍵を開けた。一応、内緒話ではあった
ので、鍵をかけておいたのだ。
﹁ええと、どちら様で?﹂
ドアの外には、見慣れない若い男性が立っていた。若いといって
も、三十半ばぐらいだろうか。目立たないように顔を隠すローブを
着込んでいる。
﹁フレディ? どうしたの?﹂
意外なことに、訪問者はミリアムの知人であるようだった。
椅子から立ち上がり、ミリアムは俺たちのところまで歩いてくる。
﹁ああ、紹介しておくわ。彼がジルの監視役のフレディよ。本当は
監視対象とは接触しちゃダメなんだけど︱︱そんなあなたが顔を出
すなんて、何かあったの?﹂
﹁任務が終わったんでな、ミリアムに早いところ教えておこうかと
思った。ちょっとした政変が起きたぞ﹂
﹁政変? それに任務が終わったって、ジルの監視任務が?﹂
太く低く渋い声のフレディ氏の声に、俺とミリアムは首を傾げる。
﹁ああ︱︱魔法ギルドのカヌンシルが、生産系の派閥に寝返った。
その場で冒険者ギルドマスターの解任と就任劇が起きたらしい。カ
ヌンシルが冒険者ギルドマスターになった﹂
819
第四十八話 訪問
﹁こういう場合は、何と言えばいいのだろうか。おじさん、ちょっ
とハッスルしちゃった、で良いのかな﹂
謹厳そのものを体現したかのような、への字に固く結ばれた岩の
ような唇で、新冒険者ギルドマスター、人類の最高権力者であると
ころのカヌンシル氏はそう語った。
とっさに顔を背け、音を立てて口元を抑えたのはミリアムである。
面白かったらしい。俺としてはそんな台詞を言うような人物だと思
っていなかったので、呆気に取られてしまった。
﹁む、面白くなかったか。フィオリナからは、冗談の一つも言える
ようになりなさいとしばしば叱られていてな。人の上に立つように
なったのが良い機会だから試してみようかと思ったのだが、失敗か﹂
にこりともせずに冗談を言われても、笑って良いところなのか判
断に苦しむところだと思う。そう告げると、ようやくカヌンシル氏
は表情を崩して苦笑した。
﹁もしかして、フィオリナさんというのは﹂
思い当たる節があったので、俺は彼に尋ねてみた。名前の響きか
らして女性名である。
﹁おや、旧知だと聞いたが︱︱? そうか、愛称の方が通りがいい
のか。グランマのことだ﹂
820
なるほど、と頷く俺たちである。エマたちは俺の後ろに控えて目
を輝かせていた。憧れのグランマが選んだのはどういう男なのかと
興味津々なのだろう。
そういえば、彼女たちはカヌンシルの変人っぷりを直接目の当た
りにしていなかったっけ。
フロンティア
﹁アークノーラも、今回は失敗だったようだな。﹃開拓者﹄ボーヴ
ォ氏にゆかりがあると知っていれば、君を排除しようとせず丁重に
扱うであろうから、私が冒険者ギルドマスターに就くこともなかっ
ただろうに。耳の良いやつらしからぬ成り行きであったな﹂
﹁俺としては、ボーヴォとの繋がりを声高に言いたくはないのです
がね。自分が偉いわけでも何でもないし﹂
﹁ふむ、自立志向が強いのか。結構なことだ﹂
昨晩、俺の監視役であるところのフレディ氏から政変があった旨
の報告を受けた後に、俺の宿、鯨の胃袋亭に一通の書状が届いた。
ブラッドビー
内容は、魔血蜂を連れ帰った一件についての処分を伝えるので、
翌日に冒険者ギルドまで出頭してこいというもので、書状の末尾に
は冒険者ギルドマスターとしてカヌンシルの名前が記されていた。
一字一字丁寧に書き上げる、真面目さが伝わってくる筆跡であった。
その翌日、つまりは今日、俺はエマたちを連れて冒険者ギルドへ
とやってきたというわけである。
案内されたのは冒険者ギルドマスター専用の執務室であった。
玄関ホールなど、雑多な人々が集まる喧騒とはほど遠い、冒険者
821
ギルドの奥にある静謐な区画である。廊下の絨毯や重厚な木材の壁
など、すべてが落ち着いた雰囲気をかもし出していて、その静けさ
を俺たちが乱しているようで何とも尻のすわりが悪い。 ﹁冒険者ギルドマスターへのご就任、おめでとうございます﹂
一歩前に進み出て、カヌンシルに向かってミリアムが一礼した。
なぜこの場にミリアムがいるかというと、なんとカヌンシルのご
指名である。
監視役のフレディ氏から、ミリアムが俺たちと旧知であるとの報
告を受けたカヌンシルが、同席を許可してくれたのだとか。
俺としても、勝手のわからぬ役所の手続きめいたものが必要にな
ってきたときに
頼れる人がいるというのは有難く、そんな俺へカヌンシルが配慮し
てくれたのかもしれない。
﹁私としては、めでたくはないな。人の上に立つなどというのは、
私には荷が重い。研究の時間も取れなくなるしな。今回の一件の後
始末を終えたら、誰かに譲ろうと思っているよ。生産系の各ギルド
に話を通すためにいくらか見返りを確約したのだが、市場を混乱さ
せるのは本意ではないので、そのあたりの調整もしなければならん。
仕事が山積みだ﹂
ミリアムがしきりと頷いているが、政治に関しては俺は門外漢で
ある。
この街で暮らし始めて長いわけでもないので、特に暮らしぶりへ
の不満があるわけでもなし。
822
﹁本題を片付けてしまおうか。冒険者番号212844、ジル・パ
ウエル君﹂
俺は背筋を伸ばす。ちなみに冒険者番号というのは、血の紋章に
記載されている番号のことだ。正式な場所では、この番号が俺のこ
とを表すらしい。
テイム
﹁貴重な研究材料である、調教に成功した可能性のある魔血蜂の個
体を
迷宮から連れ帰ったことを賞し、街への多大な功績を認め、ここに
記す。本日付け、冒険者ギルドマスター、カヌンシル﹂
何やら、一通の賞状のような紙を手渡された。
見れば、今カヌンシルが読み上げた通りの内容が書かれているだ
けであり、俺は首を傾げる。この紙が一体何だというのだろう。
﹁要するに、冒険者ギルドマスターが良いことだって認めたことの
証明よ。ジルは無罪になるってこと﹂
﹁ああ、なるほど﹂
横から小声でミリアムが耳打ちしてくれたので、俺は納得する。 ﹁うむ、これで良し。一件落着となったところで、例の魔血蜂は今
日は連れてきているのかな?﹂
﹁ええ。今は背嚢の中で寝ているみたいですが﹂
背嚢の中で持ち運ぶことが数回あったせいか、どうも巣だと認識
されてしまったらしく、魔血蜂は寝るときにわざわざ俺の背嚢にも
823
ぐりこむのである。
今朝もまだ寝ていたので、そのまま背嚢ごとここに連れてきてい
た。
誰もいない鯨の胃袋亭に置いていくわけにもいかないし。
﹁あの魔血蜂の処遇についてなのだが、しばし魔法ギルドで研究さ
せてもらうわけにいかないかね? まさかあの蜂を連れて迷宮に潜
ろうとしているわけではないのだろう?﹂
﹁そこが悩みの種なんですよね。生活費を稼がなければならないの
でいつまでもこのままではいられませんし、誰か一人を世話役とし
て蜂と一緒に宿に残しておき、残りの三人で迷宮に潜ろうかと思っ
ていましたが﹂
﹁ふむ。私としては、何らかの事故が起きてその魔血蜂が失われて
しまうのが恐ろしい。どうかね、衣食住の面倒を見るし日当も出す
から、しばし私が研究に使っている館で住み暮らしてくれないかね
?﹂
思ってもいなかった申し出に、俺とエマたちは顔を見合わせる。
﹁いいんじゃない? 生活費の面倒を見てくれるなら、断る理由も
ないでしょう。そもそも庇護された形なんだし、できるだけ言うこ
と聞いておくべきよ﹂
エミリアの一言で、俺は申し出を受け入れることを決めた。
カヌンシルに借りが出来ていると言われてしまえば、確かにその
通りである。
824
﹁では、その通りにさせて頂きます。宿にしばらく外泊する連絡を
入れて、身辺整理を終わらせたら伺いますよ﹂
﹁おお、そうしてくれるかね。場所は後で伝えよう。いやあ、楽し
みだ。じっくりと研究に取り掛かりたいし、これは早いところ雑務
を終わらせねばな﹂
破顔して立ち上がり、机から乗り出してくるカヌンシル氏であっ
た。
﹁おお、忘れるところだった。ジル君、褒賞は何がいいかな?﹂
﹁褒賞、ですか?﹂
﹁うむ。街へ多大な貢献をした者には、冒険者ギルドがそれを賞し、
賞状と記念品を渡す通例があってな。迷宮から魔血蜂を調教状態で
持ち帰り、新たなる発展のきっかけを作ったことに対して、その褒
賞を渡したいのだ。賞状は先ほど渡したので、記念品は何が良いか、
ということだな﹂
記念品と言われても、返答に困る。どんなものを指定できるのか
がわからない。
﹁そうだな、一例を挙げると、ボーヴォ氏には何回も褒賞が出てい
オリハルコン
るが。500,000ゴルド大金貨であったり、最高級の魔石であ
ったり、赤魔鋼の短剣だったりしたな。形式的な褒賞としては賞状
で済ませて、目に見える形での利益として記念品を与える形になる
から、今困っているもの、欲しいものを言ってくれて構わない。可
能な限り意向には沿おう﹂
825
ふむ、やはり率直に欲しいものといえば、金銭であろうか。
奴隷身分からの脱却を目指しているエマたちにとって、金はいく
らあっても困ることはないだろう。
そう思い、では金銭で頂ければ︱︱そう言いかけて、ミリアムの
金髪が視界に入った。まさに天啓であるかのように、突如としてと
ある考えが俺の脳裏にひらめいた。
﹁恩赦を﹂
﹁ん?﹂
研究が出来るという期待に満ち満ちて、カヌンシル氏は謹厳な顔
を崩してにこにこしている。いま、このときぐらいしか、この提案
を受けてもらう機会は来ないのではないだろうか。
﹁殺人罪に問われている、重犯罪者の知人がいます。血の紋章も、
赤色に染まる男です。いまは、衛兵の目を逃れて、隠れ住んでいま
す。その彼の罪を、恩赦によって消して頂くことはできませんか?﹂
﹁ふむ。法を曲げろというのかね? 例えばそう、アークノーラの
ように﹂
いつの間にか、カヌンシル氏の笑顔は消えてしまっていた。
俺が言い出したことの内容を考えれば当たり前ではあるが、交渉
できる限りは交渉したい。
﹁残念ながら、冤罪でもなく、誰かに嵌められたわけでもなく、私
の知人は罪になると知っていながら金銭目当てで殺人を犯しました。
殺した相手は、素行に問題のあった冒険者たちのパーティです。そ
826
れなりに汲める事情がありますが、罪は罪だということは理解して
います。しかし私は、彼に恩義があるのです。私が迷宮に潜り始め
たころ、彼や彼の友人に幾度となく助けられました。二度と罪を犯
させないことを条件に、彼の罪を一度限り、消して頂きたい。それ
が望みです﹂
﹁ふむ。その彼がもしもう一度罪を犯したならば、君も連座して罪
に問われる覚悟はあるかね?﹂
﹁構いません﹂
しばし、口元に手を当ててカヌンシル氏は考え込んだ。
﹁その口ぶりだと、被害者は複数なのかな? 遺族の心情を考える
と、恩赦は出しにくいな。自分がその立場だったらと考えてみたま
え。身内を殺した人間が、のうのうと街を歩いているのだぞ?それ
にお墨付きを与えたギルドを憎く思わんかね?﹂
俺は言葉に詰まった。言われてみれば、その通りである。
深く考えず、衝動的に口に出してしまったが、浅はかだったかも
しれない。
﹁軽犯罪者ならば奴隷労働で済ますところだが、血の紋章も赤色か。
法に照らすと死刑は免れんな。すまんが、その希望は叶えてやれん﹂
﹁いえ、無理を申し出てすみませんでした﹂
ぺこりと頭を下げた俺の横で、ミリアムが意を決したように口を
開いた。
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﹁ギルドマスター。私からもお願い致します。ジルの希望、叶えて
頂けませんか?﹂
目を見開き、驚いた表情のカヌンシル氏である。
﹁ミリアム君まで一体どうしたというのか。言っていることがわか
っているのかね?﹂
﹁わかっています。カヌンシル様は、ディノ・クロッソを覚えてい
ますか?﹂
﹁彼か。もちろん覚えているよ。目立たないように振舞ってはいた
が、仕事ぶりに遺漏がない青年だった。所属ギルドこそ違ったもの
の、好印象を持っていたよ︱︱君との間柄も知っている。噂話に疎
い私ですら知っているぐらいだ、誰でも知っていただろう。昨今、
失踪したと聞いていたのだが?﹂
﹁ジルが恩赦を願い出た犯罪者とディノは、旧知でした。犯した罪
の片棒を担いで、ディノはこの街にいられなくなったのです。恩赦
は、間接的にディノをも救うことになります。恩赦を頂けたなら、
私の実家も再犯の防止に尽力致しますので、ご再考願えませんか?﹂
﹁君の実家といえば、豪商のサジバン家であったか。父君は、一代
で富を築いた英傑であったな。ふむ、つまり恩赦の暁にはサジバン
家からの支持を得られると﹂
しばし、カヌンシルは瞑目して考え込んだ。
ミリアムが良いところの娘だというのは聞いていたが、大きな商
家の娘だったというのは初耳である。
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やがて、カヌンシルは閉じていた瞼を開いた。口元をぎゅっと結
んだ、頑固な男の顔である。
﹁駄目だ。利害を気にして法を曲げることがあってはならん。今の
私は、人類の範たるべき立場にあるが、例えそうでなかったとして
も同じ結論を出しただろう。斟酌すべき事情があろうと、罪は罪と
して罰せられるべきである。さもなくば、道徳は失われるであろう﹂
一度結論を出したカヌンシルの顔は強固な意志を湛えていて、い
かなる説得も通じそうに見えない。
﹁君たちの話を聞いたからといって、わざわざ捜索の手を増やそう
とは思わぬ。それはジル君に与える予定だった、本人の希望に沿う
という褒賞にそぐわぬからだ。
しかし、恩赦もまた、与えぬ。例えそのせいでジル君が翻意して魔
血蜂の供出を拒もうと、あるいはサジバン家の不興を買おうと、最
悪の場合、ボーヴォ氏が街に弓引くことになろうとも、結論は変え
ぬ。特に前者は狂おしいほどに心残りがあるがね。だが、欲望や権
力に負けて通らぬ筋を通しては、アークノーラと変わらぬではない
か?﹂
﹁出過ぎたことを申しました。お忘れ頂ければ幸いです﹂
一歩下がって、ミリアムは頭を下げた。
﹁すまんな。頑固だという自覚はあるのだが、私はそうやって生き
てきた。君たちの提案を受ければ、八方丸く収まるのかもしれんが、
私には飲めん。許せ﹂
829
﹁いえ、ご立派だと思います。カヌンシル様こそ、やはり冒険者ギ
ルドマスターに
相応しい方だと再認識しました﹂
﹁俺としても︱︱ああいや、失礼しました。私としても、恩赦が通
らなかったからといって魔血蜂を引っ込めるとか、そういうことは
しないんで。忘れて頂けると幸いです﹂
﹁それは嬉しい﹂
途端に、きらきらと星が飛ぶほどの笑顔を見せるカヌンシル氏で
あった。
その部分だけ見ればまるで子供のようである。
﹁ジル君の褒賞は、大金貨で渡すとしよう。それで良いかね?﹂
﹁構いません。魔血蜂を連れて、屋敷には後ほど伺います﹂
﹁うむ。それでは、二人とも下がって良い。私の研究施設の場所は、
後で職員から説明させよう。褒賞もそのときに受け取るといい﹂
二人して一礼した後に部屋を出ると、外には案内役の職員がすで
に待機していた。これから別室に移り、記念品の授与などを済ませ
るらしい。
職員の先導で長い廊下を黙々と歩いていた俺に、エミリアがそっ
と耳打ちした。
﹁帰ったら、詳しく話してもらうからね﹂
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彼女たちには、ディノとキリヒトを匿った一連の出来事を伝えて
いなかったのである。俺がいきなり恩赦などと言い出したので、寝
耳に水といったところだろう。 この街の法には、偽証という概念がある。
例えば、ディノ青年には現状、犯罪歴が付いていない。血の紋章
を確認しても、未だに犯罪歴は0と表示されるだろう。キリヒトか
ら物品を受け取り、市場で売ったという行為のどこに犯罪性があっ
たのか、現時点ではうやむやだから血の紋章も反応しないのだ。
しかし、公的な立場の人物︱︱冒険者ギルドの職員なり衛兵なり
から、犯罪者と知りつつキリヒトの片棒を担いだのか、と訊ねられ
てしまった場合、知っていたと答えれば殺人幇助の罪になるし、知
らなかったと答えれば偽証の罪に問われ、犯罪歴がカウントされて
しまう。ディノ青年が姿をくらましている最も大きな理由の一つが
それだ。 これはエマたちにも当てはまる。
彼女たちにすべてを教えておくことは簡単だが、その場合、公的
機関の人間から事情を聞かれた場合、彼女たちが洗いざらい話さな
ければ犯罪になってしまうのだ。
なので、巻き込まずに済むなら事情は教えずに黙っていようかと
思っていたが、俺の考えが甘かったようである。
﹁いらっしゃい。良く来てくれたわ。入って頂戴、お茶を淹れるわ
ね。ジル君は麦酒の方が良かったかしら?﹂
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﹁なんで、グランマがここに?﹂
街の中心部にひしめく公的機関、そのうちの一つである魔法ギル
ドの裏手に建てられた研究施設を兼ねたカヌンシルの別荘は中々に
大きな建物だった。
俺たちが案内されたのは、その別荘の横に建てられた、こじんま
りとしたカヌンシルの家である。小さなカヌンシルの家と、大きな
研究施設兼別荘は隣り合わせに建っていて、両者の密着具合、距離
からすればもはや別荘ではなく離れや別宅と呼んだ方が良いかもし
れない。
﹁自分だけでは気詰まりだろうから、話し相手になってくれって頼
まれたの。あなたたちが来るからって、わざわざ私を呼んだのよ。
食事だって、普段の彼はお腹に入ればいいって感じでろくなものを
食べてないんだけど、あなたたちが来るなら
そういうわけにもいかないって思ったんでしょうね。あの人は不器
用だし鈍いんだけど、そういう気配りができないわけじゃないの。
悪く思わないで頂戴ね﹂ 先に、カヌンシルの私的な家の方へと案内された俺たちを出迎え
てくれたのはグランマであった。いつも通りの柔和な微笑をたたえ、
落ち着いた品のある仕種で俺たちをもてなしてくれる。
﹁私、お二人の馴れ初めを聞きたいです﹂
目を輝かせつつ、丁寧な言葉遣いでグランマに訊ねたのはエミリ
アである。俺には敬語を使わないし、俺と一緒に外へ出たときには
対外的なやり取りは俺に任せて自分は喋らないので、俺にとっては
聞きなれぬエミリアの言葉遣いであった。
832
﹁あらあら。少し気恥ずかしいけれど、いいわ。後でお話ししまし
ょう。でもね、男の人を放っぽって夢中になっちゃ駄目よ。まずは
ジル君の腰を落ち着かせて、彼が手持ち無沙汰にならないように気
を遣ってあげないと﹂
﹁はあい。ごめんねジル、座って頂戴﹂
珍しく毒気のない、花開いたような笑顔で俺に椅子を勧めてくる
エミリアであった。これはこれで違和感があり、何とも尻の据わり
がよろしくない。
それに、グランマの口調が少しエミリアにうつっているような気
もする。
﹁あ、座るといえば、ご注文の品を先に出しておかないと﹂
俺は背嚢の上垂れをめくり、口を縛っていた紐をゆるめて中をご
そごそと漁る。
羽を傷つけないように胴体をわしづかんでそっと背嚢から取り出
すと、魔血蜂は俺の手を離れ、ぶぶぶぶ、と羽音を立てて宙を飛ん
だ。
﹁あらまあ。その子が例の?﹂
﹁ええ。迷宮で会った魔血蜂です。紐で結んでおいた方がいいです
か?﹂
﹁普段はそうしてないのかしら? 聞き分けが良い子ならそのまま
833
で構いませんよ。どれ、ご挨拶をしましょうか﹂
宙に静止しているように見える魔血蜂に、グランマはすっと片手
を差し出した。
初めは手を伸ばし、ややあってから小鳥を泊まらせるかのように
人差し指を曲げる。しばしその様子を眺めていた魔血蜂は、羽ばた
きを抑えると、グランマの指に二本の前肢を引っかけ、ぶら下がっ
た。
﹁あらあら、利口な子。この子にも何か出しましょうね。どんなも
のを食べるのかしら?﹂
﹁たまに生肉の荒挽きも食べますが、基本的には蜂蜜が好物みたい
ですね。水はあまり飲みません﹂
﹁普通の蜂は形のあるものは食べないのだけど、この子は食べるの
ね。そういうことをあの人に聞かせてあげて頂戴、すごく喜ぶと思
うわ。あなたたちが食べるかと思って、魔角牛のお肉を用意してあ
るから、少しおすそ分けしてあげましょう。それと、魔血蜂の集め
た迷宮産の蜜もあげましょうね﹂
俺たちの言葉を理解しているわけではないのだろうが、グランマ
の指に泊まってぶらぶらと揺れている魔血蜂は、どことなく楽しそ
うである。グランマの人徳なのだろうか。
﹁仕事が溜まっていて帰りが遅くなるってあの人は言ってたし、食
事にしてしまいましょう。待つだけだと退屈ですしね。席に着いて
待っていてもらえるかしら?﹂
834
﹁グランマの作る御飯﹂
エマとエミリアの二人が、きらきらと目を輝かせだす。
ちょうど、夜の食事時である。前回作ってもらったのは昼飯であ
ったが、今回は晩飯を作ってくれるらしい。果たしてどんな美食が
出てくるのか、大食漢の俺としても楽しみであった。
輪になって俺たちが座っている円いテーブルの前にグランマが指
を差し出すと、
魔血蜂は机の上に着地した。
四本の後ろ肢で上半身を起こしつつ、二本の前肢を拍手するかの
ように打ち合わせ、魔血蜂はかちかちと大アゴを打ち鳴らした。
普通の蜂なら威嚇行動なのかもしれないが、瞳が赤く染まってい
ないので単純に好奇心からの行動だろう。
︵︱︱こいつ、本当に俺たちの言葉理解してないんだろうな?︶
思わずそう疑ってしまうぐらいに、人間臭さのある仕種であった。
晩餐は、一品ずつ運ばれてくる形態で進んだ。
835
リストランテ
といっても、グランマの紹介で行った高級住宅街の料理屋のよう
に、一品を食べ終えたら次の皿が出てくるのではなく、グランマが
台所に篭もり、出来た料理を熱々のまま次々と運んでくるだけだ。
最初こそグランマが食事を摂る時間がないと遠慮していたのだが、
持て成しとはそういうものですよなどと言われ、促されるままに食
事を始めた結果、いつの間にかくつろいで料理に舌鼓を打つ俺たち
がいた。主人役に気兼ねなく楽しめているのは、グランマの人徳で
あろう。
﹁おう、来ていたか。ゆっくりしていってくれ﹂
家の主であるカヌンシルが帰宅したのは、食事を始めてから一時
間半ほども過ぎたころである。
大き目のカップに、パリパリに焼き色のついた皮が張られたシチ
ューパイを各人が笑顔でつついていたところ、玄関の扉にぶら下が
った小さな鈴の音とともに、外気をまとってカヌンシルは入ってき
た。
﹁お帰りなさい、カヌンシル。先に始めていたわ﹂
﹁ただいま、フィオリナ。みな、良く来てくれた。私のことは気に
せず、くつろいでくれ﹂
冒険者ギルドの制服であるローブには、魔法ギルドの所属を表す
魔石の形ではなく、冒険者ギルドの象徴である炎帝をかたどったネ
ックレスが光っている。
グランマに上着を預け、カヌンシルは家の奥へと一度消えた。着
替えてくるのだろう。
836
﹁今のやり取りを見てると、やっぱり夫婦よね﹂
﹁ねー﹂
俺の横では、エマとエミリアがひそひそ声で含み笑いをしていた。
円テーブルの中央では、小さな皿に盛られた魔角牛の生肉の細切
れと蜂蜜を、これでもかというほどの勢いで魔血蜂ががっついてい
る。
こうして間近で見ると、液体状の蜂蜜を食べるときは口から伸び
た細い管で、固形物を食べるときは大アゴで口の中に押し込んで咀
嚼しているのがわかる。
﹁うむ、おお、これはなんと。魔血蜂まで同席して食事をしている
とは﹂
去り際に、魔血蜂にちらと見た瞳が輝いていたのは見間違えでは
なかったらしい。
扉越しの奥の部屋から、どすどすと慌てたような物音が聞こえて
きたかと思うと、一分もしないうちに私服姿のカヌンシルが戻って
きた。
地味な土色のシャツと短パンだけの、本当に楽な格好である。
薄く開いている扉の奥には、カヌンシルが脱ぎ散らかしたギルド
ローブが床でへたっていた。
﹁みっともないですよ、カヌンシル。研究熱心も結構ですが、お客
様なのですから。大事な冒険者ギルドマスターのローブなのでしょ
837
う?﹂
﹁む、すまんすまん。ギルドではしっかりと外面を作っているから
勘弁してくれ。家の中でぐらいはな︱︱おお、なんと肉を食うのか。
ということは、普通の蜂と違って歯があるのか? 固形物を消化で
きる胃腸器官を持っているということだな?
フィオリナはこの蜂とは初対面だったな、最初から友好的だったか
? ふむ。なるほど、フィオリナが襲われなかったということはジ
ル君たちに懐いただけでなく、人間を敵視していないのだな。とい
うことは、社会性を認識しているということか。ジル君を群れの主、
いわば女王蜂だと認識しているのか? 他の魔血蜂、あるいは人間
から敵対行動を取られたときに反撃をするのかしないのか︱︱?﹂ 椅子に座りもせず、食卓に乗り出して魔血蜂をじっと観察するカ
ヌンシルであった。
見られている魔血蜂はというと、当初こそ黙殺していたようだが、
目と鼻の先にまでカヌンシルの顔面が近づき、食べていた魔角牛の
肉片を指で突かれるに至り、ブチ切れた。
複眼を真っ赤に染め上げ、一際強いぶぶぶぶという羽音を立てな
がら宙を飛びつつ、ガチガチとアゴを打ち鳴らす本気の威嚇をカヌ
ンシルに向ける魔血蜂であった。
﹁カヌンシル、失礼でしょう。この子だってお客様なのですから、
ちゃんとそう扱ってあげないと。この子が怒るのも当たり前ですわ。
うちの人がごめんなさいね、おいでなさいな﹂
ゆっくりと円を描くように宙を飛んでいた魔血蜂は、差し出され
たグランマの手首へと降り立った。そのままわしわしとグランマの
右腕を六本の肢で登り、細い肩にしがみつく。
838
いつの間にか瞳は黒に戻っていて、グランマの肩で羽を休めなが
ら、失礼しちゃうわと言わんばかりにじっとカヌンシルの方を見つ
める魔血蜂であった。
﹁︱︱意思の疎通が取れるのか!?﹂
満天の星空よろしく瞳を輝かせ、さらに魔血蜂に近づこうとした
カヌンシルに、鋭い叱咤が飛んだ。
﹁やめなさい、カヌンシル。あまり聞き分けがないようなら、この
子は連れて帰るわよ?﹂
﹁そ、そんな﹂
諾意を表したのか、ぱたぱたと一瞬だけ羽を振った魔血蜂に両手
を伸ばしかけて、グランマの冷たい視線という見えない壁に遮られ
て泣きそうな顔になるカヌンシルであった。 ﹁ううん、見事なる旦那の操縦術。私も見習わないと﹂
﹁気にするところ、そこ!?﹂
感じ入ったと言わんばかりのエミリアの呟きに、俺は思わず突っ
込みを入れる。人となりを初めて知るのであれば、カヌンシルの変
人っぷりか、魔血蜂とグランマのやり取りに注目しそうなものだが。
﹁いえ、ご主人様の感性で合ってます。大丈夫です﹂
ここのところすっかり影の薄いエリーゼに耳打ちされ、俺は安堵
839
した。
グランマ信奉者ではないエリーゼは、常識を判断するための物差
しとして非常に有用である。
﹁ふむ、しかしここまで落ち着いていてくれるのであれば、特別な
実験などは必要そうにないな。さすがにこの家は狭いし、隣の研究
棟でしばらく寝泊りしてもらおうか。なるべく時間を作って立ち寄
るので、様子を見させてくれればいい。何か変わったことや、魔血
蜂の変化があったら教えてくれ﹂
﹁わかりました。しかし、一人で出歩いて大丈夫なんですか? 失
脚したアークノーラ、あまりいい噂を聞きませんし、身辺警護の若
い人を連れ歩いた方がよくないですか?﹂
﹁ん? 私はいらんと思うのだがな、今も付いておるよ。気配を感
じさせないように、家の外で隠身しつつあちこちにおるのではない
かな。気詰まりなことよ﹂
気配がなかったのでまったく気づかなかった。暗殺対策はばっち
りらしい。
﹁対外的には君らの監視もしなきゃならんのでな、それも兼ねて君
らにも明日から護衛が付く予定だ。狩人ギルドから派遣されてくる
らしいから、誰がその任に当たるかは私も知らないのだがね。視界
に入らないようにしてくれるとは思うので、気にしないでくれると
助かる﹂
﹁わかりました、そういうことなら﹂
﹁お話は終わったかしら? カヌンシルも晩御飯になさいな、温め
840
てきますから﹂
﹁む、頂こう。確かに、これからいつでも魔血蜂には会えるのだし
な。ジル君は酒はいけるかね? 研究棟の宿舎の準備はさせておく
から、一杯どうかな?﹂
﹁お近づきのしるしに、ってやつですかね。頂きましょうか﹂
﹁うむ、ありがたい。自分で言うのも何だが、一つのことが気にな
ると他に何も目に入らなくなるたちでな。友人が少ないのだ。誰か
と飲むのは久しぶりだよ﹂
こうして人類の代表である冒険者ギルドマスターと笑い合うのは
不思議な気分がしなくもなかったが、何はともあれ、それなりの付
き合いになりそうなカヌンシルと上手くやっていけそうなのは僥倖
である。
﹁ジル君は、カヌンシルと同じでお酒に合う料理に変えましょうか
ね。女の子たちはまだ食べられるかしら? いまお肉を焼いて持っ
てきますからね﹂ はーい、と声を揃える三人娘であった。
グランマの人徳のおかげか、みなくつろげているようで何よりで
ある。
841
第四十九話 確認
﹁俺たちも、まあまあ強くなったなあ﹂
迷宮の中層にて、素材を採取しつつ次の魔物の湧き待ちをしてい
る最中、俺はぽつりと呟いた。手には、起動させた血の紋章に俺自
身のステータスが表示されている。
﹁中層の浅いところなら、もう危なげなく狩れますもんね﹂
俺と同じように、血の紋章を眺めながらエマが同意を示す。
彼女も板金鎧を着込むことに慣れ、腕力値が上がったことによっ
て闘斧を豪快に振り回せるようになっていた。
﹁今後はどうするの? 同じ中層でも、もっと深部に行くの?﹂
﹁まだ、かなあ。新しい魔物と戦うなら、もっとレベルの余裕が欲
しい。蜂の一件が片付いたら、検討しようって感じかな﹂ その魔血蜂はというと、グランマに懐いたため、カヌンシルの自
宅に置いてきていた。冒険者ギルドマスターとしてのカヌンシルの
仕事が終わって帰宅するまで、グランマとボーヴォハウスにでも遊
びに行っているのではなかろうか。
魔血蜂の取り扱いが想像より楽だったため、カヌンシルは俺たち
に行動の自由をくれた。当初の予定では、俺たちがカヌンシルの家
で魔血蜂を見張り、かわりに日当をくれるという話だったのだが、
日中は迷宮で狩りをしていても構わないとのお達しが出たのだ。
842
それでいて本来くれる予定だった日当もくれるという。太っ腹で
ある。
﹁油断厳禁だしうぬぼれるつもりもないけれど、私たちも迷宮に慣
れてきたわね﹂
血の紋章を眺めながら、にまにまとエミリアが笑う。台詞と表情
が一致していない。
レベルが上がったのが嬉しいというよりも、稼ぎが上がるのが嬉
しいのだろう。
﹁私たちも、レベル500を超えましたしね。早いものです﹂
感慨深げなエリーゼに同意して、俺は手元の紋章に目を落とす。
本当に、成長したものだ。
︻名前︼ジル・パウエル
︻年齢︼16
︻所属ギルド︼なし
︻犯罪歴︼0件
︻未済犯罪︼0件
︻レベル︼1031
︻最大MP︼34
843
︻腕力︼37
︻敏捷︼32
︻精神︼34
﹃戦闘術﹄
戦術︵46.2︶
斬術︵41.9︶
刺突術︵36.0︶
格闘術︵20.2︶
﹃探索術﹄
追跡︵17.7︶ 気配探知︵23.3︶
﹃魔術﹄
魔法︵30.9︶
魔法貫通︵22.9︶
マナ回復︵45.5︶
魔法抵抗︵1.2︶ ﹃耐性﹄
痛覚耐性︵23.1︶
毒耐性︵7.0︶
844
︻名前︼エマ
︻年齢︼12
︻所属ギルド︼なし
︻犯罪歴︼0件
︻未済犯罪︼0件
︻レベル︼622
︻最大MP︼14
︻腕力︼29
︻敏捷︼19
︻精神︼14
﹃戦闘術﹄
戦術︵39.7︶
斬術︵38.4︶
刺突術︵16.1︶
格闘術︵9.3︶
﹃探索術﹄
気配探知︵12.2︶
﹃魔術﹄
魔法︵18.6︶
魔法貫通︵11.2︶
マナ回復︵20.6︶
﹃耐性﹄
845
痛覚耐性︵44.2︶
毒耐性︵25.1︶
︻名前︼エリーゼ
︻年齢︼12
︻所属ギルド︼なし
︻犯罪歴︼0件
︻未済犯罪︼0件
︻レベル︼651
︻最大MP︼5
︻腕力︼18
︻敏捷︼28
︻精神︼19
﹃戦闘術﹄
戦術︵40.4︶
斬術︵26.1︶
刺突術︵34.1︶
弓術︵5.3︶
846
格闘術︵18.9︶
﹃探索術﹄
隠身︵25.3︶
開錠︵21.5︶ 罠探知︵20.2︶
罠解除︵20.1︶
窃盗︵23.2︶
追跡︵27.3︶
気配探知︵28.1︶
﹃魔術﹄
魔法︵19.4︶
魔法貫通︵12.2︶
マナ回復︵21.8︶
﹃耐性﹄
痛覚耐性︵15.8︶
毒耐性︵11.6︶
︻名前︼エミリア
︻年齢︼11
︻所属ギルド︼なし
︻犯罪歴︼0件
︻未済犯罪︼0件
847
︻レベル︼579
︻最大MP︼8
︻腕力︼14
︻敏捷︼16
︻精神︼27
﹃戦闘術﹄
戦術︵7.9︶
格闘術︵7.1︶
﹃探索術﹄
気配探知︵11.9︶
﹃魔術﹄
魔法︵35.2︶
魔法貫通︵28.1︶
マナ回復︵38.7︶
﹃耐性﹄
痛覚耐性︵21.1︶
毒耐性︵14.3︶
﹁エミリアには、もう魔法スキルは抜かれちまったなあ﹂
﹁そりゃあ、私はジルと違って魔法メインで戦ってるもの。むしろ
848
未だにマナ回復スキルが抜けてないのが悔しいわね。全自動でスキ
ルが上げれた加護が羨ましいわ﹂
お互いの血の紋章を見比べつつ俺が感想を漏らすと、エミリアが
胸を張った。成長期なのか、布鎧の胸元が初めて会った頃よりも膨
らみを帯びている気がして、
思わず俺は目を逸らす。
﹁中層のパーティの中でも、いい線行ってるんじゃないですか、私
たち?﹂
スキルが成長して索敵範囲が伸びたことによって、わざわざ俺た
ちから離れて警戒しなくても良くなったエリーゼが、俺たちと同じ
ように血の紋章を眺めながら口元を綻ばせる。
﹁ああ、いい調子だと思うよ。中層パーティの中でも、もう新人じ
ゃなくて中堅ぐらいにはなったと思う。ここんとこ、稼ぎも増えて
きたしな﹂
﹁いい調子ね﹂
﹁ね﹂
奴隷身分からの脱却を目指すエマとエミリアが、顔を見合わせて
微笑む。
魔角牛を一体倒すまで狩りをして帰還、それだけで一日の冒険が
終わっていたあの頃と違い、いまは一日に帰還の指輪を数個使うほ
どに稼ぐペースが上がってきている。
﹁っと、来ました﹂
849
短剣に手をかけながら、エリーゼが立ち上がる。索敵に新たな魔
物が引っかかったのだろう。
みな慣れたもので、無言で立ち上がり、武器に手をかけながら走
り出す。
﹁牛だわ。お願いね、エマ﹂
﹁了解!﹂
一足先に森から出て、魔物の様子を確認してきたエリーゼの報告
に反応してエマが駆けていく。板金鎧を全身にまとってなお、エマ
の足取りは力強い。
﹁っ︱︱せいッ!﹂ 魔角牛の突進を避けつつ、横薙ぎに闘斧の一撃を繰り出すエマで
ある。
すさまじい重量の斧を慣性に頼って振り回していたあの頃とは違
い、今はしっかり武器として扱えている。
闘斧の重み、そしてエマの腕力が乗った一撃の破壊力は凄まじく、
むっちりと筋肉の張った魔角牛の左前脚の根元に、闘斧は深々とめ
り込んだ。
﹁いつもながら、すげえ威力だなあ﹂ お膳立ては整えてくれたので、後は俺の仕事である。
魔角牛の首筋をさっと長剣で切り裂くと、勢い良く鮮血が噴き出
850
した。
返り血がかからないように俺はすでに飛びのいている。
しばしよろめいた後に、魔角牛は地面へと倒れ伏した。戦闘が終
わるまでに、ものの数秒しかかかっていない。
﹁最近のエマの破壊力は、怖いぐらいよね。なんだって斧でぶっ壊
すんだもの﹂
褒められてにへへへ、と笑うエマを横目に、俺は冷静に突っ込む。
ファイアボール
﹁いや、エミリアの火弾も大概だからな?﹂
魔法スキル、魔法貫通スキル、そして基礎能力である精神が成長
したエミリアの魔法の破壊力は、ひどい。以前は異常茸一体をどう
にか一発で仕留められるかといった程度の火力でしかなかったのが、
今では二、三体をまとめて消し飛ばすほどに威力が上がっている。
爆裂音で表現すると、以前はドゴォン、だったのが、今はゴバッ
ギャオン、ぐらいの進化だ。
自分で言っててよくわからないが、とにかくそれぐらいすごい。
思わずビビってしまうぐらいすごい。
かといって、ここのところ日常生活でも影が薄く、天性の狩人っ
ぷりを発揮してきたエリーゼが目立たないのかといえばそんなこと
は決してない。
木から木へと、幹を蹴りながら飛び移ったり、目にも留まらぬ短
剣さばきを披露したりする。
851
この前など、﹁隠し芸です﹂などと微笑みながら、宙に投げ上げ
た林檎が落ちてくるまでに短剣で八つに切り分け、綺麗な盛り付け
になるように皿で受け止めたりしていた。
﹁俺たちも、強くなったなあ﹂
再び、しみじみと呟いてみる。
こういう気分のときにこそ、落とし穴というものは行く手に広が
っているものだが︱︱端的に言って、俺たちは自信を付けていた。
もはや全体から見ても、いや、中層の冒険者としても、駆け出し
ではない。
ベテランかつ凄腕であるとまでは自惚れていないが、いっぱしの
冒険者をそろそろ名乗っても良いころだと思う。
慢心は油断を招くが、ほど良い自信は動きにキレと色艶を与える。
最近の俺たちのパーティは、最低限のやり取りだけで意思疎通が
でき、あるいは何も言わなくても他人のフォローに回れるほどに連
携がこなれてきて、各人の強み︱︱例えばエマなら一撃の破壊力や
身のこなし、エミリアなら魔法の火力、エリーゼなら索敵範囲と短
剣さばき︱︱にも磨きがかかってきた。
思うような動きができると、戦果が上がって稼ぎが増える。そう
すれば装備も少しずつ良い物に変えていける、そうすればもっと強
くなれる︱︱いわゆる好循環である。今の俺たちは、非常に良い状
態であった。
﹁半年よ﹂
852
とエミリアは言っていた。
彼女は半年で、2,000,000ゴルドを溜め、自分とエマを
奴隷階級から脱却させるつもりでいるのだ。
﹁家賃や食費とかの生活費を抜いて、思わぬ事態のための緊急用の
貯蓄をして、それでも一日10,000ゴルド近いお小遣いを全員
に配れているから︱︱順調にいけば、半年かからずに、私たちはお
金を溜められる。そうしたらジル、その、わかってるわよね﹂
金勘定をしている生き生きとした表情から一転して、頬を染める
エミリアである。
要は、奴隷身分じゃなくなったら女として扱えというか、女にし
ろと言っているのである。
この半年間で覚悟を決めろと言っているのであろうか。
﹁ふう。おいし﹂
エミリアが甘糖珈を啜りながらほっこりとした表情になる。
魔角牛の死体を地上へと持ち帰って売り、ついでに採取した素材
があれば背嚢を空けるべく売り、それから馴染みの喫茶店で一息入
れてから、また迷宮へと潜る。
背嚢に素材を詰めきれなくなるまで狩りをし、地上に戻ったらち
ょっと休憩し、また狩りへ行く。
これを朝から晩までの間に数回繰り返すのが、週末の休日以外の
俺たちの行動パターンになっていた。実に安定した生活である。
853
﹁あらあら、お帰りなさい。いま御飯の準備をしますからね。離れ
でお湯を使いなさいな﹂
そして、これである。
俺を含め、女性陣のテンションを嫌が応にも高めているのが︱︱
グランマの食事であった。
なんと、グランマは毎日俺たちに食事を作ってくれているのであ
る。
本来であれば、迷宮に狩りへと赴くために、朝に魔血蜂をグラン
マに預け、夜に引き取りに来て、俺たちは鯨の胃袋亭へと戻って寝
る。それだけなのだが、それでは味気なかろうとの配慮なのか、蜂
を引き取りに来るときにグランマが晩飯を振舞ってくれるのだ。
恐らくは、俺たちからカヌンシルへの心象を良くするために内助
の功よろしく厚遇してくれているのだろう。ここに来るたびに良い
ことがあるとわかっていれば、魔血蜂を連れてくるのも楽しみにな
るであろうからだ。
実際のところ、俺たちの内心でカヌンシルとグランマへの友好度
の上昇が半端ない。
グランマは人類最高レベルと謳われた料理の腕を揮ってくれるし、
カヌンシルは﹁いつもすまんなあ﹂などと言いながら気前よく小遣
いをぽんとくれるのである。その上、俺たちは毎日自由に狩りに出
ているわけで、何かしらの行動を束縛されているわけでもない。こ
854
れで懐かずにいられようか。
﹁んじゃ、先に行ってくる。早めに出てくるから﹂
さらには、カヌンシルの自宅でもあるこの家の隣、要は研究室と
して使われている建物には、風呂がある。目を100ゴルド銀貨の
ように輝かせながら、風呂代まで浮かせられるなんてとエミリアが
喜んでいたほどで、装飾は乏しいものの、研究室で寝泊りする人々
のために作られているためにそれなりに広い浴槽のある立派な風呂
であった。
普段使っているのが、天井に通されたパイプから湯が出てくるだ
けの殺風景な個室風呂であることを考えると、ここでも俺たちの待
遇は上昇しているといえよう。
なお、風呂に入る順番は、俺が先である。
女性陣を先に入らせようとしたのだが、グランマに止められたの
だ。
いわく、目上を立てるためであるとか、女性の風呂は長いためで
あるとかいう理由らしいが、エマたち三人は素直にはーい、などと
頷いていた。
グランマの指導のおかげか、エマたちは俺を立てるということを
最近になって覚えてきた。 少し尻のあたりがむず痒くあるが、女
性陣から丁重に扱われて悪い気持ちになる男がいるわけもなし、何
くれにつけて俺を優先してくれるとなると、なにやら偉くなったよ
うでつい誇らしい気持ちになってしまう。
男の春とはこういう気分か、と内心にやにやしている俺がいるの
855
だ。
それもこれもグランマによる、男を喜ばせるための女としての接
し方みたいな指導の成果であると考えると、やはりグランマもただ
の料理が上手いだけの女性ではないのだ。侮りがたし、である。
こういった目に見えない部分で規格外なあたり、やはりグランマ
もボーヴォハウスの一員であった。
﹁そうそう、ジル。チェルージュが拗ねていたわ、最近構ってもら
えていないって。休みが合ったときにでも、どこかに連れていって
あげてちょうだい﹂
﹁ああ、そういえばここ最近は、蜂の一件でどたばたしてたからな
あ︱︱明日の休みにどこかへ誘ってみるか﹂
厚手の手袋をはめた手で、底の浅い大皿に盛られた熱々のチーズ
グラタンを台所から持ってきつつ、グランマは話を向けた。
﹁明日はあの子、忙しいはずだわ。カヌンシルにあなたの待遇を良
くしてくれって働きかけたかわり、カヌンシルが知らないはずの魔
法とかをこっそり見せてあげたりしてるの。明日が確かその日だっ
たから﹂
﹁マジか。チェルージュのおかげでもあるのか、この至れり尽くせ
りの毎日﹂
初耳である。 ボーヴォハウスの住人からの援助はなるべく断ろうと思っている
俺であったが、金銭や物ではなく、このように気配りといった形で
表されてしまっては断るに断れないし、何よりとても居心地がいい。
856
チェルージュからの贈り物ということで、有り難く頂いておこう。
﹁だから、明日はチェルージュ、この街にいないの。いくつも森を
超えた先にあるらしい自宅にいるんじゃないかしら﹂
﹁わかりました。それじゃあまあ、再来週の休みにでも、どこかに
行くとしましょう﹂
瞳を通じて、このやり取りもチェルージュに届いているはずだか
ら、こう言っておけばその日を空けておくはずである。
その証拠に、念話の指輪が一瞬光り、﹃了解だよー﹄とチェルー
ジュの声が発せられた。
︵今の俺の状況が、幸せってやつなのかもなあ︶ そう自覚してしまうぐらいに、これ以上望むべくもない、順風満
帆な日々を俺は送っている。
857
第五十話 冒険の終わり
翌朝、休日である。
本来であれば、ゆっくりと冒険の骨休みをし、チェルージュかエ
マたち︱︱今日はチェルージュは外出中でいないのでエマたちの番
だ︱︱をどこかに遊びに連れていこうかという日なのだが、今日に
限っては仕事が入っていた。
昨晩、グランマ、というかカヌンシルの家を出て鯨の胃袋亭、要
するに自宅へと帰ろうとしていた矢先に、その兵士は暗闇から溶け
出すようにぬうっと現れた。
﹁うおっ﹂
あまりに突然の出現であったので、俺もエマたちも驚いて数歩跳
び下がってしまったほどだ。
﹁失礼、驚かせたようで﹂
暗闇から現れたその兵士は、鋲皮鎧を身にまとった、狩人のよう
な姿だった。
今までそんな気配を微塵も感じなかったので、付近に隠身を使っ
て潜んでいたのだろう。
﹁あなた方の護衛を務めている者です。恐縮ですが、冒険者ギルド
から一件、依頼をしたいのです﹂
858
﹁冒険者ギルドから?﹂
カヌンシルから、俺たちに護衛が付くと聞かされていたのでそれ
自体は不思議でも何もないのだが、カヌンシルの自宅で蜂の生態を
研究している俺たちに一体何の用だろうか。
﹁ギルドマスターから、魔血蜂の飼育が順調であると伺っておりま
す。そろそろ、次の段階へ進んで頂こうかと。具体的には、魔血蜂
を連れて明日、開拓村まで行って頂きたいのです。開拓村まで到着
したら、すぐさま戻って来て頂いて構いません。要は、魔血蜂を普
通に外出させても大丈夫かどうかを確かめるために、ちょっとした
散歩をして頂きたいわけですな。民衆の中を歩かせては騒ぎになり
ますので、開拓村へ行って頂くという形の依頼になったわけですが﹂
﹁ああ、そういうことですか。ちょうど休日ですし、構いませんよ﹂
﹁それは有難い。ではそうですね、朝食を摂られましたらすぐに出
発して頂くようにお願い致します。依頼の遂行料は後払いで100,
000ゴルドになります。ジルさんが開拓村に行かれたかどうかは、
後から馬車で私が付いて参りますのでご心配なく。戻られましたら、
依頼代はお届けに参りますので﹂
俺が依頼を受けたことを確認して、鋲皮鎧の彼は一礼し、雑踏の
中へと消えていった。
俺の護衛に戻るか、あるいは冒険者ギルドに依頼が受理された報
告にでも行ったのだろう。
﹁俺たちも戻るか。夜も遅いし﹂
晩飯を頂いた上に、離れの研究棟で風呂代まで浮かせてしまった
859
ので、とっぷりと日は暮れていた。
俺たちは、そのまま寄り道せずに鯨の胃袋亭への帰り道を歩き出
す。
明日は朝起きて飯を食ったら、開拓村へと出かけることになるだ
ろう。
﹁聞いた、ジル? 開拓村に日帰りするだけで100,000ゴル
ドだって。さすがお役所は太っ腹よね﹂
﹁確かにな﹂
すでにゴルドで目を輝かせているエミリアに苦笑しつつ、俺は家
路を歩く。
結果論で言えば、俺はこのとき、依頼を持ってきた俺の護衛だと
いう彼のことをもっと疑うべきだった。
冒険者ギルドからの依頼なのに、カヌンシルから直接言ってこな
かったということに疑念を持つべきだったのだ。
冒険者ギルドマスターであるカヌンシルの与り知らないうちに、
冒険者ギルドの誰かが名指しで俺に依頼を指名してきたということ
になるのだから。
そんなやり取りを前日した翌朝、つまり今日、俺たちはボリュー
ムのある鯨の胃袋亭の朝食を摂り、前日の依頼通り、馬車を借りて
860
街を出た。
依頼の遂行を見届けられなかったので報酬が出ませんとかなった
ら困っていたところだったので、街の関門で例の護衛が待っていて
ほっとした。
﹁私は一つ後ろの馬車で付いていきます。どうぞ、もう出発されて
結構ですよ﹂
会釈をして彼と別れ、俺たちは四人と一匹揃って馬車に乗り込む。
魔血蜂を見られて騒ぎにならないようにという配慮なのか、俺の
背後には護衛の馬車が一台付いているきりで、後続の馬車を一時通
行止めにしてくれたようだ。
細く長い道のりを、見渡す限り二台の馬車だけで、まるで貸切の
ように優雅に進んでいく。
﹁ねえジル、向こうについたらすぐ戻らないといけないのかしら?
余裕があるなら、少し向こうの湖で遊びましょうよ﹂
﹁どうだろうなあ。護衛の人に聞いてみるか。時間がないから迷惑
だって言われたらすぐに戻らにゃならんけど﹂
そんな風にのんびり話しつつ、馬車に揺られること一時間強。
以前、赤の盗賊団と出くわしたあたり、ちょうど街と開拓村の中
間あたりになって、異変は起きた。
﹁ねえジル、あれ︱︱﹂
861
不審なものを見つけたと言わんばかりに、エミリアが眉をひそめ
た。
見れば、馬車の行く手を、大木が塞いでいる。
﹁しまった︱︱戦闘準備﹂
短い号令をかけただけで、弛緩しきっていた俺たち四人の空気は
ぴりっと引き締まる。くつろいでいたエマたちは、武器を手に取り、
片膝を立てて、いつでも馬車の外に飛び出せるように準備していた。
︵気が抜けてたな︶
行く手が、大木で塞がれている。
それはすなわち、ここで賊が待ち構えているということだ。偶然
道を塞ぐように倒木が起きることなど考えにくい。
赤の盗賊団の一件以来、すっかり賊の姿は消えていたと聞いてい
たので、油断していた。
︵残党が、いたのか?︶
いや、と俺は首を横に振った。
ギルド﹁アウェイクム﹂の連中は、念を入れて山狩りをし、残党
員を皆殺しにしたと言っていた。あれ以来、組織だって動ける賊は
いなくなったはずなのだ。
︵どこだ、どこから来る︶
以前、赤の盗賊団に襲われたときには、合図の口笛が事前に聞こ
862
えたものだ。
今回も、俺たちに攻撃をしかける合図がどこかから出るはずなの
だ。
﹁ご主人様、外に出ますか?﹂
﹁いや、まだだ。矢で狙われてるかもしれん。出るとしたら、敵の
近接職が来てからだ。乱戦になれば敵も矢を撃ちにくい。最悪、馬
車の外に俺たちだけで出ないといけなくなったら、林まで脇目も振
らずに走らないといけないが﹂
赤の盗賊団に襲撃されたときは、馬車から慌てて走り出したとこ
ろを狙い撃たれた。俺は何とか避けられたが、魔術師が一人、落命
したのを今でも覚えている。
﹁了解﹂
三人の短い返答が重なる。頼もしい家族たちだ。
︵なぜ来ない? 勘違いなのか? たまたま倒木が起きただけなの
か? いや︱︱︶
俺がそのように、敵の出方を待っていたところ︱︱ 合図は、きた。
863
ただし、後ろの馬車からの、魔法攻撃という形でだ。
炸裂、轟音。
視界が一瞬朱に染まり、次いで真っ黒に染まる。
息が詰まる。
思い切り息を吸い込むと、途端に感じる強烈な異臭に、肺が悲鳴
を上げる。黒煙を吸い込んでしまったのだ。
︵なんだ︱︱?︶
ぐいと腕を引っ張られる感触。見れば、至近距離にエマの顔があ
った。
必死の形相で何やら叫んでいるが、鼓膜がやられたのか、きいん
と響くのみで何も聞こえない。
さらに、黒煙の中から顔が現れる。
顔の半分が血に染まっているが、見間違えようもない、エリーゼ
だ。
エマが、ぐいぐいと俺の腕を引っ張る。火事場の馬鹿力というが、
緊急事態で脳のリミッターが外れているようだ。凄まじい力だった。
元は扉があったであろうあたりを、エマが蹴り空ける。俺はまだ
864
平衡感覚も定まらないまま、エマに引きずられるまま、車外へと転
げ出た。
地面に膝を付いた俺を、お構いなしにエマは引っ張り、走る。半
ば地面を引きずるように。慌てて立ち上がり、俺も何とか、走り出
す。
︵くっ︱︱!︶
矢が、降ってきた。それも、赤の盗賊団のときよりも、さらに鋭
い錐のような矢雨だ。
﹁ぐっ!﹂
顔面回りに飛来してきた矢だけ、とっさに腕で守る。
数本、俺に突き立った。腰、胸、腕、肩のあたりで、銀蛇の皮鎧
を突き破った鏃が焼けるように痛む。エマは、前を走っていたせい
か、あるいは俺への射線を身体を張って防いだのか、俺以上に矢を
食らっていた。全身に十本以上の矢が突き立っている。まるで針鼠
のようだ。
エマの板金鎧ですら貫通する、矢の威力だったようだ。
︵そうだ、エミリアは︱︱!︶
林の中に駆け込んできた俺が真っ先にしたことは、傷ついた身体
を回復薬で癒すことではなく、無腰のエマを守るために腰に吊った
長剣を抜くことでもなく、馬車の中に残してきたエミリアとエリー
ゼの安否を気遣うことだった。
865
エリーゼは意識があったようだが、エミリアがどうなったかは黒
煙の中でわからない。
特にエミリアは魔術師だ。俺たちと違って、鋲すらも打っていな
い、ただの皮鎧しか着ていない。あの爆発の中では、もっとも彼女
がダメージを受けているはずなのだ。
振り向いた俺が見たのは、木々の隙間越しに、俺たちが乗ってい
た馬車から降りてくるエリーゼの姿だった。見れば、肩に何やら人
間を担いでいる。エミリアだった。
︵良かった、二人とも何とか無事か︱︱︶
即死さえしていなければ、回復薬を使って治せばいい。
あとは、ここまで矢の雨をかいくぐってきてくれれば、体勢を建
て直す余裕ができる。
そう、楽観へと意識が傾いたとき、俺の目の前で、馬車が爆ぜた。
ファイアボール
まだ馬車からエリーゼとエミリアが降り切っていないというのに、
後方の馬車から飛んできた火弾が、二人ごと俺たちの乗ってきた馬
車に直撃したのだ。
﹁あ、ああ﹂
一発目の火弾で俺たちの馬車はほとんど半壊状態で、防御力など
はなかった。二発目の火弾は、そんな馬車にぶち込まれた。しかも、
着弾地点、火力の中心点は、あの二人がいた場所あたりだ。
火炎と黒煙に包まれて燃え盛る馬車から、エリーゼたちが走り出
てくることはなかった。
866
﹁ご主人様!﹂
馬車へと向けて駆け出そうとする俺の腕を、エマがぐいと掴んで
引き戻す。
何をする、と振り向いて言いかけた俺の頬を、鉄の平手がしたた
かに張った。
鉄の篭手を装備したエマの張り手は、ほとんど殴りつけたに等し
い威力だった。
﹁冷静に!﹂
顔を近づけ、間近で怒鳴るように話す俺たちの脇を、矢がかすめ
た。
赤の盗賊団と戦ったとき以来聞くことのなかった、背筋を凍らせ
るような風切り音だ。 とっさに近くの茂みへと伏せ隠れた俺は、とりあえず長剣を抜い
た。
﹁エマ、斧は!?﹂
﹁置いてきました! 矢避けになります!﹂
見れば、エマは矢だらけの板金鎧を身に着けているだけで、手ぶ
らだった。とっさに俺を連れ出したせいで、武器を持ってこなかっ
たのだ。
俺は唇を噛んだ。
867
襲撃を受けた際、俺がすぐに我に返っていれば、エマは俺に手を
貸す必要がなかったから、自分の武器を持ってこれた。つまり、俺
が動転していたせいで今、エマが武器を失っているのだ。
エマが武器を持てていないのは、俺のせいだった。
﹁薬も一本きりか。状況は悪いな﹂ 馬車の中ということで荷物を床に置いていたので、俺たちは二人
とも、背嚢を持っていない。
俺だけが、腰に吊ったベルトのポーチの中に、回復薬を一本だけ
持っている。とっさに使うための回復薬で、二本目以降の回復薬は
背嚢の中に入れる習慣だったのだ。
周囲を飛び道具含む敵に囲まれ、二人とも矢傷を負い、こちらの
武器は俺の持つ長剣一本のみ。回復薬も一本だけ。
︵くそっ、打つ手がねえ︶
背後の馬車から撃たれたということは、あの護衛の兵士が元々裏
切っていたと考えるのが自然だろう。
逃走経路はない。四方は囲まれている。敵には少なくとも、魔術
師と複数の狩人がいる。近接職も姿を現していないだけで、もちろ
ん包囲の輪に含まれていると考えた方がいいだろう。
︵いかんな、詰んでる︶
僅かに残された可能性としては、敵の中に斬りこみ、包囲してい
る敵を蹴散らして林の奥へと逃げることぐらいだが︱︱馬車に当て
られた火弾の威力は、エミリアのそれよりもやや威力が高かった。
868
つまり、レベル的には格上が俺たちを攻めてきているものと考え
ていい。俺一人で斬り抜けられるとは考えにくい。
︵やるしかないんだけどな。どうせなら、一人でも多く道連れにし
てやるか︶
遅ればせながら、エリーゼとエミリアを喪った悲しみと、そして
怒りがふつふつと湧いてきていた。
半身をもがれたような、喪失感だった。この空白を悲しむのは後
回しにして、いまは敵の血で心の孔を埋めなければならない。
﹁チェルージュ来てくれるまで、どれぐらいかかるかなあ﹂
今日、折悪しく彼女はいくつも森を越えた先の自宅へと帰ってし
まっている。
彼女の使い魔であるこうもりに送ってもらったときは街まで空を
飛んでも三十分ほどかかったはずだから、この襲撃を乗り切るまで
に駆けつけてくれる可能性は、ほぼないだろう。
﹁お供します﹂ エマが握り締めた鉄甲を胸の前でがつんと打ち鳴らす。
一緒に死んでくれるらしい。
﹁よし、それじゃ行くか。すまんな、付き合わせて﹂
﹁また来世で、ご主人様﹂
俺たちが意を決し、林のあちこちから顔を覗かせている射手たち
へと斬り込もうとしたとき、そんな俺たちの決意に冷や水を浴びせ
869
るかのように嘲笑が響き渡った。
﹁ざまぁねえな、ジル・パウエル﹂
チェインメイル
俺たちを嘲笑う声の方を見ると、林の奥の方に見慣れた顔があっ
た。
プレートヘルム
破損した胸元を、大きさの違う鎖で乱雑に補修した鎖鎧。
面頬を上げた鉄兜から覗いているのは、エディアルドだった。
嫌みったらしい笑い声を聞くだけで、彼に関する記憶がありあり
と蘇ってくる。赤の盗賊団を討伐した分け前を寄越せとしつこく言
い寄ってきたのを断ったせいで、リカルドが手回ししてくれるまで
冒険者ギルドでパーティを組めないように悪評を言いふらしてくれ
たっけ。
最終的には彼の一味をキリヒトが潰してくれたが、エディアルド
は生き延びていたはずだ。それがなぜ、こんなところにいるのだろ
うか。
﹁なぜお前が、って顔してるな。これから死んでいくお前が知って
フロンティア
も仕方ねえことだ。詳しく内情をベラベラ喋った挙句、念話の指輪
で﹃開拓者﹄にチクられてもつまらんからな﹂
﹁ッ! ご主人様!﹂
どんと、横からエマに突き飛ばされた。ほんの一瞬前まで俺がい
た空間で、盛大な爆発が起きる。
焦げ臭い香りが、周囲に満ちた。
870
﹁エマ!﹂
板金鎧の胴が、焼け溶けてぐずぐずになっていた。火弾の直撃を
受けたのだ。
林の下の方から撃ってきたということは、後続の馬車の中にいた
魔術師が登ってきたのだろう。
﹁てめぇのレベルは300ぐらいだったか? 首は、俺が自ら刎ね
てやるよ。雇い主から魔石を貰ってな、俺は強くなったのさ。お前
で試し斬りってわけだ﹂
言い終わらぬうちに、エディアルドは林を駆け下りてきた。速い。
エリーゼが全速力で走るよりも、恐らくは速いだろう。
魔石を彼にくれた雇い主とは誰か︱︱?
考える間はなかった。エディアルド以外にも、林のあちこちに隠
れていたと思われる戦士が俺へと殺到してくる。ご丁寧に、全員が
鎖鎧を着込んでいる。
板金鎧ほどの防御力はないが、やすやすと剣で斬れないほどには
堅固で、そして板金鎧よりも軽い。四方八方から包囲の輪は縮めら
れており、逃げ場はない。足さばきと移動速度からして、全員が格
上だった。
︵ここで終わり、か。せめてあいつぐらい、道連れにしておきたい
な︶
俺は長剣を振りかぶり、わざとゆっくりと振りかぶった。
そして、六割ぐらいの力を篭めて、先頭を走って迫ってくるエデ
871
ィアルドに上段から斬りかかる。
のろ
﹁薄鈍い!止まって見えるぜ!﹂
エディアルドは俺の一撃を剣で受け止め、弾いてから俺を斬ろう
とした。
狙い通りである。
俺の剣を弾こうとしてエディアルドの横薙ぎの一撃が来た瞬間、
俺は長剣に全力を篭めた。
あんなにゆっくりとした斬撃しか繰り出せないならば、力も大し
たことないだろう︱︱そう思わせていたせいで、予想外に強い力で
押し返されたエディアルドは姿勢を崩した。
﹁なっ!?﹂
四方八方から、剣が俺へと突き出されてくる。逃げ場はない。
防御は考えなくていい。
﹁せいッ!﹂
全力を篭めて、長剣を振り下ろした。エディアルドの肩のあたり
に長剣がめりこんだ手ごたえがある。
︵いや、浅い︱︱!︶
亡き兄の形見である鎖鎧を着込んでいたせいで、胸元まで斬り下
げることができなかった。致命傷にはほど遠い。
872
﹁クソが!﹂
エディアルドは、俺に二撃目を入れようとせず、跳び下がった。
他の戦士たちの壁に阻まれて、追うことができない。
﹁お︱︱おおおっ!﹂
俺は、全力を篭めて、長剣を投擲した。狙いは胸元である。
しかし、エディアルドは横っ飛びに身体を投げ出した。命中はし
たが、刺さったのは右腰のあたりである。
﹁ごっ︱︱﹂
三撃目は、間に合わなかった。
包囲網は縮まりきった。腹、胸、一瞬遅れてわき腹から、何か冷
たいものが俺の身体の中に入り込んできた。念を入れてなのか、そ
のうちの二、三本は深々とえぐってくる。
剣が引き抜かれた勢いで、俺の身体は仰向けに崩れ落ちた。
力が抜ける。意識が遠くなっていく。視界がぼやけてきた。
俺は目を閉じた。
873
第五十一話 朱姫の元冒険者
﹁もー、ジルってばせっかくの私の登場シーンなのに何寝てんの。
ほら目、開けて開けて﹂
頬をぺちぺちと叩かれた感触で、俺は目を開けた。
﹁あれ?﹂
地面に寝転がった俺の視界を埋めているのは、見慣れたチェルー
ジュの顔である。
しばし呆然とその顔を眺めていた俺は、我に返って勢いよく上半
身を起こした。
﹁え? 夢?﹂
敵が襲ってくる気配はない。夢から醒めたときのような静けさだ。
﹁って︱︱うおわ!?﹂
周囲を見渡すと、すぐ間近に鎖鎧姿の一団がいた。俺たちを包囲
し、襲ってきた連中だ。彼らがぶらさげた剣は俺の血に塗れている。
しかし、様子がおかしい。
﹁なんでこいつら、動いてないんだ?﹂
874
彼らは、微動だにしなかった。というか、世界そのものが動きを
止めていた。
宙に舞う火の粉も、枯れ葉も、何もかも微動だにしない。
音もしない。木々のざわめきすらも聞こえない無音の世界なのに、
俺とチェルージュは会話をしている。むくれるチェルージュの表情
も見慣れたものだ。
﹁助けて欲しそうにしてたのに、いざ来てみたらこの扱いって、ひ
どくない?﹂
ち
﹁え、いや。確かに、間にあわないだろうって話はしてたけど。な
んで来れてるの? じぶん家にいたんでしょ?﹂
﹁そうだね。いくら私でも、空を飛んできたら間に合わないよ﹂
﹁じゃあ、なんで?﹂
俺はもう、加護を返したはずだ。現に、加護を返した日以来、一
割減っていたMPの最大値は元に戻っているので、瞳に溜めたマナ
を使って俺を助けることなどできないはずだ。
﹁ふっふっふ。それができるんだな﹂
俺は首を傾げた。いくらチェルージュといえど、マナを使わずに
瞬間移動などできはしまい。
﹁もったいぶりたいところだけど、状況が状況だし教えてあげよう。
ウキョウって言ったっけ、初めてジルを殺した人間は。ウキョウに
やられて瞳のマナが空っぽになってから、私に加護を返すまでの一
875
ヶ月ぐらい、ジルは瞳にマナを溜めていたでしょ?﹂
﹁あ﹂
確かに、加護を返しただけであって、瞳に溜まったマナを使って
しまったわけではない。
﹁そういうこと。すでに溜まってたマナ、いわば貯金を使って飛ん
できたってわけ。しかも何を隠そう、ジルの最大MPが上がってき
てからの一ヶ月分のマナなので、今回は量に余裕があってね。前回
と違って今の私は本体なのだ﹂
﹁え、ほんとに?﹂
﹁ほんとほんと。どうせだからジル、私の本気見せてあげるよ。力
試しでボーヴォにも勝った実力、一等席で見物しておくといい﹂
お、おうと俺が頷くのを見届けてから、チェルージュはぱちんと
指を弾いた。
静止していた世界に、動きと音が戻る。木々のざわめき、敵の話
し声、ぱちんと爆ぜる火の粉の音。
﹁なっ!?﹂
突然、殺害対象である俺のそばに見慣れない女性が現れたせいで、
敵の戦士たちに狼狽が走る。鞘にしまおうとしていた剣を、慌てて
抜き放った。
﹁ちょっと静かにしててね﹂
876
それからの光景は、圧巻の一言だった。
チェルージュがちょっと手を振ると、光の輪のようなものが何本
も現れて、戦士たちの腕ごと胴体を締め付けた。すさまじい力が加
わっているらしく、戦士たちが
いくらあがいても外れる気配はない。
﹁こっちもね﹂
光の輪は、あちこちに飛んだ。
林の中に隠れていた弓兵や、坂の下の方にいた敵の魔術師も同じ
ように縛り上げる。そして驚くことに、胴体を一本の光の輪で締め
上げられているだけだというのに、みなふわふわと宙に浮き始めた。
﹁はい、ちょっとみんな、静かにしててね﹂
沈黙か何かの魔法をかけたのか、宙に浮いたまま怒号を発してい
た敵が、みな一様に黙りこくる。口をぱくぱくと開けて何かを叫ん
でいるようだが、声が出ていない。
﹁やあ、エディアルド君。こうして話すのは初めましてかな。私は
君のことを良く知っているけど﹂
﹁何なんだ、お前﹂
エディアルドは、嗄れた声でようやくそれだけを絞り出した。
彼だけは光の輪で拘束されていない。ただし、俺が与えた手傷を
まだ回復させていないので、肩口と腰から血を流している。
﹁赤の盗賊団を倒したのが私だって言えば、わかりやすいかな? そしてジルに加護を与えた吸血鬼でもあり、ジルの恋人でもある。
877
それだけ聞けば、十分でしょ﹂
俺との関係性を聞いたエディアルドが、驚愕に目を見開く。
そんな彼は放っておいて、俺は聞き捨てならぬ一言に突っ込んだ。
﹁いや、まだ恋人じゃねえだろ﹂
﹁ジルが二回も死んじゃったから、実力行使なのだ。一人の力で生
きていきたい、きりっ。なんて言ってたよねジル? いまどんな気
持ち?﹂
﹁ぐっ﹂
的確に弱点を突いてきやがる、この吸血鬼。
﹁あっ﹂
俺たちが掛け合いをしている隙を見て、脱兎のごとくエディアル
ドは逃げ出した。腰を怪我しているというのに、素晴らしい逃げ足
で林の中を縫い走っていく。
﹁いいのか? 追わないで。いや任せるけども﹂
すっかりエディアルド姿が見えなくなってしまったので、俺はチ
ェルージュに尋ねた。そんな彼女はというと、エディの逃げ去った
方向に両手を伸ばしている。
﹁まさか。私も彼にはイラっときてるからね。ちょっと派手にやろ
うかと﹂
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真っすぐ伸ばした両手の先は、人差し指と中指だけを内側に折り
曲げている。
そんな両手の平の中に、白熱した光の塊が生まれ、そして膨れ上が
っていった。
チェルージュの指が、竜の牙に見えた。
﹁本来の魔法名とは違うんだけど、彼には因縁のある名前だからこ
う呼ぼう﹂
ドラゴンズブレス
竜の息吹と。
閃光が放たれた。
末広がりに拡がっていくその光に触れたものは、消えた。蒸発し
たのだ。
木々も、地面も、はるか遠くの山でさえ、その光は飲み込み、消
した。
一キロ先か、果たして十キロ先か︱︱どこまで先か見えなくなる
まで、その光は一瞬にして何もかもを消し飛ばした。
一瞬遅れて、はるか遠くに爆炎が上がった。まるで溶岩のような
濃くまばゆい爆発が、山よりも高く天へと昇った。それも城壁のよ
うに、横に長い長い、爆発だ。
地平線まで、朱に染まったように見える。
しばらくしてから、腹に底響くような、どおん、という爆音が聞
こえてきた。
879
﹁マナの気配、消失確認。エディアルド君、さよならっ﹂
﹁なんだこれ﹂
もはや、現実味がなさすぎて俺は呆けていた。
チェルージュの立っている地点から、扇状に遥か彼方まで大地が
えぐれていた。
それまで緑深き森であったところも、魔法が通り過ぎたあとには
何もなくなっていた。
ただ、上層を消し飛ばされた土があるのみである。
﹁こんなに強かったんだ、チェルージュって﹂
﹁ね。すごい威力。私の何倍あるかしら﹂
エマとエミリアが、魔法の威力に驚きの感想を漏らしていた。
﹁いやあ、俺も初めて見たよ。赤の盗賊団を倒したときは、ぜんぜ
ん本気じゃなかったんだな︱︱ん?﹂
ふと、俺は横を向いた。
エミリアが立っていた。
エリーゼは、エマの焼け溶けた板金鎧を脱がせる手伝いをしてい
た。
エマはあちちち、などと言いながら鎧の留め具を外していた。
夢でも見ているのかと、己の頬を張る必要はなかった。
880
チェルージュは傷を少ししか治してくれていないので、あちこち
刺された傷がとても痛んでいるからである。 ﹁生きてる!?﹂
多分、そのときの俺はすごいアホ面をしてたと思う。
それぐらい、心の底から驚いた。みんな、あちこち怪我はしてる
し服や鎧がボロボロだったが、元気そうな顔をしていた。驚きすぎ
て、俺の傷が開いた。
﹁なによ、生きてちゃ悪かった?﹂
﹁いや、だって、馬車の中で、お前たち︱︱﹂
むくれるエミリアに反論する声も出てこない。
あのとき、馬車の中にいたエミリアとエリーゼは火弾の直撃を受
けていたはずだ。
﹁ああ、ちゃんと助けといたよ。気の回る恋人でしょ?﹂
﹁助けといたって、あのときまだチェルージュ、出てきてなかった
ろ?﹂
チェルージュが出てきたのは、俺が死んでからだ。つまり、エミ
リアもエリーゼも、やられてしまった後だ。エマは俺と一緒に助け
られたかもしれないが。
ダイアウルフ
﹁えっとね、ちょっと前にエマちゃんが無理をして、恐狼にやられ
たときのこと、覚えてる?﹂
881
﹁そりゃまあ、覚えてるが﹂
エマが守りきれなかったので、エミリアが深手を負わされて大騒
ぎになったのだ、忘れるはずがない。
﹁あのとき、私とジル、デート中だったでしょ? でも、ジルに念
話の指輪で連絡が行く前に、私が異変を察知したのに気づかなかっ
た?﹂
そういえば、念話の指輪が光り始める前に、チェルージュは何や
ら宙を睨んで厳しい顔をしてたっけ。
﹁ほい、種明かし﹂
ぱちんとチェルージュが指を弾くと、それまで何もなかった虚空
に、一匹のこうもりが現れた。ぱたぱたと飛んでいるのに、羽音が
しない。
﹁これって、使い魔か?﹂
﹁そう。ジルに加護を与えたみたいに、私は使い魔の瞳を通じて情
報を得ることができる。つまり、君たちのことは、影ながらこのこ
インヴィジビリティ
うもりが見守ってたってわけ。
普段は、透明化の魔法がかかってるから目に見えないのさ﹂
﹁え﹂
ということは、俺たちが独力で冒険を続け、迷宮で苦難を乗り越
えてきたと思っていた間も、すべて大事が起きないように見守られ
ていたということだろうか。
882
﹁そういうことだね。馬車を襲ってきた火弾も、使い魔が身代わり
に受けたのさ。実は一発目の火弾でエミリアは死にかけてたから、
使い魔じゃ動かせなかったしね。もしジルがあそこで戻ってきたら、
燃え盛る馬車の中で必死に大回復を唱える二匹目のこうもりの姿が
見れたよ﹂
俺はがくりと肩を落とした。なんというか、釈迦の掌の上である。
﹁なによ、私たちが死んでた方が良かったってわけ︱︱きゃ!﹂
がばと、俺はエミリアを抱きしめた。勢い付いて、エミリアを地
面に押し倒してしまう。
﹁生きてて、良かった﹂
何故だか知らないが、みんな助かったのだと思うと、目頭が熱く
なった。
鼻水も出てきたので、ぐずりと啜る。
﹁あー、ずるーい。それは殊勲賞の私にこそくれるべきー﹂
ぽりぽりと何かを噛み砕きながらチェルージュはぶうたれる。
﹁よしよし、もう何でもいいや。チェルージュは今度好きなだけ抱
いてやる﹂
やっほーい、などと叫びながらピースをしつつ、また彼女は口に
何かを放り込み、ぽりぽりと噛み始めた。
883
﹁ところで、何食ってるんだ? まさか人肉食でもあるまいし﹂
目に見えない拳骨で、脳天を殴られる。
背後を見てみたが、エマたちは遠く離れていて誰もいない。チェ
ルージュの魔法で殴られたようだ。
﹁ムードなーい。せっかく一個百万もする魔石食べてもうひと働き
しようとしてるのに。気軽に食べてるけど、ここまで結晶化した魔
石ってうちのあたりでもあまり採れないんだよ?﹂
ぴくりと、エミリアの耳が震えた。反応早いなおい。
確かに、光の輪に捕まえられている戦士たちがほったらかしにさ
れていた。
﹁そういや、今は腕輪してないもんな。その補給か?﹂
このあたりはマナが薄いので、チェルージュが本気を出すことは
できないと聞いていた。さすがにあれだけの大魔法を使ったのだ、
俺が瞳に溜めていたマナだけは足りまいと思っていたが。
﹁そういうこと。本気出せば、やりようは色々あるのだ﹂
のんびりと魔石をかじるチェルージュの次の一言に、恐らく締め
上げられた敵兵たちはすくみあがったことだろう。
﹁それじゃ、ちゃっちゃと吐かせようか﹂
﹁吐かせる?﹂
あちこちに浮いている、捕獲した敵兵へと振り向くチェルージュ
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の後姿に、俺は問いかける。何の屈託もなさそうに、チェルージュ
は笑顔で頷いた。
﹁うん。黒幕吐かせて、落とし前付けさせないと﹂
俺たちを襲った自業自得とはいえ、こんな反則じみた奴の敵に回
るなんて大変だなあと、俺は敵の黒幕に少しだけ同情した。
かいつまんで言うと。
エディアルド、ひいては刺客たちのの黒幕は、冒険者ギルドの前
ギルドマスター、アークノーラ氏だった。どうも、エディアルドの
兄であるエヴィが、アークノーラ氏の手駒だったらしい。
後ろ暗いことをこなす手下を持っているという噂は、事実だった
というわけだ。
その線で、行方をくらましていたエディアルドはアークノーラに
保護されていて、エヴィの死や、カヌンシルの台頭が俺のせいだと
吹き込まれた彼は、手下を総動員して俺を暗殺しようとしたらしい。
どさくさに紛れてカヌンシルも殺害し、再びのギルドマスター就
任を狙っていたというのだから、その権力に対する執念には恐れ入
る。
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それらの情報をもたらしてくれたのは、他ならぬそのアークノー
ラの手下たちである。チェルージュの光の輪で宙吊りにされていた
彼らは、魅了の魔法であっさりとすべてを吐かされた後、地属性魔
法か何かなのか、地面から生えてきた木の杭に一人残らず串刺しに
されていた。
例によって、舞い散る血しぶきを浴びながら嬉しそうに踊ってい
たチェルージュにエマたちがドン引きしていたが、些細なことだろ
う。
冒険者ギルドでも、血の雨が降った。
魅了をかけられたアークノーラ本人からの情報により、彼と密接
に手を組み、悪事に手を染めていた元部下が割り出され、アークノ
ーラともどもやっぱり串刺しにされた。
せめて、人類の手で裁かせてはもらえまいかと切り出したカヌン
シルに対して、やだ、の一言で拒否したチェルージュはあっさりと
アークノーラたちを殺害して見せた。
﹁怒らせちゃいけない子を怒らせたんだもの、仕方ないわ﹂などと
グランマが諦め顔でカヌンシルを慰めていたのが印象的だ。
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﹁前々から構想だけは練っていた計画を、どうやら実行するときが
きたんだよ!﹂
概ね、今回の騒動に関わった罪人たち︵俺たちから見てだが︶を
私刑し終わり、事後処理に追われるギルドの人々とは裏腹に俺たち
が平穏を取り戻したころ、チェルージュは俺とエマたち、それにカ
ヌンシル夫妻︵もう夫妻でいいと思う︶を一室に集め、そう高らか
に宣言した。
﹁はあ。一体何をするんだ? まあ何にせよ、付き合うけどさ﹂
﹁んっふっふ。ねえジル、今回の件で、ちょっと冒険者ギルドとい
うか、街そのものというか、人間に不審を抱いたんじゃないのかい
?﹂
﹁いきなり何を言い出すんだ︱︱まあ、なくもないな。今回の騒動、
権力争いに巻き込まれたってのが大きな要因ではあるし﹂ 正直なところ、自分が政治に関わることなどないと思っていたが、
いざ巻き込まれてみると洒落にならない。いち個人を揉み潰せるほ
どの大きな流れの前で、人は無力だ。
﹁ねえ。ジル、国を創ってみないかな?﹂
﹁はぁ?﹂
とっておきの話を聞かせるんだぞと言わんばかりに、わざとらし
く咳払いをしてから切り出したチェルージュの言葉に、俺は呆れ顔
になった。
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﹁だからさ、新しい開拓村をジルが作るんだよ。ジルは初代村長で、
初代国王でもあるのさ。何もない土地に家を建てて、耕して、人を
増やしていくんだ。楽しそうじゃない?﹂
﹁当事者でさえなければ無邪気に面白そうって言うかもしれんが。
本気か?﹂
﹁うん、結構本気。ジル、やって﹂
﹁いやいやいや﹂
やって、と気軽に言われましても。お前国作れって言われてはい
そうですかと素直に頷く奴が果たしているだろうか。 ﹁そもそも、国民だか村民だかはどこから連れてくるんだよ。俺と
エマたち、それにチェルージュが入ったとして五人だろう。五人で
国を名乗ってもなあ﹂
﹁そこはほら、新規移住者を募ればいいんだよ。ちょっと手伝うだ
けでマイホームが手に入るんだよ? リカちゃんを見てれば、家を
欲しがる人って多いんだなって思わない?﹂
﹁そりゃそうかもしれんが。何もない土地の家貰ったって、不便な
だけだろうに﹂
﹁最初はそうかもしれないね。歯車が回りだすまでは苦労するだろ
うね﹂
﹁ちょっと考えただけでも無理だとわかりそうなもんだが。土地は
どこを切り開くんだ? その労力はどこから? 土地と家だけあれ
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ば人が生きていけるわけじゃない。水や食料だっているだろう。魔
物が湧いたら撃退しなきゃいけない﹂
理論的に説明すれば諦めるかと思ったが、意に反してチェルージ
ュはにやっと笑っている。なんだろう、嫌な予感がする。
﹁ちゃんと考えてあるんだな、これが。思いつきで言ったんじゃな
いんだよ?﹂
俺は思わず唾を飲み込む。
エマたちも、顔を見合わせていた。もちろん、同席しているカヌ
ンシルとグランマもだ。
﹁土地は、私が魔法を一回撃てば一瞬で確保できる。私の魔法の威
力、ジルたちは見たでしょ? 立地もいいところを見繕ってあるん
だ。今は原生林だけど、近くに良質の鉱石がある山脈があり、結構
太い川が流れてて、しかも迷宮の入り口の一つが眠ってるところ。
今は封鎖されてるけど、これもやっぱり私が魔法でちょっと掘れば
開通する。だいたい、私の屋敷と、この街の中間くらいかな。マナ
が少し濃いけど、人間でも普通に生活できる﹂
ヤバい。何がヤバいかといって、チェルージュは力と金を持って
いる。
本気を出されると、かなりの部分で課題をクリアしかねない。
﹁魔物対策とか、あとは仮にこの街から攻められたとしても、私が
いる。使い魔を何体か投入するだけで防衛面は問題ないね。通貨や
法律は、しばらくはこの街のを借りよう。今回の一件でこの街には
私は大きく貸しがあるから、しばらく食べ物を運んできてくれたり
とかは任せればいい。大丈夫、これだけおっきな貸しがあるんだし、
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カヌンシルならきっと気前よく奢ってくれるはずだから。そのかわ
り、この街を属国するのはやめといてあげる。対等な国として扱っ
てあげよう﹂
実直な顔つきのカヌンシルの表情が引き攣っているのは気のせい
だろうか。
脅迫半歩手前である。
そもそもチェルージュが本気を出せば街が消し飛ぶのだから、交
渉にさえなっていない。
﹁木材を切り出すのは私ができるから、それを組み立てて家を建て
たり、畑を作ったりするのは移住してきた国民に頑張ってもらう形
になるかな。お金があるとわかれば商人だって投資を考えるだろう
し、そのうち何もしなくても勝手に村は発展していくと思うんだよ
ね。要は、この街よりも楽に稼げるっていうか、税金とかを安くし
て﹃この村は美味しい﹄ってみんなが思うようになればいいんだか
らさ﹂
勉強の成果ねえ、とのんびりグランマが呟いていたが、違う、そ
うじゃない。
﹁ああ、ああ、わかったわかった。つまりまあ、本気なんだな?﹂
﹁うん!﹂
にこやかに言い切るチェルージュに、俺は肩の力が抜けていくの
を感じた。
どうやら、俺が国王とやらをやらされるのは確定らしい。
仮に拒否したところで、助けてあげたじゃんとか、恋人宣言はど
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うしたの、などと突っ込まれて、色々と面倒臭い事態になる未来し
か見えない。
国王になるのとどっちがマシか頭の中で一瞬考える。
﹁考えてもしょうがないか。どうせ逆らえないし﹂
﹁そうそう、人生思い切りと諦めが肝心だよ﹂
吸血鬼に人生を諭される若者の図である。
﹁で、王妃様は私で﹂
挙手しつつ堂々と宣言したチェルージュの後を、エマたちが引き
継いだ。
﹁エマが第二王妃で﹂
﹁私は第三王妃でいいわ、ジル。ああ、王妃間の身分の差はなしで
お願いね﹂
﹁あの、ご主人様。私はまだ、そういうのは結構ですので﹂
エリーゼだけが唯一の癒しである。まだ、という一言が不穏だが、
きっとエリーゼなら俺の胃を痛めまい。
﹁勝手なことを言うんじゃないよ﹂
きゃあきゃあと盛り上がる女性陣を横目に、ほんの数分の間にや
たら肩の重みが増えた件について、はあ、と俺は深くため息を吐く
のだった。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n3436cb/
(更新停止中)朱姫の冒険者
2016年7月10日17時26分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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