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み ハ - 東京大学 大学院理学系研究科・理学部
東 京 大 学 理 学 部 みハ ― -7巻 12号 ―一 日 召和 51年 3月 目 学 部 長 退 任 の あ い さつ 新 幹 線 か ら赤 富 士 を眺 め る 大学 の 植 物 園 サ ・ 工・ ラ ハ イゼ ンベ ル ク教 授 を'1卓 む 女 性 の曲 り角 ` 名誉 教 授 の御 近 況 ″ 高 宮先 生 の 思 い 出 次 植 村 泰 忠 森 野 米 三 古 澤 潔 夫 (2) (3) (4) 西 島 和 彦 中 村 圭 子 (10) (12) (13) 飯 田 修 一 ・… … (19) 私 の 読 ん だ 本 (28) 「 日本 人 と近 代 化 学― 西 洋 へ の 対 応 と課 題 ― J 〈学 音67肖 息 〉 マ 青 刻く音召→ 七 ・… 。 (20) ,・ (21,-22) HMS.Challenger号 は英 国 を出発 してか ら約 2年 半 後 の1875年 (明 治 8年 )4月 13日 に江戸 湾 (東 京 湾 )に 現 われ た 。詢合体 修 理 の ため横 須 賀港 で約 1ケ 月 ドック入 りした後 , 日本 の南 岸 と瀬戸 内海 へ の航 海 に向 った 。航 海 日誌 に よる と 5月 12日 江戸 湾 を出て,城 ケ 島 を廻 り 江戸 湾 の 西 隣 の 湾 (相 模 湾 )で 一 日中観 測 と生物採 集 を , 行 った。 14日 潮岬 に西進 し,オ フ ィサ ー達 は見物 の ため ` ″ 串本村 に数 時 間上 陸。 15日 に は神 戸沖 に停 泊 し,10日 間 自由行動 が許 され ,研 究者達 は古都 ` 京 の者5″ を尋 ね て い る。 25日 神 戸 を出 て明石 海峡 で採 集 しなが ら瀬 戸 内 海 を西 に進 み ,26日 坂 出 の 西 で ドレ ッヂ したのが 図に示 す介形 虫 を含 む st.233bの サ ンプル であ る。 ・ルの 介形 虫 に関 して Challenger号 が持 ち帰 ったサ ンフ 1ま G S Bradyが 1880年 1こ 研究 を ま とめ , 日本近 海 でι ま st 233bよ り 5新 種 を含 む 3属 9種 (現 在 では 9属 9種 ) が記載 され た 。 この 中で ,図 に示 した もの は Trachy‐ leberis属 の模 式 種 に な ってお り,現 在 British Museum に保 管 され て い る雌雄 の副模 式標 本 の右 殻 で あ る。雌 は 卵 を抱 くため づ ん ぐりと短 か く横 に 3、 くらみ ,雄 は細長 くスマ ー トであ るが ,殻 の後 半分 を 占め るほ ど生殖 器 が 異常 に大 き い。 この種 類 だけ で な く,同 時 に記載 され た 8種 の 介形 虫は 日本 の 各地 の 浅海 に生 膚、し, また化石 と して 日本 各地 の 第二 紀層 か ら発見 され る。 この ため Cha― T7α cん yι ο ら θ7'S ,Cα 右殻 .× 55. οc● 2θ αれ (Brady, 1880)の 雌雄の 上図 ¨ ♀,下 図 ♂ bγ -1- nenger Reportは 化石 の研 究 者 に とって重要 な文 献 とな ってい る。 (地 質 :池 谷 仙 之 ) 学部長退任 のあ い さつ 本年 3月 末 日で任期満了 とな ります ので学部長 を退任 す るこ とに な りま した。非力 な私 が 3年 間何 とかそ の任 に耐え られ ま したの も, 理学 部 内外 の多 〈の方 々か らか よせ いた ゞいたか力添え と御寛容 と に よる もので ありま して,退 任 に当 り心か ら御ネL申 し上 げ る次第 で す。 新学部長 の もと,新 たな気分 で理学部が一 層充実 に向 う ことを期 待 して ごあいさつ と致 します。皆様 どうも有難 うございま した。 51年 3月 31日 昭オロ 植 村 泰 忠 ` 建議 議 の理学部 5号 館 -51.3.18竜 岡門にて撮影 一 (2帥 %広 角 レンズ使用 -2- ) 新幹線 か ら赤富士 を眺め る 森 野 米 三 (化 学 ・名誉教授 ) ま だ 学 生 で あっ た頃 ,そ れ は 晩秋 の こ とで あ った に限 る。 富 士 が 赤 く映え るのが この 日の 出時刻 (そ が,山 中寮 で 始 め てVЬ め た 日 の 出 の 富 士 は ま こ とに れは 静岡で 海面 の 高 さの もの )の 前後何分 で あるか 印 象的 で あ った 。 あ け や らぬ空 を背 景 と して そ ゝり に よって,上 記 の期 日の 前後 の数 日が可能 な期 間 と 立 つ 富 士 が,あ か ね に 映 え,そ して 刻 々 rc色 をか え なる 。ひ か り 2番 列 車 は三 島駅 を 6時 57分 に通 過 す て こが ね に輝 き,そ のは てに 山肌 の 一 つ 一 つ をは つ る 。赤富 士が, 日の 出時刻 の あ と 2分 以上 つ ゞい て き り見せ て 来 る移 り変 りは, この 世 の もの とは思 え い るな らば, 日の 出 の おそい 元旦 前後 には, ひか り ぬ もの で あ っ た。 2番 列車 で赤 富士 を見 る ことが で き よ う。 そ の後 も富 士 は い ろい ろ の 場 所 か ら眺 め て 来 たが , 場 所 が か わ れ ば そ れ ぞ れ に趣 きを変 え る。 大 観 や , 林 武 ,梅 原 龍 二 郎 な ど多 くの 人 々 が ,富 士 を 画 い て 厭 くこ とを知 らなか っ た 気 持 は ,私 達 1/C共 通 の もの 新幹 線は三 島 を過 ぎてか ら,愛 鷹 山 の丘 陵 の 蔭 に 入 って, 富士 は見 え な くな るが,富 士川 の 辺 に来 て 富士 は再 びそ の全貌 を あ らわす 。 この間 の距離 は 約 25た πで, ひか りで約 10分 か ゝる。 それ故 に ,元 旦 前 新 幹 線 で 往 復 す る よ うに なっ て,昔 の 東 海道 線 よ 後 の ひか り 1番 列 車 1/C乗 れ ば富士 川附近 で赤 富 士が 見 られ るか も知 れ ない。 もっ とも富士川 附近 は い さ り高 い 位 置 か ら眺 めた 富士 は ,一 段 とそ の 高 さ を増 さか西 へ廻 りす ぎて赤富士 を斜 め に見 る嫌 いは まぬ した感 じで あ る。 車 窓 か ら眺 め て い る 内 に, 昔 の 山 が れ ない。 とい え よ うか 。 中寮 で の 感 激 を思 い 出 し, この 列 車 の 内 か ら赤 富 士 が 見 え な い で あ ろ うか と考 え る よ うに な った。 と もられ,三 島 (富 士川 を含め て )で 赤 富士 を見 るた めには,ひ か り 1番 または 2番 列 車 に乗 らなけ れば な らない。 た ゞじ冬 の間 の 限 られた期 間 だけ し 赤富 士 を見 るチ ャ ンス は上述 の場 所 の他 1/C今 一 つ 2 6 ¨ ¨ ¨ ¨ 一 ¨ ・ 一 二 ひ ひ 劉 州 か可能 性 は ない。 の可能性 が あ る。 それは新 横 浜 を過 ぎて暫 くした所 相 模川 を渡 ってか ら小 田原 に着 く手 前 の 間 (平 塚 市 の北 部 に あたる )で ,三 島 ほ ど近 くlrc見 え ないの で あ ま り気付 かれ てい ないが ,箱 根 の 山 々 と月沢 の 大 6:30 山 と の間 に,富 士 は その 山容 をか な り大 き く見せ る。 この 場所 は ひか りで 東京駅 か ら約 23分 ,こ だ ま では 新横 浜駅 か ら約15分 で ある。 この 2月 号 の時 刻表 か 場l 171 名 % ス ら計 算 す る と,左 の図 の点 線 で示 した ように, この 場 所 で 日の 出 1/C遭 うチ ヤンスは , 日の出時刻 (静 岡 )と 新幹線の列車時亥1 ひか り 1番 は11月 18日 前後 と2月 25日 前後 ひか り 2番 は12月 2日 前後 と 2月 13日 前後 赤富 士を眺 め る た め 1/rは , 日の 出時刻 に,(日 の 入 りの赤 富士 もあろ うが,そ れは ひ とまず 考 え ない ひか り 3番 は12月 16日 前後 と 2月 1日 前後 こだ ま 1番 は12月 4日 前後 と2月 H日 前後 こと とす る ),富 士 の 見え る場 所 に居 る ことが必要 の 4列 車 となる。赤富 士 が, 日の 出時刻 の 前後 1/r何 で あ る。 新幹 線か ら富士 を眺 め る最 良 の位 置 は,ま 分見え るか に よって,上 記 の期 日の前後 に数 日の可 ず三 島駅 で あ る。 一 方 , 日の 出 の時刻 は一年 中 日 々 能 性 が きま る こ ととなる。 に変化す る。 か りに理 科年 表 で静岡の 日の 出時刻 を 採 る と上 図 の通 りで, ひか り 1番 列車 は三 島駅 を 6 さて,最 後 に,上 に述 べ た推測 を実 際 に確 かめ た 時 45分 に通過 するか ら, この 日の 出時刻 に 三 島 1/C居 経験 を述 べ たい 。期 日は12月 16日 で,問 題 の こだま る こ との で きるのは,12月 13日 前後 と 2月 3日 前後 1番 に乗 つた。 しか しず っと昔 (昭 禾M4年 )の こ と で あ った の で,列 車 の タイ ム テ ー ブ ル は 現 在 の もの の 出 の 時 刻 を もと に して 考 え たが ,赤 富 士 が 見 え る とは違 っ てい た 。 平 塚 を通 る時 亥」は 日 の 出時 刻 の 3 の は この 時 亥」の 前 の何 分 で あ るか ,そ れ と も後 の何 分 前 の 予 定 で あ った 。 も ち ろん 雲 や 霞 が あ って は 赤 分 で あ る か が 問題 で あ る。 赤 富 士 とな る た め に は大 富士 は 見 え ない か ら,前 々 か ら天 気 予報 を眺 めて 大 陽 の光 が あた らね ば な らない か ら,日 の 出時 刻 以後 丈 夫 と思 わ れ る 日を選 ん だ 。 い くら天気 が 良 くて も の もの で あ る と単 純 に は きめ られ ない 。事 実 , さ き 見 え るか 見 え ない か は 現 地 に行 っ て 見 なけ れ ば わ か の こだ ま 1番 で は 平 塚 で 日の 出時 刻 以 前 に 赤 富 士 を らな い。 そ こに ス リル が あ る 。 ま だ 暗 い 内 に起 きて 見 て い る。 そ れ は,富 士 山頂 は 海 面 線 よ り も日の 出 , 8分 程 早 い は ず で あ る か らで あ る。 富 士 が 赤 く映 東 京 駅 か ら こだ ま に 乗 っ た 。 空 は満 天 の 星 で あっれ が 品 川 を過 ぎる頃 よ うや く空 が しらけ 始 めたが ,相 模 え る 時 刻 は,麓 の 日の 出時 刻 に くら べ て ど うな って 川 を 渡 った所 で,予 想 通 り,紫 がか っ た 富 士 を見た。 い るので あろ うか 。 2分 半 ば か り の 間 富 士 を眺 そ もそ も美 事 な赤 富士 が 見 られ る た め に は ,地 平 め る こ とがで き るが ,紫 か ら赤 に変 っ た 所 で,残 念 線 上の 雲 の た ゝず まいが どん な有 様 で あ る こ とが望 なが ら富 士 は箱根 の 山 に隠 れ た 。 丹那 トン ネ ル を 出 ま しい か, ま た 富 士 山 の まわ りで ど うあ って ほ しい この 場 所 で はや ゝ長 く, るま で, ど う な って い るか ワク ワ ク して い たが ,三 か , な どが もっ と興 味 あ る 問題 で あ る 。 そ れ に よっ 島 1/C来 て 見 る と,す で 1/C日 は 高 く昇 って,真 自 の 富 て ,新 幹 線 か ら赤 富士 が 見 え る期 間 もは っ きり で き 士 に な って い た。 天 気 が よ くて,宝 永 山 の 上 か ら昇 る で あ ろ うと思 う。 近 頃 山 中湖 畔 の ホ テ ル で,富 士 を見 る こ とを売物 に して い る ホ テ ル が あるが ,一 つ る雪 煙 が は っ き り見 え た 。 の 場 所 に 腰 をお ち つ け て これ らの 関 係 を し っ くり し 以 上 が 私 の経 験 で あ る。 上 に は, 静 岡 の 標 準 の 日 大学 の植物 園 らべ て 見 た い もの で あ る。 サ ・ 工・ フ 古 澤 潔 夫 (植 物園) た。 園内 の 樹種 の 多い ことと,そ の生 育 の み ご とな は じめに :植 物園に20年 以上 も奉戦 していた私は,国 立大学 の植物園とは何か ,と い うことが常に頭か らはなれませんで し た。退職に際 して,国 外のあちらこちらの,主 として国立の乃 至国立大学の植物園 について,見 て きた こと,考 えさせ られたこ とを,具 体的には,パ ルカン地方,南 欧,中 央 ヨーロッパ,北 感 に圧 倒 された。 現在, この国 の科学 ア カデ ミーの 欧の各地方膜 1/Cそ れぞれ 1,2の 例を選び,つ ずってみてみたい も との あ る生 物 学研 究所 (本 部 は Zagreb市 に ある と思い ます。 ことは驚 くば か りで,見 馴│れ た種 類 の 樹 で も,高 さ や,樹 令 だけ で な く, よ く枝 をは った樹 形 全体 の量 一 後述 )に 属す る。 また別 1/C,DubrOvnik市 の対岸 の海 上 に ある小 島 ユ ー ゴ ー ス ラ ピア 共 和 国 々立 Trsteno植 物 園 は , ア ド リア 海 に 臨 む DubFOvnik市 の 郊 外 に あ つ て ,市 LOkrumは 島全体 が植物 園 と して管 理 され て い る。 これは,園 内 が典型 的 な地 中海的植生 で 占め られ , Dubrov nik(旧 名 自然保護 地域 に国 か ら指定 されてい る。 こ ゝには一 Ragusa)(=Eichendorf)は ,そ の 名 が 示 す よ う に , カ ン の 木 の 村 を意 味 し,附 近 一 帯 に カ シ類 (こ こでは Quercus ilex)に 限 らず,温 暖 な地 中海 沿岸 部 に地 中海特有 の maCChie(第 2次 大戦 中, ナテ ス に対す る, レ ジス タンス・ グ ル ー プの マ キ ー団 の名 の気候 に影響 され て 樹木 の 多 い ところ で, また 中世 以来 の厳 しいア リス トク ラテ ィ ックな政 治体 制 と統 お り, それ以 外 は,高 木 の樹 林 てかか われた ArbO― retum(樹 木 園 )で もあ る。 この園 の起 源 は, オー 治組織 に よつていた Ragusa も,甚 だ特殊 な都 市国 ス トリー の Habsburg家 の Maximilian(Franz の 給 水 の た め の 水 源 地 で もあ る 。 で知 られた,深 く茂 った叢林 ―ブッシュ )が 発達 して 家 で あったが,古 くか ら国外 遠 隔地 との交 易 が盛 ん JOsefの 兄 弟 )が , この 島 を買 って, ここに小 さ な で海 外各地か ら多 くの 植物 が集 め られ てい た。 この 居 城 をか まえ,19世 紀 のほぼ 中葉,周 囲 に大 きな庭 植物 園 の歴史 も古 く,1502年 に, この地 に宮殿 が建 園 を造 ったの には じま り,現 在,居 城 の あ とは, 自 設 され ,そ の庭 園 が造 営 され たの が 園 の創 始 で あ つ 然史 博物 館 とな つてい る。 Saraj ev。 大学 の植 物園 。 Sarajevo市 は, ユ ー ゴー連 邦 内 のボ ス ニ ア・ ヘル ツ ェゴビナ共和 国 の主 な って いる貴重 な動 物 ス タインベ ッタ S tein“ ck をみ か け た が ,特 産 の 多数 の昆 虫 もあ る と聞 〈。 地 方 とは対照 的 で ある。 ア ドリア海 に注 ぐMilijaz― ス イスの東 南部 の州 Tessin(Tizzin。 )の Lago MagiOre(マ ジ ョル湖 )上 に浮 ぶ 小 島 Isole di Bri ssago植 物 園 は,現 在 , Zurich大 学 の附属植物 ka河 の左 岸 にひ らけ た SarajevO市 の大学 には , 園 (本 国 は Zu richに ぁ る )の 分園 であ る。 嘗 て, こ BOtaniと ki vrt zemaljskejmusel(Hortus 有 とな り,後 にZt rich大 学 の管轄下 1/C移 管 され た 。 都 で, I vall山 脈 に よ つて, ア ドリア海 か らは, さ え ぎられ た内陸気 候 地帯 に あ り,附 近 の 植生 も沿岸 次 の 3つ の 植物 園が ある。 l の 島は私 有 の 自然庭 園 で あ ったが,1949年 ,州 の公 1969年 の秋 BOtanicus Sarajevoensis) 2 大 学 か ら移 った 方 lnarski Fakultet. 3 訪 れた 際 には, Zuri ch大 学 の P10f. Markgrafが か られ (1山 rkgraf教 授は前職剣饉nchen Planiska BOtaniご ka Basta Trebeviる Su― ),詳 し く園 の 由来 に つ いて 説 明 を うけた。 所謂 国有 に なってか ら,園 内 の既存 の 植 Botaniと ka Basta Alpinetum Sumarski 生 を保 存 す るだけ に と ゞま らず, さ ら1/C島 とい う立 Fakultet Universiteta u. Sarai evO. 以 上 の 諸 園 に く らべ て, Zagreb大 学 の 植 物 園 は ユ ー ゴ国 内 では ,近 代 的 設 備 と い う点 で は 最 も進 ん 地 条件 を活 用 し,人 為 的 に作 り出 した植相 を, 自然 だ 内容 を持 ち,そ の 所 属 は Farmaceutsko― bioc he― る よすが とす るた め,気 象 イン デ ィケーター植物 を 選 び, アル プス 越 え の GOthard峠 の向 う北側 の Ztrl― , mij ske Fakultet(薬 学 ・ 生 物 化 学 科 )。 主 都 Bel― gr adに 次 ぐ,第 2の 都 会 で あ る,こ の 街 に は,1868 の ご と くに管理 して,植 物 の本然 の す がた を認 識す 年 以 来 ユ ー ゴ ー・ ァヵ デ ミー の 本 拠 が あ り,そ れ よ ch本 園 と, こ ち ら南側 の Brissago分 園 とでの 比 較栽培 ,暖 地植物 の試 作,た とえば , ソテ ツCycas り以 前 1669年 ,既 に 基礎 を置 か れ た Zagreb大 学 は は ス イス の国 内 の 他 の場所 では 育生困難 なのに,当 , 今 一 つの 植 物 園 (Botaniske Urt Svencilista Pri― 地 では 良好 な結果 が得 られ る原因 は何 か, な どの問 す る小 さ い 植 物 園 )を 持 ってい るが , い ず れ も,中 題 に就 い て の生 育条 件 の解 析 ,ま た ,生 きた標本 館 Herbarium vivumや ,生 態 ロ ック・ ガーデ ン, さ ら 央 ヨー ロ ッパ の もの とは比 較 す べ くもな い こ と, い に全 く人為 的 に制御 した植物 共 同体 の unitを 作 制 す うま で もな い 。 植 物 園 が ,立 派 1/C整 備 され て い る こ る 試 み,た とえば園 内に,全 く未知 の 自然 界 に ない とは,そ の 国 の 文 化 の 進 度 如何 とは , う らは らに 未経験 な群 落 と して小規模 な林 を,意 識的 に作 りだ rodostovno Matematicki Fakultet〔 理 学科 〕に属 , 国 内 の 緑 の 自然 の 豊 か さ とは ,一 少 くと も ヨー ロ ッ し (無 意 識 lrcは ,あ ち こちでや られ てい るが),植 物 パ で は 一 反 比 例 して い る とい う比 肉 な現 象 か 。 学 の専 門家 の研 究 対象 と しての 素材提 供 を 含 め ,そ イ タ リー, ス イ ス には大 学 附 属 の 標 準 的 な , また れ を超 えて,文 化 全般 の 領域 の活 動 にたず さわ る研 歴 史 の 古 い 植 物 園 が 多 い 。 有 名 な もの よ り,特 色 の 究者 に,内 容豊 富 な実 地 の教 材 を供 給 す る とい う あ る もの を拾 うと,北 イ タ リー Aostaに 国 立 の高 山 や ゝ突 飛 とも思 われ る課題 。 このため には ,技 術者 生 物 研 究所 (Stazione di Biologia Montana)を には,植 物 地理学 的,生 態学 的基 礎知 識 と,生 きた つ 持 高 山 植物 園 Qar dino Alpino“ Paradisia" が あ り, この 附 近 一 帯 ,約 ∞,00011aが 国 立 公 園 ParcO Nazionale Cran Paradisia 1/C指 定 されて 1/Nる 。 , 造 園学 上 の aestetic(美 学 的 )な センス も要求 され 一 つの フ ィク シ ョンで ある外 来植物 の 創意的組合 せ , に よる未 知 の植相 の 創造 のた め,陽 樹 ・ 陰 樹 の 組合 模 の もの で,今 後 の 課 題 をか ゝえ て いるが, 全 く快 せ ,相 互 の干 渉 と平衡 を洞察 す る,基 礎 と応 用 の高 α 度 な 知恵 "が 必要 となる。 こ ゝの園 の技 術者 の あ 適 な北 イ タ リー ア ル プス の素 晴 しい 環 境 の うちに あ い だには,同 時 lrc,戸 外 の青 空 の下 での 一 自然 の の 夏 を, この 研 究 所 内 の 宿 合 に過 した こ 気 温,光,地 温 な どの立 地条件 が 植物 育生 の基本 で 研 究所 は1864年 設 立 さ れ た比 較 的新 しい 極 め て小 規 り,1974年 とは 好 き思 い 出 と な った 。 研 究上 の 目的 で もあ った ,シ ャ リン トウ属 Oolone― asterの 殆 ん ど南 の 端 の分 布 状 態 を ,そ の 2種 0 , K lilna tron,栽 培調 節温 室 な どは,補 助手 段 にす ぎ ない とい う,機 械文 明 の 進歩に よる弊 害 に対す る単 integer rimusと C.tom entosus lrCつ いて みる こと が な る レ ジス トを超 え た 姿勢 もみ られ た。 ス イス には, このほ か,Gen`ve大 学 に,植 物 学史 で きたが,こ ゝは 中央 ヨーロッパ の 多 くの種 の 分 布 の 南 の うえ で も重要 な役割 を 占め る,現 在 で もよ く整備 限 を確 か め るの に必 要 な地 域 の一 つ で あ る。 禁猟 に され た植物 園 が あ り, Lau sal■ ne,Basel,St.い llen な どにもそれぞれ 中規模 ,標 準 的 な大学 植物 園 が あ ス トリーのWicn,Graz,I● nsbFuck各 大学 る。 オーー に対応 した改革 を,理 念的 には 目下 の課題 と してい 植物 園 も, とりた て ヽ述 べ るは どの特 長は ないが ` 共通 な こ とは, Munchen,Hamburg,Be rlin― I)h― 永 き伝統 と因 習 に縛 られ た悩 み もあ つて,現 実 の面 に現 れ た動 きは遅 々 と してい る とい う印 象 を つけた。 , lemの ,所 IIB西 ドイ ツの御 三家 とい われ る 3大 植物 る様子 が うか ゞえ るが,既 存 の規 模 の大 きい こ と ゝ , こ ゝでは , あえ て,比 較的新 しい大学 植物 園 の 例 と して, Frankfurtの GoOthe大 学 の 植物 園 を と りあ げ てみ たい。西 ドイ ンは,東 ドイ ツ と ともに,大 学 植物 園が最 も整 備 され た国 の一 つ とい うこ とがで き るだ ろ う。 Frankfurt市 には,市 立 の植物 園 で あ る PalmengaFtenと ,Goethe大 学植物 園 とが ,相 互 の機 能 を重複 させ な い よ うrC,併 設 されてい る。両者 とも , 市 の中心 か ら西 北 方 に当 る街 はず れ に あ り,後 者は 南,東 お よび東 北側 は広 大 な Oruneburg公 園 と境 し , 西 お よび南 西狽1は ,前 記 の Palmenga rtenに 接 す る。 現在 の地 に園 の 設立 が始 め られ たのは,1937∼ 39年 で,第 二 次大 戦 と,終 戦後 の数年 間,工 事 が 中断 さ B,rlin― D ah l eln植 物 園 の大 温室 れ ,1949年 に再 び着工 し,約 10年 をか けて完 成 した。 1969年 訪 れた時 の園長 Prof.Egleは ,植 物 生長 生理 学 園, LondOnの Kew植 物 園, Parisの , 国立 自然史博 光合成 の専 門家 で あ り,田 宮博先生 (本学 の前応 微研 物館附属 植物 園 な ど ゝ同 じ く,訪 れ てみ て感 じられ るの は,旧 い 歴史 と ヽもに定着 した,そ の園 の伝統 所 長 )の ことを よ く噂 してか られ た。 Egle教 授 は この 園 の設 立 の 頃,長 靴 をは い て,造 園工事 に もた 的な性格 か ら,新 しい時代 に即応 した思 い きつた近 代化 へ の改革 を試 み る こ とは容 易 で ない とい う現1場 ず さわ った と聞 いた。以 来10年 間 ,園 の経営 に従事 職員達 の脳 みであ る。歴史 あ る大 学植物 園が,将 来 多 くの人 々 に 惜 しまれ て亡 くな られ た。 この 植物 園 の 前身 は ,現 地 点 か ら程 遠 くない ,大 学 本部 の構 内 の ,少 くと も現 rC動 きつ ゝある新 時代 の 社会 的要請 掛 警 圭 な , され,植 物 園職 員 の信 望 も絶大 で,昨 年1975年 に , 観 れ 散 室の 建 物 外 ぞ 室,研 究 は,そ れ 段 示す。 ,電靡幕霧夕品援 , じ遂 げ よ うとい う方 向 で,共 同研 究 を促進 し,生 物 学 ,遺 伝学 ,動 物行 動心理学 (ミ ツバチ の生 態 ,コ ウ モ リの行 動生理 な ど ),人 類学 ,生 化 学,生 物 物理 学,物 理化学 の境 界領域 の研 究分野 の発 展 をめ ざす とい う ことが , うたわれてい た。 キ ャ ンバ ス の一 角 に栽培 温室 に接 し,職 員 ,外 来研 究者 のた め の 宿泊 室,食 堂 と,特 に,園 の技 術職員 の厚 生 施 設が ,小 規模 なが ら しつ らえ られて あ り, こ ゝの Gastzi貯 merに 筆者 も再 度,お 世 話 lrcな った。 敷地 の大部 分 を 占め る苑地 は, Soziologic(生 態学 )区 域 で,そ の なか に湿性 お よび乾 性草 原 (Wiese),湿 原 (Moor) 荒地 草原 (Dttne), ヒース (S teppenheide),高 山性 草原 (Alpinum)お よび,幾 つ か の タ イプの コー ロ ツパ各地方 の混清 林 のモデル 地区 な どが設 けられ , 園 のほ ゞ中央 には人工 的 な富栄養 池 (oligo trophな Teich)が あ り,こ れ も 3∼ 4年 ご とに浚渫工事 で 改新 される 。小 規模 の薬用,園 芸用 な どの標本 国 の ほか に,プ ラ ン カの類 や , トマ ト, あ るいは 穀 類 な Goethe大 学植物園内のFachbereich Biologieの 建物 ど農 産栽培 植物 の 発達 史 を示す 展示標 本 国,接 木雑 種 の実例 (Hab∝ landtの Crataeg∝mespilusな ど) に あった 。 そ の創立者 は 有 名 な 」Oh.Ohrist ian もみ られ,教 育的 に もか な り完 備 され て いる。 Senkenbergで ,そ の 名 を記 念 した Senkenberg Mll 邸 in市 立 植物 園 では,(F r ank furtの Palmen― garten 1/C立 派 な温 室が ある ので ,Goethe大 学 の s e lllllは ,生 物学 ,主 と して背椎 動物 学 研 究 の一 中 心 となって いる。植物 園 の変 遷 の歴史 に つい ては 植物園 では重複 を避 けてい た の と同 じようlrC)Kbin Eglc教 授 の著書 rCも 大 学 の 研究 資料 植物 が ,み ごとに 育生管理 され てい , み られ, 周知 の “D ichtung undヽ ヽ bhrheit"rCみ られ る よ うに,詩 人 ゲーテの意 見 が植物 学 の面 で も反映 し,刺 激 とならた ことが知 る例 をみ た。1974年 東京 で,日 本 植生 学会 の国 際 シ ンポジ ウム が 開か れ た際 に来 日 した, KOin大 学 の られ る。 当地 の人 ,Goethe大 学 の職員 は,150年 後 の今 日,実 験 温室や, Klimakalllmerの 実現 を以 て Jensen教 授 が,日 本 か ら採 集 して持 ちかえ られた シ ラネヤ オ イ, Ranzan ia(ト ガク シシヨウマ )な どの これ に近 代的 な意 識 で応 え よ うと考 え てい る。植物 貴 重 な生 品 が,開 花結 実 し,研 究資料 と して,血 清 園 は,科 学教 育 と研 究 に貢献 す る使命 を持 つ とい う 創立 者 の主 旨は ,キ ャン バ ス の移転 や 管理 者 の 交代 反応 で植 物成 分 の比較 か ら系統類 縁 関係 を追求 して , , い る彼 の研 究室 で用 い られ てい るの を,1975年 に を通 じて,そ の精 神 が うけ継 がれ,機 能 に応 じて隣 」ensen教 授 を訪 ねた際 にみせ られ た。同時 に,彼 の 接 す る市立 の Pal menga rten(こ の敷地 も,も とOoethe 友 人 で もある,K61n市 立 植物 園 の Dr,KOch氏 の努力 家 の寄 附 に始 る と聞 く )と もお互 い 1/C相 補 い,無 益 の重複 や競 合 が ない ように配慮 されて運 営 されて い に よる もの である こ とを,国 立大 学 と市立植物 閲 と る。私 も滞 在 中,Egle教 授 の 要 請 に よ り,植 物学 の 関係 の一 夕1と して 興味 深 〈聞 い た。 また , ドイ ツ国内 では,あ るい は ヨー ロ ッパ で一 教 室 の学生 の Praktikumに タッチ した限 りでは,Goe― 般 に数 多い園 が,お 互 い に努 めて 同 じタイ プの園 に the大 学植物 園 と, Palmengartenと を 目的 に よ なる こ とを避 け,で きるだけ特 色 をだす よ うに して り有機 的 に利 用 で き るのには 感心 させ られ た。人 事 いる。(こ れ は ,真 似 をす る こ とを恥 とす る 自負 ′ いに 交流 も, ある程 度 は両者 間 に行 なわれ てい る。園内 よるの で あ ろ うヵ、)西 ドイ ツだけ では ない が,園 の には ,植 物教 室 ,動 物 教 室 のほ か に微 生物 学,人 類 すみず み まで神経 の ゆ きと ゞい た管理 が なされて い 学 の教 室 もあ り,動 ,植 ,人 間 とい う対 象 に よって の区別 と,併 せ て生物 学 的問題 の提起 に よって,各 る大学植物 園 の長 は,す べ ての例 で,10年 前後 の キ ャ リア を もつ園長 の も とに管理 運営 され てい る。 前 ヾス 内 で,成 分野 の有機 的 な綜 合 を,一 つ の キ ャン ノ 述 Egle教 授 の ほか ,Kopenhagen大 学 の植物 園 の て,そ の機構 の解 析的研 究 が な され ていて,蒸 散作 PrO f.Ols∞ ,Tё chn.hiv.植 物 園 の PrOf.Aach ほか,多 くの例 をみ る。 逆 に短 期 間 で,そ の長 が た らい 廻 しに交代 す る ところでは,長 期 的展望 がえ , 用 と,葉 の 温度 ,気 温,湿 度 ,太 陽光 線 の heliOch― られず,、 職員 の意慾 は あ って も,コ ンセ ン トレイ ト され ず,徒 らに ダイパ ース して い る とい う現 象 が ronic prOcessを 記録 す る Field workが み られ た 。 一 方,園 内 には,地 中海沿 岸植物 を主 とす るこ とは 勿 論 で あるが,国 外 の熱 帯 ,亜 熱 帯植物 が 豊富 に植 い く箇所 か の例 で み られた。 栽 され て いて,入 園者 に対す る教 育 と,併 せ て,自 , 然 愛好者 に休養 と,魂 のや す らぎを兼 ね させ る雰囲 気 を提供 す る公 共施設 で ある ように心 が けて い る様 子 が うか ゞえた 。 これ に対 して, Barcelona植 物 園 は ,同 市 の港 の背後 の高台 に ある ,標 準的 な古 い植 物 園 で,コ ロンプス の柱 像 を眼下 にみ お ろす ,台 地 の 斜 面 が 苑地 となってい る。丁度 5月 の季節 で もあっ たため, マ ツパ ギ タ類 (A izoacё aeツ ル ナ科 Mesenr brianthemum)の 綺麗 な花 が ,標 本園花壇 に咲 きみ だれていた。 Barcelona大 学には,植 物教 室 の す ぐ 傍 に, さす が に植民地 関係 の学部 研 究室,教 室が あ って, この国 の特殊性 を感 じさせ られ, イギ リスt オ ラン グの 嘗 ての 植物 園 にみ る よ うに,植 物 園 の来 歴 の一 つの原 型が,植 民地植物 の 研 究κ あ つた こと 地中海に臨む Oosta Brava(ス ペ イン )の Mar Murtra植 物園 i スペ イン の地 中海 沿岸 の 6sta Bravaに Mar i Murtra植 物 園 とい う,い つ風 変 った,地 中海岸一帯 の生物学 的研究所 を兼 ね た園 (el Jardin Botanico, Fundacion Carlos Faust,Mar i Murtra)が ある。園 の名は sea and myrtusを 意 味 しmy rtusは ヴィーナ スの神木 で,地 中海沿岸 の 指標植物 の一 つ で もある。 そ の創設 者 が, ドイツHessen州 出身 の Dr.Karlos Faustで ,彼 が若 き日に,天 啓 に よ り南方 の地 に , 植物 研究 の新 天地 を開拓 す る使 命 を感 じ,ス ペ イン 国 内 で も特異 なカ タ ロニ ア文 化 圏 に ある Oosta Bra― vaの B lanesと い う小 さな漁村 にや って 来 て,当 時 ブ ド ツ畠 で あ うた村 はずれ の高 台 に,最 初 の鍬 を入 Tl,ingen大 学の植物 園 と生物学関係の研究室の建物。 写真中央 に調節栽培温室 TrOpicariumが み られ る。 れた のが , この植物 園 の発端 で あ った。1874年 生 れ の彼 が 少年 時代 に Frankfurt a,Mainで 学ん だ こと な ど,や ゝ伝説 的 ともいえ る,そ の小伝 を植物 学 に 関す る雑 誌 で読 ん だ筆者 は , Frankfurt滞 在 中 の 1970年 の 5月 ,Blanesに Mar i Murtra植 物 園 を訪 れた。 門 をは い ってす ぐ正 面 に Faustの 胸像 があり 彼は , この地 に亡 す る迄 ,独 自 の プ ラン に よって園 , の設営 に従事 した こと,彼 の死後 ,園 の管理 は スペ イン人 の 同志財 団法 人 に よって行 なわれ,前 記 の 研 究施 設 に移行 した ことな どを知 った 。 この施設 は , 外来研 究者 に対 して公 開 され て い る。訪 れ た とき , 丁度,地 中海 沿岸 の指標植物 の 葉 の 気孔 開 閉 に就 い -8- Tubingen大 学 の植 物 園 ,TrOpicari 斜面 に標本 園がみ られ る umと そ の下の 地 方 の 自然 植生 の一 部 を国 内 に と ,こ ん で ,そ の 植 を思 い し らされ た 。 い ま ひ と つ,関 心 を もってみ て きた こ とは ,大 学 生 タ イ プ を PrOtO― typeの モ デ ル と した もの ,逆 に 植物 園 の 移 転 の 例 で あ る 。 か な り多 〈の 古 い 大 学 が 経 済 的 1/C重 要 な 栽 培 作物 を雑 草 植 生 と い っ し ょに栽 狭 くなっ た 旧 市 内 の キ ャン バ ス を,郊 外 に 移 す 1/C当 培 し,除 草 剤 を全 く使 用 しない (嘗 て一 度 も使 用 した つて ,広 義 の 生 物 学 関 係 乃 至 ,理 学 関 係 の 諸 研 究 室 こ との ない )地 区 な ど を設 け る創 意工 夫 が み られた。 の 研 究環 境 と して,植 物 園 の 広 い地 域 を 占 め る設 営 所 謂 ,雑 草 が 耕 作 地 か ら除 草剤 で 急、 速 に消 え て い く が な され た 例 をみ る こ とが で きた。(Tubingen大 学 今 日,本 来 の BiotOpe(幾 つ か の plant community の 生物 学 科 ,写 真 参 照 )現 に 進 行 中 の 場 合 もか な り か らな る pl ant associatiOn)を 保 存 す る意 図 が そ こ あ る。(Gbttingen大 学 )こ の 問題 は , 日本 で も将 来 の 1/Cあ , る。 現 在 ,園 の ス タ ンフ と して専 門的 な研 修 を 経 た Skane地 方 の Floraの 研 究 者 や ,植 物 生 態 学 を 然 も近 き将 来 の 課 題 と思 わ れ る。 国 外 の 植 物 園 を訪 れ て ,わ れ わ れ が 思 っ て い た よ 修 め た 技 術 者 が 任 命 され る シス テ ム に な っ て い て 比 較 的 短 期 間 の あい だ に 約 り, Holtus BotanicuS Koishika、 vaensis Univer― sitatis Tokioensis(東 大 小 石 川 植 物 園 )の 名 が 多 , 900種 の 植物 を園 に 導 入 することができたと聞く。内容からみても,Skhe を 昔 の人 は , もっ と有 効 に使 う知 恵 が あ っ た よ うに 地 方 で珍 しい種 や絶 滅 のお それ の ある もの を含 むば か り でな く,科 学的価値 の高 い 当地方特有の Bi。 一 (青 木 昆 陽 )の 記 念 碑 ,小 堀 遠 州 topcの 要 素 を も含 ん でいて,種 類乃至 ● onmunityの くの 人 び とに知 られ て い る の に 驚 く。 み え る。 甘 藷先 生 5万 坪 の 土地 設 計 の 日本 庭 園 ,厚 生 施 設 と して の 養 生 所 跡 ,精 子 保存 に貢献 す る とい う意 義 が ある。 さ らに 発 見 の イ チ ョ ウを 見 る に つ け て も, さ らに近 くは nityの 成立 と発達 の時間 的経 過 を比較研 究す るため , conunll― 日本 の 植 物 生理 学 ,生 化 学 発 祥 の 地 で あ る,柴 田 桂 の準備 も進 行 中 で , この よ うな, 自然界 の摂理 の基 太 先 生 記 念 室 な どを,今 日の わ れ わ れ は,単 な る モ ニ ュ メ ン トと して眺 め るだ け 1/C終 って は な る ま い 。 礎 的 研究 の 地道 な 努力 が, 自然 の保 護 管理 に も通ず る こと ゝ思 われた。 現 園長 の Dr.Merker のか 宅 に 最 後 1/C,ネ カ ン ジナ ヴ ィア 半 島 の い くつ か の 古 い 一 晩 泊 めて頂 いて,雑 談 の うち lrc, うか ゞった こ と 大 学 植物 園,一 Uppsa la,Gё thcborg,Lu nd,Kopen― は, この よ うな植物 園 の 今後 新 しい時代 に対応 しての ltage n,Oslo,Belgenな どを訪 れ た あ と,Sweden 価値 を,社 会的 な観 点 か らいえ ば, で きるだけ広 〈 の Helsilngbor g自 然 植 物 園 を み た 感想 を述 べ た い。 世 間 の 諸 階層 の 人 び と1/C認 め られ る よ うにす るこ と デ ン マ ー ク の 1ヒ の 端 Heisingorか ら, スエーデ ンのそ 一 つ ま り,将 来 の植物 学者 ,生 物学 者,教 師 や学 れ に ょ 〈似 た名 の街 比 IsingbOrgへ は,両 国 の 間 を船 生 には 勿論 の こ と,そ れば か りで な く,一 般 の 民衆 で連 絡 す る最 短 距 離 で あ る 。 この 古 い 小 さ な ,み な で 自然 に関心 を もち,そ こか ら学 ぼ うとす るひ と と街 は ,船 付場 か ら斜 面 で ゆ る や か に 高 台 に つず く さ らには素朴 で田園詩 的 な欲 求 を もつ す べ ての 人間 に 欠 〈 こ とので きな い コー ナ ー と して の存 在価 値 を , よ く整 備 され た 緑 地 ,墓 地 や公 園 に もゆ と りの 感 じ られ る 閑 静 な 雰 囲気 を もつ 。 そ の 街 は ず れ に ,自 然 植物 園 (Botaniska Tridg:rden inom predriksdal , 認 め させ る こ とで あ ろ う, と。 Helshgborg植 物 園 では, 自然 を総 合的 にみ る とい う主 旨 か ら, こ ゝで Garden Within the open air museum Of Fredriks― 行 なわれ てい る教 育 の うちに,地 質 ,鉱 物 , 自然地 理学 の基 礎 的 な カ リキ ュ ラ ム を含 めてい るばか りで dal,HelsingbOrg)が あ る。 園 は 1918年 ,市 のMu― な く,素 朴 なが ら,地 学 分野 の 資料 も, ある程度 整 seumが 個人 の 荘 園 を,そ 備 され つ ゝある。以 上 で,厳 密 な意味 では ,大 学 の Friluftsm■ seum,Helsingborg==The Botanical の 館 と ヽ もに寄 附 を受 け た と き1/C始 る。 寄 贈 者 の 証書 に,所 在 地 の一 部 が 植物 園以外 の もの にふれ よが ,帰 国後,わ た 〈しは , , 植 物 園 を建 設 す る ため に使 われ る こ と, とあ っ た 。 大学 植物 園 に限定 して,そ の将 来像 と展望 1/Cつ 園 内 の 植 樹 な どが活 発 に 促 進 され は じ め た の は 各 植物 乃至生物学 研 究 室 に ア ンケ ー トを と り, これ , t/hて , 1936年 頃 で, Lund大 学 の PrOf Nlls Syl、 ざn と を参考 に, ひるが ぇ って,本 学 部 の植 物 園 をかえ り Dr.H Vallinが ,園 の 長 期 的 展望 を ふ ま え た構 想 と,詳 細 な植 栽 区分 ,造 園 設 計 の 立 み てみ たが,今 後 の課 題 が 如何 1/C重 い か を痛 感 した。 植 物 園 と い うの は,基 礎 理 学 (数 学 を含 めての )勉 案 に あた っ た 。 現 在 で も, 室 か ら資 利 の 供 給 ,調 達 な ど有 効 か つ 適 確 な指 導 を 強 の ため, “知慧 の い こい (憩 い )の 樹 蔭 “を供 す る森 で ある とい う, イギ リス の 詩人 の ことば にふ さ うけ, お 互 い に 交 流 を は か って い る,と い う。 Sk:ne わ しい所 でな け れ ば な らない 。 , 市 の Museu mの Lund大 学 の 植 物 学 研 究 -9- グッチ ングン(月 沈原 ?)市 は ,古 ぃ大学街で ,旧 市街には,ガ ウスの銅像などがみられる 上図は 18世 紀のG6ttingen大 学嫌 物園と,そ の研究室の建物。現在は,旧 市街内のこの場所から,郊 外に移転が進行中。 ハ イゼ ンベ ル ク教授 を悼 む 二 月初 め に新 聞紙上 で ハ イゼ ィ ベル タ教 授 の言卜に 島 ロロ ■→ 西 彦 (物 理 ) 接 した。一 月 に肺癌 で重態 で あ る とい う こ とを聞 い を通 じて グ ツチ ン グンに あるハ イせ ンベル クの 研究 所 へ来 ないか との話 が あ り,昭 和 三十 一 年 一月 にグ たばか 夕で あった。奇 し くも量 子力学 建設後丁 度半 ッチン グンの マ ッタス・ プ ランク物理学 研究所 へ 赴 世 紀 目で あ った。云 うまで もな く,ハ イゼ ンベ ル ク い た。私 が着 いた頃 には,ハ イゼ ンベ ル タは ス コ ン は,量 子 力学 の建設 ,特 に行列 力学 の創 始者 と して トラン ドに講 演旅行 中 で グ ッチ ン グ ン には居 られ現 或 い は不確 定 性 原 理 の発見者 と して,及 び其 の 他 の か 目にかか った の は二月 になつてか らで あった 。 そ 多 くの重要 な研 究 で知 られ る今世紀最 高 の物 理学者 の留守 中に,研 究所 に居 る若 い ドイ ツ人 か ら,色 々 の一 人 で あ る。 戦前 は 彼 の研 究 室は理論物 理 学 の メ と彼 に関 す る予備 知識 を与 え られ た。 , ッカ で あ り,多 くの優 秀 な物理学 者 が集 った。 日本 か ら も菊 地 ,藤 岡・ 朝 永等 の諸先 生方 が ハ イゼン ペ ル クの許 で研究 を され , 日本 に も知 己が多か った。 私 が ハ イゼ ンベル ク教授 に初 め て お 目にか か った のは今 か ら丁度二十年 程 前 の こ とで ある。朝 永先 生 -10- 当時 の ドイ ンは ,戦 争 の 痛手 か ら完 全 に 回復 して か らず,到 る所 で戦争 の 痕跡 が 見 られ た。 例 え ば 色 々の 役所 に行 くと,そ こで 働 い てい る人は殆 ん ど , 例外 な く戦傷者 ばか り であ った 。 ど うや ら公共 の 役 所 では 戦 傷者 を優先 的 に雇 って いた よ うで あ る。 ハ イ ゼ ン ベ ル ク個 人 も戦 争 では か な り精 神 的 痛 手 を こ 学者 だ つ た の が ,戦 後 は す っか り と老 け込 ん で しま うむ っ た らし い 。初 め て お 目に か か っ た 時 の 印 象は っ た とい うこ と を聞 い た 。 私 が グ ッチ ン グ ン を去 っ 伝 説 的 な俊英 とい うよりは む しろ好 々 爺 とい う感 じ て次 で あ った 。 色 々 と昔 の 逸 話 で 聞 い て いた 鋭 さ は全 く 研 究所 で あ った 。 こ この 物 理 の主 任 は , ス ピン の 発 見 で有 名 な カ ウ ス ミッ トで あ っ た 。 彼 は 私 が ハ イ ゼ , 感 じさせ ず,当 時 五 十 代 の 半 ば で あ つた筈 だが ,ず っ と年 を とって い る よ うな感 じ を与 え た。 ハ イ ゼ ン rr‐ 行 っ た 所 は , ア メ リカの ブル ッ クヘ ヴ ン国 立 ン ペ ル クの 所 か ら来 た と云 う と馬 鹿 に ハ イゼ ン ベ ル ベ ル ク 自 身 の 環 境 は 第 二 次世 界大 戦 を境 と して 完 全 ク の 悪 口 を云 うの で 何 故 だ か判 ら なか った 。 後 に私 に変 1)て しま った よ うで あ る 。 は 或 る本 を読 ん で や っ と判 つ たの だが , カ ウス ミ ッ そ の 第 一の 原 因 は , ア メリカか らの 度 重 なる 招 聘 トに は オ ラ ン グ 系 の ‐ ダ ヤ人 で ,彼 の オ ラ ン ダ に 残 を断 って 最 後 ま で ナチ ス ドイ ツに 止 った こ と,及 び って い た家 族 は ナ チ ス の た め に 皆 殺 しに され て しま ア メ リカ 1/C原 爆 を 創 らせ る こ とに な った ドイ ツで の っ た。 そ して 戦争 末 期 に, ドイ ンの原 爆 研 究 の 秘 密 原 爆研 究 に加 った とい うこ とで あろ う。 そ の 結 果 と して, ハ イ ゼ ンベ ル クは ユ ダ ヤ 系 の 物 理 学 者 の 憎 し を ソ連 に奪 わ れ るの を防 ぐた め に ハ イ ゼン ベル ク等 を捕 え るた め の ア ル ゾ ス機 関 が組 織 され た 時 に, カ ウス ミッ トは そ の 責任 者 と して ドイ ツに赴 き,ハ イ み の 対 象 とな って しま っ た よ うで あ る。 この よ うな デ リケ ー トな問 題 の 真 相 は , ドイ ツlrc ゼ ン ベ ル ク を逮 捕 した の だ とい う こ とで あ っ た。 逮 日 の浅 い 外 国 人 等 には 判 らな いが ,そ の後 研 究所 の 捕 され た ハ イ ゼ ンベ ル ク等 の ドイ ツ人 の物 理 学 者 達 お 茶 の 時 間 等 に,時 々 ハ イ ゼ ン ベ ル クは 若 い 者 を集 は , イギ リス の 古城 に半 年 間 幽 閉 され てい た とい う。 め て 音 を 回想 す る とい う形 式 で 戦争 中 の 事 を話 して この 幽 閉 時 代 の こ とは, ハ イ ゼ ン ベ ル ク の お 茶 の 時 間 の 話題 と して慶 々登 場 した。 家族 との連 絡 が断 聞 かせ た 。 自分 は ドイ ツ人 で あ るか ら ドイ ツの た め に ドイ ツ に最 後 ま で 留 って い た 。 しか し ドイ ン に留 って もナ チ ス には 協 力 しなか った 。 当時 ユ ダ ヤ人 の 発 見 した た れ て い た と い うこ とを 除 い て は ,大 変 優 遇 され て い た ら しい 。 或 る 時 ハ イ ゼ ンベ ル クが 監 視 の イ ギ リス将校 に , こ とを 一 切排 除 して建 設 した ドイ ツ物 理 学 とい う も 自分 が 誰 で あ るか 知 って い るか と聞 く と,ベ タ ン元 の が あ っ た。 この主 唱 者 は シ ュ タル ク (シ ュ メ ル ク 師 だ ろ うと答 え た とい う話 は 彼 の 十 八 番 で あ った 。 効果 の 発 見 で ノー ベ ル 賞 受 賞 )等 の ナ テ ス物 理 学者 さ て この 頃 マ ック ス・ プ ラ /ク 研 究 所 を グ ッチ ン で ,ア イ ン シ ュ タ イ ンの 発 見 した相 対 論 を排 除 した グ ン か ら ミュ ンヘ ン に移 す とい う話 が具 体 化 してい 狂気 の物 理 学 と も云 うべ き も の を信仰 して い た。 ハ た。 日本 で い え ば 東 京教 育 大 学 を筑 波 に 移 す とい う イ ゼ ンベ ル タは 良心 的 な物 理 学 者 と して , この ナ チ よ うな話 で あ る が, この場 合 は 逆 に グ ッチ ン グ ン の ス物理 学 と随 分 烈 し くや り合 つ た ら しい 。 しか し流 よ うな田舎 町 で は 大 規 模 の 実 験 設 備 が 置 き難 いので 石 の ナチ ス もこの 高 名 な物 理 学 者 の こ とは処 理 し兼 大 都 会 の ミュ ン ヘ ン に 移 ろ う とい う話 で あ つた 。 南 ね た よ うで あ る。 独 の 出身 の ハ イゼ ンベ ル クは この 話 1/C大 い に乗 り気 原 爆 に 関 しては ,彼 は 到 底 戦 争 に 間 1/C合 う とは 思 , で ,毎 週 ミ ユン ヘ ン に出 か け て 行 った 。 研 究所 に と っ てい な か っ た 。 勿 論 当時 の ドイ ツの 国 力 を 考 え て って も貧乏 な ニ ー ダ ー ・ サ ク セ ン か ら冨 有 なパ イ エ の 上 で あ った であ ろ う。 しか し彼 ル ンに 移 る こ とは財 政 的 に も得 に な る こ と であった。 lr■ ドィツの 物理 学 者 を戦場 に送 ら な いで す む よ うに,或 る程 度 の 研 究 政 府 か ら 予 算 が 認 め られ る と彼 の 興 味 は もっは らり 続 行 を進 言 してい た ら しい 。 しか し勿論 実 際 に は 作 究 所 の た め に どん な美 術品 を 買 うか と い う こと で あ ろ うとは しなか っ た し,ま た 作 る こ とは到 底 出来 な っ た 。 そ れ は 政 flの 予算 の 何 パ ーセ ン トか は,研 究 か った ら しい 。 彼 に よれ ば こん な もの を本 気 で 作 ろ 所 の 装 飾 の た め の 美 術 品 を 買 わ な けれ ば な ら ない と うと努 力 をす る こ とは狂 気 の 沙 汰 で あ り,本 当 に 作 い う規 則 の た め て あ った 。 日本 で は 考 え られ な い こ │ って しま った オ ンペ ン ハ イ マ ーの こ とを批 判 して い ージは か な り高 率 で あった。 と だ が, この パ ー セ ンテ ー た 。 そ し てそ の 時 は 彼 自身 も色 々 と中性 子 を 使 っ た お 茶 の 席 に ,彼 は こん な もの を 買 tヽ た い とい う こ と 実 験 をや り,大 変 楽 しか った と語 っ て t/hた 。 を楽 しそ うに 語 ってい た 。 また この 頃 の ハ イゼ ン ベ ル クは ,毎 日研 究所 に な 心は と もあ れ ,表 面 的 に は ナテ ス ドイ ツ に協 力 本′ した形 に な り,そ の た め lFC戦 後 随 分 苦労 され た ら し 朝 九 時 か ら十 一 時 な で 出 て ,午 後 は 出 て米 なか つた。 い 。 そ の 結 果 と して, 戦 前 は そ して朝 の 二 時 譴」に 事務 を と った ジ,色 々 な人 を呼 口 と した丼 手 の物 f J‐ '‐ -11- び出 して物 理 の議 論 を す るの を常 と してい た。 私 も の 場 の 理 論 を始 め た とこ ろ で あ った 。 パ ウ リは この 何 時 呼 び出 さ れ るか は 判 らな い が ,毎 週 少 くと も一 理 論 rCは 反 対 で あ った が,丁 度 こ の頃 の 一 時期 ハ イ 回は 呼 び出 さ れ る の で ,毎 日九 時 ま で に行 っ た 。 そ して呼 び 出 しが終 る と,そ の 後 の二 三 日は ゆ っ くり ゼ ン ベ ル タ理 論 に 興 味 を持 ち,二 人 で 一 緒 に仕 事 を してい た 。 パ ウ リは ハ イゼ ン ベ ル クに とっ て は 最 も と出掛 け る こ とに して い た 。 辛辣 な 批判 者 で あ った の で,学 会 な どで ハ イゼ ンベ そ うい う時 に限 っ て 研 究所 へ 行 く途 中 の道 で,研 ル クが 話 を す る時 に は,ま ず パ ウ リの 席 の 前 ま で 行 究 所 か ら家 へ 帰 る途 中 の ハ イ ゼ ンベ ル クに 出会 っ て き,彼 の 顔 だ け を注 視 しなが ら話 を進 め るの で あ っ あわ て た り した も の で あ る。 或 る時 な どは,ハ イ ゼ た。 ン ベル クが 呼 び 出 した五 人 が 皆 ま だ寝 てい て 研 究所 パ ウ リは 首 を縦 に振 っ た り,横 に振 った り して 聞 い て い た 。 間 もな くパ ウ リは ア メ リカ に行 き ,‐ ュ lrC来 てい ない こ とが あ って , と う と う研 究 所 に一 番 近 くに 住 ん で い た人 が 電 話 で起 こ され て 呼 び 出 さ れ ー ヨー クの 物 理 学会 年 会 の 時 に ,ハ イ ゼ ンベ ル ク と た こ とが あ った 。 私 も寝 坊 を して 出 て来 てそ の 話 を の仕 事 の 話 を した。 しか しなが ら この 時 に は既 に パ 聞 き ,そ の五 人 の 中 に私 が 含 ま れ て い なか っ た こ と ウ リは批判 的 に な っ てい た 。 そ の後 短 期 間 ア メ リカ を告 げ られ ほ っ と した こ とが あ る 。 に滞在 した パ ウ リは ス イス に戻 って 間 もな く急 死 し 理 論 物 理 の若 い 連 中 の寝 坊 に は ハ イゼ ンベ ル ク も 手 を 焼 い て い た ら しい 。行 っ た 年 の 秋 , ハ イ ゼン ペ た。 その後研 究所 は ミユンヘ ン 17r移 り,最 後 にお 目1/C ル ク の誕 生 日に,理 論 家 が 全 部 朝早 く集 り,彼 の 部 かか った のは 五年 前,彼 の七十 才 を記念 して 開 かれ 屋 に か祝 を述 べ に 行 つ た 。 勿 論 彼 は 喜 ん だ が ,理 論 た シン ポジ ウ ムの時 て あ った。 その後 間 もな く隠退 家 が 全部 揃 って こん な に朝 早 く起 きた こ とに び っ く され,回 想録 を書 かれてい た と聞 く。 昨年 ミュ ンヘ りさせ られ た と挨 拶 を した。 ン に寄 った時 1/Cは 既 に病 を得 て静養 中 である とい う ハ イ ゼ ンベ ル クが生 涯 を通 じて最 も尊 敬 してい た 友人 は パ ウ リで あ った 。 研 究 上 の こ とで何 か 行 きづ ことで あ った 。 ま る と, 直 ぐ1/Cパ ウ リの所 へ 出掛 け て 行 っ た。 丁 度 福 を祈 って筆 を措 く。 ドイ ツ科 学 の 栄 光 を象徴 する この世 紀 の 巨人 の冥 そ の 頃 ,ハ イ ゼ ンベ ル クは 彼 の 晩年 を 捧 げ た 非 線形 女 性 曲 の 中 `) 本寸 角 圭 子 (化 学・生化・ OB) 所 用 で 久 しぶ りに本 郷 の キ ャ ン パ ス を訪 れ ,帰 シ い と思 え ば ,キ ユ ノ と口 を結 ん で頑 張 る必 要 が あ っ 路 に 友達 の 研 究 室 へ ち ょつ と顔 を 出 して み た 。 相変 た 。 自ず と顔 もき つ くな った に 違 い ない。 最 近 で は らず ,薬 の 匂 いが しみ こん で あ ち こ ちに孔 の あい た 事 情 は ま っ た 〈変 つて しま い ,噂 に よれ ば お む こさ 実 験 着 で 動 き ま わ って いた 彼 は ,同 じ部 屋 で 実 験 を ん 探 しの 場 と して入 学 して くる人 もい る とか,そ う して い た 女子 学 生 を紹 介 して くれ た あ と,最 近 は なれば ニ コニ コ と和 や か な顔 の 方 が 向 い てい る こ と , 昔 と違 っ て東 大 の 女 子 学 生 もか わ い 〈な った で し ょ 17rな る。 う。 」 と つ け加 え た 。 昔 の 方 に属 して い る人 に 向 っ た ゞ,私 が こ ゝで 云 い たい こ とは ,大 学 へ 入 る所 て「 昔 と違 っ て」 もな い もの だ とい さ ゝか 憤 慨 しな あ た りま で は , あ ま り抵 抗 が な くな っ たけれ ど,そ が ら も,や は り客観 的 事 実 は 認 め ざ るを 得 な い。 の 先 本 当 に 自分 が や りた い こ とをや っ て 行 こ う と思 十数 年 前 一 と文 学 的 (?)表 現 を してお くが一 には , うな ら ニ コニ コ顔 ばか りは してい られ ない と い う こ 女 の 子 が 東 大 の理 科 系 へ 入 学 す る とい うこ とが そ も と で あ る。 真剣 に , しか もか な り早 い 時期 に 自分 の そ も社 会 一 般 の 通 念 か らみ て 普 通 の こ と とは い え な 生 き方 を きめ る ことが必 要 だ と思 う。 か った 。 親 は ,そ ん な 所 へ 入 る とか 嫁 1/C行 け な くな 誰 が 云 っ た言 葉 か は忘 れ て しま っ た が ,「 40を 過 る と反 対 し,近 所 か らは変 った お 嬢 さん とみ られた。 ぎた ら,人 間 は 自分 の 顔 に 責 任 を持 た なけれ ば な ら そ ん な雰 囲気 の 中 で ,や は り東大 へ 入 っ て 勉1強 した ない 。 」 とい う有名 な 発 言 が あ る。 確 か に適 切 な言 葉 だ と思 うが,私 は これ は 男性 の発 言 で あ り,人 間 で い く方 向 に 関 り合 う意義 の ある仕 事 に なる。 "三 と云 っ て も男性 の 立 場 を云 って い る言 葉 だ と思 う。 食昼 寝 つ き "な どで は な く,暮 ら しを創 り上 げ て い 男 の子 の 場 合 ,い っ し ょ うけ ん め い 受 験 勉強 を し く こと,そ れ を基 盤 に して社 会 と結 び つ い てい くこ て なる べ く評 判 の 高 い 学校 へ 入 り,無 事 卒 業 を した との大 切 さ が ,今 は あま りに も無 視 され て い る。 そ ら就職 , とい う一 応 の お きま り の道 が で きて い る。 して生 活 の 倉」 造 に必 要 な発 想 と い う点 では 女性 の 方 就 職 先 が 官 庁 で あ るか 民 間 会 社 で あ るか ,ま た は 学 が 男性 よ り優 れ て い そ うな気 がす る。 生 活 の あ り方 校 の 先 生 に な る か とい うょ うな選 択 は あ った と して にか な り の 重 点 が か か れ る よ うに な る これ か ら の世 も,所 詮 きま っ た組 織 の 中 へ 入 り,そ の 中 で行 動 す の 中 では ,女 性 の 活躍 の 方 法 の 一 つ に ,家 庭 を基 盤 る こ とFCな る。 自由業 な ど とい う,い か 1/Cも 自由度 rCし た もの が大 き く出 て くる は ず だ と思 う。 した が の 高 そ うな名 前 の職 業 に だ っ て一 応 の 仕 組 み が きま っ て ,積 極 的 な 意 味 で ,二 つ の 選 択 を考 え る こ とが って い る。 そ ん な 中 で,組 織 とは どん な もの か を学 で きる と思 う。 二 つ の選 択 と い っ て も必 ず し もま っ ん で い くの が 男 の 人 に とっ ては 大 切 な仕 事 の よ うで た く職 業 を もた な い とか家 庭 を持 た ない とか い うは あ る。 しば ら くす る と,そ れ ま で に どん な仕 事 が で っ き 夕 した もの で あ る必 要 は ない 。 い わ ゆ る仕 事 と きたか が 自分 に は 他 人 1/Cも 明 らか に な り,ど ん な方 家 庭 の 両 立 とい う こ とは あ り得 る 。 た だ ,い ざ と い 面 に 向 い てい る か ,こ れ か ら先 どん な こ とが やれ る う時 ,一 体 自分 は な 1/Cを 最 優先 させ るか とい う こ と か が だ い た い 決 ま って くる。 こ うな る と, 自分 の 責 を心 の 中 では っ き り させ て お くこ とだ と思 う。 実 を 任 で仕 事 をす る こ とが で きる よ うに な り,本 当 の 意 い うと私 自身 ,た 校 た ま相 手 が み つ か っ た 時 1/C結 婚 味 での 自分 の生 き方 を きめ な けれ ば な ら な い 。 これ し,運 よ くみ つ か った職 業 に つ き とい う生 き方 を し が ほ ぼ40才 位 , した が って ,40才 に な った ら 自分 の て きて しま い ,か な り周 囲 に迷 惑 をか け た と反 省 し 顔 1/C責 任 を持 つ とい うこ とに な る のだ と思 う。 て い る。 そ う思 って ま わ りを 見 ま わ す と,家 庭 と仕 とこ ろ で ,女 性 の 場 合 は 少 し事 情 が 異 なる 。 先 ほ ど も書 い た よ う1/C,最 近 は大 学 へ 入 る と こ ろ までは 事 に つ い て の 計 画 を 早 くか ら き ちん と立 てて きた 女 あま り深 く考 え ず と も進 め る よ うに な って きた。 け 気 づ く。 , 性 が ,生 活 面 で も仕 事 の 上 で も成 功 して い る こ とに れ ど も,そ の先 の 道 に は ま だ男 性 と同 じ よ う な レ ー ル は敷 か れ て い ない 。 い ず れ に して も,そ の 選 択 は20才 台 の半 ば に す る 必 要 が あ る よ うに思 う。 とい うの も子 供 を産 み ,育 これ は ,私 の た い へ ん に 個 人 的 な考 え だが ,女 性 て る とい う仕 事 をす る とす れ ば , これ は ,社 会 的 に の場 合 rcは ゃ は り,家 庭 を創 りあげ る こ とを 自分 の み て も,生 物 学 的 見 地 か ら も20才 台 半 ば か ら30才 台 生 活 の 中心 に置 〈か ,社 会 の 中 で働 く こ と を中心 に 前 半 17r行 な うのが 望 ま しい か らで あ る。 した が って 女 性 の 場 合 , 自分 の 顔 ,す なわ ち 自分 考 え るか の選 択 を は っ き りす る必 要 が あ る と思 う。 これ は ,女 性 差 別 の よう 1/C聞 え るか も しれ ない が , そ うで は な い 。 これ か らの社 会 の あ りか たを 考 え る の 生 き方 に つ い ての 責任 は40才 で は な く25才 くらい か ら持 た な くては な らな い 。 "25才 は 女 性 の 曲り角 " 時 ,社 会 の基 本 単 位 と しての 家 庭 の 重 要 性 は い くら とい うの は 化粧 品会 社 の 広告 だ が ,真 実 をい って い 強 調 して もす ぎ る こ とは ない は ず で あ る。 だ か ら る。 , 暮 ら しを 創造 してい くとい う作 業 は 社 会全 体 の 進 ん 編 集部 註 : 巻﹄ ` 名 教 授 の 御 近 況 ″ 以 下 の 名誉教授 の御近況 は, 2月 末 日〆切 りで,葉 書 回答 に よ りお よせ 頂 いた ものの全文 です 。現在 ,理 学部 には47名 の名誉教 授 が 居 られ ,そ の うち35名 の先 生方 か ら御返事 を頂 きま した。 尚 ,森 野 先生 は ,本 号 に御寄 稿頂 いてお ります の で,そ れ を以 て元気 で ある とい う近 況報告 に した い とい うこ とであ ります。 叉 ,高 官先生 につい ては ,学 生 委員 と して苦楽 を共 に され た飯 田先生 が思 い 出 を お よせ 下 さい ま した。 御協 力頂 い た諸先生 に編集部 と して厚 く御礼 申 しあげ る と共 に,名 誉教授 諸 先生全 員 の今後 の御 健勝 と,私 共理学 部後 輩 へ の御 指導 を よろ し くか願 いい た しま す 。 坪 井 誠太郎 身体 の 方 は衰 退 が軽 く,買 物 の 荷 物 持 位 に は 使 わ れ (地 質) ます 。 これ が 私 の 現 況 で す 。 以 上 ,つ ま ら ない 勝 手 な こ とを並 べ て,「 広 報 J 全 く平 几 に暮 して お りま す 。 学 士 院 ,地 学 協 会 ,無 機 材 研 に ,合 わせ て 月 に 数 回定 例 的 に 出 か け る外 は ,か くべ つ の 公 用 は あ り ま せん 。 しか し,前 1/Cは 不 向 な こ とば か りで す み ませ ん 。 ど うぞ 衡]遠 慮 な く没 に して 下 さい 。 日か ら や クか け に な っ てい る仕 事 が あ って ,そ れ を進 め る の に, 自分勝 手 に 自分 を い 小 謙 倉 (植 物 ) そ が し 〈させ てい ます 。 近 頃 ,学 術 の 進 歩 が す さ ま じ く,私 の 専 門 分野 で 私 は 昨年 八十 路 の坂 を越 え,耳 や 眼 な ど大分 弱 り も,新 しい こ とが 次 か ら次 と現 わ れ て くる の で,「 あ ま した が,一 応 健康 に恵 まれ ,定 ま った勤務 もな〈 れ よ,あ れ よJと 喜 しい 悲 鳴 を あげ て い ます 。 昨 今大 分溜 った文献 などの整 理 や取纏 め な どに努め た い へ ん あ りが た い こ とは ,大 学 の 教 室 は じめ 諸 研究機関 1/C出 入 夕 した り,学 会 だ の学 術 談 話 会 や 討 論 会 だの に時 折 出席 した り して ,新 風 に浴 す る機 会 , て お り,時 折東 大 lFCも お邪 魔 して お ります。 余技 と しての 切手 集 め も続 けてお り,時 折展 覧会 な どのお手 伝 をやって お ります。 に恵 まれ て い る こ とで す 。 これ は,私 に と っ て何 よ りの保 健 剤 で あ り,生 活 を楽 し くさせ る要 素 であ り ます 。 そ れ か ら, レク リェ ー シ ョン の 第 一 は ,旅 行 本 田 正 次 (植 物 ) な か ,最 近 私 は ,同 学 諸 氏 の 協 力 を得 て 作 成 した 朝 日百科 の「 世 界 の植物」 , シー ボル トの「 フ ロ ラ・ ジャポ ニ ヵ」複刻 本 ,そ れぞ れその一 部 を担 当 「 斜 長 石光 学 図表 J(和 英 両 文 )の 出版 計 画 を進 め して 目下 執 筆中 で す。 日本植物 友 の会 ,植 物 愛 好会 てい ます 。 そ の他 の植物 団体 も月一 回程 度 に指 導 して い ます。 して 自然 に接 す る こ とで す 。 自然保 護関係 ,文 化 財関係 の仕事 も活 発 1/Cや つてい 左右田 徳 郎 (化 学 ) ます 。 その他 関係団体 が 多 くて 困 って い る くらい で す。 月 lrc二 回程度 は病 院 に通 って 健康 診断 も欠 か し よ うだ が ,60台 で も、 ・ 台 で も一括 して しま う分 類 に た ことは あ り疎せ ,t。 句 会 も一月ま では 月三回 で し た が ,二 月 か らは二 回 とな りま した。二 十五年 の句 は 少 々抵 抗 を感 じる。 30台 と50台 とを比 べ る の とは 歴 です が駄 句 ば か りです。 世 間 で は60才 以 上 を老 人 と い うこ とに な って い る 大 分様 子 が ち が う と思 う。 若 者 と老人 とを区 別 す る こ とは男 と女 を区 別 す る よ うに明 らか に は で き ない 萩 原 雄 祐 (天 文 ) が , と もか くそ ん な 1/C難 か し くは ない 。 だ が 老 人 を 死 類 す る とな る と仲 々難 しい 。 個 体 差 が 大 き 〈て80 台 で も世 の 中 で 盛 ん に 活 動 す るの もあ る し,60台 で 前世 紀末以 来 出版 され なか った天体 力学 の厖大 な 文献 の 集 成 を老人 の仕事 と して一 九六 一年以 来 取 り は ,老 人 の 生 活 力は 次 第 に 衰 退 して ゆ くこ とで あ ろ 組 ん でいま す。 前 の二 巻 は やっ との ことでア メ リカ で 出版 されま したが出版 所 の経 済 不振 のた め,や め う。 そ して そ の 衰 退 速 度 が年 と共 に 加 速 度 的 大 き く られ て,今 は文 部省 の補 助 で 日本 で続 巻 を 出 してい な る とい うの が 私 自身 の 感 じで あ ます。 日本 で英 文 を組む の で,校 正 が 大変 で,そ の も萎 び て い るの もあ る。 しか し共通 して言 え る こ と r′ っ 私 の場 合 ,60台 で は老 眼鏡 で 読 ど t本 が80台 の今 ■ ,こ ち ら の英 語 の 力が足 りない ため に,苦 労 して すけれ ば な らな くな った 。 だ い ます。 今 そ の最後 の 第五 巻 を校 正 中 です。書 いて では 虫 め が ね を併「 L´ か ら手 も疲れ る。 ま lい こ とが面 倒 に なる。 (広 報 は み 〔英 語 の 力が足 りない ことをつ くづ く感 じま した。 )耳 は 片 耳 だが 以 前 は ど うや ら間 に 合 わ こ ′か し内容 と して も この本 は ひ ど くむ つ か しいので せ る こ とが 出来 たが , 今は 聞 きま ちが え な ど で 内容 こ こ百 年間 に世 界 の学者 がや った研 究 は大 した もの が わ か ら な くなる こ と も多 く, こ とに大 勢 の 集 合 な で す。 と共 に これ を勉強 す る ものに とっ てはそ の美 どで は 著 しい 。 そ れ で会 に 出 るの が 嫌 に な って きた。 しさに悦惚 と してい ます。 同好 の人 を つの りた い ヽ 読 み ます 。 , 通 な原 理 の もと に一 元 的 な 説 明 で きる こ とを 今 年 の の で す。 キ トロ ギ ア に発 表 しま した 。 木 健 二 郎 (化 学 村 ) 月ヽ 林 貞 一 (地 質 ) 私 は 1956年 に東 大 を退任 しま した か ら,本 年 7月 に は退 任 後 満20年 とな ります 。 また , 足 が 不如 意 で山歩 きを断念 した私 は ,平 素 は内外 5月 には 満80 か ら集 まっ た標 本に秘 め られ た 自然史 を読 み とるこ 歳 に な り ます 。 家 に こ もって い る こ との 多 い 近 頃 で す が ,専 門 の 学 術 雑 誌 1/C目 を通 す の と,俳 句 ・ 連 句 を つ くる の を とに専 念 してい るのです が,今 月は例 外 で した。 退 官以 来 の共 同研 究 の会合 で両 三 日を費 したにかは , 目課 と し,ま た 楽 しみ と して い ます 。 5月 に は これ 日本 の古生物 と地学 の歴史 につい ての 学会協会 の仕 まで 1/rた ま った俳 句 ・ 連 句 ・ 随 筆 か らい くつ か を選 事 で明 け暮れ ま した。 それ に して も,50才 で隠居 し て,暦 学 を修 め ,全 国行 脚17年 ,74才 で永眠 して び ,出 版 す る予定 です 。 , 歿後 3年 に して門 人 の手 で,彼 の 有 名 な伊能 図 が 出 水 島 三一郎 (化 学 来上 った とい う逸事 は,昨 今 の私 に取 って感銘 深 い ) ものが あります。 昨年 の 暮 に 頂 いた東 大広報 (多 分三 〇 四号 )に 「 私 はそ の人柄 の うちにい くらか老人 的 な もの を も ってい る青年 を この ま し く思 う。 同 じ よ うな青年 的 山 内 恭 彦 (物 理 ) な もの を い くらか もってい る老人 を この ま しく思 うJ ,`う とい う意 味 の こ とを どなたかが ,か か れ てい ま した lE (失 礼 なが らか名前 を忘れま した )。 この 後 の 方 の I[ 例 と して 最近 な くなった トイ ン ビー をあげ る ことが 1と 、 で きるのでは ないで し ょうか。 彼は専 問史家 か らさ 一 ﹁ 几 ■.犠 ま ざま な批判 を うけ なが ら八十代 の半 まで青年研 究 者 の よ うに,た え ず 自分 の考 え を発展 させ ,多 〈の 異 な る分 野 で 働 くひ とび とに,彼 の説 を傾 聴 させ た か らです cと 書 い たの では御 注文 の 寸言 に な りませ んか ね ? 多 田 文 男 (地 理 ) 東 京大 学 をやめ て か ら,法 政大学 地理学 科 で教鞭 〔註 :先 生御 自作 の象 刻 で す。 説明 も御 自筆。 左 下 は 御名前 〕 を とって 居 りま した こ と五年 。 そ の 後駒沢大 学 に移 坪 井 忠 二 (地 物 ) って十 一 年 ,此 間 大学 院 で 自然地理 学 を教 え て居 り ます。 近 頃若 い 方 々の研究 が進ん で,そ の研 究成果 昭和 三八 年 に大学 をやめ てか ら,五 年 間国立国 会 図書 館 に 勤 め ,四 三年 か らは ,語 学 教 育振 興会 とい を追 跡す るだ けで ,骨 が折 れ ます。 足 の弱 らない うちに と考 えて 昨夏 は下北半 島,尾 瀬 ケ原 ,乗 鞍岳等 の 踏査 を して来 ま した。 うところ でがん ば つて ます 。 文芸 的 で は な く,さ 夕とて チー チー パ ツパで ない英語 ,つ ま りあた りま 1/・ え の こ とを あた りまえ に正 しくい う英 語 の教 育 を目 和 田 文 吾 (本 直物 指 して い ます。 一年 に数 回,二 週間程 度 のかん づ め ) 近況 :停 年退職後 は 国際細胞学雑 誌 キ トロギア の 編集 1/C専 念 してい ます (広 報 6巻 8号 参照 )。 研究 :卒 論以来 取 り組 ん でい る有 糸分裂 の機構 に つい て,高 等 下等 を問 わず 動植物細胞 の核 分裂 は共 -15- 合 宿 をや ります 。 対 象 は大学 生 以上 です。 ま したが 学問 の 方 は操業 短縮 で だ いぶ気楽 に な り、 , そ れで も「 地 球物 理学特 論 」 とい う大 きな ものを ボ ツボ ツ書 いてま す。 誠 茅 司 (物 理 大学生 活 の末 期 に あた り,大 学 問題 に つ いて も色 々 と考 え させ られ る機 会 が 多 くあ りま した 。 ) 地質学 で みかげ 石 (granites)の 成因 がむ つ か し く 最 近 は牡 丹 が好 きに なりま した。 ま だ株 数 は少 い ですが,二 年 にほ ん の僅か の期 間美 しい花 を咲か す “granites and granit es"と 題 して論 ず る よ うに 点 が気 に入 りま した。株数 を二十株位 rcし た い と思 大 学 に つい て も亦 RUniversities and uni versities" って,植 木屋 さん にい くと牡丹 ばか り探 しています。 と題 して考 え る べ き問題 が 多 い ように 思 い ます。何 , , れ に して も,大 学 は よ く研 究す る先生 と,よ く学 ぶ 竹 脇 潔 六 年 前 ,思 い もか け ず 川 崎 医 科 大 学 (動 物 学生 の 集 団 で あ ることが最高 だ と思 い ます。 ) (現 在 倉 敷 市 , 当時 は 岡 山県 都 窪 郡 庄 村 )の 開 設 と同 時 lrc赴 任 し , さて私 は ,今 後 ,東 京 に本拠 を も ど して生活 す る つ もりで す。 そ して ハ ム マ ー と共 に な るべ ぐ山野 ヘ 出 るつ もりで居 ります。 ど うぞ よろ し く。 そ の 時 の 新 入生 が 育 っ て , この二 月卒 業 す るの と同 時 に ,停 年 (三 度 目 )退 職 す る ことに な りま した。 小 穴 純 (物 理 ) 六 年 間 ,医 学 教 育 の 実 態 を 目 の あた り に見 ,大 学生 に も ピン か らキ リまで あ る こ とを感 心 しま した 。 し 8年 前 か ら四 つ谷 の上 智大学 の物理 学科 に勤 め て か しそ の 間 , とに も角 1/Cも 好 き放 題 に実 験 を つづ け お ります。 自分 の頭 が 老化 して理解 力 が低下 したた る こ とが で きた の は,学 校 の おか げ と顧 み て感 謝 し めで しよ うか ,講 義 な どでそ の 内容 も学生 に納得 さ せ るた めには どの よ うな説 明法 を用 い るべ きか とい てい ます 。 五十 年 来 親 しん だ ネ ズ ミ とは も うお別 れ うこと1/C興 味 を持 つ よ うに なりま した。 "説 明学 で す が ,人 生 到 る処 動 物 が い る の で, これ か らは 度 々 田舎 へ て か け て ,動 物 を見 つ め て 暮 したい と思 い を ま とめ上 げ たい とい うのは私 の昔 か らの望 み です ます 。 そ れ も決 して き らいで は あ りませ ん 。 が , と りあえず 自分 の講 義 原稿 を毎年 書 き改 め てお 弥 永 昌 吉 (数 学 " ります。学術書 もそ うです が, と 〈に国産 の機 器類 の カ タ ログな どには,説 明学 の立場 か ら落第点 をつ ) けた くな るもの が 多 い よ うですね。 学 習院大学 で火 ・ 木 ・ 土 に行 って 講義 ,セ ミナー な ど (教 授 会 は月 に 2回 火曜 にあ り,た い てい 出 ま 石 田 寿 老 (動 物 ) す が,そ れ以 外 の 委員会 な どは勘弁 して もらって い 今 年 の一 月 中 旬 に 高 宮 篤 さん が 亡 くな った。 東 大 ます。 )月 曜 は うちで手紙や 原稿 を書 くの に宛 て る ことが 多 く,金 曜は今 で も本 郷 lrc行 くこ とが 多 い で か ら東 邦 大 学 に 移 っ てか ら五年 足 らず で あ る。 私 も す (学 会 関係 の仕事 な どで )。 そ の 174か ,日 仏会 館 同君 か ら招 か れ て 同 大学 で三 年 足 らず を過 し御 一 緒 の仕 事 も手伝 っ てい ます の で,結 構忙 しく,約 束 し した。 ただけ で書 け ない原 稿 な どた まるば か りで 心苦 し く 思 っ てい ます。風 邪 をひ い た り,ち ょっ と した病 気 1/Cか か る ことは あ ります が,お 蔭様 で まず まず 元 気 亡 くな る少 し前 に黄 色 の 花 の 咲 くク ロ ッ カ ス 200 個 を球根 で 求 め て あ り,唯 今芽 が 出 は じめ て い る。 同君 を偲 ぶ よす が と なっ てい る。 でい ます。 藤 渡 辺 武 男 昭和 6年 地 質学科 を卒 業 して北大 (13年 (地 質 ) )東 大 田 良 雄 (天 文) 退職 した年 か ら東海大学 に 勤 め る よ う1/Cな り,週 2回 神奈 川県 平塚 市 の 湘南 キ ヤンパス に通 っている。 (24年 )名 大 (3年 )秋 田大 (5年 )で 45年 にわ た る大学生活をつ ゞけ間もな〈任期 を満 了 して退 官す る 富 士山 が よ く見 え る美 しいキ ヤン パス で広 々 した敷 ところで す。 そ の間 多 くの 若人 と共 に遇 して来 た こ ませ て くれ る。 工学 部理学 部 の学 部学 生 に一般 教 養 とを心か ら感謝 して居 ります。 また山野 で ハ ムマーを通 して親 し くな った世 界各 科 目と しての宇宙 科学 を,又 航空 宇宙学科 の大学 院 の ゼ ミを一 つ担 当 してい る。 週 の 他 の 日は炭素星 の 地 の岩 や 石 に も感謝 した い気持 です 。 分光 の 勉強 を続 け てい る。 これ に つい ては 東大理 学 地 lrcょ く手入 れ された芝生 と美 しい 花壇 が 眼 を楽 し な ります。 五年 とい う年 月は一 つの研 究室 を準備 し 部 の 天文学教 室,東 京 天文 台 (特 に 岡山 天体物 理 観 測所 ), ア メリカの ヘ ー ル 天文 台 にい ろい ろお世話 動 き始 め させ るの に一杯 で , もう五年 これか らあれ に なって い る。 又東大 の中央 図書 館 の一 室 を退職以 ば ひ と仕事 が で きる のに と も思 わ れ ます。 停年 を重 来 ず つと使 わせ て いた だいて居 り,併 せ て感謝 1/C耐 ね る ご とに なにか脱 皮 を して行 くよ うで,人 生 の停 え ない。 年 まで に今度 は家庭 に入 って しっ くり考 え しのぶ 生 活 を と云 う半面 と,三 度 あ った こ とは三度 目の 正 直 前 川 文 夫 (植 物 , で もう一 つ カー 杯 や って み ようか と云 う他半面 とが , ) 毎 日元 気 でや っ てい ま す。 昨 年 は ソ連 に 一 ケ 月 日下 の頭 の 中 で競 い合 い です 。御機嫌 よ う。 , ニ ュ ー ギ ニ ア に三 週 間 ほ どい つ て きて ,勉 強 に な り 赤 松 秀 雄 (化 学 ) ま した。 や は り旅 行 は プ ラ ス で す。 この 春 に は 台 湾 昨 年四月 ,国 立大学共同利用機 関 として分子科学 研究所 が岡崎市 に設立 され,そ れ以来 その創設 の勢 へ でか け る予 定 で す。 吉 田 耕 に追 われてお り査す。一通 りの形 が整 うまでには な か 二 ,三 年 は か か るそ うで す。御後援下 さるよ , (数 学) 作 う。 拝復 国際化学 連 合 近況 を かた づ ね 頂 き有 難 う存 じま した。 学 習院 大 学 に週 三 日 (火 水 金 )勤 務 い た して お り ます 。 鎌 倉 の 自宅 か らバ ス ,電 車 と乗 り継 い で 目 白 (IUPAO)の 東 京大会 も, ウカ ウカ す る うちに ,来 年 にせ ま りま した。「 人 類 福祉 のた めの化学 」 を テ ーマ と して い ます 。御後 援 を乞 う。 られ る 藤 井 さらに先 きの こと,長 期計 画 と しては「 水素 エ ネ 隆 先 生 に 車 中 で お 目 1/Cか か って ,昔 話 に 時 間 を忘 れ ル ギー システ ム」 の 導入 のた め の 研 究1会 を つ くって る こ とが あ ります 。 か ります。御期 待 を乞 う。 まで 一 寸 遠 い で す が ,時 には 逗子 1/C帰 月 に三 度 位 は本 郷 の 教 室 に 伺 って ,若 い 方 々 に色 々 教 え て 頂 い た り,図 書 を見 せ て頂 い た り して お り 原 寛 ま す。 永年 の 蓄積 は大 した もので ,古 い もの も,新 , (?)を 満 喫 させ て 頂 い て 感 謝 に 堪 え ませ した。 7月 ノン。 藤 隆 井 (動 物 ) 東 京大学 イン ド植物 調査 に関連 して,昨 年 は 6月 まで英国 に 招 か れ て ヒマ ラヤの植物 の研 究 を続 けま しい もの も, この 数 学 図書 室 の御 蔭 で 不 自由 な く OBの 特 権 (植 物 1/Cは レ ニン グ ラー ドで 開 か れた 第12回 国 際植物 学会議 に 出席 し,そ の 研 究旅行 で シ ベ リアの バ イカル湖 附近 や サ ラン山脈東端 の植物 を見 る こと ) がで きま した。 まだ しば ら くは ヒ マ ラヤ植物 関係 の 毎年 ,理 学部 長 のお招 き で参集 し,先 輩 の諸 先生 にお 目に か か れ る のが何 よ りの楽 しみ で御 座 います。 仕事 が残 っ てお り,本 年 前半 に は ,東 大 と大英 AEL物 館 の協 力 でま とめ られ つつ あ る「 ネ パ ー ル植物 誌 目 小生 かかげ さまで ど うや ら健 在 とい うとこ ろです 。 録 Jの 第一 巻 が 出版 され る予定 です 。 なか,理 学部 広報 一 月号 所載 の 拙文「 尊 い 人」 は かか しな題 で ,原 文 の題 は「 雑 感」 で したので,そ 小 倉 安 之 (生 化 )内 の よ うに訂正 して下 さい。理 学 部 の 皆 々様 の 御健勝 去 る 1月 24日 病 にたわれ,只 今 入院致 して居 りま を祈 ります。 す ので,折 角 で 御座 い ます が ,御 希望 に沿 い ません 安 藤 鋭 郎 事 ,何 卒御承知 下 さい ませ。 ヒ) (生 イ 草々 広報編集 に御尽力下さる御蔭で,私 ども毎回なつ か しく拝 読 い た してお ります 。 田 中 信 徳 (植 物) 本 郷 を 停 年後 参 りな した この 千葉 大 理 学 部 も, あ っ と云 うま に この 四 月 一 日で 再 度 停 年 と云 う こと lrC -17- 現 在 も引続 き 帝京大 (医 ;八 王子市 )で 植物を教 え てい る 。校 合 は 野 猿 街 道 沿 い ,折 が あ り ま した ら 御 立 寄 り下 さ い。 自宅 か ら38キ ロ,車 で往 復 して い に 現 代 版 水 戸黄 門様 の 出現 を祈 る次第。 偕楽 園 で は梅 が 待 って い る 。 る 。最 近 の 信 号 の ふ え 方 は 年 ,約 10%;昭 和46年 4 月 に は ■04 Cあ った もの が ,今 は 152ケ 所 にふえた。 鈴 つれ て所 用 時 間 も 5割 方 ふ え て 1時 間 半 は か か る。 そ れ で も国 電 で揉 まれ る よ りは マ ン,風 邪 につ かま る 木 尚 (人 類 ) 独 自 の 空 港 を も ち なが ら羽 田 か ら 2日 か か る 日本 一 遠 い 島 ,そ れ が喜 界 ケ 島 で す 。 昨年 10月 と今 年 の こ と も少 ない の を 多 とす る。 地 球 の 生 物 圏 の 問 題 は人 口 と食 糧 で21世 紀 の こ と 2月 , この 島 を訪 れ ま した 。 これ は 僧俊 寛 と伝 え ら が 気 がか りで あ る 。今 ,田 中正 武氏 (京 大 ・ 農 ・ 教 れ る遺 跡 と人 骨 を調 べ るた めて した 。 この 島 は 奄美 )著 「 栽 培 植物 の起 源 」 〔昭 和 50年 12月 刊 行 〕を 大 島 の 沖 合25た ″。 島 に着 陸 す る と20分 で戻 っ て しま 読 ん でい るが , ジ ャ ガ イ モ の 発 祥 地 ,中 央 ア ンデ ス い ます 。 一 日― 便 は止 む え ない と して ,鹿 児 島 発 の 授 の ア ル テ ィプ ラ ノ高 原 (海 抜 4,000メ ー トル )の 探 一番 機 だ け に しか 接 続 し楼 せん 。 です か ら羽 田 か ら 索 の 話 は 特 に興 味 深 い 。 食糧 と文化 の 変 遷 とのか か 立 つ と奄 美 か 鹿 児 島 で一 泊 しなけ れ ば な り ませ ん。 わ り合 い は,未 来 に 多 くの 問題 を提起 して い て面 白 2日 か か る理 由 は こ こに あ り強す 。 しか も有 視 界 飛 い 。 祖 先 種 の 自生 地 lrc関 す る研 究 は広 範 な もの で 文 行 です か ら雨 で 視 界 が悪 くな る と飛 行 中止 ,切 符 は 明 とか らむ と一層 ,学 際 的 とな る 。 食糧 問 題 の 危 機 キ ャ ンセ ル 。 10月 に行 った と きは 丁度 ,種 子 島 で た は 急 速 に近 づ い てい る こ とに注 目 した い 。 しか に大 水 害 の あ った 時 に 当 りま した の で,来 る 日 ,母 が94才 で 召 天 した 。 不 肖の子 で あ った私 は 今 ,悲 しみ の うち1/C,い ろい ろ の整 理 に も来 る 日 も雨。 宿 の も飛 行 機 は来 な い の だ ろ うか と気 に しなが ら望京 の 追 われ て い る。 念 もだ しが た く,今 様 俊 寛 を ふ ん だ ん 去 る 2月 15日 2階 か ら沖 を なが め て は ,今 日 1/C味 わ され た こ とで した 。 木 下 治 雄 (動 物 ) 岩 停年退 官以 来,私 立埼 玉 医科 大学 の 進学 課程 を任 生 周 一 (地 質 ) され て四年 間 。 この 期間 は ,小 生東 大入学以来 四十 こ の 冬 は 偶 然 の 用事 で 松 本 ま で の 旅 を しま した 。 数 年 間 の うちで,公 私共 rC一 番変化 の激 しい時期 で 久 々 に車 窓 1/C見 る八 ク岳 の 冬 景 色 は くっ き り と澄 ん した。 色 々 な世評 の 中 1/Cあ る私 立 医大 を少 しづつ で で 美 し く,変 化 lrc富 ん でい て,飽 か ず 眺 め て は 下 手 も正 しい方 へ 向わ せ る よう気 永 に努 力 し,協 力 を呼 な ス ク ツチ を楽 しみ ま した 。 大 陸 の 高 原 の広 漠 と し 々深 い失望 と無 力感 に襲 わ た風 景 の 好 き な私 に も,流 石 ,山 裾 に 隠 れ た人 里 を びか け て居 ります が,屡 れ る事 が あ ります。 そ ん な時 の ささやか なな ぐさめ 懐 じむ様 な 旅情 をそ そ る眺 め で した 。 は,ほ んの僅 か乍 ら研究 の時 間 が持 て る事 と,愛 す べ き若 い 同僚 や学生達 が居 る とい う事 で す。 も機 能 的 で 速 過 ぎて残 念 で した 。 眺 めの 中 1/6は 写 真 唯 ,私 の 選 ん だ 特 急 は こ ん な景 色 の 中 で は 余 りに で は 見 え ない ものが あ る の に そ れ を奪 って しま うか 宮 本 格 楼 らです 。 (物 理) ふ と,現 代 の 物 事 の 流 れ に も似 た もの を感 じた の 今春 ,名 誉 教授 4年 生修 了見込。 現職 は 日立 市 に で す。 あ る茨 城 大学工学 部教 授。 電子 工学 科 に所属 してい る。因 に, この大学 の本部 は水戸市 内 に,農 学部 は 71c 田 武 (地 物 )内 土 浦 市近 郊 に ある。 西 の筑波 山麓 に は学 園 や研 究所 が ひ じめ き,東 の海辺 には原研 ,動 燃 などの大物 が 並ぶ。 これ らの村 と町 との間 1/Cは さまれ た県下 の三 12月 10日 より 3月 16日 ま で南極 へ 出向 い て居 り楼 す ので失礼 します。 大 市 では ,生 来 弱体 の 茨城 大学 が圧 縮 され て一層 小 さ くな夕今 に もつぶ され そ う。 つぶ れ ない ように乏 しい個性 を強調 して, なん とか 存在 を示 そ うとす る のが悩 み で あ る。倒産 にlLIく 三 等大 学更生 法 のた め -18- 門 司 正 三 (植 物 ) 浪人生 活 もほぼ 1年 ,晴 耕 雨読 にはほ ど遠 く,さ り とて 小 人 は 閑 居 す れ ど不 善 も な し得 ず ,た だ ョウ アンタ 明 日 に は 毒 峨 に な らん 蝸 の 夢 今 昨年 4月 功 井 嬉 しか った ことや ,高 宮先 生 の御人格 に触 れ て感銘 , (物 理 を受 け た こと等 だ けが思 い 起 され る。 高 宮先 生 が学 生 諸君 を前 に して交渉 に臨 まれ る と きの意気込 みは そ れ こそ大変 な もの であ って ,ど ん な に永 く掛 って ) も説得 す る とい う心情 rc満 ち満 ち て居 られ た 。 そ の ,東 大 を離 れ て 阪 大 基 礎 工 学 部 の機 械工 結果 交渉 は必ず 深夜 にま で及ぶが ,妥 結点 は常 に大 学 科 に移 って か ら, も う間 も な く 1年 に な ろ うと し 変 合理 的 な もの であ った 。高 官先 生は 大変 お酒 ず き てい ます 。 物 ご ころが つ い て以 来 神 戸 に育 ち ,東 大 で あつて,私 が 酒 も煙 草 も飲 まない とい うと,「 そ を卒 業 してす ぐ 2年 半 ば か り阪 大 の理 学 部 で 勤務 じ れ では何 を楽 しみ に生 きて居 られ ますか ね」 と問 わ ま した の で , こ こは い わば 古 剛‖染 み の と こ ろで すが , れて 参 った事 が あ る。 理 学 部 と学 生諸 君 の ため にほ 学生 時 代 を入 れ る と約40年 の 東 大生 活 で す ので , い ん とうに身 命 を削 る努力 を された結果 , と うと う病 ま だに 留 学 生 の′ ら境 で す 。 ほ とん ど単 身赴 任 の状 態 院 に入 院 され る こ とに な った ので あ るが,そ の際,「 一 で , これ 査で 週 末 は だ い た い 東 京 で過 す 有 様 で す。 緒 に入院 しませんか」 と真 面 目に誘われた。私 が 冗 3時 間 は電 話 談 に,「 入 院 も結構 ですが ,高 宮先生 と同室では」 に もテ レ ビに もわ ず らわ され な い 自由時 間 と して の とかお 答 え す る と,「 あ りゃ,あ ん な ことを言 って」 ん び り楽 しん でい ます 。 中途 は ん ば にや り残 した 仕 とい た づ ら つ ぼ そ うな顔 で 眺 め られ た こ とが 今更 新 幹 線 の 往 復 1/Cも なれ ま した 。 車 内 の 事 ,や りた い 仕 事 な ど の こ とを考 え る と, も う一度 の よ うに眼 rC浮 ぶ 。私 は心 身共 見掛 け よりは 少 々丈 学 生 時 代 か ら計 画 的 に や り直 せ れ ば と無理 な こ と を 夫 に出来 てい る ようで ,そ の 結果 時 々得 を す る こと 望 み た くな ります 。 が あ る。高 宮先生 のお話 に よる と先生 は私 が弱 そ う で あ るか ら とい うこ とで,学 生 委 員 と して の活動中 , 小 平 邦 ず っと私 をか ば って下 さって居 た とい うことで あ っ 彦 (数 学 ) て,案 外私 が参 らな い とい うことを発 見 された とき , 昔私 が 大学 の二年 生 に なった とき,高 木貞治先生 先 生 の 身体 の方 が ,言 う事 を聞か な くなつて居 られ が 定年 退 官 され ま した。 当時 の 名誉教授 の先生 方 は た とい う次第 の よ うで あった。 そ の時 の恩 情 に盗 れ 威厳 が あ って悠然 と して暮 ら して居 られ た様 です 。 る ,し か し残念 そ うな高 宮先 生 のか顔 は一 生忘 れ な 私 も何 とか して悠然 た る心境 に到達 したい ものだ と い思 い 出 で あ る。 思 うのです が , ど うも うま く行 きません。 どう した 廊 下 の 中 で あ って ,も う既 に退 官 され た高 宮先生が ペ レー帽 を頭 に瓢 々 と して歩 い て居 られた 。突 然 の ら よいか御 存 知 の方 は こっそ りと教 え て 下 さ い。 , こ と等 でび っ くりして御 挨 拶 申 し上 げた後 ,私 は物 理 学者 として ,色 々 なこ とは譲れ るけれ ども,こ と 高宮先生 の思 い出 飯 田 修 高宮先 生 と最後 にお会 い したの は理 学部 4号 館 の 物 理学 の真理 に関す る限 りど う して も譲れ ない とい った最 近 の気 持 ちを お話 しす ると,大 き くうな づか 一 (物 理) れ て居 られ た。 この姿 が ,私 の脳 裏 に残 る高 宮先 生 高 宮先生 が お亡 くなりに なった とい う悲 報 に接 し の最 後 の 姿 FCな ろ うとは ,そ の時全 く想像 出来 なか て か らも う既 に ]ケ 月以上 に なる。 私 は高 宮先生 と った事 であ った 。主義 ・主張は 人そ れぞれ 千差万別 は二 つの意 味 で接触 が あつた。 一つ は私 の 弟子 の 田 で あろ うが ,人 間 と して頼 れ る人 を 一生 の 中に何 人 崎 明君 (阪 大基礎 工学 助教授 )を 介 してで あ って 米 国 に 永住 して か られ る両親 が,田 崎 明君 の 日本 で か 見 出す ことが 出来 る人 は ,幸 福 と云え るの では な の親代 りと して依 頼 され たのが高 宮先 生 なの である。 今 一つは 大学紛争 を通 じて で あって,理 学 部 での学 を初 め何人 もの′ いか ら信頼 で きる先輩 を持 って居 る 生諸君 の抗議活動 が最 も華 やか で あ った時 に ,丁 度 出 した数少 い信 頼 で きる先 輩 の最 た る人 であ る。 今 高宮先 生 ,秋 田先 生等 と共 に理 学部 学生委 員 と して こ ゝに 高宮先生 の思 い 出を書 かね ば な らない ことは 学 生諸君 との接渉 に当 るこ とに な った の で あ る。 不 何 とも言 い ようの ない程 残念 な ことで ある。 思議 な もので 今思 い 出す と苦 しか つた記 憶 は薄れて ここ1/C先 生 の 御冥 福 を心か らfnl祈 りす る。 , , , -19- か ろ うか。 私 は 自分 の 分野 の 中 で,恩 師茅誠 司先生 もの と信 じてい るが,高 宮先 生 は他 の分野 の 中 で 見 私 の読 ん だ本 (28) 渡辺正雄著 「 日本 人 と近 代化 学― 西洋 へ の対 応 と課題― 」(岩 波新書,1976) !青 水 詔 光 (物 理 ) 物理 の猪木 先生 が ,あ る とき筆者 を つ か まえ て 生徒 へ の 知的拷 間 の材料 とな り」 ,ま た科学技 術 の 標題 の本 を読 ん で み る よ うに と薦 め られ た 。忙 しい 事 を理 由 に ,再 三 辞 退 したが ,再 三 懲 思 され る。 そ 取 り入れ方 の まず さは「 (社 会 的 に )い ちばん よわ , 5Lん だ。 ところが ,大 変 面 白い 。 日頃 れ て と うと う 科 学 の研 究 に従事 して い るわれ われ の ,謂 わ ば精神 的風 土が どん な もので あ り, どん な風 に形成 され て い 人間 の と ころに集 中 し」 て犠牲 を強 い, とめ どな い 「環境 破 壊」 を もた らした 。そ して,さ らに ,現 代科学 の 専 門家 で ある「 われ われ」 に眼 を転 じてみ ると,少 くと も筆者 には,毎 日研究 に精 を 出 してい 来 た のか が語 られ る。読 んで しま って よ く考 えると 書 名 の「 日本 人」 とい うの は ,「 われ われ 」 つ まり , るに もか ヽわ らず ,何 かが 自分 に欠 落 して いる よう , に 思 われ て ならない 。「科 学」 は 「世 界観 の 所産」 理 学部 で 自然 科 学 の 研 究 に没 頭 しつづ けて い る「 わ なの であ る。 別 に確 た る世界観 が あ って物理 の計算 れわれ」 の事 で あ り,「 近 代科 学」 は,そ の「 われ を行 っている訳 で ないに しろ , この「 世 界観の所劇 われ 」 の 日常茶 飯 とす る「研 究 Jを 意 味す る。 よろ とい うのは あ くま で原則 た る ことをや めない。 見え しい 。「 われわれ 」 は毎 日毎 日,自 然 を「 探 求 し研 る形 にせ よ,見 え ない形 にせ よ, これ は 中核 にひそ 究」 して い る 。 しか しなが ら,そ れ な ら世 界 rC向 っ て ,自 然探求 の最 前線 (少 くと もひ とつ位 )は ,こ ん でい るので ある。 世 界観 と一 口rc言 うけれ ども , こに こそ あるぞ と大 声 で 宣言 出来 るか と,ひ そか に 「 宇宙 を数 学 的構造 を もった もの で ある」 と「 強 く 確信」 してい たか らこそ近代 科 学 が誕生 した ので あ 自問 してみ る と,今 度 は些 か た め らいの よ うな気 持 が 現 われ る。 それ は無理 もない事 だ と渡 辺先 生 は 喝 り,そ の「確信 」 た るや,「 プラ トンや ピタ ゴ ラス 1/C由 来 す る」 の だそ うだ。 これは 筆者 の臆演 l1/Cし か 破 され る。「 近代 科学 は,誰 に対 して も,い つ どこ へ もって い って も通 用 す るとい う性格 の もの では あ す ぎないが ,中 世 キ リス ト教 会 の 宇宙 観 で あ る天動 説 に して も,た ゞの荒唐 無稽 な空想 を抱 いた とい う るが ,そ れは本 来 ,尊 学 ?甘 景観 れ も,近 代 に入 って か ら突如 と して あ らわれ た とい だ け では な く,数 学 的 な formu lationが 出来 るはず うの では な く,古 代 中世以来 の 伝承 と蓄1積 をま って な いか 。 この「 確信 Jか ら出 る衝 動 に駆 夕たて られ は じめて 生 み 出され た。」(傍 点筆者 )明 治時代 rc西 て,つ い にそ の 「数 学的構造 」 は明 らか に なった。 洋 か ら,招 かれ てや って来 た「 教 師 た ち」 は この こ と ころが,そ れは あ らか じめ空想 して いた 地球 中心 とを よ く知 ってい たが故 に,「 (科 学 の )種 をまき で は な く,地 球 は太陽 の廻 りを回 る平凡 な星 だ とい そ の種 か ら日本 で科学 の樹 が ひ とクでに生 え て大 き うことだった。 これ は教 会 の激昂 を買 った の だが くなれ る ように しよう と した」 の だが,「 日本人 」 た ち は ,彼 等 を「科 学 の果実 を切 り売 りす る人 と し もしも教 会 が ,天 動説 をた ゞ空想 して い るだ け で 瞑 数式 で表現 しよ う "と い う衝動 を持 って い なけれ て取 扱」 って来 た ので ある。 そ して「科 学 の…成果 ば ,地 動説論者 に あれ ほ ど弾圧 を加 え る必 要 もなか を もた らした精神 を学 ぼ うとは しな」 か った先 人 た った の では ないか 。結局 ,教 会 は 自 ら唱えた宇宙観 ちの あや ま りが ,何 処 かで 現 在 の「 われ われ」 に ま で尾 を引 い てい るの で ある。そ れは ,ま ず教 育 に現 の「 数 学的 な構 造 」 を明 らか にす る事 に失敗 し凋落 して行 き,今 日の科学 が全面 的 に浮 び上 って来 た。 わ れ「 せ っか くの科 学教 育」 が「 い たず らに ,学 生 と もあれ,近 代科 学 は, 2ク 年 以上 も執 拗 に, 自然 の 所産 で あ る。 そ , だ との「強 い確 信」 が信 奉者 の脳 裡 に あった のでは - 20- , は数学的 なはずだ, と思 いつ づ け て来 た 挙句 に生 査 ・― ウィ ンの れた の で あ った。 夕 進化論 の与 え た衝撃 て ,根 本 的 に何 かが欠落 し'て い るのでは ないか とい も似 た よ うな もの だった ら し沐 。現代 0わ れ われlrc, 本 書 の面 白 さか ら勝 手 な妄想 ばか り書 き散 ら したハ これ ほ どの「 確信」 が あ るだろ うか。 明治以 来 の 日本 の科 学者 ,山 川健 次郎 ,丘 浅 次郎 数年前 になるが ,あ る所 で渡辺先生 に うかが った う疑 い が急 に頭 を もたげて来 た とい う事 で あ った。 , モ ース ,進 化 論 が 日本 で どん な風 に とり入 れ られた ところに よれ ば,先 生 が科学史 に本 気 で取 り組 も う か な どにつ い て の話 も大変興 味 の 深 い もので あった。 となさ った のは ,日 本 が 戦争 に 敗 けた事 が契機 だち 昔 の話 とい うの は,今 の われ われ に対 して つ ね FC たそ うである 。当 時 ,科 学者 と しては既 に第一線 に 「 鑑 (鏡 )」 の役害」を果 す もの な ので あ る。 立 ってか られ たが , 日本 の科 学 は西 洋 の それ に比 べ ハハ ハハハムムハ ハムム ム パムムハ ハハハハ 得部消息〉 2月 2月 理学部会合 日誌 10日 )主 (月 )理 (火 )教 10日 (ク 16日 (月 2月 2日 9日 18日 任 (月 系 委 員 会 務 委 員 会 将 来 計 画委 員会 リ )理 (水 )人 ″ 25日 (水 議 会 職定 例交 渉 事 委 員 会 教 )主 任 3.Oo l.前 回議事 録 の承 認 2.本 寄 移動等 報 告 200∼ 430 3.評 議員 改選 130∼ 400 下郡 山教授 (植 物 ),西 島 教授 (物 理 )が 選 300∼ 500 出 された。 4 人事委 員 半数 改 選 12.30∼ 130 海 野教授 (天 文 ),野 田教授 (生 化 )が 選 出 11.00∼ 1140 上30∼ 議 11.00∼ 会 理 学部 4号 館 1320 1.30∼ 会 授 教授会 メモ 18日 は淀例 教授会 され た。 4.40 2.00 5.会 計委 員半 数 改選 浅 田教授 (物 理 ),飯 島教 授 (地 質 教 授 (化 学 )が 選 出 され た。 6.人 7 8 事 委 員 会 報 告 (末 元 ) 教 務 委 員 会 報 告 (鈴 木 ) 将来 計 画委 員会報 告 (黒 田 ) ハ ハ Aハ 人 事 ^^ハ ムハ ハハ ハ ハハ … : 動 異 ),大 木 〔助手 〕 教 室 官職 臨海実 験所 助 手 理 地 氏 発 令年 月 日 名 小 林 浩 ± 久 保 幸 大 松 彦二 郎 5141 513.1 異 動 内 容 千葉 大学 助教 授昇任 備 教 考 養 助手 に採 用 〔講師以上 〕 教 数 室 官職 学 助教 授 氏 小 名 発 今年 月 日 5121 教 育職 (→ 1等 級 (東 京 大学教 授理 学 部 )に 昇任 さtrる ヽ 部 ― 2月 海 外 渡 航 者 物 理 教 授 小 化 学 教 授 朽 津 耕 三 物 理 教 授 藤 井 忠 男 助教授 国 井 利 泰 目 渡 航 的 陰‐ 陽電子衝突装置 に よる物理 学に関 す るシンポ ジウム出席 ア メ リ カ 合 衆 国 2.24∼ 315 「 気相分子構造 Jに 関す るシンポ ジ ウム出席及び研究連 絡 イ タ リ ア 2.26∼ 3 1l PEThi実 験 に関す る会議 出席及び 研 究連絡 ア メ リカ合 衆 国 2,28∼ 3.15 ソフ トウ ェア科学の研究現状調査 助 永 官 正 治 ア メ リカ 合 衆 国 所 属 情報科学 理 物 官職 手 柴 渡航期 間 渡 航 先 国 名 氏 ドイ ツ連邦共和 国 2.23∼ 3.5 昌 俊 2.10 原子核物理学 の研究 - 11. 1 物 理 助 手 中 村 地 球 助 手 新 田 健 蔵 ス 227 ス イ 素 粒子 物 理 学 の実 験 的 研 究 -52,2.26 229 劇し ア メ リ カ 合 衆 国 -52,3. 2 0) 熱 帯気 象 の研 究 理 学 博 士 学 位 授 与 者 氏 専 門 課程 物 理 学 論 名 伊 藤 浩 子 文 題 目 Nuclear OrientatiOn of Bismuth lsotOpes in BiMn(Bi Mn中 同 位元 素 の核偏極 での Bi ) ナ ノ秒 螢 光偏 光解 消法 に おけ る基 礎 的方 法 の開発 と生 体 系へ の応用 同 木 下 一 彦 同 金 久 実 Thermodynamic Analysis Of the Conformational Stability of Globular Proteins(球 状 蛋 白質 の構 造安定 性 の熱 力学 的解析 ) 学 位 規 月り 第 3条 2項 該 当 殿 塚 勲 212PO,以 同 菊 地 正 幸 OP。 meoretical studies On the fOCal process of earthquakes:Appli一 cations of fractuve mechanics(震 源過程 の理 論 的研究 一 破 壊力 力 の応 用 ― 同 羽田野 正 隆 同 森 田 茂 之 の α一 崩壊 ● ) 地理 学 で使わ れ る世 界地 図 の 投影法 に関 す る研究 2に A10p010gical classification of complex structureS On Sl× Σ 2「 1上 の複 素構造 の位 相 的分類 ) (sl xΣ TOpO10gy,14(1975),13-22に 発表 1 ) ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ添ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 編 集 後 リズ ムか らは,た えず ,数 歩 さが った お ちつい た 姿 勢 は と りつ づけ た つ も りで お ります。私 自身は,諸 記 専 門科学 1/6き わめて く らく,難 しい原稿 は,正 直 の ところ,内 容 は わか りませ ん で したが,何 れ も執 筆 今 月 は ,記 事 が 多 く発 行 が 若 千 お くれ ま した。 執 筆 者 は 特 に 御 紹 介 す る迄 もあ りませ ん が ,OB(0 者 に 対 す る 100%の 信頼 の 下 に編 集 をす す め ま した。 Gと 申す べ きか ?)の 中村 さん は,理 学 部 化 学 を卒 只私 が三 号 館 の一 角 に所 属 して お り,山 上 会 議所 と 業 後 ′ 昭和39年 に生 物 化 学 の 大 学 院 を 出 ,現 在 ,三 い う絶 好 の取 材場 所 で食 事 をす る こ とが 多 く (そ の 菱 化成 生 命 科 学 研 究所 の 社会 生 命 科 学 研 究 室 長 で す。 ため rC食 事 が まず くな つた被 害者 も少 くな い ときさ (中 村 さん の エ ッセ イ の標 題 は編 集 部 で つ く りま し 恐 縮 の至 りですが )無 意識 の うちに,執 筆依頼 がそ れ らの 周辺 1/C偏 つたので は な いか とおそれ て い ます。 た )。 叉 ,森 野 先 生 は ,財 団 法 人 相模 中央 化 学 研 究 所 長 と して御 活 躍 中 で す 。 名 誉教 授 の 御 近 況 の 中 で , 次期 編集委 員 1/Cひ きつ ぎま した先生 方 の顔 写真 つ さ 藤 井 先 生 が ,御 寄 稿 の 表 題 につ い て コ メ ン トをの ベ の 執 筆台 帳は, どの頁 も半 分以 上埋 つてお り,一 人 られ て お りま す が ,先 生 御 指 摘 の 通 り,御 原 稿 には ″ ″ と い う題 が つ い て お りま した。 只 ,編 集 部 雑感 の 判 断 で,中 国人 商人 の ″尊 い 人 ″ とい う言 葉 が 大 で 数編 も御 執筆 頂 い た方 もあ ります。 又 ,名 誉教 授 の 先生方 か らは,度 々御 寄 稿 ,御 教授 を頂 き恐 縮 い へ ん 印 象 的 で した の で,改 題 させ て 頂 い た わけ で 他 事務 の方 々 に も う少 し書 い て頂 きたか つたのが果 せ 意 は あ りま せ ん で した 。 先 生 及 び読 者 の 御 了承 を 得 ず,残 念 に思 い ます。 た してお り楼す。 只,大 学院生 前後 の若 い諸 君や られ れ ば と存 じます 。 , ◇◇◇ 又 ,本 号 を以 て ,古 生 物 写 真 の 連 載 も終 りま した。 花 井 先 生 を 中心 とす る 執 筆 陣 の御 努 力 に 厚 ぐ感謝 い た します。 尚,裏 表 紙 の 写 真 は ,中 央 事 務 の 久 我 正 のべ させ て頂 きます。 第 一 1/C,全 く自由 な編輯 を委 して下 さ つた植村 先 生, それ に 3年 の間, 出張勝 ちで生来 散漫 な私 を よ 弘 氏 の 御 協 力 に よ る もの で す。 く助け ,協 力 して下さ つた 清水 ,木 下,猪 木 の共 同 ◇◇◇ 早 咲 さ の 桜 もそ ろそ ろ散 りは じめ る今 日此 頃 ,今 編集委 員 の先 生 方。 第 二 1/C,わ が ままな 誰文 を きき,執 筆 して下 さ つ 期 編集 委 員 会 と して 最 後 の 号 を お 届 け す る の は ,い たす べ ての 執筆者。 さ さか の 感慨 を も よな さ ざる を得 ませ ん 。 植 村 先 生 か ら新 しい 形 の 広 報 を と,大 変 郵 重 な 御 依頼 を受け 編集後記 の 筆 をお くに あた って一 言御 礼 の言 葉 を , 第 三 に,裏 方 に徹 して,貴 重 な記事 をつ 〈っ て下 新 部 長 の熱 意 1/Cほ だ さ れ て お 引 受 け した 当 時 ,ま ず ″ 紙 暦 箱 に 捨 て られ な い 第 一 に 考 え られ た こ とは, ″ い とで と うこ した。 見 本 と して は ,ア ジア・ 小 冊子 さ つた 吉野事務 長以下学 部 長室 ,学 部 事務 ,又 関係 各教室 の事務 の 方 々。 ア フ リカ言 語 文 化 研 究 所 の「 通 信 」が大 へ ん よ くで 際文 献 印刷社及び 林工房 の関係 者 の方 々。 きて い るの で参 考 と し,表 紙 の 写 真 欄 な ど もそ れ に そ して最 後 に,誠 実 な紙 面作 りを して下 さ つた国 以 上 の 方 々 の御 理 解 と庇護 が なけ れ ば この広報 は ヒ ン トを得 ま した。 さ さ や か な る 体験 で す が ,米 国 今 日迄 存続 しなか った こ とで しょ う。新年度 か ら の大学 な どで講 義 を して い た と き配 られ た 学 内 ニ ュ 木下 先生 を中′ い1/r,新 しい編 集委員 会 で広 報が続 刊 ース や 広 報 の よ うな もの も参 考 に しま した。 東 大 内 され ます。広 報 の一層 の発展 に夢 を託 しつ つ, これ の 各 種 の 類 似 の刊 行 物 も と りよせ て み ま した が ,当 を以 て 退陣 の あい さ つ に代 え させ て頂 さます。 , (小 堀 時 の もの は 新 方 針 に あ ま り参 考 lFCな りません で した。 巖) 福 島 先生 に 始 ま る理 学 部 弘報 の持 味 を失 わ ず , しか も新 味 を 出す の は ,大 変 な仕 事 で した。 何 とか ,理 学 部 の 皆 さん に親 しまれ る もの に した 追 伸 :今 月 で私 と一 緒 に編集委 員 を去 る猪 木先生 は い ,お 互 何 をや つ てい るか わ か らな い とい う間 隙 を さつ を書 け ませ ん で したが,皆 さん に よろ しくと な る べ く少 な く した い,理 学 部 の い ろ い ろ な 構成 員 の こ とで した 。 間 の 心 の 交 流 を少 しで もはか りた い ……… と,最 初 は い ろ い ろ な 考 え 方 が あ りま した。 広 報 は 一 種 の 学 部 内 ジ ャーナ リズムです が ,世 間 のい わ ゆ る ジ ャ ー ナ 3月 末米国 へ 出張 され ま したの で御 自身 で ごろい //〆 ″″″″″Fr″7″ ダィイrイノイィ″γ″″″″″″/″/″ 7χ ″″″霧 編集 : │を :L炉 ]│う 21言 i][iIE21[:I:│